浮かぶ飛行島
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著者名:海野十三 

 川上機関大尉の首にかけられた賞金はおどろくなかれ、二万ポンドに一万ポンド!
 この告示が、島内隈なく貼りだされると、人心は鼎(かなえ)のようにわきたった。どの告示板の前にも、黒山のような人だかりだった。
「賞金二万ポンドだって? うわーっ、おっそろしい大金だな」
「それだけ貰えると、故郷へとんでかえって、山や川のある広い土地を買いとり、それから美しいお姫さまを娶って、俺は世界一の幸福な王様になれるよ。うわーっ、気が変になりそうだ」
「おお、俺も気が変になりそうだ。誰か俺の体をおさえていてくんな、俺が暴れだすといけないから……」
 と、たいへんな騒がはじまった。
 告示板には、川上機関大尉の写真こそ出ていなかったが、その人相や背の高さ、それから皮膚の色や服装などもくわしく記されていたので、飛行島の人たちは、それをいそがしくノートにとったり、文字の読めない連中は、人に読んでもらったりして、めいめい川上機関大尉の顔をいろいろに想像して、胸の中におさめた。
 それからさきが、またたいへんであった。
 飛行島の人たちは、もうこれまでのように、甲板や通路の上を、のんきに大手をふって歩けなくなった。向こうから来る人影があれば、彼奴こそお尋者のカワカミではないかと思い、いざといえば相手の上におどりかかろうと、泥棒猫のような変な恰好ですれちがうのであった。
 いや、こっちが向こうを狙っているばかりではない。向こうもまた、こっちが二万ポンドではないかしらと思い、実に怪しげな物腰で、そろりそろりと横むき歩きで近づく。
 こうして近づいて、お互さまにカワカミでなかったと分かったとき、彼等はきまって、チェッと舌打をした。相手の大きな舌打が自分に聞えると、お互にがっかりしてすれちがう。歩行者は、こうして人に行き会うたびに、心を疲らせた。まことに、ふきだしたくなるような騒であった。
 リット少将にとって、二万ポンドの大懸賞金を放りださねばならなくなったことは大悲劇であったが、その大懸賞金を追いかける飛行島の人々の血走った眼の色などは、およそ大喜劇というほかない。
 いや、その大喜劇は、その夕方になってもっとはげしくなった。
 それは夕刻六時までに「カワカミ大懸賞捜索本部」へ引かれて来た重大犯人川上の数がなんと七十何名という夥しい数に達したことであった。
 川上機関大尉が七十何名もいる?
 当の川上機関大尉がこれを聞いたら、どんな顔をするであろうか。
 いや、その七十何名の中に、本物の川上機関大尉がまじっているかもしれないのだ。そして、夥しいこのカワカミ集団を見て苦笑(にがわらい)をしているかもしれない。
 もしその中に本物の川上機関大尉がまじっていたら、やがて苦笑だけではすまなくなるだろう。スミス中尉は、こんど川上機関大尉をひっとらえたら、すぐ殺してしまわねばならぬといっているではないか。
 さあ、七十何名の囚人の中に本物の川上機関大尉がまじっているかどうか――
「おい、もうここは締切ったぞ。カワカミを持ってくるなら、明日の朝にしてくれ。室の中はカワカミで満員だ。連れてきたって、入りきれやしないぞ」
 と、一人の捜索本部の役員が室の外におしよせている人々に向かって呶鳴っていると、そこへまた一人少しとんまらしいのがやって来て、
「わーい、こりゃすごいや。ことによると、カワカミというのは『東洋人』という日本語かもしれないぞ。だって七十何名のカワカミは、誰がなんといっても多すぎらあ」
「なにをいっているんだ、貴様。それよりも早く奥へいって手伝ってこい」
「え、奥へいって、一たいなにを手伝うのかね」
「なにをって? 分かっているじゃないか。七十何名のカワカミの中から、本物のカワカミを選りだすんだ」
「ああなるほど籤引かい」
「籤引? あきれた奴だ、選りだすんだ」
「ふふん、選りだすといっても、モルモットの中から鼠を探すときのように、そんなに簡単に選りだせるかね」
「無駄口を叩かないで、早く奥へいってみろよ。面白いから」
 飛行島のワイワイ連中にとっては、いかにも面白い慰みごとかもしれないが、川上機関大尉にとっては、それは死ぬか生きるかの重大問題であった。


   鑑定場


 一人のカワカミと、それを捕らえてきた殊勲者とは、別々に鑑定委員の前によびだされることとなった。
 カワカミはいずれも後手に縛られ、頸のまわりに番号を書いた赤い巾(きれ)をまきつけてあった。まるで猫の頸っ玉のようだ。半裸体のもおれば、洋服を着ているのもいる。
 殊勲者の方は、同じ番号のついた青札を手に持っていた。そして彼等はお互に、自分の捕らえたカワカミこそ本物で、貴様の捕らえたのは偽物だなぞと、罵りあっていた。
「おーい、青札の第一号はいるか。いたら、こっちへ入れ」
 と鑑定委員は呶鳴る。
「へーい」
 入ってきた第一号は、印度人であった。
「貴様はどこであの偽物のカワカミを引張ってきたんだ」
「に、偽物? じょ、冗談はよしてください」
 と印度人は顔を真赤に染めて、
「わしの引張ってきたのが本物のカワカミでなけりゃ、この飛行島には本物のカワカミは一人もいないってことですよ」
「じゃあ、どこから引張ってきたか、早くいえ」
「いいですかね。わしは今日、鋼鉄宮殿の下で昼寝をしていたんですよ。そこへがらがらがらどしーんです。びっくりして上を見ると、窓硝子がめちゃめちゃにこわれて、一人の男――つまりあのカワカミが――とびだしてきたんです。これが二万ポンドの懸賞犯人とは、わしも凄い運につきあたったものだと思い、すぐさま追いかけましたよ、そうして大格闘の末、やっと捕らえたんです。さあ、これだけいえば、いくらなんでもお分かりになったでしょう」
 と、印度人は眼をぎょろつかせて、べらべらとしゃべりたてた。
「よし! それだけいえばよく分かるよ。この太い大法螺(おおぼら)ふきめ。おい、警備隊員、こいつの背中に鞭を百ばかりくれて、甲板から海中へつきおとせ」
「なにをいうんです。いまいったとおり、あれが本物のカワカミ……」
「だまれ。この大うそつきめ。貴様はカワカミが窓から逃げだしたとき、二万ポンドの懸賞犯人だからと思い、すぐ追っかけたといったね」
「そうですとも。わしは……」
「ばか! 窓から逃げだしたときには、まだ懸賞の話はきめていなかったわい。これでもまだ白いの黒いのとほざきおるか」
「うへー」
 というわけで、途中まで本物の川上機関大尉かと思った捕物第一号も、哀(あわれ)たちまち偽物であることが露見した。
 こういう面倒な取調が、次から次へとつづいていった。たいへんな手間であった。


   恐怖の命令


 カワカミ容疑者連の取調の方は、ずっと慎重にとりはこばれていた。
 この方の鑑定委員は八名の中国人があたっていた。
 取調の箇条は五つあった。それは、いずれも日本通と自称する八名の中国人委員が、智恵をしぼって考えだしたもので、それによると、この飛行島には、川上以外に一人の日本人もいない筈だから、一人の日本人をさがし出せば、それが川上だというのであった。
 では、その日本人を探し出す五つの箇条とは、一たいどんなことであったか。――赤札の第一号のカワカミ氏は、ばかに鄭重に風呂場へみちびかれた。
 すこし面喰いながら風呂に入ると、男がきてしきりに体を洗ってくれる。このとき彼は、天井の節穴がきらきらうごくような気がした。
(人の眼?)
 と思ったが、男は、彼の足首を握って、念いりに洗うのであった。そのとき男は、しきりに彼の足の指――ことに足の拇指(おやゆび)と第二指との間の隙間をじろじろとながめていたようである。
 風呂から上って外へ出ると、ちゃんと小ざっぱりしたタオルのガウンがおいてあって、これを体にまとった。それから食堂であった。
 入口に委員がいて、彼の赤札第一号に、口をあいてはあーと大きな息をはいてみてくれという。彼がそうすると、委員は変な顔をして、第一号の口中の臭(におい)を、すんすんと嗅いでいた。
 それがすむと、食卓に坐らされた。大きな丼に、うまそうな蕎麦がいっぱい入っている。それを食べろというので、傍にあった長い箸――それは日本の箸の二倍も長いやつだった――をとりあげて、ぬるぬる逃げまわる蕎麦を食べた。
 それがすむと、これを読んでみよと、何だか日本文字を書いた紙片をもってきた。第一号はそれを見せられたとき、
「わしにはさっぱりわからぬ」
 と、あっさり断った。
 そこを出ると、また卓子を前にひかえた中国人委員がいて、
「貴様は落第だ。かえってよろしい」
 と、横柄な口をきいた。
 こうして第一号は放免されたのだった。
 第二号以下も、同じような取調がつづけられた。
 これだけの取調のなかに、五つの箇条が巧みに調べあげられたのだ。
 まず第一に、裸にしたのは、衣服についた所持品しらべのためだった。
 風呂に入れたのは、体を検査するためだった。足の拇指と第二指との間の隙をみた。日本人だと、幼いときに下駄を履いたので、ここのところが鼻緒のため丸く透いている。それから膝頭が曲っているのは、幼いとき畳に坐ったため。風呂に入って顔の洗い方も、日本人はタオルを動かすけれど、中国人はタオルよりも顔の方を動かす。
 次は食堂であるが、はあーと息をはかせたのは、日本人と中国人の口臭がちがうというのであった。
 食堂に入って、蕎麦を食べさせたが、中国人と日本人とでは、箸の使い方がちがう。中国人は箸の一番端を持って、掌を上向きにして蕎麦をはさむ。日本人はそうしない。
 それから最後にサイタ、サイタ、サクラガサイタと日本の片仮名を読ませる。日本人ならすらすら読むだろうという委員の考えだが、誰がそんなものを読んで日本人たることを自分でさらけだすやつがあるものか。
 中国人委員の考えだしたこの悠長な試験を、七十何名かのカワカミ連にこころみるのだから、なかなか時間がかかった。とうとうその夜も明け、その翌日までかかった。そのころはまた、第二日目のカワカミ召しつれの訴が大勢おしかけてきたので、その夥しい人間の群をみると、試験委員は脳貧血をおこしそうになった。これをいちいち丁寧にやっていたのでは、自分たちの体がたまらぬと思ったので、それから後は、どんどん手間をはぶいて簡単にやることにした。
 こうしてやっと三日目の朝までかかって、ようやく終った。取調べたカワカミの容疑者総数はみんなで百二十七名。その結果、一たいどうなったであろうか。
 リット少将は、鋼鉄の宮殿の中を、いらだたしそうに歩きまわりながら、スミス中尉の報告をまちわびている。
「一たい、いつまで調べているのか。あいつは若い癖して、いやに気が永くていかんわい。――といって、外に手腕のある奴、信用のおける奴はいないし、困ったものだ」
 そういっているところへ、スミス中尉が、眼を鰯(いわし)のように赤くして入ってきた。
「ああ少将閣下。調(しらべ)がやっと一通り片づきましてございます」
「ふーん、片づいたか、一通り?」
 と、腹の立っているところを皮肉の一言でやっとおさえつけ、
「――で、結果はどうなったか」
「はい、ほんとのカワカミと思われる者を選びだしましたから、閣下に見ていただこうと思います。おーい、こっちへ連れてこい」
 とスミス中尉が、隣室に向かって叫べば、
「おう、――」
 とこたえて、大勢の試験委員が縄尻をとって引立ててきたのは、後手にくくられた七名の東洋人!
「なあんだ、この中のどれがカワカミか」
 と、リット少将は呆れた。
 スミス中尉は、澄ましたもので、
「ここまでは、カワカミらしき者を選りだしましたが、これ以上区別がつきません。あとは閣下のお智恵によりまして、御判別をあおぎたいと考えます」
 スミス中尉は、今まで数回川上機関大尉に出くわしているのであるが、いつも巧みな変装姿だったので、素顔を知らない。事実、見分けがつきかねているのだった。
 なるほど、どれも、見れば見るほど、この間の硝子屋によく似ている。
「なんじゃ、わしにこの七名の中から、本物のカワカミを選びだせというのか」
 リット少将とて、同じことであった。
 少将は、奥にひっこんだ眼をぎょろりと光らせながら何事かしばらく考えこんでいたが、
「ちょっと耳を貸せ、スミス中尉」
 中尉は、はっと答えて、少将の前に頭をさしだした。少将は、二言三言、なにかしら囁いた。
 スミス中尉の顔色が、このとき蒼白にかわった。
 それも道理であった。少将は、賞金はどうするつもりなのか、「七名の中から一名をとるに及ばぬ。七名とも残らず射殺してしまえ」と、常になき断乎たる命令をいい放ったのであった。
 ああ何たる非道! 射殺されることになった罪なき七名の運命こそ、哀(あわれ)ではないか。
 いや諸君、それよりも気がかりなのは、この七名の中に、本物の川上機関大尉がいて、彼等と運命を共にしたのではあるまいか。もし、そうだったら帝国の安危にかかわる重大使命はどうなるというのだ。


   闇夜の試運転


 予定からちょうど二十四時間も遅れて、海の大怪物浮かぶ飛行島は、いよいよその巨体をゆるがせつつ、しずかに海面をすべりだした。
 墨をながしたような闇夜だった。
 ああなんたる壮観であろうか!
 これがもし昼間であったら、飛行島の乗組員たちは、手のまい足のふむところをしらないほど、狂喜乱舞したことだろう。
 だが、昼間の航行は、絶対に禁物であった。そんなことをすれば、たちまち世界の注意は、この飛行島のうえにあつまり、今後極秘の行動をとることは、はなはだむずかしいことになるであろうし、また飛行島が隠しもっている意外な武器も明るみに出て、その攻撃力が少からず殺(そ)がれてしまうであろう。試運転は闇夜にかぎるのだ。
 いま島内の乗組員、住民達は、みな眼をさましてきき耳をたてているのだった。
 そうであろう、耳をすませば、遠い地鳴のような音がゴーッと響いて来るのである。内燃機関がこのようにはげしい音をたてたのは、今夜がはじめてのことだった。
 飛行島は、いまや海上を航行しているのだ。いくら堅固につくられてあるとはいえ、さすがに鋼鉄の梁も壁も、気味わるくかすかに震動するのであった。
「あっ、あれは何の音だ」
「いやに不気味な音じゃないか。おや変だぞ、部屋が傾くようだぜ」
 部屋が傾くのではない、飛行島が傾くのであった。波浪ははげしく飛行島舳部の支柱を噛んでいる。住民たちの多くは、部屋が傾くのを知って、飛行島が航行しているのに気づかないのであった。
「おっ、飛行機だ」
「一たいどうしたのだろう」
「今夜はどうやら演習らしいぞ」
 と、下甲板から顔を出した労働者がいった。
「おや、あの灯(あかり)はなんだ。うむ、飛行島のまわりをぐるっと取巻いている。軍艦の灯じゃないか」
 というのも当っていた。
 試運転中の飛行島の空は、六十余機の戦闘機と偵察機とにまもられ、またその周囲は、三十隻の駆逐艦と十五隻の潜水艦によって、二重三重に警戒されているのであった。
 空からなりと、海面からなりと、一機の敵飛行機であれ、一隻の怪ジャンクであれ、向こうから近づけば、どんなことがあっても生かしては帰さぬ決心であった。飛行島の秘密は、あくまで守らねばならない。
 闇夜の海面を圧する轟々たる爆音は、護衛の飛行団が発するエンジンの響であった。
 飛行島の周囲に、ちらちらする灯火は、護衛駆逐艦の標識灯であった。
 また護衛の潜水艦は、飛行島の前方の海面下を警戒しつづけている。
 この三段構の警戒網を突破し得る不敵の曲者(くせもの)は、よもやあり得ないものと信ぜられた。
 建設団長のリット少将は、いまやこの飛行島の艦長然として、はじめて司令塔に入ったのである。この司令塔の内部こそ、およそ近代科学の驚異であった。
 一言でいいあらわせば、人間の脳の組織を顕微鏡下で見たとでもいうよりほかないであろう。
 飛行島の甲板、砲塔、格納庫、機関部、操縦室、監視所、弾薬庫、各士官室、無電室、その他ありとあらゆる島内の要所から、この司令塔内へ向かって、幾十万、幾百万の電線が集っているのであった。
 それは通信線もあれば、点火装置もあれば、速度調整装置、照準装置、そのほか飛行島のすべての働きが電流仕掛で司令塔内より至極手軽に動かされるようになっていた。そういう設備の末の端が円形のジャック孔となって、まるで電話交換台の展覧会というか、蜂の巣を壁いっぱいに貼りつけたというか、司令塔の壁という壁をあますところなく占領していた。
 その間に、幾段もの縞模様となって、丸形の計器や水平形の計器などが、ずらりと並んでいた。それ等はすべて夜光式になっていて、たとえ司令塔の電灯が消えても、ちゃんと計器の指針がどこを指しているかが分かるように造られてあった。
「速度、十五ノットか。よし、この辺で、もう五ノット上げてみい」
 リット少将は、飛行島の速度を、さらに注意ぶかく上げることを命じた。
 二十ノットに速度を上げよと、電話は機関部にとどいた。
「おう、二十ノット」
 命令は、伝声管や高声器でもって、半裸体で働いている部員に伝えられてゆく。
「二十ノット。よろしい、いま重油の弁(バルブ)をあけるよ」
 弁を預かっていた面長な男が、大きなハンドルをしずかにまわしながら、計器の針の動くのをじっとみつめている。と、突然、
「おや、お前は誰だ」
 そこへ監督にやってきた機関大尉フランクが、うしろから呼びかけた。
 面長な東洋人は、フランクの声が聞えないふりをして、なおもしずかにハンドルをまわしていた。
「ええ、二十ノット、出ました」
 彼は落着いた語調で、伝声管の中に報告をふきこんだ。
 諸君、このものしずかな東洋人は、一たい何者であったろうか。


   怪東洋人


 まっ暗な南シナ海の夜であった。
 文明の怪物ともいうべき飛行島は、いま波濤を蹴って、南へ南へと移動してゆく。
 飛行島の前後左右は、それをまもる艦艇がぐるっととりまき、一片の浮木も飛行島に近づけまいとしている。
 空には、空軍の精鋭が、かたい編隊をくんで、もし空から近よる敵機あらば、何国のものたるをとわず、一撃のもとに撃ちおとしてくれようと、ごうごうと飛びつづけている。
 飛行島は、だんだんにスピードを上げていって、いまや時速二十ノット!
 夜間のこととて、わずかにもれる光に、舷側の白い波浪や艦尾に沸くおびただしい水沫、それから艦内をゆるがす振動音などが乗組員たちの耳目をうばっているにすぎないが、昼間だったら、まさに言語に絶する壮観であったに違いない。
 飛行島を動かしている機関部の諸エンジンは、すこぶる好調であった。これでゆけば、最大スピードの三十五ノットを出すことも、さほど難しくはなかろうと思われた。
 ここはその飛行島の機関部――
 重油の弁(バルブ)を巧みに開いて、飛行島のスピードを今二十ノットに上げたばかりの機関部員は、面長の東洋人であった。
(二十ノット、出ました)
 と、伝声管のなかにおとした音声も、どっしりとおちついている。まことに頼もしい機関部員だ。
 それを傍から見下している機関大尉フランクの顔は、これはまた反対に、非常に険しい。彼の右手は、ピストルのサックを探っているではないか。
 東洋人にはフランクのこうした様子が見えないのか、彼は顔色一つかえないで、じっとメートルの面を見守っている。
「エンジンはつづいて好調」
 かの東洋人は、憎いほどものしずかな調子で、だが歯ぎれのよい英語で、伝声管から司令塔へ報告する。
「おい! 貴様は誰だ?」
 フランクは憤りをこらえかねて呶鳴りつけた。が、東洋人は、びくともしない。いや、自分のことと思っていないのか、
「はあ、はあ、リット少将閣下ですか。エンジンの調子は見込よりもむしろ実際の方がずっとよろしいようであります。――はあ、どのエンジンにつきましても、すでに検査をおえました。さすが大英帝国の機械だけあります。――はあ、はあ、承知いたしました。なお細心の注意をおこたらず、身命を賭して、エンジンをおあずかりいたします。どうか御安心ください」
 これを聞いていた機関大尉フランクの顔といったらなかった。まず真赤になり、眼をとび出すほど見開いて、やがて蒼白になっていった。
 司令官リット少将と、なれなれしく会話をとりかわしているこの東洋人は、一たい何者であろうか。
 フランク大尉は今まで見たこともない男が、自分が受けもっている機関部で、何の不思議もなく働いているのに、まずあっけにとられ、次の瞬間頭がくらくらとするほど驚いた。
 それにしても、いつもここにいる部員たち、殊に、彼が最も信頼しているケント兵曹は、今どこへ行って、何をしているのか。
 彼は、飛行島にとって最も恐るべきことが、目前に起っていることを感じると、最早ためらうべき時でないと、ずっしりと重いピストルを握りなおして、東洋人の頭にぴたりと銃口を向けた。
「こら」その声はふるえを帯びていた。
「貴様は何者だ。命が惜しかったら、いまから十かぞえる間に姓名を名のれ。その間に名のらなかったら、おれは機関部第二分隊長の実力をもって、貴様を射殺する」
 ピストルを握ったフランク分隊長の右手は、わなわなとふるえていた。
 いうまでもなく、この東洋人こそ、われらの大勇士、川上機関大尉の変装姿であったのだ。


   川上機関大尉現る!


 おお川上機関大尉!
 どこにどうしていたのか、川上機関大尉は、再び、われらの前に現れたのだ。
 そもそも飛行島の秘密を探る命令が川上大尉にくだったのは、もちろん彼が、飛行島を動かすエンジンなどの諸機械にくわしいところを見こまれたからであるが、しかし理由はただそれだけではない。彼の鋭い頭の働きと、底知れぬ大胆さと、そしていかなる死地にあっても、くそおちつきにおちついて物事を考える。そして、よしとなったらどんなことでもやり通さずにはおかない恐るべき実行力を見こまれたからであった。
 一たい人間というものは、その相手から思いきった大胆なことをやられると、却って気をのまれてしまって、なにも手だしができないものである。これが死地にあって敵と闘うときの最上の極意である。わが川上機関大尉は、この尊い極意をちゃんと心得ていたのだ。
 フランク大尉はピストルの引金に手をかけた。
「覚悟はよいか。一から十まで数えおわれば、この引金をひくのだぞ。さあ数えるぞ、一(ひ)イ、二(ふ)ウ、三(み)イ、……」
 数え出したフランク大尉の緊張にひきつってゆく真青な顔。
 だが見よ、どうしたというのだ。川上機関大尉は、死が数秒の後に迫っているというのに、エンジンの前のハンドルを懸命にあやつり、メートルの指針をいちいち直してゆく操作ぶりのあざやかさ! まるで目前の仕事に身も魂も打ちこんでいる真剣そのものの姿ではないか。フランク大尉は、その凄じい気魄にたじたじとなったが、必死にこらえて、
「――五(い)ツ、六(む)ウ、……」
 のこるはわずか、あと四つの数だ!
 ピルトルの引金を握りしめた右手から油汗がにじみ出した。
 轟々たるエンジンの唸は、室内をゆりうごかして、一段とものすごい。
「――七(なな)、八(や)ア、九(こ)ノ……」
 あっ、のこりの数は、もうあと一つ!
 そのとき突然、高声器が大きな声を発した。
「二十五ノットに、スピードを上げい!」
 司令塔からの号令だ。
「はい、二十五ノットに上げまあす」
 川上機関大尉は、一秒のおくれもなく、伝声管のなかに復誦した。そしてただちに給油弁(バルブ)を開くために、ハンドルをぐるぐる廻しはじめた。
(十(とお)オ!)
 と、最後の数字をかぞえようとして、フランク大尉は、それを喉の奥にのみこんだ。すっかり気を奪われたのであろう。ピストルの銃口だけは、川上機関大尉の方に向いているが、引金にあたっている指にはもう力がはいっていない。
 気が臆したフランク分隊長は、こうなればもう銅像みたいなものだった。
「はい、二十五ノット、よろしい。エンジンはいずれも快調です。異常変動、全くみとめられず!」
 川上機関大尉の声は、いよいよ冴えた。
 その声がフランク大尉の鼓膜をうつと、彼は反射的にピストルの引金をぎゅっと握りしめた。
(十(とお)オ!)
 その瞬間、
「あっ、分隊長! な、なにをなさるんです」


   フランク分隊長の話


 左手の通路から、おどりこんできたのは、ケント兵曹だった。
「あっ、あぶない」
 と叫ぶのも口のうち、彼はフランク大尉と川上機関大尉との間に、すばやく立ちふさがった。
「おい、退け。なにをするんだ」
「フランク大尉、あなたこそ、何をなさるんです」
「ケント兵曹。のかんか!」
「お待ち下さい。――まちがいがあってはなりません」
「なに、まちがい? 何のまちがいだ」
「ああ、御存じないのですか。いまわが飛行島は試運転中で、それにつきまして、リット少将閣下は、わが機関部が最善の成績を上げるようにと訓令せられました」
「そんなことは、よく分かっている」
「ところが、さっきこの第四ディーゼル・エンジン班の一人の部員が急にめまいがしてぶっ倒れましたが、それにつづいてたおれる者続出、今では十六七名という多数にのぼっております」
「そ、そんなことがあるものか。俺は、そんな報告に接しておらぬぞ」
「あれ、フランク大尉は御存じなかったのですか」
 ケント兵曹は、あきれ顔で大尉の顔を見上げた。
「――で、でも、そんなことがあろうはずがありません。機関部は上を下への大騒動でありました。上官にその報告が行っていないなんて……」
 フランク大尉は、それを聞くと、何を思い出したか、
「そうだ。ふむ、あれかもしれぬ」
「えっ、なんとおっしゃいます」
「うむ。実は今から三十分ほど前、リット少将の副官から電話がかかってきて、『飛行島の三十六基のエンジンのうち、調子の合わないものが二三あるらしく、司令塔のメートルをみていると、あるところへ来ると、変な乱調子が起る。だから、貴官はすぐさま、三十六基のエンジンの仕様書と試験表とを各班からあつめて、すぐこっちへ持ってこい』という命令だ。そこで俺は、あとをゼリー中尉にたのんで、さっそく仕様書と試験表をあつめに出かけたのだ」
「おや、そんなことがありましたか。そのゼリー中尉が、真先にぶっ倒れたのですが、御存じでしょうな」
「いや、知らない。その報告も受けていない」と、フランク大尉はつよくかぶりをふった。
「俺は、試験部へ行って、リット少将閣下が命令せられたものを集めるのに夢中になっていた。ところがその仕様書はすぐ集ったが、試験表の方がなかなか揃わない。それに手間どって、試験部の責任者を呶鳴りつけたりしているうちに、時間はどんどん廻って、二三十分かかってしまった」
「では、大尉は、ずっと試験部におられたのですね」
 ケント兵曹は、やっと話がのみこめたという風だった。
「そうだ。試験部の、机の引出をみな引き出して、やっと試験表を三十通までみつけたが、あとの六通が見あたらない。あまり遅れてもと思って、足りないままで、副官の前へ持って出たがとたんに大恥をかいた?」
「大恥とは何です?」
「うむ。副官はそんな電話をかけてそんな命令を出した覚がないといわれるのだ」
「そりゃ、変ですね」
「変だ。まったく変だ。とにかく副官に笑われて、ここへかえってきたのだ。重大な試運転の真最中に、誰か副官の声色をつかって、俺を一ぱいくわせたのかとむかっ腹をたててここへ帰ってくると、ほら、そこにいる怪しい東洋人が眼にうつったではないか」
「あ、なーるほど。それでよく分かりました」
 ケント兵曹は、そういってから、はじめて、東洋人がこの機関部へきたわけを次のように話した。
「この男は、第六班から、応援によこした機関部員ですよ。フイリッピン人で、カラモという男です。なかなかよく働きます。三人分ぐらいの持場を、彼一人でひきうけていますが、少しもまちがわないです。こういう事故が起った際にはあつらえ向の男です」
 フランク大尉は、うなずきながら聞いていたが、眼をぎょろりと光らせたかと思うと急に声を落して、
「だが、怪しい奴じゃないか。おいケント兵曹。殊によると、あいつは例の日本将校カワカミじゃないかねえ」


   ピストルの監視下に


「カワカミですって?」
 と、ケント兵曹はあきれ顔をしてといかえした。
「フランク大尉。監視隊は七名ものカワカミを捕らえ、リット少将の命令でみな殺してしまったそうですよ。いや、これは上官の方がよく御存じのはずですが」
「それはそうだったが、でもケント兵曹。あの横顔を見ろ、どっかカワカミに似ているじゃないか」
 フランク大尉はしばし思案顔であったが、何事か決心したものとみえ、
「うむ、やっぱりカワカミに違いない。万一違っていた時は俺が責任をとればよいのだ」
 といいざま、一旦しまったピストルを、ふたたびサックの中からだして、さっと川上の頭を狙った。
「あっ、なにをせられます」
「ケント兵曹。退け、俺は飛行島の秘密をまもらねばならぬ」
 ふたたび怒れる獅子のようになったフランク大尉は、ピストルをつきつけたまま、
「おいカワカミ。仮面をぬげ」と叫んだ。
「分隊長。待ってください」
 ケント兵曹も必死だった。
「飛行島は只今、試運転中であることをお忘れないように。もしこの東洋人を傷つけたら、この大切な第四エンジンの持場はどうなります。いや、重大な飛行島の航進はどうなります。あとに、代りの部員をもってこようとしても、どこの班でも、人員が足りないで困っている際ですぞ。分隊長」
 これには、フランク大尉も、一言もなかった。
「――はい、只今、三十ノット出ました。エンジンはいずれも快調。油量速度五五・六。乱調子の傾向はみとめられません」
 フイリッピン人カラモ――ではないわが川上機関大尉は、傍に立つフランク大尉とケント兵曹とを全然気にしていないものの如く、相変らずエンジンの操作に当っていた。
 機関大尉の明鏡のような頭には、事の成行ははじめからわかっていたのだ。その悠々たるおちつきぶりを見よ。赤銅色の頬には不敵にも、誇らかな勝利の微笑さえ浮かんだではないか。
 速力三十ノット。
 もうすこしで、飛行島は最大速力を出すところだ。
 飛行島の心臓部であるエンジンは快調をつづけている。何という頼もしさ。大英帝国が、平和の飛行場として建造した飛行島が、超大航空母艦として、真におどろくべき実力をもっていることは、最早、疑う余地はなくなった。
「うーむ」ケント兵曹はうなった。飛行島の大事を思うて、フランク分隊長をとめはしたものの、もしこれが本物のカワカミであったら、このままにしておくことは出来ない。
 といって、今、この男を射殺すると、あとはどうなる。第四エンジンは、誰がうごかすのだ。飛行島の試運転はどうなるのだ。その時のリット少将の驚きと怒……はじめから何もかもリット少将に報告しておけばよかったものを、機関部の不名誉と責任問題になると思って、部内でこっそり後始末をしようとしたのがいけなかった。今となっては、リット少将に報告することさえ恐しいが、何にしても飛行島の運命にかかわる重大事だ。
(そうだ!)
 とケント兵曹は、とっさに決心して、
「フランク大尉。もうこうなった以上、恥をしのんで、何もかもリット少将閣下に、報告してその指揮を仰いだ方が上分別ですぞ」
「なに、リット少将閣下に――」
 フランク分隊長は、きっと顔をこわばらせた。
 が、とっさに決心すると、ピストルをケント兵曹にわたして、東洋人カラモを監視せしめ、自分は電話をかけにいった。
 それからものの五分間ほどして、フランク大尉はふたたび第四エンジン室にかえってきた。彼の顔はさらに大きな興奮に青ざめていた。
「どうしました。フランク分隊長」
 と、ケント兵曹は聞いた。
 しかしフランク大尉は、何もいわずにケント兵曹の手からピストルをもぎとった。
「もしフランク分隊長。リット少将閣下は、一たいどうおっしゃったのですか」
 ケント兵曹は、かさねて聞いた。
 フランク大尉は、それに答えようともせず、石像のようにつったったまま、変装の川上機関大尉にしっかり銃口を向けている。
 そのとき司令塔からは、また次の命令が川上機関大尉のところへ伝わってきた。
「最大速力三十五ノットへ――」
「はい、最大速力三十五ノットへ」
 川上機関大尉は、またあざやかな手つきで、エンジンの廻転数を上げた。それを後からフランク大尉は、いまいましそうににらみつけている。一たい、どうしたというのだ。
 彼はリット少将に、何をいわれてきたのであろうか。
 川上機関大尉は、相変らずフランクを嘲笑するようにおちつきはらって、エンジンの操作をつづけるのであった。ああ、それにしても何という奇妙な事実であろう。彼はフランク大尉のピストルの監視下にあって、敵国のために最も重大な役わりを懸命に果しているのであった。


   試運転成功


 こちらは司令塔の中である。リット少将は一分も隙のない軍装に身をかため、すこぶる満悦の面持であった。
「副官、すばらしいのう。飛行島は設計以上の出来ばえじゃ」
 飛行島建設団首脳部は、いつの間にやら、大航空母艦飛行島司令官および幕僚となっていた。
「リット閣下のおっしゃるとおりです。この上は、飛行島の威力をひた隠しに隠して、他日○○国と戦いをまじえますときに、敵の度肝を奪ってやりたいものですね」
 副官はそういって、やがて○○国攻略の海戦に、この飛行島を参加させ、○○湾付近で大手柄をたてるであろうところを想像して、にやりとほくそ笑んだ。
「そうです、そのことです。飛行島の秘密をあくまで隠しおおすことですが――」
 と、突然口をはさんだ青年士官があった。それは外ならぬリット少将お気に入りのスミス中尉であった。川上機関大尉の拳固の固さをしみじみと知っているあのスミス中尉であった。
「ああ、私はそれが心配でなりません。いまこの飛行島に働いている技師と労働者は、その数が三千人にのぼります。印度人あり、中国人あり、フイリッピン人あり、暹羅(シャム)人あり、それからまたソ連人、アメリカ人、フランス人、わが英人など、およそ世界各国の人種をあつめつくしている観があります。やがてこの飛行島の工事がおわり、彼等が夫々(それぞれ)故国にかえった暁にはどうなりましょうか。この飛行島の秘密は、いやでも洩れてしまいます。この工事は、はじめからこの点に手ぬかりがあったようです。すべて英人と印度人だけではじめるべきでした」
「なにをいうか。スミス中尉」とリット少将はかるくいましめて、
「そんなことは心配ない、今からそういうことを問題にして、つまらぬ騒をおこさせてはならぬ」
「ですが、閣下。私はほんとうに心配なのです」
「これ、もうよしたまえ、そんな話は――」
 と副官がたしなめたが、スミス中尉は、ひっこんでいなかった。
「だが、これほど重大問題を、このままにしておいてよいでしょうか。ことにわが飛行島の試運転は、いま上々の成績でもって終了しようとしているではありませんか。ここで当然、考えておかねばならぬ大問題です」
 と、スミス中尉は、若いに似合わず頑固だった。
 リット少将の眼が、ぎろりと動いて、副官の視線とぶつかった。
 副官は、あわててスミス中尉の肩をおさえ、
「おい、もうよせというのに……。なあに、彼等は飛行島めごく一部分だけを知っているのにすぎない。だから秘密が洩れるといっても、飛行島全体の秘密がむきだしにわかるというのではない。それに、彼等には、相当の金をつかませて、かたく口止をするつもりだ。だから心配は少しもない」
「そうですかなあ。私には合点出来ませんね。それにあの杉田水兵なんかも、まだあのままにしてあるではありませんか。川上機関大尉を片づけてしまった後に、あれだけ生かしておいて一たいどうするつもりです」
 すると少将は、にやりと笑い、
「君は杉田水兵を殺したがって仕方がないようだが、あれはわけがあるのだ」
「はあ、わけと申しますと、……」
「さきにわれわれは川上機関大尉の容疑者を数名射殺したが、万一あの容疑者のほかにほんとうの川上機関大尉がのこっていたときはどうなるだろう」
「おお、閣下は、まだ川上が生きているとおっしゃるのですか」
「いや、たとえ話をしているのじゃ。万一川上が生きていてもじゃ、杉田さえ生かしておけば、彼はきっと杉田の身の上を心配して、病室付近に現れるだろう。そこを捕らえれば、一番てっとり早いではないか。つまり杉田は、川上を釣りだすための囮(おとり)なのじゃ」
「驚きましたね、川上が死んだのに、囮を飼っておくなんて……凡そ馬鹿らしい話ではありませんか」
 と、川上捜査に先頭をきって働いたスミス中尉だけに、その不満は、尤もだった。
 もしいたずら好きの神様があって、この若い中尉を、第四エンジン室に引張っていって、そこに働いている東洋人カラモを見せてやったらどんな顔をするであろうか。リット少将は、さすがに人の上にたつだけあって、英国人らしい深い注意の持主だった。
 このため、司令塔のうちが、ちょっと白けた。リット少将はそれをまぎらすためか、潮風のふきこむ窓から首を出して、暗い外をのぞいた。


   点呼命令


 全速三十五ノットの烈風がふきこむ。
 暗い海面からは、生温かい海水が滝のように甲板の上にふってくる。
 よく見ると、赤、青、黄、いろとりどりの標識灯が、飛行島の艦形をあらわしている。
 護衛の飛行隊は、ずっと前方に出ていっているようだ。
 両舷の彼方には、駆逐艦の灯火が見える。天候のせいか、それとも飛行島のあおりをくってか、駆逐艦は大分動揺しているようだ。
 囂々(ごうごう)たる機械音が、闇と海面とを圧していた。
 飛行島の警衛は、完全のようであった。
 いまは試運転中ではあるけれど、このような大袈裟な陣形が、やがて飛行島の渡洋攻撃のときにも採用されるのではなかろうか。
 リット少将は、艦隊司令官になったような気で、大得意であった。
 その時、副官が、リット少将の背後に近づいて声をかけた。
「閣下、警備飛行団長から、祝電がまいりました」
「ほう、祝電が」
「飛行島の竣工と、無事なる試運転を祝す――というのであります」
「無事なる試運転か。そうじゃ、この分なら試運転もまず無事に終りそうじゃな」
 その通りであった。いま試運転が終ろうというのに、ただの一回も、非常警報の警笛をきかない。彼の重任は、紙を一枚一枚めくりとるように、軽くなってくるのであった。このかたい護衛の網を破って、うかがい寄る曲者があろうとはどうしても思えなかったからである。
「閣下、また祝電がまいりました」
「ほう、すこし気が早すぎるようだが、こんどは誰からか」
「警備艦隊司令官からです」
「おおそうか。いよいよほんとうに、試運転は無事終了らしい。これは思いがけない幸運だった。外国のスパイ艦艇は一隻も近よらなかったし、これでわしは、世界中の眼をうまく騙しおおせたというわけかな。あっはっはっ」
 リット少将は、心から、安堵の色をみせるようになった。
「では、艦内検閲点呼を命令せい。これで試運転は無事終了ということにしよう。警備隊の方へも、同様にしらせるがいい」
「はい、かしこまりました。全艦および警備隊に、検閲点呼を命じます」
 副官は、通信班に通ずる伝声管のところへかけつけた。
 号令は、全艦隊にひろがった。
 全速力航進のもとにおける検閲点呼は、もっとも重大な意味があった。乗組員なり機関なりが、どんな工合にはたらいているかが、もっとも明らかに知れるのである。
 この検閲点呼がすむと、飛行島をはじめ全警備隊は、速力をゆるめ、方向を百八十度転じて、夜明までに元の位置にかえることになっていた。
 おそらく近海の寝坊の漁夫は、試運転からかえって前夜と同じ場所にやすんでいる飛行島を見て、それがシンガポールの近くまで航行したなどとは、夢にも気がつかないであろう。
 検閲点呼の号令は、もちろん、飛行島にもっとも近い護衛艦である警備潜水艦隊にも通達された。
 それはリリー、ローズ、パンジー、オブコニカ、シクラメンという、花の名のついた警備第六潜水艦隊における出来ごとだった。
 旗艦リリー号は、後続の僚艦四隻に直々、検閲点呼の号令を無電でしらせた。
 各艦では、そのしらせをうけると、いちはやく水兵を檣(マスト)の上にかけあがらせて、藍色灯をつけさせた。この藍色灯は、検閲点呼の標(しるし)であった。殿(しんがり)艦のシクラメンでは、ジャックという水兵がちょうど当番であったので、命令一下、藍色灯を片手にぶらさげるが早いか、猿(ましら)のように梯子づたいに檣の上へとんとんとかけ上ったものである。
 彼は、なんの苦もなく藍色灯を檣につけた。潜水艦の檣なんて、ほんの申しわけのように低いものであったが、彼はそれを下りようとして、おやといぶかった。
「おや、本艦は殿艦のはずだとおもったが、ちがったかな」


   椿事(ちんじ)また椿事


 彼は、檣(マスト)の上で、たしかにこのシクラメン号の後について来る他の艦艇の気配を感じたのであった。
 他の艦艇の気配!
 いくら闇夜であっても、後続艦があるとないとは、すぐ分かる。後続艦があれば、第一波の騒方がちがう。そいつは耳で聞きわけるのだ。それから、またエンジンの音がかすかに聞えるし、逆風のときは、むっとした熱気さえ感じるのだ。
 水兵ジャックは、今たしかにこれを感じた。殿艦シクラメン号の後に、いつ他の艦艇がついたのであろう。
 彼は檣を下りて艦橋にとびこむと、すぐこの話を班長の兵曹にした。
「班長、おかしいではありませんか。本艦は殿艦であるのに、あとに、もう一つ殿艦がついてきます」
「なんだ、本艦のあとについてくる艦があるというのかい。そんな馬鹿なことがあってたまるかい。貴様、寝ぼけているんだろう」
「まったくですよ。私はちゃんと二つの大きな眼をあいていますし、二つの大きな耳をおったてていますよ。この眼で見、この耳で聞いたのです」
「何をいってやがる。この梟(ふくろう)野郎めが――」
 班長は、てんでうけつけない。
 梟野郎めといわれて、水兵ジャックはむっとした。
「ねえ班長。今まで私がうそをカナリヤの糞ほどもいったことがありましたかい。班長、もし、それがうそだったら、私は班長に――」
「班長に、なんだと」
「ええ、あのう班長に、私がお守にしているビクトリヤ女皇のついている金貨をあげますよ」
「おおあの金貨か。これはうめえ話だ。ようし、班員あつまれ。検閲点呼はあとまわしで、まず金貨の方から片をつける。探照灯を用意。本艦の後方を照らせ。早くやれ!」
 こんなときに、探照灯をうっかりつけていいのかどうかと思った水兵もあったようだが、なにしろ班長の命令なので、それをやらないでぐずぐずしていると、いつ鉄拳がとぶかもしれない。それよりも、なんでもいいからつけてしまえというので、艦橋にあった探照灯函の扉をひらいて、さっそく電気を入れ、ぴちんとスイッチをひねった。
 青白い閃光は、ぱっと波浪の上にながれた。そのとき、彼等は見た、まったく驚くべきものを!
 それは何であったか?
 見たこともない鼠色の艦艇だ。
 そびえ立つその艦橋には、妙な外国文字がついていた。その傍に十三という数字が書きつけてあるのが読めた。
「おお十三!」
 恐怖の叫声がおこった。
「たいへんだ。あれは日本の軍艦だ」
「ええっ、日本の軍艦だって?」
 もう金貨の賭もなんにもなかった。
 班長はびっくりして、司令塔にかけこんだ。
「艦長、本艦のすぐ後に、日本の軍艦がついてまいります」
「なんだと。日本の軍艦?」
「そうです。数字は不吉の十三号です」
「そうか。さては日本の軍艦がもぐりこんでいたのか。これはたいへんだ。おい通信兵、全艦隊へ急報しろ。飛行島へはあとまわしでいい。あの怪軍艦をにがしてはならぬ」
 たちまち全艦隊はひっくりかえるような騒になった。
 非常警報は、ついに高く鳴りひびいた。
 探照灯は、何十条としれず、シクラメン号の後方海面へ集注せられた。
 飛行隊は前進行動を中止して、旋回飛行にうつった。光弾が三つ四つ五つと機上からなげ落された。
 暗黒だった海面一帯は、ものの三分とたたないうちに、まるで真昼のような明るさになった。
 リット少将の驚きはどうであったろう。
 このとき飛行島は、警備隊とのかねての打合せにより、進路を九十度西に転じ、急速力で逃げだした。駆逐艦の一部と潜水艦の全部が、飛行島の周囲をぐるっととりまいて、守をかたくした。
「潜水艦だ。ほら、いつか現れたホ型十三号という日本海軍が誇る最新型のやつだ」
「うん、あれか。早く撃沈してしまわないと、飛行島にもしものことがあっては」
「なあに、怪潜水艦のいた海面は、すっかり取巻いたから、もう心配なしだ。味方は飛行機と潜水艦とで百隻あまりもいるじゃないか」
「どうかな。闇夜のことだし、相手はなにしろこの前も手を焼いた日本海軍の潜水艦だぜ」
 光弾はひっきりなしに空中から投下される。
 駆逐艦は、警戒海面のまわりをぐるぐるまわって、命令があれば直ちに爆雷をなげこむ用意ができている。
 攻撃機は、空中からしきりと怪潜水艦の姿をさがしている。
 リット少将は、日本潜水艦現るとの報に、愕然と顔色をかえた。
「ふーん、そうか」
 と大歎息して、
「さっき警備隊が祝電をよこしたが、こいつは危いと思ったのじゃ。こっちから警備のお礼電報をだすのはわかっているが、警備隊の方から祝電をよこすなんて、警備に身がはいっていない証拠じゃ。これでも世界に伝統を誇る英国海軍か」
 副官がその時恐る恐る少将の前に出てきた。
「検閲点呼のことにつきまして、至急お耳に入れたいことがございます」
「なんじゃ、検閲点呼のことじゃ。君は気が変になったのか。日本潜水艦現るとさわいでいる最中に、検閲点呼のことについてもないじゃないか」
「はっ、しかし重大事件でございますので。――分隊長フランク大尉が、只今機関部で、ピストルを乱射いたしておるそうであります。当直将校からの報告であります」
「なに、フランクがピストルを乱射しているって。誰を撃ったのか」
「さあ、それについてはまだ報告がありません。なにしろ第四エンジン室内の電灯は消え、銃声ばかりがはげしく鳴っておりますそうでして――」
「ええっ、――」
 ときもとき、日本潜水艦の追跡をうけている最中だというのに、突如として飛行島内に起ったフランク大尉の暴挙!
 リット少将は蒼白となって、傍の椅子にくずれかかるように身をなげた。
 電灯の消えた第四エンジン室の暗闇中では、そもいかなる椿事がひきおこされているのであろうか。
 フイリッピン人カラモを装う川上機関大尉の安否は、果して如何?


   エンジン室の乱闘


 試運転中の飛行島の艦側に、暗夜の出来事とはいえ、あろうことかあるまいことか、仮想敵国の日本の潜水艦ホの十三号が、皮肉な護衛をしていたのに誰も気がつかなかったと聞くさえ腹が立つところへ、今また、あれだけ注意を与えておいたのに、機関大尉フランクが、大事な第四エンジン室でピストルを撃って暴れているという。リット少将が司令塔の床を踏みならして怒っているのも無理はない。
「誰でもいい。フランクを取り抑えてこい」
 副官はスミス中尉と顔を見合わせた。
「では私がスミス中尉と一しょにとりしずめてまいりましょう」
「うん、早くゆけ。ぐずぐずしていると、大事なわが飛行島の機関部に、どんな大損傷が起るかもしれん。海軍士官はたくさんあるが、飛行島はかけがえがないのだからな」
「えっ?」副官は、ちょっと自分も一しょに侮辱されたように感じて、むっとしたが、そのままスミス中尉をうながして、下へ急ぎおりていった。
「馬鹿な奴じゃ」
 リット少将は、吐きだすようにいって、展望窓のところへ歩いていった。そこからは、まるで仕掛花火がはじまっているような海上の騒(さわぎ)が見えた。幾十条の探照灯が、網の目のように入まじって、海上を照らし、爆雷の太い水柱がむくむくあがっている。
「け! あそこにも大ぜいの馬鹿者が英国海軍の恥をさらしている」
 リット少将は、拳固をかため、展望窓のところでぶるぶるふるわせた。
     ×   ×   ×
 ところで、第四エンジン室の騒というのは――
 さきほど分隊長フランク大尉は、リット少将のところへ電話をかけて、第四エンジンを日本将校カワカミらしい男が操っているから、試運転を一時中止して、彼を引捕らえたいからと申し出た。
 リット少将は、とんでもないという声色で、自分はさっきから直接伝声管でもって彼と連絡しているが、あれは実に見事な運転ぶりを示している。一たいカワカミなんかに、英国海軍工廠(こうしょう)が秘密に建造したディーゼル・エンジンの運転ができるはずがないではないか。あれは、自分で名乗をあげていたように、フイリッピン人カラモという依託学者で、ロンドンの英国海軍工廠にあってエンジン製造に従事していた者で、エンジンには相当くわしいからこそ、ああして立派な操作をやっているのだ――と叱りつけた。
 なおもフランクが抗弁したところ、リット少将は大の不機嫌で、カラモは怪しくない、自分が保証する。それよりもお前は分隊長のくせに持場を離れていて、この重大な試運転中いつ呼んでも伝声管の向こうに出てこなかったではないか、普通なら処分するところだが、いまは飛行島の実力試験の最中だから大目にみてやる。早く持場へかえれと、さんざんやっつけられた。
 分隊長フランクが、真青になってエンジン室へ引揚げて来、そして飽くまでカラモの正体をあばいてみせるぞと決意もかたく、ピストル片手にカラモの一挙一動を監視していたことは、すでに知られたところである。
 カラモと名乗っているわが川上機関大尉は、冷やかにエンジンの番をつづけていた。ピストルがどこへ向いているか俺は知らんぞといった調子である。生きるか死ぬるかの問題なんか、飛行島に紛れこんだ時から、もう神仏にあずけてしまってあるのだ。そしてこの場合、やがて起るべきあることを待っていた。
 だだだっと靴音もあらあらしく、ケント兵曹が奥から駈けだしてきた。
「分隊長、たいへんです」
「たいへん? ど、どうした」
「海底牢獄の囚人が脱獄しました」


   川上機関大尉の決心


 海底牢獄というのは、飛行島で働いている者の中で、許しておけないようなことをやった人間を捕(と)らえて、おしこめておく牢獄であった。それは飛行島を水上に浮かばせている脚柱の下についている鉄筋コンクリートの浮函の中に造ってあった。そこは水面よりはるかの下になっているので、海底牢獄の名がついているのだ。当時、その中に放りこまれている囚人は五、六十人あった。多くは建設役人の命令に反抗した中国人や印度人であった。
「え、脱獄したって」
 と分隊長フランクが聞きかえすと、ケント兵曹は、
「そうです。私が倉庫エレベーターで下へおりようとしましたところ、エレベーターの綱条(ロープ)につかまって脱獄囚が下からどやどやと上ってきたのにはおどろきました」
「綱条(ロープ)につかまって上るなんて、そんなことができてたまるか」
「でも、嘘じゃありません。ほら、彼奴等がやってきました。足音がします。あそこをごらんなさい」
 その言葉のしたに、エンジンの奥から、うわーっととびだしてきたのは、印度人の一団であった。奥が暗いので、まるでシャツとズボンが攻めよせてきたように見える。
「あ、とうとうやってきたな」
 先頭の印度人は、監守をなぐり殺したらしい血染の鉄棒をふりかぶって、フランク大尉に肉薄する。
「仇敵、英国人め。圧政にくるしむわが印度同胞のうらみを知れ!」
「な、なにを――」
 だーん!
 フランクはついにピストルの引金をひいた。
 印度人の魂ぎる悲鳴――空をつかんで、鉄板の上に倒れた。
「あ、仲間を殺したな。それ」
 残りの印度人は、鬨(とき)の声をあげて、うわーっととびだしてくる。
 だーん、だーん。
 フランク大尉は、電灯の光に見える敵を夢中で射撃する。
 飛道具をもたぬ印度人は、かわいそうなほど、ばたばた倒れる。気の毒にも、みんなフランク大尉の弾の犠牲になるかと思われた。そのとき――
 がちゃーん。
 電灯が消えた。誰か電灯にスパンナーをなげつけた者がある。またつづいて、電灯はがちゃんと消える。
 室内は暗黒となった。
 エンジンを操作しながら、川上機関大尉の情(なさけ)の早業だったのだ。
 実をいえば、第四エンジン係のゼリー中尉以下がぶっ倒れたのも、川上機関大尉のやったことであった。彼は、万一の用にもと肌身はなさずつけていた、ある無色無臭の毒瓦斯を室内に放ったのであった。
 フランク大尉に、三十六基のエンジンの仕様書をさがして持ってくるようにと、副官の声色を使って電話をかけたのも、これまた川上機関大尉であった。
 それからまた印度人の脱獄も、川上機関大尉が手を貸したのであった。その中には、彼がこの飛行島へ上陸以来、人にかくれていろいろ彼の面倒をみてくれた印度志士コローズ氏もまじっていたのだ。
 なぜ川上機関大尉は、こんなことをやりだしたのか?
 彼は、飛行島というものを、隅から隅まで調べてゆくにしたがって、それが彼の考えていたよりもはるかに恐しい攻撃武器であることが分かったからだ。
 はじめのうちは、構造や性能などがあらまし分かれば、あとは勇敢無比を世界に誇るわが海軍の爆撃機や軍艦でもって、とにかくぶっ潰せるものと思っていた。
 ところが、島内をしらべてゆくと、なかなかそんな生やさしいものではない。いかに勇敢無比なわが海軍の精鋭をもってしても、これは相当の犠牲を出さないでは攻めおとすことができないと分かった。なにしろ二十インチの巨砲である。ものすごい高角砲である。べらぼうに厚い甲板の装甲である。恐しく用心をした二重三重の魚雷防禦網である。これでは何をもっていっても、ちょっと歯がたたないように思われる。なるほど、大英帝国が莫大な費用と全科学力とをかたむけて造っただけの大飛行島である。
 難攻不落の浮城だ。
「これは帝国海軍にとって実に由々しきことだ」
 川上機関大尉は、ひそかに天を仰いで長大息したのであった。
 その上に、気にかかるのは、彼の秘蔵していたペンキ缶に仕かけてある短波無電器がなくなって、今は祖国日本へこの重大な心配を通信するみちがなくなったことである。現に、試運転の夜、ホ型十三号潜水艦が飛行島に近づいて、川上機関大尉あてに、いくたびも呼出信号をかけたが、ついに大尉の応答が得られなくて、艦隊本部へ向け、
「川上機関大尉の応答なし」
 の無電をうたせたほどだった。
 とにかくわが勇士川上機関大尉は、そこで一大決心をかためたのであった。
 それは一たいどんな決心であったろうか。
 曰く――「俺はこの、飛行島を、自分の力でもって占領することにきめた!」
 なんという無謀な、そして大胆な決心であろう。
 飛行島をモーター・ボートとすれば、その舷(ふなばた)を匍う船虫ほどの大きさもない川上機関大尉が、どうして飛行島占領などというでっかいことができるものか。
 しかしわが川上機関大尉は、いかなる自信があっての上か、敢然として実行計画をたてた。そしてやっつけたことというのが、上にのべた三つのこと――第四エンジン部員襲撃、フランク分隊長のてんてこ舞、海底牢獄の一部の破壊であった。
 だが飛行島は、あまりにも大きい。はたして豪胆勇士川上の偉業はとげられるであろうか。


   試運転最後の頁


 暗黒中でピストルの撃合が行われているのを見て、駈けつけた副官もスミス中尉も、事の容易でないことをさとった。
 ひきつれていった部下に命じて、エンジン室内をぱっと照らさせてみると、脱獄囚相手に、ピストルの乱射をやっているフランク大尉の姿が見えた。
 戦闘員は、ピストルをかざして、わーっと室内へおどりこんだ。
 はげしい銃声。
 響き鳴る金属音。
 地獄の中のような乱闘と悲鳴。
 いかに印度志士が慓悍であるとはいえ、十分武器をもったこうも大ぜいの兵員にとりかこまれては、どうにもならない。彼等は、無念の唇をかみつつ、いくつかの貴い同胞の死体をそこにのこしたまま、奥ふかく逃げこんでしまった。
 副官は、フランク大尉の傍にすすみより、
「少将閣下は、試運転の最中に君がピストルを乱射しているというので、その不謹慎さをお怒りになっていたが、この場の有様を見ては、君のやったことは無理ではない。いやそれよりも英国士官の模範とすべき君の勇敢さについて、少将閣下は勲章を本国へ請求なさることだろう。
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