浮かぶ飛行島
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著者名:海野十三 

ここへもう出とるか」と川上機関大尉は、自分の頬を指さした。昨日とはちがって、みちがえるように朗らかだった。
「司令官をお訪ねしたら、『一盞(いっさん)やれ』と尊い葡萄酒を下されたんだ」
 と心持形をあらため、あとは、
「いい味だったよ。はっはっはっ」
 と笑にまぎらせる。
「おい、川上。司令官のところでは、なにかいい話でもあったのか。あったら俺にも聞かせろ」
「いや、それは何でもないことなんだ。隠すわけじゃないが、悪く思うな。司令官と雑談のときに貴様の話も出たぞ。閣下は貴様を信頼していられる。長谷部のことは心配いらぬ。といっていられた。彼は沈黙の鋼(はがね)の塊みたいな男だ。川上――というと俺のことだが、川上とはまるで違った種類の男だ。彼が健在であることは帝国海軍にとっても喜ばしいことだなどと、大いに聞かされちまった」
「……」
 長谷部大尉はなんの感情もあらわさない。いきなり川上機関大尉の手をとってぐっと握り、
「俺のことはどうでもいい。おい川上、ただ俺は貴様の武運を祈っとるぞ」
「何っ、――」
 と川上機関大尉が意外な顔をする。
「はっはっはっ」
 と、こんどは身体の丸い長谷部大尉が川上機関大尉の肩をたたいて哄笑した。
 丁度そのときだった。
 前檣楼の下の桁(ヤード)に、するすると信号旗があがった。下では当直の大きな叫声(さけびごえ)!
「右舷寄り前方に、飛行島が見える!」
 おお飛行島!
 いよいよ飛行島が見えだしたか。
 非番の水兵たちは、だだだっと昇降口をかけあがってくる。


   飛行島上陸


 望遠鏡をとって眺めると、水天いずれとも分かちがたい彼方の空に、一本の煙がすっとたちのぼっている。
 煙の下に焦点をあわせてゆくと、なんだかマッチ箱を浮かせたようなものが見える。まだまだ飛行島は、はるか二十キロの彼方だ。
 士官候補生は、艦橋に鈴なりとなって、双眼鏡を眼にあてている。
「あれが飛行島か。なるほど奇怪な形をしているわい」
「あのなかに、三千人もの人が働いているんだとは、ちょっと思えないね」
「誰だ、いまから驚いているのは。そんなことでは傍まで行ったときには、腰をぬかすぞ」
 軍艦須磨と明石は、信号旗をひらめかしながら、ぐんぐん飛行島さして進んでゆく。
あと三四十分もすれば、その横につけることができるであろう。
 艦隊は、前もって打合せをしてあるとおり、あの飛行島で二十四時間を過すことになっている。その間に士官候補生たちはこの最新の海の怪物の見学をする予定だった。
 艦内では、いよいよ繋留(けいりゅう)用意の号令が出て、係の兵員は眼のまわるような忙しさだ。
 午前十時四十八分、須磨明石の両艦は遂に歴史的の構築中の飛行島繋留作業を終る!
 物事に動じないわが海軍将兵も、この飛行島の大工事には少からず驚いた。
 なんという途方もない大構築だろう。
 地上でもこれほどのものはあるまいと思われるのに、波浪狂う海洋の真只中の工事である。
(これが、人間のやった仕事だろうか?)
 と、ただ眼を瞠(みは)るばかりである。
 士官候補生たちもよく見た。祖国を出るまえ靖国神社参拝のとき見た東京駅なんか、くらべものにならない。
 飛行島はU字型になっていた。
 海上へ出ているのは、大きなビルディングの寸法でいうと、三階あたりの高さに相当する。下から見ると、その飛行甲板が大きな屋根のように見える。
 飛行甲板の下は、太い数十本の組立鉄塔で支えられている。その鉄塔は水面下に没していて下はよく見えないが、話によると一本一本のその鉄塔は下に大きな鉄筋コンクリートのうきを下駄のように履いているという。つまりこの大きな建造物は、海中に宙ぶらりになっている鉄筋コンクリートのうきによって浮かんでいるのである。
 しかしそのままでは、風浪に流されてしまう心配があるから、約三十条の驚くほど太い鎖と錨とでもって海底に固定されている。
 そのほか、まだ出来上っていないが、波浪にゆれないように、鉄塔が水面につくところには、波浪平衡浮標というものをつけることになっているそうだし、飛行甲板の下につけることになっている専属修繕工場や住居室もでき上っていない。
 それにひきかえ、鉄塔の中を上下しているエレベーターとか、これ等のものを動かす発電動力室などはすっかり完成していて、三千人の技師職工たちに手足のように使われている。
 軍艦須磨と明石が横づけになったところは、この飛行島の西側であるが、そこはまだ骨ぐみだけしか出来ていないが桟橋になっていて、将来は四五万トンの大汽船を六隻ぐらいは一度に横づけできるというから、それだけでも大きさのほどが知れるであろう。
 なにしろここは南シナ海の真中のこととて軍艦は投錨しようにも、錨は海底へとどかないので、太い縄でもって桟橋にゆわえつけるのであった。
 いま飛行島は、工事は三分の二を終ったところであった。工事は、まず鉄塔が組立てられると、横に鉄材の腕が伸び、その先へだんだん新しい別のうきつきの鉄塔が取付けられ、上には飛行甲板が張られる。こういう順序に、中央から始って両側へと、骨組の難工事はおしすすめられてゆくのだった。それが出来上ると、甲板上の大きな室ができたり、そのほかこまごました装置が取付けられたりして、飛行島の内臓や手足ができてゆく。その後で、さらに飾りつけそのほかの艤装(ぎそう)がついて完成するのであった。
 工事に従っているのは、前にものべたように英国の技師と職工が中心になり、その外の労働者たちは、印度人もいれば中国人もいるというわけで、まるで世界の人種展覧会みたいな奇観を呈していた。
 須磨、明石の両艦では、半舷上陸が許されることになった。尤も時間がきめられていて、夕刻までには両舷とも上陸見学を終ることになっていた。
 川上機関大尉は、午後三時から始る後の方の上陸組に入っていた。
 お昼すぎになると、もうのこのこ帰って来る水兵があった。尤も本当に帰艦したわけではなく、指をくわえて待ちくたびれている兵員たちに、すこしでも早く、この珍奇な飛行島の様子を知らせてやろうという友達思いの心からだった。
「おい、早く飛行島の様子を知らせろ」
 と、艦内から旗のない手旗信号をやっている兵がある。
 帰ってきた水兵は、桟橋の上から、これに応じてしきりにこれも手旗信号をやっている。
 その信号を読んだ艦内の水兵が顔をくずして仲間の者に呶鳴(どな)る。
「おい、上陸人の斥候(せっこう)報告があった。上には食堂のすばらしいのがあるぞう。酒も洋酒だが、なかなかうまいそうだあ。――ああ、なに、うんそうか、土産ものも売っとるう、写真に絵はがき、首かざり、宝石入指環、はみがきに靴墨。――ちぇっ、そんなものは沢山だ」


   怪事件突発!


 なにしろこういう絶海の孤島も同じようなところで、まっくろになって昼夜を分かたず、激しい労働に従っている人たちが三千人もいるのであるから、人間の心もあらくなっている。だから彼等をなぐさめるために、食堂とか酒場とか映画館その他の見世物までもあり、人気のわるいことは格別であった。
 もちろん非番の者にちがいないが、ぐでんぐでんに酔払ったり、その揚句のはてに呶鳴ったり打つ蹴るの激しい喧嘩をやっている者もある。
 まるで裏街(まち)みたいなところもある。
 その間を、帝国軍人はきちんとして通り、皇軍の威容を、飛行島の連中にも心に痛いほど知らせることができた。
 夕方の午後六時になって、総員帰艦を終った。
 総員の点呼がはじまった。
 もちろん、一人のこらず皆、帰艦している――と思いの外、ここにはからずも意外な椿事(ちんじ)が起った。
「川上機関大尉が見えません」
 驚くべきことが、副長のもとへ届けられた。
「なに、川上機関大尉がまだ帰艦していないというのか」
 副長もさすがに驚きの色をかくすことができなかった。
「もう一度、手分して艦内をさがせ」
 そこでまたもや捜索となったが、どうしても川上機関大尉の姿が見えない。
 どうしたというのだろう。
 大尉の身のまわりをしている杉田二等水兵が副長の前によびだされた。
「川上機関大尉の上陸したのを知っているか」
「はい知っております。午後三時十分ごろ、自分と一しょに舷門を出て行かれました」
「うむ、それからどうした」
「はあ。それから機関大尉と甲板の上まで一しょにあがりましたが、そこで私は機関大尉と別れたのであります。それ以後のことは、私は――私は知らんのであります」
「知らない。ふむ、そうか」
 副長はさらに大勢の兵員を集めて聞いてみたがどうも分からない。
 川上機関大尉が帰艦していないことは、長谷部大尉の耳にも入らずにはいなかった。
 彼はすぐさま機関室へとんできた。
「川上機関大尉が帰らぬというが本当か」
 それは遺憾ながら本当のことだった。
「これはけしからぬ。よし、俺がいって探してこよう」
 長谷部大尉は、すぐさま艦長のところへ駈けつけて、機関大尉を探すために上陸方をねがい出でた。
 すると艦長は、
「司令官にお聞きするから、暫く待て」
 といった。
 暫くたって、長谷部大尉は艦長によばれていってみた。嬉しや上陸許可が下りたかと思いの外、
「司令官はお許しにならぬ。誰一人も上陸はならぬといわれる。また一般にも、言葉をつつしみ、ことに飛行島の方に川上機関大尉のことを洩らすなとの厳命だ。のう、分かったろう。分かったら、そのまま引取ってくれ」
 艦長は、長谷部大尉の胸中を思いやって、苦しそうにいった。
 そういわれれば、下るよりほかない軍律だった。しかし長谷部大尉の肚のうちは、煮えかえるようだった。
 不安と不快との夜はすぎた。遠洋航海はじまっての大椿事だ。
 帝国海軍の威信に関することだから、全艦隊員は言葉をつつしめということなので、皆の胸中は一層苦しい。
 夜が明けた。
 早速捜索隊が派遣されるものと思いこんでいた長谷部大尉は、それにぜひとも参加をさせてくれるようにと、艦長のところへ願い出でた。
 艦長は、眉をぴくりと動かして、
「捜索隊は出さぬことになった」
「えっ、それはどうして――」
「司令官の命令である。帰艦するものなら、そのうちに帰ってくるだろう。捜索隊などを上へあげて、それがために脱艦士官があったなどと知れるのはまずいといわれるのだ」
「それはあまりに――」
 といったが、考えてみると司令官の言葉にも一理はある。といって、どうして捜索隊を出さずにいられるものか。川上機関大尉をめぐって、飛行島上には何か変ったことがあったのにちがいない。このままにおけば、午前十時すぎには、空しくここを出港してしまうのだ。そんなことになってはいけない。
 長谷部大尉は、艦橋につったったまま、眼を閉じてじっと考えこんだ。
(許さん――と一旦司令官がいわれたら、なかなか許すとはいわれない)
 そのとき大尉が思い出したのは、川上機関大尉の部屋をしらべてみるということだった。
 彼はすぐさま、その足で川上機関大尉私室へいってみた。
 すると、その私室の前には、四五名の兵員が声高になにか論争していた。
 彼等は長谷部大尉の姿を見ると、ぴたりと口を閉じて、一せいに敬礼をした。
「お前たちは、何を騒いどるのか」
 すると兵の一人が、
「はっ、私は不思議なることを発見いたしました。川上機関大尉の衣服箱を検査しましたところ、軍帽も服も靴も、すべて員数が揃っております。つまり服装は全部ここに揃っているのであります。機関大尉は素裸(すっぱだか)でいられるように思われます」
「なに、服装は全部揃っているって。なるほど、それでは裸でいなければならぬ勘定になるが、しかし川上機関大尉は軍服を着て舷門から出ていったんだぞ。それは杉田二等水兵が知っとる」
「おかしくはありますが、本当に揃っているのでありまして、不思議というほかないのであります」
 兵は自説をくりかえした。
 そうなると、長谷部大尉も、ふーむとうならないわけにゆかなかった。一たいどうしたというのだろう。浮かぶ飛行島をめぐる怪事件の幕は、こうして切って落された。
 極東の風雲急なるとき、突如として練習艦隊内に起ったこの事件は、そもいかなる意味があるのか。
 南シナ海の上は、今日もギラギラと熱帯の太陽が照りつけて、海は毒を流したように真青であった。


   おしゃべり水兵


 幾度考えてみても、奇怪な事件である。
 だが、奇怪なのはそればかりでなかった。
 長谷部大尉が、水兵から聞いたところによると、機関大尉の服は一着のこらず、ちゃんと私室に揃っているというのである。
 それなら機関大尉は、いま裸でいなければならぬ理窟になる。
 ところが、いつも身のまわりの世話をしていた杉田二等水兵の話によると、彼は機関大尉に連れられて、その日の午後飛行島に上陸したが、その時機関大尉はちゃんと海軍将校の服装をしていたという。
 実に奇妙な話である。この謎は一たいどう解けばいいのだろうか。
 練習艦明石は、怪事件をのせたまま夜を迎えた。
 いつも夜は元気のいい水兵たちの笑声で賑やかな兵員室も、今夜にかぎってなんとなく重苦しい空気につつまれていた。
「杉田は、まだ帰って来ないぞ」
 と、太っちょの大辻という二等水兵が、士官室の方に通ずる入口を見やった。
「まったく遅いねえ。艦長のところで、杉田はなにか申開きのできない始末になっているのじゃないかね」
 と、同僚があいづちをうった。
 すると別の水兵が、いきなり顔を大辻の方に出して、
「おい大辻」
「なんだ。魚崎」
「なんだじゃないぜ。貴様が余計なおしゃべりをするから、杉田がこんな目にあうんだぞ」
「なんだって、俺が余計なおしゃべりをしたって。なにをいうんだ。この大辻さまは、余計なことなんか一言もしゃべったことはないぞ」
 魚崎はじめ同僚が噴きだした。大辻のおしゃべりは艦内の名物だ。彼が何かを知ったら、それから十分後には、艦内の水兵たちが皆それを知ってしまうくらいだ。
「なにをいっているのだ。大辻、貴様がいけないんだぞ。川上機関大尉の服は全部私室に揃っております。だから機関大尉はいま素裸でいられるのでありますなどと、余計なことをいったじゃないか」
「あれえ、――」
 と大辻はぐりぐり眼玉をむいて、
「こら魚崎、そういったのが、どこがいけないんだ。それは本当のことじゃないか。それとも貴様は、上官に対し嘘をつけとでもいうのか。次第によっては、日頃汁粉を奢(おご)ってもらっている貴様といえども、許さんぞ。上官に対し嘘をつけというのか。やい」
「そんなことはいっとらん。余計なことをいうなといっとる。貴様のいった、いま素裸でいられますは、余計なことじゃないか。帝国軍人が、いくら暑いからといって、こんな外人のいるところへ来て、不恰好な素裸でいられるものかい。帝国軍人の威信に関わる」
「おや、なんだか議論が怪しくなったね。さては貴様、俺にいいまかされたことがやっと分かったんだろう。軍服が全部揃ってりゃ、素裸でいるにきまってるじゃないか」
「ばかをいえ。絶対に素裸でいられない」
「なにがばかだ。服がなけりゃ素裸でいるよりほかにしようがないじゃないか」
「へへん、そうじゃないよ。俺は信ずる。すくなくとも褌(ふんどし)はしめていられると」
「ふ、ん、ど、し!」
 大辻は狒々(ひひ)のように大口をあいて、
「ば、ばかっ」
「いや、それは冗談だが、襦袢を着ていられるかもしれない。または寝間着を着とられるかもしれない。いろんな場合があるんだ。だのに、貴様はあわてて、私室に軍服がそっくり揃っていますから、いま川上機関大尉は素裸でありますなんてことをいった。とにかく杉田がなかなか艦長室から帰って来ないのも、もとはといえば余計な貴様のおしゃべりのせいだぞ」
 それを聞いていた大男の大辻は、突然顔をゆがめて、
「お、俺は、そんなつもりでしゃべったんじゃないんだ。杉田のやつが悲痛な顔をしてやがるから、俺も一しょにしらべて、一刻も早く川上機関大尉の行方をさがしだしてやろうと思ってしゃべったんだ。それだのに、貴様らは――貴様らは――うへっへっへっ」
 大辻は涙をぽろぽろ出して、泣きだした。
 同僚はあわてた。大男の大辻が泣くところをはじめてみたからである。しかもなんという奇妙な泣声だろう。うへっへっへっなんて、泣声だか、それとも笑声だか分かりゃしない。
「おい大辻。わ、分かった分かった」と魚崎は立ちあがって、やさしく大男の肩をなでてやった。
「貴様の友達おもいの気持はよく分かっとる。泣くな泣くな、みっともないじゃないか。布袋(ほてい)さまみたいな貴様が泣くと、褌のないのよりも、もっとみっともないぞ」
 どっと一座は爆笑した。
 大辻も、それにつりこまれて、涙にぬれた顔をあげながら、にっこり笑った。


   飛行島を出港


 同僚たちが心配していた杉田二等水兵は、その夜更(よふけ)十二時近くになってはじめて帰された。
 彼が、ただ一つ残されたハンモックを天井に釣りはじめた時、その隣で寝ていた魚崎や大辻が眼をさました。
「おう、杉田、帰ってきたか。みんなが心配していたぞ」
「杉田、俺のおしゃべりのせいで、貴様が引張られたんだといって、みんなが俺をいじめやがった。そんなことはないなあ、杉田」
 が、杉田は、なにも口を開こうとはしなかった。
「おい杉田。どうしたんだ。艦長に対してどう御返事をしたのだ」
 杉田はハンモックの中にもぐりこんだ。そして顔を僚友の方へちょっとだけ向けて、
「おい皆。どうもすまん。俺の気のつけようが十分じゃなかったんだ。しかし皆、どうか信じていてくれ。俺だって帝国軍人だ。卑怯なことはせん。よくそれを覚えていてくれ。――もう俺は寝る」
 そういって杉田二等兵は、毛布のなかに顔をうずめてしまった。
 僚友たちも、それをみると、やや安堵して自分のハンモックにかえっていった。
 しかしこの事件について何かの疑いをかけられている杉田二等水兵は、今宵はたして安らかに眠れるであろうか。
 練習艦明石にとって、記録すべき不祥事件の夜は、やがて明けはなれた。
「総員起し」の喇叭(ラッパ)が、艦の隅から隅へとひびくのであった。水兵たちは、また元気に甲板上を、そうして狭い艦内をとびまわる。平生とは、なんの変ったこともない風景であった。
 午前十時、練習艦隊はいよいよ飛行島の繋留をといて出港ときまった。その用意のため、練習艦明石は、早朝から忙しかった。
 当直将校は長谷部大尉だった。
「川上のやつはどうしたろう」
 大尉は、前艦橋で飛行島の方を睨(にら)みつけながら、胸の中をぐっとついてくる憂鬱をおさえつけた。
 一人の下士官が艦橋に上って来て、とことこと大尉の方に歩みよった。
 長谷部大尉は、それと見るより、
「おう、御苦労。どうだった」
「はいっ。やはり駄目でありました。川上機関大尉は、今朝にいたるもまだ帰艦しておられません」
「うむ、そうか」
 あとは黙って、大尉は飛行島の方へまた顔を向けなおした。
 下士官は敬礼をすると、帰っていった。
(まだ帰って来ない)
 大尉は口のなかでつぶやいた。
 出港は、間近にせまっている。幼いときから、一しょに学び一しょに遊んできた川上を、この南シナ海の真中に残してゆくのは、実につらいことだった。
 それも捜索したあげく、見つからなかったというのなら諦めもつくが、飛行島を眼の前にしながら、上陸厳禁という艦長の命令は、あまりにもつらいことだった。だが、軍規は、あくまで厳粛でなければならない。長谷部大尉の眼には、涙一滴浮かんでいないが、胸の中は、はりさけんばかりであった。
 前艦橋に艦長が出てこられた。
 いよいよ出港だ。
 嚠喨(りゅうりょう)たる喇叭(ラッパ)が艦上にひびきわたった。
 桁(ヤード)には、するすると信号旗があがった。
「出港用意!」
 伝令は号笛(パイプ)をふきながら、各甲板や艦内へふれている。
 艦首へ急ぐもの、艦尾へ走るもの。やがて、飛行島へつないでいた太い舫索(もやいづな)が解かれた。
 機関は先ほどから廻っている。
 そのうちに、飛行島の鉄桁が横にうごきだした。艦尾は白く泡立っている。小さい波が、後にひろがってゆく。
 練習艦明石は、飛行島を離れたのだ!
 一番艦の須磨はと見れば、もうかなり先へ進んでいる。
 ららららら。ひゅーっ。
 飛行島の上からは、さかんに帽子をふる、手をふる。白人も黒人も、顔の黄いろい東洋人も――。
 ららららら。ひゅーっ。
 飛行島の最上甲板には、飛行島建設団長のリット少将の見送る顔も見える。
 桁には、また新たに信号旗がするするとあがった。
「出港に際し、リット少将に対し、深甚なる敬意を表す」
 白髪紅顔のリット少将は、にっこりとしてまた挙手の礼を送った。
 飛行島の信号鉄塔の上にも、安全なる航海を祈るという旗があがった。
 飛行島に働いている連中は、仕事をやめて、盛んに手をふり、口笛をふく。
 前艦橋につったって、長谷部大尉は双眼鏡を眼にあてて、この盛大なる見送りの人々をじっと眺めていた。顔、顔! 数百数千の顔を一人も見落すまいと!
 鉄桁の間、起重機の上、各甲板、共楽街の屋根、アパートの窓――どこにも顔、また顔の鈴なりだ。
 その中から大尉は心に念ずるただ一つの顔をさがし出そうとして、一生懸命であった。大尉の念ずる顔とはいうまでもなく、川上機関大尉のあの凛々(りり)しい顔であった。
 長谷部大尉は、双眼鏡を眼にあてたまま、彫像のように動かない。その鏡中には、さだめし数えつくせないほどの顔が動いていることだろう。
「うむ、――」
 とつぜん長谷部大尉がうなった。双眼鏡をもつ大尉の手が、ぶるぶるとふるえた。彼はいそがしく、双眼鏡のピントをあわせた。――
 飛行島の第三甲板にある労働者アパートの、はしから三つ目の窓に、鈴なりの男女の肩越しに、頭に繃帯を巻いた東洋人の顔がこっちを見ていた。
 大尉の胸は、にわかに高鳴った。
 彼は穴のあくほど、その東洋人の顔をみつめた。そしてもっとはっきり見たいと思って、ピントを合わせなおしたが、そのとたんに、窓から消えさった。
 それからは、いくど双眼鏡を向けてみても、もうふたたびその顔は入ってこなかったのである。
「ああ――」
 と長谷部大尉は双眼鏡をおろして、嘆息した。
(あの頭に繃帯して、こっちを覗いていた男は、川上の顔のように思ったが、気の迷いだったろうか)
 まさか川上機関大尉が、あのような労働者アパートの男女の中にまじっているとは、ちょっと考えられない。
「――どうも分からない」
 大尉は吐きだすように独言をいった。


   脱艦兵


 軍艦明石は、ぐんぐん船あしを早めてゆく。
 南方に遠ざかる飛行島を、長谷部大尉は胸もはりさける思いで、じっと見送った。
 川上機関大尉の失踪事件は、こうして、未解決のまま、よくない帳簿の上に永く記録せられることになったのだ。
 飛行島の影は、謎を包んだまま、ずんずん小さくなってゆく。もうなんとも手の出しようがない。
 そのときであった。
「当直将校!」
 大きな水兵がばたばたと駈けてきて、さっと挙手の礼をした。大辻二等水兵だった。彼の顔には、ただならぬ緊張の色が浮かんでいる。
「おう、なにか」
「杉田二等水兵の姿が見えません。私はしゃべりたくないのでありますが、当直将校にはおとどけしておきます」
「なんだ、そのいい方は――」と大尉はたしなめて、
「杉田がいないのか。杉田といえば川上の世話をしていた水兵だろう」
「はっ、そうであります」
「そうか、杉田が姿を消したか」
 大尉はさてはと思ったが、顔色には出さず、
「すぐ行くから、お前は先へ分隊へ行っておれ」
「ははっ、先へ参ります。しかし……」
 大辻は体をかたくして、
「当直将校。私がしゃべったことは、ないしょにねがいたいのであります」
「なぜか」
「ははっ、私はいま、村の鎮守さまに願をかけまして、向こう一年間絶対にしゃべらんと誓ったところであります。でありますから、私がしゃべったということは、お忘れねがいたいのであります」
「変なことをいいだしたね。それほどにいうのなら、お前のいうとおりにしよう。さあ、早く先へ行っておれ」
「あ、ありがたいであります」
 大辻は、やれやれと胸をなでおろしながら、昇降口の方へ駈けていった。
 長谷部大尉は副長に、この新たな事件を伝えると、すぐその足で、杉田二等水兵の分隊へ行った。
 そこでは分隊長以下が集って、憂わしげな面持で、一枚の紙切を読んでいるところだった。
「杉田二等水兵が姿を消したそうだな」
 と長谷部大尉は、分隊長に声をかけた。
「おお当直将校。そういう妙な噂が立ったので、いま杉田の衣嚢(いのう)をとりよせて調べてみると、ほら、こういう遺書がでてきました」
「えっ、遺書? どれ、――」
 と長谷部大尉が手にとってみると、なるほど用箋一枚に、何か、かんたんに書きつけてある。
 それを読むと、
「杉田ハ決心シマシタ。飛行島ニ川上機関大尉ノ行方ヲタシカメルタメ脱艦ヲイタシマス。再ビ生キテ皆サマニオ目ニカカレナイコトト覚悟ヲシテイマス。シカシ御安心下サイ。杉田ハ決シテ卑怯ナフルマイヲ致シマセン。郷里ノ方ヘハ、海ニ墜チテ死ンダトダケオ伝エクダサイ」
 とうとうやったな――と、長谷部大尉は思った。
 杉田二等水兵は、ついに機関大尉の行方を案じて、脱艦したのである。脱艦事件というものは、外国の軍艦にあっても、わが帝国軍艦には例のないことだ。それはたいへん重い罪としてある。杉田は、その重い罪であることを十分承知で、死の覚悟をもって脱艦したのである。その目的は、川上機関大尉の行方を、たしかめるためだというのだ。ああなんという悲壮な決心であろうか。
 長谷部大尉はその遺書を手にしたまま、分隊長はじめ一同の顔をぐるりと見まわした。誰もみな沈痛な顔をしていて、一語も発する者がなかった。
「本当に脱艦したものだろうか。脱艦したとすれば、どこからどういう風に脱艦したものだろうか」
 と、長谷部大尉は、誰に問うともなくそういった。
「遺憾ながら、私はなんにも知らないのです」
 分隊長は首をふった。
「あの――、杉田は、艦側から、海中にとびこんだのであります」
 と、誰かうしろの方で大声で叫んだ者があった。
「なに、艦側から? よく知っているのう。おい、誰か。もっと前へ出て話をせよ」
 分隊長はのびあがって、このおどろくべきニュースを報道した者の姿をさがした。
「はっ、――」
 と答えはしたが、その先生は急に頭をかいて、こそこそ逃げ出そうとする。その姿を見ると、外ならぬ大辻二等水兵だった。
「なんだ、大辻じゃないか。早くこっちへ出て当直将校の前で話せ」
 大辻はもじもじしながら長谷部大尉の前に出てきた。
「ははあ、お前か。――」
 長谷部大尉は呆れた。村の鎮守さまにおしゃべりをしない誓をたてたといった例の大男である。杉田の脱艦したことを自分がしゃべったことは、ないしょにしておいてくれと、さんざん頼んでいったその大辻二等水兵だったから、これが呆れずにいられようか。
 大辻は、ふだんから赤い顔を一層赤くしながら、いまにも泣き出しそうである。
「わ、私がしゃべらないといけませんか」
「あたりまえだ」
 長谷部大尉は一喝した。
「杉田の脱艦について要領よく、ありのままにしゃべれ、村の鎮守さまの方は、あとから俺があやまってやる」
「うへっ、――」と大辻は眼を白黒させ、
「――では申し上げますが、杉田はいま申しましたとおり、午前十時二十分、艦側から海中にとびこんだのであります」
「ふむ――それから」
「杉田は水中深くもぐりこみました。彼はもと鮑(あわび)とりを業としていたので、なかなかうまいのであります。かれこれ三分ほどももぐっていたでありましょうか、やがて彼はしずかに海面に顔だけを出して、泳ぎだしました」
「ばかに話がくわしいが、一体それはどうして分かった」
「それは――それはつまり見張人が見張っていたのであります」
「なに、見張人? 誰がそんな脱艦を見張っていたのか。――ははあ、貴様だな」
 長谷部大尉は、かっと両眼をむいて大辻を睨みつけた。
「……」
 大辻はそれに対して返事ができなかった。ただ両眼から、豆のような大粒の涙を、ぽろんぽろんと落しはじめた。
「黙ってちゃ分からぬ。なぜ答えないのだ」
「うへっへっへっ」
 と大辻は奇妙な泣声をあげながら、
「そうおっしゃいますけれど、杉田のあの苦しい胸中も考えてやって下さい。あ、あいつは海へとびこむ前に、手をあわせて、この私を拝みました。どうぞこの俺に川上機関大尉の後を追わせてくれ。もし機関大尉が生きていられたら、きっと連れ戻る。もし死んでいられたら、俺もその場で死ぬる覚悟だ。機関大尉の先途を見とどけないで俺のつとめがすむと思うか。どうか俺を男にしてくれ。それに俺には、いやな疑いがかかっているのだ。俺が川上機関大尉の行動を知っていていわないように思われている。俺は知らないのだ。たとえそれを察していても、川上機関大尉は自分の命も名も捨てて行かれたのだ。それをどうしていえるものか。俺は貴様みたいにおしゃべり病にかかってはおらん。――あわわ、しまった。とにかくそういって杉田は泣いて私に見張を頼んだのであります。わ、私も泣きました。それで見張に立ちました。涙があとからあとから湧いて、見張をしてもよく見えませんでした。私は覚悟しています。どうか厳罰に処してください」
 一座はしーんと水をうったよう。誰か痍(はなみず)をすする者がある。
 眼を真赤にしている者がある。
「よおし、よくしゃべった。おい大辻、俺と一しょに艦長室へこい」
 そういった長谷部大尉の眼も赤かった。


   川上機関大尉の秘密


 波間に、杉田二等水兵の首が一つ、ぽつんとただよっている。
 南海の太陽は、いま彼の顔に灼けつくように照っている。
 彼は海面に波紋をたてぬように静かに静かに泳いでいる。クロールや、抜手にくらべるとはなやかではないが、この水府流の両輪伸(りようわのし)こそは遠泳にはもってこいの泳法だ。
 杉田二等水兵は、飛行島目ざして必死だ。
「うむ、もう一息!」
 この南シナ海には、無数の人喰鮫が棲んでいる。それに、下からぱくりとやられると、もうおしまいだ。
「川上機関大尉。私がそこへ泳ぎつくまで、どうか生きていて下さい。杉田はきっとお助けします」
 杉田二等水兵には、誰にもいえない、一つの秘密があった。飛行島へ川上機関大尉と一しょに上陸して、共楽街の前で左右に別れる時、機関大尉から重大なる用事をいいつけられた。
 それは帰艦の前に、その共楽街にある広珍という中華料理店に立ち寄って、一つの荷物をうけとって帰れ。そして帰ったら、俺の室に持って行ってその荷物をあけておいてくれ。これはその広珍という中華料理店で荷物を渡してもらう時の合札だといって、ボール紙の札を杉田に渡した。その札には、白い羽と赤い鶏冠(とさか)をもった矮鶏(ちゃぼ)の絵が描いてあった。
 杉田二等水兵は、その命をうけて、別れようとすると、川上機関大尉はなにを思ったか彼の傍へつかつかと近づいて、ぐっと手を握りしめながら、
「杉田、では頼んだぞ。それからもう一つ大事なことだ。その荷物をうけとって帰艦するまで、どんなことがあっても、俺が命令したということをしゃべっちゃいかんぞ」
 妙な命令だと思ったが、杉田は承知しましたと答えた。
「じゃあ、ここで別れる。時間まではゆっくり遊んで来い。気をつけてゆけ」
 そういって機関大尉は、またぐっと力を入れて杉田の手を握ったのであった。
 機関大尉は共楽術を奥の方へすたすたと歩いていった。そしてある店舗のかげに、姿を消してしまった。これが機関大尉を見た最後だったのである。
 杉田は、共楽街を散歩する非番の労働者やその家族たちと肩をならべて歩きまわった。そして手まねでもって、甘いココアを飲んだり、肉饅頭(にくまんじゅう)を食べたり、それから映画館に入ったりして時間いっぱいに遊びまわった。そして帰りぎわに川上機関大尉のいいつけどおり広珍に寄って、矮鶏(ちゃぼ)の合札とひきかえに、一つの荷物をうけとって帰艦したのだった。
 彼はすぐとその足で、荷物を川上機関大尉の室にもって入った。
 荷物はすぐに開けという命令だ。
 杉田は、この荷物の中に一体なにが入っているのか知らなかった。彼は早く中の品物をみたかった。さっそく包紙をやぶってみると、その中はまた紙包になっていた。なんのために、そう厳重にしてあるのだろうかと怪しみながら、二重三重の包紙をやぶって、やっと待ちに待った品物が、杉田二等水兵の眼の前に出てきた。それを見た時、彼は驚きのあまり、思わずあっと叫んだ。
 品物は一たい何であったろうか。
 白い機関大尉の軍服、軍帽、短剣、靴、襦袢その他のものであった。
「これはどうしたんだろう」
 杉田二等水兵は、自分の眼を疑った。調べてみると、これはたしかに川上機関大尉の着ていった服装だ。実に不可解なことだ。
 杉田はその時、包の中に一枚の紙切が入っているのを見つけた。彼は思わず胸をおどらせて、それを開いた。
 はたしてそれは、川上機関大尉の筆蹟で認(したた)められた杉田にあてた手紙であった。
 その文句は次のようであった。
「――杉田。驚カナイデ、ヨクコノ手紙ヲ読ンデクレ。
(一)コノ荷物ノ中身ガ何デアッタカ誰ニモイウナ。
(二)コノ品物ハスグチャントシマッテクレ。
(三)コノ手紙ハスグ焼キステロ。ソシテオ前ハ俺ノ行動ニツイテ、昼間飛行島デ別レテカラ後ノコトハ、スベテミナ忘レルノダ。オ前ガ秘密ヲヨク守ルコトヲ信ズル。タッシャデクラセ。川上」
 これは遺書だ。まさに川上機関大尉の遺書である。
 杉田二等水兵は、腰をぬかさんばかりに驚いた。
 なぜ川上機関大尉は、こんなことをするのか、彼には何にも分からなかった。
 しかしその次の瞬間、杉田は自分がいいつけられた重大な命令を思いだした。わけは分からないが、ぐずぐずしていては、いいつけに背くことになる。あの立派な機関大尉が、まちがったことを命ずるはずはない。こうなれば、その遺書に命ぜられたとおりを即時やるよりほかない。
 そう決心した杉田二等水兵は、いまにもめりこみそうな気持をひったてて、いいつけどおりに品物の始末をしたり、その惜しい手紙を焼きすてたりした。
 さてこれから一たいどうなるのだ。
 それから後、艦長に呼ばれたり、長谷部大尉に調べられたり、いろいろなことがあったが、最後まで川上機関大尉のいいつけを頑固に守り通したのだった。だが彼の胸中は、もうはりさけるようであった。
 彼も若い血のみなぎる人間だ。この上の我慢はとてもできなかった。遂に決心をして、大尉のあとを追い脱艦をすることとなった。――
 いま彼は、目ざす飛行島に見事泳ぎついたのだった。
 彼は監視員の眼をのがれるために、遠方から得意のもぐりをつづけて、橋構の間を分けて入り、かなり奥の方の橋構まで進んで、やっと水中から顔を出したのであった。
 橋構鉄塔にはいのぼると、彼は胴にまきつけてきた用意の白いズボンの水を絞ってはいた。腹から上は裸だった。何しろここは暑いところで、こうした半裸体の労働者が多いので、これで十分なのだった。
 起重機のがらがらという音だの、圧搾空気の鉄槌のかたかたかたと喧(やかま)しい響だの、大きなポンプの轟々と廻る音だのが、頭の上にはげしく噛みあっている。どこかでひゅーっと号笛(パイプ)が鳴るのが聞える。自分が忍びこんだのが見つかったのではないかと、ひやりとした。
 鉄塔のかげにかくれていたが、追ってくる人もないようなので、杉田二等水兵は、そこを出て、そろりそろりと甲板の方へよじのぼっていった。こういうことなら、水兵さんだけに得意なものである。
 彼はやがて川上機関大尉の荷物をうけとった広珍料理店前にやって来た。
 そこで、彼はしばらくためらった後、思い切って店内へ足を踏みこんだ。


   広珍料理店


 飛行島に泳ぎついた杉田二等水兵は、その足ですぐ共楽街の広珍料理店にとびこんだ。
昨日、機関大尉の荷物を受取ったあの料理店である。
 この杉田二等水兵の姿というのがたいへんだった。腰から下に白ズボンをはいたきり、そして胴中から上はなに一つまとっていない赤裸だった。しかし潮風にやけた体は赤銅色で、肩から二の腕へかけて隆々たる筋肉がもりあがっているという、見るからにたくましい体格であった。
 このとき、店内には、客は一人もおらず、白い詰襟の上下服を着た中国人ボーイが五六名、団扇(うちわ)をつかって睡そうな顔をしているところだった。そこへ杉田二等水兵がぬっと入ってきたものだから、一同はびっくりして、玩具(おもちゃ)の人形のように椅子からとびあがった。しかし杉田の半裸体姿を見ると、なあんだという顔をして、又椅子につき団扇(うちわ)をぱたりぱたり。
「おい、ちょっとたずねるが、昨日俺がここへ来たことを覚えているだろうね」
 と、杉田二等水兵は、おもいきり大きな声で叫んだ。
「……」
 中国人ボーイたちはきょとんとして、互の顔を見合うばかり。日本語なんか、ちっとも分からないという風だ。
 日本語のほか知らない杉田二等水兵は、はたと困っちまった。
「誰か日本語の分かる者はいないのか。ニッポン、日本だぞ」
 杉田二等水兵のはげしい権幕に恐れてか、中国人ボーイは一人立ち二人立ちして、だんだん杉田の前に集ってきた。そしてぺちゃぺちゃしゃべっては、いぶかしそうな顔をしている。
「おい、どこかへ行って日本語の分かるやつを引張ってこい。一たい、日本語が分からないなんて、けしからんぞ」
 と、きめつけたが、もちろん、通じるわけがない。
 そのうちに、一人のボーイが奥へかけこんだ。
 誰か探しにいったんだろうと思っていると、果して奥から別の人間を引張ってきた。それは胸にエプロンをしめ、片手に肉切庖丁を握った料理人風の男だった。
「おい、お前は日本語が分かるのか」
 かの料理人は、耳に手をあてて杉田の方を見ながら眼をぱちぱちやっていたが、やがてにやにや笑うと、いきなり杉田の手をにぎり、
「ああ――ああ、こにちは」
 杉田は突然「今日は」と挨拶をされて、百万の味方を得たように喜んだ。そして料理人の手をぎゅっと握ってふった。
「ああ――ああ、わたし耳、ためため、大きい声きこえる、小さい声きこえない。わたし耳、ためためあるよ」
 なんだ、この料理人は耳が遠いのか。
 杉田は、やむを得ず、号令をかけるような声で、
「きのうこの店に大きな紙包をあずけていった川上機関大尉は、どこにいられるか知らんか。皆にも聞いてくれ」
「ためため、あなた声、小さい。もっともっと大きい声するよろしいな」
「なんだ。声の大きい方じゃ、艦内でひけをとらぬのに、あれでもまだ小さいというのか」
 杉田二等水兵は、又料理人の耳に口をつけ、割れるような大声で、同じことをくりかえした。
 すると料理人は、はじめて合点合点をしてうなずき、傍ににやにや笑っている中国人ボーイに、なにか早口でたずねる様子だったが、又杉田の方を向いて、
「――川上大尉、誰も知らない。あなた、誰あるか」
「俺か。俺は大日本帝国の水兵で、杉田というんだ」
「すいへい。すきたあるか。ちょとまつよろしい」
 料理人は、またボーイと早口で話し合い、
「すいへい、すきた。なに用あるか。にっぽん軍艦出た。すいへいおる、おかしいあるよ」
「だからいっているじゃないか。川上機関大尉をさがしにひとりでやって来たんだ」
「川上大尉、誰も知らない」
「じゃあ、誰があの荷物をここへあずけていったのか。その人に会わせてくれ」
 耳の遠い料理人は、またボーイと相談をはじめた。時々杉田をじろじろ見る。やがて、料理人は、
「それでは、あの荷物もってきた人に会わせる。その代り、何かくれるよろしいな」
「何かくれろというのか」
 こんなこともあろうかと思って、杉田は腰にさげてきた巾着から、五十銭銀貨を六枚だして、料理人の掌にのせてやった。
 料理人は大よろこびで、それをボーイたちと分けあった。そしてそのうちの一人、やけに背のひょろ高いボーイを指さし、
「張、あんないする。あなた、ついてゆくよろしいな」
「そうか、案内してくれるか。それはありがたい」
 杉田二等水兵は、それをきいて、にわかに元気づいた。これでこそ、この飛行島へ来た甲斐があったというものだ。
 しかし中国人ボーイ、張は、はたして川上機関大尉の服をあずけた主を本当に知っているのであろうか。


   怪しい合宿所


 張という中国人ボーイは、杉田を手招きして、先に立った。
 杉田はその後について店を出た。張は共楽街の大通をすたすたと歩いていった。活動写真館の小屋がある。覗(のぞき)屋台がある。餅みたいなものを焼いて売っている店がある。ぴーぴーじゃんじゃんやかましい楽器を鳴らしている見世物もある。すべて昨日見物に歩いたときと同じ風景だ。その間を非番の各国人が、酒に酔って、ふらふら歩いている。
 一つの街角のようなところで、張は階下につづく階段を指さした。そして先に立ってことことと下りてゆく。
 杉田二等水兵も、それにつづいて急な階段を下って行ったが、下りてみると、そこはごみごみした住宅街といったようなところ。むっと臭気が鼻をつく。労働者の宿泊するところらしい。
「こっちへこっちへ」
 とでもいいたげに、張は指さしては、ずんずん先に立つ。一たいどこへつれてゆくのかしらないが、早く機関大尉の服を預けにきた主にあいたいものだ。その人にきけば、きっと機関大尉の消息が知れるであろう。
 すると張は、一つの扉の前に立ち停った。
「ここだ。いま呼んでみるから待て」
 と、でもいいたげな身ぶりをした。
 荒けずりの荷物箱の板を釘でうちつけたようなお粗末な扉だ。その小屋には、どういうものか、窓があいていない。入口には数字でもって、室の番号が書いてあるだけだ。うすきみがわるい。
 張が扉をことことと叩くと、扉に小さな窓があいた。その小さな窓から、人間の眼が一つのぞいた。張がその眼に向かって、なにか早口でしゃべると、窓はまた元のようにぱたりとしまった。
 しばらく待つうちに、扉がぎいと内側へ開いた。
 張は杉田二等水兵に、さあ入れと手まねで扉のうちを指さした。室のうちは真暗だ。入口に近い板の間に、胴中から壊れたウイスキーの壜が転がっている。そしてぷーんと強い酒の匂いが、杉田の鼻をついた。
(これは油断のならぬ場所だぞ)
 と、杉田は入りかけて躊躇していると、いきなり後からいやというほど前へつきとばされた。張が不意に力いっぱいつきとばしたのだ。
「あっ、――」
 という間もない。杉田はどーんと扉もろとも室内に転げこんだ。
「うーむ!」
 転げこんだ拍子に、杉田は大きな箱のようなものの角で、いやというほど向脛(むこうずね)をうちつけ、どたんと床に倒れた。
「しまった。欺(だま)しやがったな」
 杉田は痛手をこらえよろよろと起きあがると、いま入ってきた入口の扉の方へ突進した。
 扉のところには、さっきのボーイが立っていた。そのボーイの手には、いつの間にかピストルが握られていて、きらりと光った。
「近よれば、ぶっ放すぞ」
 といわんばかりである。
「うーむ、こいつが……」
 杉田二等水兵は、怒心頭(いかりしんとう)に発し、顔を朱盆のように赤くして、中国人ボーイを一撃のもとに――と思ったが、そのとき彼の後で、
「わっはっはっはっ」
 と、破鐘(われがね)のように笑う者があった。
「何者?」
 杉田が、はっとして後をふり向くと、その薄暗い室のまん中に、空箱を椅子にしてふんぞりかえっている髪の赤い大男! 腰から上は申しわけばかりのシャツをまとい、たくましい腕にはでっかい妙な入墨をしている、見るからに悪相で、一癖も二癖もあるような白人だ。
 その横には、これも眼玉の青い唇の真赤な白人の若い女が、ぺたりとくっついていて、前の卓子(テーブル)には、酒壜やコップがごちゃごちゃ並んでいた。
「野郎、おとなしくせんか。あばれると、これだぞ!」
 と、かの入墨の大男は、どこで仕入れてきたのか、流暢なべらんめえ言葉で呶鳴ると、傍(かたわら)から、長い黒いものをとって小脇にかかえた。見れば、それはアメリカでギャングの使う軽機関銃であった。
 杉田は仁王立になって、この白人を睨みつけた。
「おい、日本の水兵、川上という士官が、この飛行島へ入りこんだそうだな。なぜ入りこんだのか、白状しろ。そいつを白状すれば、このヨコハマ・ジャックさまが、手前(てめえ)の一命だけは助けてやらあ。さあ、いえ」
 ヨコハマ・ジャックとは、あだ名なのであろう。横浜にいたごろつきに違いない。
「……」
 杉田二等水兵は、かたく口をむすんで、返事をしようとはしない。彼はいまにして、さっき広珍料理店で川上機関大尉をさがしにきたわけを話したことを悔いた。とうとうこの悪漢どもに、うまく利用されてしまったのだ。
「こんなにいってやるのに、手前は返事をしないな。ようし、いわなきゃ、自分でいいたくなるようにしてやらあ。覚悟しやがれ」
 ジャックは、のっそり腰掛から立ちあがった。そして太い腕をさすりながら、杉田の前に近づいて、上から睨みおろした。仁王さまが人間を睨みつけているような形だった。
「この野郎!」
 と、ジャックは大喝一声、大きな拳固をかため杉田の頤を覘(ねら)ってがーんと猛烈なアッパー・カットを――。
「えーい!」
 同時に鋭い気合が、杉田の口をついて出た。
 懸声もろとも、杉田がけしとんだかと思うと、そうではなく、どたーんと大きな物音がして、酒壜もろとも卓子をひっくりかえしてしまったのはジャックの巨体だった。まるで爆撃機のプロペラーが廻ったように、もんどりうって、その卓子(テーブル)の上に叩きつけられたのだ。
「うーむ」
 と、大男はうなった。それまではよかったけれど、これを見て驚いたのは、室内の乱暴な白人の手下ども五六人だ。やがてわれにかえると親分の一大事とばかり、どっと杉田にとびかかってきた。
 こうなっては仕方がない。杉田も立派な帝国軍人だ。侮辱をうけて黙っていられない。腕に覚の柔道で、とびこんでくるやつを腰車にかけてなげとばし、つづいて拳固をつきだす奴の手を逆にとって背負いなげにと、阿修羅のように力戦奮闘した。が、いくら強いといってもこちらは一人、相手は大勢の命しらずの乱暴者だ。杉田はとうとう大勢に組み伏せられた上、手錠をはめられてしまった。そして傍の鉄の柱に、胴中をぐるぐる巻にされた。
「さあどうだ。よくもひどい目にあわせたな。もう手むかい出来めえ。さあ、こうしておいて、いやでも川上という士官の秘密をしゃべらせ、団長へ売りつけるんだ。はっはっはっ、手前は福の神だよ。福の神が、そんな食いつきそうな顔をするなよ」
 ジャックはにくにくしげにいい放って、いまは自由のきかない杉田二等水兵の顔をぴしりぴしりとひっぱたいた。
 杉田は歯をくいしばってじっと、こらえた。
 無念のなみだがきらりと頬をつたった。


   飛行島の大秘密


 ここ建設工事中の飛行島の最上甲板であった。
 白髪赭顔(しゃがん)の、飛行島建設団長リット少将と、もう一人、涼しそうなヘルメット帽をかぶって白麻の背広のふとった紳士とが、同じように双眼鏡を眼にあててはるか北の方の水平線を眺めている。そのうちに、リット少将は、双眼鏡から眼を放し、軽く笑って、
「どうです。ハバノフさん。とうとうなにも知らずに帰ってゆきましたよ」
「いやあ、私もひやひやしていたんだが、うまくゆきましたねえ」
 と、ハバノフと呼ばれたヘルメットの紳士も、はればれと笑った。
 二人がいましも見送った北方の水平線には、二条の煙をあげた二隻の軍艦が小さく見える。
 いうまでもなく、わが帝国海軍の練習艦隊、明石と須磨の二艦だった。
 二人の会話には、どう考えてもわが練習艦隊にたいする好意的な意味が発見されなかった。一たいどうしたわけだろう。
「さあ、ハバノフさん。明石、須磨はもう大丈夫ひっかえしてきませんよ。では船室へいって、おちついてお話をしようじゃありませんか」
「そうですね。もう大丈夫でしょうね。どうも私は日本軍人が傍へくると、火のついたダイナマイトに近づいたようで、虫がすかんですよ」
「まあ、こっちへいらっしゃい」
 リット少将は、ハバノフ氏を案内して、その最上甲板に建ててある「鋼鉄の宮殿」とよばれる大きな四角い塔のうちへ入った。
 そこはリット少将をはじめ、主だった英人技師の宿泊所であった。中は、一流のホテルのように、豪華なものだった。
 二人は、赤い絨毯をしきつめた大広間の真中に、籐椅子を向かいあわせて腰を下した。
「いかがですか、ハバノフさん。この飛行島をごらんになった上からは、貴下のお国でも日本に対してすぐさま硬い決心をしてくださるでしょうね」
「そうですねえ、――」
 とハバノフ氏は言葉を濁して、卓上の函から葉巻煙草をとって口にくわえた。
 このハバノフ氏というのは誰あろう。これぞ赤きコミンテルンの国、ソビエト連邦の密使であって、元海軍人民委員長という海軍大臣と軍令部長とを一しょにしたような要職にいた軍人であった。
「ハバノフさん。なんだか覚束(おぼつか)ない御返事ですねえ。私は貴下がすぐさまわれわれの気持に賛同してくださるものと思っていた。いや別にわれわれは、それを強いてやってくれとペコペコ頭を下げておたのみするわけではない。実は、われわれの方より、貴下のお国の方がよほど得をするわけでしてね、なにもわれわれは――」
「いや、待ってください」とハバノフ氏は煙草を指さきでふりまわしながら、
「そうおっしゃるなら、私も申しあげたいことを申しますが、実のところをいえば、私はもっと大きな期待をもってこの飛行島を見にきました。ところが残念にも、私は期待をうらぎられた。なるほど飛行島は実に大きいです。大きいのには驚きました。しかしこれが軍事上の値うちはどうかというと、あまり大したことはない。なにもかも申しますが、こんな飛行島を一つ、シンガポールと香港との中間の海上につくってみても、一たいどれ位の値うちがありますか。それは、前進にも中継にも、いい根拠地になります。しかし日本軍の爆撃隊は実に勇敢ですぞ。やろうと思えば、こんな飛行島一つぶっつぶすのは訳はない」
 それを聞くと、リット少将は、
「あっはっはっはっ」
 とさもおかしいというように、天井を向いて笑いだした。
「リット閣下、なにがおかしいのです。日本軍の爆撃隊が弱いとお思いですか。日中戦争において、英国艦艇は日本軍の作戦を大いに邪魔をした。あれは日本軍をみくびってであろうが、日本軍はそんなに弱くない。――」
「あっはっはっはっ」とリット少将はなおも腹をかかえて笑いつづけたが、そこで急に真面目な顔つきになって、
「いやたいへん失礼しました。笑うつもりじゃなかったが、どうもつい笑っちまった。そのわけは、すぐ分かります。ねえハバノフさん。貴下――や、貴下のお国では、この飛行島を一たいなんだと思っているのですか」
「えっ。それは分かっているじゃありませんか。飛行島というのは海中に作った飛行機の発着場なんでしょう。それにちがいありますまい」
「大きに、そのとおりです。誰でもそう思いますよ。日本の練習艦隊も、そう思って帰っていった。ところがです。わが飛行島は、そんな生やさしいものではない」
 そういってリット少将は、にやりと人のわるい笑を口辺にうかべた。
「ええっ、するとこの飛行島は、なんです」
「ねえハバノフさん。驚いてはいけませんよ。この飛行島は、ぼんやりこの地点に根をはやしているのではない。時速三十五ノットでもって移動ができるのですよ」
「なに、飛行島が三十五ノットで走る」
 ハバノフ氏は、おどろきの眼をみはった。


   世界の大陰謀


「こんなに大きな飛行島が三十五ノットで走るなんて、そんなばかなことがあるものですか。三十五ノットといえば、大型駆逐艦か甲級巡洋艦の速力だ」
 と、ハバノフ氏は信用しない。
「いや、ところがちゃんと三十五ノットで移動できるのです。日本海軍の一万噸(トン)巡洋艦でも追駈けることができますよ。――いや、まだ驚くことがある。これは極秘中の極秘であるが、この飛行島には最新式のハンドレー・ページ超重爆撃機――そいつは四千馬力で、十五噸(トン)の爆弾を積めるが、その超重爆撃機を八十機積むことになっている。だからこの飛行島は、見かけどおりの飛行島ではなく、世界最大の航空母艦なんです。どうです、これで驚きませんか」
「ほほう、それは初耳だ。――でもまさか超重爆がこの短い飛行島甲板から飛びだすとは、常識上考えられませんよ」
「それは御心配には及ばん。飛行甲板は、戦車の無限軌道式になっていて、猛烈なスピードでもって飛行機の飛びだす方向と逆に動くのです。だから飛行甲板を走りきるまでには、甲板の長さの幾層倍かの長い滑走路を走ったと同じことになる。これだけ申せばもうお分かりのとおり、どんな重い重爆だって楽にとびだせますよ。どうです。驚いたでしょう、ハバノフさん」
 ハバノフは、上着のポケットからハンカチをだして、しきりに額の汗をぬぐっている。
 飛行島が、実は世界最大の超航空母艦だということがやっとのみこめて、肚の底からびっくりしているのであった。なんというたいへんなものを造った英国海軍であろう。
「まだ驚かすことがあるんだが、そいつはまあいずれ後のことにしましょう」
「えっ、まだ驚くことがあるんですか」
「あっはっはっはっ。この飛行島一隻がありさえすれば、極東のライオンも、だまってひっこむより仕方がないでしょう」と暗に、日本を押しかえす力があることをほのめかし、
「しかしこんな恐しい超航空母艦であることは、当分のうち絶対秘密にしておかねばなりません。もしも日本に知れるようなことがあれば、あの東洋の無茶者は、どんな乱暴をはたらくかしれない。だからこの飛行島では、ただ一人の日本人も使っていない。ハバノフさん。貴下にうちあけたこの飛行島の秘密は、大したお土産でしょう。さあ、今こそ貴下の国は、私の国と手を握るときです。そして日本をおさえつけなければならん」
 そういってリット少将は、ハバノフ氏の耳許に口をもってゆくと、なにか小声でささやいた。それを聞いていたハバノフの顔色が、緊張のために紙のように白くなった。
「おおリット閣下。ここで私の決心もきまりました。スターリン議長にたいし、出来るだけの説明をしましょう」
「いや、ぜひわれわれの軍事同盟をつくりあげねばなりません。ねえ、お互にユダヤ人の血をひいている兄弟ではありませんか。われわれユダヤ人は、ソ連においても、わが大英帝国においても、また米国においても、銀行をひとり占にしている。その大きな金の力によって、政治を動かすこともできるし、新聞や映画などでわれわれの敵をやっつけることもできるし、もちろん軍隊を動かして戦争をさせることもできる。ユダヤ人の国というのはないが、われわれは世界の大国のうしろに隠れていて、それをあやつることができるんだ。一つ握手して、まず第一に東洋においてわれわれに反対する日本をぶっつぶさなければなりません」
 恐るべき反日の言葉が、ユダヤ系の英国人のリット少将の口から洩れた。
「そうです。日本はわれらの国ソ連にとっても大敵です。日本はコミンテルンの敵です。一昨年から、コミンテルンの大会において、日本をぶっつぶすことを決議し、そのために中国をまず赤化してかかろうとしたのです。日本は建国以来二千六百年になり、万世一系の天皇をいただいているので、なかなか亡ぼすのに骨が折れます。それでも数年前までは、われわれの計画がうまくいって、国内には議論がわかれたり、国民がへんな歌をうたったり、妙な服や化粧に夢中になったりして、ぐにゃぐにゃになっていたんだが、近頃になって日中戦争が起ったり、ドイツやイタリヤなどと防共協定を結ぶようになってからは、生れかわったような強い国民になった。だから、私は日本という国は、実に恐しい国だと思う。日本をやっつけるために、われわれはもっともっと空軍を強くし、戦車や潜水艦をうんと造り、また日本国民の心がぐにゃぐにゃになるような宣伝や、それからだらしのない遊びなどを日本に流行らせなければならん――とまあ、そんな風に考えでいるのです」
 ハバノフ氏はそういって、大きな口を結んだ。
 ここ南シナ海の真只中の飛行島において、語るは英国人リット少将とソ連人ハバノフ氏であった。
 恐るべきユダヤ人の大陰謀ではないか。
 ああわが東洋の君主国日本には、誰一人、この大陰謀を知る者はないのであろうか。
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