幽霊船の秘密
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著者名:海野十三 

 船艙の隅に、小牛ほどもあろうという大きな黒豹が、見事に額を撃ちぬかれて、ぐたりと長くのびていた。
「ああ、もうすこしで、こいつに喰われてしまうところだった」
「貝谷。お前の腕前には、感心したよ。いや、感心したばかりではない。危いところで生命を助けてもらったことを感謝するぞ。だが――」
 と、いって、局長は大きな呼吸をして、
「おい貝谷。これで幽霊船の秘密が解けたではないか」
「えっ、幽霊船の秘密だといいますと……」
「ほら、甲板だの船橋(ブリッジ)だのに、人骨がちらばっていたことさ。つまりこの幽霊船には、檻(おり)を破った猛獣が暴れていたんだ。そして船員を片っ端から喰いあらしていたのにちがいない」
「ああ、なるほど。猛獣だから、人間の肉をすっかり綺麗に喰べつくし、骨だけ残していたというわけですか。そうかもしれませんねえ」
 といったが、雨の甲板や船橋のうえについていた大きな丸味のある血痕(けっこん)は、この黒豹の足跡だったと、今にして二人は思いあたったことである。全く恐ろしいことだ。航海中の汽船の中に、猛獣が暴れだして、船員を喰べた。大海に漂う船の中だから、逃げだすこともどうすることもできなかったのであろう。
「ねえ局長。船内をあらしまわって人間を喰った黒豹というのは、いま撃ちとめたこの一頭だけでしょうか」
「さあ、どうだか」と局長はいったが、「どうも一頭だけとは考えられないね。なにしろ、あのとおり人骨が散らばっているところをみても、この一頭だけの仕業だとは考えられないよ」
「じゃあ、外の奴を警戒しなければなりませんね」
「そうだ、どっかその辺に潜んでいる奴があるかもしれない」
 そういっているとき、甲板の方とおもわれる見当で、とつぜん、うわーっと誰かの悲鳴!
「あっ、誰かが……」
「うむ、猛獣が出たのかもしれない。すぐいってやろう。貝谷、続け!」
 古谷局長は、短剣を手に、船艙から甲板へ通じる階段をまっしぐらに駈けあがる。


   心細い弾丸(たま)


 甲板へ出てみると、そこには想像した以上の、たいへんな光景が展開していた。古谷局長のつれてきた二号艇の連中が、檣(マスト)の上に鈴なりになって、しきりに下を向いて喚(わめ)いている。
「あっ、局長。いますいます、猛獣が五六頭います」
「えっ、どこにいる?」
 と、いっているところへ、うおーっと一声呻り声をあげて近づいてきた一頭のライオン。
「あっ、危い!」という間もなく、ライオンは局長と貝谷の上をとびこえて、檣の下へ――。
 そこには、さっきから五六頭のライオンが入りみだれて、檣にのぼっている和島丸の船員をしきりに狙っている。
「うーむ、これは困った。銃一挺では、どうすることもできない」
 と、古谷局長は嘆声(たんせい)を発した。
「でも局長。あと弾丸は五発ありますから、弾丸のあるだけ撃ってみましょう」
 貝谷は、もう覚悟をきめていた。
「待て! 五発の弾丸を撃ったあとを考えると、そう簡単に撃つわけにいかないぞ。弾丸がなくなれば、われわれもまた、この汽船の乗組員と同じ運命に陥(おちい)って、猛獣に喰われて白骨になるではないか。撃つのはしばらく待て!」
 猛獣は、ものすごい声をあげて咆哮(ほうこう)する。どれもこれも、腹がへっているらしい。この咆哮につれて、檣の下には刻々と猛獣の数が殖(ふ)えてゆく。(ふーん、一体この船には何十頭の猛獣がいるのかしら)と貝谷が、溜息とともに呟いた。檣の下には、今や少くとも九頭か十頭のライオンと豹(ひょう)が集っている。和島丸の船員たちは、檣の上にしがみついたまま生きた色もない。
 貝谷は、積みあげたロップの蔭から、猛獣の動静をじっと見守っている。
 その後で、古谷局長は、しきりに智慧をしぼっていたようであったが、「そうだ、いいことがある!」と叫んで、貝谷の肩を叩いた。
「とにかく、このままでは、猛獣の餌食(えじき)になるばかりだ。おい、貝谷。おれはこれから、船内へ入って、銃かピストルかを探(さが)してくるから、お前はここで頑張っていてくれ」
「なんですって、局長。あなたひとりで船内へ入っては危い!」
「だが、こうなっては、自分の身の危険など考えてはいられない。隊員全体の生命が危いのだから……。後を頼むぞ」というや、局長は走り去った。
 それからのち、僅か二十分ぐらいの間のことだったが、貝谷は、二日三日もたったように思った。ところが、正味二十分たって、局長は息せききって、貝谷の待っているところへかえってきた。
「あっ、局長。どうでした」貝谷は、あいかわらず、猛獣への監視をおこたらず、その方へ顔をむけたままの姿勢でたずねた。
「うむ、あったぞ。このとおりだ」局長は、うれしそうに、貝谷の鼻のさきへ、三挺のピストルと二挺の銃とをさしだした。
「まだ銃はある。弾丸もうんとある。さあこれで、あの猛獣どもを追っ払うのだ」
 局長は、さっきとは別人のように元気になっていた。
 そこで局長と貝谷とは、一、二、三の号令とともに、積みあげたロップに銃をのせて、勢いよく撃ちだした。だだーん、どどーん。ものすごい銃声だ。そしてたいへんいい当りだ。そうでもあろう。相手は大勢、当らないのがおかしいくらいだ。


   船内捜査(そうさ)


 こうして、四五頭のライオンと豹とが、またたく間に、斃(たお)されてしまった。残りの猛獣は、びっくりして、その場をにげだして、向うへいってしまった。それを見すまして、檣(マスト)のうえに避難していた連中は、どどっと下りた。一同は、わっと喊声(かんせい)をあげて、古谷局長と貝谷の隠れているところへ、駈けこんできた。
「ありがとう、ありがとう」
「そんな挨拶はあとだ。さあ早くこの銃を持て。そしてもう一度船内へひっかえして、持てるだけ、銃だの弾丸(たま)だのを持て」
 一行は忽(たちま)ち武装してしまった上に、更に多数の銃や弾丸を手に入れた。
「さあ、いよいよ猛獣狩といくか」
「待て待て。皆がいくまでのこともなかろう。ここからこっち半分は猛獣狩にいくとして、あとの半分は船内捜索をやるから、俺についてこい」
 局長は貝谷を副長と決め、あと三人ばかりの船員を指名し、さっきに引続いて、船内を探すことになった。古谷局長の胸中には、前からたえず気になっていることがあったのである。それは、和島丸が航行中、受取ったあの怪しい無電のことである。
 この幽霊船が、果してあの無電をうったのであるか。また魚雷も、この幽霊船の仕業であるか。もしそうだとしたら、なぜ和島丸は撃沈されなければならなかったか。更に幽霊船との関係も明らかにされなければならなかった。それとともに、死んだものと思われる無電技士丸尾の先途も見届けたいものであると思っていた。これ等のことがはっきりしないうちは、幽霊船の謎を十分解いたとはいえないのだ。和島丸の遭難事件の原因をたしかに突きとめたとはいえないのである。古谷局長と貝谷とは、まず無電室へはいってみた。ここにも人影はなし、室内には器械がひっくりかえり、書類がとびちっている。
「この部屋も、ずいぶん、ひどいですねえ」と、貝谷は眉(まゆ)をひそめた。
「うんひどすぎる」局長は、ちらばっている書類をしきりに拾いだした。
「なにを探しているんですか」
「無電を打ったその記録書を探しているのさ。はたして例のSOS信号をうったのが、この幽霊船か、どうかをしらべておく必要があるのだ」
 古谷局長は、まもなく数十枚の貴重な記録書を拾いあげた。
「これだけ集ったが、SOS信号のものは一枚もない。そればかりか、この汽船は、今日でもう二十日間も一本の無電も打っていないのだ」
「二十日間も、一本の無電も打っていないというと……」
「つまり、無電技士がこの部屋からいなくなってからこっち、もう二十日になるのだ。すると、この汽船内に大事件が突発してから二十日間は経ったという勘定になる」
「無電技士も、やっぱり猛獣に喰われてしまったというわけですかね」
 古谷局長は、顔こそ知らないが、自分と同じ職にあったこの汽船の無電技士の哀れにも恐ろしい運命に対して、深く同情した。
「局長、あれをごらんなさい。赤い豆電灯が点(つ)いたり消えたりしています」
「どれ、どこだ」
 と、局長はびっくりして貝谷の指す方をみた。壊れて床に倒れている器械の配電盤の上に、赤い監視灯が点(つ)いたり消えたりしているではないか。
「おやッ、この汽船には、まだ誰か生きている者があるんだな」


   意外な生存者


 古谷局長は、貝谷をうながし、扉をうちやぶって船内へはいった。船内は、暗かった。
「おい、中にはいっている奴、こっちへ出てこい!」
 古谷局長は、英語でどなった。洞(ほこら)のような船内に、こえは、がーんと、ひびきわたる。
 中からは、返事がなかった。
「出てこなければ、撃つぞ。――もうあきらめて、降参しろ!」
 局長は、もう一度、どなった。しかし、中からは、だれもでてくるものがなかった。
「おかしいじゃないか、貝谷」と、局長は、貝谷をかえりみていった。
「そうですなあ」と、貝谷は思案をしていたが、
「じゃあ、私がどなってみましょう」そういって貝谷は、大音声(だいおんじょう)をあげ、
「こら、いのちが惜しければ、出てこいというんだ。出てこなければ、鉄砲をぶっぱなすぞ!」
「おいおい貝谷。日本語が、外国人にわかるものか」
「いや、私は大きな声を出すときには、日本語でなくちゃあ、だめなんです」
 そういっているとき、暗(くら)がりの向うから、わーッと、とびだしてきたものがあった。
「ほら、出てきやがった!」
 と局長以下の隊員は、銃をかまえた。怪しい奴なら、ただ一発のもとに撃ちとめるつもりだ。
「おお古谷局長!」暗がりからとびだしてきた相手は、意外にも、日本語で叫んだ。
「だ、だれだッ」
「丸尾です!」
「えっ、丸尾?」
 ぼろぼろのズボンをはいて現れた人間。それはやつれ果(はて)てはいるが、丸尾技士だった。
「おお、丸尾だ。丸尾の幽霊だ。お前は、浮かばれないと見えるな」と、貝谷は叫んだ。
「幽霊? ばかをいうな。おれは、ちゃんと生きているぞ。生きている丸尾だ」
「ははあ、幽霊ではなかったかな、なるほど」
 貝谷は、丸尾の身体を、気味わるげにさわってみて、感心したり、よろこんだり。
「丸尾、よく生きていた。わしは、漂流していると無人のボートの中でお前の片手を拾ったんだ。その手は、お前の書いた手紙を握っていた。だから、お前は、てっきり死んでしまったものと思って、あきらめていた。本当に、よく生きていたね。一体、これはどうしたのか」
「いや、これには、たいへんな話があるのです。しかし、猛獣は、どうしました。ライオンだの豹だのが、この船には、たくさんいるのです」
「それはもう皆、やっつけてしまった」
「えっ、やっつけてしまった。本当ですか。じゃ安心していいですね。ああ、よかった」
 と丸尾は胸をとんとんと叩いた。
「猛獣狩は、もうすんだから、心配なしだ。それよりも、お前の方の話というのは……」
「ああ、そのことです。和島丸の同僚が、三名、いるのです。それから、この汽船ボルク号の生き残り船員が七八名いますが、こいつらは、かなり重態です」
「ほう、ボルク号。この汽船は、ボルク号というのか。どこの船か」
「ノールウェイ船です」
「うん、話をききたいけれど、それより前に、和島丸の仲間をよんできてやれ。心配しているだろう。私もよく顔をみたい。一体だれが生きのこっているのか」
「はい、矢島(やじま)に、川崎(かわさき)に、そして藤原(ふじわら)です」
「ほう、そうか。よくいってやれ。そして、あとでゆっくり、話をきこう」
 と、古谷局長がいえば、丸尾は、大ごえをあげながら、元の暗がりへ、とびこんでいった。
 かたく閉された船内からは、幽霊が出てくるか、それとも猛獣がとびだしてくるかと思われたのに、その予想をうらぎって、思いがけなくも、丸尾たち生存者を発見して、古谷局長以下は、たいへんなよろこびかただった。
 早速、貝谷を上甲板へやって、海上に監視をつづけている佐伯船長にしらせることにした。貝谷は、銃をひっかついで、上甲板へ、かけのぼった。
「おい、おーい」貝谷は、ボートをよんだ。
「おーい、どうした?」ボートからは、待っていましたとばかり、直ちに応(こた)えがあった。
「すばらしい発見だ。和島丸の船員が、このボルク号の中にいた。人喰(ひとく)い獣(じゅう)は、もう全部やっつけた!」と、貝谷は、旗のない手旗信号で、おどろくべきニュースを知らせた。
 ボートの中でも、よほどおどろいたものと見え、両手をあげてよろこびの万歳であった。これから、しばらくは、貝谷とボートとの間に、しきりに信号が交換された。そして佐伯船長の乗ったボートは、ボルク号の方に、漕ぎよせてきた。
「奇蹟だ。信ずべからざる奇蹟だ」佐伯船長は、つぶやきながら、タラップをのぼって来た。
「おお、丸尾か。よく生きていたのう。おう、矢島も川崎も藤原も、よくまあ無事でいたなあ」
 そこで、船長と生残りの船員とは、ひしと抱きあって、よろこびの涙を流したのであった。
「船長、丸尾の話によって、なにもかも、すっかり分りましたぜ」
「なにもかもというと、この幽霊船のことかね」
「船のことはもちろん、例の怪しいSOSの無電信号のことまで、大体分りました」
「ほほう、あのことまで、分ったか」
「丸尾、船長に、今の話をもう一度報告しなさい」
「はい」と、丸尾は船長の前に、姿勢を正して、語りはじめたのであった。
「まず、私たちの冒険から、申し上げなければなりません。私たちのボートは、暗夜を漂流中、この幽霊船の横に、吸いつけられてしまったのです。ちょっとおどろきましたが、なにしろこのとおりのりっぱな船体をもっているので、恐ろしさもわすれて、私たち六七人で、タラップ伝いに甲板へ上りました。ところが、どこからともなく、異様な唸(うな)りごえをきいたかと思うと、いきなり暗(やみ)の中から、大きな獣がとびだしてきたのには、胆(きも)をつぶしました。私たちは、死にもの狂いで、獣とたたかいました。しかしこっちは、もうさんざんつかれ切っているところだし、獣の方は腹が減っているものとみえ、ますますあれ狂って、とびついてくるのでした。そのうちに、獣の数は、ますます殖(ふ)えてきました。そしてとうとう仲間の一人――木谷(きたに)が、やられてしまったのです。すると獣は、たおれた木谷にとびついていきました。木谷を助けようと思ったのですが、とても駄目でした。そのときの恐ろしい光景は、今も眼の前に、はっきり見えるようです」
 と、丸尾はちょっと言葉を切って、身を慄(ふる)わせた。
「……木谷が野獣にやっつけられたとき、私たちは、わずかの隙(すき)を見出(みいだ)したのです。“今だ、今のうちに安全なところへ避難しなければ……”というので、私たちは、夢中で、船橋へ駈けのぼりました。ところが、ここも駄目だということがわかりました。人間の臭(にお)いをしたって、獣は、後をおいかけて来たのです。私たちは、扉をおさえ、必死になって防戦しました。しかし、硝子戸(ガラスど)がこわされ、そこから黒豹らしいものがとびこんできたときには、もう駄目だと思いました。誰かが、悲鳴をあげました。残念だったのです。私たちは、卑怯なようだが、もうどうすることも出来なくて、船橋を逃げだしました。それから、一同、ばらばらになってしまいましたが、そのとき私の書いた報告文をもって、ボートへ戻ったはずの三鷹(みたか)とも、それっきり会いません。そのうちに、私は通風筒(つうふうとう)の前に出ました。私は不図(ふと)思いついて、その中に、もぐりこみました。それが私の幸運だったのです。生命びろいをしたのは、通風筒へもぐりこんだおかげです」
 丸尾の額から、汗が、ぽたぽたと頬をつたわって、流れた。
「私は、通風筒の格子(こうし)をやぶりました。そして、その中をどこまでも奥へはいこんでいったのです。どのくらいそこにいたか、よく覚えていませんが、とにかくかなり永い間を経(へ)て、私は、いきなり船室へひょっこり、顔を出したのです。つまり、船内に開いている別の通風筒の端へ出たのです。私は、やれやれと思いました。ところが、船内も、安心というわけにいかないことが、だんだんと分ってきました。猛獣は、船内にも、うろうろしているのです。私は、廊下へとびだしては、獣に追いかけられました。そのたびに、私は、もっと防衛に都合のよい部屋へいかねば安心できないと思ったのです。そして、とうとう辿(たど)りついたところは、機関室の中でありました」
「ああ、なるほど。君がとびだしてきたのは、機関室の入口だったね」と、古谷局長がいった。
「そうです。あそこは、機関室へ通ずる廊下の出口だったのです。機関室へとびこんでみると、私は、そこに思いがけない、このボルク号の生残りの船員を七名、発見しました。彼等は、負傷と空腹とで、いずれもひどく弱っていました。そうでしょう。彼等は、この機関室へもぐりこんだばかりに、野獣に喰われる生命を助かったのです。しかし、その代り、食料品を取りにいくことも出来ず、もし出れば、すぐさま眼を光らせ鼻をうごめかせている獣に飛びつかれるものですから、やむを得ず、ここに空(す)き腹(ばら)を抱えて、我慢をしていたのです。そのうちに、すっかり疲労と衰弱とが来てしまって、もう一歩もたてなくなったといいます。何しろもうあれから、三週間近くになるそうですからね」
「三週間。そうだろう。その位になるはずだ。無電日記を見て、私は知っている」
 と、古谷局長は、いった。
「一体、どうしてこのボルク号の中に、猛獣があばれだしたのかね」
 船長は、不審でたまらないという顔で、丸尾にたずねた。


   新船長


 丸尾は話をつづける。
「そのことです。私は、ボルク号の船員にたずねて、はじめて事情を知ったのです。この汽船は、ノールウェイに国籍があるのですが、アフリカで、たくさんの猛獣を仕入れ、これから南米に寄港して、本国にかえるところだったんだそうです。アフリカと南米では、かなりたくさんの金属材料や食料品をつむことになっていたそうですが、これらは、どうやら、ドイツへ入るものだと知れていました。ところで、この船に、イギリスのスパイと思われる一組の客が乗っていたのです。船が、南米へ向う途中、そのスパイどもは、下級船員に金をやって、猛獣の檻をやぶらせたのです。はじめは、一さわがせやるだけのつもりのところ、その結果、とんでもないことが起りました。猛獣は、人間の血を味わうと、たいへんに、いきり立ったのです。そして、檻の中におとなしくしていた猛獣たちも、ついには檻を破って一しょにあばれだしたのです。全く手がつけられなくなりました。殊に、猛獣対人間の最初の戦闘において、かなり腕ぷしのつよい連中がやられ、高級船員も相当たおれ、それからボートを出して船を捨てて逃げだすなど、たいへんなさわぎになったそうです。しかも運わるく、そこへ台風がやってくるし、さんざんの目にあって、ついにこの汽船の中には、機関室に閉(と)じこもった少数の乗組員の外には、誰もいなくなったのです」
「なるほど、そうかね。聞けば聞くほど、たいへんな事情だなあ」
「ボルク号の船員をいたわっているところへ、どこからはいこんできたのか、矢島がはじめに、機関室へ辿(たど)りつき、ついで、川崎と藤原とが一緒に、とびこんできました。そして機関室には、にわかに人が殖えたのです。それだけに、食うものに困ってしまいました」
「そうであろう」と船長は、同情の眼で、丸尾たちを見まもって、
「ところで、あのSOSの筏(いかだ)は、何者が仕掛けたのかね。あの黒いリボンのついた花環をつけて筏にのって流れていた無電機のことさ」
「ああ、あれですか。あれは、どうもよくわからないのです」
 と、丸尾は、首をふった。するとそのとき、古谷局長が、
「船長、あれについて、私は一つの考えをもっているのですが……」
「そうかね、どういう考えか」
「あれは、わが和島丸を雷撃した怪潜水艦がつかった囮(おとり)だと思います」
「それは至極同感(しごくどうかん)だね」と、船長は、賛意を表しました。
「その怪潜水艦は、ボルク号を狙っていたのだと、私は想像しています」
「え、ボルク号を……」
「そうです。ボルク号が、その附近を通りかかるのを狙っていたところ、その前にボルク号は、あの猛獣さわぎをひきおこしたわけです。そしてボルク号の機関は停るわ、折からの台風に翻弄(ほんろう)されたわけで、幽霊船とばけてしまい、怪潜水艦が仕掛けたあの怪電もボルク号には伝わらず、かえって、わが和島丸がその怪無電を傍受して、現場(げんじょう)にかけつけたためボルク号に代って、こっちが魚雷を喰ったというわけではないかと考えますが、いかがでしょう」
 古谷局長は、なかなか面白い説をはいた。
「なるほどねえ、それはなかなか名説だ。いや、全く、古谷君のいうとおりかもしれない。すると、われわれは、とんだ貧乏くじを背負いこんだわけだね」
 船長は、一同の顔を、ぐるっと見まわした。そのとき貝谷が、口を出した。
「船長。その怪潜水艦というのは、どこの国の潜水艦なんでしょうか」
「さあ、わからないね」
「イギリスの潜水艦じゃないですかな。アメリカを参戦させようというので、わざと南太平洋などで、あばれてみせたのではないでしょうか」
「それは、なんとも、いえない」と船長は自重して唇をとじた。
「私は、どこかで、その潜水艦をみつけてやりたい。そして、大いに恨(うら)みをいってやらなきゃ、気がすまない。いや、こうしているうちに、今にも、怪潜水艦は、附近の海面に浮び上がってくるかもしれないぞ」
「貝谷。お前は、その潜水艦に、ついにめぐりあえないかもしれない」
「え、なぜですか、古谷局長」
「私は、この船をしらべているうちに、こういう考えが出た。それは、かの怪潜水艦はわれわれの和島丸を沈没させた前後に、かの潜水艦も沈没したのだと想像している」
「局長。君はなかなか想像力がつよい。しかしまさかね」
「いや、船長、このボルク号の艦首は、ひどく壊(こわ)れているのです。舳(へさき)のところに何物かをぶっつけた痕(きず)があります。私は、怪潜水艦が和島丸を沈没させたのち、海面にうきあがって、面白そうにこっちの遭難ぶりを見物しているとき、いきなり横合(よこあい)から、機関の停っているこのボルク号が、音もなく潜水艦のうえにのりあげた――と、考えているのです。そんなことがあれば、潜水艦は直ちに沈没してしまいます。ボルク号の舳は、そのときに、大破したのではないでしょうか。なにしろ、その後、一度も怪潜水艦の姿は、現われないのですからねえ」
「なるほど。たしかに一つの答案になっているねえ」と、佐伯船長は、微笑した。
「さあ、そこで、われわれは、このボルク号の無電(むでん)を借りて、救援信号を打つことにしよう。それから、燐(りん)で青く光る甲板(かんぱん)も、しばらくこのままにして置こう。そうでもしなければ、誰もこの大事件のあったことを信用しないだろうからね」
 佐伯船長は、いつの間にか、ボルク号の船長として、生残りの船員にきびきびした命令を下しはじめたのであった。




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