崩れる鬼影
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著者名:海野十三 

 老婦人は黙って肯(うなず)きました。
「いや、それですこし判って来たぞ」
「どう判ったの、兄さん」
「まア待て――」
 兄はそれから庭へ下りてゆきました。警官たちは例の池のところに、何か協議を開いていました。私は兄を紹介する役目になりました。
「いや皆さん、私まで御心配かけまして」と兄は挨拶(あいさつ)をしました。「ときに警官の方が一人見えないそうですね」
「黒田という者ですがネ。これ御覧なさい。この足跡がそうなんですが、黒田君は途中で突然身体が消えてしまったことになるので、今皆(みんな)と智慧を絞(しぼ)っているのですが、どうにも考えがつきません」
「突然身体が消えるというのは可笑(おか)しいですネ。見えなくなることがあったとしても足跡は見えなくならんでしょう。矢張り泥の上についていなければならんと思いますがネ」
「それもそうですネ」
「僕の考えでは、黒田さんは、私を襲ったと同じ怪物に、いきなり掠(さら)われたんだと思いますよ。あの怪物が、追っかけた黒田さんの身体を掴(つかま)え、空中へ攫(さら)いあげたのでしょう。黒田さんの身体は宙に浮いた瞬間、足跡は泥の上につかなくなったわけです。それで理窟(りくつ)はつくと思います」
「なるほど、黒田君が空中にまきあげられたとすればそうなりますネ。しかし可笑しいじゃないですか」と警部はちょっと言葉を停めてから「それだと黒田君の足跡のある近所に怪物の足跡も一緒に残っていなければならんと思いますがネ」
「さあそれは今のところ僕にも判らないんです」と兄は頭を左右に振りました。
 そのとき家の方にいた警官が一人、バタバタと駈け出してきました。
「警部どの、警部どの」
「おお、ここだッ。どうした」
 ソレッというので、先程の異変に懲(こ)りている警官隊は、集まって来ました。
「いま本署に事件を報告いたしました。ところが、その報告が終るか終らないうちに、今度は本署の方から、怪事件が突発したから、警部どの始め皆に、なるべくこっちへ救援(きゅうえん)に帰って呉(く)れとの署長どのの御命令です」
「はて、怪事件て何だい」
「深夜の小田原(おだわら)に怪人が二人現れたそうです。そいつが乱暴にも寝静まっている小田原の町家(ちょうか)を、一軒一軒ぶっこわして歩いているそうです」
「抑えればいいじゃないか」
「ところがこの怪人は、とても力があるのです。十人や二十人の警官隊が向っていっても駄目なんです。鉄の扉(ドア)でもコンクリートの壁でもドンドン打ち抜いてゆくのです。そして盛んに何か探しているらしいが見付からない様子だそうで、このままにして置くと、小田原町は全滅の外(ほか)ありません。直ぐ救援に帰れということです」
「その怪人の服装は?」
「それが一人は警官の帽子を着た老人です。もう一人は白い手術着のような上に剣をつった男で、何だか見たような人間だと云ってます。異様(いよう)な扮装(いでたち)です」
「なに異様な扮装。そして今度は顔もついているのだナ」
「失礼ですが」と兄が口を挟(はさ)みました。「どうやら行方不明の谷村博士と黒田警官の服装に似ているところもありますネ」
「そうです。そうだそうだ」警部は忽(たちま)ち赤くなって叫びました。「じゃ現場へ急行だ。三人の監視員の外(ほか)、皆出発だ。帆村さん、貴方も是非(ぜひ)来て下さい」
 ああ、変な二人の怪人は、小田原の町で一体何を始めたのでしょう。例の化物はどこへ行ったでしょう。奇怪なる謎は解けかけたようで、まだ解けません。


   重大な手懸(てがか)り


「帆村さん、身体の方は大丈夫ですか」
 警官隊の隊長白木警部はそういって私の兄を優しくいたわってくれました。
「ありがとう。だんだんと元気が出てきました。僕も連れてっていただきますから、どうぞ」
「どうぞとはこっちの言うことです。貴方(あなた)がいて下さるので、こんなひどい事件に遭(あ)っても私達は非常に気強くやっていますよ」
 そこで私達も白木警部と同じ自動車の一隅(いちぐう)に乗りました。私達の自動車は先頭から二番目です。警笛(けいてき)を音高くあたりの谷間に響(ひび)かせながら、曲り曲った路面の上を、いとももどかしげに、疾走(しっそう)を始めました。
「兄さん」と私は荘六(そうろく)の脇腹(わきばら)をつつきました。
「なんだい、民ちゃん」と兄は久しぶりに私の名を呼んでくれました。
「早く夜が明けるといいね」
「どうしてサ」
「夜が明けると、谷村博士のお邸(やしき)にいた化物どもは、皆どこかへ行ってしまうでしょう」
「さア、そううまくは行かないだろう。あの化物は、あたりまえの化物とは違うからネ」
「あたりまえの化物じゃないというと……」
「あれは本当に生きているのだよ。たしかに生物(せいぶつ)だ。人間によく似た生物だ。陽(ひ)の光なんか、恐(おそ)れはしないだろう」
「すると、生物(いきもの)だというのは、確かに本当なんだネ、兄さん。人間によく似たというとあれは人間じゃないの」
「人間ではない。人間はあんなに身体が透(す)きとおるなんてことがないし、それから身体がクニャクニャで大きくなったり小さくなったり出来るものか。また足を地面につかないで力を出すなんておかしいよ。とにかく地球の上に棲(す)んでいる生物に、あんな不思議なものはいない筈(はず)だ」
「じゃ、もしや火星からやって来た生物じゃないかしら」
「さアそれは今のところ何とも云えない。これぞという証拠(しょうこ)が一つも手に入っていないのだからネ」
 そういって兄は首を左右にふりました。そのとき私の頭脳の中に、不図(ふと)浮(うか)び出たものがありました。
「あッ、そうだ。その証拠になるものが一つあるんですよ」
「えッ。何だって?」
「証拠ですよ」と云いながら私は大事にしまってあった手帛(ハンカチ)の包みをとり出しました。「これを見て下さい。兄さんが気を失った室の硝子(ガラス)窓のところで発見したのですよ。硝子の壊(こわ)れた縁(ふち)に引懸(ひっか)かっていたのですよ。ほらほら……」
 そういって私は、あの白い毛のようなものを取り出して兄に見せると共に、発見当時の一伍一什(いちぶしじゅう)を手短かに語りました。
「ふふーン」兄は大きい歎息(ためいき)をついて、白木警部のさし出す懐中電灯の下に、その得態(えたい)の知れない白毛(しらげ)に見入りました。
「一体なんです。化物が落していったとすると、化物の何です。頭に生えていた白毛ですか」
「イヤそんなものじゃありません。――これはいいものが手に入りました。御覧なさい。これは毛のようで毛ではありません。むしろセルロイドに似ています。しかしセルロイドと違って、こんなによく撓(たわ)みます。しかも非常に硬(かた)い。こんなに硬くて、こんなによく撓むということは面白いことです。覚えていらっしゃるでしょうネ。あの化物の身体は、自由に伸(の)び縮(ちぢ)みをするということ、そして透明だということ、――これがあの化物の皮膚の一部なのです」
「皮膚の一部ですって!」
「そうです。化物が硝子(ガラス)窓を破って外へ飛びだしたときに、剃刀(かみそり)よりも鋭い角のついた硝子(ガラス)の破片(はへん)でわれとわが皮膚を傷つけたのです。そして剥(む)けた皮膚の一部がこの白毛(しらげ)みたいなものなのです。いやこれは中々面白いことになってきましたよ」
 兄はひとりで悦(えつ)に浸(ひた)っていました。


   化物追跡戦(ばけものついせきせん)


「とにかく此(こ)の白毛みたいなものを早速(さっそく)東京へ送って分析して貰うことにしましょう。分析して貰えば、これが地球上に既に発見されているものか、それとも他のものか、きっと見分けがつくと思いますよ」
「なるほど、なるほど。いいですね」と白木警部は大きく肯(うなず)きました。
 そのとき先頭に駆(はし)っている自動車から、ポポーッ、ポポーッと警笛(けいてき)が鳴りひびきました。
「なんだ」
「イヤ警部どの、もう小田原へ入りましたが、ちょっと外を御覧下さい」
「うむ――」
 警部さんにつづいて私達も外を覗(のぞ)いてみました。両側の家は、停電でもしているかのように真暗(まっくら)です。しかしヘッド・ライトに照らされて街並(まちなみ)がやっと見えます。ああ、何たる惨状(さんじょう)でしょうか。
「うむ、これはひどい!」
「まるで大地震(おおじしん)の跡のようだッ」
「おお、向うに火が見えるぞ」
 近づいてみると、それは町の辻(つじ)に設(もう)けられた篝火(かがりび)です。青年団員やボーイスカウトの勇しい姿も見えます。――警官の一隊がバラバラと駈けて来ました。
「どッどうした」白木警部は手をあげて怒鳴(どな)るように云いました。
「やあ、警部どの」と頤髯(あごひげ)の生(は)えた警官が青ざめた顔を近づけました。「やっと下火(したび)になりました。その代り、小田原の町は御覧のとおり滅茶滅茶(めちゃめちゃ)です」
「二人の怪人というのはどうした」
「決死隊が追跡中です。小田原駅の上に飛びあがり、暗い鉄道線路の上を東の方へ逃げてゆきました」
「そうか、じゃ私達も行ってみよう」
 自動車は更(さら)にエンジンをかけて、スピードを早めました。自動車に仕掛けてあるサイレンの呻(うな)りが、情景を一層物凄(ものすご)くしました。どんどん飛ばしてゆくほどに、とうとう小田原の町を外(はず)れて、線路と並行になりました。生(なま)ぐさい草の香(か)が鼻をうちます。
「どうだ、見えないか」と警部は大童(おおわらわ)です。
「さアまだ見えませんが……呀(あ)ッ呀(あ)ッ、居ました、居ましたッ」
「どこだ、どこだッ」
「いま探照灯(たんしょうとう)をそっちへ廻しますから……」
 運転台のやや高いところに取りつけてあった探照灯がピカリと首を動かすと、なるほど線路上にフワフワと跟(よろ)めきながら東の方へ走っている二つの白い人影がクッキリ浮かび出ました。一人の方は剣を吊っているらしく、ときどきピカピカと鞘(さや)らしいものが閃(ひらめ)きます。
「居た、居た、あれだッ」と兄が叫びました。
「追跡隊はどうしたのだ。――うん、あすこの線路下に跼(うずくま)っている一隊に尋(たず)ねてみよう」
 警部さんは汗(あせ)みどろになっての指揮(しき)です。
「オーイ、どうして追駆(おいか)けないのだ。元気を出せ、元気を――」
「いま最後の一戦をやるところです。見ていて下さい。駅の方から機関車隊が出動しますから……」
「ナニ、機関車隊だって……」
 その言葉が終るか終らぬ裡(うち)に、ピピーッという警笛(けいてき)が駅の方から聞えました。オヤと思う間もなく、こっちに驀進(ばくしん)してきた一台の電気機関車、――と思ったが一台ではないのでした。二ツ、三ツ、四ツ。機関車が四つも接(つな)がって驀進してゆきます。
 なにをするのかと見ていると、上(のぼ)り線と下(くだ)り線との両道を機関車は二列に並んで、二人の怪人に迫ってゆくのでした。いまにも二人の怪人は車輪の下にむごたらしく轢(ひ)き殺(ころ)されてしまいそうな様子に見えました。
「あッ」
 と私はあまりの惨虐(ざんぎゃく)な光景に目を閉じました。


   隧道合戦(トンネルかっせん)


 しかしながら恐(こわ)いもの見たさという譬(たと)えのとおり、私はこわごわそッと目を開(あ)いてみました。すると、ああ、なんという不思議なことでしょう。猛然(もうぜん)と突進(とっしん)していった筈(はず)の機関車が、急に速力も衰(おとろ)え、やがて反対にジリジリと後へ下ってくるのでありました。見ると、驚いたことに例の二人の怪人が、機関車の前に立って後へ押しかえしているのです。なんという恐ろしい力でしょう。それは到底(とうてい)人間業(にんげんわざ)とは思われません。機関車はあえぎつつ、ジリジリと下ってくる一方です。
 そのときピピーッと汽笛が鳴ると、こんどは機関車の方が優勢になったものか、逆に向うへジリジリと押しかえしてゆきます。怪人は機関車の前に噛(かじ)りついたまま押しかえされてゆきます。まるで怪人と機関車の力較(ちからくら)べです。しかし私はそのとき、変な事を発見しました。それは怪人の足が地上についていないということです。地上に足がつかないでいて、どうしてあのような力が出せるのでしょう。これは一向(いっこう)腑(ふ)に落(お)ちません。
「もしや……」
 とそのとき気のついた私は、探照灯の光の下に、尚も怪人の身体を仔細(しさい)に注意して見ました。
「おお、思ったとおりだッ」
 私は思わず大きい声を立てました。怪人の身体は機関車にピタリと密着していないのです。怪人の身体と機関車との間には、三十センチほどの間隙(かんげき)があきらかに認められました。前に兄が谷村博士邸で、天井に逆(さかさ)にぶら下っていたとき、私は下から洋書を投げつけたことがあります。あのとき、どうしたものか、投げた洋書は兄の身体に当らずして、いつも三十センチほど手前でパッと跳(は)ねかえるのでした。何か兄の身体の上に三十センチほどの厚さのものが蔽(おお)っている――としか考えられない有様(ありさま)でした。あとから兄に聞いたところによれば、あのとき兄は化物に胴中(どうなか)をギュッと締められているように感じたという話でした。
 では、この場合、あの機関車を後へ押しているのは、あの怪人だけではなく、あの怪人に纏(まと)いついている化物の仕業(しわざ)ではありますまいか。イヤそうに違いありません。やっぱりあの化物です。しかし化物がどうして怪人と力を合わせているのでしょうか。
「何が思ったとおりだ」と兄が尋(たず)ねました。
「やっぱりあの化物が機関車を前から押しかえしているのですよ」
「ほう、お前にそれが解るか」
 私はそのわけをこれこれですと、手短(てみじ)かに兄に話をしてきかせました。
 ジリジリと機関車は尚(なお)も怪人を押しかえしてゆきました。そして機関車はとうとう、隧道(トンネル)の入口にさしかかりました。それでも機関車はグングン押してゆきます。怪人の姿は全く見えなくなりました。隧道の中に隠れてしまったのです。
 そうこうしているうちに、突如(とつじょ)として耳を破るような轟然(ごうぜん)たる大音響(だいおんきょう)がしました。同時に隧道の入口からサッと大きな火の塊(かたまり)が抛(ほう)りだされたように感じました。
 グォーッ。ガラガラガラガラ。
 天地も崩れるような物音とはあのときのことでしょう。私の耳はガーンといったまま、暫(しばら)くはなにも聞こえなくなってしまいました
「隧道(トンネル)の爆発だッ」
「入口が崩れたッ」
 という人々の立ち騒ぐ物声が、微(かす)かに耳に入ってきました。どうしたというのでしょう。
「うわーッ。逃げてきた逃げてきた」
「警官も鉄道の連中も、要領(ようりょう)がいいぞオ」
 そんな声も聞えます。
「あまりに乱暴じゃないですか。東京方面へ列車が出ませんよ」
 と抗議しているのはどうやら兄らしいです。
「いや仕方が無い。報告の内容から推(お)して考えると、ああするより外(ほか)に道はないのです。むしろ思い切って決行したところを褒(ほ)めてやって下さい。なにしろ化物は完全に隧道の中に生き埋めだ」
「隧道の向うが開(あ)いているでしょう」
「なに鴨(かも)の宮(みや)の方の入口も、あれと同時に爆発して完全に閉じてしまったのです。化け物は袋(ふくろ)の鼠(ねずみ)です。もうなかなか出られやしません」と白木警部は一人で感心していました。
 後で詳(くわ)しく聞いた話ですけれど、二人の怪人の戦慄(せんりつ)すべき暴行について、小田原署の署長さんは一世(せ)一代(だい)の智慧をふりしぼって、あの非常手段をやっつけたのでした。その儘(まま)放って置けば、あの怪人や化物は何をするか判らないのです。お終(しま)いには東京の方へ飛んでいって空襲(くうしゅう)よりもなお恐(おそ)ろしい惨禍(さんか)を撒(ま)きちらすかも知れません。そんなことがあっては一大事です。署長さんは、あの怪人の背後に、例の化物団(ばけものだん)が居ると見て、これを釣り出すために機関車隊を編成させ、力較(ちからくら)べをさせたのです。恐さを知らぬ化物団は、勝っているうちはよかったが、力負けがしてくると大焦(おおあせ)りに焦って、大真面目(おおまじめ)に機関車を後へ押し返そうと皆で揃ってワッショイワッショイやっているうちに、いつの間にか隧道の中へ押(お)し籠(こ)められたのです。それに夢中になっている間に、爆破隊が例の入口封鎖(ふうさ)を見事にやってのけました。むろん機関車にのっていた警官や乗務員連中は爆破の前に車から飛び降りて、安全な場所までひっかえしてきたわけでありました。
 こうして正体の解らない化物は封鎖されてしまった形ですが、こんなことで大丈夫でしょうか。化物はもう残っていないのでしょうか。残っていたら、それこそ大変です。それから気にかかるのは、谷村博士と黒田警官の行方(ゆくえ)です。それも今夜は尋(たず)ねようがありません。
 警備の人々は帽子を脱(ぬ)いでホッと溜息(ためいき)を洩(も)らしました。そして道傍(みちばた)にゴロリと横になると、積り積った疲労が一時に出て、間もなく皆は泥(どろ)のような熟睡(じゅくすい)に落ちました。


   山頂(さんちょう)の怪(かい)


 警備の人達の苦労を知(し)らぬ気(げ)に、いくばくもなく東の空が白んできました。生き残った雄鶏が元気なときをつくると、やがて夜はほのぼのと明け放れました。
「やあ」
「やあ」
 目醒(めざ)めた警備の人々は、相手の真黒に汚れた顔を見てふきだしたい位でした。瞼(まぶた)は腫(は)れあがり、眼は真赤に充血し、顔の色は土のように色を失い、血か泥かわからぬようなものが、あっちこっちに附着(ふちゃく)していました。しかしそれは自分の顔のよごれ方と同じであったのですが、始めは気がつきませんでした。
「化物(ばけもの)はどうしたな、オイ巡視(じゅんし)だッ」白木警部の呶鳴(どな)る声がしました。
 私もその声に、ハッキリと目が醒(さ)めました。ハッと思って傍(そば)を見ると、一緒にいた筈の兄の荘六(そうろく)の姿が見えません。
「兄さん――」
 呼んでみても、誰も返事をする者がありません。
「もしもし、兄を知りませんか」
「帆村君かネ」と警部さんも訝(いぶか)しそうにあたりを振りかえってみました。「そこにいたと思ったが、見えないネ」
 私は急に不安になりました。
 警部さんは巡視隊(じゅんしたい)を編成(へんせい)すると、勇しく先頭に立って歩きはじめました。
「私も連れていって下さい」
「ああ、恐ろしくなければ、ついて来給(きたま)え」
 そういって呉(く)れたので、私も隊伍(たいご)のうしろに随(したが)って歩き出しました。
 歩いているうちにも、化物の封鎖された隧道(トンネル)のことよりも、兄のことが心配になってたまりません。私はあたりをキョロキョロ眺(なが)めながら歩いてゆくので、幾度となく線路や枕木に蹴つまずいて、倒れそうになりました。
 隧道(トンネル)の入口に近づいてみますと、昨夜とはちがって白昼(はくちゅう)だけにその惨状(さんじょう)は眼もあてられません。崩れた岩石の間から、半分ばかり無惨(むざん)な胴体をはみ出している機関車、飛び散っている車輪、根まで露出(ろしゅつ)している大きな松の樹など、その惨状は筆にも紙にもつくせません。しかし幸(さいわ)いにも、一向あとから掘りかえした跡もありません。まず西口(にしぐち)は大丈夫だということがわかりました。
 一行はなおも隧道の全体にわたって異状がないかどうかを調べるために、崩れた崖をよじのぼって、隧道の屋根にあたる山の上を綿密(めんみつ)に検(しら)べてゆくことになりました。
「どうやら大丈夫のようだね」
「すると化物は、皆この足の下に閉じこめられているというわけなんだな」
 巡視隊の警官も、さすがに気味(きみ)わるがって、足音をしのばせて歩いていました。
「オヤッ」
「オヤ、これはどうだ」
「オヤオヤオヤオヤ」
 安心しきっていた一行は、急に壁につきあたりでもしたかのように、立ち止(どま)りました。私も遅(おく)れ馳(ば)せに駈けつけてみましたが、鳴呼(ああ)これは一体どうしたというのでしょう。山の上に、まるで噴火口(ふんかこう)でもあるかのように、ポッカリと大穴が明(あ)いているのです。穴から下を覗(のぞ)いてみますと、底はどこまでも続いているとも知れず、真暗(まっくらで)見透(みとお)しがつきません。
「こんな穴は、以前から有ったろうか」白木警部は不安に閃(ひらめ)く眼を一同の方に向けました。
「いいえ、ありませんです。ここはずッと盆地(ぼんち)のように平(たいら)になっていて、青い草が生えていたばかりですよ」
「ほほう、すると何時(いつ)の間に出来たのだろうか」
「もしや……」
「もしや何だッ」と警部は声をはりあげて聞きかえしました。
「もしや、あの化物が明けたのでは……」
「そんなことかも知れん。天井の壁さえ抜けば、あとは軟(やわらか)い土ばかりだったのかも知れない」
「すると化物は、どッどこに……」
「さあ――」と警部が不図(ふと)傍(かたわ)らの土塊(どかい)に眼をうつしますと、妙なものを発見しました。
「おお、そこに人間の足が見えるではないか」
 一行はあまりに近くへ寄りすぎて、穴ばかりに気をとられ、傍らの堆高(うずたか)い土塊に気がつかなかったのです。そこから二本の足がニョッキリと出ています。全く裸の脚です。誰の足でしょう。行方不明になった谷村博士も黒田警官も洋服を着ている筈です。兄は私と同じく和服でありました。するとこの裸の足は、ああ……
 私はそう思うと、頭がクラクラとしました。謎を包んだ大きい穴が、急にスーと小さくなって、釦(ボタン)の穴ほどに縮(ちぢ)まったような気がいたしました。それっきりでした。私は大きい衝動(しょうどう)にたえきれないで、恐ろしい現場(げんば)を前に、あらゆる知覚(ちかく)を失ってしまいました。暗い世界に落ちてゆくような気がしたのが最後で、なにもかも解(わか)らなくなったのです。


   覚醒(かくせい)のあと


 或るときは、月光の下に、得体(えたい)の知れぬ鬼影(おにかげ)を映しだす怪物、また或るときは、変な衣裳(いしょう)を着て闊歩(かっぽ)する怪物、その怪物を、うまく隧道(トンネル)の中に閉(と)じこめたつもりであった警官隊でありましたが、隧道の上に、なんとしたことか、大きい穴が明いていたのです。もしやこれが、怪物の逃げ出した穴ではないかしらと、白木警部はじめ一同が、その穴の縁(ふち)に近づいたとき、傍(かたわ)らの盛土(もりつち)の中から、二本の足がニョッキリ出ているのを発見して大騒(おおさわ)ぎになり、私は、その足の主が、きっと兄の帆村荘六だろうと考え、なんという浅ましい光景を見るものかなと思ったとき、気を失ってしまいました。――と、そこまではお話しましたっけネ。
 それから、どのくらい経(た)ったのか、私には時間の推移(すいい)がサッパリ解りませんでした。フッと気がついたときには、あの凄惨(せいさん)な小田原の隧道の上かと思いの外、身はフワリと軟(やわらか)いベッドの上に、長々と横になっているのでありました。
「ああーッ」
 私は思わず、声を放(はな)ちました。(ああ、気がついたようだ)(もう大丈夫)などという囁(ささや)きがボソボソと聞えます。ハッと気がついて周囲(まわり)をキョロキョロと見廻すと、これはどうしたというのでしょう。傍(かたわ)らに立って、こちらへ優しく笑額を向けているのは、あの悲歎(ひたん)の主(ぬし)、谷村博士の老夫人だったのです。いや駭(おどろ)きと意外とは、そればかりではありません。いまのいままで、惨死(ざんし)したとばかり思っていた兄の荘六までが、警官や手術衣(しゅじゅつぎ)の人達の肩越しに、私の方を向いてニコニコ笑っているではありませんか。ああ私は何か夢を見ていたのでしょうか。
「に、にいさん――」
「おお、気がついたナ、民(たみ)ちゃん」
 兄は私の手を握ると、顔を寄せました。
「どうしたんです。兄さん。――博士夫人も笑っていらっしゃるじゃありませんか」
「はッはッ。では夫人に訳を伺(うかが)ってごらん」
「イエあたくしからお話申しましょうネ。早く申せば、私のつれあい――つまり谷村が無事で帰って来たのです。兄さんたちのお骨折りの結果です」
「どうして無事だったんです。誰か死んでいましたよ、隧道(トンネル)の上で……」
「あれなら大丈夫。あれは僕だったんですよ」
 と、そういって脇(わき)から逞(たくま)しい男が出て来ました。見れば、どこかで見たような顔です。
「僕――黒田巡査です」
「ああ、黒田さん」
「僕が土に埋(う)められたところを、皆さんで掘り出して下すったのです。僕だけではなく、博士も助かったんです。これは怪物が隧道から飛び出すときに、私達を土と一緒に跳ねとばして埋めてしまったんです」
「ああ、すると怪物はやはり隧道から逃げてしまったのですネ」
「そうです、逃げてしまったのです――但し一匹を除いてはネ」
「一匹ですって?」私は思わず大声に訊(き)きかえしました。「一匹は逃げなかったんですか」
「そうなんだよ、民ちゃん」と今度は兄が横から引取って云いました。「一匹だけ、僕等の手に捕(とら)えることができたんだよ。それも、お前の手柄から来ているんだ」
「手柄ですって? なんだか、なにもかも判らない尽(づく)しだナ」
「そうだろう。いや、夜が明けると、何も彼(か)もが、まるで様子が違っちまったのだからネ」
 そういって、やがて兄が顛末(てんまつ)を話してくれました。それはまったく思いもかけなかったような新事実でありました。


   谷村博士の研究録


 兄は、私から渡された例の白毛(しらげ)のことを思い出し、それの正体(しょうたい)を一刻(いっこく)も早く知りたい気持で一ぱいで、小田原の警備隊の中からひとり脱け出でると、この谷村博士邸へ帰ってきたのだそうです。私はいま、博士邸(てい)に来ているのだそうですから、驚きますネ。
 兄はこの怪物について、きっと博士の研究があるものだと考え、博士夫人の力を借りて研究室をいろいろ探したのです。すると果して書類函(しょるいばこ)の一つの抽出(ひきだし)に、「月世界の生物について」と題する論文集を発見いたしました。
 怪物が月に関係のあることは、兄はすでに感づいていたそうです。それでパラパラと論文を開いてゆくうちに、次のような文面を発見しました。
「月世界には、一つの生物がいるが、それは殆んど見わけがつかない。それは人間の眼では透明としか見えない身体をもっているからだ。その生物は形というものを持っていない。まるで水のように、あっちへ流れ、こっちへ飛びする。そして思いのままの形態をとることができる。液体的生物(えきたいてきせいぶつ)だ。アミーバーの発達した大きいものだと思えばよい。この生物は、もし地球上で大きくなったとしたら、必ず人間や猿のように固体(こたい)となるべきものであるが、月世界の圧力と熱との関係で、液体を保って成長したのである。
 恐(おそ)らくこの生物は、アミーバーから出発したもので、人間より稍(やや)すぐれた智慧をもっているものと思われる。それは、今日盛んに、この地球へ向って、信号を送っているからである。人間界には、この生物のあることを知っている者が殆んど居ない。それはあの透明な月の住民たちの身体を見る方法がなかったからだ。然(しか)るに予(よ)は、特殊の偏光装置(へんこうそうち)を使って、これを着色して認めることに成功した。その装置については、別項の論文に詳解しておいた。
 ここに注意すべきは、このルナ・アミーバーとも名付くべき生物は、地球の人類に先んじて月と地球との横断を試(こころ)みたい意志のあることである。おそらく、それは成功することであろう。彼等は地球へ渡航(とこう)したときに、身体の変質変形をうけることを恐れて、何かの手段を考え出すことであろうと思われる。予の考うるところでは、多分そのルナ・アミーバーは身体を耐熱耐圧性(たいねつたいあつせい)に富み、その上、伸縮自在(しんしゅくじざい)の特殊材料でもって外皮(がいひ)を作り、その中に流動性の身体を安全に包んで渡航してくるであろう。その材料について、予は左記の如き分子式を想像するが、この中には、地球にない元素が四つも交(まじ)っているので、もしルナ・アミーバーが渡来したときには、面白い研究材料が出来ることであろう、云々(うんぬん)」
 ルナ・アミーバーという、透明で、流動性の生物があることは、博士の論文を見て始めて知ったのです。これは恐(おそ)らく、博士夫妻の外(ほか)に知った人間は、兄が最初だったことでしょう。兄は勇躍して、その白毛(しらげ)のようなものをポケットから取り出しました。これは私が曾(かつ)て、壊(こわ)れた窓硝子(ガラス)の光った縁(ふち)から採取(さいしゅ)したものでした。あの怪物が室内から飛び出すときに、鋭(するど)い硝子の刃状(はじょう)になったところで、切開したものと思います。
 兄は理学士ですから、スペクトル分析はお手のものです。博士の研究室のスペトロスコープを使って、その白毛みたいなものを、真空容器の中で熱し、吸収スペクトルを測定してみました。すると、どうでしょう。その結果が、博士の論文に掲(かか)げられた分子式と、ピッタリ一致したのです。
「ああ、ルナ・アミーバーだッ。ルナ・アミーバーの襲来(しゅうらい)だッ」
 兄は、気が変になったように、その室の中をグルグル廻って歩いたのです。
「どうしたのです、帆村さん」
 と博士夫人が階下から駈けつけられる。説明をしているうちに、夜がほのぼのと明けはなれ、そこへ白木警部一行が、掘り当てた谷村博士と黒田警官とを護(まも)って、急行で引っかえして来たのでありました。
 博士も黒田警官も、殆んど死人のように見えましたが、博士の用意してあった回生薬(かいせいやく)のお蔭で、極(ご)く僅(わず)かの時間に、メキメキと元気を恢復(かいふく)することが出来たのだそうです。
 この不思議な話を聞いて、私はもう寝ているわけにはゆかなくなりました。そして皆(みんな)の停(と)めるのも聞かず、ガバと床の上に、起き直りました。
 室の向うは、博士の研究室です。なんだかモーターがブルンブルンと廻っているような音も聞え、ポスポスという喞筒(ポンプ)らしい音もします。イヤに騒々(そうぞう)しいので、私は眉(まゆ)を顰(ひそ)めました。
「だから無理だよ。もっと寝ていなさい」と兄はやさしく云いました。
「イヤ身体はいいのです。もう大丈夫。――それよりも向うの部屋で、一体なにが始まっているんですか」
「はッはッ、とうとう嗅(か)ぎつけたネ」と兄は笑いながら、「あれはネ、たいへんな実験が始まっているのだ」
「大変て、どんな実験ですか」
「実はルナ・アミーバーを一匹掴(つかま)えたんだ。そいつは、この門の近くの沼に浮いているのを見付けたんだ。なにしろ沼の水面が、なんにも浸(つか)っていないのに、一部分が抉(えぐ)りとったように穴ぼこになっていたのだ。地球の上ではあり得ない水面の形だ。それで、この所にルナ・アミーバーが浮いているんだなということが判ったんでいま引張りあげ、博士が先頭に立って実験中なんだ」
「私にも見せて下さい――」
 私はもうたまらなくなって、寝台(ベッド)の上から滑(すべ)り下(お)りました。


   ルナ・アミーバーの実験


 なんだか訳のわからない器械が並んだ実験室には、東京からこの珍らしい実験を見ようと駈けつけた学者で、身動きも出来ません。
 真中に立っていた谷村博士は、私の入って来たのに気がついて、こっちを向かれました。
「おお民彌(たみや)君。もう元気になりましたか」
「はい」
「いやア、あなた方ご兄弟のお蔭で、ここにいる一匹のルナ・アミーバーが手に入りましたよ」
 そういって博士は、前に横(よこた)わっている大きい硝子製(ガラスせい)のビール樽(だる)のようなものを指(ゆびさ)しました。しかしその中は透明で、博士の云うものは何も見えません。
「いまはまだ見えますまい」と博士はすぐ私の顔色を見て云いました。「しかし今に見えますよ。偏光作用(へんこうさよう)がうまく行ったらネ」
「偏光作用といいますと」
「この硝子器の中に、ルナ・アミーバーが居るのです。この中をすっかり真空にして、こっちの方から偏光をかけてやると、肉眼でも見えてくるのですよ」
「こいつはどうして捕ったんでしょうネ。大変強い動物でしたのに」
「動物じゃなくて、植物という方がいいかも知れませんよ。――弱っているわけは、あの硝子窓を通るときに、外皮(がいひ)を大分引裂(ひきさ)いたので、地球の高い温度がこたえるのです。そしてこのルナ・アミーバーは、兄さんを胴締(どうじ)めにしていた奴です。あのとき此奴(こいつ)は、兄さんに苦(くるし)められたのです。兄さんは護身用(ごしんよう)に、携帯感電器(けいたいかんでんき)をもっていらっしゃる。あの強烈な電気に相当(そうとう)参(まい)っているところへ、あの硝子の裂(さ)け目(め)へつっかかったんで、二重の弱(よわ)り目に祟(たた)り目で、沼の中へ落ちこんだまま、匍(は)い上(あが)りも飛び上りも出来なくなったんですよ。つまり荘六君と民彌君とのお二人が、この怪物を捕えたも同様ですネ」
 私はそのとき、目に見えぬルナ・アミーバーと闘ったことを思いだしました。
「この一匹の外(ほか)はどうしたのですか」
「もう月の世界へ逃げかえったことでしょう。今夜月が出ると、その天体鏡(てんたいきょう)でのぞかせてあげましょう」
「すると、あの小田原の町に現れていたサーベルを腰に下げた老人や、白衣(びゃくい)を着た若者なども、逃げかえったんですか」
「いや、あれは……」と博士はすこし赧(あか)くなって云いました。「あれは私と黒田さんなんです。二人はルナ・アミーバに捕(つかま)って、あのとおり彼奴(あいつ)の身体に捲(ま)きこまれていたのです。だからいかにも私たちは空中に飛んでいるように見えましたが、実はルナが飛んでいたわけで、私たちは、ルナの上に載(の)っているようなものでした。そして彼奴は、私たちを勝手に裸にしたり、そして間違ってサーベルや白衣を着せたりしたのです」
「ああ、そうでしたか」
 私は始めて、空中を飛ぶ男の謎がとけたのを感じました。
「では、小田原や隧道で暴れたのも、先生たちの力ではなかったのですネ」
「そうですとも。あれは皆ルナ・アミーバーの一隊がやったことです。たまたま中で見える私たちだけが騒がれたわけです」
「しかし先生、あの崩れる鬼影はどうしたのです。硝子窓に、アリアリと鬼影がうつりましたよ」
「あれはこのルナの流動する形が、うっすりと写ったのです。月の光に透(す)かしてみると、ほんの僅(わず)か、形が見えます。それはあの月光に、一種の偏光が交(まじ)っているから、月光に照らされて硝子板の上にうつるときは、ルナの流動する輪廓(りんかく)が、ぼんやり見えたのですよ」
「ははーん」
 私は、この大きな謎が一時に解けたので、思わず大きな溜息(ためいき)をつきました。
 そのとき一座が俄(にわ)かにドヨめきました。
「ああ、いよいよ、ルナ・アミーバーが見えて来ましたよ」


   大団円(だいだんえん)


 ああ何という不思議!
 硝子樽の中には、いままで何も無いように思っていましたが、ジリジリブツブツと、なんだか紫色の霧のようなものが動揺を始めたと思う間もなく色は紅(くれない)に移り、次第次第に輪廓(りんかく)がハッキリして来ました。やがてのことに、青味(あおみ)を帯(お)びたドロンとした液体が、クネクネとまるで海蛇(うみへび)の巣を覗(のぞ)いたときはこうもあろうかというような蠕動(ぜんどう)を始めました。なんという気味のわるい生物でしょう。覗(のぞ)きこんでいる人々の額(ひたい)には、油汗(あぶらあせ)が珠(たま)のように浮かび上ってきました。
「ああ、いやらしい生物だッ」
 誰かがベッと、唾(つば)を吐(は)いて、そう叫びました。それが聞えたのか、ルナ・アミーバーは、草餅(くさもち)をふくらませたように、プーッと膨脹(ぼうちょう)を始め、みるみるうちに、硝子樽(ガラスだる)一ぱいに拡(ひろ)がりました。
「これはッ――」
 と思って、一同が後退(あとずさ)りをしたその瞬間、がちゃーンという一大音響がして、サッと濛々(もうもう)たる白煙(しろけむり)が室内に立ちのぼりました。
「呀(あ)ッ――」
 私達は壁際にペタリと尻餅をついたことにも気が付かない程でした。バラバラとなにか上から落ちてくるので、気がついて天井を見ますと、そこには大きな穴がポッカリ明いていました。
「オヤオヤ。ルナが逃げたッ」
「どうして逃げたんだッ」
「弱っていたと思っていたがな」
「いや、これは私の失敗でした」と博士は別に駭(おどろ)いた顔もせずに、静かに口を切りました。
「どうしたんです」
「いえ、彼奴(あいつ)の入っている容器を真空にしたのがいけなかったんです」
「なぜッ」
「真空は、彼奴の住む月世界(げっせかい)の状態そっくりです。だから弱っている彼奴は、たちまち元気になって、器(うつわ)を破って逃走したのです。ああ、失敗失敗」
 こんなわけで、折角(せっかく)生捕(いけど)ったたった一匹のルナ・アミーバーでありましたが、惜しくも天空(てんくう)に逸(いっ)し去ってしまったのです。
 いやはや、残念なことでありましたが、谷村博士を責(せ)めるのもどうかと思います。ルナが逃げてしまったのですから、「崩れる鬼影」について私の申上げる話の種も、もうなくなりました。




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