地底戦車の怪人
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著者名:海野十三 

 上になり下になり、二人が組みうちをしているうちに、かんじんの林檎が、軍曹の手をはなれて、ころころと床のうえに転がった。
「あっ、しまった」
 パイ軍曹は、手をのばして、それをおさえようとする。ピート一等兵は、そうさせまいとする。二人の身体は、からみあって、林檎のあとを追う。いつしか二人は、戦車の隅っこに、しきりに頭をぶちつけあっていた。
「こら、手を出すな」
「いや、自分も食べたいのです」
 二人の争いは、いつおわるとも、わからなく見えたが、そのとき、何者ともしれず、二人の方に向って、大ごえで、よびかけたものがあった。
「お二人とも、手をあげてもらいましょう。手をあげなきゃ、この機関銃の引金を引きますよ」
 おもいがけない人間のこえだ。
(あっ、あの幽霊か?)
 二人は、とたんに顔の色をうしない、こえのしたうしろをふりかえってみると……。


   安全条件


「まあまあ、そんなこわい顔をしないで、おとなしくしてください。お二人とも、僕に反抗しなければ、べつだん、この機関銃の引金を引こうとも思いませんよ」
 どこからあらわれたのか、二人のうしろに立っているのは、顔の黄いろい若い東洋人だった。
「貴様、どこの何奴(どいつ)か」
「僕の顔をみれば、大よそ見当はつくでしょうがな」
 と、かの若い東洋人は、なおもゆだんなく、機関銃の銃口を、パイ軍曹と、ピート一等兵の方へ向けながら、
「僕の名前ですか。これをお二人さんは、ききたいとおっしゃるのですか。さあ、何といったら、一等わかりやすいでしょうね。そうですなあ、まあ、僕の名前は、黄いろい幽霊といっておきましょう」
 二人は、幽霊ということばを聞くと、ぞっとして、首をちぢめた。
「黄いろい幽霊が、こんな戦車の中に、なに用があるのか」
 パイ軍曹は、やっと、これだけのこえを出した。
「用事は、いろいろありますがね、まず第一は、お二人さんが召し上った林檎の代金を、こっちへもらいたいのですよ」
「林檎の代金、すると、あの林檎は、君の……」
「そうです。僕が持ってきた林檎です。さあ金を払ってくれますか。おやすくしておきますよ」
 黄いろい幽霊は、くそおちつきにおちついている。
「金なんか、ない。たとい、あっても誰が払うものか」
 パイ軍曹が、断然いいきると、黄いろい幽霊のもっている機関銃の銃口が、パイ軍曹の鼻さきへ、ぬーっと、のびてきた。
「お払いになった方が、おためですよ。お金がなければ、他の品物でもよろしゅうございますが……。ぐずぐずしないでください。では、只今、いただきに、うかがいましょう」
 黄いろい幽霊は、パイ軍曹とピート一等兵のそばへ、そろそろと、よってきた。二人は、びっくりして、後じさりした。
「おうごきに、ならないように、引金をひけば、なにもかも、それまでですよ。よろしゅうございますか」
 機関銃の引金をひかれては、たまらない。二人は、もううごくことをあきらめ、黄いろい幽霊の、するがままに、まかせた。
 黄いろい幽霊は、二人のうしろへまわって、ポケットの中をさぐった。お金をとられるか、時計でも持っていくのかと思ったのに、黄いろい幽霊は、そんなものはとらないで、二人のポケットから、大型のナイフをぬきだした。それから、パイ軍曹が腰におびていたピストルも、うばってしまった。
「さあ、もう、ようござんすよ。手をおろしてください。からだをうごかしても、かまいません」
 黄いろい幽霊は、満足そうにいった。
 パイ軍曹は、面をふくらませながら、
「君は一体、何者だ。幽霊じゃないだろう」
 と、かすれたこえでいった。
「幽霊という名は、あなたがたが、僕につけてくだすったんですよ。あなたがたは、僕が床にころがした林檎を拾って、たべてしまったじゃありませんか」
「ああ、あの林檎は、君の林檎だったのか。なぜ、林檎をもって、こんなところへ入っていたのか」
「それは、あなたがたが、どうでも勝手に考えてください」
 と、黄いろい幽霊は答えない。
「じゃあ、もう用がすんだのだろうから、君は、戦車から出ていってくれ」
「あははは。パイ軍曹あなたは、もうこの戦車の中では、命令権がないのですよ。これからは、僕が命令しますからねえ」
 黄いろい幽霊は、からからと笑うのだった。


   幽霊指揮官


「こっちを向きたまえ」
 と、黄いろい幽霊は、おちつきはらった声で命令した。
 パイ軍曹とピート一等兵は、おずおずと廻れ右をして、黄いろい幽霊の方に向いた。
(あっ、こいつは、まさしく東洋人だ。中国人じゃないかなあ。いや、エスキモー人かも知れない。いやいや、こんな大胆なことをやるのは、日本人より外にない)
 これは、パイ軍曹の腹の中であった。
 ピート一等兵の方は、そんなおちついたことを考えるひまがない。
(はあて、この幽霊め、おれたちと、あまりかわらない服装をしているぞ。防寒服を着た幽霊は、はじめてみたよ)
 と、ピート一等兵はがたがたふるえている。
「さあ、これからは、私――黄いろい幽霊が、この地底戦車の指揮をとる。それについて不服な者があるなら、一歩前へ出なさい」
 誰も出ない。そうであろう。黄いろい幽霊は、そういいながら、わきの下にかかえている機関銃の銃口を、二人の方へ、かわるがわる向けているのだ。不服があるといったら、すぐにも発砲しそうである。誰が一歩前に出るものか、それは自殺するようなものだから……。
「よし、わかった」
 と、黄いろい幽霊は、おごそかに、いった。
「お前たち二人とも、わしが指揮をとることに不服はないのだな。それでは、ただちに命令する。二人とも、操縦席につけ!」
「うへッ」
 パイ軍曹とピート一等兵とは、仕方なしに操縦席についた。
「前進せよ。針路は南東だ」
 パイ軍曹は、いわれたとおり、戦車を南東へ向けて、出発させた。
 エンジンは、ごうごうと音を発し戦車の中には、つよい反響が起った。
「おい、パイ軍曹。針路を、ちゃんと正しくなおせ。お前は、命令をきかないつもりか。きかないつもりなら、ここでお弁当代りに銃弾を五、六発、君の背中にお見舞い申そうか」
「いや、いや、いや、いや」
 パイ軍曹は、急にハンドルを切って、黄いろい幽霊のいうとおり、地底戦車の針路を南東に向きをかえた。
「黄いろい幽霊閣下、只今我々は、ちゃんと南東に向け、前進中であります。でありますからして、銃弾をわしの背中にくらわせることは、御無用にねがいたいもので……」
 と、うしろを向いて、おろおろごえで哀訴(あいそ)した。
「うしろを向いてはならん。それでは前進方向が、くるってくるではないか」
 と、黄いろい幽霊は、パイ軍曹を、しかりとばした。
 そのそばでは、ピート一等兵が、予備のハンドルを握って、ぶるぶるふるえている。
(おれは、ああいう風(ふう)に、ぽんぽん叱りつける幽霊の話を、きいたことがないぞ。南極地方には、かわった幽霊が出ると、豆本(まめほん)かなんかに、書いておいてくれればよかったのに……)
 と、ピートは、どこまでも、彼を幽霊だと思っている様子だった。
 一体、この黄いろい幽霊は、どこから来たのだろうか。もちろん、本当の幽霊ではない。
 その謎は、この黄いろい幽霊が、戦車の隅に大きな袋の中に一ぱいつめた食料品をかくしていることによって、とかれるようだ。あの生々しい林檎は、この黄いろい幽霊が、わざと、床のうえにころがしたものであった。――彼は、密航者だった。
 だが、なんと風がわりな密航者よ。わざわざ、南極地方へいく地底戦車の中にしのび入るなんて、ただ者ではない。彼は、一体なにをするつもりか。それはおいおいとわかってくるであろう。


   秘密は御存知(ごぞんじ)


「おい、パイ軍曹。もっと地底戦車のスピードをあげろ」
 黄いろい幽霊は、おごそかに命令をした。
「は。もうこれ以上、出ませんです」
「うそをつけ」
 と、黄いろい幽霊は、言下に、パイ軍曹をしかりつけた。
「おい、スピードのことは、ちゃんとわかっているのだぞ。極秘(ごくひ)の陸軍試験月報によれば、地底戦車は、地中では最高三十五キロ、海底では、百五十キロまで出ると発表されているぞ」
「えっ、それまで知っているのですか。――では仕方がない。――ほら、スピード・メーターをみてください。いま、三十三キロまで出ていますよ。もうストップです」
「ごま化しては、いかん。それは地中スピードだ。しかるに、わが戦車は、いま海底を伝って前進しているのではないか。ほら、その計器をみろ。岩や土をそぎとる高速穿孔(せんこう)車輪が、すこしもまわっていないではないか。ほら、こっちのスイッチが、ひらかれたままになっている。ごま化すのは、いいかげんにしろ」
「うへッ」
 黄いろい幽霊が、おそろしく地底戦車のことをよく知っているので、さすがのパイ軍曹も、とうとうかぶとをぬいでしまった。
「わかりました。おっしゃるとおりいくらでもスピードをあげます。しかし幽霊閣下は、この戦車を、一体どこへお向けになろうというのですか」
「目的地か。そんなことは、聞かないでも分っていそうなものではないか。ほら、その地図のうえの、ここだ!」
 と、黄いろい幽霊は、操縦席の前にかかっている南極地方の地図のうえを、機関銃の先で指さした。そこには、絶望の岬(みさき)と、妙な地名が書きこんであった。
「えっ、ここですか。ここは絶望の岬ですよ。いくらなんでも、こればかりは、おことわりいたします」
 と、パイ軍曹は、顔色をかえた。
 そうでもあろう、この絶望の岬というのは、この前、十九名からなるノールウェイの南極探険隊の一行が、岬へ上陸したのはいいが、そのまま険悪な天候にとじこめられてしまって、半年間も立往生し、ついに全員が、恨みをのんで、死んでしまった魔の場所であった。パイ軍曹が、顔色をかえるのも、無理ではなかった。
「いや、行くのだ。行くのがいやなら、すぐこの戦車から下りたまえ」
 どこで聞いていたか、黄いろい幽霊は、パイ軍曹の口ぶりをまねして下りろといった。
「下りるのが、いやなら、銃弾をくらうかね」
 軍曹が、だまっていると、となりに座っているピート一等兵は、しんぱいして、口をひらいた。
「軍曹どの。その幽霊のいうことを聞いた方がいいですよ。幽霊なんてものは、むちゃくちゃなことをいいだすものですからね、それにさからうと、よくありませんよ。自分の村では、幽霊にさからった者がいて、いつの間にか全身の血が、一滴のこらず、自分のからだからなくなってしまったのですよ。軍曹どの、だから、さからってはいかんです。もしそうなったら自分は、幽霊と、さしむかえで暮すことになるわけで、こりゃ、やりきれませんよ」
 だが、軍曹は、なにもいわなかった。そのとき彼の眼は、急にあやしい光をおびたが、とたんに、彼は、
「ヤッ!」
 と、さけんで、自分の肩ごしに、前へ出ている機銃の銃身を、ぐっとつかんだ。
「さあ、つかんだぞ。力くらべなら、幽霊なんかに負けるものか。こいつさえ、幽霊の手からこっちへとってしまえばいいのだ。おい、ピート一等兵、お前も下りてきて、手つだえ!」


   うごかぬ筈(はず)


 黄いろい幽霊が手にもっていた機銃で、操縦席の前にさがっている南極の地図を指したために、そばにいたパイ軍曹は、黄いろい幽霊のゆだんを見すまして、機銃をぐっとつかんだのである。力くらべならば、彼はすこぶる自信があった。
「おい、ピート一等兵。早く、力を貸せ。その幽霊の足を、横に払え!」
 だが、ピート一等兵は、蛇(へび)ににらまれた蛙(かえる)のように、すくんでしまっている。
「ぐ、軍曹どの。じ、自分は、もういけません。……」
「こら、上官を見殺しにする気か。よおしこの機銃を、こっちへうばいとったら、第一番にこの幽霊をたおし、その次には、き、貴様(きさま)の胸もとに、銃弾で貴様の頭文字をかいてやるぞ! うーん」
 パイ軍曹は、顔をまっ赤にして、うんうん呻(うな)りながら、機銃をうばいとろうと一生けんめいである。
 ところが、黄いろい幽霊はさっきから、一語も発しない。そしてパイ軍曹をしかりつけるまでもなく、軍曹のしたいままに、放ってあるのだ。一挺(ちょう)の機関銃は、二人の手につかまれたまま、じっとうごかない。
「こら、幽霊。そこをはなせ。はなさないと、き、貴様を……」
「ほッほッほッほッ。パイ軍曹、君の腕の力は、たったそれだけか」
「な、なにを。うーん」
 じつは、パイ軍曹は、さっきからまるで万力(まんりき)にはさんだようにうごかない機銃について、少々こまっていたところであった。
「さあ、パイ軍曹。君に、これがとれるものなら、もっと倍くらいの力を出したまえ」
「な、なにを。うーん」
 パイ軍曹は、うんとがんばって、死にものぐるいの力を出して、機銃を前にひっぱったが、機銃はあいかわらず、巌(いわお)のようにびくともしない。軍曹の額(ひたい)からは、ぼたぼたと、大粒の油あせが、たれる。
「力自慢で、わしが負けるなんて、そ、そんなはずはないのだが……」
 幽霊は、わざとらしい咳払(せきばら)いをして、
「戦車の中には、食料品が不足だというのに、無駄に、力を出していいのかね」
「えっ」
 この戦車の中には、食料品の貯(たくわ)えがないことは、はじめからしっていた軍曹だった。だから、黄いろい幽霊のことばは、パイ軍曹の腹へ、大砲のごとく、こたえた。彼はとたんに機銃から、ぱっと手をはなした。
「それで、もともとだ」
 と、黄いろい幽霊は、いった。
 パイ軍曹は、なんだか急に、眼の前がくらくなったように感じた。それは、空腹のところへあまり力を出しすぎたためだ。
「君でなくとも、だれがやってみても、この機銃を人力で取りはずすことはできないよ。このとおり、大きな金具で、はさまれているのだからなあ。ほッほッほッ」
 黄いろい幽霊は、おかしさにたえられないという風に、大笑いをしたが、軍曹が、うしろをふりかえってみると、機銃のお尻のところが、掩蓋(えんがい)固定の締め金具の間に、うまく挟(はさ)まれていたのである。それでは、軍曹は、堅い鋼鉄と相撲をとるような、とても勝つ見込みのない力くらべを、していたことになる。
「ああッ」
 パイ軍曹は、あきれかえって、自分がいやになった。とたんに、からだが綿のように、ふにゃふにゃになったように感じた。
「ほッほッほッ。戦車隊員ともあろうものが、そんな不注意で、御用がつとまるとおもうか」
 黄いろい幽霊は、一本するどく、軍曹をきめつけたが、そのときどうしたわけか、地底戦車は、急にかたむきはじめたとおもう間もなく、あっといううちに、大きくでんぐりかえりをうち、とたんに車内の電灯が、すーっと消えてしまった。三人は、それぞれ、南瓜(かぼちゃ)のかごをひっくりかえしたように、ごろごろと投げだされた。さあ、一体、何事が起ったのであろう。


   三つの場合


 海底は、まっくらであった。
 だから、なにごとが起っても、皆目みえなかった。
 みえなかったから、よかったものの、もし海底に、だれかすんでいる者があって、いま地底戦車が、断崖(だんがい)から、まっさかさまになって、墜落したそのものすごい光景をみていたとしたら、その人は、きっときもをつぶしたにちがいない。地底戦車は、石塊(せっかい)のように、ころげおちたのであった。あの高い断崖から下へおちて、戦車がこわれなかったことが、じつにふしぎというほかない。
 それもそのはず、ドイツとともに、世界に一、二を争う工業国アメリカが、そのすぐれた技術でつくりあげた極秘の地底戦車であった。その丈夫なことといったら、おそろしいほどだ。
 それはいいが、地底戦車の中の三人は、一体、どうなったであろうか。
 戦車の中は、電灯が消えて、それこそ、真の闇であった。
 なんの音も、きこえない。
 三人とも、あたまを、どこかかたいかべか、器械にぶっつけ、脳みそを出して、死んでしまったのであろうか。
 いや、そうでもなかった。三人の心臓は、いずれもかすかではあるが、それぞれうごいていたのである。が、三人とも、死骸のようになって、うごかない。自分がいま、どこにいるか、それさえ分らない。三人とも、気がとおくなってしまったのだ。
 だが、これっきり、三人とも、死んでしまうではなさそうだ。今に、一人一人、われにかえって、起きあがるだろう。しかし、それから先、どうして生きられるか、そいつは分らない。
 だれが、先に、気がつくか。――これは、たいへん重要な問題だった。
 もし、黄いろい幽霊が先に息をふきかえして気がつけば――幽霊が、息をふきかえすというのも、へんであるが――すべて、戦車が墜落する前のとおりであろう。すなわち彼は、とにかくパイ軍曹とピート一等兵をたすけおこして、それから後は、また機関銃をひねくりまわして、彼の好む方角へ前進するであろう。
 だが、これと反対に、パイ軍曹が、先に気がつけば、彼は、ピート一等兵を靴の先でけとばして、眼をさまさせ、そして二人で力をあわせて、黄いろい幽霊をしばりあげ、ひどいしっぺいがえしをするだろう。幽霊をはだかにして、天井から吊(つ)り下げることぐらいは、命令しそうなパイ軍曹だった。これは、さっきまで勝者であった黄いろい幽霊にとって、まことに気の毒な場合であった。
 もう一つの場合が、残っている。それは、ピート一等兵が、まっ先にわれにかえる場合である。大きなからだとは反対に、たいへん気のよわい彼は、一体どうするであろうか。この場合ばかりは、全く見当がつかない。
 幸か不幸か、事実は、最後にのべた場合をとったのである。ピート一等兵が、うーんと呻(うな)って手足をのばし、われにかえったのであった。さあ、どんなことになるやら?


   脳みそだ!


 ピート一等兵は、しばらく、ひきつづき、呻った。
「うーん。ああッ」
 それから、またしばらくして、
「ううーん、ああッ」
 こんな風に、五、六回やっているうちに、彼の鼻が、小犬のそれのように、くんくんと鳴りだした。
「ああッ、ああッ、あーあ。はて、おれは、さっきまで、一体なにしていたのかなあ。おや、これは妙だ。へんな匂(にお)いがする」
 ピート一等兵は、鼻をくんくん鳴らしつづけた、鼻から先に、われにかえったピート一等兵だった。
「やっぱり、そうだ。このうまそうな匂いは、林檎(りんご)の匂いだ。おれは、林檎畑に迷いこんだのかなあ。くんくんくん」
 しばらくすると、彼は、ふと気がついて、両眼をひらいた。が、まっくらであった。
「おや、まっくらだ。はて、おれは、こんなにまっくらな林檎畑があることを、きいたことがないぞ」
 そのうちに、彼は、しくしく泣きだした。
「うん、わかったわかった。ここは、冥途(めいど)なんだ。死後の世界なんだ。だから、こんなに、まっくらなんだ。かねて冥途は、くらいところだときいたが、林檎畑まで、まっくらだとは、おどろいたもんだ。しかし、はてな、おれはなぜ、死んでしまったのかな」
 彼は、うでぐみをして、考えだした――つもりであった。それはそんな気がしたばかりで、ほんとは、うでぐみもなんにもしないで、やはり死人同様、長くなってのびていたのだ。
「そうだ、おもいだしたぞ。地底戦車が、ぐらっと横にかたむいたんだ。それで、おれはおどろいて、ハンドルに、しがみついたはずだ。すると、とたんにからだがすーっとぬけだして、いやというほど、ごつんと、あたまをぶっつけてしまった。それっきり、気をうしなってしまったのだ。致命傷は、あたまだったはず……」
 そのとき、ピート一等兵の手は、ようやくうごきだすようになった。彼は、右手をのばしておそるおそる、じぶんのあたまにもっていった。
 ぐしゃり!
 ぐしゃりとしたものが、指の先にふれた。
「あっ、いけねえ。脳みそに、さわっちゃった。おれのあたまは、頭蓋骨(ずがいこつ)がこわれて、ぐしゃぐしゃになっているぞ。あ、あさましや……」
 ピート一等兵は、いきなり赤ん坊のようにわあわあ泣きだした。泣きながら、彼は、脳みそで、べとべとになったじぶんの手を、鼻さきにもっていった。とたんに、非常なおどろきにあって、泣きやんだ。
「あら、あやしやな。おれの脳みそは、林檎の匂いがするぞォ!」


   ああ十五個!


「いや、これで、よく分ったよ」
 彼ピート一等兵は、あんがい、おちついたこえで、ひとりごとをいった。
「むかしから、しんるいの奴や友だちがおれをつかまえて、お前は、どうも脳がどうかしていて、あたまが、はたらかない。お前の脳みそは、どうかしているんじゃないかと、よくいわれたもんだが――」
 と、そこで彼は、大きなため息をついて、
「でも、まさか、おれの脳みそが、林檎でできているとは、気がつかなかったね」
 もし、そばで、パイ軍曹が、ピート一等兵のひとりごとをきいていたとしたら、彼は軍曹から、耳ががーんとするほど、叱りとばされたことであろう。いまパイ軍曹は、叱りとばすどころではなく、人事不省(じんじふせい)におちいっていたのは、ピート一等兵のため、はなはだ幸運であった。
「おれは、へそのおを切ってから、こんなにおどろいたことは、はじめてだぞ。しかし、このように脳みそが、はみだしてしまっては、おどろいたって、もうおそい。えい、しようがない。こうなれば、やけくそだ。じぶんの脳みそを、なめちまえ」
 ひどい奴があったものである。ピート一等兵は、指さきについたものを、口のところへもっていって、舌でぺろぺろなめはじめた。
「やあ、こりゃうまい。いやあ、すてきに、うまいぞ。おれの脳みそは、まるで、おしつぶされた林檎みたいだ」
 といったが、林檎の味がするのも道理である。ピート一等兵は、林檎の袋の中に、頭をつっこんでいたのである。彼は、じぶんの脳みそとばかりおもって、じつは、じぶんのあたまの下におしつぶした林檎を、指さきにとって、一生けんめい、うまいうまいと、なめていたのである。そのことは、やがて彼も、気がついた。なぜならば、指をなめたあとで、手をあたまのところへもっていくうちに、まだつぶれない林檎に手がふれた。
「おやッ、こんなところに、おれの脳みその塊(かたまり)が、落っこってらあ」
 脳みその塊ではない。ほんものの林檎であった。彼はもうその区別などは、どうでもよかった。彼は、やたらに、林檎を喰った。つぎからつぎへと、手をのばして、林檎を、丸かじりして、腹の中におさめた。
 合計十五個の林檎を食べおわったときには、さすがの彼も、ほんとのことを悟っていた。これは林檎であって、脳みそではない。なぜなれば、大きな林檎が十五個もはいるような脳なんて、きいたことがないからである。そんな大きな頭の人間だったら、じぶんのあたまには、とても陸軍制式の鉄帽が、すっぽりはいるわけがない。
 わけは、さっぱり分らないが、彼は、たくさんの林檎を食べたことをはっきり知った。そして、元気になった。そこで、ふらふらと立ち上った。二三歩あるいたとき、爪(つま)さきで、なにかかたいものを、けとばした。
「あ、いたッ!」
 とたんに、ぱっと、車内に電灯がついた。スイッチかなんかを、けとばしたものらしい。彼はおどろいて急に明るくなった車内を見まわした。
「あ、あ、あ、あッ!」
 ピート一等兵は、再度のおどろきにぶつかった。おどろくべき車内の光景!
 戦車は、天井と床とが、全くあべこべになっている。
 操縦席が、天井からぶら下っているかとおもえば、電灯が足許(あしもと)についているというさわぎだった。
 それよりも、おどろいたのは、上官パイ軍曹の姿だった。彼は、天井から、塩びきの鮭(さけ)のように、さかさまになってぶら下って気絶している。一方の足が操縦席にはさまり、そのまま、ぶら下っているのだ。お世辞(せじ)にも、勇しい恰好(かっこう)だとはいえない。
 ピート一等兵は、顔をむけかえて、もう一人の人物、黄いろい幽霊の居場所を、さがしもとめた。
 ところが、黄いろい幽霊は、どこへいったものか、見つからない。
「おやおや幽霊め、とうとう妖怪変化(ようかいへんげ)の正体をあらわして、逃げてしまったかな」
 そういって、ピート一等兵が、ひとりごとをいったとき、彼の足許に一本の手がころがっているのを発見した。電灯の反対でさっきは、よくみえなかったのだ。
「うあッ、こんなところに、だれが腕をおとしていったんだろう?」
 といったとき、その腕が、急に、ぐーっと、うごきだした。怪また怪!


   廻(まわ)れ右(みぎ)!


「ひゃッ!」
 ピート一等兵は、その場に、とびあがった。元来、幽霊が大きらいのピート一等兵だったから、おどろくのも、むりではなかった。
 だが、あまりおどろきすぎて、前後の見さかいもなくとびあがったものだから、大男の彼はいやというほど、頭を器械の角でぶっつけて、うーんと眼をまわして、その場にのびてしまった。どこまでも、世話のやけるピート一等兵だった。
 ぐーっとのびた一本の腕が、やがて床――ではなかった、下になった天井をおさえた。その腕のうえに、肩が生(は)え、それから、頭が生えた。黄いろい幽霊の頭であった。
 そこには、黄いろい幽霊が倒れていたのに、そそっかしいピート一等兵は、彼の一本の腕だけ見たのである。
「しまった」
 彼は、そう叫んで、とび起きた。そして、そこに落ちていた機関銃をひろった。すぐさま、彼は銃をかまえて、あたりを見廻した。
「なあんだ、皆、まだ、伸びていたのか」
 パイ軍曹は、塩びきの鮭のように、ぶら下っていたし、ピート一等兵は放りだされた大根(だいこん)のように倒れていた。
 黄いろい幽霊は、しばらく両人をながめていたが、やがて、うなずくと、まず、パイ軍曹を抱き下ろして、活を入れてやった。
「うーん」
 パイ軍曹は、やっと気がついたが、黄いろい幽霊を見ても、もうとびかかってくる元気がなかった。
 黄いろい幽霊は、次に、ピート一等兵を、介抱(かいほう)してやった。ピートは、気がつくと、きょろきょろあたりを見まわしたが、
「あれッ、どうしたのだろう。いつの間にやら、こんども生きかえって、おれが助けられるなんて、さっきのは、あれは夢だったかしらん」
 と、けげんな顔。
「どうだ、パイ軍曹にピート一等兵。もう、いい加減に、こりたであろう。反抗するのもいいが、このうえ反抗すると、こんどは、いよいよ生命(いのち)をもらっちまうぞ。ここで、どっちにするか、はっきり返事をしろ」
 黄いろい幽霊は、おごそかなこえでいった。
 パイ軍曹とピート一等兵とは、顔を見合せた。そして、おたがいに、うなずきあった。
(どうだ、こううるさくては、かなわんから、降参してしまおうじゃないか。せめて、われわれが地上に出られるまで……)
(へい、大賛成です!)
 二人は、そんな風に、早いところ、眼と眼とで、相談をしてしまった。
「ええ、黄いろい幽霊どのに申上げます。以後両人は、貴殿(きでん)を、絶対に上官だと思い、服従いたします。その代り、貴殿のお力をもちまして、どうかわれわれを、再び地上に出していただいて、もう一ぺんだけ、陽(ひ)の光や、鳥の飛んでいるところや、それから、酒壜(さかびん)やビフテキまで見られますように、どうぞどうぞお助けください。アーメン」
 二人は、黄いろい幽霊を、神様あつかいにまで、してしまった。
「ふん、そういう気なら、願いは、聞き届けてやる。きっと、今いったことを、忘れるなよ」
「は、決して忘れませぬ。アーメン」
 どこまでも、黄いろい幽霊は、神様あつかいであった。


   快男児沖島(おきしま)


 この黄いろい幽霊とは、そも、何者であろうか。
 これは、彼の自らいうように、幽霊ではない。そうかといって、アーメンと、あがめたたえられているように、神様の化身でもない。
 沖島速夫(おきしまはやお)――それが、この黄いろい幽霊の本名だった。
 その名で分るとおり、彼は日本人であったのである。そのむかし、彼は、苦学生であって、アメリカで皿洗いをしていた。しかし、だんだん世界の情勢がかわって来て、それまでは、それほどでもなかったアメリカ人が、さかんに日本いじめをやりだした。通商条約を、とつぜんやぶったり、急に石油や器械を売らなくなったり、大艦隊を日本に一等近いハワイに集めたりして、さかんにおどしにかかった。アメリカは、すっかり日本いじめに夢中になってしまった形である。そんなことが、沖島速夫を、すっかり怒らせてしまったのだ。彼は、だんだん、アメリカ人のために皿なんか洗ってやるものかと思った。そして、腕は細いが、ひとつ出来るだけの智慧(ちえ)をはたらかして、アメリカ人の荒ぎもをうばってやろうと決心したのだ。
 そこで彼は、だれにも、それを告げず、職場をはなれた。今まで働いて、一生けんめいためた金をもって、彼はしばらく町々をうろついたが、或るとき、地底戦車が秘密に南極へいくことを、かぎつけたのであった。これはいいことをきいたと、彼は思った。そこで俄(にわ)かに決心して、或る夜ひそかに、苦心に苦心をかさねて、ついに地底戦車の中に、もぐりこんだのであった。そのとき、一挺(ちょう)の軽機関銃と、大きな袋に入った林檎とを、その中へかつぎ込んだ。
 戦車の中は、案外ひろびろとしていたから、彼は、べつに息もつまらないで、暮していることができた。そのうちに、例の遭難事件となり、パイ軍曹とピート一等兵とが、とびこんできたのである。そして、とんださわぎが、この戦車の中ではじまることとなったのである。
 沖島速夫は、もちろん、生命をなげ出していた。別に、この地底戦車をスパイするつもりでやったことではなく、ただ、太平洋の彼方(かなた)で、真の日本人を知らず、ひとりよがりでいるアメリカ人たちに、日本人の意気を見せて、ちょっとおどろかせてやりたかっただけのことである。
 南極地方へ上陸したのち、地底戦車の中からおどり出して、
「アメリカさん。ばあーッ」
 と、やりたいだけのことであった。ところが、ひょんなことから、その戦車をつんでいた船が沈没してしまったため、たいへんな冒険をやるようなこととなった。
 助かるか助からないか、沖島速夫自身も、全く知らない。しかし彼は、むかしから、いかなるときにも、おちつきを失わない男だったから、生命なんかのことで、取り越し苦労をするのは馬鹿者のすることだと決め、自分は生命を神様にでもあずけたつもりで、そんな心配はごめんこうむって、ただ斃(たお)れてのちやむの精神で、ここまでやって来たのである。
 ところが、パイ軍曹もピート一等兵も、がらは大きいし、いばることも知っているが、今地底戦車が南極の海中に沈んでいると思うと、からいくじがなくなって、とうとうここで、沖島速夫を神様のようにあがめ、そして神様としておすがりするようなことになってしまった。心の弱いものは、いつでも、このように負けてしまう。
(絶対に反抗しません!)
 こんどこそ、いよいよ本気で、二人は黄いろい幽霊に降参してしまったのである。
 速夫は、勝者だ。
 だが、こうなると、出来るなら、二人を助けてやりたいと思った。そして、なにげなく彼は、さかさまに下っている深度計に眼をやったが、
「おやッ!」
 とばかり、心の中でおどろいた。――深度計は、零(れい)をさしていたのである。


   天井の怪音


 速夫は、始め、深度計が、こわれてしまったのかと思った。
 しかしよく他の器械を見てみると、そうでもないらしい。
 しからば、深度計が零をさしているのは、この地底戦車が、逆さにひっくりかえっているせいであろうかとも思った。だが、それもちがう。この深度計は逆さにひっくりかえろうが、針が他を指(さ)すような構造のものではない。
 すると、正しく深度は零なのである!
(深度が零というと、この戦車の下に、水がないということであるが――それでいいのかな)
 達夫が、ふしぎそうに、深度計を見ているものだから、パイ軍曹もピート一等兵も、そばへよってきて、ともに深度計のうえをながめるのであった。そして、やはりふしぎだという顔をした。
「どうだね、パイ軍曹にピート一等兵。この深度零と出ているのを、どう考えるか」
 と、速夫はきいた。
「さあ……」
「計器に水が入ったかナ」
 二人の答は、はなはだ、なっていない。
「分らないなら、いってやろう。この地底戦車は、地上に出ているんだ」
 と、速夫は、ずばりといった。
「えっ。地上に出ておりますか、あの、この戦車が……」
 ピート一等兵が、眼を丸くした。
「ばかばかしい、深海の底におちこんでいたものが、いつの間にか地上にあがっているなんて、そんなことがあってたまるか」
 と、パイ軍曹は、ピート一等兵を叱りつけた。そのとき、速夫がいった。
「そうだ。われわれの感じとしては、まだまだ深海の底にいるような気がする。しかし、この深度計は、たしかにこわれていないのだから、この上は、深度計が示していることを信ずるのが正しい。わけはわからないが、たしかに、この戦車は、地上に出ているのだ」
「そんなばかばかしい夢みたいなことが……」
「全く、全くだ!」
 二人は、どっちも、速夫のことばを信用しない。
 そこで速夫は、
「じゃ、僕は、この地底戦車の扉をあけて、外へ出てみるから……」
「ああ待ってもらいましょう。扉をあけりゃ、そこから水がどっと入ってきて、われわれはたちまちお陀仏(だぶつ)だ」
「じゃあ、助かりたくないのか」
「扉をあけりゃ、とたんに、死んでしまいますよ。助かるどころの話じゃありませんよ。これは、わしの永年の経験からいうのだ」
 と、パイ軍曹は、なかなか自信あり気である。
 意見は、こうして、二つに分れた。
 一体、どっちが本当か?
 そのときである。不意に、この戦車が、かたんと揺れた。戦車の中は地震のようである。
 ところが、ふしぎにも、戦車は、ますます揺れだし、そしてますます傾くのであった。三名の者は、とても立っていられなかった。てんでに、器械や椅子につかまって、こらえている。まさか、地震でもなかろうに。
 そのうちに、急に、動揺がとまった。
「おお、どうした!」
「おや、いつの間にか、天井と床とが、あべこべになって、戦車は、とうとうもとどおりになったぞ!」
 戦車は、半廻転したのだった。
 トン、トン、トン。
 妙な音が、そのとき天井の方から、聞えてきた。
「あれは、何の音!」
 と、ピート一等兵は、また新たな恐怖の色をうかべた。
 トン、トン、トン。
 ふしぎな音は、しきりに、天井の方から聞えるのであった。


   ピートの失敗


「パイ軍曹どの。自分は、もう死んだ方がましです。このうえ、心臓がどきどきしては、心臓麻痺(まひ)になってしまいます」
 これは、大男のピート一等兵が、からだに似合わぬ悲鳴である。
「こら、ピート一等兵。そんな弱音をはいちゃ、幽霊指揮官どのに、笑われるじゃないか」
「でも、自分はもう、このとおり、からだ中から、脂(あぶら)がぬけちまって、もうあと、いくらももちません」
「え、からだの脂がぬけたって」
「はい。うそじゃありません。このとおり、ズボンの下から、たらたら脂が、たれてくるのです」
「そうか。本当なら、こいつは一命にかかわるぞ。どれ、見てやろう」
 と、パイ軍曹は、ピート一等兵のズボンの下をまくって、しさいに見た。
「おや、こいつは、ひどく、たれている。ふん、かわいそうだな。これじゃ、もう、助かるまい」
「軍曹どの、自分は、もういけませんか。もう、だめでありますか」
「もう、いかんぞ。どうも、くさい。いやにくさい。きさまは、からだが大きいせいか、鯨(くじら)の油みたいな脂を出しよる」
 と、パイ軍曹が、鼻をつまんだ。
「え、鯨の油みたいなにおいがしますか、はてな?」
 ピート一等兵は、そういったかと思うとにわかに、あわてて、自分の毛皮の服の胸をあけて、中へ手をつっこんだ。
「うわーッ、いけねえや」
「おい、ピート。何ということをする……胸の中が、どうかしたのか」
「あははは。大失敗でさ。わけをいうと軍曹どのに叱られ、そしてここにおいでの幽霊どのに笑われてしまいます」
「ははあ、きさま、また欲ばったことをやったな。服を開いて、中をみせろ」
「はい、どうも弱りました」
 ピート一等兵は、悄気(しょげ)ている。
「やっぱり、そうだ。きさま、鯨油(げいゆ)の入っている缶を、盗んでいたんだな。どうするつもりか、鯨油を、懐中に入れて」
「どうも、弱りました。まさかのときは、これでも、腹の足(た)しになると思ったものですから……」
「なに」
「つまり、鯨の油ですから、こいつは、魚の脂です」
「鯨は、魚じゃない」
「そうでしたな。元へ! 鯨は、けだものの脂ですから、石油とはちがって、食べる――いや、飲める理屈であります」
「あはァ、それで、飲むつもりで、かくしていたのか」
「はい。ところが、あのとおり、戦車の中で、あっちへ、ごろごろ、こっちへごろごろごろんとやっているうちに、缶がこわれて、鯨油がズボンの中へ、どろどろと流れだして、こ、このていたらく……」
「なんだ、そんなことか。お前は、幸運じゃ」
「軍曹どの。からかっちゃ、いかんです」
「からかっちゃおらん。もしもその脂がお前のからだから流れ出した脂だったら、今頃はどうなっていたと思う」
「へい。どうなっていましたかしら」
「わかっているじゃないか。そんなに脂がぬけ出しちゃ、お前は今頃は冷くなって、死んでいたろう」
「冗談じゃありませんよ。はっくしょん」
 さっきから、傍(かたわら)で、あきれ顔で、二人の話を聞いていた沖島速夫が、
「ピート一等兵。早く、前をしめろ。風邪(かぜ)をひくじゃないか」
「へーい、指揮官どの」


   氷原


 呑気(のんき)な二人のアメリカ兵には、沖島も、すっかり呆(あき)れてしまった。
 そのうちに、一旦(いったん)とまっていた戦車の天井の、とーん、とーんという音が、また聞えだした。
 とーん、とーん。
「あ、また始まった」
 ととーん、とーん。
「おや、あれは、モールス符号だ」
 パイ軍曹が、急に目をかがやかせた。
「おや、開けろといっている。ふん、生存者はないか。誰か、上から呼んでいるんだ。おれたちは、助かるかもしれん」
 ピート一等兵は、おどりあがった。
「気をつけッ!」
 沖島速夫が、大きなこえで、どなった。
 二人のアメリカ兵はびっくりして、直立不動の姿勢をとった。
「だから、さっきから、僕は、この戦車の扉を開けろといっているんだ。さあ、早く開けろ」
「開けても、大丈夫かなあ」
「大丈夫だ。水の中じゃない。うそだと思ったら、中から信号をして、外には水があるかないか、たずねてみろ」
 沖島は、深度計をみたとき、この地底戦車のまわりが、どんな状態にあるかを、察していた。そこへ外から信号があった。彼は、そのとき、或る覚悟をした。そして二人のアメリカ兵が、鯨油のことで、いい争っている間に、持っていた機銃を、防寒服の中にしまいこんだり、戦車をうごかすのに、ぜひ無くてはならぬ発火器の鍵を、服の或る部分にしまいこんだりして万端(ばんたん)の手配を終ってしまったのであった。
 さあ、もうこれでいい。なにが来ても、おどろくことはない。
 パイ軍曹はピート一等兵の肩車にのって戦車の蓋(ふた)を中から、しきりにとんとんと叩いて、外部と連絡をとっていたが、やがて、
「うわーッ、こいつは、たいへんだ」
 と叫んで、おどりあがった。
「あっ、軍曹どの。そんなに、あばれちゃあぶない」
 といううちに、二人は折り重なって、床のうえに、ひっくりかえった。
「おお、痛い。ピート一等兵。早く、扉をあけろ。外には、我が軍が、待っているそうだ。早くしろ」
「わが軍が……。ああ痛い。腰骨が、折れてしまったようです。軍曹どの。あなたにおねがいします。自分には、出来ません」
「わしに出来るなら、きさまに頼みやせん」
 パイ軍曹は、渋面をつくっている。
「じゃあ、僕があけよう」
 沖島は、そういって、天蓋(てんがい)のハンドルに手をかけて、力一杯ぐるぐるとまわした。
 すると、さっと、白い光が、外からさしこんできた。それとともに、新しい空気が流れこんだ。サイダーのように、うまい空気であった。
「おお生きていたか」
 外から、アメリカ訛(なま)りの英語がきこえた。


   武勇伝


 地底戦車中から、はいだして、今、三人は、氷上に整列している。
 前には、天幕(テント)が、四つ五つ張られてある。あたりは、一面のひろびろとした氷原であった。
「一番から、官姓名を名のれ」
 三人の前には、一団の防寒服を身にまとった軍人が、立ち並んで、三人をじっと睨(にら)んでいる。その中の一人が、このように号令をかけた。
「陸軍戦車軍曹ジョン・パイ」
「陸軍戦車一等兵アール・ピート」
「……」
 一同の視線が、三人目の沖島のうえに、集中された。
「おい、なぜ、黙っとる。早く官姓名を名のらんか」
「……」
「おい、お前は聞えないのか」
「こいつは」
 と、パイ軍曹が、いおうとするのを、沖島は、皆までいわせず、
「地底戦車長、黄いろい幽霊」
「なに、もう一度、いってみろ」
「この地底戦車長の黄いろい幽霊だ」
「黄いろい幽霊! ふざけるな」
 すると、パイ軍曹が、さっと前へ出て来て、沖島をするどく指し、
「こいつは、中国人――いや、日本人の密偵にちがいありません。この戦車の中に、しのびこんでいたので、自分が捕虜(ほりょ)となしたものであります」
「え、日本人? そいつは、たいへんだ。それ、取りおさえろ」
「別に、逃げかくれはせん。逃げたって、この氷原を、どこへ逃げられるだろうか。アメリカ兵は、思いの外あわて者が多い」
「なに! かまわん、しばれ」
「いや、待て!」
 前に進んだ一団の中で、どうやら一番えらそうに見える人物が、こえをかけた。
「は」
「その、黄いろい幽霊がいうとおり、こんなところで、逃げだしても、食糧がないから、生命がないことが分っている。だから、ことさら取りおさえる必要はない」
「しかし、閣下……」
「なに、かまわん。余(よ)に、思うところがある。そのままにしておけ」
 その人物は、悠々としていた。
 パイ軍曹は、けげんな顔だ。
 彼は、そっと、号令をかけた将校のところへ近づいて、たずねた。
「みなさんがたは、南極派遣軍だということは、さっき戦車の天蓋を叩いて信号したときに、承知しましたが、あそこにいられるえらい方は、一体だれですか」
「あの方か。あの方を知らんか。リント少将閣下だ」
「えっ、リント少将閣下」
「そうさ、南極派遣軍の司令官だ」
「ええっ、すると、ここはリント少将のいられる基地だったんですね」
「ふん、そんなことが、今になって分ったか」
 パイ軍曹は、叱られている。
 リント少将は、沖島速夫の前へ歩みより、
「黄いろい幽霊君。パイ軍曹のいうことに間違いはないか」
 と、しずかなことばで、たずねた。しかし少将の眼は、鷹(たか)の眼のように、光っていた。
「閣下。すこし話がちがうようです。正直者のピート一等兵に、おたずね下さい」
 と、沖島は、ピートを指(ゆびさ)した。
「それでは、ピート一等兵。どうじゃ」
 ピート一等兵は、さっきパイ軍曹が喋(しゃべ)っているときから、しきりに拳(こぶし)をかためたり口をもぐもぐさせて、いらだっていたが、
「はい、リント大将閣下」
 と、リント少将を大将にしてしまい、
「正直なところを申上げますと、すみませんが、パイ軍曹どののいうことは、すべて嘘(うそ)っ八(ぱち)でありまして、ソノ……」
「嘘か。それで、どうした」
「ソノ、つまりこの地底戦車が、遭難船の船底をぬけおちまして、海底ふかく沈没しましたときから、自分は敢然、先頭に立って、この戦車を操縦しつづけたのであります。ぜひともこの大困難を克服しまして、この貴重なる地底戦車を閣下のおられるところまで、持ってこなければならんと大決心しまして、パイ軍曹どのと、この幽霊どのをはげましながら、ついにかくのとおり閣下のまえまで乗りつけることに成功しましたわけで、その勇敢なる行動については吾(わ)れながら……」
 と、ピート一等兵は、はなはだ正直でないことをべらべら喋りだして、止めようもない。


   投獄(とうごく)


 リント少将は、さすがに、南極へ派遣されるほどの名将だけあって、早くも、わけを察した。
 少将は、幕僚の参謀たちをふりかえり、
「どうだ、事情は、のみこめたろう。要するに、パイ軍曹とピート一等兵とは、この地底戦車の中にとじこめられ、蒼(あお)くなっていた。そのとき、戦車の中にかくれて、密航していたこの黄いろい幽霊と名のる男が、二人をはげまして、ともかくも、地底戦車を、ここまで、のりあげてきたのだ。そうではないか」
 参謀たちも、このリント少将のことばに、うなずいた。
 少将は、なおも、ことばをついで、
「地底戦車は、一台のこらず、海底にしずんでしまったことと思っていたが、こうして一台でも助かったのは、わがアメリカ陸軍のため、よろこばしいことだ。われわれは、この一台を、できるだけうまく使って南極におけるわれわれの仕事を、やりとげなければならない」
 参謀たちは、また大きくうなずいた。
「ところで、この黄いろい幽霊の始末だがどうしたものであろう」
 参謀たちは、顔を見合せたが、
「軍司令官閣下。こいつは、地底戦車の秘密を知った奴ですから、今すぐに、銃殺してしまうべきであります」
「自分も、同じことを考えます。こいつは日本のスパイに、ちがいありませんから、殺してしまうのが、よろしい。このまま、生かしておくと、またどんなことをするかもしれません。日本人という奴は、大胆なことをやるですからなあ」
 みんな、沖島を早く銃殺せよというのだ。
 少将は、そこで顔を、沖島の方へむけなおして、大胆不敵な彼の面を、しばらくじっとみつめていたが、
「おい、黄いろい幽霊。本官が、日本の将校なら、君の勇敢な行動を大いにほめてやるところだが、余はアメリカの軍司令官だから、そうはいかんぞ。只今から、君は、監房につながれることになった。もうあきらめて、おとなしくしているように」
 沖島速夫に、ついに、きびしい刑罰が、きまったのであった。しかし彼は、べつに顔色をかえるでもなし、にこにこして、リント少将のことばを、きいていた。
 それから沖島は衛兵にまもられて、監房につれていかれた。
 監房は、氷の中にあった。つまり、氷を下へ掘って、氷の地下室が出来ている。そこに、氷の監房がつくられてあった。
 監房の扉は、木でこしらえてあった。のぞき窓も、やはり木で、くみたててあった。氷と木材との合作(がっさく)になる監房であった。
 沖島速夫は、このふしぎな監房の中に、押しこめられたのであった。
 なかは、いたって、せまい、やっと、二メートル平方ぐらいであった。
 空気ぬき兼(けん)明(あか)りとりの天窓が、天井に空いていた。
 この監房は、ふしぎに寒くない。氷の中にとじこめられているのだから、冷蔵庫の中に入っているようなもので、さぞ寒かろうと思ったのに、かえって温い感じがしたのである。
 沖島は、缶詰をいれてきたらしい箱のうえに、腰をおろした。彼はべつに悲しんでいる様子もなかった。
「さあ、ここですこしねむるかな」
 彼は、腰をかけたままいねむりをはじめた。どこまで大胆な男であろう。
 しばらくねむった。そのうちに、彼をよぶものがあった。
「おい、黄いろい幽霊!」
 はて――と、眼をさますと、窓のところに二つの顔が、沖島の方をのぞいていた。
 一つは、衛兵の顔、もう一つの顔は、ピート一等兵の大きな顔であった。
「おい、コーヒーをもってきてやったよ」
 ピートがいった。


   友情


 コーヒーをもってきてやった――と、ピート一等兵はいった。そして窓のところから、うまそうな湯気(ゆげ)のたつコーヒーの器(うつわ)が見えた。
 沖島は、腰かけから立って、窓のところへいった。
「コーヒーを、もってきてくれたのか。どうも、すまんなあ」
「すまんことはないよ。わしは、ここだけの話だが、お前に、感謝しているよ……」
「おい、ピート一等兵。ことばをつつしめ」
 と、衛兵が、よこで、こわい顔をした。
「だまっていろ、お前には、わからないことだ」
 とピートは、衛兵につっかかった。
「そのわけは、お前がいなければわしは、地底戦車の中で、腹ぺこの揚句(あげく)、ひぼしになって死んでしまったことだろう。お前のおかげで、こうして、氷の上にも出られるし今も、たらふくビフテキを御馳走(ごちそう)になったりして、まるで夢をみているような気がするのだ、これは、一杯のコーヒーだけれど、やっとごま化して、持ってきたのだよ。さあ、のんでくれ」
「や、ありがとう」
「ピート一等兵、待て。衛兵たるおれが、承知できないぞ。そういうことは、禁じられている」
 衛兵が、苦情をいった。軍規上、それにちがいないのである。
「お前にゃ、わからんといっているのだ。お前、気をきかせて、ちょっと、向うをむいていろ。コーヒーをのむ間、その辺を散歩してこい」
 そのへんを散歩してこいといっても、せまい氷の廊下が、ほんのちょっぴりついているだけである。散歩なんかできない。
「おい、衛兵。わしの腕の太いところをよく見てくれ」
 ピート一等兵は、肘(ひじ)をはり、衛兵にのしかかるように、もたれかかった。
「ピート、分っているよ。いいから、おれが向うをむいている間に、早いところ、囚人にコーヒーをのませろ」
 そういって、衛兵は、向うをむいた。
「ほう、やっと、気をきかせやがった。はじめから、そうすれば、世話はなかったんだ。ほら、黄いろい幽霊、コーヒーだぞ」
 コーヒーのコップは、ようやく、窓の間から沖島の手にわたされた。
「やあ、どうも、すまん」
「わしとお前との仲だ。そう、いちいち礼をいうには、あたらない。さあ、これだ。これをとれ」
 コーヒーだけかと思っていたら、ピート一等兵は、毛皮の外套(がいとう)の下から、ビフテキを紙につつんだやつを、すばやく沖島に手渡した。
「すまん」
「こら、なにもいうな。――ほら!」
「えっ」
 酒の壜(びん)が一本。
 沖島の眼が、涙にうるんだ。ピート一等兵のこのおもいがけない友情が、たいへんうれしかった。
 酒壜を、うけとろうとしているとき、そこへとびこんできたのはパイ軍曹であった。
「おい、なにをしとるかッ!」
 軍曹は、大喝一声、窓のところへ、手をつっこんで、酒壜をおさえた。
 沖島と軍曹とが、一本の壜をつかんで、ひっぱりっこである。
「こら、放せ。こんなものを、やっちゃ、いかん。放さんか、うーん」
 沖島は、だまっていた。そして壜を、ぐいぐい手もとにひっぱった。
「あっ、うーん」
 パイ軍曹は、汗をかいている。沖島は、平気な顔で、その壜を、もぎとった。大力無双の沖島であった。
「いや、どうもありがとう」


   復仇(ふっきゅう)


 そこへ、衛兵がかけつけてきたから、またさわぎが大きくなった。
 人のいいピート一等兵は、パイ軍曹と衛兵との攻撃にあって、眼をしろくろしている。そして、監房の中の沖島に、早く喰ってのんでしまえと、あいずをした。
 沖島は、もちろん、早いところ、監房の中でごちそうを大急行でいただいている。
 ピート一等兵が、軍曹の一撃を喰って、そこに、目をまわしてしまうと、パイ軍曹は、衛兵に命じて、監房を開かせた。
 軍曹は、ピストルをかまえて、監房の中へとびこんだ。
「けしからん奴じゃ、貴様は」
「いや、たいへん、ごちそうさまでした」
「貴様には、うんと、おかえしをするつもりじゃった。地底戦車の中で、よくも、ひどい目に、あわせたな。ゆるさんぞ」
「ゆるさんとは、どうするのですか」
「ここで、貴様が立っていられなくなるくらい、ぶん殴(なぐ)ってやるんだ。廻(まわ)れ右。こら、うしろを向けい」
「うしろを向かなくとも、いいでしょう。私を殴るのなら正面から殴りなさい。遠慮はいりませんよ」
「廻れ右だ。ぐずぐずしていると、ピストルが、ものをいうぞ」
 軍曹は、すっかりいきりたって、本当にピストルの引金をひきそうである。沖島は軍曹にとびついてやろうかと思ったが、軍曹との間はすこしはなれすぎている。これでは、仕方がない。沖島は、おとなしくうしろを向いた。
 とたんに、沖島の腰へパイ軍曹のかたい靴の先が、ぽかりと、あたった。
「あッ。うーむ」
 沖島は、痛さを、こらえる。
 と、また一つ、腰骨のところを、ひどく蹴とばされた。沖島は、ひょろひょろとして膝(ひざ)をついた。
 軍曹は、それをみると、いい気になってまたつづけさまに、沖島を、うしろから蹴とばした。
 沖島のからだは、ついに、どっとその場にたおれて、長くのびた。
 ひどいことをする軍曹である。
 そのころ、氷上では、リント少将が、幕僚をひきつれ、地底戦車のまわりにあつまって、しきりに、会議をつづけていた。
「……敵ながら、あっぱれなものだ。三人でもって、よくまあ、この地底戦車を、ここまでうごかしてきたものだ」
「ではここで改めて、運転いたしましょうか」
「そうだ。うごかしてみろ」
「はい」
 参謀の一人が、そこに列(なら)んでいた七名ばかりの下士官共に、それっと号令をかけた。
 七名の将兵は、その中に入って、扉をとじた。
 しかし、戦車は、いつまでたっても、うごかなかった。
「どうした。なぜ、うごかさんのか」
 エンジンは、一向かからない。戦車長が、扉をあけて、とびだしてきた。そしておどおどしながら戦車の点検をはじめた。
 リント少将は、にがい顔だ。
 ちょうどそのとき、一同は、飛行機の爆音を耳にした。
「おや、飛行機だ。いや、相当の数だが、どうしたのだろう」
 といっているうちに、とつぜん、氷山の彼方(かなた)から、低空飛行でとびだして来た編隊の飛行機、その数は、およそ十四五機!
「へんだなあ。友軍機なら、この前になにかいってくるはずだ。これは、あやしい。おい、みんな、その場に散れ!」
 と、リント少将は、号令をかけた。
 とつぜん現れたこの怪飛行隊は、どこの飛行隊であろうか。


   怪機の群(むれ)


 リント少将は、後日、人に話をしていうのには、少将の生涯のうちで、そのときほど、おどろいたことはなかったそうである。
 その場に散れ――と、とっさに号令をかけた少将は、派遣軍の中で、一等おちついていたといえるだろう。しかも、その少将が、すっかりきもをつぶしたといっているのだ。
 それもそのはずだった。
 ごうごうと、爆音をあげて、少将たちの頭のうえを、すれすれに通り過ぎた十数機の怪飛行機の翼には、日の丸のマークがついていたのであった。
「ああ、あれは、日本の飛行機じゃないか」
「日の丸のマークはついているが、まさか、この南極に、日本の飛行機がやってくるはずはない」
「でも、日の丸がついていれば日本機と思うほかないではないか」
 将校の間には、はやくも、いいあらそいがおこった。
 ところが、いったん、通りすぎた日本機は、すぐまた、引きかえしてきた。
「おい、高射砲はどうした」
「高射砲なんか、あるものか」
「じゃあ、高射機関銃もないのか」
「それは、どこかにあった」
「どこかにあったじゃ、間に合わない。総員機銃でも小銃でも持って、空をねらえ」
 と、氷上では、たいへんなさわぎが、はじまった。なにしろ不意打(ふいうち)の空襲である。今もし、そこで、機上から機銃掃射(そうしゃ)か、爆弾でもなげつけられれば、南極派遣軍は、たちまち全滅とならなければならなかった。
 ゆだん大敵とはよくいった。
 さあ、こうなっては、空中をねらったのがいいか。それとも氷のかげで、大の字なりになってたおれていたのがいいのか、わからない。さわぎは、一層大きくなった。
 日本機は、大たんな低空飛行をつづけてあっという間にとび去った。
 氷上のアメリカ兵たちは、そのあとをおいかけて、ぽんぽん、たんたんと、小銃や機銃をうちかけた。日本機が、機銃一つ、うたないのに……。
 そんなことで、アメリカ兵の弾丸が、日本機にとどくはずはなかった。
「ちく生(しょう)。日本機め、うまくにげやがった」
「もう一度、とんでこい。そのときは、おれが一発で、うちおとしてやる」

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