地底戦車の怪人
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著者名:海野十三 

この物語は、西暦一千九百五十年に、はじまる。
すると、昭和の年号でいって、昭和二十五年にあたるわけである。
今年は、昭和十五年だから今から、丁度(ちょうど)十年後のことだ、と思っていただきたい。 作者しるす


   極南へ


 アメリカの貨物船アーク号は、大難航をつづけていた。
 船は、あと一日で、目的の極地へつくはずになっていたが、あいにく今になって、猛烈な吹雪(ふぶき)に見舞われ、船脚(ふなあし)は、急にがたりとおちてしまった。この分では、とても、あと一日で、めざす極地の新フリスコ港に入るのはむずかしくなった。
 なにしろ、極寒(ごっかん)の地帯における吹雪ときたら、そのものすごいことは、ちょっと形容のことばが見つからないくらいだ。
 時は今、極地一帯は、白夜といって、夜になっても太陽が沈まないで、ぼんやり明るい光がさしているのであったが、とつぜん一陣の風とともに、空は、墨(すみ)をながしたように、まっくらになり、とたんに天から白いものがおちだしたかと思うと、まもなくあたりは白壁の中にぬりこめられたようになって、すぐ前にいる水夫の姿が、全(まった)く見えなくなり、階段がどこにあったか、ロープがどこに積んであったか、わけがわからなくなる。
 帆(ほ)ばしらは、今にも折れそうに、ぎちぎち鳴りだすし、舷(ふなばた)を、小さく砕かれた流氷がまるで工場の蒸気ハンマーのように、はげしい音をたてて叩(たた)きつづけるのであった。
 船長フリーマンは、船橋で、一等運転士のケリーと、顔を見合せた。
「おい、一等運転士。これは一体、どうするね」
「は、船長。風向きは幸い北西ですから、当分このままに流されていったら、どうでしょうか」
「まあ、そんなところだろうな。だが、新フリスコ港につくのがいつになるやら、見当がつかなくなった。とにかく、今すぐに、無電で新フリスコ港へ連絡してみなさい」
「は、リント少将を、呼びだしますか」
「それがいいだろう。少将は、明日この船が到着することを、いくども念を押していたから、すこしは叱(しか)られるかもしれないぞ」
「はい、やってみましょう、ともかくも……」
 無電は、新フリスコ港にこの船を出迎えに来ているリント少将につながれた。
「なに、船がおくれる。こっちへ到着するのは、二日のちか三日のちか、見当がつかないって。冗談(じょうだん)じゃないよ。それじゃ万事、めちゃくちゃだ。どうするつもりだ」
「さあ、よわりましたな」
 と、一等運転士は返事をしたが、少将のつよい語気に、すこしむっとした。本船は今、難破もしかねないような吹雪の中に、やむをえず、ぐんぐん流されていくのだ。ひとの気にもなってみないで、いうことばかりいうと、むかむかしてくるのを、やっとおさえ、
「なにしろ、ひどい吹雪で、人力では、どうにもなりません。先が見えないのですから、いつ流氷に舳(へさき)をくだかれるか、わかったもんではないのです」
「困ったなあ。汽船なんか、旧時代の遺物だね。潜水艦などは、大吹雪も平気で、どんどんこっちへついているんだ。君では、話にならない。船長をよんでくれたまえ」
「はあ、船長ですね」
 船長が代って、電話をきいた。
「一等運転士のいうとおりですよ、全くどうにもなりません」
「船長の見込みでは、アーク号は、いつ到着するのかね」
「全く、わかりません。天の神様にでも、うかがってみなくてはなりません」
「おい、子供にお伽噺(とぎばなし)をしているんじゃないよ。はっきりしてくれたまえ、はっきり。こっちは、アメリカ連邦の興廃について、責任を感じているんだからな」
「でも、こればかりはどうも」
「では、仕方がない。こっちから、別の汽船か軍艦を迎えにやることにしよう」
「それは、どうも。迎えていただいても、貨物の積みかえにはどうにもなりませんよ」
「そうだ、その船につんでいる貨物が、明日中にこっちへ到着しないと、せっかく二年間を準備に費した大計画が、水の泡(あわ)になってしまうのだ」
 少将の声は、気の毒なほど、悄気(しょげ)ていた。一体リント少将は、アーク号の積荷の、どんな品物を待ちわびているのであろうか。


   無名突撃隊(むめいとつげきたい)


 アーク号の船内に、「船長の許可なくして入室を禁ず」と貼(は)り紙をした部屋があった。中では、わあわあと、元気な人の声がしていた。
「ゲームは、おれの勝だ。あとは誰かと入れかわろう」
「中尉どの、わしが出ます」
「おう、ピート一等兵か。お前、やるのか。めずらしいのう」
「いや、さすがに気長のわしも、もうこの部屋の生活には、あきあきしましたので、なにかかわったことをしたいというわけです」
「あははは、ピートが、とうとう陥落(かんらく)したぞ。この部屋を呪(のろ)わない者は、一人もなくなったよ、あははは」
 カールトン中尉が、大きなこえで、笑いだした。
「全く、永い航海だ。外は見えないし、新聞も来ないし、そしてこのとおり波にゆすぶられ通しでよ、これであきあきしなかったら、どうかしているよ」
「そういえば、今日は、ばかに揺れるじゃないか。そして、すこし冷えるようだね」
 三十人ばかりのアメリカ陸軍の将兵が、スチームのむんむんする部屋で、トランプにうち興じているのであった。
 彼等は、籠(かご)の鳥にひとしかった。いや籠の鳥なら、籠の外に陽(ひ)がさしているのも見えるし、猫が窓のところを通るのも見えることがあった。しかし、この無名突撃隊の隊員たちには、船内をぶちぬいた教室以外には、少しも外の様子が見えないようになっていたのであった。船腹に、窓がついていたけれど、この窓さえが、外から、かたく眼ばりをされてあった。まるで、重大犯人を護送していくようなものものしさがあった。
 ピート一等兵は、この部隊の人気者だった。彼は、一番年少の十九歳であったし、そのうえ、彼はなかなか我慢(がまん)づよく、そしてふだんは黙り屋であったけれど、どうかすると、鼻をぶりぶりと、ラッパのようにならして、軍歌や流行唄(はやりうた)などをふいてみせた。出港以来、一番たくさんのページをつかって、こくめいに日記をつけているのも、このピート一等兵であった。
「ねえ、中尉どの。もういいころじゃありませんか。いってくださいよ」
 低いこえで、中尉の袖(そで)をひいたのは、パイ軍曹だった。彼は、一行中の巨人であった。日本でいえば、相撲(すもう)の大関格ぐらいのからだの所有者だった。
「なにをいうんだ。おれが知っているくらいなら、もうとっくの昔に、お前たちに話をしてやったよ。上陸してみないことには、なんにも分らないんだ」
「どうもへんですな。隊長が、われわれの隊の任務について全然知らないというのは、どうもふにおちませんよ。どうかいってください。われわれは、どんなことをきかされても、尻込(しりご)みをしませんよ。国家へ忠誠をちかいます」
「知らないんだ、本当に」
「ほんとですか。戦車兵が、船にのる場合はどんな任務のもとにおかれるのでしょうか。それを考えてみてください。私だけに、そっといってくだすってもよろしいんですよ。私は、誰にも洩(も)らしませんから。それなら、いいでしょう」
「だめだ。ほんとにわしは知らないのだ。いうときには、皆にいうよ。だってそうじゃないか。中尉だの一等兵だのという区別はあるが、無名突撃隊の一員であることについては、すこしもかわりがないのだからなあ」
 パイ軍曹は、もう口を開こうとはしなかった。だが、彼は、腹の中で舌うちをしていた。
(どこまで強情(ごうじょう)な中尉だろう。よし、今にみておれ。のっぴきならぬ何ものかをつかまえて、これでも話をせぬかと、ぎゅうぎゅういわせてやろう)
 カールトン中尉は、パイ軍曹の横顔をちらりと見て、さりげなく煙草(たばこ)の煙をふーっと吹いた。
「食事です。食事を入れます」
 高声器から、へんななまりの、子供のこえが聞えた。
「おい、皆、そこでストップだ。食事をやってからにしよう」
「よし来た。今日は、どうか、陽(ひ)なたくさいほうれん草のスープは、ねがいさげにして……」
「おいよろこべ」
「なんだ、例のスープか。セロリが入っているんだろう」
「いいや、陽なたくさいほうれん草のスープだよ」
「うわーッ」


   氷山


 アーク号は、全機関に、せい一杯の重油をたたきこんで、全力をあげて吹雪の中を極地へ近づこうと、大骨を折っていた。
 だが、それはほとんど無駄骨に近かった。船はうまい具合に、前進をはじめたかと思うと、またどんどんと後方へ押し戻されて、思うように前進ができなかった。
 あまつさえ、アーク号の危険は、刻一刻とせまってきたようであった。なにしろ、前が見えないのに、どんどん進んでいくのだから、まるで眼の見えない人が、杖(つえ)なしで、崖(がけ)のうえをはしっているようなものであった。
 船橋に立って、外套(がいとう)の襟(えり)をたて、波のしぶきを見つめている船長と一等運転士の顔は、生きた色とてなかった。
「船長。これはもうだめですね」
「うん、だめなことはわかっている」
「ばかばかしいではありませんか。リント少将には、なんとかあとでいいわけをすることにして、せめて吹雪のやむまで、船を流すことにしては」
「もう、それは、おそい。リント少将は、大きな賭(かけ)をしているのだ。大アメリカ連邦のために、この大きな賭をしているのだ。われわれもまた、この大きな賭に加わらなければならない。なぜならば……」
「あっ、船長、氷山が……」
「うん、しまった。――無電で、リント少将へ……」
 船長の、悲痛なさけびがおわるか終らないうちに、船の舳(へさき)に、とつぜん山のような氷のかたまりがゆらぐのが見えた。とたんに、大音響とともに、船上にいた乗組員たちは、いっせいに、ばたばたとたおれた。
 警笛(けいてき)が、はげしく鳴った。
 アーク号は、めりめりと音をたてて氷山のうえにのしあげた。
 機関がさけたのであろうか、舷側(げんそく)から、白いスチームが、もうもうとふきだした。
「全員、甲板(かんぱん)へ!」
 吹雪する甲板に、乗組員はとびだした。たたきつけるような氷の風だった。たちまち四五人が、つるつるとすべって、海へおちた。
 無名突撃隊の部屋にも、いちはやく警報がつたわった。
 おどろいたのは、隊員だった。
「氷山と衝突した。全員、甲板へ!」
 氷山というのさえ、思いがけないのに、その氷山と衝突して、船は沈みかかっているのであった。
 隊員たちは、さっきすこし寒くなったから、汽船は、ニューファウンドランド沖を、加奈陀(カナダ)の方へ北航しかかったのだろうぐらいに思っていたのであった。
「なんだ、もうベーリング海峡へ来ていたのか」
 ベーリング海峡ではない。それと反対の方向の南極のそば近くへ来ていたのである。
 無名突撃隊をひきいるカールトン中尉は、衝突のときに、はげしく頭部を鉄扉(てっぴ)にぶっつけて、重傷を負っていた。だが、彼はさすがに軍人であった。すぐさまカーテンをさいて、たくましい鉢巻をすると、隊員たちに向って叫んだ。
「皆、おちつくんだ。ここは南極に程近いが、やがてリント少将が、救援隊をよこしてくれるだろう」
「えっ、南極?」
「そうだ、もういっても遅いが南極こそ、われわれ無名突撃隊の目的地だったんだ。われわれは、リント少将の指導下に入って、はじめて、行動の命令をうけるはずであったのだ。それから、われわれは……」
「おーい、ボートはこっちだ。無名突撃隊! 早く、こっちへ来い!」
 中尉の言葉は途中で切られた。
 隊員は、傾いた甲板をすべりながら、われがちに、ボートの方へ走っていった。
「おちつけ! そのうちに、救助隊が、きっとやってくるぞ!」
 吹雪の中に、中尉の声は、ともすれば、うち消された。
 そのうちに、不幸な事がおこった。
 それは、とつぜん、船内から爆発が起ったことであった。ボイラーの中に冷い海水がとびこんだため、爆発が起ったらしい。
 船は、どーんと、はげしくゆれながら、そのたびに傾斜度(けいしゃど)が加わった。
 ピート一等兵は、パイ軍曹とともに、最後に部屋をでた。彼等二人は、一度部屋を出かけたが、外は吹雪と知って、直ちに引きかえして、防寒服(ぼうかんふく)を出しにかかったのであった。日頃の訓練が、この非常時に、役に立ったのであった。
「パイ軍曹どの。なかなか壮観でありますな」
「なにィ、おい、お前は、くそおちつきに、おちついているじゃないか。われわれは、ここで死ぬかもしれないんだぞ」
「一度死ねば、二度と死にませんよ。ゆるゆるとこの千載一遇(せんざいいちぐう)の壮観を見物しておくのですな」
「ふん、お前と話をしていると、わしは、コーヒーでもわかしてのみたくなるよ」
 そういうパイ軍曹も、あわてている方ではなかった。


   沈没(ちんぼつ)迫る


 アーク号の甲板は、刻々に傾斜を増していく。もうこの船は、あと五分と、もたないで、海面下に姿を没してしまうであろうと思われた。そのうえ、意地わるく、大吹雪は、いよいよ猛烈にふきつのって、甲板を、右往左往する人々の呼吸を止めんばかり――。
「おい、ボートはもう一ぱいだ。おれたちは、はいれやしない。ど、どうなるんだろうか」
「うん、仕方がない。艫(とも)の方へいって、さがしてみろ。わりこめる席があるかもしれない」
「だめだだめだ。舳(へさき)の方をさがせ。艫の方はボートごと、ひっくりかえって、たいへんなさわぎだ」
 人々は、なんとかして、ボートの中に、空(あ)いた場所をみつけて、一命を助かりたいものだと、まるで喧嘩(けんか)のようなさわぎであった。
 パイ軍曹は、唇のうえに鉛筆で引いたようなほそい口髭(くちひげ)をひねりながら、大兵のピート一等兵を見上げ、
「おい、ピート。ボートはもう駄目らしい。お前は、あの冷い南氷洋で競泳する覚悟ができているかね」
「わしは、競泳には、自信がねえです。誰よりも一等あとで、海水につかることに、はらをきめました」
「一等あとで海水につかるって、一体どうするんだ」
「いや、なに、一等背の高い檣(ほばしら)のうえへ、のぼっちゃうてえわけでさ」
「ばかをいえ。それだから、お前のような陸兵は、役に立たねえというんだ。陸に生(は)えている林檎(りんご)の樹とはちがうぞ。船がどんどん傾いてしまうのだから、一等背の高い檣てえのが、一向(いっこう)当てにならないのさ」
「そうですかい。なるほど、甲板が、いやにお滑(すべ)り台におあつらえ向きになってきましたねえ。ところで、軍曹どの。あなたは、これから一体どうなさるおつもりなんで……」
「今に、リント少将の飛行船かなんかがこの上へとんで来て、エレベーターかなんかを、この甲板におろすだろうと思うんだ。そいつをこうして、待っていようてえわけだ」
「あっはっはっはっ。軍曹どの。ここは、寄席(よせ)の舞台のうえじゃあ、ありませんよ」
 二人の勇士は、死を覚悟していると見え、とんでもないばかばかしい口を、ききあっていた。
 そのときであった。
 二人の立っているところから、そう遠くない後方で、とつぜん、どどーンと小爆発がおこって、船の構造物が、がらがらと、はげしい音をたてて崩れた。
「ほう、なかなか景気をそえているじゃないか」
 と、パイ軍曹が、へらず口を叩けば、
「わしは、子供のときから、賑(にぎや)かな方が好きです。讃美歌なんかに送られて天国へいくなんて、わしの性分(しょうぶん)にあわねえ。もっと、どかんどかんと、爆発すると、ようがすなあ」
 と、ピート一等兵はやりかえして、太い指で、鼻を下から、こすりあげる。
 二人は、そのまま放(ほう)っておけば、いつまでも地獄の門をくぐるときまで、その調子で、へらず口を叩き合っていたことだろう。――が、幸か不幸か、そこへ邪魔(じゃま)ものがとびこんできた。頭を割られて、顔半面まっ赤に血を染めた将校が、二人の前へよろめきながら現れたのであった。二人は、その将校の顔を見るより早く、声を合せて、叫んだ。
「あっ、隊長だ!」
「あ、カールトン中尉どのだ」
 二人は、その傍(そば)へとんでいった。


   中尉の遺言(ゆいごん)


「隊長どの、しっかり!」
「カールトン中尉! 傷は、かすり傷ですよゥ!」
 二人は、一生けんめい、重傷の隊長を、元気づけた。
 中尉は、間もなく気がついたものらしく、眼をかっと開いた。
「おお、パイに、ピートか。おれは……おれは、もう。……」
「おれはもう――おれはもう帰還されますか?」
「こら、ピート一等兵、だまれ。隊長どのは、これから遺産のことについて述べられるのだ。しずかにしろ」
「こら、二人とも。お前たちは、こここの場にのぞんで、恐怖のあまり、気、気がちがったな」
 パイとピートは、顔をみあわせて、うなずいた。もう何も喋(しゃべ)るまいぞという信号だった。この期(ご)にのぞんで、これ以上、隊長に気をつかわせることは、よくないと気がついたからである。
 中尉は、二人に脇の下を抱(かか)えられながら、はあはあと、苦しそうな息をした。しかし、さすがは軍人であった。その苦しい息の下からも、二人を相手にすることは忘れなかった。
「おい、両人。おれを抱えて、三番船艙(せんそう)へつれていけ。そ、そして、おれのズボンの、左のポケットに、は、はいっている鍵で……その鍵で、扉をあけるんだ」
 パイ軍曹とピート一等兵は、また顔をみあわせて、うなずいた。
「こら、両人とも、そこにいないのか」
 二人は、おどろいた。
「はい、いるであります」
「ちゃんと、いるであります」
 中尉は、眼をとじたまま、うちうなずき、
「そ、そんなら、よし! そこで、三番船艙の中にはいって……はいって、その、そこにある戦車の中に、おれを乗せてくれ。おお、お前たちも乗れ」
「えっ、三番船艙に、戦車があるんですか」
「そうだ。お、お前たちの、お眼にかかったことのない恰好(かっこう)をした新型の、せ、戦車だ。さあ、は、早く、わしをつれていけ」
「隊長どのは、その戦車に乗られて、どうなさるのでありますか」
「わ、わが輩(はい)は、せ、折角(せっかく)ここまで持ってきた戦車に、生前、一度は、の、乗ってみたいのだ。そ、その地底戦車というやつに……」
「地底戦車?」
「そ、そうだ。地底戦車だ。リント少将は、そ、その地底戦車をつかって、南極の地底をさぐる――さぐる計画を、たてられているのだ。は、早くしろ。船が、もう、沈む」
「は、はい!」
 パイ軍曹と、ピート一等兵とは、顔を見合せた。二人の顔は、今までのいずれの場合よりも真剣になっていた。死を覚悟して、死の前に、他の何物への執着もすて去った二人であったが、いまこうして、中尉の紫色になった唇の間から、無名突撃隊の秘密についてのべられてみると、彼等二人は、本来の任務に奮(ふる)い立たないでは、いられなくなった。
「おい、ピート、急ぎ、進め!」
「合点(がってん)です。お一チ、二イ」
「三ン、四イ」
 二人は、中尉を両方から抱きあげつつ、もはや歩行するのも容易でない傾斜甲板のうえを、器用にとんとんと走って、階段口から、下におりていった。
 幸いなことに、三番船艙は、まだ浸水をまぬかれていた。
 扉を、鍵であけた。
 扉は開いた。大きな布カバーを取り去ると、下から現れたのは、怪奇な恰好をした重戦車!
 地底戦車というのは、これか?


   扉(とびら)


「おい、ピート、早くしろ」
「えっ」
「ほら、お前の足もとを見ろ。下から、海水がぶくぶく湧(わ)いてきたじゃないか」
「あっ、もういけませんなあ」
「おい、戦車の扉を開け」
「待ってください。すぐあけます」
「おい、早くしないと、隊長どの、折角の希望が水の泡になる」
「えっ、もう泡をふきだしたのか」
「ちがうちがう。早く、戦車をあけろ」
「やあ、もう大丈夫。さあ、あきますぞ!」
 うーんと、大力のピート一等兵が、両腕に力をこめてハンドルをねじると、戦車の扉は、ついにぐーと、大きく開いた。
「あきました、あきました、軍曹どの」
「ばか。もう間にあわないや」
「えっ。どうしました」
「中尉どのは、昇天された。“生前に、一度でいいから、折角ここまで持ってきた地底戦車に乗ってみたい”といわれたのに、お前が戦車の扉をあけるのに手間どっているもんだから、ほら、もうこのとおり、天使になってしまわれた。ああ、さぞかし無念でしょう。中尉どの、これ一重(ひとえ)に、平生(へいぜい)ピート一等兵が、訓練に精神をうちこまなかったせいです」
「ねえ、軍曹どの。こうなりゃ、気は心でさあ。中尉どのは、息を引取られたかはしらないけれど、一度、この戦車の中へ入れて、座席につかせてあげては、どうでしょう」
「この野郎。中尉どのに、申しわけないと気にして、いやに中尉どのにサービスするじゃないか」
「軍曹どの、早く。ぐずぐずしていると、戦車の中に、海水が入ります。中の器械が、濡(ぬ)れてしまいますぜ」
 ピート一等兵が注意を発したので、パイ軍曹は、ぎくりとした。
「おい、早くしろ。浸水させちゃ駄目だ。お前から、先へ入れ」
 軍曹は、ピートの尻をうしろから、どんとつきあげた。ピートは、ばね仕掛(じかけ)の人形のように戦車の中に飛びのったが、そのときまたどどーん、どどーんと、相ついで小爆発が起って、船体がぐらぐらと、動揺した。
「あっ、軍曹どの。早く、こっちへ入って、戦車の扉をしめてください。いよいよ、これは浸水、まぬがれ難(がた)しです」
「そうか。あっ、ほんとだ。それ、そこから海水が流れこんでいたじゃないか、靴をぬいで、どんどんかいだせ」
「軍曹どの、扉を!」
「おお、そうだ。扉を閉めるぞ!」
 パイ軍曹は、力一杯、戦車の扉をばたんと閉じた。
 とたんに、戦車内には、電灯が、ぱっと点(つ)いた。自動式の点灯器がついていたのである。二人は、うれしそうに、あたりを見廻(みまわ)していたが、そのうちに二人の視線が、ぱっと合った。そのとき二人は、べつべつに、同じことを思い出した。
「おい、ピート一等兵。カールトン中尉どのの姿が、見えないじゃないか」
「そうです、軍曹どの。いま、私が申上げようと思ったところです。あなたは、なぜ、中尉を外に置いたまま、その扉をお閉めになったんですか」
「ふーん、失敗(しま)った。おれが悪いというよりも、貴様(きさま)が、たいへんな声を出して、扉を閉めろ閉めろと、さわぎたてるもんだから、とうとうこんなことになったんだ」
「あっ、そうでありましたか。じゃあ、わしがすぐいって、お連れしてまいりましょう」
 ピート一等兵は、奥からのこのこと出てきて、戦車の扉のハンドルをまわそうとしたから、パイ軍曹はおどろいて、ピートの手に噛(か)みついた。


   落下速度


「ああ痛い。軍曹どのに申上げます。軍曹どのは、狂犬病に罹(かか)られました」
 と、ピート一等兵は大粒の涙をはらいおとしながら、叫んだ。
「なにを、このばか者! この扉をあけて、どうしようというのか。この扉をあければ、たちまち海水が、どっと流れこんでくるじゃないか」
「えっ、そんなことはありません。どっと、流れこんでくるなんて、そんな……」
「さっきとはちがうぞ。あれからかなり時刻がたっている。おいピート。この戦車は、もう海面下に沈んでしまった頃だぞ」
 パイ軍曹は、そう叫んで、自分でも、真青(まっさお)な顔になった。
「ええっ、本当ですか、軍曹どの。この戦車は、ついに、海面下に没しましたか」
「大丈夫、それに違いない」
「それじゃ、わしたちは、もう海の上を見ることかできなくなったんですか」
「もう、よせ。貴様がくだらんことをいうから、くだらんことを思い出す」
「いや、くだらんことではないです。わしは、この戦車が、われわれの棺桶(かんおけ)であることを、どうかして、早く信じ、なお且(か)つ、ついでに、この棺桶を一歩外へ出た附近の地理を、なるべく、頭の中に入れておこうと思って、懸命に努力しているところです」
「もういい。戦車の外のことなんて、もうどうでもいい」
「じゃあ、この棺桶は、じつにすばらしいですなあ。オール鋼鉄製の棺桶ですぞ。棺桶てえやつは、たいていお一人さん用に出来ていますが、軍曹どの、われわれのこの棺桶は、ぜいたくにも、お二人さん用に出来上っていますぜ」
「おい、しばらく、黙っとれ。おれは、なにがなにやら、わけがわからなくなった」
 パイ軍曹は、座席のうえに、うつ伏して、両腕で、自分の頭を抱えてしまった。
 それを見て、ピート一等兵も、なにやら、心細くなって、自然に口に蓋(ふた)をした。
 ざあざあと、気味のわるい音が、この戦車の壁の外でする。ごーん、ごーんと、鉄板を叩くような音も、聞える。
 と、とつぜん、どどどどーんと、四連発の大砲を、あわてて撃ちだしたときのように、おそろしい響きが伝わってきた。――と、思ったとき、そのとき遅く、二人の乗っていた戦車は、ぐらぐらとうごきだした。
「おい、たいへんだ」
「足が、ひとりでに、上へ向いていくぞ」
 戦車はまるでフットボールを山の上から落したときのように、天井と床とが、互いちがいに下になり上になりして、弾(はず)みながら、落下していくのが、二人にも、やっとわかった。
(どうなるのであろう? これも、カールトン中尉の遺骸(いがい)を、外に置き忘れてきたためか!)
 二人は、もう、生きた心もなかった。


   静かな海


 はげしいいきおいで、何千メートルという深い海底へおちていく地底戦車の中で、パイ軍曹とピート一等兵とは車内を、ころげまわったり、ぶつかったりして、たいへんな目にあった。床だと思っていると、それが、ぐらっとうごくと、天井になったり、そうかと思うと、天井が、横たおしになって、かべになったり、二人は身のおきどころもなかった。いや、身のおきどころがないなどという生(なま)やさしいことではなく、からだとからだが、いやというほどぶつかり、そうかと思うと、鉄壁に、がーんと叩きつけられ、戦車が海底にやっと達したときには、とうとう二人とも気をうしなってしまった。
 だが、この地底戦車は、よほどしっかりできているものと見え、万事異常はなく、車内の電灯も、ちゃんと点(つ)いていて、エンジンのうえに、長くなって倒(たお)れているパイ軍曹とピート一等兵の二人を、気の毒そうに照らしていた。
 ここで、二人が、そのまま息をひきとってしまえば、もう『地底戦車の怪人』も、ここでおしまいになるはずである。これから後が、なかなか長くて面白い冒険談となるのである。だから、読者諸君は、パイ軍曹とピート一等兵とがたいへん好都合にも、間もなく息をふきかえしたことに気がつかれるだろう。
 これは、二人にとって、どれくらい後のことだったか、さっぱり分らない。どっちが、先に気がついたのか、それも、はっきりしないが、とにかく二人は、
「うーむ」
「あ、いたッ」
 と、別々に呻(うな)りながら、手足を、そろそろとうごかしはじめた。だが、四肢(しし)はくたくたになり、首の骨はぐらぐらになっているので、気の方は一足おさきに、相当しゃんとしながら、からだはいうことをきかないのであった。
「うーん、あ、たたたたッ」
「とめ、とめ、とめ、とめてくれたか」
 と、うわごとのようなことを、二人は、とめどもなく喋(しゃべ)りちらす。二人が、傾斜した車内に、半身を起してあぐらをかくまでには、十七、八分もかかった。
「おい、ピート一等兵、だらしがないぞ」
 パイ軍曹は、自分のことは棚(たな)にあげて、兵を叱りつけた。
「はい、軍曹どのが、あれから今まで、一度も号令をかけてくださらないものでありますから自分もつい休めをしていたのであります」
「なにをいうか。頭に大きな瘤(こぶ)をこしらえて休めもないじゃないか」
「いや、これも、軍曹にならったわけでありますが、さすがに上官の瘤は、自分の瘤よりも、一まわりずつ大きいのでありますな」
「ばかをいえ」
 こう、へらず口が、どんどん出るようでは軍曹も一等兵も、瘤こそ作ったが、まず元気はもとにもどったものと思われる。
「おい、ピート、水が飲みたいが、水を持ってこい」
「はい、どこから、持ってきますか」
「……」
 軍曹は、へんじをするすべを知らなかった。ここは、どうやら深い海底のように思われる。扉をあければ、ふんだんに水はありながら、その水は飲めないときている。全く、いじのわるいものである。いや、そんなことよりも、海底におちながら、外部から、海水も侵入せず、空気もくさくならないのが、なにより天の助けと、ありがたく思わなければならない。考えていくと、こうして、二人とも助かっていることが、だんだんふしぎで、そしておそろしくなってくるのだった。
「パイ軍曹どの。一体自分は、只今(ただいま)、生きているのでありますか、それとも死んでしまったのでありましょうか」
「なにッ。死んだ奴(やつ)が、そんなに上手に口がきけるか。また、おれの声が、きこえたりするものか。ばかなことも、やすみやすみいえ」
 と、叱ったものの、軍曹は、ピート一等兵が、とつぜんへんなことをいいだしたので、気味がわるくて仕方がなかった。
「はあ、やっぱり、只今は生きているのでありますか。なるほど」
「只今も、なるほどもないよ。ちと、しっかりしなきゃいけない。びっくりするのも、無理ではないけれど……」
「いや、軍曹どの。自分は、たしかに一度死んだんです。それから再度、生きかえったのです、たしかに、或る期間、死んでいました」
「そんな、へんなことをいうものじゃないよ。死んだ奴が、どうして生きかえるものか」
「いや、そうではありません。軍曹どの。なぜ、そんなことをいうかと申しますと、さっき自分は死んでいる間に、幽霊を見かけました。幽霊が見えたんです。そのへんを、すーっと歩いていましたよ」


   幽霊(ゆうれい)


「おどかすなよ」
 と、パイ軍曹は、鉛筆ですじをつけたような細い口髭(くちひげ)をうごかして、いった。
「いえ。ほんとです。軍曹どのとは、全くちがった服装をしていました。幽霊の足音が、ことんことん床を鳴らしたのを、聞いたようですよ」
「ふーん」
 パイ軍曹の顔が、なぜか、さっとかわった。そしてピート一等兵を、じっと睨(にら)み据(す)えていたが、やがて口をひらき、
「その幽霊なら、さっき、わしも、ちょっと見たよ」
 と、こんどは軍曹が、へんなことをいいだした。
「はあ、軍曹どのも、見たでありますか。じゃあ、夢じゃなくて、本物の幽霊が、この戦車の中に現れたんですね。ううッ」
 と、大男のピート一等兵は、肩をすぼめた。戦車の中に、幽霊が現れるなんて、途方(とほう)もない話だ。相当、戦場ではたらいてきた戦車なら、そのとき戦死した勇士の幽霊が、出てくるかもしれない。だが、これは新しく出来たばかりの戦車なのである。戦争に出たことは、一度もない。その戦車に、幽霊が出てくるなんて、へんなことだ。
「あははは」
 と、パイ軍曹が、とつぜん笑い出した。
「軍曹どの、なにが、おかしいのですか」
「あははは」
 軍曹の声は、戦車の壁に反射して、妙に、ううーんと後をひいた。ピート一等兵は、肩のうえに、手をかけながら眼を丸くした。
「おい、ピート一等兵。幽霊が出るなんて、嘘(うそ)だよ」
「はあ、嘘ですか」
「つまり、これは生理的の現象だ。いいかね。おれたち二人は、さっきから、同じように頭をがんがんとうったじゃないか。だから、同じように、頭がへんになって、同じように幽霊みたいなものの姿が、見えたというわけだよ」
「ははン、同じように頭がへんになって、同じような幽霊の姿が、頭の中にうかび出たというわけですか。なるほど、そうかもしれませんなあ。軍曹どのと自分とは、前から、双生児のように、なんでも気が合うのですから、そういう場合に、二人の頭の中に、別々に出てくる幽霊が同じ姿をしていても、かくべつふしぎでないわけですなあ。なるほど、ああなるほど」
「お前のように、臆病(おくびょう)で、びくびくしていると、西瓜(すいか)が、機雷に見えたりするのだ。しっかりしろ。あははは」
 パイ軍曹は、笑った。だが、その笑いごえは、あまり朗(ほがら)かであるというわけにはいかず、どっちかというと、とってつけたような笑いごえだった。
 それでも、ピート一等兵は、やっと、おちついたようであった。
「なあに、自分は、たいていの物にはおどろきませんが、幽霊ばかりは、にが手なんですよ。あのひきずるような足音、そして地の底から呼んでいるようなあのうつろなこえ、あいつは、まっぴら御免(ごめん)ですよ」
 そういいながら、彼はポケットをさぐって、煙草(たばこ)をさがした。だが、煙草は、なかった。
「あれ、煙草がない。しまった、船へ、おいてきた。軍曹どのは、お持ちですか」
「なんだい、煙草か。うん、煙草なら、ここにあるが、まさか、この戦車の中じゃ、油があるから、危くてすえないよ」
「ははあ、なるほど」
 と、ピートは、うらめしそうだ。
「あっ、たいへんだ。軍曹どの」
「なんだ、おどかすない」
「たいへんですよ、これは。煙草のないのはいいが、一体これからのわれわれの食事はどうなるんでしょうか」
「うん、そのことには、よわっているんだ。しかし、一体われわれは、いつまで生きているかということの方が、先の問題だよ。まあ、どうせ、無い命なんだから、それまでは、朗かにやろうぜ」
「朗かにやれといっても、食うものがなくちゃ、朗かにやれませんぜ」
「ぜいたくいうな。とにかく、この戦車は、深い深い海底へおちこんでいるんだから、救援隊は来っこなしさ。ただ、こうして死をまつばかりだよ」
「いやだなあ。どうせ、乗るんだったら、戦車よりも、破れボートの方がよかった」
「なぜ?」
「だって、ボートにのってりゃ、仰向(あおむ)けば、天から降ってくる雪を、口の中にいれることができるし、たまにゃ、近くの流氷の上に白熊がのっているかもしれませんから、銃をぶっぱなして、白熊の肉にありつけるかもしれない」
「やめろ、そんなうまそうな話は! よけいに腹が減って、よだれが出るばかりだ」
 と、パイ軍曹は、腹を立てた。


   林檎(りんご)


 傾いた戦車の中に、電灯だけは、ぜいたくにも煌々(こうこう)と照っている。
 ピート一等兵は、大きな図体(ずうたい)を、小さく縮めながら、失心したようになって、床を見つめている。
(ああ、なんとかして、もう一度、パンというものをむしゃむしゃ食べてみたい。娑婆(しゃば)には、むかしビフテキなんてえ、うまいものがあったなあ)
 そんなことを考えているうちに、ピート一等兵は、おやという表情で、鼻をひくひくさせた。
(おや、なんか食べ物の匂(にお)いがする!)
 彼は、くすんくすんと、鼻をならした。
 すると、とつぜん、まるで、お伽噺(とぎばなし)のようなことが起った。それは、傾いた戦車の鉄板の床の上を、林檎(りんご)のような形をしたものが、ころころと、ピート一等兵の足許(あしもと)へ、ころげてきたのであった。
 彼は、太い指で、いくども、眼をこすった。
(あれえ、おれの眼は、どうかしているぞ。あまり食べ物のことを考えつづけたため、とうとうおれの頭はへんになって、有りもしない林檎が目の前に見えるのじゃないか)
 眼を、ぱちぱちしてみたが、たしかに彼の足許には、林檎がおちている。
 彼は、いくたびか手をのばそうと思いつつ、いやいや手をだすまいと、はやる心をおさえた。なぜなら、手を林檎の方へのばしたが最後、せっかくの林檎が、しゃぼん玉に手をつけたように、つと、消えてしまうのではなかろうか。幻(まぼろし)にしても、林檎の形が、見えている間はたのしい。幻が消えてしまえば、どんなに、つまらないだろう。それを考えると、ピート一等兵は、手をのばすこともならず、からだを化石のようにして、足許へ転がってきたその怪しい林檎の形を、見まもった。
 だが、その林檎の色は、あまりにうつくしかった。まっ赤なつやつやした色が、食欲をそそりたてずには、おかなかった。そして、あの甘ずっぱい林檎の匂いまでが、つーんと彼の鼻をつきさしたように思ったのである。
 ついに、ピート一等兵は、幻の林檎の誘惑に敗けてしまった。彼はぶるぶるふるえながら、手をのばした。そして、思いきって、林檎をつかんだ。
「おやッ」
 大きなおどろきのこえが、彼の口をついてとびだした。
「あっ、ほんとの林檎だ!」
 彼は、その場に、おどりあがった。林檎を頭の上に押しいただきながら……。そして、ひょっとしたら、自分は、とうとう気がへんになってしまったのかもしれないと、考えながら……。
「おい、どうした、ピート一等兵。しっかりしろ。気をしずめなくちゃ……」
 パイ軍曹はだしぬけにピートが、さわぎだしたもので、これまた、心臓が破裂したようなおどろき方だった。
「軍曹どの。奇蹟(きせき)です。大奇蹟です」
「なんじゃ、奇蹟とは」
「あり得ないことが起ったのです。ほら、この林檎です。自分の足許へ、ころころと転がってきました。この林檎がですよ」
「あっ。林檎だ! こっちへ、よこせ」
「だめです。自分が見つけたんです」
「一寸(ちょっと)見せろ。この林檎は、どこにあったのか」
「軍曹どの、半分ずつ食べることにしましょう。自分にも、残してください」
「食べるのは後まわしだ。おいピート、この林檎は、喰(く)いかけだぞ。お前、早い所、やったな」
「いいえ、うそです。自分は、まだ一口も、やりません」
「それは、ほんとか。ほら見ろ。ここのところに歯型がついている。お前が、かじらなければ、誰が、ここのところを、かじったんだ」
「さあ? とにかく、まだ自分は、決してかじりません」
「じゃあ、いよいよこれはへんだぞ。お前がかじらず、おれがかじらないとすれば、この生々(なまなま)しい林檎のうえについている歯型は、一体、だれがつけたんだろう?」
 二人は、ぞーっとして、互いに顔を見合せた。そして、どっちからともなく、かすかにうなずいた。次の瞬間に、二人は、ひしと寄り合って互いに抱きついていた。
「わ、幽霊が、あの林檎をかじったんだ」
「ああ、幽霊の歯型! やっぱり、この戦車の中にゃ、ゆ、幽霊がいるんだ!」
 歯型のついた怪しい林檎は、二人の勇士を、ふるえあがらせた。一体、どうしたわけだろう?


   林檎の幽霊


 ほんとに、幽霊が、この地底戦車の中に、巣くっているのだろうか。
 鼻の下に、鉛筆ですじをひいたようなひげを生やしているパイ軍曹は、こんな新しい戦車の中に、幽霊などがでてたまるものかと、さっき大男のピート一等兵を叱りつけたのであるが、今や、彼の自信は、嵐にあった帆船のように、ひどくかたむきだした。
「おい、ピート一等兵」
「へーい」
 二人は、抱き合ったまま、小さい声で、話をはじめた。
「お前、これから、戦車の隅から隅までさがして、幽霊がいないかどうか、たしかめてみろ」
「そ、そんな役まわりは、ごめんです」
「なに、お前は、上官の命令に背(そむ)くのか」
「いえ、そんな精神は、ないであります。ですが、軍曹どの。自分は、生きている敵兵は、たとえ百万人が押しかけてこようと、尻ごみはしないのですが、死んでいる幽霊は、たとえ一人でも、どうも虫がすきませんであります」
「お前は、あきれた臆病者だ。そんな弱虫とは知らず、おれはこれまで、お前にずいぶん眼をかけてやった。アイスクリームが、一人に一個ずつしか配給されないときでも、おれはひそかに、お前には二つ食べさせてやったのだ。あああ損をした」
 パイ軍曹は、とんだところで、ピート一等兵をこきおろしたが「アイスクリーム」といったとき、彼は、もうこの戦車の中ではどんなことをしたって手に入れることのできないアイスクリームであることを考えて、しらずしらずに大きな吐息(といき)が出た。
 ピート一等兵は、軍曹から、とめどもなく叱られながら、足許にころがっている林檎を、じろじろと、横目でながめて、生(なま)つばをのみこんでいた。
 パイ軍曹は、むずかしいかおをして、広くもない戦車の中を、じろじろとみまわした。幽霊が、かくれているとすれば、どこにいるのだろうか。それとも、幽霊というやつは、ふだんは、人間の目には見えないのかもしれないから、案外、自分の目の前に立っているのかもしれない。じっと耳をすましていたら、幽霊の吐息がきこえるのではないか、などと、いろいろと気をくばって、幽霊の発見に努力をしたのであった。
 だが、幽霊のいるらしい気配は、一向(いっこう)にしなかった。
(どうも、へんだ。おれは、どう考えても、こんな新しい戦車の中に、幽霊がすんでいるとは思わない)
 パイ軍曹は、そのとき、こんなことを思った。
(さっき、ピートと二人で、この戦車の中へ、とびこむとき、船員か戦友かが、ちょうど食べかけていた林檎を、二人のどっちかが、靴のさきでけとばして、この戦車の中へ、けこんだのではあるまいか。すると、あの林檎には、歯型のほかに、靴でけとばしたあとが、ついているかもしれない。もう一度、あの林檎をとりあげて、よくしらべてみよう!)
 林檎と幽霊の関係に、パイ軍曹の悩みは、ひとかたではなかった。
 パイ軍曹は、きょろきょろと、あたりを、みまわした。
「はて、林檎は、どこへおいたかな」
 林檎が、見あたらない。
「おい、ピート一等兵。さっきの林檎を、もう一度、しらべたい。林檎は、どこにある」
「さあ、どこへいきましたかしら……」
 ピートは、ふしぎそうにいった。
「おい、ピート。そっちへ、離れてみよ。猿の子供みたいに、いつまでも、おれに抱きついていても仕方がないじゃないか。お前が、あの林檎を、尻の下に、しいているのではないか。早く、のけ!」
「はい、今、のきます」
 ピート一等兵は、立ち上った。
 二人は林檎をさがした。
 ところが、林檎は、どこにもなかった。軍曹は、ピート一等兵のポケットの中までさがしたが、林檎はなかった。もちろん、自分のポケットにもなかった。
「どうも、へんだな。今、そこのへんにあった林檎が、どうして、なくなったんだろう。これは、いよいよふしぎだ」
 パイ軍曹の顔が、また一だんと、青くなった。
 すると、ピート一等兵が、手で自分の口にふたをしながら、
「あっ、わかりました。軍曹どの、林檎が見えなくなったわけが、わかりました」
「お前に、わかった? どういうわけか」
「つまり、あの林檎も、幽霊だったんです。林檎の幽霊だから、とつぜん、林檎の姿が、かきけすように、見えなくなってしまったというわけです」
「なるほど、林檎の幽霊か、そういうことが、あるかもしれないなあ。ああ気持がわるい!」
「ああ軍曹どの。林檎の幽霊! ああ、おそろしいですなあ」
 といいながら、ピート一等兵は、胃袋の中からこみあげてくるげっぷを、手でおさえた。林檎くさいそのげっぷを……。


   早業(はやわざ)


 パイ軍曹が、林檎と幽霊の関係について、おもいわずらっている間にピート一等兵は、早いところ、その林檎をしっけいして、皮もたねも、みんな自分の胃袋へおくりこんでしまったのだった。
 すばらしい味だった。彼は、生れてこの方、こんなうまいものを、たべたことがないと思った。胃袋が、いつまでも、生き物のように、うごめいているのが、はっきりわかった。
 おかげで、ピート一等兵は、たいへん元気づいた。もう、幽霊もなんにも、なかった。
 ピート一等兵の元気にひきかえ、パイ軍曹の方は、とつぜん姿を消した林檎の幽霊のことで二重の恐ろしさを、ひしひしと感じ、ますます青くなって、ちぢかんだ。南極の凍りついた海底ふかくおちこんだうえに、人間の幽霊のほかに、林檎の幽霊にまで、くるしめられるとは、なんという情けないことだろう。軍曹は、しゃがんだまま、頭を抱えて、考えこんだ。
 それを見ると、ピート一等兵は、ちょっと気の毒やら、おかしいやらであった。だが、笑うわけにも、いかなかった。
 そこで、彼は、軍曹にこえをかけた。
「軍曹どの、このままで、じっとしていては、われわれは、死ぬよりほかありません。ですから、思い切って、この地底戦車をうごかして、ニューヨークまで、かえっては、どうでありますか」
 パイ軍曹は、顔をあげた。そして、あきれがおで、
「ばか。ニューヨークまで、こんな地底戦車にのってかえれるものか」
「しかし、軍曹どの。われわれ軍人は、常にそれくらいの元気は、もっていなければならぬと思うのであります」
「それは、わかっとる。しかし、ニューヨークまでかえるには、何ヶ月かかるかわからない。その間重油をどうするんだ。また、われわれは、なにを食べて、その何ヶ月かを生きていればいいんだ」
 パイ軍曹は、こうなると、ますますひかんしていった。
「なァに、軍曹どの、なにか考えれば、どうにかなりますよ」
 と、ピート一等兵は、ますます元気なこえでいった。くいかけの林檎一個が、たいへんな力を、彼にあたえたのだ。
「どうかなると、口でいうだけでは、どうもならん」
「だめです。軍曹どのは、やってみないうちから、もういけないとおもっていられるから、だめなんです。どうせ、死ぬときは死ぬのですから、じっとしていて死ぬよりも、軍人らしく、この地底戦車で突進しながら、たおれた方が、軍人らしい最期(さいご)ではありませんか」
「なるほど、なあ」
 パイ軍曹は、大きくうなずきながら、立ち上った。
「お前みたいな臆病者に、こっちが、はげまされようとは考えなかった。お前は、ほんとは、臆病者じゃなかったのかなあ」
 パイ軍曹は、感心していった。そして、さっと、しせいを正しくすると、
「集まれ!」
 と、号令をかけた。
 ピート一等兵は、とつぜん、集まれをかけられて、びっくりしたが、すぐさま、かけ足をして、パイ軍曹の前に、不動のしせいをとった。
「番号!」
 パイ軍曹は、大まじ目でいった。
「一チ!」
 ピート一等兵は、きまりがわるくなった。二イ三ンとひとりで、もっとさきをいいたいくらいであった。
「異状ないか」
「はい、全員異状、ありません」
 全員といっても、たった一人である。隊長をあわせても、たった二人だ。
「命令。地底戦車兵第……ええと、第百一連隊第二大隊第三中隊第四小隊のパイ分隊は、只今より出動する」
 と、べら棒(ぼう)に大きな数をいって、
「戦車長は、パイ軍曹。操縦員は、ピート一等兵。第一番砲手はピート一等兵。第二番砲手はパイ軍曹。通信兵はパイ軍曹。機関員はパイ軍曹……」
 どこまでいっても、要するに、たった二人であった。たいへん手が足(た)りないが、どうも仕方がない。
「全員部署につけ!」
 そこでパイ軍曹は、一番高い戦車長席につき、ピート一等兵は、前の方の、操縦席についた。
「部署につきました」
「よし。では、出動! 針路(しんろ)、真南! 傾斜をなおしつつ、前進」


   地中前進


 ピート一等兵が、エンジンをかけた。車内は、たちまち、轟々(ごうごう)たる音響にとざされた。レバーをたおすと、地底戦車は、ごとんごとんと、前進をはじめたのであった。
 パイ軍曹は、配電盤を睨(にら)んだり、戦車のゆく方を考えたり、なかなかいそがしかった。
「おい、ピート。エンジンの調子は、わるくないようだな」
 軍曹は、送話器をひきよせて、いった。ピート一等兵の耳にくくりつけた高音受話器が、軍曹のこえのとおりに鳴った。
「エンジンの調子は、異状ありません」
 ピート一等兵は、なかなか操縦上手(じょうず)だった。戦車は、はじめ、ひどく傾いていたが、まもなく、ちゃんと水平になおって、気もちがよくなった。
 ぎーン、ぴし、ぴし、ぴしッ。
 地底戦車の前にとりつけてある硬い廻転螺旋刃(らせんじん)が、きりきりとまわり、土か氷か岩石かはしらぬが、どんどんくだいて、戦車を前進させているようであった。
 距離積算計というメーターが、だんだんと大きな数字を、あらわしていった。たしかに前進しているのであった。
 こうやって、気もちよく前進していくと、戦車は地上を走っているように思われるのであった。たいへん具合がよろしい。
「停(と)め!」
 パイ軍曹が、号令を下した。
 ピート一等兵は、あわてて、レバーをひいて、ギアをはずした。そして、足踏み式の、給油バルブを閉めつけた。地底戦車は、ぎぎーッと、とまった。
「どうしたのでありますか、軍曹どの」
「うん、ちょっと、外をのぞいてみようと思うのだ」
「ああ、そうですか。多分、海底の氷の塊(かたまり)の中でしょう」
「そうかもしれないなあ」
 パイ軍曹は、展望鏡を、戦車の上から出すために、ハンドルをまわした。
 ハンドルは、なかなかまわらなかった。
「硬いものが、おさえつけているらしい」
 それでも、展望鏡は、頭だけを少し出しているようであった。軍曹は、そこで、車外に、赤外線灯をとぼした。そして、展望鏡でのぞいてみた。赤外線をあてて、展望鏡をちょっとかえると、まっくらなところでも、はっきり見えるのだった。地底戦車には、なくてはならない展望鏡だった。
「おや、これは、土の中だ」
 と、パイ軍曹は、叫んだ。展望鏡の中にうつったものは、たしかに、小さい石を交(まじ)えた水成岩とも土ともつかないあつい層であった。
「えっ。土の中ですか」
「そうだ。われわれは、もうすでに、陸にぶつかっているのだ。これをどんどん進んでいくとうまくいけば、やがて、わが南極派遣隊の駐屯(ちゅうとん)しているところへ出られるかもしれないぞ」
「そうですか。そいつはいい。うまくいくと、これは、たすかりますね」
「うん、とにかく、もっと前進をしてみよう、前進!」
 パイ軍曹のかおにも、生色(せいしょく)が、よみがえってきた。地底戦車は、ふたたび、轟々と音をたてて、前進をはじめた。
「針路、真南!」
 キーン、ぴし、ぴし、ぴしッ。
 地底戦車は、ときどき空(から)まわりをしながら、それでも、だんだん前進していった。
「よし、この分では、相当見込みがあるぞ」
 パイ軍曹は、にんまりと笑った。
 下をみると、ピート一等兵が、汗ばみながら、しきりにハンドルをとっている。電熱器のおかげか、それとも地底深いせいか、車内は、かなりに温い。そのとき、パイ軍曹の眼は、とつぜん、あやしいものの姿を、とらえた。
「おや、林檎だ。さっきの林檎が、あんなところに落ちていた」
 林檎は、ごろごろと転げながら、軍曹の席に近づいた。軍曹は、身をおどらせて、下に下りると、その林檎を手にとった。たしかにほんとの林檎だ。すてきな香りがする。掌(てのひら)の中に、ひんやりとした感じがつたわる。そのとき、林檎を手にとってみていたパイ軍曹は、
「おや、これはへんだよ。歯型がない!」
 と、小首をかしげた。なぜ、こうして、いくつも、林檎が、ころころ転げだしてくるのだろうか。


   林檎の始まり


「ピート一等兵。エンジンをとめろ。そしてこっちへ下りてこい」
 と、パイ軍曹は、鼻の下に、鉛筆ですじをひいたような細いひげを、ぴくりとうごかして、さけんだ。
「さあ」
 大男のピート一等兵は、地底戦車のエンジンをぴたりととめ、よっこらさと、座席から下りてきた。
「軍曹どの。もう、自分に対し、勲章(くんしょう)でも、下さるのですか」
「ばかをいえ。もし、このままうまく地上にでられることがあったら、お前を銃殺するよう、上官に申請してやる」
「じょ、冗談を……」
「いや、ほんとだ。貴様は、じつに、けしからん奴だぞ。この地底戦車内において、指揮官たるおれの眼をごま化し、貴重なる食料品を無断で食べてしまうなどということが、許せると思うか」
「はあ、――」
 ピート一等兵は、眼を白黒している。さては、パイ軍曹、自分が林檎をしっけいしたことを感づいたな。
「軍曹どの。自分は、幽霊の林檎なんか、たべないであります」
 そんなことが知れたら、たいへんである。ほんとに、銃殺されるかもしれない。食い物のうらみというのは、おそろしいから……。
「なにィ。まだ白を切っているか。よォし、では、さっきの林檎は、食べないことにしておこう」
 パイ軍曹は、眼をぎょろりと光らせ、にやりと笑い、
「気をつけ!」
 ピート一等兵は、気をつけをする。
「一歩前へ! 口を大きくひらけ!」
「ええッ」
 仕方がない。ピート一等兵は、天井の方をむいて、口を大きくひらいた。
「こら、もっと下を向いて、口をあけろ」
「下へ向けないであります。さっきから首の骨が、どうかなったのであります。幽霊のことを、あまり心配したせいであろうと思います」
「つべこべ、喋るな。命令どおりすればよいのだ。――もっと下へむけ。それから、号令とともに、大きく、息をはきだせ。さあ、はじめる。お一イ」
 ピート一等兵は、泣きだしそうな顔をしている。
「はあッ」
 と、申しわけみたいに、小さい息をはく。
「こら、そんな息のつき方では、だめだ。まるで、お姫様が吐息をついているようじゃないか。もっと大きく息を、はきだせ。こういう風に。お一イ、はあ□ 二イッ、息をはあ□」
 軍曹は、いじわるい笑いをうかべて、ピート一等兵のよわっている顔をみあげた。
「軍曹どの。もう、たくさんであります。あれは、自分のしらないうちに、林檎が胃袋の中へ、とびこんだのであります」
 大男のピート一等兵が、べそをかいているところは、なかなかおもしろい。
 軍曹は、やっと、思いのとおりにいって、気がせいせいした。
「そうか、無断でそういうことをやったことに対しては、いずれあとで処罰する」
 と、パイ軍曹は、そり身になって、
「ところで、おれは、もう一つ、こういうものを持っているんだ」
 と、かくしていた林檎を、ピートの眼の前に、ぬっとだした。
「やッ! まだ、あったのですか」
 ピートは、おどろきのこえをあげた。そして、彼は林檎の方へ、手をのばした。軍曹は、すばやく林檎をひっこめると、その手を、いやというほど殴(なぐ)りとばした。


   意外な声


「軍曹どのは、その林檎を、ひとりで、召しあがるつもりなんでしょう」
「そうだ。さっきの林檎は、お前がくってしまった。こんどは、おれに食べる権利があるのだ」
「半分ください」
「いや、やるものか」
 そんなことをいっているうちに、パイ軍曹の胃袋が、もう待ちきれなくなってしまった。この、どこからでてきたか、わけのわからない幽霊林檎の素性(すじょう)をしらべることの方が、先にかたづけなければならないことだったが、こうして手にもち、いい匂いをかぎ、うつくしい林檎のはだをみていると、そんなことは、もう、後まわしだ。はやくがぶりと喰いつかないでは、いられなくなった。
 パイ軍曹は、目をつぶり、大きな口をひらき、林檎をがぶりとやろうとした。これをみていたピート一等兵も、もう、たまらなくなった。
「あ、軍曹どの。お待ちなさい」
「なんだ、なぜ、とめる」
「その林檎は、どうも、たいへんあやしいですよ。さっき、自分がたべたとき、へんな味だと思いましたが、ああ、あいた、あいた、あいたたたッ」
 ピート一等兵は、とつぜん顔をしかめ、自分の腹をおさえて、くるしみだした。
「おい、どうしたピート。しっかりしろ」
「あ、あいた、ああいたい。軍曹どの、その林檎を食べてはいけません。その林檎の中には、毒が入っています。うわーッ、いたい」
 ピート一等兵が、しきりにくるしがるので、パイ軍曹は、心配になった。
「毒がはいっているって? ほんとかなあ」
「ほんとです。毒のある林檎であります。軍曹どの、自分はもうさっきの林檎の毒にあたってとても助かりません。ですから、そのついでに、軍曹どののもっておられる林檎も、自分が食べてしまいましょう。そうでないと、自分が死んだのち、軍曹どのが、この林檎を召し上るようなことになると、軍曹どのもまた一命を……」
「だまれ、ピート一等兵。貴様は、林檎がほしいものだから、そんなうそをついているんだな。ふふん、その手には、のるものか。これをみろ!」
 というが早いか、パイ軍曹は、もっていた林檎に、がぶりとかぶりついた。
「あっ、軍曹どの、それはひどい」
 ピート一等兵は、パイ軍曹に、とびついた。軍曹は、林檎をとられまいとする。そうして二人は、組みあったまま、床にどうと転がってしまった。たった一つの林檎のことで、地底戦車の中に、しばらく格闘がつづいた。まことにあさましいことだったが、二人の空腹は、それほど、もうたえられなくなっていたのだ。

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