大宇宙遠征隊
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著者名:海野十三 

   噴行艇(ふんこうてい)は征(ゆ)く


 黒いインキをとかしたようなまっくらがりの宇宙を、今おびただしい噴行艇の群が、とんでいる。
「噴行艇だ!」
 噴行艇といっても、なんのことか、わからない人もあるであろう。噴行艇は、ロケットとも呼ばれていた時代があった。飛行機は、空をとぶことができるが、空気のないところではとべない。しかし噴行艇は、空気のないところでも、よくとべるのだ。艇尾(ていび)へむけ、八本の噴管(ふんかん)から、或る瓦斯(ガス)を、はげしく噴(ふ)きだすと、そのいきおいで、艇は前方にすすむのである。艇尾には、舵(かじ)があって、これをうごかすと、とびゆく方向は、どうでもかわるのであった。大宇宙をとぶには、飛行機ではとてもだめであるが、この噴行艇なら、瓦斯のつづくかぎり、大宇宙をとぶことができる。
 飛行機時代から、次にこの噴行艇時代にうつっていった。
 それとともに、人間の目は、地球からはなれ、さらに遠い大宇宙へむけられたのであった。
 今、おびただしい噴行艇の群も、大宇宙をとんでいく。
 砲弾を大きくして、尾部に――噴管をつけ、そして大きな翼をうしろの方まで、ずっとのばすと、それはそっくり噴行艇の形になる。
 銀白色のうつくしい姿の噴行艇だった。その胴に、ときどき前にいく僚艇(りょうてい)の噴射瓦斯が青白く反射する。また、ときおりは、空を一杯(いっぱい)に、ダイヤモンドをふりまいたような無数のかげが艇の胴のうえに、きらりと光をおとすこともあった。
 ごうごうたる爆音をあげて、とびゆく噴行艇の群!
 右まきの螺旋形(らせんけい)をつくって、行儀(ぎょうぎ)よくとんでいく噴行艇群だった。
 群は、前後に、いくつかのかたまりになって、無数の雁(がん)の群がとんでいるのと、どこか似たところがあった。
 噴行艇の胴に、黄いろい鋲(びょう)のようなものが並んでみえる。しかし、それは鋲ではない。丸窓なのである。
 丸窓の類は、一つの噴行艇について、およそ百に近かった。その黄いろい丸窓から、人間の顔が一つずつのぞいたとしても、百人の人間が、艇内にいるわけだ。なんという大きな噴行艇であろうか。
 しかし、噴行艇には、百人よりも、もっとたくさんの人間がのりこんでいた。
 これから、わたくしがお話しようと思う噴行艇アシビキ号には、二百三十人の日本人がのっている。みんな日本人ばかりであった。
 いや、日本人がのっているのは、このアシビキ号だけではない。今、この大宇宙を、大きな一かたまりになってとんでいる噴行艇の、どの艇にも、日本人がのっていた。いや、もっとはっきりいうと、全部で、百七十の噴行艇の乗組員は、ことごとく日本人でしめられていたのである。
 この噴行艇群は、一体どこへ向けてとんでいるのであろうか。また何の目的で、このような大宇宙へとびだしたのであろうか。総員四万余名もの日本人が、なぜ一かたまりになって、とんでいるのであろうか。読者諸君はふしぎに思われるであろうが、全くのところ、今から五十年前の人間には、想像がつかないのも無理ではない。
 では、作者は、噴行艇アシビキ号の中にのりくんでいる一人の少年風間三郎(かざまさぶろう)の身のまわりから描写の筆をおこすことにしよう。


   十五年の行程(こうてい)


「おい、三郎。いつまで、ねているんだい。もういいかげんに、目をさましたらどうだい」
 その声は、ひびの入った竹ぼらをふくと出てくる音に似ていた。そこで三郎は、ようやく釣床(つりどこ)の中で、眼をさましたのだった。すこぶるやかまし屋の艇夫長(ていふちょう)松下梅造(まつしたうめぞう)の声だと分ったから目をさまさないわけにいかなかった。ぐずぐずしていれば、足をもって、逆さまに釣り下げられ、裸にされてしまうおそれがあった。そんな眼にあっては、また大ぜいのものわらいである。
「はい。今おきますよ」
「おきますよ? そのよがいけない。はい、おきます――だけでいいんだ。よけいなよをつけるない」
(これはいけない!)
 三郎は、あわてて釣床から下に落ちるようにして、おきたのだった。
 はたして、前には、艇夫長松下梅造が、西郷(さいごう)さんの銅像のような胸をはって、釣床ごしに彼の顔をにらみつけていた。
「艇夫長、お早う。もう朝になったのですかい」
「知れたことだ。あと三十分で、お前の交替時間だぞ。時計は、七時半をさしていらあ」
 艇夫長は、そういって、拳固(げんこ)のせなかで、赤い団子鼻(だんごばな)をごしごしとこすった。
 ぷう、ぷう、ぷう。
 知らない人がきいたら、このとき豚の仔(こ)がないたのかと思うだろう。しかしそのぷうぷうは豚の仔がないたのではなくて、艇夫長の鼻が鳴ったのであった。鼻をこすると、この奇妙な音がするのであった。
(これは、たいへん。艇夫長のごきげんが、きょうはたいへん悪いぞ!)
 三郎は、あわてて、パンツの中へ足をつきこんだ。あまりあわてたので、パンツの片方へ、足を二本ともつきこんだので、彼は身体の中心をうしなって、どすんと床(ゆか)にたおれた。たおれる拍子(ひょうし)に、そこにあった気密塗料(きみつとりょう)の缶をけとばしてしまった。缶は、横とびにとんで、艇夫長の向(む)こう脛(ずね)に、ごつんといやな音をたてて、ぶつかった。
「こらっ、なにをする」
 艇夫長は、顔をたちまち仁王(におう)さまのように、真ッ赤にして、缶をけりかえそうとした。が、とたんに足をとどめて、床から缶をひろいあげた。
「ああ、もったいないことをやるところだった。この一缶が、おれたちの生命(いのち)をすくうこともあるかもしれないのだからなあ。やい、三郎、気をつけろい。ここは、地球の上じゃない。まるで何もない大宇宙の砂漠なんだから……」
 艇夫長は、缶をそっと床の上において、しずかに、元(もと)の隅(すみ)へおしやった。大宇宙の長旅にある噴行艇の中では、一滴の塗料、一条の糸も、人命にかかわりのある貴重な物質であった。
「おい、三郎。早く飯を食って、交替時間におくれるな。いいかい、小僧」
「へーい」
 艇夫長は、ようやく腹の虫を自分でおさえて、艇夫寝室を出ていった。
 三郎は、ほっとため息をつきながら、すばやく身じたくをし、それから釣床の中を片づけて交替の艇夫がすぐ様(さま)ねられるように用意をした。そして急ぎ足で、小食堂の方へ階段をのぼっていったのだった。
 小食堂には、先におきた艇夫たちと、それから非番の艇夫たちが、卓をかこんで、さかんにぱくついたり、茶をがぶがぶのんだり、それから煙草(たばこ)をぷかぷかふかしたり、まるで場末の小食堂とかわらない風景だった。
 三郎が入っていくと、艇夫たちは、にんまりと眼で笑って、そのまま話をつづけるのだった。三郎は、並べられた朝食に手を出しながら、彼らのいうことを、聞くとはなしに耳をかたむけた。
「……というわけなんだが、なんかいい名前を考えてくれよ」
「そうさなあ。そんなことはわけなしだい。チュウイチてえのはどうだ」
「チュウイチ? どんな字を書くのかね」
「宇宙の宙と、一二三の一よ。つまり宙一というわけだ。お前は、はじめて噴行艇にのって宇宙へのりだしたんだろう。だから、その留守(るす)に生れた子供に宙一とつけるのは、いいじゃないか」
「なるほど、宙一か。よい、いい名前だ。昨夜からおちつかなかったが、これでやっと、気がおちついたぞ」
 と、その艇夫は立ち上る。
「お前、どこへいくんだい」
「知れたことよ。これから無電室へいって、今すぐ家内(かない)のやつを、無電で呼びだしてもらって宙一という名をおしえてやるのさ。説明してやらなくちゃ、うちの家内は、あたまが悪いと来ているから、通じないよ」
「まあ、なんとでもするがいい。ついでに、うちの家内にことづけをして、お前の家内のところへ、子供の誕生の祝物をとどけるようにいってくれ」
「ばかなことをいうな。こっちから、さいそくをする――それではおかしいよ」
「遠慮するようながらでもあるまいに、あははは」
「あははは。とにかくいって来よう」
 艇夫の一人は出ていった。
 あとで仲間の艇夫たちは、顔を見合わせ、
「ああはいったが、すこしは里心(さとごころ)がついているのじゃないかな。つまり、この噴行艇がこんど地球に戻るのは十五年後だから、昨夜生れたあの男の子供が、十五六歳にならなきゃ、わが児(こ)の手が握(にぎ)れないんだからなあ」
「うむ、まあ、そうだ。だが、そんな話はよそうや。こっちまでが、里心がつくからな」
 十五年後だと、艇夫たちが話をしているところをみると、この噴行艇は、これからずいぶん長い行程をとびつづけるものらしい。


   ふしぎな味噌汁(みそしる)


「どうだ、三郎。噴行艇に乗って、一ヶ月たったが、すこしは、気がおちついたか」
 一人の艇夫が、煙草をくわえて、三郎の横に、腰をおろした。それは、三郎と同郷の、神戸(こうべ)生れの艇夫で、鳥原彦吉(とりはらひこきち)という男であった。彼は、やさしい男で、そして艇夫には似あわぬものしりだった。三郎は、彼を、ほんとうの兄のように思っていた。
「ええ、だいぶん、なれましたよ」
 三郎は、缶詰の中から、青豆を箸(はし)ではさみながら、にっこり笑った。
「おれはこれで三度日の宇宙旅行なんだが、お前は始めてだから、勝手がわからないで困るだろう」
「困ることも、ありますねえ。第一、朝になった、昼になったといわれても、外はこのとおりまっくらですからねえ。勝手がちがいますよ」
「そうだろう。永年、太陽の光の下でくらしていた身になれば、まっくらな夜ばかりの連続では、くさくさするのも、むりじゃない」
「太陽の光線は、今となっては、とてもなつかしいものですね」
 三郎は、しみじみといった。地上に照る太陽の眩(まぶ)しい光を思い出す。地上から、まいあがっても、成層圏(せいそうけん)ちかくのところまでは、それでもまだうっすらと夕方のような太陽のかすかな光があったが、成層圏の中をつきすすんでいくうちに、いつしかあたりは、暗黒と化(か)してしまった。しかも、はるかに天の一角を見ると、ダイヤモンドをふりまいたように、きらきらと輝くうつくしい無数の星に変って、われらの太陽が、青白く光っているのであった。太陽は光っているが、空はまっくらであった。まるで夜中に満月を仰(あお)いでいるのと、あまり感じがちがわなかった。今から思いかえしてみると、どうもあのころから、地球の上にいたときとは、いろいろちがった出来ごとがふえてきたようであった。
 あれから間もなく、身体がなんだか軽くなったように感じた。机のうえから、物がおちるのを見ていると、なんだか、高速撮影でとった映画のように、ゆっくりとおちるような気がした。そのことを、この鳥原彦吉に話をすると、
(ああ、それは重力が、ぐんと減ったからだよ。つまり地球からずいぶんとおくへ離れたものだから、地球の引力がよわくなったんだ。物もゆっくりおちるだろうし、身体も軽く感ずるだろう。これからもっと先へいくと、重力が減りすぎて、妙ちきりんなことが起るだろうよ。気をつけていたまえ)
 と、この鳥原がおしえてくれたことがあった。
 三郎は、それを思い出したものだから、
「ねえ、鳥原さん。あれからのち、あまり重力が減ったような気がしないが、どうしたんでしょう」
 ときいた。
 すると、鳥原は、吸口まで火になった煙草を、灰皿の中でもみけしながら、
「ああ、重力のことか。重力は大いに減ってしまったさ。しかし、重力が減りすぎると、われわれの仕事や何かに、すっかり勝手がちがってくるので困るのさ。だから、今は、機械をうごかして、この艇内には、人口重力が加えてあるのさ」
「人口重力て、なんですか」
「人口重力というのは、人間の手でこしらえたにせの重力のことさ。そうでもしないと、たとえばこの食卓のうえに味噌汁のはいった椀(わん)がおいてあったとして、お椀をこういう工合(ぐあい)に、手にとって口のところへ持ってくるんだ。すると、お椀ばかりが口のところへ来て、味噌汁の方は、食卓のうえに、そのまま残っているようなことがおこるんだ」
「えっ、なんですって」
 三郎には、鳥原のいうことが、すぐにはのみこめなかった。なにしろ、あまり意外なことだったので、
「あまりへんな話だから、分らないのも無理はないよ。その話は、この前、僕が宇宙旅行をしたときに、実際あったことなのさ。そのとき僕はずいぶん面(めん)くらったよ。なにしろ、口のそばへもってきたお椀は空(から)なのさ。そして味噌汁が、食卓のうえに、まるで雲のようにかかっているのさ」
「雲のようにかかっているとは、どんなことかなあ」
「雲のようにというのが、分らないのかね。つまり、よく富士山に雲がかかっているだろう。あれと同じことで、味噌汁が、下へこぼれ落ちもせず、まるでやわらかい餅(もち)が宙にかかっているような恰好(かっこう)で、卓上(テーブル)の上をふわふわうごいているんだ。僕はおどろいたよ。そして、仕方がないから、両手をだして、宙に浮いている味噌汁をつかんでは、椀の中におしこみ、つかんではおしこんだものさ。あははは」
 鳥原は、そのときのことを思いだしてか、おかしそうに肩をゆすぶった。
「ずいぶん、おもしろい話ですね」
「おもしろいのは、話として聞くからだ。ほんとうに、こんな目にあってごらん。それこそ、あまりふしぎで、気もちがわるくて仕方がないよ」
 そういっているとき、小食堂の天井(てんじょう)にとりつけてあるブザー(じいじいと蜂(はち)のなくような音――を出す一種の呼鈴(よびりん))が鳴りだした。
「あっ、いけない。もう交替時間だ」
 風間三郎は、ひょこんと椅子からとびあがった。


   交替時刻


「第六直艇夫、作業やめ。第一直艇夫、持ち場につけ!」
 高声器から、先任の当直操縦士の声が、ひびきわたる。
「そら、交替だ」
 だっだっだっと、靴音が廊下に入りみだれる。
 風間三郎少年は、ほのあかるい廊下を、元気に、弾丸のようにとんでいって、艇長室の前へいって、直立不動の姿勢をとった。
 噴行艇の中は、ずいぶん規律がきびしかった。作業中は身がるいときは、どんなときでも、駈(か)け足ときまっていた。ちょうど、帝国海軍の水兵さんと同じようであった。これはできるだけ敏捷(びんしょう)に身体をうごかす訓練のためと、もう一つは運動不足にならないためであった。すこしぐらい気持のわるい日でも、号令(ごうれい)をかけられて、艇内をあっちへこっちへ、二三度かけまわると、妙に元気をとりもどす。
 艇長室の前には、一人の少年が立って、風間の来るのを待っていた。それは、木曾九万一(きそくまいち)という、またの名、クマちゃんでとおっている、身体の大きな腕ぷしのつよい少年であった。
 風間三郎と、このクマちゃんこと、木曾九万一とは、大の仲よしであった。そこへかけてきた風間少年を見て、木曾は、にんまりと笑ったが、すぐまたもとのいかめしい顔になって、姿勢を正した。
 その間に風間が、気をつけをして立った。
「艇長室附(つき)の艇夫交替」
 と、クマちゃんが叫んだ。
「艇長室附の艇夫交替」
 と、風間三郎が、反復していった。
「艇長室に於(おい)て、辻艇長は睡眠中、コーヒー沸(わか)しは、もうすぐにぶくぶくやるだろう。ゴム風船地球儀は、目下印度洋(インドよう)の附近を書いていられる。艇長九時になっても起きないときは、オルゴールを鳴らして起せ。その外、引きつぐべきこと、および異状なし。おわり」
 やれやれ、妙な引きつぎ事項である。しかし艇長室の仕事は、まずこんなところである。風間三郎は、木曾九万一のいったとおりを、もう一度おさらえして喋(しゃべ)ってみる。
「あっ、いい忘れた。オルゴールの曲は『愛馬進軍歌』をやってくれってさ」
 木曾のクマちゃん、地金を丸だしにして、あわてて、後につけた。
「分りました。交替艇夫、休息についてよろしい」
「え、えらそうなことを!」
 木曾は、赤い舌をぺろんと出して、風間をからかった。そして、うやうやしく挙手の礼をかえして、廊下を向こうへいった。
 こうして、風間三郎が、本日の第一直をうけもつこととなった。次の交替時間は十二時であった。だから今から四時間を、艇長室にいて、艇長の身のまわりの用を足(た)すのであった。
 風間は、艇長室の扉の把手(とって)に手をかけたが、どうしたわけか、すぐ手を放した。そしてその手で、指を折りかぞえ出した。
「ええと、一つ、コーヒー沸しは、もうすこしで、ぶくぶく噴(ふ)き出すぞ。それから二つ、ええと、ゴム風船の地球儀は、印度洋の附近を書いていられるところだと。それから三つ、オルゴールは『愛馬進軍歌』なり。それからもう一つ何かあったようだが……」
 もう一つの引きつぎ事項を、三郎は、胴(どう)わすれしてしまった。
「まあ、いいや」
 で、三郎は、扉を押して中に入った。
 中には、太陽光線と同じ色の電灯がついている。その電球は、天井一面のすり硝子(ガラス)の中に入っているので、下からは見えない。その代り、天井の上に、本物の太陽の光が、さんさんと照りかがやいているような気がする。とにかく、ここは艇長室だから、とくにいろいろ気をつけてあるのだった。
 部屋の正面に、ジュラルミンの扉がはまっていた。その扉には、薄彫(うすぼ)りの彫刻がしてあって、神武天皇御東征の群像が彫りつけてあった。これは、今大宇宙を天(あま)がけりいく、われら日本民族の噴行艇群にうってつけの彫刻だった。
 かたん、かたん、かたん。
 コーヒー沸かしの蓋(ふた)が鳴っている。三郎は、おどろいて、その傍(かたわら)へいった。すこし沸きかたが早かったようである。
 扉の向こうで、ぐうぐうと、うわばみみたいないびきが聞える。それは、艇長辻中佐の寝息にちがいなかった。中佐のいびきと来たら、これはだれも知らない者はない。
 三郎は、コーヒー沸しの前に、椅子をもっていって、腰を下ろした。そして、手をのばして、地球儀になるゴム風船が、ぺちゃんこのまま、いくつも押しこんである箱を手にとって、その中をさがしはじめた。
 すこぶるのんびりした朝の風景だった。


   コーヒーと戦う


 風間三郎は、箱の中から、ぺちゃんこになっているゴム風船の一つを引っぱりだした。
 それは、半分が赤で、他の半分が紺(こん)で染めてあった。
 三郎は、それを口にくわえて、ぶーっと息を入れはじめた。
 ゴム風船は、すぐ大きくなった。鶏の卵大の大きさから、家鴨(あひる)の卵大の大きさとなり、それからぐんぐんふくらんで、駝鳥(だちょう)の卵大の大きさとなり、それからまだまだふくれて、さあ飛行機の卵大の大きさとなっていった。
 飛行機の卵? て、そんなものがありますか。ああ、間違いました。飛行機の腹にぶらさがっている五十キロの爆弾のことをいおうと思ったのです。
 とにかく、三郎のふくらませる風船は、三郎の顔よりも大きくなり、よく出来た西瓜(すいか)ぐらいの大きさとなった。
 そこで三郎は、ゴム風船の口をきつく結んで、手のうえで、ぽーんとついてみた。まん丸い見事な風船は、ふわーっと上へとびあがって、天井についたが、こんどは上からおちてきた。
 ぽーん、ぽーん、ぽーん。
 風間三郎は、いい気になって、風船をついていた。大宇宙をとんでいることも何も、すっかりわすれてしまったようであった。
 そのうちに、とつぜん奇妙なことが起った。ぽーんとつきあげた風船が、すーっと天井にのぼっていったが、そのまま天井に吸いついたようになって、いつまでも下へ落ちてきそうでない。
(これは、へんだな)
 三郎の身体が、このとき、急にかるくなり、そしてかるい目まいがした。
 その次の瞬間であった。
 じりりん、じりりん、じりりん。
 警報ベルが、けたたましく鳴りだした。
「重力装置に故障が起った。修理に、五分間を要す」
 ベルが鳴りやむと、そのあとについて、高声器から当直の声がきこえた。
 重力装置の故障なんだ!
 前にも、ちょっと説明したが、宇宙へいくに従い、重力がなくなる。この噴行艇の中にいる乗組員たちは、重力がなくなると、勝手がちがって、働きにくくなる。それでは困るから、わざわざ器械をまわして、この艇内だけに特に重力を起してあるのである。その重力装置が、故障になったという知らせである。道理で、ゴム風船が、天井へ上ったきり、落ちてこないわけだ。
(だが、さあたいへんだ!)
 三郎は、急にいそがしくなった。重力装置が故障になると、室内の物品が、それぞれひとり歩きをはじめる。そしてとんでもない勝手なところへいってしまうので、ゆだんがならない。
 三郎は、椅子から下りて、身がまえた。身がまえたといっても、風呂(ふろ)の中で立ち泳ぎをしているときのように、おかしいほど、お尻がふわりと浮きあがる気持だった。 三郎は、両手で膝頭(ひざがしら)をつかんで、角力(すもう)をするときのように、しやがもうとしたが、膝頭が、いやに重いような感じだった。
 こういうときには、なるべく身体のどこへも力を入れないのがいいと聞いていた。へんなところへ力を入れると、身体がとんでもない方向へゆらゆら走っていって、停(と)めようとしても停まらないそうである。
(早く、五分間たってくれますように。そして重力装置が、一刻も早くなおりますように!)
 と、三郎が念じていると、ちょうどその目の前のコーヒー沸しから、妙なものが這(は)いだしてくるではないか。
「あっ、なんだろう、あれは……」
 茶色の飴(あめ)ん棒(ぼう)みたいなものが、コーヒー沸しの口から、にゅーっと横にのびてくる。それは箸(はし)ぐらいの長さになり、それから更にのびて、先生の鞭(むち)ぐらいの大きさにのびた。
「おやおや、たいへんなことになったぞ。一体、あれは何だろうな」
 そのうちに、その茶っぽい棒が、ふらふらしながら、室内をおどるように、うごきだした。しかも、ますます長くなっていく。
 三郎は、すっかりきもをつぶしてしまったが、ようやくこのときになって、あれは重力をうしなったコーヒーが外へ流れだしたのだと気がついた。
 つまり、コーヒー沸しの中では、圧力のつよい蒸気ができて、その圧力でもって、コーヒーの液を口から外へ押しだしたのである。それにはずみがついて、いつまでも、コーヒーは長い棒になって出てきてやまないのであった。
「さっき鳥原さんから、重力のなくなったときの味噌汁の話をきいておかなかったら、ぼくはコーヒーのお化けを見たと思ったにちがいない」
 と、三郎は、ためいきをついた。彼のひたいには、ねっとりと、脂汗(あぶらあせ)がでていた。


   艇長の安否(あんぴ)


 重力装置故障中の五分間は、とても永かった。
 三郎は、空中をのたうちまわるコーヒーにさわるまいと、部屋中をにげまわっていた。あのコーヒーの棒にさわれば、たちまち大火傷(おおやけど)をしてしまう。
 コーヒーの棒は、まわりに白い湯気(ゆげ)をからませながら、いじわるく三郎をおいかけまわすのであった。
「ああ、早く重力装置が、なおらんかなあ!」
 三郎は、あやつり人形のように、ふわりふわりと、身体をかわした。しかし、思わず力がはいりすぎて、いやというほど顔を壁にぶっつけたときは、目から火が出たように思った。
 とつぜん、彼の耳に、あやしい響(ひびき)がはいった。
「あれは何?」と、考えてみるまでもなかった。それは、扉をへだてて、奥の寝台の上で寝ている辻艇長の例のいびきだった。
「ああ、艇長は、まだ、よくねむっていられる!」
 ふだんは、側(そば)で聞いていて、かなりうるさいいびきだったが、きょうばかりは、そのいびきが三郎を元気づけた。
「ああ艇長は、どうしていられるのかしら」
 三郎は、急に艇長のことが心配になったものだから、仕切りの扉のところへいって、そのうえをどんどんと叩(たた)いた。
「艇長、どうしておられますか。異状はありませんか。辻艇長!」
 三郎は、大声でどなった。
 だが、仕切りの扉の向こうから聞えるものは、あいかわらず、ほらの貝をふきたてるような艇長のいびきだけであった。
「艇長、艇長。重力装置が停まっていますが、そっちには異状ありませんか」
 どんどんどん。
 三郎は、やけになって、扉を叩いた。すると、
「あっ、ああーっ」
 艇長の、のびをする声がきこえた。
 ところが、この声は、寝床のうえから聞えず、とんでもないところから聞えたから、三郎は、面(めん)くらった。それは、どう考えても、仕切りの扉のすぐ裏のところで、しかも天井とすれすれまでにのぼっていられるようにしか考えられなかった。
「艇長、大丈夫ですか」
「なんだ、どうしたのか。わしの寝床を、どこへ持っていったか」
 艇長は怒っていられる。
「艇長。只今(ただいま)、重力装置が故障であります」
「なに、重力装置の故障か。それは……」
 といいかけたとたん、三郎の身体は、急に目に見えないもののために、すがりつかれたような気がした。
 ぴしゃん! 室内は、もうもうと煙立つ。煙ではない湯気であった。
(重力装置が直ったんだな)
 と、三郎の頭の中に、そのことが稲妻(いなずま)のようにひらめいたが、とたんに、横の仕切りの扉の向こうに大きなもの音があった。
 どすーん。床が、びりびりと震動した。
(あっ、艇長が天井から墜落されたのでなかろうか)
 三郎は、あの大きなもの音こそ、艇長の大きなからだが床をうった音だと思った。
「艇長。どうされました」
「ああ風間か。わしのことなら、大丈夫じゃ。今、下におりる」
 下におりる。
 艇長の声は、三郎の考えていたのとはちがって、やはり天井の方からきこえた。
 仕切りの扉が、細目にあいた。そして艇長の顔が、鴨居(かもい)のところから、こっちをのぞいた。
「ああ、艇長。よく、お落ちになりませんでしたねえ」
 と、三郎がため息をつくと、艇長は、仕切りの扉をぎしぎしならしながら、それを伝って下へおりながら、
「あはは。艇長が落ちたりして、どうするものか。ちゃんと棚(たな)の上に手をかけて、つかまっていたよ」
「でも、さっき大きい音がしましたねえ。艇長が落ちられたのにちがいないと思いました。すると、あの音は、何の音だったんでしょうか」
「ああ、あの音かい」
 と、艇長は、下へおりて、ほこりの手をはらいながら、うしろをふりかえって、
「あの音は、そこに転(ころ)がっている鞄(かばん)だよ。棚から、すこしはみだしていたところへ、重力が加わったから、落ちたのさ。わしが落ちたら、あれくらいの音じゃすまないよ。わははは、まあとにかくわしも起きるとしよう」
 艇長は、ゆうゆうと服を着かえだした。
「おい風間、お前は知らんだろうが、今日はこの噴行艇から、とてもめずらしいものが見えるぞ。宇宙旅行の、ほんとうの味は、今日はじめて出てくるといっていいのだ。おい、わしの話を聞いて、ちっとは悦(よろこ)べよ」
 艇長は、けげんな顔の三郎をかるくからかった。


   当直の報告


「艇長。そのめずらしいものとは、一たいどんなものですか。早くおしえてください。ぼく、早くききたくてしようがないなあ」
 風間三郎は、すこし鼻にかかったこえで、艇長にねだった。
「はははは。それをききたいのか。まあ、今話をしてしまっちゃ、あとでおもしろくない。いずれ、そのうちに、みんなさわぎだすだろうから、まあ、それまでまっていたがよい」
 艇長は、卓子(テーブル)の前へきて、椅子に腰をかけた。
「艇夫。それよりも、コーヒーだ」
「コーヒーは、今、やりなおしています。重力装置の故障のとき、すっかりこぼれてしまったんです」
「そうか。それはもったいないことをした」
「艇長。コーヒーがわくあいだに、話をしてくださってもいいでしょう」
「はははは。お前はなかなか、うまいことをいって、ききだそうとする。しかし、だめだよ。コーヒーがわくあいだに、わしは地球儀をかくことにしよう。たしか、印度洋(インドよう)のへんまで、かいたおぼえがある」
 そういって艇長は、ゴム風船の入った箱を、卓子のうえへもってきて、片手に絵筆をにぎつた。それから艇長の手が、器用にうごきはじめる。
 そうなっては、もうしかたがない。風間三郎は、コーヒー沸しの前へすわって、その口からゆらゆらとたちのぼる湯気をじっと見つめている。
 室内がいやに、しずかになった。コーヒー沸しのふたも、まだおとなしくしている。
(一体、なんだろうなあ、めずらしいものというのは?)
 三郎が、いやに考えこんでいたとき、天井につけてあった呼鈴(よびりん)が、ぶうぶうぶうと鳴りだした。それは艇長をよびだしている信号音であった。
「艇長、電話です」
 三郎がいうと、地球儀のうえに筆をはこんでいた艇長は、やおら顔をあげ、
「そうらしいね。はい、艇長は電話にかかった」
“はい、艇長は電話にかかった”――ということばは一種の暗合であった。そういうことばをいうと、スイッチが、高声器の方へ切りかえられるのであった。スイッチを手で切りかえるかわりに“ハイ、艇長は電話にかかった”といえば、スイッチが切りかえられるのである。
 むかし、岩の前に立って、“開けゴマ”とさけぶと、岩が二つにわれて、その間から入口があらわれるという話があるが、今はそれと同じことをやって、スイッチを切りかえられるのだった。これを、音波利用のスイッチという。
 高声器から、ぷっぷっという雑音が出てきたと思ったら、とたんに大きい当直長のこえがとびだした。
「艇長。只今、地球が夜明けになりました、どんどん夜が明けております」
「ああそうか」
「雲があるようですが、相当うつくしい輝いて見えます。おわり」
「ああそうか。ご苦労」
 当直長のこえは、高声器の中に引込んでしまった。
「どうだ。今の電話をきいたろう」
 艇長が三郎にこえをかけた。
「あ、今の電話ですか。地球が夜明けだというんですね。そんなことは、一向(いっこう)めずらしいとは思いません」
 三郎は、なあんだという顔をした。
「はははは。一向めずらしくないというのか。めずらしいかめずらしくないか今見せてやるから、それを見たうえのことだ」
 そういうと艇長は、壁の釦(ボタン)を押した。
 すると、二メートル四方ほどの壁ががたんと下におちた。壁の奥には、精巧なテレビジョン装置が、はめこんであったのである。これを使えば、中にいながち、艇の外が手にとるようにはっきり見える。


   地球が見える


 艇長は、例の器用な手つきで、テレビジョン装置についている五つの目盛盤をしきりに合わしていたが、やがて小さなスイッチをぽんといれると、映写幕がぱっとあかるくなった。
 映写幕は、約一メートル平方の大きさであった。そのうえに、なんだか銀色にかがやく櫛(くし)のようなものがあった。
 艇長は、それをみながら、また更に目盛盤を、うごかした。すると、映写幕のうえの像が急にはっきりしてきた。
「ほら、うまく出てきた。これが地球の夜明けだ。いや、夜明けは、この端(はし)のところだけで、きらきら光っているところは、もうすっかり朝になっている」
「えっ、地球が見えているんですか、なんだか銀の櫛みたいだなあ」
「よく見なさい。まっ黒な宇宙を丸く区切って、ここに地球の輪廓(りんかく)が見える」
 なるほど、それはたしかに見える。西瓜(すいか)を二倍大にひきのばしたくらいの大きさであった。
「分ったかね。これが、われわれのうしろにとおざかっていく地球だ。地球が、今日は満月のように丸く輝いてみえるのだ。ほら、どんどん輝いている面積が広くなっていく」
 どういうわけか、どんどんひろがっていくのであった。それは、地球の重力がとどかない遠方に、この噴行艇が出てしまったために、それで地球が早く廻って見えるのだと、あとで分った。
 輝く地球は、全くものすごい。ながく見ていると、身体がさむくなってくるような感じであった。
「見ていると、身体が、ぞくぞくしてきますね」
 三郎は、いつわりのない感想をのべた。
「ああ、もうずいぶん遠く離れたという感じだねえ」
 艇長は、距離のことを考えている。
「月は、どのくらいに見えますか」
「そうだねえ。月がこの噴行艇のそばへ廻ってくれば、これよりももっと大きく見えるはずだよ。おい艇夫。コーヒーが、ぷうぷうふいているじゃないか」
「あっ、コーヒーのことを忘れていた」
 三郎は、大いそぎで、コーヒーのところへとってかえした。
「ああっ、少しで、コーヒーをまたやりそこなうところでした」
 三郎は、卓子(テーブル)のうえで、コーヒーを注(つ)いで出した。
 艇長は、テレビジョン装置のスイッチを切って、壁を元どおりにし、コーヒーをのむために卓子についた。
「ほう、これはよくわいている。あちち」
 艇長は、コーヒー茶碗(ぢゃわん)のふちで、口をやいたので、あわててそれをがちゃんと下においた。そのありさまがとてもおかしかったが、三郎はふきだすのをがまんした。艇長さんのことを、あまり笑うものではないからである。
「こんな宇宙のまん中で、コーヒーがのめるなんて、ありがたいことだ」
 艇長は、コーヒーをふきながら、ひまつぶしにそんなことをいった。コーヒーは、なかなかさめなかった。
 そのときであった。噴行艇は、ものすごい音をたてて震動した。今にも、艇はばらばらに壊れそうなくらいに、がんがんびしびしと鳴りだした。
「やっ、どうした?」
 艇長が立ち上るのと、非常電話器から、当直長のこえがとびだすのと、同時であった。
「艇長。非常報告。只今本艇に向けて、宇宙塵(うちゅうじん)が雹(ひょう)のように襲来しました。損害調査中です」
 宇宙塵? 宇宙塵とは、何であろうか。


   宇宙塵(うちゅうじん)


 震動は、すこし止(や)んだかと思うと、またばらばらがんがんと、ひどくゆれた。
「宇宙塵か。相当ひどい宇宙塵だ」
 艇長は、壁のところへとんでいって、棚から帽子を出して、かぶった。
「お出かけになりますか」
「うん、司令室へ入る」
「宇宙塵とは、なんですか」
「そんなことは、誰(だれ)か他の者に聞け。今、それを説明しているひまはない」
 そうでもあろう。
 艇長は、室を横ぎって、出入口の方へ。
「艇長。コーヒーはおのみになりませんか」
「おお、そうだ。コーヒーをのもうと思っていて、忘れていた。おれも、よほどあわてたらしいね」
 そういいながら、艇長は卓子(テーブル)のところへひきかえしてきたが、とたんに大きなこえでどなった。
「なあんだ。コーヒーは、みんな茶碗の外にこぼれてしまったじゃないか。艇夫、こんど、わしが戻ってきたら、そのときはすぐコーヒーをのませるんだぞ」
「へーい。どうもお気の毒さまで……」
「わしは今日、コーヒーにたたられているようじゃ」
 艇長は、朗(ほがら)かなこえをのこして、室外へとびだしていった。
 震動は、いいあんばいに、ようやくとまったようである。
 三郎は、雑巾(ぞうきん)で卓子のうえをふきながら、
「はて、宇宙塵とは、どんなものだろうねえ」
 と、ふしぎそうに、首をかしげて、卓子のうえの同じところをいくどもふいている。
 そのころ、廊下が、いやにさわがしくなった。大ぜいが、靴音もあらあらしく、かけていく様子である。
 三郎は、不安な気持になって、出入口の外に顔を出した。
「おう、鳥原さん。なんです。このさわぎは……」
 ちょうど幸いに、三郎は、日頃兄のように尊敬している艇夫の鳥原青年が通りかかったのでいそいでこえをかけた。
「やあ、風間の三(さ)ぶちゃんか」
 鳥原は、そばへよってきて、
「どうもえらいことが起ったよ。本艇は、故障を起してしまったよ。そして、編隊からひとり放れて、もうずいぶん後にとりのこされてしまったよ」
 と、鳥原青年は、いつになく、おちつきをうしなっている。
「故障? 本艇のどこが故障したの」
「本艇の後方に、瓦斯(ガス)の噴気孔(ふんきこう)があるだろう。つまりわが噴行艇を前進させるために、はげしいいきおいでこの噴気孔から後方へ向け瓦斯を放出しているわけだが、その噴気孔が、どうかしてしまったらしいのだ。さっぱり速度が出ないうえに、妙な震動が起ってとまらないのだ。ほら、あのとおり気味のわるい震動がしているだろう」
「あ、なるほどねえ」
 鳥原のいったとおりだ。ぶるぶるん、ぶるぶるんと気持のわるい震動音がきこえる。
「鳥原さん、一体どうして、そんな故障が起ったんだろうねえ」
「それは、宇宙塵が襲来したからさ」
「宇宙塵? やっぱりねえ」
 三郎は、またわけのわからない宇宙塵の話にぶつかってしまった。


   修理困難


「鳥原さん、宇宙塵て、一体、どんなもなの[#「どんなもなの」はママ]。さっきから、宇宙塵だ宇宙塵だという話ばかりで、ぼくは面くらっているんだよ」
「なんだ、三(さ)ぶちゃんは、あの宇宙塵を知らないのか」
 と、鳥原青年は、鼻のあたまを手でこすった。
「宇宙塵というのは、わかりやすくいうと、星のかけらのことさ」
「星のかけら? じゃあ、隕石(いんせき)のこと」
「そうそう、隕石も、宇宙塵のお仲間だよ。隕石は、地球へおちてくる宇宙塵のことだけれど、この大宇宙には、地球へおちてこない星のかけらがずいぶん宇宙をとんでいるんだ。時には、それがまるで急行列車のように、或いは集中砲火のように、砂漠の嵐のようにとんでくるんだ。いや、それは、とてもわれわれ人間の言葉ではいいつくせないほど、ものすごいものなんだ。ちょうど本艇は、運わるく、その宇宙塵にぶつかったんだ。いや、宇宙塵が、斜めうしろからものすごいいきおいで追いかけてきたんだ。そして、あっという間に、がんがんがんと、うしろから本艇を叩きつけて通りすぎてしまったのだが、そのときに、宇宙塵が本艇の噴気孔を叩き壊していったらしいという話だ」
「へえ、宇宙塵というやつは、ものすごいねえ」
「そうさ。空の匪賊(ひぞく)みたいなものだ」
「空の匪賊だって、鳥原さんはうまいことをいうねえ」
「はははは。さあ、私もむこうへいって、手つだってこよう」
 鳥原青年は、向こうへいこうとする。
「あ、鳥原さん。待ってくださいよ」
「なんだ、三ぶちゃん。君は、本艇が故障を起したので、ふるえているのかね。元気を出さなくちゃ……」
「ふるえているわけじゃないよ。ただ、一刻も早く、ほんとうのことを知りたいのだよ。――で、本艇は、これから、どうなるのかね。どんどんと、宇宙の涯(はて)へおちていくのかしらねえ」
「さあ、それは何ともいえない。今、本艇の総員が力をあわせて、故障の個所発見と、それを一刻も早く直す方法を研究中なんだ。もうすこしたたないと、はっきりしたことは、だれにも分らないのだ。さあ、私もここでぐずぐずしてはいられない」
 そういって、鳥原青年は、足を早めて、廊下を向こうへかけだしていった。
 三郎は、しばらく廊下ごしに、艇内のあわただしい有様を見ていたが、みんなが、しんけんな顔でとびまわっているのが分るだけで、本艇の運命が、いい方へすすんでいるのか、それともわるい方へかたむいているのか、さっぱりわからなかった。それで、仕方なく彼は廊下見物をあきらめて、また元のように艇長室へ戻ったのだった。
(こんなさわぎにぶつかるんだったら、本艇にのりこむ前に、もっと宇宙のことを勉強してくるんだったのになあ)
 三郎は、今さらどうにもならぬ後悔をした。
「そうだ。早く艇長さんが帰ってこられるといいんだ。そうそう、こんどこそ艇長さんの口にコーヒーが入るように、用意しておこうや」
 三郎は、三度目のコーヒー沸しを始めた。コーヒーは沸いた。
 しかし、艇長辻中佐は、部屋へかえってこなかった。
「ああ、惜(お)しいねえ。今、艇長さんがもどってこられると、コーヒーのおいしいところがのめるのだけれど……」
 艇長のもどってくる様子はなかった。
 三郎は、なんとかして、こんどこそは艇長にコーヒーをのませてあげたくて仕方がなかった。なにかいい方法はないであろうか。
 三郎は、しばらく小さい胸をいためて、考えていたが、やがて思いついたのは、今沸かしたコーヒーを、魔法瓶の中に入れて、司令室にいる艇長のところへ持っていくことだった。
「ああ、それがいいや」
 三郎は、元気づいた。早速(さっそく)魔法瓶にコーヒーをつめて司令室へ持っていった。
 ふくざつないろいろな器械にとりまかれた司令室で汗まみれになって、次々に号令を下していた艇長辻中佐は、三郎の持って来た思いがけない好物の飲物をうけとって、たいへんよろこんだ。
「ああ、艇夫。お前はなかなか気がきく少年だ。ありがとう。これで元気百倍だ」
 艇長は、湯気のたつコーヒーをコップにうつして、うまそうに、ごくりとのどにおくった。そこで三郎はたずねた。
「艇長。本艇の故障は直りそうですか」
「うん、極力やっているが、飛びながら直すのはちと無理らしい。この調子では、本艇を陸地につけて直すことになるらしい」
「本艇を陸地へつけるというと、またもう一度地球へ戻るのですか」
「いや、地球までは遠すぎて、とても引返せない。着陸するのなら、月の上だよ」
「へえ、月の上に着陸するのですか」


   月世界へ


 月の上に着陸するのだという。
 それをきいて、風間三郎少年のおどろきは大きかった。月といえば、いつも地球のうえでうつくしくながめていたあの月だ。三日月になったり、満月になったりする月。雲間にかくれる月、兎が餅(もち)をついているような汚点(おてん)のある月、いや、それよりも、いつか学校の望遠鏡でのぞいてみた月の表面の、あのおそろしいほどあれはてた穴だらけの土地! その月の上に着陸するときいては、三郎少年の胸は、あやしくおどるのだった。
「艇長。月の上へ着陸できるんですか」
 三郎は、辻中佐に、たずねないではいられなかった。
「それは出来る。なかなかむつかしいが、出来ることは出来る。わしは一度だけだが、月の上へ降りたことがある」
 さすがに艇長だけあって、辻中佐は、月の上に降りたことがあるという。三郎は、それをきいて、まず安心したが、しかしどうして月の上に降りられるのか、またどうして月の上で、人間がいきをしていられるのか、ふしぎでならなかった。
「艇長。月の上には空気がありませんね。すると人間は、呼吸(いき)ができないではありませんか」
「それはわけのない話だ。酸素吸入をやればよろしい。われわれも現に噴行艇の中で、こうして酸素吸入をしながら安全に宇宙をとんでいるではないか。だから、月の上に降りれば、一人一人が酸素吸入をやればいいのだよ」
「なるほど、そうですか。じやあ、一人一人が、酸素のタンクを背負うのですね」
「まあ、そうだよ」
 三郎少年は、やっとわかったような気がした。月の上へ降りて、背中に酸素のタンクを背負っている姿を考えると、ちょっとおかしい。
「おい、艇夫。もう外に、心配なことはないかねえ」
 艇長は、からになったコーヒー茶碗を、三郎にかえしながら、たずねた。
「いきをすることが、うまく出来るなら、もう心配はありません」
 三郎は、そう思っていたので、そのとおり返事をした。すると艇長はにやにや笑いだした。
「艇夫、お前は、月の世界へいってから、ずいぶん意外な思いをするにちがいない。今からたのしみにしておきなさい」
「なぜですか、艇長。意外なことというと、どんなことですか」
「まあ、今はいわないで置こう。とにかく、お前たちが月の上に安全に降りられるようにと、ちゃんとりっぱな宇宙服が用意してあるから、安心をしていい。それを着て、月の上を歩いてみるのだねえ。きっと目をまるくするにちがいない。まあ、後のおたのしみだ」
「そうですか。早くその宇宙服を着てみたいですね」
「そのうちに、宇宙服の着方を、だれかがおしえてくれるだろう」
 艇長と三郎とが、そんな話をしているうちに、またまた艇長のところへ、報告がどんどんあつまってきた。機関部からも、機体部からも、航空部からも、どんどん報告がやってきて、艇長は、また前のような忙しさの中に入ってしまった。
「ふむ、ふむ。やっぱり無理か。よろしい、では、本艇を月に着陸させることにしよう」
 機関部の報告によれば、このままでは、どうにもならぬということなので、艇長はついに決心をした。
「命令。本艇の針路(しんろ)を月に向けろ」
 航空士は、直ちに舵(かじ)をひいて、噴行艇の針路をかえた。
 艇長は、また叫んだ。
「命令。月に着陸の用意をせよ。――それから、本隊司令に対し、連絡をせよ」
 いよいよ艇内は、総員の活動で、にわかにさわがしくなった。


   宇宙服


「おーい。三郎君。早くこっちへ来い」
 入口から、三郎を呼ぶ者があった。
 三郎がその方へふりかえると、入口に鳥原青年の顔があった。
「鳥原さん。何の用で?」
「いよいよ月の世界へ下りることになったので、皆、むこうで宇宙服の着方をおそわっているのだ。君も早く来い」
「あ、宇宙服ですか、もう始まったんですね。じや、艇長にちょっとお許しを得ていくことにしましょう」
 三郎は、艇長に申出て、許可をうけ、鳥原青年とともに、艇夫室へ急いだ。
 艇夫室には、艇夫たちが大ぜいあつまっていた。卓子(テーブル)のうえには、高級艇員が立って皆を見下ろしている。
「もう、大たいあつまったようだな。では、宇宙服の着方をおしえる。まず、実物を見せるがこれが宇宙服だ」
 下から、大きな深海潜水服みたいなものが、さし上げられた。説明役の高級艇員は、それを卓子のうえに抱(かか)え上げた。宇宙服は、架台(かだい)にかかっていた。自分の横に、その宇宙服をおいて、説明がはじまった。
「これが宇宙服だ。ちょっと見ると、潜水服のようでもあるが、また西洋の鎧(よろい)のようにも見える。これは全部軽合金で出来ていて、圧力に充分たえるようになっている。手足の間接のところや腰のところが、まるで蜂の腹のようになっているが、これは手足の関節や腰を曲げるのに都合がいいように作ってあるのだ」
 銀びかりのする宇宙服は、見れば見るほど、ものすごいものだった。あんな大きなものを着て歩けるかと心配をするほどだった。
「……この下に、やはり軽合金と特殊ゴムとで出来た長靴をはき、宇宙服にぴっしゃり取付ける。これがその靴だ」
 靴は、みかん箱のように四角ばって、そして大きい。
「また、頭にはこの大きな兜(かぶと)をかぶる、ちょっと見ると、潜水兜に似ているが、大きさはもっと大きくて上下に長い円筒形だ。兜の額のところから、こうして二本の鞭のようなものが生(は)えていて、釣竿(つりざお)のように、だらんと下っているが、昆虫の触角(しょっかく)と似ていて、月の世界で、われわれ同志が話をするのには、なくてはならない仕掛けだ」
 妙な説明が始まった。三郎には、何のことだか、よくのみこめなかった。
「……みんな、この二本の触角をみて、ふしぎそうな顔をしているようだが、これがなかなか大切な物だぞ。つまり、月の世界には空気がないのだ。だから音というものがない。そうだろう。音は、空気の波である。空気がなければ、空気の波も起らない。だから、音がないのだ。すると、月の世界の上で、どんなにわめいても呼んでも、声はつたわらない。だから、話をするのに、音にかわる何物かを使わなければならない。そこでこの触角が役立つのであります」
 なるほど、月の世界には、空気がないから、したがって、音が出ないし、もちろん音がつたわるわけもない。これは困ることであろう。三郎にも、それは分った。
「……で、この触角のはたらきであるが、これは、人間の声に応じて、機械的に震動するようになっている。つまり私がこの兜をかぶり、兜の中でものをいうと――兜の中には空気があるから、声は出ます――すると、その声が、この触角を震動させるのである。つまり、声は空気の震動であるが、触角に伝わって、機械的な震動となって、ぶるぶるぴゅんぴゅんとふるえる。そこで私の触角と、話をしようと思う相手の人の触角とを触れさせておくと、私のいったことばは、例の震動となり、私の触角から相手の触角へ震動が伝わる。その結果、相手の耳のところにつけてある震動板――つまり高声器のようなものさ――が震動して、音を発するのだ。その音というのは、つまり私のことばであります。どうです、わかりますか」


   すばらしい性能


 つまりつまりを連発して、説明者は汗だくだくの説明をこころみた。
 三郎には、くわしいことがのみこめなかったが、よく蟻(あり)同志が話をするとき、触角をぴくぴくうごかして、たがいに触角をふれあわせているのを見たことを思い出した。蟻は、口がきけない代りに、触角をふれあわせて、ことばを相手に通じるのであろうと思っていたが、それに似たことを、いま人間であるわれわれがやろうというのであるらしい。
「触角は、二本ずつついています。右の触角は、こっちからいう方です。左の触角は、相手のいっていることを聞きわける方です。つまり右は送信用、左は受信用といったものです。わかりましたね」
 三郎は、あの説明者が、蟻と蟻とが触角をつけあって話をしているのを例にとって説明すれば、みんなは一層はっきりわかるだろうと思った。
「そのほか、この宇宙服には、いろいろな仕掛けがついていますが、いずれも自動的にはたらくようになっているから、みなさんは、べつに手をつけなくてよろしい。つまり、その仕掛けというのは、保温装置や、酸素送出器は自動的にはたらいてくれます。照明装置や、小型電機などもついていますが、これも自動的にはたらいてくれるから、心配はいらない。つまり、暗くなれば、兜の上や、腹のところや、靴の先から、強い電灯がつくようになっている。明るくなれば、自然にスイッチが切れて消える。無電も、いつでもはたらく。号令は、みな無電で入ってくる。ずいぶん便利に出来上っている。かんしんしたでしょう」
「うまく出来ているなあ」
 艇夫たちは、口々に、このすばらしい宇宙服のことをほめた。
「ちょっと、おたずねしますが……」
 とつぜん叫んだのは、三郎であった。
「何ですか、君の質問は……」
 三郎は、ちょっとあかい顔になって、
「どうも、心配なことがあるので、おききしますが、この宇宙服を着ている間は、何にもたべられないし、何にものめないのですか」
 と、たずねた。月の世界を歩きまわっているのはいいが、そのうちに、のどがかわき、腹がへって、その場に行きだおれになってはたいへんだと思ったのである。
「ああ、飲食装置のことだね。それは、今説明するのを忘れていた。失敬(しっけい)失敬」
 と、説明者は、にが笑いをして、
「飲食物は、兜の中に入っています。そして、左の腕に三つの釦(ボタン)がついているでしょう。その三つの釦には、水、肉、薬と書いてある。水の釦を押すと、水が兜の中へ出ます。ちょうど口の前に管の出口があってそこから出るのです。だから口をあいていれば、うまく口の中へ入る。どうです、うまい仕掛けでしょう」
 と、説明者は、自分が発明者であるかのように、得意になっていった。
「……肉と書いてある釦を押すと、同じ管の出口から肉がとび出します。これはかたい肉ではなく、煮(に)たものをひき肉にしてあって、おまけに味もつけてあります。それから薬と書いてある釦からは、ねり薬がとびだします。これは野菜を精製したもので、やはり糊(のり)のようになっていますから、たべやすい。この水と肉と薬の三つを、すこしずつたべていれば充分活動ができるのです。わかりましたか」
「なぜ、おべんとうをもっていって、手でつかんで口からたべないのですか」
 三郎は、質問をした。
 すると説明者は、ぷっとふきだした。
「じょうだんじゃない。兜をかぶっているから、たべられませんよ。だから、おべんとうを下げていっても、むだです。――みなさん、釦に気をつけてくださいよ」


   着陸命令


 三郎たちは、その場で、宇宙服を配給され、それを着た。
 金属で出来た鎧(よろい)や兜(かぶと)は、見たところ、ずいぶん重そうであったが、身体につけてみると、思いのほか、そう重くはなかった。なかなかいい軽合金で作ってあるものと見える。
 さて、宇宙服を皆が着てしまったところは、実に異様な光景であった。なんだか銀色の芋虫(いもむし)の化け物に足が生え、両足で立って、さわいでいるとしか見えなかった。
「どうです。思いのほか、らくでしょう」
 と、説明者がいった。
「どうもへんですね。だって、この兜をかぶると、音は聞えないはずだが、ちゃんと、おたがいの話が聞えますよ」
 三郎は、それがふしぎでならなかった。
「それはなんでもないことです。いま、この部屋には空気があるから、あたりまえに、声が空気を伝わって聞えるのです。しかし、触角をふれあってごらんなさい。皆さんが口をきけば、触角は空気中でも同じく震動をしますから、触角をふれあっても、話は聞えるはずです。練習かたがた、ちょっと皆さん同志で、やってみてください」
 説明者がそういうので、三郎たちは、なるほどと思って、おかしいのをこらえながら、蟻のまねをして、だれかれの触角にふれてみた。
「なるほど、こいつは妙だ」
「なるほど、ちゃんとあなたの声がきこえますよ。ふしぎだなあ」
「あははは。これは奇妙だ。僕はわざと小さい声で話をしているのですよ」
 あっちでもこっちでも、この触角をつかって話をする練習が、みんなをおどろかせ、そしてよろこばせた。
 こうして艇夫たちは、宇宙服を着こなすことが出来たのだった。
「さあ、それではみなさん。それぞれの職場へ戻ってください」
「はいはい。宇宙服をぬぐのですねえ」
「いや、宇宙服を着たまま、それぞれの職場へもどってください。もうすぐ、月へ上陸することになるから、今から宇宙服に身をかためていてください」
「たばこがのめないから、つらいなあ」
「たばこはのめないですよ。しかしがまんをしてください。月の世界への上陸が失敗したり、それからまた、噴行艇の故障がうまく直らなかった日には、それこそわれわれ一同は、そろって死んでしまうわけだから、それくらいのことは、がまんをしてください」
「わかりました。たばこぐらい、がまんをします」
 異様な姿をした艇夫たちは、ぞろぞろと、それぞれの持ち場へひきあげていった。
 三郎も、艇長のところへもどった。
 司令塔に入ってみると、艇長や、その他の高級艇員たちも、いつの間に着たのか、すっかり宇宙服に身をかためて、持ち場についていた。艇長の宇宙服には「艇長」と書いた札が胸と背中にはりつけてあった。
「いつの間にか、艇長も宇宙服を着られたのですね」
「おお、お前は艇夫の風間三郎だな。どうだ、なかなか着心地がいいだろう」
「そうですねえ。思いのほか、重くはないんだけれど、なんだか動くのが大儀(たいぎ)ですね。どうもはたらきにくい」
「それはそうだ。月の上へ降りれば、もっとらくになるよ」
 艇長は、三郎の宇宙服を念入りにしらべてくれた。締め金具の一つがゆるんでいたのを見つけて、艇長はしっかりと締めてくれた。
「艇長。上陸地点の計算が出来ました」
 航空士が、図板をもって、艇長のところへやってきた。そしていつもの調子で、顔を艇長のそばへ近づけたものだから、航空士の兜と艇長の兜とが、ごつんと衝突した。
「ああ、どうも失礼を……」
「気をつけないといかんねえ」
 と、艇長は、やさしくたしなめて、航空士の手から図板をとりあげた。
「なるほど。すると『笑いの海』へ着陸すればいいんだな。ここへ着陸すると、六日と十二時間は昼がつづくんだな」
 艇長は、妙なことをいった。六日半も昼がつづくなんて、そんなことがあるだろうか。
「さようです。この計算には、まちがいありません」
「よろしい。では、今から『笑いの海』を目標に、着陸の用意をするように」
「はい、かしこまりました。あと三時間ぐらいで、月の表面に下りられる予定です」
「うむ、充分気をつけて……」
「かしこまりました」
 いよいよ噴行艇は、月世界へ向けて、着陸の姿勢をととのえたのであった。


   近づく月面


 艇長辻中佐は、司令塔より、号令をかけるのにいそがしい。風間三郎少年は、そのそばについていて、ただもう、胸がわくわくするばかりだった。
 ああ月! 月の上に上陸するなんて、全くおもいがけないことだ!
「重力装置を徐々に戻せ」
 艇長の号令がとびだした。
「重力装置を徐々に戻せ」
 信号員が、伝声管の中へ、こえをふきこむ。するとそのこえは、機関部へ伝わって、重力装置が元へ戻されていくのであった。

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