太平洋魔城
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著者名:海野十三 

「おい、リーロフはどうした」
「私は少しも知りません」
 番兵は、あわてて捧銃(ささげつつ)の敬礼をしながら、こたえた。
「ふーむ、おかしいな」
 と小首をかしげたが、考えなおして会議室の扉(ドア)を指さし、
「どうだ、この中の先生は、その後おとなしくしているか」
「はい、はじめはたいへん静かでしたが、さっきからごとごとあばれまわっています」
 その時、扉の内側になにか大きなものをぶっつけたらしいはげしい音がした。
「ほう、やっとるな」といったが、ケレンコの眉がぴくりとうごいた。
「おい、へんじゃないか。中には誰と誰とが入っているのか」
「さあ、誰と誰とが入っているのか、私は知りません。さっきこの部屋の前を私が通りかかると、中から一等水兵がでてきて、(急に胸がわるくなったから、向こうへいってくる。その間、お前ちょっと代りにここの番をしていてくれ)といって、いってしまったんです。それから私が立っているんですが、どうしたのか、まだ帰ってきません」
「それはおかしい。一等水兵は誰か」
「はき気があるとかいって、顔を手でおさえていたので、よくは見えませんでした。小柄の人でしたが……」
「いよいよ腑におちない話だ。よし、扉をあけてみろ。おい、みんな射撃のかまえ。中からとびだして反抗すれば、かまわず射て」
 扉には、鍵がつきこんだままになっていた。それをまわすと、錠はがちゃりとはずれた。
 扉は開かれた。
 とたんに、どたんところがりでた男! それを見てケレンコは、あっとおどろいた。
「おお、リーロフじゃないか。おいリーロフ、これは一体どうしたんだ」
 だがリーロフはくるしそうにうめきながら、床のうえをころげまるばかりだった。それも道理、リーロフは、誰にやられたのか、猿ぐつわをかまされ、そしてうしろ手にしばられ、両足もぐるぐるまきにされている。
「どうしたのか、これは……」
 とケレンコがおどろいてもう一度そういった時、室内からもう一人の男がよろめき出た。この男もリーロフ同様、しばられているが、はだか同様の姿だ。見れば、それはイワンという一等水兵だった。
 相つづく怪事にさすがのケレンコも目をみはるばかりであった。
「イワン、どうした。太刀川はどこにいるのか。――おい、みんな、早くこの二人の綱をといてやれ」
 綱だと思ったのは、電灯の線だった。
 大男のリーロフは、猿ぐつわを靴の下にふみにじって、くやしそうに歯がみをした。
「委員長。あの太刀川めに、またやられました。あっという間に、私たち二人は投げとばされ、腰骨をいやというほどぶっつけたと思ったら、あのとおりひっくくられてしまいました。そして彼は、イワンの服をはいで着かえると、この入口から外へでていってしまいました。さあ、早く手配をしてください」
 太刀川青年は、水兵服をきて、たくみにこの部屋からのがれたというのだ。なんという豪胆さ、なんという早業!
 ケレンコたちも、「ええっ」といったきり、しばらくは茫然と顔を見合わせるばかりだった。


   見なれない当番水兵


 太刀川時夫逃げ出す!
 ケレンコは、ようやく我にかえると、卓上電話で要所要所に非常線をはらせるように命ずるとともに、ひきつれた十人の部下に、一等水兵イワンをつけて、太刀川の行方をさがさせることにした。
 要所要所をかためてしまえば、いくら逃げまわったところで、要塞外に逃げ出すことは出来ないのだ。
 ケレンコは、もうふだんのおちつきをとりもどしていた。
 潜水将校リーロフは、一さいの手配をおえると、むしゃくしゃしながら自分の部屋へかえった。腰骨のところもいたいが、それよりも、あの小男の太刀川にとっちめられたことが、しゃくにさわってならないのだ。彼はつよい酒をとりよせて、大きなコップでがぶがぶやった。
「うーん、いまいましい日本の小僧だ。こんどつかまえたら、おのれ………!」
 酒壜は見る見る底が見えてきた。
「なんだ。もうおしまいか。たったこれだけじゃ、第一酔いがまわってこないじゃないか、うーい」
 そうはいうものの、顔は、もうトマトのように赤かった。
 そこへ電話のベルがじりじりなりだした。
「ええい、うるさい」
 リーロフは、空の酒壜を逆手(さかて)にとって、電話器になげつけた。
 壜はがちゃんとわれて、破片が、そこら一面とびちったが、電話のベルはなおもじりじりと、なりつづける。
「ふーん、またケレンコの呼び出しだろう。うるさい大将だて」
 リーロフは、ふらふらと立ち上って、電話器のところへいって、受話器をとりあげた。
「はあ、リーロフです。え、なんですって。さっき沈めたイギリスの商船の中から、こっちで使えそうな貨物をひっぱりだせというのですか。なに、私にその指揮を? ふーん、私はそんなまねはいやでござんすよ」
 リーロフは、もうぐでんぐでんによっていた。受話器をもったまま、かたわらの安楽椅子のうえに、だらしなく尻をおろした。やはり電話の相手は、ケレンコ委員長であった。
「いいえ、ちがいますよ、委員長。私は酒なんぞに酔っていませんよ。第一酔うほどに、酒がないじゃありませんか」
 といっていたが、その時ケレンコからなにをいわれたか、急ににやりと笑顔になって受話器をにぎりなおした。
「え、ガルスキーを免職させて、私を副司令にもってゆく。そりゃほんとうですか。ははあ、そいつはわるくありませんよ。この仕事はじめに、潜水隊員をひきいて、沈没商船のところへゆけというのなら、ゆかないこともありませんね。――なになに、その沈没商船は私のすきなイギリス産のすてきなウイスキーも積んでいるのですか。ほう、そいつは気に入った。それにしても委員長は、人をおだてるのが相かわらずうまいですね。よろしい、新任副司令リーロフ大佐は、これよりすぐ、海底へ突撃いたします、うーい」
 リーロフは、さっきにかわるにこにこのえびす顔で、受話器をがちゃりとかけた。
「はっはっは。まるで幸運が、大洪水のように、流れこんで来たようなものだ。副司令にはなるし、沈没商船のどてっ腹を破ると、ウイスキーの泡がぶくぶくとわいてくるし。いや、ウイスキーに泡はなかったな。どれ、しばらくぶりに、太平洋の海底散歩としゃれるか」
 彼は、このうえない上機嫌で、伝声管を吹いて、潜水隊員に出動の命令をくだした。それからよろめく足をふみしめて、戸棚をひらいた。そこには、奇妙な形をした深海潜水服が三つばかりならんでぶらさがっていた。いずれもケレンコ一味がほこるすこぶる優秀なものであって、これを着ると、上からゴム管で空気を送ってもらう面倒もなく、自由に海底を歩きまわれるものだった。それは大小さまざまのタイヤで人体の形につくったようなものだった。そして頭にかぶる兜みたいなものは、ばかに大きくて、その中に酸素発生器が入っていた。
 リーロフが、その潜水服の一つをひきずりおろして、足を入れている時に、入口から一人の水兵が入ってきた。
「副司令、お手伝をいたしましょう」
「いや、手伝はいらない。この潜水服は、自分ひとりで着られるのが特長だてえことを貴様は忘れたか」
 といって、気がついて水兵の顔をまぶしそうに見つめ、
「はて、貴様の顔はばかにもやもやしているが、貴様は誰か」
「は、昨日着任しました一等水兵マーロンであります。本日ただ今副司令当番となってまいりました」
「なんだ、一等水兵マーロンか。貴様は日本人太刀川のことを知っているか」
「は、名前はきいて知っております」
「そうか、知っとるか。その太刀川は、もうつかまったかどうか、貴様は知らないか」
「私はまだ聞いておりません」
「知らない。知らなければちょっと捜査本部に行って、様子を聞いてこい」
「はい。しらべてきます」
 水兵は、いそぎ足に部屋から出ていった。――と思うと、どうしたわけか、その水兵は、またそっとひきかえしてきて、入口の扉(ドア)のかげから、リーロフの様子をうかがうのであった。
 あやしいのは水兵マーロンの行動だ。それもそのはず、彼こそ太刀川青年の変装姿だったのだ。
 彼は、会議室で、リーロフ等をとっちめると、大胆にも司令室にしのびこんで、内部の仕掛をつぶさにしらべ、そこを出ると、こんどはリーロフの部屋の近くでリーロフの帰りを待ちかまえていたのだった。


   海底を行く


 そんなこととは気がつかないから、リーロフは、物なれた手つきで、潜水服を着こんだ。それがすむと、大きな潜水兜をとって、自分の頭のうえにのせた。いくつかのねじをしめると、それで潜水の用意はできたのだった。
 リーロフは、奇妙な体をごとんごとんとうごかして、同じ部屋のすみに立っている郵便函を太くしたような円柱のところに歩みよった。円柱は開いた。リーロフは、その中に入った。円柱はもとのようにしまった。しばらくすると、どーんという音がした。
 それっきり、リーロフの姿もあらわれず、物音もしなかった。リーロフは、海中にとびだしたのだ。これを見ると、太刀川は、扉(ドア)のかげから姿をあらわした。
「さあ今だ。今でなければ、海底要塞をとびだす時がない」
 彼は、戸棚から、のこる潜水服の一つをおろし、さっきリーロフがやったとおりそれを体につけた。それは思いの外、らくらくと着られた。最後に大きな潜水兜をかぶり、円柱を開いて、その中に入った。
 その円柱の壁には、番号のついたボタンがあった。それを一つずつ押してゆくと、円柱はひとりでに閉じ、やがてしゅうっと圧搾空気の音がしたかと思うと、彼の体はどーんと上にうちあげられた。
 ぐらぐらと目まいがした。気がついてみると、彼はすでに海水の中にあった。いや、海底にごろんと横たわっていたのだ。
「おい、なにをぐずぐずしているのか。はやく向こうへならばなければだめじゃないか」
 腰のあたりをけられたので、彼はしまったと思いながら起きあがった。ふしぎにも、水中で相手のいうことが聞える。超音波を利用した電話が、この潜水兜の中にとりついているらしい。
「おい、はやく行け。おくれると、後でほえ面をかかなければならないぞ。水中焼切器は向こうにある。それをもって、商船の底を焼切るんだ」
 太刀川の前に立って命令をしているのは、何者だか、よくわからなかった。太刀川は、こっちの顔を見られまいとして、顔をあげないので、相手の潜水服の足だけしか見えないのだ。そのうちに、その足は向こうへふわりふわりと動いて、立去った。
(逃げだそうかと思ったが、なかなか見張がきびしいようだ。どうなるか、ともかくも、潜水隊員と一しょに、しばらく仕事をしてみよう)
 太刀川の肚はきまった。
 五十メートルほど向こうの海底に、二十四、五名の潜水隊員が整列していた。いずれも同じような恰好だから、誰が誰だかわからない。
 ここは相当ふかい海底と思われるが、水がほとんど動かないところらしく、海藻が腰の深さに生えしげっている。その上を、鯛の群がゆらゆらと泳いでゆくのが見える。
 海底が、意外に明るいので、あたりを見まわしてみると、どうやら海底要塞の方から、つよい光を出して照らしつけているらしく、体をうごかすと、影が幾重ものあわい縞となってふるえるのであった。太刀川は、めずらしげに、あたりに注意をくばりながら、隊の方へゆったりゆったり歩いていった。
 海底に隊員をならべて、その前で足をふんばったり、手をのばしたりしてしゃべっているのは、たしかに副司令リーロフにちがいなかった。
「いまから二時間のうちに、船底に穴をあけて、積荷をとりだすんだ。おれの命令するもののほか、なにものも取出すことはならんぞ。よいか、わかったな」
 そういって、リーロフは一同をずーっと見まわした。
 その時リーロフのぐにゃぐにゃした体が、急に化石のようにかたくなった。
「おや?」
 彼の口から、おどろきの言葉がとびだした。彼は右手をつとのばすと、太刀川の方を指さして、
「おい、そこにいるのは何者だ。名前をなのれ」
 太刀川は、ぎくんとした。なぜリーロフは自分をうたがったんだろうか。
「当番の一等水兵マーロンであります」
 とっさの返事だった。
「なに、マーロンだって。ふふん、おれをだまそうと思っても、そうはゆくものか」
 というと、隊員の方をふりかえり、
「おい、みんな。あそこにおれの潜水服を着ているあやしい奴をとりおさえろ。胸のところに、これと同じように大佐の縞がついている潜水服を着ている奴だ!」
「しまった!」
 太刀川は、思わず声に出して叫んだ。潜水服のところに、妙な縞模様がついていると思ったが、これは共産党大佐の徽章(きしょう)であったか。


   太刀川あやうし


 太刀川時夫は、海底にでることができたけれど、彼のきていた潜水服が、リーロフのものだったために、共産党大佐の縞模様がついていた。それをリーロフに見つけられたのである。
 海の底であるから、陸上のようにすばやく、にげだすことはできない。海藻のかげにかくれたとしても、大だこの頭のような潜水兜からは、たえずぶくぶくと空気のあぶくが上にのぼってゆくので、すぐ敵にみつかってしまう。おまけに、リーロフ大佐のひきつれた潜水隊員の中には、水中機関銃などという水の中で、弾がとびだす兵器をもった奴がいるから、これでうたれればおしまいである。
「おい、みんな、そいつをいけどれ。そして潜水兜をぬがして、顔をみてやれ。そうすれば、先生め、きっとおもしろい顔をして、おれたちを喜ばせてくれるだろう。あっはっはっ」
 リーロフは、まだ酒の酔いが、ぬけきらないためか、すこぶるごきげんであった。
 だがこの深い海の底で、潜水兜をぬがされてはたまったものではない。せっかくここまで来たのにと思うと、太刀川の胸は、ざんねんさで、はりさけんばかりだった。
「おとなしくしろ」
「副司令の服なんか着こんで、ふとい奴だ」
 潜水隊員は、口々にわめいて、四方から太刀川におどりかかった。
(よし、来い)
 と、太刀川が決心してたち上ったが、とたんにある考えがひらめいた。「そうだ」とつぶやくと、まるで猫の子のようにおとなしくなって、たちまち、隊員たちにとりおさえられてしまった。
「はははは、見かけによらない弱虫の大佐どのだ」
 隊員たちは、あざけり笑いながら、太刀川の両腕をとって、リーロフの前にひきすえた。
 リーロフは、ますますごきげんであった。
「わっははは、貴様は当番の一等水兵マーロンだといったな。潜水兜をきているのでは、どこのどいつか顔が見えない。顔を見てから、話をつけてやる。おい、みんな、はやくこいつの兜をぬがしてみろ」
 リーロフは、太刀川の潜水兜に自分のをよせて、ごつんごつんと、いじのわるい頭づきをくれた。
 その時、
「ええい!」
 はげしい気合が、太刀川の口をついてでた。
 彼は、この時のくるのを、さっきから待っていたのだ。
「ああ――」
「うむ!」というさけび。
 太刀川は、満身の力を両の腕にこめて、隊員たちにつかまれている腕をふりほどいたのだ。
 それはまったくの不意だったから、隊員たちは力をいれなおすひまもなく、ふりとばされてしまった。そのうえ、ごつーんと、はげしく仲間同士の鉢あわせ。頭がくらくらとした。
 と同時に、
「やったな、こいつ!」
「なにを!」
 という声、はげしいもみあいがはじまっている。それは副司令リーロフと太刀川の一騎うちであった。
 あっと隊員たちが目をみはる前で、二人はビールだるのような胴中をぶっつけあいながら、上になり下になりしているのだ。
「このやろう!」
「このやろう!」
 どちらも、おなじことを、いいあっているので、隊員たちは、しばしあっけにとられながら、この妙なかけあい合戦を見まもっていたが、
「おい、ああしてとりくんでいるが、どっちがリーロフ大佐なのかね」
「いや、おれにも、どっちがどっちか、わからなくて困っているんだ」


   すばらしい知恵


 太刀川青年の作戦計画は、どうやら図にあたったようである。
 彼があやういせとぎわで、思いついたのは、リーロフの潜水服と彼の潜水服とが、まったく同じものであることであった。それを太刀川は、うまく利用してリーロフととっくみあいをはじめ、上になり下になりして、隊員たちの目をごまかしたのである。潜水兜の顔を正面からのぞけばいいようなものだが、そんな失礼なことをすると、あとでどんなお目玉をちょうだいするかわからない。ただ二人の言葉を気をつけてきけばわかりそうなものだが、これも、二人がおなじような言葉をどなりあっている以上、水中できく超音波の電話の音色では、ききわけられないのであった。
「おい、なにをぐずぐずしている。みんな、手をかさないか」
「おい、なにをぐずぐずしている。みんな、手をかさないか」
 隊員たちは困ってしまったが、頭のよい奴が、
「ど、どっちがリーロフ大佐ですか。リーロフ大佐の方が、手をあげてください」
 といった。
 が、どっちの潜水大佐も、いいあわしたように手をあげたので、やっぱりだめだった。
「あ、おれのまねをしやがる。おい、みんな、こいつだ!」
 と、一人の潜水大佐が、相手の胸を指さすと、相手もだまっていず、
「何をいう。おい、お前たちにはこのリーロフの声がわからないのか」
「おや、おれの声をまねるとは、こいつふとい奴だ。おい、みんな、早くこいつを銃で撃ちとれ」
「あ、あぶない。おれはリーロフだ。おれの相手を撃て」
 どうもこれでは、どこまでいっても、どっちが本物のリーロフ大佐だか、わかりっこない。
 潜水服の中にびっしょり冷汗をかきながら、生きた心地もないリーロフ大佐は、今は、酒の酔いもさめてしまって、ふうふういっていた。
 その時とつぜん下腹に、はげしい痛みをおぼえた。
「あ、なにをする!」
 といったが、あとはくるしそうなうめきにかわって、どたりとその場にころがった。海藻がびっくりしたようにゆらゆらとゆれて海底の泥が煙のようにたちのぼっている。――太刀川時夫が、さっきからねらっていた一撃が、リーロフの潜水服のよわい箇所の下腹へはいったのである。
「口ほどもないやつだ。さあ、このにせ当番水兵の手足をゆわえてしまえ」
 太刀川は、リーロフの声をまねして、隊員に命令をくだした。
 隊員は、きゅうに元気づいて、そこにたおれているリーロフのまわりにあつまった。そして腰につけていた綱をはずすと、リーロフの手と手、足と足とを、ぎゅっとゆわえてしまった。
(ふーん、やっぱりリーロフ大佐は強いなあ。たった一撃で、相手をたおしてしまった)
 リーロフの強いことを知っている隊員たちは、これで始めて、どっちが本物のリーロフであるかを知って安心したのだ。まったくのところ、彼らはリーロフ以上に腕力のつよい軍人を知らなかったのだから、そうおもうのもむりではなかった。
 リーロフになりすました太刀川は、もうすっかり肚をきめて、きびきびと号令をかけるのだった。
「ほら、むこうに大きな古錨がある。あのくろい岩のかげだ。あの古錨に、こいつをくくりつけておけ。いまに海坊主のえじきになるだろう!」
 なにかこう、らんぼうな、むごたらしい言葉をつかわないと、感じがでないので、リーロフのまねをするのも、らくではなかった。
「海坊主て、なんですか」
 水兵の一人が、ききかえした。
「海坊主を、貴様たちは、知らないのか」と太刀川はわざと肩をそびやかしたが、考えてみると海坊主なんてものは、日本の話にだけあるおばけらしい。
「海坊主とは、海にいる幽霊のことだ」
「海にいる幽霊、ははあ、吸血鬼のことですか。かねてうちの母から、海中にはおそろしい吸血鬼がすんでいると聞いていましたが、な、なーるほど」
 と、水兵はほんとうにして、にわかにがたがたふるえながら、前後左右を見まわしたのであった。


   リーロフにばけて


「さあ、そいつのしまつができたら、さっきの命令どおりに、はやく商船の中にはいりこんで、積荷をとりだすんだ。はやくやらないと、吸血鬼が、船の中のものを食いにやってくる。それとぶつかってもおれは知らないぞ」
「ちぇ、もう吸血鬼の話は、たくさんですよ」
「文句をいわないで、早く船腹の、こわれたところから入りこむんだ」
「へえ、へえ、――」
 隊員たちは、爆薬や水中ハンマーや綱や機関銃などをかついだまま、海底によこたわっている英国商船の中に、ぞろぞろとはいこんで行った。
 それから間もなく、がたがたいうひびきや、綱をひっぱるらしいえいえいというかけ声などが、聞えだした。
 隊員たちが作業にとりかかったのを、見さだめると、太刀川青年はしばらくその場にたたずみ、高くそびえる海底要塞の様子をうかがったのであった。
 あいにく要塞の側面から発する数十条のつよい照明灯がまぶしく目を射て、こまかいところはわからないが、はるか上の方に、あやしげなりんかくが、はけでかいたようにぼーっとうかびでている。それは海底から、はえあがった古城のようだといったがいいか、それともアルプスの峰々が海底にしずんだといったがいいか、見れば見るほど、ものすごい大じかけのものであった。
 ケレンコは、日本攻略のために、これをきずいたといった。だが日本攻略にあたって、これは一たい、どんなはたらきをするのであろうか。
 海面にとつぜんとびだしては怪力線をはなつあの海魔のことから考えると、この中には、さらにおそろしい攻撃兵器がしまってあるのにちがいない。
(たった一目でもいいから、あの巌壁によじのぼり、ながめおろしたいものだ)
 太刀川がそんなことをつぶやきながら歩きだした時、いじわるく、彼を呼ぶ者があった。
「リーロフ大佐。ちょっとお待ちください」
 ふりかえってみると、沈没商船の中から出た一名の潜水隊員が、ゆらゆらとこっちへ泳ぐようなかっこうでやってくる。
「なんだ、あわてたかっこうをして?」
「積荷をとりだせという御命令でしたが、船の中に、もぐりこんでみると、中は爆発で、めちゃくちゃにこわれております。積荷は、ほとんどだめです。ちょっと御検閲をねがいます」
「ちょっ、じゃ、ウイスキーの箱は、あてはずれか」
 太刀川は、たくみに話のつじつまをあわせながら、隊員について沈没商船の方にむかった。
 中にはいってみると、なるほど船内は二目と見られない。まるでバケツを四方八方から銃でうったようなみじめな姿である。これでみると、この商船も船底にかなりの火薬をつんでいて、それが海底に達したとき爆発したものらしい。ビームはあめのようにまがり、太いパイプがささらのようにさけている。
 隊員はと見れば、なにか缶詰や酒壜のようなものをおもいおもいにぶらさげて、鉄板のやぶれ穴からやぶれ穴へ、かにのように、はいまわっている。リーロフ大佐きたると知って、きゆうに化石のように、かたくなった者もあった。
 太刀川は、こんなことでひきかえしては、リーロフらしくないと思い、次のひどい命令を出そうかと考えていたとき、どうしたのか、やぶれ船の奥の方から、たまげるような悲鳴がきこえ、つづいて船艙のやぶれ穴から、あわてきったかっこうで、隊員たちが、ふわふわと逃げもどってきた。手にしていた缶詰も酒壜も、そこへほうりだして……
「こーら、誰がひきかえせといった」
 と、太刀川はどなった。
「た、た、たいへんです。海の吸血鬼がきているんです」
「この奥のところです。そ、そいつは太いパイプの中で、歯をむきだして、こっちをにらみつけました」
「い、いのちがちぢまった。吸血鬼を見たのは、うまれてはじめてだ。おおこわい」
「ばかども!」
 太刀川は、リーロフにまねて、大声でしかりとばした。
 隊員は、びりびりとふるえたが、
「ですけれど、相手は吸血鬼です」
 といった。
「名誉ある海底要塞の潜水隊員が、吸血鬼ぐらいで、こわがっていてどうするんだ。よし、おれがいって、正体を見とどけてやる」
 太刀川は、きっぱりといった。



   ふしぎな顔


 海底の吸血鬼?
 じょうだんではない。
 太刀川青年は、どんどん奥にふみこんだ。
 隊員たちは、それを見おくると、急におそろしくなったとみえ、あわてて外へにげだした……
 太刀川は、べつに吸血鬼の正体をしらべたり、とらえたりするつもりはなかった。潜水隊員から、はなれるのは今だと思ったので、
「おい、吸血鬼、でてこい」
 とむしろ、おかしさをこらえながら、沈没商船の奥へふみこんでいった。
 奥は、なるほどひどくやられていた。さいわい、途中で、隊員のおとした水中灯をひろったので、それをかかげてみると、鉄板でつくった船腹が、十メートル四方も、ふきとばされ、そのあとが、まるでつきだした屋根のようになっていた。
「あ、あぶない」
 太刀川は、足もとの砂がぐらぐらと、動きだしたので、びっくりして腰をおとした。水中灯をさしつけてみると、例の屋根の下が、すり鉢状の形に大きく深くえぐりとられている。ずいぶん大きな爆発跡であった。ぼんやりしていれば、動きだした砂に足をとられて、ずるずるとすり鉢状の爆発跡にすべりおちるところだった。
 よく見ると、その中に、なんだか煙突のようなものが頭をだしている。煙突といっても、上がふさがっているから、穴なしの煙突といった形だ。
「あれは一たい、何であろう」
 と、太刀川は不審におもった。ひょっとすると、さっき隊員たちが吸血鬼がいるといったのは、このことかもしれない。とにかく見さだめておこうと、砂の上をずるずると底の方へすべりおり、そのそばによって、水中灯をさしむけてみた時、彼はじつに意外なものを発見した。煙突様のものには、その一部分に頑丈な耐圧硝子(ガラス)らしいものをはめこんだ、曲面の窓があったが、その窓の中に、おもいがけなく三つの首がならんで、こっちを見ていたのである。
「おお!」
 と、さすがの太刀川もさけばずにはいられなかった。なんということだ。海底にひょっくり頭を出した煙突様の小さい塔があるのさえふしぎなのに、その中から三つの顔がこっちをのぞいている。
 しかも三つとも、生きていた。さもおどろいたように目を見ひらき、そして大きく口をあけた。それだけではない。その中の一つの首に、太刀川はたしかに見おぼえがあったのである。
「ダン艇長!」
 いうまでもなく、海底要塞附近で墜落したサウス・クリパー艇の艇長のことである。彼は艇と運命をともにして、波にのまれてしまったかとおもわれたのに、意外にも、こんなふしぎな塔の中で生きていたのである。
「おお、ダン艇長! あなたはどうしてそんなところにいるのですか」
 太刀川青年は、水中灯を高くかかげて、煙突様の塔を硝子(ガラス)ごしにたたきながらいった。
 だが、中からはなんの返事もきこえなかった。三つの首は、とつぜんおどろきの色をうかべると、いいあわしたように窓の内側にひっこんでしまった。
「おう、待ってください、ダン艇長」
 太刀川は、窓硝子をわれそうなほど、こんこんとたたいた。しかし内側にひっこんだ首は、そのまま出てこなかった。
 なにがなにやら、わからないながら、太刀川は、ダン艇長の生きている姿を見つけたうれしさで、しばらくはその場をうごこうともしなかった。
 だが、他のもう二つの首は、一たい何者であったろうか。
 太刀川青年は、見おぼえがなかったが、一つは、はばのひろい鼻をもった黒人。もう一つは、妙なひげをはやした東洋人の顔であった。
 ものおぼえのよい読者諸君には、もうおわかりであろう。
 それは、ミンミン島へクイクイの神様を買いにいったロップ島の酋長と、クイクイの神様といっている漂流日本人の三浦須美吉であった。
 しかしダン艇長が、なぜその二人の仲間にくわわっていたのか、またこの人たちが、なぜそのような海底の小塔に顔をならべていたのか。それは、いずれこの物語のすすむにつれて、明らかになるであろう。
「おう、誰かとおもったら、なんだ、お前だったか」
 とつぜん太刀川のうしろにあたって、ふとい声がひびいた。
 不意をうたれて、太刀川は、はっとおもって、うしろをふりかえりざま、水中灯をぱっとさしつけた。
「あ」
 いつの間に来たのか、彼のうしろに、大きな水中灯をもって立っていたのは、ほかならぬ海底要塞司令官ケレンコだった。彼の潜水服には、胸のところに、大きな三角形を二つくみあわせたマークがついていた。そしてその下に、「ケレンコ」とロシア文字がしるしてあった。
(うむ、見つかってしまったか)
 と、太刀川の息づかいが、またもやあらくなる。


   日本攻略作戦


「おい、リーロフ。この沈没船の積荷には、まんぞくなものが一つもないようだね」
 ケレンコ司令官は、太刀川をリーロフ大佐と思いこんでいるのか、気がるにいった。それをきいた太刀川は、とびあがるほど喜んで、
「はい、ケレンコ閣下。どうも、こんどは少しやりすぎたようですね」
 と、なにくわぬ調子で答えた。
「まあ、あまり、よくばるまい」
 とケレンコはいった。
「ところで閣下は、なに用あって、ここへ」
 太刀川はまだ、用心しながらたずねた。
「いや、これから君と一しょに海底要塞を検閲しようとおもうのだ。副司令として、君にみてもらいたいところがあるのだ。潜水隊員は、わしからひきとるように命じておいたから、心配せんでもよい」
「は、では、さっそくおともしましょう」
「いや、なかなかよろしい。君は副司令になってから、言葉づかいも日頃のらんぼうさも、急にあらたまったようだな。いや、わしもまんぞくじゃ」
 なんという気味のわるいほめられ方であろう。あたかも「お前はリーロフになりきっていないぞ」と、いわれたようなものだ。
 だが一方で、太刀川はしめたと思ったのである。ケレンコ自ら、大海底要塞を案内しようという。ねがってもない機会じゃないか。正しき者にはつねに天佑というものがあるというが、まったくである。
 ケレンコについて、沈没船の外に出ると、そこには一隻の潜水快速艇が待っていた。それはケレンコが乗ってきたものである。速力のはやい小型の潜水艇で、潜水服をつけたまま水中で、のりおりできるのが一つの特徴だった。
 二人は、艇の上蓋をとって、ならんで座席についた。運転士が下りてきて、二人の上に蓋をかぶせた。蓋は、すきとおったやわらかい硝子でできているので、外がよく見える。
 潜水快速艇は、すぐさま動きだした。海底からひょいととびあがるところなどは、戦闘機が飛行場からまいあがって急上昇するのと同じであった。行手に大鯛の群がいたが、エンジンのひびきで、たちまち花火のように四方へちらばった。
「日本攻略は、いつ始めるお考えですかな」
 太刀川は、たずねた。
「ふーん、それは君ともあらためて相談したいと思っていたんだ。わしは、はじめ、時期を待つつもりであったが、もうこうなれば早い方がいいとおもう」
「こうなればといいますと――」
「つまり、サウス・クリパー艇を墜落させたことは失敗じゃったのだ。それにつづいて、米国の駆逐艦と英国の商船とをしずめたが、その結果、わが海底要塞のひそむ海面は、全世界の注意をひきつけることになった。各国の艦艇が、ぞくぞくとこの海面へ集って来ては、めんどうだから、その前に行動をおこした方が、得策のように思うが……」
 司令官ケレンコは、ふとい眉をぴくりとうごかしていった。
「その点、至極同感ですが、――」と、太刀川は、ちょっと言葉をとめて、おもわせぶりをみせ、
「まだ十分の準備ができていないのに、戦をはじめて、はたして勝利がえられましょうか。もしも計画どおり行かなかったときは、すぐモスコー(ソビエトの首府)によびかえされて、反逆者の名のもとにどーんと一発、銃殺されてしまいますぜ」
「なんだ、君らしくもない。はじめからやぶれるつもりで戦って、勝てたためしがあるか。わが海底要塞の戦闘準備は、まだ、完全とはいえないが、敵の防備を破壊し、首都東京をおとし入れるだけの自信は十分あるよ。四百隻からなるわが恐竜型潜水艦は、だてやかざりにつくったのじゃない。いかに日本の海軍が強くとも、これにかかっちゃ、手のほどこしようがなかろう。わずか一時間で、東京およびその附近は、全滅じゃ。地上地下、生物(いきもの)は、猫の子一匹ものこるまい。考えただけでも胸がおどるじゃないか。いや、君を前において恐竜型潜水艦の自慢をするのは、あべこべじゃったねえ。ふふふふ」
 なんというおそろしいケレンコの自信であろうか。
 そのとき運転士が、声をかけた。
「もしもし、海底要塞の正面へ来ました。どこへつけますか」
「うむ、恐竜格納庫第六十号へつけろ」
 ケレンコはいった。太刀川時夫の目が、潜水兜の中で、きらりと光った。


   格納庫ひらく


 恐竜型潜水艦の格納庫!
 いま太刀川時夫は、司令官ケレンコとともに、その前に立ったのである。
 だいたんな太刀川も、はげしい興奮に、胸が高なっている。
 見よ!
 彼の目のまえに、あぶくだつ青黒い海水をとおして、とほうもなく大きな怪物が、歯をむきだして、こちらをにらんでいる。それが、じつは格納庫の扉であった。
(この扉のむこうに、共産党海軍の大じまんの対日攻撃武器がしまってあるのだ!)
 ケレンコ司令官は、そのとき腰にさげていた水中笛を、例の例の妙な機械の手[#「例の妙な機械の手」はママ]でおした。水中笛はぶうぶうと大きな音をたてた。
 すると、格納庫のうえから、やはり潜水服に身をかためた潜水兵が四、五十人、まるで廂(ひさし)からおちる雨だれのように降ってきた。
(ふふふ、あじなことをやるぞ!)
 と、太刀川は、潜水兜の中で、ほほえんでいる。潜水兵たちは格納庫第六十号の前にならんだ。とくいの司令官ケレンコは、その前にすすんで、
「わが恐竜第六十戦隊員につげる。ただ今より、本戦隊は小笠原群島の南約五百キロの方面に臨時演習に出動すべし。ただし、突発事件に対しては、すぐさま臨機の処置をとるべし」
 これをきいて、潜水兵たちは、いいあわせたように、ざわめいた。それは、日本艦隊おそろしさのためではない。司令官ケレンコのきびしい見はりのもとに演習に出たのでは、きっとまた思いがけないことで銃殺される兵員が、出ることであろう。
 事実、司令官ケレンコは、対日戦の訓練のためには、部下のちょっとした失敗もゆるさず、たいてい銃殺であった。
 彼は、このくらいに部下をきびしくおどかしておかないと、いくらりっぱな武器をもっていても、あの勇敢な日本海軍をうち負かすことはできないと思ったからであった。
「出動用意!」
 司令官ケレンコの号令一下、幹部将校が、すぐさま格納庫の扉(ドア)をひらく。水圧器のボタンをおすと、あつい鉄板でできた格納庫の大扉が、ギーッと上にあがっていった。
 太刀川の両目が、潜水兜のおくから、異様にかがやいた。
(ふん、あれだな!)
 見ると、格納庫の中に、とほうもない大きな潜水艦が、鼻をならべて、こっちをむいている。一隻、二隻、三隻、四隻!
 それが上中下の三階に、きちんとおさまり、みんなで十二隻! これが恐竜第六十戦隊なのである。
「出発!」
 という司令官ケレンコの命令とともに、
 ぶう、ぶう、ぶーっ。
 サイレンに似た海底をゆするような音がひびいた。
 とたんに、十二隻の恐竜型潜水艦が、いっしょにとびだしたのである。まるで十二の大塔がたばになってとびだしたような壮観であった。
 そのとき太刀川は、水のあおりをくってよろよろとしたが、目のまえをさっとすぎてゆく恐竜型潜水艦の姿を見のがさなかった。
 なんというおそろしい形をした潜水艦だろうか。舳(へさき)はうんと長く前へつきだしていて、蛇の腹のようである。ふとい胴中は、鼠のようにふくれ、背中と両脇とに、三角形の大きな鰭(ひれ)がついている。しり尾はふとくながい流線型で、そのつけ根のところに、八つばかりの推進機がまわっていたようである。「おい、リーロフ。わしたちは、水中快速艇で戦隊のあとをおいかけることにしよう。快速艇をこっちへ呼んでくれ」
 ケレンコの声に、太刀川は、やっと我にかえった。


   恐竜戦隊の出動


「司令官閣下、どうぞ」
 快速艇がくると、潜水服姿の太刀川は、リーロフの声色(こわいろ)をつかって、こういった。ケレンコが、のりこむと、
「さあ、リーロフ。お前も早く」
 とせきたてた。太刀川は、のりこみながら、
 ふと思いだして、
「演習に出かけると知ったら、酒を五、六本持ってくるんだった」
 と、わざと酒ずきのリーロフらしいことをいえば、ケレンコは、
「ふふふ」
 と笑って、
「お前の潜水服の内がわには、酒びんをとりつけてあるときいたぞ。そんな仕掛をしてあるのに、酒とはへんだね。第一、酒びんをさげてきても、潜水服をきていたんでは、のもうにも、のめんじゃないか。リーロフにしては、また妙なことをいいだしたものじゃのう」
 ケレンコの口ぶりには、どこか、皮肉なところがあった。
 太刀川は、どきんとした。共産党随一のちえ者といわれるだけあって、これはゆだんがならぬぞと思ったのである。そういえば、この潜水服をきたときから、耳のうしろでどぶんどぶんと音のするものがあって、気になって仕方がなかった。これが、リーロフが特別にこしらえさせた酒びんかもしれない。
 太刀川は、ふと鼻の先に、赤ん坊が口にくわえる牛乳の吸口みたいなものが、ぶら下っているのに気がついた。
(はて、これかな)
 と思って彼は、その吸口みたいなものをすってみた。すると、どろんと口中にながれこんできた液体が、舌をぴりぴりとさした。そしてぷーんと、はげしい香が鼻をついた。
(あ、火酒(ウォッカ)だ!)
 酒びんの中から、ゴム管でつながっていたのだ。それをケレンコが、知っていたのだ。たいていの者なら、このへんで、降参してしまうところかも知れない。が、わが太刀川青年は、腹の中でふんと、せせら笑っただけである。
「あははは、あははは。司令官閣下から御注意をうけるまでもなく、私の分だけなら、ここに十分もってきていますよ。あははは」
「うむ、じゃ、どうするつもりなんだ」
「つまりその、あなたがたが、のみたくなったときに、こまると思いましてね」
「なに」
「いや、今日の演習がおわるまでに、きっと、酒をのみたくなることが、できてきますよ。きっとそうなります。そのときに、私ばかりがのんでは、いやはやお気の毒さまで……」
 それをきくと、ケレンコは、「ふふふ」とふくみ笑をしたが、運転士の方へむきなおると、
「おい、まだ戦隊においつけないのか。なにをぐずぐずしている」
 とどなった。
「は。閣下はまだ出発号令をおかけになりませんので……」
「ばか、ばか、ばか。貴様は何年運転士をつとめているのか。よし、こんどかえったら、銃殺だ」
「ええっ、閣下。それはあんまり……」
「やかましい。早く快速艇を走らせろ」
「へえい」
 とたんに、ケレンコと太刀川は、いやというほど後頭(うしろあたま)を潜水兜のふちにぶっつけた。おどかされてふるえあがった運転士が、いきなりエンジンを全速力のところへもっていったからであった。


   近づく大艦隊


「司令官。戦隊においつきました」
 運転士が、よろこびの声をあげていった。
「だが、まだなにも見えんではないか。うそをつくと――」
 と、ケレンコがいいかけると、
「正面、舳のわずか右上に、うす黒く、ぼんやりしたものがあるでしょう」
「あああれか。なるほど」
 ケレンコの目に、やっとはいった。
 それから彼が妙にだまったと思ったら、座席の下から、水中無電気の受話器をひっぱりだして、耳にあてていたのである。
 それを見て、太刀川も、すぐ座席の下に手をのばして、受話器をとり、人工鼓膜にあてた。
 さかんに無線電話がきこえてくる。早口でしゃべっているのは、前にいく恐竜第六十戦隊の司令パパーニン中佐からであった。
 それは、途中からであったが、
「――約八十隻ノ潜水艦、約百五十隻ノ駆逐艦、ソノホカ大小ノ特務艦十数隻……」
 ここまできいて、太刀川は、ぎくんとした。太平洋上を、このような大艦隊がうごいているとすれば、それはわが海軍にちがいない。だが一たい、いかなる目的でどこへ向かっていくところであろうか。
「――海上ハ波オダヤカニシテ、晴天ナレド雲アリ。空中二相当爆音ヲキクモ、飛行機ノ種別、台数ハ不明ナリ。彼ノ針路ハ西南西微西!……」
 西南西微西といえば、ほとんど真西にちかい。わが日本艦隊がこんなところを、航行しているとは、ちょっと考えられない。とすると、これは演習の想定であろうか。
 無電はなおも早口にしゃべる。
「――コノママワガ戦隊ガ前進ヲツヅケルトキハ十分ノノチ、彼ノ艦隊卜衝突ノホカナシ。故ニワガ針路ヲカエルベキカ、否カ、タダチニ指令ヲタマワリタシ。パパーニン中佐」
 うむ、それじゃ、演習ではないのか。二国の艦隊ははからずも、たいへんなところで、出くわせたものである。
 太刀川の全身は、かーっとあつくなった。
「司令官閣下。どういたしましょう」
「うむ……」
 ケレンコはうなったまま、しばらく考えこんでいたが、やがて決心して、
「対日戦の血祭に、ここでひとつやっつけてやれ!」
 といいはなった。


   おそろしき海戦


 なんという自信であろう。
 ケレンコは、わずか十二隻の恐竜型潜水艦で、約八十隻の潜水艦、約百五十隻の駆逐艦と、戦闘をはじめようというわけだ。
 いや、
 太刀川は、恐竜第六十戦隊の司令パパーニン中佐からの無電を途中からきいたので、
「戦艦八隻、巡洋艦十八隻、航空母艦六隻………」
 というところをききもらしていた。だからじっさいは、太刀川の考えた以上の大艦隊であった。それを、わずか十二隻の恐竜型潜水艦でむかえうとうというケレンコの自信は、おどろくのほかない。
「しまったことをしたなあ」とケレンコは、つぶやくようにいった。
「恐竜にのっていりゃ、海上の様子も、テレビジョン鏡で手にとるように見えるのだが、……今から恐竜にのりうつることもできない。あと十分でアメリカ大艦隊とぶつかるというどたんばに来ては――」
「え、アメリカ大艦隊?」
 太刀川は、思わず口をすべらしてしまった。
「なんだ」
 とケレンコはいった。
「貴様は、また酒をくらって酔っぱらっているんだな」
「いえ、酒などは……」
「なに、わかっとる。そうでなくて、今ごろ、あれはアメリカ大艦隊ですかもないじゃないか」と、つい本気でどなったが、そのあとで、気づいて「ふふふふ」とうす笑をした。
(いや、どうもリーロフの服をきているものだから、ついまちがえてはいけない)
 ケレンコは、太刀川が、にせ者であることは、はじめからちゃんと見ぬいていたのだ。
 太刀川は、アメリカ大艦隊が、西へいそぐと聞いて、これは、容易ならぬことだと感じたが、恐竜型潜水艦の攻撃目標が、さしあたってわが艦隊でなくてよかったと思った。
 だが、ケレンコの肚は、すでにきまっていた。
(ここでアメリカ艦隊をおそっても、まさか西太平洋のまん中に、ソビエトの潜水艦隊基地があるとは、気づくものはないだろう。アメリカでは、きっと日本潜水艦の襲撃をくったものとして、日本政府にねじこむにちがいない。そうなると、ここでいよいよ日米両国の大衝突となるから、そのすきをうかがってこっちは東京湾へつきこめば、いいんだ)
 ケレンコは、戦隊司令パパーニン中佐にあて、秘密無電をもって、
「アメリカノ艦隊ヲ襲撃シ、恐竜型潜水艦ノ威力ヲ発揮セヨ。タダシ、貴隊ハソ連潜水艦タルコトヲ極力カクスコト。ナオ戦闘開始ノノチハ、トキドキニセノ無電ヲウチ、アタカモ日本潜水艦デアルヨウニ、アメリカ艦隊ニ思ワセルコト」
 と、命令をだした。自分でさんざんあばれ、アメリカの軍艦をしずめ、そしてその犯人は日本海軍でございと思わせようというのだ。
 すると戦隊司令パパーニン中佐から間もなく無電が来た。
「――ワガ恐竜第六十戦隊ハ、コレヨリ敵艦隊ノユダンニツケイリ、ナルベク早ク所期ノ目的ヲハタシタ上デ、全艦海底要塞ヘヒキアゲント欲ス。戦闘開始ニ[#「戦闘開始ニ」は底本では「戦闘開始に」]アタリ、ケレンコ司令官閣下ノ健康ヲ祝ス。戦隊司令パパーニン中佐」
 米ソ両艦隊の海戦は、いよいよはじまった。
 水中快速艇では、ケレンコ司令官と太刀川の両人が、たがいに身の危険もわすれて、はるかに海水を伝わってきこえてくる海戦のひびきと戦隊司令からの無電報告とにききいった。
 その時、運転士が、
「とてもやりきれません。ハンドルをもっていかれそうです」
 と、なき声で、うったえた。
「しっかりしろ」
 ケレンコが、しかるようにどなった。
 だが、むりもない。快速艇は、空中にうかんだ風船のように上下左右へおどる。恐竜の猛攻撃による艦船爆破のひびきが、水中をかきみだし、このさわぎをひきおこしたのだった。
 もしこのとき、空からこの海戦をながめたとしたら、この場の光景は、まるで血の池地獄、火焔地獄のように見えたにちがいない。
 アメリカ巡洋艦十八隻のうち、その半分の九隻が、理由不明のままみるみるかたむいた。三重の艦底が、いつこわれたのか大穴があき、そこから海水がどんどんはいってきたのである。
 同時に、防水扉ががらがらとおろされた。が、それもあまり役にたたなかった。というのは、せっかくおろした防水扉の表面から、どうしたわけか、ぶつぶつと、さかんに泡がたちはじめた。と見るうちに、そのまん中からだんだんとまっ赤に熱し、やがて、ぱっと大音響をあげて、ふきとび、そこに大穴があく。あとは砂糖がくずれるように、海水にくずれてしまう。どうしてよいか、まったく手のつけようがなかった。
 運のわるい五隻の巡洋艦は、そのあとから、火薬庫の大爆発をひきおこし、まっ二つに、あるいは三つ四つにくだけて、上は空中にふきとび、のこりは波にのまれて、海底ふかく泡をたてながら、姿をけしてしまうのだった。
「大した戦果だ!」
 快速艇からも、水面下の様子が、ときどきながめられ、太刀川青年の舌をまかせた。彼は、かの恐竜型潜水艦が、舳のあの長いものを、敵艦の底にぐっとのばしたかと思うと、底が急に赤くなって、まるい形にとろとろと灼けおちる光景を、目のあたりに見たのだ。
 怪力線砲は、ついにソ連の手によって完成されたのである。


   意外なる敵!


「どうだ。太――いや、リーロフ大佐」
 アメリカの艦艇が、さかだちとなって、ゆらゆらと水中に、しずみはじめるごとに、司令官ケレンコは、太刀川にむかいほこらしげにいった。
 だが、太刀川は、わざと、
「相当ですが、私の理想からいえば、まだやり方がにぶいですね」
 という。
「なに、あれでまだにぶい?」ケレンコはにやりとして、
「うふん、だが、あれが日本艦隊だったら、もっと、こっぴどくやっつけるんだが、なにをいっても友邦アメリカだから、遠慮してあのくらいにとどめておくのだよ。うふふふ」
 ケレンコは、鬼のように笑った。
 その時、とつぜん、潜水兜が、ぴんぴんと、異様な音をたててなった。
 とたんに、たんたん、じゅじゅというひびきがつづいて起り、急に上から、おさえつけられるような重くるしさを感じた。
「あ、あぶない。運転士、すぐ左旋回で、うしろへひっかえせ!」
 ケレンコが、さけんだ。
「は、はい」
「はやくハンドルをまわせ。ぐずぐずしていると、みんなこっぱみじんになるぞ。敵の爆弾が、近くの海面におちはじめたんだ!」
「は、はい!」
 運転士は、力一ぱいハンドルをまわした。
 だが、そんなことで爆弾からにげさることはできなかった。すぐ頭のうえに、ものすごいやつが落ちてぱっと爆発した。あっと思う間もなく、三人ののった水中快速艇は、まるで石ころのように、海底をごろごろところがって、はねとばされた。もちろん三人が三人とも、しばらくは気がとおくなって、どうすることもできなかった。
「うーむ」とうなりながら、ケレンコが気がついたときは、彼ののっていた快速艇は、みにくくうちくだかれ、頭を海底の泥の中につきこんでいた。
 あたりを見まわしても、太刀川の姿が、見えない。
(逃げたかな)と思った、ケレンコは、
「運転士」とよんだ。
 すると、かすかなうなり声が、運転台からきこえた。
「司令官閣下もうだめです。快速艇は、うごかなくなりました。どうしたらよいでしょう」
「心配しないでもよい。今に他の艦が通りかかるだろう。――それより、あれはどうした。太――いや、リーロフ大佐は?」
「リーロフ大佐は、さっき艇から下り、前へまわって、故障をしらべていたようですが」
 司令官ケレンコは、座席から立ちあがって、艇をでた。さいわい艇についている照明灯一つが、消えのこっているので、あたりは見える。
「おお司令官閣下」
 とつぜん、ケレンコは、うしろからよびかけられた。
 ふりかえってみると、リーロフ大佐の潜水服をきた太刀川が立っている。
「お、お前は無事じゃったか」
「はい。ごらんのとおり、だが、この艇はもうだめです。ただ今、無電をもって、別の艇をよんでおきました」
「ほう、それは手まわしのいいことだ」
 とケレンコはうなずき、
「お前のいったとおり、こんな目にあうと知ったら、酒を用意してくるんだったね」
「いや、どうもお気の毒さまで……」
 といっているとき、後方から、一隻の大きな潜水艦がやってきた。
 それをみて、太刀川は、「おや」と思った。
「これは恐竜型潜水艦じゃないか。快速艇をたのんだつもりだったのに……」
 潜水艦は、やがてケレンコたちのすぐそばへきて、とまった。すると艦橋から、大きな声がした。水中超音波の電話で、艦内からよびかけているのだ。
「司令官閣下。おむかえにまいりました。おめでとうございます。恐竜第六十戦隊が、三十数隻のアメリカ艦艇を撃沈して、全艦無事いま凱旋してくるというしらせがありました」
「うむ、そうか。三十数隻では、十分とはいえないが、とにかく恐竜万歳だ。祝杯をあげよう」
「祝いの酒は、本艦内にたくさん用意してまいりました。さあすぐおのり下さい。いま潜水扉をあけます」
「うむ」ケレンコは、なにか、ひとりでうなずきつつ、太刀川をうながして、迎えの潜水艦の胴中についている潜水扉から、艦内へはいった。
 太刀川もケレンコにつづいて艦内へはいったが、とたんに通路のむこうから、こっちを見てにやにや笑っている体の大きい士官の顔!
 あ、リーロフ大佐だ! 本もののリーロフ大佐だ!


   万事休す


「あ、リーロフ大佐だ!」
 太刀川時夫は、潜水着の中で、おもわずさけんだ。
 無理もない。リーロフの潜水着をきて、リーロフになりすましているところへ、本もののリーロフ大佐があらわれたのである。
(錨にしばりつけたはずのあのリーロフが?)
 そんなことを考えてみる余裕さえなかった。
 太刀川時夫の運命は、きまった。太平洋魔城の大秘密を、ことごとく見てしまった以上、生きて日本へかえされるはずはない。
 逃げるか?
 とっさに考えて、あたりを見まわしたが、潜水扉は、すでに水兵の手で、ぴたりととじられてしまい、その前に、二人のたくましい哨兵が、こっちへ逃げてきてもだめだぞといわんばかりに、けわしい目つきで、はり番をしているのだった。
 リーロフ大佐は、大股でつかつかと歩みよって、いった。
「おい、太刀川。おれの潜水服の着心地はどうだったかよ」
 だが太刀川は無言のままだ。
「おれのいうことが聞えないらしい。はてさて、こまったものだ」
 と、わざとらしくいって、
「ふん、さっきは貴様のおかげで、もうすこしで古錨をかついだまま亡霊になりはてるところだった。運よくケレンコ閣下が通りかからなければ、すくなくとも今ごろは、冷たい海底にごろ寝の最中だったろう」
 リーロフ大佐は、そういって、太刀川をにらみつけると、コップ酒を、うまそうにごくりとのんだ。
「おい、なんとかいえ。おればかりにしゃべらせないで。いや、待て待て。その兜をぬがせてやろう。どんな顔をしているかな」
 リーロフ大佐は、コップを水兵に渡して、太刀川の方へ、すりよってきた。その手に、太いスパナー(鉄の螺旋(ねじ)まわし)が握られていた。
 太刀川は、それでも無言で、つっ立っている。
「おい、水兵ども。おれの潜水服をぬがせてしまえ」
 そういうと、水兵たちは、どっと太刀川にとびかかって潜水服をぬがせた。
 兜の下から青白くこわばった太刀川の顔があらわれた。
「あっはっはっは。こわい顔をしているな。おい、太刀川。さっきから、こうなるのを待っていたんだ。積り重る恨のほどを、今、思い知らせてやるぞ」
 リーロフ大佐は、酔った勢いも手つだって、鋼鉄製のスパナーを、目よりも高くふりあげた。
 たくましい水兵たちは、太刀川をおさえつけて、さあ、やりなさいといわんばかりに、リーロフの方へつきだした。


   ケレンコの腹の中


 太刀川は、声もたてず、しずかに瞼(まぶた)をとじていた。
 リーロフが、満身の力をこめて、スパナーをふりおろそうとした時、うしろから、その腕を、むずとつかんだ者がある。
「あ、誰だ。……」
 リーロフは、まっ赤になってどなった。
「リーロフ。なにをばかなまねをする。わしのつれてきた珍客を、お前は、どうするつもりだ」
 司令官ケレンコだった。
 ケレンコは、奥へいって、艦長から報告をきくと、すぐ引返して来たのだ。
「はなしてください、ケレンコ司令官。この太刀川こそ、わが海底要塞にとって、たたき殺してもあきたりない人物じゃないですか」
「そんなことは、よく知っているよ。しかしお前は、あんがい頭が悪いね。太刀川と知りつつ、海底要塞を案内したり、恐竜型潜水艦の威力を見せてやったりしたのは、一たい何のためか、それぐらいのことがわからないで、副司令の大役がつとまるか」
 ケレンコは、リーロフを小っぴどくとっちめた。だが、リーロフはひるまなかった。
「でも、ケレンコ閣下、太刀川みたいなあぶない奴は、早く殺しておかないとあとで、とんだことになりますぜ」
「それだから、お前はだめだというんだ。太刀川は、日本進攻の際の、このうえないいい水先案内なんだ。お前には、それが分からないのか」
「え?」
「この男は、海洋学の大家だぞ。ことに、日本近海のことなら、なんでも知っているはずだ。この知識をわれらの目的につかうまでは、太刀川は大事な人間なんだ。おい太刀川。貴様にも、はじめてわけが分かったろう。生かすも殺すも、わしの勝手だ。だが、わしの命令にしたがえば、恩賞はのぞみ次第だ」
 太刀川は、
(何を、ばかな)
 と思ったが、それには答えず、何事を考えたのか、にやりと笑った。
「おい、衛兵長。それまでこの太刀川を監禁しておけ」
「は。どこへ放りこみますか」
「あいている部屋ならどこでもよい。それから、上等の食事に、酒をつけてな」
「は。たいへんな御馳走ですな」
「余計なことをいうな。しかし、逃げないように。もし逃がしたら、お前をはじめ衛兵隊全員、銃殺にするぞ」
「は、はっ」
 衛兵長とよばれた下士官は、それきり一言もなかった。太刀川は、引立てられた。
 リーロフ大佐は、それでもあきらめかねたか、酔眼(すいがん)をこすりながら、太刀川のそばに近づくと、たくましい腕をふりあげて、太刀川をなぐりつけようとした。
 司令官ケレンコは、それをたしなめるようににらみつけると、衛兵たちにむかって、
「早くつれていけ!」
 と命令した。


   くさい監禁室


 潜水艦が、海底要塞にかえりつくと、太刀川は、大勢の衛兵たちにつれられて、臨時一号監禁室に放りこまれた。
 そこは、どうやら、海底要塞の、ごく底の方らしく、臨時というだけあって、まるで倉庫であった。器械を入れてあったらしい木箱や、まだときもしない貨物や、酒樽みたいなものが、ごたごたと山のように積みあげてある。そのすみに、古ぼけた寝台がおいてあった。それはまだいい。たまらないのは、この部屋にみちている悪臭だった。
「あ、たまらない臭だな」
 と、衛兵長は、まっ先に顔をしかめた。
「なんだね、このむかむかする臭は」
「缶詰がくさったらしいんです。捨てろという命令が出ないので、そのままになっているんです」
 と、部下の一人がこたえた。
「これは、やりきれん。早いところ、この日本猿を片づけてしまわないと」
 衛兵長は、顔をしかめながらいった。
「日本猿を、こっちへつれてこい。鉄の足枷をはかせ、その鎖にゆわえつけとくんだ。貴様が逃げだせば、こっちの命までが、ふいになってしまうからな。しっかりゆわえておけよ」

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