太平洋魔城
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著者名:海野十三 

 さすがの太刀川も、色をうしない、そういうのも、舌がこわばって、やっとだった。艇長も教えられるまでもなく、怪物の姿に気づいていたのだが、あまりの恐しさに、声が出なかった。半分気がとおくなって、ふらふらと窓にたおれかかった。
「艇長、あの怪物はどうやらこっちを向いているようですぜ。あ、うごいています。すぐ艇員に命令して、武器をもたせるように――」
「武器――」と艇長はうめくようにいったが、首をふり、
「いや、とてもだめだろう。あれを見たまえ。まるで、煙突が鎧をきたみたいじゃないか。あんなにかたそうでは、小銃の弾なんか通らないよ。そのため、かえって怪物を怒らせるようなことがあっては……」
 煙突が鎧をきたようじゃないか!
 へんないい方ではあるが、なるほど、海魔の姿をよくいいあらわした言葉である。
 海面からにょきっと出た首らしいものは、およそ百メートルはあろうと思われる。
 それは、くねくねと曲って、ゆらゆらうごいているが、そのぶきみさといったらない。この首の一ばん上に、頭らしいものがついている。首も頭も緑色をしていて、ぬらぬらとしたいやらしいつやをもっている。とつぜん、ぱっぱっぱっと、頭のところから、目もくらむような光が出た。
「あ、光った!」
 窓のところへよって、ふるえあがっていた艇員たちは、それを見て、一せいに叫声(さけびごえ)をあげた。
 乗客たちは、もう生きた心地もなく、床の上をはいまわったり、頭をかかえてうめいたり、座席にかじりついて、神の名をよんだりするのであった。
 むりもない。海面から出た首と頭とだけで百メートルにちかいのである。すると海面の下にかくれている胴体や尻尾は、と思うと、この世のこととは思えないのである。
(おれたちは、夢を見ているのじゃないかな)
 しかしそれは、けっして夢ではなかった。
 大海魔は、しずかに頭をうごかして、ふしぎそうに、まい下りてくる飛行艇を見あげ、照空灯のような目を、ぴかぴかと光らせるのであった。
 操縦室では、海魔から少しでも遠ざかろうと必死の操縦をつづけているのだが、エンジンがとまっているので、思うようにいかない。高度は三百メートル、二百メートル、百メートルと、見る見るうちに下って行った。
 あらしの名残の雲がきれぎれにとぶ。
 西を向いても東を向いても果しのない大海原、もうどうすることもできない。艇内百余の人命をあずかっているダン艇長は、心を痛めながら、着水後の用意のため、艇内を見まわっている時であった。
「あ、あれあれ」
 と、とんきょうな叫声がおこった。
 何事かと窓によってみると、海上に大海魔の姿はなく、ごーっという、すさまじい海鳴とともに、今まで大海魔ののぞいていた海面は、ごぼんごぼんと大きな泡をたて、渦をまいてわきたっているではないか。


   約束の無電


 ダン艇長が、大海魔の消えた海面に目をみはっているそばで、太刀川時夫は、しきりにステッキの頭をひねくっていた。ステッキというが、これはただのステッキではない。日本を出発するとき、原大佐から、「万一の時には、この中に仕掛けてある短波無線機で知らせよ。よびだし符合はX二〇三――」だといっておくられた、あのステッキだ。
 それを使う時がいよいよ来たのだ。まさかと思った大海魔が、目の前にあらわれたのである。今だ今だ。今この報告をしなければ、ステッキを使う時が、永久に来ないかもしれない。そして、おそらくこれが、最初にして最後の報告になるかもしれない。――太刀川青年は、そんなことを考えながら、ステッキの頭についている蓋をはずすと、内部につめこまれた精巧な超小型の無電機をのぞいた。くわしいことは、軍機の秘密だから、のべられないけれど、機械のどの部分も、ゴムに似たある特別の弾力のあるかたい物でかためてある。なげとばそうと、海水につかろうと、また少しぐらい熱しようと、中にある機械の働きは、少しもくるわないというすばらしいものだ。
 太刀川青年は、ステッキの中から、紐のついた南京豆ほどの奇妙な受話器をひっぱりだし、耳の穴に入れた。そして右の指先で、小さな無電の電鍵(キイ)を、こつこつとたたいた。
「X二〇三、X二〇三」
 それは、例のよびだし符合であった。
 太刀川は、そのよびだし符合を、十四ほど、つづけざまにうった。
 それがすむと、電鍵(キイ)のそばについているスイッチをきりかえた。それは、機械が、以後電話ではたらくように、なおしたのだった。
 じ、じっと雑音が、受話器をならした。するとそれにつづいて、日本語がはいってきた。
「太刀川君かね。こちらは原大佐だ」
「ああ原大佐!」
 太刀川は、おどろいた。こうもうまく、連絡ができるものとは、考えていなかった。大佐の声はすこしはずんでいるが、その声の大きさは、市内電話と同じくらいだった。
「待っていたぞ、太刀川君。僕は今、君もよく知っている、役所の例の机の前にすわっているよ。さあ聞こう。話したまえ」
「ああ」
 と太刀川は我にかえった。大佐の声を聞いていると、大佐も、この飛行艇内のどこかにいて、そこから電話をかけているような気がするのだ。大佐にさいそくされて彼は、はじめて話しだした。
「私は今フィリピンの、はるかはるか北の沖に不時着しようとしているサウス・クリパー艇の中にいます。つい今しがた例の大海魔が海面からあらわれ、そしてすぐひっこんでしまうところを見ました」
「そうか、やはり本当にそのような怪物がいたのか。よし、じゃ、くわしく話したまえ」
「まず、形は――」
 と、語りかけたとき、艇内の高声器から、とつぜん、警報がなりひびいた。
「皆さん、すぐさま座席の下にある救命具をつけてください。本艇は、あと二、三分のうちに、不時着します。その時は、すぐさま窓から海へとびこんで下さい。本艇は、さきほど暴風雨中を無理な飛行をしましたため、胴体の下部数箇所にさけ目ができました。修理が間にあわず、波があらいので、沈没はまぬかれません。救命具は、しっかり体についているかどうか、たしかめて下さい。すべて行動は、おちついてやること。窓から出るときは、婦人を先にして、男子は後にして下さい。お互に人間としての本分をつくし、どんなことがあっても最後まで気をおとさず、助けあって下さい。無電監視所から、いまに助けに来てくれることと思います。艇員の命令を守らないものは、やむを得ません。銃殺します。ただ、皆さんを、かような運命におとしいれたことにたいしては、艇長以下一同、何とも申しわけなく思っております」
 悲壮な声であった。おお、いよいよ着水かと思った時、
「そうだったか、太刀川君、今のを聞いたぞ」
 原大佐は、口をこわばらせて、そういい、「うーむ」とうなる声がきこえた。


   艇の最後


 だが、太刀川時夫は、おちついて、はきはきとした声でいった。
「もう時間がありませんから、この飛行艇が沈むまでに、できるだけのことを、報告しておきます。お書きとり下さい」
「よし、こっちの準備はできている。さっきから、君の話は、すべて録音されているのだ。では、はじめたまえ」
 太刀川時夫は、早口に語りはじめた。海面は、すぐ目の下に見える。あと百メートル足らずだ。波は白く泡をかんで、ただ一箇所、例の大海魔がもぐったあたりが、灰色ににごっているだけである。あわてさわぐ客をしり目に、太刀川青年は、海魔について自分の見たところを、できるだけくわしく報告した。そして彼は最後に、共産党太平洋委員長ケレンコと、潜水将校リーロフのことを、つけ加えることを忘れなかった。
「おおケレンコにリーロフか。二人とも○○国には、もったいないほどの優秀な人物だ」
 と、原大佐は思わず、おどろきの声をあげた。
「僕は会ったことがある。二人とも、我々が注意していた人物だ。太平洋上へ落ちたとすれば、たぶん命は助るまいが、けっして油断はならない。太刀川君、飛行艇の寿命はあと数分のようだね。だが早まってくれるな。祖国のため、どんな苦しいことがあっても命を大事にしてくれ。そして、ケレンコとリーロフの消息には、これからも、気をつけていてくれ。その中こっちからも、誰かを……」
 その時、人気のなくなったこの廊下へ、あわただしくかけこんで来た者がある。石少年であった。
「太刀川先生、早く……ほら、もうすぐ海におちる」
「おお、石福海か、ちょ、ちょっと待て」
 しかし石少年は、ぐずぐずしていたら死ぬじゃないかという顔色で、太刀川青年の腕をぐんぐんひっぱる。
「よし、わかった。太刀川君、あとは君の天佑をいのるばかりじゃ」
 事情を察した原大佐の声が聞えた。
 太刀川も、ついにあきらめた。
「では大佐、さようなら。ごきげんよう……」
 とたんに、飛行艇は海面にたたきつけられた。太刀川青年は、はずみをくらってあやうく、頭を天井にぶっつけそうになった。
 出入口におしあっていた乗客たちは、いいようのない叫声をあげて、われがちに外へ出ようと争っている。海水はあけた扉から、どどどーっとながれこんで、みるみるうちに艇内は水びたしになる。
「ああ、だめだ、先生!」
「心配するな、しっかり僕の手につかまっておれ!」
 太刀川青年は、そういって、すばやくステッキの蓋をすると、それを腰にさし、救命具をつけて、一つの窓をたたき破り、石少年とともにするりと艇外へ、くぐりぬけた。がぶりと、大きな波が二人をのみこんだ。


   波とたたかう


 太刀川青年は、石少年の手をとったまま、水をけって、水面へ浮かび出た。
 飛行艇は、その時、背中を半分ほど海面にあらわし、プロペラを夕空に高く、つき出していたが、ずぶずぶと、大きな姿を没して行く。
 艇員や乗客たちが、たがいに呼び合う声が、波の音、風の音にまじって聞える。
「ダン艇長は?」と、あたりを見まわしたが、いくつもの頭が、波のまにまに見えるだけで、誰がどこにいるのかわからなかった。
「ぷーっ」
 石少年が、のんでいた水をふきだした。
 それを見て、
「おお、石福海、おまえは、どのくらい泳げるか」
 太刀川はきいた。
「泳ぎ? 泳ぎなら、百里は、大丈夫ある。わたし生れ香港、五つの時から泳ぎおぼえた」
 石少年は、立泳ぎをしながら、こんなのんきな返事をした。
「なに、百里? あきれた奴じゃ」
 太刀川は、思わず笑って、石少年の顔を見た。
 波はまだ大きい。
 西の水平線に、しずみかかった太陽が、海面を金色にそめているのが、かえってものすごかった。
 クリパー号は、もう波間にのまれてしまって、そのあととおぼしいあたりに、乗客たちの持ち物が、ただよっている。
 耳をすますと、遭難者たちの声が、相変らず、もの悲しく聞えていた。


   おそろしい渦


 波は、いくらか小さくなったようだが、急に黒っぽさをました。
 闇が身近にせまって来ると、石少年は、心細くなったのか、
「先生、わたし一晩中、泳ぎつづけても、大丈夫あるが、夜、何だかこわいよ」
 といいだした。
「だまって[#「だまって」はママ]、おまえは目がわるくて、二メートル先も、よく見えないのだろう。じゃ、夜だって昼だって同じことじゃないか」
「それ、ちがう、さっきの海魔、わたしの足くわえ、海の底、ひっぱりこむような気がする」
「はっはっはっは……何のことかと思ったら、それか。ところが僕は、あの海魔に、もう一度会いたいと思っているんだよ」
 二人が、波にもまれながらこんな話をしている時であった。又も遠い海鳴のような音が、ごーっと聞えだしたかと思うと、とつぜん、闇の彼方から、
「あっ」
「あれ、あれ」
「きゃっ」
 という悲鳴。
「先生、あの声は?」
「うん、みんなの声だ。いよいよ出たか」
「え、何がです」
「心配するな、何でもないよ」
 そういってる間に、おびえきった声が、右の方からも左の方からも聞えだし、それが、だんだんひろがっていくような気がした。
「あ、先生。わたしの体、ながされる。おお、大きな渦、先生、あぶない」
「なに、渦だ。うーむ。いよいよやってきたか」
 太刀川が、そうつぶやいた時、石少年の体が、まるで船にでものっているように、すーっと、目の前を流れた。
「せ、先生。渦がわたしをひっぱるよ。た、助けて!」
 石少年の細い腕が、高くあがったのを見た。
 しかしそれと同時に、太刀川の体も渦にのって流されはじめた。
「おお、石、しっかりしろ!」
 もう石少年の返事はない。そのうちに、ぴちぴちという生木をさくような、ぶきみな音が、渦のまん中と思われるあたりから聞えだし、彼の体は、くるくるとまわりだした。
「む、無念だ」
 と思った時、急に足が下にひっぱられるような気がした。必死にもがいたが、むだであった。太刀川の体は、いよいよはげしく、まるでこまのように早くまわりだした。
「もう、だめか」
 彼は観念の眼をとじた、瞬間、頭の中をかすめるものがあった。
 原大佐の顔、
 重大使命は?
 海魔は?
 ケレンコ、リーロフは?
 やがて彼の気は、だんだん遠くなっていった。
       ×   ×   ×
 太刀川時夫と石福海を、のみこんだ大きな黒い渦は、ゆらりゆらりと所をかえて行く、その底のあたりに、何か、ぴかりぴかりと光るものがあったが、ごーっという海鳴が一だんと高くなり、あたり一面が、ものすごく波立って来たかと思うと、やがて、まっくろい海面を、つきやぶって、ざざー、ざざーと、泡立てながら、ぬーっと姿をあらわした恐しくでかいものがある。
 大海魔であった。
 夜目にもそれとわかる、あのものすごい大海魔の頭であった。


   ミンミン島の珍客


 太刀川時夫と石福海少年とを一のみにしたものすごい大渦巻は、いつしか海面から消えてなくなった。洋上にただよいつつ、しきりに救いをもとめていたクリパー号の他の艇員や乗客たちの声も、いまはもうどこにもきこえなくなった。
 この人々の運命は、どうなることであろうか?
 太平洋上に、とつぜんかま首をもたげた、世にも奇怪な海魔の謎は、いつ誰がとくであろうか?
 それはしばらくおいて、この物語をミンミン島とよぶ、太平洋上の一つの小さな島の上にうつすことにする。
 ミンミン島は、色のくろい原地人たちが、みんな高い木の上に、まるで鳥の巣のように、家をつくって住んでいる奇妙な島である。酋長ミンチの住居(すまい)は、大きな九本の椰子(やし)の木にささえられた大きな家で、遠くからみると、納屋に九本の足が生えているようだった。このミンミン島に住んでいる三百人ほどの原地人たちは、太陽のでている昼の間だけ地面をあるいているが、日が暮れかかると、あわてて木の上の家にのぼってしまう。そして夜の明けるまで、けっして地上におりて来ない。
 このふしぎな風習は、大昔、島が真夜中に大つなみにおそわれて、住民のほとんどが、浪にさらわれて行方不明になったことからおこったと、いいつたえられている。
 今日は、酋長ミンチの家はお客さまがあって、たいへんな賑わいだった。お客さまというのは、このミンミン島の隣の島――といっても、海上五十キロもはなれているロップ島の酋長ロロの一行であった。
 さて、酒盛がいよいよたけなわになったころ、日が暮れてきた。するとミンミン島の原地人たちは、急になんだかそわそわしだした。彼等にとってはおそろしい夜がくるからだ。
 これにひきかえ、ロップ島のお客さまたちは、酋長ロロをはじめますます陽気になってきた。この人たちは、みんなそろって、頭の上から鼻のあたりまで、すぽりとはいる黒い頭巾をかぶっている。目のところには、小さな穴があいていて、そこからのぞいているのであった。
 酋長ミンチが、やがて椰子の葉でこしらえた大きな団扇(うちわ)のようなものを、右手にさしあげて頭の上の方でふると、がらがらというへんな音が、あたりになりひびいた。
 すると次の間から、魚の油をもやしているらしい燭台が三つ四つ、はこび出された。
 とたんに、ミンミン島の人たちは生きかえったような顔色になり、思わずわーっとよろこびの声をあげた。
 ところが酋長ロロをはじめロップ島の人たちは、それがおもしろくないといった様子で、何かがやがやとわめきあっている。
 そのうちに、酋長ロロが、席からすっくと立ちあがって、手にしていた短い手槍みたいなものを左右へぴゅうぴゅうとふった。そして胸をはり、肩をいからせて、
「この島の主(あるじ)ミンチよ。太陽は海の中へすっかりおちてしまった。いよいよやくそくの時刻になったではないか。さあ、早くその尊いものを出してくれ」
 と、きいきい声でさけんだ。
 すると、このミンミン島の酋長ミンチも、すっくと立ちあがり、これは破鐘(われがね)のような声で、
「客人よ、お前のいうとおりだ。それでは、いよいよこれからミンミン島の宝であるクイクイの神を、ここへ呼ぶことにするぞ」
 といえば、酋長ロロは息を大きくはずませて、
「うむ、待っていたところだ」
 と、こたえた。
「おう、奥から、クイクイの神をよべ」
 酋長ミンチがこの命令をすると、奥の間から、あやしい返事の声がきこえて、やがて垂幕(たれまく)をわけ、しずしずとあらわれたのは、裸の上に、椰子の枯葉であんだ縄のようなものを、長くたらした奇怪なクイクイの神であった。


   クイクイの神


「おう、クイクイの神だ!」
「クイクイの神よ。われにつきまとう悪霊をはらいたまえ」
 ミンミン島の原地人たちは、てんでに口のなかでつぶやきながら、クイクイの神にむかって、平つくばって礼をするのだった。
 ロップ島の原地人たちは、目をぱちぱちして、この有様を見まもっている。
 クイクイの神は、ゆったりゆったりと、広間の中へすすんでいった。頭の毛をぼうぼうと生やし、その頬には、まっ黒なひげをもじゃもじゃとのばしている。へんてこな神さまだ。
 それもそのはずで、じつはこのクイクイの神は、日本人なのである。神さまをとらえて、いきなりこれが日本人だといっても、だれもほんとうにしないかもしれないが、この神さまは、その名を、三浦須美吉という日本人なのだ。
 三浦須美吉といえば、あたまのいい読者諸君は、きっとおぼえているであろう。原大佐が太刀川青年に話した、あの太平洋上で、大海魔に出あったという第九平磯丸の若き漁夫三浦スミ吉のことである。
「大海魔アラワレ――アレヨアレヨトオドロクウチ、口ヨリ火ヲフキ、鉄丸ヲトバシ、ワガ船ハクダカレ、全員ハ傷ツキ七分デ沈没シタ。カタキヲタノム」
 この悲壮な遺書を、鉄丸の破片とともに空缶の中に入れ、海中に投げこんだ、そのあわれな遭難漁夫三浦スミ吉が、今ここでクイクイの神となりすまし、ミンミン島とロップ島の原地人の前に、とりすました顔で立っているのだ。
 ちょっと信じられないふしぎな話である。
 ところがその訳はこうなのだ。この三浦須美吉は、遺書を海中に投げこんでから、船は沈んだが、自分は海上にうかび、ちょうどそば近く流れていた船の扉にすがって漂いつづけ、運よくこのミンミン島に流れついたのである。
 それにしても、どうして三浦がクイクイの神となりすまして、原地人たちからそんなにあがめられているのか。
 三浦に言わせると、流れついた島の人の中にあって、自分の命を安全にしておくためには、神さまになるのが、一番かしこいやり方だとおもったからだそうだ。そして、それはきわめて訳のないことだったというのである。
 どうして?
 そのわけは、これからクイクイの神が始めることを、しばらく見ていれば、ひとりでにわかるだろう。
 クイクイの神は、ちょっと気むずかしい顔をして、二人の酋長のまえにすすみ出た。彼はえへんと咳ばらいをしておもむろに腕をくみ、
「こりゃ、願は何事じゃ!」
 と、おぼつかない原地語でいった。
「おう、酋長ロロよ、クイクイの神が願をきかれるぞ、早くおまえのつれてきた病人をここへ出せ」
 酋長ミンチがさいそくすると、
「これ、病人を前へつきだせよ」
 酋長ロロは命令をした。
 ロップ島の原地人たちは、いちどきに立ちあがって、その中に立っていた一人の若い女をかつぎあげて、クイクイの神の立っている前に、まるで土嚢(どのう)でもなげだすように荒っぽく、どんとおいた。
 女は、悲鳴をあげながら、床の上にうつむけになってころがると、両肩を波のようにうごかして、くるしそうな息をついているのであった。いかにも重病でくるしんでいるらしい。
 クイクイの神になりすましている漁夫三浦須美吉は、その様子をじっと見ていたが、やがて両手でもって、女の顔をぐっと正面にむけた。
 女は、これからクイクイの神に何をされるのかと、あまりのおそろしさに、手足をぶるぶるふるわせている。


   へんてこ医術


 クイクイの神は、一座をずっとみわたし、いよいよ神の力をもってこの女の病気をなおしてみせるぞという合図をした。
 ミンミン島の原地人たちの口からは、クイクイの神をたたえるような言葉がつぶやかれた。
 そこでクイクイの神は、原地人の女の顔を見つめながら、両腕を前にぬっとつきだした。次に両腕を、ぽんぽんとたたいて、なんのかわりもないことをしめした。それから両腕をさかんにふりまわしたり、両手をにぎったりはなしたりしていたが、そのうちに右手の指さきを、かたくにぎった左の掌(てのひら)の中にさしいれて、ごそごそやっていたかと思うと、左の掌の中から、赤い紐のようなものをするするとひっぱりだした。
 ミンミン島の人は、それを見ると、
「わあーわあー」
 と、奇妙なこえをあげて、さかんにクイクイの神へむかって、おじぎをはじめた。
 クイクイの神は、さももったいぶった様子で、その赤い紐をぱっと両手でふったと思うと、なんとそれは一枚の風呂敷ぐらいの布ぎれになっていた。
「わあー、わあー」
「ふ、ふ、ふーん」
 ふ、ふ、ふーんの方は、酋長ロロをはじめロップ島原地人のため息であった。クイクイの神の、おそろしい力に、すっかりおどろいてしまったらしい。病気の女も、口をぽかんとあけて、クイクイの神の手に見とれている。
 クイクイの神は、掌の中からとりだした赤い布ぎれを、みんなのまえで見せびらかすようにうちふった。そしてこんどは「やっ」と気合をかけると、赤い布の中から一羽の白い鳥をつかみだした。鳥は、ながい嘴(くちばし)をひらき、翼をばたばたさせてもがいている。
「わあー、わあー」
「ふ、ふ、ふーん」
 ミンミン島人もロップ島人も、クイクイの神のおそろしい神力を目の前に見て、腹の底からおどろきのこえをあげて床の上にひれふした。
 だが、クイクイの神のやっていることは、そう大してふしぎではない。それはごくありふれた小奇術なのだ。クイクイの神を名のる漁夫の三浦須美吉は、かねて習いおぼえていた手品でもって、これらの人たちをすっかり煙にまいてしまったのである。
 しかし、彼にしてみれば何も手品が見せたくて、好きでやっているのではない。こうして原地人たちをおどろかしておかないと、いつ殺されるかもしれないからだ。彼はこうして神さまの威力を見せておいてから、
「おう、女、前に出てこい――」
 と叫んだ。クイクイの神によばれた病気の女は、催眠術にかかったように、神の足もとへにじりよった。
「いよいよこんどは、お前の病気をなおしてやるぞ。どこが痛むか」
 女は顔をしかめて、胸の下のところを指さした。
「おう、そこか。いまに痛みはとまるぞ。そこに悪霊(あくりょう)がすんでいるのじゃ。いまわが神力でもって、その悪霊をおい出してやる。こっちをむいて、わしの手を見ているがいい」
 そういってクイクイの神は、右手を女の胸にあてたかとおもうと、「やっ」とさけんで、女のからだからひきはなして、さっと上にあげた。
「ああっ、それは――」
 女はおどろきのこえをあげた。クイクイの神の手には、椰子の葉でつくった小さい人形がにぎられている。
「これがお前を苦しめていた悪霊じゃ。わしが、こうして取出してやったぞ。どうだ、おまえの痛みはとまったろう」
 女はこのクイクイの神の言葉に、はっとして胸をおさえてみた。するとどうだろう、ふしぎにも痛みはけろりとなおっていたではないか。今にも死にそうだった女は、別人のように元気になってすっくと立ちあがり、クイクイの神にお礼をのべて、その場で手足をふりながら踊りだした。
 これをみた原地人たちは、いよいよクイクイの神に、おどろきとおそれの言葉をささげた。
 ひとり腹の中でおかしくてたまらぬのは、クイクイの神さまになりすましている漁夫の三浦だった。彼の手品にすっかりおどろいてしまった女は、ほんとに病気の悪霊を、この神さまがとりのぞいてくれたものと思いこんで、すっかり病気がなおったのである。「つまり精神療法というやつさ」と三浦はとくいで、せい一ぱいしかつめらしくかまえていた。


   売られゆく神さま


「われわれロップ族は、ぜひクイクイの神を買うことにする」
 ロップ島の酋長ロロが、ミンミン島の酋長ミンチの肩をたたいていった。
 酋長ミンチは、それをきくと、ぐっと胸をそらして、
「よし、いよいよ買うか。では、そのかわり、わしがほしいといったものを、こっちへよこすか」
「それは承知した。ちゃんと持ってきてある。これこのとおりだ」
 酋長ロロがとりだしたのは、なんと一枚のやぶれたシャツだった。
「おう、それだ。わしがほしくてたまらない物は!」
 酋長ミンチは、破れシャツをひったくった。
「おう、これこれ、すばらしい宝物だ」
 ミンチは破れシャツをなでまわして、よだれをこぼさんばかりの喜びようだ。
「では、こっちは、クイクイの神をもらってゆくぞ」
「たしかに、とりかえた」
 破れシャツ一枚とクイクイの神との取りかえっこだ。
 クイクイの神は、これをきいてがっかりした。自分の体が、破れシャツ一枚にかえられるとは、なんというなさけないことだと思った。
 ロップ島の原地人たちは、クイクイの神を手に入れて大喜びである。これでこそ、はるばる遠い波の上をここまでやってきたかいがあったと、たがいに顔を見合わせ、きいきいごえを出してうれしがっている。
 それからすぐに、クイクイの神こと三浦須美吉は、ロップ島の原地人にまもられて、酋長ミンチの椰子の木の家からくらい地上におりた。
 ミンミン島の原地人は、だれ一人、三浦をおくってこない。彼等には、夜の地上はこの上もなくこわいからだ。
 ロップ島の原地人は、クイクイの神を手に入れて、まるで凱旋でもするような賑やかさだ。あの死ぬくるしみをしていた女までが、先にたってさわいでいる。
 海岸には、丸木舟が五隻ほど待っていた。
 三浦クイクイの神は、もうこうなってから逃げようとしても、とてもだめだとわかっているので、おとなしく丸木舟にのりこんだ。
 やがて丸木舟は、櫂(かい)の音もいさましく、まっくらな海の上を走りだした。
 磁石もなにももたぬ原地人たちは、星を目あてに、えいえいとこえをそろえて漕ぎゆくのだった。舟は、矢のように走る。夜の明けないうちに、五十キロも先のロップ島へかえりつかねばならないのだ。
 三浦須美吉は、酋長ロロが舵をとる丸木舟の舳にしゃがんでいたが、目が闇になれてきたとき、原地人たちはいつの間にか、ミンミン島で鼻までたれてかむっていた頭巾をぬいでいるのがわかった。
 ロップ島の原地人たちは、太陽の光をおそれて、昼間はその深い頭巾をかぶり、夜が来てあたりがくらくなると、それをぬぐ習慣だということを後で知った。
 さいわいに海は畳のように平らかで、三浦須美吉は大して疲れもしなかった。もう三十キロも来たであろう。時刻もそろそろ夜中の十二時ちかくになるとおもわれる。
「がんばって漕げよ、若い者たち、もうあと半分もないぞ」
 酋長ロロは、こえをはりあげて、はげました。原地人たちは、きいきいごえをあげて、酋長の命令にこたえた。
 その奇声をじっときいている三浦須美吉は、ふだんののんきな性質もどこへやら、たえられないほどさびしい心になった。
(ああ、おれは今、二十四の青年だが、いったいいつになったら、救いだされて、あのなつかしい日本へかえれるだろうか)
 そう思うと胸がせまって、ほろほろと頬の上にあつい涙がながれた。
 その時だった。
 酋長が、何かするどいこえで叫んだ。
 原地人たちは、酋長の叫びをきくと同時に、ぴたり櫂をこぐ手をとめてしまった。そして、き、き、きと妙な声をあげ、あわてて例の頭巾を頭からすっぽりかぶった。
(どうしたのだろう?)
 三浦は、ふしぎにおもって、首をぐるぐるまわした。すると、はるか後の方に、ぴかぴかとへんに光っている物があるではないか。
「おや、あれはなんだ」
 よく目をすえて見ると、くらい海の一てんから、青白い長い光がすーっと出て、横にうごいている。
「探照灯みたいだが――」
 と思っていると、こんどは別のところから、ものすごい火柱が二本も立ちあがって、それからまっ赤な火の玉が、ぽろぽろと海面へおちはじめた。
 やがて、そのどろどろと宙にもえていた火柱の色が、急に赤みがかってきた。それと同時に、火柱のたっている近くの海が、急にぼーっと明るくなった。
 海が光りはじめたのだ。海の上だけではない、海面の下までが、電灯でもつけたかのように光っている。
 原地人たちは、もう櫂をこぐどころか、ただ口々に神への祈りをくりかえしている。
 そのとき酋長がふるえごえで、三浦によびかけた。
「おう、クイクイの神よ、われわれロップ島の人民を、おそれの谷にたたきこむのは、あの魔物であるぞ。クイクイの神の力によって魔物のあの光る息をおさえつけてもらいたい。そうすれば、われらは、クイクイの神にどんな宝物でもさしあげるだろう。た、たすけたまえ」
 三浦は、あああれこそいつぞやの大海魔にちがいないと思った。海魔というが探照灯や信号弾のようなものを放っている様子を見ると、動物ではない。何か恐るべき科学の力によって仕組まれているものとにらんだ。では、大潜水艦みたいなものか、いやそれにしても、大きさからいって潜水艦どころのさわぎではない。
 三浦は、酋長ロロにたのまれた以上、ここでなんとかしてクイクイの神の力をあらわさなければならないのだ。そこで彼は、あやしい光にむかって大きなこえで、呪文をとなえだした。もしそれを日本人がきいたら、腹をかかえて笑いころげたろう。磯節の文句を調子はずれにどなっていたのだったから。
 すると、まもなく海上を照らしていた火がぱっと消え、ついで海中の光もなくなって、ふたたび闇の世界にかえった。
 丸木舟の上の人たちは、これこそクイクイの神の力できえたものと思い、よろこびの奇声をあげて、クイクイの神をたたえるのであった。
「そら、こげ、今のうちだ!」
 酋長の号令に、丸木舟は、またもや矢のように海上をはしりだした。
 そして東の空がうっすりと白みはじめたころ、ようやくロップ島の岸につくことが出来た。
 ロップ島! この島から、海魔があばれている海魔灘まで、わずかに十キロあまりしかないのである。


   太刀川は生きていた


 さて話は元にもどって、海魔灘の渦巻にまきこまれて、海上から姿をけしさった太刀川時夫は、どうしたことであろうか。また、潮に流されながら時夫にたすけをもとめていた石福海少年は、どうなったことであろうか。
 がんがんがんがん。がんがんがんがん。
 鉄をたたいているような物音である。
「あ、やかましい。耳がいたいじゃないか」
 太刀川時夫は、夢心地でつぶやいた。
 ぽとり、と、つめたいものが、時夫の襟もとにおちて、せなかの方にまわった。
「ああ――」
 そこで、太刀川時夫は、やっと気がついた。
「はて、ここはいったいどこだろう」
 あたりをずっと見まわした。
 そこは、コンクリートでかためた四角な空井戸の中のようなところだった。壁はびしょびしょに水でぬれている。ふしぎなのは、時夫のいる床だった。あらい鉄格子でできている。がんがんがんというものすごい音は、鉄格子の下からきこえてくるのだった。
 電灯らしいものもないのに、この室内は鉄格子の下からぽーっと青白い光がさしていて、物の形がわかる。よく見ると、壁にその青白い光の横縞がいくつもあり、天じょうの方までつづいていた。後になってわかったのだが、この光は深い海にすむ夜光虫をよせあつめた冷光灯であった。
 太刀川時夫は、この気味わるい光のなかに立って、手足に力を入れてみた。たしかに力がはいる。しかしそれでいて、自分は生きているのか死んでいるのか、どうもはっきりしないのであった。そこでしきりに記憶をよびおこした。
(――おそろしい大渦巻にすいこまれて――そうだ、石福海が、その前にたすけをもとめていたが――自分はあのまままっくらな海中にひきずりこまれて、息がつまりそうになったが、――それから、なんだか竜宮のように、美しい室を見たようにおもったが――そのうち体がくるくるとまわりだして、なにもかも見えなくなってしまった。それから……)
 それから、さあそれから――それから後はわからないのだ。
「僕は、生きてはいるのだ!」
 時夫は、両の腕を、こつこつとたたきあわせて見ると痛い。たしかに生きている。
「生きてはいるが、ここはどこだろうか」
 まるで牢獄みたいな奇怪な室だった。
 潜水艦の中かしらん?
 こんな大きな室をもった潜水艦はない。では、どこか島の地下室であろうか、それとも窟(いわや)の底であろうか。
 がんがんがんがん。がんがんがんがん。
 またものすごい物音が、足もとの鉄格子の間からきこえてきた。
「ふむ、あれはどうしても、なにか大きな機械を使っている音らしい。そうしてみると、これは………」
 太刀川時夫は、はっと気がついて、自分のびしょぬれの服をしらべてみた。そしてなにを思ったのか、うんと一つ大きくうなづくと、体をひるがえして、室のすみにとんでいって、そこへ腹ばいになりながら、鉄格子の間から、下をのぞきこんだのである。
 彼は、その鉄格子の下に、いったいどんなものを見たであろうか。


   ぽっかりと窓があいて


 それは大きなエンジン室らしく、はるか下の方に甲虫の化物みたいなエンジンの一部分らしいものが見える。
 がんがんがんがんという音は、ここから聞えて来るのだ。
(一たい、どこだろう?)
 太刀川はずきずきいたむ頭の中で、もう一度考えてみた。
(大渦巻にまきこまれて、水中にひっぱりこまれたことは、たしかだが、それから……)
 それからが、どうしても分からない。
 夢でないことは、自分の服がびしょびしょにぬれていることでもわかる。この室内もどことなく潮の香くさく、しめっぽい。
「海に近い場所かな」
 と思ったが、瞬間、ある考えが、頭をかすめた。
「ひょっとすると、海底にある建物ではあるまいか。いや、まさか、そんな馬鹿なことが……」
 自分の考えを自分で、うち消すようにつぶやいた時である。
「おい、小僧。目がさめたか」
 とつぜん声がした。妙ななまりのあるロシア語だった。
「えっ、――」
 太刀川は、声のする方をふりかえってみた。
 おどろいたことに、冷光灯かがやく壁のところに、ぽっかりと四角な窓が開き、その中から一つの赤い顔が、こっちをのぞいて、あざ笑っているのであった。
 その顔は、鼻の形、額の恰好からいって、たしかにユダヤ人だ。
「うふふふふ。やっと、気がついたようだね。だが、不景気面をしているところをみると、まだ夢でもみているのかね。おい、日本蛙、ここをどこだと思う。海の底だよ。海の底も底、太平洋の底だよ。ある仕掛で渦を起し、貴様をすいこんで、ここへ運んできたのは、貴様にちょっとばかり用があったからだよ。うっふふふ、そうおどろかんでもよい。ちょっと待て、もっとよいところへ案内してやるからな……」
 その言葉が終るか終らないうちに、ジーというベルの音がしたかと思うと、太刀川の立っていた鉄格子の一方のはしが、がたんと外れて下におちた。
「あっ」
 といったが、おそかった。太刀川の体は中心をうしない、鉄格子の上をすーっとすべり、そしてその下にあいた口から、まっさかさまに落ちて行った。


   自分の名を知る覆面の男


 肩先を、ぽんと、けられたいたみに、太刀川は、はっと、我にかえってあたりを見まわすと、そこには、例の男が立っていた。
「ふっふふふ、だいぶ、おやすみのようだったね。あれぽっちのことで、目をまわすとは、案外、意気地のない奴だ」
 あくまで、にくにくしげにいう。
 そこは、何の飾もない物置小屋のようなところだった。
 太刀川は、鉄格子から落ちると、途中で網で受けとめられたような気がしたが、そのまま気を失ってしまった。その間に、この部屋に運びこまれたものらしい。
 あれから、どのくらいたったものか、とにかく相当時間がたっていることは、着ている服が、かわきかけていることでもわかる。
「おい、何をぼやぼやしている。早く立て、委員長閣下のお呼びだ」
「何、委員長?」
 太刀川は、そうつぶやきながら、いたむ体をやっと起して、たちあがろうとした時、
「おおそうだ。早くしろ」
 そういう声と共に、ユダヤ人の右足が、まるで犬ころでもけるように、太刀川の肩先へ、シュッと伸びてきた。
 とたんに、太刀川は、かるくかわした。そしてその足をぐいと引いたからたまらぬ。かの大男は、後向けに、どうとたおれた。
 さあ、ことだ。こんどはほんとに怒って、
「やったな。日本小僧」
 叫びながら両手をひろげて、鷲づかみにしようと、おそいかかって来たのだ。
 太刀川も覚悟はきまっていた。
 どうせ死地にあるのだ。辱(はずかし)めをうけるより、日本人らしくたたかって、死のう。
「来い」
「おう」
 大男が、咆(ほ)えるような声をあげて、さっととびかかろうとした時である。
「何をする。カバノフ」
 後から鋭く呼びとめた者があった。
「お前に、そんなまねをしろと、誰が命じた。委員長は先程から、待ちきっていられるぞ」
 するとかのカバノフと呼ばれた大男は、
「あ、ああ……」
 わけのわからぬ叫声(さけびごえ)をあげて、手をふり上げたまま、後じさりながら目を白黒。それをみて、
「はははは……そのざまは何だ。いくら貴様が力自慢でも、貴様の手におえる相手ではない。早くひけ」
 見ると、部屋のすみの入口に、覆面、黒の法服のようなものをまとった大男が、銃剣を持った水兵を従えて、じっと、こちらを見つめているのである。
「太刀川君、どうぞ、こちらへ」
「おや」その声のどこかに、聞きおぼえがあるような気がしたが、どうしても思い出せない。
 太平洋の底に、自分を知るものがいる?
 太刀川は、しばらくは茫然と立ちすくんで声も出なかった。


   おお恐るべき海底要塞


 ガーンガーンガーン、エンジンらしい音。
 ゴーゴーガタガタ、工事らしい音。
 そんな音がすぐ近くに聞える。要所要所に、銃剣を持った水兵が立っている。
 太刀川は、みちびかれるままに、長い廊下をいくつかまがって、とある大きな部屋へ通された。
 そこは、まるで法廷のような感じのいかめしい部屋であった。大きな長方形のテーブルをかこんで、覆面黒服の男が十人ばかり、そのまん中に、首領らしい男が、どっかり腰をおろしている。
 すでに覚悟のできている太刀川は、臆する色もなく、一同をじろりとにらめわたしながら、悠然とつったっている。かの首領らしい男は、始めて口を開いた。
「ははは……、太刀川君、何もそんなこわい顔をしなくてもよろしい。実は君に、折入って相談したいことがあって来てもらったのだが……」
 その声を聞くと、太刀川はぎくっとした。
 おう! 聞きおぼえのあるその声、まさかと思ったが、……
 太刀川は、目をかがやかしながら、
「そういうあなたは、共産党太平洋委員長、ケレンコ」
 暴風雨の太平洋上にとびおりたあのケレンコだ。
「いかにもお察しの如く……」
 首領は覆面をとった。まぎれもなく、あの赤ら顔、あの大髭、あの鷲鼻、まさにケレンコである。
「太刀川君。そう驚くには及ばない。今君の案内をつとめたのが、おなじみの潜水将校リーロフなのだ。クリパー号の中では、君にうまくやられた形だったが、そのまま、まいってしまう我輩ではないのだ。クリパー号の進路には、われ等の快速潜水艦が、ちゃんと配置されていたのだ。我輩もリーロフも、落下傘で降りると、着水と同時に、それに救助された。リーロフかい。彼はなるほどクリパー号から、まっさかさまに落ちた。が、途中から洋服下にしのばせた小型落下傘を用いて、これも無事に着水したのだ」
 太刀川は、彼等の抜目のないのに、唯あきれるばかりであった。
「よろしい。君等の宣伝はその位にして、用件というのを承ろうじゃないか」
「ははは……太刀川君。まず腰を下したまえ、君がいかに強くても、もはや我々のとりこだ。生かすも、殺すも我々の意のままだ」
 ケレンコは言葉こそていねいだが、悪魔のような笑をもらしながら言った。
「だがとりこでも、君は大事なとりこだ。われわれは、われわれの目的のために、君をわざわざここまでつれて来たといってもよいのだ。君が、原大佐の頼みで、南洋にむかったと、スパイからの知らせによって知ったとき、一時はこれは困ったことになったと思った。だが、われわれはやがて、君をとらえて、君のすぐれた頭と、君の海洋学の知識を、われわれの目的のために逆に利用することを思いついたのだ。いや、君の頭と、君の海洋学は、絶対に必要なことがわかったのだ。
 われわれは日本をのっ取るために、おどろくべき熱心さで、長い間共産主義の思想をふきこんで来た。が、無駄であった。君等のいう日本精神は、びくともせず、この方法によるわれわれの計画は、完全に失敗してしまった。やはり、武力戦よりほかはない。しかし、日本には、世界無比の強大な陸海軍がある。通り一ぺんの軍備では、到底望をとげることは出来ない。そのことを十分知りつくしているわれわれが、ひそかにもくろんだものは何か。太刀川君。賢明なる君は、すでに承知しているであろうが、われ等がほこるべき海底要塞だ」
(うーむ)
 太刀川は心に叫んで、唾をのんだ。
「それなら、海底要塞とはいかなるものか。それは、君が我輩の申し出を聞いてくれる前に、説明することはできない。けれども、ここ数箇月間、世界中の新聞が、さわぎたてている太平洋上の海魔、即ち、君等が昨日とくと御覧ずみの怪物は、この海底要塞のほんの一部にすぎない。それはのびちぢみが出来て、潜望鏡の役目もすれば灯台の役目もする。しかもその先は、恐しい新兵器で武装されている。賢明なる君には、説明するまでもないことだが、これでみても、海底要塞が、いかに大がかりのすばらしいものであるかがわかるだろう。しかし、わが海底要塞はなお数箇所工事中である。そこに、君の智慧を借りたいところがあるのだ。また、わが海底要塞が、いよいよ日本攻略の行動を起したとき、日本近海の海底の状態、潮流の工合、港湾の深浅等、君のすばらしい海洋学の力を借りたいところがいたるところにあるのだ。どうだ太刀川君、報酬はのぞみ次第だ。一つここで、うんと働いてみる気はないかね」
 悪がしこいケレンコは、さすがに大ものらしく、事もなげにいってのけるのであった。
 すると、それまでじっと聞いていた太刀川青年は、いきなり笑い出したのである。
「ケレンコ君、いろいろ面白い話をありがとう。いや君の親切には感謝する。君はだいぶものしりだと聞いていたが、実は案外のようだね。君は日本人がどんな国民であるか、てんで知っていないじゃないか。日本人は、国のためなら命も喜んですてる。その日本人に、金で国を売るようなことをさせようたってそりゃむだだよ。ケレンコ君。折角だがおことわりだ」
 それを聞くと、さすがのケレンコも、眉をぴくりとうごかして顔をこわばらせた。この青二才めがと、思ったのであろう。が、もちろんそんな気持をそのまま言葉の上にあらわすようななまやさしい彼ではない。
「ははは……太刀川君、ずいぶん君は、かたいことをいう人だね。いやしかし、それでこそ日本人だ。われわれがこの重大な秘密をぶちあけて、君の助を借りようとするのも、それなればこそだ。だが、太刀川君、もう一度よく考えてみたまえ。われわれが許さないかぎり、君がいかに勇敢でも、この海底要塞からは、ぬけだすことは出来ないのだよ。しかも、われわれと同じ目的のために、一しょに働いてくれさえすれば、莫大なお礼が、君のものになるのだ。ね、太刀川君。こんなわかりやすい道理を、わきまえぬ君でもないであろう」
 だが、太刀川は、
「ふん」とせせら笑って、
「いや、よくわかった。だが、ケレンコ君、重ねていうだけ無駄だ。僕は君の申し出にどうしても従うことは出来ない。そのため、君が、僕の命がほしいというなら、勝手にうばいたまえ。僕には、僕の覚悟があるのだ」
 断乎としていいはなった。
 すると、今まで強(し)いておだやかによそおっていたケレンコは、いよいよ仮面をぬいで来た。
「そうか」
 あきらめたようにつぶやくと、顔色がにわかにけわしくなった。怒をふくんだ目が、太刀川をじーっと見つめた。
「よい度胸じゃ」
 皮肉な口もとに、うすきみ悪い笑をうかべながら、
「それじゃ、可哀そうだが、君ののぞみ通り、命をもらおうか」
 目で合図をすると、左右にいながれた部下たちは、無言のまますーと立ち上った。と同時に、黒服の下からニューッとつき出された十挺の拳銃、その拳銃が一せいに太刀川の胸をねらって、ぴたりと、とまったのである。
 室内にみなぎるすさまじい殺気。
 ああ、快男児太刀川時夫も、ついに最期(さいご)の時が来たのか。
 もとより国にささげた体なら、すてる命は惜しくない。だが、太平洋の底には、日本をねらう恐るべき海底要塞が、夜を日についで建造をいそいでいるのだ。自分が死んだらその秘密は誰が祖国に知らすのだ。
 一秒、二秒、三秒……
 息づまるような無気味な瞬間だった。
 ぶぶう――、ぶぶう――
 突然、耳をつんざくけたたましい非常警報のサイレンが鳴り出したのである。
「あ」
 扉のそばに立っていたリーロフが叫んだ。
 つづいて何やらわめき合う人声、どたどたどたどた混雑する足音が、廊下の方から聞え出した。
 ケレンコは、さっと立ちあがって、
「おい、リーロフ、君は、太刀川をこの部屋に閉じこめて見張をつけておけ、わが輩は、司令室に行く、手配がすんだら君も後からすぐにやって来い」
 そういいすてて、ケレンコは、とぶようにして部屋を出て行った。
 一たい何事が起ったのか。


   海底司令室


 ぶぶうー、ぶぶうー。
 妙に心をかきみだすようなサイレンの音だった。
 ケレンコは、あわただしく司令室にかけこんだ。覆面、黒服をとると、海底要塞司令官の軍服姿だ。
 司令室は見るからにいかめしい部屋で海底要塞のありとあらゆる械械をうごかす仕掛が、あつまっていた。その仕掛はすりばち山みたいに、うずたかくつみ上げられていた。そのまわりを、階段が下からぐるぐるとまわって頂上にとどいている。それぞれの仕掛の前には、当番の将兵がとりついて、ハンドルをにぎりしめ計器の針をみているが、すこぶるおちつかない様子だ。
 そこへケレンコがとびこんできたのだ。彼は機械の山の階段を、するするとよじのぼり、頂上にすっくと立ちあがった。そこが彼のためにつくられた司令席だった。
「おお、ケレンコ閣下だ!」
 当番の将兵は、すくわれたように叫んだ。それを、さげすむように聞いて、
「腰ぬけどもが、洋上に軍艦があらわれたぐらいで、なんというとりみだし方だ」
 ケレンコは、仁王様のような顔つきで、はらだたしげにどなった。
「でも、委員長、すばらしく、はやい大型駆逐艦隊ですぞ。しかもわが要塞へ向けて、一直線で近づいてくるのですからね」
 そういったのは、ケレンコのすぐ下の席にいる副司令のガルスキーだった。彼のあごも、ぶるぶるとふるえている。
「君までがそんなことで、どうするのだ、戦艦陸奥が来ようと、航空母艦のサラトガが来ようと、わが海底要塞の威力の前には一たまりもないはずだ」
 といいながら、ケレンコは動物園の猿のように、鉄柵をにぎってゆすぶった。が、ふと前の壁をみて急に気がついたらしく、
「なあんだ、ガルスキー、まだ、潜望テレビジョンがつけてないじゃないか」
「いや、閣下がおいでになってから、うつしだそうと思っていたのです。では、ただ今」
 ガルスキーが、あわてながら、スイッチをひねる。と、前の壁に、映画のようなものがうつりだした。よくみると、波のあらい海上を二隻の艦影がまっしぐらに走っている。これこそ潜望テレビジョンで海上の有様をうつしたものだった。
 二隻の艦は、いずれもこちらに近づいているらしく、艦影はぐんぐん大きくなってくるのであった、ケレンコは、待ちきれないらしく、やがて、あらあらしい声で、
「おい、もっと大きく出してみろ。どこの軍艦だか、これではさっぱりわからないじゃないか」
 ガルスキーは、いわれるままに倍率をあげるハンドルをくるくるとまわした。
 艦影は、みるみる大きくなって、やがてスクリーン一ぱいにひきのばされた。
「あ、先頭のはアメリカの駆逐艦。そして後のは、イギリスの商船じゃないか。ははあ、わかった。サウス・クリパー艇の変事をききつけて、やってきたものにちがいない。それにしても、いやに正確に、わが海底要塞を目ざしているではないか。これはゆだんがならない」
 委員長ケレンコの眉がぴくりとうごいた。
 司令室内の彼の部下は、いいあわせたようにケレンコをみつめている。
 その時、入口から、影のように一人の水兵がはいりこんできたのを誰も気がつかなかった。


   洋上の一大惨劇


 ケレンコは、スクリーンのうえにうつる二隻の艦影をじっとにらみつけていたが、なにごとか決心がついたものとみえ、副司令ガルスキーの方へ顔を向け、
「おい、ガルスキー。怪力線砲の射撃用意!」
「え、怪力線砲の射撃? あれを二隻ともやってしまうのですか」
 副司令は、顔色をかえて、ききかえした。
「なにをいっている。君は、わしの命令どおりにやればよいのだ」
「ですが、委員長。アメリカの駆逐艦はともかく、後のは、わが同盟国のイギリスの商船ですよ。それを撃沈する法はないと思います」
 副司令は、いつに似合わず、はっきりといった。
「だまれ!」ケレンコは怒った。
「軍艦であろうと同盟国の船であろうと、わが海底要塞をうかがおうとするものに対しては、容赦はないのだ。つまらぬ同情をして、せっかくこれまで莫大な費用と苦心をはらってつくったこの海底要塞のことがばれようものなら、日本攻略という我々の重大使命はどうなるのだ。なんでもかまわん、やってしまえ」
「ケレンコ委員長。さしでがましいですが、イギリスの商船のことは、もう一度考えなおしてくださらないですか」
 副司令の顔には、なぜか必死の色が浮かんでいた。
「くどい。太平洋委員長兼海底要塞司令官たるわしの命令を、君は三度もこばんだね。よろしい、おい、ガルスキー。司令官の名において、今日、ただ今かぎり、副司令の職を免ずる。直ちに自室へ引取って、追って沙汰のあるまで待て」
「え、副司令を免ずる。そ、それはあまりです。もし、ケレンコ閣下、それだけは」
「くどい。おいそこの衛兵。ガルスキーを向こうへつれてゆけ。そしてリーロフを呼べ」
 ガルスキーは、とうとう腕力のつよい衛兵のために、むりやりにつれ去られた。
 潜水将校リーロフは、どうしたのか、なかなかやってこない。
「あいつは、なにをぐずぐずしているのだろう。
 太刀川をあの部屋にとじこめ見張をつけて、すぐ来るようにいっておいたのに、ばかに手間どるではないか」
 ケレンコは、じりじりしだした。その時、
「委員長、駆逐艦が針路をかえました」
 副司令にかわって、哨戒兵が叫んだ。
「なに、針路をかえた。おい、テレビジョンをまわせ。駆逐艦のすすむ方向へだ」
 そういっているうちに、例の駆逐艦は、大きな円をえがいてぐるぐるまわりだした。それはちょうど海底要塞のまわりなのだ。
「あ、駆逐艦のやつ、なにかこっちの様子に感づいたな。もう一刻も猶予ならん。怪力線砲、射撃用意。目標の第一は、アンテナだ。第二の目標は、吃水線だ」
 ケレンコは、断乎としていいはなった。
「射撃用意よろしい」
 怪力線砲分隊よりの報告。高声電話の声だ。
「よし、撃て!」
 ついにおそるべき号令が発せられた。
 怪力線砲発射のすさまじい模様は、潜望テレビジョンで目の前のスクリーンに、ありありとうつし出されて行くのである。
 駆逐艦と商船との姿が何かをさがすように海面をくるくるまわっていたが、ケレンコの号令が下ったその刹那(せつな)、海魔の形をした例の屈曲式の砲塔が海面をつきやぶってむくむくとおどりあがった。とたんに、その先のはしからぱっとあやしい光が出た。その光が、駆逐艦の檣(マスト)にふりかかると、アンテナはぱちぱちと火花をはなって、甲板上に焼けおちる。
 その後につづく商船のアンテナも、全く同じ運命におちいった。
 甲板上に人影が、ありありと見えたが、彼等は、この怪物のだしぬけの出現に、どうしてよいのかわからず、ただうろうろするばかりだった。
 アンテナをやききった怪力線は、こんどは目標をかえて、駆逐艦の吃水部をねらった。
 ぴちぴちぱっぱっと、目もくらむような焔が、駆逐艦の腹からもえあがった。と見る間もなく、海水はにわかにあわだちはじめた。艦腹に穴があいて、そこから海水がはいりこんでゆくのだろう。艦体はがくりとかたむいた。
 どどーん。がーん。
 はげしい爆発が起った。艦内から、ものすごい焔と煙がとびだして、艦全体を包んでしまった。やがてその間から、舳を上にしてずぶずぶと沈んでゆく悲壮な光景が見られた。さっきから怪力線砲が、しきりに甲板の上をなめるようにしていたが、ついに弾薬庫を焼きぬいて大爆発を起したためだった。
「うむ、うまくいった。駆逐艦であろうが、なんであろうが、怪力線にかかっちゃ、まるでおもちゃの軍艦も同様じゃないか」
 ケレンコは、腹をゆすぶって笑った。


   リーロフの行方


 つぎのイギリス商船が、ほとんど一瞬のうちに、波間に姿を消したことは、改めていうまでもないであろう。
 しかも、怪力線砲は、しつこくも、波間にただよう人たちまでなめまわしたのである。全世界にのろいをなげる共産党員は、こうしたことを平気でやっているのだ。
「射撃中止!」
 と号令をかけて、司令席上のケレンコ委員長は、なにがおかしいのか、からからと笑いつづける。
 だが、ケレンコはその笑を、ふととめた。そしてむずかしい顔になった。
「あ、リーロフ。あいつは一体どうしたのだろう。さっきからずいぶんになるが、まだ姿を見せないじゃないか」
 自分の片腕とたのむリーロフのことが心配になったのである。
「おい誰か、会議室へ行って、リーロフの様子を見てこい」
 ケレンコはどなったが、すぐそのあとで、
「いや、やっぱりわしが行こう。そこにいる衛兵五名も、手のすいている者もみんなついてこい」
 といって、ケレンコはすたすたと司令席を下り、出口から出ていった。その後から、十人ばかりの部下がしたがった。
 会議室の前には、一人の水兵が銃をかかえてあっちへいったりこっちへきたり、番をしていた。
 ケレンコは、番兵にいった。
「おい、リーロフはどうした」
「私は少しも知りません」
 番兵は、あわてて捧銃(ささげつつ)の敬礼をしながら、こたえた。
「ふーむ、おかしいな」
 と小首をかしげたが、考えなおして会議室の扉(ドア)を指さし、
「どうだ、この中の先生は、その後おとなしくしているか」
「はい、はじめはたいへん静かでしたが、さっきからごとごとあばれまわっています」
 その時、扉の内側になにか大きなものをぶっつけたらしいはげしい音がした。
「ほう、やっとるな」といったが、ケレンコの眉がぴくりとうごいた。
「おい、へんじゃないか。中には誰と誰とが入っているのか」
「さあ、誰と誰とが入っているのか、私は知りません。さっきこの部屋の前を私が通りかかると、中から一等水兵がでてきて、(急に胸がわるくなったから、向こうへいってくる。その間、お前ちょっと代りにここの番をしていてくれ)といって、いってしまったんです。それから私が立っているんですが、どうしたのか、まだ帰ってきません」
「それはおかしい。一等水兵は誰か」
「はき気があるとかいって、顔を手でおさえていたので、よくは見えませんでした。小柄の人でしたが……」
「いよいよ腑におちない話だ。よし、扉をあけてみろ。おい、みんな射撃のかまえ。
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