太平洋魔城
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著者名:海野十三 

ごうごう、がんがんとエンジンはなりつづける。これでは、まるで地獄ゆきの釜のなかのようなものだ。艇員たちは、それぞれ神の名をよびつづけていた。
 そのときだった。入口から、おもいがけなく、一人の青年の姿があらわれた。
「やあ皆さん、ちょっと失礼しますよ」
「おお、あなたは――」
 ダン艇長は目をみはった。
 その青年は、ほかならぬ太刀川時夫であった。今まで彼はどこにいたのであろうか。右手にはあの太いステッキが握られている。だが、ふしぎなことには、彼の顔は、どうながめても、このさわぎを少しも感ぜざるものの如く落ちつきはらっていた。
「やあ皆さん。乗客の一人として、ちょっと御注意いたしますが、この飛行艇はついに運転不能となりましたよ」


   命の方向舵


 今まで見えなかった太刀川青年が、とつぜんあらわれて、こんなことをいったものだから、操縦員も艇長も、そしてケレンコも、めんくらって目をぱちくりとした。
「え、どうしてそんなことが――」
「いま窓から外を見たんです。方向舵がぴーんと曲ってしまって、今にも風にさらわれてゆきそうですよ」
 太刀川時夫は、平気な口調でいった。
「あ、ほんとうだ。方向計の針が、ぐるぐるまわっています。これはたいへんだ」
「このままでは、本艇はおそろしい暴風雨の真中に吸いこまれてしまいますよ。まずスピードを下げて、風にさからわないように飛ぶことです。さっきからの操縦は、ありゃ無茶ですよ。飛行艇がこわれてしまう」
 そういっているとき、どうしたわけか、操縦室の電灯が一時にぱっと消えてしまった。外は、夜のように暗い黒雲の渦だ。室内はくらくなった。ただその中に、蛍光色の計器の表だけがぴかりぴかりと光る。
「あ、たいへんなときに停電だ」
「こら、誰もうごくな。うごくとうつぞ」
 委員長ケレンコも、あわて気味に一同をおどかした。
「電灯をつけなきゃいかんですが、困りましたね」
 太刀川青年の、おちつきはらったこえが、くらがりの中からした。
 そのさわぎのうちに入口から、小さい猿のような動物が、するすると室内に入ってきたのに、気づいた者はほとんどなかったようである。
「電灯をつけろ。ダン艇長。誰かに命令をつたえろ」
「はい。では発電室へいってみます」
 しめたと思ったダン艇長が、くらがりの中に体をうごかしたとたん、
「こら、この室を出ていっちゃならん。この室に、艇内電話機があるはずじゃないか」
 とケレンコのわれ鐘のような声。
「電話機はありますが、停電ですから、電話もだめじゃないかとおもいますので……」
「なんでもいいから、かけてみろ」
「はい。こうくらくては電話機のあるところがよくわかりません。懐中電灯でもあれば」
「大げさなことをいうな。じゃ、わがはいの懐中電灯を貸してやる」
 ケレンコは、ピストルをポケットにおしこみ、他のポケットをさぐって、懐中電灯をとりだした。
 それはただちにケレンコの手から、ダン艇長の手にわたされた。釦(ボタン)をおす。まぶしい光がさっと室内に流れた。
「ああ、ここにあった」
 艇長は、電灯を片手にもちながら、
「ああもしもし」
 と、電話をかけはじめた。
「おう、交換台か。おや、電話は通じるんだね。それはよかった。え、なに?――」
「こら、他の話をしちゃならん。早く電灯をつけろといえ」
 ケレンコは、油断していなかった。
「はあ」艇長は電話をかけながら、ちょいと頭を下げて、
「おい、停電したが、どういうわけだ。なに暴風雨で発電機の中に水がはいった。……蓄電池だけで、電話とエンジンの点火とだけを辛うじて保たせてあるって。ええ、なんだ?――ふん、そうか、よしよし。わかったわかった」
「こら、なにをいう。他のことを話しちゃならぬといっているのがわからないか」
「いや、故障のところを説明させているんです」
 艇長はいいわけをして、
「おい、それからどうするというのか。………うん、わかった。早くなんとかなおせ。そうか、こっちは大丈夫だ。じゃ、あと十分後を期して、一せいに、よし、わかった」
「なんだ、おい。十分後というのは」
「え」とダン艇長は、なぜかどぎまぎしたが、
「いやなに、十分後までになおすから安心してくれといっているのです」艇長は、電話を切ったあとまで、なんだかそわそわしていた。そして、かたわらに立っている太刀川青年の方をちらちらとぬすみ見ていた。
 なんだか様子がへんである。ダン艇長は、はたして電話で停電した話ばかりをしていたのであろうか。
「さあ、艇長。用がすんだら、懐中電灯をかえしなさい。僕がわたしてあげます」
 なにをおもったか太刀川時夫は、艇長をうながして、懐中電灯をうけとると、これをケレンコの顔にさしむけた。
 ケレンコは、不意にまぶしい電灯をさしつけられて鬼瓦のような顔をしておこった。
「こら、何をする。無礼者めが」
 なにか意味ありげに、にやにや笑っている太刀川青年の手から、ケレンコはあかりのついた懐中電灯をひったくった。
 このとき、くらがりの室内を、何者ともしれず、こそこそと床上をはい、そして扉をぱたんといわせて、外へ走りでた。
 それに気がついたダン艇長は、あっと叫ぼうとして、あわてて自分の口をおさえた。
 停電事件と同時に、艇内に、なにかしらふしぎなことが起っているらしかった。
 ところがそのとき、操縦長が、誰にもそれとわかる悲壮なこえで、艇長によびかけた。
「ああ艇長。本艇はもうだめです。ぐんぐん暴風雨におしながされだしました。方向舵が直らないのです。どうしてもだめです」
 それは本当だった。羅針儀の針はぶるぶるふるえていた。
「それはそのはずだ」
 太刀川青年がケレンコに聞えよがしにいった。
「あのとおり方向舵が曲ってうごかなくなってしまったんだ。あれを直さないかぎり、本艇は海上に墜落のほかない!」
「なにを!」
 ケレンコは、ゴリラのように歯をむいて、太刀川青年の方へちかづいた。


   荒肝(あらぎも)をひしぐ


 どこまでも、不運なクリパー号は、この暴風雨のために、方向舵までも、まげられてしまった。
 艇にとっては、今や人も機械も何のやくにもたたない。ただ暴風雨のまにまに、どこまでも、ながされてゆく。
 いつ突風がおこるかわからない。突風がおこって艇にたたきつけるようなことがあったら、おしまいである。下にはあれくるう波が、艇と人とをひとのみにしようと、白い牙をむいて待ちかまえているのだ。さすがのケレンコも、太刀川青年に、方向舵の曲ったことを知らされて、顔色をかえてしまった。
 が、太刀川青年は、おちつきはらって言った。
「さあ、どうしますか、ケレンコさん。われわれはともかく、あなたがたは、ここで艇と一しょに、海中へおちて死ぬつもりですか」
 ケレンコは、だまっていたが、その目は、あきらかにうろたえていた。
「どうしますか、ケレンコさん。われわれも死ぬが、あなたがたも一しょに死ぬのですよ」
 太刀川青年は、ここぞとばかり言った。
「なに、死ぬ?」
 ケレンコが、ひくい声でつぶやいた。さすがのケレンコもこれには、完全にまいったらしい。
「じゃ、太刀川君。どうすればよいのだね」
 ついにケレンコは一歩ゆずった。太刀川青年の言葉は、敵の荒肝(あらぎも)をひしいだ。
「それは考えるまでもないじゃありませんか。あの曲った方向舵をなおすことですよ!」
 と太刀川は、こともなげに言った。
「な、なんだと、太刀川君」
 ケレンコはおどろいた。
「あの方向舵の故障は艇内でなおすわけにはいかない。しかし、この暴風雨の艇外に出て、そんなはなれわざが、できるものじゃない」
「ケレンコさん、それをやるのです。やらなければ、われわれは死ぬよりほかないのですよ。二人でやればできないこともないと思います。僕とあなたで、早いところやろうではありませんか」
「え、君とわがはいとで……」
 鬼のようなケレンコも、この一言には、まるで串ざしにされたかたちだった。
 太刀川青年は、艇長の方をふりむいて、
「さあ、ダン艇長、早く麻綱をもってきてください」
 ダン艇長は、さいぜんから太刀川青年の胸のすくような[#「すくような」は底本では「すくよううな」]応対ぶりに見とれていたが、はっとわれにかえり、いいつけどおり、この操縦室の網棚から麻綱の束をかかえおろした。
「さあ、ケレンコさん。これで胴中をゆわえて、僕と一しょに早くきて下さい」
「ちょ、ちょっと待て。わ、わがはいはこまる。誰か外の艇員をつれてゆけ」
 ケレンコは一歩後ずさりをした。
「何をいっているのだ、ケレンコ! ほんとに命が大事だと思う者がゆかなければ、この艇をすくうことはできやしないよ。艇長たちは、暴風雨相手に操縦することだけで一ぱいなんだ。これはどうしても、君と僕の二人がやるべき仕事のようだね」
「うーむ」とケレンコはうなった。そして後をふりむき、
「おいリーロフ。君はわがはいよりも、はるかに技術者で、力がある。君がゆけ」
 すると、さっきから二人のおし問答に、耳をかたむけていた大男のリーロフは、何を思ったか、おおきくうなずくと、
「よし、じゃ、おれがゆこう。ケレンコ、こっちの艇員どもは、君にあずけたよ」
 といって、彼はピストルをポケットにしまいこむと、太刀川青年に見ならって、麻綱を胴中にぐるぐるとまきつけた。


   大冒険!


 このままほうっておけば、艇は墜落するよりほかないのだが、それにしても、諸君、太刀川青年はすこし、やりすぎたのではないだろうか。この暴風雨中に、艇外へ出て、方向舵をなおすなんて、人間わざでできることではない。日本をはなれるとき、原大佐から重大使命をさずけられた身として、かるはずみのしわざではあるまいか。
 いや諸君、太刀川青年は、けっしてその重大使命をわすれるような男ではない。いや、これを思えばこそ、ケレンコ事件がおこってからこっち、ひそかに計画をすすめていたのだ。
 その重大使命をはたすために、彼は、にくむべきケレンコとリーロフの国際魔二人を、死なせてはならないと思っていたのだ。
 なぜ? その答は、太刀川青年の胸のなかにある。今はただ謎として、これだけを承知しておけばよいのだ。
 それはともかく、太刀川のたてた計画は、順序正しく、はこびつつあった。
 操縦室の停電も、それであった。
 そして停電のすぐ後に、猿のようなものが、しのびこみ、ケレンコにちかづき、何事かしてまた出ていってしまったことも、その一つだった。
 艇長が電話の受話器を通じて、何を聞いたか。「あと十分ののちに!」とは、なんのことであったか。それもまた、やはり太刀川の計画の一つだった。今や、その十分間の時間も、あと四、五分となった。それにしても太刀川が、リーロフの手から、たすけてやった中国人少年石福海は、今どこに何をしているのだろう。このさわぎがはじまってから、一度も姿を見せないのには、何かわけがありそうである。
「さあゆこうぜ、リーロフ」
 太刀川は、顔色もかえず、大男のリーロフをかえりみていった。
「うん、ゆけ。貴様がさきへ」
 リーロフは、注意ぶかい目つきで、太刀川の方にあごをふった。
「僕は鋼条(ワイヤ)とペンチを持つ、リーロフ、君は手斧だ」
「おれが手斧を持つのか。うふふふ。それはたいへんいいことだ」
 リーロフは、意味ありげに笑った。斧の刃は、するどくとがれていて、切味がよさそうなのが、何だか不気味である。
「リーロフ、さあ、僕につづいて、すぐその天井の窓から、胴体の上へはいだすんだ」
 翼のうしろに開く窓があった。そこから艇の胴体の外へ出られるのだった。太刀川は、ロープのはしを座席の足にしばりつけた。そして自分で窓をひらいた。艇員たちが、はっと顔色をかえるのをしり目に、さっさと艇外へはいだした。とたんに横から、張板のようにかたいはげしい風が、彼の体をぶんなぐった。飛行眼鏡さえ、もぎとられそうで、しばらくは目が見えなかった。風にあおられ、ぐーっと、体がもちあがるのを、一生けんめいにこらえて、胴体の上にうえつけられている力綱の輪をにぎる。
 この力綱の輪は、胴体のくぼみに、はめこまれて、一列にならんでいるので、太刀川は、腹ばったまま、少しずつ前進しては、くぼみから、この力綱の輪をおこさなければならなかった。そして両手ばかりではなく、両方の足首も、この輪のなかにしっかり、かけておく必要があった。
「ひゃあ――」
 というようなさけび声が、太刀川のうしろからきこえた。ふりかえってみると、大男のリーロフが胴体にしがみついて、はげしい風にふりおとされまいとして、力一ぱいたたかっている。
「おい、はやくこーい。この弱虫めが!」
 太刀川は、リーロフをどなりつけた。
「うう、いまゆくぞ。なにくそ!」
 風は、大男のリーロフにたいして、すこぶる意地わるだった。風のあたる面積が太刀川青年の体にくらべて、倍くらいもひろいのだからやりきれない。海底にもぐっては、いささか自信のある潜水将校リーロフも、空中ではからきし、いくじがない。
 そのうちに太刀川の頭が、まがった方向舵にこつんとつきあたった。


   十分ののち


 暴風雨中のこの大冒険を、艇員や乗客は、操縦室、そのほか方向舵の見える場所に、顔をおしつけあって、どうなることかと見まもっている。
 太平洋委員長ケレンコも、ピストルをにぎりなおして、艇員を見はっていながらも、やはりリーロフの身の上が案じられて、ともするとその注意力は、艇外にゆきがちであった。
 それを待っていた者があった。
 艇の後部にいて、さっき電話機で艇長とうちあわせた艇員の一団であった。彼らは、ひそかに操縦室の入口にせまり、ケレンコの前に両手をあげて、つったっている仲間たちの肩ごしに、ケレンコの様子をじっとうかがっていたのだ。
 うちあわせた十分間は、もうすぎていた。
 その中の一人、貨物係主任のレイという男が、この時うしろにむかって片手をあげた。
(おい、用意はいいか)
 という合図だった。
 レイの片手が、さっとおりた。
(それ、とびかかれ!)
 五、六人のものが、ぱっとケレンコにとびついた。
「あ、こいつら、何をする!」
 ケレンコはさっと身を横にひらいて、ピストルの引金をひいた。
 カチリと音がしただけだ。しまったと、また引金をひいたが、これもカチリといっただけであった。三度めに引金をひこうとしたとき、おどりかかった艇員のために、またたくまに、その場におさえつけられてしまった。悪魔のごとく、おそれられている共産党太平洋委員長としては、あまりにあっけない捕らわれ方だった。
「さあどうだ。じたばたすると、首をしめちまうぞ」
 艇員たちは、急に鼻息があらくなった。
 ダン艇長は、この時ケレンコにむかい、
「どうです。ケレンコさん。何かいうことがありますかね。あの停電のくらがりで、あなたが懐中電灯を出そうとして、ピストルをおかれたのはお気の毒でした。そのすきに、太刀川さんのいいつけで、中国人少年の石福海が、弾をすっかり抜きとってしまったのですからな」
 ケレンコは、大ぜいの艇員におさえつけられながらも、胸をはって、
「そうだったか。よし、じゃ一たんは、おれの負としておこう。あの日本の青二才に、うまくひっかけられたかたちだ。しかし見ていろ。いまにお前たちは、おれの前に平つくばってお助け下さいと言うようになるぞ」
「何をぬかす、この強盗殺人めが!」
 と、艇員のひとりが、ケレンコの横面を力一ぱいなぐりつけた。
 こうして、ケレンコは、ともかくもかたづいた。だが艇外の大冒険はどうなったであろうか。
 これをたくらんだ太刀川時夫は、大男のリーロフをたくみに艇外にさそいだして、ケレンコをおさえる機会をつくったのだ。
 はたしてケレンコは、あっけなくつかまり、リーロフは、大きな体をふきとばされまいとして、力のかぎり、尾翼のつけねにとりついている。もちろん彼は、ケレンコがとりおさえられたことなど、知るよしもない。


   空中の惨事


 太刀川時夫は今、はげしい風雨とたたかいながら、方向舵の故障を必死になおしている。手はこごえる。呼吸はくるしい。
「さあ、リーロフ。方向舵のその折れまがったところを、君のもっている斧で切りはなしてくれ」
 そういう太刀川の注文も、声では相手に通じないので、手まねで合図をするよりしかたがない。
「斧で切りはなしてくれだって……それより、貴様の方から先にやれよ。ほら、その切れた鋼条(ワイヤ)を、早くつなげばいいじゃないか」
 リーロフは、頤(あご)でそれを言った。
 太刀川は、それが順序ではなく、そのためによけいな手間をかけなければならないことを知っていたが、ここであらそうべきでないと思ったので、方向舵の切れた鋼条をつなぐことにした。
「はやくやれ。この小僧!」
 とリーロフは、かみつくような顔をする。
 だが、ペンチをにぎる手は冷えきって、鋼条をちょっとまげるのにも、たいへんだった。両足と左手を力綱の輪にかけてふんばり、右手と口とをつかって、それをやるのである。みるみる歯ぐきからは血がふきだして、方向舵を赤くそめた。ペンチはいまにも指さきからすべりおちそうだ。しかし彼は、ひるまず、作業をつづけて、やっとあたらしい鋼条で切れたところをつないだ。
 この時、リーロフの眼が、ぎろりとうごいた。彼は太刀川が、鋼条をうまくつなぎおえたのをみると、斧をとりなおした。
 太刀川は、つないだ鋼条をにぎって、ぐっとひいてみた。しかし方向舵は、びくともうごかなかった。折れまがったところが胴体にくいこんでいるからだ。
「リーロフ、斧でもって、方向舵の折れまがったところを切りはなしてくれ!」
 リーロフは、ジリジリと彼の方へはいよってくる。
「おいリーロフ、そっちだよ。方向舵の胴体にくいこんでいるところを切りはなすのだよ」
 リーロフは、太刀川の言っていることがわからない様子をして、なおも太刀川にちかづいてくるのだった。
「あ、リーロフ、何をする!」
 何たることか! リーロフは、やにわに斧をふりかぶると太刀川の体をつないでいる命の綱をめがけて、さっとうちおろした。
「あ」
 ぷつんと綱は切れて、太刀川の体は、ふわりとうきあがり、猫が背中をまるくしたようになった。次の瞬間、彼は、ふきとばされたかと思ったほどだったが、ふたたびうまく胴体にしがみつくことができた。
 リーロフは、歯をむきだして、あざ笑った。それから彼は、方向舵の方へ、からだをうつしていった。
 太刀川は頭を艇にすりつけ、死んだようになっている。
 リーロフは、ふたたび斧をふりかぶった。そして方向舵のまがり目をめがけて、ガンとうちこんだ。
 斧の刃がうまくはいった。ぶーんと音がして、方向舵は生きかえったように、つよくはねかえって、もとの位置にもどった。その時、
「ぎゃ!」という妙な声、
「おや!」と頭をもたげた時には、今の今まで前にいたリーロフの姿が見えない。
 太刀川は、びっくりして下を見た。
「あ、あれは?」
 艇の下方で、リーロフが綱のはしにつかまって、ブランコのように大きくゆれているのを見た。リーロフは、もとの位置にはねかえった方向舵にはじかれて、艇の胴体からすべり落ちたのだ。だがもう一つおどろいたことがあった。リーロフの胴をゆわえていたはずの綱がとけて、彼はわずかに、そのはしをにぎっているのであった。
「あ、あぶない!」
 と、太刀川がさけんだ時は、もうおそかった。リーロフが、力つきて綱をはなしたのだ。あやつり人形のように手足をばたばたうごかして、下に落ちてゆくリーロフ! その顔が赤ペンキをぶっかけたように見えたのは、方向舵にはねられた時にけがをしたのでもあろうか。リーロフの体は、みるみるうずまく黒雲の中にすいこまれてしまった。
 ああ、リーロフは落ち、そして方向舵はもとにかえったが、太刀川青年は一たいどうなるのだろう。


   心配なガソリン


 どうしてきたかわからないが、とにかく太刀川青年は、胴体をはって、ふたたび艇内にたどりつくことができた。
 誰かが彼をかかえおこして、コップにはいったものを飲ませてくれた。その液体は舌をぴりぴりさせ、そしてたちまち腹の中にしみわたり、にわかにあたたかくなった。艇長ダンが、彼にブランデーを飲ませたのであった。
 太刀川は三、四ヶ月ぶりに艇内にかえってきたような気がした。しかしほんとうは、たった二、三十分しかたっていなかった。この二、三十分間に、彼はそれほど全身の精力をだしきってしまったのであった。
「おお太刀川さん。お気がつかれましたか」
「ああ、ダン艇長」
「そうです、ダンです。しかし私はいま、全米国民を代表して、大勇士であるあなたに、大きな大きな感謝と尊敬とをささげます。いや、全米国民だけではありません。全世界の人類を代表して、お礼を申さねばなりません」
 そう言って艇長は、太刀川の手をしっかりにぎりしめた。
「いや、そんなことを言っていただかなくてもいいのです。しかし気の毒なことをしました。リーロフ氏が墜落したのに、たすけることができなくて――」
「え、気の毒ですって? あれこそ天罰ではありませんか。あなたの綱を切った時には、私たちは思わず眼をおおいました。やつは悪魔です。でもあなたが無事に元気にかえってこられて、こんな喜ばしいことはありません。あの時、例の中国人少年石福海が、御恩がえしに、あなたをたすけにゆくといって、艇外へとびだそうとするのには、ほんとうにこまりました」
 艇長がかたる少年の話に、太刀川はふと気がつき、
「ああ、石少年ですか。どこにいます」
「ここにいますよ。あなたの右手をにぎっているのが石少年です」
「おお石福海! お前は――」
「ああ太刀川先生、じっとして、先生の手、氷のように死んでいる。わたしすぐあたためて、生かしてあげる。はあ、はあ」
 石少年は、返事するのもおしい様子で、彼の右手へ、一生けんめいに息をはきかけているのであった。
(石福海は、こんなに僕のことを思っていてくれるのか!)
 太刀川の目頭は、急にあつくなった。彼は、じつと目をとじて、石少年のあたたかい息を感じるのであった。いじらしい石少年よ。その時、
「艇長! スミス操縦長からの伝言です」
「おお、なんだ」
「本艇は、艇長の命令により、二千メートルの下降をおわりました。やがて雲の下に出られる見こみがたちました」
「そうか、ついに暴風雨をのりきったか。では操縦長にこうつたえよ。下界が見えるところまで雲の下に出ろとな」
「は、そうつたえます」
「それから針路は、さっき言ったとおり、もとの方向へもどっているだろうなと言え。もう一つ、ガソリンの量を至急しらべて報告してくれ」
「はい」
 伝令員の、ひっかえしてゆく足音がきこえた。
「艇長、ケレンコはどうしました」
「ケレンコは、あなたの計画どおり捕らえて、貨物室におしこめてあります」
「本艇は、暴風雨圏からうまくのがれたのですか」
「そうです。もう風雨はしずまっています」
「着陸地点までとべますか。無電連絡はまだつきませんか」
 そう言っている時、どこやら、はなれたところで、はげしく人のあらそう声がきこえた。それにまじって、がらがらと物のこわれる音だ。すわ、また事件か?
 どたどたとかけこんでくる靴音!
「艇長、たいへんです。ケレンコがにげました」
「なに、ケレンコがにげたって」
「綱をゆるめて、貨物室の窓をやぶって、外へとびだしました」
「え、外へとびだしたか。どっちへ落ちた」
「あ、こっちです。見えます見えます。ほら、あそこへ落ちてゆきます」
 艇長ダンは、窓にかじりついた。その時ケレンコが、落下傘をひろげてふわりふわりと落ちてゆくのがみとめられた。
「おお落下傘を、どうしてケレンコが? ああ、しかしあれは本艇の落下傘ではないな」
「そうです。艇長。ケレンコは服の下に、あの奇妙な落下傘をしのばせていたんです」
「そうか、あんなものを持っていたか。ざんねんだ。とうとう二人ともつかまえそこねた」
 艇長は、くやしそうにさけんだ。が、あれほど、行手をさえぎった雲が、どこかへふきとんでしまって、すぐ目の下に、青々と水をたたえた大海原が見えだした。その時であった。
「艇長、ガソリンが、もうすっかりなくなりました。まもなくエンジンがとまります」あわただしい注進。
「なに、ガソリンがついにきれたか」
 ああ、マニラから遠くはなれた北方の洋上に、わがクリパー号は、着水しなければならぬのか。艇内百余の命は、これから一たいどうなるのだ。
「あ、あれはなんだ?」
 いつのまにか、窓によっていた太刀川時夫が、おどろきの声をあげて、はるかかなたを指さした。
 艇長は、その方を見た。雲の切れめをかすめて、とつじょ、洋上に姿をあらわしたのは、今まで見たこともない、ふしぎな大海魔だった。


   おお大海魔


 サウス・クリパー艇は、この時、海面からわずか三、四百メートルのところを飛んでいた。
「ダン艇長、あれが見えませんか」
 さすがの太刀川も、色をうしない、そういうのも、舌がこわばって、やっとだった。艇長も教えられるまでもなく、怪物の姿に気づいていたのだが、あまりの恐しさに、声が出なかった。半分気がとおくなって、ふらふらと窓にたおれかかった。
「艇長、あの怪物はどうやらこっちを向いているようですぜ。あ、うごいています。すぐ艇員に命令して、武器をもたせるように――」
「武器――」と艇長はうめくようにいったが、首をふり、
「いや、とてもだめだろう。あれを見たまえ。まるで、煙突が鎧をきたみたいじゃないか。あんなにかたそうでは、小銃の弾なんか通らないよ。そのため、かえって怪物を怒らせるようなことがあっては……」
 煙突が鎧をきたようじゃないか!
 へんないい方ではあるが、なるほど、海魔の姿をよくいいあらわした言葉である。
 海面からにょきっと出た首らしいものは、およそ百メートルはあろうと思われる。
 それは、くねくねと曲って、ゆらゆらうごいているが、そのぶきみさといったらない。この首の一ばん上に、頭らしいものがついている。首も頭も緑色をしていて、ぬらぬらとしたいやらしいつやをもっている。とつぜん、ぱっぱっぱっと、頭のところから、目もくらむような光が出た。
「あ、光った!」
 窓のところへよって、ふるえあがっていた艇員たちは、それを見て、一せいに叫声(さけびごえ)をあげた。
 乗客たちは、もう生きた心地もなく、床の上をはいまわったり、頭をかかえてうめいたり、座席にかじりついて、神の名をよんだりするのであった。
 むりもない。海面から出た首と頭とだけで百メートルにちかいのである。すると海面の下にかくれている胴体や尻尾は、と思うと、この世のこととは思えないのである。
(おれたちは、夢を見ているのじゃないかな)
 しかしそれは、けっして夢ではなかった。
 大海魔は、しずかに頭をうごかして、ふしぎそうに、まい下りてくる飛行艇を見あげ、照空灯のような目を、ぴかぴかと光らせるのであった。
 操縦室では、海魔から少しでも遠ざかろうと必死の操縦をつづけているのだが、エンジンがとまっているので、思うようにいかない。高度は三百メートル、二百メートル、百メートルと、見る見るうちに下って行った。
 あらしの名残の雲がきれぎれにとぶ。
 西を向いても東を向いても果しのない大海原、もうどうすることもできない。艇内百余の人命をあずかっているダン艇長は、心を痛めながら、着水後の用意のため、艇内を見まわっている時であった。
「あ、あれあれ」
 と、とんきょうな叫声がおこった。
 何事かと窓によってみると、海上に大海魔の姿はなく、ごーっという、すさまじい海鳴とともに、今まで大海魔ののぞいていた海面は、ごぼんごぼんと大きな泡をたて、渦をまいてわきたっているではないか。


   約束の無電


 ダン艇長が、大海魔の消えた海面に目をみはっているそばで、太刀川時夫は、しきりにステッキの頭をひねくっていた。ステッキというが、これはただのステッキではない。日本を出発するとき、原大佐から、「万一の時には、この中に仕掛けてある短波無線機で知らせよ。よびだし符合はX二〇三――」だといっておくられた、あのステッキだ。
 それを使う時がいよいよ来たのだ。まさかと思った大海魔が、目の前にあらわれたのである。今だ今だ。今この報告をしなければ、ステッキを使う時が、永久に来ないかもしれない。そして、おそらくこれが、最初にして最後の報告になるかもしれない。――太刀川青年は、そんなことを考えながら、ステッキの頭についている蓋をはずすと、内部につめこまれた精巧な超小型の無電機をのぞいた。くわしいことは、軍機の秘密だから、のべられないけれど、機械のどの部分も、ゴムに似たある特別の弾力のあるかたい物でかためてある。なげとばそうと、海水につかろうと、また少しぐらい熱しようと、中にある機械の働きは、少しもくるわないというすばらしいものだ。
 太刀川青年は、ステッキの中から、紐のついた南京豆ほどの奇妙な受話器をひっぱりだし、耳の穴に入れた。そして右の指先で、小さな無電の電鍵(キイ)を、こつこつとたたいた。
「X二〇三、X二〇三」
 それは、例のよびだし符合であった。
 太刀川は、そのよびだし符合を、十四ほど、つづけざまにうった。
 それがすむと、電鍵(キイ)のそばについているスイッチをきりかえた。それは、機械が、以後電話ではたらくように、なおしたのだった。
 じ、じっと雑音が、受話器をならした。するとそれにつづいて、日本語がはいってきた。
「太刀川君かね。こちらは原大佐だ」
「ああ原大佐!」
 太刀川は、おどろいた。こうもうまく、連絡ができるものとは、考えていなかった。大佐の声はすこしはずんでいるが、その声の大きさは、市内電話と同じくらいだった。
「待っていたぞ、太刀川君。僕は今、君もよく知っている、役所の例の机の前にすわっているよ。さあ聞こう。話したまえ」
「ああ」
 と太刀川は我にかえった。大佐の声を聞いていると、大佐も、この飛行艇内のどこかにいて、そこから電話をかけているような気がするのだ。大佐にさいそくされて彼は、はじめて話しだした。
「私は今フィリピンの、はるかはるか北の沖に不時着しようとしているサウス・クリパー艇の中にいます。つい今しがた例の大海魔が海面からあらわれ、そしてすぐひっこんでしまうところを見ました」
「そうか、やはり本当にそのような怪物がいたのか。よし、じゃ、くわしく話したまえ」
「まず、形は――」
 と、語りかけたとき、艇内の高声器から、とつぜん、警報がなりひびいた。
「皆さん、すぐさま座席の下にある救命具をつけてください。本艇は、あと二、三分のうちに、不時着します。その時は、すぐさま窓から海へとびこんで下さい。本艇は、さきほど暴風雨中を無理な飛行をしましたため、胴体の下部数箇所にさけ目ができました。修理が間にあわず、波があらいので、沈没はまぬかれません。救命具は、しっかり体についているかどうか、たしかめて下さい。すべて行動は、おちついてやること。窓から出るときは、婦人を先にして、男子は後にして下さい。お互に人間としての本分をつくし、どんなことがあっても最後まで気をおとさず、助けあって下さい。無電監視所から、いまに助けに来てくれることと思います。艇員の命令を守らないものは、やむを得ません。銃殺します。ただ、皆さんを、かような運命におとしいれたことにたいしては、艇長以下一同、何とも申しわけなく思っております」
 悲壮な声であった。おお、いよいよ着水かと思った時、
「そうだったか、太刀川君、今のを聞いたぞ」
 原大佐は、口をこわばらせて、そういい、「うーむ」とうなる声がきこえた。


   艇の最後


 だが、太刀川時夫は、おちついて、はきはきとした声でいった。
「もう時間がありませんから、この飛行艇が沈むまでに、できるだけのことを、報告しておきます。お書きとり下さい」
「よし、こっちの準備はできている。さっきから、君の話は、すべて録音されているのだ。では、はじめたまえ」
 太刀川時夫は、早口に語りはじめた。海面は、すぐ目の下に見える。あと百メートル足らずだ。波は白く泡をかんで、ただ一箇所、例の大海魔がもぐったあたりが、灰色ににごっているだけである。あわてさわぐ客をしり目に、太刀川青年は、海魔について自分の見たところを、できるだけくわしく報告した。そして彼は最後に、共産党太平洋委員長ケレンコと、潜水将校リーロフのことを、つけ加えることを忘れなかった。
「おおケレンコにリーロフか。二人とも○○国には、もったいないほどの優秀な人物だ」
 と、原大佐は思わず、おどろきの声をあげた。
「僕は会ったことがある。二人とも、我々が注意していた人物だ。太平洋上へ落ちたとすれば、たぶん命は助るまいが、けっして油断はならない。太刀川君、飛行艇の寿命はあと数分のようだね。だが早まってくれるな。祖国のため、どんな苦しいことがあっても命を大事にしてくれ。そして、ケレンコとリーロフの消息には、これからも、気をつけていてくれ。その中こっちからも、誰かを……」
 その時、人気のなくなったこの廊下へ、あわただしくかけこんで来た者がある。石少年であった。
「太刀川先生、早く……ほら、もうすぐ海におちる」
「おお、石福海か、ちょ、ちょっと待て」
 しかし石少年は、ぐずぐずしていたら死ぬじゃないかという顔色で、太刀川青年の腕をぐんぐんひっぱる。
「よし、わかった。太刀川君、あとは君の天佑をいのるばかりじゃ」
 事情を察した原大佐の声が聞えた。
 太刀川も、ついにあきらめた。
「では大佐、さようなら。ごきげんよう……」
 とたんに、飛行艇は海面にたたきつけられた。太刀川青年は、はずみをくらってあやうく、頭を天井にぶっつけそうになった。
 出入口におしあっていた乗客たちは、いいようのない叫声をあげて、われがちに外へ出ようと争っている。海水はあけた扉から、どどどーっとながれこんで、みるみるうちに艇内は水びたしになる。
「ああ、だめだ、先生!」
「心配するな、しっかり僕の手につかまっておれ!」
 太刀川青年は、そういって、すばやくステッキの蓋をすると、それを腰にさし、救命具をつけて、一つの窓をたたき破り、石少年とともにするりと艇外へ、くぐりぬけた。がぶりと、大きな波が二人をのみこんだ。


   波とたたかう


 太刀川青年は、石少年の手をとったまま、水をけって、水面へ浮かび出た。
 飛行艇は、その時、背中を半分ほど海面にあらわし、プロペラを夕空に高く、つき出していたが、ずぶずぶと、大きな姿を没して行く。
 艇員や乗客たちが、たがいに呼び合う声が、波の音、風の音にまじって聞える。
「ダン艇長は?」と、あたりを見まわしたが、いくつもの頭が、波のまにまに見えるだけで、誰がどこにいるのかわからなかった。
「ぷーっ」
 石少年が、のんでいた水をふきだした。
 それを見て、
「おお、石福海、おまえは、どのくらい泳げるか」
 太刀川はきいた。
「泳ぎ? 泳ぎなら、百里は、大丈夫ある。わたし生れ香港、五つの時から泳ぎおぼえた」
 石少年は、立泳ぎをしながら、こんなのんきな返事をした。
「なに、百里? あきれた奴じゃ」
 太刀川は、思わず笑って、石少年の顔を見た。
 波はまだ大きい。
 西の水平線に、しずみかかった太陽が、海面を金色にそめているのが、かえってものすごかった。
 クリパー号は、もう波間にのまれてしまって、そのあととおぼしいあたりに、乗客たちの持ち物が、ただよっている。
 耳をすますと、遭難者たちの声が、相変らず、もの悲しく聞えていた。


   おそろしい渦


 波は、いくらか小さくなったようだが、急に黒っぽさをました。
 闇が身近にせまって来ると、石少年は、心細くなったのか、
「先生、わたし一晩中、泳ぎつづけても、大丈夫あるが、夜、何だかこわいよ」
 といいだした。
「だまって[#「だまって」はママ]、おまえは目がわるくて、二メートル先も、よく見えないのだろう。じゃ、夜だって昼だって同じことじゃないか」
「それ、ちがう、さっきの海魔、わたしの足くわえ、海の底、ひっぱりこむような気がする」
「はっはっはっは……何のことかと思ったら、それか。ところが僕は、あの海魔に、もう一度会いたいと思っているんだよ」
 二人が、波にもまれながらこんな話をしている時であった。又も遠い海鳴のような音が、ごーっと聞えだしたかと思うと、とつぜん、闇の彼方から、
「あっ」
「あれ、あれ」
「きゃっ」
 という悲鳴。
「先生、あの声は?」
「うん、みんなの声だ。いよいよ出たか」
「え、何がです」
「心配するな、何でもないよ」
 そういってる間に、おびえきった声が、右の方からも左の方からも聞えだし、それが、だんだんひろがっていくような気がした。
「あ、先生。わたしの体、ながされる。おお、大きな渦、先生、あぶない」
「なに、渦だ。うーむ。いよいよやってきたか」
 太刀川が、そうつぶやいた時、石少年の体が、まるで船にでものっているように、すーっと、目の前を流れた。
「せ、先生。渦がわたしをひっぱるよ。た、助けて!」
 石少年の細い腕が、高くあがったのを見た。
 しかしそれと同時に、太刀川の体も渦にのって流されはじめた。
「おお、石、しっかりしろ!」
 もう石少年の返事はない。そのうちに、ぴちぴちという生木をさくような、ぶきみな音が、渦のまん中と思われるあたりから聞えだし、彼の体は、くるくるとまわりだした。
「む、無念だ」
 と思った時、急に足が下にひっぱられるような気がした。必死にもがいたが、むだであった。太刀川の体は、いよいよはげしく、まるでこまのように早くまわりだした。
「もう、だめか」
 彼は観念の眼をとじた、瞬間、頭の中をかすめるものがあった。
 原大佐の顔、
 重大使命は?
 海魔は?
 ケレンコ、リーロフは?
 やがて彼の気は、だんだん遠くなっていった。
       ×   ×   ×
 太刀川時夫と石福海を、のみこんだ大きな黒い渦は、ゆらりゆらりと所をかえて行く、その底のあたりに、何か、ぴかりぴかりと光るものがあったが、ごーっという海鳴が一だんと高くなり、あたり一面が、ものすごく波立って来たかと思うと、やがて、まっくろい海面を、つきやぶって、ざざー、ざざーと、泡立てながら、ぬーっと姿をあらわした恐しくでかいものがある。
 大海魔であった。
 夜目にもそれとわかる、あのものすごい大海魔の頭であった。


   ミンミン島の珍客


 太刀川時夫と石福海少年とを一のみにしたものすごい大渦巻は、いつしか海面から消えてなくなった。洋上にただよいつつ、しきりに救いをもとめていたクリパー号の他の艇員や乗客たちの声も、いまはもうどこにもきこえなくなった。
 この人々の運命は、どうなることであろうか?
 太平洋上に、とつぜんかま首をもたげた、世にも奇怪な海魔の謎は、いつ誰がとくであろうか?
 それはしばらくおいて、この物語をミンミン島とよぶ、太平洋上の一つの小さな島の上にうつすことにする。
 ミンミン島は、色のくろい原地人たちが、みんな高い木の上に、まるで鳥の巣のように、家をつくって住んでいる奇妙な島である。酋長ミンチの住居(すまい)は、大きな九本の椰子(やし)の木にささえられた大きな家で、遠くからみると、納屋に九本の足が生えているようだった。このミンミン島に住んでいる三百人ほどの原地人たちは、太陽のでている昼の間だけ地面をあるいているが、日が暮れかかると、あわてて木の上の家にのぼってしまう。そして夜の明けるまで、けっして地上におりて来ない。
 このふしぎな風習は、大昔、島が真夜中に大つなみにおそわれて、住民のほとんどが、浪にさらわれて行方不明になったことからおこったと、いいつたえられている。
 今日は、酋長ミンチの家はお客さまがあって、たいへんな賑わいだった。お客さまというのは、このミンミン島の隣の島――といっても、海上五十キロもはなれているロップ島の酋長ロロの一行であった。
 さて、酒盛がいよいよたけなわになったころ、日が暮れてきた。するとミンミン島の原地人たちは、急になんだかそわそわしだした。彼等にとってはおそろしい夜がくるからだ。
 これにひきかえ、ロップ島のお客さまたちは、酋長ロロをはじめますます陽気になってきた。この人たちは、みんなそろって、頭の上から鼻のあたりまで、すぽりとはいる黒い頭巾をかぶっている。目のところには、小さな穴があいていて、そこからのぞいているのであった。
 酋長ミンチが、やがて椰子の葉でこしらえた大きな団扇(うちわ)のようなものを、右手にさしあげて頭の上の方でふると、がらがらというへんな音が、あたりになりひびいた。
 すると次の間から、魚の油をもやしているらしい燭台が三つ四つ、はこび出された。
 とたんに、ミンミン島の人たちは生きかえったような顔色になり、思わずわーっとよろこびの声をあげた。
 ところが酋長ロロをはじめロップ島の人たちは、それがおもしろくないといった様子で、何かがやがやとわめきあっている。
 そのうちに、酋長ロロが、席からすっくと立ちあがって、手にしていた短い手槍みたいなものを左右へぴゅうぴゅうとふった。そして胸をはり、肩をいからせて、
「この島の主(あるじ)ミンチよ。太陽は海の中へすっかりおちてしまった。いよいよやくそくの時刻になったではないか。さあ、早くその尊いものを出してくれ」
 と、きいきい声でさけんだ。
 すると、このミンミン島の酋長ミンチも、すっくと立ちあがり、これは破鐘(われがね)のような声で、
「客人よ、お前のいうとおりだ。それでは、いよいよこれからミンミン島の宝であるクイクイの神を、ここへ呼ぶことにするぞ」
 といえば、酋長ロロは息を大きくはずませて、
「うむ、待っていたところだ」
 と、こたえた。
「おう、奥から、クイクイの神をよべ」
 酋長ミンチがこの命令をすると、奥の間から、あやしい返事の声がきこえて、やがて垂幕(たれまく)をわけ、しずしずとあらわれたのは、裸の上に、椰子の枯葉であんだ縄のようなものを、長くたらした奇怪なクイクイの神であった。


   クイクイの神


「おう、クイクイの神だ!」
「クイクイの神よ。われにつきまとう悪霊をはらいたまえ」
 ミンミン島の原地人たちは、てんでに口のなかでつぶやきながら、クイクイの神にむかって、平つくばって礼をするのだった。
 ロップ島の原地人たちは、目をぱちぱちして、この有様を見まもっている。
 クイクイの神は、ゆったりゆったりと、広間の中へすすんでいった。頭の毛をぼうぼうと生やし、その頬には、まっ黒なひげをもじゃもじゃとのばしている。へんてこな神さまだ。
 それもそのはずで、じつはこのクイクイの神は、日本人なのである。神さまをとらえて、いきなりこれが日本人だといっても、だれもほんとうにしないかもしれないが、この神さまは、その名を、三浦須美吉という日本人なのだ。
 三浦須美吉といえば、あたまのいい読者諸君は、きっとおぼえているであろう。原大佐が太刀川青年に話した、あの太平洋上で、大海魔に出あったという第九平磯丸の若き漁夫三浦スミ吉のことである。
「大海魔アラワレ――アレヨアレヨトオドロクウチ、口ヨリ火ヲフキ、鉄丸ヲトバシ、ワガ船ハクダカレ、全員ハ傷ツキ七分デ沈没シタ。カタキヲタノム」
 この悲壮な遺書を、鉄丸の破片とともに空缶の中に入れ、海中に投げこんだ、そのあわれな遭難漁夫三浦スミ吉が、今ここでクイクイの神となりすまし、ミンミン島とロップ島の原地人の前に、とりすました顔で立っているのだ。
 ちょっと信じられないふしぎな話である。
 ところがその訳はこうなのだ。この三浦須美吉は、遺書を海中に投げこんでから、船は沈んだが、自分は海上にうかび、ちょうどそば近く流れていた船の扉にすがって漂いつづけ、運よくこのミンミン島に流れついたのである。
 それにしても、どうして三浦がクイクイの神となりすまして、原地人たちからそんなにあがめられているのか。
 三浦に言わせると、流れついた島の人の中にあって、自分の命を安全にしておくためには、神さまになるのが、一番かしこいやり方だとおもったからだそうだ。そして、それはきわめて訳のないことだったというのである。
 どうして?
 そのわけは、これからクイクイの神が始めることを、しばらく見ていれば、ひとりでにわかるだろう。
 クイクイの神は、ちょっと気むずかしい顔をして、二人の酋長のまえにすすみ出た。彼はえへんと咳ばらいをしておもむろに腕をくみ、
「こりゃ、願は何事じゃ!」
 と、おぼつかない原地語でいった。
「おう、酋長ロロよ、クイクイの神が願をきかれるぞ、早くおまえのつれてきた病人をここへ出せ」
 酋長ミンチがさいそくすると、
「これ、病人を前へつきだせよ」
 酋長ロロは命令をした。
 ロップ島の原地人たちは、いちどきに立ちあがって、その中に立っていた一人の若い女をかつぎあげて、クイクイの神の立っている前に、まるで土嚢(どのう)でもなげだすように荒っぽく、どんとおいた。
 女は、悲鳴をあげながら、床の上にうつむけになってころがると、両肩を波のようにうごかして、くるしそうな息をついているのであった。いかにも重病でくるしんでいるらしい。
 クイクイの神になりすましている漁夫三浦須美吉は、その様子をじっと見ていたが、やがて両手でもって、女の顔をぐっと正面にむけた。
 女は、これからクイクイの神に何をされるのかと、あまりのおそろしさに、手足をぶるぶるふるわせている。


   へんてこ医術


 クイクイの神は、一座をずっとみわたし、いよいよ神の力をもってこの女の病気をなおしてみせるぞという合図をした。
 ミンミン島の原地人たちの口からは、クイクイの神をたたえるような言葉がつぶやかれた。
 そこでクイクイの神は、原地人の女の顔を見つめながら、両腕を前にぬっとつきだした。次に両腕を、ぽんぽんとたたいて、なんのかわりもないことをしめした。それから両腕をさかんにふりまわしたり、両手をにぎったりはなしたりしていたが、そのうちに右手の指さきを、かたくにぎった左の掌(てのひら)の中にさしいれて、ごそごそやっていたかと思うと、左の掌の中から、赤い紐のようなものをするするとひっぱりだした。
 ミンミン島の人は、それを見ると、
「わあーわあー」
 と、奇妙なこえをあげて、さかんにクイクイの神へむかって、おじぎをはじめた。
 クイクイの神は、さももったいぶった様子で、その赤い紐をぱっと両手でふったと思うと、なんとそれは一枚の風呂敷ぐらいの布ぎれになっていた。
「わあー、わあー」
「ふ、ふ、ふーん」
 ふ、ふ、ふーんの方は、酋長ロロをはじめロップ島原地人のため息であった。クイクイの神の、おそろしい力に、すっかりおどろいてしまったらしい。病気の女も、口をぽかんとあけて、クイクイの神の手に見とれている。
 クイクイの神は、掌の中からとりだした赤い布ぎれを、みんなのまえで見せびらかすようにうちふった。そしてこんどは「やっ」と気合をかけると、赤い布の中から一羽の白い鳥をつかみだした。鳥は、ながい嘴(くちばし)をひらき、翼をばたばたさせてもがいている。
「わあー、わあー」
「ふ、ふ、ふーん」
 ミンミン島人もロップ島人も、クイクイの神のおそろしい神力を目の前に見て、腹の底からおどろきのこえをあげて床の上にひれふした。
 だが、クイクイの神のやっていることは、そう大してふしぎではない。それはごくありふれた小奇術なのだ。クイクイの神を名のる漁夫の三浦須美吉は、かねて習いおぼえていた手品でもって、これらの人たちをすっかり煙にまいてしまったのである。
 しかし、彼にしてみれば何も手品が見せたくて、好きでやっているのではない。こうして原地人たちをおどろかしておかないと、いつ殺されるかもしれないからだ。彼はこうして神さまの威力を見せておいてから、
「おう、女、前に出てこい――」
 と叫んだ。クイクイの神によばれた病気の女は、催眠術にかかったように、神の足もとへにじりよった。
「いよいよこんどは、お前の病気をなおしてやるぞ。どこが痛むか」
 女は顔をしかめて、胸の下のところを指さした。
「おう、そこか。いまに痛みはとまるぞ。そこに悪霊(あくりょう)がすんでいるのじゃ。いまわが神力でもって、その悪霊をおい出してやる。こっちをむいて、わしの手を見ているがいい」
 そういってクイクイの神は、右手を女の胸にあてたかとおもうと、「やっ」とさけんで、女のからだからひきはなして、さっと上にあげた。
「ああっ、それは――」
 女はおどろきのこえをあげた。クイクイの神の手には、椰子の葉でつくった小さい人形がにぎられている。
「これがお前を苦しめていた悪霊じゃ。わしが、こうして取出してやったぞ。どうだ、おまえの痛みはとまったろう」
 女はこのクイクイの神の言葉に、はっとして胸をおさえてみた。するとどうだろう、ふしぎにも痛みはけろりとなおっていたではないか。今にも死にそうだった女は、別人のように元気になってすっくと立ちあがり、クイクイの神にお礼をのべて、その場で手足をふりながら踊りだした。
 これをみた原地人たちは、いよいよクイクイの神に、おどろきとおそれの言葉をささげた。
 ひとり腹の中でおかしくてたまらぬのは、クイクイの神さまになりすましている漁夫の三浦だった。彼の手品にすっかりおどろいてしまった女は、ほんとに病気の悪霊を、この神さまがとりのぞいてくれたものと思いこんで、すっかり病気がなおったのである。「つまり精神療法というやつさ」と三浦はとくいで、せい一ぱいしかつめらしくかまえていた。


   売られゆく神さま


「われわれロップ族は、ぜひクイクイの神を買うことにする」
 ロップ島の酋長ロロが、ミンミン島の酋長ミンチの肩をたたいていった。
 酋長ミンチは、それをきくと、ぐっと胸をそらして、
「よし、いよいよ買うか。では、そのかわり、わしがほしいといったものを、こっちへよこすか」
「それは承知した。ちゃんと持ってきてある。これこのとおりだ」
 酋長ロロがとりだしたのは、なんと一枚のやぶれたシャツだった。
「おう、それだ。わしがほしくてたまらない物は!」
 酋長ミンチは、破れシャツをひったくった。
「おう、これこれ、すばらしい宝物だ」
 ミンチは破れシャツをなでまわして、よだれをこぼさんばかりの喜びようだ。
「では、こっちは、クイクイの神をもらってゆくぞ」
「たしかに、とりかえた」
 破れシャツ一枚とクイクイの神との取りかえっこだ。
 クイクイの神は、これをきいてがっかりした。自分の体が、破れシャツ一枚にかえられるとは、なんというなさけないことだと思った。
 ロップ島の原地人たちは、クイクイの神を手に入れて大喜びである。これでこそ、はるばる遠い波の上をここまでやってきたかいがあったと、たがいに顔を見合わせ、きいきいごえを出してうれしがっている。
 それからすぐに、クイクイの神こと三浦須美吉は、ロップ島の原地人にまもられて、酋長ミンチの椰子の木の家からくらい地上におりた。
 ミンミン島の原地人は、だれ一人、三浦をおくってこない。彼等には、夜の地上はこの上もなくこわいからだ。
 ロップ島の原地人は、クイクイの神を手に入れて、まるで凱旋でもするような賑やかさだ。あの死ぬくるしみをしていた女までが、先にたってさわいでいる。
 海岸には、丸木舟が五隻ほど待っていた。
 三浦クイクイの神は、もうこうなってから逃げようとしても、とてもだめだとわかっているので、おとなしく丸木舟にのりこんだ。
 やがて丸木舟は、櫂(かい)の音もいさましく、まっくらな海の上を走りだした。
 磁石もなにももたぬ原地人たちは、星を目あてに、えいえいとこえをそろえて漕ぎゆくのだった。舟は、矢のように走る。夜の明けないうちに、五十キロも先のロップ島へかえりつかねばならないのだ。
 三浦須美吉は、酋長ロロが舵をとる丸木舟の舳にしゃがんでいたが、目が闇になれてきたとき、原地人たちはいつの間にか、ミンミン島で鼻までたれてかむっていた頭巾をぬいでいるのがわかった。
 ロップ島の原地人たちは、太陽の光をおそれて、昼間はその深い頭巾をかぶり、夜が来てあたりがくらくなると、それをぬぐ習慣だということを後で知った。
 さいわいに海は畳のように平らかで、三浦須美吉は大して疲れもしなかった。もう三十キロも来たであろう。時刻もそろそろ夜中の十二時ちかくになるとおもわれる。
「がんばって漕げよ、若い者たち、もうあと半分もないぞ」
 酋長ロロは、こえをはりあげて、はげました。原地人たちは、きいきいごえをあげて、酋長の命令にこたえた。
 その奇声をじっときいている三浦須美吉は、ふだんののんきな性質もどこへやら、たえられないほどさびしい心になった。
(ああ、おれは今、二十四の青年だが、いったいいつになったら、救いだされて、あのなつかしい日本へかえれるだろうか)
 そう思うと胸がせまって、ほろほろと頬の上にあつい涙がながれた。
 その時だった。
 酋長が、何かするどいこえで叫んだ。
 原地人たちは、酋長の叫びをきくと同時に、ぴたり櫂をこぐ手をとめてしまった。そして、き、き、きと妙な声をあげ、あわてて例の頭巾を頭からすっぽりかぶった。
(どうしたのだろう?)
 三浦は、ふしぎにおもって、首をぐるぐるまわした。すると、はるか後の方に、ぴかぴかとへんに光っている物があるではないか。
「おや、あれはなんだ」
 よく目をすえて見ると、くらい海の一てんから、青白い長い光がすーっと出て、横にうごいている。
「探照灯みたいだが――」
 と思っていると、こんどは別のところから、ものすごい火柱が二本も立ちあがって、それからまっ赤な火の玉が、ぽろぽろと海面へおちはじめた。
 やがて、そのどろどろと宙にもえていた火柱の色が、急に赤みがかってきた。それと同時に、火柱のたっている近くの海が、急にぼーっと明るくなった。
 海が光りはじめたのだ。海の上だけではない、海面の下までが、電灯でもつけたかのように光っている。
 原地人たちは、もう櫂をこぐどころか、ただ口々に神への祈りをくりかえしている。
 そのとき酋長がふるえごえで、三浦によびかけた。
「おう、クイクイの神よ、われわれロップ島の人民を、おそれの谷にたたきこむのは、あの魔物であるぞ。クイクイの神の力によって魔物のあの光る息をおさえつけてもらいたい。そうすれば、われらは、クイクイの神にどんな宝物でもさしあげるだろう。た、たすけたまえ」
 三浦は、あああれこそいつぞやの大海魔にちがいないと思った。海魔というが探照灯や信号弾のようなものを放っている様子を見ると、動物ではない。何か恐るべき科学の力によって仕組まれているものとにらんだ。では、大潜水艦みたいなものか、いやそれにしても、大きさからいって潜水艦どころのさわぎではない。
 三浦は、酋長ロロにたのまれた以上、ここでなんとかしてクイクイの神の力をあらわさなければならないのだ。そこで彼は、あやしい光にむかって大きなこえで、呪文をとなえだした。もしそれを日本人がきいたら、腹をかかえて笑いころげたろう。磯節の文句を調子はずれにどなっていたのだったから。
 すると、まもなく海上を照らしていた火がぱっと消え、ついで海中の光もなくなって、ふたたび闇の世界にかえった。
 丸木舟の上の人たちは、これこそクイクイの神の力できえたものと思い、よろこびの奇声をあげて、クイクイの神をたたえるのであった。
「そら、こげ、今のうちだ!」
 酋長の号令に、丸木舟は、またもや矢のように海上をはしりだした。
 そして東の空がうっすりと白みはじめたころ、ようやくロップ島の岸につくことが出来た。
 ロップ島! この島から、海魔があばれている海魔灘まで、わずかに十キロあまりしかないのである。


   太刀川は生きていた


 さて話は元にもどって、海魔灘の渦巻にまきこまれて、海上から姿をけしさった太刀川時夫は、どうしたことであろうか。また、潮に流されながら時夫にたすけをもとめていた石福海少年は、どうなったことであろうか。
 がんがんがんがん。がんがんがんがん。
 鉄をたたいているような物音である。
「あ、やかましい。耳がいたいじゃないか」
 太刀川時夫は、夢心地でつぶやいた。
 ぽとり、と、つめたいものが、時夫の襟もとにおちて、せなかの方にまわった。
「ああ――」

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