火星兵団
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著者名:海野十三 

 蟻田博士は、その青い一メートルばかりの長いむちみたいなものを手にして、目を光らせた。そうして、さっき課長になげつけた言葉などは、もうわすれてしまったかのように、このめずらしい品物を、どこでひろったのかなどと、いろいろと課長にたずねるのであった。課長は、博士のきげんがなおったので、このところ大喜びだった。そうして、いろいろと説明した。博士は、大きくうなずき、
「ふむ、これは実にたいしたもんじゃ」
 と、いすの上にこしを下した。
 蟻田博士が、ひどく感心した顔で、
(これはたいしたものだ!)
 と言った長さ一メートル余りの、むちのようなものは、一体何であったろうか。
 それを箱から出して、博士の目の前へ押しやった大江山課長は、博士のまたたき一つさえ見おとすまいと、じっと見つめているのであった。
「いかがです、博士。これなら博士をおひきとめした値打はあったでしょう」
 博士は、ふんふんと、ただ間に合わせの返事をしながら、その青いむちのようなものを、しきりにひっくりかえして見ていた。やがて博士は、その一方のはしが、すこし太くなっているところへ、指先をあてて、押したり、離したりしはじめた。
 すると、どうかした拍子に、その青いむちのようなものが、ほんのわずかではあったけれど、半殺しの蛇(へび)のように、ぴくぴくと動いた。そうして先の方がくるると円く輪になった。
「ほう、こいつは大発見だ!」
 博士は、熱心を面(おもて)にあらわして、なおもさかんに指先でいじりまわしたが、一度蛇のように動いた後は、二度とそんなに動かなくなった。
 大江山課長は、さっきから博士のじゃまをしないようにと思い、さしひかえていたが、もうがまんが出来なくなって、
「博士、その珍品(ちんぴん)は一体、何に使うものだかおわかりですか」
 と、せきこんで聞けば、博士は無言で、首を左右にふるばかりだった。
「博士、なぜ教えて下さらないのですか。博士には、おわかりになっているはずだと思うのに……」
 大江山課長の言葉に、博士は、はじめてそのむちのようなものから目を上げ、
「わしにも、さっぱりわからないのだ。わしはこれを研究してみたいと思う。どうだろう、これをもらって行っていいかね」
「いえ、それはだめです。持って行ってはいけません」
 大江山課長は、博士の手からその青いむちのようなものを、うばうように受取って、すぐさま箱の中に入れてしまった。
 博士は、気のどくなくらいがっかりして、
「たった一日でいいが、貸してくれんか」
「いや、だめです」
「じゃあ、もう十分か二十分か見せてくれんか」
「だめです。お断りします」
「そんなら、ぜいたくは言わない。もう五分間見せてくれ」
 課長は博士の頼みをあくまでもしりぞけた。そうして箱にふたをしてしまったけれど、箱を元の金庫にしまうことはしなかった。
「ねえ、博士」
 博士は、箱をじっと見つめて、よだれをたらさんばかりであった。返事もしない。
「ねえ、博士。さっきあなたは国際放送をお聞きでしたか。地球がモロー彗星に衝突するという……」
 課長のこのだしぬけの質問は、博士を驚かせるに十分であった。
「なに、地球がモロー彗星に? そんなことは、わしには前からわかっていたが、誰がそんなことを君の耳に入れたのか」
「国際放送ですよ。ロンドンとベルリンとからです。どっちもりっぱな天文学者が放送しました」
「ふうん、そうか。あいつらもやっと気が附いたとみえるのう。それで、わが日本では、誰が放送したのかね」
「まだ誰も放送していません」
「なぜ放送しないのかね。号外は出たのかね」
「いや、どっちも今、報道禁止にしてあります。そんなことを知らせては、どんなさわぎが起るか、大変ですからね」
 課長は、ほんとうに心配そうな顔をして、そう言った。
「そんなことは、一刻も早く、全国の人々に知らせるのがいい。かくしておくのは、かえってよくない」
 地球とモロー彗星とが、やがて衝突するであろうというニュースを、博士はすぐさま人々に知らせよと言う。
「もちろん、いずれ知らせますが、その前に、我々は、十分責任のある用意をしておかなければなりません」
 と、大江山課長は言う。
「責任のある用意とは?」
「それは、つまりその恐るべきニュースを聞いて、あばれ出す奴が出たら、すぐ捕えてしばり上げる用意をすることです」
「そんなつまらんことを、心配するには及ばないだろう。もっと大事な……」
「そうです。我々はそれも考えています。第二の用意は、その衝突が果してほんとうに起ることかどうか、それをたしかめなければなりません」
「よくよく、ばかばかしいことを考えたもんだ。それよりも、もっと……」
「まあ、お待ちなさい。我々の第三の用意は、もしほんとうに衝突が起るものとすれば、何とかして衝突しないですむ方法はないかと、それを研究すること」
「泥棒をとらえて縄をなうというのは、このことだ。ばかばかしい」
「いや、我々は、すべてのことに手落があってはならないのです。第四の用意としては……」
「第四の用意? ずいぶん用意をするのだねえ」
「そうです。第四の用意は、もし衝突が起っても、我々日本人だけを死なさずに、何とか助ける方法はないものかどうか」
「雲をつかむよりむずかしい話だ」
「第五の用意は……」
「わしは、もうたくさんだ。ばかばかしくて、黙って聞いていられんよ」
 蟻田博士は、大江山課長の言うことを、一々だめだとやっつけた。
 だが、博士は、帰る帰ると言ってなかなか帰らず、課長の机の前で、もじもじしていた。
「課長。総監がお呼びです」
 一人の警官が、大江山課長を呼びに来た。課長はうなずくと、そそくさと自分の席を立って、向うへ行った。
 その課長の姿は、衝立(ついたて)の後へ消えたが、そこで彼は、足をとどめた。課長を呼びに来た警官も、また、そこで足をとどめて、課長の顔を、興ありげに見た。
「課長。あの老人の写真をとるのですか」
「いや、今日のは、違う」
 課長は、よく、こんな風に自席を立ち、後に残った机の前の客を、知れないように写真にとらせることがよくあった。つまり、その時たずねて来た人の顔を、後のために、ちゃんと残しておく必要があるような時には、よくやる手であった。警官は、またその写真かと思ったのである。
 課長は、衝立のかげから、自席の方を注意している。
 その時、警官が課長の耳の近くに口をよせ、早口で言った。
「あっ、課長。あの老人が変なことをやっていますよ。いいんですか」
「ああ、いいのだ」
「あっ、課長の机の上にある箱の中から、何か長いものをひっぱり出しましたよ。大丈夫ですか」
「うん、いいのだ」
 いいのだ、いいのだと言っているうちに、蟻田博士のからだは、課長の机を離れた。そうして、戸口の方へ、早足で、つつうっと歩いて行く。どうやら、博士は逃げるつもりらしい。
「いいんですか、課長。あの老人は太い奴ですよ。課長の机の上から、何か盗んで行きますが、いいのですか」

 蟻田博士は、うまうまと、青い色のむちのようなものを、大江山課長の机上から盗んでしまった。それは、課長が、千葉の天狗岩の附近から拾って来た貴重な証拠物であった。
 不思議なことに、課長は、博士がそれを盗むところを見ていて、何もしないのであった。わざわざ博士に盗ませたようなものであった。一体、どうしたんだろう。
 博士の姿は、もう室内に無かった。
「課長、追いかけて、あの老人の襟首をつかまえて、連れもどして来ましょうか」
「いや、それにはおよばない」
「じゃあ、追跡しましょうか」
「いや、それも必要ないよ」
 と言って、課長は、衝立のかげから、ゆったりと姿をあらわし、自席へ帰って行く。
「なんだか、さっぱりわけがわかりませんなあ。課長さえよければそれでいいんですが、みすみす、庁内の現行犯のどろぼうを逃してしまうなんて、一体どういうわけなんですか」
 課長は、別に、それに対して返事はしないで、
「おい、どうした。まだ、佐々(さっさ)は、帰って来ないのかね」
 と、佐々刑事のことをたずねた。
「佐々なら、もう、こっちへ帰って来るはずですが……」
 と、掛長が、席から立って来た。そうして課長に向かい、
「あの博士は、とうとうあれを持って行ったようですね」
 と言えば、課長は軽くうなずいた。
 そこへ、戸口が大きな音と共にあいて、佐々刑事がとびこんで来た。
「課長、帰って来ました。ところで、今、蟻田博士にすれちがったのですが、あの博士の様子が、いやにへんなんですがねえ」
「佐々。博士を追跡しろ。そうして、当分お前は博士を監視するんだ!」
 火星のボートが残して行ったと思われる、青い色のむちのようなものを、蟻田博士がさらって逃げた。大江山課長は、元気者の佐々刑事に、追跡して監視しろと命じた。
 佐々は、いまかけ上って来た階段を、またどかどかとかけ下りて、警視庁の玄関からとび出した。
 こっちは、課長のそばにいた当番の警官であった。佐々のとび出して行った戸口を、あきれたような顔で見送りながら、
「課長。佐々刑事は黙ってとび出しましたが、あれでいいんですか」
「何が?」
「つまり、博士の行方が、佐々刑事にわかっているでしょうか。博士はどこへ行ったか、もう姿は見えなくなっているはずです。どうも、あの佐々刑事と来たら、気が短く、早合点の名人ですからねえ」
「ああ、そのことか。そのことなら、彼のことだから何とかやるだろう」
 佐々は、玄関の外にとび出したが、博士の姿はもう見えなかった。
「しまった。どっちへ行ったのかしら」
 玄関を警戒していた同僚に、博士がどっちへ行ったかをたずねたが、誰も知らない。戸外をすかして見たが、街灯がほの明かるい路面には、夜更(よふけ)のこととて、行人の姿は見えなかった。
「しまった」
 刑事は、案にたがわず、博士の行方を見失って、弱ってしまった。
 が、彼は、突然手をうった。
「そうだ。なあんだ、わかった、わかった」
 刑事は、急に元気になって、自動車を呼んだ。
「どっちへやるのかね」
 と、運転台の同僚が聞いた。
「麻布だ。蟻田博士邸へ直行してくれたまえ」


   25 去らぬ足音


 話は変って、ここは、蟻田博士邸の地下室の中だ。
 新田先生と千二少年とは、階段の下に閉じこめられて、どうしてよいか困ってしまった。誰がどうして階段の上の蓋を、しめてしまったのだろうか。それをいぶかる折しも、二人の頭上に、こつ、こつと重い足音が近づいた。誰もいないはずの部屋に、人の足音がする! では、博士が帰ってきたのか? それとも、別の人であろうか。新田先生と千二少年とは、声をのんで、じっと足音のする頭上を見上げた。
 こつ、こつ、こつ、こつ。
 怪しい足音は、なおも頭の上を歩き続けるのだった。もし二人が、地下階段から床にのぼれば、待っていましたとばかり、二人の首っ玉をおさえるつもりのように思われる。
「先生、誰でしょう? この上を、歩いているのは?」
 千二は、新田先生のそばにすり寄って、低い声でたずねた。
「さあ、誰だろうか。先生もさっきから考えているんだけれど、よくわからない。博士が帰って来たのかも知れないが、それにしては、あの足音が、あまり響きすぎる」
「足音が響き過ぎるというと、どんなことですか。足音が怪しいのですか」
 新田先生は、うなずいた。
「千二君。よく耳をすまして聞いていたまえ。博士は、老人だよ。そうして体もたいして大きくないのだ。そのような老人にしては、あの足音は、あまりにどしんどしんと響き過ぎるのだ。まるで、鉄でこしらえたロボットが、足を引きずって歩いているようではないかねえ」
 千二は、それを聞いて、にわかに、薄気味が悪くなった。まさか、ロボットが!
 新田先生と千二少年は、だんだん不安になって来た。
 せめてその足音が遠くなるようにと、心の中にいのっていたが、意地わるく、その重くるしい足音は、いつまでたっても、二人の頭上から去らなかった。
「私たちを、いつまでも、この地下室に閉じこめて置くつもりなのだよ」
 先生はそう言った。足音は、同じところを、こつこつと、ぐるぐるまわりしているのだった。
「先生、僕たちは、どうなるのでしょうか」
 千二は、心細くなって、思わず、先生にひしと抱きついた。
「こうなれば仕方がない。あっさりと、あやまるより外ないだろうね」
「つまり、ここから、上に聞えるように、大きな声であやまるのさ。博士の留守に、地下室へもぐりこんだことを、すなおに、あやまるんだよ」
「残念ですねえ」
 先生は決心した。そうするより外に、やり方はないと思った。自分一人だけならいいが、千二少年を、いつまでもこんな気味の悪いところにおくのは、かわいそうだと思ったのだ。
 そこで、先生は、階段を上までのぼった。そうして右手を上にのばして、蓋(ふた)の下から、どんどんと叩いた。
「あけて下さい。ここをあけて下さい」
 新田先生が、そう叫んだ時、頭上をこつこつと歩いていた足音は、にわかにぴたりととまった。
 だが、別に答えはなかった。
「早くここをあけて下さい」
 先生は、ふたたび、はげしく蓋を下から叩いた。すると、今度は、上から何かうなるような声が聞えた、と思つていると、階段上の蓋は、左右にぐうっとあきだした。
 蓋はあいたのだ。今こそ、外へ出られるようになった。
「さあ、おいで。千二君、早く……」
 と新田先生は、千二の手を取り、階段を上にかけ上った。さだめし、そこには博士が白い髭をぶるぶるふるわせ、大おこりにおこって、つっ立っていることだろうと思った。――ところが、それは思いちがいであったのだ。
「あっ、君は……」
 床の上におどり上った新田先生は、非常な驚きにぶっつかった。先生は、さっと体をひねると、自分のあとから出て来た千二を後にかばった。
「き、君は、何者だ! 生きているのか、死んでいるのか」
 いったい先生が目の前に見た相手というのは、何者であったろう。
 黒い長いマントを着た肩はばのいやに四角ばった怪物が、新田先生に向かい合っている。だが、その怪物には首がなかった。
 首のない長マントの怪人だ!
 さてこそ、新田先生は、「君は生きているのか、死んでいるのか」とたずねたのだ。
 その怪人は、獣のように低くうなるばかりで、口をきかなかった。
「向こうへ行け。ぐずぐずしていると許さないぞ」
 よわ味を見せてはたいへんと、新田先生は、はげしい声で相手を叱りつけた。
 が、その怪人は、べつに驚く様子もなかった。もっとも、首がないのだから、どんなことをしても顔色が見えないので、見当がつかない。
 先生は、千二の手を取って、怪人の前をすりぬけようとした。
 その時、首のない怪人は、黒いマントの下から、にゅうと腕を出した。そうして、あっという間に、千二の肩を、ぎゅっとつかんだ。おお一大事だ!
 蟻田博士邸の秘密室のまん中!
 とつぜん、新田先生と千二少年の前にあらわれたのは、首のない怪人! 先生が後に千二をかばうひまもなく、黒い長マントの怪人は、腕をのばして、千二の肩をむずとつかんだのである。さあ、たいへんなことになった。
 この怪人は、一体誰であろうか。
 あの自動車事故のあった崖下を、うろうろしていたあの怪人であった。そうして佐々刑事とたたかっている時、首をぽろんと落したその怪人であった。
 大江山捜査課長は、この怪人こそ、例の丸木であるにちがいないとにらんでいた。
 そのにらみに、まちがいはなかった。この怪人こそ丸木だったのである。
 一度は、千二をつれて銀座に案内させ、ボロンの壜をうばってにげた。二度目には、警視庁から出て来た千二を、日比谷公園のそばに待受けていて、むりやりに自動車に乗せてしまった。そうして、交通掛の警官においかけられたが、ついに麻布の坂においつめられ、進退ここにきわまった。この時、「この先に崖がある。危険!」という注意の札が目に入ったが、もうどうすることも出来なくて、とうとう自動車を断崖へ走らせ、あの恐しい自動車事故をひき起したのであった。
 その時、丸木は、不思議なことをやった。
 それは一体どういうことであるかというと、千二の生命をすくったことである。――自動車が、断崖を通り過ぎるその直前、丸木は自動車の扉をひらいて、千二を外につき落したのであった。千二の体は、蟻田博士邸の生垣のしげみの中に、もんどりうってころげこみ、そうして一命は助ったのであった。そうして丸木は?
 丸木は、そのまま自動車と共に崖下に落ちた。そうして不思議なことに、今もなおちゃんと生きているのだった。不思議だ。


   26 格闘(かくとう)


 首のない丸木が、生きているのだ。今も新田先生と千二少年の前に、その丸木がうそぶいて立っているのだ。
 いや、それどころではない。千二少年は今、丸木のために肩をつかまれて動けなくなっているのだ。
「こら、怪物。その少年をはなせ。何という、かわいそうなことをするのか」
 新田先生は、相手をどなりつけた。
 だが怪人丸木は、いっかなそれを聞こうとはしない。少年の肩をつかんで、ぐいぐいと手もとにひきつける。千二は顔を真赤にして丸木と争っているが、かよわい少年の力で、どうしてかなうものか。
 そうして、ついに千二少年は、丸木の長マントの中にかくされてしまった。怪人は、かちほこるように、気味の悪いうなりごえを上げる。
「け、けしからん。もう君をゆるしておけないぞ」
 新田先生は、相手が強敵であることは知っていたが、こうなってはもうやむを得ない。全身の力をこめて、怪人丸木の胸にぶつかった。
 丸木はよろよろと、二、三歩後に退いた。だが、彼はたおれはしなかった。
 やりそんじたかと、新田先生は、もう一度後に下った後、どうんと怪物の胸につきあたった。
 今度は、大分こたえたようであった。丸木はうなりながら、四歩五歩と、後によろめいて、ついに壁ぎわにどうんと背中をつけてしまった。
 それは相当ひどい音だった。そのひびきで壁の柱時計がごうんと鳴ったほどであった。だが、怪人はまだまいらない。
 千二は、マントの下で、足をばたばたさせている。新田先生はそれを見ると、またもう一度、丸木の胸にぶっつかって行った。
 すると、丸木の腕がマントの下からぬうっと出たが。……
 三度目の新田先生のもうれつな突っぱりに、さすがの怪人丸木もややひるんだものと見え、それまではうごかさなかった左腕を、マントの下からぬうっと出したが、これを見ておどろいたのは、先生だった。
「あっ、首!」
 怪人の腕のさきに、一箇の首が生えていた。――いや、怪人はマントの下で、左手に自分の首を提げていたのであるが、新田先生のはげしい突っぱりによわったものと見え、マントの下から左手を出したとたんに、提げていたその首があらわれたのであった。
 何をするのか怪人!
 彼は、自分の首を持上げると、とつぜん自分の胴にすえた。――これで、今まで首のない怪人に、はじめて、首が生えたのであった。
「おお、きさま!」
 新田先生は、丸木の顔をにらみつけた。
 怪人丸木は、低くうなりながら、左手でしきりに首をおさえている。
 それは、どうやら一たんはずれた首を、胴の上に取附けようと、一生けんめいにつとめているものらしかった。
 人間が、首をおとして生きていることも、不思議きわまる話であるが、一たん下におちた首を、もとのところへ取附けようとするのも、へんな話であった。
 読者は、こんなばかばかしい話に、あきれられたことと思う。まったくのところ新田先生も、この有様を見て、あきれきっているのである。
 だが、これはまだ説明してない、一つの秘密があるのだ。それが何であるかは、まだ話をする時期になっていない。その秘密は一体どんなことであるか。当分読者のみなさんにおあずけしておく。
 さて、新田先生は、この時、すてきな機会をつかんだ。
「待て、新田先生」
 とつぜん、丸木が叫んだ。丸木がはじめて声を出したのである。
 先生はおどろいた。
 首のない怪物が、ひょいと首をのせたかと思うと、とたんに大きな声を出したのにもおどろいたが、いきなり自分の名を呼ばれたのには、とてもびっくりした。
 どうして、そんな魔法のようなことが出来るのであろうか。とっさの出来事で、先生にはそれがどういうわけだか、一向わからなかった。
「何だ、降参するか」
 先生は、負けないで大きな声でやりかえした。
「誰が降参すると言った。先生こそ、おとなしくしないと、いのちがないぞ」
「ばかを言うな。誰が降参するものか」
 と、新田先生は、またはげしくつっかかって行った。
「おい、待てというのに、話がある!」
「話? 何の話だ。それより先に、その少年を放せ」
「いや、放さん」
「じゃあ、たたかうばかりだ。この怪物め!」
 先生は、もうれつに相手の体にぶっつかった。
 怪物は、肩から落ちそうな首を、上からちょいとおさえて、身をひるがえした。
「おい待て。そんなに、らんぼうをすると、僕は……」
 と、怪物は、少しひるんだような声を出した。
 先生は、怪物の胴にしっかりとだきついた。
 その時、不思議なことに、怪物の胸もとあたりから、妙ないきづかいが聞え、先生をおどろかした。
「おや、へんだなあ。この怪物は、ふところに、何か入れているかしら」
 新田先生は、怪物の胴にしがみついて、はなれない。
「こら、放せ。放さんと、いのちがないぞ」
 怪物の声が、先生のあたまの上から、きみわるくひびく。しかし先生は、千二少年を助けたい一心で、もう死にものぐるいでしがみついている。先生の顔は朱盆のようにまっ赤だ。
 先生は、怪物を床にたたきつけてやろうと思って、えいやえいやと腰をひねったが、この怪物の力の強いことといったら、話にならない。
 そのうちに、怪物が急にだまりこんだ。と思ったら、新田先生は、頭にはげしく一撃をくらった。あまりはげしくなぐられたので、先生は、頭がわれてしまったかと思った。
「うぬ、負けるものか」
 先生は、がんばった。
 だが、それにつづいて、また第二の一撃がやって来た。それは、前よりもさらに強い一撃だった。さすがの先生も、
「あっ!」
 と言って、両手で頭をおさえた。そうして大きなひびきを上げて床の上にたおれてしまった。
 怪物丸木は、妙な声をあげた。それは、うれしそうに笑っているようなひびきをもっていた。
 千二は、おどろきのあまり、さっきから失神したまま、丸木の手にかかえられていた。
 丸木は、つかつかと先生のたおれているそばへやって来た。そうして腰をかがめて、先生の様子をうかがった。
 先生が、曲げていた腕を、ぐっと伸ばした。
「ふん、まだ生きているな」
 丸木は、そう言うと、片足をあげ、新田先生の鮮血りんりたる頭を、けとばすようなかっこうをした。そんなことをされれば、先生は、ほんとうに死んでしまう。
 あわれ新田先生も、ついに怪物丸木のために、け殺されるかと思われた。そんなことがあれば、千二のなげきは、どんなに大きいだろうか。
 重傷を受けて、床上に苦しむ先生を、何とかして助ける工夫はあるまいか。
 ちょうど、その時であった。蟻田博士の秘密室の扉が、ばたんとあいた。
「待て、曲者(くせもの)!」
 と、大ごえをあげて、室内へ飛込んで来た者があった。
 丸木は、ぎょっとしたようであった。
 入口の方へふりむくと、そこへかけこんで来たのは、佐々刑事と、もう一人は制服の警官だった。
「おう、手荒いことをやったな」
 と、新田先生の倒れている姿をみとめ、丸木の正面にまわり、
「おや、お前は例の崖下で見た、首のない化物だな。いいところでお目にかかった。おい君、綱をつかって、こいつをふんじばってしまおう」
 と、連(つれ)の警官に目くばせした。
 丸木は、うーう、うーうとうなっている。新田先生一人さえ、かなりもてあましぎみだったのに、今度は二人の新手(あらて)が飛出した。ことに佐々刑事とは、この前、崖下で組打をやり、その時首を落されてしまったのである。これはわるいところへ、にが手がやって来たものと、丸木はちょっと困っているらしい様子が見える。
「おお、静かにしろ。出来なければ、これをくらえ」
 佐々刑事は、綱を輪にして、ぴゅうっと、丸木の肩へうまくすっぽりとひっかけた。そこへ、また連の警官が、もう一本の綱をひっかけたので、両方からひっぱられて、丸木の腰はぐらぐらになった。が、彼も怪物である。また首を肩の上にのせると、獣のように、うおっと吠えた。
 怪物丸木と、佐々組の二人との決闘であった。
 丸木は、胴中を佐々刑事たちの二本の綱で、ぎゅうぎゅうとしめられながら、決してそれでまいる様子はなかった。彼は、獣のようなこえを出すと、千二少年を隅へほうり出した後、部屋のまん中へとびだして、あばれだした。
 たいへんなあばれ方である。丸木もほんとうに死にものぐるいらしい。
「こら、しずかにせんか。あとで、ほえづらをかくなよ」
「ううーっ」
 丸木が、体を一ふりすると、佐々と警官とは、綱を持ったまま、よろよろと前につんのめりそうになった。しかし、すかさず、また綱の端を、丸木の片足にかけて、えいやと引いたから、丸木は、ついに床の上に、どしんと転がった。首は、手からはなれて、壁にぶつかった。
「しめた!」
 佐々は、連の警官に目くばせして、起きあがろうとする丸木の上から、どうんと、とびついた。
 それから先が、たいへんなことになった。丸木は二人力も三人力もあるとみえ、なかなかひるまなかった。三人は、上になり下になり、蟻田博士の秘密室に、ほこりをたてた。勝負は、なかなかつかない。
 その組打のまっ最中に、とつぜん思いがけない一大椿事(ちんじ)がもちあがった。
 それは、どうんという地響(じひびき)とともに、にわかに床が、ぐっと上にもちあがると、たちまち部屋は、嵐の中に漂う小舟のように、ゆらゆらと、大ゆれにゆれはじめたのであった。
 地震? 地震なら、よほどの大地震であった! 壁は、めりめりと大音響をあげて、斜に裂けだした。柱がたおれる。天井がおちて来る。あっという間に、五人の者は、倒壊した建物の下敷になって、姿は見えなくなった。
 思いがけない大異変であった。五人の運命はどうなったか?

 思いもよらない大地震に、蟻田博士の建物は、がらがらと崩れてしまった。
 その下になった人々は、一体どうなったであろうか。真夜中のこととて、さわぎはなかなか大きかった。
 もし、元気な佐々刑事が、運よく外にはい出さなかったとしたら、他の人たちは、どんなことになったか知れない。
 暁近くなって、ようやく崩れたあとを掘りかえしはじめたが、最初に見つかったのは、佐々の連(つれ)の警官の死体であった。いたましくも、彼は殉職してしまったのである。
 佐々は作業隊をはげまして、さらに、発掘をつづけた。すると、今度は、折重なった柱の下から、新田先生が出て来た。
「おお、新田先生。しっかりしなくちゃだめですよ」
 佐々は声をかけた。新田先生は、まっ青な顔をして、ものも言わなかったけれど、生きている証拠には、かすかに瞼(まぶた)をうごかした。
 助け出された先生は、かなりの重体であった。ことに、丸木のために頭に加えられたうち傷はかなり深く、それに時間もたちすぎているので、その経過があやぶまれた。それで、救護班の手によって、大いそぎで病院に送られて行った。
 何しろ東京全市も大混乱しているので、新田先生の手当も、早くしなければならぬのに、だんだんおくれて、その結果新田先生は、それから数箇月後までも、病床に横たわらなければならなかったのである。
 とけない謎は、怪人丸木と千二少年の行方であった。二人の体は、棟木の下に見つからなかった。どうやら二人は、命が助かったものらしい。そうして千二は、丸木のために連去られたものと思われた。そうして二人は、消息をたってしまった。
 その年は、混乱の中にあわただしく暮れ、新しい年が来た。


   27 大警告(だいけいこく)


 元の体になるかどうか、あやぶまれた新田先生の傷も、年があらたまるとともに、不思議によくなって行った。
 先生が、怪人丸木のため頭部に受けた深い傷は、先生をながい間気が変になった人にしておいた。ところが、このごろになって先生は、ようやくあたりまえの人にかえり、看護婦たちと、やさしいお話なら出来るようになった。
 しかし、新田先生が、ほんとうに以前の元気な体になるのは、まだ一箇月の先のことであろうと思われた。
 先生が、病院のベッドの上に寝ているあいだに、世の中は、たいへんかわった。
 東京地方をおそった例の強い地震は、大正十二年の震災ほど大きな災害を与えはしなかったが、それでも東京市だけで言っても、市の古い建物はかなり崩れ、また火事が十数箇所から出て、中にはたいへん広がったところもあったが、多くは、日頃訓練のとれている警防団や、隣組などの働きで、余り大きくならないうちに消しとめられた。一番被害の大きかったのは、水道と電気であった。これは、元のように直るのには、約三箇月もかかった。
 どちらかというと、東京地方の震災は、それほどさわがれなかった。それは震災の程度が軽かったというのではなく、その時別に、もっとたいへんな、しんぱいになる事件があったのである。それは外でもない、モロー彗星が、いよいよ地球の近くに迫ったことであった。
 東京だけではない、日本国中は、その日に対する準備のため、上を下への大さわぎであった。工場という工場は、昼と夜との交替制で、たくさんの技術者を使って、宇宙旅行に使うロケットの製造に目のまわるような、いそがしさであった。
 日本だけではない。ドイツもイタリヤも、イギリスも、アメリカも、ロシヤも、フランスも、それから満洲も、中国も、大さわぎである。
 足の下に踏みつけている地球が、こなごなにこわれてなくなるのだというから、これほど恐しいことは外にない。
 一体、地球の上の人類はどこへにげたらいいであろうか。またどうしたらにげられるであろうか。
 このことについて、世界中で一番さわいでいるのは、イギリスとドイツとだった。
 イギリスでは、例の王立天文学会長リーズ卿が、昨年の暮になって、『いかにしてわが人類は、生命を全うすべきか』という題のもとに、放送局から全世界へよびかけた。その時、リーズ卿は、こんな風に言った。
「わが王立天文学会へ、皆さんがいろいろな避難方法を書いて送って下さったことを、予はふかく感謝するものです。我々の学会では、学者たちにこれを示して、どの方法がいいか、どの方法がすぐにも出来るか、ということについて調べてみました。しかし、ざんねんながら、どれもみな出来そうもないものばかりでありました。
 たとえば、モロー彗星と衝突する前に、地球の反対側から軽気球に乗って、空中へのがれるのがいいという案がありました。そうして、モロー彗星が衝突するのを空中で避け、衝突が終ったら、しずかに元の地球へもどればいいではないかというのです。なるほど、これはちょっと聞くと名案でありますが、ほんとうは、全く出来ない相談であります。
 なぜかと言うと、モロー彗星が地球に衝突すれば、地球は多分こなごなになって、宇宙に飛びちるものと思われます。すると、その破片は、避難者の乗った気球のガス嚢(ぶくろ)をそのままにはしておかないでしょう。つまり、地球の破片は、ガス嚢を破りますから、それに乗っていた人たちは、空間にほうりだされるでしょう。そうして……」
 リーズ卿の放送は、さらに続く。
「……そうして、その気球に乗っていた者はともに焼かれてしまうか、たとえ焼かれなくて助かっても、地球がなくなってしまうのだから、下りる場所がない。だから、この方法はむだである」
「結局、予等が考えた一番よい方法というのは、モロー彗星に衝突する前に、我々人類は地球からはなれて、地球の代りに住める場所を新たに見つけて、そこへ移り住まなければならない。これがために、我々はさしあたり、二つの大きな仕事をしなければならぬ」
「その第一は、我々は宇宙を旅行するロケットのような、りっぱな乗物をたくさん作らなければならない。第二には、地球の代りに新たに我々人類が住むことが出来る場所を発見しなければならない」
「第一の、宇宙旅行用の乗物は、幸いにも我がイギリスにおいては、前からかなり研究をしてあったので、相当りっぱなものを作ることが出来る見込である。そうして現に今も、たくさんのロケットが盛に作られている」
「第二の、我々は新たに住むべきところを、どこに発見すればいいかという問題は、なかなかむずかしい問題である。世界の多くの天文の知識のある人々は、誰しもそれは火星がいいというであろう。予等の考えも火星を最もよい移住星だと思っている。火星よりも工合のよさそうなところは他にないと思う。なぜなら、火星には、人間の呼吸に必要な空気がわりあい量は少いけれども、とにかく空気があることがわかっている。水があることもたしかめられているし、かなりおびただしい植物が茂っていることさえわかっている。また地球からの遠さも、他の星に比べると、まあ近い方である。こういう諸点から考えて、火星は一番いい移住先ではあるが、また心配なことがないでもない」
 リーズ卿はちょっと言葉を切った。
「火星へ移住することは、一番都合がよいように思われるが、一方において、心配がある。その心配とは、何かというのに、それは、火星の空気が、大変うすいことが、その第一である。空気がうすいから、肺の弱いものは、生きていられないであろうと思う。もっとも酸素吸入をやればいいことはわかっているが、火星へ着いてから、果して我々たくさんの人間全部が、酸素吸入が出来るほどの大設備がつくれるであろうか」
「第二の心配というのは、火星の生物と、果して仲よく暮していけるかどうかということである。火星には、多分生物がいる。それは、火星に空気があることや、植物地帯らしいものがうかがわれることや、それからまた我々は時々、火星人らしいものから無電信号を受取ることから考えても、まず、火星に生物がいることはうたがいないと思う。その火星人と果して仲よくつきあっていけるかどうか。これはなかなか心配なことである」
「我々の仲間には、火星人がきっと我々地球人類を、いじめるにちがいないと言っている者もある。それだから、我々が火星へ移住するためには、まず火星人とたたかわなければならない。つまり敵前上陸をやるつもりでなければ、この事は失敗に終ると言っている。しかし我々は、このようなことを言う仲間を大いに叱ってやる必要がある。すべては愛情でいきたいものである。敵前上陸とか、火星人征伐とか、そのようなおよそ火星人の気持を悪くするような言葉は、つつしまなければならないと思う。話は、わき道にそれたが、このことだけは、くれぐれも賢い諸君にお守り願わねばならぬ」
 そう言って、リーズ卿はそこで深いため息をついたのだった。
 リーズ卿は、蟻田博士ほど火星の生物について、ふかいことは知らないような放送ぶりであった。果して卿は知らないのであるか、または知っていても言わないのか、そこはまだよくわからない。
 蟻田博士が、リーズ卿の放送を聞いたら、どんな感想を持つであろうか。ざんねんながら、蟻田博士の行方は知れないのであった。くわしく言えば、昨年の東京地方の大地震以来、どこかへ行ってしまったのか、それともまた、どこかの軒下で押しつぶされたのか、とにかく博士の消息はさっぱり聞かないのであった。
 リーズ卿の放送は、実は、まだもっと先があったのである。
「とにかく、この二つの心配――つまり、火星の空気がうすいことと、火星人と仲よく助けあって住んでいられるかどうかということ――この二つの心配が、火星移住をきめるについて、暗い影を投げる」
「その外、食物の問題もあるが、これは何とか解決がつくだろう。火星の上に空気があり植物があることがわかっているのだから、我々人間に食べられる野菜みたいなものがあってもいいはずだと思う」
「それからまた、火星の上は、夜はたいへん寒く、一日中の気温のかわり方も、たいへんはげしいから、我々人間がそれにたえることが出来るかどうかという心配もあるが、これは防寒具を持って行けば、何とかなるだろうと思う」
「また、火星へ移住するためのロケットは、つくり上げたものが、もうかなりわがイギリス国内にもあるし、諸外国もそれぞれ工場を大動員して、たくさんのロケットがつくられているはずであるから、モロー彗星と衝突する日までには、相当たくさんのロケットが、世界各地に備えつけられることになろう。この点についても、諸君は心をしずかにしていていいと思う」
 卿の言葉は、なかなかつきなかった。
 リーズ卿の放送には、世界各国の人たちが、水をうったように、耳をすまして聞入っていた。モロー彗星との衝突は、もはやさけることが出来ない今日、我々人類は、どうしてその後の生命を全うすることが出来るか。それは誰もの、ぜひ知りたいところであった。
 卿の放送は、いよいよおしまいに近づいたようである。
「つまり、ひっくるめて言うと、モロー彗星の衝突によって起る惨害から救われるためには、誰しも考えつくのは、火星への移住である。しかし火星へ移住することは、二つの心配があって、一つは空気がうすいこと、もう一つは、火星人が、我々地球人類を、こころよく迎えてくれるかどうか、この二つのことがたいへん心配である。
 どうか、諸君は、くれぐれもこのことを忘れてはならない。世界各国の政府は、この二つの心配に対し、本気になって考えておかねばならない。移住に際し、火星人を、みな殺しにしてしまえなどという、あらい言葉をつつしむように。きびしい言葉で言えば、我々の一人たりとも、火星人をおこらせてはならないのだ。火星人が気持を悪くするような言葉を、はいてはならないのだ。つつしみのないたった一人の失敗のために、我々全人類が、火星人から、ひどい目にあうとすれば、ばかばかしいことだ。とにかく、そういう不穏な人間が出た時は、政府はすぐ彼を、銃殺にしてしまうのがいいだろう。予のもっとも気にかかることは、これである」
 リーズ卿の放送は、そんなところで終った。
 卿の講演放送によって、世界各国は、またさわがしくなった。火星への移住の用意は、うまく出来ているか。ロケットの数は十分にあるか。自分の乗る座席は第何号かなどと……。
 しかし中には、卿の放送に対し、悪口を言う者もあった。


   28 山の上の火


 長い間、傷のため病床に寝ていた新田先生が、ようやく退院することとなった。
 三月といえば、いつもの年ならまだ春に遠く、ひえびえとした大気を感じるのが、あたりまえであったが、その年はどうしたものか、日暦が三月にかわると急にぽかぽかと暖くなって、まるで四月なかばの陽気となった。
 めずらしい暖さだ。それもモロー彗星が近づいたせいだとあって、人々は、夕暮間もなく、西の地平線の上に、うすぼんやりとあやしい光の尾を引くモロー彗星のすがたを、気味わるく、そうして、また恐しく眺めつくすのであった。
 新田先生は、退院の後、すぐさま甲州の山奥の、掛矢温泉へ向かった。
 掛矢温泉といっても、知らない人が多いであろう。ここは温泉と言っても、宿は掛矢旅館がたった一軒しかない。その掛矢旅館も、たいへんむさくるしい物置のような宿であって、客の数も、いたって少い。附近に地獄沢というところがあって、そこは地中からくさいガスがぷうぷうとふきだしていて、一キロメートル四方ばかりは草も木もなく、ただ一面に、灰色の石ころの原になっていた。掛矢温泉に湧出る湯も、実はこの地獄沢からぷうぷうふきだしているガスによって、地中で温められている地下水だった。
 新田先生は、この温泉に落着いた。
 このように、掛矢温泉がさびれているわけは、地下から湧出している温泉が、時々ぴたりととまって、温泉がお休になるせいであった。そのお休も、一日や二日のことではなく、時には半年も一年もとまっていることがある。それでは客が行くはずがない。新田先生は、学生時代ここへ時々行ったことを思い出し、今度も病後の体をこの湯で温めようと思って足を向けたのだ。
 掛矢旅館を、ひょっくりとおとずれた新田先生は、そこの主人の弓形(ゆがた)老人から、たいへん歓迎を受けた。
「ああ、新田さんだね。いい時においでなすった。長いこととまっていたうちの温泉が、一昨日(おととい)からまたふきだしたんでがすよ。これがもう三日も早ければ、せっかくおいでなすっても、お断りせにゃならないところじゃった」
「ああ、そうかね。僕は運がよかったというわけだね」
 先生は、笑いながら、勝手をよく知った上にあがった。
 弓形老人は大喜びで、新田先生をいろいろともてなしたが、先生が長い間、病気に倒れていたと聞いて、たいへん驚いた。
「そうけえ、そうけえ。まあなおって、ようがした。体が元のようになるまで、ゆっくりうちの湯につかって行きなせえ」
 老主人は、いつに変らぬ親切を、新田先生に向けたことであった。
 その親切が、新田先生の心を、かえっていたませた。これがいつもであれば、すっかり腰を落着け、のうのうとした気分で、湯につかっておられるのであったが、今度はそうはいかない。モロー彗星は、あと一箇月で地球に衝突してしまうのだ。この掛矢旅館ののんびりした気分も、三方を高い山に囲まれたもの静かな風景も、あと僅かでおしまいになるのだ。そう思うと、先生の心はかえって、暗くなる。老主人弓形氏は、モロー彗星のことなど、まだ何も知らないようである。この大地がくずれて、天空にふきとんでしまう最後まで、この人のいい老主人は、何も知らないで人生を終えるのではないか。
(これは何とかしなければならぬ!)
 新田先生の同胞への限りない愛の心が、先生の血を湧きたたせる。
 春なおあさい掛矢温泉の岩にかこまれた浴槽の中に、新田先生は体をのびのびと伸ばして、はや二、三日を送った。
 温泉のききめは早い。先生の体から、病後の疲れが見る見る去っていって、頬にもくれないの色がさして来た。
「ああ、ありがたいことだ」
 先生は浴槽から上って、手ぬぐいをぶらさげたまま、部屋に帰って来た。
 すると、その後からこの旅館の老主人弓形氏が、お茶とお菓子とを持ってはいって来た。
「温泉はいかがでございましたかな、新田先生」
「ああ、ありがとう。今日はまたかくべつないい入り心地でしたよ」
「それは、けっこうでした。まあお茶でも入れましょう」
 老主人は鉄びんの湯をきゅうすについで、手を膝においた。
「御主人に、この前からうかがおうと思っていたのですが……」
 と言いながら、新田先生は、ぬれ手ぬぐいを欄干にかけて、自分の席へ戻って来た。
「はあ、どのようなことで……」
「ゆうべも見えましたがね、温泉につかりながら、真暗な山を見上げていると、こっちの方向にある山の上の方に、ちろちろとうす赤い火が見えたり消えたりするんだが、あれは一体、何ですかね」
「はあ、あの火を、ごらんになったのかね」
 と弓形老人は、茶わんを盆の上において、新田先生の前に差出しながら、
「あの火は、わしらも何の火だろうかと、うわさし合っているのでがすよ」
 南の山の上に、ちろちろと見えたり消えたりする火! 先生が気にして、老人に尋ねると、老人も知らないと言う。
「昔から、あの火はあるのですか」
 と、新田先生は尋ねた。
 山の上の火のうわさ! 弓形老人の顔が少しこわばった。
「それが先生、わりあい、近頃のことでがすよ。昔は、あんな火は見えなかった」
「ああ、そう」
 新田先生は、うなずいて、
「あの火は一体何の火ですかね」
「さあ、それがどうも正体が知れないのでしてな」
 弓形老人は、首を左右にふった。
「この村の人で、誰もあの火のことは知らないのかなあ。ちょっと、気になる火じゃないですか」
「新田先生。あそこまでは、なかなかけわしくて、近づけないのでがすよ。第一、途中はこの間まで雪がふかくて、とても上れなかったんです」
「それで、あの火のところまで、行ってみた者がないというわけですね」
「この村の者じゃないが、一週間ほど前に、一人の男が、あの火のことをうわさしながら、上って行きましたがな。あの男はどうなったかしら」
「ほう、誰かあの火のところへ、出かけた者があるのですね。それはどこの者です。そうして、まだ山を下りて来ないのですか」
 新田先生は、ふかい雪をふみ分けて、あの火のそばへ上って行った者があると聞いて、たいへん興味ぶかいことに思った。
「それは、東京の人だと言っていましたがね。名前は、わしが聞いても、いや、いいんだと言って、言わないでがすよ。もっともその人はこの雪をふみ分けて、あの山を越え、向こう側の垂木(たるき)村へ下りて行くのだと言っていたから、こっちへは下りて来ないことになっていたんでがすよ」
「ほう、この雪の中を、山越しに垂木村へ下りるというんですか。そいつは風がわりな人だなあ」
 新田先生は、何だか、この人のことが気になって仕方がなかった。
 山の上に、ちろちろと、見えかくれする怪しい火に、新田先生は、たいへん興味をおぼえたので、その翌朝、先生は、掛矢温泉の老主人がとめるのも聞かず、一人山をのぼって行った。たいへんな元気であった。
 新田先生は、山のぼりについては、いささか経験があったから、ありあわせの綱を借りたり、杖をこしらえたり、また蝋燭などをもらい、一夜ぐらいはすごせるほどの食料品も用意して、出かけたのであった。
 山道は、かなりけわしかった。
 病後の新田先生には、なかなか骨の折れる山のぼりだった。だが、経験はえらいもので、しずかにのぼって行くうちに、おひるすぎには、もうその高い山のてっぺん近くまで、たどりついた。てっぺんに出れば、怪火の正体も、きっとわかるにちがいないのだった。
 山は、まだ冬のままのすがただった。雑草は、のこりの雪の下から枯れたまま、黄いろいかおを出していた。それでも、春はもう近くまで来ているものと見え、枯草のあいだに、背のひくい青草がまじっていた。
 けけけけっ。
 とつぜん、羽ばたきをして、新田先生のあたまのうえに、飛びあがったものがあった。なんであろうと、新田先生が、上を見あげると、それは一羽の大きな鳥であった。きじのようでもあったが、なんという鳥か、はっきりしない。その鳥は、春めいて来たので、岩穴から外へ出て、餌をひろいもとめていたところを、先生が、おどろかしたものであろうとおもった。
 その、名も知れぬ鳥は、空高く飛びあがると、あわてふためいて、峰つづきのとなりの山の方へ飛んで行ってしまった。
 先生は、その鳥の行方を、じっと見送っていたが、そのうちに、
「おや」と叫んだ。
 山のてっぺんは、すぐ上に見えている。新田先生が、今、「おや」と叫んだのは、そのてっぺんのしげみの間から、西瓜(すいか)のように丸いものが四つ五つ重なり合って、動いているのを、見つけたからであった。
「あれは何だろう?」
 先生は、すぐさま体を地に伏せた。それから、また、少しずつ前へ這って行った先生は、ちょうど、体をかくすのにつごうのいい岩かげを見つけ、ここへ滑りこんだ。そして、そっと首を出して、例の西瓜のようなものが、一体何であるか見きわめようとした。
 西瓜のようなものは、人の頭であることがわかった。しげみの上から、人の頭が行列して、向こうへ歩いて行くのであった。それはしばしば木のかげになって、見えなくなったり、そうかと思うと、また、ひょっくり岩角から現れたりしたが、結局、不思議な人間の行列であることだけは、はっきりした。
「どうも、へんなかっこうをした人間どもだ」
 始めは、木のしげみの上から、首だけを出していたその怪しい人間どもは、だんだんと峰伝いに奥の方へ歩いて行く。そうして、ようやく彼らの肩のへんが見え出し、やがて足のあたりまでも、見えるようになった。
 彼らの頭は、いずれも西瓜のように、丸味を持っていた。その西瓜のような頭の下には、ドラム缶のようにふくれた太い胴がついており、首は短くて、あるのかないのか、はっきりわからないくらいだ。
 奇怪なのは、彼らの手足であった。
 腕は、えもん竹のように張った肩の両端から、まるで竹箒をつったように、細いやつがぶらぶらしている。足といえば、これも竹のように細く、曲っており、へんなかっこうで歩いている。全体の色は、すこぶるあざやかなみどり色だった。
 一体、何者?


   29 ロボット


 峰伝いに遠ざかる怪人の群を、新田先生は岩かげから、ねっしんに見送っていた。
 気がつくと先生は、全身にびっしょり冷たい汗をかいていた。
「な、何者であろうか?」
 どうも、たいへんな怪物に出会ったものである。
 よもや、あれはほんとうの人間ではあるまい。人造人間とかロボットとか言って、人間の形をした機械があるが、そのロボットではないかと思った。
 それにしても、不思議なのは、こんな山の中に、ロボットがぶらぶら歩いていることである。ひょっとすると、軍隊がロボットをこの山の中で試験しているのではないかと思った。
 だが、ロボットでもないように思えるふしがあった。ロボットなら、歩調などは機械的に、ちょんちょんと正しくとるはずである。なぜなら、ロボットはたいてい、みんな電波などで動かされているわけだから、ちょうど電気時計と同じように、正しく動くはずである。
 しかるに、今新田先生が見かけた怪しい人間の群は、人間と同じように、みんなが一人ずつ勝手気ままに動いていた。大またに歩いている者もあるし、ちょこちょこ歩いている者もあった。また互に何か話をしているようなのもいた。肩を組合っていたものさえあった。機械で出来た魂のないロボットが、そんなことをするであろうか。いやいや、そんなことはしまい。
「どうも、あいつらは、ロボットでもないらしい」
 ロボットでなければ、一体彼らは何者であろうか。
 新田先生は、小首をかしげた。
「……もしかすると、あいつらは、火星からやって来た生物ではあるまいか」
 火星の生物?
 新田先生は、そう考えて、はっと胸をおどらせた。
 火星の生物は、この前千葉の湖畔へやって来たようである。千二少年の話によると、胴が太っていて手足が細くて、丸い頭があるというから、今見た怪物によく似ている。
「ふん、これは、たいへんなものを見つけたものだ」
 先生はうなった。
 これはいよいよ火星の生物どもに違いない。先生は怪物の後を追いかけることにした。
 怪物たちは、いつしか隣の山の上に姿を消してしまった。山の向こうへ下りて行ったか、あるいはそのへんに、穴でもあるのではなかろうか。先生はわざと道を遠廻りして、けわしい山の傾斜をそろそろと上り始めた。先生の指先はやぶれて、血が流れ出した。
 小一時間もかかって、先生はやっと山の上に上りついた。
「さあ、このへんに違いないのだが……」
 先生はあたりに気をくばりながら、そっと岩かげから顔を出した。
「ほう、あった! あれだ!」
 先生は、思わずおどろきの声を上げた。
 何があったか? 先生の目にはいったのは、大きなドラム缶のようなものが、山の向こう側の斜面に、つっ立っているのであった。まるで小さな塔をそこに建てたような、かっこうであった。
「ああ、あれに違いない。千二君が言っていた火星のボートというのは、多分あれと同じものだろう」
 何という奇妙な形をしたものであろうか。その大きな円筒は、表面がへんに焼け焦げたようになって、そうしてちかちかと、薄い光がさしていた。
 この人跡(じんせき)まれな山中に、火星の宇宙ボートが着いている。
 新田先生の驚きは大きかった。
 火星の生物は、この山中に宇宙ボートを着けて、一体何をやるつもりなのであろうか。
「早く、このことを知らせなければ、たいへんなことになる!」
 と、新田先生はいらいらして来た。
 では、このまますぐ山を下ろうか。
(いや、このまま山を下ったのでは、物足りない。火星の生物は、まだ自分が近くにいることを知らないだろうから、もっと彼らに近づき、彼らの様子を、もっと調べたうえで、山を下ることにしたい)
 新田先生は病後の体ではあるが、この一大発見をして、ここで自分は、もっとがんばらなければ、日本国民――いや、世界人類のために申しわけないと考えた。
 そこで先生はかたく決心をすると、またしげみの中を、そろそろと前進して行った。何とかして、目の下に見えるあの火星のボートまで、行ってみようというのである。
 先生は、しげみの中を巧みにくぐりぬけ、ある時は岩かげを利用して、だんだんと火星のボートに近づいて行った。
 気味の悪いボートは、だんだん大きくなって来た。実に、いやな気持のする色である。地球の人類ではないものが作っただけのことはある。小さい窓みたいなものが、見えて来た。穴みたいなものがあった。そこからは、うす赤い煙のようなものが、すうっと出ていた。しかし火星人の姿はもう見えなかった。みんな、どこにはいってしまったのであろうか。
 だが、火星人の姿が見えないのを幸いに、新田先生は、誰にもとがめられずに、ずんずん近づくことが出来た。そうしてとうとう火星の宇宙ボートの側までやって来た。
 ボートを見上げて、新田先生は、そのボートの高さが、三階建の家ぐらいあるのに、今さらのように驚いた。
 新田先生は火星の宇宙ボートのまわりを、そっと廻って見た。
 先生は今初めて、目のあたりに火星の宇宙ボートを見るのであった。それは全く不思議な乗物だった。だが、いつ、火星人たちに襲われるか知れないので、先生は、あまりゆっくり見ていることが出来なかった。
 ほんの僅かの間、きょろきょろと見廻しただけのことだったけれど、先生は、これは確かに火星の宇宙ボートであるに違いないと思った。そのわけは、火星のボートの外壁を見ても、それは地球の人類が作るなら、かならず鉄とかジュラルミンなどを使うのであるが、この火星のボートでは、そんな金属は使っていない。それは、みたこともない青褐色の材料で出来ていた。先生が軽く叩いてみたところでは、なかなか固く、ひょっとすると鉄などよりも、もっと固いのではないかと思われた。
 それからこのボートが、地球以外のところで出来たらしいしるしは、まだ、ほかにもあった。今の外壁のことであるが、どこにもつぎ目がない。もちろんリベットなどは、一つも打ってない。これほどの大きなものを、リベットもつぎめもなくして作りあげることは、とても人間わざでは出来ない。
 まだ違うところがある。
 それは窓である。我々が知っているような窓は、窓わくを持っていて、そこへふたのようなものがはまるのであるが、火星のボートへよって、先生が見たところによると、そうはなっていない。窓のあいているところは、まわりから中央へ向かって、写真機のしぼりのようにしぼられて、しまるのであった。全くへんな窓である。
 これらのことから、新田先生は、このボートは、火星人が作ったものに違いないと思った。
 火星の宇宙ボートの前に、新田先生が立っている。
 先生は、この宇宙ボートの珍しい姿に、すっかり気を奪われていた。そのあたりに、火星人が、うようよいることを、忘れていたのである。それは、ほんのちょっとの間のことだったが……。
 先生が、はっと我にかえった時は、もう遅かった。何者かが、先生の両腕をうしろから強い力で、ぎゅっとおさえつけた。
「あっ、しまった」
 と、先生がそれをふりほどこうとする間もなく、今度は、先生の両眼が見えなくなってしまった。それは、うしろから、いやにぬらぬらするゴム布のようなもので、目かくしをされてしまったのである。
 いくら、じたばたやって見ても、うしろから、先生の腕をおさえている力は、たいへん強く、それを無理にふりほどこうとすれば、先生の腕の方が、今にもぽきんと折れそうになった。
(騒ぐだけ損だ!)
 先生は、勇気をなくしたわけではなかったけれど、今、じたばた騒いでも、こっちの体が痛くなるばかりなので、手向かうことをやめた。あとで、相手にすきが出来た時に、力一ぱい腕をふるうことにした方がよいと、賢い新田先生は早くも見てとった。
「な、何をするんだ、君がたは……」
 先生は、おちつきの心をとりかえしながら、相手を叱りつけた。
 先生のうしろにいる相手は、何にも、返事をしなかった。何だか、へんなにおいが、ぷうんと先生の鼻をついた。奇妙なにおいであった。それは先生が、始めてかいだへんてこなにおいであった。
(ふうむ、こんなへんなにおいを出すからには、いよいよ火星人に違いない!)
 と、先生は心の中でうなずいた。
 新田先生は、あやしい者のために両腕をうしろからおさえられ、その上目かくしまでされて、無理やりに、前へ向かって歩かせられた。
 何とかして相手の顔を見たいものだと、先生は顔をくしゃくしゃにしながら、目かくしの間にすき間を作ろうとしたが、なかなかうまくいかない。
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