火星兵団
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著者名:海野十三 

 ただ残念なことには、モロー彗星のいるところが、今ちょうど太陽面の近くにあり、そのうえ雲が邪魔をしているので、はっきり見えないことだった。しばらく時間をまつよりほか、仕方がない。
 その代り、新田先生は、望遠鏡をいろいろと動かして見ることが出来た。博士が世界一を誇るだけあって、じつにすばらしい明かるい望遠鏡だった。そのうちに、新田先生は、異様なものを、望遠鏡の中にとらえた。


   12 三つの獲物(えもの)


 湖畔に起った怪事件を取調べるため、かねて千葉へ出張中だった大江山捜査課長は、一日向こうに泊り、その翌日の夕刻、東京へ帰って来た。
 帝都は、今ちょうど暮れたばかりで、高層ビルジングのあちこちの窓には、電灯の火が明かるくかがやき、その下で、いそがしい仕事をかたずけるため居残りをしている社員たちの姿さえ、はっきり見られた。
「課長、すぐ本庁へ行かれますか」
 と、自動車の運転をしている警官がたずねた。
「ああ、すぐ本庁へたのむ」
 課長としては、こういうわけのわからない事件の報告は、なるべく早くすませておかないと、気が落ちつかないのであった。いってみてよかった。これまでに手がけた事件とちがって、全く妙ちきりんな事件である。警視総監も、さぞ驚かれることであろう。
 課長の乗った自動車は、お濠を右に見て、桜田門の向かいに立ついかめしい建物の玄関に着いた。この建物こそ、わが帝都を護る大きな力、警視庁であった。
 課長は、一旦(いったん)、自室へはいったが、すぐ席から立って、総監室へはいった。
 課長は、なかなか出て来なかった。彼が出て来たのは、それから約一時間もたった後のことだった。総監も、課長の報告によって事件の重大性に驚き、今後のため、いろいろと念入な打合わせが、行なわれたものらしい。
 課長が自席へ帰って来ると、それを見かけた佐々刑事が、課長のところへ飛んで来た。
「やあ、課長。ごくろうさまですなあ。で、その火星の火柱とか、火星の化物とかいう怪しいものの正体は、わかりましたか」
 課長は、それに返事をするかわりに、首を左右にふった。
「えっ、やっぱりわからないのですか。課長にもねえ」
 大江山課長は、溜息をついた。
 そうして佐々刑事に向かって、
「おい、皆にここへ集ってもらってくれ。千葉出張の獲物について報告をするから」
「ははあ、獲物についての報告ですか。獲物とは、そいつはすばらしい話だ」
 佐々は、大仰に驚いて、課内の幹部の机を一々走ってまわった。
 まもなく、課長の机の前後左右は、部下の主だった警官によって、ぐるっと取りかこまれた。
 課長は、そこで、いつになく深刻な顔つきで、一同をぐるっと見まわしたあとで、
「千葉へ出張して、掴んで来たことについて報告をする。結局獲物は、たった三つである」
 と言って、課長は、机の上を指先で、ことんと叩いた。
「その第一。火柱(ひばしら)の発見者で、そのために大怪我をした友永千蔵という男は、怪我をした場所がよくないらしいが、目下気が変な状態にある。どうにも、手のつけようがない。だが、怪我の方は、重傷ではあるが、致命傷ではないそうで、このまま死ぬ心配はない」
 課長はそこでちょっと口を切って、
「第二の収穫は、こういう拾い物だ」
 と言って、鞄の中に手を入れて、やがて机の上に放り出したものをみれば、木の葉蛙の背中のような、色のまっ青な、長さ一メートルあまりの鞭のようなものであった。
 課長を取りかこんでいた幹部警官たちは、俄(にわか)にざわめきたった。そうして首をのばし、目をみはって、その気味のわるい色をした鞭のようなものをみつめた。
「課長。これは一体、何ですか」
 部下の一人が、たまらなくなって、課長に質問を放った。
「さあ、お前たちは、これを何だと思うかね」
 大江山課長は、机の上にのせたその気味のわるい青い鞭のようなものを指して、周囲に集った警官たちの顔を、ずっと見まわした。
「はて、何でしょうかね」
「一種の紐だな」
「どこかについていた紐が、ちぎれたのじゃありませんかね」
「どうもわからない。とにかく、いやらしい青い色だ」
 課長について千葉へ出張していた部下たちも集って来て、皆の説をおもしろげに聞入る。千葉で拾って以来、一体これは何だろうかと、さかんに議論をやったらしい。
「ねえ、課長。それは、火星の化物の遺失物ですよ」
 とつぜん、大きな声でどなった者がある。それは、いつも元気のいい佐々(さっさ)刑事であった。遺失物というのは落し物とか、忘れ物とかいう意味であった。
「よう、佐々、お前はなかなか目がきくぞ。今日は、特製ライスカレーを食べたんだな」
 一座は、どっと笑った。
 佐々刑事と特製ライスカレーの関係は、庁内でたいへん有名であった。彼はずっと前、或る事件のため、一年近く遠く南の方に出張していた。わが南洋領の諸島を廻り、それから更に南下して、ジャワ、スマトラ、ボルネオ、セレベスという四つの大きな島をぐるぐる廻って来た。そのとき彼は、みやげにカレーの粉を石油缶に五杯も持って帰り、同僚にも分け、もちろん大江山課長にも呈上した。残りは、大事にしまってある。そうして、時々そのカレー粉を出してニウムの鍋にとき、自分でライスカレーを作って食べる。
 それが有名な佐々の特製ライスカレーだが、それについてまだ話がある。
 彼は、特製のライスカレーを、うまそうに食べる。七分づきの御飯は食堂からとりよせるのであるが、この上にぶっかける黄色なカレーの汁の中には、いろいろなものがはいる。鳥のこともあれば豚の時もあり、じゃがいものはいっていることもあれば、玉葱(たまねき)のはいっていることもある。
 なおその上に、彼はいろいろな香の物をきざんで、混ぜあわすのである。黄色く押しのかかった古漬の沢庵や、浅漬のかぶや、つかりすぎて酸っぱい胡瓜や、紅しょうがや、時には中国料理で使う唐がらし漬のキャベツまでも入れる。香の物は、なるべくたくさんの種類がはいっているのがいいそうである。
 ぽっぽっと、湯気の立つ皿の上をながめて、彼は、まだ食べない先から、盛に、ごくりごくりと唾をのみこんでいる。
 こうして用意がすっかり出来る。そこで彼は大きなため息を二つ三つして、はじめて瀬戸物製の大きなスプーンを左手に握るのである。彼は、左ききである。
「ああ、これゃ熱くて、口の中が火になるぞ!」
 彼は、頬をふくらませて、皿の上にもうもうと立昇る白い湯気を、ふうっと吹き、そうして山のように盛上ったライスカレーへ、左手に握った瀬戸物のスプーンをぐさりと突立てるのである。あとはただ夢中で、馬のように食う。――これをやると、佐々の頭は、急にたいへんによくなるそうである。
 当人はそれでいいが、迷惑をするのは机を並べている同僚だ。なにしろ、これだけのカレー料理を、佐々は自分の机の上で作るのである。誰がなんと言っても、彼は、断然自分の机の上で作る。そのために、彼のカレー料理が始ると、捜査課の中は、カレーのにおいがぷんぷんする。時には、警視庁の建物全体がカレーくさくなる。
 佐々刑事の自席料理のため、恐るべきカレーの毒ガスが、警視庁のどの部屋といわず、どの廊下といわず、はいこんでいくのであるから、これまで幾度も問題になった。
 だが、当人は、何と言われようと平気であった。この特製のカレー料理を食べると、元気が出て頭がよくなる。その結果、犯人を早くつかまえることが出来る。そうなれば、警視庁のために喜ばしいことである。だからライスカレーの手製はやめられない。――というのが佐々刑事の言分(いいぶん)であった。

 とにかく彼は、だれからなんと言われても、一向気にしないたちだった。そうして思ったことを、どんどんやっていく。だから、成功することも多かったけれど、失敗することもまた多かった。
 失敗したときは、彼はちょっとはずかしそうな顔をして、自分の首すじを平手でとんと叩く。が、いつまでも悲観しているようなことがなく、間もなく猛犬のように立ちあがる。そうして目的へ向かって突進する。機関銃の弾丸みたいな男であった。
 佐々刑事のことを、私はあまり長く書きすぎたようである。
 大江山課長の机の上に置いた青い鞭のようなものを見て、
(それは、火星の化物の遺失物だ!)
 と言った佐々の言葉は、たしかにあたっていた。
 その青い鞭のようなものは、大江山課長が、天狗岩の附近から拾って来たものであるが、全くめずらしい品物なので、果して火星の生物が、天狗岩のところへ来ていたとすると、それが落していった、と考えると、一応話のつじつまが合うのであった。
 だが、火星の生物の遺失物であるのはいいとして、それがどんな用につかわれる品物か、それがよくわからない。
 火星の生物が、天狗岩の附近に落していった青い鞭のようなものは、一体何に使う品物か、謎を秘めたまま大学へ送られることとなった。
 つまり、大学へ持っていって、材料や形などから、それがどんな用に使われる品物かを、研究してもらうためだった。
 大江山課長は、一通りの報告を終えたあとで、次のような注意を、部下一同に与えた。
「はじめ、蟻田博士が、火星の生物に注意をしろとか、火星兵団というものがあるから気をつけなければいけないなどと言出した時には、私は、何を言うかと、実は、博士を気が変な人あつかいにしていたが、その後、つづいて起ったいろいろの怪事件――と言うと、千二少年が天狗岩で会った怪塔・怪物事件、怪人丸木が銀座でボロンを買うため殺人を犯した事件、それから千二の父親千蔵が、見て大怪我をしたという火柱事件などであるが、それらの事件を通じて、よく考えてみると、どうもこれは何かあるらしいのだ」
 と言って、課長は、あらためて、部下一同の顔を、ずっと見廻した。一座は、しいんとなって、課長の口から出て来る稀代の怪事件に関する、一言一句も聞きもらすまいとしている。
 大江山課長は、言葉をついで、
「確かに、何かがあるのだ! 果して、これは火星の生物か、火星のボートかわからないけれど、とにかく前代未聞の怪しいものが、東京附近へまぎれ込んだことだけは、疑う余地がない」
 課長は、そこで、溜息をついて、
「それでわれわれは、ここで一大決意を固めなければならないと思うのだ。それは、一日も早く、この前代未聞の謎をつきとめることだ。この解決の近道は、目下行方不明の怪人丸木を逮捕することにあると思う」
 大江山課長は、重大決意のほどを、部下一同に語りつづける。
「もう一度言う。この際一日も早く、怪人丸木を捕えよ。そうして、捜査に当っては、仮に火星人なるものが、我々の住んでいるこの地球へ紛れこんでいるものとして、ぬかりなく用意をととのえるのだ。これまでに次々と起った事件をふりかえってみると、怪人丸木にしても、火星人にしても、かなり狂暴性を発揮している。だから、お前たちは必ずめいめいにピストルか催涙弾(さいるいだん)を身につけておれ」
 これを聞いていた一同は、深刻な顔つきでうなずいた。めいめいに、ピストルか催涙弾を身につけておれ、などという命令は、共産党本部へ突入した時の外(ほか)、受取ったことがない。
「課長、彼等を殺してしまっては、何にもならんじゃないですか。ぜひ生捕(いけどり)にしろと、なぜ命令しないのですか」
 佐々刑事は、いささか不満の顔つきであった。
「うん、生捕に越したことはない。だが、彼等は、我々の決意を知ると、将来においては、もっと狂暴なふるまいをするだろうと思う。君がたに命がけで活躍してもらいたいことはもちろんだが、しかし一方において、私としては、ここにいる君がたのうちの一人でもを、冷たい骸(むくろ)にするに忍びない。だから十分用意をととのえるように」
 悪人たちからは、鬼課長として恐しがられている大江山警視だったが、部下の身の上を思うその言葉の中には、限りない慈愛の心があふれていた。
「おれは、必ず生捕ってみせる。おれも生き物なら、相手だって、生き物なんだから。生き物の息の根をとめるには、こうしてぐっとやれば、わけなしだ」
 と、佐々は柔道の手で締めるまねをした。
 怪人丸木と火星の生物との検挙命令を発しおわった大江山捜査課長は、その時、急に思い出したらしく、
「おおそうだ。あの子供は、どうしているかね。千二少年は?」
 と、かたわらを向いてたずねた。
「ああ、千二少年ですか。あれは……」
 と言って、掛長が、あとのことばを、口の中にのんだ。その刹那に、掛長は、鋭敏に、何ごとかを感じたようであった。
「あれは! あれは、どうかしたのか」
 と、大江山課長も席から立って、掛長のそばによった。
「あれは、今朝、放免いたしました」
「なに、千二少年を留置場から出したのか。ほう、一体、誰が千二少年を出せと命令したのか」
「これは驚きました。課長が、今朝ほど、電話をこちらへおかけになって、放免しろとおしゃったので、それで、出したようなわけですが、もしや課長は、それがまちがいであると……」
「大まちがいだよ、君」
 と、大江山課長は掛長の肩に手をかけて、ゆすぶった。よほど、あわてたものらしい。
「おい君。私(わし)は、そんな電話をかけたおぼえがないんだ。その話をくわしくしてくれたまえ」
「いや、それは驚きましたな」
 と、掛長は、あきれ顔でその先を語り出した。
 その話の要点は、つまり、今朝ほど、全く課長にちがいない声でもって、電話があったというのに過ぎなかった。その声も、言葉のしゃべり方も、全く課長にちがいないので、
「すぐ千二少年を放免しろ」というその命令にしたがったのだという。その話を聞いて、大江山課長の顔は、急に青くなった。


   13 りっぱな自動車


 千二少年は、どうなったろうか。
 その朝、彼は、突然ゆるされて、留置場を出た。
「おい、千二君、もう二度と、こんなところへ来るのじゃないよ」
 と、佐々刑事が言った。
「ええ、もう二度と、来やしませんよ。だいいち、今度だって、僕は何にもしないのに、まちがって、こんなところに入れられたんですからね」
「まちがって入れられた、などと思っていちゃ、いけないよ。だって千二君、君の連(つれ)の丸木という男は、確かに人を殺して逃げたんだからね」
「でも、僕は、何にもしないのです」
「何にもしないかどうか、証拠がないから、はっきり身のあかしが立たないじゃないか。とにかく、課長からすぐ放免せよという電話でもなかった日には、まだまだ共犯のうたがいでもって、ここへ止めおかれるところだよ。くれぐれも、これからのことを注意したまえ」
「はい」
「あの丸木なんかと、一しょに、悪いことをやるんじゃないよ。それから一つ、君にたのんでおくが、もし君が、どこかで丸木を見かけたら、すぐこの私(わし)のところへ、知らせてくれ。どこからでもいいから、電話をかけてくれればいいんだ。ほら、この名刺に電話番号が書いてある」
 千二は、佐々にいろいろと、たしなめられたり、たのまれたりして、警視庁を出ていったのである。
 そこは、桜田門のそばであった。千二はふたたび自由の天地に放たれたことを喜び、まるで小鳥のように、濠端をとびとびしながら、日比谷公園の方へ駈出していった。
 公園の垣根のところまで来ると、千二は、そこに一台のりっぱな自動車が、運転者もいないで放りっぱなしになっているのに気がついた。

 公園のそばに、放りっぱなしになっている無人自動車は何であったろうか。
 千二は、人一倍機械なんかが好きであったから、このりっぱな自動車を見ると、そのまま通りすぎることが出来なくなって、自動車の窓のところから、内部をのぞきこんだ。
 美しいスピード・メーターがついているし、ハンドルも、黒光りにぴかぴか光っていて、まだ倉庫から町へ走り出して間もない外国製の自動車であることが、千二にもよくわかった。
「ふうん、ずいぶん、りっぱな自動車もあればあるもんだなあ」
 彼は、ガラス戸におでこをこすりつけながら、思わずひとりごとを言った。
「ああ、ぼっちゃん。少々ごめんなさい」
 不意に、千二のうしろで声がした。
 千二は、きまりが悪くなった。振りかえって見ると、そこには、からだの大きな、そうしてきちんとした服と帽子に身なりをととのえた運転手が立っていて、扉についている取手(とって)を、がたんとまわすと、その扉をあけた。
 この運転手は、運転台へ乗りこむつもりであることが、よくわかった。
「ぼっちゃん、これに、乗せてあげようかね」
「えっ」
「乗りたければ、乗せてあげるよ」
 千二のうしろに立っていた運転手は思いがけないことを申し出た。
「だって、僕は……」
 千二は、乗りたいのは山々であった。しかし、せっかく警視庁から放免されたところである。へんなことをして、また間違いをしてはならないと、乗りたい心をおさえたのであった。
「いいから、お乗りなさい。さあ、早く、早く」
 千二は、運転手に腕をつかまれたまま、車内の人となった。
 はじめから、このりっぱな自動車に乗りたい心であったが、これでは、何だかこの運転手のため、無理やりに、運転台へ乗せられてしまったようなものである。
 千二は、何だかちょっと不安な気もちになった。そういえば千二の腕をつかんだ運転手の力は、あんまり力がはいり過ぎて、こっちの腕が折れそうであった。
「動くよ」
 運転手は、しわがれた声で言った。
 すると自動車は、たちまち勢いよく公園のそばを離れた。そうして日比谷公園の角を右へ折れると、芝の方へ向かってスピードをあげた。
「すごいスピードだなあ」
 千二は、感心して、運転台のガラスから、商店や街路樹や通行人がどんどん後へ飛んでいくのを、おもしろく見まもった。
 だが、しばらくいくと、変なことが起った。
 それは、白いオートバイが、後から追いかけて来たことである。そうして、千二の乗っている自動車の前を通り過ぎると、うううっと、すごい音のサイレンを鳴らした。オートバイの上には、風よけ眼鏡をつけた逞しい警官が乗っていたが、手をあげて、こっちの自動車に「とまれ!」の合図をした。
(ははあ、この運転手さんがスピードを出し過ぎたから、それで、おまわりさんに、ストップの号令をかけられたんだな。かわいそうに、この運転手さんは、おまわりさんに叱られた上、罰金をとられるだろう)
 と、千二は気の毒になって、運転手の方をふり返った。
 すると、運転手は車をとめるかと思いの外、車外の警官をじっと睨(にら)みつけると、かえってスピードをあげて、たちまちオートバイを追越した。
 千二は驚いた。
 白いオートバイの警官からストップを命令されたのにもかかわらず、自動車は彼を乗せたまま、ぐんぐんスピードをあげて逃出したからだ。
「ねえ、運転手さん。おまわりさんが、ストップしろと命令しましたよ。早くとめないと、大変ですよ」
「おだまり、千二!」
「えっ!」
 千二は、また驚いた。
 運転手から、彼の名を呼ばれて、二度びっくりであった。
「運転手さんは、どうして僕の名を知っているんですか」
 と千二は、となりに並んで腰をかけている運転手の顔を見た。
 運転手は、中腰になって、正面をにらんでいた。車は、町の信号も何もおかまいなく、怒れるけだもののように走っていく。
 その時千二は、運転手の横顔を見て、心臓がとまるほど驚いた。
「あっ、丸木さんだっ!」
 丸木だ! 怪人丸木だ! 運転台でハンドルを握っているのは、この前千二がひどい目にあわされた怪人丸木であったのだ。
「静かにしろ、お前が、そばからうるさいことを言うと、この自動車のハンドルが、うまくとれやしない。もし衝突でもしたら、大変じゃないか」
 丸木も、かなり、あわてていることが、彼の言葉によって、よくわかった。
「でも、丸木さん。おまわりさんにつかまると、大変なことになるから、早く自動車をおとめよ」
「いや、とめない。もしとめると、わしは、また人間を殺すだろう。なるべく、手荒いことはしたくないからなあ」
 そう言って丸木は、スピードをさらにあげて、芝公園の森の中に自動車を乗入れた。
 芝公園の森の中にとびこんだ自動車は、小石をとばし、木の枝をへし折って、森かげをかけぬける。
 公園の出口が見えた。
 非常召集の命令が出たとみえ、森の出口のところには、棒をもった警官隊がずらりと人垣をつくって通せん坊をしているのが見えた。
「あっ、あぶない!」
「なに、かまうものか。向こうの方で、この車に轢かれたがっているのだから」
 怪人丸木は怒ったような口調で、このような言葉を吐くと、あっという間に自動車を、その人垣の中におどりこませた。
「ああっ!」
 千二は、もう目をあけていられなくなった。彼は、両手で自分の目をふさいだ。
 自動車の前のところへ、何かぶつかったような音を聞いた。車体はぎしぎしとこわれそうな音を立てた。
 だが、千二が、ふたたび目をあけてみると、自動車は、相かわらず、すごいスピードで町を走っていた。
「どうしたの、丸木さん」
 と千二は、とてもしんぱいになって、丸木にたずねた。
「こら、だまっていろというのに。――もうすこしだ。下りるかも知れないから、もっとわしのそばへよって来い」
「えっ」
「はやく言いつけたとおりにしろ。さもなければ、お前の命がなくなっても、わしは知らないぞ」
「いやです。ま、待って下さい」
 自動車は、その時さびしい坂道をかけあがっていた。人通はない。
 その時、自動車は、くるっと左へまがって、きり立ったような坂をのぼり始めた。その時千二は、その坂道の行手に、「危険! とまれ! このうしろは崖だ!」と書いてある立札が、立っているのを見た!
 警報によりオートバイの警官はふえ、隊をなし、怪人丸木と千二少年ののった自動車を追いかけたが、やっと追いついてその自動車の姿を見ることが出来た時には、警官たちは心臓がぎゅっとちぢまるような恐しい光景にぶつかった。
「あっ、あぶない!」
 それは、例の「危険! この先に崖がある!」の立札が立っている坂道横町へ曲ったとたんのことであった。
 見よ、その時ちょうど丸木たちの乗っている自動車は、すでに、坂をのぼりきり、つきあたりのところに立っていた柵をがあんとはねとばし、車体は腹を見せ、砲弾のごとく空中に舞上っていた。
「あっ、崖から飛出した! もう、だめだ」
 警官隊は、オートバイをそこへころがすと、一せいに飛下り、息をとめて、大椿事(だいちんじ)を見まもった。
 自動車は、そのまま右へ傾き始めたが、その時、意外なことが起った。
 それは、自動車の運転手席の左の扉がさっと開き、そこから怪人丸木の上半身が、ぬっと出て来たのだった。
「あっ、あいつ、やっぱり逃げおくれたんだな。かわいそうに、もう飛下りたって、どうもなりゃせん。どっちみち、死ぬばかりだ」
 丸木は、この時、なぜ自動車の扉をあけて上半身を乗出したのか。警官たちには、丸木が逃げおくれたものとしか思われなかった。
 空中をもがく自動車は、頭の方を下にすると、そのまま落ちていった。丸木は、まだ助るつもりか上半身を乗出して、死にものぐるいであたりを見まわしている。
「うっ、かわいそうに、見ちゃおられないなあ」
「とても、助る見込はない」
 警官たちも、ひどく同情した。
 崖から、まっさかさまに落ちていくその自動車には、千二少年も乗っているはずであった。丸木が死ぬのは、自らまねいた罰で、仕方がないとして、かわいそうなのは千二少年であった。
 警官たちは、崖のところにしがみついて、自動車がこれからどうなるかと、はらはらしながら見まもっている。
 この崖は、高さが七、八十メートルもあった。ちょうどま下は原っぱで、その向こうには、川が流れていた。川といっても、大きいどぶ川ぐらいのもので、川幅もせまく、深さもいくらでもなかった。丸木のしがみついている自動車は、どうやらこの川のうえに落ちそうに見えた。
 やがて、どうんと大きな音が聞えた。
 それは、丸木の自動車が、川のすぐそばの堤のうえに落ちて、ガソリンタンクがこわれると同時に火を発したためであった。川の中に落ちるかと思ったのに、それよりもずっと手前に落ちたのである。
「あっ、焼けるぞ、自動車が。おい皆、すぐ、あそこへいって、火を消すんだ」
 崖のところに腹ばって下を見ていた警官たちは、号令一下、すぐさま起上って、またオートバイにうち乗った。今度は下り坂で、車がすべろうとするのを、一生けんめいにブレーキをかけながら、隊伍堂々と下へ下りていった。
 あの恐しい墜落ぶり、そうしてあのはげしい火勢では、乗っていた者は、だれ一人として助るまいと思われた。
 自動車は、赤い焔と黒い煙とにつつまれて、はげしく燃えつづける。そのガソリンの煙が、大入道のようなかっこうで、だんだん背が高くのびていった。このさわぎに、駆けつけた近所の人たちも、その煙の行方をあおぎながら、
「ああ、あんなに高くなった。蟻田博士の天文台の屋根よりも、もっと高くなった」
 と言って指をさした。なるほど、その崖の上に、あの奇妙な形をした、蟻田博士の天文研究所のまるい屋根が霞んでいた。


   14 恐(おそろ)しい日


 窓の外に、そのような椿事(ちんじ)がひきおこされているとはつゆ知らず、天文研究所では、蟻田博士と新田先生とが、しきりにむずかしい勉強をやっていた。
「おい、新田」
 と、博士が、めずらしくやさしい声で、新田先生を呼んだ。
「はい、ただ今」
 新田先生は、そう言って、自分の席を立上ると、博士の机の前へいった。
 博士の大きな机の上は、本とノートとで一ぱいだ。まるで、本の好きなどろぼうがはいって散らかしたように、机の上には、ページをひらいた本の上に、また他の本がひらいて置かれ、そのまた上に、ノートがひらいてあるという風で、ほんとうの机よりも十センチぐらいは高くなっている。だから博士は廻転椅子をぐるぐるまわして、だんだん椅子を高くして、坐っている。
 新田先生が、机の上をのぞこうとしたというので、博士は、またどなりちらした。困った博士である。
 新田先生は、二、三歩後へ下って、ていねいにおじぎをした。
「どうも、失礼いたしました」
「お前は、どうもけしからんぞ。わしのやっていることを盗もうとして、いつもどろぼう猫のように目を光らせておる」
「どうもすみません」
 新田先生は、博士が病気のため気が立っていると思うから、なるべくさからわないようにしている。
 それを見て、博士は、また少しきげんを直し、
「せっかく、わしがお前をえらくしてやろうと思っているのに、お前は……」と言いかけて、後は口をもごもごと動かし、「あのなあ、お前が知りたいと言っていた、地球とモロー彗星とが衝突する日のことじゃが……」
 新田先生は、思わず、全身に電気をかけられたように思った。蟻田博士が、どうやら、ついに地球とモロー彗星との衝突する日のことについて、話そうとしているらしい。
「はあ、はあ」
「なにが、はあはあじゃ。もう、教えてやろうかと思ったが、やっぱり教えないでおくか」
 博士は、どこまでも意地悪で、つむじまがりであった。こういう人につきそっている新田先生の気苦労と来たら、たいへんなものである。教え子の千二少年をたすけ、そうして博士だけが知っているところの、今地球に迫りつつある、恐しい運命について知るために、新田先生は辛抱して、この天文研究所におきふししているのだった。
「教わりたくないのか。だまっていては、わからんじゃないか。おい、新田」
「は、はい」
 返事をすれば怒るし、また、返事をしなくても怒る博士だった。
「どうか、教えていただきます」
「ふん、では、かんたんに、わしの研究の結果だけを話そう」
 博士は、白いあごひげをつまみながら、
「モロー彗星と地球とがぴたりと接触するのは、来年の四月四日十三時十三分十三秒のことである」
「えっ、来年の四月四日、十三時十三分十三秒?」
 四月なら、今からまだ約半年先のことである。明日や明後日(あさって)でなくてまあよかったと、新田先生は胸をなでおろした。
 十三時――というのは、一日を午前・午後で区別せず、一日は二十四時間として言いあらわしたもので、十三時は、ちょうど午後一時にあたる。つまり、来年の四月四日午後一時十三分十三秒のことである。
「どうじゃ。四、四、十三、十三、十三――と、数字が妙な工合につづいている。数字までが恐しい運命を警告しとる!」
 来年の四月四日十三時十三分十三秒に、地球は、モロー彗星にぶつかって、粉々になってしまう――と、蟻田博士の言葉である。
 これを博士の机の前で聞かされた新田先生は、わが耳をうたがった。
「博士、来年の四月四日に、地球とモロー彗星が衝突することに間違はありませんか」
「間違? このわしの言葉に、間違があるとでも言うのか。お前は、わしの言葉を信じないのか。わしの天文学に関する智力を知らないのか」
「知らないことはありませんが……」
「そんなら、それでいいではないか。わしを疑うような言葉をつかうでない。もし疑わしいと思うなら、何なりと尋ねて見ろ。たちどころに、その疑いをといてやる」
 蟻田博士の自信は、巌(いわお)のようにゆるがなかった。博士の自信に満ちた様子がうかがわれると、それだけに新田先生は悲しくなった。
「すると、四月四日の衝突ののち、我々地球の上に住んでいる人間は、一体どうなりますか」
「そんなことは、わしに聞くまでもない」
「すると――すると、やはり我々は一人残らず死ぬのですね。死滅ですね」
「そうだ、その通りだ」
 博士は、こともなげに、あっさりと返事をした。新田先生の胸は、しめつけられるように苦しかった。いよいよ来る四月四日かぎりで、地球とともに人類も滅びるのだ。こんなに永い間、いろいろと苦労をつづけて来た人類が、あっさりと滅び、その光輝ある歴史も何も、全く闇の中に葬られてしまうのである。そんな恐しいことがあっていいだろうか。いや、人類の好くと好かないとにかかわらず、現にモロー彗星は、刻々地球に追っているのだ。
「助かる方法はないでしょうか、博士」
 蟻田博士は、だまって、鉛筆で、白い紙のうえを叩いている。
「ねえ、博士。モロー彗星のため地球がぶち壊されても、何とかして、我々人類が助る方法はないものでしょうか」
「ないねえ。絶対に助る手はない」
 博士は、他人のことのように言う。博士はどうなるのか。博士だって、やはり人類である以上、一しょに死ぬのではないか。それとも、自分だけは助るつもりであろうか。
「先生は、生命を全(まっと)うされますか」
「いや、むろんわしも死ぬさ」
 博士は、新田め、何をわかりきったことを聞くのだと、言いたげな顔であった。
 新田先生の最後の頼みの綱も、ついに切れた。先生は、千仭の断崖から、どんと下へ突落されたように思った。もう立っていることが出来ないほどだった。
(だが、――)
 と、新田先生は、その時口の中で言った。
(だが、万物(ばんぶつ)の霊長(れいちょう)たる人間が、そうむざむざと死滅してなるものか!)
 人間というものは、どうにも、もういけないときまった時に、不思議にも、それをはねかえす力が出て来るものである。新田先生も、今それをさとった。
「もし、博士。私は死にません」
 新田先生は、きっぱりと言いきった。
「何じゃ。お前は死なぬというのか。ほほう、地球が粉々になっても、死なないというのか。お前は、変になったのではないか」
 蟻田博士から、あべこべに変になったのではないかと聞かれた。世の中のことは、ずいぶんおもしろい。
(変になった?)
 新田先生は、自分でも、変になったのではないかと思った。しかし先生は、どうしても死ぬつもりはなかったのである。死ぬ気もしなかったのである。
「うん、私はきっと、生きのびて見せる!」
 先生は、顔を赤くしてどなった。


   15 大江山課長


 大江山捜査課長のにせ者が現れ、警視庁へ電話をかけ、千二少年をゆるして留置場から出すよう命令したと聞き、本物の課長は、驚きのあまり、顔色を失ったことは前にのべた。
「どうも、そうだろう。おれは、あの電話のことを後で聞いて知ったんだが、あれは警視庁の黒星だ」
 と、佐々刑事はのこのこ前に出て来た。課長はよほど驚いたものと見え、無言で、机の上に頬杖(ほおづえ)をついて考えこんでいる。
 課長からの電話だと思って、千二少年を出してやった掛りの責任者は、すっかりおそれ入ってしまって、これまた石像のように固くなって、突立っているばかり。
「だが、あの少年は、なかなかはしっこい子供だったから、うまく家へ逃げかえったんじゃないかしら。どうです、千葉へ電話をかけてみては」
 と、佐々刑事ひとりが、元気よくいろいろとしゃべる。
 課長は、相変らず、頬杖をついたまま、動こうともしない。
「どうです、課長。千葉へ電話をかけては……」
 佐々は、課長を元気づけたいと思っているようで、机の前から半身を乗出して、課長の顔をのぞきこんだ。
 大江山課長は、はっきりしない顔つきのままで、唇だけを動かした。
「それは、だめだ」
「課長、なぜだめです。この名案が……」
「名案?」課長は、じろりと上目で佐々の顔を見て、
「そんな名案があるものか。佐々(さっさ)、お前は、まだライスカレーの食い方が足りないらしいぞ」
「ははあ、ライスカレーですか。はははは」
 と、佐々は、とってつけたように笑い出した。佐々お得意のライスカレーのことを、課長が言ったので笑い出したわけであるが、佐々としては、ここで大いに笑って、課長を元気づけたい一心だった。
 だが、課長は、佐々の笑いにつられて、笑い出しはしなかった。
「そうじゃないか。なぜと言えば、もし千二が朝のうちにこの留置場から出ていったものとすれば、お昼すぎには千葉の家へかえりついているはずだ。そうだろう」
「まあ、そうですね」
「かえりつけば、千葉警察の者が、こっちへすぐ報告して来るはずだ。なぜと言えば、千二の家は、ちゃんと警官が張番をしているんだからな」
「なるほど」
「ところが、今はもう夜じゃないか。しかるに、千葉からは、何の報告も来ていない。すると、千二は、まだ自宅へかえりついていないことが、よくわかるじゃないか」
「な、なるほど」
 佐々は、なるほどの連発だ。
「そこだ、私のたいへん心配しているところは」
 と、課長は、語気を強めて言って、
「だからこれは、ひょっとすると、千二が途中で例の怪人丸木にさらわれてしまったのではあるまいか。そういう疑いが起るではないか」
 課長だけあって、考えがかなり深かった。ほんとうに課長の言うことは、中(あた)っていたのである。怪人丸木は、たしかに千二を途中でさらっていった。日比谷公園のそばに、自動車をとめておいて、千二をうまく運転台におしこんで、逃げていったのだった。
 そこで、課長は、はじめて頬杖をやめて体を立てなおすと、一同の顔を見まわし、
「どうだ管下において、少年がかどわかされていくのを見た者はないか」
「さあ、そういう報告はどうも……」
「それとも、なにか少年に関係した事件はなかったろうか」
「そうですねえ――」
 さすがに、大江山課長は、目のつけどころがちがう。千二少年が、何者かにさらわれたと知ると、すぐさま、捜査の糸口をつまみ出した。
「さあ、今日管下に起った事件の中で、少年に関係があった事件と言いますと、皆で三件あります」
 と、佐々刑事が、主任の机の上から帳面を持って来た。
 一同は、その帳面の方へ、頭をよせる。
「まず第一は、午前八時、名前のわからない十二、三歳の少年が、電車にはねとばされそうになった小学校一年生の女生徒を、踏切で助けようとして自分がはねとばされ、重傷を負いました。これは小田急沿線登戸附近の出来事です」
「それはちがうね」
 と、大江山課長は一言で、首を横に振った。
「は、ちがいますか」
「時間が午前八時では、千二少年は、まだ外に出ていないではないか」
 正にその通りである。
 その時刻なら千二少年は、まだ警視庁の留置場にいた。
「なるほど。これは私としたことが、ぼんやりしていました」
 と、佐々は頭をかきながら、また帳面をめくった。
「はい、ありました。これは午後一時です。十四歳になる竜田(たつた)良一と名乗る少年が、リヤカーに乗ったまま、昭和通で自動車に衝突、直ちに病院にはいりましたが、この原因は、信号を無視したためです。直ちに、主人に知らせたので、主人は、店員と共に駈けつけ、目下、看病中――というのがあります」
「それもいけないね」
「はあ、名前がちがっていますが、もう一度しらべ直してみませんと……」
「主人や店員が来て、落ちついて看病しているのなら、ほんとうの店員竜田良一で、千二少年が偽名しているわけではない」
「なるほど。これもだめですなあ。では、こういうのがあります。あ、これだ」
 と、佐々刑事が、大きな声を出した。
「うむ、早く読め!」
 大江山課長は、思わず体を前に乗出した。
「午後九時四十分のことです。千葉県から出て来た十三歳になる少年が、大川端から投身自殺(とうしんじさつ)――はて、おかしいぞ。大川端から、投身自殺をはかった年若い婦人があるのを、交番へ知らせるとともに、自分も飛込み、巡査と協力して助けた。いや、これは少年のお手柄だ。千葉県から、杉の苗木を積んで、東京へ売りに来たその帰り道での出来事だった」
「なるほど、それから……」
「それから――人命救助の表彰の候補者として、この少年宮本一太郎を――あっ、やっぱりいけません」
「何だ。早く名前を読めばいいのに」
 これもだめであった。
 その日、少年に関係のある事件三つが、いずれも千二少年には関係のないことがわかって、大江山課長は、がっかりしてしまった。
 佐々刑事は、きまり悪そうな顔をして、同僚のうしろへ、こそこそと姿を消しながら、
「ちぇっ、きょうは、あたまが悪いや。しようがない、すこし遅いが、これからライスカレーを作り直すことにするか」
 佐々刑事は、ライスカレーをうんと食べて、頭をよくしようと考えた。
 その時交通[#「交通」は底本では「交番」]掛(がかり)の主任が、課長の前へ進み出た。さっきから何が気になるのか、もじもじしている主任であった。
「ええ、課長。これは、あまりたいしたものではありませんが、御参考までにお耳に入れておきます。申し上げない方がいいのですが、後で万一関係があったということになりますと、申訳がありませんので……」
 と、いやに気の弱い言いかたをして、大江山課長の顔をじっと見た。
「なに、参考になることなら、どんどん報告したまえ。引込んでいることは、ないじゃないか」
 課長は、少しいらいらした気持で、この遠慮ぶかい主任をうながした。
「は、それではお話いたしますが、実は、お昼ごろのことでしたが、スピード違反の自動車がありましたので、これを白バイで追跡いたしました。すると、運転台に、妙な顔をした運転手と、そのそばに一人の少年が坐っているのを見ました」
「なあんだ。少年の助手は、このごろ、いくらでもいるよ」
「ところが、少し変なことになったのです」
「あまり、もったいぶらないで、どんどん先を話したらいいだろう」
「は、つまり、自動車は、脱兎の如く逃走いたしました」
「逃げたとは、変だな。白バイは、何をしていたのか」
「いえ、自動車が、猛烈なスピードをあげて逃げてしまったのです」
「逃しては、話にならないね」
「ところが、追いついたのであります」
「どうも君は、話し方を知らないね」
「いえ、課長さんが、もう少し黙っていて下さると、話しよいのですが、むやみに、おいそがせになるもんですから困ります」
「何だ。手のかかることだね。よろしい、では、君が喋り終えるまで、こっちは、一言も喋らない。だが、もっと要領よく、そうしてもっと早く喋ってくれ。きょうは、いつになく気が短いのでね」
「は、それでは……」
 と、主任は、例の追跡談をくわしく語り出したのであった。ついにその自動車は、麻布の崖の上から下に落ちてしまったことや、運転手が、まっ逆さまに落ちる自動車の中から、半身を出して、こっちをにらんだことなどを……。
 交通主任の口は、なかなか重くて、話は一向スピードを上げなかった。しかもその話はたいへん詳しいので、話はなかなかおしまいにならないのであった。
 だが、さっきまで、自分でいらいらしているんだと叫んでいた大江山課長は、どうしたわけか、別人のように、たいへん熱心に、この話に耳をかたむけているのだった。もっと早く喋れとも、もっと要領よく喋れとも、どっちとも言わなかった。
「……とにかく、不思議なことです。崖下へいって、焼けおちた自動車の車体をひっくりかえして見ましたが、運転手の死体はおろか、骨一本も、そこには見当らなかったのですからね」
 と、交通主任は、その時のことを思い出したらしく、ここでもう一度不思議そうな思い入れをして、首をかしげた。
「で、少年の死体は?」
 課長は、やっと一言、口を出した。
「実に、不思議という外ありません。運転台に一しょに乗っていたはずのその少年の死体も、やはり見当らないのです。全く、こんな不思議なことは、生まれてはじめてです」
 交通主任は、「不思議」を盛にくりかえすのだった。
「まさか、君たちが見あやまったのではないだろうね」
「見あやまり? そ、そんなことは、けっしてありません」
 交通主任は、これを報告して来た白バイの巡査をたいへん信用していたので、課長から、見あやまりではないかと言われると、一生けんめいにべんかいした。また、墜落現場へは、自分もいってみて、共に二人の死骸をさがしまわったのだった。
「不思議だ。どんなに考えても、ありそうな話だとは思われない」
 課長は、腹立たしいような顔をして、握り合わせた両手で、とんとんと机の上を叩いた。
「課長、この話ばかりは、まじめに聞いていられませんよ。まるで西洋の大魔術みたいなものですからねえ」
 いつの間にか、佐々刑事が、前へ出て来て、あたりはばからぬ大きな声をたてた。
「不思議だ」
 課長は、一言、また不思議だと言った。そうして、とんとんと、机の上をたたきつづける。
「この大魔術に、なんという名前を、つけますかねえ。ええと、秘法公開、空中消身大魔術! どうです。なかなかいい名前だ」
 佐々刑事は、ひとり喜んでいる。
「不思議だ!」
 と、課長は、また言って、頤(あご)の先をつまんだ。
「だが、この世の中に、種のない大魔術は、あるはずがない。そうだ、この事件なんか、とても怪人丸木くさいところがあるぞ」
 課長は、すっくと、立ちあがった。
「怪人丸木ですって?」
 一同は、言合わせたように、声をそろえて、丸木の名を言った。
「そうだ。運転をしていたのが、怪人丸木で、運転台に乗せられていた少年が、千二であった――と、こう考えてみるのも、魔術であろうか」
「えっ、千二少年に怪人丸木!」
 と、一同のおどろきは、再び爆発した。事件が、また再び、千二少年の行方のところへ戻って来たのであった。
「そうだ。あいつなら、魔術ぐらいは、使うであろう。だが、使わば使え。魔術の種を、こっちでもって、あばいてやる。きっと、その魔術の種をつきとめるぞ」
 課長は、例の自動車の墜落事件を、丸木のやった魔術だと、きめてかかった。たしかにそれは誤りではなかった。怪人丸木のやった仕事にちがいなかったのだから。課長はいかにして、その魔術をとくであろうか。
 課長は、車を命じた。
 恐しい自動車惨事のあった崖下は、警官によって守られていた。
 まっくらな夜を、火がもえていた。
 まだ、惨事の自動車がもえつづけているのかと思われたが、そうではなくて、焚火であった。あたりを警戒するためと、そうして惨事の現場を照らすためだった。
 焚火は、すぐそばを流れている小川にうつって、火が二段に見えた。
 大江山課長は、部下をしたがえて、焚火の方へ近づいた。
 そこを守っていた警官が、やっと気がついて、課長の方へ、さっと手をあげて敬礼をした。
「やあ、ごくろう。崖の上からおっこちた自動車というのは、これかね」
「はい、この縄ばりをしてあるのが、それであります」
「ふん、ずいぶん、ひどくなったものだね。もとの形が、さっぱりわからないくらいだ」
「そうであります。なにしろ、崖の高さは七、八十メートルもありますので、あれからおっこちたのでは、とてもたまりません。その上、車体はごろごろ転がりながら、すぐ発火いたしました」
「転がるところを見ていたのかね」
「はい、私は、崖の上から、それを見ていたのであります」
「そうか。乗っていた者の死骸が、見当らないという話だね」
「はい。死骸はおろか、骨一本見当らないのです。よく焼けてしまったものですなあ」
「……」
 課長は、それに答えないで、懐中電灯をつけて、あたりを照らした。焼けくずれた自動車のエンジンが、地面をはっているような形をしている。そこから二、三メートル先は、小川であった。
「ふうん、これは、どうも腑に落ちないことだらけだ」
「どこが、腑におちないというのですか」
 闇の中から、ぬっと顔を出したのは、佐々刑事であった。彼は、大江山課長が、何か言出すのを待っていたようであった。
「おお、佐々か」
 と、課長は、後を振返り、
「どうも腑におちないことがあるんだ。ガソリンに火がついて、崖の上からおちた自動車を焼いたことは、よくわかるが、乗っていた人間の体はもちろん、骨一本さえ見当らないのだ。へんではないか」
「だって、課長さん。ガソリンに火がついて、たいへんはげしく燃えたため、骨もなんにも、すっかり跡形なく焼けてしまったんではないのですか」
「ガソリンが燃えたくらいで、骨が跡形なくなってしまうだろうか。そんなことはない。骨はもちろん残るはずだ。まあ、黒焦死体がころがっているというのが、あたりまえだ」
「じゃあ、ガソリンではなく、もっと強く燃えるものがあって、それが、骨まで焼いてしまったのじゃありませんかね。たとえば、焼夷弾(しょういだん)みたいなものが、自動車に積んであったと考えてはどうです」
「それもおもしろい考え方だ。しかし、たとえ焼夷弾が燃出したとしても、そこから少し離れた所にあるものは、焼け残るはずだし、ことに、骨が一本残らず燃えてしまって、灰も残っていないというのは、ちと変だね」
 課長は、小首をかしげた。
 佐々刑事は、いらいらして来た。
「課長。どうも変だというだけじゃ、困りますねえ。で、その事について何かいい答えをもっているのですか」
「うん。だから私は、こう考えてみた。とにかく、この自動車に乗っていた人間は、生きていると思う」
「えっ、生きている。まさか――」
 佐々刑事は、あまりのことに、あいた口がふさがらないといった形だった。
「課長、あなたのおっしゃることの方が、変ですねえ。あのとおり、高い崖の上から自動車が、ここへおちたのですよ。たとえ、ガソリンに火がつかなくとも、人間は脳震盪(のうしんとう)かなんかを起して、死んでしまうはずです。生ているなんてことは、考えられませんなあ」
 そう言って、佐々刑事は、課長の顔を、じっとのぞきこんだ。課長は、どうかしているのではないかと思ったのである。
「だが、佐々。骨が一本も見あたらないのだから、私は、乗っていた人間が、ここで焼け死んだとは思われない」
「だって、課長、――」
「もちろん、私にも、あの高い崖の上から人間が落ちて、それで、命が助るものとは考えない。しかし、骨が一本も見当らないのだから、崖からおちた人間は、命が助って、どこかへいってしまったとしか考えられないのだよ。不思議というほかない」
「そんな無茶な考えはないですよ、課長。崖の上からおちた人間が、命を全うしたばかりか、そのままどこかへ行ってしまったというのは」
「やむを得ない。理窟では、そうなるのだよ」
「それにしても、変ですよ。それゃ、人間の体が、鋼鉄造りであれば、助るかもしれません。骨といってもたいして固くないし、柔かい肉や皮で出来ている人間が、あの高い崖の上からおちて、死なないで、すぐさまどこかへ行ってしまったなどと……。あっはっはっ。これはどうもおかしい。あっはっはっ」
 佐々は、大きなこえで笑い出した。


   16 大発見


 同じ夜のことであった。
 崖の上に並んでいる蟻田博士の天文台では、新田先生が、昼間からぶっ通しで、望遠鏡をのぞいていた。
「おい、新田。お前は、なかなかがんばり屋だのう。たのもしい奴じゃ」
 と、蟻田博士が、いつになく新田先生をほめて、椅子から立って来た。博士もなかなかがんばり屋で、この天文台へかえって来てからは、ぶっ通しで、本を読んだり、しきりに鉛筆をはしらせて、むずかしい計算をするなど、勉強をつづけていたのであるが、その博士が、今になって、やっと新田先生の熱心さに気がついたのであった。
「おほめにあずかって、恐れ入ります。しかし私は、モロー彗星の衝突が起っても、何とかして地球の人類を助けたいのです。それを考えると、じっとしていられないのです」
 新田先生は、その問題のため、全く熱中していたのである。千二少年が無実の罪におちているのを早く助け出したいと思っていた先生であるが、博士からモロー彗星のことを聞くと、更にこの方の事件がたいへん急に迫った問題だと考えたので、何とかして、人類を惨禍から救う道がないかと、その糸口をみつけることに熱中していたわけであった。
 何しろ、天文のことについては、蟻田博士が、世界中で一番よく知っている。博士のそばにいる間に、せめて問題解決の糸口でも見つけておかないと、後がたいへんである。気まぐれな蟻田博士は、いつまた気がかわって、どこかへ姿をかくしてしまうかもしれないのだ。今のうちだと思って、新田先生は、しきりに勉強をしているわけだった。
 実は、こうして、望遠鏡ばかりのぞいていることについては、先生に一つの考えが、あってのことだった。
 新田先生の考えというのは、外でもない。それは、天空に飛去ったはずの火星のボートの姿を、この望遠鏡の中にとらえることなのである。
 火星のボートの話は、うそではないと先生は信じていた。あの千二少年が、うそをつくような少年ではないし、また千二少年が、枯尾花を幽霊と見ちがえるような、そんな臆病者でもないと信じていたのである。
 火星のボートは、一たん天狗岩の上に下りたが、それから間もなく姿を消してしまった。一体どうしたのであろうか。その火星のボートは?
 新田先生の思うには、火星のボートは、千二の父親の見ている目の前で、天狗岩から天空はるかに飛去ったのにちがいない。火柱が見えたというのは、火星のボートというのは、じつはロケットであって、ロケットのお尻から強くふきだすガスが、火柱に見えたのであろうと考えていた。
 しかしこの方は、なにぶんにもおかしくなった千蔵の言うことだから、あてにはならない。
 それで、とにかく例の天狗岩に姿をあらわし、そうしてまた天狗岩から飛去ったものが火星のボートであるとしたら、それは地球をあとに、火星へどんどん帰っていったにちがいない。
 ところで、火星と地球とのへだたりは、たいへん遠い。火星のボートが、火星へかえりつくのには、どんなに早く天空を飛んでいったにしろ、一週間や二週間はかかるであろう。そういうわけなら蟻田博士の自慢の大望遠鏡で宇宙をさがしていると、きっとその火星のボートといわれるものが、見つかるにちがいない。見つかれば、そこではじめて、火星のボートであったことが、ほんとうだとわかるし、さらにすすんで、火星のボートの秘密もいろいろとわかるにちがいない。
「何を観測しているのかね」
 と、蟻田博士は、望遠鏡のそばへ寄って来た。
「ああ、博士。ちょっと待って下さい」
 新田先生は、そう言って、博士をとどめた。ちょうどその時、新田先生は、望遠鏡の中に、赤い点のようなものが、ぶるぶるふるえながら、動いていくのを見つけていたのであった。
(これが、例の火星のボートではないかしらん)
 新田先生は、胸をわくわくおどらせながら、しきりに接眼レンズを前後に動かした。
 すると、例の赤い点のようなものが、だんだんはっきりして来て、やがて砲弾をうしろから見るような形をしていることや、その尾部からガスらしいものを、しゅうしゅうとふき出していることまでが、はっきり見えて来たのであった。
「あっ、見つけた」
 新田先生は、思わず声をあげた。たしかに火星のボートといわれる一種のロケットであった。しきりに上下左右にゆれてはいるが、火星のボートは、いつも同じ尾部を見せていた。スピードをあげ、どんどん前進していくところらしい。その行手は、やはり火星なのであろうか。
「何を見つけたのかね。ちょいと、望遠鏡をわしに貸しなさい」
 蟻田博士は、新田先生の体をおしのけるようにして、望遠鏡に目をあてた。そうして、しばらくピントを直していたが、そのうちに、大きな声をあげた。
「おや、これはめずらしいものにお目にかかるぞ」
 新田先生は、博士のうしろから、
「博士、そこに見えている、動く物体は、一体何でしょうか」
 と、せきこんで質問の矢を放った。
「これかい。これは宇宙艦さ」
 博士は、それを宇宙艦と呼んだ。
 怪人丸木は、それを火星のボートと言ったのである。
 新田先生は、口の中で、
(なに、宇宙艦! 宇宙艦とは?)
 と、くりかえした。宇宙を走るから、宇宙艦というのであろうか。
 博士は、望遠鏡に食いついたようになって、しきりにその宇宙艦のあとを目でおいかけている。
「おお、まちがいなく宇宙艦だ」
「博士、宇宙艦というのは何ですか」
「宇宙艦は何だと聞くのかね。宇宙艦は、わしの友人が、一度報告書に書いたことがあった。しかし、誰もその友人の報告書を信用しなかったし、その友人はまもなく急死してしまったのだよ。結局、その友人は、脳に異状があったため、ありもしないそんな変なものを見たように、報告したのであろうということだった。わしも、正直に言えば、その友人が、変になっていたのだと思っていた。が、これはどうだ。その友人の報告書に書いてあったとおりの形をした宇宙艦が、今レンズの向こうに見えているではないか。しかも、さかんにうごいている!」
 博士は、すっかりその宇宙艦に、気をうばわれている様子であった。
「博士、その宇宙艦というのは、どこの国で作ったものですか」
「作った国は、どこだというのかね。さあ、わしはまだよく研究していないが、さっき話したわしの友人は、ドイツの空軍研究所が、試験的に作ったものであろうと書いてあった。もっとも、ドイツの当局では、そんなばかな話はないと、さかんにうち消していたがね」
「博士は、あの宇宙艦が、ドイツで出来ると思っておられますか」
「いや、そうは思わない」
 蟻田博士は、望遠鏡の中にうごめく宇宙艦を、しきりに観察しながら、新田先生と話を続けている。
 博士は、その宇宙艦が、いつだか博士の友人のドイツ人が報告書にのせ、人々の注意をうながした宇宙艦だと言った。新田先生は、その宇宙艦は、ドイツ人に作れるかと、重ねて尋ねたが、博士は、いや、ドイツ人には作れないであろうと答えたのだった。
 そこで、新田先生は、急に頭の血管が、ちぢまったように感じた。先生はせきこんで博士に尋ねた。
「じゃあ博士、あの宇宙艦は、どこの国で作ったものだとお考えになるんですか」
「うむ。さあ、そのことだが……」
 博士は、すぐには、返事をしなかった。そうして、なおもしきりに、望遠鏡のレンズを動かしつづけた。
「博士、それは一体、どうなんでしょうか」
「うむ、待ってくれ」
 と、博士は、苦しそうにうめいた。
 新田先生はいらだって、もうだまっていられない様子だった。彼は、博士の洋服をつかむと、
「博士、私は、あの宇宙艦が、どこで作られたか、知っているのです」
「なんじゃ、お前が知っているって。ほほう、そんなはずはない。なにをお前は、ばかばかしいことを言出すのじゃ。あははは」
「いや、博士、私は申します。あれは、火星国でつくられた宇宙艦なのです。そうして、あの宇宙艦は、これまでにたびたび、この地球にやって来たことがあるのです。いかがですか、博士」
「ややっ、どうしてお前は、そんなことを知っているのか」
 博士は始めて望遠鏡から目を離すと、新田先生の顔を、穴のあくほど、じっと見すえたのであった。
 博士の目は、ゴムまりのように大きく開いて、新田先生を見すえた。
「おい新田、お前はどこでそんなことを聞きこんだのか。それともお前は、おかしくなったのではないか」

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