四次元漂流
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著者名:海野十三 

「つまり、何物かがこの部屋にいて、この窓を明けたんです。ああ、そうだ。それから彼は外へ飛び下りた、庭へですよ。そして外からこの硝子戸を元のように閉めた。だからこの硝子戸には、内側にかけ金がありながら、ほらこのようにかけ金が外れているのです。ねえ、木見さんの小父さん。この窓のかけ金は、いつもちゃんとかけてあるんですね」
「そうだ。いつもかけてある。厳重に戸締(とじま)りしてありました」
「すると、その窓を明けて、誰か外へ逃げだしたんだな」
「幽霊が外へ逃げだしたんですか」
「幽霊じゃないですよ。これはかけ金を外すくらいだから、生きている人間ですよ。まだその辺に隠れているかもしれない。皆さん、早く外へでて、見つけて下さい」
 道夫がいった。
「そうだ。皆さん。半数は廊下を通って、庭へでてください。その頃、残りの半分はこの窓から庭へ飛び下りますから」
 隣組の人たちは、まだ事情がはっきり呑(の)みこめないが、とにかく二組にわかれ、一組は廊下から表座敷を通りぬけて庭へ廻った。研究室に残った一組は硝子窓の下に飛びだす機会を待っていた。と、庭の方から叫び声が聞えた。
「いたぞ」
「こら、待てッ」
「逃がすな。皆、こい」
 この声に、研究室にいた一組も、窓を開いて、薄暗い庭へ飛び下りた。そのとき、庭から廻った一組は、松の木の下をもぐって往来へ向かっている気配であった。
 道夫は、一番後から窓を越して庭へ下りた。道夫の手には、携帯電灯が光っていた。それは研究室の雪子の机の上にあったもので、これ幸いと持ってでたのであった。
 往来へでてみると、人々はがやがやいいながら、だんだん戻ってきた。
「暗いものだからね、とうとう見失ってしまった」
「相手が幽霊じゃ、もともとぼんやりしか見えないものですからねえ」
「やっぱり幽霊ですかね。私は、足音を聞いたように思いますよ。幽霊に足音はおかしいですからねえ。かねて幽霊には足がないと聞いていますからねえ」
「いや、私は足音を聞かなかった。そして幽霊を今田さんの塀のところまで追いつめたんだが、とたんに私は足を滑(すべ)らせて、はっとしたんですがね、それでおしまいでした。もう幽霊の姿はどこにも見えなかった」
「この眼鏡は、どなたの眼鏡でしょうか」
 そういって、黒っぽい硝子の入った枠(わく)の重い眼鏡を一同の上に出してみせたのは道夫だった。彼はそれを松の木の下で拾ったのである。
 誰もその眼鏡を、自分のものだとこたえる者はなかった。道夫は、その眼鏡の落し主のことを心の中に問題にしていたが、一同はそんな事を問題にとりあげてはいなかった。そして幽霊か生きている人間かの議論が、いつまでも賑(にぎや)かに続いた。
 道夫はもう一度研究室へ引返したが、そのとき彼は一つの重大なる発見をした。それは部屋の中央の丸卓子(テーブル)の上に立てて並べてあった雪子学士の研究ノート八冊が紛失していることだった。道夫はあれやこれやを考え合わせ、ある一つの推定を心の中に思いついたのだった。
 彼はもう一度庭にでて、携帯電灯を照らしながら、やわらかい土の上を熱心に探しまわった。そして例の松の木の下へきたとき、
「うわあ、大事な足跡がめちゃめちゃになった」
 と、歎きの声をあげた。
 が、彼はしばらくして何か新発見をしたらしく、ポケットから紐をだして、地上にあてた。そこには一つの大きな新しい足跡がついていた。彼はその寸法を綿密にはかった上で、周囲に木の枝を刺して目印にした。おそらく明日あかるくなったら、その足形を紙の上にうつしとるつもりなのであろう。

   道夫の憤激(ふんげき)

 その翌日、木見邸は係官一行を迎えた。
 研究室や廊下や庭や往来などの現場が隣組総出の説明と共に、一応念入りに調べられた。
 その結果、係官は木見武平を始め一同に対し、さらに気をつけるように命令した上で、
「しかし幽霊説は問題にしませんよ。そういう荒唐無稽(こうとうむけい)なことの捜査は、本庁ではやりませんよ。だから、お嬢さんの失踪先をなお一層探すことと、川北という教師の行方及びその素行調査をすること。この二つの現実なる事件について、できるだけのことをします。あなた方も、今後は気をしずめて、もっと冷静に物を見、そして具体的な証拠をおさえて、報告するようにして下さい」
 と、さとした。
 隣組の中には、この訓戒を納得した者もいたが、また反対に不満に感じた者が少くなかった。係官の口ぶりでは、この隣組の一同が、さも迷信家の集まりであって、この世にありもしない幽霊の幻影を見て、愚かにもさわぎたてているという風に聞えたからである。とにかく係官のこのような態度から推(お)して考えると、係官はあまりこの事件について熱心ではないらしい。
 雪子の両親の失望、隣組の人々の不満、そして道夫の憤激――道夫の憤激は、彼が拾った色眼鏡を係官に示す機会を遂に失ってしまった。もちろん、彼が胸に今抱いているある推定についても、口を開かせはしなかった。道夫が、現場から拾った物件について、係官へ報告しなかったことは、彼が義務をおこたったことには違いなかったけれども、道夫をして進んで義務を果させなかったほど悪い印象を与えた側には責任がないとはいえないであろう。
 とにかく道夫の憤激は大きく、
(よし。こうなったら、僕はきっとこの真相をさがしてみせる。係官を成程(なるほど)といわせてみせるぞ)
 と、胸にかたくちかったのであった。
 それから後の道夫は、まったく気の毒なほど淋(さび)しい立場にあった。
 川北先生は、何日たっても、自分の住居(すまい)にも帰らず、学校にも姿を見せなかった。先生の素行についてある疑いを持ったらしいその筋では、二三日先生の住居と学校とに刑事を張込ませたが、先生がいつまでたっても戻ってこないとわかると、その警戒をといた。
 学校には、道夫の同情者が多かった。校長先生を始め諸先生は何回も道夫について同じことをたずねた。が、格別いい手段も考えつかなかったように見える。道夫の級友たちこそ、真剣に道夫に同情した。そして道夫のために共同の捜査を開始することになった。だがこれも、事実はあまり具体的に進行しなかった。というのは、生徒たちにはあまりに手ごわすぎる事件内容であったので、どうすることもできなかった。
 こうして事件は、八方ふさがりの迷宮入りをしたかに思われるに至った。
 それは川北先生の失踪からちょうど七日目の午後のことであるが、道夫は学校から帰ると、例の重い心と事件解決への惻心(そくしん)とを抱いて、ひとりで広い多摩川べりを歩いていた。彼の胸の中には、一つの具体的な懸案があった。それはいつだか川北先生と共に、家の裏でふんづかまえたことのある怪しい浮浪者の老人に出会いたいことだった。
 あの怪老人は今となって考えると、雪子学士の失踪について何事かを知っている有力なる人物だった。気味のわるいそして危険な相手だが、何とか話しこめばこの事件について道夫の知らない手がかりがえられるかもしれないと思う。しかも道夫はその老人に対して新しい問題を持っているのだった。それはあのさわぎの日、松の木の下で拾った色眼鏡は、この老人の持ち物ではないかという疑いだ。万一それが当っていたら、あのどさくさまぎれに研究室にしのび入り、雪子学士の研究ノート八冊をうばい窓から逃げだした人物こそ、この怪老人に違いないという結論になるはずだった。
 そんなことを考えながら、道夫は堤(どて)の上をぶらぶら歩いていた。そのとき彼が、ふと堤の下から一条の煙があがっているのに目をとめ、その煙をつたわって何気なく、その煙の源(みなもと)を見ると、一人の男が焚火(たきび)をして、何か物を煮ているのだった。道夫は、いきなり堤下へ飛び下りた。
「おじいさん。しばらくだったね」
 相手は、ぎょっとして道夫の顔を仰(あお)いだ。道夫はそのとき老人が髯面(ひげづら)に色眼鏡をかけているのを見て取った。だがその色眼鏡は、かねて見覚えのあるものとは違い、枠の細いものであることに気がついた。さてはと道夫の胸はおどった。
 老人はつと立って、例の不恰好(ぶかっこう)な厚着をした身体をぶるんとふるわせると、物もいわずに逃げだした。
「話があるんだ。待ちなさい。おじいさん」
 道夫は後から追いかけた。が老人の足は意外に速く、道夫の方は堤の雑草に足を取られそうで、気が気ではなかった。そのうちに道夫はあっと声をあげた。思いがけなく穴ぼこに落ちこんだのである。その穴は意外に深く、彼は落ち込む途中でいやというほど頭を打った。どこかで老人のあざけり笑うらしい声が聞えた。と、道夫は気が遠くなってしまった。

   怪紳士

 道夫は、ふっと悪夢から目ざめた。
 いじ悪い数頭の犬にとりかこまれて、自分はあっちへ引張られ、こっちへおわれて、はてしない乱闘をつづけているうちに、ふとこの悪夢がさめたのだった。全身におぼえるけだるさ、そしてずきんずきんと頭のしんが痛む。
「おお、気がついたようだよ。道夫君、元気をだしたまえ。そしてまずこれをのむのだ。気持がよくなるよ」
 しっかりした男の声だ。道夫は、まだ夢心地で声のする方へ、ものうい眼を向けた。
(川北先生かしらん)
 と思ったが、道夫の日にうつった声の主(ぬし)の姿は、川北先生ではなかった。先生よりはだいぶん年上の人で、こい緑色の背広を着た面長(おもなが)の背の高い紳士だった。その紳士は、左手を道夫の背中に入れて長椅子から抱きおこし、そして右手にコップをもって道夫の口へ近づけた。
 道夫はひじょうにのどがかわいていたので、いわれるままにそのコップから、中の液体をのんだ。甘ずっぱい、そしてさわやかな、刺戟(しげき)のあるすばらしい飲料だった。
「ああ、おいしい……」
 道夫は、思わずそういった。
「あと五分間もすれば、すっかり元気になるよ。その間に、僕は君のため、何か食べるものを作ってこよう」
 そういって紳士は、道夫を長椅子へそっとねかすと、部屋をでていった。
 道夫が元気をとりもどすまでには五分間もかからなかった。彼は間もなく起上った。身体のだるさが消え、頭痛もかるくなった。なんというすばらしい飲料だったことか。もう一ぱい呑ませてくれるといいんだがと、道夫は舌をだして唇のまわりをなめた。
 そのとき、ぽっぽっと、鳩時計が時をうちはじめた。八時であった。八時! すると午前八時か、今は。……いつの間にか一夜は明け放れてしまったと見える。家では心配しているだろう。いったいどうしてこんなところへきたのか。そうだ多摩川の堤(どて)の下に、例の老人の浮浪者を見つけて追いかけていくうちに、あっと思う間もなくおとし穴へ落ちて……それから先の記憶がない。
 はて、いったいこの家はどこの家だろうか。そしてさっきでてきて、おいしい飲料を呑ませてくれた紳士は、いったい何者であろうか。道夫は、そこであらためて部屋の中をものめずらしげにぐるぐる見まわした。
 りっぱな洋間だ。電気ストーブをはめこんだ壁、しぶい蔦(つた)の模様の壁紙、牧場の朝を画いてあるうつくしい油絵の大きな額縁(がくぶち)、暖炉(だんろ)の上の大理石の棚の上には、黄金の台の上に、奈良朝時代のものらしい木彫の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)が立っている。
 そういう調和のとれた隙のないこの洋間に、ただ一つ不調和に見えるものがあった。それは、部屋の奥にふかく垂れ下っている、紫色の重いカーテンだった。そのカーテンは、どうやらその奥にある別の部屋の入口をかくしているものらしい。
 と、部屋に人の気配がした。紫のカーテンに目を釘づけにしていた道夫は、はっとして、後をふりむいた。例の紳士が、銀色の盆の上に、焼いたパンと、卵の目玉焼きと、それから大きなコップに入った牛乳とをならべたものを持って道夫の方へ近づき、小卓子(テーブル)の上においた。
「さあおあがり、お腹(なか)がすいたろう」
「あなたは、いったいどなたですか。そしてここはどこです。僕はどうしてこんなところへきたのでしょうか」
 道夫は、食欲をひどく感じたけれど、その前にたしかめておくべきことをたしかめないでは、盆の方へ手をだすつもりはなかった。すると紳士はにっこり笑って、
「穴の中で、君がうなっていたから、引っぱりあげて、家へつれてきたのさ。くわしいことはゆっくり話そう。まず食事をしたまえ」
 といって、自分はポケットから煙草(たばこ)をだしてライターでかちりと火をつけた。
 道夫は、もっとがんばろうかとも思ったが、なにしろお腹はぺこぺこで、そして目の前の卓上にはおいしそうな卵の目玉焼きが、道夫の大好きなハムの上にゆうゆうと湯気をあげているので、もうがまんができなくて、思い切っていただいてしまうことにした。毒が入っていはしまいかとも心配になったがまあそんなことは多分ないであろうとおもって、フォークとナイフとを手にとった。
 実においしい。しばらく道夫は半(なか)ば夢中でたべていたがそのうちふと気がついて、ひそかに自分の左に座って煙草をふかしているかの紳士の方へ注意を向けた。
 その紳士は、ねむったようにしずかに椅子に身体をうずめていた。が、もちろん彼はねむっているのではなかった。煙草の煙は、さかんにたちのぼっていたし、それにかの紳士は膝(ひざ)の上に本をひろげて読みふけっているのであった。どんな本? 道夫は好奇心をつのらせて、その本の頁(ページ)の上を見た。すると、それは文字を印刷した本ではなく、ペンでもってこまかい外国の文字が、ぎっちり書きこんであった。それと同時に道夫は、はっと気がついた。
(ああ、あれは雪子姉さんの研究ノートじゃないんだろうか?)
 もしそうだとしたら、問題の研究ノートを所有しているこの怪紳士は一体何物であろうか。フォークもナイフも、いつの間にか道夫の手にしっかり握られたまま動かなくなっていた。

   奇妙な実験

「ははは、びっくりしているね、道夫君。僕が木見さんのお嬢さんの研究ノートをひろげて見ているものだから……」
 怪紳士は、そういってにやりと笑った。道夫は声もでなかった。背中がぞっと寒くなった。
「元気になったところで、われわれの仕事を急ごうね」
「……」
「道夫君。この際つまらんことは一切考えたり、迷ったりしないことだ。われわれは一直線に木見学士を救いだすことに進まねばならない。君は僕のさしずするとおりにやってくれるね」
「はあ、でも……」
「でもそれがよくない。疑ったり迷ったりしていると、もう間に合わないかもしれない」
 と怪紳士は鳩時計の方をちらりと見て「さあすぐ始めるのだ。こっちの部屋へきてくれたまえ」
 怪紳士は道夫に文句をいう隙をあたえずに、先へ立って、さっさと紫のカーテンの奥に消えた。
「道夫君。早くきたまえ」
 紫のカーテンの奥に何があるのだろうか、と、うす気味わるく足をはこびかねている道夫の耳に、怪紳士の強い声が聞えた。もう仕方がないと、道夫は覚悟をきめてカーテンをかき分けた。
 それは意外なる光景であった。その奥部屋は四坪ほどの狭いものだったが、部屋はがらんとして中央に机が一つ、それに向き合った椅子が二個、たったそれだけであった。そして右の方に窓が一つそこから眩(まぶ)しいほどの光線が入っている。
「君は、こっちの椅子へかけたまえ」
 怪紳士は、手前の椅子を道夫に指した。道夫はいわれるとおり腰を下ろした。椅子は板敷きのもので、道夫の足の先はぶらんと宙に浮いた。怪紳士はさっきから読んでいた雪子学士の研究ノートをひろげたまま机の上においた。それは道夫に対して文字があべこべになるように反対におかれた。
「それではカーテンをしめるよ」
「待って下さい。どうするのですか、僕は……」
 道夫は不安にたえきれなくなって、遂に爆発するように叫んだ。
「君は何にも考えないのがいいのだ。カーテンを引けばこの部屋は暗黒になる。君はそのままじっと椅子に腰をかけていればいいのだ。なにごとも予期してはいけない。しかしなにごとかが起ったら君はおどろかずさわがず、つとめて心を平静に保って、向き合っていればよい。君から決して自分から働きかけては駄目だ。相手が何かいったら、それにこたえればいいのだ」
「相手というと誰ですか。あなたですか」
「いや、なにごとも予期してはいけないのだ……そしてもういい頃になったら、僕がもういいというからね、それまでは君は椅子から立上ってはいけないよ。分ったね」
「分りました。でも、いや、やりましょう」
 道夫ははらをきめて、この怪紳士のいうことをきくことにした。今いやだといってみたところで、この怪紳士は道夫をゆるしてはなしてはくれないだろう。一見やさしそうに見えて、その実この怪紳士は一から十まで道夫の行動をしばっているのだ。この怪紳士の手からぬけだすのは容易なことでないと分った。
 カーテンは、明るい窓に引かれ、室内はまったくの暗闇と化した。聞えるのは怪紳士の靴がかすかに床をする音ばかりであった。
 道夫は、机の向うの空席の椅子に、かの怪紳士が腰をかけるのだろうと予期していた。ところが彼の靴音はその椅子の方へはいかず、道夫の背後を忍び足で通りすぎた。やがて紫のカーテンの金具が小さく鳴った。足音はそれっきり聞えなくなった。怪紳士はこの暗室からでていってしまったのだった。ぞっとする寒気が再び道夫の背筋をおそった。
(僕ひとりをこの部屋において、どうしようというのだろう)
 不安が入道雲のように膨張していった。動悸(どうき)がはげしくうちだした。のどがしめつけられ、息がつまりそうである。道夫は一声わめいた上でこの部屋から逃げだしたい衝動にかられたが、なぜか足も腰もすくんでしまって自由がきかなかった。彼は催眠術をかけられた人のように、そのままじっとしているより外なかった。
 五分、十分。……何事も起らない。部屋は完全なる暗黒である。五感に感ずるものは、ほのかなる香料の匂(にお)いと、そして大きくひびく道夫自身の心臓の音だけだった。
 十五分……そして多分二十分も経(へ)た。道夫が椅子の上で身体をちょっと動かすと、ぎいっと椅子が鳴った。それはびっくりするほどの高い音をたてた。
 三十分……もうたえられない。我慢ができない!
 と、そのときだった。隣室の鳩時計がぽうっぽうっと、九時をうった。まだ九時かといぶかる折しも続いてどこかの部屋で、じりじりと電話の呼びだしのベルが鳴りだした。道夫はそれを聞くとすくわれたように思った。
 受話器を取上げたらしく、返事をする声が聞えた。
 その声はまぎれもなく例の怪紳士の声である。
「えっ、本当? もっとはっきりいって……うむ、それは重大だ。場所はどこ?……えっ、そうか。そうか。……よろしい、すぐでかけます……」
 何事か重大なことがらの知らせが怪紳士のところへ届いた様子である。何事であろうか?

   暗室の怪

 ちょっと間を置いて、道夫の背後のカーテンが開かれ、部屋がすこし明るくなった。と道夫は怪紳士から、こっちの部屋へくるようにと呼ばれた。
 放免(ほうめん)だ。暗室の怪業から放免されたのだ。道夫は大よろこびで椅子から下りて、元の明るい洋間へ移った。
 怪紳士の顔を道夫がそっと盗見(ぬすみみ)すると、たしかに心がいらいらしているらしく見えた。しかし彼はそこを一所けんめいにこらえている様子だ。
「どうしたんですか。僕の仕事はもうすんだのですか」
 道夫は、すこし皮肉がいいたくなってそういった。
「うむ、失敗だッ」
 怪紳士は、かんではきだすようにいったが、そのときしまった、そんなことをいうんじゃなかったという顔つきになり、道夫の方に鋭い目を走らせ、
「いや、一度や二度じゃうまくいかないだろう。それはそうと……」
 と怪紳士はいいかけて、更に自分の感情を殺しながら、
「僕はこれからちょっとでかけなければならんが、詳しい話は帰ってきてからにするとして……、道夫君も疲れたことだろう。ちょうどコーヒーが沸(わ)いたから、甘くしてごちそうしようね」
 そういって怪紳士は、卓子(テーブル)の上に置いてある湯気の立っているコーヒー沸しを持上げ、銀の盆の上に並んでいた空のコーヒー茶碗の一つを道夫の前に置き、その中にこげ茶色の香の高い液体をついだ。
「砂糖とミルクはそこにあるから、好きなほど入れておあがり」
 そういって怪紳士は、もう一つのコーヒー茶碗にコーヒーをついで、自分の椅子の方に引寄せた。そして角砂糖を一つ入れると、がらがらと匙(さじ)でかきまわして、うまそうにのんだ。
「どうぞ、遠慮しないで……」
 道夫はすすめられるままに、自分の前のコーヒー茶碗に角砂糖を三つ入れ、それにミルクをたっぷり入れた上で、それをのんだ。たいへん甘い。道夫はつづけて、がぶがぶとのんだ。
 道夫は、自分がそれからコーヒー茶碗を下に置いたことを記憶していない。急に頭がぼうっとしてきたと思ったら、非常に睡(ねむ)くなった。これはいけないと思って叫ぼうとしたが、果して声がでたかどうか疑問である。
 道夫の気がつかないことが、それから後のその洋間においておこなわれた。怪紳士が呼鈴(よびりん)を押すと、二人の男が戸口から入ってきた。そして眠りこけている道夫の頭の方と足の方を持って、室外へ搬(はこ)びだしてしまった。
 後には怪紳士ひとりが残ったが、腕時計をちょっと見て何か考えていた。が、すぐ決心がついたと見え、紫色のカーテンとは反対の側の小さい扉をあけて、その奥に消えた。
 紳士はすぐ洋間へ引返してきた。そのとき彼は、薄い鼠色のコートを着、頭には同じ色の形のよい中折帽子をのせていた。部屋のまん中で立停(たちどま)ると、上着の内ポケットへ手を入れ、何物かを引きだしたと思ったらそれは一挺(ちょう)のピストルで二つに折って、中の弾丸(たま)の様子を調べた。調べ終ると、ピストルを元のように直して内ポケットにしまった。それから彼は部屋をでていった。扉の鍵のまわる音がした。やがて彼の足音が、廊下を遠ざかっていった。そしてあたりは静かになった。
 玄関の方へ下りていったこの怪紳士の知らない或る出来事が、このかぎのかかった静かな部屋の中でおこなわれた。それは空虚になった暗(やみ)の中であった。部屋のまん中の、机の面よりやや高い空間に、ぼんやりした光があらわれた。
 それは一秒一秒と弱いながら明るさを増していった。そして光の面積が次第にひろがっていった。四十五秒たつと、その光りものは、一つの物の形となった。正面を向いて、身体をかたくして、じっと立っている洋装の若い女性の姿になっていたのだ。
 木見雪子の幽霊だ!
 まぎれもなく彼女の幻影である。ふしぎだ、ふしぎだ。生きているように見えながら、しかもはっきりしないその姿。これを誰しも幽霊といわないで何を幽霊と呼ぶべきであろうか。何故(なぜ)に雪子学士の幽霊がこの部屋にあらわれたのか、そのわけは分らないが、もしもこの部屋に誰かがいて、雪子学士の幽霊を落ちついて見たとしたら、その人はきっと一つの興味あることを彼女の姿の上に発見したであろう。それは雪子学士の着ているワンピースの服が、あっちもこっちも引裂け、甚(はなは)だしい箇所ではその裂目(さけめ)から雪子の青白い皮膚があらわに見えることだった。
 雪子学士の幽霊は、約二分の後に、つと両手を机の上にのばした。二本の白い手は、しばらく机の上をさぐっているように見えたが、やがてその手は、机上にひろげられた研究ノートをつかみ、そのまま持上げて自分の胸に抱きしめた。
 それから幽霊はそろそろと後じさりを始めた。やがて幽霊の身体は壁につきあたった。と思ったらその輪廓(りんかく)が急に崩れだした。身体が輪廓の方から内部へ向って溶けだしたように見えたが、最後に顔面だけが残った。が、やがてそれも崩れ溶けてしまい、雪子学士の幽霊は完全にこの部屋から消え失せた、彼女の研究ノート第八冊と共に……。
 怪紳士の留守宅に、おいて、このような奇怪な出来事が誰人にも知られずおこなわれている折も折、警視庁の捜査第一課はその主力をあげて三台の自動車に詰められ甲州街道をまっしぐらに西へ西へと飛ばしていた。いかなる事件が突発したのであろうか。それは外でもない。不可解の失踪(しっそう)をとげた道夫の先生の川北順に違いない人物が、平井村の赤松山の下の谿間(たにま)で発見されたというのであった。
 果してそれが川北先生ならば、先生はいかに奇怪を極めたその体験について物語るであろうか。

   重態の先生

 やっぱり川北先生だった。
 赤松山の谿間に横たわっていた川北先生は、洗濯にきた農家の娘さんに発見され、大さわぎの一幕があったのち、附近の農業会の建物の二階へ収容せられた。
 駐在所の警官から警視庁へ連絡があってそこで捜査第一課の出動となったわけであるが、今日は田山(たやま)課長が一行をひきいて、これまでにない力の入れ方だった。
 一行は農業会の建物へ入った。
「ああ課長。お待ちしていました。平井村の駐在所の成宗(なりむね)巡査です」
 駐在所の警官が出迎えて、そういった。
「やあ成宗君か。早く手配をしてくれてありがとう。で、当人の様子はどうだね」
 お角力(すもう)さんのように肥(ふと)った田山課長は靴をぬいで上りながら聞いた。
「はい。それがどうも……生きているというだけのことで、重態ですな」
「負傷しているのかね」
「いや、大した負傷ではありませんが、なにぶんにも意識が回復(かいふく)しません。こんこんとねむっているかと思うと、ときどき大きいこえでうわごとをいうのです。よほどここの所をやられているようですな」
 と、成宗は自分の頭を指した。
「そうか。そのようなこともあろうかと思って、警察医の黒川(くろかわ)君をつれてきたから、さっそく診察して手当をさせよう。おい黒川君。頼むぞ」
 課長はそういうと、成宗巡査をうながして川北先生のねている二階へと階段をのぼっていった。
「さっきからハチヤさんという方が見えていますが……」
 と、先へ階段をのぼる成宗巡査があとに続く田山課長へいった。
「なに、ハチヤ!」
「ええハチヤさん。課長とご懇意(こんい)だということでしたが」
「わしは――」
 わしは知らんといいかけたときには、課長は既に階段をのぼり切っていた。
「やあ、お先へ」
 課長はいきなり声をかけられた。こげ茶の服を着た長身面長の三十五六歳の人だった。ウルトラジンの色眼鏡が彼の目をかくしている。
「なあんだ蜂矢探偵どのか。例によって早いところ、だし抜いて天晴(あっぱれ)だな」
 課長の言葉には、すこしく皮肉のひびきがこもっていた。だが蜂矢探偵と呼ばれた長身の男はそれを気にとめない風で課長と肩を並べ、
「あの川北君は、僕と同郷の者で古くから親しくしていたのです。この間中から、しきりに僕に会いたがっていましたが、まさかこうなるとは思わず、もっと早く連絡をしてやればよかったですよ」
「本人はここで、君に何かしゃべったかね」
 課長は話題を転じて叩きつけるようにきいた。
「いいえ、何にも……」と蜂矢は首を左右に振り「非常に体力を消耗していますよ。それに精神がすっかりさく乱している。正気にもどすにはちょっと手数がかかりそうですね」
「ふうん、厄介(やっかい)だな」
 課長は警察医の黒川を手招きして、隅(すみ)に寝ている川北先生の方を指した。医師は心得て川北先生の枕頭に腰をおろした。村の青年二人がていねいに礼をした。
「おい君」と課長は成宗巡査を呼び「一切誰にも会わしちゃいかん。厳命だ」
「は、はい」
 成宗は身体を縮めて、ちらりと蜂矢の方を見た。蜂矢は知らん顔をして、彼の助手のためにライターの火を貸してやっている。
「かべだ。かべだ。かべの中へぬりこまれちまった。あああッ……」
 とつぜん川北先生がうわごとをいった。目をつぶっている。青い顔には玉のような汗がうき、長い頭髪がべっとりぬれて眉(まゆ)の方までのびている。黒川医師は目を大きくむくと川北先生の眼をみた。
「かべか。かべがどうしたというんだ」
 課長と課員が、川北先生の枕頭をぐるっと囲んだ。川北先生の唇(くちびる)がぴくぴくとふるえるだけでもう声はでなかった。
「この病人はうわごとをさかんにいうのかね。ねえ君たち」
 と課長は、村の青年にきいた。
「は。ときどきいいます」
「蜂矢さんが手帳に書きとめて居られましたです。蜂矢さんをお呼びしましょうか」
「いや、よろしい」
 課長は首をかたくしていった。
「……流れる、流れる、流れる」
 又もや川北先生がうわごとを始めた。
「うっ、苦しいとめてくれ、誰かとめてくれ。黄いろいスープのような……」
 声はしゃがれて、あとは紫にそまった唇だけがわななく。
「黄いろいスープがどうしたんだ。これ川北君」
 課長が先生の方へかがみこんで、先生の左手をとって振った。その手は生きている人とは思われないほど冷たかった。
「……道夫君、道夫君、……あははは、君は心配せんでよろしい。先生が、先生が……」
 川北先生はうわごとをつづけた。
「これは駄目じゃね。ねえ黒川君」
「重態ですな。注射と滋養浣腸(かんちょう)をやってみましょう。明日の朝までに勝負がつくでしょうな」
「どっちだい、君の見込みは……」
 課長の問に対して黒川医師は口でこたえず、首を左右へふってみせた。
「どうです。課長さん。その道夫君というのをすぐここへ呼んでやったらどうでしょうかね」
「なに、道夫を呼ぶ」
 課長は気色のわるそうな顔をしたが、眼を転じて部下の一人へ眼配(めくば)せした。

   一週間

 川北先生の生死が賭(か)けられたその翌朝となった。
 先生はやっぱり苦しそうな呼吸をつづけていた。だが先生の心臓はとまらなかった。
「黒川君。あの川北は危機をとおりぬけたのかね」
 前夜から、川北先生と共に農業会で一夜を送った田山課長が黒川警察医にたずねた。
「これならすぐ死ぬようなことはありますまい」
 と、警察医は川北先生の脈をとりつづけながらこたえた。
「正気に戻るのはいつのことかね」
「さあ、それは全く不明です。もっと経過をみませんことには何ともいえませんな」
「ふうん」課長は不満の色を見せた。「とにかくこの男を絶対に死なせないように手当をしてくれ。ここじゃ困るから、すぐ東京へ移せないものかね」
「二三日様子を見てからにしましょう。すぐ動かすのは危険です」
「二三日後だね。よろしい。適当に宿直員をふやして懸命に保護を加えてくれたまえ。そしてもし変ったことがあったら、すぐわしのところへ報告するように」
「は、わかりました。で、課長は今日はお引きあげですか」
「うん、こんなところにいつまでも居るわけにいかん。それに、昨日ここへ呼んだ少年の話も興味があるから、この事件は従来の方針を改めて徹底的にしらべることにする。幽霊事件なんてものが、今どきこの東京にひろがっては困るからね。あの川北が発見されたのがきっかけとなって、昨日の夕刊今朝の朝刊、新聞社は大々的文字でこの事件を書きたてているじゃないか。幽霊が今どきこの世の中を大手をふって歩きまわるなんてことを本気になって都民が信ずるようになっては困るからなあ」
「それはそうですな。そういえば幽霊の存在を信ぜざる者は、この怪事件を解く資格なしなどという社説をだしている新聞もありましたね」
「けしからん記事だ。あの社説内容のでどころは、わしにはちゃんと分っている。誰があんな社説を流布(るふ)したか、わしは知っている」
「あははは。あの蜂矢探偵のことですか」
 課長はそれにはこたえず不快な色を見せただけで黙っていた。
「実際蜂矢氏はすこしでしゃばりすぎますね。しかし仲々頭のいい人で、私立探偵にしておくのはもったいないほどだ。うちの課にもせめてあれくらいの人物が二三人……」
 課長が吸いかけた煙草を灰皿の中にぎゅっと押しつけたので、黒川医は課長がかんしゃくを起したかとおどろいて言葉をとめた。
「幽霊を信ぜよなどという悪説を流布する者は、いくら頭がよくても、うちの課員にすることはできない」
 課長はこの言葉を後に残して、部下たちをひきつれて本庁へ帰っていった。
 幽霊説を蛇蝎(だかつ)のように嫌う一本気の田山課長が爆発させたかんしゃく玉はそれからこの事件の捜査を、以前とはうってかわった真剣なものにした。
 木見邸にはいつも数人の警官が詰めることとなった。
 その隣家の道夫の家まで、厳重に見張られることとなった。
 道夫といえば、この少年は川北先生の発見以来ずっと川北先生のそばについている。それは同時にその筋から監視と保護とを加えられて居り、道夫の自由行動は許されない状態にあった。
 道夫の両親、ことに、その母親はいつまでも道夫が戻されないので、非常な不安な気持になり、この頃ではよく寝こむ始末であった。
 それからもう一つ書いておかねばならぬことは、多摩川べりが連日にわたって厳重に捜索せられたことである。これは道夫ののべた話により、奇怪なる老浮浪者の行方を探しもとめることと、その川べりにあるはずの大きなおとし穴や、その老浮浪者の住んでいる場所をつきとめることにあった。
 だがこの方は成功しなかった。あれ以来老浮浪者の姿はこの界隈(かいわい)には全く見あたらなくなった。また、大きな落し穴も見つからなかった。怪老人の住んでいたと思われる地点は分ったが、しかしそこには茶碗のかけら一つ発見されず、ただ事がすこしすり切れて、赤い地はだがでている箇所や、竹か棒をたててあったらしい跡が見つかっただけであった。
 雪子学士の幽霊も、その後さっぱり現われないという報告であった。
 川北先生の容態も、あいかわらず意識不明のままで、今は帝都の中心にある官立の某病院の生ける屍(しかばね)同様のからだを横たえつづけている。
 こうして一週間ばかりの日がたった。

   大胆な賭事(かけごと)

「やあ、課長さん」
 きちんとした身なりの長身の紳士が、のっそりと田山課長の机の前に立った。
 課長は何か書類を見ていたが、呼びかけられて顔をあげると、見る見る顔が朱盆(しゅぼん)のようにまっ赤になった。
「こんなところへ君が入ってきては困るね。おい本郷(ほんごう)、松倉(まつくら)、いったい何のために戸口をかためているのか」
 課長は部下を叱(しか)りつけた。
「いや、僕は総監室からこっちへきたものですからね、貴官の部下には失策はないのですよ」
「総監だって誰だって、君をのこのこ、この部屋へ入らせることはできない。さあ、あっちの応接室へきたまえ」
 雲行(くもゆき)は、はじめっから険悪だったが、応接室へ入ると同時にいっそう険悪さを加えた。
「なぜ君は、早く出頭しなかったのかね。その間に都下の新聞はこぞって、あのとおり幽霊の説、幽霊の研究、幽霊の事件の欄までできて騒いでいる。それにあおられて都民たちがすっかり幽霊病患者になっちまった。それについての都民からの投書が毎日机の上に山をなしている。みんな君のおかげだよ。なぜもっと早く出頭しない」
 課長はかんかんになって探偵蜂矢十六を睨(にら)みすえた。
「あいにく東京にいなかったもんで、失礼しました」
 蜂矢は煙草に火をつけて、こわれた椅子の一つにやんわりと腰を下ろした。
「連絡はすぐとるようにと、注意をしおいたのに、なぜ君の族行先へ連絡しなかったのか」
「留守の者には、僕の行先を知らせておかなかったものですからね。もっとも短波放送で貴官が僕に御用のあることは了解したのですが、何分にも遠いところにいたものですから、ちょっくらかんたんに帰ってこられなくて」
「どこに居たのかね、君は」
「ロンドンですよ」
「なに、ロンドン? イギリスのロンドンのことかね」
「そうです」
「何用あって……」
「幽霊の研究のために……」
「よさんか。わしを馬鹿にする気か」
「そうお思いになれば仕方がありませんから、そういうことにして置きましょう。しかしですな、御参考のために申上げますと、幽霊の研究はイギリスが本場なんです。殊(こと)にケンブリッジ大学のオリバー・ロッジ研究室が大したものですね。それからこれは法人ですがコーナン・ドイル財団の心霊研究所もなかなかやっていますがね」
「もうたくさんだ。君のかんちがいで見当ちがいを調べるのは勝手だが、わしの担任している木見、川北事件は幽霊なんかに関係はありゃしない。純粋の刑事事件だ」
「それは失礼ながら違うですぞ。もっとも幽霊がでる刑事事件もないではないでしょうが」
「わしは断言する。この事件に幽霊なんてものは関係なしだ。幽霊をかつぎだすのは世間をさわがせて、何かをたくらんでいる者の仕業だ。わしは確証をつかんでいる」
「困りましたね。僕の考えは課長さんのお考えと正反対です。この事件において、幽霊の真相を解かないかぎり、事件は解決しません」
「君はずいぶん強情だね。ここのところはたしかなのかい」
 課長は指をだして、蜂矢の頭をついた。蜂矢は怒りもしないで笑っている。
「ねえ、課長さん。貴官はまだ幽霊をごらんになったことがないからそうおっしゃるのでしょう。だから一度ごらんになったら、そんな風にはおっしゃらないでしょう」
「とんだことをいう、君は……」
「いや、ほんとうですよ。では貴官に幽霊を見せる機会をつくりやしょう」
「なんて馬鹿げたことを君はいうのか」
「よろしい。そのことは引受けやした。多分成功するでしょう。しかしかなり忍耐もしていただきたくそれに僕のいう条件をまもっていただかねばなりません。そして幽霊は、さしあたりこの警視庁の中へだすことにしましょう。それも貴官の課の部屋へでてもらいましょう」
「君は冗談をいってるんだ。もう帰ってもらおう」
「いや、僕はまちがいなく本気です」
「阿呆は、きっとそういうものだ、自分は阿呆じゃないとね」
 あまり蜂矢がまじめくさって幽霊の話をし、しかも所もあろうに捜査課の中へ幽霊をだそうと確信あり気にいうので課長はあまりのばかばかしさに、さきほどの怒りも消えてしまい、蜂矢をもてあまし気味となった。蜂矢はそんなことにはかまわずしばらく考えていた末に、こういった。
「魚を釣るにはえさが要るように、幽霊をつりだすにも、やはりえさが必要なのです。僕は今日の午後そのえさを持ってきて貴官の机の上に置きます。但しこのえさは絶対に貴官たちの手によって没収しないようにねがいます。たとえそれがどんなに貴官たちをほしがらせても。約束して下さいますか」
「約束はいくらでもするがね、だが……」
「幽霊のでる時刻は夕方になってあたりが薄暗くなりかけてから始まり翌日の夜明けまでの間です。こんなことは御存じでしょうが……」
「そんな講義はもうたくさんだよ」
「うまくいけば今夜のうちにもでるでしょう、うまくいかなくても二三日中にはきっとでます」
「もしでなかったときは、どうする」
「そのときは僕を逮捕なさるもいいでしょう。木見雪子学士殺害の容疑者としてでも何でもいいですがね」
「よし、その言葉を忘れるな」
「忘れるものですか」
 蜂矢は自信にみちた声とともに椅子から立上って、課長に別れをつげたが、ふと思いだしたように課長にいった。
「道夫君をかわいそうな母親のところへすぐ帰してやって下さい。あんなに病気にまでさせては人道問題ですよ」
 蜂矢の眼に涙が光っていた。

   奇妙な実験の準備

 なんという大胆な賭事であろう。
 蜂矢探偵は、かならず捜査課の室に雪子学士の幽霊を出現させてみせると、田山課長に約束したのであったが、蜂矢探偵は果して正気であろうか。課長を始め、課員の多くは、蜂矢探偵が一時かっとなって、そんな無茶な放言をしたのだろうと見ていた。だからその翌日になったら、探偵から取消と謝罪の電話があるだろうと予想していた。
 だがその予想に反して、その翌朝、捜査課の扉を押して、蜂矢探偵が大きな包(つつみ)を小脇にかかえて入ってきたのには、課長以下眼を丸くしておどろいた。
「やあお早うござんす。幽霊を釣りだす餌(えさ)をもってきましたよ」
 蜂矢探偵は血色のいい顔を課長の方へ向けて笑うと、包をぽんぽんとたたいてみせた。
「朝から人をかつぐのかね。いい加減にして貰おう。これでも気は弱い方だから……」
 田山課長は、挨拶(あいさつ)に困ったらしくて、こんなことをいった。
「今日は大変な御謙遜(ごけんそん)で。……ところでこの幽霊の餌を、課長の机の上におく事にしたいですね。まちがうといけないから、他の書類は引出(ひきだし)へでもしまって頂いて、机の上はこの餌だけをおくことにしたいですね」
 と、蜂矢はどしどしと説明をすすめた。
「仕事を妨害しては困るね」
 課長はにがにがしく顔をしかめた。
「仕事を妨害? とんでもない。木見雪子事件を解くことは、あなたがたにとって最も重要な仕事じゃありませんか。少くとも都民はこの事件の解決ぶりを非常に熱心に注目しているのですからね。なんなら今朝の新聞をごらんにいれましょうか、そこには都民の声として……」
「それは知っているよ。しかしこの部屋へ幽霊を招く?そんな非科学的なばかばかしい興行に関係している暇はないからね」
「その問題はすでに昨日解決している。今日になって改めてむしかえすのは面白くない。僕はちゃんと賭(か)けているのですからね。賭けている限り僕はこの試合場に準備を施す権利がある。そうでしょう。――もっとも幽霊学士を迎えるのは夕刻から早暁までの暗い時刻に限るわけだから、僕の註文(ちゅうもん)する仕度は、今日の夕刻までに完成して頂けばいいのです。窓のカーテンは皆おろしてもらいましょう。電灯はつけないこと。諸官はこの部屋にいてもよろしいが、なるべく静粛にしていて、さわがないこと。いいですね、覚えていて下さい」
「おい古島刑事、お前に幽霊係を命ずるから、蜂矢君のいうだんどりをよく覚えていて、まちがいなく舞台装置の手配をたのむよ」
 課長はついにそういって、老人の刑事に目くばせをした。
「はっ。だけど課長さん。これは一つ、誰か他へ命じて貰いたいですね。わしは昔からなめくじと幽霊は鬼門なんで……」
「笑わせるなよ、古島君。お前の年齢(とし)で幽霊がこわいもなにもあるものかね」
「いえ。それが駄目なんです。はっきり駄目なんで。……課長が無理やりにわしにおしつけるのはいいが、さあ幽霊が花道へ現われたら、とたんに幽霊接待係のわしが白眼をむいてひっくりかえったじゃ、ごめいわくはわしよりも課長さんの方に大きく響きますぜ。願い下げです。全くの話が、こればかりは……」
 古島老刑事はひどく尻込(しりごみ)をする。蜂矢探偵はにやにや笑ってみている。田山課長の顔がだんだんにがにがしさを増してきた。
「私が命令した以上、ぜいたくをいうことは許されない。ひっくりかえろうと何をしようと幽霊係を命ずる」
「わしの職掌(しょくしょう)は犯人と取組(とっくみ)あいをすることで、幽霊の世話をすることは職掌にないですぞ」
「あってもなくても幽霊係をつとめるんだ。もっとももう一人補助者として金庫番の山形(やまがた)君をつけてやろう」
「課長。よろこんで引受けます」
 柔道四段の猛者(もさ)の山形巡査が、奥の方から手をあげて悦(よろこ)ぶ。古島老刑事は、
「おい山形君。そんなことをいうが、大丈夫かい」
 とそっちを睨んだが、係が二人にふえたのにやや気をとりなおしたか、ほっと軽い吐息を一つ。
「じゃあ、これで手筈(てはず)はきまったですね」
 と蜂矢探偵は椅子から立上った。
「それではよろしく用意をととのえておいて頂くとして、僕はいったん引揚げ、夕刻にまたやってきます。それから課長さん。僕がここに持ってきた『幽霊の餌』は大切な品物ですから、盗難にかからないように保管しておいて下さい」
「盗難にかからないようにだって? 冗談じゃないよ、ここは捜査課長室だよ、君……」
 課長が眼をむいて破顔した。
「あ、これは失言しました。あははは、とんだ失礼を……」
 そういって蜂矢探偵は軽く会釈(えしゃく)すると、部屋をでていった。

   信用に背(そむ)く人

「課長さん。幽霊を本気でこの部屋へ呼びこむんですかね」
 古島老刑事は、蜂矢探偵の姿が消えると、さっそく課長の机の前へいって詰問した。
「もちろん幽霊なんてものを捜査課長が信ずるものかい。そんなことをすれば、たちまち権威がなくなってしまう。しかし蜂矢と約束した以上、一応その幽霊実験をやらねばならない。どうせ幽霊はでやせんよ。その上で蜂矢を一つぎゅっとしぼってやるのだ、ちょうどいい機会だからな」
「すると、やっぱり幽霊をこの部屋へ案内しなけりゃならないのですね。いやだねえ」
「でやしないというのに……」
「いや、わしは幽霊がでてくるような気がしてなりませんや。課長、その気味の悪い紙包の中には一体何が入っているんですか」
「さあ何が入っているかな、調べてみよう」
 課長は、蜂矢がおいていった紙包の紐をほどいて、机の上にひろげてみた。するとでてきたのは数冊から成る木見雪子学士の研究ノートであった。これは、木見邸に幽霊が現われるようになってから後に、誰が持去ったのか、研究室の卓子(テーブル)の上から消えてしまったものであった。しかし田山課長は、今そのことを思いだしてはいなかった。
「なんだかむずかしい数式をいっぱい書きこんであるね。これは何だろう。おやキミユキコと署名があるぞ。ふふん、するとこれは例の木見雪子の書いたものかな。一体何の研究をしていたんだろう。さっぱり分らんね、このややこしい数式、それから意味のわからない符号と外国語……」
 課長は、雪子の研究ノートを前にして、すっかり当惑してしまったかたちだった。
 が、しばらくして課長は気をとりなおして部厚い雪子学士の研究ノートの頁(ページ)を、ていねいに一頁ずつめくりはじめた。
 そこにならんでいる文章がいかに難解であろうと、頁をめくっているうちにはたまには課長に分る文句の一つや二つはあってもよさそうなものだと思ったので……。
 その課長の労は、ついにむくいられたといっていいであろう。というわけは、彼はその研究ノートの頁と頁との間にはさまっている、別冊の黄表紙のパンフレットを見つけたからである。そのパンフレットの表紙には、めずらしく日本語で表題が書いてあった。それは『消身術に於(お)ける復元の研究文献抄』と読まれた。
「ふうん――」
 課長はうなって、その表題に見入った。消身術に於ける復元――というのは何だろう。消身術とは身体を消して見えなくする術の事ではなかろうか。それは一種の忍術だ。妖術(ようじゅつ)である。こんなパンフレットを秘蔵しているところから考えると、木見雪子はそんな妖術の研究にふけったあげく、姿を現わしたり、隠したりしてあのふざけた幽霊さわぎをひきおこしたものではあるまいか。課長の眼はそのパンフレットの各頁の上を走りだした。
 文献の内容は、消身術に関するものではなくて、いったん人間が消身術をおこなってから後、もとのように人間が姿をあらわすにはどうすればいいか――つまりそれが復元ということであるが、その復元の研究について、古(いにしえ)から最近のものまでの文献が、番号をうってずらりと並べてあり、そして各項について読後の簡単な批評と要点とが書きこんであった。もしも課長が大学理科の卒業生だったら、そこに集められている文献が、この事件の謎を解く鍵の役目を果すものであることを見破ったはずであるが、課長はそうでなかったので、それほど昂奮はしなかった。しかしさすがに犯罪捜査の陣頭に立つ人だけあって、この黄表紙のパンフレットを重要資料とにらんで、それを研究ノートから引き放し、服のポケットへ入れたのであった。
 それからも課長の仕事はしばらく続いたが、やがて研究ノートの最後の一冊を見終ると、両手を頭の上にあげて背伸びをした。
「おい古島君。この書類を元のように包んでくれ。ひろげて中を見たということが分らないようにね」
 課長はむりな註文をつけて、幽霊係の古島老人に命じた。
「ああ、それから山形君」といって金庫番の柔道四段の青年を呼んでポケットから黄表紙をだした。
「このパンフレットを金庫の中にしまってくれ。他の重要証拠品といっしょにしてね、奥へ入れておくんだ」
「はい。金庫の一番奥へ入れておきます。三つ鍵を使わなければあかない引出へ入れます」
 課長は椅子から立上った。と同時に、もう幽霊事件のことは忘れてしまって、彼の注意力は他の捜査事件の方へ振向けられた。
 だが、課長が黄表紙のパンフレットを紙包から別にはなして、部屋の隅の大金庫へしまいこませたことは、せっかく蜂矢探偵が持ちこんだ大切な「幽霊の餌」を課長が勝手に処分したわけであり、そういうことは蜂矢探偵への信義を裏切ることにもなり、またやがて夕刻からおこなわれる雪子学士の幽霊招待の実験にも支障をおこすことになりはしないかと危ぶまれるのであった。

   出現の時刻

 古島老刑事は、さっきから、銀ぐさりのついた大型懐中時計の指針ばかりを見ている。
 もう夕刻であった。折柄(おりから)、空は雨雲を呼んで急にあたりの暗さを増した。ここ捜査課はいつもとちがい、この日は電灯をつける事が厳禁されていたので、夕暗(ゆうやみ)は遠慮なく書類机のかげに、それから鉄筋コンクリートを包んだ白い壁の上に広がっていった。
 課長の机の上には、雪子学士の研究ノートが数冊、積みかさねられてある。課長の椅子はあいている。課長の椅子の左横の席に、幽霊係の古島老刑事が、幽霊の餌の方を向いて腰をかけ、今も述べたように懐中時計の文字盤をしきりに気にしてびくついているのだった。その隣に、幽霊助手を拝命した猛者(もさ)山形巡査が、これは古島老刑事とは反対に、大入道であれモモンガアであれ何でもでてこい取押えてくれるぞと、肩をいからし肘(ひじ)をはって課長の机をにらんでいる。
 その他の席には、課員が十四五名、おとなしく席についている。しかし彼等は書類を見ているように見せかけてはいるが、実はそうではなく、いつでも課長の命令一下、その場にとびだせるように待機しているのだった。その中に課長の顔と蜂矢探偵の顔がまじっていた。隅っこの給仕席に二人は腰を下ろしているのだった。
「ほう、だいぶん暗くなって幽霊のでるにはそろそろ持ってこいの舞台になりましたよ」
 蜂矢探偵が、じろじろとあたりを見まわし、すぐ前にいる課長にいった。
「そんなことは無意味さ。原子力時代の世の中に非科学きわまる幽霊などにでられてたまるものか」
 課長は失笑した。しかしその声はいくぶん上ずっているように思われた。
「いや、とつぜん原子力時代がきてわれわれをおどろかせた如(ごと)く、今日こそ幽霊というものを科学的に見直す必要があると――或る人がいっているんですがね」
「そんなことをいう奴は、よろしく箱根山を駕籠(かご)で越す時代へかえれだよ。蜂矢君、もし幽霊がでなかったら、君にはいいたいことがたくさんあるよ」
「そのときつつしんで拝聴しましょう。しかしその反対に幽霊がこの部屋にでてきたら、賭は僕の勝ですよ。そのときは課長ご秘蔵の河童(かっぱ)の煙管(きせる)を頂きたいものですがね」
 河童の煙管というのは、課長が引出に入れて愛用している河童の模様をほりつけた、江戸時代の煙管のことであった。
「河童の煙管でも何でもあげるよ、君が勝ったときにはね」
「それは有難い。課長あなたの河童の煙管の雁首(がんくび)のあたりまでがもう僕の所有物にかわったですよ」
「なに、煙管の雁首がどうしたと……」
「しッ」と蜂矢が田山課長に警告をあたえた。「しずかに、そしてあなたの机の前の空間をよく見てごらんなさい」
「えっ!」
 課長の目は、蜂矢から教えられたとおりに部屋の中央に据(す)えてある自分の大机の方へ向けられた。と、彼の眼は大きく見はられた。そして顔が赤くなり、それからさっと青くなり息がはずんできた。額からは玉の汗がたらたらとこぼれおちた。
 見よ、大机の上に、ぼんやりしてはいるが、見なれない女人の姿がおっかぶさっている。若い女人のようだ。服はぼろぼろに破れてみえる。
 部屋のうちは、水をうったように静かであった。が、それは何人も少しの時間をおいてほとんど同時に雪子学士の幽霊の姿を認め、そして同様なる戦慄(せんりつ)におそわれて硬直したためだった。
 その幽霊に対し最も近い距離に席をとっていた古島老刑事は最も幽霊の発見がおそかったようである。その証拠に彼は大きな懐中時計を掌(てのひら)にのせて指針の動きに見とれ、首を亀の子のようにちぢめていたが、そのとき隣にいた山形巡査が古島の袖をひいて注意をしたので、それで始めて首をのばし顔をあげて指さされる空間へ視線を送ったが、
「あっ、でた、幽霊が……」
 と叫ぶなり、老刑事の顔色はたちまち紙のように白くなり、そして彼の身体はそのままずるずると椅子からずり落ちて、彼の頭は机の下にかくれてしまった。それをきっかけのように、部屋のあちこちで、驚愕(きょうがく)と恐怖の悲鳴が起った。
 そのうちに、雪子学士の姿はだんだん明瞭度を加えた。そして彼女のしなやかな手が課長の卓上にのびて研究ノートの頁(ページ)をぱらぱらと音をさせて開いた。それは急いでなされた。全部の研究ノートが二三度くりかえし開かれたが、彼女の硬い顔はいよいよ硬さを加えた。彼女はついにノートの表紙を手にもって強くふった。それは何か彼女のさがしもとめているものが見つからないので、じれているという風に見えた。
 彼女はついに手を研究ノートからはなした。そして困り切ったという表情で、机上に立ちつくしていた。
 そのときだった。室内に靴音がひびいた。
 と、田山課長の姿が走った。彼は自分の席に戻って、雪子学士に向きあった。
「あなたは木見雪子さんですか」
 課長は、いささかふるえをおびた声でぼんやりした雪子の姿に呼びかけた。
 それに対して、雪子は返事をしなかった。課長のいっている言葉が聞えないのか、それとも聞えても知らないふりをしているのか、そのどっちか分らなかった。――が、雪子学士は課長を睨みすえると、研究ノートの山を指(ゆびさ)しそして両手を前につきだした。何かを催促しているようだった。
 課長は胸をぎくりとさせたが、強いて平気をよそおい、首を左右にふった。
 すると雪子学士の面に焦燥(しょうそう)の色があらわれた。彼女は大きく眼を見開き、室内をぐるっと一めぐり見わたした。と、彼女は課長の机の前をはなれて、すたすたと室内を歩きだした。その行手に大金庫があった。――一同は固唾(かたず)をのんで、雪子の行動に注目した。
 雪子学士は、果して大金庫の前でぴたりと足をとめた。彼女の顔が心持ち喜びにゆがんだようであった。それから次に、意外な事が起こった。雪子学士は、その大金庫のハンドルに手をかけると、その大金庫をかるがると引っぱりだしたのであった。約四百キロはあるはずの大金庫が、雪子学士の手にかかると、まるで紙やはりまわした籠(かご)のように動きだした。そして雪子の姿と大金庫とは、窓の向うに滑りだしたのであった。
「待てッ」
 呆然(ぼうぜん)とこの場の怪奇をながめつくしていた幽霊係の助手の山形四段が、雪子の姿を追って後から組みつこうとしたが、それは失敗し、彼はいやというほど窓際の壁にぶつかって鼻血をたらたらとだした。
 そのさわぎのうちに、雪子の幽霊と大金庫はゆうゆうとこの部屋から姿を消し去った。
「あっ、しまった。大切な証拠物件を何もかもみな持っていかれた。うむ」
 と課長はようやく一大事に気がついたが、もうどうしようもなかった。
 幽霊の賭は、遂に課長の負となり、蜂矢探偵が勝ったわけである。その蜂矢探偵の姿はいつの間にかこの部屋から消え失せていた。

   大金庫やーい

「おい、何をしとる。早く金庫をとりもどさんか」
 田山課長は、室内をあっちへ走りこっちへ走り、両手をうちふってわめきたてる。
「ところが、とりもどしたいにも、大金庫はどこへいったか分らんのです」
「そこの壁の中へ、すうっと入っていったがねえ。幽霊が、こんな手つきをして引っぱっていったが……」
「ばかなッ」課長は怒りにもえて課員をどなりつけた。
「そんなばかばかしいことがあってたまるか、大金庫は硬くて大きいんだぞ。それが壁の中へ入るなんて、そんなことは考えられん」
「いや、課長、たしかにすっと壁の中へ入っていったです。私はそれを追いかけていって、このとおり壁で鼻をいやというほどつぶしてしまいました」
 金庫番の山形は、鼻血をだして赤く腫(は)れあがった自分の鼻を指した。
「そんなことはない。君たちは、そろいもそろって眼がどうかしているんだ。もっとよくそのへんをさがしてみるんだ」
 課長はますますいきりたった。
「ですが課長。あの重い大金庫がそうやすやすと動くはずがないんです。移動するにはいつも十人ぐらいの手がかかるんですからね。――ところが、ごらんのとおり、大金庫のあったところはぽっかりと空(あ)いています。わけが分らんですなあ」
「なるほど、たしかにさっきまでここに大金庫があったわけだが、今は無い!」
「課長! 重要なことを思いだしました」
 といって課長の腕をとった課員がいた。
「なんだ。早くいえ」

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