四次元漂流
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著者名:海野十三 

   はじめに

 この「四次元漂流」という妙な題名が、読者諸君を今なやましているだろうことは、作者もよく知っている。
 だが作者は、この妙な題名について、今何よりも先に、それを説明することはしない。だから読者諸君は、ここしばらくの間、この妙な題名についてなやまされるであろう。読者諸君が、さようになやんでいるのを、作者は意地わるい微笑をうかべて、悪魔じみた楽しさを只(ただ)一人味わいたいつもりではない。いや、それとは反対に、読者諸君の興味を最も大きくしたいために、今はわざと何も説明しないのだ。
 この小説が先へ進むに従って、「四次元漂流」という題名の謎は、おいおいと明らかになってくるであろう。そしてその時こそ、諸君はこれまでに聞いたことのない不思議な世界にふみ入っている御自分を発見することであろう。大きなおどろきと、すばらしい魅力とが、科学真理の車体に諸君を乗せ科学推理の車輪をつけて、まっしぐらに神秘の世界へ向って走っているのに気づかれるであろう。それはともかく、この神秘な物語も、その発端(ほったん)は一見平凡な木見雪子(きみゆきこ)学士の行方不明事件から始まる。

   学士嬢の失踪(しっそう)

 中学二年生の三田道夫(みたみちお)は、その日の午後、学校から帰ってきたが、自分の家の近所までくると、何かただならぬ空気のただよっているのに気がついた。
 緑あざやかな葉桜の並木、白い小石を敷きつめた鋪道(ほどう)、両側にうちつづいた思い思いの塀(へい)、いつもは人影とてほとんど見られない静かな住宅区の通りであったが、今日ばかりはそうでなかった。顔なじみの近所のお手伝いさんが、ほとんど総出(そうで)の形で、どの家かの勝手口の門の前に三四人ずつかたまって、何かひそひそ話をしながら、通りへ眼をくばっていた。中には、娘さんや奥様の姿もあった。そうかと思うと、この町では全く見なれない人物が、塀の蔭(かげ)や横丁(よこちょう)の曲り角に立っていた。洋服男もあり、和服の人もあり、いずれも鋭い眼付(めつき)をして、道夫の方をじろじろと見るのだった。
 あまりきれいでない自動車が二台、道夫の家の前に停(とま)っていた。いや、道夫の家の前ではない。お隣の木見さんの家の前らしい。そのそばに、警官の姿を発見したとき、道夫ははっきりと何か事があるなとさとった。
「あ、何かかわった出来事が起ったんだな」
 それは一体どんな出来事であろうか。誰かが伝染病にでもかかったのであろうか。それとも火事でもだしたのであろうか。いや、火事ではなさそうだ。消防署の自動車の姿もなければ、道も水にぬれていない。
「ひょっとしたら、強盗事件かな。まさか……」
 もし強盗が木見さんの家をおそったものなら、夜中に叫び声が聞えそうなものだ。それとも強盗が明け方までがんばったのだろうか。それなら道夫が今朝(けさ)学校にでかける頃には、もうたいへんなさわぎになって近所へ知れていなければならない。ところが、そんなこともなかった。では、どうしたのであろうか。道夫は自分の家の勝手口へ通ずる小門までくると、それを開いて入った。そのとき、お隣の前に停っている二台の自動車の一方に、警視庁の文字があり、他の車には警察署の文字があるのを見た。
 道夫は、植込(うえこみ)の間をぬけて内玄関へ急いだが、往来にはどの家でも誰か顔をだしているのに、道夫の家だけは誰もでていないことに気がつき、何だか異変は自分の家にもありそうな気がして、胸がわくわくしてきた。
「只今(ただいま)。お母さん……」
 格子戸(こうしど)を明けるが早いか、道夫は悲鳴に近い声で、母を呼んだ。
「あ、道夫かい。おかえりなさい」
 母の声がすぐ聞えた。それは別に取乱した声ではなかった。それで道夫は、ふうっと大きな溜息(ためいき)をついて、(まあよかった)と思った。事件は我家に起ったのではないらしい。
 道夫は靴をぬぐのももどかしく、中にむかって声をかけた。
「お母さん。どうしたの、お隣の木見さんの前に、警視庁なんかの自動車がとまっていますよ」
「ああ、そうかい。さっき自動車の音がしたと思ったが、そうだったのね」
「どうしたのよ、お母さん。木見さんのお家では……」
 道夫は、鞄(かばん)を肩からとって、手にさげたまま、茶の間からでてきた母親にむかいあった。
「それがね、よく分らないけれど、木見さんの雪子さんが、どこへいかれたか、行方不明なんですってよ」
「へえ、雪子姉さんが……」
 道夫は大きく目を見はった。道夫の勉強のめんどうをよく見てくれる雪子姉さん、弟のように道夫をかわいがってくれる雪子姉さん、背の高い色の白い上品なすがたの雪子姉さん。――婦人ながら医学士と理学士であり、自分の家にかなりりっぱな研究室をもっている木見雪子嬢、年齢(とし)は二十五歳だがそれより二つぐらいふけてみえる木見学士、高い鼻の上に八角形の縁(ふち)なし眼鏡(めがね)をかけている美しい若い研究者――その木見雪子が突然行方不明になったというのである。道夫の驚きは大きかった。彼が心の中でひそかに予想したうちでの最も大きい不幸な事件であったではないか。
「雪子姉さんは、いつから行方不明になったの。いつお家をでていったの」
 道夫は、母親を茶の間へ追っていきながらたずねた。
「さあ、それがね道夫さん、どうも変てこなのよ」
「変てこって」
「つまり、雪子さんはお家からでていったように思われないんですって、お家には、雪子さんの靴を始め履物(はきもの)全部がちゃんとしているの。だのに、家中どこを探しても雪子さんの姿が見えないの。変てこでしょう」
 母親は道夫のために小箪笥(こだんす)からおやつの果物(くだもの)をとりだして、紫檀(したん)の四角いテーブルのうえへならべながらいった。
「じゃあ、雪子姉さんは、はだしで家をでたんでしょう」
「ところが、そうとも思われないのよ。なぜってね、雪子さんは昨夜おそくまで自分の研究室で仕事をしていらしたの。そして研究室には内側からちゃんと鍵(かぎ)がかかっていたんですって、今朝木見さんのお父さんが雪子さんの部屋をおしらべになったときにはね。だから雪子さんは、研究室の中に必ずいなさらなければならないはずなのに、実際は、扉をうち破って調べてみても、雪子さんの姿がないのですってよ」
「へえ、それはふしぎだなあ」
 内側から鍵をかけた密室の中から、雪子姉さんの姿が完全に消えてしまうなんて、そんなことがあっていいであろうか。
「ああ分った。窓からでていったんでしょう」
「いいえ、窓も皆、内側から錠(じょう)が下りていたのよ」
「じゃあ、研究室の外から鍵をかけて、でていったんじゃないかしら」
「ところがね、研究室の扉の鍵は、内側からさしこんだまんまになっているんだから、外から別の鍵をつかうわけにはいかないんですって」
「ふうん。それじゃ雪子さんは、煙になって煙突からでていったとしか思われませんね」
 道夫は、ついにわけがわからなくなって、そんな無茶なことをいってみるしかなかった。
「さあ、煙突のことは、まだ聞かなかったけれどね、まさかあの煙突からはね……」
 茶の間から植込と塀越しに、お隣の古風な煉瓦(れんが)造りの赤いがっちりした煙突が見える。しかしあの煙突から雪子姉さんがでられるとは思われなかった。冬、石炭をもやすと煙が二条になってでてくるところから考えて、あの煙突の上は、あまり太くない土管が二つ平行に煙の道をあけているのに違いない。そうだとすれば、その土管は鼠(ねずみ)か猫ならばともかく、人間が通り抜けることはできないであろうに。考えれば考えるほど、ふしぎな雪子学士の行方不明だった。

   事件は迷宮入(めいきゅうい)り

 道夫にとっては、雪子学士が行方不明になったことは、この上もなく悲しく心配であった。
 どうかして雪子姉さんが早く帰ってきてくれればいい。もしすぐ帰れないのだとしても、どうか生命(いのち)は無事で生きていてくれるといいといのらずにはいられなかった。
 だがよく考えてみると、雪子姉さんの運命については、よくないことばかりしか耳にしない。
 あの日、警視庁などの人がきて、木見さんの屋敷を全部のこるくまなく調べていったそうであるが、その結果として、雪子姉さんの両親へ、係官が話していってくれたところによると、この事件は、よほどの難事件であるということである。もちろん今のところ、この事件の解決について何の手がかりも見つからないのだそうである。
 係官の説に三つあった。
 一つは、雪子学士が非常にたくみな方法によって、この家からでていったとするものである。たとえば、何かのからくりを使って、部屋の外側より、部屋の内側の扉にさしこんである鍵をまわして扉に錠を下ろし、それからそのからくりを手もとへ取りもどして、家出をしたというようなやり方である。或いは、窓に工夫があるのかも知れない。または本棚のうしろや、機械台の下に、ぽっかりあく秘密の出入口があるのかもしれないともいわれた。
 第二は、偶然、その扉の錠が下りたのだという説である。
 第三は、雪子学士は家出をしたのではなく、その研究室又は邸内のどこかにいるのではないかというのである。それは、雪子学士が自分の考えによって、わざとかくれているのかもしれないし、或いは、そういう秘密の小屋か地下室かがあり、その中へ用事のため雪子が入ったところ、戸がしまってでてこられなくなったのではないかともいう。
 しかしこの三つの説は、今のところ、どれも皆、本当のように思われなかった。
 というのは、第一の、部屋の外側より部屋の内側の扉にさしこんである鍵をまわして錠を下ろすという方法は、この研究室ではできないことだった。外国で、それに成功した話はないでもないが、それは糸を使ってやる方法で、扉と床(ゆか)または鴨居(かもい)の間に、まっすぐに通した隙間(すきま)がなければできないことだった。雪子学士の研究室の場合は、その隙間がなかったのだ。すなわち扉は外側から額縁(がくぶち)みたいな壁体によってぴしゃりと壊し、扉の上下左右にはまっすぐな隙間ができないから駄目であると分った。
 また相当厳重な家探(やさが)しをした結果、秘密の部屋は発見されなかった。
 第二の、偶然に錠が下りたと考えるのは、あまりに実際に遠い。そんなことは千に一つも万に一つもあろうはずがない。係官が錠を調べたところ、その錠は完全なもので、決して偶然に錠が下りるような、そんながたがたのものではないと分った。
 では第三の説はどうだろう。これも前に述べたように、隠れ部屋も見つからないし、また内側の錠を外からかけることも困難なので、そういう状況の下では雪子学士が、研究室または他の部屋にかくれているとは思えない。
 こんなわけで、係官の間にでた三つの説は、どれもあたらないということが一応たしかめられた。煙突からぬけでることは、もちろん駄目であった。煙のでる土管は、内径が二十糎(センチ)くらいしかなかったのだ。
 ただ次のような説が、係官の間に、なんとなくただよっていた。それは雪子学士は誰かの助けを借りて、うまく家をでたのではないか。そして雪子を助けた者として、雪子の両親にまず有力な疑いをかけたい気持があった。しかしそれにしても、密室と思われる中から一体どうして雪子学士は姿を消したか。それはやっぱりできないことではないか。
 しかも係官がそれとなくたずねたところでは、この木見家の中に、娘の雪子学士を秘密に家出させなければならないわけはなさそうであった。近所で聞いてみても、木見家では一回も親子喧嘩(けんか)らしいものが起った話はない。そして親子三人、いずれもしとやかないい人達であるという評判であったから、係官の方でもやっぱりこれは思いちがいかなと考える方が有力となった。
 こんなわけで、木見雪子学士の行方不明の謎はとけず、事件はついに迷宮入りの形となった。
 係官は、あれほど毎日つづけていた雪子の研究室の捜査をやめてしまった。
 そのかわり、雪子の友達や知合いなどの調べを始めるほか、この附近一帯に、何か怪しい出来事があったとか、或いは怪しい人物がうろついていなかったか、というような外部の探偵に移ったのであった。

   怪しい影

 道夫は、あれ以来、くやしさに煮えかえるような胸をいだいていた。
 本当の姉のように思うあの雪子姉さんが、もう一週間も姿を消してしまい、たしかに大事件であるにもかかわらず、係官の捜査が少しも成績をあげず、そればかりかこの頃では、係官たちは雪子姉さんの失踪(しっそう)事件にすっかり熱を失ってしまったように見える。まことにくやしいことだ。
(何とかして、この事件の真相を探しあてたいものだ。そして雪子姉さんを無事にとりかえしたいものだ)
 道夫は、いつもそう思っていた。それには一体どうしたらいいのであろう。中学の二年生にできることといったら、大したことではない、おそらく刑事の半人前の仕事もできないであろう。しかし熱心に一生けんめいにやるなら、熱心でない大人よりはいい結果をあげるかもしれないと思った。そこで道夫は、事件についてのいろいろなことをノートに書きつけ、図面も描き、それを見て大人たちの見落し考え落している事件の鍵を発見しようと、小さい頭をひねり始めたのである。
 この小探偵の事件研究は、あまりはかどらなかったが、あの事件があってちょうど二週間後の頃から、この事件について新しい一つの話が、この界隈(かいわい)の人の口にのぼるようになった。それは、事件の少し前まで、毎日のようにこの近所をうろついていた老人の浮浪者(ふろうしゃ)が、どういうものかあの頃以来さっぱり姿を見せないといううわさだった。
 その老浮浪者は、実に風がわりな浮浪者だった。眼が悪いらしく、いつもこい大きな黒眼鏡をかけていた。そんなことよりも風がわりだというわけは、この老浮浪者は、別に貧乏でもないらしいのに、各家庭の裏口へ入りこんで、食をねだることだった。貧乏でもないらしいというわけは、この老浮浪者は、頭には色こそきたなく形こそくずれているが灰色の大きな中折帽子(なかおれぼうし)をかぶって、そのつばを下げ、額から耳のあたりから頸(くび)のうしろまですっぽりかぶっていた。服は、長いだぶだぶのレーンコートを着ていたが、質はよいと見え、破れている箇所は一つもなかった。そしてコートの奥にはカーキ色の服ともシャツともつかぬものを着ているらしく、はでな赤いネクタイをむすんでいた。靴も、大きなゴム長をはいていて、雨であろうと天気であろうとぬがなかった。彼はポケットから、大きな懐中時計をだしてみることもあり、また時には店へ入りこんで、大きな皮手袋をはめた手の上に十円紙幣(さつ)などを乗せて塩を買ったり酢を買ったりする。そういうところは、けっして浮浪者ではないように見えた。
「そういえば、あの年寄りの浮浪者は、いつだか、木見さんのお邸(やしき)のまわりをうろついていたわね」
 塀のかげで、三人のお手伝いがこの話をしている。
「そうよ。裏手へまわって、あの空地(あきち)のあたりから、雪子さんの研究室の方を、のびあがって見ていたわ」
「怪しい浮浪者だわね。そうそうあの人はよくあの裏手の空地にある大きな銀杏(いちょう)の樹の上にのぼって昼寝していることがあったわよ。あたし、それを見て、きゃっといって飛んで帰ったことがあるわ」
「いよいよ怪しいわね。あの浮浪者、どこへいってしまったんでしょうか。雪子さんの事件以来、二度と姿を見かけないわね」
「どこへいってしまったんでしょう。まさか雪子さんをつれて逃げたんじゃないでしょうね」
「まさか、あんな年寄りに」
「でも、分らないわよ。変に気味のわるい人なんですものね」
「ひょっとしたら、あの浮浪者、そのへんにかくれているんじゃない」
「いやあ、そ、そんなことをいっておどかしては……」
 こんなふうな会話が、附近一帯でさかんにとりかわされた。誰の考えも、あの気味のわるい高等浮浪者(と町の或る人はうまい名をつけた)が少くとも雪子がきえた頃以来、姿を見せないことに不審の根拠を置いていた。
 道夫少年も、この噂(うわさ)は耳にしていた。ひょっとしたら、自分に疑いがかかることを恐れるか何かしてそしてその浮浪者が、昼間だけは姿をかくしているのではないか、そして夜中には近所をうろついているのではないかと思った。それで或る夜、道夫は時計が十二時をうつと、そっと雨戸をあけて外へでた。家のまわりを見まわるためだった。
 しかし道夫は、家のまわりにかわったことがないことをたしかめた。もちろんあの老浮浪者の姿もなかった。明るい探険電灯で、高い銀杏の梢(こずえ)をてらしてもみたが、老浮浪者の姿はなく、あるのは雁(かり)のような形をした葉ばかりだった。
「大したことはなかった。じゃあ、もう家へもどろう」
 と、彼は探険電灯の灯(あかり)を消し、一ぺん表通りへでるため木見家の裏手を通りかかった。
 そのとき道夫は、何気なく、木立越しに、雪子姉さんの研究室の方を見た。
 と、その研究室の中に、ぼんやりしたうすあかい灯がついているように思った。
「誰だろう、今頃、あの部屋の中を調べているのは……」
 刑事たちではなかろう。では誰か家の人だろうか。雪子姉さんのお父さんかお母さんに違いない。
 そうは思ったが、道夫は何だかその灯のことが気になって仕方がなかった。それで彼は思い切って、くぐり戸を開くと、お隣の庭へすべりこんだ。そして研究室の方へ近づいていった。
 研究室の窓は高かったので、中を全部見ることはできなかったが、庭石の上に乗ってやっとガラス窓から部屋の一部を見ることができた。その刹那(せつな)、
「あっ、あれは……」
 と、道夫はその場に立ちすくんだ。彼は何を見たか。暗い部屋の中に、宙にうかんでいる女の首を見たのであった。

   のびる顔

 道夫は、おどろきのあまり、その場に化石のようになってしまった。
 しかし道夫の眼だけは生きていた。彼の眼は、おそろしいものの影をおっていた。闇の研究室の中に、そのおそろしい女の首だけが見えている。宙にうかんでいる女の首。ぼんやりと赤い光に照らされているようなその首だけが見えるのだ。
(なぜ、あんなところに、女の首が宙にうかんでいるのだろう?)
 道夫は、そのわけを早く知りたかった。が、そのわけはさっぱりわからない。
(おや、あの首は、雪子姉さんに似ている……)
 道夫は、ふとそのことに気がついた。
(雪子姉さんが、家にもどってきたのだろうか)
 それなら、こんな喜びはない。――雪子姉さんが戻ってきて研究室へ入ったのだ。室内の灯が、雪子姉さんの首だけを照らしているのだ。だから、姉さんの首だけが見えるのだ。
「ああ、何という僕はあわて者だったろう」
 道夫は、おかしいやらはずかしいやら、そしてまたうれしいやらで庭石の上から芝生(しばふ)へ下りようとした。
 だが、そのとき彼はふたたび全身を硬直させなければならなかった。
「あっ、あの顔!」
 雪子姉さんの顔が、どういうわけか、急に馬の面のように長くなった、そうすると、もう雪子姉さんの顔だといっていられなくなった。それは妖怪変化(ようかいへんげ)の類である。
 が、おどろきはそれでとまらなかった。その怪しい顔はにわかに表情をかえた。眼が、筆箱のように上下にのびた。口を開いた。それがまるで短冊(たんざく)のようだ。顔がずんずんのびて、やがてスキーほどに上下へ引きのばされたかと思うと、突然ふっと、かき消すようにその長い顔は消えた。後に残るは、暗黒だけだった。
 道夫は、しきりに手の甲で、自分の眼をこすっては、研究室内を見直した。だが、もう宙に浮ぶ女の首は見られなかった。五分たち十分たちしたが、怪しい首は遂(つい)に再び現われなかった。
「ああ、今見たのは夢だったかしら……」
 道夫は、われに返って、そう呟(つぶや)いた。
 いや、夢ではない。自分は、足場のわるい庭石の上で、身体を動かさないようにする為、けんめいに努力していたことも現実であるし、近くの空を夜間飛行の一機が飛びすぎる音を耳にしたのもまた現実だった。
 だが、今のが現実だとしたら、いったいあれを何とといたらいいだろうか。この世ながらの幽霊の首を見たといったらいいであろうか。それとも妖怪変化が研究室の中に現われたといった方がいいか。とにかくどっちにしたところで、自分の話を本当にとってくれる人は先ずいないだろう――と、道夫はもう今から当惑した。
 三十分待ったが、ついに何の怪しいことも起らないので、道夫は木見家の庭をぬけだし、くるっと廻(まわ)り道をして、やがて自分の家へもどった。そして戸にかけ金をかけて寝床へ入った。
 もちろん目が冴(さ)えて、睡(ねむ)れなかった。解き難い謎が、巴(ともえ)まんじになって道夫の頭の中を回転する。
(あの怪しい女の首と、雪子姉さんの行方不明との間には、いったいどんな関係があるのだろう?)
 何か関係があるような気がしてならぬ。しかしそれはどんな関係か、道夫には見当もつかない。
(あの怪しい女の首は、はたして雪子姉さんの顔だったろうか)
 そうであるようにも思うが、はっきりそうだとはいい切れない。雪子姉さんの研究室で見たのだから雪子姉さんに見えたのかもしれないし、また雪子姉さんのことばかり考えていたので、そう思ったのかもしれない。
(どうして、あの首が俄(にわ)かに上下に馬の顔のように伸びたんでしょう)
 わからない、全くわからない。
 考えつかれて、道夫はとろとろと少しねむった。と、やがて悪夢におそわれた。地獄の中で大捕物があって、結局自分がおそろしい鬼や化け物に追いまわされている夢だった。うなされているところを、誰かに起された。
 起したのは、道夫の母だった。もう朝になったと見え、ガラス戸に陽(ひ)がさしていた。
 道夫は、昨夜のことを母に話さなかった。それは、そんなことを話して母が気味わるがるにちがいないと思ったからだ。
 朝飯がすんで、道夫は学校へいくために家をでたが、すぐ駅の方へはいかず、お隣へよった。昨夜の怪事を、木見家の人々が知っているかどうか、それを知りたかったので。雪子の母親は、いつに変らぬ調子で現われて、道夫がいつもなぐさめにきてくれることを感謝した。
(ふうん、すると小母(おば)さんは昨夜の怪しい首のことを、まだ知らないのだな)
 と道夫はそう思った。知らなければ、今いわないでもよいであろう。
 が、一つ聞きたいことがあった。
「小母さん。昨夜、研究室の入口の扉は、しめてありましたか」
 雪子の母親は、なぜそんなことを聞くのかといぶかりながら、答えてくれた。
「あの入口の扉は、いつもちゃんとしめてありますの。なんだか気味がわるくてね」
「はあ、そうですか。そして、鍵はどうでしょう。昨夜研究室の扉の鍵はかけてありましたか。どうなんですか」
「鍵? ええ鍵はちゃんとかけてありましたよ。まあ、なぜそんなことをお聞きなさるの」
「ええ、それは……それはちょっと考えてみたいことがあったからです」
 道夫は、そこで話を切って、外へでた。
 不思議だ、不思議だ。研究室の扉に錠が下りていたのなら、外からあの部屋へは誰も入れないはずだ。すると昨夜見たあの女は、いったいどこからあの部屋へ入りこんだのであろうか。いよいよわけがわからなくなった。

   川北(かわきた)先生

「おい三田君。君は何か心配事でもあるの。近頃みょうにふさぎこんでいるじゃないか」
 学校でのお昼休みの時間、運動場のすみの木柵(きさく)によりかかって、ぼんやり考えこんでいる、道夫の肩を、そういってたたいた者があった。
「あ、川北先生……」、
 主任の川北先生が、眼鏡の奥から小さい眼をぱちぱちさせて、道夫の方へ深い同情の色を示しておられた。川北先生は文理科大学を卒業したばかりの若い先生で、数学と物理を担任しておられる。そして文学の素養も深くその方の話も熱情をこめて生徒たちにして下さるので、生徒たちは先生が大好きであった。
「はい、先生。僕の力ではとけない問題があって困っているんです」
 道夫は、川北先生に話をする決心をして、こういいだした。
「君の力では解けない問題だって、代数かね、それとも力学の問題かね」
「いえ、そうじゃないんです。行方不明事件とお化け問題なんです」
「えっ、何だって。行方不明事件にお化けだって」
「そうなんです。先生も新聞でごらんになってご存じかと思いますが……」
 と、道夫はそれから、お隣の木見雪子学士の行方不明事件と、昨夜雪子の研究室をのぞいて怪しい女の首を見た話をくわしくした。
「……お化けを見たなんていうと、先生はお笑いになるでしょうが、ほんとうに僕は昨夜この眼で見たのですよ」
 道夫は、気がさすか、妖怪事件については特にそういって弁明しないではおられなかった。
「いや、私はお化けの話を聞いても軽蔑(けいべつ)しないよ。お化けというからおかしく聞えるが、それを超自然現象といえば一向(いっこう)おかしくないし、大いに研究する価値のある問題だからね。何しろ現代の人類は自然科学についても、まだほんのちょっぴりの知識しか持っていないんだ。だからわれわれがまだ知らない自然現象はたくさんあるはずだ。お化けとか幽霊とかいうものも、いちがいに荒唐無稽(こうとうむけい)といって片づけられないのだと思う。イギリスの有名な科学者オリバー・ロッジ卿も、そういう超自然現象殊(こと)に霊魂の問題について深く考えていたし、また名探偵シャーロック・ホームズの物語で有名な探偵小説家コーナン・ドイル氏も、晩年を心霊学研究に捧(ささ)げ、たくさんの興味ある報告をしている。そういうわけで、妖怪現象もここで科学的に検討をしてみる必要があるんだ。もっとも世間には、トリックを使った詐術師(さじゅつし)もかなり多いことだから、これに対しては十分警戒すべきだがね」
 若き川北先生は、川北先生たるところを発揮して、道夫のために、科学から見た妖怪論をひとくさりこころみた上で、
「しかし、それはそれとして、その木見さんのお嬢さんの行方不明事件は気の毒だね。係官は相当の捜査をした上で、どうも分らないと事件をなげだしたわけだろうが、まあ私の感じでは、この事件はかなりの難事件だと思うね。よほどの名探偵が登場して、徹底的に事件を調べないかぎり、事件の謎はとけないだろうという気がする」
 そういって先生は、深い溜息(ためいき)をついた。
「そうですか。そういう名探偵がいるでしょうか。うまくたのめましょうか。そして雪子姉さん――いや木見学士をうまく取りもどして下さるでしょうか」
「さあ、そのことだがね。……心当りの人がひとりないでもないのだが、あいにく不在なんだ。よく旅行にでかける人でね」
「じゃあ今お頼みできないわけですね。困ったなあ」
「まあ三田君。そう悲観しないでもいいよ」
 先生はなぐさめ顔にいった。
「ですが先生、僕のような力のない者がひとりで事件の解決に当って見ても、とても駄目だと分ったんですからね」
「ああ、それはそうだが……」
 川北先生はすこしためらって見えたが、やがて道夫の肩に手をおいて、
「よし、三田君、じゃあ私ができるだけ君に力をかそうじゃないか。もちろん二人だけの力ではだめだと思うが、君ひとりよりもましだし、それに私は君の話によって、ある特別の興味もおこったので、私の方からむしろ君の仕事に参加させてもらおうや。そのうちに私の心当りの人が帰ってくるだろうと思うんだ」
「先生、どうも有難う。僕は千人力をえた気持です」
「そうでもないが……」
「で、その心当りの人というのは、誰方(どなた)なんですか」
「それはね、私の同郷の先輩でね、蜂矢(はちや)十六という人なんだ」
「蜂矢十六? ああ、するとあの有名な大探偵蜂矢十六氏のことですね。空魔事件、宝石環事件、百万円金塊事件などを迷宮の中から解決したあの大探偵のことですね」
 道夫はその有名な大探偵のことを、人から聞いたり新聞で読んだりしてよく知っていた。あの大探偵に川北先生がよく頼んで下さるなら、これこそほんとうに万人力だと思った。ただ、その蜂矢大探偵が、今旅行で留守だとは、くれぐれも残念だった。

   生きている幽霊(ゆうれい)

 次の日の午後、道夫は川北先生を、木見家の両親に紹介することに成功した。
「そのように御親切にいって下さるのはたいへん有難いです。厚くお礼を申します。なにしろ娘の失踪事件の捜査は、当局でも事実上すっかり打切った形ですからね。親としてまことに情なく思う次第です」
 雪子の父親の木見武平(きみたけへい)は、そういっそ川北先生と道夫の訪問に礼をのべたが、しかし、禍(わざわい)が先生と道夫の上に降りかかるようなことがあっては心苦しいからと武平は灰色の頭をふって、辞退の意をもらした。
 しかし川北先生は、それは心配無用と答え、とにかく当局とは違った考えがでるかもしれないから、ぜひお嬢さんの研究室を見せてくれるようにたのんだ。
 これには武平も応じないわけにはいかなかった。それで二人をそちらへ連れていった。暗い長廊下を通って、別棟(べつむね)になっている研究室の扉までくると、武平は懐中から鍵をだしてそれを開いた。ぷーんと、薬品の匂いが、入口に立つ三人の鼻を打った。
「暗いですね、電灯をつけましょう。はてどこにあったかな、スイッチは……」
「小父(おじ)さん、ここにありますよ」
 道夫は、この研究室へよくきたことがあるので、案内には明るかった。彼は入口の戸棚の裏になっている壁スイッチをぴちんと上げた。と、室内は夜が明けたように明るくなった。
「ほう、これは……」
 川北先生が、思わず歓声(かんせい)を発した。先生はこの研究室の豪華さにおどろいたのであった。部屋の広さは十坪以上もあろうか、天井も壁も良質の白亜(はくあ)で塗装せられ、天井には大きなグローブが三つもついていて、部屋に蔭を生じないようになっていた。大きな実験台が、入口と対頂角をなしたところにすえてあり、電気の器具がならび、その向う側には薬品の小戸棚を越えてレトルトや試験管台や硝子(ガラス)製の蛇管(じゃかん)などが頭をだしていた。その左側には工作台があり、工作道具や計器の入った大きな戸棚に対していた。壁という壁は、戸棚をひかえていたが、大きな事務机が、部屋の右手の窓に向っておかれてあり、その右には書類戸棚が、左側には長椅子(ながいす)があった。また部屋の中央には、丸卓子(まるテーブル)があってその上には本や書類や小器具などが雑然と置いてあった。大理石の手洗器が、実験台の向うの隅(すみ)にあり、壁には電線の入った鉛管が並んで走っていた。個人の研究室としては実に豪華なものであった。
「こっちに図書室があります」
 武平は、部屋の東側の壁にかかっている藤色のカーテンをかかげて、その中へ入っていった。そのときであった。川北先生が道夫の身体をついて、ひくい早口で話しかけた。
「道夫君、君はこの部屋で女の首を見たといったね。その女の首は、どのへんに浮んでいたと思うのかね」
 道夫は、ぞっとして首をちぢめたが、
「そのへんです」
 といって実験台と丸卓子との中間を指さした。
「ここかね」
 川北先生は、そこまでいってみた。
「いえ、もっと丸卓子の方へよっているように思いました」
「するとここらだね」
 川北先生は、手を伸ばして丸卓子の上に大きな獅子のブックエンドにはさんである大きな帳簿をなでた。その帳簿は皮革の背表紙で「研究ノート」とあり第一冊から始まって第九冊まであった。
「どうぞこちらへ」
 図書室から武平が顔をだしたので、川北先生と道夫とは、そっちへいった。図書室には学術雑誌や洋書が棚にぎっちり並び、その外に器械もほうりこんであった。
「もう一つあちらに寝室がついています。それも見て頂きましょう」
 武平は図書室をでて再び広間に出、南側の壁にはめこんである扉の前に立った。扉には錠が下りていたので、武平は鍵をだして腰をかがめて、あけに懸(かか)った。が、鍵が違ったらしく、すぐにはあかなかった。道夫は武平の傍(そば)へいって手助けをしようとした。川北先生はその間、部屋をぐるぐる見廻(みまわ)していた。そのとき先生が入口の扉の方へ眼をやったとき、暗い廊下からこっちを覗(のぞ)きこんでいる背の低い洋装の少女があった。
(誰だろう。お手伝いかな。それとも親類の人かな)と思っているとき、寝室の扉があく音がした。
「あきました。どうぞこちらへ……」
 武平の声に、川北先生はそっちを見ると、武平と道夫は中へずんずん入っていく。
 川北先生は、それを追い駆けるようにして寝室へ入った。そこはくすぐったいような匂いと色調とを持った高雅な女性の寝室であった。ベッドは右奥の壁に――。
「ゆ、雪子、雪子……」
 突然昂奮(こうふん)した女の声がして、研究室の中へ駆け込んできた者がある。武平が、さっと顔色をかえて寝室を飛びだした。
「おい、どうしたんだ、そんな頓狂(とんきょう)な声をあげて。……おい、落着きなさい」
「ああ貴郎(あなた)。雪子ですよ、雪子が今、ここへ入ってきたでしょう」
「なに、雪子が……」
 武平の声がふるえた。
「さあ、わしは見なかったが……もっとくわしく話をなさい」
 道夫も、川北先生もすぐかけつけたが、昂奮している主は、雪子の母親だった。その母親のいうことに、たしかに雪子と思われる後姿(うしろすがた)の人影が、こっちの離家(はなれや)へ向って廊下を歩いていくのを見かけたので、すぐ声をかけながら後を追ってきたのだという。
 この話は一同をおどろかせた。そこで声をかけながら皆は其処此処(そこここ)を懸命に探したが、雪子の姿はどこにもなかった。どこからかでていったのではないですかと川北先生が聞いたが、武平夫妻の話では、この離家は出口がないのででていける筈はないし、窓も皆しまっているという。まことに変な話だ。
「お前、気の迷いじゃないか」
 武平はきいた。すると母親は首を強く左右へふって、
「いえ、たしかに見ましたですよ。廊下をこっちへ歩いていくのを……」
「変だね。でもたしかに入ってこないよ」
「じゃあ、あれは幽霊だったでしょうか」
「幽霊? そんなものが今時あるものか」
「いや、幽霊ですよ。幽霊にちがいないと思うわけは、後姿は雪子に違いないんですが、背がね、いやに低いんですよ」
 そういって武平夫妻がいいあらそっているとき、川北先生が突然大きな声をあげた。
「これは変だ。いつの間にか『研究ノート』の第九冊がなくなっているぞ。さっきまでたしかに第一冊から第九冊までそろっていたのに……」
 先生は丸卓子の上にならんだ「研究ノート」の列を指しながら唇(くちびる)をぶるぶるふるわせていた。
 怪また怪。果(はた)してそれは雪子の幽霊だけだろうか。引抜かれた「研究ノート」第九冊は誰が持っていったか。木見雪子学士の研究室には深い異変がこもっているように見える。

   問答(もんどう)

 道夫のおどろきはその絶頂に達した。
 雪子の幽霊が廊下を歩いてこっちへきたというのに、その影も形もない。そして室内にさっきまではたしかにあった研究ノート第九冊がなくなっているというのだ。なんという不思議なことの連続だろうか。
 が、道夫は大きなおどろきにあうと同時に勇気が百倍した。それは、今こそ一つの機会が到来しているのだと思った。雪子姉さんはかならずどこかこの付近にいるのに違いない。そういう気がした。そしてもっと熱心に、もっと機敏に探すならば、今にも雪子姉さんを発見できるのではないか。雪子姉さんはかならず生きている。でなければ、さっきまでこの部屋にたしかにあった研究ノートが突然紛失するなどということがあってたまるものではない。この廊下、この別棟にはほかに出入口はない行停(ゆきどま)りとは聞いたがどこかに誰も知らない抜け道があるのでなかろうかという気がした道夫は、いきなり研究室の北側の窓のところへかけよって外を見た。そこは庭園になっているのであるが、
「あっ、あいつだ」
 と、思わず大きな声で叫んだ。
 道夫の目が捕えたのは、今しも庭園の木蔭(こかげ)をくぐって足早に立去ろうとする老浮浪者の姿であった。
「誰?」
 川北先生が道夫の傍へ飛んできた。
「あの怪しい老浮浪者です。あいつを捕えましょう。あいつは、この窓の下から中の様子を見ていたか、それともこの部屋へ出入したかもしれないんです」
「この部屋へ出入りができるとも思われんが、とにかく捕えて詰問(きつもん)しよう。家宅侵入をおかしたことは確かだろう」
 川北先生と道夫は玄関へとびだした。そこで老浮浪者の先まわりをして、表の塀の西の方へ廻り、裏道へでた。
「やっ」
「いたぞ」
 細い道で、双方はぱったり出会った。川北先生と道夫は、相手をにらめつけながら、じりじりと傍へ寄った。老浮浪者の目にはちょっと狼狽(ろうばい)の気色(けしき)が見えたが、すぐ平静な態度になって、二人の横をすり抜けて通ろうとした。
「待ちたまえ。ちょっと聞きたいことがある」
 と川北先生がいった。
 すると老浮浪者はかぶりをふって、そのまま強引に通り過ぎようとした。
「待ちたまえというのに……」
 と、先生はとうとう老浮浪者の長い外套(がいとう)の腕をつかんで引きもどした。すると老浮浪者は足を停(と)めてのっそりと立停った。
「何をしていたのかね、君は。さっき木見さんの庭へ入りこんで怪しい振るまいをしていたが……」
 老浮浪者は、それを聞いても知らんふりをしていた。
「聞こえないのか、君は……」
 と、先生はもう一度、同じことを繰返した。すると老浮浪者は、ごそごそする髯面(ひげづら)を左右にふった。道夫はそれを見ると、さっきからこらえていた憤慨(ふんがい)を一時に爆発させて、
「僕はちゃんと見ましたよ。あんたが窓の下から逃げだしたところをね。木見さんのお嬢さんをかどわかしたのはあんたでしょう」
 それでも老浮浪者は、頭を左右にふるばかりであった。その質問を否定するのか、自分は耳が聞えず、二人のいうことが聞き取れないというのか、どっちだか分らなかった。
 川北先生は、相手が一通りの手段ではいかないことを知ると、態度を改めて、
「ねえ君。雪子さんの行方が知れないで木見さんのお宅ではほんとうにお気の毒にも歎(なげ)き悲しんでいられるのです。前後の事情から考えると、君はそれについて何かを知っていられるように思う。どうかわれわれなり、木見さんの家の人を助けると思って、君が知っていることを話して下さらんか。どんなにか感謝しますがねえ」
 川北先生の話をしている間に老浮浪者の面(おもて)には、何か感情が動いた瞬間があった。
「ねえ、分るでしょう。そうだ、これについて教えて下さい。さっきあの廊下を伝わって研究室の方へきた若い洋装の女の人は庭園の方へでてこなかったですか」
 老浮浪者は、一つだけ頭を横に振った。見なかったという返事らしい。
「ああ、ありがとう。次に……そうだ、君は窓から、今の話の若い洋装の女が部屋にいたのを見ましたか」
 老浮浪者は、かるく一つうなずいた。――道夫は老浮浪者が返事をしていると知って、新しい希望に心を躍(おど)らせた。
「ありがとう。もう一つ――研究室から研究ノート第九冊が見えなくなったが、誰が持っていったんだか、君は知っていますか」
 川北先生は重大な質問を発した。老浮浪者はどんな答をするかと、道夫は固唾(かたず)をのんで、相手の髯面を見つめた。
 すると老浮浪者は、大きな手袋をはめた両手を、自分の頭のところへあげ、長い髪(かみ)の毛を示すらしい手つきをし、それから片手で女の身体らしい形を作ってみせた。
「なに、するとあの研究ノートは、あの若い女が持っていったというのですか」
 先生は、さっと顔を硬(こわ)ばらせて聞いた。そんな奇怪なことがあっていいだろうか。いつの間にかあの生ける幽霊は研究室へ入って、あの研究ノートを持っていったものらしい。
 老浮浪者は、また一つうなずいたが、そのあとで大口をぱくぱく開いて、声なき笑いをしてみせた。
「じゃあもう一つ。あの若い洋装の女はどこからあの部屋をでていったですか」
 老浮浪者は大きく首をかしげたが、それには答えようともせず、すたすたと歩きだした。川北先生があわてて老浮浪者の袖(そで)をとってとどめた。が老浮浪者はその袖を払って川北先生を押し返した。よほどの力だったと見え、川北先生はどーんと後へ引っくり返って土にまみれた。道夫がおどろいて老浮浪者にとびついたが、たちまち彼も、はげしく突き飛ばされた。なんという怪力であろう、老人のくせに……。
 老浮浪者は、さっさと立去った。

   怪しい影来(きた)る

 その次の日は土曜日であったので、お昼がすむと、川北先生は道夫といっしょに木見邸を訪ねた。
 雪子の母親は寝込んでいた。昨日雪子の幽霊をみてからすっかり気を落してしまったのである。
 娘は死んだものに違いないと考えるようになったからだ。
 川北先生と道夫とは、まだそう決めるのは早すぎることを交(かわ)る交る説いた。そして先生よりも道夫の方がそれを熱心にいいはったのだった。
 雪子の父親は不在だった。川北先生と道夫は、雪子の母親の許しを得て、研究室をもう一度調べさせてもらうことにした。
 例のうす暗い長廊下を渡って、別棟の研究室へいった。扉の錠を外して、再び室内へ入った。
「ほら、やっぱり無い」
 川北先生は、部屋の中央に近い卓子(テーブル)のところへいって、本立の間に並べて立ててある、研究ノートの列を指した。前日同様、研究ノート第九冊は見えず、それがあったところだけが、歯が抜けたようになっていた。道夫少年は背中が急に寒くなった。
「ほんとうに、なぜ無くなったんでしょうね。幽霊がもっていってしまったんでしょうか」
 道夫には解けない謎だった。川北先生も首をひねって当惑顔だった。
「幽霊なら、物を持っていく力はないだろうと思うがね。物を持っていくかぎりそれは幽霊ではなく、生きてる人間だと思う」
 先生はそういった。
 そこで、どこかこの部屋から外へ抜ける秘密の通路があるに違いないという見込みをたてて、二人は部屋を今日こそ徹底的に調べにかかった。
 研究室だけではなく、それに続いた図書室や寝室も調べてみた。壁も叩(たた)いて、調べ、天井は棒でつきあげてみたし、床はリノリウムのつぎ目をはがしてまで調べた。戸棚類はみんな動かした。積上げてあった本の山は、いちいちおろしたし、重い器械は動かした。
 そんなに念入りに調べてみたが、その結果は見込みはずれであった。
「どこにも出入りできるところはないと断定しなければならなくなったわけだね」
 先生は三時間に近い力仕事と緊張とにすっかり疲れて、椅子(いす)の一つに身体をなげかけていった。
「ほんとうに秘密の出入口はないのですね。すると昨日現われたという雪子姉さんの姿は、やっぱり幽霊だったのでしょうか。それとも、気の迷いで、見たように思ったのでしょうか」
「いや、気の迷いなんてことはないよ。お母さんが見たばかりでなく、実は先生も雪子さんらしい姿が廊下から、この部屋をのぞきこんでいるところを、実際に見たんだからね」と、川北先生は、あの話をした。
「それにあの怪しい老人の浮浪者も見たらしいからね。しかもあの研究ノート第九冊を、雪子さんが持去るところを見たといったようだ。とにかく三人も見た人があるんだから、昨日ここへ雪子さんが姿を現わしたことは間違いなしだと思う」
「じゃあ、やっぱりそれは雪子姉さんの幽霊ですね」
「問題はそこだ。果して幽霊かどうか。もう一度現われてくれれば、きっとそれをはっきり確めることができると思うんだが……」
 そういって川北先生は、深刻な表情をした。日はもう暮れ方に近づき、それに雨がきたらしく雲が急に重く垂(た)れこめて、室内は暗くなった。道夫は壁のスイッチをひねって電灯をつけた。川北先生も椅子から立上がった。
「さあ、これからどうするかな」
 そういって先生は、次の捜査方針をどうたてたものかと、室内をぐるっと見渡した。
「おやッ。あ、あ……」
 先生が異様な声をだした。道夫はそのとき戸棚の中の薬品を見ていたのだが、先生の声におどろいて、その方をふりかえった。すると先生は蒼白(そうはく)にして、塑像(そぞう)のように硬直していた。そして先生の眼は戸口へ釘(くぎ)づけになっている!
「あっ!」
 こんどは道夫が叫んだ。ふりかえった彼の前をすれすれに、朦朧(もうろう)たる人影が、音もなく通り過ぎて部屋の中へ入ってきた。何であろう。何者であろう。
 道夫は全身を電気に撃たれたように感じ、怪しい影の後姿(うしろすがた)を見つめたままその場に立ちすくんだ。

   幽霊追跡

「木見さんのお嬢さんですね。お話があります。お待ちなさい」
 川北先生は、あえぎながら、これだけの言葉をやっと咽喉(のど)からしぼりだした。
(そうだ、雪子姉さんだ)
 朦朧たる人影は後姿ながら、それは道夫に見覚えのある服をきた雪子に違いない。
 怪しい人影は、図書室の入口の前あたりをしずかにあるいていた。川北先生と道夫の位置は、この怪しい影をはさんでいる関係にあった。
 が、怪しい影は、川北先生に返事をしようともせずそのまま図書室の中へ消えた。
「お待ちなさい、お嬢さん」
 川北先生は、勇気をふるいおこして、怪しい影の後から図書室へ飛びこんだ。道夫もそれに続いた。あれが雪子の幽霊か幽霊でないか、たしかめるには絶好の機会だ。そう思うと、さきほどの恐怖と戦慄(せんりつ)が、幾分へった。
 と、雪子の怪影は、図書室の真中にたたずんでいた。川北先生は腕をのばして、怪影の腕をつかもうとした。
 すると怪影は、風のようにすうっと前へ移動し、先生の手は空(むな)しく空気をつかんだ。
「しばらく、しばらく、お母さまが心配していられるのです。しばらく待って下さい」
 川北先生は哀願するように、怪影の後から呼びかけた。だが怪影の耳には、その言葉が入らないのか、そのままつつうと前に進んだ。
「あ、外へでる。壁を通りぬけて……」
 と叫んで、道夫はわれとわが眼を疑った。が、それは事実だった。怪影は、図書室の奥の壁につきあたると、そのまま壁の中に姿を消していったのである。
「ああ!」
 川北先生もそれを見て取って、今や壁の中に消えんとする怪影を引きとめようと突進したのであるが、それは僅(わず)かに時おそく、先生は壁にいやというほどぶつかったばかりだった。
「失敗(しま)った。どうしよう」
 川北先生の顔は、子供の泣顔のようにゆがんでいた。
「窓をあけて、追いかけましょう。間にあうかもしれないです」
「そうだ、窓をあけろ」
 身の軽い道夫は、大急ぎで図書室をでて研究室に入ると雪子の大机の上へとびあがり窓をあけた。と彼の横をすりぬけて川北先生が猟犬のように窓からぽいと外へ飛びだした。
 道夫もそれに続いて、窓を飛び越え、庭園へ下りた。
「あ、痛……」
 道夫の飛び下りたところには、生憎(あいにく)石があったために、彼は足首をぎゅっとねじり、関節をどうかした。身体の中心を失った道夫はその場に横たおしとなった。
「ああっ、痛い……」
 起上ろうとするが、右足首の関節が痛いので力がはいらない。残念である。彼は川北先生の方が心配になり、足首を手でおさえて、芝生(しばふ)の上に半身を起した。
「おお……」
 先生は、見事に雪子をとらえていた。松の木と八(や)つ手(で)のしげっている暗い木蔭の下で、先生は雪子の後から組みついていた。このとき雪子の姿が、さっきよりもずっと明瞭(めいりょう)に見えた。道夫は、先生に力を貸さなければと、起上ろうとした。が、やっぱり駄目だった。
「先生、……雪子姉さん……」
 道夫は芝生の上をはいながら、二人の方へ一糎(センチ)でも近づこうと努力しながら雪子と川北先生のようすを凝視(ぎょうし)した。
 そのとき彼は、雪子がもがきながら、後へ上半身をねじって、川北先生を突きはなそうと懸命に力をだしているのを見てとった。雪子姉さんは何かを誤解しているのであろう。そんなことをしないで、おとなしく川北先生の腕の中に引き留められていればいいのにと道夫は思った。
 川北先生は、雪子の懸命の反抗にも、忍耐づよくこらいえている様子だった。彼は雪子を後から抱きすくめたまま、金輪際(こんりんざい)はなそうとはしなかった。
 が、そのときである。道夫はにわかに、予期しなかった不安に襲われた。というのは、互いに搦(から)みついている二人の姿が急にぼんやりしてきたからである。
「先生、どうしたんです……」
 そういう間にも、揉(も)み合った先生と雪子の姿は、ますますぼんやりしてきて、やがて道夫の眼には見えなくなった。彼は息のとまるほどおどろいた。
 彼は、それでもまだその異変がそれほどおそるべきこととは気がつかず、或(ある)いは眼の見まちがえかと思いながら、無理に芝生に立上り、よろめきながら、現場に近寄った。
 二人の姿は、完全になかった。
 するとどこかの木蔭へかくれたのかと思い、庭園のあちらこちらを探したが、雪子姉さんの姿はもちろん川北先生の姿さえ、どこにもなかった。生垣(いけがき)をこして、路(みち)へでてしまったが、そこにも姿はなかった。
 このとき道夫の叫び声を聞きつけて、隣組の人々がばらばらとかけつけてきた。そして道夫にわけをたずねたので彼はそのわけを一通り話をした。だが誰も生きている幽霊のことや、川北先生が急に消えてしまったことについては信ずる者はなかったが、とにかくどこかにその二人がいるのであろうと、一同は手わけしてそのあたりをくまなく探してくれることになった。
 その間道夫は、格闘のあった元の木蔭に戻ってきて、なおよく調べた。彼はその途中、ふと気がついて、八つ手の下に入り乱れてついている、川北先生の足跡をたどってみた。すると不思議な事実が判明した。先生の足跡は、現場以外のどこへも伸びていないのであった。そしてもう一つ不思議なことに、雪子の足跡の方はただの一つも見当らなかった。
 隣組の人たちは、さんざんそこらあたりを探したが、やっぱり見当らないと報告した。怪また怪。雪子の生ける幽霊と川北先生とはどこへいってしまったのだろうか。

   隣組総出

 雪子学士の幽霊が再び現われたこと、そして川北先生が幽霊と取組んだまま姿を消したこと――この二つの怪奇きわまる事件は、目撃者である道夫少年の話によって、そこら界隈(かいわい)に驚愕(きょうがく)と戦慄の大きな波紋をひろがらせていった。
「ふしぎですなあ。やっぱりこの世に幽霊というものがあるんですかねえ」
 隣組の、ある銀行の支店長は、帽子のあご紐(ひも)をかけながら、顔をこわばらせた。
「この前は、うちの家内(かない)の神経のせいじゃろうと、あまり問題にもしないでいましたが、こうたびたび現われるようだと、あれは本当に幽霊かもしれんですなあ」
 外出先から帰ってきた雪子の父親武平がさわぎの仲間に加わって、こんな感想をのべた。
「もっとふしぎなことは川北先生の姿が消えてしまったことなんです。あの松の木で完全に姿が見えなくなったんです。一体どういうわけでしょう」
 目撃者の道夫は、川北先生のことを問題としてだした。
「どういうわけでしょうね。幽霊が消えるのはわかっているが、生きている人間まで消えてなくなるというのは、さっぱり訳がわからない」
「その川北先生は、幽霊を追いかけて、遠くまでいってしまったんじゃないですか。そのうち先生は、ふうふういいながら、ここへもどってこられるのではないですかな」
 いろいろな説がでる。
「いや、川北先生は遠くへいくはずがないんです。先生の足跡は、松の木の下で消えているのです。遠くへいったものなら、先生の足跡がそっちへ続いていなければなりません」
 道夫は、遠走り説をうち消した。
「でも、それはあまりにふしぎ過ぎるからねえ。松の下から垣根へぬけて往来へでれば、往来は土がかたいから、そこにはもう足跡がつかないわけでしょう。だから足跡が松の木の下で消えているように見えるのではないですか」
 そういったのは、某省につとめる技術者であった。
「いや、そうではないのです。先生の足跡の最後のものがついている地点から、垣根を越えて往来までの距離は、約十メートルもありますよ。その十メートルの間に、どこにも足跡がついていないんです。すると小父さんのお話が本当だとすると、川北先生はこの十メートルの距離を、一度も地上に足をつかないで飛び越えたことになります。十メートルも跳躍することは人間業じゃできないことだと思います」
 道夫少年のこの推理の正しいことが、誰にも了解された。が、そうなると、川北先生の失踪の説明は一層つかなくなる。ただふしぎふしぎというばかりであった。
「われわれの手に負えませんなあ。どうです。やっぱりできるだけ早くその筋へ申告して、警視庁の手で調べて貰(もら)うことにしてはどうですか」
「そうだ。そうする外、道がありませんねえ」
 これで方針が一応おさまるところへおさまったようである。その証拠には、隣組の人たちはもう誰も発言せず、夕暗(ゆうやみ)の迫る中にじっと塑像(そぞう)のように立ちつくしていた。
 が、そのときであった。突然、金切り声が一同の鼓膜(こまく)をつんざいた。女の声らしい。その声の起ったのは、どうやら木見さんの家の中のように思われた。一同ははっとおどろいて互いの顔を見合わせた。
「あ、あれはうちの家内の声のようだ」
 武平はそういってかけだした。
「ああ、木見さんの奥さんの声……」
「さあ、皆いってみましょう」
 一同は武平のあとを追い、庭をぐるっと廻(まわ)って、木見邸の表座敷の方へかけだした。
 かけつけてみると、それは果して雪子の母親の発した叫び声だとわかった。
「何を見たって、やっぱり雪子の幽霊かッ」
 武平は、座敷へ飛び上って、夫人をかかえ起しながら、息せき切ってきいている。
「わたしは、お父さんが外から家へ上って廊下を歩いていなさるのだと思っていたんです。でも、何だか変だから、立っていって廊下の方をすかして見たんですの。廊下はうすぐらくて、よく見分けがつかなかったんですけれど、たしかに黒い人影が向うへ動いていきます。背の低い、熊のようにまっくろな者が離家(はなれや)の方へ。……ああ、こわかった」
「雪子の幽霊なのか、幽霊じゃないのか」
「さあ、どうでしょうか、でも雪子の幽霊なら、その後姿はありありと見える筈なんですがね、ところが今見たのはただまっくろでしたよ」
「よし、そうか。離れの方へいったんだな。皆さん、手を貸して頂きましょう」
 武平の言葉に、隣組の人たちはもじもじしながら、それでも上へあがった。そして武平を先にして廊下に一かたまりになって、たがいの身体を押しあいながら、雪子の研究室の方へ忍び足で近づいていったのである。

   何者?

 誰も彼も、息をのみ、全神経を耳と目に集めて、もし怪奇があらば、真先に自分がそれを見つけて声をあげるつもりだった。全身の毛穴がぞくぞくしてくる。足がだんだんと重くなって、先へ進みかねる。
 と、研究室の中と思われるところから、ざらざらと硬い物のすれ合うような音がしそれに続いて、何だか溜息(ためいき)のようなものが聞えた。
「おッ……」
 研究室を目指す一同の足は、もう一歩も前には進まなくなった。
(あれは何物だろう? あれは何の音か?)
 そのとき、研究室の中で、第二の物音が聞えた。それは前回よりもずっと大きいはっきりした物音で、何か物がぶっつかったようで、それにぴいんと硝子(ガラス)の響くような音もまじっていた。
「早くいってみましょう。研究室へ……」
 道夫が叫んだ。
「よし、いこう」
 互いに相手を前へ押しやるようにして、一同はどやどやと研究室へなだれこんだ。
 電灯がついた。道夫がそうしたのだ。
 室内は明るくなった。一同は拳(こぶし)を固く握って、きょろきょろと各自のまわりを見廻(みまわ)した。
 だが、何にも異状を発見することができなかった。
「いないぞ、どうしたんだろう」
「たしかに誰かこの部屋にいたんだが……」
 いないとなると、一同は少しく元気を取り戻した。いない、誰もいない。研究室に隣合った寝室にも図書室にも、机の下にも戸棚の蔭にも、猫一匹ひそんでいなかった。
「いないぞ、変だなあ」
「でも、この部屋でたしかに人のいる気配(けはい)と物音がした」
「あれはすぐ消えて見えなくなるのじゃないですか」
 幽霊は――というのをさけて、あれはといった。
「あれが、あんな大きな物音をたてるというのはふしぎだ。あれは元来静かなもので、ただ自分がかぼそい声をだして、『恨(うら)めしや』とかなんとか……」
「よしたまえ、そんな変な声をだすのは」
 といっているとき、道夫が大声をあげた。
「わかった。これだ」
 道夫は硝子窓を指(ゆびさ)している。
「えっ。わかったとは何が……」
「この硝子窓があいているのです」
「硝子窓は閉っているじゃないか」
「いや、この窓は一旦(いったん)あけられた上で閉められたんです」
「どういうのですって」

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