英本土上陸作戦の前夜
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著者名:海野十三 

「おお、落下傘部隊(デザント)が下りる。ああ、ダンケルク戦線そっくりだ!」
 ああダンケルク戦線! 彼は全身に、電撃をうけたように感じた。
「ああ、ダンケルク! おお、そうだ。思い出したぞ!」
 その瞬間に、彼は、今の今迄喪失(そうしつ)していた一切の過去の記憶を取り戻した。
 おお、覚醒(かくせい)! 記憶は蘇(よみがえ)った。奇蹟(きせき)だ、大奇蹟だ!
 彼は、灼鉄と硝煙(しょうえん)と閃光と鳴動(めいどう)との中に包まれたまま、爆発するような歓喜(かんき)を感じた。その瞬間に、彼から、仏天青(フォー・テンチン)なる中国人の霊魂(れいこん)と性格とが、白煙(はくえん)のように飛び去った。それに代って、駐仏日本大使館付武官(ちゅうふつにっぽんたいしかんづきぶかん)福士大尉(ふくしたいい)の烈々(れつれつ)たる気魄(きはく)が蘇って来た。
「おッ、俺は、今まで、何を莫迦(ばか)な夢を見ていたのだろうなあ!」
 アーガス博士の治療を待つまでもなかった。彼――福士大尉の、喪(うしな)われたる記憶は、その一瞬の間に、完全に恢復(かいふく)したのだった――ドクター・ヒルが示唆(しさ)したところと、ぴたりと一致する経過をとって……。
 輝(かがや)かしい福士大尉の復帰(ふっき)!
「アンは、どうした」
 大尉は、目を瞠(みは)って、アンを探した。赤外線標識灯は、台ばかりになっていた。アンは、その下に倒れていた。ボジャックも亦(また)……
「アン、どうした。しっかりせい」
 大尉は、アンを抱(かか)え起してみると、胸一面の血だった。胸をやられている! 大尉の声が通じたものか、アンは、薄目を開いた。
「ボジャックは?」
「ボジャックは、ここにいる。ああ、気の毒だが、とうの昔に……」
「そう。あたしも、もう……」
「これ、しっかりしろ。アン」
「あなた。アンは、あなたに感謝します。われわれ第五列部隊は、監獄にまで手を伸ばして、あなたを利用しましたが、許してください。祖国ドイツは……」
「そんなことは、わかっとる。アン、死んじゃ駄目だぞ」
「あなたは、ご存知(ぞんじ)ないが、あなたは、日本の将校なんです」
「それは知っている。おれは、福士大尉だ。爆撃の嵐の中に、おれは記憶を恢復したのだ。悦(よろこ)んでくれ」
「ああ、そうだったの。道理(どうり)で、お元気な声だと思ったわ」
「アン、なにもかも、思い出したよ。あの油に汚れたハンカチも、ぼろぼろの服も、みんなダンケルクの戦闘の中にいたせいだ。おれは、飛行機を操縦してドーヴァを越えて、この英国(えいこく)に飛んだのだ。そのとき、既(すで)に負傷していた。同乗させてやった中国人仏天青は機上で死んだが、おれは、いつの間にか、その先生の服を持っていたんだ。おれは飛行機を、夜間着陸させるのに苦しんだが、遂(つい)に飛行場が見つからず、その後は憶(おぼ)えていない。それ以後、おれの記憶が消えてしまったんだ。何をして監獄へ入れられたか、そいつは知らない。おい、アン――アン、どうした」
「あなた、最後のお願い……あたしのために、こういってよ……」
「アン、しっかりしろ。何というのか」
「……こう、いうのよ。ヒ、ヒットラーに代(かわ)りて、第五列部隊のフン大尉に告ぐ」
「えっ、第五列部隊のフン大尉に?」
「そう、そうなの、あたしのことよ。……汝は、大ドイツのため、忠実に職務を……あなた……」
「しっかりせんか、アン――いや、フン大尉。君の壮烈(そうれつ)なる戦死のことは、きっとおれが、お前の敬愛するヒットラー総統(そうとう)に伝達(でんたつ)してやるぞッ!」
 福士大尉は、アンの耳に口をつけて、肺腑(はいふ)をしぼるような声で、最後の言葉を送った。
 そのとき、夜は、ほのぼのと、明け放れた。頭上には、精鋭なるドイツ機隊の翼(つばさ)の輝(かがや)き、そして海岸には、平舟(ひらぶね)の舷(ふなべり)をのり越えて、黒き洪水(こうずい)のような戦車部隊が!
 ドイツ軍大勝利の閧(とき)の声と共に、上陸作戦の夜は、明け放れたのであった。
 福士大尉は、情報報告のため、直(ただ)ちにこのクリムスビーを発足(ほっそく)すべく、アンの亡骸(なきがら)をそっと下に置いて、立ち上った。




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