英本土上陸作戦の前夜
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著者名:海野十三 

 空襲見物では、あまりに物好(ものず)きである。彼は、自分のことは棚(たな)に上げて、そう思った。
 その二つの人影は、屋上から躯(からだ)をのりださんばかりにして、何か、映画に使うような移動照明器(いどうしょうめいき)のようなものを、動かしている。
(おかしい。防空隊の照明班にしては、あまりに小規模(しょうきぼ)だし……)
 彼は、爆撃中の危険も忘れて、その二つの人影の行動に、好奇心を沸(わ)かした。そして、その傍(そば)へ行って見る気になったのである。
 彼は、梯子を登り切って、その人影の方へ歩いていった。向うでは、彼が近づいてくるのに全然気がつかないようであった。
「ああ、あれは、アンじゃないか」
 彼の心臓は、どきんと鳴った。
「何をしているのですか」
 彼は、二人の傍へいって、声を懸けた。
「ああッ」
 二つの顔が、一せいに彼の方へ向いて、そして歪(ゆが)んだ。アンと、もう一人は、ボジャック氏だった。
「お待ち、ボジャック!」
 アンが、ボジャックに飛びかかって、腕をおさえた。ボジャックの手には、ピストルが握られていた。そして、喰いつきそうな顔で仏を睨(にら)みつけている。
 仏(フォー)は、刹那(せつな)に、一切(いっさい)を悟った。
(そうだったか。二人とも、ドイツ側のスパイだったんだな)
 そう感じたが、なぜか、彼は、それほど愕(おどろ)かなかった。
「あなた。さっきのお約束をお破りになる?」
 アンが、ボジャックの腕を必死になって、抑(おさ)えながらいった。
「……約束は、守るよ。だが、説明をしてもらいたいものだ」
「なにを……こいつを、やっつけたが、早道だ」
「お待ち。命令だ、撃ってはならない。それよりも、早く赤外線標識灯(せきがいせんひょうしきとう)を、沖合(おきあい)へ!」
 アンは、上官のような厳(おごそ)かな態度で叫んだ。
「私は、皆さんの邪魔(じゃま)をしまい。私は、傍観者(ぼうかんしゃ)だ」
「あたしは、あなたを信じます。あたしたちは、祖国(そこく)ドイツを光栄あらしめるために、生命(せいめい)を捧(ささ)げて、今最後の職場につくのです。邪魔をしないでください」
「よし、わかった。おれは約束を守るぞ」
「ありがとう――ボジャック、早く光源(こうげん)を……」
「おお」
 ボジャックは、再び台の上の機械にとりついた。スイッチが入ったのか、遂(つい)に点火した。しかし外へは、光がすこしも出ない。赤外線灯の特徴(とくちょう)である。それは、遥(はる)かの海上及び空中に待機する五万にのぼるドイツ軍のための生命の目標だった。この目標によって、彼等ドイツ軍は、この払暁(ふつぎょう)、このハンバー河口の機雷原(きらいげん)と高射砲弾幕(こうしゃほうだんまく)とを突破して、この地に上陸作戦を敢行(かんこう)する手筈(てはず)だった――仏天青も、ようやくそれを悟(さと)った。
 この赤外線標識灯が点火したのが合図のように、上陸作戦軍を援護(えんご)する猛烈なる砲撃戦が始まった。更に空中よりは、ものすごい数量にのぼる巨大爆弾が、釣瓶打(つるべう)ちに投下され、天地も崩(くず)れんばかりの爆音が、耳を聞えなくし、そして網膜(もうまく)の底を焼いた。
 砲撃は、ますます熾烈(しれつ)さを加え、これに応酬(おうしゅう)するかのように、イギリス軍の陣地や砲台よりは、高射砲弾が、附近の空一面に、煙花(はなび)よりも豪華な空中の祭典を展開した。
「大丈夫、ボジャック」
「大丈夫!」
 二人の戦士は、脇目(わきめ)もふらず、標識灯を守りつづけている。
 砲撃目標が、だんだん山の方に近づいて来た。それと諜(しめ)し合(あ)わせたように、空中からの爆撃も、急に山の方に移動してきた。
「ほう、来るな」
 仏天青(フォー・テンチン)は、身の危険を感じた。しかし、ふしぎとその場を放れる気がしなかった。アンたちも、最後の職場を死守しているのだ。しかし、これは、えらいことになるぞ!
 果して、それから五分間ばかり経(た)つと、砲撃目標は、俄然(がぜん)跳躍(ちょうやく)した。砲弾は、この研究所の前方に落ち、それから、彼等の頭上をとび越えて、後(うしろ)の山上に落ちて、ものすごい音響(おんきょう)と閃光(せんこう)とそして吹き倒すような爆風(ばくふう)とを齎(もたら)した。
「あぶない」仏は、屋上に腹匍(はらば)った。
 とたんに、どどどどーンと、ぶっつづけに大爆音が聞え、耳はガーンとなってしまった。そして、あたりは火の海となったかと思われた。それをきっかけのように、ひっきりなしに砲弾と爆弾とが降って来た。身を避けるものは何もない。彼は灼鉄(しゃくてつ)炎々(えんえん)と立ちのぼる坩堝(るつぼ)の中に身を投じたように感じた――が、そのあとは、意識を失ってしまった。
 不図(ふと)、気がついたときには、あたりの風景は一変していた。附近一帯は、炎々たる火焔(かえん)に包まれていた。屋上は、半分ばかり、どこかへ持っていかれてしまっている。
 彼は、むくむくと起きあがって、空を見上げた。高射砲弾は、盛(さか)んに頭上で炸裂(さくれつ)していた。照空灯(しょうくうとう)と照明弾とが、空中で噛(か)み合っていた。その中に、真白な無数の茸(きのこ)がふわりふわりと浮いていた。落下傘部隊(らっかさんぶたい)であった。ドイツ軍の上陸は、遂(つい)に開始せられたのであった!
「おお、落下傘部隊(デザント)が下りる。ああ、ダンケルク戦線そっくりだ!」
 ああダンケルク戦線! 彼は全身に、電撃をうけたように感じた。
「ああ、ダンケルク! おお、そうだ。思い出したぞ!」
 その瞬間に、彼は、今の今迄喪失(そうしつ)していた一切の過去の記憶を取り戻した。
 おお、覚醒(かくせい)! 記憶は蘇(よみがえ)った。奇蹟(きせき)だ、大奇蹟だ!
 彼は、灼鉄と硝煙(しょうえん)と閃光と鳴動(めいどう)との中に包まれたまま、爆発するような歓喜(かんき)を感じた。その瞬間に、彼から、仏天青(フォー・テンチン)なる中国人の霊魂(れいこん)と性格とが、白煙(はくえん)のように飛び去った。それに代って、駐仏日本大使館付武官(ちゅうふつにっぽんたいしかんづきぶかん)福士大尉(ふくしたいい)の烈々(れつれつ)たる気魄(きはく)が蘇って来た。
「おッ、俺は、今まで、何を莫迦(ばか)な夢を見ていたのだろうなあ!」
 アーガス博士の治療を待つまでもなかった。彼――福士大尉の、喪(うしな)われたる記憶は、その一瞬の間に、完全に恢復(かいふく)したのだった――ドクター・ヒルが示唆(しさ)したところと、ぴたりと一致する経過をとって……。
 輝(かがや)かしい福士大尉の復帰(ふっき)!
「アンは、どうした」
 大尉は、目を瞠(みは)って、アンを探した。赤外線標識灯は、台ばかりになっていた。アンは、その下に倒れていた。ボジャックも亦(また)……
「アン、どうした。しっかりせい」
 大尉は、アンを抱(かか)え起してみると、胸一面の血だった。胸をやられている! 大尉の声が通じたものか、アンは、薄目を開いた。
「ボジャックは?」
「ボジャックは、ここにいる。ああ、気の毒だが、とうの昔に……」
「そう。あたしも、もう……」
「これ、しっかりしろ。アン」
「あなた。アンは、あなたに感謝します。われわれ第五列部隊は、監獄にまで手を伸ばして、あなたを利用しましたが、許してください。祖国ドイツは……」
「そんなことは、わかっとる。アン、死んじゃ駄目だぞ」
「あなたは、ご存知(ぞんじ)ないが、あなたは、日本の将校なんです」
「それは知っている。おれは、福士大尉だ。爆撃の嵐の中に、おれは記憶を恢復したのだ。悦(よろこ)んでくれ」
「ああ、そうだったの。道理(どうり)で、お元気な声だと思ったわ」
「アン、なにもかも、思い出したよ。あの油に汚れたハンカチも、ぼろぼろの服も、みんなダンケルクの戦闘の中にいたせいだ。おれは、飛行機を操縦してドーヴァを越えて、この英国(えいこく)に飛んだのだ。そのとき、既(すで)に負傷していた。同乗させてやった中国人仏天青は機上で死んだが、おれは、いつの間にか、その先生の服を持っていたんだ。おれは飛行機を、夜間着陸させるのに苦しんだが、遂(つい)に飛行場が見つからず、その後は憶(おぼ)えていない。それ以後、おれの記憶が消えてしまったんだ。何をして監獄へ入れられたか、そいつは知らない。おい、アン――アン、どうした」
「あなた、最後のお願い……あたしのために、こういってよ……」
「アン、しっかりしろ。何というのか」
「……こう、いうのよ。ヒ、ヒットラーに代(かわ)りて、第五列部隊のフン大尉に告ぐ」
「えっ、第五列部隊のフン大尉に?」
「そう、そうなの、あたしのことよ。……汝は、大ドイツのため、忠実に職務を……あなた……」
「しっかりせんか、アン――いや、フン大尉。君の壮烈(そうれつ)なる戦死のことは、きっとおれが、お前の敬愛するヒットラー総統(そうとう)に伝達(でんたつ)してやるぞッ!」
 福士大尉は、アンの耳に口をつけて、肺腑(はいふ)をしぼるような声で、最後の言葉を送った。
 そのとき、夜は、ほのぼのと、明け放れた。頭上には、精鋭なるドイツ機隊の翼(つばさ)の輝(かがや)き、そして海岸には、平舟(ひらぶね)の舷(ふなべり)をのり越えて、黒き洪水(こうずい)のような戦車部隊が!
 ドイツ軍大勝利の閧(とき)の声と共に、上陸作戦の夜は、明け放れたのであった。
 福士大尉は、情報報告のため、直(ただ)ちにこのクリムスビーを発足(ほっそく)すべく、アンの亡骸(なきがら)をそっと下に置いて、立ち上った。




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