英本土上陸作戦の前夜
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著者名:海野十三 

 といいながらも、ドクター・ヒルは、そこに並べられた品物を、一つ一つ、念入りに拡大鏡(かくだいきょう)の下に見ていたが、やがて腰を伸ばし、
「私の拝見したところで、最も興味を惹(ひ)かれるものが二点あります。それは、この汚れ切って破れ目だらけの服と、それからもう一つは、油じみたハンカチーフです」
「はあ、そうですか。そんなものが、私の素姓(すじょう)について、一体なにを語っていましょうか」
「さあ、それは、私の力では、はっきり解(と)いてお話することが出来ないのです。こういう方面にすこぶる明るい私の友人を御紹介しましょう。アーガス博士といいますが、クリムスビーに住んで鑑識研究所を開いています。そこへいらっしゃるがいいでしょう。このズボンについている泥だとか、ハンカチーフについている血や油などについて、彼はきっと、あなたをびっくりさせるに充分(じゅうぶん)な鑑定(かんてい)をなすことでしょう」
「あ、そうですか。それは、実にありがたい。アーガス博士でしたね」
「そうです。博士は、ひところ、警視庁でも活躍していた人ですが、今は、自分の研究所に立て籠(こも)っています」
「クリムスビーですか。どこでしょうか、その、クリムスビーというのは」
「クリムスビーというと、北海(ほっかい)へ注(そそ)ぐハンバー河口(かこう)を入って、すぐ南側にある小さい町です。河口は、なかなかいい港になっています」
「はあ。北海に面した良港の中にあるのですね。じゃあ、私はすぐ、そのクリムスビーへいって、アーガス博士にお願いしてみましょう」
「いま、紹介状を書いてさし上げます、ミスター・F!」


     15


 午後遅くクリムスビーの駅に下りて、仏天青(フォー・テンチン)はおどろいた。こんなものものしい警戒は、はじめて見た。
“中国大使館参事官仏天青氏を御紹介す。アーガス博士殿”
 というドクター・ヒルの紹介状が、とんだところで効(き)き目をあらわして、仏は、無事に駅の階段を、町へ降りることが出来た。
「アーガス博士の鑑識(かんしき)研究所へやってくれないかね」
 駅の前に待っているタクシーの運転手に話しかけると、黙って、隣りを指した。
 タクシーの隣りには、馬車があった。老人の馭者(ぎょしゃ)が、この喧噪(けんそう)の中に、こっくりこっくり居眠りをしていた。馬車とは愕(おどろ)いたが、
「アーガス博士の鑑識研究所へいってくれるかね」
 と、仏が大きい声で怒鳴(どな)ると、馭者の老人は、やっと目を覚ました。そして二三度、丁寧に聞き返した後で、さあ乗って下さいといった。
 馬車は、雑閙(ざっとう)する町を後にして、山道にかかった。
「爺さん、鑑識研究所だよ」
「わかっていますよ。鑑識研究所は、この山のうえだ。あと三十分かかるよ」
「なあんだ、山の上に在(あ)るのか」
 馬車にゆられていくほどに、仏天青は、眼下に開けるハンバー湾のものものしい光景に、異常な興味を覚えた。
 河口(かこう)には、たしかに防潜網(ぼうせんもう)を吊っているらしい浮標(ブイ)が、夥(おびただ)しく浮び、河口を出ていく数隻(すうせき)の商船群(しょうせんぐん)の前には、赤い旗をたてた水先案内(みずさきあんない)らしい船が見えるが、これは機雷原(きらいげん)を避(さ)けていくためであろう。またはるかに港外には駆逐艦隊(くちくかんたい)が活発(かっぱつ)に走っていた。
(ドイツ軍の上陸作戦を、極度(きょくど)に恐れているのだな)
 仏(フォー)は、河口の異風景(いふうけい)に気を取られているうちに、馬車は、いつの間にか、小さい山を一つ登って、鑑識研究所の前についた。
 仏は、門衛(もんえい)に、刺(し)を通じた。
 門衛は、紹介状の表を見て、本館へ電話をかけた。
「所長は、生憎(あいにく)出張中ですが、今夜あたり、ここへお戻りです。副長(ふくちょう)からのお話ですが、明朝(みょうちょう)、もう一度、御出で願うか、それとも御急ぎなら、所に附属している宿泊所(しゅくはくじょ)で、お待ちになってはということでございますが、どっちになさいますか」
「そうですか。では……では、宿泊所へ案内して頂きましょうか。私は、早く博士にお目に懸(かか)りたいのでしてね」
「よろしゅうございます」
 門衛は、別なところへ、電話をかけた。そして、副長の命令により客人(きゃくじん)のため室を用意するようにいった。
「今、宿泊所の女が迎えに参りますから、ちょっとお待ちを」
 仏天青(フォー・テンチン)は、礼をいって、鞄(かばん)を下に置いた。
「なかなかここは眺望(ちょうぼう)もいいし、そして広大ですね」
「そうです。ここは王立(おうりつ)になっているのですからなあ」
 そのうちに、だんだんあたりは薄暗(うすぐら)くなった。
「どうしたのか、宿泊所の者は……」
 門衛は、窓から伸びあがって、奥の方を見ていたが、
「あ、来ました。さあ、どうぞ」
 砂利(じゃり)を踏む音が聞えた。エプロンをかけた若い女が、迎えに来た。仏は、その女の顔を見たとき、もちっとで呀(あ)っと叫ぶところだった。その女も、愕(おどろ)いて、思わず足を停めた。
「おい、ネラ。ドクター・ヒルの紹介の方だから、さっきいったように、丁重(ていちょう)にナ」
「は、はい」
 ネラ? ネラは、門衛から、仏の鞄(かばん)を受取った。
「どうぞ、こちらへ……」
 仏は、ネラと呼ばれる女と、藍色(あいいろ)ようやく濃い研究所の庭を、砂利をふみつつ、奥の方へ歩いていった。
「アン」
「はい」
「君は……いや、もうなにもいうまい」
 仏天青を迎えに出たネラは、アンであったのである。彼のふしぎな妻であったのである。
「あたくし、愕きました。どうなさいます、あなたは……。復仇(ふっきゅう)をなさいますか?」
「……」
 仏は、嵐のような激情(げきじょう)の中に、やっと躯を支(ささ)えていた。それが、せい一杯だった。
「なぜ、御返事がありませんの」
「アン、お前は、ここで何をしているのか」
「あなた。この前のように、あたくしを愛していてくださいません?」
 アンは、別なことをいった。
「……もし、愛していたら……」
 仏は、やっとそれだけいった。
「ああ、あたくしを愛していてくださるんですね、お叱(しか)りもなく……。一生のお願いがありますわ。聞いてくださる?」
「……聞かないとはいわない」
「ほほ、消極的な御返事ね。お願いしたいというのは……どうか明朝まで、あたくしがここにいるという事を忘れていてくださいまし」
「なに。なぜ、そんな……」
「さあ、それなのよ。なにも聞かないで、明朝まで……。お約束してくださる?」
 アンは、仏の傍(そば)へすりよって、彼の明快な返事を求めた。
「お前がそれを欲(ほっ)するなら……」
 仏は苦しそうに、応(こた)えた。
「だが……」
「だが?」
「また、おれを……ここへ残して、逃げていくのではあるまいね」
「いいえ、明朝、きっとお目に掛(かか)るわ。約束を聞いてくだすってありがとう。それまで、どんなことがあっても、どんなものを見ても、あたしに何も訊(き)かないでね、きっと明朝まで、あたしというものを忘れていてくださるのよ。ああ、うれしい。あなたは、きっとこの秘密を守ってくださるでしょうね」
「うむ、男らしく、おれは約束を守ろう。しかしアン。その前に、ただ一言、教えてくれ。お前は、本当に、おれの妻か」
「明朝まで、お待ちになって!」
「じゃあ、おれは、本当に仏天青か」
「それも明朝までお待ちになって。男らしくお待ちになるものよ」
「……」
 仏は、拳を握って、自分の胸を、とんとんと叩いた。


     16


 アンは、マネキン人形のような白々(しらじら)しさにかえって、彼を階上の部屋へ案内した。
「では、どうぞ。防空壕は、第二階段をお下りください。窓の遮蔽(しゃへい)は、おさわりになりませんように。失礼いたしました」
「君の部屋の電話番号は……」
「構内四百六十九番です。しかしあたくしはたいてい外を廻っておりますので、不在勝(ふざいが)ちでございます」
「明朝(みょうちょう)、きっと、ですよ」
 仏(フォー)は、アンの手を取ろうとしたが、アンはそれを振り払って、風のように部屋を出ていってしまった。
 それから暫(しばら)くして、食事を告げに来た女は、アンではなかった。それっきり、アンの姿は、仏の目にとまらなかった。
 仏は、自室に戻ったが、落着いていられなかった。アーガス博士が帰って来たという知らせは、いつまで経っても、かかって来なかった。彼は仕方なく、寝床に入ることに決めた。彼は、いつもよりは多量の睡眠剤をとることによって、希望の朝をすこしでも早く迎える用意をした。
 寝床に入ると、彼は、すぐ電灯のスイッチをひねった。彼は、間もなく、泥のような眠りに落ちていった。


     17


 午前三時半。
 突如(とつじょ)として、空襲警報を伝えて、サイレンが鳴りだした。
 部屋部屋が、急にさわがしくなった。
(ふん、また空襲警報か)
 このごろ、毎日のごとく夜半(やはん)から暁(あかつき)にかけて空襲警報が鳴る。しかし多くは、空襲警報だけに終って、敵機の投弾(とうだん)は、殆(ほとん)どなかった。たまに、ドイツ機らしいのが入って来ても、その数は二三機で時間だけは相当ねばって、三四時間に亙(わた)って、市民は避難をしていなければならなかった。今夜も、きっとそのようなことであろうと思っていた。
 仏天青(フォー・テンチン)は、一つには睡眠剤を呑みすぎたせいもあり、また一つには、日暮(ひぐれ)に宿についた臨時の客であったせいもあり、彼は起きないままに、部屋の中に放置(ほうち)されていた。
 気がついたときには、爆弾が、しきりに落ちて炸裂(さくれつ)していた。
 彼は、起き上った。電灯をつけようと、スイッチを探していると、ばっと、突き刺すような閃光(せんこう)が、窓の隙間(すきま)から入ってきた。そして轟然(ごうぜん)たる爆音がつづけさまに、鳴りひびき、そして、じンじンじン[#「じンじンじン」の「ン」は小書き]と建物は震(ふる)えた。
 彼は、くらがりの中で手に当った服をすばやく、身につけた。
 室から飛びだすと、ネオンの常置灯(じょうちとう)が、うすぼんやり廊下を照らしていた。
(防空室は、どの階投を下りるのかな)
 彼は、アンから教わった階段を忘れてしまった。そのときまた、つづけさまに、爆音が轟(とどろ)いた。ひゆーンという飛行機の呻(うな)りが聞える。どうもドイツ機らしい。廊下のつきあたりのカーテンが、ぴかっと光った。外の爆発の閃光(せんこう)が、カーテンを通すのであった。建物は、今にも裂(さ)けとびそうに、鳴動(めいどう)する。
 そのとき、爆弾の音を聞きながら、彼は、なにかこう、男性的な快感を覚(おぼ)えた。
「そうだ。屋上へ上って、一つ、戸外(こがい)の様子を見てやれ」
 こういう山の上の建物だから、よもや大して爆撃されることもあるまいとも思ったのである。彼は、廊下の突き当りの扉(ドア)をあけて、非常梯子(ひじょうはしご)づたいに屋上の方へ上っていった。
 壮観(そうかん)であった。思いがけない大壮観であった。眼下に見えるクリムスビーの町の上には、照明弾が、およそ二三百個も、煌々(こうこう)と燃えていた。この屋上にいても、新聞の文字が読めそうな明るさである。彼は、非常梯子を上へのぼり切って、屋上へ出たものか、それとも、この非常梯子にとりついてそっと首を出していた方がいいのか、ちょっと迷った。
 そのときであった。彼は、屋上に、二つの人影が動いているのを発見して、おやと思った。
(何をしているのだろう?)
 空襲見物では、あまりに物好(ものず)きである。彼は、自分のことは棚(たな)に上げて、そう思った。
 その二つの人影は、屋上から躯(からだ)をのりださんばかりにして、何か、映画に使うような移動照明器(いどうしょうめいき)のようなものを、動かしている。
(おかしい。防空隊の照明班にしては、あまりに小規模(しょうきぼ)だし……)
 彼は、爆撃中の危険も忘れて、その二つの人影の行動に、好奇心を沸(わ)かした。そして、その傍(そば)へ行って見る気になったのである。
 彼は、梯子を登り切って、その人影の方へ歩いていった。向うでは、彼が近づいてくるのに全然気がつかないようであった。
「ああ、あれは、アンじゃないか」
 彼の心臓は、どきんと鳴った。
「何をしているのですか」
 彼は、二人の傍へいって、声を懸けた。
「ああッ」
 二つの顔が、一せいに彼の方へ向いて、そして歪(ゆが)んだ。アンと、もう一人は、ボジャック氏だった。
「お待ち、ボジャック!」
 アンが、ボジャックに飛びかかって、腕をおさえた。ボジャックの手には、ピストルが握られていた。そして、喰いつきそうな顔で仏を睨(にら)みつけている。
 仏(フォー)は、刹那(せつな)に、一切(いっさい)を悟った。
(そうだったか。二人とも、ドイツ側のスパイだったんだな)
 そう感じたが、なぜか、彼は、それほど愕(おどろ)かなかった。
「あなた。さっきのお約束をお破りになる?」
 アンが、ボジャックの腕を必死になって、抑(おさ)えながらいった。
「……約束は、守るよ。だが、説明をしてもらいたいものだ」
「なにを……こいつを、やっつけたが、早道だ」
「お待ち。命令だ、撃ってはならない。それよりも、早く赤外線標識灯(せきがいせんひょうしきとう)を、沖合(おきあい)へ!」
 アンは、上官のような厳(おごそ)かな態度で叫んだ。
「私は、皆さんの邪魔(じゃま)をしまい。私は、傍観者(ぼうかんしゃ)だ」
「あたしは、あなたを信じます。あたしたちは、祖国(そこく)ドイツを光栄あらしめるために、生命(せいめい)を捧(ささ)げて、今最後の職場につくのです。邪魔をしないでください」
「よし、わかった。おれは約束を守るぞ」
「ありがとう――ボジャック、早く光源(こうげん)を……」
「おお」
 ボジャックは、再び台の上の機械にとりついた。スイッチが入ったのか、遂(つい)に点火した。しかし外へは、光がすこしも出ない。赤外線灯の特徴(とくちょう)である。それは、遥(はる)かの海上及び空中に待機する五万にのぼるドイツ軍のための生命の目標だった。この目標によって、彼等ドイツ軍は、この払暁(ふつぎょう)、このハンバー河口の機雷原(きらいげん)と高射砲弾幕(こうしゃほうだんまく)とを突破して、この地に上陸作戦を敢行(かんこう)する手筈(てはず)だった――仏天青も、ようやくそれを悟(さと)った。
 この赤外線標識灯が点火したのが合図のように、上陸作戦軍を援護(えんご)する猛烈なる砲撃戦が始まった。更に空中よりは、ものすごい数量にのぼる巨大爆弾が、釣瓶打(つるべう)ちに投下され、天地も崩(くず)れんばかりの爆音が、耳を聞えなくし、そして網膜(もうまく)の底を焼いた。
 砲撃は、ますます熾烈(しれつ)さを加え、これに応酬(おうしゅう)するかのように、イギリス軍の陣地や砲台よりは、高射砲弾が、附近の空一面に、煙花(はなび)よりも豪華な空中の祭典を展開した。
「大丈夫、ボジャック」
「大丈夫!」
 二人の戦士は、脇目(わきめ)もふらず、標識灯を守りつづけている。
 砲撃目標が、だんだん山の方に近づいて来た。それと諜(しめ)し合(あ)わせたように、空中からの爆撃も、急に山の方に移動してきた。
「ほう、来るな」
 仏天青(フォー・テンチン)は、身の危険を感じた。しかし、ふしぎとその場を放れる気がしなかった。アンたちも、最後の職場を死守しているのだ。しかし、これは、えらいことになるぞ!
 果して、それから五分間ばかり経(た)つと、砲撃目標は、俄然(がぜん)跳躍(ちょうやく)した。砲弾は、この研究所の前方に落ち、それから、彼等の頭上をとび越えて、後(うしろ)の山上に落ちて、ものすごい音響(おんきょう)と閃光(せんこう)とそして吹き倒すような爆風(ばくふう)とを齎(もたら)した。
「あぶない」仏は、屋上に腹匍(はらば)った。
 とたんに、どどどどーンと、ぶっつづけに大爆音が聞え、耳はガーンとなってしまった。そして、あたりは火の海となったかと思われた。それをきっかけのように、ひっきりなしに砲弾と爆弾とが降って来た。身を避けるものは何もない。彼は灼鉄(しゃくてつ)炎々(えんえん)と立ちのぼる坩堝(るつぼ)の中に身を投じたように感じた――が、そのあとは、意識を失ってしまった。
 不図(ふと)、気がついたときには、あたりの風景は一変していた。附近一帯は、炎々たる火焔(かえん)に包まれていた。屋上は、半分ばかり、どこかへ持っていかれてしまっている。
 彼は、むくむくと起きあがって、空を見上げた。高射砲弾は、盛(さか)んに頭上で炸裂(さくれつ)していた。照空灯(しょうくうとう)と照明弾とが、空中で噛(か)み合っていた。その中に、真白な無数の茸(きのこ)がふわりふわりと浮いていた。落下傘部隊(らっかさんぶたい)であった。ドイツ軍の上陸は、遂(つい)に開始せられたのであった!
「おお、落下傘部隊(デザント)が下りる。ああ、ダンケルク戦線そっくりだ!」
 ああダンケルク戦線! 彼は全身に、電撃をうけたように感じた。
「ああ、ダンケルク! おお、そうだ。思い出したぞ!」
 その瞬間に、彼は、今の今迄喪失(そうしつ)していた一切の過去の記憶を取り戻した。
 おお、覚醒(かくせい)! 記憶は蘇(よみがえ)った。奇蹟(きせき)だ、大奇蹟だ!
 彼は、灼鉄と硝煙(しょうえん)と閃光と鳴動(めいどう)との中に包まれたまま、爆発するような歓喜(かんき)を感じた。その瞬間に、彼から、仏天青(フォー・テンチン)なる中国人の霊魂(れいこん)と性格とが、白煙(はくえん)のように飛び去った。それに代って、駐仏日本大使館付武官(ちゅうふつにっぽんたいしかんづきぶかん)福士大尉(ふくしたいい)の烈々(れつれつ)たる気魄(きはく)が蘇って来た。
「おッ、俺は、今まで、何を莫迦(ばか)な夢を見ていたのだろうなあ!」
 アーガス博士の治療を待つまでもなかった。彼――福士大尉の、喪(うしな)われたる記憶は、その一瞬の間に、完全に恢復(かいふく)したのだった――ドクター・ヒルが示唆(しさ)したところと、ぴたりと一致する経過をとって……。
 輝(かがや)かしい福士大尉の復帰(ふっき)!
「アンは、どうした」
 大尉は、目を瞠(みは)って、アンを探した。赤外線標識灯は、台ばかりになっていた。アンは、その下に倒れていた。ボジャックも亦(また)……
「アン、どうした。しっかりせい」
 大尉は、アンを抱(かか)え起してみると、胸一面の血だった。胸をやられている! 大尉の声が通じたものか、アンは、薄目を開いた。
「ボジャックは?」
「ボジャックは、ここにいる。ああ、気の毒だが、とうの昔に……」
「そう。あたしも、もう……」
「これ、しっかりしろ。アン」
「あなた。アンは、あなたに感謝します。われわれ第五列部隊は、監獄にまで手を伸ばして、あなたを利用しましたが、許してください。祖国ドイツは……」
「そんなことは、わかっとる。アン、死んじゃ駄目だぞ」
「あなたは、ご存知(ぞんじ)ないが、あなたは、日本の将校なんです」
「それは知っている。おれは、福士大尉だ。爆撃の嵐の中に、おれは記憶を恢復したのだ。悦(よろこ)んでくれ」
「ああ、そうだったの。道理(どうり)で、お元気な声だと思ったわ」
「アン、なにもかも、思い出したよ。あの油に汚れたハンカチも、ぼろぼろの服も、みんなダンケルクの戦闘の中にいたせいだ。おれは、飛行機を操縦してドーヴァを越えて、この英国(えいこく)に飛んだのだ。そのとき、既(すで)に負傷していた。同乗させてやった中国人仏天青は機上で死んだが、おれは、いつの間にか、その先生の服を持っていたんだ。おれは飛行機を、夜間着陸させるのに苦しんだが、遂(つい)に飛行場が見つからず、その後は憶(おぼ)えていない。それ以後、おれの記憶が消えてしまったんだ。何をして監獄へ入れられたか、そいつは知らない。おい、アン――アン、どうした」
「あなた、最後のお願い……あたしのために、こういってよ……」
「アン、しっかりしろ。何というのか」
「……こう、いうのよ。ヒ、ヒットラーに代(かわ)りて、第五列部隊のフン大尉に告ぐ」
「えっ、第五列部隊のフン大尉に?」
「そう、そうなの、あたしのことよ。……汝は、大ドイツのため、忠実に職務を……あなた……」
「しっかりせんか、アン――いや、フン大尉。君の壮烈(そうれつ)なる戦死のことは、きっとおれが、お前の敬愛するヒットラー総統(そうとう)に伝達(でんたつ)してやるぞッ!」
 福士大尉は、アンの耳に口をつけて、肺腑(はいふ)をしぼるような声で、最後の言葉を送った。
 そのとき、夜は、ほのぼのと、明け放れた。頭上には、精鋭なるドイツ機隊の翼(つばさ)の輝(かがや)き、そして海岸には、平舟(ひらぶね)の舷(ふなべり)をのり越えて、黒き洪水(こうずい)のような戦車部隊が!
 ドイツ軍大勝利の閧(とき)の声と共に、上陸作戦の夜は、明け放れたのであった。
 福士大尉は、情報報告のため、直(ただ)ちにこのクリムスビーを発足(ほっそく)すべく、アンの亡骸(なきがら)をそっと下に置いて、立ち上った。




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