英本土上陸作戦の前夜
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:海野十三 

 彼は、陳弁(ちんべん)に努めた。だが、彼等は、なかなか信用しなかった。彼は、思い出して、二冊の貯金帳を出して見せた。
「ほう」
 と、彼等は、目を丸くしたが、
「この貯金帳には、大金を預けていることになっているが、この列車の中では、通用しない。このごろは、敵国のスパイが、よくそういうものを偽造(ぎぞう)してもっているからだ。本当に君は、中国人であろうか。われ等(ら)は、君を日本人の密偵だと睨(にら)んでいるのだが……」
 仏天青(フォー・テンチン)は、その然(しか)らざる所以(ゆえん)を滔々(とうとう)と述(の)べた。そして、一列車前の十三号車に乗っている彼の妻君アンに連絡してくれれば、万事(ばんじ)明白(めいはく)になるからと、しきりにその事を申し述べたのであるが、車掌と憲兵とは、それを実行しようとも何とも言わずに、彼を三等車の隅っこに押しこんで、附近の乗客に、彼を監視しているように命じた。
 こうして、彼の不愉快な列車旅行が始まったのであった。
 幸いに、彼を監視の乗客たちは、この顔色の黄いろい中国人をむしろ気味わるくおもっていたので、ときどき彼を睨(にら)みつける位のことで、手を出して迫害(はくがい)せられるようなことはなかったので、この点は大いに助かった。
 彼は、不愉快のうちに、これまでの突拍子もない事件のあとを、静かにふりかえる時間を持った。
(一体、おれは、仏天青氏なのか、それとも他人なのか?)
 アンは、自分が仏天青であることに異存(いぞん)はなかった。ブルート監獄の看守も「ミスター・F」と呼んでくれた。アンと一緒に乗り込んだ前の列車の憲兵も、同じく彼を仏天青と認めてくれた。それに、彼は仏天青名義(めいぎ)の二冊の貯金帳を持っているではないか。
 彼が“仏天青”ではないと言われたのは、バーミンガム駅にいた女だけだった。いや、それから、この列車の憲兵と車掌も、彼に対し幾分疑惑(ぎわく)を持っているのだ。
 これらを差引きして考えると、彼が仏天青であることの方が、そうでないことよりも、有力であると考えられる。あの女に逢うまでは、このような疑惑は、殆(ほとん)ど起らなかったのだ。あのバーミンガムの女こそは、懐疑(かいぎ)の陰鬼(いんき)みたいなものであった。
(おれは、仏天青に違いないのだ!)
 そう思いながらも、彼は、あの女の残していった科白(せりふ)、
“こんな若僧(わかぞう)じゃない!”
 という言葉が、いつまでも無気味(ぶきみ)に思い出されるのであった。
 彼のもう一つの当惑(とうわく)は、妻君のことだった。バーミンガムの駅で、あの女に取(と)り縋(すが)られたときには、妻が二人出来たかと思って、すくなからず愕(おどろ)いたのだった。つまり、列車の中に待っている可愛いアンと、そしてこの塩漬(しおづ)けになったような中国女であった。
(女房を二人も持ってしまうなんて……)
 と、そのときは、当惑したものであるが、しかるに只今、彼の身辺(しんぺん)には、二人妻どころか、只の一人も、妻がついていないのであった。彼は、全く変な気がした。……
 そんなことを考えつづけているとき、さっきから、彼をこっぴどい目にあわせた車掌が、彼の前を通りかかった。
「もし、車掌さん。前の列車にいるアンと、連絡がつきましたかね」
 彼は、胸を躍らせて、車掌の返事を待った。
「そんな乗客は、いなかった。尤(もっと)も、私は、始めから、君の言葉を信用していなかったが……」
「そんなことは嘘だ。アンは待っている」
「嘘ですよ。中国人は、見(み)え透(す)いた嘘を、平気でつくものだ。日本人は、そんなことをしない」
 車掌は、そういって、彼の手をすげなく振り切って、向こうへ行ってしまった。
「そんな筈はない……」
 彼は、拳(こぶし)を固(かた)めて、自分の膝のうえを、とんとんと叩いた。
「そんな筈はない。あの車掌め、中国人を侮辱する怪(け)しからん奴だ」
 彼は、爆発点に達しようとする憤懣(ふんまん)をおさえるのに、骨を折った、孤立無援(こりつむえん)の彼は……。
 列車旅行は、ますます不愉快さを高めていった。列車が、駅へつくたびに、彼は、車窓(しゃそう)から顔を出して、もしやアンの乗っている列車が、同じホームについて、待っていないかと、一生けんめいに探したのであった。
 そのうちに、こんな考えが、ふと頭の中に浮んだ。
(アンは、おれを捨てていったのではあるまいか。そうでなければ、バーミンガムの次の駅で下りて後から遅れて来るおれの列車を、待っている筈(はず)じゃないか)
 アンは、彼を捨ててしまったのであろうか。とにかく、彼のために親切でないことだけは確かである。
(すると、やっぱり、あのボジャック氏というのが、アンの亭主(ていしゅ)であったのか。そしてボジャック氏、すなわちフン大尉という筋書か!)
 彼は、胸糞(むなくそ)がわるくなって、ぺっと、床(ゆか)に唾を吐いた。すると、隣りにいたイギリス人が、こっぴどい言葉で、彼の公徳心(こうとくしん)のないことを叱りつけた。
 彼は、なんだか、もう生きているのが味気(あじけ)なくなった。
 その味気なさは、列車がロンドンに着いてから、更に深刻味(しんこくみ)を加えた。
 なぜといって、彼が最後の頼みとしていたところに反して、ホームの上には、彼を待っているアンの姿が、見当らなかったのであった。
 車掌は、彼を、駅の会計室へ引張っていこうとした。彼は、それを後にしてくれと拒(こば)んだ。そして暴れた。車掌は仕方なく、彼のあとについて、彼と共に、改札口の外に出、それから駅の中をぐるぐると廻り、そして、掲示板(けいじばん)という掲示板の前を巡礼(じゅんれい)させられた。その揚句(あげく)の果(はて)に、仏天青は、遂に病人のように元気を失ってしまった。そして車掌に言った。
「おれのする事は、もう終った。さあ、今度は、どこなりと、君が好きなところへ、引張っていきたまえ。あーあ」


     12


 彼は、空襲警報と爆撃の音とを子守唄として、三日間を、ホテルの中で、眠ってばかりいた……
 ロンドン駅についてから、彼は一旦(いったん)警視庁の手に渡り、それからものものしい借用証書(しゃくようしょうしょ)に署名して、やっと放免された。
 それから彼は、乗車賃の借りをかえすためにも又生活をするためにも、金が必要だったので、英蘭(イングランド)銀行へいって払出書(はらいだししょ)を書いた。ところが、銀行からは、体(てい)よく断られてしまった。どうも、サインが前のものと違っているから、帳簿に乗っているとおりのものを思い出してくれというのであった。
 彼は、かーっとなったが、それでも、虫を殺して、一旦銀行を出た。
 銀行を出ようとして、彼が、掲示板の中に、パリ銀行のロンドンに移転してきた告知(こくち)ポスターを見落したとしたら、彼の上には、もっと深刻なるものが降ってきたことであろう。幸(さいわ)いにも、彼は、それに気がついたので、その足で、パリ銀行の臨時本店へいってみた。そこで彼は、十万フランの払出請求書(はらいだしせいきゅうしょ)を書いた。すると行員(こういん)は、気の毒そうな顔をした。また、駄目かと、彼は苦(にが)い顔をしたが、行員は、
「誰方(どなた)にも、只今、一日五千フラン限りとなっていますので、事情(じじょう)御諒承(ごりょうしょう)ねがいます」
 といった。彼は、それならばというので、請求書を五千フランに書き改めると、銀行では、それに相当する英貨(えいか)で、払ってくれた。彼は、やっと大安堵(あんど)の息をついた。これで、乾干(ひぼ)しにもならないで済(す)む。
 それから、彼は、このホテルに逗留(とうりゅう)することとなったのである。
 休養だ! そして睡眠だ!
 彼は、ただもう昏々(こんこん)と眠った。空襲警報が鳴っても、ボーイが、よほど喧(やかま)しくいわないと、彼は、防空地下室へ下りようとはしなかった。地下室の中でも、彼は、遠方から地響(じひびき)の伝わってくる爆撃も夢うつつに、傍(かたわら)から羨(うらや)ましがられるほど、ぐうぐうと鼾(いびき)をかいて睡った。
 三日間の休養が、彼を非常に元気づけた。彼は、アンに捨てられたことを自覚し、そしてアンのことを思い切ろうと決心した。そんなことが、一層彼の頭の中から、苦悩を取り去ったものらしい。
 四日目、五日目は、ドイツ機の空襲が、ようやく気に懸(かか)るようになった。彼はようやく常人化(じょうじんか)したのであった。
 六日目は、朝から市中へ出て、爆撃の惨禍(さんか)などを見物して廻った。爆撃されているところは、煉瓦(れんが)などが、ボールほどの大きさに砕(くだ)かれ、天井裏(てんじょううら)を露出(ろしゅつ)し、火焔(かえん)に焦げ、地獄のような形相(ぎょうそう)を呈(てい)していたが、その他の町では、土嚢(どのう)の山と防空壕の建札(たてふだ)と高射砲陣地がものものしいだけで、あとは閉(しま)った店がすこし目立つぐらいで、街はやっぱり華美(かび)であった。
 防毒面(ぼうどくめん)こそ、肩から斜めに下げているが、行きずりの女事務員たちは、あいかわらず溌剌(はつらつ)として元気な声をたてて笑っていたし、牝牛(めうし)のように肥えたマダムは御主人にたくさんの買物を持たせて、のっしのっしと歩いていた。彼らは、ロンドンの空一杯に打ちあげられた阻塞気球(そさいききゅう)を、ひどく信頼しているのか、それとも、自分だけには、ドイツ軍の爆弾が命中しないと信じているか、どっちかであるように見えた。
 その日、半日の散歩で、彼は自分が、世の中から忘れられた人であることに気がついて、それがどうも気になってたまらなかった。やっぱり彼は、何を置いても、自分の素姓(すじょう)を知ることが先決(せんけつ)問題であると、そこに気がついた。
 今や元気と常識とを取り戻した彼は、勇躍(ゆうやく)して、その仕事(ビジネス)についた。また新たに、生きている張合(はりあ)いといったものが感じはじめられた。彼は、ふしぎに自分の体が、軽くなったように思った。
 彼は、まず手始めに、中国大使館へ出向いた。そして、自分は仏天青(フォー・テンチン)であるが、自分の素姓は、どういうものであるか、果して、大使館参事官であるか、どうかと、たずねた。そして記憶を失ったことや、記憶恢復(かいふく)後において身近に起った事件を、差支(さしつか)えない範囲で、受附の前にくどくどと説明したのであった。
「大使閣下(かっか)は、御不在(ごふざい)です。そしてわが大使館には、あなたのような名前の参事官はいません。御返事は、これだけです」
 と、木で鼻をくくるような挨拶(あいさつ)だった。
「本当ですか。本当のことを教えてもらいたいものです。私は気が変ではありませんよ」
「誰でも、そういうよ」
 と、受附子(うけつけし)の言葉が、急に乱暴になって、
「わしは、ロンドンに二十年も在勤しているが、ついぞ、仏天青などというおかしな名前の参事官があった話を聞かないね。家へかえって、内儀(かみ)さんによく相談してみたらいいでしょう」
 折角(せっかく)いい機嫌になった彼は、大使館に於けるこの押し問答によって、また憂鬱(ゆううつ)を取り戻した。なんという頭の悪い、そして礼儀知らずの館員だろう。彼は憤然(ふんぜん)、大使館の門を後にした。そしてもう、こんなところへ二度と来るものかと思った。
 彼が、門を出ていってしまった後で、受附子は、にがにがしい顔をして、
「どうも、空爆のせいで、気が変な人間が殖(ふ)えて来るよ。わしは、この頃、世話ばかりやっているが、あいつが大使館参事官なんて、とんでもない奴だ」
 といいながら、ふと気がついて、書棚(しょだな)から在外使臣名簿(ざいがいししんめいぼ)を取り出して、頁(ページ)をくった。そのうちに、彼は、びっくりしたような声を出した。
「あっ、仏天青、駐仏(ちゅうふつ)大使館参事官! あっ、ここにあったぞ。この頃は、新任の連中が殖えて、一々名前を憶えていられないや。しまったなあ。このまま放って置けば、この次に来たとき、こっぴどい目に会うぞ。よし、追駆(おいか)けてみよう」
 受附子は、ちょっと顔色をかえると、あわてて、外へ飛びだした。
 だが、このときには、もう彼の姿は、どこにも見当らなかった。


     13


 仏天青(フォー・テンチン)は、列車にのって、リバプールに急ぎつつあった。
 駐英大使館では、彼は、大きな侮辱(ぶじょく)をうけた。そして朗(ほがら)かな気持がまた崩(くず)れてしまったのだ。
 この上は、リバプールを通って、ブルートの監獄へいき、そこに残っている彼の素姓調書(すじょうちょうしょ)を見るより外(ほか)なしと考えた。
 十時間の後、彼はリバプールにいった。その夜は、ドロレス夫人の宿に泊めてもらうつもりで、この前の淡(あわ)い記憶を辿(たど)って、見覚えのある露地(ろじ)へ入りこんでいった。
 だが、ドロレス夫人の宿は、見当らなかった。ただ、一軒、入口の硝子(ガラス)が、めちゃめちゃに壊(こわ)れている空家(あきや)が目についた。どうもその家が、ドロレス夫人の宿だったように思うのであるが、入口の壁には、
“立入るを許さず。リバプール防諜指揮官(ぼうちょうしきかん)ライト大佐”
 と、厳(おごそ)かな告示が貼りつけてあった。
 彼は、妙な気持になって、他所(よそ)に宿を求めたのであった。
 一夜は明けた。
 その日こそ、彼は遂(つい)に楽しさにめぐり逢える日が来たと思った。
 監獄生活をしていたなどということは、人に聞かれても、自分に省(かえり)みても、甚(はなは)だ結構でないことだったけれど、今日こそは、その監獄に保存してある調書の中から、知りたいと思っていた彼の素姓を押しだすことが出来るのかと思えば、こんな嬉しいことはなかったのである。
 彼は、車を頼んで、ブルートの町へ急がせた。
「旦那、ブルートの町へ来ましたが、どこへいらっしゃいますね」
「もうすこし先だ。左手に、くるみの森のあるところで下ろしてくれたまえ」
「へい。すると、監獄道(かんごくみち)のところですね」
「ああ、そうだよ」
 彼は、運転手に、心の中を看破(みやぶ)られたような気がした。
「ドイツの飛行機は、監獄なんか狙って、どうするつもりですかね」
「えっ」
「いや、つまり、ブルートの監獄を爆撃して、あんなに土台骨(どだいぼね)からひっくりかえしてしまって、どうする気だろうということですよ」
「なに、ブルートの監獄は、爆弾でやられたのかね」
「おや、旦那、御存知(ごぞんじ)ないのですかい。もう四日も前のことでしたよ。尤(もっと)も、聞いてみれば、監獄の中で、砲弾を拵(こしら)えていたんだとはいいますがね」
「ふーん、そうか。やっちまったのかい」
 彼は、天を恨(うら)むより外(ほか)、なかった。車を下りてみると、森の向うは、まるで地獄のように、引繰(ひっく)りかえっていた。あの広壮(こうそう)な建物という建物は一つとして影をとどめず、壁は、歯のぬけた歯茎(はぐき)のようになっていた。彼は、これより内へ入るべからずという縄張(なわばり)のところまで出て、すっかり見ちがえるような監獄跡に佇(たたず)んで、しばし動こうともしなかった。
 運転手が、彼の耳に囁(ささや)いた。
「旦那、あのへんで、三千五百名の囚人と、それから七百名の監獄役人とが、崩れた建物の下で、一ぺんに、蒸(む)し焼(や)きになってしまったんですよ。そして、このとおり綺麗なものでさ。残っているのは、煉瓦とコンクリートばかりだ。いや、それから、あの鉄の門と……」
 仏天青は、なぜ天は、こう意地悪なのであろうかと、深い溜息をついた。第二のプランも、ついに駄目だった。


     14


 第三の、そしてこれが最終のプラン――というので、仏天青(フォー・テンチン)は、リバプールの町にある精神科病院の門をくぐった。
 院長ドクター・ヒルは、五十を過ぎた学者らしい人物だったが、甚(はなは)だ丁重(ていちょう)に、仏天青を扱った。
「そういう病気は、今次の戦争において、極めて例が多いのですよ。今拝見(はいけん)しましたところによると、やはり、爆弾の小破片が、脳髄(のうずい)の一部へ喰い込んでいるようですな」
「じゃあ、手術をして、その小破片を取出せばいいわけですね」
「さあ、それは専門外科医に御相談なさるがいいでしょうが、私の経験では、そういう脳外科の手術の成功率は、残念ながら、まだ低いものです。よほど考えておやりなることを御注意いたします」
 すると、手術は、よほど考えなくてはならぬことになる。
「院長、私の記憶を恢復する他の方法はありませんでしょうか」
「そうですねえ。私の経験によれば、あなたのような場合、脳が健康さを取戻していても、神経と連絡がついていないことがよくあります」
「それは、どういうのですな」
「つまり、障害をうけたとき、患部附近に、充血(じゅうけつ)とか腫脹(しゅちょう)が起って、神経細胞(さいぼう)に生理的な歪(ゆが)みが残っていることがある。この歪みを、うまく取去ることが出来ると、ぱっと、目が覚めるように過去の記憶を呼び戻すことが出来るのですがね」
「なるほど、歪みを取去る方法ですか。それは、どうすればいいのですか」
「歪みといっても、生理的神経的なものですから、それと同じ方法によらねばならない。生理的神経的に、或る強い刺戟を受ければいいということはわかっているが、さて、その刺戟は、一体どんな刺戟であるかということになると、さっぱり分らない」
「なぜ、分らないのですか」
「それは、つまり、こうでしょう。仮(か)りに、あなたが、一婦人と非常に争っていた。そのとき、婦人がピストルの引金を引いて、あなたの頭へ、弾丸(たま)の破片を撃ちこんでしまった、これは仮定ですよ。もしもこういう場合に、あなたのような記憶亡失(きおくぼうしつ)の障害が起って、脳が健康を取戻しても、尚且(なおか)つ記憶が恢復しない。そういうときに、癒(なお)った実例があるのです。もう一度、その婦人と、ひどい争いをした。婦人は、またピストルを撃った。そして今度は、彼の前額(ぜんがく)を僅かに傷つけた。すると、とたんに、彼の記憶が戻った。彼は、戦闘を中止して、その婦人を生命の恩人だといって抱きあげた――という例があるのです」
「それは、興味ふかい話ですね。それを私の場合に活用する途(みち)はないでしょうか。まず無理でしょうね」
「そうです。無理という外ありますまい。今申した例は、偶然の機会が、それを癒したのです。医師が計画した治療法ではない」
「なるほど」
「ですから、あなたの場合でも、もし運がおよろしくて、その障害を起した当時と同じ事件の中に置かれ、同じような負傷でもなされば、或(あるい)はそれがうまくいって、記憶の恢復が起るかもしれません。しかし何分(なにぶん)にも、これは計画的にやって見ることの出来ないことなので、困りますなあ」
「ほう、生理的神経的の歪みですか。そしてこれを復習する極めて稀(まれ)な幸運ですか。いや、お蔭さまで、諦(あきら)めがついてきました」
「それから、あなたが記憶亡失前に持っていられた所持品(しょじひん)についてはもっと詳しく、科学的調査をおやりになるがいいでしょうね。これは一種の探偵術ですが、従来(じゅうらい)の例に徴(ちょう)しても、所持品からの推理によって昔、あなたが住んでいられた世界や職業や、それから家族のことなどを、立派に探しだすことに成功した例があるのです」
 それを聞くと、仏天青は、俄(にわか)に目を輝かせて、室の隅に置いてあった手提鞄(てさげかばん)を、卓子(テーブル)のうえに置いた。
「院長、では、これを見て、判断していただきましょう。当時、私が身につけていたものは、大切に、皆ここに蔵(しま)ってあるのです」
 そういって、彼は、鞄を開くと、中から、長い中国服を出し、それから汚れきった破れ目だらけの服を出し、ぺちゃんこになったパンに新聞紙に、それから異臭(いしゅう)を放つ皺(しわ)くちゃのハンカチーフ迄、すっかり卓子のうえに取出した。
「その外に、この貯金帳が二冊あるのです。院長、お分りになりますか」
「さあ、私では駄目なんですがねえ」
 といいながらも、ドクター・ヒルは、そこに並べられた品物を、一つ一つ、念入りに拡大鏡(かくだいきょう)の下に見ていたが、やがて腰を伸ばし、
「私の拝見したところで、最も興味を惹(ひ)かれるものが二点あります。それは、この汚れ切って破れ目だらけの服と、それからもう一つは、油じみたハンカチーフです」
「はあ、そうですか。そんなものが、私の素姓(すじょう)について、一体なにを語っていましょうか」
「さあ、それは、私の力では、はっきり解(と)いてお話することが出来ないのです。こういう方面にすこぶる明るい私の友人を御紹介しましょう。アーガス博士といいますが、クリムスビーに住んで鑑識研究所を開いています。そこへいらっしゃるがいいでしょう。このズボンについている泥だとか、ハンカチーフについている血や油などについて、彼はきっと、あなたをびっくりさせるに充分(じゅうぶん)な鑑定(かんてい)をなすことでしょう」
「あ、そうですか。それは、実にありがたい。アーガス博士でしたね」
「そうです。博士は、ひところ、警視庁でも活躍していた人ですが、今は、自分の研究所に立て籠(こも)っています」
「クリムスビーですか。どこでしょうか、その、クリムスビーというのは」
「クリムスビーというと、北海(ほっかい)へ注(そそ)ぐハンバー河口(かこう)を入って、すぐ南側にある小さい町です。河口は、なかなかいい港になっています」
「はあ。北海に面した良港の中にあるのですね。じゃあ、私はすぐ、そのクリムスビーへいって、アーガス博士にお願いしてみましょう」
「いま、紹介状を書いてさし上げます、ミスター・F!」


     15


 午後遅くクリムスビーの駅に下りて、仏天青(フォー・テンチン)はおどろいた。こんなものものしい警戒は、はじめて見た。
“中国大使館参事官仏天青氏を御紹介す。アーガス博士殿”
 というドクター・ヒルの紹介状が、とんだところで効(き)き目をあらわして、仏は、無事に駅の階段を、町へ降りることが出来た。
「アーガス博士の鑑識(かんしき)研究所へやってくれないかね」
 駅の前に待っているタクシーの運転手に話しかけると、黙って、隣りを指した。
 タクシーの隣りには、馬車があった。老人の馭者(ぎょしゃ)が、この喧噪(けんそう)の中に、こっくりこっくり居眠りをしていた。馬車とは愕(おどろ)いたが、
「アーガス博士の鑑識研究所へいってくれるかね」
 と、仏が大きい声で怒鳴(どな)ると、馭者の老人は、やっと目を覚ました。そして二三度、丁寧に聞き返した後で、さあ乗って下さいといった。
 馬車は、雑閙(ざっとう)する町を後にして、山道にかかった。
「爺さん、鑑識研究所だよ」
「わかっていますよ。鑑識研究所は、この山のうえだ。あと三十分かかるよ」
「なあんだ、山の上に在(あ)るのか」
 馬車にゆられていくほどに、仏天青は、眼下に開けるハンバー湾のものものしい光景に、異常な興味を覚えた。
 河口(かこう)には、たしかに防潜網(ぼうせんもう)を吊っているらしい浮標(ブイ)が、夥(おびただ)しく浮び、河口を出ていく数隻(すうせき)の商船群(しょうせんぐん)の前には、赤い旗をたてた水先案内(みずさきあんない)らしい船が見えるが、これは機雷原(きらいげん)を避(さ)けていくためであろう。またはるかに港外には駆逐艦隊(くちくかんたい)が活発(かっぱつ)に走っていた。
(ドイツ軍の上陸作戦を、極度(きょくど)に恐れているのだな)
 仏(フォー)は、河口の異風景(いふうけい)に気を取られているうちに、馬車は、いつの間にか、小さい山を一つ登って、鑑識研究所の前についた。
 仏は、門衛(もんえい)に、刺(し)を通じた。
 門衛は、紹介状の表を見て、本館へ電話をかけた。
「所長は、生憎(あいにく)出張中ですが、今夜あたり、ここへお戻りです。副長(ふくちょう)からのお話ですが、明朝(みょうちょう)、もう一度、御出で願うか、それとも御急ぎなら、所に附属している宿泊所(しゅくはくじょ)で、お待ちになってはということでございますが、どっちになさいますか」
「そうですか。では……では、宿泊所へ案内して頂きましょうか。私は、早く博士にお目に懸(かか)りたいのでしてね」
「よろしゅうございます」
 門衛は、別なところへ、電話をかけた。そして、副長の命令により客人(きゃくじん)のため室を用意するようにいった。
「今、宿泊所の女が迎えに参りますから、ちょっとお待ちを」
 仏天青(フォー・テンチン)は、礼をいって、鞄(かばん)を下に置いた。
「なかなかここは眺望(ちょうぼう)もいいし、そして広大ですね」
「そうです。ここは王立(おうりつ)になっているのですからなあ」
 そのうちに、だんだんあたりは薄暗(うすぐら)くなった。
「どうしたのか、宿泊所の者は……」
 門衛は、窓から伸びあがって、奥の方を見ていたが、
「あ、来ました。さあ、どうぞ」
 砂利(じゃり)を踏む音が聞えた。エプロンをかけた若い女が、迎えに来た。仏は、その女の顔を見たとき、もちっとで呀(あ)っと叫ぶところだった。その女も、愕(おどろ)いて、思わず足を停めた。
「おい、ネラ。ドクター・ヒルの紹介の方だから、さっきいったように、丁重(ていちょう)にナ」
「は、はい」
 ネラ? ネラは、門衛から、仏の鞄(かばん)を受取った。
「どうぞ、こちらへ……」
 仏は、ネラと呼ばれる女と、藍色(あいいろ)ようやく濃い研究所の庭を、砂利をふみつつ、奥の方へ歩いていった。
「アン」
「はい」
「君は……いや、もうなにもいうまい」
 仏天青を迎えに出たネラは、アンであったのである。彼のふしぎな妻であったのである。
「あたくし、愕きました。どうなさいます、あなたは……。復仇(ふっきゅう)をなさいますか?」
「……」
 仏は、嵐のような激情(げきじょう)の中に、やっと躯を支(ささ)えていた。それが、せい一杯だった。
「なぜ、御返事がありませんの」
「アン、お前は、ここで何をしているのか」
「あなた。この前のように、あたくしを愛していてくださいません?」
 アンは、別なことをいった。
「……もし、愛していたら……」
 仏は、やっとそれだけいった。
「ああ、あたくしを愛していてくださるんですね、お叱(しか)りもなく……。一生のお願いがありますわ。聞いてくださる?」
「……聞かないとはいわない」
「ほほ、消極的な御返事ね。お願いしたいというのは……どうか明朝まで、あたくしがここにいるという事を忘れていてくださいまし」
「なに。なぜ、そんな……」
「さあ、それなのよ。なにも聞かないで、明朝まで……。お約束してくださる?」
 アンは、仏の傍(そば)へすりよって、彼の明快な返事を求めた。
「お前がそれを欲(ほっ)するなら……」
 仏は苦しそうに、応(こた)えた。
「だが……」
「だが?」
「また、おれを……ここへ残して、逃げていくのではあるまいね」
「いいえ、明朝、きっとお目に掛(かか)るわ。約束を聞いてくだすってありがとう。それまで、どんなことがあっても、どんなものを見ても、あたしに何も訊(き)かないでね、きっと明朝まで、あたしというものを忘れていてくださるのよ。ああ、うれしい。あなたは、きっとこの秘密を守ってくださるでしょうね」
「うむ、男らしく、おれは約束を守ろう。しかしアン。その前に、ただ一言、教えてくれ。お前は、本当に、おれの妻か」
「明朝まで、お待ちになって!」
「じゃあ、おれは、本当に仏天青か」
「それも明朝までお待ちになって。男らしくお待ちになるものよ」
「……」
 仏は、拳を握って、自分の胸を、とんとんと叩いた。


     16


 アンは、マネキン人形のような白々(しらじら)しさにかえって、彼を階上の部屋へ案内した。
「では、どうぞ。防空壕は、第二階段をお下りください。窓の遮蔽(しゃへい)は、おさわりになりませんように。失礼いたしました」
「君の部屋の電話番号は……」
「構内四百六十九番です。しかしあたくしはたいてい外を廻っておりますので、不在勝(ふざいが)ちでございます」
「明朝(みょうちょう)、きっと、ですよ」
 仏(フォー)は、アンの手を取ろうとしたが、アンはそれを振り払って、風のように部屋を出ていってしまった。
 それから暫(しばら)くして、食事を告げに来た女は、アンではなかった。それっきり、アンの姿は、仏の目にとまらなかった。
 仏は、自室に戻ったが、落着いていられなかった。アーガス博士が帰って来たという知らせは、いつまで経っても、かかって来なかった。彼は仕方なく、寝床に入ることに決めた。彼は、いつもよりは多量の睡眠剤をとることによって、希望の朝をすこしでも早く迎える用意をした。
 寝床に入ると、彼は、すぐ電灯のスイッチをひねった。彼は、間もなく、泥のような眠りに落ちていった。


     17


 午前三時半。
 突如(とつじょ)として、空襲警報を伝えて、サイレンが鳴りだした。
 部屋部屋が、急にさわがしくなった。
(ふん、また空襲警報か)
 このごろ、毎日のごとく夜半(やはん)から暁(あかつき)にかけて空襲警報が鳴る。しかし多くは、空襲警報だけに終って、敵機の投弾(とうだん)は、殆(ほとん)どなかった。たまに、ドイツ機らしいのが入って来ても、その数は二三機で時間だけは相当ねばって、三四時間に亙(わた)って、市民は避難をしていなければならなかった。今夜も、きっとそのようなことであろうと思っていた。
 仏天青(フォー・テンチン)は、一つには睡眠剤を呑みすぎたせいもあり、また一つには、日暮(ひぐれ)に宿についた臨時の客であったせいもあり、彼は起きないままに、部屋の中に放置(ほうち)されていた。
 気がついたときには、爆弾が、しきりに落ちて炸裂(さくれつ)していた。
 彼は、起き上った。電灯をつけようと、スイッチを探していると、ばっと、突き刺すような閃光(せんこう)が、窓の隙間(すきま)から入ってきた。そして轟然(ごうぜん)たる爆音がつづけさまに、鳴りひびき、そして、じンじンじン[#「じンじンじン」の「ン」は小書き]と建物は震(ふる)えた。
 彼は、くらがりの中で手に当った服をすばやく、身につけた。
 室から飛びだすと、ネオンの常置灯(じょうちとう)が、うすぼんやり廊下を照らしていた。
(防空室は、どの階投を下りるのかな)
 彼は、アンから教わった階段を忘れてしまった。そのときまた、つづけさまに、爆音が轟(とどろ)いた。ひゆーンという飛行機の呻(うな)りが聞える。どうもドイツ機らしい。廊下のつきあたりのカーテンが、ぴかっと光った。外の爆発の閃光(せんこう)が、カーテンを通すのであった。建物は、今にも裂(さ)けとびそうに、鳴動(めいどう)する。
 そのとき、爆弾の音を聞きながら、彼は、なにかこう、男性的な快感を覚(おぼ)えた。
「そうだ。屋上へ上って、一つ、戸外(こがい)の様子を見てやれ」
 こういう山の上の建物だから、よもや大して爆撃されることもあるまいとも思ったのである。彼は、廊下の突き当りの扉(ドア)をあけて、非常梯子(ひじょうはしご)づたいに屋上の方へ上っていった。
 壮観(そうかん)であった。思いがけない大壮観であった。眼下に見えるクリムスビーの町の上には、照明弾が、およそ二三百個も、煌々(こうこう)と燃えていた。この屋上にいても、新聞の文字が読めそうな明るさである。彼は、非常梯子を上へのぼり切って、屋上へ出たものか、それとも、この非常梯子にとりついてそっと首を出していた方がいいのか、ちょっと迷った。
 そのときであった。彼は、屋上に、二つの人影が動いているのを発見して、おやと思った。
(何をしているのだろう?)
 空襲見物では、あまりに物好(ものず)きである。彼は、自分のことは棚(たな)に上げて、そう思った。
 その二つの人影は、屋上から躯(からだ)をのりださんばかりにして、何か、映画に使うような移動照明器(いどうしょうめいき)のようなものを、動かしている。
(おかしい。防空隊の照明班にしては、あまりに小規模(しょうきぼ)だし……)
 彼は、爆撃中の危険も忘れて、その二つの人影の行動に、好奇心を沸(わ)かした。そして、その傍(そば)へ行って見る気になったのである。
 彼は、梯子を登り切って、その人影の方へ歩いていった。向うでは、彼が近づいてくるのに全然気がつかないようであった。
「ああ、あれは、アンじゃないか」
 彼の心臓は、どきんと鳴った。
「何をしているのですか」
 彼は、二人の傍へいって、声を懸けた。
「ああッ」
 二つの顔が、一せいに彼の方へ向いて、そして歪(ゆが)んだ。アンと、もう一人は、ボジャック氏だった。
「お待ち、ボジャック!」
 アンが、ボジャックに飛びかかって、腕をおさえた。ボジャックの手には、ピストルが握られていた。そして、喰いつきそうな顔で仏を睨(にら)みつけている。
 仏(フォー)は、刹那(せつな)に、一切(いっさい)を悟った。
(そうだったか。二人とも、ドイツ側のスパイだったんだな)
 そう感じたが、なぜか、彼は、それほど愕(おどろ)かなかった。
「あなた。さっきのお約束をお破りになる?」
 アンが、ボジャックの腕を必死になって、抑(おさ)えながらいった。
「……約束は、守るよ。だが、説明をしてもらいたいものだ」
「なにを……こいつを、やっつけたが、早道だ」
「お待ち。命令だ、撃ってはならない。それよりも、早く赤外線標識灯(せきがいせんひょうしきとう)を、沖合(おきあい)へ!」
 アンは、上官のような厳(おごそ)かな態度で叫んだ。
「私は、皆さんの邪魔(じゃま)をしまい。私は、傍観者(ぼうかんしゃ)だ」
「あたしは、あなたを信じます。あたしたちは、祖国(そこく)ドイツを光栄あらしめるために、生命(せいめい)を捧(ささ)げて、今最後の職場につくのです。邪魔をしないでください」
「よし、わかった。おれは約束を守るぞ」
「ありがとう――ボジャック、早く光源(こうげん)を……」
「おお」
 ボジャックは、再び台の上の機械にとりついた。スイッチが入ったのか、遂(つい)に点火した。しかし外へは、光がすこしも出ない。赤外線灯の特徴(とくちょう)である。それは、遥(はる)かの海上及び空中に待機する五万にのぼるドイツ軍のための生命の目標だった。この目標によって、彼等ドイツ軍は、この払暁(ふつぎょう)、このハンバー河口の機雷原(きらいげん)と高射砲弾幕(こうしゃほうだんまく)とを突破して、この地に上陸作戦を敢行(かんこう)する手筈(てはず)だった――仏天青も、ようやくそれを悟(さと)った。
 この赤外線標識灯が点火したのが合図のように、上陸作戦軍を援護(えんご)する猛烈なる砲撃戦が始まった。更に空中よりは、ものすごい数量にのぼる巨大爆弾が、釣瓶打(つるべう)ちに投下され、天地も崩(くず)れんばかりの爆音が、耳を聞えなくし、そして網膜(もうまく)の底を焼いた。
 砲撃は、ますます熾烈(しれつ)さを加え、これに応酬(おうしゅう)するかのように、イギリス軍の陣地や砲台よりは、高射砲弾が、附近の空一面に、煙花(はなび)よりも豪華な空中の祭典を展開した。
「大丈夫、ボジャック」
「大丈夫!」
 二人の戦士は、脇目(わきめ)もふらず、標識灯を守りつづけている。
 砲撃目標が、だんだん山の方に近づいて来た。それと諜(しめ)し合(あ)わせたように、空中からの爆撃も、急に山の方に移動してきた。
「ほう、来るな」
 仏天青(フォー・テンチン)は、身の危険を感じた。しかし、ふしぎとその場を放れる気がしなかった。アンたちも、最後の職場を死守しているのだ。しかし、これは、えらいことになるぞ!
 果して、それから五分間ばかり経(た)つと、砲撃目標は、俄然(がぜん)跳躍(ちょうやく)した。砲弾は、この研究所の前方に落ち、それから、彼等の頭上をとび越えて、後(うしろ)の山上に落ちて、ものすごい音響(おんきょう)と閃光(せんこう)とそして吹き倒すような爆風(ばくふう)とを齎(もたら)した。
「あぶない」仏は、屋上に腹匍(はらば)った。
 とたんに、どどどどーンと、ぶっつづけに大爆音が聞え、耳はガーンとなってしまった。そして、あたりは火の海となったかと思われた。それをきっかけのように、ひっきりなしに砲弾と爆弾とが降って来た。身を避けるものは何もない。彼は灼鉄(しゃくてつ)炎々(えんえん)と立ちのぼる坩堝(るつぼ)の中に身を投じたように感じた――が、そのあとは、意識を失ってしまった。
 不図(ふと)、気がついたときには、あたりの風景は一変していた。附近一帯は、炎々たる火焔(かえん)に包まれていた。屋上は、半分ばかり、どこかへ持っていかれてしまっている。
 彼は、むくむくと起きあがって、空を見上げた。高射砲弾は、盛(さか)んに頭上で炸裂(さくれつ)していた。照空灯(しょうくうとう)と照明弾とが、空中で噛(か)み合っていた。その中に、真白な無数の茸(きのこ)がふわりふわりと浮いていた。落下傘部隊(らっかさんぶたい)であった。ドイツ軍の上陸は、遂(つい)に開始せられたのであった!
「おお、落下傘部隊(デザント)が下りる。ああ、ダンケルク戦線そっくりだ!」
 ああダンケルク戦線! 彼は全身に、電撃をうけたように感じた。
「ああ、ダンケルク! おお、そうだ。思い出したぞ!」
 その瞬間に、彼は、今の今迄喪失(そうしつ)していた一切の過去の記憶を取り戻した。
 おお、覚醒(かくせい)! 記憶は蘇(よみがえ)った。奇蹟(きせき)だ、大奇蹟だ!
 彼は、灼鉄と硝煙(しょうえん)と閃光と鳴動(めいどう)との中に包まれたまま、爆発するような歓喜(かんき)を感じた。その瞬間に、彼から、仏天青(フォー・テンチン)なる中国人の霊魂(れいこん)と性格とが、白煙(はくえん)のように飛び去った。それに代って、駐仏日本大使館付武官(ちゅうふつにっぽんたいしかんづきぶかん)福士大尉(ふくしたいい)の烈々(れつれつ)たる気魄(きはく)が蘇って来た。
「おッ、俺は、今まで、何を莫迦(ばか)な夢を見ていたのだろうなあ!」
 アーガス博士の治療を待つまでもなかった。彼――福士大尉の、喪(うしな)われたる記憶は、その一瞬の間に、完全に恢復(かいふく)したのだった――ドクター・ヒルが示唆(しさ)したところと、ぴたりと一致する経過をとって……。
 輝(かがや)かしい福士大尉の復帰(ふっき)!
「アンは、どうした」
 大尉は、目を瞠(みは)って、アンを探した。赤外線標識灯は、台ばかりになっていた。アンは、その下に倒れていた。ボジャックも亦(また)……
「アン、どうした。しっかりせい」
 大尉は、アンを抱(かか)え起してみると、胸一面の血だった。胸をやられている! 大尉の声が通じたものか、アンは、薄目を開いた。
「ボジャックは?」
「ボジャックは、ここにいる。ああ、気の毒だが、とうの昔に……」
「そう。あたしも、もう……」
「これ、しっかりしろ。アン」
「あなた。アンは、あなたに感謝します。われわれ第五列部隊は、監獄にまで手を伸ばして、あなたを利用しましたが、許してください。祖国ドイツは……」
「そんなことは、わかっとる。アン、死んじゃ駄目だぞ」
「あなたは、ご存知(ぞんじ)ないが、あなたは、日本の将校なんです」
「それは知っている。おれは、福士大尉だ。爆撃の嵐の中に、おれは記憶を恢復したのだ。悦(よろこ)んでくれ」
「ああ、そうだったの。道理(どうり)で、お元気な声だと思ったわ」
「アン、なにもかも、思い出したよ。あの油に汚れたハンカチも、ぼろぼろの服も、みんなダンケルクの戦闘の中にいたせいだ。おれは、飛行機を操縦してドーヴァを越えて、この英国(えいこく)に飛んだのだ。そのとき、既(すで)に負傷していた。同乗させてやった中国人仏天青は機上で死んだが、おれは、いつの間にか、その先生の服を持っていたんだ。おれは飛行機を、夜間着陸させるのに苦しんだが、遂(つい)に飛行場が見つからず、その後は憶(おぼ)えていない。それ以後、おれの記憶が消えてしまったんだ。何をして監獄へ入れられたか、そいつは知らない。おい、アン――アン、どうした」
「あなた、最後のお願い……あたしのために、こういってよ……」
「アン、しっかりしろ。何というのか」
「……こう、いうのよ。ヒ、ヒットラーに代(かわ)りて、第五列部隊のフン大尉に告ぐ」
「えっ、第五列部隊のフン大尉に?」
「そう、そうなの、あたしのことよ。……汝は、大ドイツのため、忠実に職務を……あなた……」
「しっかりせんか、アン――いや、フン大尉。君の壮烈(そうれつ)なる戦死のことは、きっとおれが、お前の敬愛するヒットラー総統(そうとう)に伝達(でんたつ)してやるぞッ!」
 福士大尉は、アンの耳に口をつけて、肺腑(はいふ)をしぼるような声で、最後の言葉を送った。
 そのとき、夜は、ほのぼのと、明け放れた。頭上には、精鋭なるドイツ機隊の翼(つばさ)の輝(かがや)き、そして海岸には、平舟(ひらぶね)の舷(ふなべり)をのり越えて、黒き洪水(こうずい)のような戦車部隊が!
 ドイツ軍大勝利の閧(とき)の声と共に、上陸作戦の夜は、明け放れたのであった。
 福士大尉は、情報報告のため、直(ただ)ちにこのクリムスビーを発足(ほっそく)すべく、アンの亡骸(なきがら)をそっと下に置いて、立ち上った。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:83 KB

担当:undef