爆薬の花籠
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著者名:海野十三 

「ふん、まあ、これはいいとして、例の方は、手ぬかりないだろうな」
「ええ、準備は、もうすっかりついています。今回同時爆発をとげる工場の数は、全部で五十六ということになっています」
 ワイコフ医師は、とんでもない報告をするのであった。
「同時爆発というが、まちがいないだろうかねえ。時刻がきちんとあわないと、どじをふむからなあ」
「その点は、大丈夫です。ものの五分と、くいちがいはないはずです。すっかり試験をしてありますから、まちがいなしです」
「銅板(どうばん)を酸がおかして、穴をあけるまでの時間だけ、もつというわけじゃな」
「そうです。つまり、時計仕掛よりも、この方が場所もとらないうえに、発見される心配がないのです。銅板の厚さと酸の濃度からして、発火時刻は、今夜の九時ということになっています」
「えっ、九時か、九時は、いけないよ。午後四時に爆発させなきゃ効目がうすい」
「九時にするようにと、御命令がありましたが」
「うん、はじめはそういった。しかし九時はいけないよ。どうにかして、四時爆発ということにならないか」
「困りましたな。全部やりかえるとなると、今からやっても、もう間に合いません」
「ふん、ちょっと、ぬかったな。いや、わしも注意が足りなかったのじゃ、じゃあ、仕方がない、午後九時の爆発で我慢をするか」
「九時でも、相当きき目があると思います。つまり工場には番人だけしかおりませんから、爆発が起れば、貴重な機械は完全に壊れるうえに、火災が起っても、人手が足りないから、どんどん延焼(えんしょう)していきます」
「だがなあ、ワイコフ。午後四時の作業中に爆発をやった方がもっと効目があるぞ」
「そうですかしら。私は反対のように、考えますが」
「お前は、あたまがまだよくないぞ。いいか、作業中にやれば、五十六箇所の工場の機械が壊れるうえに、そのそばにいた何千人何万人という熟練職工がやられてしまうじゃないか。機械と職工とこの両方をやっつけてしまえば、ここで日本の生産力というものはどんと落ちる。機械と職工との両方を狙うのが、うまいやり方なんだ、どうだ、これでわかったろう」
「なるほど、一石二鳥という、あれですね」
「機械だけで、いいじゃありませんか。職工まで殺すなんて、ちと野蛮ね」
 ニーナが口をはさんだ。
「野蛮もなにもない。あたりまえだ。機械はすぐにも他の国から入れて、いくぶんは補充がつく。しかし腕のいい技師や職工は、そんなわけにいかない。だから両方やっつけるのが一番いいのだ」
 ターネフはひとりで悦(えつ)に入っている。実におそろしい破壊計画であった。こういう計画をたてる世界骸骨化(がいこつか)クラブの大司令は、鬼か魔か。
「それから、例の極東薬品工業株式会社の爆発は、念入りにやってくれよ。彦田博士も一緒にやっつけてしまわねばならないが、博士はこの頃いつも工場に泊っているそうだから、多分うまくいくだろう。あの優秀な博士は、どうしても生かしておくことは出来ない」
 ターネフのいうことは、どこからどこまでも、日本にとって一大事のことばかりであった。いや、日本だけではない。東洋、いや全世界の文明力を破壊し、世界人類の幸福をぶちこわすおそろしい陰謀なんだ。この陰謀の巣の地下室は、どこにあるのかと思うと、これが意外にも意外、例のうつくしい花壇の真下にあるのであった。
 時間の歩(あゆ)みのおそろしさよ。
 未曾有(みぞう)の大事件は、刻々(こくこく)近づきつつある。
 帆村探偵は、どこにいるのか。トラ十はどこへ逃げたのか。
 ここに、ただ一つふしぎなるは、例の美しき花園に水を撒(ま)く庭番が、いつになく帽子を深々とかぶり、そしていつになく忠実に花の間にうずまって、仕事に精を出していることであった。

   夫人のなげき

 花の慰問隊は、一せいに日比谷公園から、進行を開始した。ターネフ首領邸(しゅりょうてい)から、ここへ運ばれてきてあった数千のうつくしい花束と花籠とは、少女たちの胸に抱かれ、飾りたてられたトラックの上にのせられ、そこから全市の各工場地帯に向かって出発したのであった。房枝の組は、城南方面であった。
 この方面には、十台のトラックがつづいた。どの工場でも、工員たちから、ものすごい歓迎をうけた。
「まあ、きれいな花籠だこと」
「こんなに沢山もらっていいんですか。これはどうも、すみませんですなあ」
「いいえ。皆さんの御奮闘(ごふんとう)に対して、ほんのわずかの贈物なんですの。それを、たいへん喜んでいただいて、あたくしたち花の慰問隊一同、こんなうれしいことはございませんわ」
 こんな会話のやりとりが、どこへいっても、工員たちと房枝たちとの間にとりかわされた。美少女たちの頬は、トラックの上で、すっかり紅潮して、花にもましてうつくしく見えた。
 彦田博士の極東薬品株式会社の前でも、この花と少女のトラックは止まった。そして、一番見ごとな花籠が贈られた。
 社長の彦田博士は現れなかったが、副社長以下の幹部が、門前に総出となって、花の慰問隊を出迎えた。
 房枝たちが、その花籠を贈呈(ぞうてい)している途中で、会社の玄関から、一人の上品な夫人が現れた。その夫人こそ、彦田博士の夫人道子であったが、夫人は、目のさめるような大花籠にしばらく気をうばわれ、たたずんでいるうちに、さっと驚きの色が浮かんだ。それは、思いがけない房枝の姿を見つけたからであった。
「まあ、あなたは房枝さんでしょう。まあまあ、房枝さんでしたわね。よくきてくだすったのね。こんなところでお目にかかれるなんて」
 夫人は、房枝のそばへ駈けよって、うれしさのあまり、ついに声が出なくなったほどであった。
「奥様は、どうして、こんなところに」
 挨拶がすんでから、房枝が、ふしぎそうにたずねた。
「ああ、そのことですの。実は、この工場は、私の主人が建てて、社長をしていますのよ」
「御主人?」
「そうですの。彦田と申します」
「あ、彦田博士! まあ、そうでしたか。すると奥様は、彦田博士の御夫人でいらっしゃつたのですねえ。まあ、目と鼻にいましたのに、すこしも気がつきませんでしたわ。こんないい工場、そしてあんなにりっぱな御主人! 奥様は日本一御幸福ですわねえ」
「そうでもありませんわ、第一、私たち二人きりで子供がありませんもの。こんな不幸なことはありませんわ。まあとにかく、皆さんこっちへお入りになって、しばらく、休んでいってくださいまし。お茶の用意をしてございますから」
 道子夫人は、そういって、房枝たちを工場の応接室へ案内した。そこには、心づくしのお菓子と茶が並べられてあった。
 房枝は、その厚意に感激しながら、夫人のそばで茶を御馳走になった。
「房枝さん。いつも私が、お話したいと思いますが[#「いつも私が、お話したいと思いますが」はママ]、むかし、主人との間には、一人のかわいい女の子がいましたのよ」
「そのようなお話を伺いました。で、そのお嬢さまは、どうなすったのでございます」
「おはずかしい身の上ばなしになりますが、その当時、研究狂といわれた主人と私はその日の食べものにも困り、そのうえ私が病気になってしまい、一家はどん底の暗黒におちました。まだ始めての誕生日もこない娘は、私の乳が出ないために、昼も夜も私のそばで泣きつづけてやせていきますの。ついに主人と私とは死を決心しました。しかし娘は死なせたくない。なんとか助かるものなら人のおなさけにすがっても、助けてやりたいと思い、心を鬼にして、ある露地(ろじ)に棄ててしまったのです」
「まあ」
「しかし、私たちは、すぐそれがまちがっていたと気がつきました。そこで、息せききって、娘を棄てた露地へ引返したのですが、そのときはもうおそかったのです。ほんの十分か十五分しかたちませんのに、娘の姿はもう見当りません。私たちは、必死になって娘をさがしまわりました。いいえ、今もなお、私たちはあらゆる手をつくして、娘をさがしつづけているのです、しかしわが子を棄てた罪を、神様はまだお許し下さらないものと見え、娘は未だに私たちのもとへ帰ってこないのです」
 夫人は、ハンケチを目にあて、肩をふるわせて忍び泣くのであった。
「まあ、なんてお気の毒なお話しでしょう」
 じっと聞いていた房枝は、その話が、他人事とは思えなかった。彼女の身の上にも、それと同じような話がある。房枝は、父母の顔も名もしらない淋しい孤子(みなしご)であった。こうして道子夫人の話を聞いていると、なんだか彼女自身が、道子夫人のさがしている棄てられた愛児のように思えてくるのだった。房枝の胸は、早鐘(はやがね)のようになりだした。
「ねえ、奥様。お棄てになったそのお嬢さまの名は、なんとおっしゃいますの」
 ついに房枝は、思わずそうたずねてしまった。

   光明(こうみょう)

(お棄てになったお嬢さまの名は、なんとおっしゃいますの?)
 夫人が、なんと答えるであろうか。もしも(その名は、房枝といいますのよ)といわれたら、房枝はどうしようかと、胸がわくわくした。多分彼女は、喜びにたえきれなくて、その場に卒倒(そっとう)するかもしれないと思った。
「娘の名でございますか。それは」
 と、夫人は口ごもりながら、房枝の顔を穴のあくほど見つめた。
「あのう、娘の名は、小雪と申しますの」
「小雪? 小雪ですか。それにまちがいありませんの」
 房枝は失望のあまり、わっと泣きだしたいのを一生けんめい唇をかみしめてこらえていた。
「ええ、小雪ですの。人様の手に渡っても、一旦私たちがつけてやった名前は、ぜひ名のらせたいと思い、メリンスの袷(あわせ)の裏に、娘の名を赤い糸で縫いとっておきました。房枝さん、もしや、あなたの本名は小雪とおっしゃるのではありませんの」
 夫人の声は、ふるえる。
「いいえ、とんでもない、あたくしの名は、小さいときからただ一つ、房枝なんですわ」
「まあ、でも」
「あたくしは、生れてからずっと曲馬団(きょくばだん)の娘なんですわ。どうして、奥様のようないい方を、母親にもてるものですか。ごめんあそばせ」
 房枝は、その場にいたたまらなくなって、スミ枝たちにはかまわず、一散に外へ走りだしたのであった。
 何もしらないトラックの運転手は、いよいよ帰るのだと思って、運転台へとびのった。そのうちに慰問隊の少女たちは、ぞろぞろと工場の中から出てきた。ただ一人スミ枝だけが、なかなか出てこなかったが、しばらくして、ようよう道子夫人と一緒に出て来た。スミ枝が最後に車上の人になると、トラックはうごきだした。房枝は、うずくまって、手で顔をおおったままついに頭をあげなかった。
 賑(にぎ)やかな拍手をもって花の慰問隊を送る工場の人々に交って、道子夫人の顔だけが、ひとり憂(うれい)にとざされていた。
 慰問隊は、一旦日比谷に引揚げ、そして夕方の六時近くになって、めでたく解散した。
 房枝は、スミ枝をさそってそばやに入った。そしておそばを二つとったが、房枝はついに箸(はし)をつけず、スミ枝の方へ押してやった。
 そこを出ると、房枝は、わざわざ暗い裏町をえらぶようにして、ただ黙々としてあるきつづけるのであった。困ったのは、そばについて、一緒にあるかされているスミ枝だった。何を話しかけても、いつになく強情に、房枝はへんじ一つしなかった。
「ねえ、房枝さん。あんた、いじわるね。あたしにあいたいとか、かゆいとかぐらいへんじをしても、ばちがあたりゃしないでしょう」
 スミ枝は、とうとう怒り出した。それでも房枝は、頑(がん)としてへんじをしなかった。これにはスミ枝も、全く手をやいてしまったが、ふと思い出して、
「そうそう、房枝さん。あのいい奥様が、あたしかえろう[#「あたしかえろう」はママ]とすると、それを引止めて、こんなことをいったわよ。あの、いつだか、あの奥様があんたにくれたあの手箱ね、あの手箱に張ってあるメリンスのきれがあるでしょう。あのメリンスのきれに、あんたがおぼえがないか、きいてほしいといってたわよ。あのきれは、奥様が自分の棄子に着せてやった袷(あわせ)の共ぎれなんだってよ」
「えっ、スミ枝ちゃん、何だって」
 今の今まで、ろくにへんじもしなかった房枝が、これをきくと、急にものをいいだした。スミ枝は、あきれながらも、房枝が口をきくようになったことをよろこんで、くりかえし説明をした。
「あら、あたし、思いだしたわ」
 房枝は、瞳を輝かせた。
「どうしたのよう、房枝さん」
「あ、たしかに、あれにちがいないわ。ねえスミ枝さん。あたしのお守袋(まもりぶくろ)の中に、あの手箱と同じ梅に鶯(うぐいす)の模様のメリンスのきれで作った小さい袋が入っているのを思いだしたのよ」
「それ、ほんとう。じゃ、見せてごらんなさい」
「あ、そのお守袋は、ここにはないのよ」
「じゃ、しょうがないじゃないの。どこへやってしまったの」
「黒川団長の胸にかけてあんのよ」
「あーら、なぜそんなことを」
「だって、黒川団長が、あのとおりの大怪我で重態(じゅうたい)でしょう。なんとか持ち直すようにと、あのお守袋を胸にかけてあげたのよ。じゃ、これからすぐ、黒川団長のところにいってみましょう。あたし、それが同じだかどうだか、早くしらべてみたいわ」
 そこで、房枝とスミ枝とは、いそいで黒川の寝ているターネフ首領邸へ急ぐこととなった。黒川は、あれ以来、ずっと屋敷の一室に、呻吟(しんぎん)しているのであった。
 はたして、そのお守袋の中にあるものは、あの小箱と同じきれであるか。房枝は、胸をおどらせているが、たとえそれが同じきれであったとしても、房枝は房枝であり、決して小雪ではないから、さわいでも無駄なのではあるまいか。しかし房枝の胸は、わくわくして仕方がなかった。

   一大事(いちだいじ)近(ちか)づく

 ターネフ首領邸へ、こっそり帰ってきた房枝とスミ枝は、そっと黒川団長の寝ている部屋へすべりこんだ。
 黒川団長は頭部に繃帯(ほうたい)をして、苦しそうな寝息をたてて眠っていた。
 房枝は、スミ枝に目くばせをすると、手つだってもらって、黒川の胸にかけてあったお守り袋の紐(ひも)を切り、そっとはずした。
 房枝の手は、ぶるぶるとふるえている。やはりスミ枝の手を借りて、お守袋を開き、中からうすよごれた小袋(こぶくろ)をとりだした。そのとき、房枝は、はっと息をのんだ。
「あ、同じきれよ」
 房枝は、メリンスのきれで出来たその小さい袋を、しばらくひっくりかえしていたが、やがて気がついて、その小袋をあけて、中に入っていた神社のお札(ふだ)を出し、それから小袋の裏をひっくりかえして見た。そこには、大きなおどろきが待ちかまえていた。
「ああ、スミ枝ちゃん」
 房枝は、おどろきとうれしさとに、あとがいえなくて、ぶるぶるふるえる指先で、その小袋の裏を指すだけであった。
 その袋の裏には、赤い糸で「小雪」という字が縫(ぬ)いとってあった。
 ああ、小雪! 今こそ、房枝は、自分の本名が小雪であったことをはっきりと悟(さと)ったのである。そして自分が、あのやさしい彦田道子夫人の一粒種(ひとつぶだね)であることを知ったのであった。多分このお守袋は、彼女がミマツ団員の誰かに拾いあげられた当時、気のきいた女団員が、後日(ごじつ)のために、ひそかに二重のお守袋をつくって、房枝の膚(はだ)につけ、きせておいたものらしい。房枝とは幼少からの芸名だったのだ。
「やっぱり、あの奥様は、房枝さんのほんとうのお母さまだったのね。あたしも、うれしいわ」
 スミ枝はそういって、房枝の手をとった。
「ありがとう。ありがとう」
 房枝とスミ枝は、抱き合ったまま、声をあげて泣きだした。これが泣かずにいられるであろうか。
 かくして、房枝は、彦田博士の実子であったことが確定した。
 房枝のよろこびはもちろん大きいが、これを彦田博士や夫人道子が知ったら、どんなにおどろき、そしてよろこぶことであろうか。一刻も早く、道子夫人のところへ駈けつけて、名乗(なのり)をあげなければならない。
 だが、ここに、心配なことがある。房枝は、はたしてこれから両親の前に出て、なつかしい膝に顔をうずめることが出来るであろうか。なぜならば、おそろしき呪(のろい)の爆薬の花籠は、やがてものすごい音響をあげて爆裂することになっているのであった。深夜の研究をつづけている彦田博士のそばには、その花籠が飾られてあるのであった。
 房枝は、そんなことは知らず、ただもう夢中でよろこんでいたが、彼女のうしろには、まっ黒な悪魔が立っているのだ。
「おいおい、誰じゃ、そこにいるのは」
 眠っているとばかり思ってた黒川団長が、いつの間にかベッドの上に目をあいていた。房枝とスミ枝は、涙をそっと拭(ふ)いて、黒川の枕許に近づいた。
「ああ、房枝か、もう一人は、スミ枝だな。ここはどこだろうね」
「ターネフさんのお邸ですわ」
「なに、ターネフさんのお邸? はてな、ターネフさんが何か重大な事件が起るといっていたのを、おれは耳にしたんだが、あれはどんな事件だったかしらんか」
「え、重大事件とは」
「ええと、待てよ。そうそう爆薬を仕掛けた花籠を、都下各生産工場へくばって、今夜何時だかに、一せいに爆発させるとか」
「ええっ、黒川団長。もっとくわしく聞かせてください」
 そこで黒川は、はからずも、ターネフたちの会話を耳にした話を、房枝たちにしておどろかせた。しかしかんじんの爆発時刻が、いつだったか、黒川は思いだせないのであった。午後五時だったか、八時だったか、それとも九時だったか。
 しかし、とにかく時刻は切迫(せっぱく)していることだし、事件が事件だから、すぐその筋へしらせなければたいへんであったから、黒川団長は重態の身をもかえりみず、房枝とスミ枝とを急がせて、ひそかにターネフ邸をぬけだしたのであった。
 爆発の予定時刻は、午後九時だった。ターネフ首領たちは、その時刻、全市に捲(ま)きおこる連続爆音と天に冲(ちゅう)する幾百本の大火柱(だいひばしら)を見んものと、三階の窓ぎわで酒をのみながら、時刻の来るのを、たのしげに待っていたのである。

   大団円(だいだんえん)

 正確にいうと、午後九時一分前だった。
 極東薬品工業株式会社の、社長研究室の入口の扉を蹴やぶるようにして、中へとびこんできたものがあった。
 今夜は、めずらしくも、博士夫人道子が同じ室にいて、博士の仕事の終るのを待って、編物をしていた。夫人がびっくりして立ち上った。
「まあ、あなたは房枝さん」
 とびこんできたのは房枝だった。髪はふりみだれ、顔は火のように赤く、胸は波をうっていた。
「花籠は? あっ、そこにあるのが、そうですね」
 房枝は、卓子(テーブル)の上においてあった、例の花籠を見つけると、走りよって小脇に抱えた。
「あら、房枝さん」
「この花籠は、あと二、三十秒で爆発するのです」
 房枝は駈けだしながら、
「お名残りおしゅうございますが、これが小雪の最後の孝行ですの。お父さま、お母さま、おたっしゃに」
「えっ、小雪。ああお待ちなさい。あなた、あの娘は、自分で小雪だと申しましたよ」
「ふーん、そういえば成程(なるほど)。おい、よびかえさなければ、おれにつづけ」
 博士と道子夫人とは、房枝の後を追うため、つづいて走りだした。
 だが、はたして、房枝に追いつくことが出来るであろうか。爆発の時刻は、午後九時、もうすぐそこに近づいている。房枝は、両親と大切な生産力の一つである工場とを救わんがために、一命を捨てる決心をし、今爆薬の花籠を抱いて、爆発しても被害のすくない安全な場所を求めて死の駈足(かけあし)をはじめたのであった。
 ここではちょっと脇道へそれるが、青年探偵帆村荘六の姿を、読者のみなさんにお知らせしたい。
 帆村荘六は、今、愛宕山(あたごやま)の上に立っている。そこには、警視総監をはじめ、例の田所検事やその他、要路のお歴々(れきれき)が十四、五名もあつまり、まっくらな山の上で、何ごとかを待っているのだった。
「おい、帆村君。時刻は、あと一分だが、ほんとうに大丈夫だろうね」
 そういったのは田所検事であった。
「何度でも申しますが、大丈夫ですとも。彦田博士の発明した新X塗料は、十分信用してもいいのです。私は、この実験にも度々立ち合い、それが爆薬にはたらいて、無力にしてしまうところを、十分に見て知っています。だから心配なしです。今度こそ、彦田博士の新発明の爆発防止塗料が、いかにすばらしい力をもっているかを証明する大がかりな実験日ですよ」
「そうね[#「そうね」はママ]、とにかく、もうすぐ午後九時がくる。しかし万一博士の塗料が効目がなくて、都下の生産工場が一せいに爆発したとしたら、僕たちは申訳に切腹しても、追いつかないよ」
「大丈夫ですよ。科学の力を信じてください。ほら、もう九時を過ぎましたよ。一分過ぎになりました。どこからも、爆発の音がきこえてこないではありませんか」
「なるほど、定刻を一分以上すぎた。これは妙だ。君のいうとおりだ」
 といっているとき、夜の静寂(せいじゃく)を破って、どどーんの一大音響が聞え、愛宕山(あたごやま)が、地震のように動いた。それと同時に、山手寄りの町に炎々(えんえん)たる火柱がぐんぐん立ちのぼって、天を焦(こ)がしはじめた。
 検事は、顔の色を失った。
 いや、総監はじめ、山上につめかけていた係官たちは、一せいに立ちすくんだのであった。
 帆村の言葉は、ついにでたらめに終ったのであろうか。
 ただ、爆音は、そのとき一回きりであったことと、皆がたちさわぐ中に、帆村一人が、平然とおちついていることが、敏感な田所検事を不審(ふしん)がらせた。
「帆村君。あの音はなんだ。あれでも、爆発じゃないというのかね」
 帆村は、ちょっと困ったという顔をして、
「今のも、やっぱり爆発でしょうね」
「すると、君の予想は、見事にはずれた」
「いいえ、はずれてはいません。今のは番外です。他の工場は、どこもみんな、林のように静まりかえっています」
「なるほど、それはそうだ。だが、番外とは、どういうことかね」
「あれは、あれは多分、トラ十のやった仕事じゃないでしょうか」
「トラ十? トラ十といえば、さっきから見えないが」
「僕も、ちと油断をしておりました。トラ十はすっかり改心して、僕と一緒にターネフ邸にしのびこみ、僕に手伝って、あのとおり、おそるべきBB火薬を新X塗料ですっかり無力にしてしまったのです。だから、僕はつい目を放していたのがいけなかったのです。トラ十が、われわれのそばから姿を消したことに気がついたのは、三十分ほど前でした」
「それで、番外の爆発事件というのはどういうことかね」
「今に、報告が入ってくるでしょうが、あれはターネフ邸が爆発したのではないでしょうか。あの火の見当といい、あの爆裂(ばくれつ)のものすごさといい、あれはどうしても、ターネフ邸の花園の下にあったBB火薬庫に火が入ったとしか考えられません。きっと、そうですよ。トラ十がターネフに、ついに復讐をしたのですよ。トラ十は、悪いやつですから、なかなか執念ぶかいのです。それにターネフも、トラ十に対して、これまでずいぶんひどいことをやりましたからね」
 そういった帆村は、他の人の知らないトラ十の秘密をしっていた。それはすこし前、トラ十が改心して、帆村に協力するようになったとき、トラ十が帆村に語ったことであった。これによると、トラ十はターネフに対して大きい恨(うら)みを抱いているのだった。それは彼の父親が、今から十年ほど前、例のクラブで雑役夫として働いていたとき、クラブの集会を立ち聞きしたというかどで、ターネフのためにピストルで撃ち殺されたのである。トラ十は他の都会で働いていたが、このことを聞いて非常に怒ったが、この怒りを胸におさめて、いつかターネフをやっつけて父の霊(れい)を慰(なぐさ)めてやろうと思っていたのだ。そしてそのときにトラ十が帆村にうちあけたところによると、彼も彼の父も、ともに日本人ではなく、中国人であり、本当の姓は楊氏(ようし)というのであった。トラ十いや楊重庭(ようじゅうてい)は、そうときまると、自分の身をまもるために、それ以来、日本人に化けたのである。
 さて、帆村の推測は誤りなかった。間もなく、この山の上に、ターネフ邸の怪爆発事件の報告がされた。なんでも、爆発現場はものすごいことになっているそうで、あのうつくしい花壇はどこへ飛び散ったか、花の首一つ落ちておらず邸宅も爆発と同時に、その半分が吹きとび、その残りもあと五分ほどのうちに紙のように燃えつくしてしまったそうである。今更おどろかされるBB火薬の威力であった。
 これは、その後の話であるけれど、ターネフ一味もトラ十も、ついに永遠に姿を見せなかった。だから、トラ十がターネフに恨をのべにいって、爆薬に火をつけてあの戦慄(せんりつ)すべき最期をとげたことは、帆村たちの推測によるだけであった。しかし帆村の推測は、前後の事情から考えて、多分まちがいのないことのように思われる。
 かくして世界骸骨化本部(がいこつかほんぶ)がターネフ首領たちを使って日本一の工場[#「日本一の工場」はママ]を一せいに破壊しようとし、世界人類の平和生活に大きなひびを入れようとした戦慄すべき陰謀は、きわどいところで防ぎとめられた。全くもう一歩というところであった。あぶなかった。あぶなかった。
 すると、房枝は、どうしたであろうか。両親のため国家のため、房枝は、爆薬の花籠と共に沼の中に身をおどらせ、そこに一命を終ろうとしたが、そのとき、ようやく追いついたスミ枝が、房枝のうしろから引き留めて彼女の一命を救った。そして籠だけを、沼の中になげこんだの、であるが、その花籠がついに不発に終ったことは、みなさんも既に御存じのとおりである。二人が、沼のそばにうち重なって、はあはあと息を切っているところへ、彦田博士夫婦も、ようやく駈けつけた。
「おお、房枝さん、いや、あたしの可愛いい小雪」
「お母さん」
「お父さんの方も、よんでおくれ」
 房枝、いや彦田小雪は、右と左とから両親にとりすがられ、まるで夢を見てるとしか思われなかった。
 もうこの世では望みのないと思っていた両親に、めぐりあえたのであった。いや、しかもその両親は、名実ともにじつにりっぱな両親であったことは、小雪の幸福であった。
 小雪は、今は、もちろん両親のもとに、幸福に暮し、そして孝行に身をささげているが、仲のよかったスミ枝も、その妹として彦田博士の養女となり、同じ屋根の下に、思いがけないよろこびの日を送っているという。
 その後、帆村荘六は、ときどき訪ねてくるそうである。彼は、時局の関係で、いよいよ忙(いそが)しいそうである。




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