爆薬の花籠
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著者名:海野十三 

「なあに、大丈夫。俺は、いいところを知っているんだ。極東薬品工業という工場の前に、興行向きの地所があるんだ」
 極東薬品工業? 聞いたような名だ。いや、それこそ彦田博士の工場であった。今そこでは、帆村の持ちかえった極秘の塗料の研究がすすめられている。

   東京へ

 房枝たちが養われている新興ミマツ曲馬団が、今後うまく立ちなおって、よい興行成績をあげるようになるかどうか、それは団員たちにとって、生きるか死ぬかの大問題だった。
 吉凶(きっきょう)いずれか、いわば、その運だめしともいえる城南の興行の瀬ぶみに、房枝は新団長の黒川とつれだち、横浜をあとに、東京へ出かけたのであった。
 これから先、はたして団員二十余名が、うまく口すぎが出来ていくであろうかと思えば、この下検分(したけんぶん)の使の責任は重く、目の前が暗くなる思いがするのであったが、それでも房枝は、メキシコにいるときから、いくたびとなく夢にみていたなつかしい東京の土地を踏むのだと思うと、やっぱりうれしさの方がこみあげて来た。
「あら、もう、ここは東京なのね」
 省線電車(しょうせんでんしゃ)が、川崎を出て長い鉄橋を北へ越えると、そこはもう東京になっていた。房枝は、窓越しに、工場ばかり見える町の風景に、なつかしい瞳を走らせた。
 新団長の黒川は、ふーんと、生返事をしたばかりで、電車の中にぶらさがっているハイキングの広告に、注意をうばわれていた。
(このごろのお客さんは、みんなハイキングにいってしまって、曲馬団なんかに、ふりむかないのじゃないかなあ。そうなりゃ、飯の食いあげだ)
 と、この新団長には、車内の広告が、はなはだ心配のたねとなった。
 電車が蒲田(かまた)駅につくと、二人は、あわてて下りた。
 駅前にはバスがあるのに、黒川はそれに乗ろうとせず、てくてくと歩きだした。たとえ一円でも、これから先にはっきりしたあてのない今のミマツ曲馬団のふところには、ひどくひびくのであった。この団長さん、なかなかこまかい人物だった。
 二人は、にぎやかな商店街をぬけて、なんだか、せせこましい長屋町に入りこんだ。そこは鼠色(ねずみいろ)の土ほこりの立つ、妙にすえくさいさびた鉄粉(てっぷん)のにおう場所で、まだ、ところどころに、まっ黒な水のよどんだ沼地があった。
 だが、房枝には、こういう建てこんだ棟割長屋(むねわりながや)が、ことの外(ほか)なつかしかった。それは房枝が、まだ見ぬ両親の家を思い出したからだ。
(こうした棟割長屋のどこかに、自分の両親が暮しているのではないか)
 そう思えば、房枝には、一軒一軒の家が、ただなつかしくて仕方がないのだ。家々には、大勢の家族がにぎやかに暮している。なにやら、うまそうに煮えている匂(におい)もする。赤ちゃんが泣いている。よぼよぼしたお婆さんが、杖をつきながら露地(ろじ)の奥からあらわれて、まぶしそうに、通(とおり)をながめる。飴屋(あめや)さんが、太鼓(たいこ)を鳴らしながら子供たちをお供にして通る。
 どれを見ても、一つとして、房枝にはなつかしくないものはなかった。房枝は、いくたびか、通りがかりのその棟割長屋へ、
(お母さま、ただ今)
 と、はいっていきたくなって、困った。まだ見ぬ親をしたう房枝の心のうちは、ちょっと文字(もんじ)にものぼせられないほど、いじらしかった。
「さあ、地所(じしょ)は、あそこに見える空地なんだが」
 と、黒川が、とつぜん立ちどまって、
「ところが、あの空地の持主の飯村(いいむら)という人の家は、どこか、この近所にあったはずだが、どこだったかなあ。だいぶん以前のことで、度忘(どわす)れしてしまったぞ」
 と、新団長は、溜息(ためいき)をついて、あたりを見まわした。房枝の夢みる心は、黒川のこえのした瞬間に破れ、とたんに彼女は、現実の世界に引きもどされた。
「さてこのあたりに、ちがいないと思うのだが、房枝、わしは、このへんをちょっと探してくるから、お前、しばらくここに待っていておくれ」
 そういって、黒川は路傍(ろぼう)に房枝をのこして、あたふたと向こうへ歩いていった。

   工場地帯

 房枝は、ひとりになって、路傍(ろぼう)に立っていた。通りがかりのおかみさんや、三輪車にのった男や、それから、近所のいたずらざかりの子供たちが、房枝を、じろじろと見て通る。なにしろ、このへんに見なれない垢(あか)ぬけのした洋装をしている房枝だったから、特に目に立ったのであろう。
 房枝は、人に見られることは平気の職業を持っていたが、それは、曲馬団の舞台へあがったときのことで、こうして今、路傍に立っているところを、じろじろ見つめられるのは、はずかしかった。
 しぜん、房枝は、道の方に背を向け、はるかに見える極東薬品工場の方を、ぼんやりと見つめていた。
 その工場には、三本の、たくましい煙突(えんとつ)が立っていて、むくむくと黒い煙をはいていた。その煙突を見、まっ白に塗られた工場を見ていると、房枝は、なんとはなしに、それが雷洋丸(らいようまる)の生まれかわりのような気がしてきた。
 ああ、思えば、ふしぎな運命に、ひきずられてきたものである。雷洋丸が爆沈せられたあと、怒涛(どとう)荒(あ)れくるう、あのような大洋から、よくぞ救い出されたものである。
「ああ帆村荘六(ほむらそうろく)さまは、どうしていらっしゃるだろう?」
 房枝は、しばらく忘れていた、たのもしい人のことを、ここでまた新しく思い出した。
 そうだ、たのもしい青年探偵、帆村荘六! せめて、あの人が、今、自分のそばにいてくれれば、こうも不安な、そして孤独な気持にもならないですむだろう。曾呂利本馬の芸名で一座に戻ってくることは、もちろん不可能であろうけれど、せめて、房枝たちのため、相談役にでもなってくれれば、ずいぶん皆は、よろこぶであろう。その中でも房枝自身は、他のだれよりもうれしいのであるが。
 帆村荘六が、奇蹟的に一命をとりとめて、無事帰りついたことは、新聞で知った。房枝はそののち、なんとかして帆村に会いたいものと、思いつづけたのであったけれど、その帆村の住所を忘れてしまった。だから、手紙を出したくても、出すことができないのだった。
 そういう場合には、帆村の記事を出した、新聞社へ頼めば、たいてい、親切に先方の住所を調べ出して連絡してくれるのであるが、房枝は、まだ世間なれしないため、そういう方法のあることを知らなかった。
「ああ、帆村さまにお会いしたいわ。たった一度きりでいいから」
 房枝が、そんなことを、しきりに考えているとき、彼女のうしろを一台の自動車が走りぬけた。そして、そのすこし先で、車は水たまりにとびこんで、ひどい音をたてて水をはねかせた。
「まあ、しつれいね」
 房枝は、あっといって、自分の服をあらためてみたが、いいあんばいに、べつにどこにも、泥水(どろみず)がとんでいなかった。
 その自動車はそのまま、どんどん走っていったが、しばらくいくと、辻(つじ)を左にまがって、極東薬品の塀(へい)にそって進んでいった。そうなると、車が横になって、車内に一人の紳士が、よほどいそがしいと見えて、新聞をひろげて読んでいるのが見えた。
 房枝は、にくらしげに、その自動車の行方(ゆきさき)を見つめていた。
「あら、あの自動車、あの工場へ入っていったわ」
 房枝は、一大発見でもしたように、思わず声をたてた。だが、工場の玄関の前にとまったその自動車の中から、新聞をたたみながら降り立った紳士が、まさか房枝の会いたく思っている青年探偵帆村荘六であることには、気がつかなかった。なぜといって、二人の間にはかなりの距離があったのである。
 もしも、あのとき、房枝が道の方に背を向けていなかったら、また、帆村荘六が、車内で新聞などを読んでいなかったら、二人のうちのどっちかが、
(おお、房枝さんだ)
(あら、帆村さん!)
 と、こえをかけたであろうものを、運命の神は、時に、このようにいじわるなものである。
 黒川は、どこまでいったのか、なかなか房枝のところへは帰ってこなかった。
「どうしたんでしょうね、新団長は」
 房枝が、すこし不安になって、あたりを、きょろきょろ見まわしていると、そのとき、向こうの方から、一台の三輪車が、いきおいよく、こっちへ向けてはしってきた。
 房枝はさっきの自動車にこりて、こんどは道の真中(まんなか)の水たまりよりも、はるかに後に、はなれていた。そして、ふと、さっきの水たまりのところに目をやった房枝は、はっと息をのんだ。
「ああ、たいへんだわ、あの方」
 ちょうど、その水たまりのそばを、小さな風呂敷包をもった上品な中年の婦人が、なんにも知らないで、こっちへ向いて通りかかっているのだった。
「ああ、あぶない、たいへんですから、わきへおよりなさーい」
 そのままいれば、婦人の晴着(はれぎ)は、三輪車のため、ざぶり泥水をかけられ、めちゃくちゃになってしまう。房枝は、自分の身を忘れ、大ごえをあげて、危険せまる婦人の方へかけていった。
 だが、ざんねんながら、もうそれは間にあわなかった。
「ああッ!」と、房枝は、両手で目をおおった。

   知らぬめぐりあい

 房枝が目を閉じている間に、三輪車は、どさりと大きな音をたてると、房枝の横を通りぬけた。
「あらッ」
 房枝が、はっと思って、ふたたび目を開いてみると、さあ、たいへんなことになっていた。彼女が、心配したとおり、通りがかった例の上品な中年の婦人は、黒い紋附(もんつき)を、左の肩から裾(すそ)へかけて、見るも無残(むざん)に、泥水を一ぱいひっかけられているではないか。
「まあ、足袋(たび)はだしに、おなりになって」
 婦人は、三輪車をさけるとたんに、草履(ぞうり)の鼻緒(はなお)がぷつんと切れてしまい、そして、草履はぬげて、はだしになってしまったのだ。白足袋は、泥水にそまって、もうまっ黒だ。
 房枝は、かけよると、今にもたおれそうな婦人のからだを両手でささえた。
「奥さま。しっかりなさいまし。おけがはありません?」
「まあ、あたくし」
 と、婦人は、おどろきのあまり、ことばも出ない。
「ずいぶん、ひどい運転手でございますわねえ。あら、あのひと、あいさつもしないで、向こうに逃げてしまいましたわ」
 房枝が、後をふりかえったときには、三輪車は、もう向こうの辻をまがったのでもあろうか、影も形も見えなかった。
「いいえ、あたくしが不注意だったのでございますのよ」
 と、その婦人は、ハンケチを出して、羽織にかかった泥水の上をそっとおさえたが、二、三箇所、それをすると、もうハンケチは、まっ黒になってしまった。全身の泥水は、まだそのままであるように見える。ずいぶん、ひどくかかったものだ。
 この婦人は、誰あろう。有名な彦田博士の夫人道子であった。その昔、発明マニアといわれた若き学徒彦田氏を助け、苦労のどん底を、ともかくも切りぬけ、そして今日の輝かしい彦田博士を世に出したお手柄の賢夫人(けんふじん)だった。道子夫人はこのあたりに用事があって、今、かえり道であったのだ。
 そんな有名な夫人だとは、房枝は、すこしもしらなかった。房枝は、ただもうこの婦人が気の毒になって、自分のハンケチをハンドバックから出すと、道子夫人の羽織のうえの泥を吸いとりはじめた。が、このハンケチも、すぐまっ黒になってしまった。
「ああどうぞ、もう、そのままで」
 と、道子夫人は、つつましく、恐縮(きょうしゅく)して、房枝の好意を辞退した。
「でも、たいへんでございますわ」
「いいえ、わたくしが、不注意なのでございました。あなたのお姿につい見とれていましたものでございますから」
「あら、いやですわ、ほほほほ」
 と、房枝は赤くなって笑った。
「いえ、それが、ほんとうなのでございますの。お嬢さまは、しつれいですが、今年おいくつにおなり遊ばしたのでございますか。お教え、ねがえません?」
「まあ、はずかしい」
「ぜひ、お聞かせ、いただきとうございますの。おいくつでいらっしゃいます」
 なぜか、道子夫人は、道ばたで会った初対面の房枝の年齢(とし)を、しきりに知りたがるのであった。なにか、わけがありそうなようすである。
「あのう、あたくし、こんなに柄が大きいんですけれど、まだ十五なんですのよ」
「え、十五。ほんとうに十五でいらっしゃるの。じゃあ」
 といいかけて、夫人は言葉をのみ、しげしげと房枝の顔を穴のあくほどみつめるのであった。
「ああ、奥さま。お履物(はきもの)が、あんなところに」
 そのとき、房枝は、夫人の皮草履の片っ方が水たまりのそばに、裏がえしになって、ころがっているのに気がついた。このままにしておいては、また、後から来た車がひいてしまうであろう。そんなことがあっては、ますますお気の毒と思い、いそいで、かけていって、その片っ方の皮草履を手に取り上げた。
「あら、たいへん。鼻緒がこんなに切れていますわ。これじゃ、お歩きになることもできませんわ。あたくしが、今ちょっと間にあわせに、おすげいたしましょう」
「あら、もうどうぞ、おかまいなく」
「いいえ、だって、それでは、お歩きになれませんもの」
 と、房枝は、持っていたハンケチをさいて、鼻緒をすげようとしたが、鼻緒をすげるためには穴をあけなければならない。ところが、そこには、錐(きり)もなければ火箸(ひばし)もなかった。
「困りましたわねえ。穴をあけるものが、ないので」
「いいえ、もう御心配なく、あたくしがいたしますから」
 もしも房枝が、ながく日本の生活になれていて、草履をはきつけていたら、ここではなにも穴をあける道具がなくても、草履の鼻緒を、いちじ間にあわせに別の方法ですげることは出来たはずだ。しかし彼女は、ほとんど外国をまわっていたし、またいつも洋装ばかりしていたので、こうした場合、錐がなければ、鼻緒はすげられないものと思いこんでいた。だから、房枝は決心をして、
「ちょっと、ここでお待ちになっていてください。あたくし、そのへんのお家で、錐をお借りして、鼻緒をすげてまいりますわ」
 と、道子夫人にいってかけだした。
 道子夫人は、それをとめたが、房枝は、どんどんかけだして、一軒の家へとびこんだのであった。
 夫人は、房枝のあとを見送って、呆然(ぼうぜん)とその場に立っていた。
 すると、そのとき、向こうから一台の自動車が、警笛(けいてき)を鳴らしながらやって来たので、夫人はまたかとおどろき、いそいで道の傍(かたわら)にさけた。そこはちょうど両側が沼になっていて、さけるのにはたいへん不便なところだった。
 自動車は、急にとまった。
「おや、彦田博士の奥さんじゃありませんか。そのお姿はどうなすったのです。さあ、私がお送りしましょう。どうぞこの車へおのり下さい」
 夫人が、顔をあげてみると、それは、ちかごろしばしば博士邸へたずねてくる青年探偵の帆村荘六だった。
 道子夫人は、車に乗ろうとはせず、てみじかに、ここで起った出来事をのべたのである。もちろん、房枝のこともいった。
「奥さん。それはそうでしょうけれど、早くこの車へお乗りになった方がいいですよ。第一、泥がお顔にまではねかかっていて、たいへんなことになっていますよ」
「あら、まあ。そうですか」
 夫人は、あわてて顔をおさえた。
「さあさあお早く、こっちへお乗りください。それじゃみっともなくて、白昼歩けませんぞ。鼻緒の切れた草履なんか、どうでもいいじゃありませんか」
 この帆村探偵は、少々らんぼうなことをいう。夫人は、見知らぬ少女の好意を無にして、ここを去るのは気が進まなかった。が帆村は、一切そんなことをおかまいなしに、とうとう、夫人を引張りあげるようにして車にのせると、運転手にいそがせて、そのまま大森にある博士邸へ、車を走らせたのであった。

   花環(はなわ)と花籠(はなかご)

 極東薬品工業前の空地に、蓆(むしろ)をつくって小屋がけして新興ミマツ曲馬団の更生興行は、意外にも、たいへんな人気をよんで、場内は毎日われるような盛況(せいきょう)であった。
 団員は、だれもかれも、えびすさまのように、大にこにこであった。中でも、新団長の黒川のよろこびは、ひと通りではなかった。
「おい、お前たち二人でこれからすぐに、電灯会社へいってこい。夕方までに電灯をひいてもらって、今日から、夜間興行をやることにしよう。工事料は現金でもっていけ」
「はいはい。行ってきましょう」
 なにしろ、道具もなければ、金もないので、小屋がけをしたはいいが、はじめは電灯を引くことも出来なかった。天井(てんじょう)なしの、天気のいい日だけ、昼間興行で打切りというすこぶる能率のわるいやり方で、がまんしなければならない新興ミマツ曲馬団だった。
 だが、蓋(ふた)をあけると、どやどやとお客が押しよせてきて、たちまちしわだらけの札が、団長の帽子の中に一ぱいになってしまった。
 二日目には、客からお届けものの栗まんじゅうの入っていたボールの箱を、臨時金庫にしたが、たちまちこの箱も、札で一ぱいになって、箱はとうとうこわれてしまうというさわぎであった。そこで、仕方なくそばやさんから、乾(ほし)うどんの入っていた木箱をゆずってもらって、これを三代目の金庫としたが、この金庫も、三日目には、札で、すっかり底が浅くなってしまい、うっかり持ちあげると、板底から釘がぬけだすというわけで、夢みたいに金が集まってきた。こうなれば、電灯工事費なんかなんでもない。
 房枝の出し物は、もともと小馬ポニーを使って、身軽な馬術をやるのが一座の呼びものになっていたが、そのポニーは、雷洋丸とともに、太平洋の底に沈んでしまった。だから、この出し物はだめとなって、初日、二日は、仕方なく、上は洋髪の頭のままで、からだには、紙でつくったかみしもをつけ、博多今小蝶(はかたいまこちょう)と名乗って、水芸の太夫娘となって客の前に現れた。それでも、なにもしらない客たちは大よろこびで、小屋が割れそうなくらい手をたたいた。
 房枝は、うすい板敷(いたじき)の舞台の上で、そっと涙をのんだ。
(ポニーほしい)
 と思ったが、それは、どうにも、急場の間にあうはずがなかった。
「じゃあ一つ、空中サーカス道具を手に入れ、ついでに、天井の高い天幕(テント)も、借りちまうか、これなら、ごうせいな番組となって、お客は、またうんとふえるにちがいない」
 と、楽屋の草原の上に、あぐらをかいている黒川新団長は、ものすごく気前がよかった。
 五日目は、徹夜で、大天幕張り、次の日から、見ちがえるような新興ミマツ大曲馬団超満員御礼大興行と、長たらしい名前の旗を出し、「お礼のため、特に料金は二割引」とわけのわからぬ但し書をつけたが、これがまた大当りと来た。一座は、波間に沈んでいく雷洋丸から、命からがらのがれた後のしめっぽい思出なんか、どこかに忘れてしまって、たいへんな張切りぶりを見せた。もう二、三箇月、東京各地で稼いだら、その次には一座そろって上海(シャンハイ)へ渡ろうと、黒川団長は、そんな先のことまでを口にした。
 ちょうど、七日目の昼間興行のとき、房枝が、アパートを出て、楽屋入(がくやいり)をすると、黒川新団長が、にこにこ顔でそばへよってきた。
「おい、房枝。今日、お前のところへ、すばらしく大きな花環の贈物がとどいたよ。天幕の正面の柱に高くあげておいたよ」
「まあ、ほんとう? だれからかしら」
 房枝は、大花環と聞いて、目をみはった。
「さあ、その贈主のことだが『一婦人より』としてあるだけで、名前はない」
「一婦人より、ですって。だれなんでしょうね」
「まあ、その幕の間から、ちょっとのぞいてごらん。実にすばらしい花環だ」
 団長は、自分がその花環をもらったようによろこぶのであった。そこで房枝は、顔があかくなったが、団長にすすめられるままに、幕に手をかけてそっと覗(のぞ)いた。
「あーら、ほんとうね。まあ、きれいだこと」
 房枝は、思わずおどろきのこえをあげた。
「どうだ、りっぱなものだろうがな。わしはちかごろ、あんな見事な大花環を見たことがない。房枝、お前は、今はおしもおされもせぬ一座の大花形だよ」
「だれが、贈ってくださったのでしょうね」
 と、房枝は、小首をかしげたが、そのとき、ふと気がついて、
「ああひょっとしたら、部屋においてあるあの片っ方の草履(ぞうり)の奥さまがおくってくださったのではないかしら。でもまさか」
 と、房枝は、自問自答をして、再びその花環へ、まぶしい視線を送ったが、そのとき、房枝は、とつぜん、「あっ」と、大きな叫びごえをあげておそろしそうに身をひいた。
「どうした、房枝。いきなり、そんな大きなこえを出して」
 房枝は、そのとき、新団長の腕を、しっかととらえて、こえをふるわせた。
「ちょっと、あれを、あたしの大花環の横にならんで、気味のわるい花籠が」
「ええっ、気味のわるい花籠が?」

   怪しき花籠(はなかご)

「気味のわるい花籠? あの花籠なら、たいへんきれいじゃないか」
 と、黒川新団長は、房枝のことばを、むしろふしんに思っているようすだった。
 房枝は、恐怖の色をうかべ、
「いいえ、あの花籠には、あたし見おぼえがあるのよ。あの雷洋丸事件の、そもそもはじまりは、あの花籠だったのよ」
「ええ、なんだって」
 雷洋丸事件ときいて、黒川新団長は急に顔色をかえた。黒川はあのとき、トラ十の横に腰を下していたのだった。あのとき、電灯が一度消えて[#「一度消えて」は底本では「二度消えて」]、二度目についたときには、トラ十のすがたはなく、卓上は鮮血(せんけつ)でそまっていた。それから間もなく、雷洋丸は爆沈し、彼はもう少しで、命を失うところだったのだ。雷洋丸事件ということばをきくと、黒川は今でも、すぐ身ぶるいがはじまる。
「団長さん。あの事件のとき、あたしたちの食卓に、あのとおりの花籠がのっていたのよ。そして、一度停電して、二度目に電灯がついたときには、その花籠はなくなっていたのよ。そして、卓上には、あのおそろしい血が」
「ああ、それから先は、もういうな。わしは、それを思うと、身ぶるいが出るのだ」
「あたしは、あの花籠を見たとたんに、身ぶるいがおこりましたわ。あんな気味のわるい花籠は、すぐ下してくださらない。あたし、芸もなにも、できなくなりましたわ」
「まあ、そういうな。しかし、わしも、やっと思い出したぞ。そうだ。たしかあのとき、わしの目の前に、あのような花籠がおいてあったねえ」
「団長さん。あの花籠は、一たい、どなたが贈ってくださったのですか」
「ああ、あの花籠か。あれは、だれから贈られたのだったかなあ。そうそう、なにしろ大入満員でいそがしいものだから忘れていたが、さっき、お届物屋(とどけものや)さんが持ってきたといっていたが、そのとき手紙がついていたのを、読もうと思って、すっかり忘れていた」
「手紙がついていたんですか」
「そうなんじゃ、いそがしくて、すっかり忘れていたよ。あれは、どこへしまったかなあ」
 黒川は、ポケットをさがしまわっていたが、やがてまっ白い角封筒を、ズボンのポケットからつまみだした。
「ああ、あったよ。これだ、この封筒だ。中の手紙を読めば、だれが贈ってくれたかわかるよ」
 そういって、黒川は、その四角な封筒をやぶって、中から四つにたたんだ用箋(ようせん)をひっぱりだした。そして、それをひろげてみると、なんとそこには、電報のように、片かなばかりをつかった文章が、タイプライターで印刷してあった。
 その文面は、次のようなものであった。
「――ライヨウマルノコトヲ、オモイダシテクダサイ。コノサーカスハ、イツデモ、ワタクシノテニヨッテ、バクハツシマス。ソレガコマルナラ、コンヤ十一ジニ、クロカワダンチョウト、ハナガタフサエト、マルノウチ、ネオン・ビルノマエニキナサイ。ケイサツニツゲタリ、コノハナカゴヲウゴカスト、スグバクハツサセマス、ワタクシタチノブカガ、イツモチャントミテイマス。バラオバラコ」
 気味のわるい脅迫状(きょうはくじょう)であった。
 ――雷洋丸のことを、思い出してください。このサーカス(曲馬団のこと)は、いつでも、私の手によって爆発します。それが困るなら、今夜十一時に、黒川団長と、花形房枝と、丸ノ内、ネオン・ビルの前に来なさい。警察につげたり、この花籠をうごかすと、すぐ爆発させます。私たちの部下が、いつもちゃんと見ています。バラオバラコ――という文面であった。
「おお、これは、たいへんだ。あーあ、せっかく、こんなに大入満員になって、よろこんでいたのに」
 と、黒川は、顔から血の気をなくして、そのばにしりもちをついてしまった。
 房枝は、黒川から手紙をとってこれを読みくだしたが、もちろん彼女も、おどろいてしまった。
「やっぱり、そうだったのね。ミマツ曲馬団は、雷洋丸以来、ずっと何者かにねらわれているのね。バラオバラコというのは、何者なんでしょう。――団長さん、どうするつもり?」
 黒川は、しばらくは、へんじもしないで呻(うな)っていたが、
「いきたかないが、ここはおとなしく相手のいうことをきいて、やっぱり、いってみるしかないだろうね。せっかくの小屋をこわされ、客の入りをじゃまされては、商売あがったりだよ」
 といって、同意をもとめるように、房枝のかおを見上げた。

   大蜘蛛(おおくも)

 とつぜん、ふってわいた災難であった。
 爆発などをやられては、たまったものではない。警察へ知らせたことがわかると、すぐ爆発させるというし、この花籠をうごかしてもいけないという。すると、相手のいうとおり、おとなしく従うよりほかはない。
「団長さん、なんとか、相手にしれないように、警察のたすけを借りることは出来ないものかしら」
 房枝は、まだ何とかして、のがれたいと考えた。
「だめだよ。そんなことをして、相手にさからうと、この小屋もわたしたちの体も、めちゃめちゃに空中へふきとんでしまう。いやだよ、そんなあぶないことは」
「だって、わたしたちが、直接警察へ電話をかけないでも、警察へしらせる方法はあってよ。団員のだれかにそっといいつけて、しらせる方法があると思うわ」
「房枝、お前は、わしより気がつよいねえ」
「だって、バラオバラコって、どんな人だかしらないけれど、こんなわるいことをする人を、そのまま、ほっておけませんわ」
「命があぶない。およしよ。わしはもうこりているんだ」
「警察への手紙をかいて、それを、出入りのおそば屋さんかだれかに、そっと持っていってもらったら」
「なるほど、それならいいかもしれないが、やっぱり、後が気味がわるいねえ」
「でも、こんなわるいやつが、いるのをしっていて、だまっていられませんわ。そうすることが、たくさんの人のためになるんです。あたし、あとで一人になったとき、手紙を書きますわ」
 房枝は、あくまで、悪者にたちむかおう[#「悪者にたちむかおう」は底本では「悪者たちにむかおう」]という決心をしめした。そのときであった。幕のむこうから、へんに、しわがれたこえでよびかけた者がある。
「房枝、きいているぞ。この小屋を、爆発させていいのだな」
「えっ!」
 房枝は、びっくりして、うしろをふりかえった。そこには幕が下っているばかりであった。黒川にも、このへんなこえは耳に入った。
「ほら、みなさい、房枝。お前が、女のくせに、そんなむちゃなことをやろうとするからいけないのじゃ。もう、そんなことは、しませんと申し上げろ。さあ早く、申し上げんか」
「はい、じゃあ、やめます」
 房枝は、そういわないわけにはいかなかった。
 すると、幕のかげからは、例のしわがれたこえが、
「それを忘れるな。きっと忘れるな。おれたちは、いつでもお前たちを、にらんでいるのだ」
 このしわがれたこえをきいていると、団長も房枝も、身の毛がよだつようにも感じるし、また曲馬団の前途を思って、なさけなさに、涙がこみあげてくるのをどうしようもなかった。
 なぜ、ミマツ曲馬団は、こういうあやしい者にねらわれているのであろうか。団長と房枝が、おののいているうちに、その幕のむこうでは、一匹の大きな蜘蛛が、糸をたぐって、するすると、天井の方へのぼりつつあった。そのほか、誰もそこには立っていなかったのである。大きな蜘蛛が、幕ごしにものをいったとしか思われないのであった。
 蜘蛛が、ものをいうことなんて、あるであろうか。
 ほんとうの蜘味なら、そんなことはできない。しかし、もしもその蜘蛛が、作り物の蜘蛛であって、その蜘蛛の中に、小さな高声器(こうせいき)と、そして小さなマイクとが入っていたとすると、本人は遠くにいながら、その蜘蛛のいる附近の話ごえを、盗みぎきすることもできるであろうし、また、遠くから、その蜘蛛の体の中にある高声器を通じて、こえを送ることもできるであろう。
 だから、団長と房枝のそばに下っていた幕のうしろに下っていた蜘蛛は、そのようなたくみなぬすみ聞きをする高声装置ではなかったか。そして、天井から下っている蜘蛛の糸とみたのは、高声電流を通ずる電線ではなかったか。だから、蜘蛛そのものは、死んだ機械器具であって、このようなすぐれた装置をつかっている人間こそ、あやしい人物であった。しかし、ざんねんなことには、その人物は、だいぶん遠くにいるために、どのような顔をした人間だかはっきりわからなかった。と、ここでは、そのへんにとどめておく。

   面会のしらせ

 きょう午後十時に、興行をしまったら、黒川と房枝は、しめしあわせて、東京丸ノ内のネオン・ビルの前へ急行することに、二人の打合せができた。
(むこうに待っているのは、何者かはしらないが、あったうえで、よく話をして、ミマツ曲馬団の上に、この上ひどい危難をかけないようにしてもらおう)
 と、これは新黒川団長の決心だった。
「おい房枝、あんまりしおれていると、他の団員にあやしまれて、あのことが外へ知れてしまうぞ。すると、とたんに、どかーんだから、わしはいやだよ。ここはひとつ元気を出して、興行中は、あの花籠事件のことを忘れていておくれ。おい、房枝」
「はい、団長さん。あたし、大丈夫よ」
 そういって房枝は、けなげにも、顔をあげて、むりにほほえんだ。
 すると、ちょうどこのとき、団員の女の子が、かけこんできた。
「あら、房枝さん。こんなところにいたの。ずいぶんさがしたわ。おや団長さんもここにいらしったの」
「どうしたの、スミ枝さん」
「なんじゃ、スミ枝。えらく、はあはあいっているじゃないか」
 するとスミ枝は、とんとんと自分の胸をたたいて、
「だって、方々、さがしたんですもの。まさか、こんな道具置場にかくれているとはしらなかったんですもの、ああくるしかった」
「スミ枝、用事のことを早くいえ。わしは、こうなると何でもかでも、気になってしようがない」と、団長がうながせば、スミ枝は、
「あのう、御面会なのよ、房枝さんに」
「なんじゃ、面会じゃ。面会なんて、もう、どしどしことわることにしなさい」
「どんな人なの、スミ枝さん」
 と、房枝は、ふと心の中に描いた人があったので、スミ枝にたずねた。
「上品な奥様なのよ」
「上品な奥様? ああ、すると、あの方じゃないかしら。そしてスミ枝さん、大花環のことをなんとかおっしゃってなかった」
「ああ、大花環のことね。そういってらしたわ。まあ、あんないいところへ、あげていただいて、といって、その奥様あんたのところへ来た大花環を、ほれぼれと見上げていたわ。房枝さん、いい御ひいきさんあって、しあわせね」
「あら、そうでもないわ」
「なあんだ、そうか。あの大花環を房枝へ贈ってくだすった奥様か。そういう御面会の方なら、おい房枝、お前お目にかかって、よくお礼を申せ」
「ええ」
 房枝は、はじめから、あの奥様ではないかと思っていたのだ。スミ枝の話で、それはまちがいなく、その方だとわかった。房枝は、はじめすぐにも、とんでいって、お目にかかりたいと思った。三十分前までの自分だったら、すぐとんでいったろう。しかし今の房枝は、なんだか気がすすまなかった。
(自分は、暗い運命の女だ。今もこうして、バラオバラコという怪人物から、脅迫(きょうはく)をうけている身だ。今夜から、自分は、またどんな暗い道をたどらなければならないか知れないのだ。そういう呪(のろ)われた身の上の女が、あのような上品な奥様におつきあいすることは、奥様をけがし、そして奥様に、まんいち危難をかけるようなことがあってはたいへんである。これは、おことわりするのがいいのではないか。すくなくとも、今夜呼び出しの事件が、すっかり片づいてしまうまでは)
 房枝は、そんな風に思って、スミ枝、団長黒川が早く面会させようとすすめるのにかかわらず、へんじをにごしたのであった。
「あたし、お目にかからないわ。熱があって寝ています。舞台へは、やっとむりをして出ていますと、奥様にいってくれない」
「あら、そんなうそをいうの、あたしいやだわ」
「おい房枝、なにをいっているのだ。にせ病気なんかつかわないで、お目にかかったらいいじゃないか」
「でも、でも団長さん!」と、房枝は、黒川の方に深刻なまなざしをむけた。
 黒川は、房枝の目をみてうなずいた。
(そうか、そうか。あの一件のことを苦にやんでいるのか。むりもない)
 団長は、房枝が、今夜の呼び出し事件のことでおびえており、だれにもあいたくないんだろうと察した。
「おいスミ枝、房枝のいうとおりにしなさい」
「え、ことわってしまうんですか。あら、おかしいわね。御祝儀(ごしゅうぎ)がいただけるのに、房枝さんは慾がないわねえ」
「こら、なにをいう。スミ枝、早くそういってくるんだ」
 と、団長が叱りつけたので、スミ枝はあわてて、そこを出ていった。
「団長さん、あたし、もうこの仕事を、やめたくなりましたわ」
「なにをいうんだ。気のよわい。このミマツ曲馬団は」
 などと、黒川が歴史などをもち出して、房枝をはげましていると、そこへまたスミ枝がかけこんできた。
「あ、房枝さん。たいへん、たいへん」
「まあ、どうしたの、スミ枝さん。たいへんだなんて」
「だって、たいへんよ。あの奥様に、あんたが病気で楽屋で寝ていると、あたし、いわれたとおりいったのよ。すると、あの奥様はそれはたいへん、そういうことなら、ぜひお見舞いしないでいられません、楽屋はどっちでしょうかとおっしゃるのよ。あたし困っちゃったわ。あんた、ちょっとあってあげてよ」
「あら、困ったわねえ」
「こらスミ枝、お前のいい方がわるいから、そんなことになったんだぞ」
「いいえ、その奥様が、とても、房枝さんに熱心なんですよ。あたしでなくても、だれでも、負けてしまうわ」
 そういっているとき、幕のむこうで婦人のこえがした。
 するとスミ枝は、いよいよあわてて、
「ほら来たじゃないの。あんた、おねがいだから、楽屋へいってふとんを出して寝ていてよ。あたし困ることがあるのよ」
 といって、スミ枝は泣きだしそうな顔で、房枝の耳に口をあてると、
「房ちゃん、これ秘密だけれど、実はあたし、いただいてしまったのよ。あんたがあってくれないと、あたし、あの奥様に、せっかくいただいたおあしを返してしまわなければならないんですもの。ちょいと察(さっ)してよ」
 と、つげて、房枝にあってくれるように頼みこんだ。
 そのように、種あかしをされてみると、情(なさけ)にあつい房枝は、スミ枝の立場を考えてやらないではいられなかった。そこで、とうとう彦田博士夫人道子にあう決心をしたのだった。

   見えない糸

 楽屋は、一時、大さわぎとなった。
 ふとんをしく、くすりびんをのせた盆をならべる、手拭(てぬぐい)をしぼる。楽屋が、舞台みたいになってしまった。そして房枝は、そこに病人らしく横になった。
「房ちゃん、すまないわねえ」
 スミ枝が、枕もとへきて、小さいこえで気の毒がった。
「いいのよオ、心配しなくっても」
 房枝は、スミ枝をなぐさめた。房枝としても、道子夫人に、道子夫人が何者であるかは、まだ知らないが、あいたかったのであった。夫人に、めいわくをかけるのをおそれて、面会をことわってもらったのである。だから、スミ枝の行きすぎのためとはいえ、こうして、夫人にあえることになって、うれしくないことはない。
「まあ、あなた」
 道子夫人は、こえをうるませて、房枝の枕もとにきた。
「房枝さん、おくるしいのですか。どこがおわるいのです」
 房枝は、道子夫人に見つめられて、まぶしくてならなかった。
「いいえ、たいしたことはございませんの。それよりも奥様、りっぱなお花環(はなわ)をいただきましておそれ入りました」
「なんの、あれほどのことを、ごあいさつでかえっておそれ入りますわ。でも、もうお目にかかれないかと思って悲しんでおりましたのに、昨日、ちょうどこの曲馬団の前を通りかかりまして、房枝さんのお姿をちらりと見たものでございますから、そのときは、とび立つように、うれしくておなつかしくて」
 と、道子夫人は、そっとハンケチを目にあてた。
 楽屋のかげから、これをすき見している団員たちは、だまっていなかった。
「おいおい、第一場は、いきなりお涙ちょうだいとおいでなすったね」
「だまっていろ。お二人さま、どっちもしんけんだ。こうやってみていると、あれは、まるで親子がめぐり会った場面みたいだな」
「ほう、そういえば、房枝とあの奥様とは、どこか似ているじゃないか。似ているどころじゃない、そっくり瓜(うり)二つだよ」
「まさかね。お前のいうことは、大げさでいけないよ」
 二人の話は、なかなかつきなかった。
 房枝は、道子夫人に、あずかっていた草履(ぞうり)の片っ方をかえした。夫人は、たいへん恐縮(きょうしゅく)していたが、結局よろこんで、それをもらいうけた。そしてその代りにと、夫人は風呂敷のなかから、寄せぎれ細工の手箱をとりだし、
(これは手製ですが、房枝さんの身のまわりのものでもいれてください)
 という意味のことをいった。房枝は、よろこんでそれをもらった。
「房枝さん、じつは、まだ、いろいろお話をいたしたいこともございますけれど、御病気にさわるといけませんから、今日はこれでしつれいさせていただきますわ。そのかわり、また伺(うかが)ってもようございますわね」
 と、道子夫人は、房枝に約束をもとめるようにいった。
 房枝は、そのへんじをするのがたいへんくるしかった。
「いいえ、こんな場所は、奥様などのたびたびおいでになるところではございません。また、どんなまちがいがあるかもしれませんし、もうどうか、けっしておはこびになりませんように」
 房枝は、血を吐(は)く思いでそれをいった。今夜の呼出し事件がなかったら、この日房枝は、道子夫人の膝にとりすがって、思うぞんぶん泣いてみたくてしかたがなかった。それはなぜだか、理由のところは房枝にもよくわからなかったが。しかし、もうそんなねがいは夢となった。あくまで冷酷にせまってくる現実とたたかわねばならないのだ。夫人を慕(した)えばこそ、今は夫人にふたたびいらっしゃらないようにと、いわなければならなかった。そう強くいって、房枝はかろうじて、わっと泣きたいのをこらえていた。
「まあ、それは、なぜでございましょう。こうして伺っていますと、なにか房枝さんの身の上に」
「いえ、奥様」と、房枝は、おしかぶせるようにいって、
「なんでもないのでございます。ただ、どこでも、こういうところはよくないところでございますの」
「わかりました、房枝さん。もうわたくしは、なんにも申さないで失礼いたしますわ。どうぞ、早くおなおりになるよう、わたくしは、毎日毎日お祈りしていますわ」
 道子夫人は、ふかい思いをのこして楽屋を立ち出でた。
 夫人の姿が見えなくなると、房枝は、さすがにたまりかね、ふとんをかたく抱いて、わっとこえを立てて泣きだした。しばらくは、団長がいっても、スミ枝がいっても、よせつけなかった。
 道子夫人は、房枝の情のこもった草履の片っ方を抱いて、家路についたが、家にもどると、そのまま電話のところへいって、廻転盤(ダイヤル)をまわした。
「ああ、帆村先生の事務所でいらっしゃいますか。こちらは、彦田の家内でございますが」
 夫人はどうしたわけか、いそいで帆村探偵を呼出した。
「ああ、帆村先生でいらっしゃいますか.あのう、じつは折入って至急おねがいいたしたいことがございますの。はあ、大至急でございます。いえ、会社のことではなく、わたくしごとでございますが、いつやら、ちょっとお話しました娘さんのところへ、ただ今、いっておりましたのですが、今日はどういうものか、娘さんのようすがへんなのでございます、なにか、あの娘さんの身の上に、危難があるように感じましたの。道々考えてまいりましたんですが、たいへん気になって、しようがございません。それで、相談にのっていただきたいのでございますが、すぐ宅まで」
 縁(えにし)は、目に見えないが、常に行いのうえにあらわれる。夫人は、何ごとも知らずに、房枝あやうしと感じて、帆村探偵の力をもとめたのであった。

   ネオン・ビル前

 その夜のことだった。
 東京駅の大時計は、すでに午後十一時一、二分、まわっていた。
 そのとき、あたふたと、改札口から駅前へとびだしてきた二人の男女があった。
「やあ、おそくなったぞ。一電車おくれてしまったので、これはもう十一時をすぎてしまった。ねえ房枝、大丈夫だろうか」
「そうねえ」
 その話でわかるように、男は、新興(しんこう)ミマツ曲馬団の新団長黒川であり、また女は、花形(はながた)の房枝であった。
 この二人は、例の脅迫状の差出人たる謎の人物バラオバラコによび出されて、やってきたのであるが、一、二分はおくれたが、ともかくも、今東京駅についたのであった。
 二人は、口の中で、ネオン・ビルと、しきりにくりかえしていた。ネオン・ビルは、バラオバラコからいって来た会見の場所であった。もしそこへ来なかったら、せっかく大人気をとっている新興ミマツ曲馬団の小屋を爆破するというのだった。そんなことがあれば、小屋がこわれるばかりではなく、おおぜいの観客が怪我をするであろうし、かけがえのないすぐれた芸をもっている団員もまたたおれてしまうであろう。そんなことになってはたいへんである。これから怪人物バラオバラコに会って、ぜひとも、そんなことをしないように、たのむほかない。
 二人は、駅前からビル街の間に、はいっていった。
 夜のビル街! なんというさびしい街であろうか。
 昼間であると、このあたりは、まるで行列(ぎょうれつ)が通っているのかと思うくらい、にぎやかな、そしていそがしそうな人通りがあった。八階も九階もある、大きな城のようなビルが、一つや二つではなく、どこからどこまで、幾十幾百となくつづいている。夕方になると、ビルの窓という窓には、きいろい明りがついて、一だんとにぎやかになって見える。
 だが、それからさらに時刻がうつると、窓の灯は、しだいに、先を争うように消えて行き、そして午後八時ごろになると、ぽつんぽつんと、のこりの灯が消し忘れられているのが目立ち、急にさびしくなる。
 今は、午後十一時をまわっている。房枝が、あたりを見わたすと、ビルの灯は、一つのこらず消えている。街路灯さえ、ここにはついていない。まっくらな道を行くと、足音がビルの壁に反響して、異様な音をたてる。両がわには天へもとどくかと思われるようなビルの黒い壁がつっ立ち、ビルとビルとのせまい間からは、夜空がちょっぴりのぞいていて、星がきらきらとことのほか美しく見える。人通りは全くない。死の街を歩いているような気がする。
「さびしいわねえ」
 房枝は、いつともなく、黒川の方へすりよっていた。
「うん、さびしいなあ。バラオバラコは、わざわざこういうさびしい時刻、さびしい場所をねらったのだ。それにはここはもってこいの場所だからねえ」
 黒川は、おそろしそうにいった。
「なんだか、あたしたちは、湖の底にしずんだ街をあるいているようね」
 房枝は、自分の感じを、そのようにいいあらわした。
「うん。ビル街が、こんなにおそろしいところだとは、今夜歩いてみて、はじめて知ったよ。さっきから、こうして歩いているが、まだ一人の通行人にも会わないねえ」
「ああ、そうね」
 と、房枝も、なんだかおそろしくなって肩をすぼめた。バラオバラコは、二人をおどかすため、この上ない、よい場所をえらんだのであった。
「おお、ここがネオン・ビルだが」
 黒川は、立ちどまった。
「ああここがネオン・ビル?」
 房枝は、ネオン・ビルときくと、急にからだがひきしまった。そして、バラオバラコがなんだと思った。そのために、さびしさ、おそろしさが、いくぶん消えていったようである。ちょうどそこは、大きな寺院の入口みたいな荘重(そうちょう)な大玄関であった。左右に何本かの石柱(いしばしら)が並び、石段がその間をぬって上へのぼっている。奥はくらくてわからないが、重い扉がしまっているようである。
「だれもいないじゃないの」
 房枝が、反抗するような口調(くちょう)でいった。
「そうだなあ。まだ、先方の御人(ごじん)が来ていないのだろう。わしたちが、一足先に来たというわけにちがいない。やれやれ気づかれがした」
 黒川は、そういって、冷たい石段に腰をおろした。そのときである。とつぜん、階段の上から思いがけない人のこえがした。
「ふふふふ。さっきからこっちは待ちくたびれていたぞ」
「あっ!」
 黒川は、それをきくと、石段からはねあがった。

   襲(おそ)う者(もの)、追(お)う者(もの)

 房枝も、ひじょうにおどろいた。
 だれもいないと思った石段の上から、とつぜん一人の男が、とびだしてきたのだから。
(何者だろうかしら)
 房枝は、うしろに身をひいて、ビルの壁にぴたりとよりそって、とつぜん、とびだした怪漢の顔を見定めようとする。
 すると、その怪漢が、つかつかと下りてくると、房枝の手をぐっとにぎった。
「おい、房枝。にげたりすると承知しないぞ。むかしの仲間をそまつにするな。さあ、こっちへはいれ」
 そういうこえに、房枝はおぼえがあった。そして闇の中にうかぶ顔を見れば、それは房枝の思ったとおり、元の座員のトラ十であったではないか。
「ああ、トラ十さんなのね」
「そうだトラ十さまだ。お久しゅうござんしたね。雷洋丸がやられたときは、あなたさんたちと、こうしてふたたび娑婆(しゃば)でお目にかかれようとは思っていなかったよ。ふふふ、お互さまに、悪運がつよいというわけだね。なあ黒川ニセ団長」
 トラ十は、黒川のことをつかまえて、ニセ団長などと、いやなことをいった。
 その黒川は、石段の端のところで、小さくなってふるえていた。
「おう、黒川ニセ団長。さっそくこっちの用事をいうが、お前、きょうここへ持って来たものを、さっさと出してしまえ」
 トラ十は、命令するようにいった。
 黒川は、それをきいて、けげんな顔。
「えっ、持って来たものを出せというが、なにを出すのかね。わしはなにも持ってこないよ」
「なんだ、なにも持ってないって、この野郎、かくすと承知しないぞ。たしかに持って来たものがあるはずだ」
「そんなものはありません。持ってきたというなら、その品物の名をいってください」
「お前は、剛情(ごうじょう)だな」とトラ十はいって、こんどは房枝の方に向き、「おい房枝、お前はいい子だから、かくさずにいうだろう。おれにあまり手あらなことをさせないのが、かしこいのだぞ、さあ、持ってきたものを出せ」
「トラ十さん。あんたはなにか思いちがいをしているわ。あたしたちは、ここへ来いと命ぜられたから、からだ一つで来たわけよ。なんにも持ってなんか来ませんわ」
「なんだ、お前までおれにかくす気か」
「おい丁野(ていの)さん。房枝をいじめるんじゃないよ。いい加減にしなさい」
 黒川は、見るに見かね、トラ十をしかりつけた。
 トラ十は、小首をかしげている。なにか、彼には思いちがいがあったようである。
「ふん、やさしくいえば、二人ともつけあがって、おれをばかにする。よし、こうなれば、荒療治(あらりょうじ)だ」
 そういうと、トラ十の手に、きらりとなにか光った。トラ十がポケットから、ピストルを出したのである。
「うごけば、これだ。おとなしくしろ」
 トラ十は、くらやみの中で、きみの悪い笑を顔にうかべていった。
「うしろを向いてもらおうかい。おれは、やるだけのことはやるんだ」
 トラ十の命令で、やむなく黒川と房枝とは、うしろを向いた。トラ十は二人の手をうしろにまわさせて、麻縄(あさなわ)でしばった。それから、走れないように、足首のところも結んでしまった。
 そうしておいて、トラ十は二人の持ちものをしらべ、それから二人のからだをしらべた。トラ十は、明りが往来へもれるのをおそれて、柱のかげへ二人を入れてしらべたのであった。
「どうもおかしい。なにもない」
 トラ十が、ふしぎそうにいった。
「そら、みろ。わたしたちは、なにもかくしていないのだ」
 黒川が、たしなめるようにいった。
「なにをいっているか。おれは、まだ、あきらめているわけじゃない。なければないで、これからもっと御丁寧(ごていねい)に、お二人さんをしらべるだけのことさ。裸にむいても、指の一本二本を切りおとしても、ほんとうのことを白状させてみせるぞ。かくごしろ」
 トラ十は、ざんにんなことを、平気でいう。
 黒川が、それに不服をいうと、とたんに、トラ十のこぶしが彼の頬にとんだ。
 いったいトラ十は、なにをねらって、こんなばかげたことをくりかえしているのだろう。黒川がしらべられると、次は房枝の番になる。裸にされるなんて、いやなことである。
「房枝、うごくと承知せんぞ。お前にはこれが見えないのか」
 房枝が、そっと石段を一段だけ下りようとしたとき、トラ十は、すばやくそれを見てとって、ピストルの銃口で、房枝の背中をついた。
(だめだ、もうのがれるすべはない)
 房枝は、かなしくなった。いよいよとなったら、すきを見て、トラ十を蹴ってやろうと、最後の腹をかためた。
 そのときである。二人のうしろにいたトラ十が、とつぜんおどろきの声をあげた。
「あっ、だれだ。じゃまをするのは」
 うーむと呻(うな)って、トラ十は、あばれ出した。
「トラ十、こんなところで君にあえるなんて、こんなうれしいことはないよ」
「そこを放せ。お前はだれだ」
 黒川と房枝は、うしろをふりかえった。
 どこから降って湧(わ)いたか、一人の男が、トラ十のうしろから組みついている。そしてピストルを握ったトラ十の腕を、逆に高くねじあげている。
 房枝は、トラ十をおさえてくれる何者かの方へ応援したのがいいのだとは思ったが、手を出しかねていると、トラ十のもっていたピストルが、下におちて、階段をころがった。
「さあ、これで、もうおとなしくしろ」
 青年は叫んだ。
 そのこえ! 房枝ははっと胸をつかれたように思った。
「あ、帆村さんじゃありません」
 すると、青年はすぐこたえた。
「そうです、帆村です。あぶないところでしたね」
「なんだ、きさまは帆村荘六か。ふーん、帆村なんぞに、ひねられてたまるものか」
 と、おどろいたトラ十は、満身の力をこめて、帆村のからだを左に右に、ふりとばしにかかった。
「あっ! しずかにせんか」
 といったが、このときトラ十は、帆村の腕をほどいて、ぱっと往来へにげだした。

   深夜(しんや)の怪人(かいじん)

「あっ、トラ十がにげた」
「帆村さん。しっかり」
 黒川と房枝は、こえをたててさわいだ。しかし二人とも帆村に加勢することは出来なかった。二人とも、手をしばられ、足首のところを固く結ばれているから、そろそろ歩くのはともかくも、走るなどということはできない。せっかくのこんなときに、帆村に力をそえることができなくてと、ざんねんに思いながら、二人は階段を下りようとした。
「あっ、あぶない」
「あれっ」
 足は結ばれているし、気はせいている。しかも二人が、階段をいそいで下りようとしたものだから、二人のからだが、どんとぶつかった。あっといったときには、二人は、もろに足をふみはずして、下へころげおちた。
「うーむ」、
 房枝は、黒川のうなるこえをきいたが、次の瞬間、彼女も頭がぼーっとしてしまった。階段をころげた拍子に、運わるく脾腹(ひばら)をうったものらしかった。
 どのくらいたったかしらないが、房枝が、気がついたときには、思いがけなく前に一台の自動車がとまっていた。
「おお、お嬢さん。しんぱいいりません」
 このとき、ひじょうに香(かおり)の高い香水が、房枝の鼻をぷーんとついた。それは房枝を、抱(かか)えおこしている婦人の服から匂ってくるものであった。その婦人は日本人ではない。
「ありがとうございます」
 房枝は、礼をいった。
「今、自動車でお送りします。かならず、しんぱいいりません」
 そういうと婦人は、英語で、べらべらと喋(しゃべ)りだした。
「よろしい。僕一人で大丈夫だ」
 大きなからだの外人の男が、房枝をかるがると抱いて、車内にうつした。
 車内は、りっぱであった。これはたいへんな高級車だ。座席には、すでに黒川がのっていて頭をうしろにもたせかけていた。よく見ると、黒川の頭は、ハンケチで結(ゆ)わえてあり、その一部には、赤い血がにじみだしていた。
「あっ、黒川さん。けがをしたのね。しっかりしてよ、ねえ黒川さん」
 房枝は、黒川をゆりうごかした。
 すると黒川は、ちょっと、からだをうごかし、苦しそうに眉(まゆ)をよせたが、
「房枝、早く下りよう」
 と、うわごとのようにいった。
「え、下りるの」
 房枝が、黒川のことばをあやしんで、といかえしているとき、座席に、例の外人の婦人が入ってきて扉をしめた。それから、大きなからだの男の外人は、運転台にのって、扉をばたんとしめると、エンジンをかけた。
「おい、房枝。早く下してくれ」
「まあ、あなた、興奮してはいけません。しずかになさい」
 房枝が、なにかいおうとしたが、その前に婦人がひきとって、黒川をなだめた。
 この二人の外人は、だれであろうか。ふしぎともふしぎ、運転台にいるのは、背広姿になってはいるが、雷洋丸にいたときは牧師(ぼくし)の服に身をかためていた師父(しふ)ターネフであった。
 それから若い婦人は、これも雷洋丸にのっていたターネフ師父の姪(めい)だといわれるニーナであった。
 だが、このときは、怪我をしている黒川は、そんなことはしらないし、それから、二人を雷洋丸の上ではしっていた房枝も、まさかこんなところで二人にめぐりあおうとは思っていなかったので、ただもう黒川団長の容態(ようたい)ばかりを気にしていて、二人がだれであるか、気がつかなかった。
 師父ターネフの運転する自動車は、ビル街へ、さっと明るいヘッド・ライトをなげながら走りだした。
 車が走りだすと、とたんに房枝は、帆村探偵とトラ十のことを思いだした。
 あの二人は、どうしたろう。まだ、そのへんで、組んずほぐれつの大格闘をしているのではなかろうか。
 房枝は、座席から腰をうかせて、走り行くヘッド・ライトの光を追った。もしやその光の中に帆村とトラ十の姿が入ってきはしまいかと思ったので。
 ところが、それからしばらくいったところで、師父ターネフは、ハンドルを切って、あるビルの角を右へ曲ろうとした。
「あっ、あぶない」
 ターネフは、思わずおどろきのこえを発して、ハンドルを急に逆に切った。車体は、地震のようにゆれ、そしてもうすこしで、左がわのビルにぶつかりそうになった。が、そこでターネフは、またハンドルを右に切りかえたので、車は歩道の上へのりあげたものの、がたと一ゆれしてうまく、道路の上にもどることが出来た。
 房枝は、そのさわぎをよそに、今しも車輪にかけられそうになった格闘中の二人の男に、全身の注意力を送った。
 道のまんなかで、組打をやっているのは、たしかに帆村とトラ十だった。トラ十の顔がぱっと、こっちを向いたことをおぼえている。トラ十はそのとき、ひじょうに驚いた顔つきになって、なにごとかわめいた。だが、何といってわめいたのやら、房枝には、もちろん聞えなかった。
「あっ、あいつ等だ。あいつ等、うごけないはずだ。ど、どうして」
 と、そのときトラ十は叫んだのであった。そのとき、下に組しかれていた帆村が、えいと気合もろとも、トラ十のからだをはねのけた。房枝はそこまでは、はっきりと見た。自動車が走りさると、道路の上は、まっくらになってしまって、その後、二人の勝敗がどうなったか、ざんねんながら、房枝はしることができなかった。

   ターネフ邸(てい)にて

 自動車がついたのは、一軒のりっぱな洋館であった。その間も黒川は、なにかさかんにわめいていたが、舌がもつれていて、何をいっているのかさっぱりわけがわからなかった。
 なにしろ、黒川の怪我の程度が、はっきりしないので、房枝は心配であった。
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