爆薬の花籠
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著者名:海野十三 

「ニーナ嬢は、子供さんでもないし、お婆(ばあ)さんでもないでしょう」
「気高い淑女です」
「男であろうが、女であろうが、若い人は、あとにしてもらいます。もう、これ以上、問答無用です。あなたは、うしろへさがってください」
 と、船員は、師父ターネフに対し、このあわただしい際にも、一通り話のすじみちをたててターネフの横車をおしもどしたのであった。
「日本の船員、礼儀を知りません。あなたがた、いまに、思い知ること、ありましょう」
 と、師父ターネフは、捨台辞(すてぜりふ)をのこして、うしろへ下った。
「師父、ボートは、だめなの」
「うん、だめだ。われわれは、別の道をひらくしかない」
「困ったわねえ。とにかく、このままでは、汽船とともに沈んでしまうわよ。なんとかして、船をはなれなければ。あの連中は、来てくれるはずだというのに、なにをしているのでしょうね」
「たしか、もうそのへんに、来ているはずなんだがねえ。仕方がない。マストのうえへよじのぼって、懐中電灯で信号をしてみよう。ニーナ、おいで」
 師父とその美しい姪とは、傾斜した甲板を走りだした。

   仮面(かめん)の師父(しふ)

 師父ターネフは、水夫長のような身軽さをもって、マストの縄梯子(なわばしご)をよじのぼっていった。
 ニーナは、その下に立って、警戒の役目をつとめているようすだ。
 師父は、縄梯子をどんどんのぼっていった。そのころ、船艙から出た火は、もう甲板のうえまで、燃えうつって、赤い炎があたりをあかあかと照らしだした。
 師父は、縄梯子を途中までのぼると、懐中電灯をとりだして、ぽっと明りをつけた。そして信号をしようと、手にもちなおしたとき、彼は、
「あッ!」
 と、叫んだ。それは、懐中電灯をもった彼の手を、上の方から何者かが、ぐっとつかんだからである。
「あッ、何者だ。なにをする。手をはなせ」
 と、師父は、英語で叫んだ。そのとき師父は、マストのうえから、下をむいて笑っている怪しい東洋人の顔を眺めて見た。それはトラ十だった。
「あははは。ターネフ極東首領(きょくとうしゅりょう)こんなところで、怪しげなる信号をしては困りますねえ」
 と、トラ十は、流暢(りゅうちょう)な英語で、やりかえして、歯をむきだしてげらげらと笑った。
 ターネフ首領!
 師父は、ぎょっとしたようすだ。
「なにをいう。首領だなどと、でたらめをいうな。わしは神に仕える身だ」
「神につかえる身だって。へへん、笑わせやがる。神につかえる身でいながら、さっきはなんだって、おれを爆死させようとしたのかい」
「なにをいいますか。あなたは気が変になっている」
「気が変なのはお前たちの方だ。知っているぞ。花籠(はなかご)の中に、おそろしい爆薬をしかけて、おれの前へおいたじゃないか。あの停電のときだよ。ぷーんと、いい匂いのするやつがおれの前へ持って来やがったから、多分それは若い女にちがいない。どうだ。これでも知らないと白(しら)ばっくれるか」
「おどろいたでたらめをいう人だ」
「とにかくお気の毒さまだ。こっちはそれとかんづいたから、おれが死んだと見せるために、かねて用意の血のはいった袋の口をあけて、おれの席のまわりを血だらけにしてやった。それからおれはすぐ花籠をつかんで甲板に出て、それを海の中へ捨てたとたんに、どかンと爆発よ。おれは無事だったが、かわいそうにおれのあとを追ってきた松ヶ谷団長と船員がひとり、ひどい傷をうけたよ。お前たちはおどろいて、暗闇(くらやみ)の中で松ヶ谷団長を更になぐりつけ、死にそうになったやつを石炭庫へかくした」
 師父ターネフは、ほんとうにおどろいたか、もう口がきけなかった。
「あははは、ターネフ首領。この汽船は、もうあと四、五分で沈みますよ。取引は、早い方がいい。信号をさせてもいいが、あなたがポケットに持っている重要書類を、そっくりこっちへ渡してもらいましょう」
「なに、重要書類。そ、そんなものを持っておらん」
「おい、ターネフ首領。お前さんは、ものわかりのわるい人だねえ」
 と、トラ十は、はきだすようにいって、
「あの重要書類のことを、おれが、知らないと思うのかね。お前さんは、なにをするために、師父などに化けて、日本へのりこむのかね。そのわけを、ちゃんと書いてある重要書類袋を、こっちへ早く渡しなせえ。青い封筒に入って、世界骸骨化本部(がいこつかほんぶ)の大司令のシールがぽんとおしてあるやつさ」
「……?」
 師父は、おどろいたのか、だまっている。
「おい、ターネフ首領。どうするつもりだい。汽船は、どんどん沈んでいくぜ。もうすこしすれば、第二の爆発が起って、この汽船は、まっ二つに割れて、真暗(まっくら)な海にのまれてしまうのさ。信号をしたくはないのかね。『計画ハ、クイチガッタ、我等ハココニアリ、至急スクイ出シ、タノム』と、信号したくはないのかね。ほら、下をごらん、甲板をもう波が、あんなに白く、洗っているよ」
 トラ十の、毒々しいことばがきいたのか、師父は、このとき、急にすなおな口調(くちょう)になって、
「しかたがない。われわれの命にかえられないから、青い封筒入の重要書類を君に渡そう。だから、この手をはなしてくれ」
「おっと、おっと。その手には乗るものか。もう一方の手で、青い封筒を出せよ」
「そんなことをすれば、縄梯子から、おちる」
「大丈夫だ。お前さんの右手は、こうしておれがしっかり持っているから、大丈夫さ」
 師父は、今はもうやむを得ないと思ったものか、左手をつかって、上着のポケットの中から、青い封筒をとりだした。トラ十は、上からそれをひったくった。
「これでよし。さあ、手をはなしてやる」
「いったい、君は何者だ。名前をきかせてくれ」
「おれのことなら、これまで君がやって来た、かずかずの残虐行為(ざんぎゃくこうい)について、静かに胸に手をあてて思出したら、分るよ。それで分らなきゃ、世界骸骨化本部へ、問いあわせたがいいだろう。お前たちの仕事のじゃまをするこんな面(つら)がまえの東洋人といえば、多分わかるだろうよ」
 そういったかと思うと、トラ十のからだは、猿のように縄梯子の裏にとびついて、するすると下におりていってしまった。

   怪人物(かいじんぶつ)

 沈みかかった雷洋丸のマストの上におけるこの怪しい会見のことは、二人以外だれも知る者がなかった。
 雷洋丸は、それからのち、トラ十の予言したとおり、第二の爆発がおこり、正しくいって、七分の後に、暗い海の下にのまれてしまった。
 救難信号をうったが、あまりにも早い沈没のため、あいにくどの船も、間にあわなかった。かくて、船客や船員の約半数は、海の中にほうりだされた。
 帆村探偵はどうしたであろうか。房枝はどこにいるか。
 また、師父ターネフやニーナ嬢は、いったいどうしたであろうか。
 師父ターネフといえば、この人は、トラ十のため、ついに仮面を叩きおとされたようである。トラ十は、師父のことを、ターネフ極東首領とよんだ。
 ターネフ極東首領!
 ターネフ首領とは、ほんとうに、そういう位にある人物であろうか。そしてそれはどんなことをする役目の人物であろうか。
 ターネフが何国人であるか、それは分っていない。分っているのは今から二十年ほど前に、ターネフの名が、秘密結社「世界骸骨化クラブ」の会員として記録されたことである。
 世界骸骨化クラブとは、いったい何であろうか。
 これはおそろしい陰謀を抱く者の集りだ。この光明にみちたわれら世界人類の生活を、ことごとく破壊し去って、みじめな苦しい地獄の世界へ追いやり、人類に希望を失わせ、そして人類の最後の一人を骸骨にするまでは、この破壊行動をやめないという実におそろしい悪魔どもの集りなんだ。
 なぜ、彼らは、そんなおそろしい陰謀を抱くようになったのだろう。これは結局、気が変な者どもの作った宗教だ。その宗教においては、神のかわりに、悪魔に祈るのだ。世の中から光明をうばい去り、暗黒と混乱と苦悩とを人類生活の上へよぶのだ。そして、一人でも多くの人類が苦しみ、なげき悲しみ、そして死んで行けば、それが彼らのいただく悪魔神(あくましん)を、よろこばせることになるのだと思っている。
 とても、ふつうの心では考えられない。なにしろ気が変な者どもの集りだから、こんなとんでもない陰謀をつくりあげるのだ。
 彼らは、不正なことで、巨額の富を集めた。今また集めている最中である。そしてこんど極東方面の平和を破壊するその手始めとして、日本における生産設備を大破壊することが、最高会議で決められた。そして本部の大司令は、ターネフを極東首領に任命し、こんど日本へ特派することになったのだ。
 極東首領ターネフ。彼はこの二十年間に、骸骨化クラブの会員として、主脳部たちからたいへん信任を得たが、彼がこれまで活動していたのはメキシコ国内であって、もう十四年になる。こんどの指令によって、彼はここにメキシコ生活をうち切り、姪だと称するニーナ嬢をつれて、日本へ渡ることになったのだ。
 ここまでいえば、誰にも分るだろうが、彼ターネフ首領こそ、派遣される国では、まことにゆだんのならない人物なのである。同伴のニーナ嬢についても、また語るべき別の話があるが、とにかく美しき彼女も、ただ者ではない。それは、ことさらここにことわるまでもあるまい。
 あぶない、あぶない。このようなおそるべき人物が、虫一つ殺さぬ顔をして、ぞくぞくと日本へのりこんでくるのであった。彼らはこれから一体、なにを始めようとするのであろうか。まことに気味のわるい話である。
 雷洋丸の遭難によって、船内におこったかずかずの怪事件は、疑問をのこして、一時あずかりとなった。
 房枝は、幸いにボートにのりこむことができた。そして救助にのりつけた汽船のうえにうつされ、ぶじ横浜に上陸することができた。
 ターネフとニーナは、いつの間にか、自国の汽船にすくいあげられ、これもぶじに、横浜上陸となった。
 帆村探偵は、どうしたであろうか。彼は、最後まで、船にふみとどまっていたため、雷洋丸が、艫(とも)を真上にして沈没したのちは、海中へなげだされ、暗い海を、板切(いたきれ)にすがって漂流をはじめた。

   漂流(ひょうりゅう)

 帆村は、しっかと、板切につかまって、波のまにまに、どこまでも、漂流していった。
 海上はたいへん、なぎわたって、波浪(はろう)も高からず、わりあいしのぎよかったのは、帆村にまだ運のあったせいであろう。
 彼は、命よりも大事な例の箱を、しっかり背中に、ななめに背おっていた。
 海は、いつまでも暗かった。まるで、時刻が、この海ばかりを、忘れ去ったかのように思われた。
 帆村は、だんだん疲(つかれ)を感じてきた。そしてついには、うとうとと眠気(ねむけ)をもよおしてきた。
(これは、たいへん、うっかり眠ろうものなら、お陀仏(だぶつ)になってしまうぞ!)
 と思ったので、彼は、船にいるとき、とくべつに、服のうえから腹にまきつけてきた帯をとき、命とすがる板切のわれ目に帯をとおして、しっかりと結び、他の端を、われとわが左手首にしばりつけ、ざぶりと波に洗われることがあっても、からだと板切とは、決して放れないように、用意をしたのであった。
 この用意があったおかげで、彼は、いくたびか、眠りこけて、ざぶりと海中に、からだをしずませることはあったが、そのたびに、はッと気がつき、帯をたよりに、命の板切のうえにとりつくことができた。
 長い夜が、ようやく暁(あかつき)の微光(びこう)に白みそめた。風が出はじめて、海上に霧はうごき、波はようやく高い。今夜あたり、一あれ来そうな模様である。帆村探偵には、あらたな心配のたねができた。
 夜が明けてみると、昨夜中、命をあずけてとりついていた板切というのが、船具(ふなぐ)の上にかぶせておく屋根だったことがわかった。
 帆村は、時間とともに、だんだんとおくまでのびていく視界のひろがりに元気づきながら、どこかに行きすがりの船影(せんえい)でもないかと、やすみなく首を左右前後にまわした。
 すると、目についたものがある。一艘(そう)の小さい和船(わせん)であった。誰か、そのうえに乗っているのが、わかってきたので、帆村は、ただよう板切、船具おおいのうえによじのぼり、手を口のところへ、メガホンのようにあてがって、おーいおーいとよんだ。
 そのこえが、相手に、きこえたのであろう。やがて、朝霧の中から、ぽんぽんという発動機の音がして、その和船が帆村の方へやってきた。
「おーい、こっちだ。その船に、のせてくださーい」
 和船は、いったん帆村の方に、一直線に近づくと見えたが、そばまで来ると、急に、針路をかえた。
「おーい、たのむ。のせてくださーい」
 和船は、逃げるわけでもなく、用心ぶかく、帆村のまわりをぐるぐるまわりだした。
 帆村は、しきりに手をあげて、和船をのがすまいと、呼んでいるうちに、彼は船のうえにのっている人物をみて、「おや、あれは、トラ十のようだが」と首をひねった。
 しばらくすると、それは帆村の思ったとおり、トラ十にちがいないことがわかった。トラ十は、ついに船を帆村のところへ持ってきたのである。
「なアんだ、お前は曾呂利本馬(そろりほんま)じゃねえか」
 と、トラ十は、けげんな顔で、船のうえから、帆村を見下ろした。
「そうだ、曾呂利だ。こんなところで、仲間にあおうとは思いがけなかった。おねがいだ。その船にのせてくれよ」
 と、帆村は、たのみこんだ。トラ十は、まだ幸(さいわ)いにも、帆村の身分を知らず、ミマツ曲馬団の曾呂利青年と思っているらしい。
「ふん、助けてくれか。そうだな、お前なら、助けないわけにもいくまい。しかし、ことわっとくが、この船じゃ、おれは船長なんだぞ。万事おれさまの命令に従うなら、むかし仲間だったよしみに、ちっとばかりのせてやらあ」
 トラ十は、もったいぶっていった。

   怪(あや)しい紙切(かみきれ)

「やあ、ありがとう。トラ十兄い、恩にきるぜ」と、帆村がいえば、
「ふん、お前までが、トラ十トラ十といいやがる。これからは丁野船長(ていのせんちょう)とよべ。そういわなきゃ、おれはお前に、船から下りてもらうぜ」
「いや、わるかった。船長、どうか一つたのむ。たすけてくれ」
「ふん、じゃあ、のれ」
 トラ十に、いばりかえられながら、帆村探偵は、やっと和船のうえの人となった。
「曾呂利よ。お前は、よっぽど運がいい若者だ」
 と、トラ十はエンジンのところにすわりこんで、ひやかすようにいった。
「トラ十、いや丁野船長。お前、よくまあ、こんなりっぱな船を手に入れたもんだなあ。いったいどこで、手に入れたんだい」
 帆村探偵は、服のしずくをおとしながら、そういうと、
「な、なんだって」
 と、トラ十は、急にこわい目つきになり、
「そ、そんなことは、お前らの知ったことか。よけいな口をきくな」
 と、帆村を叱(しか)りつけた。
 それからしばらく、二人はだまりこんでしまった。
 帆村が、じっとみていると、トラ十は、霧の中の海を、また北にむけて舵(かじ)をとっているのであった。それは、朝日の位置からして、方角がちゃんとわかった。
 そのトラ十は、ときどき、霧の中をとおして、日の光を仰ぎつつ、胃袋のあたりを、ジャケツのうえからおさえるのであった。なにか彼は気にしていることがあるらしい。
「おい、曾呂利よ」
「へーい」
「へーい」というへんじが、トラ十の気に入った。
「お前、艫(とも)の方をむいて船がとおらないかみていてくれ。おれが、よしというまで、こっちを向いちゃならねえぞ。いいか」
「へーい。しょうちしました」
 帆村探偵は、いいつけられたとおり、艫の方を向いた。
 トラ十は、それをみるより、にわかにそわそわしだした。彼は、細長い腕を、ジャケツの中にさしこんだ。やがて手にとりだしたのは、くしゃくしゃになった青い封筒であった。
 それは、師父(しふ)ターネフからうばった、重要書類入(いり)の袋であった。
 トラ十は、帆村の方を注意ぶかく睨(にら)んだ。
「やい、やい、やい。いいつけたとおり、艫の方へまっ直(すぐ)に向いていねえか。こっちを向いたら面(つら)を叩(たた)きわるぞ」
「へーい」
 なにをいわれても、帆村は、へーいであった。トラ十はそこでやっと安心のていで、片手をつかって青い封筒をやぶった。中には、数枚の紙切がはいっていた。トラ十は、しきりにその中をのぞきこんでいたが、
(おやッ!)という表情。
 取出した紙切を、一枚一枚あらためてみたが、それは、ことごとく白紙(はくし)であった。なんにも書いてなかった。白紙の重要書類というのがあるであろうか。
「ちえ、うまうま、きゃつのため、一ぱいくわされたか!」
 トラ十は、くやしさのあまり、つい、ことばに出していった。
「どうしました、船長さん」
 帆村は、うしろをふりかえった。
 トラ十は、封筒と白紙とを重ねて、べりべりッと破った。そして、海中へなげこもうとしたが、急に気がかわって、破ったやつを、ふたたびジャケツの下におしこんだ。そのトラ十は、帆村に、なぜこっちを向いたのかと、叱りつけはしなかった。
「うーん、あの野郎……」
 トラ十は、よほどくやしいとみえ、ひとりで獣(けもの)のようにうなっている。
 帆村は、実は、さっきから、トラ十のすることを、すっかり見てしまったのだった。うしろを向かない帆村に、なぜそんな器用なことができたであろうか。それはなんでもない。彼は小さな凸面鏡(とつめんきょう)を手の中にもっていて、その鏡にうしろのトラ十のすることをうつし、すっかりみてしまったのである。
「おい、曾呂利。そこに、お前のもっているその箱には、何がはいっているのか。おい、こっちへ、それをもって来い」
 とつぜん、トラ十が、帆村の大事にしている箱に目をつけ、つよい語気でどなった。ああ、この箱! これをトラ十に渡しては一大事である。帆村は、俄(にわ)かに、一大窮地(きゅうち)へほうりこまれた!

   貴重(きちょう)なX塗料(とりょう)

 このときほど、困ったことはない、と、帆村探偵はのちのちまでも、その当時のことを語りぐさにしている。
 トラ十の目をつけた四角い箱には、帆村が、はるばる海外まで使をし、ようやく手に入れてきた貴重な物品が入っていた。それは一たい何であったろうか。
 それは、外でもない。X塗料であった。
 メキシコで発明された極秘(ごくひ)の新火薬BB火薬のことは前にのべた。BB火薬はすこぶる爆破力が大きい新火薬で、しかもこの火薬は、ほんの少量で、ものすごいきき目がある。かの雷洋丸が爆沈したのも、実をいえば、わずか丸薬(がんやく)ほどの大きさのBB火薬が、第一船艙のある貨物の中に仕かけられていて、それが爆破したためであった。X塗料というのは、その恐るべきBB火薬の爆破力を食いとめる力のあるふしぎな新材料であった。
 BB火薬とX塗料!
 これはともに、メキシコにおいて発明されたのである。BB火薬の発明後、三年かかって、この塗料が発明された。
 このX塗料が発表されたのは、わりあい最近のことであるが、メキシコでも、このX塗料が完成するまでは、BB火薬の多量生産と、その使用とを絶対に禁じていた。
 それは、なぜかというのに、ものすごいBB火薬だけあって、X塗料がなければ、あまりに危険であって、国内で取扱うことができないからだった。ことばをかえていうと、X塗料のような安全な材料で包むのでなければ、BB火薬の製造工場や貯蔵場が万一爆破したら、いかなる大惨事(だいさんじ)がおこるか考えただけでも、ぞっとする。それほどBB火薬の爆破力は、はげしいのであった。
 X塗料は、政府の命令によって、すぐさま研究が開始された。よりすぐった優秀な化学者二百名が、三年間地下にある秘密の研究所で困難な研究をつづけて、やっと完成したものである。
 X塗料の発明が完成したとき、メキシコの主だった人々はほっと安心の溜息(ためいき)をついた。それはBB火薬が現れた時よりも、さらに一そうよろこばれた。彼等は、自国で発明されたBB火薬のため、彼等自身が爆死(ばくし)するのは、たまらないと思ったからだ。
 X塗料の発明されたことは、報告されたが、その塗料がどんなものであるかということについては、火薬以上にその秘密が厳重にたもたれた。
 わが名探偵帆村荘六は、この極秘の塗料をはるばるメキシコまで受取りに行ったのである。
 それはメキシコ政府の好意によって、時局がら日本へ譲(ゆず)ってもいいという申入れがあったので、政府では大喜びで、これを受けることになった。しかしメキシコ政府としては、このX塗料のことは秘密の中の秘密で、この前のBB火薬のように、悪者のためにかぎつけられて盗まれてはたいへんであるから、こんどのX塗料の見本の受取りは、非常に注意深くやってもらいたいと要求した。そこで日本側でも特に気をつけて、この件を検察庁長官(けんさつちょうちょうかん)の手にうつした。そして長官は更に注意深くこのことを取扱って、一般には目立たないように私立探偵帆村荘六をえらんで、これに重大使命をせおわせたのであった。
 帆村探偵は、この重大任務に感激し、命を的に、苦労を重ねて、ついにこれを手に入れ、ここまで持って帰ったのである。彼は、その塗料をながい間、自分の足にまきつけその上を繃帯し、あたかも、足に大怪我をしているように見せかけていたのであった。いよいよ横浜入港も近くなったので、彼は、繃帯を外し、貴重なるX塗料を箱の中に入れかえた。そして雷洋丸の爆沈事件のときも、彼は命にかえて、この箱を後生大事(ごしょうだいじ)に守って、ここまで無事に持ってきたのである。
 このように貴重な、そして極秘のX塗料の入った箱を、とうとうトラ十が、目をつけてしまったのである。
 陸ならば、まだ逃げる余地があろう。またこれが雷洋丸の上であれば、なんとか身をかわすこともできようが、ここは、ひろびろとした洋上をただようせまい和船の中である。助けを[#「助けを」は底本では「助を」]呼ぼうにも、附近には誰もいない。海へとびこめば、こんどこそ、帆村の命は、まず無いものと思わなければならない。
 このままでは、トラ十は、箱をひったくって、中をあらためるであろう。しかしトラ十には、これが、そんなに貴重なものとはわからないから、中身をあらためると、なんだ、こんなきたならしいものと、海中へ捨ててしまうかもしれない。そんなことがあればたいへんだ。帆村探偵のこれまでの苦心も水の泡(あわ)だ。
 ああ帆村探偵は、いかにして、このX塗料を守るであろうか。

   洋上(ようじょう)の死闘(しとう)

「早くその箱をこっちへ出せ。なにをぐずぐずしとる!」
 トラ十は、こわい顔をしてどなった。
 帆村探偵は、進退極(しんたいきわ)まった。
「なぜ、出さん。命の恩人たるおれの命令に、そむく気だな。よーし、お前がそういうつもりなら、早いところ、片をつけてやる。かくごしろ」
 言下(げんか)に、トラ十の手に、きらりと光ったものがある。
「あ、ピストル!」
「そうだ。お前の命はおれが助けた。この船に、助けてやったからなあ。ところで、お前は、おれのいうことを聞かない。そういう恩知らずのお前なんぞを、これ以上、だれが助けておくものか」
 トラ十は、ピストルの狙(ねら)いを定めた。
 帆村の命は、乱暴者のトラ十の前に、今や風前の灯(ともしび)同様である。彼の命と、貴重なX塗料とが同時に失われそうになってきた。
「兄(あに)い、そんなこわい顔をしなくてもいいじゃないか。おれは、この箱をお前に見せないとはいいはしないじゃないか。ほら、このまま兄いにまかせるよ」
 がたん! と、音がして、四角い箱は、トラ十の前へ投げ出された。
 帆村は気が変になったのか、あんなに大事にしていた箱を、とうとうトラ十に渡してしまったのである。
 トラ十のきげんが、にわかに直った。
「なんだ、世話をやかせやがって、はじめから、おとなしくこうすればいいのだ」
 トラ十は、それでもまだ油断なく、ピストルの銃口を、帆村の胸にむけたままである。そして左手で箱をあけにかかった。さあ、一大事である。
「おい、この中に入っているのは、一たい何だ。正直に申し上げろ」
 トラ十の追及(ついきゅう)は、一向ゆるまない。帆村はいよいよ困って、ことばもない。帆村の困っているのをトラ十は横目で見て、ふふと鼻で笑った。
「ふふふ。どうやら説明も何もできないほど貴重な品物と見える。そうときまれば、ぜひとも中身を拝見せずにゃいられない。これは、福の神が、向こうからころげこんできたぞ」
 トラ十は、にわかに上きげんになった。そして箱を拳(こぶし)でたたきこわすと、中から、白い布をまいた長いものを取り出した。
「おれが、あけてやろう」
「これ、お前は動くな。動くと、これがものをいうぞ」
 トラ十はゆだんをしない。彼は右手にピストルをもち、左手で、その布をほどいた。中からは包紙(つつみがみ)が出て来た。
「いやに、ていねいに巻いてあるなあ。よほど大事なものと見えるが、厄介千万(やっかいせんばん)じゃないか。おや、まだ、その下に別な紙で包んである。これはかなわんなあ」
 トラ十はだんだんじれながら、何重もの包を、つぎつぎにほごしていった。そのうちに最後の油紙包がとかれて、中からチョコレート色の、五十センチばかりの棒がでて来た。それこそ、X塗料を固めたものであった。それを、ある特殊な油を使って溶かすと、X塗料となるのだった。
「おや、へんなものが出て来やがった」
 とつぜん、帆村は猛然と飛びこんだ。塗料の棒に見入るトラ十のからだに、わずかの隙(すき)を見出したのであった。帆村の鉄拳(てっけん)が、小気味よく、トラ十の顎(あご)をガーンと打った。
「えーッ!」
「しまった。うーん」
 トラ十、顎をおさえた。
 つづいて帆村は、ピストルをたたき落した。しかしトラ十は無類の豪(ごう)の者である。一、二度は、どうと艫(とも)にたたきつけられたようになったが、すぐさま、やっと、かけ声もろとも、はね起きた。
「小僧め、ひねりつぶすぞ」
「なにをッ」
 せまい船内で、はげしい無茶苦茶な格闘がはじまった。勝敗は、いずれともはてしがつかない。船は、今にも、ひっくりかえりそうである。帆村は、そのたびに、船の重心を直さなければならなかった。
「これでもかッ!」
「ぎゃッ」
 帆村の、猛烈な一撃が、ついに勝敗をけっした。トラ十はよろよろと、後によろめくと、足を舷(ふなばた)に払われ、あっという間に大きな水煙とともに、海中に墜落した。
 帆村は、すぐさま艫へとんでいって、舵をとった。そして水面に気をくばった。
 ところが、ふしぎなことに、懐中に落ちたトラ十は、いつまでたっても浮いてこなかった。二分たっても、三分たっても、とうとう十分間ばかり、水面を見ていたが、ついにトラ十は浮かんでこなかった。
「はて、落ちるとき、どうかしたのかな」と、帆村は、首をひねった。
(が、そんなことはどうでもいい。あのわずかな隙を狙って、うまくトラ十をたたきのめしたのだ。そして、自分の命をとりとめ、それから、貴重なX塗料を)
 帆村はそこで、目を船内に転じて、きょろきょろとあたりを見まわした。
 船内には、X塗料を巻いてあった布や紙が、ちらばっていた。帆村は、その間を探しまわった。
「おや、どこへいったろう。X塗料の棒が見あたらないぞ」
 と叫んだが、ふと彼は、海中へ視線を走らせると、はっと気がついて、一瞬時に、顔面が蒼白(そうはく)となった。
「し、しまった。トラ十め、あれを手にもったまま、海中へ落ちた!」
 さあ、いよいよ一大事だ!

   無念(むねん)の報告

「そいつは、遺憾至極(いかんしごく)だなあ」
 黄島(きじま)長官は、ほんとうに、遺憾にたえないといった語調で、とんと、卓子(テーブル)のうえを拳でたたいた。
 ここは、検察庁の一室であった。
 長官の前に、重くしずんだ面持で立っているのは、別人にあらず、帆村荘六その人であった。
 帆村は、ついに一命をまっとうして、今日、東京についたばかりであった。彼は、とるものもとりあえず、重大な報告をするため、黄島長官のもとにかけつけたのだった。
「まことに、遺憾です。私は、長官に、面(おもて)をあわせる資格がありません」
「うむ、君の骨折(ほねおり)は感謝するが、せっかく、手に入れながら、失うとはのう」
 長官は、X塗料の棒のことを残念がっているのだった。
「おい、帆村君。残っているのは、今ここにあるこれだけか」
 長官は、卓子のうえに広げられた散薬(さんやく)の紙包ほどのものを指さす。その紙のうえには、なんだかくろずんだ粉が、ほんの少量、ほこりのようにのっていた。
「はい、これだけであります。これは、塗料の棒を包んであった油紙を、よく注意して、羽根箒(はねぼうき)ではき、やっとこれだけの粉を得たのです」
「実に、微量だなあ。これじゃ、分析もなにもできまい」
「はあ」
 帆村は、唇をかんで、頭をたれるより外に、こたえるすべをしらなかった。
「しかし、これでも無いよりはましだ。いたずらに、取り返しのつかぬことをなげくまい。そして、不利な現状の中から、男らしく立ち上るのだ」
 長官は、帆村のために、慰(なぐさ)めのことばをかけた。帆村はいよいよ穴もあらば入りたそうである。
「とにかく、工場の方と連絡をしてみよう。彦田(ひこだ)博士に、ここへ来てもらおう」
「彦田博士?」
「君は、彦田博士を知らないのか。博士は、篤学(とくがく)なる化学者だ。そして極東薬品工業株式会社の社長だ。今、呼ぼう」
 長官は、ベルを押して、秘書をよんだ。
「彦田博士を、ここへ案内してくれ」
「は」
 しばらくすると、秘書の案内で、彦田博士が、部屋へはいってきた。
 帆村が見ると、博士は、五十を少し越えた老学者であった。
 そのとき、帆村は、ふと妙な感にうたれたのである。この彦田博士には、前に、どっかで会ったことがあると。
 しかしほんとうは、帆村は、まだ一度も彦田博士に会ったことがなかったのであった。それにもかかわらず、博士に会ったことがあるような気がしたのは、別の原因があったのだ。そのことは、だんだんわかってくる。
 長官は、両人を、たがいに引き合わせると、
「ところで、彦田博士。例のX塗料が手に入ったのです」
「えっ、X塗料が、ほんとうですか。いや、失礼を申しました。でも、あまりに意外なお話をうかがったものですから、あれが、まさか手に入るとは」
「そこに立っている帆村君が、大苦心をして、とってきてくれたのだが、惜しいところで、大きいのを紛失して、残ったのは、そこにある紙にのっているわずかばかりだけですわい」
 と、長官は、卓子の上を指した。
「えっ、この紙ですか。どこに、それが」
 博士が、面食(めんくら)うのもむりではなかった。帆村は、また冷汗をながした。そして博士に、残る微量のX塗料のことを説明したのであった。
「どうですか、博士。それだけの資料によって、X塗料の正体を、うまく分析ができるでしょうか」
 博士は、非常に慎重(しんちょう)な手つきで、X塗料の粉の入った紙を目のそばへ近づけ、しさいに見ていたが、やがて、力なげに首をふった。
「彦田博士、どうですかのう」
「長官。これでは、微量すぎます。残念ながら、定量(ていりょう)分析は不可能です」
「出来ないのですな」
 黄島長官は、はげしい失望をかくすように目をとじた。
 彦田博士も、帆村荘六も、しばし厳粛(げんしゅく)な顔で沈黙していた。しかし、ついに博士が口を開いた。
「長官。何しろこの外に品物がないのですから、困難だと思いますが、私はこれを持ちかえった上で、出来るかぎりの手はつくしてみます」
「そうして、もらいましょう。われわれの一方的な希望としては、この資料により、一日も早く博士の会社で、X塗料を多量に生産してもらいたいのです。このX塗料を一日も早く多量に用意しておかないと、われわれは心配で夜(よ)の目もねむられませんからねえ」
 黄島長官は、立ち上って、彦田博士に握手をもとめ、そして、つよくふった。
「それから、帆村君を、われわれの連絡係として、ときおりあなたの工場へ、使(つかい)してもらいますから、よろしく」
 長官は、ことばを添(そ)えた。

   捨子(すてご)は悲し

 話はかわって、その後の房枝(ふさえ)はどうなったであろうか。
 あのおそろしい雷洋丸の爆沈事件にあい、房枝は、死生の間をさすらったが、彼女ののったボートが、うまく救助船にみつけられ、無事に助けられたのであった。
 彼女たちは、その明日の夕刻、横浜に上陸することが出来た。もう無いかと思った命を拾うし、そして故国(ここく)の土をふむし、房枝の胸はよろこびにふるえた。
 ここで、彼女は、同胞(どうほう)のあたたかい同情につつまれて、涙をもよおした。
 手まわり品や、菓子や、それから、肌着や服までもらったのである。そぞろ情(なさけ)が身にしみる。
 だが、その一方において、外事課(がいじか)の係官のため、厳重な取調べをうけた。なにしろ国籍のあやしい者がぬからぬ顔で入りこんでくるのを警戒する必要があったし、その上、雷洋丸の爆沈原因をつきとめるためにも、生き残った人たちをよく調べる必要があったのである。
「あなたの原籍(げんせき)は?」
 係官は、用紙をのべて、取調をすすめる。
「さあ」
 房枝は、困ってしまった。彼女は、両親を知らない。だから、原籍がどこであるか、そんなことは知らない。
 松ヶ谷団長がいてくれれば、ここは、うまくとりつくろうことができたのであるが、団長は大怪我(おおけが)をしたと聞いた後に、どうなったかよく知らない。
「原籍をいいなさい」
「原籍は存じません。あたくし、あたくしは、捨子なんです」
「捨子だって、君がかい」
 係官は、眼鏡越しに、目を光らせた。原籍を知らぬ奴はあやしい。
「でも、おかしいじゃないか。君の話だと、この前、日本を出発して外国へ渡航したそうだね。そのとき、もし原籍を書かなければ、旅行は許可されないよ。そのとき、原籍はどこと書いたか、それをいいなさい」
 係官は、明らかに、房枝を、うたがっている様子であった。
 そうでもあろう、房枝は、日本人ばなれした大きなからだの持主だったし、皮膚の色も、ぬけるような白さだったし、外国で覚えた化粧法が、更に日本人ばなれをさせていた。
「団長さんと、別れ別れになってしまったものですから、よく覚えていないのですわ」
「それじゃ、君が日本人たることの証明が出来ないじゃないか。え、そうだろう」
「まあ、あたくしが、日本人じゃないとおっしゃるのですか。ひどいことをおっしゃいますわねえ」
「その証明がつかなければ、ここは通せない」
「では、あたくしたち、ミマツ曲馬団の仲間の人に、証明していただきますわ」
 それから房枝は、いろいろと願って、生残(いきのこ)りの団員たちを呼びあつめてもらった。こんなときに帆村がいれば、どんなに助かるかもしれないのだけれどと、くやしくなった。
 けっきょく、仲間の人たちの証言も、係官を納得させるほど十分ではなかったが、船員の中に、房枝が乗船当時調べたことをおぼえている者があって、その証言で、やっと上陸を許可された。ただし条件つきであった。
「常に、居所(いどころ)を明らかにしておくこと。毎月一回、警察へ出頭すること。よろしいか」
 房枝は、今日ほど自分が捨子であることを、もの悲しく思ったことはない。原籍がわからないために、こんな疑いをうけるのである。
(ああ、お母さま、お父さま。房枝は、今、こんなに悲しんでいます。ああ)
 彼女は、胸に手をおいて、心の中ではげしく、まだ見ぬ父母に訴(うった)えた。
 この房枝のかなしみを、いつの日、誰が解(と)いてくれることやら。
 やっと解放された房枝たちミマツ曲馬団員は、一まず横浜のきたない旅館に落ちついた。これから、一同の身のふり方を、いかにつけるのかの、相談が始まった。けっきょく、他に食べる目当もない一同だったから、人数は半分以下にへったが、ともかくも、空地(あきち)にむしろを吊ってでも、興行をつづけることにきめた。そしてその第一興行地を、今生産事業で賑(にぎ)わっている東京の城南(じょうなん)方面にえらび、どうなるかわからないが、出来るだけのことをやってみようということになった。
 城南方面を第一興行地にしようじゃないかといいだしたのは、調馬師(ちょうばし)の黒川だった。彼は松ヶ谷団長にかわって、ミマツ曲馬団の名をつぐこととなった。
「さあ、それでは、俺(おれ)と、もう一人、女がいいなあ、そうだ房枝嬢がいい。二人で、これからすぐ城南へ出かけて、借地の交渉をしてこよう。それから、何とかして、衣裳(いしょう)の方も東京で算段(さんだん)してこよう」
「おい、黒川、いや黒川団長、城南には、お前、心あたりの空地があるのか。今は、空地がほとんどないという噂(うわさ)だぞ」
「なあに、大丈夫。俺は、いいところを知っているんだ。極東薬品工業という工場の前に、興行向きの地所があるんだ」
 極東薬品工業? 聞いたような名だ。いや、それこそ彦田博士の工場であった。今そこでは、帆村の持ちかえった極秘の塗料の研究がすすめられている。

   東京へ

 房枝たちが養われている新興ミマツ曲馬団が、今後うまく立ちなおって、よい興行成績をあげるようになるかどうか、それは団員たちにとって、生きるか死ぬかの大問題だった。
 吉凶(きっきょう)いずれか、いわば、その運だめしともいえる城南の興行の瀬ぶみに、房枝は新団長の黒川とつれだち、横浜をあとに、東京へ出かけたのであった。
 これから先、はたして団員二十余名が、うまく口すぎが出来ていくであろうかと思えば、この下検分(したけんぶん)の使の責任は重く、目の前が暗くなる思いがするのであったが、それでも房枝は、メキシコにいるときから、いくたびとなく夢にみていたなつかしい東京の土地を踏むのだと思うと、やっぱりうれしさの方がこみあげて来た。
「あら、もう、ここは東京なのね」
 省線電車(しょうせんでんしゃ)が、川崎を出て長い鉄橋を北へ越えると、そこはもう東京になっていた。房枝は、窓越しに、工場ばかり見える町の風景に、なつかしい瞳を走らせた。
 新団長の黒川は、ふーんと、生返事をしたばかりで、電車の中にぶらさがっているハイキングの広告に、注意をうばわれていた。
(このごろのお客さんは、みんなハイキングにいってしまって、曲馬団なんかに、ふりむかないのじゃないかなあ。そうなりゃ、飯の食いあげだ)
 と、この新団長には、車内の広告が、はなはだ心配のたねとなった。
 電車が蒲田(かまた)駅につくと、二人は、あわてて下りた。
 駅前にはバスがあるのに、黒川はそれに乗ろうとせず、てくてくと歩きだした。たとえ一円でも、これから先にはっきりしたあてのない今のミマツ曲馬団のふところには、ひどくひびくのであった。この団長さん、なかなかこまかい人物だった。
 二人は、にぎやかな商店街をぬけて、なんだか、せせこましい長屋町に入りこんだ。そこは鼠色(ねずみいろ)の土ほこりの立つ、妙にすえくさいさびた鉄粉(てっぷん)のにおう場所で、まだ、ところどころに、まっ黒な水のよどんだ沼地があった。
 だが、房枝には、こういう建てこんだ棟割長屋(むねわりながや)が、ことの外(ほか)なつかしかった。それは房枝が、まだ見ぬ両親の家を思い出したからだ。
(こうした棟割長屋のどこかに、自分の両親が暮しているのではないか)
 そう思えば、房枝には、一軒一軒の家が、ただなつかしくて仕方がないのだ。家々には、大勢の家族がにぎやかに暮している。なにやら、うまそうに煮えている匂(におい)もする。赤ちゃんが泣いている。よぼよぼしたお婆さんが、杖をつきながら露地(ろじ)の奥からあらわれて、まぶしそうに、通(とおり)をながめる。飴屋(あめや)さんが、太鼓(たいこ)を鳴らしながら子供たちをお供にして通る。
 どれを見ても、一つとして、房枝にはなつかしくないものはなかった。房枝は、いくたびか、通りがかりのその棟割長屋へ、
(お母さま、ただ今)
 と、はいっていきたくなって、困った。まだ見ぬ親をしたう房枝の心のうちは、ちょっと文字(もんじ)にものぼせられないほど、いじらしかった。
「さあ、地所(じしょ)は、あそこに見える空地なんだが」
 と、黒川が、とつぜん立ちどまって、
「ところが、あの空地の持主の飯村(いいむら)という人の家は、どこか、この近所にあったはずだが、どこだったかなあ。だいぶん以前のことで、度忘(どわす)れしてしまったぞ」
 と、新団長は、溜息(ためいき)をついて、あたりを見まわした。房枝の夢みる心は、黒川のこえのした瞬間に破れ、とたんに彼女は、現実の世界に引きもどされた。
「さてこのあたりに、ちがいないと思うのだが、房枝、わしは、このへんをちょっと探してくるから、お前、しばらくここに待っていておくれ」
 そういって、黒川は路傍(ろぼう)に房枝をのこして、あたふたと向こうへ歩いていった。

   工場地帯

 房枝は、ひとりになって、路傍(ろぼう)に立っていた。通りがかりのおかみさんや、三輪車にのった男や、それから、近所のいたずらざかりの子供たちが、房枝を、じろじろと見て通る。なにしろ、このへんに見なれない垢(あか)ぬけのした洋装をしている房枝だったから、特に目に立ったのであろう。
 房枝は、人に見られることは平気の職業を持っていたが、それは、曲馬団の舞台へあがったときのことで、こうして今、路傍に立っているところを、じろじろ見つめられるのは、はずかしかった。
 しぜん、房枝は、道の方に背を向け、はるかに見える極東薬品工場の方を、ぼんやりと見つめていた。
 その工場には、三本の、たくましい煙突(えんとつ)が立っていて、むくむくと黒い煙をはいていた。その煙突を見、まっ白に塗られた工場を見ていると、房枝は、なんとはなしに、それが雷洋丸(らいようまる)の生まれかわりのような気がしてきた。
 ああ、思えば、ふしぎな運命に、ひきずられてきたものである。雷洋丸が爆沈せられたあと、怒涛(どとう)荒(あ)れくるう、あのような大洋から、よくぞ救い出されたものである。
「ああ帆村荘六(ほむらそうろく)さまは、どうしていらっしゃるだろう?」
 房枝は、しばらく忘れていた、たのもしい人のことを、ここでまた新しく思い出した。
 そうだ、たのもしい青年探偵、帆村荘六! せめて、あの人が、今、自分のそばにいてくれれば、こうも不安な、そして孤独な気持にもならないですむだろう。曾呂利本馬の芸名で一座に戻ってくることは、もちろん不可能であろうけれど、せめて、房枝たちのため、相談役にでもなってくれれば、ずいぶん皆は、よろこぶであろう。その中でも房枝自身は、他のだれよりもうれしいのであるが。
 帆村荘六が、奇蹟的に一命をとりとめて、無事帰りついたことは、新聞で知った。房枝はそののち、なんとかして帆村に会いたいものと、思いつづけたのであったけれど、その帆村の住所を忘れてしまった。だから、手紙を出したくても、出すことができないのだった。
 そういう場合には、帆村の記事を出した、新聞社へ頼めば、たいてい、親切に先方の住所を調べ出して連絡してくれるのであるが、房枝は、まだ世間なれしないため、そういう方法のあることを知らなかった。
「ああ、帆村さまにお会いしたいわ。たった一度きりでいいから」
 房枝が、そんなことを、しきりに考えているとき、彼女のうしろを一台の自動車が走りぬけた。そして、そのすこし先で、車は水たまりにとびこんで、ひどい音をたてて水をはねかせた。
「まあ、しつれいね」
 房枝は、あっといって、自分の服をあらためてみたが、いいあんばいに、べつにどこにも、泥水(どろみず)がとんでいなかった。
 その自動車はそのまま、どんどん走っていったが、しばらくいくと、辻(つじ)を左にまがって、極東薬品の塀(へい)にそって進んでいった。そうなると、車が横になって、車内に一人の紳士が、よほどいそがしいと見えて、新聞をひろげて読んでいるのが見えた。
 房枝は、にくらしげに、その自動車の行方(ゆきさき)を見つめていた。
「あら、あの自動車、あの工場へ入っていったわ」
 房枝は、一大発見でもしたように、思わず声をたてた。だが、工場の玄関の前にとまったその自動車の中から、新聞をたたみながら降り立った紳士が、まさか房枝の会いたく思っている青年探偵帆村荘六であることには、気がつかなかった。なぜといって、二人の間にはかなりの距離があったのである。
 もしも、あのとき、房枝が道の方に背を向けていなかったら、また、帆村荘六が、車内で新聞などを読んでいなかったら、二人のうちのどっちかが、
(おお、房枝さんだ)
(あら、帆村さん!)
 と、こえをかけたであろうものを、運命の神は、時に、このようにいじわるなものである。
 黒川は、どこまでいったのか、なかなか房枝のところへは帰ってこなかった。
「どうしたんでしょうね、新団長は」
 房枝が、すこし不安になって、あたりを、きょろきょろ見まわしていると、そのとき、向こうの方から、一台の三輪車が、いきおいよく、こっちへ向けてはしってきた。
 房枝はさっきの自動車にこりて、こんどは道の真中(まんなか)の水たまりよりも、はるかに後に、はなれていた。そして、ふと、さっきの水たまりのところに目をやった房枝は、はっと息をのんだ。
「ああ、たいへんだわ、あの方」
 ちょうど、その水たまりのそばを、小さな風呂敷包をもった上品な中年の婦人が、なんにも知らないで、こっちへ向いて通りかかっているのだった。
「ああ、あぶない、たいへんですから、わきへおよりなさーい」
 そのままいれば、婦人の晴着(はれぎ)は、三輪車のため、ざぶり泥水をかけられ、めちゃくちゃになってしまう。房枝は、自分の身を忘れ、大ごえをあげて、危険せまる婦人の方へかけていった。
 だが、ざんねんながら、もうそれは間にあわなかった。
「ああッ!」と、房枝は、両手で目をおおった。

   知らぬめぐりあい

 房枝が目を閉じている間に、三輪車は、どさりと大きな音をたてると、房枝の横を通りぬけた。
「あらッ」
 房枝が、はっと思って、ふたたび目を開いてみると、さあ、たいへんなことになっていた。彼女が、心配したとおり、通りがかった例の上品な中年の婦人は、黒い紋附(もんつき)を、左の肩から裾(すそ)へかけて、見るも無残(むざん)に、泥水を一ぱいひっかけられているではないか。
「まあ、足袋(たび)はだしに、おなりになって」
 婦人は、三輪車をさけるとたんに、草履(ぞうり)の鼻緒(はなお)がぷつんと切れてしまい、そして、草履はぬげて、はだしになってしまったのだ。白足袋は、泥水にそまって、もうまっ黒だ。
 房枝は、かけよると、今にもたおれそうな婦人のからだを両手でささえた。
「奥さま。しっかりなさいまし。おけがはありません?」
「まあ、あたくし」
 と、婦人は、おどろきのあまり、ことばも出ない。
「ずいぶん、ひどい運転手でございますわねえ。あら、あのひと、あいさつもしないで、向こうに逃げてしまいましたわ」
 房枝が、後をふりかえったときには、三輪車は、もう向こうの辻をまがったのでもあろうか、影も形も見えなかった。
「いいえ、あたくしが不注意だったのでございますのよ」
 と、その婦人は、ハンケチを出して、羽織にかかった泥水の上をそっとおさえたが、二、三箇所、それをすると、もうハンケチは、まっ黒になってしまった。全身の泥水は、まだそのままであるように見える。ずいぶん、ひどくかかったものだ。
 この婦人は、誰あろう。有名な彦田博士の夫人道子であった。その昔、発明マニアといわれた若き学徒彦田氏を助け、苦労のどん底を、ともかくも切りぬけ、そして今日の輝かしい彦田博士を世に出したお手柄の賢夫人(けんふじん)だった。道子夫人はこのあたりに用事があって、今、かえり道であったのだ。
 そんな有名な夫人だとは、房枝は、すこしもしらなかった。房枝は、ただもうこの婦人が気の毒になって、自分のハンケチをハンドバックから出すと、道子夫人の羽織のうえの泥を吸いとりはじめた。が、このハンケチも、すぐまっ黒になってしまった。
「ああどうぞ、もう、そのままで」
 と、道子夫人は、つつましく、恐縮(きょうしゅく)して、房枝の好意を辞退した。
「でも、たいへんでございますわ」
「いいえ、わたくしが、不注意なのでございました。あなたのお姿につい見とれていましたものでございますから」
「あら、いやですわ、ほほほほ」
 と、房枝は赤くなって笑った。
「いえ、それが、ほんとうなのでございますの。お嬢さまは、しつれいですが、今年おいくつにおなり遊ばしたのでございますか。お教え、ねがえません?」
「まあ、はずかしい」
「ぜひ、お聞かせ、いただきとうございますの。おいくつでいらっしゃいます」
 なぜか、道子夫人は、道ばたで会った初対面の房枝の年齢(とし)を、しきりに知りたがるのであった。なにか、わけがありそうなようすである。
「あのう、あたくし、こんなに柄が大きいんですけれど、まだ十五なんですのよ」
「え、十五。ほんとうに十五でいらっしゃるの。じゃあ」
 といいかけて、夫人は言葉をのみ、しげしげと房枝の顔を穴のあくほどみつめるのであった。
「ああ、奥さま。お履物(はきもの)が、あんなところに」
 そのとき、房枝は、夫人の皮草履の片っ方が水たまりのそばに、裏がえしになって、ころがっているのに気がついた。このままにしておいては、また、後から来た車がひいてしまうであろう。そんなことがあっては、ますますお気の毒と思い、いそいで、かけていって、その片っ方の皮草履を手に取り上げた。
「あら、たいへん。鼻緒がこんなに切れていますわ。これじゃ、お歩きになることもできませんわ。あたくしが、今ちょっと間にあわせに、おすげいたしましょう」
「あら、もうどうぞ、おかまいなく」
「いいえ、だって、それでは、お歩きになれませんもの」
 と、房枝は、持っていたハンケチをさいて、鼻緒をすげようとしたが、鼻緒をすげるためには穴をあけなければならない。ところが、そこには、錐(きり)もなければ火箸(ひばし)もなかった。
「困りましたわねえ。穴をあけるものが、ないので」
「いいえ、もう御心配なく、あたくしがいたしますから」
 もしも房枝が、ながく日本の生活になれていて、草履をはきつけていたら、ここではなにも穴をあける道具がなくても、草履の鼻緒を、いちじ間にあわせに別の方法ですげることは出来たはずだ。しかし彼女は、ほとんど外国をまわっていたし、またいつも洋装ばかりしていたので、こうした場合、錐がなければ、鼻緒はすげられないものと思いこんでいた。だから、房枝は決心をして、
「ちょっと、ここでお待ちになっていてください。あたくし、そのへんのお家で、錐をお借りして、鼻緒をすげてまいりますわ」
 と、道子夫人にいってかけだした。
 道子夫人は、それをとめたが、房枝は、どんどんかけだして、一軒の家へとびこんだのであった。
 夫人は、房枝のあとを見送って、呆然(ぼうぜん)とその場に立っていた。
 すると、そのとき、向こうから一台の自動車が、警笛(けいてき)を鳴らしながらやって来たので、夫人はまたかとおどろき、いそいで道の傍(かたわら)にさけた。そこはちょうど両側が沼になっていて、さけるのにはたいへん不便なところだった。
 自動車は、急にとまった。
「おや、彦田博士の奥さんじゃありませんか。そのお姿はどうなすったのです。さあ、私がお送りしましょう。どうぞこの車へおのり下さい」
 夫人が、顔をあげてみると、それは、ちかごろしばしば博士邸へたずねてくる青年探偵の帆村荘六だった。
 道子夫人は、車に乗ろうとはせず、てみじかに、ここで起った出来事をのべたのである。もちろん、房枝のこともいった。
「奥さん。それはそうでしょうけれど、早くこの車へお乗りになった方がいいですよ。第一、泥がお顔にまではねかかっていて、たいへんなことになっていますよ」
「あら、まあ。そうですか」
 夫人は、あわてて顔をおさえた。
「さあさあお早く、こっちへお乗りください。それじゃみっともなくて、白昼歩けませんぞ。鼻緒の切れた草履なんか、どうでもいいじゃありませんか」
 この帆村探偵は、少々らんぼうなことをいう。夫人は、見知らぬ少女の好意を無にして、ここを去るのは気が進まなかった。が帆村は、一切そんなことをおかまいなしに、とうとう、夫人を引張りあげるようにして車にのせると、運転手にいそがせて、そのまま大森にある博士邸へ、車を走らせたのであった。

   花環(はなわ)と花籠(はなかご)

 極東薬品工業前の空地に、蓆(むしろ)をつくって小屋がけして新興ミマツ曲馬団の更生興行は、意外にも、たいへんな人気をよんで、場内は毎日われるような盛況(せいきょう)であった。
 団員は、だれもかれも、えびすさまのように、大にこにこであった。中でも、新団長の黒川のよろこびは、ひと通りではなかった。
「おい、お前たち二人でこれからすぐに、電灯会社へいってこい。夕方までに電灯をひいてもらって、今日から、夜間興行をやることにしよう。工事料は現金でもっていけ」
「はいはい。行ってきましょう」
 なにしろ、道具もなければ、金もないので、小屋がけをしたはいいが、はじめは電灯を引くことも出来なかった。天井(てんじょう)なしの、天気のいい日だけ、昼間興行で打切りというすこぶる能率のわるいやり方で、がまんしなければならない新興ミマツ曲馬団だった。
 だが、蓋(ふた)をあけると、どやどやとお客が押しよせてきて、たちまちしわだらけの札が、団長の帽子の中に一ぱいになってしまった。
 二日目には、客からお届けものの栗まんじゅうの入っていたボールの箱を、臨時金庫にしたが、たちまちこの箱も、札で一ぱいになって、箱はとうとうこわれてしまうというさわぎであった。そこで、仕方なくそばやさんから、乾(ほし)うどんの入っていた木箱をゆずってもらって、これを三代目の金庫としたが、この金庫も、三日目には、札で、すっかり底が浅くなってしまい、うっかり持ちあげると、板底から釘がぬけだすというわけで、夢みたいに金が集まってきた。こうなれば、電灯工事費なんかなんでもない。
 房枝の出し物は、もともと小馬ポニーを使って、身軽な馬術をやるのが一座の呼びものになっていたが、そのポニーは、雷洋丸とともに、太平洋の底に沈んでしまった。だから、この出し物はだめとなって、初日、二日は、仕方なく、上は洋髪の頭のままで、からだには、紙でつくったかみしもをつけ、博多今小蝶(はかたいまこちょう)と名乗って、水芸の太夫娘となって客の前に現れた。それでも、なにもしらない客たちは大よろこびで、小屋が割れそうなくらい手をたたいた。
 房枝は、うすい板敷(いたじき)の舞台の上で、そっと涙をのんだ。
(ポニーほしい)
 と思ったが、それは、どうにも、急場の間にあうはずがなかった。
「じゃあ一つ、空中サーカス道具を手に入れ、ついでに、天井の高い天幕(テント)も、借りちまうか、これなら、ごうせいな番組となって、お客は、またうんとふえるにちがいない」
 と、楽屋の草原の上に、あぐらをかいている黒川新団長は、ものすごく気前がよかった。
 五日目は、徹夜で、大天幕張り、次の日から、見ちがえるような新興ミマツ大曲馬団超満員御礼大興行と、長たらしい名前の旗を出し、「お礼のため、特に料金は二割引」とわけのわからぬ但し書をつけたが、これがまた大当りと来た。一座は、波間に沈んでいく雷洋丸から、命からがらのがれた後のしめっぽい思出なんか、どこかに忘れてしまって、たいへんな張切りぶりを見せた。もう二、三箇月、東京各地で稼いだら、その次には一座そろって上海(シャンハイ)へ渡ろうと、黒川団長は、そんな先のことまでを口にした。
 ちょうど、七日目の昼間興行のとき、房枝が、アパートを出て、楽屋入(がくやいり)をすると、黒川新団長が、にこにこ顔でそばへよってきた。
「おい、房枝。今日、お前のところへ、すばらしく大きな花環の贈物がとどいたよ。天幕の正面の柱に高くあげておいたよ」
「まあ、ほんとう? だれからかしら」
 房枝は、大花環と聞いて、目をみはった。
「さあ、その贈主のことだが『一婦人より』としてあるだけで、名前はない」
「一婦人より、ですって。だれなんでしょうね」
「まあ、その幕の間から、ちょっとのぞいてごらん。実にすばらしい花環だ」
 団長は、自分がその花環をもらったようによろこぶのであった。そこで房枝は、顔があかくなったが、団長にすすめられるままに、幕に手をかけてそっと覗(のぞ)いた。
「あーら、ほんとうね。まあ、きれいだこと」
 房枝は、思わずおどろきのこえをあげた。
「どうだ、りっぱなものだろうがな。わしはちかごろ、あんな見事な大花環を見たことがない。
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