爆薬の花籠
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著者名:海野十三 

われわれも、ほんとうの証拠があるのに耳をかさないというわけではないのです。あなたに自信があるなら、いってごらんなさい」
「では、いいましょう。なあに、かんたんなことなんです」
 と、青年紳士は窓のところへよった。なにをするかと、一同が目をみはっていると、窓の枠(わく)のところを指し、
「ここをごらんなさい。窓わくの、ここのところが、黒くいぶっています。これはピストルをうったとき、火薬の煙で、こんなにいぶったのです。この事実は、一等運転士をはじめ、どなたもみとめますねえ」
 そういわれて、一等運転士は、他の船員たちの方をふりかえった。誰か、青年紳士のことばに反対する人があるかと思ったからだ。しかし、誰も彼も、青年紳士のしっかりした言葉に息をのまれて、ただ、互いに顔を見あわせているばかりだ。
「このことは、皆さん、異議がないようですね。窓わくのここのところがいぶっていれば、どういうことが分かるか。結論を先にいいますと、ピストルをうった犯人は、背が非常に高いということです。ピストルをうつときには、このいぶったところが、ほぼ犯人の肩の高さになるのですから、ほら、ここが肩だとすると、私よりも十センチ以上も高いたいへん背の高い人物だということがわかる。いかがですな」
 と、かの青年紳士は、一同を見まわした。
「な、なるほど」と、叫んだ者もあった。
「この房枝嬢は、ごらんのとおり、日本人としても、背の高い方ではない。だから、房枝嬢がやったのではないことが分かりましょう。房枝さん、ここへ来て、ピストルをこのいぶったところへつけ、射撃のしせいをやってみてください」
 房枝は、いわれるまま、ピストルをも一度にぎって、そのとおり試みたが、ピストルは目よりもずっと高いところにある。
「どうです、皆さん。これでは、室内の人物を狙(ねら)いうつことはできません。弾は天井へあたるだけです」
「なるほど、これは明らかな証明だ。いや、よくわかりました。この女の方がやったのではないことだけは、はっきりしました」
 と、一等運転士は、わるびれもせず、自分の考えのあやまりだったことをわびて、房枝のうたがいをといた。
 房枝は、やっと、ほっとした。
「で、あなたは、一体どなたですか」
 と、一等運転士は、せきこんで、青年紳士に尋ねた。
「私? 私は、ピストルに狙われた本人ですよ。ミマツ曲馬団で曾呂利本馬(そろりほんま)と名のっていましたが、実はこういうものなんです」
 と、一等運転士に、そっと身分証明書を見せた。
 それには、探偵帆村荘六(ほむらそうろく)の身分が、はっきりしるされてあったので、一等運転士は、あっとばかりおどろいてしまった。

   帆村(ほむら)は誇(ほこ)らず

 名探偵帆村荘六は、曾呂利本馬の仮面をとりさって、ここに、すっきりした姿を、雷洋丸上にあらわしたのであった。
 一等運転士は、さっそく、このおどろくべきことを報告するために、船長室へもどった。船長はどこへいったかそこには見えなかったので、彼は船橋(せんきょう)の方へ船長をさがしにいった。
 水夫たちは、なにがなにやら、はっきりわからないが、この青年紳士の、あざやかな腕前にすっかり感心したのであった。そして、一等運転士から命じられたとおり、今はかえって、帆村荘六の身辺をまもって立つという変り方であった。
 房枝は、早くも、一切のことをさとってしまった。ことに、一等運転士が、身分証明書を見たとき、「ほ、帆村荘六!」と、叫んだのを聞いてしまったのだ。
(やっぱり、そうであったか。名探偵帆村荘六に、どこか似ていると思ったら、似ているはずだ、その本人なんだもの)
 房枝は、思わず、曾呂利本馬、ではない帆村荘六のそばにかけよったが、うれしいやら、ちょっときまりがわるいやらで、
「帆村さん。どうもすみません。あたしを、救ってくだすって」
 といっただけで、あとは口がきけなかった。
 が、とにかく、よかった。いつも人にいじめられてばかりいた曾呂利本馬! 病身(びょうしん)らしい青白い顔の曾呂利本馬! 脚をけがして、繃帯をまいている気の毒な曾呂利本馬! 房枝がいつもかわいそうで仕方のなかったその曾呂利が、ここで一変して、アラビヤ馬のような精悍(せいかん)な青年探偵帆村荘六になったのである。もうこうなったうえは、彼のため、房枝は胸をいためることはいらなくなったのである。房枝の身も心もかるくなった。
「おや、僕の本名をよびましたね。化けの皮がはがれては、もう仕方がありませんね。とにかく、いろいろと話がありますが、いつも房枝さんに、かばってもらったことについて、たんとお礼をいいますよ」
「あたしこそ、今日は救っていただいて、すみませんわ」
「なあに、あれくらいのことがなんですか。いつも房枝さんに、かばってもらった御恩(ごおん)がえしをするのは、これからだと思っています。僕は、いそがしいからだですから、間もなく房枝さんの傍(そば)をはなれるようになるかもしれませんが、僕の力が入用のときは、いつでも、何なりといってきてください」
 と、帆村荘六は、房枝の手に、一枚の名刺をにぎらせたのであった。
 房枝が、その名刺をみると、彼が丸ノ内に探偵事務所をもっていることが分かった。東京に不案内の彼女であったから、分からないことは、これから何でもかでも、帆村荘六にきくことにしよう。帆村から、すこしぐらい、うるさがられてもいいであろう。名探偵かは知らないが、今まで半年あまりも、彼とは同じ団員として、同じ釜(かま)の飯(めし)をたべているという形だったんだから。
(ああそうだ。そのうち折をみて、帆村さんに、あたしの両親の行方とその安否(あんぴ)をしらべてもらおうかしら。ああ、それがいい。あたしは、いい人とお友だちになったものだ!)
 房枝は、急に前途(ぜんと)に、明るい光明がかがやきだしたように思った。行方しれない両親のことについては、ぜひ帆村の力をかりにいきたいと、房枝はこのときに決心したのであったが、まさか、そのときには、そののち帆村探偵に、どんなにたいへんなやっかいをかけることになるかは、想像してもいなかった。なにしろ、そのときは、彼女が、これから上陸してからのち、どんな怪事件にまきこまれるかについて、すこしも知らなかったわけだから、知らないのもむりではない。
 そのとき、一等運転士の知らせで、船長がとぶようにやってきた。この船について、最高の責任のある船長は、航海中は、特に船橋のことを注意していた。そこは、この船の脳髄(のうずい)のようなところであるから、大切なのである。船長は、なにか変ったことの起るたびに、なるべく早く船橋に来て見ることにしていたのである。
「おう、帆村さん、といわれましたな。いろいろ気をつかわせてすみませんねえ。とにかく、改(あらた)めてお話をうかがいたいから、どうぞ船橋へ。こんどは、十分警戒は厳重にしますから、もうピストルでうたれるような心配はありません」
 船長は、あらたまった口調で、帆村探偵にあいさつしたのであった。
 帆村は、船長の申出を承諾した。
「はい、どこへでもまいります。さっきも御注意しましたとおり、早く手配をしないと、もう間に合いませんぞ」
 おちつきのある中にも、帆村探偵は、雷洋丸に危機の近づいていることを、言葉を強めて重ねて船長に注意するのであった。

   一輪(いちりん)ざし

 房枝の目が、自分のあとをじっと追っているのを、知っていた帆村だったが、今は、房枝と語っているときではなかったので、彼は、船長の案内にしたがって、船橋へのぼっていった。
 夜の航海ほど、気味のわるいものはない。くらやみの海面から、いつ、どのような無灯の船がぬっと現れ、行手(ゆくて)を横断しないとはかぎらないのであった。宿直員は全身の神経をひきしめて、たえず行手を警戒しているのだった。
「船長」と、当直の二等運転士が、よんだ。
「おい、なんだ」
「今、無電室から、報告がありました。今夜はどういうものか、ひっきりなしに、本船へ無電がかかってくるそうです。非番のものまでたたき起して、送受信にとてもいそがしいと、並河技師からいって来ました」
「うーん、そうか。横浜入港が明日だから、それで無電連絡がいそがしいのだろう」
「いえ、いつものいそがしさではないのです。ひっきりなしに、本船を呼びだし、あまり重要でもなさそうな長文の無線電信をうってくるのだそうです。たしかにへんです」
「そうか。でも、無電で呼びだされりゃそれを、受信しないわけにもいかないじゃないか。万国郵便条約に反するようなことは、できないからな」
 と、船長はいって、そばに待っている帆村探偵をふりかえり、椅子をすすめたのであった。
 帆村は、さっきから、当直の報告に、じっと耳をかたむけていたが、このとき、大きくうなずくと、
「船長。そういう意味のない長文の無電は、切った方がよろしいですよ」
「おやおや、あなたも、そういう意見ですか。しかし万国郵便条約」
「お待ちなさい。本船はみえざる敵に狙われているのですよ。へんな長文の無電をうってくるのは、そのみえざる敵が、今夜のうちに、本船をどうかしようと思って、本船に働きかけている証拠なのだと思います。条約違反の罰金をはらってもいい、はやく無電連絡を切るのがいいです」
「ほう、なかなか過激な説ですなあ」
 と船長は、苦笑をした。しかし帆村のすすめたように、無電連絡を切れとは命じなかった。船長は、まさか後にのべるような大惨事が起ろうとは思っていなかったので、このときは、万国郵便条約を尊重することばかり忠実であって、帆村のことばには、耳をかたむけなかったのである。
「さあ、話を本筋にもどしましょう。帆村さん、あなたが身分をかくして本船にのりこまれたのは、どういうわけですか。なにもかもいっていただきましょう。われわれも、それにたいして十分の援助をいたします」
 と、船長は、切り出した。
「ああ、船長さん。私のことなんか、二の次にしてください。わたくしとしては、べつに、あなたがたから救(すくい)をもとめるつもりはありません」
 帆村は、きっぱりいった。
「でも、あなたはピストルでうたれようとした。あなたを狙っている者が、船中にいるのではありませんか。どうかえんりょをなさらぬように」
「えんりょではありません。わたし自身のことよりも、私は本船の運命を心配しているのです。さっきもいいましたが、はやく附近航行の他の汽船に応援を求められたがいいですぞ。そして直ちに、船内大捜査をはじめるのです。しかし間に合うかどうかわかりません。船長さん、本船は明日、ぶじ横浜入港ができるかどうか、私は疑問に思うのです」
「そ、そんなばかなことがあってたまるものですか」
 と、船長は、他の船員の手前もあって、帆村の予言をつよくうち消した。
「しかし、帆村さん。そのほか、本船についてあやしい節(ふし)があったらぜひおしえてください」
 帆村は、船長の顔を、しばらく、じっと見ていたが、やがて決心の色をあらわし、
「そうおっしゃるなら、申しましょう。まずことわっておきますが、私は、本船にこんな事件が起きようとは、ぜんぜん知らなかったのです。もしはじめから知っていれば、私はこんな危険な船に乗りこみはしなかったのです」
 と、帆村は彼が海外で重大任務をはたして今かえり道にあることをほのめかし、
「船長。この船には、ねらわれている者と、ねらっている者とが乗りこんでいるにちがいありませんよ」
「えっ、なんと」
「船長を、おどかすつもりはありませんが、たしかにそうです。しかも、どっちがねらわれているのか、ねらっているのか分かりませんが、とにかくそのどっちかがおそろしいこと世界一といってもいい者だと思います」
「そんなことが、どうして分かります」
「あの爆発事件のとき、どんな爆薬が使われたかを、私は調べてみましたが、それはどうやらメキシコで発明された極秘(ごくひ)のBB火薬らしいのです。この火薬の秘密が、何者かの手によって外へ洩れて大問題になっているのです」
「ほう、BB火薬? どうしてそれと分かったのですか」
「いや、そういうことを調べるのは、私の仕事なんですからねえ」と帆村はいって、
「ミマツ曲馬団のトラ十の行方が知れるか、それとも松ヶ谷団長が正気にかえるかすれば、かなり事件の内容は明らかになり、誰が、そのおそるべき怪物であるかはっきりしましょう。また船員赤石も、何か参考になることを知っているでしょう」
「すると、このおそるべき怪物というのは、この船に今もちゃんとのっているわけですね」
「たぶん、そうでしょうね」
「え、たぶんですか。それはいったいどんな人間でしょう。外国人ですかねえ」
「さあ、外国人だろうと思うが日本人だか分かりませんが、とにかくここに一つ、はっきり名前を申し上げていい容疑者がある!」
「それが分かっているのですか。早くおしえてください」
「お待ちなさい」
 帆村は、とつぜん席を立って、船橋の入口の扉を、注意ぶかく明けて外を見た。誰か外から、こっちをうかがっている者はいないかと思ったのであるが、外には、張番(はりばん)の水夫が二人、とつぜん現れた帆村の方を、びっくりしてふりかえったばかりだった。
 では、大丈夫?
 帆村は、元の席に戻って、口を開こうとしたが、ふと壁の方に目をうつすと、
「おや! あんなところに、一輪ざしの花が」
 と、一声さけんで、バネ仕掛(じかけ)の人形のようにとびあがった。平生おちつきはらっている帆村としては、めずらしい狼狽(ろうばい)ぶりだ!

   予言的中(よげんてきちゅう)

 一輪ざしには、まっ赤なカーネーションと、それに添えてアスパラガスの青いこまかな葉がさしこんであった。それは、精密な器械類のならぶこの船橋内の息づまるような気分を、たぶんにやわらげているのだった。
 帆村は、このやさしい一輪挿(いちりんざし)の花に、目をつけたのだった。
 船長をはじめ、一同も、帆村が顔色をかえて立ち上ったので、それにつられて、腰をうかしたが、
「し、静かに!」
 と、帆村は、一同を手で制した。そのとき、帆村の手には、どこにかくし持っていたのか、一挺(ちょう)の丈夫な柄(え)のついたナイフがにぎられていた。
 帆村は、しのび足で、花活(はないけ)のところに近づくと、目を皿のようにして、花活のまわりをしらべていたが、やがて、大きくうなずくと、ナイフをもちなおし、ぷつりと、花活のうしろに刃をあてて引いた。
「これでいい」
 帆村探偵は、花活のうしろから、切断された二本の針金をつまみだした。
「船長。ゆだんがならぬといったのは、このことです。もうちょっとで私たちの話を、すっかり盗みぎきされるところでした」
「ええっ。それは、盗み聞きの仕掛だというのですか」
「そうです。ここへ来て、よくごらんなさい。花活の中には、マイクが入っています。ほら、このとおりです」
 と、帆村が、花をぬいて、花活を逆さにすると、中からマイクがころがりだした。マイクについていた二本の電線は、きれいに切られていた。それは、帆村のナイフで切られたあとだった。
「ふーん、怪(け)しからん。いったい、だれが、こんなぬすみ聞きの仕掛を、ここへ取りつけたか。さっそくきびしく、とり調べなくちゃ」
 船長は、顔色をかえた。帆村は、これをなだめて、
「船長。そんなことを、今さら調べていては、もうおそいのです。きっき私の申した手配を、すぐされるように」
「うむ、手配はやりましょう。が、おそるべき人物というのはだれですか。早くそれをいってください。すぐ取りおさえますから」
 船長は、せきこんだ。帆村は、
「はたして、それが怪人物であるかどうか、まだ私には、はっきりしませんが、とにかくこの船の特別一等の船客で、ニーナ嬢という美しい婦人は、十分に怪しい節(ふし)があります」
「ニーナ嬢? ああ、ニーナ嬢ですか。こいつは意外だ。あれは、メキシコの実業界の巨頭の令嬢です。そしてニーナ嬢自身は、慈善団体の会長という身分になっている」
「慈善団体であろうが、なんであろうが、とにかく、嬢については怪しむべき節が、いろいろある。さっき、私をピストルでうったのは、ニーナ嬢なんですからねえ」
「え、ニーナ嬢が、あなたや、私たちをうったのですか。これはまた、意外中の意外だ」
「ニーナ嬢は、ある事からして、私を生かしておけないと思ったのでしょう。もうあれ以上、私は曾呂利本馬の姿をしていることは危険なので、こうして、服装を改めたのです」
 帆村の話は、すじが立っていた。船長もようやく帆村の言葉に、すがりつく気持ちができた。
「よろしい。直ちにニーナ嬢に監視員をつけましょう」
 船長の言葉は、どうも生ぬるい感じがあった。でも、船長としては、それが大決心であったのだ。彼は誰を呼び出すつもりか、自ら電話機の方へよって手をのばした。とその時、とつぜん船長も帆村も、そこに居合わせた一同、はげしい振動におそわれた。今まで、静かな航海をつづけていた雷洋丸に、帆村の心配していた大事件が突発したのだ。
 警笛が、ぶーッと鳴りだした。
 宿直の二等運転士のところへ電話がかかって来た。彼は、おどろいて、電話機をにぎったまま椅子から立ち上った。
「えッ、第一船艙(せんそう)が爆破した? ほんとか、それは。大穴があいて海水が浸入! 防水扉(ドア)がしまらないって? 機関部へ水が流れ込んでいる。エンジンはどうした。機関部も故障だというのか。船長? 船長は、ここにいられるが」
 雷洋丸の第一船艙におこった爆発事件! そして、運わるく防水扉(ドア)はしまらないで、浸入した海水は、洪水のように機関部へ流れこんでいくという。
 船長が、電話をかわった。
「おい、どうした。そこは機関部か。なに、機関長だと、それで、どうした。極力手をつくしているが、非常に危険だというのか。よろしい、分かった。すぐ避難命令を出す。そっちは一つ死力をつくして、がんばってくれ!」
 電話機を下においた船長の顔は、まったく、一変していた。眉の間には、つよい決意の色があらわれていた。
「総員、甲板へ。それから、無電で、救難信号を出すんだ。早く」
 船長は、てきぱきと、次から次へ命令を出した。
 しばらくして、船長は、帆村探偵のことを思い出して、彼の名を呼んだ。
 しかし帆村探偵の姿は、もうそこにはなかった。彼は風のように、いつともしれずこの部屋を出ていったのであった。
 雷洋丸の船腹の損傷は、意外に大きく船は見る見る左へ傾いた。機関部もやられてしまって、船内の電灯は一時消えた。甲板には、救命艇の位置へいそぐ船客たちが、互いにぶつかり転り踏みつけあい、くらがりの中に、がやがや立ちさわいでいるばかりだ。
 沈没までに、あと二十分とは、もたない。
 房枝は、どこにいる。ニーナ嬢は、なにをしている。帆村探偵は、どこへいったのであるか?
 このさわぎの中に、くらがりのマストのうえで、獣(けもの)のように、からからと声をたてて笑いつづける者があった。誰も、さわぎの最中のこととて、この怪人物に気づく者はなかったが、この人物は、意外も意外、それは死んだとばかり思っていたトラ十であったではないか。

   沈没(ちんぼつ)迫(せま)る

 ああ。なんという不運な雷洋丸よ!
 もうあと一日たてば、母国の横浜港にはいれるところまで、もどってきたのだ。ところが、とつぜん、この大遭難である。これを不運といわないで、どうしようぞ。
 なぜ、第一船艙が、とつぜん爆発したのであろうか?
 そんなことを、いま、しらべているひまはない。なぜといって、いま雷洋丸はぐんぐんと左舷(さげん)へかたむいていく。
 船客たちは、てんでに、なにかしら、わめきつづけている。なにしろ、船内の電灯は、はやく消えて、たよりになる光は、船員の手にしている手提(てさげ)ランプと、わずかに電池灯ばかりである。
 それだけでは、足もとまで、とても光がとどかない。しかも、足もとに踏まえている甲板は、ひどく左舷へかたむき、船首の方は、もはや海水に、ぴしゃぴしゃ洗われている。だから、気味のわるいことといったらない。
 船員は、声をからして、しきりに、救命ボートへ、船客をのせているが、これは老人や女子供が先であった。なにしろ、船がいきなり左へかたむいてしまったので、右舷の救命ボートは、下へおろせなくなった。だから、右舷のお客さまたちは、のるにもボートがなく、しかたなしに左舷のボートのあるところへあつまってきた。そこで、さわぎは、ますます大きくなり、船員が声をからしてせいりをするが、なかなかうまくいかない。
「まだ、大丈夫ですから、さわいじゃいけません。老人と子供とを先に」
「おい君、老人をつきのけて、ボートへはいりこむなんて、ずるいぞ」
「もしもし、あなたは、あとです。若い人だから」
「わたくしは、特別一等の船客であります。ボートへのりこむけんりが、あるのです」
 そういって、いやにいばった外国人があった。それは、師父(しふ)ターネフであった。ターネフのうしろでは、例のうつくしい姪(めい)のニーナ嬢が、そわそわしながら、しきりにあたりに気をくばっている様子。
「なんといっても、だめ、だめ。老人の方と子供衆(こどもしゅう)が、先ですぞ」
 と、船員は正しいことを、いいはる。
「わたくし、姪のニーナをつれています。ニーナは、かよわい女です。そして、彼女は、国際的に高い地位を持った淑女(しゅくじょ)です。ニーナを、はやくボートにのせるのが、礼儀です。日本の船員、礼儀を知りませんか」
 師父ターネフは、やっきとなって、ボートの中へ、わりこもうとつとめている。
「ニーナ嬢は、子供さんでもないし、お婆(ばあ)さんでもないでしょう」
「気高い淑女です」
「男であろうが、女であろうが、若い人は、あとにしてもらいます。もう、これ以上、問答無用です。あなたは、うしろへさがってください」
 と、船員は、師父ターネフに対し、このあわただしい際にも、一通り話のすじみちをたててターネフの横車をおしもどしたのであった。
「日本の船員、礼儀を知りません。あなたがた、いまに、思い知ること、ありましょう」
 と、師父ターネフは、捨台辞(すてぜりふ)をのこして、うしろへ下った。
「師父、ボートは、だめなの」
「うん、だめだ。われわれは、別の道をひらくしかない」
「困ったわねえ。とにかく、このままでは、汽船とともに沈んでしまうわよ。なんとかして、船をはなれなければ。あの連中は、来てくれるはずだというのに、なにをしているのでしょうね」
「たしか、もうそのへんに、来ているはずなんだがねえ。仕方がない。マストのうえへよじのぼって、懐中電灯で信号をしてみよう。ニーナ、おいで」
 師父とその美しい姪とは、傾斜した甲板を走りだした。

   仮面(かめん)の師父(しふ)

 師父ターネフは、水夫長のような身軽さをもって、マストの縄梯子(なわばしご)をよじのぼっていった。
 ニーナは、その下に立って、警戒の役目をつとめているようすだ。
 師父は、縄梯子をどんどんのぼっていった。そのころ、船艙から出た火は、もう甲板のうえまで、燃えうつって、赤い炎があたりをあかあかと照らしだした。
 師父は、縄梯子を途中までのぼると、懐中電灯をとりだして、ぽっと明りをつけた。そして信号をしようと、手にもちなおしたとき、彼は、
「あッ!」
 と、叫んだ。それは、懐中電灯をもった彼の手を、上の方から何者かが、ぐっとつかんだからである。
「あッ、何者だ。なにをする。手をはなせ」
 と、師父は、英語で叫んだ。そのとき師父は、マストのうえから、下をむいて笑っている怪しい東洋人の顔を眺めて見た。それはトラ十だった。
「あははは。ターネフ極東首領(きょくとうしゅりょう)こんなところで、怪しげなる信号をしては困りますねえ」
 と、トラ十は、流暢(りゅうちょう)な英語で、やりかえして、歯をむきだしてげらげらと笑った。
 ターネフ首領!
 師父は、ぎょっとしたようすだ。
「なにをいう。首領だなどと、でたらめをいうな。わしは神に仕える身だ」
「神につかえる身だって。へへん、笑わせやがる。神につかえる身でいながら、さっきはなんだって、おれを爆死させようとしたのかい」
「なにをいいますか。あなたは気が変になっている」
「気が変なのはお前たちの方だ。知っているぞ。花籠(はなかご)の中に、おそろしい爆薬をしかけて、おれの前へおいたじゃないか。あの停電のときだよ。ぷーんと、いい匂いのするやつがおれの前へ持って来やがったから、多分それは若い女にちがいない。どうだ。これでも知らないと白(しら)ばっくれるか」
「おどろいたでたらめをいう人だ」
「とにかくお気の毒さまだ。こっちはそれとかんづいたから、おれが死んだと見せるために、かねて用意の血のはいった袋の口をあけて、おれの席のまわりを血だらけにしてやった。それからおれはすぐ花籠をつかんで甲板に出て、それを海の中へ捨てたとたんに、どかンと爆発よ。おれは無事だったが、かわいそうにおれのあとを追ってきた松ヶ谷団長と船員がひとり、ひどい傷をうけたよ。お前たちはおどろいて、暗闇(くらやみ)の中で松ヶ谷団長を更になぐりつけ、死にそうになったやつを石炭庫へかくした」
 師父ターネフは、ほんとうにおどろいたか、もう口がきけなかった。
「あははは、ターネフ首領。この汽船は、もうあと四、五分で沈みますよ。取引は、早い方がいい。信号をさせてもいいが、あなたがポケットに持っている重要書類を、そっくりこっちへ渡してもらいましょう」
「なに、重要書類。そ、そんなものを持っておらん」
「おい、ターネフ首領。お前さんは、ものわかりのわるい人だねえ」
 と、トラ十は、はきだすようにいって、
「あの重要書類のことを、おれが、知らないと思うのかね。お前さんは、なにをするために、師父などに化けて、日本へのりこむのかね。そのわけを、ちゃんと書いてある重要書類袋を、こっちへ早く渡しなせえ。青い封筒に入って、世界骸骨化本部(がいこつかほんぶ)の大司令のシールがぽんとおしてあるやつさ」
「……?」
 師父は、おどろいたのか、だまっている。
「おい、ターネフ首領。どうするつもりだい。汽船は、どんどん沈んでいくぜ。もうすこしすれば、第二の爆発が起って、この汽船は、まっ二つに割れて、真暗(まっくら)な海にのまれてしまうのさ。信号をしたくはないのかね。『計画ハ、クイチガッタ、我等ハココニアリ、至急スクイ出シ、タノム』と、信号したくはないのかね。ほら、下をごらん、甲板をもう波が、あんなに白く、洗っているよ」
 トラ十の、毒々しいことばがきいたのか、師父は、このとき、急にすなおな口調(くちょう)になって、
「しかたがない。われわれの命にかえられないから、青い封筒入の重要書類を君に渡そう。だから、この手をはなしてくれ」
「おっと、おっと。その手には乗るものか。もう一方の手で、青い封筒を出せよ」
「そんなことをすれば、縄梯子から、おちる」
「大丈夫だ。お前さんの右手は、こうしておれがしっかり持っているから、大丈夫さ」
 師父は、今はもうやむを得ないと思ったものか、左手をつかって、上着のポケットの中から、青い封筒をとりだした。トラ十は、上からそれをひったくった。
「これでよし。さあ、手をはなしてやる」
「いったい、君は何者だ。名前をきかせてくれ」
「おれのことなら、これまで君がやって来た、かずかずの残虐行為(ざんぎゃくこうい)について、静かに胸に手をあてて思出したら、分るよ。それで分らなきゃ、世界骸骨化本部へ、問いあわせたがいいだろう。お前たちの仕事のじゃまをするこんな面(つら)がまえの東洋人といえば、多分わかるだろうよ」
 そういったかと思うと、トラ十のからだは、猿のように縄梯子の裏にとびついて、するすると下におりていってしまった。

   怪人物(かいじんぶつ)

 沈みかかった雷洋丸のマストの上におけるこの怪しい会見のことは、二人以外だれも知る者がなかった。
 雷洋丸は、それからのち、トラ十の予言したとおり、第二の爆発がおこり、正しくいって、七分の後に、暗い海の下にのまれてしまった。
 救難信号をうったが、あまりにも早い沈没のため、あいにくどの船も、間にあわなかった。かくて、船客や船員の約半数は、海の中にほうりだされた。
 帆村探偵はどうしたであろうか。房枝はどこにいるか。
 また、師父ターネフやニーナ嬢は、いったいどうしたであろうか。
 師父ターネフといえば、この人は、トラ十のため、ついに仮面を叩きおとされたようである。トラ十は、師父のことを、ターネフ極東首領とよんだ。
 ターネフ極東首領!
 ターネフ首領とは、ほんとうに、そういう位にある人物であろうか。そしてそれはどんなことをする役目の人物であろうか。
 ターネフが何国人であるか、それは分っていない。分っているのは今から二十年ほど前に、ターネフの名が、秘密結社「世界骸骨化クラブ」の会員として記録されたことである。
 世界骸骨化クラブとは、いったい何であろうか。
 これはおそろしい陰謀を抱く者の集りだ。この光明にみちたわれら世界人類の生活を、ことごとく破壊し去って、みじめな苦しい地獄の世界へ追いやり、人類に希望を失わせ、そして人類の最後の一人を骸骨にするまでは、この破壊行動をやめないという実におそろしい悪魔どもの集りなんだ。
 なぜ、彼らは、そんなおそろしい陰謀を抱くようになったのだろう。これは結局、気が変な者どもの作った宗教だ。その宗教においては、神のかわりに、悪魔に祈るのだ。世の中から光明をうばい去り、暗黒と混乱と苦悩とを人類生活の上へよぶのだ。そして、一人でも多くの人類が苦しみ、なげき悲しみ、そして死んで行けば、それが彼らのいただく悪魔神(あくましん)を、よろこばせることになるのだと思っている。
 とても、ふつうの心では考えられない。なにしろ気が変な者どもの集りだから、こんなとんでもない陰謀をつくりあげるのだ。
 彼らは、不正なことで、巨額の富を集めた。今また集めている最中である。そしてこんど極東方面の平和を破壊するその手始めとして、日本における生産設備を大破壊することが、最高会議で決められた。そして本部の大司令は、ターネフを極東首領に任命し、こんど日本へ特派することになったのだ。
 極東首領ターネフ。彼はこの二十年間に、骸骨化クラブの会員として、主脳部たちからたいへん信任を得たが、彼がこれまで活動していたのはメキシコ国内であって、もう十四年になる。こんどの指令によって、彼はここにメキシコ生活をうち切り、姪だと称するニーナ嬢をつれて、日本へ渡ることになったのだ。
 ここまでいえば、誰にも分るだろうが、彼ターネフ首領こそ、派遣される国では、まことにゆだんのならない人物なのである。同伴のニーナ嬢についても、また語るべき別の話があるが、とにかく美しき彼女も、ただ者ではない。それは、ことさらここにことわるまでもあるまい。
 あぶない、あぶない。このようなおそるべき人物が、虫一つ殺さぬ顔をして、ぞくぞくと日本へのりこんでくるのであった。彼らはこれから一体、なにを始めようとするのであろうか。まことに気味のわるい話である。
 雷洋丸の遭難によって、船内におこったかずかずの怪事件は、疑問をのこして、一時あずかりとなった。
 房枝は、幸いにボートにのりこむことができた。そして救助にのりつけた汽船のうえにうつされ、ぶじ横浜に上陸することができた。
 ターネフとニーナは、いつの間にか、自国の汽船にすくいあげられ、これもぶじに、横浜上陸となった。
 帆村探偵は、どうしたであろうか。彼は、最後まで、船にふみとどまっていたため、雷洋丸が、艫(とも)を真上にして沈没したのちは、海中へなげだされ、暗い海を、板切(いたきれ)にすがって漂流をはじめた。

   漂流(ひょうりゅう)

 帆村は、しっかと、板切につかまって、波のまにまに、どこまでも、漂流していった。
 海上はたいへん、なぎわたって、波浪(はろう)も高からず、わりあいしのぎよかったのは、帆村にまだ運のあったせいであろう。
 彼は、命よりも大事な例の箱を、しっかり背中に、ななめに背おっていた。
 海は、いつまでも暗かった。まるで、時刻が、この海ばかりを、忘れ去ったかのように思われた。
 帆村は、だんだん疲(つかれ)を感じてきた。そしてついには、うとうとと眠気(ねむけ)をもよおしてきた。
(これは、たいへん、うっかり眠ろうものなら、お陀仏(だぶつ)になってしまうぞ!)
 と思ったので、彼は、船にいるとき、とくべつに、服のうえから腹にまきつけてきた帯をとき、命とすがる板切のわれ目に帯をとおして、しっかりと結び、他の端を、われとわが左手首にしばりつけ、ざぶりと波に洗われることがあっても、からだと板切とは、決して放れないように、用意をしたのであった。
 この用意があったおかげで、彼は、いくたびか、眠りこけて、ざぶりと海中に、からだをしずませることはあったが、そのたびに、はッと気がつき、帯をたよりに、命の板切のうえにとりつくことができた。
 長い夜が、ようやく暁(あかつき)の微光(びこう)に白みそめた。風が出はじめて、海上に霧はうごき、波はようやく高い。今夜あたり、一あれ来そうな模様である。帆村探偵には、あらたな心配のたねができた。
 夜が明けてみると、昨夜中、命をあずけてとりついていた板切というのが、船具(ふなぐ)の上にかぶせておく屋根だったことがわかった。
 帆村は、時間とともに、だんだんとおくまでのびていく視界のひろがりに元気づきながら、どこかに行きすがりの船影(せんえい)でもないかと、やすみなく首を左右前後にまわした。
 すると、目についたものがある。一艘(そう)の小さい和船(わせん)であった。誰か、そのうえに乗っているのが、わかってきたので、帆村は、ただよう板切、船具おおいのうえによじのぼり、手を口のところへ、メガホンのようにあてがって、おーいおーいとよんだ。
 そのこえが、相手に、きこえたのであろう。やがて、朝霧の中から、ぽんぽんという発動機の音がして、その和船が帆村の方へやってきた。
「おーい、こっちだ。その船に、のせてくださーい」
 和船は、いったん帆村の方に、一直線に近づくと見えたが、そばまで来ると、急に、針路をかえた。
「おーい、たのむ。のせてくださーい」
 和船は、逃げるわけでもなく、用心ぶかく、帆村のまわりをぐるぐるまわりだした。
 帆村は、しきりに手をあげて、和船をのがすまいと、呼んでいるうちに、彼は船のうえにのっている人物をみて、「おや、あれは、トラ十のようだが」と首をひねった。
 しばらくすると、それは帆村の思ったとおり、トラ十にちがいないことがわかった。トラ十は、ついに船を帆村のところへ持ってきたのである。
「なアんだ、お前は曾呂利本馬(そろりほんま)じゃねえか」
 と、トラ十は、けげんな顔で、船のうえから、帆村を見下ろした。
「そうだ、曾呂利だ。こんなところで、仲間にあおうとは思いがけなかった。おねがいだ。その船にのせてくれよ」
 と、帆村は、たのみこんだ。トラ十は、まだ幸(さいわ)いにも、帆村の身分を知らず、ミマツ曲馬団の曾呂利青年と思っているらしい。
「ふん、助けてくれか。そうだな、お前なら、助けないわけにもいくまい。しかし、ことわっとくが、この船じゃ、おれは船長なんだぞ。万事おれさまの命令に従うなら、むかし仲間だったよしみに、ちっとばかりのせてやらあ」
 トラ十は、もったいぶっていった。

   怪(あや)しい紙切(かみきれ)

「やあ、ありがとう。トラ十兄い、恩にきるぜ」と、帆村がいえば、
「ふん、お前までが、トラ十トラ十といいやがる。これからは丁野船長(ていのせんちょう)とよべ。そういわなきゃ、おれはお前に、船から下りてもらうぜ」
「いや、わるかった。船長、どうか一つたのむ。たすけてくれ」
「ふん、じゃあ、のれ」
 トラ十に、いばりかえられながら、帆村探偵は、やっと和船のうえの人となった。
「曾呂利よ。お前は、よっぽど運がいい若者だ」
 と、トラ十はエンジンのところにすわりこんで、ひやかすようにいった。
「トラ十、いや丁野船長。お前、よくまあ、こんなりっぱな船を手に入れたもんだなあ。いったいどこで、手に入れたんだい」
 帆村探偵は、服のしずくをおとしながら、そういうと、
「な、なんだって」
 と、トラ十は、急にこわい目つきになり、
「そ、そんなことは、お前らの知ったことか。よけいな口をきくな」
 と、帆村を叱(しか)りつけた。
 それからしばらく、二人はだまりこんでしまった。
 帆村が、じっとみていると、トラ十は、霧の中の海を、また北にむけて舵(かじ)をとっているのであった。それは、朝日の位置からして、方角がちゃんとわかった。
 そのトラ十は、ときどき、霧の中をとおして、日の光を仰ぎつつ、胃袋のあたりを、ジャケツのうえからおさえるのであった。なにか彼は気にしていることがあるらしい。
「おい、曾呂利よ」
「へーい」
「へーい」というへんじが、トラ十の気に入った。
「お前、艫(とも)の方をむいて船がとおらないかみていてくれ。おれが、よしというまで、こっちを向いちゃならねえぞ。いいか」
「へーい。しょうちしました」
 帆村探偵は、いいつけられたとおり、艫の方を向いた。
 トラ十は、それをみるより、にわかにそわそわしだした。彼は、細長い腕を、ジャケツの中にさしこんだ。やがて手にとりだしたのは、くしゃくしゃになった青い封筒であった。
 それは、師父(しふ)ターネフからうばった、重要書類入(いり)の袋であった。
 トラ十は、帆村の方を注意ぶかく睨(にら)んだ。
「やい、やい、やい。いいつけたとおり、艫の方へまっ直(すぐ)に向いていねえか。こっちを向いたら面(つら)を叩(たた)きわるぞ」
「へーい」
 なにをいわれても、帆村は、へーいであった。トラ十はそこでやっと安心のていで、片手をつかって青い封筒をやぶった。中には、数枚の紙切がはいっていた。トラ十は、しきりにその中をのぞきこんでいたが、
(おやッ!)という表情。
 取出した紙切を、一枚一枚あらためてみたが、それは、ことごとく白紙(はくし)であった。なんにも書いてなかった。白紙の重要書類というのがあるであろうか。
「ちえ、うまうま、きゃつのため、一ぱいくわされたか!」
 トラ十は、くやしさのあまり、つい、ことばに出していった。
「どうしました、船長さん」
 帆村は、うしろをふりかえった。
 トラ十は、封筒と白紙とを重ねて、べりべりッと破った。そして、海中へなげこもうとしたが、急に気がかわって、破ったやつを、ふたたびジャケツの下におしこんだ。そのトラ十は、帆村に、なぜこっちを向いたのかと、叱りつけはしなかった。
「うーん、あの野郎……」
 トラ十は、よほどくやしいとみえ、ひとりで獣(けもの)のようにうなっている。
 帆村は、実は、さっきから、トラ十のすることを、すっかり見てしまったのだった。うしろを向かない帆村に、なぜそんな器用なことができたであろうか。それはなんでもない。彼は小さな凸面鏡(とつめんきょう)を手の中にもっていて、その鏡にうしろのトラ十のすることをうつし、すっかりみてしまったのである。
「おい、曾呂利。そこに、お前のもっているその箱には、何がはいっているのか。おい、こっちへ、それをもって来い」
 とつぜん、トラ十が、帆村の大事にしている箱に目をつけ、つよい語気でどなった。ああ、この箱! これをトラ十に渡しては一大事である。帆村は、俄(にわ)かに、一大窮地(きゅうち)へほうりこまれた!

   貴重(きちょう)なX塗料(とりょう)

 このときほど、困ったことはない、と、帆村探偵はのちのちまでも、その当時のことを語りぐさにしている。
 トラ十の目をつけた四角い箱には、帆村が、はるばる海外まで使をし、ようやく手に入れてきた貴重な物品が入っていた。それは一たい何であったろうか。
 それは、外でもない。X塗料であった。
 メキシコで発明された極秘(ごくひ)の新火薬BB火薬のことは前にのべた。BB火薬はすこぶる爆破力が大きい新火薬で、しかもこの火薬は、ほんの少量で、ものすごいきき目がある。かの雷洋丸が爆沈したのも、実をいえば、わずか丸薬(がんやく)ほどの大きさのBB火薬が、第一船艙のある貨物の中に仕かけられていて、それが爆破したためであった。X塗料というのは、その恐るべきBB火薬の爆破力を食いとめる力のあるふしぎな新材料であった。
 BB火薬とX塗料!
 これはともに、メキシコにおいて発明されたのである。BB火薬の発明後、三年かかって、この塗料が発明された。
 このX塗料が発表されたのは、わりあい最近のことであるが、メキシコでも、このX塗料が完成するまでは、BB火薬の多量生産と、その使用とを絶対に禁じていた。
 それは、なぜかというのに、ものすごいBB火薬だけあって、X塗料がなければ、あまりに危険であって、国内で取扱うことができないからだった。ことばをかえていうと、X塗料のような安全な材料で包むのでなければ、BB火薬の製造工場や貯蔵場が万一爆破したら、いかなる大惨事(だいさんじ)がおこるか考えただけでも、ぞっとする。それほどBB火薬の爆破力は、はげしいのであった。
 X塗料は、政府の命令によって、すぐさま研究が開始された。よりすぐった優秀な化学者二百名が、三年間地下にある秘密の研究所で困難な研究をつづけて、やっと完成したものである。
 X塗料の発明が完成したとき、メキシコの主だった人々はほっと安心の溜息(ためいき)をついた。それはBB火薬が現れた時よりも、さらに一そうよろこばれた。彼等は、自国で発明されたBB火薬のため、彼等自身が爆死(ばくし)するのは、たまらないと思ったからだ。
 X塗料の発明されたことは、報告されたが、その塗料がどんなものであるかということについては、火薬以上にその秘密が厳重にたもたれた。
 わが名探偵帆村荘六は、この極秘の塗料をはるばるメキシコまで受取りに行ったのである。
 それはメキシコ政府の好意によって、時局がら日本へ譲(ゆず)ってもいいという申入れがあったので、政府では大喜びで、これを受けることになった。しかしメキシコ政府としては、このX塗料のことは秘密の中の秘密で、この前のBB火薬のように、悪者のためにかぎつけられて盗まれてはたいへんであるから、こんどのX塗料の見本の受取りは、非常に注意深くやってもらいたいと要求した。そこで日本側でも特に気をつけて、この件を検察庁長官(けんさつちょうちょうかん)の手にうつした。そして長官は更に注意深くこのことを取扱って、一般には目立たないように私立探偵帆村荘六をえらんで、これに重大使命をせおわせたのであった。
 帆村探偵は、この重大任務に感激し、命を的に、苦労を重ねて、ついにこれを手に入れ、ここまで持って帰ったのである。彼は、その塗料をながい間、自分の足にまきつけその上を繃帯し、あたかも、足に大怪我をしているように見せかけていたのであった。いよいよ横浜入港も近くなったので、彼は、繃帯を外し、貴重なるX塗料を箱の中に入れかえた。そして雷洋丸の爆沈事件のときも、彼は命にかえて、この箱を後生大事(ごしょうだいじ)に守って、ここまで無事に持ってきたのである。
 このように貴重な、そして極秘のX塗料の入った箱を、とうとうトラ十が、目をつけてしまったのである。
 陸ならば、まだ逃げる余地があろう。またこれが雷洋丸の上であれば、なんとか身をかわすこともできようが、ここは、ひろびろとした洋上をただようせまい和船の中である。助けを[#「助けを」は底本では「助を」]呼ぼうにも、附近には誰もいない。海へとびこめば、こんどこそ、帆村の命は、まず無いものと思わなければならない。
 このままでは、トラ十は、箱をひったくって、中をあらためるであろう。しかしトラ十には、これが、そんなに貴重なものとはわからないから、中身をあらためると、なんだ、こんなきたならしいものと、海中へ捨ててしまうかもしれない。そんなことがあればたいへんだ。帆村探偵のこれまでの苦心も水の泡(あわ)だ。
 ああ帆村探偵は、いかにして、このX塗料を守るであろうか。

   洋上(ようじょう)の死闘(しとう)

「早くその箱をこっちへ出せ。なにをぐずぐずしとる!」
 トラ十は、こわい顔をしてどなった。
 帆村探偵は、進退極(しんたいきわ)まった。
「なぜ、出さん。命の恩人たるおれの命令に、そむく気だな。よーし、お前がそういうつもりなら、早いところ、片をつけてやる。かくごしろ」
 言下(げんか)に、トラ十の手に、きらりと光ったものがある。
「あ、ピストル!」
「そうだ。お前の命はおれが助けた。この船に、助けてやったからなあ。ところで、お前は、おれのいうことを聞かない。そういう恩知らずのお前なんぞを、これ以上、だれが助けておくものか」
 トラ十は、ピストルの狙(ねら)いを定めた。
 帆村の命は、乱暴者のトラ十の前に、今や風前の灯(ともしび)同様である。彼の命と、貴重なX塗料とが同時に失われそうになってきた。
「兄(あに)い、そんなこわい顔をしなくてもいいじゃないか。おれは、この箱をお前に見せないとはいいはしないじゃないか。ほら、このまま兄いにまかせるよ」
 がたん! と、音がして、四角い箱は、トラ十の前へ投げ出された。
 帆村は気が変になったのか、あんなに大事にしていた箱を、とうとうトラ十に渡してしまったのである。
 トラ十のきげんが、にわかに直った。
「なんだ、世話をやかせやがって、はじめから、おとなしくこうすればいいのだ」
 トラ十は、それでもまだ油断なく、ピストルの銃口を、帆村の胸にむけたままである。そして左手で箱をあけにかかった。さあ、一大事である。
「おい、この中に入っているのは、一たい何だ。正直に申し上げろ」
 トラ十の追及(ついきゅう)は、一向ゆるまない。帆村はいよいよ困って、ことばもない。帆村の困っているのをトラ十は横目で見て、ふふと鼻で笑った。
「ふふふ。どうやら説明も何もできないほど貴重な品物と見える。そうときまれば、ぜひとも中身を拝見せずにゃいられない。これは、福の神が、向こうからころげこんできたぞ」
 トラ十は、にわかに上きげんになった。そして箱を拳(こぶし)でたたきこわすと、中から、白い布をまいた長いものを取り出した。
「おれが、あけてやろう」
「これ、お前は動くな。動くと、これがものをいうぞ」
 トラ十はゆだんをしない。彼は右手にピストルをもち、左手で、その布をほどいた。中からは包紙(つつみがみ)が出て来た。
「いやに、ていねいに巻いてあるなあ。よほど大事なものと見えるが、厄介千万(やっかいせんばん)じゃないか。おや、まだ、その下に別な紙で包んである。これはかなわんなあ」
 トラ十はだんだんじれながら、何重もの包を、つぎつぎにほごしていった。そのうちに最後の油紙包がとかれて、中からチョコレート色の、五十センチばかりの棒がでて来た。それこそ、X塗料を固めたものであった。それを、ある特殊な油を使って溶かすと、X塗料となるのだった。
「おや、へんなものが出て来やがった」
 とつぜん、帆村は猛然と飛びこんだ。塗料の棒に見入るトラ十のからだに、わずかの隙(すき)を見出したのであった。帆村の鉄拳(てっけん)が、小気味よく、トラ十の顎(あご)をガーンと打った。
「えーッ!」
「しまった。うーん」
 トラ十、顎をおさえた。
 つづいて帆村は、ピストルをたたき落した。しかしトラ十は無類の豪(ごう)の者である。一、二度は、どうと艫(とも)にたたきつけられたようになったが、すぐさま、やっと、かけ声もろとも、はね起きた。
「小僧め、ひねりつぶすぞ」
「なにをッ」
 せまい船内で、はげしい無茶苦茶な格闘がはじまった。勝敗は、いずれともはてしがつかない。船は、今にも、ひっくりかえりそうである。帆村は、そのたびに、船の重心を直さなければならなかった。
「これでもかッ!」
「ぎゃッ」
 帆村の、猛烈な一撃が、ついに勝敗をけっした。トラ十はよろよろと、後によろめくと、足を舷(ふなばた)に払われ、あっという間に大きな水煙とともに、海中に墜落した。
 帆村は、すぐさま艫へとんでいって、舵をとった。そして水面に気をくばった。
 ところが、ふしぎなことに、懐中に落ちたトラ十は、いつまでたっても浮いてこなかった。二分たっても、三分たっても、とうとう十分間ばかり、水面を見ていたが、ついにトラ十は浮かんでこなかった。
「はて、落ちるとき、どうかしたのかな」と、帆村は、首をひねった。
(が、そんなことはどうでもいい。あのわずかな隙を狙って、うまくトラ十をたたきのめしたのだ。そして、自分の命をとりとめ、それから、貴重なX塗料を)
 帆村はそこで、目を船内に転じて、きょろきょろとあたりを見まわした。
 船内には、X塗料を巻いてあった布や紙が、ちらばっていた。帆村は、その間を探しまわった。
「おや、どこへいったろう。X塗料の棒が見あたらないぞ」
 と叫んだが、ふと彼は、海中へ視線を走らせると、はっと気がついて、一瞬時に、顔面が蒼白(そうはく)となった。
「し、しまった。トラ十め、あれを手にもったまま、海中へ落ちた!」
 さあ、いよいよ一大事だ!

   無念(むねん)の報告

「そいつは、遺憾至極(いかんしごく)だなあ」
 黄島(きじま)長官は、ほんとうに、遺憾にたえないといった語調で、とんと、卓子(テーブル)のうえを拳でたたいた。
 ここは、検察庁の一室であった。
 長官の前に、重くしずんだ面持で立っているのは、別人にあらず、帆村荘六その人であった。
 帆村は、ついに一命をまっとうして、今日、東京についたばかりであった。彼は、とるものもとりあえず、重大な報告をするため、黄島長官のもとにかけつけたのだった。
「まことに、遺憾です。私は、長官に、面(おもて)をあわせる資格がありません」
「うむ、君の骨折(ほねおり)は感謝するが、せっかく、手に入れながら、失うとはのう」
 長官は、X塗料の棒のことを残念がっているのだった。
「おい、帆村君。残っているのは、今ここにあるこれだけか」
 長官は、卓子のうえに広げられた散薬(さんやく)の紙包ほどのものを指さす。その紙のうえには、なんだかくろずんだ粉が、ほんの少量、ほこりのようにのっていた。
「はい、これだけであります。これは、塗料の棒を包んであった油紙を、よく注意して、羽根箒(はねぼうき)ではき、やっとこれだけの粉を得たのです」
「実に、微量だなあ。これじゃ、分析もなにもできまい」
「はあ」
 帆村は、唇をかんで、頭をたれるより外に、こたえるすべをしらなかった。
「しかし、これでも無いよりはましだ。いたずらに、取り返しのつかぬことをなげくまい。そして、不利な現状の中から、男らしく立ち上るのだ」
 長官は、帆村のために、慰(なぐさ)めのことばをかけた。帆村はいよいよ穴もあらば入りたそうである。
「とにかく、工場の方と連絡をしてみよう。彦田(ひこだ)博士に、ここへ来てもらおう」
「彦田博士?」
「君は、彦田博士を知らないのか。博士は、篤学(とくがく)なる化学者だ。そして極東薬品工業株式会社の社長だ。今、呼ぼう」
 長官は、ベルを押して、秘書をよんだ。
「彦田博士を、ここへ案内してくれ」
「は」
 しばらくすると、秘書の案内で、彦田博士が、部屋へはいってきた。
 帆村が見ると、博士は、五十を少し越えた老学者であった。
 そのとき、帆村は、ふと妙な感にうたれたのである。この彦田博士には、前に、どっかで会ったことがあると。
 しかしほんとうは、帆村は、まだ一度も彦田博士に会ったことがなかったのであった。それにもかかわらず、博士に会ったことがあるような気がしたのは、別の原因があったのだ。そのことは、だんだんわかってくる。
 長官は、両人を、たがいに引き合わせると、
「ところで、彦田博士。例のX塗料が手に入ったのです」
「えっ、X塗料が、ほんとうですか。いや、失礼を申しました。でも、あまりに意外なお話をうかがったものですから、あれが、まさか手に入るとは」
「そこに立っている帆村君が、大苦心をして、とってきてくれたのだが、惜しいところで、大きいのを紛失して、残ったのは、そこにある紙にのっているわずかばかりだけですわい」
 と、長官は、卓子の上を指した。
「えっ、この紙ですか。どこに、それが」
 博士が、面食(めんくら)うのもむりではなかった。帆村は、また冷汗をながした。そして博士に、残る微量のX塗料のことを説明したのであった。
「どうですか、博士。それだけの資料によって、X塗料の正体を、うまく分析ができるでしょうか」
 博士は、非常に慎重(しんちょう)な手つきで、X塗料の粉の入った紙を目のそばへ近づけ、しさいに見ていたが、やがて、力なげに首をふった。
「彦田博士、どうですかのう」
「長官。これでは、微量すぎます。残念ながら、定量(ていりょう)分析は不可能です」
「出来ないのですな」
 黄島長官は、はげしい失望をかくすように目をとじた。
 彦田博士も、帆村荘六も、しばし厳粛(げんしゅく)な顔で沈黙していた。しかし、ついに博士が口を開いた。
「長官。何しろこの外に品物がないのですから、困難だと思いますが、私はこれを持ちかえった上で、出来るかぎりの手はつくしてみます」
「そうして、もらいましょう。われわれの一方的な希望としては、この資料により、一日も早く博士の会社で、X塗料を多量に生産してもらいたいのです。このX塗料を一日も早く多量に用意しておかないと、われわれは心配で夜(よ)の目もねむられませんからねえ」
 黄島長官は、立ち上って、彦田博士に握手をもとめ、そして、つよくふった。
「それから、帆村君を、われわれの連絡係として、ときおりあなたの工場へ、使(つかい)してもらいますから、よろしく」
 長官は、ことばを添(そ)えた。

   捨子(すてご)は悲し

 話はかわって、その後の房枝(ふさえ)はどうなったであろうか。
 あのおそろしい雷洋丸の爆沈事件にあい、房枝は、死生の間をさすらったが、彼女ののったボートが、うまく救助船にみつけられ、無事に助けられたのであった。
 彼女たちは、その明日の夕刻、横浜に上陸することが出来た。もう無いかと思った命を拾うし、そして故国(ここく)の土をふむし、房枝の胸はよろこびにふるえた。
 ここで、彼女は、同胞(どうほう)のあたたかい同情につつまれて、涙をもよおした。
 手まわり品や、菓子や、それから、肌着や服までもらったのである。そぞろ情(なさけ)が身にしみる。
 だが、その一方において、外事課(がいじか)の係官のため、厳重な取調べをうけた。なにしろ国籍のあやしい者がぬからぬ顔で入りこんでくるのを警戒する必要があったし、その上、雷洋丸の爆沈原因をつきとめるためにも、生き残った人たちをよく調べる必要があったのである。
「あなたの原籍(げんせき)は?」
 係官は、用紙をのべて、取調をすすめる。
「さあ」
 房枝は、困ってしまった。彼女は、両親を知らない。だから、原籍がどこであるか、そんなことは知らない。
 松ヶ谷団長がいてくれれば、ここは、うまくとりつくろうことができたのであるが、団長は大怪我(おおけが)をしたと聞いた後に、どうなったかよく知らない。
「原籍をいいなさい」
「原籍は存じません。あたくし、あたくしは、捨子なんです」
「捨子だって、君がかい」
 係官は、眼鏡越しに、目を光らせた。原籍を知らぬ奴はあやしい。
「でも、おかしいじゃないか。君の話だと、この前、日本を出発して外国へ渡航したそうだね。そのとき、もし原籍を書かなければ、旅行は許可されないよ。そのとき、原籍はどこと書いたか、それをいいなさい」
 係官は、明らかに、房枝を、うたがっている様子であった。
 そうでもあろう、房枝は、日本人ばなれした大きなからだの持主だったし、皮膚の色も、ぬけるような白さだったし、外国で覚えた化粧法が、更に日本人ばなれをさせていた。
「団長さんと、別れ別れになってしまったものですから、よく覚えていないのですわ」
「それじゃ、君が日本人たることの証明が出来ないじゃないか。え、そうだろう」
「まあ、あたくしが、日本人じゃないとおっしゃるのですか。ひどいことをおっしゃいますわねえ」
「その証明がつかなければ、ここは通せない」
「では、あたくしたち、ミマツ曲馬団の仲間の人に、証明していただきますわ」
 それから房枝は、いろいろと願って、生残(いきのこ)りの団員たちを呼びあつめてもらった。こんなときに帆村がいれば、どんなに助かるかもしれないのだけれどと、くやしくなった。
 けっきょく、仲間の人たちの証言も、係官を納得させるほど十分ではなかったが、船員の中に、房枝が乗船当時調べたことをおぼえている者があって、その証言で、やっと上陸を許可された。ただし条件つきであった。
「常に、居所(いどころ)を明らかにしておくこと。毎月一回、警察へ出頭すること。
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