爆薬の花籠
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著者名:海野十三 

   祖国(そこく)近(ちか)し

 房枝(ふさえ)は、三等船室の丸窓(まるまど)に、顔をおしあてて、左へ左へと走りさる大波のうねりを、ぼんやりと、ながめていた。
 波の背に、さっきまでは、入日の残光(ざんこう)がきらきらとうつくしくかがやいていたが、今はもう空も雲も海も、鼠色(ねずみいろ)の一色にぬりつぶされてしまった。
「ああ」
 房枝は、ため息をした。つめたい丸窓のガラスが、房枝の息でぼーっと白くくもった。
 なぜか、房枝は、しずかな夕暮の空を、ひとりぼっちで眺(なが)めるのがたまらなく好きだ。そしていつも心ぼそく吐息(といき)をついてしまうのである。
 彼女は、両親の顔も知らない曲馬団(きょくばだん)の一少女だった。
 彼女が、今抱(かか)えられているミマツ曲馬団は主に、外国をうってまわるのが、本筋(ほんすじ)だった。一年も二年も、ときによると三年も、外国の町々を、うってまわる。そうかと思うと、急に内地へまいもどって「新帰朝(しんきちょう)」を看板に、同胞のお客さまの前に立つこともあった。こんどは少しわけがあってわずか半年ぶりの、あわただしい帰朝だった。そうでなければ、ミマツ曲馬団は、まだまだメキシコの町々を、鉦(かね)と笛とで、にぎやかにうちまわっていたことだろう。
 房枝が、曲馬団の一行とともに、のりこんでいたこの雷洋丸(らいようまる)は、もうあと一日とすこしで、なつかしい祖国の港、横浜に入る予定だった。
 だが、いま房枝はそんなことはどうでもよかったのだ。丸窓の外に、暮れていくものしずかな、そして大きな夕景(ゆうけい)の中に、じっと、いつまでもいつまでも、とけこんでいれば、よかったのであった。房枝にとって、それは、母のふところにだかれているような気がしてならなかった。
「あたしのお父さま、お母さま。日本へかえったら、こんどこそ、めぐりあえるでしょうね」
 房枝は、唇をかすかにうごかし、小さなこえで、そういってみた。
(だめ、だめ。君の両親は、もうこの世の中に、生きてはいないのだ)
 そういって、顔見知りの警官が、気の毒そうに、頭を左右にふるのが、まぼろしの中に見えた。
「まあ、やっぱり、房枝のおねがいごとは、だめなんでしょうか」
(そうとも、そうとも。もう、あきらめたまえ)
「ああ」
 彼女のまぶたに、あついものが、どっとわいてきた。そして、頬(ほほ)のうえを、つつーッと走りおちた。目を、ぱしぱしとまたたくと、丸窓の外に、黒い太平洋は、あいかわらず、どっどっと左へ流れていた。房枝のわびしい魂はどうすることも出来ないなやみを包んで、いつまでも、波間にゆられつづける。
「うわーっ、腹がへった。食堂のボーイは、なにをしているんだろうな」
「三等船客だと思って、いつも、一番あとにまわすのだ。けしからん」
 房枝の気持は、とつぜん、彼女のうしろに爆発した仲間の荒くれ男のことばに、うちやぶられた。
 彼等は、かいこだなのように、まわりの壁に、上中下の三段につった寝台のうえで、ねそべっていた。ある者は、古い雑誌を、もう何べん目か、よみかえしていたし、またある者は、ひとりでトランプを切って、運命をうらなっていたりした。この船室は、十八人室で、ミマツ曲馬団の一行で、しめていた。
「おい、房公(ふさこう)!」
 丸窓にしがみついて、後向きになっていた房枝が、あらあらしいこえで呼ばれた。
 房枝は、そのこえをきくと、からだが、ぴりぴりとふるえた。「トラ十」という通り名でよばれて皆から恐(おそ)れられているらんぼう者の曲芸師丁野十助(ていのじゅうすけ)だった。
「こら、房公。きこえないふりをしているな。こっちにはよくわかっているぞ。おい、食堂へいって、おれの飯(めし)をさいそくしてこい。あと五分間しか待てないぞと、きびしくいってくるんだ」
 房枝も、やはり曲芸の方だった。綱わたりや、ブランコで、売りだしていたトラ十の丁野十助も、同じようなものをやって、お客のごきげんを、うかがっていたが、ちかごろ、房枝の方にお客の拍手が多くなったのをみて、いやに房枝に、ごつごつあたるようになった。
 房枝は、だまって、丸窓をはなれた。そして、指さきで涙をちょっとおさえて、ばたばたと食堂の方へかけだしていった。
「ちえっ、あいつめ、十五になって、いやになまいきな女になりやがった」
 と、トラ十は、房枝のあとを見送り、きたないことばを吐(は)いた。
 だれかが寝台のうえから、ハーモニカをふきはじめた、調子はずれのばかにしたような、間のぬけたふき方であった。
 トラ十は、目をぎろりと光らせて、その方へ、ぐっと太いくびをねじった。
「ハーモニカを、やめろ! 胃袋に、ひびが入らあ」

   曾呂利青年(そろりせいねん)

 房枝が、三等食堂へ、いきつくかいきつかないうちに、がらんがらんと、食事のしらせが、こっちの船室まで、きこえた。
 トランプをしていた者は、トランプを毛布(もうふ)のうえにたたきつけ、古雑誌を読んでいたものは折目をつけてページをとじ、いずれも寝台からいそいでとび下り、食堂の方へ走って行った。団員の娘たちは、あとで、いたずらをされないように、編物(あみもの)の毛糸を、そっと毛布の下にかくしていくことを忘れなかった。
 一番あとから、この部屋を出ていった顔の青い若者があった。彼は、すこぶる長身であったが、松葉杖(まつばづえ)をついていた。右足が、またのあたりから足首まで、板片をあて、繃帯(ほうたい)で、ぐるぐると、太くまいてあった。
「曾呂利本馬(そろりほんま)さん。手を貸してあげましょうか」
 通路で、房枝が向こうから駈(か)けてきて、その足のわるい青年に、こえをかけた。曾呂利本馬という妙な名が、その青年の芸名(げいめい)だった。
「なあに、大丈夫」
 と、曾呂利青年は、うなずき、
「ねえ、房ちゃん、いつもいうとおり、僕なんかにかまわないがいい」
 そういって、彼は、あぶなっかしい足どりで、食堂の入口をまたいだのだった。
 この気の毒な曾呂利青年を、房枝がなにかと世話をしてやると、そのたびに、トラ十が、目をむいて、口ぎたなく叱(しか)りつけた。
(おい房公。お前、手を出すな。その曾呂利本馬てえ野郎は、正式の団員じゃないぞ。メキシコのどぶ川の中で、あっぷあっぷしていた奴を、おせっかいの団長が、えりくびとって引上げてやったのさ。それからこっち、いつの間にやら、ミマツ曲馬団のすみっこで、こそこそうごめいている奴さ。とんちきな芸名までもらいやがって、歯のない牝馬(めうま)のうえにのっかったと思うと、もうあれ、あのとおり、自分の足を、ひんまげてしまった。ざまあみろというんだ。正式の団員でもない野郎の世話なんかすると、このおれさまが、だまっちゃいないぞ!)
 と、今日も、朝っぱらから、トラ十は、船室で、ほえたてていた。
 たしかに正式の団員ではなかったが、この気の毒な曾呂利に、房枝は、同情をよせていた。そばで、トラ十の雑言(ぞうげん)をきいている房枝の方が、腹が立って、しらずしらず顔が青くなるほどだった。
 曾呂利が、一つ男らしく立って、口先だけでも、トラ十をがーんとやりかえすといいと思うのだったが、曾呂利本馬は、いつも無口で、小学一年生のように、えんりょぶかく、よわよわしい性格のように見え一度もやりかえしたことはなかった。
 房枝は、ふんがいのあまり、こっそりと、本馬にいうときがあった。
(ねえ、曾呂利さん。あたしには、あんたがどうしても、弱虫に見えないの。男なら、なぜ一つ、思いきり、きびしく、いってやらないの。あんた、わざと、強いのをかくしているんじゃない?)
 と、ませた口で、年上の青年をなじると、曾呂利青年は首をふって、
(いやいや、僕は、だめですよ。悪口をいわれても、仕方のない人間なんです。ほうっておいてください)と、目を伏(ふ)せていう。
(そう。ほんとうに、力なしの、弱虫なの、じゃあ、あたしが、これから加勢してあげるわ)
(いやいや、めっそうもない。房ちゃんは、僕なんかに、かまわないがいい)
 そういって、曾呂利青年は、足がわるいのに、一番高い上段の寝台へのぼり、もう息をひきとりそうな老犬のように、小さくなって、寝てしまうのだった。
 夕暮の空の下では、房枝は、一時、両親を恋うるセンチメンタルな可憐(かれん)な少女にかわるが、ふだんは、すさまじい世渡りにきたえられて、十五歳の少女とは見えないほど、きびきびした少女だった。
 房枝は、松葉杖をついた曾呂利のあとから、三等食堂の中へ入っていった。
 ひろい食堂は、電灯も明るく、食慾のさかんな三等船客が、もう一ぱい、つめかけていた。皿やナイフの音が、かしましくするだけで、だれも、むだ口をきく者がなく、一生けんめいに皿の中のものを、胃袋へつめこんでいた。
 トラ十も、さかんにぱくついているので、曾呂利青年や房枝の入ってきたのも知らぬげであった。
「おい、ソースだ、ソースだ。ソースのびんがないぞ」
 トラ十が、たくましいこえで、どなった。
「ソースのびんは、目の前にあるじゃないか」
 ようやく、食事はだいぶん進んだらしく口をきく客もでてきた。
「目の前? うそをつけ。目の前には、ソースのびんなんかないぞ」
 トラ十は、どなりかえしたが、そのとき、おやという表情で、目をみはった。ソースのびんは見えないが、彼の目の前には、うつくしい大きな花籠(はなかご)があった。何というか、色とりどりの花を、一ぱいもりあげてある。どう見ても、三等食堂には、もったいないくらいの、りっぱな花籠だった。
「ほら、ソースのびんは、その花籠のかげに、あるじゃないか」
「なるほど」
 と、トラ十は、うめくようにいって、ソースのびんをとったが、彼の目は、なぜか、このりっぱな花籠のうえに、ピンづけになっていた。

   警報(けいほう)

 この雷洋丸の無電室は、船長以下の幹部がつめかけている船橋(せんきょう)よりも、一段上の高いところにあった。
 それは、ちょうど午後七時五十分であったが、この無電室の当直(とうちょく)中の並河技士(なみかわぎし)は、おどろくべき内容をもった無電が、アンテナに引っかかったのを知って、船橋に通ずる警鈴(けいれい)を押した。
 すると、間もなく、扉(ドア)があいて、一等運転士が、自身で電文をうけとりにとびこんできた。
「警報がはいったって、その電文はどれだ」
 無電技士は、だまって、机の上の受信紙(じゅしんし)一枚とって、一等運転士に手渡した。
 一等運転士は、紙上に走り書きされた電文を、口の中でよみくだいたが、とたんに、さっと顔色がかわった。
「おう、防空無電局からの警報だ。なんだって。国籍不明の爆撃機一機が一直線に北進中。その針路は、午後八時において、雷洋丸の針路と合う。雷洋丸は直ちに警戒せよ」
「ほう、これはたいへんだ」
 一等運転士は、青くなって無電室をとび出した。もう怪飛行機は、こりごりである。メキシコを出港してからこっち、どういうわけか、この雷洋丸は三回も、怪飛行機のため夜間追跡をうけている。こんどで四度目だ。先月他の汽船が、やはり追いかけられ、一発の強力爆弾で沈められたことがある。それ以来、怪飛行機の追跡には、おそれをなしているのだ。防空無電局は「国籍不明の爆撃機」といって来ている。気味のわるいこと、おびただしい。なにしろこっちは非武装の汽船だから、どうしようもない。
「船長(せんちょう)、また怪飛行機です!」
 一等運転士は船橋へかけあがる[#「かけあがる」はママ]と、大声でさけんだ。
「えっ!」
 と、船橋にいあわせた幹部船員は、おどろいて、一等運転士の方を、ふりむいた。
「すぐ灯火管制(とうかかんせい)にうつらねばなりませんが、こうだしぬけの警報では、ちょっと時間がかかりますが、いかが?」
「ただちに、電源の主幹(しゅかん)を切って、消灯(しょうとう)だ!」
 船長は電文を見終って、はっきり命令を出した。
「えっ、主幹を切りますか」
「早くやれ!」船長のはらは、すわっていた。
 これから消灯または遮光(しゃこう)の命令を出して、おおぜいの手で、船内の方々をくらくさせていたのでは、おそくなる。ことに、海を航行している汽船は、空中から、すこぶる見えやすい。船長の考えとしては、船の安全のために一秒でも早く灯火管制をやりとげるためには、こうするのがいいと思ったのである。
 命令は、ただちに、発電室に伝えられた。
「電灯用主幹、全部開放!」
 あっという一瞬間に、船内の電灯は、全部消えてしまった。どこもかしこも、たちまち、まっくらやみだ。
 ただ機関室などの大事なところは、夜光塗料が、かすかに青白く光って、機械の運転に、やっとさしつかえのないようには、なっていた。
 食事半ばの、三等食堂などは、文字どおり、暗黒の中にしずんでしまった.
「あっ、どうした。電灯をつけろ」
「停電で、飯がたべられるか」
「電灯料の支払いが、たまっているのだろう。ざまをみやがれ」
 やひなまぜっかえしに、一座は、たちまちどっと笑いくずれた。皿をたたく者がある。ソースのびんをひっくりかえした者がある。だれやらマッチをすったものがあるが、とたんに、ふき消されてしまった。
「ただ今、怪しい飛行機が近づきました。明りを消してください。マッチをすってはいけません」
 室内の高声器(こうせいき)から、とつぜん警戒警報が伝えられた。
「それみろ! もう、マッチをすっちゃ、いけねえぞ」だれかがさけんだ。
 そのうちに、丸窓が、がたんと閉まる音がきこえた。
「もういいか」
「一番、二番もよろしい」
「五番、六番もよろしい」船員たちは、おちついて、暗闇(くらやみ)の中に、こえをなげあっている。
「ようし。それで全部、窓は閉まった。予備灯点火(よびとうてんか)!」
「おうい」釦(ボタン)が、おされたのであろう。五つばかりの、小さい電球に明りがついた。
 人々は、はっと、よろこびのこえをあげて、一せいに、明りの方に、ふりむいた。
 そのとき、房枝も、明りをみた。そして、その次に、あのうつくしい大きい花籠を、卓子(テーブル)のうえに、さがしたのだった。
 どうしたわけか、花籠は、卓子のうえから消えていた。房枝は、おやと、思った。
 そのまま、だれも花籠のことをいいださなかったなら、房枝も、やがてきっと、その大きな花籠のことを、わすれてしまったことであろう。ところが、ひきつづいて、とんでもないさわぎが、まき起ったのだ。

   大音響(だいおんきょう)

「おう、いやだ、いやだ。これは血じゃないかな」
 とつぜん、ひとりの男が席からとびあがった。それは、同じ曲馬一団の黒川という調馬師(ちょうばし)だった。
 彼が、指をさししめす卓子(テーブル)のうえには、どうも人の血らしいものが、たくさん地図のような形に、白布(しろぬの)をそめていた。そして、なおもその附近には、手の形らしい血痕(けっこん)が、いくつも、べたべたと白布(はくふ)のうえについていた。そこは、ちょうど、あのうつくしい花籠がおいてあった前あたりであった。
「おお、これは血にちがいない。ぷーんと、あのにおいがするぜ」
「ほんとだ。だれの血だろう」どやどやと席をたって集ってきた三等船客や、船のボーイたちは、とつぜんふってわいたような怪事件の席をかこんで、くちぐちにさわぎたてた。
「どうも、へんだ」例の黒川という最初の発見者が、きょろきょろと、あたりを見廻した。
「おい、トラ十。トラ十は、どこへいった」彼は、なおもきょろきょろと、あたりを見廻したのだった。
「おい、トラ十が、どうしたんだ」仲間の一人が、黒川の肩をたたいた。
「なぜって、お前、トラ十が、急にいなくなったんだ。室内の電灯が、消えるまでは、ちゃんと、おれの横に腰をかけていたんだがなあ。どうも、へんだ」
「トラ十のことなんか、どうでも、いいじゃないか」黒川は、つよく、かぶりをふって、
「いや、どうでもよくないことはない。なぜってお前、あの血は、トラ十が坐っていた席に流れているんだぜ」
「えっ、あの席には、トラ十が坐っていたのか。そいつはたいへんだ! 早く、それをいえばよかったんだ」
 さわぎは、ますます大きくなっていった。そのさわぎをすぐ知らせたものがあったと見えて、事務長が、かけつけた。
 事務長も、黒川の話をきいて、おどろいた。そして、すぐさま、トラ十こと丁野十助のありかを、手わけして、探させたのであった。
 電灯が消えてから、まだ、ものの二十分ぐらいしかたたないのに、トラ十は、どこへいったか行方がわからなかった。
「まさかと思うんですけれどねえ。事務長さん」と、黒川は、いった。
「まさか、どうしたというんですか」
 事務長は、太った体を、黒川の方にむけた。
「つまり、まさか、トラ十は、だれかに殺されたんじゃないでしょうか。そして、殺した犯人は、暗闇を幸い、死体をひっかついで、海の中へ放りこむなんか、したんじゃありませんかね」
「ほう、探偵小説(たんていしょうせつ)には、よく、そんな筋のものがありますがねえ」
 と、事務長は、まじめくさって、そんなことをいった後で、
「まさか、ねえ」と、反対の意をあらわして、黒川の顔を見たのだった。
「でも」と、黒川は、なおも疑いの色を眉のあいだにうかべ、「それから、もう一つへんなことがあるんですぜ、さっき、トラ十の前にあった美しいりっぱな花籠が、どこへいったか、一しょに、卓子(テーブル)のうえから見えなくなった!」
 ほうと、おどろきのこえがまわりの人々の口から出た。黒川の指さした消えた花籠のことを、彼らも思いだしたからであろう。
 房枝も、もちろん、人垣の間から、一生けんめいに、黒川たちの話に、きき耳を立てていた。
「なんだ、ばかばかしい」と事務長は、笑いだした。
「じゃあ、その丁野十助さんが、花籠を抱えて、どっかへ出かけたんじゃありませんかね。たとえば、水をさすためだとか、あるいは、どこかへ持っていって、飾(かざ)るために」
「じゃあ、なぜ、そこに、人の血が流れて、のこっているのですか。わしには、わけがわからない」
 黒川は、ますます疑いにとじこめられつつ、恐怖の色をうかべた。
 房枝も、黒川と同じように、トラ十の身のうえに、一種の不安を感じないではいられなかった。
 彼女は、自分のすぐ横に、足のわるい曾呂利青年が、これもねっしんに、きき耳をたてているのを発見して、これに話しかけた。
「曾呂利さん。お聞きになって。トラ十が、どうかしたんじゃないんでしょうか」
「さあ」と、曾呂利は、興味ありげに、首をかしげたが、「だれか、怪しい者が、まじっているようですね。さっきも、マッチをつけたとき、すぐ、マッチを消せと、叱りつけた者がありましたよ。しかも、警戒警報だから、明りを消しなさいと、この部屋の高声器が叫ぶよりも、まだ前のことなんですからねえ。そのへんのことが、たいへん謎にみちていますねえ」
 曾呂利青年は、ふだんの無口にもにず、しっかりした口調(くちょう)でいった。
「まあ、そんなことが、あったかしら。あたし、気がつかなかったわ」
 と、房枝は、曾呂利の顔を、あらためて見直しながらいった。
 そのときであった。とつぜん、甲板(かんぱん)の方で、どーんという大きな音がして、部屋の壁が、ぴりぴりと震動した。
 いったい、それはなんの音だったろうか。
 ねらわれているこの汽船雷洋丸の中に、ついに起った怪事件の真相は?
 らんぼう者のトラ十は、どうしたのであろうか。あやしい花籠は、どこにあるか?

   闇(やみ)の甲板(かんぱん)

 とつぜん、甲板の方で、どーんという大きな音がしたものだから、船客たちは、きっと、顔色をかえた。ミマツ曲馬団の一行も、びっくり仰天(ぎょうてん)!
「あっ、あの物音はなんだ」
「今の音は、爆弾でも落ちたのかな。この船は、しずめられちまう! おい、どうしよう」
「どうしようたって、仕方がないじゃないか。そのときは、この汽船につかまってりゃ、それこそ海の底まで、ひっぱりこまれる」
「おい、じょうだんじゃないぞ。われわれは、どうすればいいんだ」
「どうにも仕方がないさ。いずれそのうち、鼻の穴と口とに海水がぱしゃぱしゃあたるようになるだろう。そのときはなるべく早く、泳ぎ出すことだねえ」
「泳げといっても、お前がいうように、そうかんたんにいくものか。ここから何百キロ先の横浜まで、泳いでわたるのはたいへんだ」
 などと、さわぎたてる。
 あやしい血痕のことについて、この三等食堂へかけつけ、取りしらべをしていた事務長は、しらべをやめて、ろうかの方へ走り去った。
「おい、お前たち、そんなくだらんことをしゃべるひまがあったら、甲板へ上って、この汽船がどうなったのか、ようすを見てこい!」
 隅(すみ)っこの席で、ゆうゆうとまだ飯をくっているカナリヤ使の老芸人鳥山が、どなった。
「ああ、そうだ。じゃあ、大冒険だが、ちょっといって、見てこよう」
「待て、おれもついていってやる」
 若い団員が二人、猿のようにすばやく、昇降階段(しょうこうかいだん)をよじのぼっていった。
 甲板の方できこえた爆音のような大きな音は、一発きりで、あとはきこえなかった。もっとつづけさまに、爆撃されるだろうと、ふるえあがった船客たちは、このとき、ようやく人心地(ひとごこち)に戻った。
「おや、爆撃は一発でおしまいで、もう怪飛行機はにげていったか」
「ちがうよ。爆弾なんか落しやしない。あの飛行機は、ただこの船の上を飛んで、われわれをおどかしていっただけだ」
 房枝も、そのころ、ようやくわれにかえったのだった。ふと気がついて、あたりを見廻すと例の謎の青年曾呂利本馬が、テーブルに頬杖(ほほづえ)ついて、こわいような顔で、なにか考えこんでいる様子であった。
 房枝は、こえをかけた。
「曾呂利さん。なにを考えこんでいるの」
 曾呂利は、はっとしたようすで、顔をあげた。かれの目は、きらりとするどく光っていた。だが、その目が房枝の目にぶつかったとたんに、ちょっとあわてる色が見えた。
(この人、ゆだんのならない人だわ)
 と、房枝は、曾呂利青年に、きついうたがいをかけないわけにはいかなかった。
「ああ、房枝さん。僕たちはとんでもない怪事件の中に、まきこまれてしまいましたよ」
 曾呂利本馬は、小声(こごえ)で、ささやくようにいった。
「とんでもない怪事件ですって、やっぱり、トラ十は殺され、美しい花籠は盗まれてしまったのですか。あの人は、ふだんから、にくまれているから、あたりまえよ」
 すると、曾呂利が、いそいで房枝のことばをとがめた。
「あたりまえだなんて、そんなことを、かるがるしく、いってはいけません。へんなうたがいが房枝さんにかかってくるかもしれません」
「でもあたし、トラ十を殺した犯人じゃないから、いいわ」
「なるほど」と、曾呂利はうなずいたが、房枝の方へ、さらにすりよって、
「房枝さん、ここに今、もう一つ、あやしいことが起っているのですが、あなたは、それに気がつきませんか」
 曾呂利は、もう一つ、あやしい事件が、すでに起っているというのだ。
「え? 飛行機のことですの」
「うむ、それもありますが、それはまた別にして、僕のいうあやしいことというのは、われわれミマツ曲馬団の中のことです」
「まあ。あたしたちの中に、まだ、あやしい事件が起っているとおっしゃるの。それは、なんですの。曾呂利さん、早くおしえてよ」

   しのばれる名探偵(めいたんてい)

 曾呂利青年は、妙なことをいいだしたものである。房枝は、この話をきいているうちに、いらいらしてきた。
「ねえ、早くおしえてよ。曾呂利さん」
 曾呂利青年は、さらにこえを低くして、
「あなたは、まだほんとうに気がついていないのですね。その怪しい事件というのは、ほかでもありません。団長の松(まつ)ヶ谷(や)さんが、やっぱりさっきから、行方不明(ゆくえふめい)になっていることです」
「えっ、松ヶ谷団長が?」と、房枝は、意外なことをきいて、びっくりした。
「曾呂利さん。あなたはどうして、そんなことを、お知りになったの」
 誰が、そんなことを知っているだろうか。それを知っているのは、この謎の青年、曾呂利本馬だけではないか。房枝はさっきから、この曾呂利青年に、たしかにあやしい節(ふし)があるとにらんでいたので、ことばするどく問いかけた。
 しかし曾呂利は、あんがいおちついた態度で、
「いやなに、僕は、べつに団長の船室へいって、それをたしかめたわけではないのですが、ただそういう気がするのです」
「うそ、うそ。曾呂利さんは、ずるいわ。ほんとうのことを、おっしゃらないのね」
「今いっているのは、ほんとうのことですよ。だって、誰にだって、そういうふうに考えられるではありませんか」と、事もなげに、いってのけ、
「ねえ、いいですか。トラ十のことで、これだけ、皆がさわいでいるのに、かんじんの松ヶ谷団長がちっともあらわれないではありませんか。あの耳の早い、そして人一倍に口やかましい団長が、なぜ、ここへとんでこないのでしょう」
「あら、そうね」
「ね、わかるでしょう。ミマツ曲馬団の中に起ったトラ十事件のさわぎをよそにして、ここへかけつけないところを思うと、これはどうも、団長も、行方不明になっているのじゃないかと思うのです」
「まあ、曾呂利さん。あなたはこれまで、青い顔をした、いくじのない方だと思っていたけれど、今日は、とても、すばらしいのね。まるで名探偵そっくりだわ」
「房枝さんは口が上手(じょうず)だね。そんなに僕をひやかすのは、よしにしてください」
「いや、ほんとうのことをいっているのよ。あたしいつだか、新聞だったか、本だったかで読んだのですけれど、帆村荘六(ほむらそうろく)という名探偵があるでしょう。その名探偵帆村荘六のことを、今思い出したのよ。そう名探偵は、背が高くて、青い顔をしていて、唇をへの字にまげるのがくせなんですって」と、いいながらも、房枝は、目の前にいる曾呂利本馬が、ひどく帆村荘六に似ていることに気がつくと、なんだか、おそろしくなった。
「房枝さん。そんなばかばかしい話はもうよしにしましょう」
 そういっているときだった。ろうかのむこうに、がたがたと、高い足音がきこえ、こっちへ、急いでくる様子だった。食堂へとびこんできたのをみると、それは、さっき甲板へ様子を見にいった連中だった。
「おい皆、船は大丈夫だから、安心しろ」
「えっ、大丈夫か。沈没するような心配はないか」
「うん、沈没なんかしやせんよ。さっきの爆弾は、左舷(さげん)の横、五、六メートルの海中で炸裂(さくれつ)したんだそうだ、それだけはなれていりゃ、大丈夫だ」
「へえ、そうかね。こっちの船体に異状がないと聞いて、大安心だ」
「なにしろ、灯火管制中だから、明りをつけて検査するわけにはいかないが、船腹の鉄板が、爆発のときのひどい水圧で、すこしへこんだらしい。しかし、大したことはないそうだ」
 報告は、なかなかくわしい。
「爆発は、もう、それっきりなんだろう」
「そうだ」
「じゃあ、あとはもう心配なしだな」
 と、一同は、ほっとためいきをついた。
「それから、もう一つ、へんな話をきいたぞ。甲板に立っていた船員の一人が、あの爆発のときに、たおれたんだそうだ。ほかの者が、それを見つけて抱きおこした。爆発の破片で、からだのどこかを、やられたんだろうと思ってしらべてみた。すると、別にどこもやられていない。そのとき、へんだなあと思うことが一つあった。お前たちは、それが分かるか、そのへんだなあという一件が」
「そんなこと、分かるものか。早くしゃべれ」
「それは、奴(やっこ)さんのたおれた場所に、きれいな花が、ばらばらと落ちていたんだ。だから、奴さん、爆弾にやられたんじゃなくて、花束でもって、なぐられたんじゃないかって、誰かそういっていたよ」
「へーえ、花束でなぐられて目をまわしたというわけか。まさか、はははは」
 房枝も、さっきから、この話を、じっときいていたが、ここでおかしくなって、つりこまれたように笑った。
 そのとき、気がつくと、曾呂利本馬の坐っていた席が、いつの間にやら、空になっていた。

   ニーナ嬢(じょう)

 この雷洋丸の一等船客に、一きわ目立って、姿のうつくしい、外国人の令嬢がいた。その名をニーナ・ルイといって、国籍は、メキシコと届けられていた。
 ニーナ嬢は、いつもすっきりした軽い服に、豹(ひょう)の皮のガウンを着て、食堂へ入っていったり、またAデッキの籐椅子(とういす)にもたれて、しきりに口をうごかしているのが、とくに船客の目をひいた。
 ニーナ嬢は、一人旅ではなかった。伯父(おじ)さんだという師父(しふ)ターネフと、二人づれの船旅であった。
 師父ターネフは、もちろん宣教師(せんきょうし)で、いつも裾(すそ)をひきずるような長い黒服を着、首にまいたカラーは、普通の人とはあべこべに、うしろで合わせていた。いかにも行いすました宗教家らしく、ただ血色(けっしょく)のいい丸顔や、分別くさくはげかかった後頭部などを見ると、たいへん元気にみえ、なんだか、その首を連隊長か旅団長ぐらいの軍服のうえにすげかえても、決しておかしくはないだろうと思われた。
 そのニーナ嬢が、階段のところで、曾呂利本馬と、鉢合(はちあわ)せをした。
 ニーナ嬢は、うすぐらい階段を、急いで上からおりて来る。曾呂利は、松葉杖(まつばづえ)をついて、階段を四、五段のぼっていた。ニーナ嬢が、勢よくというより、少しあわて気味に足早におりて来たため、あっという間に、二人は下にころげおちた。
 からだが不自由な曾呂利は、後頭部(こうとうぶ)を床にうちつけて、しばらくは、気がとおくなっていた。
 ニーナ嬢の方は、すぐさま起き上った。そして、いまいましいという表情で、たおれている曾呂利を、靴の先で蹴とばしておいて、そのまま行きすぎようとした。が、そのとき、彼女は、何おもったのか、また戻ってきて、さっきとは別人のようなふるまいで、曾呂利を抱きおこした。
「うーん」
 曾呂利が、彼女の腕の中で、うなりごえをあげた。
 ニーナ嬢は、ハンケチをだして、曾呂利の額(ひたい)をふいてやった。そして、
「ごめんなさい。ごめんなさい。わたくし、たいへん、あやまりました」
「……?」
 曾呂利は、ちょっとうす目をあけたが、またすぐ目をつぶった。
「ごめんなさい。わたくし、あやまりました。おわびのため、このお金、さしあげます」
 ニーナ嬢は、どこに持っていたのか、紙幣(さつ)を一枚、曾呂利の手に握らせ、
「どうか、ごめんください。そして、わたくしのため、このことは、誰にもいわない、よろしいですか。きっと、きっと、誰にもいわない。わたくしと、ここで衝突したこといわない。あなたいいません! いわないこと、約束してくれますか。それを守ってくれるなら、あとでまた、お礼のお金をさしあげます」
 ニーナ嬢は、ねっしんに、そして早口で、曾呂利をかきくどいた。
 曾呂利は、かすかにうなずいた。
「よろしいですね。わたくし、あなたを信用します。お礼のお金、あとできっとさしあげます。あっ!」
 ニーナ嬢は、とつぜん、おどろきのこえをあげた。階段の上に、誰かのわめきごえがきこえたからである。
「約束、きっと、守るのです!」
 ニーナ嬢は、最後にもう一度、命令するかのように、曾呂利の耳にのこすと、曾呂利をそこに寝かしたまま、とぶように立ち去ったのであった。
 階段の上から、あらあらしい足音とともに、二、三人の船員がおりてきた。
「やっぱり、こっちじゃないかな」
「どうも、こう暗くては、探せやしない」
 船員たちは、おりてくると、そこに曾呂利がたおれているのを発見して、おどろいてかけより、
「おう、あなた。ここへ誰か来なかったでしょうか。この階段を、あわてて上からおりてきたものはありませんか」
 曾呂利をだき起そうともせずに、いきなり質問だ。
 曾呂利は、首をふって、
「誰も、見えませんでしたね。僕は、松葉杖を階段からつきはずして、落ちたんです」
 と、わりあい、しっかりしたこえでいった。曾呂利は、ニーナとの約束を守ったのである。というよりも、うそをついたのである。彼は、ニーナ嬢から握らされた紙幣に、良心を売ったのであろうか。

   疑問(ぎもん)の空襲(くうしゅう)

 曾呂利が、医務室につれこまれるところを、ちょうどそこを通りかかった房枝が、見かけた。
「まあ、曾呂利さん。足のわるいのに、ひとりで出かけたりするから、また、どうかしたんだわ」と、つづいて、彼女も、曾呂利のあとから、医務室に入った。
 曾呂利は、診察用の肘(ひじ)かけ椅子に、腰をかけさせられていた。
 船医が、すぐやってきて、曾呂利が痛みを訴(うった)える後頭部をかんたんに診察した。
「なあに、大したことはありませんよ。湿布(しっぷ)してあげましょう」
 船医は、看護婦を呼んで、湿布のことを命じているとき、入口の扉をあけて、船長が入ってきた。
「やあ、ドクトル。赤石(あかいし)は、その後、どうです」
 赤石とは、れいの爆発事件のとき、甲板でたおれた船員の名だ。
「やあ、船長。赤石君は、奥に寝かせてあるが、もうすこし様子を見ないと、なんともいえませんねえ」
「うむ、そうすると、会って、こっちが聞きたいことを聞くわけには、いかんですかな」
「まあちょっと待ってください。もう三十分ぐらいは」
「そんなに、容体(ようたい)があぶないのかね」
「何ともわからんですよ、それは。すこし、ここに来ているらしいので、警戒しているのです」と、船医は、自分の頭を指さした。
 船長は、困ったという表情で、
「じつは、本船の上を、怪しい飛行機が飛んだことについて、赤石に聞いてみないと、事実がはっきりしない点があるのでね」
「赤石君にきかないでも、外の人だけで、わからないのですかね、私も聞いたが、あれだけはっきりした爆発音だから、それでも分かりそうなものだが」
「いや、ドクトル。どうも、それだけのことじゃないらしいんでね、それで困っとる」
 と、船長は、口を大きくむすんで、
「第一、空襲らしいというのに、本船の者で、誰も飛行機の近づく爆音を聞いたものがないのが、おかしい。もちろん、飛行機の姿も見えなかった」
「船長。爆弾がふってきたんだから、それでもう、飛行機の襲来だということは、たしかではありませんか」
「いや、それが、そうかんたんにきめられないのだ。それに、赤石のたおれていたとこに、ばらばらと落ちていたうつくしいきり花だが、こんなものがどうして、あんなところにあったか、これは赤石に聞かないと、わからないことなんだ」
 と、船長は、手に握っていた数本のきり花を、机のうえに投げだすようにおいた。
「たったこれだけの花ぐらいのことを、そう気にすることはないでしょう」
「いや、これは、その一部なんだ。もっとたくさんある」
 船長は、いよいよ苦(にが)りきって、
「もっと、困ったことがある。今しらべてみてわかったんだが、あの爆発事件の最中に、この船内から、二人の船客が、姿を消したんだ。二人ともミマツ曲馬団の人たちで、一人は団長の松ヶ谷さん、もう一人は、トラとよばれている丁野十助という曲芸師だ。船内を大捜査したが、たしかにこの二人の姿が見あたらない。それから、三等食堂の血染(ちぞめ)のテーブル・クロスの事件ね」
「ああ、あの血染事件の血液検査を、やることになっているが、こういう次第で、手が一ぱいですから、あとで、なるべく早くやります」
「とにかく、わしの直感では、この船は、横浜へ入るまでに、どうかなってしまうのじゃないかと思う。単なる空襲事件ではない。もっと何かあるのだ。今、手わけして、探してはいるがね。ねえ、ドクトル、あんたも、なにかいい智恵をひねりだしてくださいよ」
 船長は、苦笑(くしょう)していった。
 そのとき、房枝の手をひっぱるものがあった。房枝は、船長とドクトルの対話に、気をとられていたが、手をひっぱられたので、その方をみると、それは曾呂利がやったのだ。
「ねえ房枝さん。そこへ船長さんがもってきた花を、私に見せてください」
「まあ、あなたが見て、どうなさるの」といったが、房枝は、テーブルのうえから、花をとって、曾呂利に渡した。
 曾呂利は、その花を手にとって自分の鼻に押しあてた。そのとき、彼の目が、急に生々と輝(かがや)きだした。
「ほう、この花は、非常に煙硝(えんしょう)くさい。おや、それに、なめてみると、塩辛(しおから)いぞ、海水に浸っていたんだ。すると、この花は、船の上にあった花ではない、海の中にあった花だ。これは、ふしぎだ」
 曾呂利は、まるでなにか怪物につかれた人のようにぶつぶつと口の中でひとりごとをいった。しかし房枝は、その一言半句(いちげんはんく)も聞きのがさなかった。そして、曾呂利の顔を、穴のあくほど見つめていたが、はっとした面持で、
(この人は、どうしても、帆村荘六という名探偵にちがいないと思うんだけれど。なぜ、曾呂利本馬などと、名をかえているのでしょう)
 と、ふしん顔。
 そのとき、電話のベルが鳴った。看護婦が出ると、船長に急用だという。そこで船長が、かわって電話機をとりあげたが、一言二言(ひとことふたこと)いううちに、船長は、おどろきのこえをあげた。
「えっ、見つかったか。ふーん、そりゃ、たいへんだ。今すぐ、わしは、そこへいく」
 なにが見つかったというのだろう。
 それをきいて、曾呂利本馬が、すっくと立ち上った。松葉杖なしで、曾呂利がつっ立ったのである。

   石炭庫(せきたんこ)の中

「おい、見つかったそうだ、ミマツ曲馬団の松ヶ谷団長が、石炭庫の中で」
 船長は、おどろくべきことばをのこすと、すぐさま医務室をとびだした。
「えっ、団長さんが、見つかったんですって、まあ、よかったわ」
 と、房枝は、よろこびの色をうかべて、曾呂利本馬の方をふりかえった。
 行方不明をつたえられた二人のうち、一人は見つかったのだ。ことに、松ヶ谷団長が、このまま、行方不明だったら、このミマツ曲馬団は、これから満足な興行(こうぎょう)ができないであろう。やがて、一座は解散となって、団員たちは、ばらばらになってしまうにきまっている。ああ、そんなことになれば、房枝のような孤児(こじ)を、だれが面倒みてくれるであろうか。団長が見つかったという知らせに、房枝が、ほっと安心の吐息(といき)をもらしたのも、わけのあることだった。
「あ、曾呂利さん」
 曾呂利の方をふりかえった房枝は、いぶかしそうに、彼にこえをかけた。
 曾呂利本馬は、足がわるく、おまけに、ニーナ嬢につきあたられて、後頭部をいやというほどうったので、ふらふらの病人であるはずのところ、彼が、足もともしっかり、すっくと立ち上っていたのを見て、房枝は、たいへんふしぎに思ったのである。
「曾呂利さん。もうおなおりになったの」
「いや、あいかわらず痛むのですけれど、今、団長が見つかったときいたものだから、おどろいて、思わず立ち上がったんですよ」と、彼は、いいわけしながら苦笑した。
「いやな曾呂利さんね。そんならんぼうなことをなさると、いつまでも丈夫になれないわ。ねえ、ドクトルさん」
 ドクトルは、看護婦相手に、船員赤石の容体を見守っていたが、
「そうですよ。若い人は、どうもらんぼうをするので、いかんですよ。いくら丈夫でも、人間の体力には、かぎりがある。それをふみこすと、体をこわしてしまう。曾呂利さん、房枝さんのいうのが、ほんとうだ」
 曾呂利は、肘かけ椅子に腰をおろし、たいへんよわった顔で、あたまをかいた。
 そこへ、また電話がかかってきた。看護婦が出ると、こんどは、船長のとこへかかってきたのではない。船長から船医のところへ、かかってきたのである。
「あ、ドクトルだね、たいへんだ。すぐ来てくれたまえ。場所は、第一石炭庫。見つけだした松ヶ谷団長は、顔にひどい怪我(けが)をしている。そして、なんだか[#「なんだか」は底本では「なんだが」]、様子がへんだ。妙なことを口走っている。うごかせそうもないから、すぐに来てくれたまえ」
 と、船長のこえは、うわずっていた。
 船医は、薬や注射器をもってすぐかけつけると返事をした。そして、看護婦をいそがせて、自分は鞄をもち、看護婦には、洗滌器(せんじょうき)などの道具をもたせて、あたふたと、医務室を出ていった。
 あとには、赤石と曾呂利と房枝の三人きりとなってしまった。
 そのとき房枝も、そわそわしていたが、団長の様子が気になるとみえ、彼女もまたそこを出ていった。あとには、赤石と曾呂利の二人きりとなった。
 船員赤石は、死んだようになって、ベッドに寝ている。眼をあいているのは、曾呂利一人だった。
 その曾呂利青年は、しばらくあたりの様子をうかがっていたが、誰も近づく者がないのを見すますと、肘かけ椅子から、すっくと立ち上った。彼の右足は、膝のうえから下を、板切(いたきれ)ではさみ、そのうえに、繃帯(ほうたい)でぐるぐるとまいていて、いかにも痛そうであったが、ふしぎにも、このとき、彼は、室内をすたすたと歩きだしたのであった。そして手をのばして、赤石の倒れていたという疑問の花をつかむと、部屋の片隅にある顕微鏡の前にいった。もしもこのとき、誰かが、この曾呂利青年のあやしい行動を見つけた者があったとしたら、きっと、部屋にとびこんで、このにせ怪我人の曾呂利を、やにわにとりおさえたことであろう。
 彼は、爆薬で黒くよごれた花片(はなびら)をむしりとると、器用な手つきで、それを顕微鏡にかけて、のぞきこんだのであった。
 数秒間、彼は、石像のようになって、顕微鏡をのぞいていたが、やがて顔をあげると、
「おお、これはたしかに、今大問題になっているBB火薬だ! これはたいへんだぞ」と、思わず、口走(くちばし)った。
 いよいよ怪しき曾呂利青年だ。
 今や、曾呂利青年の正体は、読者の前に、明らかにされなければならない。曾呂利本馬とは、真赤ないつわり、彼こそは、理学士の肩書のある青年探偵、帆村荘六その人だったのである。
 おお、あの有名な名探偵、帆村荘六。
 彼はなぜか一芸人として、このミマツ曲馬団に加わっていたが、雷洋丸上にしきりに起る怪事件にだまって見ていられず、ひそかに探偵の歩をすすめていたのだった。
 そういうことが分かれば、曾呂利本馬として、これまでにたびたびおかしな振舞(ふるまい)があったが、それは探偵のための行動であったのだ。

   BB火薬(かやく)

 曾呂利本馬は、もう解消して、名探偵帆村荘六は、顕微鏡からはなれた。
 彼は、きりりとした顔で、またしばらく、あたりの様子をうかがっていたが、まだ誰も、この医務室に近づく者がないことをたしかめると、後へふりむいて、卓子(テーブル)のうえから、一本の試験管をとった。
 なにをするのであろうか?
 帆村探偵は、そのガラスでつくった試験管の中へ、BB火薬らしいもので黒くなった花片を、しきりにむしりとって、つめこんだ。
 それから、薬品のならんだ棚から、ある薬品の入った壜(びん)をとると、栓(せん)をぬいて、無色の液体をすこしばかり試験管につぎこんだ。
(こうしておけば、大丈夫、保つだろう――)
 彼は、試験管にコルクの栓をした。それから、器用な手つきで、封蝋(ふうろう)を火のうえで軟かくすると、コルクの栓のうえを封じた。それで作業は終ったのであった。
 それがすむと、こんどは肘かけ椅子のところへもどり、右足の繃帯を、くるくるとときはじめた。
 足をはさんでいる板切が、むきだしにあらわれた。
(ここへ入れておけば、安心だ)
 彼は、試験管を、板切の間にさしこんだ。それからふたたび繃帯を、元のように、ぐるぐると巻きつけたのであった。
 それが終ると、彼はほっとしたような顔つきになって、肘かけ椅子に、ぐったりともたれて、大きな息をついた。
 とたんに、廊下にあわただしい足音がしたと思ったら、医務室の扉があいて、看護婦がもどってきた。
 あぶないところであった。
 看護婦が、もうすこし早く、この部屋へもどってくれば帆村探偵は、たちまち、怪しい行動を、見られてしまうところだった。
「どうしたんですか、看護婦さん」
 と、帆村探偵は、なにげない様子で肘かけ椅子にもたれたままたずねた。
「あら、あなたをほったらかしにしておいて、どうもすみません。松ヶ谷さんが、石炭庫の中でたいへんなのよ」
 看護婦は、手術の道具を、下へおろすのにいそがしい。が、手よりも口の方は、もっとよく動く。
「あたし、こんなおどろいたこと、はじめてですわ。松ヶ谷団長さんの顔ったら、たいへんよ。顔中すっかり火傷(やけど)をしてしまって、それに眼が、ああ、もうよしましょう、こんなことをいうのは」
「眼が、どうしたのですか」
「あの様子では、もう永久に、物が見えませんわ、かわいそうに……。盲目になっては、猛獣をつかうことができないでしょう。お気の毒だわね。ミマツ曲馬団は、メキシコで見物にいって、とても冒険が多いので、感心しちゃったけれど、団長さんがあれでは、もうだめだわ」と、看護婦はしきりに残念がる。
「団長は、一体、石炭庫の中でなにをしていたのですか」と、帆村探偵は、こえをかけた。
「それが、たいへんなのよ。石炭の中に、団長さんが埋(うず)まっていたのよ。火夫(かふ)が、石炭をとりに来て、石炭の山にのぼると、真暗な奥から、うめきごえがきこえたんですって、びっくりして、仲間をよびあつめ、もう一度いって、奥をしらべてみると、誰だかわからない人間が、石炭の間から顔を出して歌をうたっていたんですって」
「歌をうたっていた?」
「そうなのよ、へんでしょう。顔がすっかり焼けただれているのに、歌をうたっているのよ。診察に行かれた先生もおどろいていらしたわ。普通の人間なら、もう死んでいるところですって」
「ひどいことをやったものですね。一体、誰が、そんなことをやったのでしょうね」
「さあ、あたし、そんなことは知らないわ。誰かにうらまれたのじゃないかしら、曲馬団の団長なんて、団員を、とてもいじめるのでしょう。ライオンや虎を打つ鞭(むち)でもってぴゅうぴゅうとたたくのでしょう」
「さあ、どうですかなあ」
 帆村探偵は、松ヶ谷団長が、見かけによらない人情にあつい人であることを知っていた。だから、団長は団員からうらまれるようなことは、なかったであろうと思った。問題は、BB火薬にあるのではなかろうか。それから、もう一つ、彼の心に思い出されるのは、美人ニーナ嬢の怪行動だ。ニーナ嬢にぶつかったのは、石炭庫へ下る途中の通路であった。
 BB火薬とニーナ嬢!
 BB火薬というものは、昨年始めてメキシコのある化学研究所でつくられた、おそるべき強力なる爆薬であった。そのつくり方はもちろん、こういう火薬があるということまで極秘になっていたはずのものだった。それが、どうしたわけか、ある一部へ秘密が洩(も)れ、別なところで、製造が始められたと、帆村は聞いていた。その問題のBB火薬が、雷洋丸の上で発見されたのである。
 帆村の眼底には、消せども消せども、なぜかBB火薬と並んでニーナ嬢の顔が浮かび上がってくるのであった。

   虚報(きょほう)

「船長。今も申しましたとおり、防空無電局では、あの時刻に、そんな怪飛行機追跡中だなんて警報を出したおぼえはないといっているのです。嘘(うそ)ではなさそうです。するといよいよこれは、どうも、ただごとではありませんよ」
 と、一等運転士がいった。船長室で、二人は向きあって額をあつめて、協議中であった。
 船長は、海図(かいず)から頭をあげ、
「まったくおかしなこともあるものだな。あの警報がうそだったとは、ふしぎだ。いや、奇怪至極(しごく)だ」
 と、いって、しばらく考えていたが、
「すると、本船の左舷横、五、六メートルのところに落ちたあの爆弾のことは、どう考えるかね」
「さあ、それですよ。船長」
 と、一等運転士は、顔を一そう、船長の方に近づけ、
「どうも私は、あのミマツ曲馬団というやつが怪しいと思うのですが、団員の中に、わるい者がまじっていて、ダイナマイトかなんかをもってて、甲板から海中へなげたのではないでしょうか」
「甲板から海中へダイナマイトをなげた? ふふん、なるほどね」
 と、船長は眼をつぶった。
「しかし、ダイナマイトを、なぜ海中へなげたのかな。まさか、魚を捕(と)るためじゃあるまい」
「船長、あの曲馬団の連中を、片(かた)っ端(ぱし)から、しらべて見てはどうでしょうか。そうすれば、松ヶ谷団長をやっつけたり、丁野十助を血痕(けっこん)だらけにしてしまった悪い奴が、見つかるかもしれません」
「そうだなあ。しかし、一人一人、しらべていたのでは、なかなからちがあかない。怪しい奴を見当つけて、それから先へしらべてみたら、どうか」
「さんせいですね。それについて、船長。私は、あの団員の中にいる曾呂利本馬という背の高くて、右足を繃帯でまいている男が、特に怪しいと思うのですがねえ。まず、あいつを引っぱってきてはどうでしょうか」
「曾呂利本馬? ふふん、ああこの船客か」
 と、船長は、船客名簿をくりながら、指さきで、曾呂利の名をおさえた。
「曾呂利などとは、ふざけた名前だ。こいつから先しらべる[#「先しらべる」はママ]ことはさんせいだ。さっそく、ここへ引っぱって来たまえ」
「はあ、承知しました」
 船長が許可したものだから、ただちに手配がなされ、曾呂利本馬、実は帆村探偵が、船長室に連れてこられた。
「おいおい、そんなに手あらくしてはいけない、この方はお客さまなんだから」
 船長は、水夫をいましめた。
「いや、この人は、どうしても来ないといって足のわるいくせに、あばれるもんですから、つい、こうなるのですよ」
「いけない、いけない。まあ、曾呂利さんとやら、ゆるしてください」
 と、船長は、さすがにていねいだった。だが、船長は曾呂利を一目見るより、これは只者(ただもの)でないと、にらんでしまったので、ゆだんなく彼のうえに、気をくばる。
「船長。これは失敗でしたよ。私をあのように、にぎやかにここへ引っぱりこむなんて、よくありませんでしたよ」
「あなたが、船員に反抗せられたのが、いけなかったのでしょう」
「いや、反抗はしませんでしたよ。船員のいったことは、うそです。おかげをもって、私は、たいへん危険に、さらされることになりました」
 そういって曾呂利は、なにかを気にしている様子であった。船長と一等運転士は、それを見て、ますますうたがいを彼のうえにかけた。
「まあ、おちついて、この椅子にかけてください。わしは船長として、ぜひあなたからききたいことがあるのです。正直に答えてくれますか」
「船長さん。私をおしらべになるのは、むだですよ。それよりも、すぐさま、船内大捜査(だいそうさ)をなさることです。殊に、貨物をいちいちしらべるのです。それと同時に、無電をうって、東京の検察局の援助を乞(こ)われるのがよろしい」
「なにを、ばかなことを」
「いや、その方が、いそぎます。『本船ハ危機ニ瀕(ひん)ス、至急救援ヲ乞ウ』と、無電を」
 といっているとき、廊下の方に、だーンと大きな銃声、とたんに一発の弾が、ひゅーっとうなりを発して、室内にとびこんできた。
「あっ、やられた」
 と、帆村探偵は叫んで、椅子からとびあがると、背中をおさえて、どうと下にたおれた。そのとき、船長室の電灯が、大きな音をたててこわれ、室内はまっくらとなった。
 何者が、うったのであろうか?

   若い紳士(しんし)

 銃声はなおも三発、室内に向けてうちこまれた。
 銃声をきいて、船員たちは、びっくり仰天(ぎょうてん)、とぶようにして船長の方へ。
「船長、船長!」
 かけつけた船員が、まっくらな室内にとびこむと、こえをかけたが、返事はなかった。
「船長、どうしました船長!」
 船員は、こえをからして叫んだ。
「おうい。船長はここにいる」
「おお、船長。無事ですか。いま、灯(あかり)をつけます」
「天井の電灯は、こわれた。卓子(テーブル)のうえのスタンドをつけてくれ」
「はい」
 スタンドが、ついた。室内はほの明るくなった。そのとき船長は、書類箱のうしろからはいだしてきた。
「あ、船長、どうされました」
「うん、ピストルでうたれたのだ。おお、ここに一等運転士がたおれている。誰か手をかせ」
「やあ、一等運転士」
 たすけ起すと、一等運転士は気がついた。肩のところを銃弾でうたれ、ほんのちょっとの間、気をうしなっていたのだ。
「大丈夫だ、おれは」と、彼は肩をおさえて立ち上った。
「ピストルをうった奴をさがしだせ。その窓からうったのだ」
 といって、彼は、あたりをふしぎそうに見まわしていたが、
「おや、船長、いませんよ」
「いないとは、誰が!」
「訊問(じんもん)中の曾呂利が」
「おお、曾呂利君が、銃声がきこえたとたんに、あっと叫んでたおれたのを見たよ。どこか、そのへんに、たおれていないか」
「さあ」
 一等運転士は、船員たちにも命令して、そのへんをさがさせた。
 しかるに、曾呂利本馬の姿は、どこにも発見されなかったのである。
「へんだなあ。どこへいってしまったんだろう」
「うん、たしかに、弾があたって、たおれたのを見たのじゃが」
 たおれた曾呂利本馬、いや帆村探偵の姿は、どこかに、かき消すように失(う)せてしまったのであった。
 そのとき、外が、そうぞうしくなった。しきりに船員がののしっている。
「おい、一等運転士。あれは、どうしたのか」と、船長はあごで外をさした。
 一等運転士は、肩口をおさえたまま、外にとびだした。
 するとそこには、船員と水夫とが、一人の若い女をおさえつけていた。
「ああ、一等運転士。この女です。ピストルをうったのは」
「なにっ」
「窓から、中をのぞいていたのです。私が、懐中電灯でてらしつけると、にげだしました。やっと、捕(とら)えたのですが、附近に、このピストルが落ちていました」
「ふーん、それはほんとうか。見れば、まだ年の若い娘のようだが、おや、君はミマツ曲馬団の」と、一等運転士はあきれ顔であった。
 房枝だ!
 狙撃犯人(そげきはんにん)として、そこに捕えられていたのは、房枝だったのである。
 そんなことがあって、いいであろうか。
 房枝は、まっ青になって、肩をふるわせている。
「ちがいます。あたくしじゃありません。ピストルをうつなんて、そんなことのできるあたしではありません」
「そうでもなかろう。曲馬団の娘なら、ピストルなんか、いつもぽんぽんとうっているではないか」
「いいえ、ちがいます。ピストルのことは、なにも知らないのです。ただ」
「ただ?」
「ただ、曾呂利さんが、船長室へ引っぱりこまれたので、心配になって、ここへ上ってきたのです」
「それから、ピストルを出して、あたしの肩をうったのだろう」
 と、一等運転士は、いたそうな顔をして、房枝をにらんだ。
 そのとき、人々をかきわけて、背の高い、そして色眼鏡(いろめがね)をかけた一人の若い紳士が、すすみ出た。
「ピストルをうったのは、その娘さんではない。別の女です」
「おや、誰です、あなたは、見かけない方だが」
 と一同の眼は、とつぜん現れた若い紳士の顔にあつまった。
 房枝も、自分をかばってくれるその紳士の顔を見たが、おどろきのあまり、あっと叫ぼうとして、あやうくこえをのんだ。

   動かぬ証拠(しょうこ)

「私が誰であろうと、そんなことは、二の次の問題です」
 とその見なれない青年紳士は、一等運転士たちを制し、
「それよりも、ピストルをうったのは、この娘さんではないのですから、そんなに手あらくしないで、まず娘さんのからだを、自由にしてあげてください」
 と、彼は、しっかりしたこえで、房枝をかばった。
 だが、船員たちには、なんのことだかわけがわからない。房枝は、たしかに船長室の窓の外に立っていたし、しかも、ピストルを手ににぎっていたのである。だから房枝が、やったことは明らかだ。それにもかかわらず房枝がやったのではないというその青年紳士こそ、気がどうかしているのではないかと、みな彼をあやしんだ。
「あなたは、誰だか知りませんが、後へ下っていてください。私たちはれっきとした証拠があるから、この怪(け)しからん女を、とりおさえているのだ」
 一等運転士は、ピストルでうたれた肩口をおさえつつ、気丈夫(きじょうぶ)にもきっぱり叫んだ。
「れっきとした証拠ですって。れっきとした証拠なら、こっちにもありますよ。ただし、この少女がピストルをうたないという証明になる証拠なんです」
 と、青年紳士は、あくまで、房枝をかばうつもりと見える。
「あなたは、まるで探偵みたいな口をききますねえ。われわれも、ほんとうの証拠があるのに耳をかさないというわけではないのです。あなたに自信があるなら、いってごらんなさい」

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