見えざる敵
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著者名:海野十三 

 或るときは、市民の一人がショーウインドーに背をもたせかけて、大東新報を読みだした。彼は自分の失踪事件がデカデカとでてるのを知った。
「おい、ウルランドはここにいるんだ」
 とその男の背中と思うあたりの硝子を破(わ)れんばかりに叩いたが、彼は背中に蚤(のみ)がゴソゴソ動いたほども感じないで、やがて向うへいってしまった。
 三日目に、手下のワーニャが乾分(こぶん)をつれてゾロゾロと通っていった。彼は必死になって、手をふり足を動かし、ゴリラのように喚(わめ)いたが、それもやっぱり無駄に終った。
 雑沓のなかの無人島に、彼はとりのこされているのだ。普通の無人島ならば、救いの船がとおりかかることもある。だが、この細長い巷(ちまた)の無人島は、完全に人間界を絶縁(ぜつえん)されてあった。
 三度三度の食事だけは、妙な孔(あな)からチャンと差入れられた。それは子供が食べるほどの少量だったので、彼はいつもガツガツ喰った。
 排泄作用(はいせつさよう)が起ったときには、そこに差入れてある便器(べんき)に果(は)たした。はじめは雑沓(ざっとう)する大通りを前にして、とてもそんな恥(はず)かしいことは出来なかったが、どうやらこっちから往来が見えても、外からこっちが見えないと分ってからは、すこし気が楽になった。そのうち彼は往来を檻(おり)の中の猿のようにジロジロ眺(なが)めながら用を足すまでになった。
 通行人の新聞面を見ていると、いよいよ彼ウルランド氏の生命は絶望となったと出ていた。彼はもうすっかり弱りきって、腹を立てる元気もなかった。
 十一日目に、はじめて彼のうしろの壁から人の声が聞えてきた。
「悪漢(あっかん)ウルスキーよ。その硝子函(ガラスばこ)の居心地(いごこち)はどうじゃネ」
「あッ、――」とウルランド氏は顔色をかえた。それは正(まさ)に、例の楊博士(ヤンはかせ)の皺枯(しわが)れ声(ごえ)に相違なかったのである。
「はッはッはッ。今ぞ知ったか。消身法(しょうしんほう)の偉力(いりょく)を」
「なにッ」
「汝(なんじ)の手に触(ふ)れる板硝子と、往来から見える板硝子との間には、五十センチの間隙(かんげき)がある。その間隙に、儂(わし)の発明になる電気廻折鏡(かいせつきょう)をつかった消身装置が廻っているのだ。汝(なんじ)の方から見れば外が見えるが、外から見ると何も見えないのだ。どうだ分ったか」
 ウルランド氏は蒼白(そうはく)になって戦慄(せんりつ)した。
「おいひどいことをするな。早くここから出してくれ。貴様の云うことは何でも聞くからここからすぐ出してくれ」
 楊博士は薄笑いをして、
「まあ当分そこに逗留(とうりゅう)するがいい。だが町もいい加減(かげん)見飽(みあ)きたろうから、消してやろう」
 そういった声の下に、今まで見えていた往来(おうらい)が、まるで日暮れのように暗くなり、やがて真暗(まっくら)なあやめも分らぬ闇と変りはてた。その代り電灯が一つポツンとついた。
 それと入れ代って、繁華(はんか)な南京路(ナンキンろ)の往来では、俄(にわ)かに騒ぎがはじまった。ショーウインドーの中で、半裸体(はんらたい)になった紳士が、いかがわしい動作を通行人に見せているというので、たいへんな人だかりだった。
 そのうちに、何だあれは行方不明のウルランド氏ではないかといい出した者があり、それは一大事だと騒ぎはますます大きくなっていった。これは楊博士が、消身装置の廻折鏡を反対に廻したために、今まで見えていたショーウインドー外(がい)の光景が見えなくなり、その代り今まで外から見えなかったショーウインドーの内部が明らさまに見えるようになったのだった。そういうこととはしらず、ショーウインドーの中のウルランド氏は悠々と公衆の面前で用をたしている。市民は愕(おどろ)きかつ呆(あき)れ、やがてはとめどもなく笑いだした。なんという無恥(むち)であろうか。
 警官隊が駈けつけたが、そのウルランド氏を堅固(けんご)な硝子函(ガラスばこ)の中から救いだすには、まる一日かかった。二枚の板硝子の間に仕掛けられていた楊博士の消身装置は、その救助作業のうちに壊(こわ)されてしまった。
 救い出されたウルランド氏は、転(ころ)んでも只(ただ)は起きない覚悟で、遭難記を自分の大東新報に掲(かか)げたが、それは市民たちの侮蔑(ぶべつ)を買っただけであった。社交界にウルランド氏が現れたときは、さすがの貴婦人たちも、一せいに背中を向けた。誰も彼もニュース映画によってウルランド氏の生理現象を詳(つまびら)かに見ていたので、そういう人物と握手しようとは、誰一人として思わなかったのである。
 ここに於(おい)て楊博士の復讐(ふくしゅう)は、ようやく成ったようであるが、その後、この広い上海(シャンハイ)のなかに博士の姿を見た者は只の一人もなかった。




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