地獄の使者
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著者名:海野十三 

 それより前亀之介は変名して、たびたび兄を脅迫し、その告白書を五十万円で買取らないかと持ちかけたのであった。これには彼亀之介の共謀者が、しばしば鶴彌に会ったが、亀之介は最後まで自分を隠しおおせたつもりであった。ところが鶴彌の方は、途中から気がついた。殊にその告白書を握っている人物が戦災で死に、もう大丈夫と思っていたところが、それが出て来たところから、これはてっきり土井の遺族が一緒に策動しているものと睨み、そこで彼は土居三津子を呼びこんで、いろいろな方面から脅迫を試みていたところだった。三津子は、その告白書を見たことがあり、そしてそれは亀之介が立合っていたことを鶴彌に洩したものだから、鶴彌はこれに弟が関係していることを感付いたらしい。
 しかし鶴彌にとっては、あの告白書が非常に重大であるので、何を措いても先ずあれを取返そうとしてかかった。彼は五十万円を共謀者に渡した。それに替って、あの恐ろしき「地獄の使者」であるところの缶詰が、彼に手渡されたのである。彼は大安堵をして、告白書を焼却したその直後に殺されてしまったのだ。
 彼の考えでは、その告白書の処置をつけた上で、全面的に弟亀之介を痛めつけるつもりでいたのだ。亀之介の方でも、とくにそのことを感付いていて、告白書が兄の手に渡るや否や、あとは大風が自分の方へ向って吹きまくるであろうこと、そして多分自分は放逐されるだろうと先の見透しをつけた。そしてそれなら一層のことにと、兄鶴彌を殺害する意志をかため、その計画に移ったのである。そしてあの告白書を返してやると同時に、その場で兄を地獄に追いやることを考えつき、これこそ一石二鳥であるわいとほくそ笑んだのであった。彼は御丁寧にも死者を後でピストルで撃ち、そのときに殺害したものと思わせ、犯人容疑者まで用意したのだった。
 尚、毒瓦斯ケリヤムグインは、鶴彌を斃した後、通気孔や窓の隙間から自然に外へ出て行き、稀薄となっていった。そして約一時間半後、亀之介がクラブを脱出して帰邸し、庭から窓をあけたときには、毒瓦斯はもう致死濃度ではなかったのである。
 序(ついで)に記しておくが、鶴彌と亀之介は兄弟であるが、母親を異にしていた。二人の母親同士は、生きている間、互いに激しく睨み合ったもので、このことについてもすこぶる怪奇事件がまといついているので[#「いるので」は底本では「あるので」]あるが、それは本件に関係がないので、ここには述べない。
 さて、右のとおりの事情が判明して、事件の筋は明瞭となったのではあるが、亀之介は係官を最後まで手こずらせた。殊に亀之介が、鶴彌の遺産を狙うものではないことを強く主張して、係官をまごつかせた。このことは、まだ犯人の判明しない捜査の最初の頃、亀之介が自供したところでもあるが、鶴彌の遺産は、彼亀之介が継ぐのではなくして、鶴彌には庶子伊戸子というのがあり、それが継ぐのだと申立て、自分が鶴彌を殺して遺産を狙ったものではないと反発した。
 そこで戸籍しらべとなったが、鶴彌の書斎から出て来た戸籍謄本を見ると、なるほど伊戸子という庶子の名があった。彼女は十歳であった。そこで亀之介が遺産相続を狙ったものではないことが認められた。だがどうもおかしいので、なおも続いて戸籍調査をしてみたところ、その庶子の伊戸子という娘は、その生母ともろともに、戦災で死んだことが判った。だから今となっては、鶴彌の遺産は弟亀之介が継ぐ順序になっていたのである。亀之介が一所懸命にお道具立てした最後の欺瞞も、とうとうこれで化の皮を剥がされてしまった。これで事件に関することは大体述べ終ったように思う。
 帆村は、ようやく友人の土居記者に会わす顔があった。それにしても帆村の殊勲であるところの、例の灰皿の上の黒ずんだ灰に目をつけた一事は後で大いに検事からほめられたが、そのとき帆村は、
「いや、違うのです、違うのです」
 と強く打消した。そしてこんな打明け話をして一同を失笑させた。
「もし殊勲者がありとすれば、それはうちの事務所の助手八雲千鳥嬢ですよ。事件捜査中あれが『先生がお残しになった灰皿の中の紙の焼け灰から、先生がそこにいらっしゃることが分ったんです。なぜってその焼け灰の上に、鉛筆でお書きになった先生の御伝言が光っていましたから、それを読んでみると、先生がそこへ行っていらっしゃることが分ったんです――』八雲嬢はそういったんです。実は僕が事務所を出るとき、八雲君はまだ出勤して居らず、そこで伝言書を鉛筆で書いたんですが、どこまであのお嬢さんが気がつくかと思い、僕はそれをわざと火をつけて灰にし、僕の机の灰皿の上にそっと載せておいたのです。ところが八雲嬢は見事にそれを見つけて判読したというわけです。――僕は感心のあまり、灰皿の中の黒ずんだ灰に強い印象を植えつけられ、さてこそ例の小卓子の上の灰皿の中にある黒ずんだ灰を見たとき、ひどく注意をひきつけられたんです。それから後はご存じのとおりで、黒い灰から犯人にまで続いている糸を手ぐるようなことになったんです。ですから八雲嬢のお手柄から出発しているんですよ。僕じゃありません」
 帆村はそういい張った。そこで検事たちも強いてそれを帆村と争おうとはせず、そのかわりそのうち土曜日の午後にでも甘いお菓子の折を一同がぶら下げて帆村探偵事務所を訪問し、名助手八雲千鳥嬢に親しく拝顔の栄を得ようということに、一同、相談がまとまった。




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