地獄の使者
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著者名:海野十三 

 帆村荘六だった。彼は検事たちと共に確かに自動車に乗って出掛けた。それがなぜここに姿を現わしたのであろうか。
「一度あなたとゆっくり話し合いたいと思っていたのですがね。今丁度いいですね、中でお話を伺いましょう。さあどうぞ」
 帆村にすすめられて、亀之介は割り切れない気持で、室へ再び足を踏み入れた。と、部屋の隅の洗面器のあるところのカーテンをはねあげて、一人の警官が出て来た。亀之介はどきんとした。この部屋には誰も居ないと思っていたのに、どうしたことであろう。
 その警官は帆村へ何か合図を目で送ると、椅子を整頓し、二人の話しやすいように並べかえた。
「どうぞ。お席が出来ました。お茶も持って参りましょう」
 警官は部屋を去った。帆村は亀之介にすすめて椅子へかけてもらい、自分もその向こうに腰を下ろした。
「早速ですが、旗田さん、ケリヤムグインというあの毒瓦斯材料をあなたはどこで手にお入れになったのですか」
 帆村の唐突の質問に、亀之介の顔色はさっと変った。
「知らんですな、そんなこと……」
「ケリヤムグインはドイツで創製せられた毒瓦斯材料で、常温では頗る安定な油脂状のものです。それを高温にあげ、燃焼させますとたちまち猛烈な毒瓦斯となります。ケリヤムグインの一ミリグラムは、燃焼して瓦斯体となることによって、よく大広間の空気を即死的猛毒性に変じます。――あなたは、ケリヤムグインを書簡箋に吸収させました。そしてその書簡箋は、缶詰の中に厳封して、旗田鶴彌氏へ送ったのです。もちろんその書簡箋には、或る文句が書いてありましたがね。……如何です。それを否定なさいますか」
「もちろん否定する。そんな馬鹿気た話を、誰が真面目になって聞くものですか」
 亀之介は腕組みをして嘯く。帆村はいよいよ静かな態度で、次なる言葉を繰り出す。
「その書簡箋を鶴彌氏が取出すと、文面を読んで確かめた上で、火をつけて焼き捨てたのです。その焼き焦げの黒い灰が、あそこの灰皿の上に載った。その頃鶴彌氏は、猛毒瓦斯を吸って中毒し、氏の心臓はぱったり停ってしまったのです。そしてそのお相伴をくらって、あそこの洗面器の下の下水穴から顔を出した不運な溝鼠が、鶴彌氏に殉死してしまったというわけなんですが、如何ですな」
「大いへん面白い御創作ですね。どこかの懸賞小説に投稿なさるといいですなあ」
「その書簡箋に書いてあった文面が、また興味あるものなんです。こう書いてありましたがね、“告白書。拙者乃チ旗田鶴彌ハ昭和十五年八月九日午後十時鶴見工場ニ於テ土井健作ヲ熔鉱炉ニ突落シテ殺害シタルヲ土井ガ自殺セシモノト欺瞞シ且ツ金六十五万円ノ会社金庫不足金ヲ土井ニ転嫁シテ実ハ其ノ多クヲ着服ス、其後土井未亡人多計子ヲ色仕掛ヲ併用シテ籠絡シ土井家資産ノ大部分ヲ横領スル等ノ悪事ヲ行イタリ、右自筆ヲ以テ証明ス。昭和十六年八月十五日、東京都麹町区六番町二十五番地、旗田鶴彌印”――というんですが、これは如何です」
 帆村はメモを見せながら訊いた。亀之介は、ふふんと鼻で嗤(わら)った。
「兄貴は悪い奴ですね」
「こういう貴重な告白書が缶詰の中に入って届けられたものですから、鶴彌氏としては狂喜して、早速それをその場で火をつけて焼き捨てたのですが――まさか自分の書いたその告白書にいつの間にか猛毒ケリヤムグインが浸みこませてあったとは知らず、鶴彌氏は狂喜の直後に地獄へ旅立ったという――これは如何です。御感想は……」
「なかなかお上手ですな、小説家におなりになった方が成功しますね」
 帆村は肯いて、メモをポケットに収った。
「それでは失礼ですが、あなたの左のポケットに入っているハンカチーフをお見せ願いたいのですが……」
 亀之介はぎょっとして立上った。帆村もまた立上った。亀之介は、あたりへ急いで目を走らせたが、戸口のとこへ、さっきの警官を始め二名の新手の警官が現われて、しずかに中へ入って来た。
「失礼ながらさっきあなたが黒い灰をハンカチーフにお収いになったことは、進藤君――そこに居る警官が、あそこの洗面所のカーテンのうしろから一伍一什拝見していたんですよ。うまく掏(す)りかえたおつもりでしたね」
 これは亀之介への止めの刃であった。
「これが欲しいのならあげますよ」
 亀之介は観念したものか、太々しくいって、ポケットからハンカチーフ包をとりだして帆村の方へ差出した。
「だがね帆村君。中の灰はこのとおり微粉状になっていますよ。お気の毒ながら、さっき読んだ告白書の文句も見えず、それから……」
「それからケリヤムグインも燃焼して、その痕跡も残っていないと仰有るのですか」
 帆村はぐっと唇を横に曲げた。
「そういう御心配があるのなら、あとから御覧に入れましょう。あなたのお取替になった黒い灰は、あれは僕があとから拵えておいた第二世なんです。第一世は、灰の形もくずさず、硝子の容器におさめて、あっちに保存してあります」
「えっ」
「もちろんその灰に、紫外線をかけましてね、さっき読み上げた告白書の文句を読み取ったのです。それからあなたさまにはたいへんお気の毒ながら、その告白書の一部が燃え切らずに残っていましてね――あの黒い灰を灰皿から横へ移してみて始めて分ったのですが、灰の下に、一枚の切手位の面積の燃えない部分が残っていたのですよ。それを分析して――なにをなさる」
「は、はなせ」
 亀之介は、椅子を台にして窓の枠へとびのり、外へ飛び下りようとした。が、警官が素早くその片足をつかまえてしまった。
「身体検査をして下さい。心配ですからねえ」
 帆村はそれを頼んだ。亀之介の身体は厳重に調べられた。
「そこに妙なところにポケットがある。なにか入ってやしませんか」
「あ、ありました。薬の包らしいが……」
 亀之介はそれを取戻そうとしてもがいた。しかしそれは帆村の手に渡った。
「ああ危かった。これが例の猛毒ケリヤムグインらしい。これをこの部屋で煙草でも交ぜて燃されるものなら、この人と一緒にわれわれも一緒に[#「この人と一緒にわれわれも一緒に」はママ]無理心中というわけだ。おお、あぶなかった」
 警官たちは目をぱちくり。
「すると――すると当人の持っている煙草もみんな危険物なんですね」
「そうです。煙草もみんな押収しておかれたがいいでしょう」
 このとき亀之介の手首には、手錠がかかった。彼は椅子にどっかと尻を据え、自由な方の手で、自分の頭を抱いた。

   呪わしき人々

 事件は解決したのだ。亀之介は、鶴彌殺しの犯人容疑者として本式に拘引された。それから取調べによって彼の犯行たることは十分確実となった。
 それはそれとしてこの物語の上では、まだ書き足りないところがあるようだから、それを補足しておきたい。帆村は、長谷戸検事たちと一緒に、お手伝いお末のアパートへ出発しながら、いつの間にか旗田邸に戻っていた。そのわけは、帆村が旗田邸内にトリックを仕掛けておいたので、それにひっかかる相手の様子を見るために、自動車が通りへ出ると間もなく車を停めてもらって、彼は旗田邸へ引返したのであった。もちろん検事には、このことを予(あらかじ)め打合わせずみであった。トリックというのは、もちろん旗田亀之介を鶴彌の広間へひき出して、あの灰皿の上の黒ずんだ灰を盗ませるためだった。そしてそれを確認するために、警官の一人を洗面所のカーテンの蔭にかくしておいたことは、既に陳べたとおりである。
 一方検事たちの一行は、お末のアパートの捜査をすませたのち、ミヤコ缶詰工場へとびこんだ。まず問題は、お末すなわち本郷末子の行状を調べることと、例の空き缶についていた未詳の指紋の主を探しあてることだ。お末の評判は悪くなかった。すこしヒス気味ではあるが、仲々よく働く女で、この工場でも相当目をかけていることが分った。況んやこの婦人に、浮いた噂のあろうはずがなく、またそうかといってひねくれて人殺しをするような気配もなかったことを証言する人々があった。
 要するにお末は、出来るだけ働いて、貯金を殖やすことが楽しみであったのだ。そういう女が殺人罪を犯すようなことは殆んど考えられなかった。しかしなぜ彼女の指紋が、問題の空き缶についていたのであろうか。この点については俄に解決がつかなかった。
 そこで次に、未詳の指紋の主の調べに入ったのであるが、これは案外楽に見つかった。井東参吉というのが、その指紋の主であったのだ。彼井東は、この工場の工員の一人であって、試験部附の缶詰係だった。つまりこの工場で、まだ売出し前の食料品を試験的に缶詰にする工程において、彼はそれの最後の仕事として、蓋をつけて周囲を熔接して缶詰に出来上らせる部署で働いていた。彼のところには、自動式ではなく手動式の缶詰器械があった。これは旧式のものだが、数の少い試験用缶詰をパックするには便利なものであった。
 井東は三十歳ばかりの、この工場では古顔の工員であった。彼には一つの気の毒な病気があった。麻薬中毒者なのであった。彼は取締のきびしい中をくぐって、麻薬を手に入れなければならない悩みを持っていた。そんなことから、彼は普通の製造工程のところから遠ざけられて、試験部で働いていたわけである。
 井東を調べたところが、はじめは仲々いわなかった。しかし取調べの途中で、彼が麻薬中毒者であることも分り、それから糸がほぐれていって、遂に彼が白状したところによると、問題の軽い缶詰は、旗田亀之介に頼まれて、彼井東が缶詰仕上げをやったに相違ないことが明白となった。もちろん彼は、缶詰の中にそんな恐ろしいものが入っているとは知らなかったという。ただ亀之介からいわれた通りに蓋をつけて熔接したのだという。彼は亀之介からしばしば麻薬を受取っているので、頼まれたことはしないわけにはいかなかったのだという。
 その缶詰をこしらえあげたところへ、偶然本郷末子が入って来て、その缶詰を手に取上げようとしたので、井東はあわてて彼女の手を抑えたという。だからお末の指紋は、このときについたと分った。
 亀之介は、お末がここに勤めていることを知っていたので、常に警戒して、お末と顔を合わさないようにしていた。問題の缶詰を封入した日も、彼はお末が入って来たと知ると、急いで部屋から逃げだした。お末の方は亀之介がこんなところに来ているなどとは夢にも思わないから、亀之介が反対の扉から出て行く姿をちらと見ても、それが亀之介だとは悟らなかったのだ。それにお末は、前にもいったように、ひどい近眼だった。亀之介は、こうして鶴彌の告白書の入った缶詰を用意し終ると、それを共謀者の手を通じて兄鶴彌に送ったのである。
 それより前亀之介は変名して、たびたび兄を脅迫し、その告白書を五十万円で買取らないかと持ちかけたのであった。これには彼亀之介の共謀者が、しばしば鶴彌に会ったが、亀之介は最後まで自分を隠しおおせたつもりであった。ところが鶴彌の方は、途中から気がついた。殊にその告白書を握っている人物が戦災で死に、もう大丈夫と思っていたところが、それが出て来たところから、これはてっきり土井の遺族が一緒に策動しているものと睨み、そこで彼は土居三津子を呼びこんで、いろいろな方面から脅迫を試みていたところだった。三津子は、その告白書を見たことがあり、そしてそれは亀之介が立合っていたことを鶴彌に洩したものだから、鶴彌はこれに弟が関係していることを感付いたらしい。
 しかし鶴彌にとっては、あの告白書が非常に重大であるので、何を措いても先ずあれを取返そうとしてかかった。彼は五十万円を共謀者に渡した。それに替って、あの恐ろしき「地獄の使者」であるところの缶詰が、彼に手渡されたのである。彼は大安堵をして、告白書を焼却したその直後に殺されてしまったのだ。
 彼の考えでは、その告白書の処置をつけた上で、全面的に弟亀之介を痛めつけるつもりでいたのだ。亀之介の方でも、とくにそのことを感付いていて、告白書が兄の手に渡るや否や、あとは大風が自分の方へ向って吹きまくるであろうこと、そして多分自分は放逐されるだろうと先の見透しをつけた。そしてそれなら一層のことにと、兄鶴彌を殺害する意志をかため、その計画に移ったのである。そしてあの告白書を返してやると同時に、その場で兄を地獄に追いやることを考えつき、これこそ一石二鳥であるわいとほくそ笑んだのであった。彼は御丁寧にも死者を後でピストルで撃ち、そのときに殺害したものと思わせ、犯人容疑者まで用意したのだった。
 尚、毒瓦斯ケリヤムグインは、鶴彌を斃した後、通気孔や窓の隙間から自然に外へ出て行き、稀薄となっていった。そして約一時間半後、亀之介がクラブを脱出して帰邸し、庭から窓をあけたときには、毒瓦斯はもう致死濃度ではなかったのである。
 序(ついで)に記しておくが、鶴彌と亀之介は兄弟であるが、母親を異にしていた。二人の母親同士は、生きている間、互いに激しく睨み合ったもので、このことについてもすこぶる怪奇事件がまといついているので[#「いるので」は底本では「あるので」]あるが、それは本件に関係がないので、ここには述べない。
 さて、右のとおりの事情が判明して、事件の筋は明瞭となったのではあるが、亀之介は係官を最後まで手こずらせた。殊に亀之介が、鶴彌の遺産を狙うものではないことを強く主張して、係官をまごつかせた。このことは、まだ犯人の判明しない捜査の最初の頃、亀之介が自供したところでもあるが、鶴彌の遺産は、彼亀之介が継ぐのではなくして、鶴彌には庶子伊戸子というのがあり、それが継ぐのだと申立て、自分が鶴彌を殺して遺産を狙ったものではないと反発した。
 そこで戸籍しらべとなったが、鶴彌の書斎から出て来た戸籍謄本を見ると、なるほど伊戸子という庶子の名があった。彼女は十歳であった。そこで亀之介が遺産相続を狙ったものではないことが認められた。だがどうもおかしいので、なおも続いて戸籍調査をしてみたところ、その庶子の伊戸子という娘は、その生母ともろともに、戦災で死んだことが判った。だから今となっては、鶴彌の遺産は弟亀之介が継ぐ順序になっていたのである。亀之介が一所懸命にお道具立てした最後の欺瞞も、とうとうこれで化の皮を剥がされてしまった。これで事件に関することは大体述べ終ったように思う。
 帆村は、ようやく友人の土居記者に会わす顔があった。それにしても帆村の殊勲であるところの、例の灰皿の上の黒ずんだ灰に目をつけた一事は後で大いに検事からほめられたが、そのとき帆村は、
「いや、違うのです、違うのです」
 と強く打消した。そしてこんな打明け話をして一同を失笑させた。
「もし殊勲者がありとすれば、それはうちの事務所の助手八雲千鳥嬢ですよ。事件捜査中あれが『先生がお残しになった灰皿の中の紙の焼け灰から、先生がそこにいらっしゃることが分ったんです。なぜってその焼け灰の上に、鉛筆でお書きになった先生の御伝言が光っていましたから、それを読んでみると、先生がそこへ行っていらっしゃることが分ったんです――』八雲嬢はそういったんです。実は僕が事務所を出るとき、八雲君はまだ出勤して居らず、そこで伝言書を鉛筆で書いたんですが、どこまであのお嬢さんが気がつくかと思い、僕はそれをわざと火をつけて灰にし、僕の机の灰皿の上にそっと載せておいたのです。ところが八雲嬢は見事にそれを見つけて判読したというわけです。――僕は感心のあまり、灰皿の中の黒ずんだ灰に強い印象を植えつけられ、さてこそ例の小卓子の上の灰皿の中にある黒ずんだ灰を見たとき、ひどく注意をひきつけられたんです。それから後はご存じのとおりで、黒い灰から犯人にまで続いている糸を手ぐるようなことになったんです。ですから八雲嬢のお手柄から出発しているんですよ。僕じゃありません」
 帆村はそういい張った。そこで検事たちも強いてそれを帆村と争おうとはせず、そのかわりそのうち土曜日の午後にでも甘いお菓子の折を一同がぶら下げて帆村探偵事務所を訪問し、名助手八雲千鳥嬢に親しく拝顔の栄を得ようということに、一同、相談がまとまった。




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