地獄の使者
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著者名:海野十三 

係官たちは帆村にそういわれて何事かを思い出そうと努めたが為である。だが、いつまでたっても、誰も発言しない。
「もうお忘れになりましたか。鼠の屍骸のことです。あそこの洗面器の下に死んでいた鼠のことです」
 ああ、と声を発する者もあった。帆村は言葉を続けた。
「あの鼠の死因は、古堀博士の鑑定の結果、中毒による心臓麻痺だと報告せられているのです。おもしろいではありませんか、鼠も旗田氏も同じ原因によって同時に生命を絶っているのですからね」
「それはたしかに興味がある話だ」と検事がいった。
「で、君の結論はどうなんだ」
「結論は今のところそれだけですよ。いや、それをちょっと言い換えましょうか。旗田鶴彌氏もあの鼠も、共に瓦斯体によって中毒したんだといえるのです。――だから、まずこの婦人はこの部屋にいる間にそれを行ったのではないということが分る。なぜならば、そんなことをすればこの婦人も共に瓦斯中毒によってその場に心臓麻痺をおこさねばならないわけになりますからねえ」

   嘯(うそぶ)く亀之介

 瓦斯(ガス)中毒による心臓麻痺鋭だ。本当かしらん?
「面白い考えだが、それを証拠立てることができるだろうか」
 長谷戸検事は大いに心を動かしながら、しかも立証困難と見て自分の心の動揺を制している。
「それはあんまり突飛すぎる。これまでのわれわれの捜査を根本からひっくりかえすつもりなんですか、君は……」
 と、大寺警部は露骨に不愉快さをぶちまけた。
「結果に於てそういうことになるのも已むを得ないですね、もしも僕が今のべた説が真に正しいものであれば……」
「君は、瓦斯中毒説が正しいと思っているのか、それともまだそれほど確信がないのか、どっちなんだい」
「警部さん。僕はほんのすこし前に、瓦斯中毒説をここで主張していいことに気がついたばかりです。これを証拠立てることは、僕としてもこれからの仕事なんです。しかし僕は今後この方面に捜査を続けます。とにかくこの場は、妙な嫌疑をおしつけられそうになった土居三津子氏のために、弁じたことになればいいのです」
 三津子に対する訊問は、この際ちょっと脇へ寄せておく外なかった。帆村の言い出した瓦斯中毒説は、真偽いずれにしても多数の論点を抱えこんでいる重大なる問題であったから。だから検事が、
「瓦斯中毒説を、もうすこし深く切開してみようじゃないか」
 といったのは尤もだった。
「まず先に、私にいわせて貰おう」と検事は言葉を続けた。「瓦斯中毒のために、この家の主人鶴彌と一匹の溝鼠(どぶねずみ)とが同時に心臓麻痺で死んだとする。そういうことは如何なる状況の下に於て在り得べきことか。その毒瓦斯は如何なる種類のもので、どこにどうして保存されてあったか。そしてそれは如何に殺人のために用いられたか。それからその毒瓦斯は鶴彌と鼠一匹を斃(たお)しただけで、他に被害者を生じなかったのはどういうわけか。――まあ、ざっとこれだけのことが明白にせられなければならないと思う。そうじゃないかね、帆村君」
 帆村は聞き終って、かるく肯きながら検事の方へ静かに向き直った。
「正直なことを申すなら、今検事さんが提示された諸件について、僕は一々満足な回答を持ち合わせていません。つまり、これから調べたいと思うことばかりなんです。なにしろ気がついたのが、つい先刻のことだったものですから――ですが、こうなれば僕は、検事さんのお許しを願って、その方向の捜査をしながら一々回答を出して行こうと思うんですが、どうでしょう」
「つまり君は、瓦斯中毒説を立証する捜査を自分に委せよ、そして皆ついて来いと、こういうんだね」検事はいった。「それもいいだろう。私は君にしばらく捜査を委せてもいいと思う。外に誰か異議があるだろうか。異議があればいいたまえ」
 誰も異議を唱える者はなかった。そこで帆村は独自の捜査を進行することとなった。
「まず旗田亀之介氏を訊問したいのです。ここへ連れて来て頂きたい」
 何のための故人の弟の訊問か。
 やがて亀之介は入って来た。今日は服装も前日に比べてきちんとしている。昨夜の酒量も呑み過ぎたという程ではない顔色だった。
「もう真犯人はきまりましたか。誰でした。え、まだですって、まだ分らないんですか。なるほどこれは大事件だ。連日これだけの有数な係官を擁しても解けないとは。……検事さん、兄は心臓麻痺で死んだという話だが――ええ、早耳でね、僕のところへも聞えて来ましたよ――するてえと兄は病気で急死したんじゃないんですか。しかしそれではあなた方の引込みがつかないから、これは……」
「そこへお懸けなさい。今日は帆村君が代ってお訊ねします」
 検事は亀之介の騒々しい毒舌を暫く辛抱して聞いた上で、空いた椅子を指した。亀之介は、それをいつものように窓の方へ少し引張って腰を下ろした。
「あなた、失礼。その棚の上にある灰皿を一つこっちへ。やあ恐縮」
 警官の手から灰皿を受取ると、亀之介はそれを窓の枠の上に置き、ケースから紙巻煙草をとりだして火をつけた。
「旗田さんに伺いますが、窓の外から兄さんを撃ったピストルを、家政婦の小林さんの部屋の花瓶の中に入れたのは、どういうおつもりだったんですか」
「ええッ、何ですって……」
 おどろいたのは亀之介だけではなかった。長谷戸検事も大寺警部もその他の係官も、帆村のいい出したことが意外だったので、おどろいた。そんなことは瓦斯中毒説についての訊問ではなく、中毒説以前の捜査への復帰ではないか。尤も亀之介のおどろきは、係官のそれとは違っていた。
「僕が撃ったなんて、誰がいいました。とんでもないことをいう……」
「いや、私は今、あなたが兄さんを撃ったとはいわなかったつもりですが、あなたはそういう風におとりになった。それはともかく、何者かが旗田鶴彌氏射撃に使ったピストルを、あなたは家政婦の部屋に隠した。なぜです」
「そんなことは嘘だ」
「あのとき押入の中に、小林さんの愛人の芝山宇平氏が隠れて居たんですよ。あなたがピストルを空の花瓶に入れたとき、こつんと音がしたことまで芝山氏は証言しています」
 亀之介は、思わず舌打ちせした。そしてそのあとで、まずい舌打をしたと気がついて、帆村の顔をちらりと盗み見した。
「外出先から帰宅せられたあなたは、家政婦を呼び出して、コップへ水を一ぱい持って来るように命じ、家政婦が勝手の方へ行った留守の間に、あなたはピストルを持って家政婦の居間へ入り、それをしたのです。そうでしょう」
「知らんですなあ、そのことは……」
「じゃあ別の方面から伺いましょう。あなたはあの夜、三度この邸へ帰って来て居られる」
 帆村が意外なことをいい出したので、係官の顔がさっと緊張する。当人の亀之介も、びくんとした。
「第一回は午後十時三十分から十一時の間、第二回は午後十二時から零時三十分の間、そして第三回は、家政婦を起して家へ入れてもらった午前二時。この三回ですが、そうでしょう」
「とんでもない出鱈目だ」
 亀之介はすぐ否定したが、語勢は乱れを帯びていた。
「東京クラブの雇人たちが証言しているところによれば、あなたは右の時刻前後に亙る三回、クラブから出て居られる。第一回と第二回のときは、帽子も何も預けたまま出て居られる。第一回は窓からクラブの庭へとび下りた。第二回のときはクラブの調理場をぬけて裏口から出た。第三回目は玄関から堂々と出られた。このときは帽子も何も全部、預り処から受取って出た。そうでしょう」
「知らないね、そんなことは」
 亀之介は否定したが、語勢は一層おちた。
「第一回のときは、この邸の庭園に入り、その窓の外から室内を窺った……」
 亀之介はぎくりとして、窓枠にかけていた手を引込めた。
「あなたは室内に於て、兄の鶴彌氏と土居三津子の両人が向きあっているところを見た。そこであなたは、時機が悪いと思って、庭園を出てクラブへ引返した」
「君は見ていたのかい。見ていたようにいうからね」
 亀之介は、やや元気を盛り返した。
「第二回目は、あなたがその窓から室内を窺うと、もはや三津子氏の姿はなく、兄の鶴彌氏ひとりになっていた。その鶴彌氏は、そこにある皮椅子に腰かけ、左手を小卓子の方へ出して、ぐっすり睡っているように見えた。実はこのとき鶴彌氏はもはや絶命の後だったんだが……」
 帆村は、亀之介の言葉を待つかのように、そこで語をちょっと切った。だが亀之介は何もいわなかった。
「……それからあなたは、外からその硝子窓を開いた。あなたはその方法を研究して知っていた。他愛なく開く仕掛になっていたんだ。……それからあなたは、窓につかまったまま、ピストルを撃った。弾丸は見事に鶴彌氏の後頭部に命中した。近いとはいえ、なかなか見事な射撃の腕前です。思う部位に命中させているんです[#「いるんです」は底本では「いるです」]からねえ、殊に窓につかまったまま撃ってこれなんだから大した腕前だ。……あなたは大日本射撃クラブで前後十一回に亙って優勝して居られますね。どうです、今の話には間違いないでしょう」
「既に死んでいる者を射撃した。これは死体損壊罪になる可能性はあっても、決して殺人罪ではないですね。ご苦労さまです」
「あなたは兄さんを消音装置のあるピストルで射撃したことを認められたのですね」
「認めてあげてもいいですよ、僕が撃つ前に兄が死んでいたことが立証される限りはね。兄に天誅を加えたときには、もう兄は地獄へ行ってしまった後だった」
「兄さんは天誅に値する方ですか」
「故人の罪悪をここで一々復習して死屍に鞭打つことは差控えましょう。とにかく彼の行状はよくなかった」
「あなたは、硝子窓を外から押して合わせた。きっちりとは入らなかった。どこかに閊(つか)えているらしかった。そのままにしてあなたはクラブへ引返した。そうでしょう」
「そうでしょうねえ」
 亀之介は、こんどは肯定すると、勢よく煙草をつまみ上げて口へ持っていった。

   空き缶詰

 亀之介を退室させた後、帆村は「どうでしたか」と感想を検事たちに需(もと)めた。
「さっぱり瓦斯中毒に関する訊問は出なかったじゃないか」
 長谷戸検事は不満の意を示した。
「そうでもないのですがねえ。例えば、こういう事実が分ったと思います。すなわち鶴彌氏の死ぬ前には、この窓はちゃんと閉っていたのです。それから十二時頃、亀之介の二度日の帰邸のとき窓は開放されたこと、そしてその後で閉じられたが完全閉鎖ではなかったこと――これだけは今亀之介が認めていったのです」
「それはそうだが……」
「毒瓦斯が放出されたとき、この部屋は密閉状態にあったことを証明したかったのです。密閉状態にあったが故に、毒瓦斯は室内の者を殺すに十分な働きをしたわけです。鶴彌氏が死んだばかりではなく、洗面場の下にいた鼠までが死んだのですからねえ」
 帆村はようやく亀之介訊問の意図をはっきりさせた。
 外に感想はと、帆村が重ねて聞くと、大寺警部は笑いながらいった。
「君はひどいね。亀之介をうまくひっかけたじゃないか。芝山は押入の中に入っていたが、入って来た人物の顔を見なかったというのに君がさっき亀之介にいった話は、芝山が亀之介を見たように聞えたよ。もっとも君は、芝山が見たとはいわなかったが、亀之介はあれで見られたと思って恐れ入ったのだろう」
「いや、あれは苦しまぎれの手段です。見のがして下さい」
 と帆村は頭を掻いた。帆村の要請で、次にこの部屋へ呼び出されたのは家政婦の小林トメであった。
「小林さん。この前もあなたによく見て調べてもらったんですが、もう一度調べてもらいたいのです。ここに写真がありますがね……」
 と帆村は、死者の前にあった小卓子の上に並んでいる皿や酒壜や灰皿などの写真を小林の手へ渡し「このテーブルの上に二十七点ばかりの品物がのっていますがね、この中からあなたがあの晩この部屋へ持ちこんだ物はどれとどれですか、選って下さい」
 この質問をうけて、家政婦の顔はゆるんだ。彼女は、また芝山との関係について突込んだことを訊かれるのだろうと恐れていたらしかった。
「はい。わたくしのお持ちしたものは、この皿と、この皿と……」
 と、家政婦は十四点をあげた。帆村は一々それに万年筆でしるしをつけた。
「それではね、こんどは残りの品物の中から、いつもこの部屋にあって、あなたに見覚えのある品を選ってみて下さい」
「はい。……しかしあとは全部そうなんですけれど……おや、この缶詰は存じません」
「まあ一々指していって下さい」
「はい」
 家政婦は、彼女が写真の中の品物を指している間に、傍にいる帆村がけしからず荒々しい呼吸をしているのに気がついて、いやらしいことだと思った。――写真の中には、さっき彼女がいったとおり、一ポンド入りの空き缶が一つ残った。
「この缶詰に見おぼえがないというんですね。間違いありませんね」
「旦那さまが御自分で缶詰をお買いになって、御自分でこっそりおあけになるということは、今まで一度もございませんでした。ふしぎでございますわねえ」
「いや、ありがとう。あなたにお伺いすることはそれだけでした」
 家政婦は、いそいそとこの部屋から送り出されて行った。
 検事も警部も、帆村が手に持っている写真のところへ集って来た。
「うむ、この缶詰だけ知らないというのか。これはたしか、中が洗ったように綺麗な空き缶だったね」
「そうです」
「君は、この缶詰の中から毒瓦斯がすうッと出て来たと考えているんじゃあるまいね」
 と検事の言葉に、
「ははは、まさかそんなことが……手品や奇術じゃあるまいし。はははは」
 帆村が応える代りに、先へ笑ったのは大寺警部だった。
「この缶詰の中に毒瓦斯を詰めることは困難でしょうね」と帆村は真面目な顔でいった。「この缶詰は普通の缶でした。瓦斯を封入するには少くとも二箇の特殊の穴を明け、その穴をあとでハンダでふさいでおかなければなりますまい。しかしそんな痕もない全く普通の缶だったのです。もしそれが出来たら、大寺さんのいわれる手品か奇術です。いや、手品や奇術や魔術でも、この缶にそれを仕込むことは不可能でしょう」
「しかし、この空き缶が一体どうしたというんだろう[#「いうんだろう」は底本では「いうだろう」]」
 検事はふしぎでたまらないという風にひとり言をいって、首を振った。
「検事さん。こうなると、あの空き缶についている指紋がたいへん参考になるんですが聞いて頂けませんか。もう鑑識課で判別した頃じゃありませんか」
「うむ、それはいいだろう。おい君――」
 と検事は、部下のひとりを呼んで、電話をかけさせた。
 その部下は、間もなく紙片を手に持って、一同のところへ戻って来た。
「このとおりだそうです」
 帆村と検事とが、左右からその、紙片を引張り合って覗いた。
「指紋ハ四人分有リ。ソノウチ事件関係者ノ指紋ハ、旗田鶴彌、土居三津子、本郷末子ノ三名ノ分。他ノ一名ノ指紋ハ未詳ナリ」
 鶴彌の指紋があるのは当然として、土居と女中お末の指紋があるとは、事重大であった。それからもう一人未詳の人物が、この事件に関係したことが新たに判明したのだ。一体それは何者だろう?

   缶詰の軽さ

 興味ある四種の指紋だ。この缶詰の空缶[#「空缶」は底本では「空詰」]に、四人の指紋がついている。主人鶴彌の指紋がついていることは、何人にも納得がいく。彼はこの缶詰を前にして死んでいたのだから。
 しかしこの缶詰を開いたのは、果して彼鶴彌であったかどうか、それはまだ分っていない。またその缶詰が、彼の死に関係があるのかどうかも、まだ分っていないが、帆村探偵はこの缶詰に非常な興味を持ち、とことんまで洗いあげる決心でいる。
 そしてもしこの缶詰が万一鶴彌の死に関係があったとしたら、それは一体どういう形でこの事件の中へ食い入っているのであろうか。帆村はそのことをちらりと思い浮べただけで、昂奮の念を禁じ得なかった。
 土居三津子の指紋が、なぜあの空缶についているのであろうか。帆村としては、三津子の潔白を既に証明し得たつもりで今はもう安心していたのだ。ところがここに突然三津子の指紋が問題の空缶の上にあると分って、三津子に再び疑いの目が向けられることとはなった。
 お手伝いのお末の指紋が発見されたことは、この事件の一発展だった。お末のことは、今までほとんど問題になっていなかった。彼女は鶴彌殺しの容疑者としてはほとんど色のうすい人物だった。しかるに今、突然お末の指紋が空缶の上に発見されたのである。一体お末はいつその缶の上に彼女の指の跡をつけたのであろうか。常識では、お末はこの缶詰とは関係がないものと思われる。なぜなら家政婦小林トメでさえ、この缶詰を前に見たこともないし、主人の部屋へ持って来たおぼえもないといっているのだ。ところが、その缶の上にお末の指紋がついていたということは、そこに何かの異常が感ぜられる。お末が指紋をそれにつけた場所と時間とが分ると、この事件を解く一つの有力な鍵が見つかったことになるのではあるまいか――と、帆村はひそかに胸をおどらせているのだ。
 更に興味津々たるは、第四の指紋の主のことである。彼(または彼女)は、これまでにこの事件に登場したことのない人物なのである。果して如何なる人物であろうか。それこそ兇悪なる真犯人であるかも知れない。また、それは事件に関係のない売店の売子の指紋であるのかも知れない。
 さて、旗田邸に集まる検察官と帆村探偵のところへ鑑識課から右の指紋報告の電話が来て、ひとしきり討論が栄えたあとで、長谷戸検事は、帆村が引続いて取調べを進行させる意志があるなら、暫く君に委かせておいていいといったので、帆村は肯いて、自ら取調べ続行をする旨表明した。
「土居三津子氏をここへ呼んで頂きましょう」
 帆村の要請は、係官たちもそれが当然の順序だと同感した。そして三津子が再びこの部屋に入って来た。
「おたずねしますが、この写真のここにうつっている缶詰の空缶が一つあります。これはこの写真のとおり、この小卓子の上に載っていたもので、今本庁へ持っていっています。――そこであなたにおたずねしたいのは、事件の当夜、あなたはこの部屋へ入って来られて、この空缶を見ましたか。どうです」
 帆村の目は、するどく三津子の横顔へ。
「さあ……空缶は見ませんでしたけれど……」
 否定はしたが、三津子はあと口籠った。
「見ませんけれど――けれど、どうしたんですか」
 三津子は写真の中を熱心に見入りながら、
「この缶でございますね、レッテルの貼ってない裸の缶で、端のところに赤い線がついている……」
「そうです。それです」
 帆村はその細い赤線がついていたことまで覚えていた。そして検事の方へ目配せした。検事は心得て、大寺警部に耳うちをして、本庁へ電話をかけ、その空缶をすぐここへ持ってくるように命じた。
「その空缶は、たいへん軽い缶詰ではございませんか」
「えッ……そ、そうかもしれません]
 帆村は電撃をくらったほど愕いた。“たいへん軽い缶詰”――そんなことは今まで想像したこともなかった。帆村は愕いたが、三津子の方は別に愕いていなかった。
「その缶詰なら――その缶詰なら、あたくしはこの部屋で見ました。しかしこの写真にあるように、あけてはございませんでした」
「あけてなかったというんですね」帆村の顔はいよいよ青白くなる。
「あなたは、その缶詰をどこで見ましたか」
「その小卓子の上にありました」
「この小卓子の上にね。たしかですね」
 帆村の額に青い血管がふくれあがる。
「たしかでございます。あたくしがこの部屋に入って参りましたとき、先生――旗田先生は小卓子の脇を抜けてその皮椅子へ腰をおろそうとなさいましたが、そのときお服がさわりまして、あの缶詰が下にころがり落ちました。あたくしは急いでそれを拾って、この小卓子におのせしました。するとそのとき先生はお愕きになって――下は絨毯ですから、軽い缶詰が落ちても大きな音をたてなかったので、先生はそれにお気づきになっていなかったようでしたわ――それで、あたくしをお睨みになって『余計なことをしてはいかんです』と仰有いました」
「なるほど。それからどうしました」
「それから――それから先生はその缶詰をお持ちになって、あそこの戸棚の引出におしまいになりました。それから元の椅子へおかえりになりました」
「なるほど、なるほど」帆村は昂奮をおさえつけようとして、しきりに瞼をしばたたいている。
「あなたが拾いあげた缶詰はたいへん軽かったというが、どれ位の重さだったんですか」
「さあ、どの位の重さでしょうか」と三津子は困惑の表情になったが、やがていった。
「信用して下さるかどうか分りませんが、それはまるでからっぽみたいでございました」
「中で何か音がしなかったですか」
「さあ、気がつきませんでございました」

   お手伝いお末の訊問

 三津子が退場して、次はお手伝いのお末が呼ばれることになった。
 今しがた三津子が証言していった缶詰にまつわる謎は、すぐその場で解きがたいものであっただけに、係官たちはお手伝いお末が次に如何なる証言をして、連立方程式の数を揃えてくれるかと、興味を深くしていた。
 お末こと、本郷末子は、例のとおり黄いろく乾からびた貧弱な顔を前へ突出すようにして、鼠のようにちょこちょこと入って来た。
 帆村はお末を招いて、例の写真を見せ一応説明し、それから訊いた。
「この缶詰の空缶ですがね、あなたはこれをどこで見ましたか」
「あたくしは何にも存じません」
 と、お末ははげしく首を左右に振って、度のつよい近眼鏡の下から、とび出た大きな目玉を光らせた。
「いや、あなたが知らないことはないんです。よく心をしずめて、思い出して下さい」
 帆村はやさしくいった。
「全然存じませんもの。いくらお聞きになっても無駄です。あたくしはこのお部屋へお出入りすることは全然ございませんのですもの」
「それは確かですか。事件の当日、この部屋へ入ったことはありませんか」
「あたくしは誓って申します。あの日、この部屋へ入ったことはございませんです」
 ヒステリックな声で、お末は叫んだ。
「しかしねえ、お末さん。この缶詰には、あなたの指紋がちゃんとついているのですよ」
「まあ、そんなことが、……そんなこと、信ぜられませんわ」
「あなたの指紋がついているかぎり、あなたはたしかにこの缶詰にさわったことがあるわけです。さあ思い出して下さい。どこであの缶を見たか、そしてさわったか……」
「……」
 お末は唇をかんで、首をかしげて考えていた。
 沈黙の数分が過ぎた。
「まだ思い出せませんか。あなたは、この缶詰が空き缶になっているときに見ましたか、それともまだ空いていないときに見ましたか」
「見ません。全然あたくしは見たことがないんですから、そんなこと知りません」
「あなたはこの缶詰を、亡くなったこの家の主人鶴彌氏のところへ届けたのじゃないのですか」
「そんなことは全然ありません」とお末はいまいましそうに、どんと床を踏みならした。
「あたくしはこの一ヶ月、御主人さまの前へ出たこともございません。御主人さまの御用は、みんな他の方がなさるんでございます」
「本当ですか」
「あなただって一目でお分りになりましょう。あたくしみたいな器量の悪い者は、殿方が見るのもお嫌いなのでございます」
「まさか、そんなことが――」
「いえ、お世辞をいって頂こうとは思いませんです」
 ひょんなことになってしまって、帆村はあとの言葉が続かず立往生だ。
 そのとき幸運は帆村を救ってくれた。それは本庁から、例の空き缶がここへ届けられたのである。
 二重の白い布片にまかれてあった空き缶は大寺警部の手によって小卓子の上でしずかに布片を解いて、取出された。
(あッ――)
 帆村は硬直した。口の中で、愕きの声をのんだ。彼は見たのだ、大寺警部が取出した問題の空き缶をお手伝いお末が一瞥した瞬間、彼女はそれまでの落着きを失って、はっとなって目を瞑じ、次に目を開いたときには明らかに愕きの色を示して、大きく目をみはり、息をすいこんだのである。手応えがあった。思いがけない手応えがあったのだ。帆村の心は躍った――。
「どうです、お末さん、この缶は……」と帆村は極力冷静を維持しようと努めながら呼びかけた。
「実物を見ると、なるほどこれなら知っていると、気がついたでしょう。どうです、お末さん」
 お末は返事をしなかった。
「お末さん。あなたはいつこの缶詰を手に持ったのですか。どこで持ったのですか」
「……存じません。全然あたくしには覚えがないんですの」
「だってそれじゃあ君、まさかあなたの幽霊が指紋をつけやしまいし、説明がつかないじゃないですか。あなたがこの缶を手に持ったことは明々白々なんだ」
「あとでよく考えてみますけれど、全くあたしには合点がいかないんです」
 お末の取調べはその位にして、一時下らせるより外なかった。
 帆村は係官の前へ出て、自分の困惑を正直にぶちまけた。
「お末さんが、なぜあんなに頑強に『全然覚えがない』といい張っているのか、訳が分りませんね。それが解けると、この事件は解決の方向へ数歩前進すると思うんですがね」
「今まで気がつかなかったが、あのお手伝いはなかなか変り者だね」と長谷戸検事が本格的に口を開いた。
「帆村君のいう彼女の頑張ぶりを解く一つの手段として、あの女の住居を家宅捜索してみたらいいと思う。佐々君、君ちょっと行ってみてくれんか」
 部長刑事の佐々は、令状を貰って、すぐ出発した。お末の住居は、新宿の旭町のアパートであった。

   小休憩

 調べ室は、そこで暫くの休憩をとることとなり、お茶がいいつけられた。一同は隅っこに椅子を円陣において、煙草をふかしたり、ポケットから南京豆をつまみ出してぽりぽりやる者もあった。お茶が配られると、一同は生色を取戻した。なにしろ厄介な事件である。一体どこへ流れて行くのか分らない。帆村もお茶をすすりながら、メモのページを指先でくりひろげて見ている。大寺警部が長谷戸検事に話しかける。
「長谷戸さん。一体どこで犯行を確認するんですかね。つまり、ここの主人は病死か、他殺か。他殺ならば、どうして殺されたか。それをどこで証明したらいいのですかね」
 三津子を犯人と見て、自信満々だった大寺警部も、このところすっかり自信を失ったらしい。とはいえ、帆村が今やっている脱線的捜査方針には同意の仕様がないと思っているらしい。
「もうすこし捜査を進めてみないと何にもいえないと思うよ。しかし今やっていることは決して無駄じゃないと思っている。なにしろ今まで手懸りと見えたものが、みんな崩壊しちまったんだ。この上は、すこしでも腑に落ちない点を掘り下げていくより方法はないと思うね」
 検事は、間接に帆村が今とっている捜査方針を是認した。
「そうでしょうかねえ。だが、あの空き缶が犯行に一体どんな役目を持つと考えられますか。土居三津子の証言によると、あの缶詰はあけない先から、からっぽ同様に軽かったそうですね。しからば、あの中に入っていた内容物が、鶴彌の胃袋に入って中毒を起したとは考えられない」
「胃袋に入ったとは考えられない。しかし肺臓に入ったとは考えられなくもない」
「肺臓というと……肺臓になにが入るのですか」
「瓦斯体がね。つまり毒瓦斯だ。この缶詰の中に毒瓦斯がつめてあったとすれば、そんなことになるはずじゃないか」
「毒瓦斯がこの缶詰の中につめてあったというんですか。それは奇抜すぎる。少々あそこの先生かぶれですな」
 大寺警部は、向こうでメモのページをめくっている帆村の方へ、ちらりと目を走らせた。
「そうなんだ、帆村名探偵かぶれなんだ」
 検事はにやにや笑った。そのとき帆村が、ぴょんと椅子からとび上って、こっちへ急ぎ足でやって来た。検事と警部はびっくりした。
「われわれはうっかりしていましたよ。こんなところにぐずぐずしている場合ではなかったです」
 帆村は気色ばんで、大声でいった。
「どうしたんだ、君……」
「お末をこの前調べましたね。あの時お末がここでお手伝いをしているかたわら、夜は河田町のミヤコ缶詰工場の検査場で働いていると自供したじゃありませんか」
「おお、そうだった」
 検事は呻った。あの調べのときは、お末をも問題視せず、またお末が缶詰工場で働いていることも、彼女がたいへんによく働く人間だと思った外に、別に気に留めなかった。だが今となっては、帆村の指摘する通り、彼女の勤め先が「缶詰工場」であることは非常に重大なる意義があるのだ。
「だから、佐々さんだけに委しておけませんよ。これからすぐにわれわれも出かけましょう。まずお末さんのアパートへ行って家宅捜索をした上で、河田町のミヤコ缶詰工場へ廻ったがいいと思います。きっと何か掴めると思いますねえ」
「そうだ。大寺君。われわれ一同は、すぐ出掛けよう」
「いいでしょう。――で、やっぱり問題の缶詰の中に毒瓦斯がつめてあったという推定で捜査を進めるのですね」
「あ、そのことだが……」
 と帆村が手をあげて抑えた。
「その缶詰の中に毒瓦斯そのものを詰めてあったとは考えられません。もし詰めてあった[#「詰めてあった」は底本では「詰めたあった」]ものなら、缶詰の缶のどこかに、少くとも二つの穴があけられていて、その穴[#「その穴」は底本では「あの穴」]はハンダづけがしてあるはずです。そうしないと、瓦斯をこの中へ送りこむことができないのです。しかしこの缶詰は、ごらんになる通り、穴をあけた形跡がなく、缶の壁は綺麗です。ですから、この缶の中に毒瓦斯そのものが詰めてあったとは考えられないのです」
「なあんだ君は……。君は自分で毒瓦斯説を提唱しておいて、こんどは自分からそれをぶち壊すのかい。それじゃ世話がないや」
 検事は笑った。
「いや、しかし早く本当のことを説明しておかないと、大寺警部の如き真面目で真剣なる方々から後できつく恨まれますからね」
「じゃあどうするんです。缶詰追及をやるんですか、それともそれは取りやめですか」
 警部はいらいらしながら訊いた。
「行くんだ。さあ出掛けよう」
 長谷戸検事は椅子から立上った。帆村もメモをしまって、出掛ける用意をした。
「さあ参りましょう。なんといっても、あの缶詰を追って行けば、この事件はきっと解けるにきまっているんですから……」
 帆村はいつになく広言した。一同は、どたどたとこの部屋から出ていった。それから賑やかさは玄関に移った。三台の自動車が、次々に白いガソリンの排気をまき散らしながら、通りへ走り出していった。そして邸内は急に静かになってしまった。

   意外な行動

 そのころ佐々部長刑事は、旭町のアパート本郷末子の部屋で、夥しい収穫に自ら昂奮していた。というわけは、彼女の部屋から多数の缶詰や空き缶を発見したのであった。そしてどの缶詰も、ふちのところに赤い細い線が入っていた。この線は、素人にはちょっと気がつかないが、専門家にはすぐ目に立つものだった。これは偽造品と区別するためのミヤコ缶詰会社の隠し符号であったわけである。これだけの夥しい缶詰を押収してしまえば、その中にきっと問題の缶詰の兄弟分も交っていることであろう、そしてお手伝いお末が、有力なる殺人容疑者としてフットライトを浴びることになろう――と佐々部長刑事は気をよくしていた。そこへ長谷戸検事たちの一行を乗せた自動車が到着した。佐々は、一行が部屋へ入って来たので、びっくりした。しかし彼はすぐ了解した。そうだ、ここが殺人容疑者の本舞台なんだから、検事一行がここへ移動して来るのはあたり前だと気がついた。
「この通りです。どの缶にも、赤線の符牒がついていますよ。おどろきましたね」
 佐々は、部屋の真中に山のように積みあげた缶詰を指さした。検事は大寺警部に目配せして、それらの缶詰を調べにかかった、指紋をつぶさないように気をつけながら……。
「無いね。無いじゃないか」
 検事は失望していった。
「無いですね。どの缶詰も重いですね。軽いやつは一つもないですね」
 警部も失望の態である。
「空き缶の方はどうだろうか。中が洗ったように綺麗なのがあるかい」
 こんどは空き缶探しにうつった。だがそれも失望を強めたに過ぎなかった。
 問題の空き缶のように中の綺麗な缶は一つもなかった。
「この上は、お末をここへ引張って来て、訊問するんですな」
「うん」
 と検事は考えていたが、
「それは後でもいいと思う。それよりは次のミヤコ缶詰工場へ行こう。あそこへ行けば、問題の空き缶についていた未詳の指紋の主が分るかもしれん。その方の調べを急ごうや」
「いいですなあ」
 そこで一行は、一名の警官を後に残して、河田町の方へ自動車をとばしていった。ここで話をもう一度旗田邸へ引き戻さねばならないことになった。それは、ちょうど同じ頃の時刻であったが、旗田邸内に意外な事態が起ったので……。検事一行が三台の自動車に乗って賑やかに旗田邸を出かけてから五六分たった後のことであった。がらんとした[#「がらんとした」は底本では「がらんとして」]鶴彌の居間の入口に、姿を現わした者があった。
「もしもし。どなたか居ませんか」
 やや低目の声で、その人物は呼んだ。それは亀之介だった。誰もそれに返事をする者がなかった。彼は部屋の中を覗きこんだが、室内は乱雑に椅子が放り出されてあるだけで、その上に尻を乗せていた連中の姿は一人もなかった。警戒の警官さえが居ないようであった。親玉が行ってしまったので、これ幸いと鬼の留守に洗濯をやっているのであろうと、彼は思った。
「おやおや。こう散らかされちゃかなわんねえ」
 彼はあたりへ気を配りながら、室内へ足を踏み入れた。が、急に彼の行動は敏捷となった。彼はテーブルの傍へ寄った。そしてポケットから白いハンカチーフを出して卓上にひろげた。それから彼はすこし前にかがみこんで、手を灰皿へ伸ばした。彼の両手の指が、灰皿の上の黒ずんだ灰を――紙を焼いたらしい灰であるが、それをそっと持ちあげ、ハンカチーフの上へ移した。灰は案外にしゃちほこばっていて、途中で崩れるようなことはなかった。
 彼は急いで灰をハンカチーフの中に丸めこみ、上衣の左のポケットへ押しこんだ。彼の仕事は、まだそれで終ったのではなかった。彼は右のポケットから白い紙を折り畳んだものを引張り出した。それを指でつまんでひろげた。四つ折になっていた純白の無罫のレター・ペーパーだった。それを灰皿の上へ持っていった。それからライターを出して火をつけた。ライターの焔を、紙へ移した。紙はめらめらと燃えあがった。そしてあとに黒ずんだ灰を灰皿の上いっぱいに残した。彼は煙草を一本つまみだして口にくわえた。そしてこれに火を点じて、急いで煙を吸った。が、たちまちはげしく咳きこんだ。煙にむせたからであった。彼は周章(あわ)てて戸口の方へ急いだ。足を廊下へ一歩踏みだしたと思ったら、彼は声をかけられた。彼は咳きこんでいて、よく目が見えなかったのだが、そのとき廊下をこっちへゆっくりと歩いて来た人物が、亀之介の姿を認めたのである。
「ほう、どうしました、亀之介さん」
「やァ、煙草にむせちゃって――あっ、帆村君ですね」

   地獄の使者

 帆村荘六だった。彼は検事たちと共に確かに自動車に乗って出掛けた。それがなぜここに姿を現わしたのであろうか。
「一度あなたとゆっくり話し合いたいと思っていたのですがね。今丁度いいですね、中でお話を伺いましょう。さあどうぞ」
 帆村にすすめられて、亀之介は割り切れない気持で、室へ再び足を踏み入れた。と、部屋の隅の洗面器のあるところのカーテンをはねあげて、一人の警官が出て来た。亀之介はどきんとした。この部屋には誰も居ないと思っていたのに、どうしたことであろう。
 その警官は帆村へ何か合図を目で送ると、椅子を整頓し、二人の話しやすいように並べかえた。
「どうぞ。お席が出来ました。お茶も持って参りましょう」
 警官は部屋を去った。帆村は亀之介にすすめて椅子へかけてもらい、自分もその向こうに腰を下ろした。
「早速ですが、旗田さん、ケリヤムグインというあの毒瓦斯材料をあなたはどこで手にお入れになったのですか」
 帆村の唐突の質問に、亀之介の顔色はさっと変った。
「知らんですな、そんなこと……」
「ケリヤムグインはドイツで創製せられた毒瓦斯材料で、常温では頗る安定な油脂状のものです。それを高温にあげ、燃焼させますとたちまち猛烈な毒瓦斯となります。ケリヤムグインの一ミリグラムは、燃焼して瓦斯体となることによって、よく大広間の空気を即死的猛毒性に変じます。――あなたは、ケリヤムグインを書簡箋に吸収させました。そしてその書簡箋は、缶詰の中に厳封して、旗田鶴彌氏へ送ったのです。もちろんその書簡箋には、或る文句が書いてありましたがね。……如何です。それを否定なさいますか」
「もちろん否定する。そんな馬鹿気た話を、誰が真面目になって聞くものですか」
 亀之介は腕組みをして嘯く。帆村はいよいよ静かな態度で、次なる言葉を繰り出す。
「その書簡箋を鶴彌氏が取出すと、文面を読んで確かめた上で、火をつけて焼き捨てたのです。その焼き焦げの黒い灰が、あそこの灰皿の上に載った。その頃鶴彌氏は、猛毒瓦斯を吸って中毒し、氏の心臓はぱったり停ってしまったのです。そしてそのお相伴をくらって、あそこの洗面器の下の下水穴から顔を出した不運な溝鼠が、鶴彌氏に殉死してしまったというわけなんですが、如何ですな」
「大いへん面白い御創作ですね。どこかの懸賞小説に投稿なさるといいですなあ」
「その書簡箋に書いてあった文面が、また興味あるものなんです。こう書いてありましたがね、“告白書。拙者乃チ旗田鶴彌ハ昭和十五年八月九日午後十時鶴見工場ニ於テ土井健作ヲ熔鉱炉ニ突落シテ殺害シタルヲ土井ガ自殺セシモノト欺瞞シ且ツ金六十五万円ノ会社金庫不足金ヲ土井ニ転嫁シテ実ハ其ノ多クヲ着服ス、其後土井未亡人多計子ヲ色仕掛ヲ併用シテ籠絡シ土井家資産ノ大部分ヲ横領スル等ノ悪事ヲ行イタリ、右自筆ヲ以テ証明ス。昭和十六年八月十五日、東京都麹町区六番町二十五番地、旗田鶴彌印”――というんですが、これは如何です」
 帆村はメモを見せながら訊いた。亀之介は、ふふんと鼻で嗤(わら)った。
「兄貴は悪い奴ですね」
「こういう貴重な告白書が缶詰の中に入って届けられたものですから、鶴彌氏としては狂喜して、早速それをその場で火をつけて焼き捨てたのですが――まさか自分の書いたその告白書にいつの間にか猛毒ケリヤムグインが浸みこませてあったとは知らず、鶴彌氏は狂喜の直後に地獄へ旅立ったという――これは如何です。御感想は……」
「なかなかお上手ですな、小説家におなりになった方が成功しますね」
 帆村は肯いて、メモをポケットに収った。
「それでは失礼ですが、あなたの左のポケットに入っているハンカチーフをお見せ願いたいのですが……」
 亀之介はぎょっとして立上った。帆村もまた立上った。亀之介は、あたりへ急いで目を走らせたが、戸口のとこへ、さっきの警官を始め二名の新手の警官が現われて、しずかに中へ入って来た。
「失礼ながらさっきあなたが黒い灰をハンカチーフにお収いになったことは、進藤君――そこに居る警官が、あそこの洗面所のカーテンのうしろから一伍一什拝見していたんですよ。うまく掏(す)りかえたおつもりでしたね」
 これは亀之介への止めの刃であった。
「これが欲しいのならあげますよ」
 亀之介は観念したものか、太々しくいって、ポケットからハンカチーフ包をとりだして帆村の方へ差出した。
「だがね帆村君。中の灰はこのとおり微粉状になっていますよ。お気の毒ながら、さっき読んだ告白書の文句も見えず、それから……」
「それからケリヤムグインも燃焼して、その痕跡も残っていないと仰有るのですか」
 帆村はぐっと唇を横に曲げた。
「そういう御心配があるのなら、あとから御覧に入れましょう。あなたのお取替になった黒い灰は、あれは僕があとから拵えておいた第二世なんです。第一世は、灰の形もくずさず、硝子の容器におさめて、あっちに保存してあります」
「えっ」
「もちろんその灰に、紫外線をかけましてね、さっき読み上げた告白書の文句を読み取ったのです。それからあなたさまにはたいへんお気の毒ながら、その告白書の一部が燃え切らずに残っていましてね――あの黒い灰を灰皿から横へ移してみて始めて分ったのですが、灰の下に、一枚の切手位の面積の燃えない部分が残っていたのですよ。それを分析して――なにをなさる」
「は、はなせ」
 亀之介は、椅子を台にして窓の枠へとびのり、外へ飛び下りようとした。が、警官が素早くその片足をつかまえてしまった。
「身体検査をして下さい。心配ですからねえ」
 帆村はそれを頼んだ。亀之介の身体は厳重に調べられた。
「そこに妙なところにポケットがある。なにか入ってやしませんか」
「あ、ありました。薬の包らしいが……」
 亀之介はそれを取戻そうとしてもがいた。しかしそれは帆村の手に渡った。
「ああ危かった。これが例の猛毒ケリヤムグインらしい。これをこの部屋で煙草でも交ぜて燃されるものなら、この人と一緒にわれわれも一緒に[#「この人と一緒にわれわれも一緒に」はママ]無理心中というわけだ。おお、あぶなかった」
 警官たちは目をぱちくり。
「すると――すると当人の持っている煙草もみんな危険物なんですね」
「そうです。煙草もみんな押収しておかれたがいいでしょう」
 このとき亀之介の手首には、手錠がかかった。彼は椅子にどっかと尻を据え、自由な方の手で、自分の頭を抱いた。

   呪わしき人々

 事件は解決したのだ。亀之介は、鶴彌殺しの犯人容疑者として本式に拘引された。それから取調べによって彼の犯行たることは十分確実となった。
 それはそれとしてこの物語の上では、まだ書き足りないところがあるようだから、それを補足しておきたい。帆村は、長谷戸検事たちと一緒に、お手伝いお末のアパートへ出発しながら、いつの間にか旗田邸に戻っていた。そのわけは、帆村が旗田邸内にトリックを仕掛けておいたので、それにひっかかる相手の様子を見るために、自動車が通りへ出ると間もなく車を停めてもらって、彼は旗田邸へ引返したのであった。もちろん検事には、このことを予(あらかじ)め打合わせずみであった。トリックというのは、もちろん旗田亀之介を鶴彌の広間へひき出して、あの灰皿の上の黒ずんだ灰を盗ませるためだった。そしてそれを確認するために、警官の一人を洗面所のカーテンの蔭にかくしておいたことは、既に陳べたとおりである。
 一方検事たちの一行は、お末のアパートの捜査をすませたのち、ミヤコ缶詰工場へとびこんだ。まず問題は、お末すなわち本郷末子の行状を調べることと、例の空き缶についていた未詳の指紋の主を探しあてることだ。お末の評判は悪くなかった。すこしヒス気味ではあるが、仲々よく働く女で、この工場でも相当目をかけていることが分った。況んやこの婦人に、浮いた噂のあろうはずがなく、またそうかといってひねくれて人殺しをするような気配もなかったことを証言する人々があった。
 要するにお末は、出来るだけ働いて、貯金を殖やすことが楽しみであったのだ。そういう女が殺人罪を犯すようなことは殆んど考えられなかった。しかしなぜ彼女の指紋が、問題の空き缶についていたのであろうか。この点については俄に解決がつかなかった。
 そこで次に、未詳の指紋の主の調べに入ったのであるが、これは案外楽に見つかった。井東参吉というのが、その指紋の主であったのだ。彼井東は、この工場の工員の一人であって、試験部附の缶詰係だった。つまりこの工場で、まだ売出し前の食料品を試験的に缶詰にする工程において、彼はそれの最後の仕事として、蓋をつけて周囲を熔接して缶詰に出来上らせる部署で働いていた。彼のところには、自動式ではなく手動式の缶詰器械があった。これは旧式のものだが、数の少い試験用缶詰をパックするには便利なものであった。
 井東は三十歳ばかりの、この工場では古顔の工員であった。彼には一つの気の毒な病気があった。麻薬中毒者なのであった。彼は取締のきびしい中をくぐって、麻薬を手に入れなければならない悩みを持っていた。そんなことから、彼は普通の製造工程のところから遠ざけられて、試験部で働いていたわけである。
 井東を調べたところが、はじめは仲々いわなかった。しかし取調べの途中で、彼が麻薬中毒者であることも分り、それから糸がほぐれていって、遂に彼が白状したところによると、問題の軽い缶詰は、旗田亀之介に頼まれて、彼井東が缶詰仕上げをやったに相違ないことが明白となった。もちろん彼は、缶詰の中にそんな恐ろしいものが入っているとは知らなかったという。ただ亀之介からいわれた通りに蓋をつけて熔接したのだという。彼は亀之介からしばしば麻薬を受取っているので、頼まれたことはしないわけにはいかなかったのだという。
 その缶詰をこしらえあげたところへ、偶然本郷末子が入って来て、その缶詰を手に取上げようとしたので、井東はあわてて彼女の手を抑えたという。だからお末の指紋は、このときについたと分った。
 亀之介は、お末がここに勤めていることを知っていたので、常に警戒して、お末と顔を合わさないようにしていた。問題の缶詰を封入した日も、彼はお末が入って来たと知ると、急いで部屋から逃げだした。お末の方は亀之介がこんなところに来ているなどとは夢にも思わないから、亀之介が反対の扉から出て行く姿をちらと見ても、それが亀之介だとは悟らなかったのだ。それにお末は、前にもいったように、ひどい近眼だった。亀之介は、こうして鶴彌の告白書の入った缶詰を用意し終ると、それを共謀者の手を通じて兄鶴彌に送ったのである。
 それより前亀之介は変名して、たびたび兄を脅迫し、その告白書を五十万円で買取らないかと持ちかけたのであった。これには彼亀之介の共謀者が、しばしば鶴彌に会ったが、亀之介は最後まで自分を隠しおおせたつもりであった。ところが鶴彌の方は、途中から気がついた。殊にその告白書を握っている人物が戦災で死に、もう大丈夫と思っていたところが、それが出て来たところから、これはてっきり土井の遺族が一緒に策動しているものと睨み、そこで彼は土居三津子を呼びこんで、いろいろな方面から脅迫を試みていたところだった。三津子は、その告白書を見たことがあり、そしてそれは亀之介が立合っていたことを鶴彌に洩したものだから、鶴彌はこれに弟が関係していることを感付いたらしい。
 しかし鶴彌にとっては、あの告白書が非常に重大であるので、何を措いても先ずあれを取返そうとしてかかった。彼は五十万円を共謀者に渡した。それに替って、あの恐ろしき「地獄の使者」であるところの缶詰が、彼に手渡されたのである。彼は大安堵をして、告白書を焼却したその直後に殺されてしまったのだ。
 彼の考えでは、その告白書の処置をつけた上で、全面的に弟亀之介を痛めつけるつもりでいたのだ。亀之介の方でも、とくにそのことを感付いていて、告白書が兄の手に渡るや否や、あとは大風が自分の方へ向って吹きまくるであろうこと、そして多分自分は放逐されるだろうと先の見透しをつけた。そしてそれなら一層のことにと、兄鶴彌を殺害する意志をかため、その計画に移ったのである。そしてあの告白書を返してやると同時に、その場で兄を地獄に追いやることを考えつき、これこそ一石二鳥であるわいとほくそ笑んだのであった。彼は御丁寧にも死者を後でピストルで撃ち、そのときに殺害したものと思わせ、犯人容疑者まで用意したのだった。
 尚、毒瓦斯ケリヤムグインは、鶴彌を斃した後、通気孔や窓の隙間から自然に外へ出て行き、稀薄となっていった。そして約一時間半後、亀之介がクラブを脱出して帰邸し、庭から窓をあけたときには、毒瓦斯はもう致死濃度ではなかったのである。
 序(ついで)に記しておくが、鶴彌と亀之介は兄弟であるが、母親を異にしていた。二人の母親同士は、生きている間、互いに激しく睨み合ったもので、このことについてもすこぶる怪奇事件がまといついているので[#「いるので」は底本では「あるので」]あるが、それは本件に関係がないので、ここには述べない。
 さて、右のとおりの事情が判明して、事件の筋は明瞭となったのではあるが、亀之介は係官を最後まで手こずらせた。殊に亀之介が、鶴彌の遺産を狙うものではないことを強く主張して、係官をまごつかせた。このことは、まだ犯人の判明しない捜査の最初の頃、亀之介が自供したところでもあるが、鶴彌の遺産は、彼亀之介が継ぐのではなくして、鶴彌には庶子伊戸子というのがあり、それが継ぐのだと申立て、自分が鶴彌を殺して遺産を狙ったものではないと反発した。
 そこで戸籍しらべとなったが、鶴彌の書斎から出て来た戸籍謄本を見ると、なるほど伊戸子という庶子の名があった。彼女は十歳であった。そこで亀之介が遺産相続を狙ったものではないことが認められた。だがどうもおかしいので、なおも続いて戸籍調査をしてみたところ、その庶子の伊戸子という娘は、その生母ともろともに、戦災で死んだことが判った。だから今となっては、鶴彌の遺産は弟亀之介が継ぐ順序になっていたのである。亀之介が一所懸命にお道具立てした最後の欺瞞も、とうとうこれで化の皮を剥がされてしまった。これで事件に関することは大体述べ終ったように思う。
 帆村は、ようやく友人の土居記者に会わす顔があった。それにしても帆村の殊勲であるところの、例の灰皿の上の黒ずんだ灰に目をつけた一事は後で大いに検事からほめられたが、そのとき帆村は、
「いや、違うのです、違うのです」
 と強く打消した。そしてこんな打明け話をして一同を失笑させた。
「もし殊勲者がありとすれば、それはうちの事務所の助手八雲千鳥嬢ですよ。事件捜査中あれが『先生がお残しになった灰皿の中の紙の焼け灰から、先生がそこにいらっしゃることが分ったんです。なぜってその焼け灰の上に、鉛筆でお書きになった先生の御伝言が光っていましたから、それを読んでみると、先生がそこへ行っていらっしゃることが分ったんです――』八雲嬢はそういったんです。実は僕が事務所を出るとき、八雲君はまだ出勤して居らず、そこで伝言書を鉛筆で書いたんですが、どこまであのお嬢さんが気がつくかと思い、僕はそれをわざと火をつけて灰にし、僕の机の灰皿の上にそっと載せておいたのです。ところが八雲嬢は見事にそれを見つけて判読したというわけです。――僕は感心のあまり、灰皿の中の黒ずんだ灰に強い印象を植えつけられ、さてこそ例の小卓子の上の灰皿の中にある黒ずんだ灰を見たとき、ひどく注意をひきつけられたんです。それから後はご存じのとおりで、黒い灰から犯人にまで続いている糸を手ぐるようなことになったんです。ですから八雲嬢のお手柄から出発しているんですよ。僕じゃありません」
 帆村はそういい張った。そこで検事たちも強いてそれを帆村と争おうとはせず、そのかわりそのうち土曜日の午後にでも甘いお菓子の折を一同がぶら下げて帆村探偵事務所を訪問し、名助手八雲千鳥嬢に親しく拝顔の栄を得ようということに、一同、相談がまとまった。




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