地獄の使者
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:海野十三 

「ああ、そんなことですか」と、亀之介は歯牙にもかけないような顔をしたが、しかし彼の語調に狼狽の響きがあった。「ひどく酔っていたもんで、咽喉がからからなんです。ですから小林に水を貰って呑んだように思います」
「腰紐がぶら下っていることや、なまめかしい長襦袢のことはよく覚えていらっしゃるのに、水を貰って呑んだことは記憶がぼんやりしているのですね」
「それは皮肉ですか、こっちは正直に話をしているのに……」
「いや、あまり気にしないで下さい。そして家政婦が水を大きなコップに入れてくるまで、どこで待っていましたか?」
「二階へ上る階段の下です」
「お待ちになっている間、そこからどこへも動かれなかったんですか、例えば小林の後を追いかけて勝手元へ行ってみるとか、或いは又、小林の部屋へ入ってみるとか、そんなことはなかったですか」
「失敬なことをいい給うな。僕が――この邸の主人の弟が、なんであんな婆さんの後を追うんです。僕は色情狂ではない…………」
「いや、よく分りました。これで伺いたいことはすみました。どうぞお引取り下さい」
 亀之介はなおもぷりぷり憤慨して、帆村を睨みつけていたが、やがて火の消えた葉巻煙草をぽんと絨毯の上に叩きつけると、すたすたと部屋を出ていった。監視の警官が、あわててその後を追いかけた。
「いかがです、余興の第一幕は……」帆村はにやりと笑って一座へ軽く会釈した。「もうすこし御辛抱を願って、第二幕を開くことにいたします。じゃあどうぞ、下男の芝山宇平をここへお連れ下さい」

   宇平の苦悶

「帆村君がつっつくと、あの家政婦はだんだん色っぽくなって来るじゃないか。あれと亀之介と、これまでに何かあったんじゃないか」
 長谷戸検事が大寺警部を見て笑った。
「まさか、そうじゃないでしょう。亀之介は女に不自由するような人じゃないですからね」
 警部は、首を振った。
「しかし、あの兄にしてこの弟あり、ではないかねえ」
「兄は三津子のような若い美人を相手にしています、弟だって三津子ぐらいのところならいいでしょうが、まさかあの大年増の尻を追うことはないでしょう」
「まあ、もうすこし帆村君の演出を拝見していよう」
「そんなことよりも、ピストルの方を早く片づけたいものですがねえ」
「だから、今土居三津子がここへ来るじゃないか」
 そこへ芝山宇平が巡査に連れられておずおずと入って来た。そして亀之介がさっきまで座っていた椅子に腰を下ろした。
「へえ、何の御用でがすか」
 ぺこんと頭を下げる。五十歳をちょっと過ぎたというが、五分ぐらいに刈った短い頭髪が、額の両側のところですこし薄くなっている。血色のいい顔、大きな体の持主だ。
「これは特別に君の耳に入れて置くんですがねえ」と帆村が手帳を拡げて、仔細あり気に芝山の顔を見た。
「実は、ピストルが見つかったんです、一発だけ撃ってあるピストルがねえ」
「はあ。わしはピストルは見たこともねえでがす」
「いや、君のことじゃない。……そのピストルが隠してあったところが、ちょっと問題なんだがねえ。はっきりいうと、それは家政婦の小林さんの部屋なんだ」
「えっ、……」
 明らかに芝山は衝動を受けた様子。
「小林さんの部屋を入って右手に二畳の間がある。そこに茶箪笥があって、その上に花活が載っている。花は活けてない。水も殆んど入っていない。その花活の中に問題のピストルが、銃口を下にして隠してあったんだ。いいですか」
「へえへえ」
 芝山の眼は落着を失った。
「さあ、そこであなたに特に知らせて置くわけだが、そのピストルは小林さんが使って主人を撃ち殺し、そのあとで自分の部屋の花活の中に隠した――という嫌疑が小林さんに懸っているんだ」
「それは人違いです。おトメさんはそんな大それたことをするような女じゃあない」
 芝山は躍気になって否定した。
「だが、小林さんには、その嫌疑を否定する証拠がないんだ。つまり、自分がそのピストルを使わなかったことを証明することが出来ないんだ。また自分がピストルをその夜花活に隠さなかったことも証明できない。小林さんは今、あっちの部屋で気が変になったようになっている」
「残酷だ。おトメさんは人殺しをするような女じゃないです。そんな調べは間違っている」
「だがねえ宇平さん。そうでないという証拠が出て来ないのだよ。或いは小林さんの不運かも知れないが、証拠がないことには、小林さんは殺人容疑者として引かれることになるがね」
「それじゃ天道さまというものがありませんよ。おトメさんが人殺しをしないということは、わしが証人に立ちます」
「どういうことをいって証人に立ちます」
「日頃からよく交際っているが、決してそんな大それたことをする女じゃないと――」
「それだけでは役に立たない。もっとはっきりと証拠をあなたが出さないと駄目ですよ。例えばね、小林さんが部屋を出ていった留守に、或る男が入って来て、そっと上にあがり、花活の中にピストルを入れて、それからまたそっと出て行った。それをあなたがちゃんと見ていた――という風な証言が要るんだ」
「ははァ……」
「或いは又、あの晩、この邸へ来て主人を訪ねた土居三津子という若い女の客が、主人に送られて玄関から出て行った時刻――それは多分正十一時頃らしいが、小林さんがそのすこし前から始まって午前零時半頃までのこの一時間半[#「一時間半」は底本では「一時半」]ばかりの間、決して主人のところへ行って彼を殺さなかったという証明が出来てもいいんです。これにもいろいろの場合があるが、例えばですね、その一時間半に亙って、小林さんは自分の部屋から一歩も外へ出なかったということを、あなたが証明出来るなら、小林さんは晴天白日の身の上になれるんです。どうですか芝山さん」
 帆村のこの言葉は、芝山宇平を痛烈に突き刺したようであった。芝山は、いきなり腕を前に振ると、頭を両腕の中に抱えて俯伏した。そしてなかなか顔をあげなかった。
 このとき一座の視線は、この芝山と帆村とに集っていた。
 やや暫く経って、芝山は顔をあげた。真赤な顔をしていた。
「どうか、おトメさんに会わせて下さい」
 彼は切ない声でいった。
「小林さんは重大なる容疑者になっているから、今君を会わせることは出来ないですよ」
「そうですか」力なく彼は肯いた。
「じゃあもう仕様がない。何もかも申上げます。実はわしは昨夜十一時から今朝まで、おトメさんの部屋にいました。だからおトメさんが、今あなたが仰有った十一時から一時間半は、あの部屋から一寸も出たことがないのです。つまり、おトメさんの部屋で、わしがおトメさんの横に寝ていましたから……」
 芝山は遂にたいへんな[#「たいへんな」は底本では「たいへん」]ことを告白した。

   意外又意外

「すると、君は昨日夕方自宅へ帰って自宅に朝まで寝ていたというのは一体どうしたんですか」
 と、帆村は冷然として芝山に訊問を続ける。
「あれはわしが家内にそういって、嘘をいわせたんです。でないと、わしは御主人殺しの関係者と睨まれて、うちはたいへんなことになるから、わしは自宅に居たことにするんだぞと家内を説き伏せたわけです」
「それを妻君にいったのはいつですか」
「今朝のことです。旦那様がいけないと分ってから後で、ちょっと家へ帰って参ったんです」
 芝山の言葉つきが、始めは爺むさくそして要点の話になるとすっかりすっきりした言葉になることを、帆村は興深く聞きとめていた。それは兎に角、これで芝山宇平と小林トメとの秘密な情交関係が分ってしまった。芝山は小林を救うために、小林のアリバイを証明しなければならなくなったのだ。そのために五十男は全身びっしょり汗をかいて告白をしたが、小林トメはまだそんな秘事が洩れたとは知らないで居る。それと分ったときに、この家政婦は一体どんな顔をすることであろうか。
「君は、花活にピストルを入れに来た人間を見なかったのですか」
 帆村は、さっきもちょっと口にしたことを表立った問題として訊いた。
「いいえ、見ませんでした」
 芝山は否定した。
「君は、亀之介氏が帰って来たのを知っていますか」
「はい、存じて居ります」
「亀之介氏は、階段の下で、小林さんに冷い水を大きなコップに入れて持って来いと命じたが、その声を聞かなかったですか」
「はい、確かに聞きました。わしはおトメさんの蒲団の中にいながら、外の方に聞き耳を立てていましたから、それを確かに聞いたです。そしてそのあとおトメさんが勝手元の方へ行った様子ですから、これはあぶないぞと思いました」
「なるほど。それで……」
「それでわしは、すぐ蒲団から出るとわしの枕を抱えて、押入れの中に逃げこみました。そして蚊帳(かや)を頭から引被って、外の様子に聞耳を立てていました」
「すると、どうしました」
「すると、誰かが戸を開いて、部屋へ入って来た様子です。それはおトメさんではない。おトメさんなら、すぐわしを呼ぶ筈です。何しろ蒲団の中にわしの姿がないんですからなあ。……ところが、入って来た者は、何にも声をかけないのです。しばらく部屋の中を歩き廻っているらしかったが、そのうちがちゃんと音がしました。瀬戸物の音です。瀬戸物に何かあたる音でしたがなあ、確かに聞いたのですよ」
「どの辺りにその音がしましたか。花活のある辺りではなかったでしょうか」
「そうかもしれません。いや、確かにその方角でした。……それから間もなくその人は部屋を出ていきました」
「結局その謎の人物は何分ぐらい部屋にいたことになりますか」
「さあ、どの位でしょう。気の咎めるわしにはずいぶん永い時間のように感じましたが、本当は三十秒か四十秒か、とにかく一分とかからなかったと思います」
「その者が部屋を出て行く時、君はその者の顔か姿を見なかったのですか」
「いいえ、どうしまして。わしはもう小さくなっていました。それからしばらくして、外に――階段の下あたりに、おトメさんの声がしました。それから暫くたって、今度はおトメさんが本当に部屋に入って来たらしく、入口に錠を下ろし、それから上へ上ってから、『おやお前さん、どこへ隠れてんのさ』といいました。そこでわしは、枕を抱えて押入れから出ました。おトメさんはおかしそうに笑っていました」
「もうよろしい、そのへんで……」
 と、帆村は芝山の陳述を押し止めた。そして一先ず元の部屋へ引取らせた。
 芝山が退場すると、長谷戸検事以下の全員が帆村探偵の方を向いて、破顔爆笑した。芝山に小林との情事をぶちまけさせたのが、面白かったのであろう。帆村はわざとしかつめらしい顔で一同の方にお辞儀をした。
 そして口上を述べた。
「今ごらんに入れたのが第二幕でございました」
 検事がにこにこ顔で、軽く拍手した。検事の屈託のない人柄を、帆村は以前から尊敬していたので、もう一つお辞儀をした。
「帆村君の見せてくれるものは、これで終ったのかね」
 と大寺警部が聞いた。警部もいつになく弛んだ顔をしている。
 すると帆村が、警部の方へ向いていった。
「いや、まだ第三幕以下がございます。しかし第三幕は、僕が出しません。そのうちに他の人が、その幕を揚げてくれる筈でございます。暫くどうぞお待ち下さい」
 そういっているとき、奥から警官が急いで入って来た。
「只今、裁判医の古堀博士からお電話でございまして、旗田鶴彌の解剖は終りましたそうで……」それから警官はメモの紙片の上を見ながら「旗田鶴彌の死亡時間は午後十一時三十分前後で死因はピストルの弾丸ではなくて、心臓麻痺だそうです。詳しいことは、明日報告するといわれました。おわり」
 旗田鶴彌の死因は、ピストルの弾丸ではなくて、心臓麻痺だ――と古堀裁判医がいったというのだ。
「そ、そんなことがあるものか」
 と、大寺警部は腹立たしげに叫んだ。
「ふしぎだ、ふしぎだ」
 と、長谷戸検事も俄かに信じかねている様子だった。他の係官も、事の意外に呆然としている。只、帆村荘六だけが、にやりと笑って、シガレット・ケースを出して、しずかに指先にその一本を抜きながら、
「第三幕です。これが第三幕です」
 と、呟くようにいった。

   護送車

 まことに意外な裁判医の報告だった。
 被害者旗田鶴彌は後頭部を撃ち抜かれて死んでいたのに、裁判医は「死因はピストルの弾丸ではない、心臓麻痺だ」といって来たのである。これでは長谷戸検事たちの困惑するのも無理ではない。一発弾丸を発射してあるピストルが家政婦小林トメの部屋の花活の中から発見せられ、これこそ事件の最有力な鍵として検事たちを悦ばせ、捜査と関係者訊問はそのピストルを中心に結集せられていたのであるが、大体その謎が解けようとしたときに、突然裁判医からのあの電話であった。折角ピストルを土台として積みあげたものが、この電話によって一瞬の間にがらがらと崩れてしまったのである。なんということだ。無駄骨と知らずに、ここまで一所懸命に追って来たのである。
 長谷戸検事は、無言で椅子の背を抱えている。今朝からの疲労が一度に出てきたという顔つきであった。ピストルを発見した殊勲の佐々部長刑事は、もっとがっかりした顔になって、開け放しになった口を閉じようともしない。検事の隣の椅子では、大寺主任警部が、これは又今にも怒鳴りそうなおっかない顔であたりを見廻わしている。帆村探偵は、部屋の隅っこで、静かに煙草の煙を天井へふきあげている。
「今日はもう訊問はよそうや。訊問をやっても仕様がない」
 長谷戸検事が突然椅子からぴょんと躍り上るようにして立って、そういった。皆は一斉に検事の顔を見た。
「ねえ、そうじゃないか。ピストルで撃たれて死んだのではなく心臓麻痺で死んだというが、それならそれで、裁判医から詳しく説明を受けないことには、われわれには一向に納得が行かない。そして捜査方針を改めて建直さにゃならない。だから訊問も捜査も一応中休みとして、明日の午前、裁判医を僕の部屋へ呼んで聴くことにする。時刻は九時半としよう」
 検事のこの言葉に、一同は肯いた。
「検事さん。土居三津子が今護送されて、この邸へ到着する筈ですが、これはどうしますかね」
 大寺警部が訊いた。
「それも同じことだ。死因がはっきりしないのに、その女を訊問しても仕様がないからね」
「ははあ」
 大寺警部はちょっと不満のように見えた。
「じゃあ訊問しないで、廻れ右を命じますね」
 検事は返事の代りに、首を縦に振った。
「分っているだろうが、事件の関係者はこの邸から外へ出さないことだ。亀之介、小林トメ、芝山宇平、本郷末子の四人だ。いいね」
 現場係の巡査部長が、畏ってそれを承知した。それから長谷戸検事は、部下をひきつれて真先にこの邸を出ていった。帆村は椅子から立って、検事に軽く礼をしたが、検事はそれに気がつかないのか、すたすたとこの部屋を出ていった。
 次に大寺警部の一行が帰り仕度を始めた。それについて帆村も一緒に部屋を出た。玄関のところで帆村は呼びとめられた。友人の土居が待っていたのだ。
「どうしたんだ。妹がここへ送られて来るという話だけれど、どうなるんだ」
 土居は心配を四角い顔一杯にひろげて、帆村にきいた。帆村はその訳を話してやった。
「そうか。すぐ警視庁へ送りかえされるのか。どうだろう、その前ここでちょっと妹に話が出来ないだろうか」
「駄目だろうね」
 帆村は気の毒そうに応えた。
「それに、こんなところで話をすると、後で検事の心証を害する虞れがある。適当な時に弁護士を立てて、それを通じて面会するのがいいね」
 帆村は正しいやり方を薦めた。警部たちが門を出ようとしたとき、三津子を護送した本庁の幌自動車が警笛をならして門内へ入ろうとしたので両者が鉢合わせとなった。土居が自動車の方へ駈出して行ったので、帆村もすぐその跡を追った。警部は、停った自動車の中へ二言三言いった。すると自動車はそのまま邸内の庭へ入って来て、ぐるっと一廻りをすると門から出て行った。帆村は土居の腕をしっかり抑えながら、それを見送った。薄暗い自動車の中に、三津子に違いない女性の姿がちらりと見えた。向こうでも気がついたか、三津子は座席から前へ乗り出したが、そのときはもう兄や帆村が見えない角度になってしまっていた。帆村は土居の肩を叩いて、自分と一緒に事務所へ来るようにといった。

   帆村の事務所(一)

 事務所の扉を開くと、帆村を助手の八雲千鳥が出て来て迎えた。
「いらっしゃいまし」
 と、土居の方へ挨拶をした。それから無言で帆村の方へ頭を下げた。
「何も用事はなかったんだね」
「はい。別にお知らせするほどの急ぎものはございませんでした。もう現場の方はお済みですか」
「今日の方はお仕舞となった。……で、君は僕が何処に居たか、知っているのかい」
 帆村の眼が悪戯児(いたずらっこ)のように光った。
「先生、そんなことぐらい、ちゃんと分っていますわ」
 八雲千鳥は、遠慮がちに笑って、帆村の顔と客の顔を見た。
「じゃあ訊くが、何処だい」
「旗田さんのお邸でしょう」
「その通りだ。――でどうしてそれが分ったのかね、僕は何も君へノートを残して置かなかったのに……」
「ノートを残していらしったじゃございませんの」
 八雲助手の声に、得意の響きがある。
「はてね」
「灰皿に真黒焦げになって紙の燃え糟がございました。その燃え殻の紙には、鉛筆で書いた文字の痕が光って残っていました。鉛筆は石墨ですから、火で焼いても光は残って居るわけでございますわね」
「もうよろしい、君は大分仕事に慣れて来たようだ」
 帆村はそういってにんまり微笑した。
「一体どうしたんだね、今の話は。まるでこんにゃく問答で、僕にはさっぱり通じやしない」
 と、土居が二人の間へ割りこんで来た。
「ははは、今の話かね、こういう訳なんだ、僕が今朝君の電話で事務所を出て行ったとき、この八雲君はまだ事務所へ来ていなかった。そこで僕は旗田邸へ行ったことを紙に鉛筆で書いて、それを机の上に残して行こうと思ったが、ふと思いついて、その紙を灰皿の上で火をつけて焼いてしまったんだ。紙は焼けて黒い灰と化するが、八雲君のいったように鉛筆の痕は残っている。それに八雲君が気がつくかどうかをちょっと験してみたというわけだ。ところがお嬢さんはちゃんと気がついた。そこで及第点を与えたという、それだけのこと」
「ふーン、なるほどね。探偵商売もこれじゃ芯が疲れるわい」
 土居は八雲千鳥に替って、ポケットから手帛(ハンカチ)を出して自分の額の汗を拭いた。帆村は土居を奥の書斎へ導いた。そこは雑然と書籍が積みあげられ、実験室には電気の器械器具が並び、レトルトや試験管が林のように立っていて、博物館と図書室と実験室を一緒にしたような混雑を示している部屋だった。帆村は、この雑然たる部屋を滅多に掃除させなかった。これはたとえ一枚の紙片が掃きとばされても重大な結果となることがあったし、また薬品の一壜が壊されても非常に困ることがあったからである。
「まあ、そこへ掛けたまえ」
 帆村は時代のついた籐椅子を、彼の大机の方へ引寄せて土居に薦めた。そして帆村自身は、大机に附属している皮革張りの廻転椅子に尻を下ろした。その廻転椅子は心棒がどうかしていると見え、彼が尻を下ろした途端にがくんと大きな音をたてて後へ傾いた。しかし帆村は平然たる顔で、机上のケースから煙草を一本とって口にくわえた。
「さあ、君もこれをやり給え。これは昔の缶入煙草のチェリーなんだからね」
 土居は愕いていた。そういう太巻煙草の缶入が昔あったことは、話に聞いていただけだったから。帆村はマッチの火を土居にも貸して、うまそうに紫煙を吸いこんだ。
「妹はどうなんだろう。嫌疑はますます濃くなって行くんだろうか」
 土居は心配そうに訊ねた。
「そうとはいえないと思う」
 帆村は考えながら応えた。
「僕の観察では君の妹さんに対する係官の嫌疑材料は、今日一日で、まだいくらも殖えなかったと見ている。むしろ妹さん以外の人物へ、新しい嫌疑の眼が向けられ、妹さんの容疑点数はいくらか減ったようにも思われる」
「さあ、その話――今日の調べの話をすっかり僕に聞かせてくれないか」
 土居の要求を容れて、彼は今日正午頃から旗田邸に於いて行われた取調べについて詳しく話をした。その話の途中、土居はいくたびか帆村の話の中へ質問を割り込ませようとしたが、帆村はそれを止め、最後まで話を聞いた上にしたまえと勧めた。話はようやく終りとなった。

   弾丸が綴る言葉

「さあ、もう何でも質問していいよ」
 帆村は、途中で八雲助手の持って来たコーヒーのカップを取上げて、咽喉を湿した。コーヒーは、すっかり冷くなって、底には糟がたまっていた。
「どうも奇々怪々だね。旗田鶴彌を殺したのはピストルの弾丸だというんで、それを中心に調べていたところ、最後に至って、いや死因はピストルで作られたのではなく、心臓麻痺だった――というんでは、たいへんなどんでんがえしじゃないか。死因が心臓麻痺なら、旗田鶴彌殺しという犯罪は成立しないことになる。すると妹は即刻殺人容疑者という醜名から解放されていいわけだ。ねえ、そうじゃないかね」
 土居の言葉にも動作にも、新しい元気が溢れて来た。
「一応そういうことが成り立つわけだ。しかし僕の受けた印象では、この事件はそれで結末がつくとは思えない」
「……というと、どうなるんだ」
「いいかね、これは明日裁判医古堀博士の報告を聴いた上でないとはっきりいえないんだが、まあそれはそれとしてだ、旗田鶴彌氏の心臓麻痺は極めて自然に起ったものか、それとも不自然なものであったかによって、又新しく問題が出来るわけだ」
「どういうことだ、その自然とか不自然というのは……」
「つまり、死ぬ前の旗田氏は心臓麻痺を起すかもしれないというほどの病体にあったかどうかが問題なんだ。もし氏が健康を損ねていて、いつ心臓麻痺が起るかもしれないと、医師が警告していた――というような事実が発見されるなら、旗田鶴彌殺害事件なるものは著しく稀薄になるんだ。しかし反対に、旗田氏が心臓麻痺などを起すような病体でなかったということが証明されると、やっぱり旗田鶴彌殺害事件として扱わねばならなくなる」
「君は、どっちだと考えるのか、今までの材料と君の感じとでは……」
 土居は妹の有罪無罪の判別を、帆村の次の一答によって決しようとて緊張の絶頂にあった。
「やっぱり殺害事件だと思うよ」
 帆村は静かにそういった。
「しかも恐るべき殺害事件なんだ。今日までに余り例のないやり方でもって旗田氏は殺害されたものと信ずる」
 帆村の声は、うわごとをいっているように響いた。それは彼が本当に戦慄していることを語るものであった。
「君は誰が犯人であるか、知っているのかね」
 土居の言葉は鋭かった。
「知らない、全く知らない」
「犯人の見当ぐらいはついているのじゃないかい」
「いや見当もついていない」
 帆村は首を左右に振った。
「それに、犯人の見当などをいい加減につけようものなら、真実が分らなくなる虞れがある。犯人の見当をつけてから、証拠を集めるやり方はよろしくない。あくまでも、確かな証拠を一つ一つ積みあげていって、その結果犯人の形が浮び上ってくるのでなければならない。こんなことは今更君に説明するまでもないことだけれど」
 帆村は、まだ誰を犯人とも見当をつけていないことが、この話から分明となった。
「確かな証拠というやつは、もう相当集っているのかい」
「うん。僕としてはいくつかのそれを持っている、動かない証拠をね」
「じゃ、それは今どんな形に積みあげられているのかね。どんな方向に向いているのか」
「まあ、それはいわないで置こう」
 帆村は土居の方をじっと見た。
「その証拠なるものが語る謎の言葉を、僕はまだ殆んど聞き分けることが出来ていないんだ。口惜しいことだがねえ」
 二人はしばらく沈黙に陥った。部屋の窓から、夕空が赤く焼けているのが見られた。

   帆村の事務所(二)

 やがて土居が口を開いた。
「ピストルに関する調べは、全く無駄に終ったわけだね、なにしろ死因がピストルの弾丸でないと分ったから……」
 帆村は黙って土居の顔を見る。
「ねえ帆村君、そうだろう。すると、その取調べの途中に、重大なる容疑者として新しく登場した小林トメなんかは、容疑者から解放されたわけだろう」
「ピストルは、やっぱりこの事件に重大な役割をつとめていると思う。だからそれに関する取調べは無駄ではないと思うよ」
「なぜさ。意味がないものは消去して考えたがいいと思うがね」
「しかしねえ、君」
 帆村は吸殻を灰皿の底にすりつける。
「たとえ旗田氏が心臓麻痺で事切れた後とはいえ、ピストルは旗田氏に向けて発射されたんだからねえ。引金を引いた主は、旗田氏に対して或る感情を持っていたことになる。つまり、旗田氏の頭部へ弾丸を送り込んだということは、彼が一つの言葉を綴って残したことになるんだ。このことは君にも分るだろう」
「旗田氏を撃ったことが一つの言葉を現わしている――ということは分るがねえ……」
「それが分れば、ピストルがこの事件に重大な役割を持っていることが分るじゃないか」
「なるほど、それはそうだ。だが、一体それはどんな言葉を綴っているんだろう」
「綴っているのはどんな言葉か。それはこれから解きに掛るところだよ。そして重要な点は、あのピストルの引金を引いた主が、そのとき既に旗田氏が死んでいるのを知っていたか、それとも知らなかったのか、そこだと思うよ」
 帆村の言葉を聞いて土居は笑い出した。
「旗田氏が既に死んでいると分っていれば、御丁寧にピストルの引金を引くこともなかろうじゃないか。だから当人は、旗田氏が既に死んでいることを知らなかったに違いない」
「君は常識家として正しいことをいっている。しかしだね、引金を引くときには、狙う相手を注視しなければならない。そのときに、相手が既に死骸であることに気がつかない場合というのが一体あるであろうか」
「それはないだろうね。死んでいるか生きているかは、一目見れば分ることだからね」
 と土居はそう言った後で妙な顔をした。
「おやおや、僕はいつの間にか矛盾したことを喋っているぞ」
「いや、それは大した矛盾ではない。君は、一目見れば死んでいるか生きているか分るといったが、もし一目さえ見ることが出来なかったら、或いは相手をはっきり見ることが出来なかったとしたら、相手の生死を判別し得ない場合が生ずるんだ。例えば、相手が暗闇の中に居る、それに対してピストルの引金を引き、奇蹟的に命中した場合……」
「それは吾々の場合ではない。なぜって先刻君は、芝山宇平の証言として、旗田氏の部屋には電灯が煌々と点っていたといったじゃないか」
「今吾々は一つの演習をやっているんだが、君が気になるなら、この場合はあり得ないとして、横に置こう。……もう一つの場合としては、引金を引いた者の視力が非常に弱いか、それとも精神が乱れていて、旗田氏が既に死骸であることを判別し得なかった場合――こういう場合がある」
「ふーン、すると誰がやった仕業かな」
「ああ、それがよくない」
 帆村が舌打ちをした。
「まだ実証上の条件が揃っていないのに、軽々に人物を決めてかかるのはよくない。非常に危険なことだ」
「だけれど、僕は君のように冷静ばかりで押して行けないよ。だってそうじゃないか、僕の妹が絞首台へ送られるか送られないですむかの瀬戸際に今立っているんだからね。一秒でも早く犯人を突留めたい。犯人らしい有力者でもいいが……」
「深く同情する。しかしそういう場合であるが故に、一層君は冷静でなくてはならないと思う」
「いや、僕はもう我慢が出来ない。皆はっきりさせてしまわないでは居られないんだ」
 土居は激しく喘いだ。
「ピストルをぶっ放したのは誰だ。そのピストルは家政婦の部屋から出て来た。家政婦が撃ったに違いない。家政婦は旗田鶴彌に深い恨みを抱いていたんだ」
「家政婦が撃ったと決めるのは軽卒に過ぎる。家政婦があのピストルを使ったものなら、花活の中なんかにピストルを隠しておくものか。部屋を調べりゃすぐ分るからね」
「そうでない。巧妙な隠匿場所だ」
「それに、あのピストルの弾丸が、どの方向から、そしてどんな距離から飛んで来たのかを考えてみたまえ。あれは少くとも旗田の身体から三メートル以上は離れたところから撃ったものだ。そしてその方向に窓があることを思い出したまえ」
「窓? 窓は閉っていた」
「うん、窓は閉っていた、硝子扉が平仮名のくの字なりになって閉っていた――と芝山は証言している。ということは、硝子窓は、いつになく、よく閉っていなかったんだ。内側のカーテンも細目に開いていたという。だから外から窓を開いてピストルの狙いをつけて撃ったんだとしても、今いった条件にあてはまるわけだ」
「すると……」土居は愕きの目をみはって、
「すると犯人は窓の外からピストルを室内へ向けて撃ったというのかね」
「犯人――かどうか知らんが、引金を引いた主は、窓の外から撃った公算大なりと、僕は認めている。このことは尚明日、はっきりした証拠を現場でつかみたいと思っている。もし時間に余裕があればね」
「そんな大事なことなら、今日のうちに調べて置けばよかったのに」
「なあに、ピストルを何処から撃ったかという問題は、大して重大なことじゃないんだ。だから急いで調べるに及ばない」
「僕は反対だ。それは非常に重大なことと思うがね。窓の内側か外側か、どっちから撃ったかということで、容疑者の顔触れががらりと変るんではないかね」
「すると君は、その顔触をどんなに区別するつもりか」
「僕はこう思う」
 土居は一層真面目な顔付になって、
「窓の内側――すなわち室内であれば、家政婦の小林か芝山宇平が怪しい。また窓の外からであれば、小林……小林を始め婦人ではあり得ない」
「婦人でないというと誰々のことだ」
「沢山の容疑者がある。亀之介、芝山宇平、その外に死んだ鶴彌と関係のある男たちだ」
「芝山は、部屋の中でも外でも、両方に可能性があるんだね」
「芝山は怪しい奴だ。ねえ、帆村君。君はこの男に目をつけているんじゃないか。怪しい節がうんとあるよ。老人ぶっているかと思うと、若者のようにとんでもない色気を出したり、言うことだって何をいっているか分ったもんじゃないし、その前身だって洗ってみる必要があるよ」
「三津子さんはピストル関係者ではないのかね」
 帆村はいきなり話題を転じた。
「もちろん無関係だ。なぜといって、妹は鶴彌氏に送られて玄関を午後十一時頃に外へ出ている。鶴彌氏の死んだのは、それから一時間ぐらい後のことなんだ。その頃僕は家へ帰りついていて、妹はちゃんと家に居た。それからは外へ出なかった、その夜は……。妹はピストルには無関係だ」
「それはいい証言だ。明日大寺警部には是非聴いて貰って置こう。先生は三津子さんが撃ちかねないものと考えているようだから」
「とんでもない話だ。うちの妹はピストルの撃ち方だって知らないんだ」

   素晴しき報告

 その翌日午前十時に、裁判医古堀博士の報告が行われた。場所は捜査課の会議室で、帆村荘六もその席に列していた。
「昨日もちょっと申したように、旗田鶴彌の推定死亡時刻は前夜の午後十一時半前後。死因は心臓麻痺であり、ピストルの弾丸は彼が息を引取ってから後に撃ち込まれたものである。これは始めから分っていた。ピストルで殺したにしては、創口からの出血量が少かったからねえ。それから心臓麻痺の問題であるが、これは剖検で確認した。しかし当人の生前の健康状態は頗る良好で、年齢の割に溌剌としていて、心臓麻痺を起しやすい症状にあったとは思われない……」
 緊張して聞いていた一座の中に、帆村の唇が笑いを含んでぐっと曲った。それは彼が、「それ見たか」というときにする癖だった。
「そこで心臓麻痺の原因がどこに在ったかという問題になるが、わしにははっきり分らない。どうしてあのような強い心臓麻痺が、あの肉体に起ったか分らない。これじゃ何が裁判医だ。まことに汗顔の至り……」
 古堀博士は大真面目[#「大真面目」は底本では「大真面白」]で、ぺこんと頭を下げた。これには一同が愕いた。古堀博士が仕事のことで頭を下げたのは、始めて見る図だったから。
「尤もわしは昨日以来、この問題に深い興味を持って研究を開始している。屍体は当分わしの手許に預って置く。報告すべき主なことは以上だ。あとは質問があればお答えする」
 博士は腰を下ろし、誰かの質問を待つ心構えで、天井を見上げた。
「当人の病気以外には、どんな場合に心臓麻痺を起しますかねぇ」
 長谷戸検事が真先に質問の矢を放った。
「中毒による場合、感電による場合、異常なる驚愕打撃による場合……でしょうな」
「旗田の場合は、その中のどれに該当するのか、カテゴリーだけでも分りませんか」
「感電ではない。もし感電であれば、電気の入った穴と出た穴との二つがなければならず、また火傷の痕がなければならぬ。そういうものはない。だから感電ではない。従って他の二つの場合、すなわち中毒に原因するのか、或いは異常なる驚愕等によるものかどっちかでしょうな」
「そのどっちだか分らんですか」
「分らんねえ。研究の結果がうまく出れば分るかもしれん」
 長谷戸検事は、小さく肯いて、心の中に何かノートをとるらしく見えた。
「ちょっと伺いますが」
 と大寺警部のきんきん声がした。
「ピストルの弾丸が頭の中に入った時刻と、死んだ時刻との差はどの位だか分りますか」
「あまりはっきり分らんね」
「大体何時間ぐらい後になりますか、ピストルの弾丸を喰らったのは……」
「何時間というような長い時間じゃない。極く接近しているよ。一時間前後という所だ」
「すると、死んだのは十一時半、ピストルの弾丸を喰ったのは零時半という訳ですね」
「そんなところだ」
 古堀博士はぶっきら棒に応えた。
「解剖の結果、胃の中にあった食物の一覧表は出来ていますね」
 検事が、もう一度発言した。
「それは先刻、書記へ渡しておいたがね」
「いや、そんなものは頂きませんですよ」
 色の真黒な書記が、すっくと突立って打消した。
「そんな筈はない。ちゃんとわしは書いて――ああ、あった。ポケットの中に残っていた。これじゃ」
 博士は笑いもせず、内ポケットから、皺くちゃになった紙片をつかみ出して、机の上へ放り出した。くすくすと笑う者があった。その胃内容物一覧表は、長谷戸検事の手に渡って、拡げられた。帆村は立上ると検事の背後へ行って、その表を熱心に覗きこんだ。
「もう質問はないかな。なければ帰るよ」
 博士はもう腰を半ばあげた。誰も博士を停める者はなかった。博士がパイプに火を点けて、この部屋を出て廊下を五足六足歩いたとき、帆村が追って来て博士を呼び停めた。
「先生、あれはどうなりました」
「あれとは何じゃ」
「鼠です。鼠を解剖してご覧になりましたか」
「おお、そのこと……解剖はした。解剖はしたが、はっきり分らない。人間の心臓麻痺は一目で分るが、鼠が心臓麻痺したかどうかはちょっと分らんのでね。そのことも実は研究題目の一つにして、今やっているところだ」
「流石は先生ですね、大いに敬意を表します」
「何じゃと……」
「いや、つまり先生が、鼠を解剖して、やはり心臓麻痺かどうかを調べられたその着眼点のよさですね、それに敬意を――」
「わははは、何をいうかい」
 と博士は破顔して
「今日中に分るだろうから、分ったら君の事務所へ知らせてやるよ」
 博士はこの約束を果した。
 その日のお昼のすこし前、帆村が旗田邸に居ると、事務所から電話がかかって来た。出てみると、八雲千鳥が当惑し切ったという旨で、
「さっきお電話が先生にありましたんですけれど、いくらお聞きしても自分のお名前を仰有いませんの、そしてただ先生に、“鼠も心臓麻痺じゃ”と、それだけを伝えてくれと仰有いましたんですけれど、何のことだかさっぱり分りません。ひょっとしたらその方は気が変ではないかと……」
「いや、分ったよ、八雲君。それは素晴らしい報告だ。鼠も心臓麻痺で死んだとね。いや全くそれは素晴らしい報告だ」
 八雲千鳥は、帆村先生にも気が変になることが移ったのではないかと思い心臓をどきどきさせたことだった。

   再出発

 その日の午後になって、旗田邸へ検察係官は参集した。その朝の古堀裁判医の報告によって、新たな方向へ捜査を発展させる必要が出来たからである。
 帆村荘六も、やはり案内を受けたので、定刻になって旗田邸へ入った。
 長谷戸検事が、いつものように捜査進行の中心にいた。
 顔触れの揃ったのを知ると、長谷戸検事は煙草の火を消して、別室から事件の部屋へと一同に移動を促した。
 鶴彌の死んでいた例の広間は、事件当時と同じ状態に置かれてあったが、ただ部屋の中心の皮椅子にもはや鶴彌の惨死体は見当らず、そこが大木の空洞のようにぽっかりと明いていて、その見えないものが反って一種異様な凄愴な気分をこの部屋に加えていた。その皮椅子の空洞にもう少し近づいて中を覗きこんだ者は、そこでもう一つ違った刺戟を受けるであろう。それは皮椅子の底に、艶めかしいハンドバグが貼りついたように捨て置かれてあることだった。もちろんこのハンドバグは、旗田鶴彌殺しの第一の容疑者である土居三津子の所有物であり、それは当夜屍体の下敷きになっていたものであることは読者の記憶にあるとおりだ。
 さて今日は、いよいよこの土居三津子がこの部屋に呼ばれることになっていた。前日三津子は護送自動車で玄関先まで来たのであるが、鶴彌の死因についての裁判医の鑑識があまりにも意外な結果を公表したので、三津子の取調べは昨日は急に延期となったものであった。
「土居三津子はまだ到着しませんが、間もなく――そう、あと十五分位したら到着する筈だ。それまでに今日までの捜査結果の概要を復習して置こう。なお私の述べるところと違った見解を持つ人は、あとでそれを言って貰いましょう」
 そういって検事は、従来捜査の主流をなしていた彼自身のもの、大寺警部の考えているところのもの、古堀博士の鑑定、それから帆村探偵が問題として指摘したものなどについても述べるところがあった。
 その口述において、検事は自分が鶴彌殺しの犯人として始めは家政婦を疑ったが、それが芝山の証言により解消した。ところがその後古堀裁判医の鑑定によって死因は心臓麻痺と変ったため、今は全く出発点へ逆戻りの形となったことを述べ、これに対し大寺警部は今も尚土居三津子を有力なる容疑者として考えていると思われるが、それに相違ないかと、検事は警部に訊いた。
「そうですとも、私は始めから土居だと睨んでいて、途中でもその考えから変ったことはありません。もちろん裁判医が何と鑑定をしようと、私の考えは微動もしませんです」
 と、強い自信を奇声に托して宣言した。
「死因のピストル説が、心臓麻痺に変っても、君の土居三津子を容疑者とするの論拠はすこしもゆるがないというんだね」
 検事は、すこし硬くなって、訊き返した。
「その通り。土居はあの夜、主人鶴彌に面接した最後の者でありますぞ。そして自分のハンドバグを残留してこの屋敷を飛出したほどの狼狽ぶりを示している。一体あの女のこの周章狼狽は何から起ったことでしょうか。これこそ乃(すなわ)ちあの女が当夜鶴彌に毒を盛ったことを示唆している。自分で毒を盛ったが、それに愕いて、急いで逃げ出した。そしてハンドバグを忘れて来てしまった」
「どういうわけで土居三津子はあの屋敷から急いで出たというのかな。その点はどう考えるのか、大寺君」
「アリバイの関係ですよ。土居があの屋敷に残留しているうちに毒が廻って鶴彌が死んでしまったら、あの女の犯行であることは直ちにバレちまって逮捕される。それをおそれて、急いで逃げ出したんですな。あの女が去って後で鶴彌が死んだとなると、あの女は有力なアリバイを持つことになる。もっともハンドバグを忘れるようなヘマをやっては何事も水の泡ですがね」
「どんな方法によって中毒させたか。それはどうなんだね」
 と、検事は事のついでに、この自信満々の主に糺(ただ)した。
「それは私の領分じゃないんですよ。鑑識課員と裁判医は、それについてもっと明確な報告をしてくれなければならんと思う。あの連中の職務がそれなんですからね。もっとも私は今日容疑者から話を聞き出します。そしてあべこべに鑑識課や裁判医に資料を提供してやろうとまで考えているんですがね」
「ところが裁判医が死因を究明する力なしとその不明を詫びているんだから、困ったもんだね」
 検事が苦笑した。
「ねえ検事さん。あなたは本当に捜査をご破算にして出発点へかえられたんですか」
 ずっと沈黙して、聞き手に廻っていた帆村荘六が、そういって口を切った。
「わざわざ嘘をいうつもりはないよ」
「そうですか。同じ心臓麻痺にしても、中毒による場合と、驚愕による場合とは大いに違うと思うんですが、あなたはどっちだとお思いなんですか」
「出発点にかえったといったろう。だからこれから捜査のやり直しだ」
「本当ですかあ。しかし今までに調べたことが全部だめというわけじゃないでしょう」
「一応白紙に還る。面倒でも、もう一度やりなおしだ。この小さい卓子(テーブル)の上に載っている料理の皿や酒なども、もう一度始めから調べ直すつもりだ」
「ああ、それは実に結構ですね。いや、これはお見それいたしまして、たいへん失礼しました」
 帆村はそういって、頭を掻いた。帆村が頭を掻いたので、検事以外の者はびっくりした。そして声に出して笑い出した者もあった。

   禅問答

 長谷戸検事は、早速その仕事に掛った。
 帆村荘六は、「いやこれはますます恐れ入りました」といいたげに襟を正して、係官と共に小卓子の側に歩みよった。
「――料理が六種類に、飲科が五種類だ。サイフォンの中のソーダ水も忘れないで鑑識課へ廻すこと。その外に皿が四つ、コップが三個。空いた缶詰が一個。それからテーブル・ナイフ[#「テーブル・ナイフ」は底本では「テーブル、ナイフ」]にフォーク。最後にシガレット・ケース、巾着に入った刻み煙草、それとパイプ、それからマッチも調べて貰おう。それで全部だ」
 検事は、鑑識課へ廻付して毒物の含有の有無を調べる必要のあるもの二十四点を数えあげた。検事がそれを数えている間、帆村荘六はこれまでにない硬い表情でそれを看守っていた。
 検事の部下は、トランクを一個持って来て、命ぜられたものを一つ一つ丁寧にパラフィン紙に包んでトランクの中に収めた。小卓子の上からはだんだんに品物が姿を消していって、遂に残ったものは花活と燭台と灰皿の三つと、小さいナップキンとテーブル・クロスだけになってしまった。
「検事さん。これで全部ですね」
 食料食器の収集を手伝っていた大寺警部がそういった。
「そう。それで全部だ」
 と、検事は小卓子の上へ目をやってから、肯いてみせた。が、その検事は、帆村荘六がいやにしかつめらしい顔をしているのに気がついた。検事の眉の間が曇った。
「おい帆村君、何を考えているんだい」
 いわれて帆村は、小卓子の上を指し、
「これだけは残して行くんですか」
「うん。無関係のものまで持って行くことはない」
「無関係のもの? そうですかねえ」
「だって中毒事件には関係がないものではないか。そうだろう。花活然り、蝋燭のない燭台然り、そして灰皿然り」
「そうでしょうかねえ」
「そうでしょうかねえったって、あとのものは中毒に関係しようがないじゃないか。僕が必要以上のものを集めたといって、君から軽蔑されるかと思ったくらいなんだがね」
「とんでもないことです。長谷戸さん。私は大いに敬意を表しているんですよ。あなたがマッチまで持って行かれる着眼の鋭さには絶讚をおしみませんね」
「ふふふ。それは多分君に褒められるだろうと予期していたよ。そうするに至った動機は、君の示唆するところに拠るんだからね」
「ははあ、そうでしたか」と帆村は軽く二三度肯いた。
「しかしそれなれば、まだお調べになるべきものが残ってやしませんか」
「もう残っていないよ。これですっかり――」
 といいかけて検事は俄に言葉を停めた。
「ああそうか、君は灰皿に入っている内容物についていっているんだね。僕だってそれを考えなかったわけではない。しかしこれを調べることはないと分ったから除外したんだ。ねえ帆村君」
 このとき帆村が何かいおうとしたのを、検事はおっかぶせるように言葉をついだ。
「実は灰皿の中に煙草の吸殻が入っていることを僕が忘れていると思っているんだろう。なるほど、現にこうして灰皿を眺めると、吸殻が見えない。それは吸殻の上に、何か紙片を焼き捨てたらしい黒い灰が吸殻の上一面を蔽って、吸殻を見えなくしているからだ」と、検事は灰皿を指した。「ね、そこだよ、君。吸殻に中毒性のものが入っていたとすれば、その吸殻は灰皿の外に落ちていなければならないと考えるのが常識だ。しかし被害者が頑張り屋で、きちんとすることが好きな人間だったら、中毒症状を起しながらも懸命の努力を揮って吸殻を灰皿へ抛げこむだろう。もちろんこれは極めて稀なる場合だがね。ところがだ、この灰皿の内容物を検するのに、吸殻の上を、この黒い灰が完全に蔽っているんだ。ということは何を意味するか。それは手紙か証文か何かしらんが、その紙片を焼いて黒い灰をこしらえたときには、被害者は煙草を吸っていなかったことを物語る――つまりそのとき煙草を吸っていたものなら、その吸殻はこの黒い灰[#「黒い灰」は底本では「黒灰」]の上にあるか、又はそのへんに落ちている筈だ。だがそんなことはなかった。してみると、この黒い灰をこしらえた以後に於いて、被害者はどういうわけかその理由は不明だが、煙草を吸わなかったと考えていい。と同時に、灰皿の吸殻は毒物を含んでいなかった、だからその後で、被害者は紙片を焼くなどの行動が平気でとられる程、健康であったことを物語る。こういう解釈はどうだね」
「大いに気に入りましたね」
「僕もそう思っていた。多分この説は君が気に入るだろうとね」
「しかしですね、長谷戸さん。死んだ主人鶴彌氏は、当夜この部屋ばかりにいたわけじゃないんで、土居嬢を送るために玄関へも行ったでしょうし、手洗いへも行ったでしょう。また寝室や廊下や階上などへも行ったかもしれない。そういうとき吸殻を捨てる場所は到るところにあったわけですね。窓から吸殻を捨てることも有り得るでしょう」
「で、君は何を主張したいのかね」
「何も主張するつもりはありません。ただ今のところを説明の補足として附け加えたかったわけで、結局あなたの説に深い敬意を表する者です」と会釈をして「もう一つ伺っておきたいことがありますが、例の黒い灰をこしらえた直後、鶴彌氏は死亡したという御見解なんでしょうか」
「いや、そんなことは考えていない。あの黒い灰をこしらえて以後、被害者は煙草をあまり吸わなかったらしいと認めるだけのことだ。実際、煙草を吸うのをよして、その後は酒を呑み、料理を摘むのに何時間も費したかもしれないからね」
「すると、中毒物件は飲食物の中に入っているとお考えなんですか、それとも他のものの中に……」
「それはこれから検べるんだ。毒物は固体、液体、気体の如何なる形態をとっているか、それは今断言出来ない。中毒性瓦斯(ガス)についても疑ってみなければならないと思いついたことについては、君の示唆によるわけで、敬意を表するよ」
 検事と帆村の永い対談はここで漸く一旦の終結を遂げた。しかしこれを辛抱づよく傍聴していた係官たちは、無用の禅問答を聞かされたようで、多少のちがいはあるが、誰しも両人を軽蔑する気持を持ったことは否めなかった。

   三津子登場

 土居三津子の護送自動車は、予定より三十分も遅れて到着した。途中でタイヤがパンクしたためであった。
 とにかく第一番目の容疑者としてこの事件を色彩づけている土居三津子の登場は、検事と帆村の野狐禅問答にすっかり気色を悪くしていた係官たちを救った。
 広間に入って来た三津子は、事件当時に較べるとすっかり窶(やつ)れ果て、別人のように見えた。それでも生れついた美貌は、彼女を一層凄艶に見せていた。一つには、三津子は今日は和服に着換えているせいもあったろう。それは三津子の兄が、差入れたものであった。
 大寺警部は、三津子を容疑者として誰よりも重視しているので、警部は誰よりも張切って動いていた。
「検事さん。どうぞお始めになって下さい。私の訊問は検事さんの後でさせて貰います」
 大寺警部は、三津子訊問の催促を長谷戸検事に対して試みた。
「じゃあ少しばかり僕がやって、後は君に引継ぐから、十分やりたまえ」
 検事はそういってから、やおら三津子の方に顔を向けた。俯向いた三津子の項(うなじ)に、乱れ毛がふるえていた。
「土居さん。二三の問[#「二三の問」は底本では「二三の間」]に応えて頂きましょう」検事はやさしくいった。「あなたが当夜、ここの主人の鶴彌氏に送られてこの部屋を出て行ったときのことですが、鶴彌氏はどの程度に酔払っていましたか」
 三津子は口を開こうとはせずに、床の上をみつめていた。しかし検事は辛抱[#「辛抱」は底本では「幸抱」]強く彼女の応答を待った。
「酔ってはいらっしゃらなかったようでございます」
 三津子は、案外しっかりした声音で応えた。
「酔ってはいなかったというのですね。しかし鶴彌氏はその椅子について酒を呑んでいたのでしょう。そうではなかったんですか」
「さあ、どうでございますか、あたくしがこのお部屋の扉をノックいたしますと、旗田先生は迎えに出て下さいまして、扉をおあけになりました。ですから、旗田先生がお酒を呑んでいらしたかどうか、あたくしには分りかねます」
 傍聴の帆村が、唇をへの字にぎゅっと曲げた。わが意を得たりという笑い方を、彼一流の表現に変えたのである。検事の方は、だんだんと熱中して来た。
「すると、こちらのテーブルの上はどうなっていたですか。どんなものが載っていましたか。つまり酒壜や料理の皿なんぞが載っていて、酒を呑んでいた様子に見えなかったかとお訊ねするわけです」
「はあ。あのときそのテーブルの上には、別にお酒の壜もお料理のようなものも載っていませんでした。ただ煙草や灰皿だけでございました」
「煙草や灰皿だけで、テーブルの上には酒壜や料理類は載っていなかったというんですね」検事は新事実の発見に、思わず色を動かしたように見えた。「それで、あなたはその酒壜や料理類を、この部屋のどこに見つけたんですか。それはどこに載っていましたか」
「さあ、それは……それは、はっきり存じません。憶えていません」
「はっきりでなく、うろ覚えなら知っているんですか」
 検事は急迫した。
「はい。それは、あのウ……あのお戸棚の上に、大きなお盆に載って、あげてあったようにも思いますのですけれど」
「どうして、そういうことをはっきり覚えていないのですか。あなたは当夜、かなり永い時間この部屋に居られた筈ですから、そういうものの置き場所に気がつかないわけはないと思うんですがね。その点どうですか」
 三津子は、すぐに応えられなくて、唇を噛んでいた。紙のように白くなった額に、青い静脈がくっきり浮んでみえた。
「……あのときはあたくしの心を悩ましている問題がございまして、それにすっかり気をとられ、他のことを注意する余裕なんかございませんでした」
「ああ、そうですか」検事は素直に相槌をうった。
「ところで、当夜あなたが鶴彌氏に対し、何か毒物を与えたのではないかという説があるんですが、これについて弁明出来ますか」
「ドクブツと申しますと――」
「つまり、人間を中毒させる薬をあなたが隠し持っていて、それを鶴彌氏に喰べさせるかなんかしたのではないかというんです」
「まあ、毒物を。そんな……そんな恐しいことを、なぜあたくしが致しましょう。また、たとえあたくしがそんなたくらみをしたとしても、あのとおり気のよくおつきになる旗田先生が、それをすぐお見破りになりますでしょう。ですから、そんなことは全然お見込みちがいでございます」
「それはそれとして、あなたは鶴彌氏が死ねばいいと思っていたんでしょう。どうか正直にいって下さい」
 検事は昔ながらに攻勢地点を見落としはしなかった。果然、三津子ははっと顔色をかえた。だが彼女はすぐ言葉を返した。
「それはそうでございます。旗田先生がお亡くなりになれば、この上の悪いことは発生いたしますまい」
「あなたは一体何を恨んでいたんです。それを聞かせて下さい」
「いいえ。何度おたずねになっても、あたくしはそれについては申上げない決心をいたしていますの」
 顔をあげると、三津子は、決然といった。そして反抗する輝きをもった視線を大寺警部の面へちらりと送った。
 事実、土居三津子は、旗田鶴彌に対する怨恨について、これまでに執拗にくりかえされた大寺警部の尋問にも、頑として応えなかった筋であった。
 長谷戸検事は、それ以上の追及をしなかった。そして予定していた頃合が来たと考えて、大寺警部の方へ目配せをした。それは訊問を警部の方へ譲るという合図だった。

   帆村口を開く

 大寺警部は立上ると、鶴彌が死んでいた皮椅子のところまで行ってその背をとんとんと、意味ありげに叩いた。それから又歩きだして、三津子の前に行った。三津子は、歯をくいしばって床を見つめている。
「とにかくこの家の主人が生前一番おしまいに会った人物はというと、君なんだからね。主人の死は午後十一時半前後だし、君が主人に送られてこの家を出たという時刻は――主人が君を送ったと証言するのは君だけなんだが、ともかくも君がこの家を出た時刻は午後十一時だ。これだけいえば、君は主人を殺し得る只一人の人物だった。家政婦の小林と芝山は、その頃は小林の部屋でしっぽりよろしくやっていたので、主人を手にかけるどころじゃなかった。さあそこで、君は、この家の主人をどうして毒殺して去ったか、それについて実行した通りを陳(の)べなければならない。さあどうだ」
 三津子は、いよいよ身体を固くして、歯をかみならしただけで、応えなかった。
「どうしたんだ。黙っていちゃ分らん」
 警部の語気が荒くなった。でも三津子は口を開こうとしない。
「ちょいと君、大寺君」と検事が呼んだ。
「そういうもう既に答の出ていることは訊いても仕様がないじゃないか。もっと新しい事実の方を掘りだして、事件の解決を早くしたいもんだね」
 警部はいやな顔をした。帆村探偵が、おどろいたような顔で長谷戸検事の方を見た。
「ですが検事さん」と警部はいった。
「この女が如何にしてこの家の主人に毒を呑ませ、そしてこの邸からずらかったか、それを当人から聞くとは[#「聞くとは」はママ]新しいことではないですか」
「主人の死んでいた部屋には、内部から鍵を廻してあった。三津子君が殺したものなら、どうしてその密室から出るか。玄関にも、内側から錠を下ろしてあったのだよ」
「ここの窓から飛び下りられますよ。窓には鍵がかかっていなかった。二枚の合わせ硝子戸を寄せてあっただけですから」
 警部の毅然たる解答に、帆村がにんまりと笑った。
「待ちたまえ。窓枠にも窓下にも、三津子君の足跡も指の跡もなかった。たとえ若い婦人がいざという場合には、こんな高い窓から外へとび下りることが出来ると仮定してもだ。しかもその窓硝子を外から締め合わせたとなると、この婦人は女賊プロテアそっちのけの身軽だといわなければならない」
 これには大寺警部も、すぐに応える言葉を知らなかった。窓のところの証拠固めは彼がしたのであったから、今彼は自縄自縛の形になってしまったわけだ。
 検事は、それごらんといいたげな顔。
「甚ださし出がましいですが、それはこうも考えられますね」帆村が沈黙を破って、しずかに足をはこんで三津子の前へ出て来た。「つまりですね、まず旗田鶴彌氏に毒をのませる。その毒がまだきいて来ない前に旗田氏に玄関まで送らせて自分は外へ出る。旗田氏は玄関を締め、それから居間に錠をおろしてこの部屋にひとりぼっちとなる。そのうちに毒がきいて来て、氏は皮椅子の中で絶命する――というのはどうです」
「ああっ、それだ」
 大寺警部は失せ物を届けられたときのように悦んだ。検事の方は、同意を示すためにしょうことなしに頭をちょっとふった。
「土居三津子。今の話を聞いたろう。あの通りだろう」
 警部は三津子にいった。三津子は兄の友人である帆村の発言に気をよくしたのもほんの一瞬のことで、論旨を聞けば気をよくするどころではなかった。それで彼女は涙を出した。
「いや、警部さん。僕が今言ったのは、単なる有り得べき解答の一つをご紹介しただけのことです。僕はこの婦人が、そういう方法で旗田氏に毒を呑ませたのではないと確信しています」
 帆村は必ずしも警部の説を支持していないことが分った。
「今君の指摘した方法に違いないと思うんだが……」
 警部は新たな確信に燃えて言い張る。
「いや、その解釈には一つの欠点があるのです。そういえばもうお分りでしょう」
 そういって帆村が口を噤むと、一座は急に静かになった。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:156 KB

担当:undef