地獄の使者
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著者名:海野十三 

   プロローグ

 その朝、帆村荘六が食事をすませて、廊下づたいに同じ棟にある探偵事務所の居間へ足を踏み入れたとき、彼を待っていたように、机上の電話のベルが鳴った。
 彼は左手の指にはさんでいた紙巻煙草を右手の方へ持ちかえて、受話器をとりあげた。
「ああ、そうです。私は帆村です。……やあ土居君か。どうしたの、一体……分っている、君が事件の中に居るということが……。しかもそれは、新聞記者たる君が仕事の上で補えた事件じゃなくて、君が好まざるにもかかわらずその事件にまきこまれちまったというのだろう。……お喋りはよせって。なるほどねえ。……えッ、君の妹さんが……」
 帆村は、すいかけの煙草を急いで灰皿の中へなげこむと、そのかわりに鉛筆をつかんだ。軸の黄色い鉛筆だった。
「そうかなあ、君に妹さんがあったのかねえ。……いや失敬。それは困ったねえ。殺人容疑者としてあげられたとは、ちょっと面倒だね。……もちろん信じるよ、僕は。君の妹さんのことだから、同じように道義にはあついのだろうと……いや皮肉じゃない。よろしい、とにかくそっちへ行こう。十五分とはかかるまい。見附の東側の公衆電話のところだね。じゃあ後はお目にかかって……」
 受話器をがちゃりとかけて、帆村はノートした紙片を取上げた。彼は突立ったまま、しばらくその紙の上を眺めていた。そこには鉛筆のいたずら書としか見えない三角形や楕円や串にさした団子のような形や、それらをつなぐもつれた針金のような鉛筆の跡が走りまわっていた。それは帆村独特の略記号であった。それが解読できるのは、帆村自身の外には、彼の助手の八雲千鳥(ちどり)だけだった。
 彼は、ものに憑かれたように、五分間というものはその紙面に釘づけになっていた。その揚句に、彼はその紙片を机のまん中にそっと置いた。それから彼の手が忙しくポケットをさぐって、紙巻煙草とライターを取出した。ライターをかちりといわせて、焔を煙草の先に近づけた。ふうっと紫煙が横に伸びる。彼はライターの焔を消そうとして、急にそれをやめた。
 机上におかれた例の紙片がつまみあげられた。その紙片は灰皿の上へ持って行かれた。その下に、ライターの焔が近づけられた。紙片はぱっと赤い焔と化した。そしてきな臭い匂いを残して黒い灰となり、灰皿の中に寝て、すこしくすぶった。

   恐ろしい嫌疑

 探偵帆村荘六を、朝っぱらから引張り出した事件というのは、一体どうしたものであったか?
 帆村の友人の一人である新聞記者の土居菊司が、あわただしく電話をかけて来て、帆村にすがりついたその事件というのは、土居記者の肉親の妹が、今朝殺人容疑者としてその筋へ挙げられたことにある。土居はその妹の潔白を信じて、妹にかかった嫌疑が全くの濡衣であることを力説し、帆村の腕によって一刻も早くこの恐ろしい雲を吹き払い、妹を貰い下げられるようにして欲しいというのであった。
 この妹想いの兄と帆村とは、もちろんさして深い友人関係ではなく、仕事の上で三四度知り合ったに過ぎなかったが、こうして頼まれてみると、引受けないわけに行かず、従って、土居との親しさの距離が急に縮まった感じがした。しかし彼はその妹がどんな女であるか知らず、顔を見たこともなかった。
 殺されたのは、何者か?
 本邦に珍らしいニッケル鉱の山の持主である旗田鶴彌氏が、その不幸な人物だった。氏の邸は、見附の近くにある。
 帆村は、見附の公衆電話函の前で車を降り、そこに待っていた土居記者と一緒になった。二人は、旗田邸へ足を向けた。
 その道すがら、土居記者は帆村に礼をいったり、懇願したり、訴えたりした。土居のいいたいことが大体終ったとき、帆村はたずねたいことを口に出した。
「そうすると三津子さんは、今朝旗田邸から引かれたというわけだね。三津子さんが今朝旗田邸に居たことについて、あらかじめ、君は知っていたの」
「いいや、知らなかった。僕は昨夜は十二時を廻って帰って来たんだ、昨夜は地方版の記事について面倒なことが起って、遅くまで社に残っていたもんだから。……妹の部屋へ声をかけたところ、妹はたしかに返事をした。もちろん寝ていることが分った。声の聞えた見当からね。そこで僕は安心して、自分の部屋に入って寝床へもぐりこんだのだ。ところが今朝僕が起きてみると、妹が居ないのだ。買物にでも行ったのかと思っていたが、なかなか帰って来ない。そのうちに出社の時間が来た。今朝は昨夜からの記事の一件で、早く社へ出ることになっていた。それで僕は、妹にかまわず家を出たんだ。そうだ、あれは七時だったよ」
「なるほど」
 そういって帆村はオーバーの襟をたてた。濠ばたを、春寒むの風が吹く。
「社へ出て、ひっかかりの仕事を大体片づけてほっと一息ついたところへ、木村という同じ部の記者が入って来て、ちょっとと蔭へ僕を呼ぶんだ。僕は何の気なしに彼の方へ寄って行くと、『おい土居、君の妹さんが警視庁へ引かれている事を知っているか』というだしぬけの質問だ。僕はそれを聞くと、全身が急にがたがた慄えだした。『知らなかったが、一体どうしたんだ。教えてくれ』と木村にすがりつくと、木村の曰く、『うちの三上――本庁詰の記者だ――その三上が知らせて寄越したんだ、なんでも殺人容疑者となっている。そして妹さんは今朝、被害者邸に居て、そこから引かれたこと、妹さんが今日早朝、被害者邸を訪問したことがぬきさしならぬ嫌疑となったらしい』という話。僕は気が変になりそうになったが、それを堪えて木村にいろいろ質問を浴びせかけたが、それ以上の深いことを彼は知らず、また三上も知らないことが分った。ただ木村のいうのには、この際一刻も早く妹さんに有利な証拠がためをしておくのがいい。それには帆村氏あたりを煩わして、早くそして正確にやってもらっておくがいいだろうという忠告なんで、それでその時まですっかり忘れていた君の存在を思出したような始末さ。頼む。このとおり」
 と、土居はポケットから手を出して、片手だけではあったが、帆村を拝んだ。
「で、君はその後、妹さんに会ったか」
「いや、会っていない」
「なぜ三津子さんは今朝旗田邸を訪ねたんだろうか。そのわけを知っているかね」
「いや、それは知らない。僕は三津子が旗田と何かの交渉を持っていることについてすら、今日までさっぱり気がつかなかったのだからね。なんという呑気すぎる兄だろうか」
 と、土居は目を固く閉じて、首を振った。
 そのとき帆村は、俄かに歩調をゆるめた。それはもうすぐ目の前に、旗田邸の塀が見えたからであった。
「それで、被害者旗田鶴彌氏は、どんな方法によって三津子さんに殺害されたといっているのかね」
 帆村は重要なる事項について訊ねた。
「そんなことは知らない。木村はもちろん三上も知らないんだ。おそらく当局者は蠣(かき)のように黙っているんだろう。僕も早くそれを知りたい。君の力でもって、ぜひ当局者から聞いてくれたまえ」

   検証

 帆村は、検察委員に選任せられていたから、警戒の警官にことわって、邸内に入ることを許された。
 中へ入ってみると、帆村の馴染な顔がいくつもあった。その顔触によって、ここに詰めている主任が大寺警部だと知った。その大寺警部は、今しがたここに到着した長谷戸検事一行を案内して、事件を説明しているところだそうで、今すぐそれに参加せられるが便宜であろうとすすめた。帆村はそれに従った。
 検事一行は、被害者の居間に集っていた。この居間は、十四五坪ほどの洋間であった。立派な鼠色の絨毯が敷きつめてあり、中央の小卓子(テーブル)のところには、更にその上に六畳敷きほどの、赤地に黒の模様のある小絨毯が重ねてあった。その小卓子と向きあった麻のカバーのついた安楽椅子の中に、当家の主人旗田鶴彌氏が、白い麻の上下の背広をきちんと着て、腰は深く椅子の中に埋め、上半身は前のめりになって額を小卓子の端へつけ、蝋細工の人形のように動かなくなっていた、卓上には、洋酒用の盃や、開いた缶詰や、古風な燭台や、灰皿に開かれたシガレット・ケースに燐寸(マッチ)などが乱雑に載っていた。だが、それらの品物は、一つも転がっていはしなかった。
「……そんなわけでして、どうもはっきりしないところもあるんですが」と大寺警部の有名な“訴える子守娘”のような異様な鋭い声がして「ともかくも、ここの戸口の扉には内側から鍵がさしこんだまま錠がかかっているのに対し、反対側の窓が半分開いて居りますうえに、今ごらんになりましたとおり、被害者の頸の後に弾丸が入っている。それならば、犯人は被害者の後方から発砲し、それからあの高窓にとびあがって逃げた――と考えてよろしいのではないかと思います。私の説明はこのくらいにしておきまして、後はどうぞ捜査指揮をおねがいいたします」
 そういって大寺警部は一礼した。
 検事一行は、静粛な聴問の姿勢を解いた。
「すると君は、容疑者一号の婦人が、その被害者を射殺した後、あの高窓へとびあがり、扉を開いて外へ逃げたというんだね」
 長谷戸検事の声だった。
「はあ。私はそう思いますが……」
「で、その容疑者一号は、ピストルを持っていたかね」
「いや、持って居りません。追及しましたが頑として答えません」
「ピストルで射殺したことは認めたかね」
「ピストルなんか知らないと、頑張りつづけて居ります」
「いえ[#「いえ」はママ]。ピストルなんか知らないとね。なるほど、そうかね。……で、君がその婦人を容疑者とした理由は?」
 検事は、警部の顔を興深げに見る。
「はい。それはいくつもの理由がございますが、まず第一に、その婦人は今朝この邸に居たこと。第二に、その婦人の名刺の入っているハンドバグが、被害者のかけている椅子の中にあったこと。これを詳しく申しますると、現に被害者の屍体は、その尻の下にそのハンドバグを敷いて居ります。始め私は椅子の背中越しに中を覗きこんだところ、それを発見したのでありました。第三には、その婦人は昨夜の現場不在証明をすることが出来ないでいるのであります。なお、これからの捜査によってその他の有力なる証拠が集ってくるだろうと思われます」
 大寺警部は、いくぶん得意にひびく自分の語調に気がついたか、顔を赧らめた。
「犯人は、この家の外部の者だという確信があるらしいが、それは何か根拠のあることかね」
 検事はちょっと皮肉を交ぜていった。
「犯人がこの家の外部の者だと、そこまでは私はいい切っていませんのですが、何分にもハンドバグが屍体の尻の下にあり、そのハンドバグの持主が今朝もこの邸に居わせましたんで、その婦人――土居三津子を有力なる容疑者に選ばないわけには行かなくなりました」
「なるほど。そうすると、土居三津子がどういう手段で旗田を殺害したかという証拠も欲しいわけだが、それは見つかったかね」
「それは、さっきも申しましたが、土居三津子はピストルを持って居りませんので、そのところがまだ十分な証拠固めが出来上っていません」
「ぜひ、そのピストルを早く探しあてたいものだね」といって検事はちょっと言葉を切ってから、誰にいうともなく「犯人は、たしかにわれわれに挑戦をしている。不都合な奴だ。だが、およそ犯罪をするには必然的に動機がある。その動機までを隠すことは出来ないのだ。今に犯人は歎くことであろう」と呟くようにいった。
「その外に何か差当りのご用は……」
 と、大寺警部が、遠慮がちに訊いた。と、長谷戸検事は、われに返ったように大きな呼吸をして、警部の方へ振向いた。
「大寺君。この家には、被害者の外にも同居人が居たんだろう」
 検事の質問には、言外の意味が籠っているようであった。
 それに対して警部は、同じ屋根の下に寝泊しているのは、家政婦の小林トメという中年の婦人と、被害者の弟の旗田亀之介の二人だけで、その外には毎日通勤して来て昼間だけ居合わす者として、お手伝い[#「お手伝い」は底本では「お伝い」]のお末(本名本郷末子)と雑役の芝山宇平があると答えた。お末は二十二歳。宇平は五十歳であった。
「或いはそういう連中のうちに、ピストルを隠している者がいるんじゃないかねえ。それを調べておくんだよ、まだ調べてなければ……」
「はあ、調べます」
 大寺警部は、まだそれを調べてなかったのである。
「で、その家政婦と弟の両人は、昨夜居たのか居ないのか、それはどうかね」
「家政婦の小林トメは、夕方以後どこへも外出しないで今朝までこの屋根の下に居りました。それから被害者の弟の亀之介ですが、当人は帰宅したといっています。その時刻は、多分午前二時頃だと思うと述べていますが、当時泥酔していて、家に辿りつくと、そのまま二階の寝室に入って今朝までぐっすり睡込んでしまったようです。当人はさっきちょっと起きて来ましたが、まだふらふらしていまして、もうすこし寝かせてくれといって、今も二階の寝室で睡っているはずです。もちろん逃げられません、監視を部屋の外につけてありますから」
 それを聞くと検事は軽く肯いた。それから彼は遺骸の前の小卓子の上を指して、
「その卓子の上に並んでいる飲食物や器物は誰が搬んで来たのかね。それは分っている?」
「はい分って居ります。洋酒の壜(びん)以外は、家政婦の小林トメが持って来たものに相違ないといって居ります。それは午後九時、家政婦が地階の部屋へ引取る前に、用意をして銀の盆にのせて持って来たんだそうです」
 検事は引続き軽く肯きながら、小卓子の上を見まもった。盛合わせ皿には、燻製の鮭、パン片に塗りつけたキャビア、鮒の串焼、黄いろい生雲丹、ラドッシュ。それから別にコップにセロリがさしてある。それからもう一つちょっと調和を破っているようなものが目についた。それは開いた缶詰だった。半ポンド缶であったが、レッテルも貼ってない裸の缶であった。何が中に入っていたのか、中は綺麗になっていたから窺う由もない。
 その外に小型のナイフとフォークにコップの類。開かれたるシガレット・ケースとその中の煙草。それから別にきざみ煙草の入った巾着とパイプ。灰皿に燐寸。燭台が一つ。但し蝋燭はない。あとは四本の洋酒の壜に、炭酸水の入ったサイフォン一壜。――これが卓子の上のすべての品物だった。
 灰皿の中には、吸殻の外に、紙片を焼捨てたらしい黒い灰があって、吸殻を蔽っていた。
 検事の目は、これらの物の上をいくたびもぐるぐる廻っていたが、そのうちに大きく視線を廻して戸口の方を見た。
 裁判医の古堀博士が入って来たのである。

   どぶ鼠

「わしを呼ぶんなら、もっと早く連絡してもらいたいもんだね。今日は野球が見に行けるものとその気になって喜んでいるところへ――玄関まで出たところへ君たちの勝手な電話さ。一体殺人事件は夜中に起るもんだから、その翌朝の一番電話で、わしのところへ連絡してもらいたいね。そうしないと、さっぱりその日の予定がたたないやね。予定がたたないばかりか、今日みたいに甚だ不機嫌にならざるを得ないじゃないか。よう、これは長谷戸さん。今のわしの長談義を、君もちゃんと覚えていて下さいよ。……それで、御本尊はどこに鎮座ましますのかな。ああ、あれか。わしより若いくせに、早やこの世におさらばの淡泊なのが羨しいね」
 古堀老博士は、例のとおりに喋り散らしながら、携げて来た大きな鞄を、被害者が占領している安楽椅子の右側に一度そっと置いて、それから錠前をはずして大きく左右へ開いた。鑑識用の七つ道具がずらりと店をひろげた恰好だった。
 検事一行や大寺警部たちが、老博士の機嫌をこれ以上悪くしない程度の距離をもって、大きく円陣をつくって取巻いた。
 古堀博士は、ゴムの手袋を出してはめ、眼鏡をかけかえると、前屈みになって死人の顔に自分の顔を寄せた。それから手を伸ばして死体の瞼を開き、それからだらりと垂れている左腕を死人の服の上から掴んでみた。それがすむと、いよいよ自分の顔を死人に近づけて、鼻の上に皺をよせた。そのあとで立ち上った。椅子のうしろをぐるっと大まわりをして、死体の向う側、つまり死体の左側へ出た。そこで彼は始めて被害者の頸のうしろに於ける銃創を眺めたのであった。
 古堀裁判医は、小首をかしげた。
 彼は再び椅子のうしろを廻って左の場所に取ってかえし、鞄の中から二三の道具を取出すと、それを持って死体のうしろへ廻り、器具を使って傷口の観察にかかった。それは、この部屋へ入って来たときの彼の忙しそうな口調に似ず、実にゆっくりした念入りなものであった。最後にこの裁判医は、こっくりと肯いてから身体をまっすぐにし、腰を叩いた。
「もういいですか、古堀さん」
 と長谷戸検事が声をかけた。検事は煙草ものまないで待っていた。
「とんでもない。急いで物をいう裁判医をお望みなら、これからはわしを呼ばないことだね」と古堀はいって仕事をつづけた。しかしその言葉が持つ意味ほど彼は不機嫌ではなかった。
「この死体を床の上へ移して裸にしてみたいんだが、差支えはないかね。ほう、差支えがなければ、君がた四五人、ちょっとここへ……」
 古堀医師は、巡査や刑事の手で死体を安楽椅子から絨毯の上に移させた。それから彼の手で、死体の服を剥いた。そして全身に亙って精密なる観察を遂げた。
 彼が腰を伸ばして、検事の方へ手を振ったので、彼の検屍が一先ず終ったことが分った。
「検事さん。この先生の死んだのは大体昨夜の十一時から十二時の間だね。死因は目下不明だ。終り」
 たったそれだけのことをいい終ると、古堀医師は、部屋の一隅のカーテンの蔭にある大理石の洗面器の方へ歩きだした。
「ちょっと古堀さん」
 と検事はあわてて裁判医を呼び停めた。
「死因は後頭部に於ける銃創じゃないんですか」
 誰も皆、検事と同じ質問を浴びせかけたいところであろう。すると裁判医は、歩きながら首をかるく左右に振った。
「お気の毒さま。死因ハ目下不明ナリ。頸部からの出血の量が少いのが気に入らない……。死体はわしの仕事場へ送っておいて貰いましょう。解剖は午後四時から始まり、五時には終る」
 老人は、ぶっきら棒にいった。死因は目下不明なり、頸部からの出血の量が少いのが気に入らない――との言葉は、俄然一同に大きな衝動を与えたらしく、そこかしこで私語が起った。多くはこんな明白な盲管銃創を認めるのを躊躇する古堀老人の頑迷を非難する声であった。
 そんなことは意に介しないらしく、古堀裁判医は洗面器の方に歩みよった。
「やあ、これはすまん」
 老人がいった。一人の長身の男が、古堀医師のために、洗面器のあるところの入口に下っている半開きのカーテンを押し開いて、老人が通りやすいようにしてやったからであった。その男は余人ならず、帆村荘六であった。
 この帆村荘六は、さっき古堀医師が首を左右に振ったときに、それと共振するように首を左右に振った唯一の在室者だった。
 古堀は、洗面器の握り栓をひねって、景気よく水を出した。そしてゴム手袋をぬいで、持参の小壜から石鹸水らしいものを手にたらして、両手を丁寧に洗った。
 彼がタオルを使い出したとき、帆村がつと近づいて、相手だけに聞えるような声で、
「先生。おみ足のそばに鼠が死んでいます」
 と注意した。
 老医師はびっくりして飛びのいた。そして大きく目をひらいて洗面器の下を見た。壁と床との境目が腐れて穴が明いていた。その穴から一匹の大きなどぶ鼠がこっちへ細長い顔をつきだしたまま動かなくなっていた。
「愕かせやがる。大きな鼠だ。なにもわざわざこんなところで殉死しないでもよかろうに……」
 古堀は、そういって帆村を見て軽く会釈した。
「御同感です、先生。……いずれ先生には、もう一度お目にかからせますでございます」
 帆村は頗る妙な挨拶をした。冗談かと思われたが、彼は滑稽なほど取澄ましていた。
「えっ、何だって。はははは……。うむ、十時半か。これなら野球試合に間に合うぞ」
 古堀老人は、急にえびす顔になって、洗面器のある場所から離れた。

   弾痕なし

 裁判医が退場すると、現場は急にしいんと静かになった。そして真中の安楽椅子に腰を下ろしている屍体が、今にも立上って大欠伸(あくび)をするんじゃないかと思われたほどだった。
「あの古堀老人と来たら、われわれの立場というものを全然考えないんだからなあ。全く困りますよ」
 大寺警部が、遂に口を切った。警部は誰にともなくそういったが、その後で、同意をもとめるように、長谷戸検事の顔を見た。検事は部屋の隅の小さい椅子に腰を下ろして、頭の大きなパイプから煙を吸っていた。検事は、黙ってパイプを噛んでいた。
「どうなさいます、検事さん。裁判医の屍体解剖が終る夕刻まで、この先生の死因は不明ということにして置きますか。それじゃわれわれは何にも手が出せないんですがね」
 警部は、こんどは検事を指名して、はっきり不平をいった。
 長谷戸検事は、それでもちらりと目を警部の方へ動かしただけで、喫煙の姿勢を崩そうともしなかった。
「これだけ明らかな銃創による殺人を、これからあと半日も疑問にしておくなんて、いけませんよ。そうでなくても、一般からは事件の捜査や裁判が遅すぎると非難ごうごうたるものですからなあ」
 大寺警部はいよいよ独特の奇声をふりしぼって不満をぶちまける。
 長谷戸検事はようやく立上った。ポケットから長方形の缶を出し、その中へパイプを収(しま)った。
「大寺君」
「はあ」
 警部は、うれしそうに返事をして、検事の顔をみつめた。
「死因不明としておいて、その外にもっと調べることが残っているから、その方を先に片づけて行こうじゃないか」
「はあ」
 警部は当て外れがしたというような顔になって、
「私の方はもう殆んど全部、捜査を終ったんですが、検事さんの方でまだお検べになることがあればお手伝いいたします」
「それならば力を貸してもらいたいが……あの鼠の死骸だが、あれは君がこの邸へ来たときに既に死んでいたのかね」
 検事は大股で、部屋を横切って、洗面器のあるカーテンの方へ歩いていった。
「はあ。鼠でございますか……」
 大寺警部は狼狽の色を隠し切れなかった。そして検事の後を追いかけた。
 帆村は、検事と警部のために黙ってカーテンを明けてやった。
「ああ、鼠が死んでいる。検事さん。私はどぶ鼠など問題にしている暇がなかったんですが、やっぱり問題にすべきでしょうか」
 警部は弁明にどもりながら、ちらりと帆村へ険しい一瞥をなげつけた。
「そう。事件捜査に当る者は、一応現場附近に於けるあらゆる事物に深い目を向けてみるべきだと思うね。殊に、その事物が尋常でないときには、特に念入りに観察すべきだな」
「はあ。どぶ鼠が死んでいるということは、尋常ではありませんですかな。すると、犯人はそのどぶ鼠を狙い撃ったのですかな。そうなると、犯人は射撃の名手だということになりますね。……おやおや、このどぶ鼠は、どこにも弾丸をくらっていませんですよ」
 警部は、紐を鼠の首へかけて結び、穴から引張り出して一瞥したが、早速鼠の狙撃説をくつがえした。尤も鼠の狙撃説は、彼自らがいい出したことであったが――。
「まあ、そうだろうね」
 と検事は苦笑して、それから頤を帆村の方へ振った。
「そこに居る帆村君が、その鼠を欲しがっているようだから、氏に進呈したまえ」
「ははあ」
 警部は、わざとらしく愕いて帆村の面上へ目を据えた。それから死んだ鼠を、うやうやしく帆村の方へ差出した。
「ありがとう。じゃあお預りします」
 と、帆村はその真面目な顔で、警部の手から、鼠の身体を吊り下げている紐を受取った。
「帆村君。何か分ったら、一応それをわれわれに報告する義務はあるわけだよ」
 検事は、鼠の死骸について、さっき帆村と裁判医の間に取交わした会話を念頭に浮べたので、そういった。帆村は多分その鼠を、裁判医のところに持込むつもりだろうと察したからである。帆村は、承知した旨を応えた。
「鼠一匹――が、いやに泰山を鳴動させるじゃありませんか。検事さんも帆村君も、それについて一体何を感づいているんですか」
 警部は一世一代の洒落を放って、この場の気持のわるさの源をさぐった。
「とにかく大寺君。君が気がつかなかった鼠の死骸を、帆村探偵は後から来てちゃんと見つけているんだ。帆村君は、その外、まだ何か重大なものを見つけているのかも知れない。大寺君、構うことはないから、帆村君に訊いてみたまえ。なあに遠慮なくやるがいいさ、帆村君は、検察委員の一人なんだから、われわれに協力することを惜しみはしないよ」
 長谷戸が喋っている間に、警部の顔は真剣になって赭くなり、他方帆村の大きな唇は微苦笑を浮べてひん曲った。
「帆村さん。検事からのお指図です。わしの見落しているものを教えて頂きましょうか」
「はあ。それでは警部さん。どうぞこちらへ……」
 帆村は急にくそ真面目な顔に戻り、警部を彼方へ誘って、部屋の中をゆっくり歩きだした。

   青い鳥籠

 帆村は右手を肩の高さにあげて歩いている。帆村のすぐ後に、ぴったり寄り添ったように同じ歩速で歩いている大寺警部の前へつきだした顔が、見えない紐につながれて、帆村の右手で引張って行かれるようであった。
 二人は、昨夜来開かれている窓の下を通り過ぎ、その隣の窓のところまで行ったが、そこで帆村はぴたりと足を停めた。
「ここに鳥籠がございますね。私はちょっと面白いと思います。いかがですか」
 帆村の指が指したところに、籠をうすい青に塗った吊下げ式の鳥籠があった。絨毯の上にどっしりした台を置き、そこから上に向って人の背丈よりもやや高く架台があって、その架台の先が提灯をかけるように曲って横に出ているが、その鈎(かぎ)に鳥籠が下げられているのだった。
「ああ、鳥籠……」
 と、大寺警部は思わず早口にいって、後の言葉を呑みこんだ。彼の身体の中が、俄にかっと熱くなった。それは、帆村に注意されて始めてこの鳥籠に気がつき、そして狼狽したというわけではなかった。ここに鳥籠があるのは、この部屋に入ったときにすぐ気がついていた。だから、警部がかあっと身の内を熱くしたのは、そのことではなかった。警部は、その鳥籠が平凡な物品であるところから今まで全然問題にしていなかったわけであるが、突然帆村がその前に彼を連れていって意味あり気に指したので、警部ははっと愕いたわけであった。愕いた途端に、警部はその鳥籠について、今までは看過していた或る異常な事実に気がつき、そこで更に余計な驚愕と狼狽とをつけ加えたわけであった。(……失敗(しま)った。帆村が問題にしている洗面器の下の鼠の死骸と、この鳥籠の一件とは深い関連性があったのか。それに気がつかなかったとは……)
 警部は汗びっしょりになった。そのときである、帆村が鳥籠の中を指しながら、竹法螺を吹くような調子で、太い声を響かせたのは。
「面白いですなあ、この鳥籠は……。鳥籠の中は空っぽです。籠の入口の金具もしっかり締まっています。この鳥籠の中に小鳥が飼ってあって、それが生きて止り木に停ってわれわれを見下ろしていた場合、それからその小鳥が腹を上にして死んでいた場合、もう一つこの場合のように、鳥籠はありながら、鳥が居ない場合。――この場合に二つあって、事件以前から鳥が居なかった場合と、事件後にこの籠の入口をあけて中の小鳥を外に出した場合――と、これだけの場合があるわけですね……。とにかくごらんのとおり籠の中には小鳥が居ない。そして空っぽの鳥籠だけがここに置いてある。なんという意地のわるいことでしょうねえ。いや、果してこれは偶然の神がこの意地わるをしたのか、それとも犯人がこの意地わるを試みたのか。警部さん、御感想はいかがです」
 帆村の長広舌を聞いている間に、警部の汗はすうっと引込んでしまうし、顔色も元に戻ってしまった。そして警部はここで、用意しておいた次の言葉で帆村に酬いた。
「そう君のように、何でもかんでも目につくものについて、起り得るあらゆる場合を検討していったんじゃあ、事件の犯人を捕えるまでに何年かかるか分りゃしない。いや、本当にそんなゆっくりしたことをすると、犯人はみんな笑いながら逃げてしまって、一人として捕りやしませんぜ。その結果われわれは、年中たいへんな悪口の前に曝し者になっていなければならない。おお、やり切れない」
 警部の言葉を、帆村はいちいち肯きながら終りまで傾聴していた。
「いや警部さん。あなたがたが常に大車輪になって活動することを要求せられている現状を、まことにお気の毒に思います。予算をうんと殖やしてもらわねば、これじゃたまりませんよ」
「どうもこれは……」
 と、警部は、妙なところから吹きだした風に微笑した。
「結局、すべての事件は完全に且つ速やかに解決せられなければ、民衆の迷惑は大きいわけですからね」
「それはそうだ」
 警部は帆村の唱える予算増加案に礼をいおうと思っているうちに、話がまた変な見当へ向きをかえたので、こんな相手とこれ以上交際(つきあ)っているのがいやになった。
「おい帆村君。外にもう君独特の発見はないのかい」
 見るに見かねたように、長谷戸検事が声をかけた。すると帆村は、検事の方へ身体を向け直して、片手をあげた。
「もうよしましょう。こっちから一々取上げてゆくと、お邪魔ばかりをするようですから。……ああ、もう一つだけ、おせっかいに取上げさせて頂きますかな。それは屍体が頭をもたせかけていた小卓子の上に並んでいるものの中に缶詰がありますね。これはちょっと面白いと思うのですがね」
 帆村がそういうと、とたんに警部は小卓子の前へ突進した。
「これは確かに面白い。私も最初から目をつけていた」
 と、警部は空缶を指した。帆村は微笑した。
「で、警部さんは、どこに興味を感ぜられましたか」
「もちろん、それに残っている指紋のことだよ、鑑識を頼んでおいたから、今に分る」
「それも興味のあることでしょう」
 帆村はちょっと肯いて
「しかし私が面白いと感じたのは別のことです」
「別のことというと……」
 警部の顔面が硬くなった。
「それはですね、その空缶の中はきれいだという点です。なぜきれいであるか。すっかり中身を喰べて洗い清めたものであるか。それとも中に何もつかないようなものが缶の中に入っていたのであるか。それならば、それは一体どんなものだったろうか。中身を喰べたのち洗い清めたものなら、なぜそうすることの必要があったのだろうか……」
「また君の十八番を辛抱して聞いていなきゃならないのかね」
 警部は煙草を出して、燐寸をすって火をつけた。その燐寸の燃えかすは、うっかり小卓子の灰皿の中へ投ぜられかけた。が、途中で彼は気がついて、元の燐寸箱の中へ収いこんだ。
「ははは。やっぱり私は当分しずかにしていることにしましょう」
 帆村はそういって、後方の壁際へ下った。
 そのとき表がざわついた。屍体を解剖のためにこの邸から搬び出す車が到着したのであった。

   家政婦

 屍体が搬び出されてしまうと、惨劇のあった現場は、なんだかがらんとした感じになった。そして警戒の刑事巡査たちの面前にも、ほっとした気の弛みが浮び出た。
 だが、主脳の検察官たちは、いずれもむずかしい顔を解こうとはしなかった。
「大寺君。現場について、特別に取上げて問題にしておく事項はもう残っていないかね。もしあるなら、今のうちにやって置こう」
 長谷戸検事は、小卓子の前まで出て来て、大寺警部に向き合った。
「さあ。もうありませんね。……それに、現場は屍体の無い外はこのままにして置きますから、もし気がつけば、後から補充すればいいわけです。それよりは、どんどん容疑者を取調べて、早く犯人を決定したいですなあ。ぐずぐずしていると、また新聞にいいなぶりものにされてしまいますよ」
 警部は、刑事巡査拝命以来この畑に十八年も勤めているので、今までに事件について新聞の報道やその扱いぶりに、少からぬ不満を持っていた。そして今のような世の中になっても、彼は一向その気持を変更するつもりはなかった。
 自信の強い彼は、長谷戸検事に対しても仕事の上での不満を持っていた。もちろん彼は、それを面と向って検事に訴えはしなかった。彼とは違い大学を出て検事試補となり、それからとんとん拍子に検事になり重要なポストに送りこまれた若僧――といっては失礼だが、とにかく警部とは年齢がひとまわり以上違うのであった。そういう若い検事から万事指揮を受けなければならぬことは、あまり愉快なことではなかったし、それに長谷戸のやり方というのが、彼大寺警部とは全く違った道を行くので、一層気がいらいらして来た。
 大寺警部をして率直にいわせると、若い長谷戸検事の捜査法と来たら、非常にまどろっこしい。彼は臆病に近いほど、あらゆる事物に対して気を配る。その気の配り方も、警部ならちらりと一目見ただけで事件に関係があるかないかが分るのに、長谷戸と来たらいちいち石橋を金槌で叩きまわるような莫迦丁寧な検べ方をして、貴重な時間を空費するのだ。だから長谷戸だけに委せておいたら捜査は何時間経とうが何日過ぎようが、同じ所で足踏みをしているばかりで、かねて手ぐすねひいている新聞記者からは「事件迷宮入り」という香しくない烙印をたちまち捺されてしまわねばならない。その間に立って、自分が苦心さんたんして進行係をつとめるから、とにかく曲りなりにでも事件の真相がわりあい手取早く判明して来るのである。なんのことはない、自分は店の婿養子の引立て役の古顔の番頭みたいなものである、と大寺警部はいつも心の中でひそかにぼやいていた。だからこの事件だってそうだ。検事は現場をまごまごしているだけで、まだ容疑者の只一人をも指名していないし、関係者の訊問すらまだやっていない。
 それに反し自分は既にかずかずの手配をしている。ハンドバグを、この部屋の、しかも殺された旗田鶴彌のお尻の下に残しておいたその持主の土居三津子を逸早く逮捕し、容疑者第一号として保護を加えてある。この事件は土居三津子がやったことは十中八九までは確かであり、他の者は殆んど調べる必要がないと警部は睨んでいる。自分のやり方としては、この際土居三津子をどんどん取調べていって犯行を自白させるのが一番早い。
 しかし現場には検事たちも来ているし、なんだかんだと面倒な取調べや手続がくりかえされているので、こうして温和しくその片附くのを待っているわけだ。並々ならぬこの辛抱づよさというものを、自分は十八年の勤続によって仕入れたのである。
 しかしこれは愉快なことではない。自分としては、あまり多きを望まないけれど、せめて長谷戸検事のような人物とのコンビが解かれ、若いとき自分を引廻してくれたあの雁金検事のような人と仕事をしたいものだ。そうすれば、今の自分ならてきぱきと超人的な捜査をやってみせられるのだがなあ――と、大寺警部は人柄にもなくはかない夢を抱いている。
「じゃあ、関係者の訊問に移ろう」
 長谷戸検事がいい出した。
 大寺警部は、それを確めるように検事の顔を見直した。
「まず、事件の当時同じ屋根の下にいた家政婦を呼んで来たまえ」
「家政婦ですか。小林トメですね」
「そうだ、小林トメだ」
 警部は心得て、一人の警官に目配せをした。その警官はいそいで部屋を出ていった。
 帆村は隅っこの椅子に腰を下して煙草に火をつけた。
 やがて和服を着た中年の婦人が、警官に伴われて入って来た。丸顔の、肉付の豊かであるが、顔色のすぐれてよくない婦人であった。年齢の頃は五十歳に二つ三つ手前というところらしかった。警部は、婦人を招いて検事の前へ立たせた。
「小林トメさんだったな」
「はい、さようでございます」
 家政婦はそう応えながら、警部の前に首を垂れた。
「検事さんが聞かれるから、正直に応えなければいかん」
「はい」
「小林さんはこの邸に住み込みなんだってね」
 検事がまずやさしい訊問から始めた。
「はい。さようでございます」
「そして昨日は、夕方以来どこへも外出せず今朝までこの邸の中にいたそうだね」
「はい」
「亡くなった御主人に最後に会ったのは何時かね。そしてそれは何処であったかね」
「こちらの方にも申上げたのでございますけれど」
 と家政婦は警部の方へちらと目を走らせ、
「いつものように、私は昨夜九時五分過ぎにお夜食の皿やコップなどを盆にのせました。それが最後でございました」
「御主人はいつも夜食をとるのかね」
「はい。ちょうどその頃までに旦那様はお仕事をお切上げになります。そして一日の疲れを、洋酒と夜食とでお直しになるのでございます。この日課は毎日同じようにつづいて居りました」
 そういった家政婦は、そこでちょっと唇を噛んだ。
「この小卓子の上に並んでいるものが、そうなんだね」
「はあ、さようでございます」
「そのとき御主人は、この室内に居られたのかね」
「はい」
「どこに居られたかね」
「私が扉をノックしますと、室内からご返事がありました。そこで私は扉を開いて中に入りましてございます。すると旦那様は、あそこの洗面器のあるところのカーテンを分けてこっちへ出ていらっしゃいました。……それから私は、あの小卓子の上に、盆の上に載せてきたものをいつものように並べたのでございます。その間に旦那様は、窓の方へいらっしゃいまして、両手をうしろに組み、なんだか考え事をなさっている様子で、窓のこっちを往ったり来たりなさっていました。それは私がこの部屋を退りますときまで続いていました」
 検事は、そのとき家政婦の言葉が切れるのを待っていたように声をかけた。
「そのとき、この窓は明いていたかどうか、君ははっきり憶えているかしら」
「窓は両方とも、ぴったり閉って居りましてございます」
「じゃあカーテンはどうだろう。今のカーテンの位置と、どこか違っているかね」
 窓は二つあった。現在右の窓のカーテンも左の窓のそれも共にいっぱいに開かれていた。
「カーテンは両方とも閉って居りましたのですが……」
 家政婦がそういったとき大寺警部の大きな声がした。一人の警官が右の窓へとんでいってカーテンを閉めた。警部は左のカーテンを自らの手で閉めた。
「検事さん。実はカーテンは両方とも閉っていたんですが、部屋の中が暗いものですからさっき私が開放させたのです。しかし現場見取図や写真などには、ちゃんとカーテンが閉っているところが記録してあります。ただ、そのことをちょっと検事さんにお話することを失念していました。どうか一つ……」
 警部は軽く頭を下げた。検事は苦がい顔になって、警部を一瞥した。
「私が来るまでは、現場はすべてそのままにしておいて貰いたいね」
「はあ。失礼しました。しかしカーテンを開かないと取調べにあまり暗かったものでございますから……」
 警部は弁解をしながら顔をふくらませている。
「するとあの窓はどうだね。開いていたのか閉っていたのか」
 検事は色をなして開いている左の窓を指した。
「私は窓には指一本触れていません。さっきごらんになりました現場見取図にも、あの窓があの通り明いていたことはちゃんと出て居ります」
「図面は見ているが、ちょっと君に確めてみたかっただけのことだ」
 その家政婦が、突然きゃっと叫んで、後へ飛びのいた。同時に驚いた検事と警部の鼻さきへ、紐に結えて吊下げられた大きなどぶ鼠がゆっくりと出て来た。帆村荘六が指さきに紐をひっかけて、検事と警部の間へ鼠の死骸をさしだしたのである。
「検事さん、この鼠を頂いて、持出してもようございますかね。裁判医の古堀先生が、この鼠にもう一度ゆっくり逢いたいといって居られるもんですから、先生の方へお届けしたいと思います」
 濡れている鼠の死骸の尻尾からぽたぽたと水が垂れている。
「いいです、いいです、早くそちらへ片づけて……」
 検事は身体をうしろへそらせ、手まねで早くむこうへやれと促した。傍にいた警部は指で自分の鼻孔をおさえた。帆村はいんぎんに一礼をして、鼠の死骸を指先に吊り下げたままゆっくりと戸口の方へ歩いていった。
 鼠の死骸が割込んだために検事と警部との間にあった鋭いものが解け去った。両人は互いに顔を見合わせて、苦が笑いをした。そして家政婦の訊問が再び進められたのだった。

   奇妙な錠前

「昨夜の九時五分に、君は主人の居間へ夜食を持って行った、と君はいった。それから今朝になって主人の死が発見されるまで、君はどうしていたか」
 長谷戸検事の訊問が、家政婦小林トメに再び向けられた。
「はい」
 小林トメは返事をしただけで、下を向いて後を続けない。
「どうしたんだ、昨夜の九時五分以後は……」
「はい。私は自分の部屋へ引取りまして、そして睡りましてございます。あのウ……」
 家政婦は途中でいい淀んだ。
「隠さないで、はっきりいわなきゃいけないね。たとえ誰に迷惑が懸りそうなことであっても」
「はい」家政婦は検事の言葉にぴくりと肩を動かしてから「あのウ、旦那様の弟御さまの亀之介さまが二時にお帰りになりまして、玄関のベルをお押しになりました。そのときだけ私は起き出しまして、亀之介さまを家へお入れいたしました。その後は又寝床に入りまして朝までぐっすり寝込みましてございます」
「それから……」
「それから朝になりまして、五時半に起きましていつものように朝食の用意にかかりましてございます。すると誰か入って来まして声を私にかけた者がございます。見ますと、それが……それが例の娘さんなのでございました」
「ふん、土居三津子だったのか」
「はい」
「それは何時かね」
「六時過ぎだと思いますが、正確には憶えて居りません」
「土居三津子は、君に何といったか」
「昨夜ハンドバグを御主人の部屋に置き忘れて帰ったので、それを返してもらいたいと仰有(おっしゃ)いました」
「土居三津子がはっきりそういったのだね、昨夜主人に会ったことも、自分が主人の居間へ通ったことも認めたんだね」
「さようでございます」
「で、君はどういったのか」
「それはお気の毒ですが、旦那さまは只今おやすみ中ですから、お目覚めになるまでお待ちになって下さいと申上げました」
「ふむ。すると……」
「すると娘さんは、すぐ戻して欲しいのだが、鍵で扉をあけて居間へ入れてくれといいました。もちろん私はそれを断りました。居間の扉を開く鍵は私が持って居りませんので」
「娘はどうしたかね」
「では仕方がないから、御主人がお起きになるまで待たせて下さいといいました。私はそれではどうぞ御随意にと申して、あとは私の仕事にかかりました」
「それから……」
「それから……そのうちに芝山宇平さん――爺やさんです――芝山が出て来る、お手伝いのお末さんが出て来るで、賑やかになりましたが、そのうちに爺やさんが、どうも旦那さまの居間がおかしいぞということになり、それから……」
「ちょっと待った、それからのことは大寺警部に話したとおりだろうから、よろしい。ところで、ちょっと腑に落ちないことがあるんだ、小林さん」
 検事はそういって、家政婦の顔をじっと見詰めた。家政婦はこのとき不用意に検事と視線を合わせたが、慌てて目を下に伏せた。
「例の娘が、昨夜この邸へ来たことを自分で告白しているが、君はそのことについて何にも述べていないね。つまり何時来て、何時帰ったとかいうことを述べていないじゃないか。これはどうしたのかね」
 検事からそういわれたとき、家政婦の面が急に和らいだ。
「それは私が全く存じないことでございました。娘さんが、昨夜来たと仰有ったので、始めて知りましたようなわけで……何しろ私が玄関の錠を外しませんでも、その娘さんは玄関を開けて入って来る方法をご存じなんでございます、現に今朝も私の傍へ来て愕ろかせましたが、そのときも娘さんは同じ方法で勝手に入って来たんでございますよ」
 家政婦は意外なことをべらべらと喋った。
「それは一体どういうわけだい」
 と、検事もこれには目をぱちくりとやった。
「さあ、私は少しも存じませんでございます。そのことは旦那さまにお聞き下さるか、その娘さんが正直に申すようならその娘さんにお聞きになれば分ると思います」
 そういった家政婦の表情には、意味ありげな笑いさえ浮んでいた。彼女が始めて見せる笑いの表情だった。
 検事は大きく目玉を動かして、大寺警部の方を見た。警部はさっきから退屈げに煙草をふかし続けていたわけであるが、このとき椅子の上に腰を揺り直して、
「検事さん。土居三津子は昨夜九時三十分頃この邸へ来て、そして十一時にこの邸を出ていったと申立てています。この間、実に一時間半です。そこに冷くなっていた先生も仲々大した手際ですよ」
 といった。
「ふうん、十一時に帰ったというんだね」
 検事は家政婦の方へ向いて「ねえ小林君。その娘は、十一時にこの邸を出ていったそうだが、そのとき娘は一旦外へ出てから扉に鍵をかけることが出来るのかね」
「いいえ、それは出来ませんです。……私ははっきりしたことを存じませんですけれど」
「だが、君はそれだけ知っているじゃないか、外から玄関を明ける方法のあること、内から外へ出るときは内側から錠を下ろさねばならないこと。それだけ知っているんなら、その方法を知らない筈はない」
「いいえ、私は誓って申します。そんなからくりは存じません」
「じゃあ、さっきいったことを知っているのは、どうしたわけだ」
「はい、それは……」家政婦は苦しそうに目を瞬いて「実は、私が旦那様に内緒で、奥から隙見して居りますと、ちゃんと外から女が入って参りますし、またその女が帰るときは旦那様が玄関までお送りになって錠を開いて女をお出しになり、それから旦那様が錠をおかけになりました。一度私は、女が旦那様の居間へ入りました直後に、玄関の扉の把手に手をかけて、開くかどうか験してみましてございますが、それは駄目でございました。開きませんでございました、はい」
「おいおトメさん。じゃあお前は、あの土居三津子がこの邸へ入って来るところも、出て行くところも見て知っていたんだな」
 と、大寺警部が立腹して怒鳴った。
「いいえ、いいえ。私が見ましたのは昨夜のことではなく、あの娘さんのことではございません。もっと前のこと、そして外の女のことでございました。昨夜のことは全く存じません」
 家政婦は小さくなって激しく弁解した。
 すると検事が、また口を開いた。
「玄関の扉にそういう仕掛があるとしたら、主人の弟の亀之介は、いつでも外から自分で扉を開いて邸の中へ入って来られるわけだね。そうじゃあないか」
「いえいえ、旦那様は弟御さまに、そんな秘密な扉のあけ方をお教えになっていませんのでございます。というのは、旦那様は弟御さまを……」
 と、そこまでいったとき、突然そこへ大声をあげて入って来た姿のいい紳士があった。
「やあお呼び下っていたのに、とんだ失礼を。すっかり寝坊をしてしまって、何から何まで申訳ないことばかり……僕が亀之介です。小林にはどうも評判のよろしくない人物です。どうぞよろしく」
 彼はそういって、検事の前まで割りこんでいって、
「ああ、私はここで煙草を吸っていて、さしつかえありませんでしょうか」
 と、葉巻をきざな恰好で指で摘んで、検察官たちをぐるぐるっと見渡したものである。

   庶子何処

 玉蜀黍(とうもろこし)の毛みたいな赤っぽい派手な背広に大きな躰を包んだ旗田亀之介だった。頭髪はポマードで綺麗になでつけてあるが、瞼も頬も腫れぼったく、血の気のない青い顔をしているのは、彼が相当の呑み助であることを語っている。時々胸のポケットから若い婦人が持つような柄のハンカチーフを取出して顔の下半分に当て、その中で変な声を立てる。昨夜来の痛飲でよほど胃の工合が変だと見える。
「煙草はお吸いになって居て結構です。どうぞ、そこへお掛け下さい。そしてお話を伺いましょう」
 長谷戸検事は警官に目配せして、空いた椅子を前に搬ばせた。亀之介は一礼したが、すぐに椅子には掛けず、すたすたと足早にそこを離れて向うへ行った。どうしたのかと思っていると、彼は飾棚の上から、同型の真鍮製の積み重ねてある古風な灰皿の一つを取り、それを持って引返して来た。そして検事の前の席についたが、持って来た灰皿は窓枠のところに置いた。そこは彼の席から手を伸ばせば十分に届くところだった。
 部屋の隅っこには、さっき鼠の屍骸を持って出て警官へ何かを頼んでいた帆村荘六が最早戻って来て、ゆっくりと煙草をくゆらしていたが、彼はこのとき亀之介を細い目で透かして見ながら、鼻を低く長く鳴らした。
(きちんとした男らしい。死んだ彼の兄の方はだらしない人物らしいが……)
 帆村は心の中で思ったが、果してそれは当っているかどうか。――
「御実兄の異変を、いつ知られましたかな」
 検事は、亀之介へ訊いた。
「ほう。そのことですが……」と亀之介は葉巻の煙が目にしみるか瞬きをして「雇人たちはずいぶん早くから私の室の戸の外まで来てそれを知らせたそうですが、実のところ私はそれを夢心地に聞いていまして――昨夜は呑みすぎましてな――本当にはっきりとそのことを知って目が覚めたのは、今から一時間ほど前なんです。すぐ起きようと思ったが、躰の節々[#「節々」は底本では「筋々」]が痛くてどうにもならず、それでこんなに遅く現われたという次第です。どうぞ御賢察を煩わしたい」
 そういうと亀之介は慌ててハンカチーフを左手で取出して、自分の口へ当て、変な声を出した。
「昨夜から今朝までの間、あなたは何をして居られたか、一応ご説明願いましょう」
 検事は落着いた同じ調子で訊いた。
「昨夜から今朝までの私の行状ですな。それなら至極簡単ですよ。昨夜は東京クラブで君島総領事の歓送会がありましてね、ご存じでしょうが君島君は学校の先輩でして……それでクラブはすごく賑かなことになりましてね、結局私がクラブを出たのが午前一時半頃でしたよ。いやあ呑みましたね、六七時間呑みつづけでしたからね。さすがの私も二度ばかり尾籠なことをやって伸びていましたがね、今日は躰が私のもののようじゃないようです」
 亀之介は、たびたびハンカチーフを口へやった。
「それで帰宅せられたのは何時でしたか」
「さあ、私はそんなことを気にしなかったもんで正確なことは覚えていませんが、家政婦の小林が玄関の戸を開けて私を中へ入れたから、小林が覚えているでしょう」
 そういって亀之介は、家政婦の姿を見つけようとして首をぐるりと廻した。だが家政婦の姿はなかった。既に彼女は警官によって別間へ連れ去られた後であった。
「クラブを午前一時半に出たと仰有ったが、それを立証する道はありますか」
「ありますとも。クラブには徹夜の玄関番が居ますからね、会員が帰ればちゃんとしるしを付けることになっています」
「あなたは夕方から翌日の午前一時半まで、ずっとクラブに居られたんですか。その間、外へ出たようなことはありませんか」
「ありません。始終クラブに沈澱していました。嘘と思ったら玄関番と携帯品預り係に聞いて下さい」
「しかし玄関からでなくとも外出する方法はあるでしょうからね」
 検事がこういうと、亀之介さっと顔を赭くして、葉巻を叩いて灰をぽんと絨毯の上に落とした。
「異なことを伺うもんだ。すると貴官(あなた)がたは、私がクラブから脱けだしてこの邸へ帰って来て兄貴を殺した、それを白状しろというんですか」
「いや、そんな風に意味を取って貰っては困る……」
 と検事は急いで弁解したが、しかし検事の態度は言葉ほど困っているようには見えなかった。
「だって、そういう風に感じるじゃないですか、貴官の訊問のやり方は……。私は呑ン兵衛で馬鹿で簡単な人間なんですからね、廻りくどい言い方をされても理解が出来ない。真正直にいって貰うことを歓迎するんです。誘導訊問だとか、今のような訊き方は断然やめて下さい」
 そういった亀之介の態度には、兄亡き後の今、この邸の主権者は自分だぞという気配が匂うようでもあった。――帆村は、新しい煙草の箱をポケットから出して口をあけた。
「そう気になさることはないと思うんだが……」と長谷戸検事は相変らず冷静そのものという顔でいった。「じゃあ、こう伺いますか。確かにあなたはその日の夕刻から翌日の午前一時半までクラブから一歩も外に出られなかったんですか」
「そうです。そういう工合に訊いて下さい。――答は、然りです」
「被害者――あなたの御実兄は何故殺されたか、その原因についてお心当りはありませんか」
 検事はずんずん核心に触れた訊問を進めた。
「さあ、はっきりとは知りませんね」
「はっきりでない程度では何か思い当ることがありますか」
「さあそのことだが……」といいかけて亀之介は消えかかった葉巻を口に啣えて何回もすぱすぱやり、やがて多量の紫煙をそのあたりにまきちらした果に「弟である私の口からいうのは厭なことなんだが、兄貴と来たら昔からだらしがないんでしてね。殊に婦人のこととなると、世間様の前には出せないことがいろいろあるようですテ。とにかくこの邸宅をめぐって、猥雑な百鬼夜行の体たらくで……でしょうな。まあよく調べてごらんになるといい。あの家政婦の小林でもですよ、どこかを探せば男の指紋がついていないともいえないんですよ。あの女は五十に近いくせに、寝るときにゃ化粧なんかしているんですからね。正に百鬼のうちの一鬼たるを失わずですよ、はははははは」
 亀之介の口から家政婦に対しての不利な言葉が吐かれた。長谷戸検事は、予ねて待っていた筋にぶっつかったような気がした。彼は土居三津子を真犯人と決定することについてどうも乗気でないのであった。その理由は判然(はっきり)しないが、もちろん確たる反証があるわけではなく、ただ漠然たる感じとして、三津子を犯人に択ぶには物足りなさがあったのである。この点は大寺警部とは全然反対であったが、さりとて三津子を容疑者外として扱うつもりはない。証拠さえ集って来るなら、いつでも三津子を見直す用意があった。しかしながら今も述べたように三津子という女を真犯人として扱うにはどうも物足りない感じがしてならない。この事件の底には、もっともっとねばっこいものが存在しているように思われてならなかった。折よくというか、亀之介の申立によって、そのねばっこいものが水面から頭を出し始めたように思う。つまり亡くなったこの邸の主人鶴彌と家政婦小林とそして亀之介の三角関係というようなものが存在し得るのではないか――。
「すると、婦人関係の怨恨でもって御実兄は、殺害されたとお考えなんですね」
「いや、それは私の臆測の一つです。私がちょっと気がついたのはそれだというだけのことです。私は兄貴の事業のことや社交のことを全く知らんですが、もしその方を知っていれば何かお話出来るかもしれませんが、まことにお気の毒です。兄貴は全然そういうことを私に窺わせなかったのですからね」
「遺産のこともですか」
 検事のこの訊問は亀之介の胸を貫いたと見え、彼は大きく口を開いて喘いだ。だが間もなく彼は口を閉じ、苦がり切った。
「遺産がいくらあるか、そんなことを私が知るものですか」
「遺産は、誰方が相続することになっていますか」
 検事の追及は急だ。
「知りませんね。ひとつ兄貴と関係のある弁護士の間を聞き廻って下さいませんか。そうすれば遺言状があるかも知れませんからね」
「戸籍面から見ると、あなたが相続されるのじゃないですか」
 検事は、悪いことではあったけれど、ちょっと知らないことだが鎌をかけて訊いた。
「私じゃないです。兄貴の庶子に伊戸子という女の子が出ていますよ。よくお調べになったがいいでしょう」
「なるほど」検事は失敗(しま)ったと思って冷汗をかいた。「そのイト子さんは、今どこに居られますか」
 転んでも只は起きない性分の長谷戸検事であった。
「知らんですなあ、兄貴の痴情を監視するつもりはなかったもんですからね」
 検事は亀之介から連打されている恰好であった。すると傍にいた大寺警部が、横合から亀之介に声をかけた。警部は検事の痛打を見るに見かねて、ここで一発亀之介に喰らわさねばと飛び出したわけである。
「あんたはそのイト子という婦人を見たこともないんですか」
「さあ、どうですかねえ」
「見たか見ないか、はっきり答えて下さい」
「見たかも知れず、見ないかも知れない――おっと怒鳴るのは待って下さい。私はこれが伊戸子だと正面から紹介されたことはない。しかしいつどっかで、その伊戸子という婦人を見たかも知れませんからね。例えば兄貴のところへ忍んで来る女の中に伊戸子が交っている場合もあり得るわけですからね」
「ずいぶんひねくれたいい方をするのが好きなんだねえ」
 と、警部は忌々(いまいま)しげにいった。
「ひねくれているわけではありません。私は何事もはっきりさせたいから、正しいいい方をしているわけです。しかるに……」
「ああ、もうそのへんで結構です」と検事がいった。「また後で伺うことがあると思いますから、今日はこの家の中だけでお暮し下さい」
 そういって検事は、警官のひとりに合図を送った。
 亀之介は、火の消えた葉巻煙草にライターの火を移した上で、悠々と椅子から立上って警官のうしろについて広間を出た。

   意外な発見

「いやにひねくれた奴ですなあ」
 大寺警部は戸口の方をちょっと流し目で見て、呆れたような声を出した。
「ああいう態度は損なんだがねえ……」
 と、検事は忘れていた煙草を今思い出したという風にポケットから出して口に啣えた。だが燐寸が見つからない。
 後ろにいた帆村が立って、燐寸の箱を検事に手渡した。
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