金属人間
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著者名:海野十三 

 それは、われわれのような俗人(ぞくじん)が論ずるから右のようになるが、しかし非凡(ひぼん)なる頭脳(ずのう)と深遠(しんえん)なる学識(がくしき)をそなえた針目博士自身としては、新しい金属の創造などということは、けっして不可能なことではないと思われるのではあるまいか。そのへんのことは、われわれのうかがい知ることのできない領域(りょういき)だと、一時しておこう。
 そこでもう一度、本筋へもどって考える。なぜ針目博士は、あのすばらしい生命誕生の研究をやりっぱなしにして、新金属などの創造にくらがえをしたのであろうか。惜(お)しいではないか。
 さあ、この答は、まったくむずかしい。博士は金属製造ということに、よほど強い魅力(みりょく)を感じたのであるかもしれない。だが、金属製造などということが、生命誕生の研究いじょうにそんなに魅力があるとは思われないではないか。けっきょく察しられることは、二つである。かの生命誕生の研究がまったく行きづまってしまい、研究の方向をかえなくてはならなかったものか。それともひじょうに特別な場合として、金属製造という研究の命題が、特に博士をすっかりひきつけてしまうほどの、ある出来事があったのではなかろうか。
 たぶん、あとの方があたっていると思う。なぜといって、前の方のように、あれだけ研究をつんだ生命誕生の研究が、一夜でばったり行きづまるようなことは、まずもって考えられないからである。
 そうなると、博士をきゅうに金属Q製造の方へひきつける動機となった、そのある出来事なるものはいったい何であったか、はなはだ興味をひかれる。――とにかくこの問題は、じつはまだ解(と)けていない。それで、それはそれとして、針目博士がとつぜんわれわれの前へ脚光(きゃっこう)をあびてあらわれた、そのお目見得(めみえ)の事件について、これから述べようと思う。
 それは恐ろしいなぞにみちた殺人事件であった。針目博士邸において、お手伝いさん谷間三根子(たにまみねこ)が密室においてのどを切られて死んでいた事件である。
 申しおくれたが、わたしは探偵蜂矢十六(はちやじゅうろく)という者である。


   密室の事件


 この血みどろな事件を、あまりどぎつく記すことは、さしひかえたい。これはそういう血みどろなところをもって読者をねらうスリラー小説、もしくはグロ探偵小説とは立場を異(こと)にしているのであるから……
 どのようにして谷間三根子(たにまみねこ)が死んでいたか。そして、そこはどんなぐあいに外からの侵入(しんにゅう)をゆるさない密室であったか――を、まずのべたいと思う。
 谷間三根子はお手伝いさんであった。としは二十三歳であった。お三根(みね)さんと呼ばれていたから、これからはお三根と書こう。
 お三根は、ほかのお手伝いさんとはちがい、ひとりだけ針目博士の研究所である煉瓦建(れんがだて)の建物の中に部屋をあたえられて住んでいた。もっともそれは主家(おもや)から廊下(ろうか)がのびてきているとっつきの部屋であった。
 お三根がそこにいるわけは、博士が仕事をしているとき、きゅうに雑用ができた場合に、すぐさまとんで行けるためだった。
 博士は主家に寝室があったが、研究は徹夜でつづけられることもすくなくなかったし、またそのまま研究室の長いすで寝てしまうこともあったから、どっちかというと、博士はいつも研究室の屋根の下で暮らしていたといったほうがよいであろう。
 さてそのお三根は、三月一日の朝、いつまでたっても起きてくるようすがないので、朋輩(ほうばい)の者どもがふしんに思い、お三根の部屋のまえに集まって、入口のドアをわれるようにたたきつづけた。
 だが、お三根はやっぱり起きてこなかったし、部屋の中で返事もしない。そこで一同は、いちおう主人の博士のゆるしを乞(こ)うたうえで、力をあわせてそのドアをぶちこわしにかかった。
 ドアには、内側からかぎがかかっていたので、このドアにみんなが力をあわせてからだをぶっつけてこわすしか、いい方法がなかったのだ。貞造(ていぞう)という男と、お松とおしげというふたりのお手伝いさんの三人が、このドアにぶつかったのだ。しかしなれない仕事のこととて、はじめはうまくいかず、からだが痛くなるばかりなので一息ついて休んだ。
「だめだねえ」
「だって、錠(じょう)をこわすのはなんだかもったいないようでね、力がはいらないよ」
「それどころじゃない。早くあけてみないととんだことになるぞ。お三根どんは死んでいるんじゃないかね」
「まさかね。あんな元気のいい人が、心臓まひでもあるまいよ」
「さあ、もう一度力を出して、やってしまおう。こんどは何としてでも錠をこわしてしまうんだよ」
 三人は、ふたたびドアの方へよってきて身がまえた。
 と、そのとき部屋の中で、がちゃんとガラスがこわれるような音がした。
「あれッ、中で音がしたよ」
「お三根さん、起きているんだよ。ひとが悪いわね」
 そこで彼らは、かわるがわるお三根の名を呼んだ。だが、そのこたえはなかった。
「誰か中にいるんだよ。おお、こわい」
「ネズミじゃないかしら」
「ネズミがあんな大きな音をたてて、ガラスをこわすもんですか」
「とにかく、これはただごとじゃないよ。わしらだけであけるのはやめて、お巡(まわ)りさんにきてもらったうえでのことにしようや」
 男の貞造が、そういって尻(しり)ごみをしたので、お松とおしげもきゅうに、こわさが増(ま)して、もう力を出す気がなくなった。
 そこでもう一度、奥の主人にことわったうえ、おしげが交番へ警官を呼びにいった。
 やがて若い警官の田口さんというのがきてくれた。そこでこんどは四人が力をあわせて、ドアにぶつかった。
 四、五回ぶつかると、錠(じょう)がこわれて、重いドアは風を起こして、さっと内側に開いた。
「ああッ……」
「こわい!」
 ねまきを着たお三根が、入口からすぐ見える部屋のまん中に、あけにそまって倒れていた。
 その部屋は、あとでたたみの間になおした部屋であったが、広さは十二畳もあった。お三根の寝床は左の壁ぎわにしいてあったが、お三根の死体はその中にはなく、たたみの上にあったのだ。
 寝床は、この中で寝ていたお三根が何かの理由があって、ふとんをはねのけてはいだしたものと察せられた。
 お三根は、左の頸動脈(けいどうみゃく)を切られたのが致命傷(ちめいしょう)であることがわかった。なお、お三根の両手両腕と顔から腕へかけたところに、たくさんの切りきずがあったが、それはたいして深くない傷ばかりであった。
 お三根を殺傷(さっしょう)した凶器(きょうき)は、なんであるかわからないが、なかなか切(き)れ味(あじ)のいい刃物(はもの)であるらしく、頸動脈はずばりと一気に切断されていた。
 死斑(しはん)と硬直から推測して、お三根の死は今暁(こんぎょう)の午前一時から二時の間だと思われた。
 警官の通報が本署へとんだので、検察局からは長戸検事の一行がかけつけた。
「……で、この部屋に死者のほかに誰かいたのかね。つまり午前九時に、この電灯のかさがこわれる音を、この雇人たちがたしかに耳にしたというが、このかさをこわした者は発見されたのかね」
 検事が、たずねた。
「いえ。わたしたちが入りましたとき、部屋の中をよく探しましたが、誰もいなかったのです。この婦人の死体だけでありました。凶器も見あたりません。部屋としてはそこは完全に密室なのです。そとから犯人の侵入(しんにゅう)した形跡(けいせき)がないのです。ふしぎですなあ。まさかこれは自殺じゃないでしょう」
 と田口警官はいった。
「自殺ではない。たしかに他殺事件だ。とにかくこれは容易(ようい)ならぬ事件だ」
 長戸検事は顔をしかめた。
 いったいお三根は誰に、どうして殺されたのか。凶器(きょうき)はどこにあるのか。おなじ屋根の下に一生けんめい研究をつづけている針目博士に、この事件は関係が有るのかないのか。謎はいつとかれるのであろうか。


   白昼(はくちゅう)の怪(かい)


 長戸検事の面上に、ゆううつな影がひろがっていく。まったく奇怪(きかい)な事件だ。
 室内には、犯人のすがたが見つからない!
 そしてこの部屋は密室で、出入りをすることができないようにしまりがしてあった。
 凶器もまだ発見されない!
 しかもあのとおり、若い婦人が頸動脈をみごとに斬られて絶命(ぜつめい)している!
 けっして自殺事件ではない!
 理屈(りくつ)にあわない事件だ。奇怪な事件だ。
 いや、理屈にあわないとはいいきれない。いま一時、この場のようすが理屈にあわないように見えるだけで、ほんとうは、これで完全に理屈にあっているのにちがいない。ただ、その正しい理屈が、まだ発見されていないのだ。とけていないのだ。
 この一見、理屈にあわない事件の謎を、どうといたらいいのか。
 長戸検事が、次第にゆううつな顔つきになっていくのもむりはない。
「もう一度、この部屋をねん入りに捜査(そうさ)してくれたまえ。兇器(きょうき)、指紋(しもん)、証拠物件(しょうこぶっけん)、死者の特別の事情に関する物件など、よくさがしてくれたまえ」
 検事は、連れてきた川内警部(かわうちけいぶ)をはじめ、部下たちにそういって捜査を再開させた。
「田口君、この家の主人には会見したのかね」
 検事はそういって、一番はじめにこの邸(やしき)へかけつけた警官にたずねた。
「いいえ、まだです」
「それは、どうして……」
 検事は、合点(がてん)がいかないという。
「私は、ここへくる早々(そうそう)、この邸の雇人をつうじて会いたいと申しこんだのです。しかしその返事があって“今いそがしいから会えない。邸内は捜査ご自由”ということなんで、そのまま仕事を進めていました」
「なるほど。しかしそれは変っている人だなあ」
「それは検事さん。針目博士といえば、変り者として、この近所ではひびいているのです」
 長戸検事はあとのことばを、田口警官の顔の近くへ口をよせていった。
「きみは、これからその主人に会って、検事がお会いしたいといっていると、会見を申しこんでくれたまえ」
「はい」
 田口警官は、この部屋を出ていった。
 長戸検事は、そのあとで室内をぐるぐる見まわしていたが、やがてかれの目は一点にとまった。それはこの部屋のまん中に、天じょうからさがっている電灯(でんとう)のガラスのかさであった。
 検事は歩きだして、そのまま下までいった。かさは検事の頭よりわずかに高かった。
「かけている。かさがかけている。新しいきずだ」
「ああ、そのガラスの破片(はへん)なら、ここにこれだけ落ちていました」
 と、検事の部下の巡査部長の木村が、紙片に包んであったものをひろげて見せた。
「その破片は、このかさにあうかしらん」
「はい。ぴったりあいます。さっきためしてみました」
 検事は、まんぞくそうにうなずいた。
「この入口のドアをこわす前に、この室内でガラスのこわれる音がしたと、この家の人たちは証言しているが、そのときこわれたのは、この電灯のかさなんだ。すると、被害者ではない他の生きている人間が、そのときこの室内にいたことになる。おそらくそれが犯人であろう」
 検事は、ここまでは明快な判断をくだした。しかしそのところでかれは、はたとつまった。
「……しかるに、この部屋をひらいて中をしらべてみたが、被害者いがいに人間のすがたはなかったのだ。おかしい。……犯人はどうしてもあのとき、この部屋の中にいたにちがいないのに、なぜすがたを見せないんだろう」
 検事は、しきりに小首(こくび)をかしげている。
「検事さん。この部屋は密室と見せかけて、じつはどこかに秘密の出入口があるのではないでしょうか」
 と、木村巡査部長はいった。
「そこから犯人は、いち早く逃げだしたという考えだね。そうなれば、早くその秘密の出入口を見つけてもらいたいものだ」
「いま一生けんめいに心あたりをさがしているんですが、まだ見つかりません。この家の主人が出てきたら、といただしていただくんですね。主人ならかならず知っているはずですから」
「なるほど」
「検事さん。ここの主人は、どうもくさいですよ。わたしは第六感でそう感じているんですが……」
 といっているとき、とつぜん室内で大きな声がした。
「あっ、やられたッ。誰か手をかしてくれ。足を斬られた」
 その叫び声は、ふとった川内警部の声だった。警部は部屋の一隅(いちぐう)にしりもちをつき、右足をおさえている。かれの顔には血の色がなかった。どうしたのだろう。誰に斬られたというのであろうか。


   二重負傷事件


 川内警部の両手は、鮮血(せんけつ)でまっ赤だった。
 後からわかったことであるが、警部の傷はかれの右足のすこし上にある動脈(どうみゃく)が、するどい刃物(はもの)で、すぱりと斬(き)られているのだった。だから鮮血がふんすいのようにとびだしたわけである。
 検事たちがかけつけて、みんなで応急手当をくわえた。
「どうしたんだ。どうしてそんなけがをしたのかね」
 検事はきいた。
「さあ、それがどうもわからんのですよ」
 警部は顔をしかめて言った。
「こんなひどいけがを自分でする者はありませんよ。たしかに斬られたと思ったんですが……ところが、自分のまわりを見まわしても、誰も下手人(げしゅにん)らしい者がいない」
「じゃあ、やっぱり、けがだろう」
「けがじゃないですよ、検事さん」
 と警部は承知しない。
「斬られたときはちゃんとわかりました。足へ何だかかたいものがあたり、それから火をおしつけたような熱さというか痛みというか、それを感じました。わたしはちょうど押入(おしい)れをあけて、中にあった木の箱を持ちあげていたので、すぐには足の方が見られなかったんです。箱をそこへおいて、そこから足の方を見て、ズボンをまくってみるとこれなんです。ズボンも、こんなにさけています。しかしこれは刃物がズボンの中から外へ向けていますね。外から刃物があたったんじゃないです」
 さすがに警部だけあって、目のつけどころが正しい。しかしかれの足を斬ったという凶器はいったいどこにあるのか。
「その傷をこしらえた刃物(はもの)は見つかったかね」
 検事がきいた。
「それがそれが……見つからないんです。おかしいですなあ」
「よく探してみたまえ。みんなも、手わけをしてさがしてみるんだ」
 検事の命令で、捜査係官は警部のまわりを一生けんめいにしらべた。押入れ、ふとんの中、ふとんの下、かもい、床の間、つんである品物のかげ――みんなしらべてみたが、ナイフ一ちょう出てこなかった。
「へんだなあ。なんにもないがねえ」
「そんなに深い傷をこしらえるほどの品物もないしねえ……」
 まったくふしぎなことである。
 そのとき田口巡査が入ってきて、このありさまを見るとびっくりして、警部のそばへよってきた。
「どうなすったんですか」
「足を斬られたらしいんだが、その斬った兇器(きょうき)が見あたらないんだ」
「おお、田口君。きみはいったいどうしたんだ」
 検事が、とんきょうな声を出した。
「どうしたとは、何が……」
 田口はけげんな面持(おもも)ちである。
「きみの顔から血が垂(た)れている。痛くないのか。ほら、右のほおだ」
「えっ」
 田口はおどろいて、手をほおにあてた。その手にはべっとり血がついていた。同僚(どうりょう)たちは、みんな見た。田口の顔の半分がまっ赤にそまったのを。
 川内警部の負傷といい、今また田口の負傷といい、まるでいいあわせたように、同じ時に同じような傷ができるとは、どうしたわけであろうか。
「やっぱり、そうだ。するどい刃物でやられている。きみは、自分のほおを斬られたのに、そのとき気がつかなかったのかい」
「さっぱり気がつきませんでした」
「のんきだねえ、きみは……」
 検事があきれ顔でそういったので、同僚たちも思わず笑った。
「今になって、ぴりぴりしますがねえ」
「いったい、どこで斬られたのかね」
「さあ、それが気がつきませんで……いやそうそう、思いだしました。さっき針目博士の室の戸口をはなれて廊下をこっちへ歩いてくるとちゅう、なんだか向うから飛んできたものがあるように思って、わたしはひょいと首を動かしてそれをよけたんですがね。しかし、なにも飛んでくる物を見なかったんです。ぱっと光ったような気がしたんですが、それだけのことです」
「きみは、どっちへ首をまげたのかい」
「左へ首をまげました」
「なるほど。首をまげなかったら、きみももっと深く顔に傷をこしらえていたかも知れないね。生命(いのち)びろいをしたのかもしれないぞ」
 検事にそういわれて、田口巡査は首をちぢめた。
「しかしわたしは何者によって、こんなに斬られたんでしょうか」
「田口君。それは今一足おさきに斬られた川内警部も、おなじように首をひねっているんだ。これは大きな謎だ。だが、その謎は、この邸内(ていない)にあることだけはたしかだ」
 と、長戸検事は重大なる決意を見せて、あたりを見まわした。


   飛ぶ兇器(きょうき)か


 ふたりの係官の負傷の手当はすんだ
 川内警部はかなり出血したが、この家のお松とおしげが持ってきたブドー酒をのんだあと、すっかり元気をとりもどした。
「ああ、検事さん。かんじんの用むきを忘れていましたが、さっき針目の室まで行って博士に会い、あなたが会いたいといっていられることをつたえようとしたんですが、博士は入口のドアをあけもせず、“会ってもいいが、いま仕事で手がはなせないから、あとにしてくれ。あとからわたしの方で行くから”といって、さっぱりこっちの申し入れを聞き入れないんです」
「なるほど」
「わたしはいろいろ、ドアをへだててくりかえしいってみたんですが、博士はがんとして応じません。ろくに返事もしないのですからねえ、係官を侮辱(ぶじょく)していますよ」
 田口警官は、ふんがいのようすであった。
「向うでいま会いたがらないのなら、会わないでもいいさ」
 と検事はさすがにおちついていた。
「しかしこの怪事件について、博士はじぶんの上に疑惑(ぎわく)の黒雲(こくうん)を、呼びよせるようなことをしている」
「ねえ、長戸(ながと)さん」
 と川内警部(かわうちけいぶ)がいった。
「わしはこの邸(やしき)にはふつうでない空気がただよっているし、そしてふつうでないからくりがあるように思うんですがな……。で、例のするどい刃物を、何か音のしない弓かなんかで飛ばすような仕掛けがあるのではないでしょうか。博士というやつは、いろいろなからくりを作るのがじょうずですからね」
「きみの足首を斬った犯人が姿を見せないので、きみはからくり説へ転向したというわけか」
 検事はやや苦笑した。
「どこか天じょう穴があるとか、壁の下の方に穴があるとかして、そこからぴゅーッと刃物のついた矢をうちだすのじゃないですかな。この家の博士なら、それくらいの仕掛けはできないこともありますまい」
「刃物を矢につけて飛ばすとは、きみも考えたものだ。しかしその刃物も、見あたらないじゃないか」
「いや、まだわれわれの探しかたがたりないのですよ。兇器がなくて、ぼくや田口がこんな傷をおうわけはないですからね」
 そういっているところへ、戸口からのっそりとこの室内へはいってきた者があった。
 近眼鏡(きんがんきょう)をかけた三十あまりの人物だった。あおい顔、ヨモギのような長髪(ちょうはつ)がばさばさとゆれている。下にはグリーンの背広服を着ているが、その上に薬品で焼け焦げのあるきたならしい白い実験衣(じっけんい)をひっかけている。
 紫色の大きなくちびるをぐっとへの字にむすんで、お三根(みね)の死体をじろりと見たが、べつにおどろいたようでもなく、かれは視線を係官の方へうつす。
「ぼくが針目です。ぼくに会いたいといっていられたのはどなたですか」
 検事はさっきからこの家の主人公である針目博士か入ってきたことを知っていたが、博士がどんな挙動(きょどう)をするかをしばらく見定めたいと思ったので、今まで知らぬ顔をしていたのである。
「ああ、それはわたしです。わたしが会見を申しこんだのです。検事局の長戸検事です」
 検事ははじめて声をかけた。
「検事! ふーン。お三根(みね)の死因はわかりましたか」
 博士はひややかに聞く。
「わかりました。頸動脈(けいどうみゃく)をするどい刃物(はもの)で斬られて、出血多量で死んだと思います」
「自殺ですか。それとも……」
「自殺する原因があったでしょうか」
 検事は、ちょっとしたことばのはしにも、職業意識をはたらかして、突っこむものだ。
「知らんですなあ」
 博士は、両手をうしろに組んで、ぶっきらぼうにものをいう。
「わたしどもは、他殺事件だと考えています」
「他殺? ふーン。下手人は誰でしたか」
 博士はおなじ調子できく。
「さあ、それがもうわかっていれば、われわれもこんな顔をしていないのですが……」
 と検事はちょっと皮肉めいたことばをもらし、
「真犯人をつきとめるためには、ぜひとも、あなたのお力ぞえを得なくてはならないと思いまして、会見をお願いしたわけです」
「ぼくは、何もあなたがたの参考になるようなことを持っていないのです。生き残った者に聞いてごらんになるほうがいいでしょう」
「それはもうしらべずみです。あとはあなたにおたずねすることが残っているだけです」
「ああ、そうですか。それなら何でもお聞きなさい」


   あざ笑う博士


 そこで検事は、型のとおりに昨夜お三根が殺される前後の時刻において、博士はどんなことをしていたか、叫び声を聞かなかったか。格闘の物音を耳にしなかったか。犯人と思われる者のすがたを見、または足音を聞かなかったか。それから最初にこの事件に気がついたのは何時ごろだったか、などについて訊問(じんもん)していった。
 これに対する博士の答えは、かんたんであり、そして明瞭(めいりょう)であった。
 それによると、博士は昨夕(さくゆう)いらい、徹夜実験をつづけていたこと。犯行の音も聞かず、犯人のすがたも見なかったこと。そして博士はその徹夜のうち、二度ばかり実験室を出てかわやへいっただけで、他は実験室ばかりにいたことを述べた。
 検事は、博士のことばについて、いろいろとものたりなさを感じた。あれだけの殺人が、十間(けん)ほどはなれているにしても、同じ屋根の下で行なわれたのに、被害者の声も耳にしなかったというのはおかしく思われた。
「じゃあ、誰がお三根を殺したと思われますか。ご意見を参考までにお聞きしたいのですが」
「知らんです。人の私行(しこう)については興味を持っていません」
「まさかあなたがその下手人ではありますまいね」
 検事のこのことばは、はじめてこの無神経な冷血動物(れいけつどうぶつ)のような博士を、とびあがらせる力があった。
「な、何ですって。ぼくが殺したというのですか。どこにぼくがこの女を殺さねばならない必要があるのです。さあ、それをいいたまえ、早く……」
 長身の博士が、髪をふりみだして、両手をひろげて検事の方へせまったかっこうは、とてもものすごいものだった。
 長戸検事はたじたじとうしろへ二、三歩さがってから、博士をおしもどすように手をふった。
「なぜそんなに興奮なさるんですか。わたしとしては、今の質問にイエスとかノウとか、かんたんにお答えくださればそれでよかったんです」
「失敬な……」
 と博士はやせた肩を波うたせて、ふうふう息を切っていたが、
「もちろん、ぼくはこんな女を殺したおぼえはない」
「この邸にはみょうな仕掛けがあるといっている者があるんですがね、お心あたりはありませんか。たとえば、するどい刃物を矢のさきにとりつけたものを、弓につがえて飛ばせる。そして人間に斬りけるという……」
「はっはっはっ」博士は笑いだした。
「きみはずいぶんでたらめなことを聞くですなあ。それはおとぎばなしにある話ですか」
「いや、大まじめで、あなたのご意見をうかがっているのです。……そしてその恐るべき兇器(きょうき)は人目にもはいらない速さで、遠くへ飛んでいってしまう……」
「おとぎばなしならもうたくさんだ。ぼくはいそがしいからだだ。もうこれぐらいにしてくれたまえ」
「お待ちなさい」
 検事は手を前に出して博士を引き止めた。
「お三根さんがそのような兇器(きょうき)で殺されたばかりでなく、きょうここへきたわれわれの仲間がふたりまで、その同じ凶器によって重傷を負(お)っているのです。これでもおとぎばなしでしょうか」
「本当ですか」
 博士は、はじめて真剣な顔つきになった。
「本当ですとも。川内警部と田口巡査のあの傷を見てやってください」
「ああなるほど。それでその矢はどこにあるんですか」
「それがあるなら、事件はかんたんになります。それがどこにも見えないから、われわれは苦労しているのです。あなたにうかがえば、その恐るべき兇器のからくりがわかるだろうと思って、おたずねしているわけです」
「そんなことをぼくに聞いてもわかる道理(どうり)がない。捜査するのはあなたたちの仕事でしょう。徹底的にさがしたらいいでしょう。かまいませんから、邸内どこでもおさがしなさい」
「そういってくださると、まことにありがたいですが、どうぞそれをお忘れなく――」
 と検事はほくそ笑(え)んで、
「では、あなたの実験室も拝見したいですし、それからこの天じょう裏をはいまわってさがさせていただきたい」
「天じょう裏はいいが、ぼくの研究室をさがすことはおことわりする」
「今のお約束のことばとちがいますね。それはこまる。そしてあなたに不利ですぞ」
「……」
「研究室をさがすために強権(きょうけん)を使うこともできますが、なるべくならば――」
「よろしい。案内しましょう。しかしはじめにことわっておくが、後できみたちが後悔したって知りませんよ」
 博士は何事かを考え、気味のわるいことばをはなった。さて博士の研究室の中に、何があるのか。


   待っていた奇々怪々(ききかいかい)


 係官の一行は、うすぐらい廊下を奥の方へと進んでいった。
 先頭には、かなりきげんのわるそうな針目博士が肩をゆすぶって歩いている。そのすぐうしろに右頬を斬られ大きなガーゼをあてて、ばんそうこうで十字にとめた田口巡査がついていく。もしも博士が逃げだすようすを見せたら、そのときはすぐうしろからとびついて、その場にねじ伏(ふ)せる覚悟をしている田口巡査だった。
 それから少し歩幅(ほはば)をおいて、長戸検事を先に、残り係官一行が五、六名つきしたがっている。
 検事の顔色は青黒い。細く見ひらいたまぶたのうしろに、眼球(がんきゅう)がたえずぐるぐる動いている。
 それはかれが気持わるく悩んでいることを意味する。
(手がかりらしいものは、なんにもない。犯行だけが、二つ、いや三つもある。こんなことではこの事件はいつとけるかわからない。ぼやぼやするなよ、長戸検事)
 そんな声が、検事の頭の中でどなり散らしている。これまで彼が現場へのぞめば、事件解決のかぎとなる証拠物(しょうこぶつ)を、たちどころに二つや三つは見つけたものである。そして犯人はすぐさま図星(ずぼし)をさされるか、そうでないとしても、犯人のおおよその輪廓(りんかく)はきめられたものである。
 しかるに、こんどの場合にかぎり、そうではなく、さっぱり犯人の見当がつかないのである。そればかりか、事件そのものの性質がよくのみこめないのだ。
 が、そんなことで考えこんで、多くの時間をつぶすわけにはいかない。事件の性質がどうあろうと、お三根はむごたらしく斬殺(きりころ)されて冷たいむくろとなって隣室によこたわっているんだし、部下の川内警部は足を斬られて、げんに足をひいてうしろからついてくる。田口巡査はほおを切られて、あのとおり、かっこうのわるいガーゼを顔にはりつけているのだ。検事はいよいよくさらないでいられなかった。
 だから検事としては、このうえは、あやしい針目博士の研究室の中を徹底的に家探しをして、犯人としての、のっぴきならぬ証拠物件を手に入れたいものと熱望していた。
 かぎをまわす音が検事の胸をえぐった。
 気がつくと、針目博士が研究室のドアの錠(じょう)をはずし、そこを開いた。そして博士はゆっくりと部屋の中へすがたを消した。検事は全身がかっとあつくなるのをおぼえた。取りおさえるか逃がすか、それはこれからの室内捜査のけっかできまる。
「なぜ、すぐはいらんのだ。しりごみしていてどうする」
 検事は、入口のところに足をとめてしまった田口巡査を、低い声で叱(しか)りつけた。しかし検事は冷汗(ひやあせ)をもよおした。ぐずぐずしている自分の方を、もっときびしく叱りつけたいことに気がついたからである。
 田口巡査は、はっとおどろいて、ウサギのようにぴょんとひとはねすると、研究室の中へとびこんだ。とたんにかれは、
「あっ」
 という叫び声を発した。
 長戸検事の顔は、いっそう青ざめた。そしていそいで部下のあとを追って中へはいった。
「うむ」
 検事はうなった。あやうく大きな叫び声が出そうになったのを、一生けんめいに、のどから下へおしこんだ。
 かれらはいったいなにを見たのであろうか。
 それはなんともいいようのない奇妙な光景であった。窓のないこの部屋の四つの壁は、隣室(りんしつ)につうずる二つのドアをのぞいたほかは、ぜんぶが横に長い棚(たな)になっていた。下は床のすこし上からはじまって、上は高い天じょうにまでとどいて、ぜんぶで十段いじょうになろう。
 そしてこの棚の上に、厚いガラスでできた角型(かくがた)のガラス槽(そう)が、一定のあいだをおいてずらりとならんでいるのだったが、その数は、すくなくとも四、五百個はあり、壮観(そうかん)だった。
 しかもこのガラス槽の中には、それぞれ活発に動いている生物がはいっていた。検事が最初に目をとどめたガラス槽の中には、頭のない大きなガマが、ごそごそはいまわっていた。もっともそのガマは、背中にマッチ箱ぐらいの大きさの、透明な箱を背おっていた。その箱の中には、指さきほどの灰白色のぐにゃぐにゃしたものがはいっていたが、検事はそこまで観察するよゆうがなく、ただふしぎな頭のない大きなガマがガラス槽の中で、あばれまわっているのにびっくりしたのであった。
 検事は、おどろきの目を、つぎつぎのガラス槽に走らせた。その結果、かれのおどろきはますますはげしくなるばかりだった。かれはもうひとつのガラス槽の中において、たしかに木製(もくせい)おもちゃにちがいない人形が、やはり透明な小箱を背おってあるきまわっているのを見た。
 それはゼンマイ仕掛けの人形とはちがい、どう見ても昆虫(こんちゅう)のような生きものに思えた。
 つぎのガラス槽の中では、やはり頭のないネズミが、透明の小箱を背おって、人間のように直立し、のそりのそりと中を散歩しているのを見た。またそのお隣のガラス槽(そう)の中では、一本足のコマが、ゆるくまわりながら、トカゲのように、あっちへふらふら、こっちへちょろちょろと走りまわっているのを見た。なんという奇怪な生物の展覧会場であろう。
 いや、展覧会場ではない、これは針目博士が、他人にのぞかせることをきらっている密室のひとつなのであるから、極秘(ごくひ)の生きている標本室(ひょうほんしつ)といった方がいいのだろう。
 検事はこのふしぎな生きものの世界へとびこんで、あまりの奇怪さに自分の頭がへんになるのをおぼえた。それから後、かれは一言も発しないで銅像のように立ちつづけた。するとその部屋が急に遠くへ離れてしまったような気がした。音さえ、遠くへ行ってしまった。かれは自分が卒倒(そっとう)の一歩手前にあることをさとった。が、どうすることもできなかった。


   博士、怪物を説(と)く


 長戸検事(ながとけんじ)が気がついてみると、かれはいつのまにか長いすによこたわっていた。そばでがやがやと人ごえがする。
「これをお飲みなさい。元気が出ますから」
 検事の鼻さきに、ぷーんと強い洋酒のにおいがした。こはく色の液体のはいったコップがかれの目の前につきつけられている。血色(けっしょく)のいい手がそのコップをにぎっている。誰だろうかと検事がその声の主をあおいでみるとそれは針目博士(はりめはくし)だった。そしてそのまわりに、検事の部下たちの頭がいくつもかさなりあっていた。長戸検事は、びっしょりと冷汗(ひやあせ)をかいた。
「いや、もう大丈夫です」
「やせがまんをいわずと、これをお飲みなさい」
「いや、ほんとにもう大丈夫だ」
 検事は、強く洋酒のコップをしりぞけて、長いすからきまりわるく立ちあがった。
「だからぼくは、あらかじめご注意をしておいたのです。こんな見なれない動物をごらんになって、気持が悪くなったのでしょう」
「いや、そうじゃない。じつは昨夜からかぜをひいて気持がわるかったのだ。この部屋へはいったとき、異様(いよう)なにおいがして、頭がふらふらとしたのだ。心配はいらんです」
 検事は強く弁明をした。かれは強引(ごういん)にうそをついた。このうそを、ほんとうだと自分自身に信ぜしめたいと願った。けっして、この奇妙な標本を見て気持がわるくなったのではないと思いたかった。そうでないと、これから先、この奇妙な標本と取っ組んで、事件の真相をしらべあげることはできなかろう。かれは、つらいやせがまんをはったのである。
 かれの配下たちの中にも、ふたりばかり脳貧血(のうひんけつ)を起こした者があった。それはもっともだ。誰だって、こんな奇妙な標本に向かいあって五分間もそれを見つめていれば、脳貧血を起こすことはうけあいだ。
 脳貧血を起こさない連中の筆頭には、川内警部がいた。かれは顔をまっかにして、憤激(ふんげき)している。どなり散らしたいのを、一生けんめいにがまんしているという顔つきで、針目博士の一挙一動からすこしも目をはなさず、ぐっとにらみつけていた。
「針目博士。この動物はなぜここに集めてあるのですか」
 長戸検事は職権(しょっけん)をふたたびふるいはじめた。
「ぼくの研究に必要があるからです」
「博士の研究とは、どういう研究ですか」
「そうですね。それはお話しても、とてもあなたがたには理解ができないですね」
 針目博士は、回答をつっぱねた。
「理解できるかできないかは問題がいです。説明してください」
「じゃあ申しましょう。これはぼくが本筋の研究にかかるについて、その準備のため作った標本です。つまり本筋の研究そのものじゃないのですよ。いいですね」
 と、博士はねんをおして、
「そこでこの標本をごらんになればわかるでしょうが、この動物たちは、自分が持って生まれた脳髄(のうずい)を持っていないのです。そうでしょう。みんな頭部を斬り取られています。そしてかれらは他の動物の脳髄をもらって、それをかわりに取りつけています。あの透明な小箱の中にあるのは他の動物の脳髄なのです。それを取りつけて、生きているのです。おわかりですか」
「よくわかります」
 長戸検事は、反抗するような声で、そういった。ほんとうは、かれには何のことだか、よくのみこめなかったのだけれども。
「ほう。これがよくおわかりですか。いや、それはけっこうです」
 針目博士は、目をまるくした。皮肉でもないらしい。
「これなどは、おもちゃの人形に、ニワトリの脳髄を植えたものですよ。もちろん人形の手足その他へは神経にそうとうする電気回路をはりまわしてありますから、そのニワトリの脳髄の働きによって、この人形は手足を働かすことができるのです。気をつけてごらんなさればわかりますが、この人形の歩きかたや、首のふりかたなどは、ニワトリの動作によく似ているでしょう」
「そのとおりですね」
 そう答えた検事の服のそでを、うしろからそっと引いた者がある。そしてつづいて、検事の耳にささやく声があった。それは川内警部であった。
「この標本や博士の研究は、こんどの殺人傷害事件(さつじんしょうがいじけん)には関係ないようではありませんか。それよりも、早く奥の部屋をしらべたいと思いますが、いかがですか」
 そういわれて、検事も警部のいう通りだと思った。そこで一行は奥へ進むこととなった。


   大きな引出(ひきだし)


 この部屋から奥へ通ずるドアが二つあった。左手についているのは、物置へ通ずるもので、これはあとで捜査(そうさ)することとなった。
 まっ正面のドアのむこうに、博士の一番よく使うひろい実験室があった。一行はドアを開いてその部屋へ通った。
 それは十坪ほどあるひろい洋間だった。
 ざつぜんと器械台がならび、その上にいろいろな器械や器具がのっている。まわりの壁は戸棚と本棚とで占領されている。天じょうは高く、はじめは白かった壁であろうが、灰色になっており、大きな裂(さ)け目(め)がついている。
 まえの部屋もそうであったが、この部屋にも窓というものがない。天じょうの上の古風なシャンデリアと、四方の壁間にとりつけられた、間接照明灯(かんせつしょうめいとう)が、影のない明かるい照明をしている。
「この部屋は、何のためにあるのですか」
 検事が針目博士に質問した。ここには、まえの部屋で見たような、奇怪な標本が目にうつらないので、検事はいささか元気をもりかえしたかたちであった。
「ごらんになるとおり、ぼくが実験に使う部屋です」
「どういう実験をしますか」
「どういう実験といって――」
 と博士は笑いだした。
「いろんな実験です。数百種も、数千種も、いろいろな実験をこの部屋ですることができます。みんな述(の)べきれません」
「その一つ二つをいってみてください」
 検事はあいかわらずがんばる。
「そうですね。細胞の電気的反応をしらべる実験を、このへんにある装置をつかってやります。もうひとつですね。ここにあるのは生命をもった頭脳から放射される一種の電磁波を検出する装置です。ことに、劣等な生物のそれに対する装置です。ことに、劣等な生物のそれに対して検出しやすいように、組み立てたものであります。これぐらいにしておきましょう。おわかりになりましたか」
「今のところ、それだけうかがえばよろしいです。それでは室内をいちおう捜査しますから、さようにご承知ねがいたい」
「職権をもってなさるのですから、とめることはしません。しかしたくさんの精密器械があるのですから、そういうものには手をつけないでください。万一手をつける場合は、ぼくを呼んでください。いっしょに手を貸して、こわさないようにごらんに入れますから」
「参考として、聞いておきます」
「参考として聞いておく? ふん、あなたがたに警告しておきますが、この部屋の精密器械に対して、ぼくの立ち合いなしに動かして、もしもそれをこわしたときには、ぼくは承知しませんよ。場合によって、あなたがたをこの部屋から一歩も外に出さないかもしれませんぞ」
 針目博士は、にわかにふきげんとなって、きびしい反抗の態度をしめした。そしてかれは、すみにすえてある大机の向うへ行って、どこかこわれているらしい回転いすの上に、大きな音をたてて腰をかけた。そしてタカのような目つきになって、検事たちの方へ気をくばった。
 検事は、こんな場合にはよくなれているので、相手がかんかんになればなるほどこっちは落ちつきを深めていった。そして部下たちに、この部屋をじゅうぶんに捜索し、れいの事件に関係ありと思われる証拠物件があったら、さっそく検事を呼ぶようにと命令した。
 それから捜査がはじまった。一同は、これまであつかいなれない器械器具るいだけに、どうしらべてよいのやら、こまっているようであった。しかしこころえ顔の係官たちは、床の上にはらばいになって器械台の下をのぞきこんだり、戸棚の引出(ひきだし)をぬきだしたりして、どんどん仕事を進めていった。
 だが、思うようなものはすぐには見つからなかった。
 この部屋の、博士がいま腰をおろしているのと、ちょうど対角線上の隅(すみ)にあたるところに、一部に黒いカーテンがおりていた。それを開いて中へ入った川内警部は、そこにもやはり大きな引出が、三段十二個になってならんでいるのを発見した。その引出は、そうとう大きかった。しかしかぎもかかっていなかった。引出にはそれぞれ番号札がついていた。
 警部が、その引出のひとつに手をかけたとき、誰も気がつかなかったが、針目博士の口のあたりには、あやしいうす笑いがうかんだのであった。もちろん川内警部は、それに気がつくはずもなく、引出のとってに力をいれて、ぐっと引きだした。
「おや、これは何だ!」
 警部は、すっとんきょうな声をあげた。彼の顔からすっかり血の気が引いてしまった。
 見よ、その半びらきになった引出の中には、黄いろくなった人間の足が二本ならんでいた、いや、足だけではない。裸体(らたい)のままの死骸(しがい)がそこにはいっているにちがいなかった。
 事件はいよいよ奇怪な段階に突入した。いったいこれは何者の死体なのであろう。針目博士の身辺にいよいよ疑問の影がこい。


   警部じれる


「おう、ここにも死骸(しがい)がかくしてある」
 警部のそばにいた若い巡査が、おどろきの声をあげた。
 針目博士は、しらぬ顔をして、回転いすに腰をかけている。
 警部は、その死骸いりの大きな引出をひっぱり出した。消毒薬くさいカンバスにおおわれて若い男の死体がはいっていた。しかしその男の頭蓋骨は切りとられていて、その中にあるはずの脳髄もなく、中はからっぽであった。
 警部は、この死体が、学術研究の死体であることに気がついた。
 ねんのために、おなじような他の引出をかたっぱしからひっぱり出してみた。するとほかに、男の死体が一つ、女の死体が二つ、はいっていることがわかった。
「この死体は、どうして手にいれましたか」
 川内警部は、やっぱりそのことを針目博士にたずねた。
「研究用に買い入れたんです。証書もあるが見ますか」
「ええ、見せていただきましょう」
 警部はけっきょくその死体譲渡書(したいゆずりわたししょ)が、正しい手つづきをふんであることをたしかめた。
 死体がこの部屋に四つある。そのうえに、もう一つなまなましい死体を、博士はほしく思ったのであろうか。
 警部は、針目博士がいよいよゆだんのならない人物に見えてきた。このうえは、こんどの事件に直接関係のある証拠をさがしだして、なにがなんでも博士を拘引(こういん)したいと思った。
「針目さん。あなたのお使いになっている部屋は、まだありますか」
 長戸検事が、タバコのすいがらを指さきでもみ消して、博士にたずねた。
「あとは、第二研究室と倉庫と寝室の三つです。やっぱり見るとおっしゃるんでしょう」
「そうです、見せていただきますよ」
「どうしても見るんですか」
 博士の顔がくるしそうにまがった。
「見せろというなら見せますが、あなたがたがこの室や標本室でやったように、室内の物品に無断(むだん)で手をつけるのは困るのです。じつは第二研究室では、ぼくでさえ、非常に注意して、足音をしのび、せきばらいをつつしみ、はく呼吸(いき)もこころしているのです」
「それはなぜです。なぜ、そんなことをする必要があるのですか」
 長戸検事が、口をはさんだ。
 すると博士は、吐息(といき)とともに、遠いところをながめるような目つきになって、
「おそらく今、世界でいちばん貴重(きちょう)な物が、そこに生まれようとしているのです。荘厳(そうごん)と神秘(しんぴ)とにつつまれたその部屋です。あなたがたは、もしその荘厳神秘の中にひたっている主(あるじ)を、すこしでも、みだすようなことがあれば、あなたがたはとりもなおさず、地球文明の破壊者(はかいしゃ)、ゆるすべからざる敵でありますぞ」
 それを聞いていた川内警部は、口のあたりをあなどりの笑(え)みにゆがめて、
(ふん、邪宗教(じゃしゅうきょう)の連中が、いつも使うおどかしの一手だ、なにが神秘(しんぴ)だ。わらわせる)
 と、心の中でけいべつした。
「なんです、生まれ出ようとしている荘厳神秘のあるじというのは……」
 検事は、顔をしかめて、博士を追う。
「生命と思考力とをもった特別の細胞が、人間の手でつくられようとしているのだ。もしこれに成功すれば、人間は神の子を作ることができる」
 博士は、わけのわからないことをつぶやく。
「カエルの脳髄(のうずい)を切りとって、それを他の動物にうつしうえることですか」
 検事は、一世一代の生命科学の質問をこころみる。
「そんなことはいぜんから行われている。ぼくが研究していることは、すでに存在する生命を、他のものに移し植えることではない。生命を新しくこしらえることだ。生命の創造だ。細胞の分裂による生命の誕生とはちがうのだ。それは神が、神の子をつくりたもうのだ。それではない、この場合は、人間の意志のもと、人間の設計によって、新しい生命を創造するのだ。ローマの詩人科学者ルリレチウスの予言したことは、二千年を経(へ)たいま、わが手によって実現されるのだ。自然科学の革命、世界宗教の頓挫(とんざ)、人間のにぎる力のおどろくべき拡大……」
 川内警部は、にがり切って長戸検事のそでをひいた。
「検事さん、あれは気が変ですよ。ちんぷんかんぷんのねごとはやめさせて、となりの部屋部屋を、どんどん洗ってみようじゃありませんか。さもないと、この事件はさっぱり片づきませんよ。迷宮入(めいきゅうい)りはもういやですからね」
 そういわれて、長戸検事も警部の意見にしたがう気になった。さっぱりわけのわからない博士のうわごとに、頭痛のするのをこらえているのは、ばかな話だと思った。
 検事は、つぎの部屋を見るから案内するようにと、博士にいった。博士は、いすからのそりと立ち上がった。
 どんな光景が、つぎの部屋に待っていることか。


   三重(さんじゅう)のドア


 第二研究室へはいりこむのは、たいへんめんどうであった。
 ドアだけでも、三重になっていた。
 しかもそのドアは、どういう必要があってかわからないが、大銀行の地下大金庫のドアのように、厚さが一メートル近くあるものさえあった。第三のドアが、いちばんすごかった。
 それをあけると、がらんとした部屋が見えた。水銀灯(すいぎんとう)のような白びかりが、夜明け前ほどのうす明かるさで、室内を照らしつけていた。
 博士は、らんらんとかがやく眼をもって、係官たちの方をふりかえった。そして、自分のくちびるに、ひとさし指をたてた。それからその指で、自分の両足をさした。いよいよ室内へはいるが、無言(むごん)でいること、足音をたてないことを、もういちど係官たちにもとめたのであった。
 それから博士は、足をそっとあげて、室内へはいった。
 長戸検事も、それにならって、しずかに足をふみいれた。
 川内警部は、ことごとに、鼻をならしたり、舌打(したう)ちをしたりして、針目博士(はりめはくし)に反抗の色をしめしていたが、第二研究室にはいるときだけは、検事にならって、しずかにはいった。
 そのあとに、三人の部下がはいった。
 はいってみると、この部屋は天じょうがふつうの部屋の倍ほど高く、ひろさは三十坪ばかりであった。がらんとした部屋と思ったが、それは入口の附近の壁を見ただけのこと、それはいちめんに蝋色(ろういろ)に塗られて、なにもなかった。
 左を向いて、奥正面と、右の壁とが、陳列室よりも、もっとひろい棚(たな)があり、まえにドアつきの四角い陳列棚(ちんれつだな)が、それぞれ小さい番号札をつけて、整然とならんでいた。壁のいちめんに、百個ぐらいの棚がある。
 左の壁は、電気装置のパネルが、ところせましとばかりはめこんであり、背の高い腰かけが一つおいてある。
 部屋のまん中に、箱がたのテーブルがひとつおいてある。そしてその上に、ガラスでつくった標本入れの箱が一つのっている。
 これだけの、べつに目をうばうほどの品物も見あたらない部屋だったが、気味(きみ)のわるいのは、この部屋の赤や黄を欠(か)く照明と防音装置だった。それにあとで検事たちも気がついたことだが、気圧がかなり低かった、係官のなかには、鼓膜(こまく)がへんになって、頭を振っている者もあった。
 博士は、係官を手まねきして、陳列棚の前を一巡(いちじゅん)した。
 陳列棚のうちそのドアが開かれて、壁の中におし入れてあるものは、ガラス容器が見られた。検事や警部は、前へ進んで、一生けんめいにその中をのぞきこんだ。
 ふたりは、目を見あわせた。
 ガラス箱の中には、下の方にかたまったゼラチンのようなものが、三センチほどの厚さで平(たい)らな面を作っており、その上に、つやのある毛よりも細い金属線らしいものがひとつかみほど、のせてあった。
(何でしょうか)
(何だかわからないねえ)
 警部と検事とは、目だけでそんなことをかたりあった。
 それに類するものが、他のガラス箱の中でも見られた。
 警部は検事に耳うちをした。それから警部は針目博士を手まねいた。
「これは何ですか。説明を求めます」
 警部が声を出したので――その声はかれ、川内警部にしては低い声だったが、針目博士の顔色をかえさせた。博士はあわてて警部を戸口に近いところへひっぱって行き、
「こまるですなあ、そう大きな声を出しては……」
「職権(しょっけん)を行使(こうし)しているのに対し、きみはそれをとやかくいう権利はない」
「こまった人だ。あとで後悔しても追っつかんのですぞ」
 と博士は悲しげにまばたいて、
「これらのものが何であるかは、さっきもちょっといいかけましたが、あとで隣の部屋で申しあげます」
「いや、いまいいたまえ、あとではごまかされる」
 そういっているとき、検事もふたりのそばへ歩みよった。
「この部屋には、よほど大切な試験材料がおいてあるらしいね」
「試験材料というよりも、わたしが全霊全力(ぜんれいぜんりょく)をうちこんで作った試作生物(しさくせいぶつ)なんです」
「あの針金(はりがね)の屑(くず)みたいなものは何ですか。あの中に、その生物がかくれているんですか」
「そうではないのです……。いくどもお願いしますが、説明はあとで隣室(りんしつ)ですることでおゆるしください。もしもかれらをくるわせて、悪魔のところへやるようなことがあったら、まったく天下の一大事ですからね」
 警部が検事のわきばらをついた。やはりこの博士は気が変だよというつもりだった。警部の顔に、決心の色が見えた。かれは、いつもの大きな声になって、博士にいった。
「陳列棚に戸のしまっている棚がたくさんある。あれもいちいち開(ひら)いて見せなさい」
 博士のおどろきは絶頂(ぜっちょう)にたっした。かれはふるえる自分の指をくちびるに立てた。そしてあきらめたというようすで、ふたりをさしまねいた。
 博士のうしろに勝ちほこった川内警部と、いよいよむずかしい顔の長戸検事がついていく。


   おそろしい異変


 針目博士は、陳列棚(ちんれつだな)の前に立って、戸のしまっている棚を一(ひ)イ二(ふ)ウ三(み)イと八つかぞえた。その小さい戸の上には、骸骨(がいこつ)のしるしと、それから一、二、三の番号とが書きつけてあった。
 博士は、用心ぶかく「骸骨の一」の戸を、しずかに手前へ引いた。
 中には、おなじようなガラス器があり、それの中に見られたものは、よく見ないとわからないほどの細い針金でもって、だ円形(えんけい)のかごのような形を、あみあげたものだった。
 検事にも警部にも、それはすこしも、おどろきをあたえないものだった。
「骸骨の二」の戸を開くと、そこにもやはり細い針金ざいくのかごのようなものがあった。これは三稜(さんりょう)の柱(はしら)のようであった。
 川内警部は、早くもその前を通りすぎて、つぎなる戸の前へ行ったが、長戸検事はその前に足をとどめて、首を横にかしげた。彼はその三角形の柱が、なんだか背のびをしたように感じたからである。
「骸骨の三」には、やはり針金で、クラゲのような形をしたものがはいっていた。警部はいよいよがまんがならないというふうに、鼻をならした。博士がおどろいて、警部の方をふりかえり、嘆願(たんがん)するようにおがんだ。それから「骸骨の四」の戸のまえへ進んで、それを開いた。
 とたんに博士の顔が、大きなおどろきのためにゆがんだ。博士いがいの者にはわからないことだったが、「骸骨の四」のガラス箱の中はからっぽだったのである。
 博士は顔色をかえたまま、係官をつきのけるようにして、左側の壁にはめこんである配電盤の前にかけつけた。そしてほうぼうのスイッチを入れたり、計器の針の動きをにらんだり、ブラウン管の緑色の光りの点の位置を、目盛りで読んだりした。
「針目さん。なにか起こったのですか」
 検事が博士のそばへ寄って、低い声でいった。
「大切にしていたものが、なくなりました。いったいどうしたのか、わけがわからない……」
 すると川内警部がやってきて、博士の腕をむずとつかんだ。
「きみ、ごまかそうとしたって、そうはいかないよ。あと骸骨(がいこつ)の戸(と)は五、六、七、八と四つあるじゃないか。早く開いて見せなさい」
「あ、そんな大きな声を出しては――」
「これはわしの地声(じごえ)だ。どんなでかい声を出そうと、きみからさしずはうけない」
 警部がどなるたびに、配電盤の計器の針がはげしく左右にゆれた。
 そのときだった。室内にいた者はきゅうにひどい頭痛(ずつう)にみまわれた。誰もかれも、ひたいに手をあてて顔をしかめた。
 それと同時に、骸骨のしるしのつけてあった陳列棚から、すーっと黒い煙が立ちのぼった。しかし「骸骨の四」のところからは出なかった。
「もう、いけない。危険だ。みなさん、外へ出てください」
 博士が叫んで、さっき一同のはいって来た戸口の方をゆびさした。しかしその戸は、しっかりしまっていた。
「どうしたんです、針目博士」
 検事がおどろいてたずねた。
「もうおそいのです。警部さんが、この部屋にねむっていた大切なものの目をさましてしまった。えらいことが持ちあがるでしょう。早くその戸口から逃げてください」
 そういう間も博士は、まん中にすえてあったテーブルの横戸(よこど)を開き、その中から潜水夫のかぶとのようなものを引っ張り出して、すっぽりとかぶった。それから両手に、大げさに見えるゴムの手袋をはめ、同じくテーブルの横からたいこに大きなラッパをとりつけたようなものをつかみ出し、たいこの皮のようなところを棒で力いっぱいたたきつづけた。しかしそれは音がしなかった。そのかわり、ラッパのような口からは、銀白色(ぎんはくしょく)の粉(こな)が噴火(ふんか)する火山灰(かざんばい)のようにふきだし、陳列棚の方からのびてくるきみのわるい黒い煙をつつみはじめた。
 黒い煙は、いったん銀白色の膜(まく)につつまれたが、まもなくそれを破って、あらしの黒雲(くろくも)のように――いや、まっくろな竜(りゅう)のように天じょうをなめながら、のたくりまわった。このとき頭痛が一段とひどくなって、もう誰も立っていられなかった。いや、例外がある。針目博士だけは、足をぶるぶるふるわせながらも立っていた。
「でよう。この部屋からでよう」
 長戸検事が叫んだ。すると川内警部ははっていって戸口を押した。戸口はびくともしなかった。
 それを博士が見たものと見え、とぶようにかけて来て、ハンドルをまわして戸をあけると、五人はあらそうようにして、外へとび出した。
 五人の係官が出てしまうと、戸はもとのようにしまった。博士がしめたのである。
 検事たちは、まだ二つのドアを開かねばならなかった。文字どおり必死で、ようやくドアを開いて、第一研究室へ出ることができた。一同の足は、そこでもとまらなかった。あきれ顔の人たちや他の警官の前をすりぬけて、一同は庭へころげ出た。
 そしてほっと一息ついたおりしも、天地もくずれるような音がして、目の前にものすごい火柱(ひばしら)が立った。第二研究室が、大爆発を起こしたのだった。なにゆえの爆発ぞ。針目博士はどうしたであろうか。


   事件迷宮(めいきゅう)に入る


 第二研究室の爆発のあと、針目博士のすがたを見た者がない。
 爆発による被害は、さいわいにも第二研究室だけですんだ。それはまわりの壁が、ひじょうにつよかったせいで、爆発と同時に、すべてのものは弱い屋根をうちぬいて、高く天空(てんくう)へ吹きあげられ、となりの部屋へは、害がおよばなかったわけだ。
 焼跡は一週間もかかって、いろいろ念入りにしらべられた。
 だが、この室内にあったものは、すべてもとの形をとどめず、灰みたいなものと化(か)していた。よほどすごい爆発を起こし、圧力も熱もかなり出たらしい。
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