霊魂第十号の秘密
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著者名:海野十三 

 なぜか理由はわからないが、さっきはあれほど不明瞭(ふめいりょう)だった音声が、目のさめたときから急に明瞭になったらしい。またその音声もずっと大きくなった。大きく、明瞭な話し声になったので、自分は目がさめたんだなと、隆夫は気がついた。
 念のために彼は、寝台から下りて、となりの実験室へいってみた。
 天井の高声器は、ちゃんと働いていた。もちろん音声は出ていないが、小さくがりがりと音がしていて、働いているのが知れた。
「ふしぎだ。ふしぎな会話だ。いったいどこの誰と誰との会話なんだろうか。まさか、あれが放送のドラマの一部だとは思われない。放送なら、あのあとにアナウンスがあるはずだし、あんな場面なら伴奏(ばんそう)がなくてはならないはず」
 この疑問は、すぐには解けなかった。
 やがて夜明けが来た。
 そして朝の行事がいつものように始まった。食事をしてから、隆夫は学校へいった。
 二宮孝作(にのみやこうさく)や四方勇治(よつかたゆうじ)がそばへやって来たので、隆夫はさっそく昨夜奇妙な受信をしたことを話して聞かせたら、二人とも「へーッ、そうかね」とびっくりしていた。
「三木(みき)はどうしたんだ。今日は姿が見えないね」
 三木にこの話をしてやったら一番よろこぶだろうに。
「三木か。三木は今日学校を休むと、ぼくのところへ今朝(けさ)電話をかけて来たよ」
 と、二宮がいった。
「ああ、そうか。また風邪をひいたのか」
「そうじゃない。病人が出来たといっていた」
「うちに病人? 誰が病気になったんだろう。彼が休むというからには、相当重い病気なんだろうね」
「ぼくも聞いてみたんだ。するとね、あまり外へ喋(しゃべ)ってくれるなとことわって、ちょっと話しがね、彼の姉さんのお名津(なつ)ちゃんがね、とつぜん気が変になったので、困っているんだそうな」
「へえーッ、あのお名津ちゃんがね」
「午前三時過ぎからさわいでいるんだって」
「午前三時過ぎだって」
 隆夫はそれを聞くと、どきんとした。


   脳波収録(のうはしゅうろく)


 なぜ隆夫は、どきんとしたか。
 そのわけは、それを聞いたとき、彼が知っている三木の姉名津子(なつこ)の声が、昨日の深夜、図らずも自分の実験小屋で耳にした女の声によく似ていることに気がついたからであった。実は昨夜もあの声を聞いたとき、どうも聞きおぼえのある声だとは思ったが、それが名津子の声に似ているとまで決定的に思出すことができなかったのだ。
(ふーん。これは重大問題だぞ)
 隆夫は、腹の中で、緊張した。
 しかし彼は、このことを三木たちに語るのをさし控えた。それは万一ちがっていたら、かえって人さわがせになるし、殊(こと)に病人を出して家中が混乱しているところへ、新しい困惑(こんわく)を加えるのはどうかと思ったのである。
 そのかわり、彼はこれを宿題として、自分ひとりで解いてみる決心をした。そして、いよいよ確実にそうと決ったら、頃合(ころあい)を見はからって三木に話してやろうと思った。
「どうして。君は急に黙ってしまったね」
 二宮が、隆夫にいった。隆夫は苦笑した。
「うん。ちょっと、或ることを考えていたのでね」
「何を考えこんでいたんだい」
「気が変になった人を治療する方法は、これまでに医学者によって、いろいろと考え出された。しかしだ、実際にこの病気は、あまりなおりにくい。それから、今までとは違った治療法を考えだす必要があると思うんだ。そうだろう」
「それはわかり切ったことだ」
 誰もみな隆夫のいうことに異議はなかった。
「そこでぼくは考えたんだが、そういうときに、病人の脳から出る電波をキャッチしてみるんだ。そしてあとで、その脳波を分析するんだ。それと、常人の脳波と比較してみれば、一層なにかはっきり分るのではないかと思う。この考えは、どうだ」
「それはおもしろい。きっと成功するよ」
「いや、ちょっと待った。脳波なんて、本当に存在するものかしらん。かりに存在するものとしてもだ、それをキャッチできるだろうか。どうしてキャッチする。脳波の波長はどの位なんだ」
 四方勇治(よつかたゆうじ)が、猛然と新しい疑問をもちだした。
「脳波が存在するかどうか、本当のことは、ぼくは知らない。しかし脳波の話は、この頃よくとび出してくるじゃないか。でね、脳波はいかなる理論の上に立脚(りっきゃく)して存在するか、そんなことは今ぼくたちには直接必要のない問題だ。それよりも、とにかく短い微弱(びじゃく)な電波を受信できる機械を三木君の姉さんのそばへ持っていって、録音してみたらどうかと思うんだ。もしその録音に成功したら、新しい治療法(ちりょうほう)発見の手がかりになるよ」
「それはぜひやってくれたまえ、隆夫君」
 この話をすると、三木は、はげしい昂奮(こうふん)の色を見せて、隆夫の腕をとらえた。
「おい、四方(よつかた)君。君はどう思う」
「脳波の存在が理論によって証明されることの方が、先決問題(せんけつもんだい)だと思うね。なんだかわけのわからないものを測定したって、しようがないじゃないか」
「いや、机の前で考えているより、早く実験をした方が勝ちだよ」と、二宮孝作(にのみやこうさく)が四方の説に反対した。
「元来(がんらい)日本人はむずかしい理屈をこねることに溺(おぼ)れすぎている。だから、太平洋戦争のときに、わが国の技術の欠陥をいかんなく曝露(ばくろ)してしまったのだ。ああいうよくないやり方は、この際さらりと捨てた方がいい。分らない分らないで一年も二年も机の前で悩むよりは、すぐ実験を一週間でもいいからやってみることだ。机の前では、思いもつかなかったようなことが、わずかの実験で“おやおや、こんなこともあったのか”と分っちまうんだ。頭より手の方を早く働かせたがいいよ」
「まあ、とにかく、その実験をやることにして、ぼくはその準備にかかるよ。隆夫君、手つだってくれるね」
 三木がそういったので、万事(ばんじ)は決った。もちろん隆夫は協力を同意したし、二宮も手を貸すといい、四方までが、ぼくにも手伝わせてくれと申出た。
 四人の協力によって、三日のちに、機械の用意ができた。
 その日の午後、一同は三木の家で、仕事を始めた。
 名津子(なつこ)の病床には、母親が病人よりもやつれを見せて、看護にあたっていた。まことに気の毒な光景だった。
 一同がその部屋にはいったとき、病人はすやすやと睡っていた。なるべく音のしないように、機械を持ちこんだ。
 機械は、電波をつかまえるため小さい特殊型空中線(とくしゅがたくうちゅうせん)と、強力なる二次電子増倍管(にじでんしぞうばいかん)を使用し、受信増幅装置(じゅしんぞうふくそうち)と、それから無雑音(むざつおん)の録音装置とを組合わせてあった。 そして脳から出る電波の収録(しゅうろく)をすると共に、病人の口から出ることばとを同時録音することも出来るようになっていた。
 いよいよその仕事が始まった。
 病人の目をさまさないうちに、睡眠中病人の脳から出ている電波をとらえることになった。隆夫は受信機の調整にあたり、三木は空中線を姉の頭の近くへ持っていって、いろいろと方向をかえてみる役目を引受けた。あとの二人は録音や整理の仕事にあたる。


   深夜(しんや)の影


「どうだい、何か出るかい」
 受信機が働きはじめたとき、三木はすぐそれをたずねた。
「いや出ない」
「だめなのかな」
「そうともいえない、とにかくいろいろやってみた上でないと、断定(だんてい)はできない」
 隆夫は、波長帯(はちょうたい)を切りかえたり、念入りな同調(どうちょう)をやったり、増幅段数(ぞうふくだんすう)をかえたりして、いろいろやってみた。
「この機械の受信波長(じゅしんはちょう)は、どれだけのバンドを持っているのかね」
 四方(よつかた)が、隆夫に聞く。
「波長帯は、一等長いところで十センチメートル、一等短いところでは一センチの千分の一あたりだ」
「そうとうな感度を持っているねえ」
「いや、その感度が一様(いちよう)にいってないので、困っていることもあるんだ」
 電波は長波(ちょうは)、中波(ちゅうは)、短波(たんぱ)と、だんだん波長が短くなってきて、もっと短くなると超短波(ちょうたんぱ)となり、その下は極超短波(ごくちょうたんぱ)となる。そのへんになると赤外線(せきがいせん)の性質を帯(お)びて来る。一センチの何千万分の一となると、もう電波であるよりも赤外線だ。そうなると、装置はますますむずかしさを加える。
「なんか出て来たよ。しかしさわがないでくれたまえ」
 隆夫が昂奮(こうふん)をおしつけかねて、奇妙な声を出す。
 一同の顔が、さっと紅潮(こうちょう)して、隆夫の顔に集まる。
 隆夫は手まねで三木に空中線の向きや距離をかえさせる。そしていそがしくスイッチを切ったり入れたりして、その目は計器の上を走りまわる。
「これらしい。これがそうだろう」
 隆夫はひとりごとをいっている。
「ああッ、飛ぶ、飛ぶ、赤い火がとぶ……」
 とつぜん、高い女の声。
 名津子(なつこ)が口を聞いたのだ。彼女は目がさめたものと見え、むっくりと床から起上ろうとして、母親におさえられた。
「名津ちゃん。おとなしくしなさい。母さんはここにいますよ」
 母親は涙と共に娘をなだめる。
 それからの三十分間は電波収録班大苦闘(でんぱしゅうろくはんだいくとう)の巻(まき)であった。なにしろ目がさめた名津子は、好きなように暴れた。弟の三木も何もあったものではなく、空中線はいくたびか折られそうになった。母親と三木は、そのたびに汗をかいたし、隆夫たちははらはらしどおしだった。そして予定よりも早く実験を切りあげてしまった。
 三木に別れをつげて、残る三人の短波ファンは、そこを引揚げた。
 三人は隆夫の実験小屋へ機械をもちこんで、しばらく話し合った。すると、二宮がしかつめらしい顔をして、こんなことをいいだした。
「人間のからだが生きているということはね。からだをこしらえている細胞の間は、放電現象が起ったり、またそれを充電したり、そういう電気的の営(いとな)みが行われていることなんだとさ。だから三木の姉さんみたいな人を治療するのには、感電をさせるのがいいんじゃないかな。つまり電撃作戦(でんげきさくせん)だ」
「それは電撃作戦じゃなくて、電撃療法(りょうほう)だろう」
「ああ、そうか。とにかく高圧電気を神経系統(しんけいけいとう)へぴりっと刺(さ)すと、とたんに癒(なお)っちまうんじゃないかな」
「それは反対だよ」
 四方が首を振った。
「なぜだい、なにが反対だい」
「だって、そうじゃないか。神経細胞は電線と同じように、導電体(どうでんたい)だ。しかも弱い電流を通す電路なんだ。そこへ高圧電気をかけるとその神経細胞の中に大きな電流が流れて、神経が焼け切れてしまう。そうなれば、人間は即座(そくざ)に死ぬさ」
「いや、電流は流されないようにするんだ。そうすれば神経細胞は焼け切れやしないよ。ねえ、隆夫君、そうだろう」
「さあ、どっちかなあ。ぼくは、そのことをよく知らないから、答えられない」
 この問題は懸案(けんあん)になった。
 そこへ隆夫の母が、甘味(あまみ)のついたパンをお盆(ぼん)にのせてたくさん持って来てくれたので、三人はそれをにこにこしてぱくついた。やがてお腹がいっぱいになると、急に疲れが出て来て、睡くなった。それだから、その日はそれまでということにして、解散した。
 さて、その夜のことである。
 隆夫はひとりで実験小屋にはいった。
 彼は、今日とって来た録音が気がかりで仕方がなかった。
 それで脳波の収録のところを再生してみることにした。つまり、もう一度脳波にして出してみようと思ったのだ。
 隆夫は、大急ぎでその装置を組立てた。
 それから脳波を収録したテープをくりだして、その送信機につっこんだ。
 もちろん隆夫には、その脳波は聞えなかったけれど、検波計(けんはけい)のブラウン管で見ると、脳波の出力(しゅつりょく)が、蛍光板(けいこうばん)の上に明るいあとをひいてとびまわっているのが見えた。
 隆夫は、この脳波を、いかにしてことばに変化したらいいかと考えこんだ。
 その間に収録テープは、どんどんくりだされていた。脳波は、泉から流れ出す清流(せいりゅう)のように空間に輻射(ふくしゃ)されていたのだ。
 それを気に留めているのか、いないのか、隆夫は腰掛にかけ、背中を丸くして考えこんでいる。
 そのとき隆夫のうしろに、ぼーッと人の影が浮び出た。若い男の姿であった。その影のような姿は、こまかく慄(ふる)えながら、すこしずつ隆夫のうしろへ寄(よ)っていく。
「もしもし、一畑(いちはた)君。君の力を借りたいのです。ぼくに力を貸してくれませんか」
 陰気(いんき)な、不明瞭(ふめいりょう)なことばが、その怪影(かいえい)の口から発せられた。
 そのとき隆夫は、ふと我れにかえって、身ぶるいした。そしてふしぎそうに見廻したが遂に怪影を発見して
「あッ。あなたは……」
 と、おどろきの声をのんだ。


   意外な名乗(なの)り


 隆夫(たかお)は、ぞおーッとした。
 急にはげしい悪寒(おかん)に襲(おそ)われ、気持がへんになった。目の前に、あやしい人影をみとめながら、声をかけようとして声が出ない。脳貧血(のうひんけつ)の一歩手前にいるようでもある。
(しっかりしなくては、いけないぞ!)
 隆夫は、自分の心を激励(げきれい)した。
「気をおちつけなさい。さわぐといけない。せっかくの相談ができなくなる」
 低いが、落ちつきはらった声で、一語一語をはっきりいって、隆夫の方へ近づいて来た影のような人物。ことばははっきりしているが、顔や姿は、風呂屋の煙突(えんとつ)から出ている煙のようにうすい。彼の身体を透してうしろの壁にはってあるカレンダーや世界地図が見える。
(幽霊というのは、これかしらん)
 もうろうたる意識の中で、隆夫はそんなことを考える。
「ほう。だいぶん落ちついてきたようだ。えらいぞ、隆夫君」
 あやしい姿は、隆夫をほめた。
「君は何物だ。ぼくの実験室へ、無断(むだん)ではいって来たりして……」
 このとき隆夫は、はじめて口がきけるようになった。
「僕のことかい。僕は大した者ではない。単に一箇の霊魂(れいこん)に過ぎん」
「れ、い、こ、ん?」
「れいこん、すなわち魂(たましい)だ」
「えッ、たましいの霊魂(れいこん)か。それは本当のことか」
 隆夫はたいへんおどろいた。霊魂を見たのは、これが始めてであったから。
「僕は霊魂第十号と名乗っておく。いいかね。おぼえていてくれたまえ」
「霊魂の第十号か第十一号か知らないが、なぜ今夜、ぼくの実験室へやって来たのか」
 隆夫は、まだ気分がすぐれなかった。猛烈に徹夜の試験勉強をした上でマラソン二十キロぐらいやったあとのような複雑な疲労を背負っていた。
「君が呼んだから来たのだ。今夜が始めてではない。これで二度目か三度目だ」
 あやしい影は、意外なことをいった。
「冗談をいうのはよしたまえ。ぼくは一度だって君をここへ呼んだおぼえはない」
「まあ、いいよ、そのことは……。いずれあとで君にもはっきり分ることなんだから。それよりも早速(さっそく)君に相談があるんだ。君は僕の希望をかなえてくれることを望む」
 霊魂第十号ははじめから抱いていた用件を、いよいよ切り出した。
「話によっては、ぼくも君に協力してあげないこともないが、しかしとにかく、君の礼儀を失した図々(ずうずう)しいやり方には好意がもてないよ」
「うん。それは僕がわるかった。大いに謝る。そして後で、いくらでも君につぐないをする、許してくれたまえ」
 第十号は、急に態度をかえて、隆夫の前に謝罪(しゃざい)した。
「……で、どんな相談なの」
「それは……」霊魂第十号は、彼らしくもなく口ごもった。
「いいにくいことなのかね」
「いや、どうしても、今、いってしまわねばならない。隆夫君、僕は君に、しばらく霊魂だけの生活を経験してもらいたいんだ。承知してくれるだろうね」
「なに、ぼくが霊魂だけの生活をするって、どんなことをするのかね」
「つまり、君は今、肉体と霊魂との両方を持っている。それでだ、僕の希望をききいれて、君の霊魂が、君の肉体から抜けだしてもらえばいいんだ。それも永い間のことではない。三カ月か四カ月、うんと永くてせいぜい半年もそうしていてもらえばいいんだ。なんとやさしいことではないか」
 あやしい影は、隆夫が目を白黒するのもかまわず、奇抜(きばつ)な相談をぶっつけた。
「だめだ。第一、ぼくの霊魂をぼくの肉体から抜けといっても、ぼくにはそんなむずかしいことはできない。それにぼくは現在ちゃんと生きているんだから、霊魂が肉体をはなれることは不可能だ」
「ところが、そうでなく、それが可能なんだ。そして又、君の霊魂に抜けてもらう作業については、すこしも君をわずらわさないでいいんだ。僕がすべて引き受ける。君はただそれを承知しさえすればいいんだ。めったにないふしぎな経験だから、後で君はきっと僕に感謝してくれることと思う。承知してくれるね」
 隆夫はこの話に心を動かさないわけでもなかった。しかし、不安の方が何倍も大きかった。もっと相手が、自分に十分の安心をあたえるように説明してくれたら、一カ月やそこいらなら霊魂だけでとびまわってみるのもおもしろかろうと思った。
 が、そのときだった。隆夫は急に胸苦(むなぐる)しさをおぼえた。はっとおどろくと、あやしい影が隆夫のくびをしめつけているではないか。
「なにをする。ぼくはまだ承諾(しょうだく)していないぞ。それはともかく、人殺(ひとごろ)しみたいに、ぼくのくびをしめるとはなにごとだ」
 隆夫は苦しい息の下から、あえぎあえぎ、相手をののしった。
「はははは。はははは」
 相手は、ほがらかに笑いつづける。隆夫は腹が立ってならなかった。しかし自分の意識が刻々うすれていくのに気がつき恐慌(きょこう)した。
「はははは。もうすこしの辛棒(しんぼう)だ」
「なにを。この野郎」
 隆夫は、残っているかぎりの力を拳(こぶし)にあつめ、のしかかってくる相手の上に猛烈なる一撃を加えた――と思った。果して加え得たかどうか、彼には分らなかった。彼は昏倒(こんとう)した。


   早朝の訪問者


 その翌朝(よくあさ)のことであった。
 三木健が、自分の家の玄関脇の勉強室で、朝勉強をやっていると、玄関に訪(と)う人の声があった。
 三木はすぐ玄関へ出て扉をあけた。
「お早ようございます。名津子さんの御容態(ごようだい)[#ルビの「ごようだい」は底本では「ごようたい」]はいかがですか。お見舞にあがりました」
「はッはッはッ。よしてくれよ、そんな大時代な芝居がかりは……」
 三木は腹を抱えて笑った。
 というわけは、玄関の扉をあけてみると、そこに立っているのは余人にあらず、仲よし友達のひとりである一畑隆夫(いちはたたかお)であったから。その隆夫が、なんだって朝っぱらからやってきて、この鹿爪(しかつめ)らしい口のききかたをするのか、それは隆夫が三木をからかっているのだとしか考えられなかった。
「これはこれは健君。失敬をした。許してくれたまえ。姉さんに会いたいんだがね、よろしくたのむ」
 隆夫は、三木が笑ったときに、どういうわけかあわてて逃げ腰になった。が、すぐ立ち直って、このように応対(おうたい)をした。
 三木は、べつに隆夫のことを何とも思っていなかった。
「うん。それじゃ今母に知らせてくるからね。ちょっと待っていてくれ」
「いや、待てない。すぐ会いたい」
 隆夫はひどく急いでいる。三木は、隆夫のおしの強いのに、すこし気をわるくした。だが大したことではないと、三木はすぐ自分の気持を直した。
「でも、病人だからね、様子を見た上でないと、かえって病気にさわると悪いから」
「じゃあ早くしてくれたまえ」
「よしよし」
 三木は母親のところへとんでいって、今、隆夫君が来てこうこうだと話した。母親は、昨夜親切に隆夫たちが来て、器械を使って調べていってくれたことをたいへん感謝していて、それでは病人の様子を見ましょうとて、病室にはいった。
 名津子は、血の気のない顔で、髪を乱したまま、すやすやと睡っていた。
 そこで母親は三木のところへ戻って来て、今病人は疲れ切ってすやすや睡っているから、目がさめるまで、しばらくの間、隆夫さんに待っていてもらうようにといった。
 三木は、そのことを隆夫のところへ来て話した。
 すると隆夫は、大いに不満の顔つきになって、
「君たちは、ぼくを名津子さんに会わせまいとするんだな。けしからんことだ」
 と、意外にきついことばをはいた。
 これには三木もあきれてしまった。そんなことがあろうはずはない。隆夫はなにをかんちがいしているのであろうかと、三木はそれからいくどもくりかえして、昨夜(さくや)姉があばれたり泣いたり、叫んだりして、ほとんど一睡もしなかったことを語り、
「………だから、今疲れ切ってすやすや睡っているんだ。できるだけゆっくりねかしておきたい、でないと、姉は衰弱がひどくて、重態(じゅうたい)に陥(おちい)る危険があるのだ」
 というと、隆夫は、なるほど、そうかそうかと合点して、ややおとなしくなった。しかし名津子の目がさめたら、すぐ自分のところへ知らせること、そしてすぐ自分を病室へつれていって名津子にあわせることを、くどくどとのべて、三木に約束させた。
 三木は、このときになって、拭(ぬぐ)い切(き)れない疑問を持つに至った。
(どうも隆夫君の様子がへんだぞ。なぜ今日になって、姉に会いたがるのか、さっぱりわけが分らない。昨夜の実験の結果、急に姉に会う必要が生じたのかしら。それならそれといいそうなものだが……。なんだか隆夫君までおかしくなって来た)
 隆夫は、三木の勉強部屋へ通された。
 しかし彼は三木に向きあったまま、急に無口(むくち)になってしまった。なにかしきりに考えこんでいるようである。ふだんの明るい隆夫の調子は見られない。
 そこで三木は、話しかけた。
「昨夜、電波収録装置(でんぱしゅうろくそうち)に取っていった、あれはどうしたね。結果は分ったかい」
「あれか。あれはよく取れていたよ」
「そうか。するとあれを使って、これからどうするのか」
「どうするって。さあ……」隆夫は困った顔になった。
「どうするって、とにかくあれは参考になるね」
「君は、もしあの中に、電波が収録されていたら大発見だ。そしてそうであれば姉の病気についても、新しい電波治療が行えることになろうといっていたが、それはどうだね」
 隆夫はなぜか狼狽(ろうばい)の色を見せ、
「いや、そんなことはでたらめだ。病人を電波の力で癒(なお)すなんて、そんなことは出来るものではない」
「おかしいね。さっき君のいったことともくいちがっているし、君が日頃語っていたところともちがう。いったいどれが本当なんだ」
「断(だん)じて、僕はいう。君の姉さんの病気はきっと僕がなおして見せる。そのかわり、昨日僕がいったことは、一時忘れていてくれたまえ。今日から僕は、新しい方法によって、名津子さんの病気を完全になおしてみせる。もし不成功に終ったら、僕はこの首を切って、君に進呈(しんてい)するよ」
 そういって隆夫は、自分のくびを叩いた。ひどく昂奮(こうふん)している様子だった。
 そのとき母親がはいってきて、名津子が目がさめたようですから、と隆夫たちを迎えに来た。
 昨日にかわり隆夫の様子がちがっているのは、どうしたことであろうか。


   ここは何処(どこ)


 ここまで書いてくると、賢明なる読者は、怪しい隆夫のふるまいのうしろに何が有るかを、もはや察せられたことであろう。
 そのとおりである。
 名津子を見舞に来た隆夫は、その肉体はたしかに隆夫にちがいないが、その肉体を支配している霊魂(れいこん)は、隆夫の霊魂ではないのだ。それは例の霊魂第十号なのである。
 前夜隆夫は、とつぜん霊魂第十号の訪問をうけ、そして肉体を半年ほど借りたいから承知をしろと申入れられた。隆夫は、それをことわった。すると隆夫は、とつぜん首をしめられ、人事不省(じんじふせい)に陥ったのだ。
 その直後、どういう手段によったものか分らないが、隆夫の肉体から隆夫の霊魂が追い出され、それにかわって霊魂第十号がはいりこんだのである。まさにこれはギャング的霊魂だといわなくてはならない。
 とにかくこんなわけだから、翌日隆夫が三木家をたずねたとき、とんちんかんのことばかりいい、家人から不審(ふしん)をかけられたのだ。つまり第十号としては、隆夫の霊魂に入れ替(かわ)ったものの、すべて隆夫のとおりをまねることはできなかったし、また隆夫の記憶や思想をうまく取り入れることは一層むずかしかった。
 だが、第十号としては、すこしぐらい人々から怪しまれることは、がまんするつもりだった。それよりも、彼がねらっていることは、名津子に近づくことだった。名津子の霊魂にぴったり寄りそっていたいばかりに、彼はこの思い切った行動を起したのだ。しかしながら、彼の筋書(すじがき)どおりに、万事がうまくいくかどうか、それはまだ分らない。
 それはそれとして、一方、霊魂第十号のために肉体から追い出された隆夫の霊魂は、一体どうなったのであろうか。
 彼の霊魂は、肉体と同じに、一時もうろう状態に陥っていた。いや、時間的にいえば、肉体の場合よりもはるかに永い間にわたってもうろう状態をつづけていた。第十号が、彼の肉体にはいりこんで、三木健の家を訪問してぺちゃくちゃしゃべっているときにも、隆夫の霊魂は、まだもうろうとして、はてしなき空間をふわついていた。
 彼のたましいが、われにかえったのは、それから十四日ののちのことだった。
 たましいが、われにかえるというのは、おかしないい方であるが、肉体の中にはいっているときでも、たましいというやつは、よく死んだようになったり、生きかえったりするものである。ねむりと目ざめ。不安におちいることと大自信にもえること。人事不省と覚醒(かくせい)。酔(よ)っぱらいと酔いざめ。そのほか、いろいろとあるが、このようにたましいというやつは、いつも敏感(びんかん)で、おどおどしており、そして自分からでも、また他からの刺戟(しげき)によっても、すぐ簡単に状態を変える。
 とにかく、彼のたましいがわれにかえったとき、「おやおや」と起きあがってあたりを見まわすと、見なれないところへ来ていることが分った。
 そこは、枯草(かれくさ)がうず高くつんであるすばらしく暖かな日なただった。ゆらゆらと、かげろうが燃え立っていた。その中に、隆夫の霊魂は立っているのだった。彼の霊魂も、かげろうと同じように、ゆらゆら動いているような気がした。
 前方を見ると、美しい大根畑が遠くまでひろがっていた。まるでゴッホの絵のようであった。
 うしろの方で、モーという牛の声がした。うしろには小屋が並んでいた。そのどれかが牛小屋になっているらしい。
 かたかたかたと、いやに機械的なひびきが聞えてきた。ずっと西の方にあたる。その方へ隆夫の霊魂はのびあがった。トラクターが動いているのだった。土地を耕(たがや)している。それは遥(はる)かな遠方だった。
「広いところだなあ。一体ここはどこかしらん」
 すると、彼の前へ、とつぜんパイプをくわえ、肩に鍬(くわ)をかついだ農夫が姿をあらわした。そして農夫の顔を見たとき、隆夫のたましいは、あっとおどろいた。
「ややッ、ここは日本じゃないらしい」
 農夫は白人(はくじん)だった。
 白人の農夫がいるところは、日本にはない。しばらくすると、小屋のうしろから、若い女の笑い声が聞えて、隆夫のたましいの前へとび出して来たのは、三人の、目の青い、そして金髪(きんぱつ)やブロンドの娘たちだった。
「たしかにここは日本ではない。外国だ。どうして外国へなど来てしまったんだろう」
 そのわけは分らなかった。
 隆夫のたましいは、農夫たちの会話を聞いて、それによってここがどこであるかを知ろうとつとめた。彼らの話しているのは、外国語であった。それはドイツ語でもなく、スラブ語でもなかったが、それにどこか似ていた。ことばとしては、隆夫はそれを解釈(かいしゃく)する知識がなかったけれど、幸いというか、隆夫は今たましいの状態にいるので、彼ら異国人の話すことばの意味だけは分った。
 そして、ついにこの場所がどこであるかという見当がついてきた。それによると、ここはバルカン半島のどこかで、そして割合にイタリアに近いところのように思われる。ユーゴスラビア国ではないかしらん。もしそうなら、アドリア海をへだててイタリアの東岸(とうがん)に向きあっているはずだった。
 どうしてこんなところへ来てしまったんだろう。


   霊魂(れいこん)の旅行


 だんだん日がたつにつれ、隆夫のたましいは、たましい慣(な)れがしてきた。はじめは、どうなることかと思ったが、たましいだけで暮していると、案外気楽なものであった。第一食事をする必要もないし、交通禍(こうつうか)を心配しないで思うところへとんで行けるし、寒さ暑さのことで衣服の厚さを加減(かげん)しなくてもよかった。そして、睡りたいときに睡り、聞きたいときに人の話を聞き、うまそうな料理や、かわいい女の子が見つかれば、誰に追いたてられることもなく、いく時間でもそのそばにへばりついていられた。もっとも、そのうまそうな御馳走を味わうことは、たましいには出来なかったが……。
 そういうわけで、隆夫のたましいは、一時東京の家のことや母親のことや、それから友だちのことなどもすっかり忘れて、気軽なたましいの生活をたのしんでいた。
 いつも寝起きしていた枯草の山が、トラックの上へ移しのせられ、どこかへはこばれていく。それを見た隆夫のたましいは、いっしょにそのトラックに乗って行ってみようと思った。
 その日は、天気が下り坂になって来て風さえ出て来たので、農夫たちは急いで枯草(かれくさ)を車へのせ、その上をロープでしっかりしばりつけた。それから荷主の農夫が、パイプをくわえたまま、トラックの運転手にいった。
「とにかくカッタロの町へはいったら、海岸通(かいがんどおり)のヘクタ貿易商会(ぼうえきしょうかい)はどこだと聞けば、すぐに道を教えてくれるからね」
「あいよ。うまくやってくるよ」
 トラックは走りだした。
 隆夫のたましいは、枯草の中へ深くもぐりこんで、しばらく睡ることにした。車が停ったら、起きて出ればよいのだ。そのときはカッタロの町とかへ、ついているはずだ。
 たましいは、ぐっすり寝こんだ。
 運転手の大きな声で、目がさめた。枯草をかきわけて出てみると、なるほど町へついていた。古風(こふう)な町である。が、町の向うに青い海が見える。港町だ。
 港内には、大小の汽船が七八隻(そう)碇泊(ていはく)している。西日が、汽船の白い腹へ、かんかんとあたっている。
 トラックが、また走りだした。
 港の方を向いて走る。隆夫のたましいは、車上からこの町をめずらしく、おもしろく見物した。革命と戦火にたびたび荒されたはずのこの港町は、どういうわけか、どこにも被害のあとが見られなかった。そしてどこか東洋人に似た顔だちを持った市民たちは、天国に住んでいるように晴れやかに哄笑(こうしょう)し微笑し空をあおぎ手をふって合図をしていた。婦人たちの服装も、赤や緑や黄のあざやかな色の布(ぬの)や毛糸を身につけて、お祭の日のように見えた。
 そのうちにトラックは、海岸通へ走りこんで、ヘクタ貿易商会の前に停った。枯草は、この商会が買い取るらしい。そのような取引を、隆夫のたましいは見守っていたくはなかった。彼は、今しも岸壁(がんぺき)をはなれて出港するらしい一隻の汽船に、気をひかれた。
 彼は燕(つばめ)のように飛んで、その汽船のマストの上にとびついた。ゼリア号というのが、この汽船の名だった。五百トンもない小貨物船であった。
 それでも岸壁には、手をこっちへ振っている見送り人があった。船員たちが、ハンドレールにつかまって、帽子をふって、岸壁へこたえている。煙突(えんとつ)のかげからコックが顔を出して、ハンカチをふっている。隆夫のたましいが、つかまっているマストの綱(つな)ばしごにも、二三人の水夫がのぼって、帽子を丸くふっていた。かもめでもあろうか、白い鳥がしきりに飛び交っている。その仲間の中には、隆夫のたましいのそばまで飛んできて、つきあたりそうになるのもいた。
「港外まで出ないと、ごちそうを捨ててくれないよ」
「早く捨ててくれるといいなあ。ぼくは腹がへっているんだ」
 かもめは、そんなことをいいながら、この汽船が海へ捨てるはずの調理室(ちょうりしつ)の残りかすを待ちこがれていた。
 隆夫のたましいは、久しぶりにひろびろとした海を見、潮(しお)のにおいをかいで、すっかりうれしくなり、いつまでも眺めていた。白い航跡(こうせき)が消えて、元のウルトラマリン色の青い海にかえるところあたりに、執念(しゅうねん)ぶかくついてきた白いかもめが五六羽、しきりに円を描いては、漂流(ひょうりゅう)するごちそうめがけて、まい下りるのが見られた。
 船の舳(とも)が向いている方に、ぼんやりと雲か島か分らないものが見えていたが、それは陸地だと分った。左右にずっとのびている。そうだ、あれだ、イタリア半島なのだ。するとこの船はイタリア半島のどこかの港にはいるのにちがいない。一体どこにつくのだろうか。
 隆夫のたましいは、もうすっかり大胆(だいたん)になっていたので、マストをはなれて下におりてきた。
 そして船橋(せんきょう)へとびこんだ。そこには船長と運転士と操舵手(そうだしゅ)の三人がいたが、誰も隆夫のたましいがそこにはいってきたことに気のつく者はいなかった。
 その運転士が、航海日記をひろげて、何か書きこんでいるので、そばへ行って見た。その結果、この汽船は、対岸(たいがん)のバリ港へ入るのだと分った。
 やがてバリ港が見えてきた。
 小さな新興(しんこう)の港だ。カッタロ港とは全然おもむきのちがった港だった。そのかわり、町をうずめている家々は、見るからに安普請(やすぶしん)のものばかりであった。戦乱(せんらん)の途中で、ここを港にする必要が出来て、こんなものが出来上ったらしい。殺風景で、いい感じはしなかった。
 入港がまだ終らないうちに、隆夫のたましいは汽船ゼリア号に訣別(けつべつ)をし、風のように海の上をとび越えて、海岸へ下りた。
 不潔きわまる場所だった。見すぼらしい人たちが、蝿(はえ)の群のように倉庫の日なたの側に集っている。隆夫のたましいは、ぺッと唾(つば)をはきたいくらいだったが、それをがまんして、ともかくも彼らの様子をよく拝見するために、その方へ近づいていった。
 一人の男が、ぼろを頭の上からまとって棕梠(しゅろ)の木にもたれて、ふところの奥の方をぼりぼりかいていた。隆夫のたましいは、その男の顔を見たとき、
「おやッ」
 と思った。どこかで見た顔であった。


   大奇遇(だいきぐう)


 隆夫(たかお)のたましいは、そのあわれな人物の顔を、何回となく近よって、穴のあくほど見つめた、彼は、そのたびにわくわくした。
「どうしても、そうにちがいない。この人はぼくのお父さんにちがいない」
 隆夫の父親である一畑治明博士(いちはたはるあきはかせ)は、永く欧洲に滞在して、研究をつづけていたが、今から四、五年前に消息をたち、生きているとも死んだとも分らなかった。が、多分あのはげしい戦禍(せんか)の渦の中にまきこまれて、爆死(ばくし)したのであろうと思われていた。その方面からの送還(そうかん)や引揚者の話を聞き歩いた結果、最後に博士を見た人のいうには、博士は突然スイスに姿をあらわし、一週間ばかり居たのち、危険だからスエーデンへ渡るとその人に語ったそうで、それから後、再び博士には会わなかったという。
 では、スエーデンへうまく渡れたのであろうか。その方面を聞いてもらったが、そういう人物は入国していないし、陸路はもちろん、空路によってもスイスからスエーデンへ入ることは絶対にできない情勢にあったことが判明した。
 そこで、博士はスイス脱出後、どこかで戦禍を受け、爆死でもしたのではなかろうかという推定が下されたのであった。
 ところが今、隆夫のたましいを面くらわせたものは、イタリアのバリ港の海岸通の棕梠(しゅろ)の木にもたれている男の顔が、なんと彼の父親治明博士に非常によく似ていることであった。
「お父さん。お父さん。ぼく隆夫です」
 と、隆夫のたましいは呼びかけた。くりかえし呼びかけた。
 だが、相手は知らぬ顔をしていた。顔の筋一つ動かさなかった。
 隆夫のたましいは失望した。
「すると、人ちがいなのだろうか」
 すっかり悲観したが、なお、あきらめかねて隆夫のたましいは男の上をぐるぐるとびながら、彼のすることを見守っていた。
 男は、木乃伊(ミイラ)のように動かなかった。棕梠の木に背中をもたせかけたままであった。ところが一時間ばかりした後、その男はすこし動いた。彼は座り直した。片坐禅(かたざぜん)のように、片足を手でもちあげて、もう一方の脚の上に組んだ。それから両手を軽く握り目をうすく開いて、姿勢を正した。彼はたしかに無念無想の境地(きょうち)にはいろうとしているのが分った。隆夫のたましいは、これはなにか変ったことが起るのではないかと思い、ふわふわとびまわりながら、いっそう相手に注意をはらっていた。
 すると、その男の頭のてっぺんのすぐ上に、ぼーッとうす赤い光の輪が見えだした。ふしぎなことである。隆夫のたましいは、まわるのをやめて、それを注視(ちゅうし)した。
 ふしぎなことは、つづいた。こんどは男の上半身の影が二重になったと見えたが、その一つが動き出して、ふわりと上に浮いた。それはシャボン玉を夕暗(ゆうやみ)の中にすかしてみたように、全体がすきとおり、そして輪廓(りんかく)だけがやっと見えるか見えないかのものであり、形は海坊主(うみぼうず)のように、丸味をおびて凸凹(でこぼこ)した頭部(とうぶ)とおぼしきものと、両肩に相当する部分があり、それから下はだらりとして長く裾(すそ)をひいていた。また、頭部には二つ並んだ目のようなものがあって、それが別々になって、よく動いた。しかしその目のようなものは、卵をたてに立てたような形をし、そしてねずみ色だった。
「おお、隆夫か。どうしたんだ、お前は」
 と、そのあやしい海坊主はいって、隆夫のたましいの方へ、ゆらゆらと寄ってきた。
「あ、やっぱり、お父さんでしたか」
 隆夫のたましいは、海坊主みたいなものが、父親治明博士のたましいであることに気がついた。
 ああ、なんというふしぎなめぐりあいであろう。祖国を遠くはなれたこのアドリア海の小さい港町で、父と子が、こんな霊的(れいてき)なめぐりあいをするとは、これが宿命(しゅくめい)の一頁で、すでにきまっていたこととはいえ、奇遇中(きぐうちゅう)の奇遇といわなくてはなるまい。
「お父さん。よく生きていて下さいました。親類でもお父さんのお友だちも、ほとんど絶望して、お父さんはもう生きてはいないだろうと噂しているんですよ。よく生きていて下すったですね」
 隆夫のたましいは、うれしさいっぱいで、父親のたましいにすがりついた。
「うん、みんなが心配しているだろうと思った。しかし知らせる方法もなかった。それにわしとしても、明日生命を失うか、あるいは一時間後、十分後に生命を失うかも知れず、おそろしい危険の連続だった。いや、今も安心はしていられないのだ。それはいいが、お前はどうしたんだ。さっきから、いぶかしく思っているんだが、お前の肉体はどこにあるんだ」
 父親は、心配の様子。
 慈愛(じあい)ふかい父親の心にふれると、隆夫のたましいは、悲しさの底にしずんで、
「お父さん。聞いて下さい。こうなんです」
 と、これまでに起ったことを、父親に伝えたのであった。


   霊魂(れいこん)の研究者


 すべての事情を、隆夫のたましいから聞きとった父親治明博士のたましいは、大きなおどろきの様子を示した。
「それは、実におそるべき相手だ。そういうひどいことをする霊魂は、尋常一様(じんじょういちよう)のものではないよ。たいへんな力を持っている奴だ。これはかんたんには行かないぞ。いったい何者だろう」
 父親のおどろきが、意外に大きいので、こんどは隆夫の方でおどろいてしまった。しかしこのとき隆夫は、父親のおどろきとなった素因(そいん)のすべてを知っているわけではなかった、披は、まだ霊魂界のことについては、ほんのわずかのことしか知らないのであった。
「お父さん。そんなに、あの霊魂は、おそるべき奴ですか。ぼくには、何もかも、さっぱり分らないのです。いったい、霊魂というものが出たり、はいったりするのは、どういう法則に従うものでしょうか。いや、それよりも、ぼくは霊などというものが、ほんとにあることを、こんどはじめて知ったのです。お父さんは、それについて、くわしく知っているようですね」
 隆夫のたましいは、次から次へとわきあがる疑問やおどろきを、父親の前にならべたてた。
「霊魂の学問は、なかなか手がこんでいるんだ。つまり複雑なのだ。古い時代にいいだされたでたらめの霊魂説から始まって、最新の霊魂科学に至るまで、実に多数の霊魂説があるのだよ。わしは、お前も知っているとおり、生化学(せいかがく)と物質構造論(ぶっしつこうぞうろん)などの方からはいりこんで、新しい霊魂科学の発見に努力して来た。その結果、わしは、霊魂なるものは、たしかに存在することを証明することができた。そればかりでなく、こうして実際に霊魂を活動させることにも成功した。そこでわしは、さらに深く霊魂科学の研究をしようと今も努力しているわけだが、残念なことに戦火に追われて、研究室をうしない、それからさすらいの旅がはじまり、いろいろな困難や災害にあって、こんなひどい姿で食(く)うや食わずの生活をつづけている始末だ。ああ、わしは、早く落ちついた研究室にはいりたい。むしろこの際、日本へ帰るのが、その早道だとも思い、こうして機会を待っているわけなんだ」
 父親治明博士のたましいは、これまでの経過をかいつまんで話した。
「普通に、たましいというとね、肉体にぴったりついているものだが、ある場合には、肉体をはなれることもあるんだ。肉体のないたましいというものも、実際はたくさんごろごろしている。そういうたましいが、肉体を持っている別のたましいに、とりつくことがよく起る。お前がさっき、わしに話をして聞かせた名津子(なつこ)さんの場合なんか、それにちがいない。つまり、名津子さんの肉体といっしょに居る名津子さんのたましいの上に、あやしい女のたましいが馬乗りにのっているんだと考えていい。二つのたましいは、同じ肉体の中で、たえず格闘(かくとう)をつづけているんだ。だから名津子さんが、たえず苦しみ、好きなことを口走るわけだ」
「なるほど、そうですかね」
「名津子さんの場合は、普通よくあるやつだ。しかしお前の場合は、非常にかわっている。お前を襲撃(しゅうげき)した男のたましいは、お前の肉体からお前のたましいを完全に追い出したのだ。そういうことは、普通、できることではないのだ。だから、さっきもいったように、その男のたましいなるものは、非常にすごい奴にちがいない。いったい、何奴(なにやつ)だろう」
 治明博士は、再びおどろきの色をみせて、そういった。
 隆夫のたましいは、父親のいうことを聞いていて、なんだか少しずつわけが分ってくるように思った。と同時に、また別のいろいろの疑問がわいてきた。ことに、彼が信用しかねたものは、たましいの姿のことであった。目の前に見る父親のたましいは、海坊主が白いきれを頭からかぶって、それに二つの目をつけたような姿をしている。ところが、隆夫の実験小屋へはいって来て、彼のたましいを追い出し、彼の肉体を奪(うば)った怪物は、ちゃんと男の姿をしていた。同じたましいでありながら、なぜこのように、姿がちがうのであろうか。この疑問を、父親にただしたところ、父親のたましいは、次のように答えた。
「たましいというものはね。たましいの力次第(しだい)で、いろいろな形になることが出来る。実は、本当は、たましいには形がないものだ。まるで透明なガス体か、電波のように。が、しかし、たましいには個性(こせい)があるので、なにか一つの姿に、自分をまとめあげたくなるものだよ。これはなかなかむずかしい問題で、お前にはよく分らないかも知れないが、お前は、自分で知っているかどうかしらんが、お前はおたまじゃくしのような姿をしているよ。つまり日本の昔の絵草紙(えぞうし)なんかに出ていた人間と同じような姿なんだ。これはお前が、たましいとは、そんな形のものだと前から思っていたので、今はそういう形にまとまっているのだ」
「へえーッ、そうですかね」
 と、隆夫は、はじめて自分のたましいの姿がどんな恰好(かっこう)のものであるかを知って、おどろき、且(か)つあきれた。
「それはいいとして、お前の肉体を奪った悪霊(あくれい)を、早く何とか片づけないといけない」
 父親治明博士は苦しそうに喘(あえ)いだ。


   城壁(じょうへき)の聖者(せいじゃ)


 その夜、するどくとがった新月(しんげつ)が、西空にかかっていた。
 ここはバリ港から奥地へ十マイルほどいったセラネ山頂にあるアクチニオ宮殿の廃墟(はいきょ)であった。そこには山を切り開いて盆地(ぼんち)が作られ、そこに巨大なる大理石材(だいりせきざい)を使って建てた大宮殿(だいきゅうでん)があったが、今から二千年ほど前に戦火に焼かれ、砕かれ、そのあとに永い星霜(せいそう)が流れ、自然の力によってすさまじい風化作用(ふうかさよう)が加わり、現在は昼間でもこの廃墟に立てば身ぶるいが出るという荒れかたであった。
 しかも今宵(こよい)は新月がのぼった夜のこととて、崩(くず)れた土台やむなしく空を支(ささ)えている一本の太い柱や首も手もない神像(しんぞう)が、冷たく日光を反射しながら、聞えぬ声をふりしぼって泣いているように見えた。
 一ぴきの狼が突如として正面に現われ、うしろを振返ったと思うと、さっと城壁のかげにとびこみ、姿を消した。いや、狼ではなく、飢えたる野良犬(のらいぬ)であったかも知れない。その犬とも狼ともつかないものが振返った方角から、ぼろを頭の上からかぶった男がひとり、散乱(さんらん)した円柱や瓦礫(かわら)の間を縫って、杖をたよりにとぼとぼと近づいてきた。
 彼は、たえず小さい声で、ぼそぼそと呟(つぶや)いていた。
「……しっかり、ついてくるんだよ、わしを見失っては、だめだよ。……もうすぐそこなんだ。多分見つかると思うよ。アクチニオ四十五世さ。新月の夜にかぎって、廃墟の宮殿の大広間に、一統と信者たちを従えて現われ、おごそかな祈りの儀式を新月にささげるのだよ。……隆夫、わしについてきているのだろうね。……そうか。おお、よしよし。もうすこしの辛抱だ。わしはきっとアクチニオ四十五世を探し出さにゃおかない」
 と男は、杖をからんからんとならしながら、空に向って話しかける。
 彼こそ、隆夫の父親の治明博士であったことはいうまでもない。彼は、奇(く)しきめぐりあいをとげた愛息(あいそく)隆夫のうつろな霊魂をみちびきながら、ようやくこれまで登ってきたのである。
 隆夫のたましいは、どこにいる?
 彼の姿も形も、まるでくらげを水中にすかして見たようで、はっきりしないが、治明博士の頭上、ややおくれ勝ちに、丸味をもった煙のようなものがふわふわとついて来るのが、それらしい。
 博士は、杖を鳴らしながら、廃墟(はいきょ)の中を歩きまわった。大円柱が今にもぐらッと倒れて来そうであった。宙にかかったアーチが、今にも頭の上からがらがらどッと崩(くず)れ落ちて来そうであった。博士は、そういう危険をものともせず、土台石の山を登り、わずかの間隙(かんげき)をすりぬけて、アクチニオ四十五世たちの祈祷場(きとうじょう)をなおも探しまわった。どこもここも墓場(はかば)のようにしずかで、祈りの声も聞えなければ、人の姿も見えなかった。
 博士は、泣きたくなる心をおさえつけながらもよろめく足を踏みしめて、なおも廃墟の部屋部屋をたずねてまわるのだった。
「あ、あそこだ!」
 とつぜん博士は身体をしゃちこばらせた。博士は目をあげて見た。そこは西に面した高い城壁の上であったが、あわい月光の下、人影とおぼしきものが数十体、まるで将棋(しょうぎ)の駒(こま)をおいたように並んでいるのであった。
 だが、誰一人として動かない。何の声も聞えて来ない。明かり一つ見えない。
 それでも、それがアクチニオ四十五世の一団(いちだん)であることを認めた。博士は急に元気づき、その方へ足を早めていった。博士は、間もなく高い壁に行方を阻(はば)まれた。が博士は、すこしもひるむことなく、城壁(じょうへき)の崩れかけた斜面(しゃめん)に足をかけ手をおいて、登りだした。
 時間は分らないが、やっと博士は城壁を登り切った。二時間かかったようでもあり、三十分しかかからなかったようでもあった。
「ああ……」
 博士は眼前(がんぜん)にひらける厳粛(げんしゅく)なる光景にうたれて、足がすくんだ。
 城壁の上の広場に、約四五十人の人々が、しずかに月に向って、無言(むごん)の祈(いのり)をささげている。一段高い壇(だん)の上に、新月を頭上に架(か)けたように仰いで、ただひとり祈る白衣(はくい)の人物こそ、アクチニオ四十五世にちがいなかった。
 博士は、すぐにも聖者(せいじゃ)の足許(あしもと)に駆(か)けよって、彼の願い事を訴えるつもりであったが、それは出来なかった。足がすくみ、目がくらみ、動悸(どうき)が高鳴って、博士はもう一歩も前進をすることが出来なかったのである。
 博士は石床(いしどこ)の上にかけて、化石(かせき)になったように動かなかった。それから幾時間も動くこともできず、博士はそのままの形でいた。博士は気を失っていたのでも、睡っていたのでもない。博士はその間その姿勢ではとても見ることのできないはずの、聖なる新月の神々(こうごう)しい姿を心眼の中にとらえて、しっかりと拝(おが)んでいたのだ。
 風が土砂(どしゃ)をふきとばし、博士の襟元(えりもと)にざらざらとはいって来た。どこかで鉦(しょう)の音がするようだ。
「顔をあげたがよい」
 さわやかな声が、博士の前にひびいた。
 はっと、博士は顔をあげた。
「あ、あなたはアクチニオ四十五世!」


   ロザレの遺骸(いがい)


 いつの間にか、聖者(せいじゃ)は博士の前に近く立っていた。ふしぎである。博士は、自分の現在の居場所を知るために、あたりに目を走らせた。依然(いぜん)として、同じ城壁の上に居るのであった。だが、アクチニオ四十五世のうしろに並んで新月(しんげつ)を拝んでいた同形(どうけい)の修行者たちはただの一人も見えなかった。残っているのは、聖者ただひとりであった。
「ああ、聖者……」
「分っている。わしについて来(きた)れ」
 聖者は博士の願いについて一言も聞かず、自分のうしろに従(したが)い来れといったのだ。博士は、奇蹟に目をみはりながら、石床(いしどこ)をけって立った。聖者は気高く後姿を見せて、しずかに歩む。博士はその姿を見失うまいとして、後を追っていった。そのとき気がついたことは、新月は既に西の地平線に落ちて、あたりは濃い闇の中にあったことである。しかもふしぎに、聖者の後姿と、通り路とは、はっきり博士の目に見えているのだった。
 博士は聖者アクチニオ四十五世について城壁の上をずんずんと歩いていくうちに、いつしかトンネルの中にはいっているのに気がついた。うす暗い、そして奥が知れない、気味のわるいトンネルであった。トンネルの道は、自然に下り坂になって、今歩いているところは既に地下へもぐってしまったらしく、ぷーンとかびくさい。
 どこからともなく、黄いろのうす明りがさし、トンネルの中の有様を見せてくれる。トンネル内は、通路が主であるが、ところどころそれが左右へひろげられて大小の部屋になっていた。そしてその部屋には、土や石で築(きず)いた寝台のようなものがあり、壁にはさまざまの浮(う)き彫(ぼ)りで、絵画や模様らしきものや不可解(ふかかい)な古代文字のようなものが刻(きざ)まれてあった。
 聖者はずんずんと奥へはいっていったが、そのうちに、一つの大きな丸い部屋のまん中に見えているりっぱな大理石の階段を下りていった。博士も、もちろんあとに従った。
「あ……」
 博士は、階段を途中まで下りて、その下に見えて来た地下房(ちかぼう)の異様な光景に思わずおどろきの声を発した。
 そこには、意外にも、たくさんの人が集っていた。そのほとんど皆が、壁にもたれて立っていた。みんなやせていた。そして燻製(くんせい)の鮭(さけ)のように褐色(かっしょく)がかっていた。
 既に下り切っていた聖者が、治明博士の方へふり向いて、早く下りて来るようにとさし招いた。
 今は、博士は恐ろしさも忘れ、下りていった。
 聖者アクチニオ四十五世は、自分の前において、壁にもたれているミイラのような人間を指し、
「わが弟子(でし)たりしロザレの遺骸(いがい)である。これを汝(なんじ)にしばらく貸し与える」
「えっ、この人を――この遺骸をお貸し下さるとは……」
 と、治明博士は、問いかえした。
「今、ロザレの霊魂(れいこん)は他出している。されば後、ロザレの遺骸に汝の子の隆夫のたましいを住まわせるがよい」
「あ、なるほど。すると、どうなりますか……」
「生きかえりたるロザレを伴い、汝は帰国するのだ。それから先のことは、汝の胸中(きょうちゅう)に自ら策がわいて来るであろう。とにかくわれは、汝ら三名の平安のために、今より呪文(じゅもん)を結ぶであろう。しばらく、それに控(ひか)えていよ」
「ははッ」
 治明博士は、アクチニオ四十五世の神秘(しんぴ)な声に威圧(いあつ)せられて、はッと、それにひれ伏(ふ)した。
 聖者は、不可解なことばでもって、ロザレの遺骸(いがい)に向って呪文(じゅもん)を唱えはじめた。呪文の意味はわからないが、治明博士は、自分の身体の関節(かんせつ)が、ふしぎにもぎしぎしときしむのに気がついた。
(汝ら三名の平安のために――と、聖者はいわれた。汝ら三名とは、いったい誰々のことであろう)と、治明博士は、ふと謎のことばを思い出していた。自分と、それから――そうだ、隆夫のことだ。隆夫は、どうしているであろうか。さっき城壁の上に聖者の姿を拝してから、自分の心は完全に聖者のことでいっぱいとなって、隆夫がついて来ているかどうかを確(たしか)めることを怠(おこた)っていた。隆夫はどうしているだろうか。――いやいや、万事は、聖者が心得ていて下さるのだ。尊(とうと)き呪文がなされているその最中に、他の事を思いわずらっては、聖者に対し無礼(ぶれい)となるのは分り切っている。慎(つつし)まねばならない。
 呪文の最後のことばが、高らかに聖者の口から唱えられ、そのために、この部屋全体が異様な響をたて、それに和して、何百人何千人とも知れない亡霊(ぼうれい)の祈りの声が聞えたように思った。治明博士は、気が遠くなった。
「これ、起きよ、目ざめよ。旅の用意は、すべてととのった。これ一畑治明(いちはたはるあき)。汝の供は、既に待っているぞ。早々(そうそう)、連れ立って、港へ行け」
 聖者の声は、澄みわたって響いた。治明博士ははっと気がついて、むくむくと起上ると、あたりを見まわした。
 そこは、はじめ登っていた域壁の上であった。夜は既に去り、東の空が白んでいた。そこに立っているのは治明博士ただひとり……いやもう一人の人物がいた。
「君は」
 と、治明博士は、横に立っていた褐色(かっしょく)の皮膚を持った痩(や)せた男へおどろきの目を向けた。どこかで見た顔ではあるが……。
「お父さん、ぼくですよ。隆夫ですよ。ぼくは、さっきから、このとおりロザレの肉体を貸してもらっているのです。これで元気になりましたから、早く戻ることにしようよ」
 と、そのミイラの如き人物は、博士に向ってなつかしげに話しかけたのであった。


   帰国(きこく)


 親子は、その後、バリ港を船で離れることができた。その船はノールウェイの汽船で、インドへ行くものだった。
 コロンボで、船を下りなくてはならなかった。そしてそこで、更に東へ向う便船を探しあてることが必要だった。親子は、慣(な)れない土地で、新しい苦労を重ねた。
 この二人を、ほんとの親子だと気のつく者はなかった。
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