霊魂第十号の秘密
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著者名:海野十三 

 彼の姿も形も、まるでくらげを水中にすかして見たようで、はっきりしないが、治明博士の頭上、ややおくれ勝ちに、丸味をもった煙のようなものがふわふわとついて来るのが、それらしい。
 博士は、杖を鳴らしながら、廃墟(はいきょ)の中を歩きまわった。大円柱が今にもぐらッと倒れて来そうであった。宙にかかったアーチが、今にも頭の上からがらがらどッと崩(くず)れ落ちて来そうであった。博士は、そういう危険をものともせず、土台石の山を登り、わずかの間隙(かんげき)をすりぬけて、アクチニオ四十五世たちの祈祷場(きとうじょう)をなおも探しまわった。どこもここも墓場(はかば)のようにしずかで、祈りの声も聞えなければ、人の姿も見えなかった。
 博士は、泣きたくなる心をおさえつけながらもよろめく足を踏みしめて、なおも廃墟の部屋部屋をたずねてまわるのだった。
「あ、あそこだ!」
 とつぜん博士は身体をしゃちこばらせた。博士は目をあげて見た。そこは西に面した高い城壁の上であったが、あわい月光の下、人影とおぼしきものが数十体、まるで将棋(しょうぎ)の駒(こま)をおいたように並んでいるのであった。
 だが、誰一人として動かない。何の声も聞えて来ない。明かり一つ見えない。
 それでも、それがアクチニオ四十五世の一団(いちだん)であることを認めた。博士は急に元気づき、その方へ足を早めていった。博士は、間もなく高い壁に行方を阻(はば)まれた。が博士は、すこしもひるむことなく、城壁(じょうへき)の崩れかけた斜面(しゃめん)に足をかけ手をおいて、登りだした。
 時間は分らないが、やっと博士は城壁を登り切った。二時間かかったようでもあり、三十分しかかからなかったようでもあった。
「ああ……」
 博士は眼前(がんぜん)にひらける厳粛(げんしゅく)なる光景にうたれて、足がすくんだ。
 城壁の上の広場に、約四五十人の人々が、しずかに月に向って、無言(むごん)の祈(いのり)をささげている。一段高い壇(だん)の上に、新月を頭上に架(か)けたように仰いで、ただひとり祈る白衣(はくい)の人物こそ、アクチニオ四十五世にちがいなかった。
 博士は、すぐにも聖者(せいじゃ)の足許(あしもと)に駆(か)けよって、彼の願い事を訴えるつもりであったが、それは出来なかった。足がすくみ、目がくらみ、動悸(どうき)が高鳴って、博士はもう一歩も前進をすることが出来なかったのである。
 博士は石床(いしどこ)の上にかけて、化石(かせき)になったように動かなかった。それから幾時間も動くこともできず、博士はそのままの形でいた。博士は気を失っていたのでも、睡っていたのでもない。博士はその間その姿勢ではとても見ることのできないはずの、聖なる新月の神々(こうごう)しい姿を心眼の中にとらえて、しっかりと拝(おが)んでいたのだ。
 風が土砂(どしゃ)をふきとばし、博士の襟元(えりもと)にざらざらとはいって来た。どこかで鉦(しょう)の音がするようだ。
「顔をあげたがよい」
 さわやかな声が、博士の前にひびいた。
 はっと、博士は顔をあげた。
「あ、あなたはアクチニオ四十五世!」


   ロザレの遺骸(いがい)


 いつの間にか、聖者(せいじゃ)は博士の前に近く立っていた。ふしぎである。博士は、自分の現在の居場所を知るために、あたりに目を走らせた。依然(いぜん)として、同じ城壁の上に居るのであった。だが、アクチニオ四十五世のうしろに並んで新月(しんげつ)を拝んでいた同形(どうけい)の修行者たちはただの一人も見えなかった。残っているのは、聖者ただひとりであった。
「ああ、聖者……」
「分っている。わしについて来(きた)れ」
 聖者は博士の願いについて一言も聞かず、自分のうしろに従(したが)い来れといったのだ。博士は、奇蹟に目をみはりながら、石床(いしどこ)をけって立った。聖者は気高く後姿を見せて、しずかに歩む。博士はその姿を見失うまいとして、後を追っていった。そのとき気がついたことは、新月は既に西の地平線に落ちて、あたりは濃い闇の中にあったことである。しかもふしぎに、聖者の後姿と、通り路とは、はっきり博士の目に見えているのだった。
 博士は聖者アクチニオ四十五世について城壁の上をずんずんと歩いていくうちに、いつしかトンネルの中にはいっているのに気がついた。うす暗い、そして奥が知れない、気味のわるいトンネルであった。トンネルの道は、自然に下り坂になって、今歩いているところは既に地下へもぐってしまったらしく、ぷーンとかびくさい。
 どこからともなく、黄いろのうす明りがさし、トンネルの中の有様を見せてくれる。トンネル内は、通路が主であるが、ところどころそれが左右へひろげられて大小の部屋になっていた。そしてその部屋には、土や石で築(きず)いた寝台のようなものがあり、壁にはさまざまの浮(う)き彫(ぼ)りで、絵画や模様らしきものや不可解(ふかかい)な古代文字のようなものが刻(きざ)まれてあった。
 聖者はずんずんと奥へはいっていったが、そのうちに、一つの大きな丸い部屋のまん中に見えているりっぱな大理石の階段を下りていった。博士も、もちろんあとに従った。
「あ……」
 博士は、階段を途中まで下りて、その下に見えて来た地下房(ちかぼう)の異様な光景に思わずおどろきの声を発した。
 そこには、意外にも、たくさんの人が集っていた。そのほとんど皆が、壁にもたれて立っていた。みんなやせていた。そして燻製(くんせい)の鮭(さけ)のように褐色(かっしょく)がかっていた。
 既に下り切っていた聖者が、治明博士の方へふり向いて、早く下りて来るようにとさし招いた。
 今は、博士は恐ろしさも忘れ、下りていった。
 聖者アクチニオ四十五世は、自分の前において、壁にもたれているミイラのような人間を指し、
「わが弟子(でし)たりしロザレの遺骸(いがい)である。これを汝(なんじ)にしばらく貸し与える」
「えっ、この人を――この遺骸をお貸し下さるとは……」
 と、治明博士は、問いかえした。
「今、ロザレの霊魂(れいこん)は他出している。されば後、ロザレの遺骸に汝の子の隆夫のたましいを住まわせるがよい」
「あ、なるほど。すると、どうなりますか……」
「生きかえりたるロザレを伴い、汝は帰国するのだ。それから先のことは、汝の胸中(きょうちゅう)に自ら策がわいて来るであろう。とにかくわれは、汝ら三名の平安のために、今より呪文(じゅもん)を結ぶであろう。しばらく、それに控(ひか)えていよ」
「ははッ」
 治明博士は、アクチニオ四十五世の神秘(しんぴ)な声に威圧(いあつ)せられて、はッと、それにひれ伏(ふ)した。
 聖者は、不可解なことばでもって、ロザレの遺骸(いがい)に向って呪文(じゅもん)を唱えはじめた。呪文の意味はわからないが、治明博士は、自分の身体の関節(かんせつ)が、ふしぎにもぎしぎしときしむのに気がついた。
(汝ら三名の平安のために――と、聖者はいわれた。汝ら三名とは、いったい誰々のことであろう)と、治明博士は、ふと謎のことばを思い出していた。自分と、それから――そうだ、隆夫のことだ。隆夫は、どうしているであろうか。さっき城壁の上に聖者の姿を拝してから、自分の心は完全に聖者のことでいっぱいとなって、隆夫がついて来ているかどうかを確(たしか)めることを怠(おこた)っていた。隆夫はどうしているだろうか。――いやいや、万事は、聖者が心得ていて下さるのだ。尊(とうと)き呪文がなされているその最中に、他の事を思いわずらっては、聖者に対し無礼(ぶれい)となるのは分り切っている。慎(つつし)まねばならない。
 呪文の最後のことばが、高らかに聖者の口から唱えられ、そのために、この部屋全体が異様な響をたて、それに和して、何百人何千人とも知れない亡霊(ぼうれい)の祈りの声が聞えたように思った。治明博士は、気が遠くなった。
「これ、起きよ、目ざめよ。旅の用意は、すべてととのった。これ一畑治明(いちはたはるあき)。汝の供は、既に待っているぞ。早々(そうそう)、連れ立って、港へ行け」
 聖者の声は、澄みわたって響いた。治明博士ははっと気がついて、むくむくと起上ると、あたりを見まわした。
 そこは、はじめ登っていた域壁の上であった。夜は既に去り、東の空が白んでいた。そこに立っているのは治明博士ただひとり……いやもう一人の人物がいた。
「君は」
 と、治明博士は、横に立っていた褐色(かっしょく)の皮膚を持った痩(や)せた男へおどろきの目を向けた。どこかで見た顔ではあるが……。
「お父さん、ぼくですよ。隆夫ですよ。ぼくは、さっきから、このとおりロザレの肉体を貸してもらっているのです。これで元気になりましたから、早く戻ることにしようよ」
 と、そのミイラの如き人物は、博士に向ってなつかしげに話しかけたのであった。


   帰国(きこく)


 親子は、その後、バリ港を船で離れることができた。その船はノールウェイの汽船で、インドへ行くものだった。
 コロンボで、船を下りなくてはならなかった。そしてそこで、更に東へ向う便船を探しあてることが必要だった。親子は、慣(な)れない土地で、新しい苦労を重ねた。
 この二人を、ほんとの親子だと気のつく者はなかった。そうであろう、治明博士(はるあきはかせ)の方は誰が見でも中年の東洋人(とうようじん)であるのに対し、ロザレの肉体を借用している隆夫の方は、青い目玉がひどく落ちこみ、鼻は高くて山の背のように見え、その下にすぐ唇があって、やせひからびた近東人(きんとうじん)だ。頭巾(ずきん)の下からは、鳶色(とびいろ)の縮(ちぢ)れ毛がもじゃもじゃとはみ出している。パンツの下からはみ出ている脛(すね)の細いことといったら、今にもぽきんと折れそうだった。
 しかし結局、隆夫のおかげで、治明博士はインドシナへ向う貨物船に便乗(びんじょう)することができた。それはロザレの隆夫を聖者に仕立て、すこしもものをいわせないことにし――しゃべれば隆夫は日本語しか話せなかった――治明博士はその忠実(ちゅうじつ)なる下僕(しもべ)として仕えているように見せかけ、そのキラマン号の下級船員の信用を得て、乗船が出来たのであった。もっとも密航するのだから、親子は船艙(せんそう)の隅(すみ)っこに窮屈(きゅうくつ)な恰好をしていなければならなかった。
 キラマン号をハノイで下りた。
 それからフランスの飛行機に乗って上海(シャンハイ)へ飛んだ。そのとき親子は、小ざっぱりとした背広に身を包(つつ)んでいた。
 上海から或る島を経由(けいゆ)してひそかに九州の港についた。いよいよ日本へ帰りついたのである。バリ港を親子が離れてから八十二日目のことであった。
「よくまあ、無事に帰って来られたものだ」
「やってみれば、機会をつかむ運にも出会うわけですね」
 親子は、休むひまもなく自動車を雇って、そこから山越えをして四十五キロ先にある大きな都市へ潜入(せんにゅう)した。汽車の便はあったのであるが、それは避(さ)けた。
 三日ほど身体を休ませたのち、いよいよ親子は東京へ向った。
 これからがたいへんであった。親子の間には、ちゃんと打合わせがついているものの、果してそのとおりうまく行くかどうか分らなかった。もしどこかで尻尾(しっぽ)をおさえられたが最後、えらいさわぎが起るにちがいなかった。ことに隆夫は、むずかしい大芝居を演(えん)じおおせなくてはならないのであった。それもやむを得ない。おそるべき妖力(ようりょく)を持つあの霊魂第十号をうち倒して、隆夫が損傷(そんしょう)なく無事に元の肉体をとり戻すためには、どうしてもやり遂げなくてはならない仕事だった。
 親子は連れ立って、なつかしいわが家にはいった。それは日が暮れて間もなくのことであった。
 隆夫の母は、おどろきとよろこびで、気絶(きぜつ)しそうになったくらいだ。しかしそれは、隆夫を自分のふところへとりもどした喜びではなくて、もはや亡(な)くなったものとあきらめていた夫の治明が、目の前に姿をあらわしたからであった。
「まあ、わたし、夢を見ているのではないかしら……」
「夢ではないよ。ほら、わしはこのとおりぴんぴんしている。苦労を重ねて、やっと戻ってきたよ」
「ほんとですね。あなたは、ほんとに生きていらっしゃる。ああ、なんというありがたいことでしょう。神さまのお護(まも)りです」
「隆夫は、どうしているね」
 治明博士は、かねて考えておいた段取(だんどり)のとおり、ここで重大なる質問を発した。
「ああ、隆夫……隆夫でございますが……」
 と、母親はまっ青になって、よろめいた。治明博士は、すばやく手を貸した。
「しっかりおしなさい。隆夫はどうかしたのですか」
「それが、あなた……」
「まさか隆夫は死にやすまいな」
 治明博士の質問が、うしろの闇の中に立っている隆夫の胸にどきんとひびいた。もし死んでいたら、隆夫は再び自分の肉体を手にいれる機会を、永久に失うわけだ。母親は、どう応えるであろうか。
「死にはいたしませぬ」
 母親の声は悲鳴に似ている。
 しかしそれを聞いて隆夫は、ほっと胸をなでおろした。機会は今後に残されているのだ。それなれば、ミイラのような醜骸(しゅうがい)を借りて日本へ戻って来た甲斐はあるというものだ。
「……死にはいたしませぬが、少々不始末(ふしまつ)があるのでございます」
「不始末とは」
「ああ、こんなところで立ち話はなりませぬ。さ、うちへおはいりになって……」
「待って下さい。わしにはひとりの連(つ)れがある。その方はわしの恩人です。わしをこうして無事にここまで送って来て下すった大恩人なんだ。その方をうちへお泊め申さねばならない」
 母親はおどろいた。治明博士の呼ぶ声に、隆夫は闇の中から姿をあらわし、なつかしい母親の前に立った。
(ああ、いたわしい)
 母親は、しばらく見ないうちに別人のようにやせ、頭髪には白いものが増していた。
「レザールさんとおっしゃる。日本語はお話しにならない。尊(とうと)い聖者でいらっしゃる。しかしお礼をのべなさい。レザールさんは聖者だから、お前のまごころはお分りになるはずである」
 母親はおそれ入って、その場にいくども頭をさげて、夫の危難を救ってくれたことを感謝した。
 隆夫はよろこびと、おかしさと、もの足りなさの渦巻(うずまき)の中にあって、ぼーッとしてしまった。


   その後の物語


 昔ながらの親子三人水いらずの生活が復活した。だが、それは奇妙な生活だった。これが親子三人水いらずの生活だということは、治明博士と隆夫だけがわきまえていることで、母親ひとりは、その外におかれていた。世間のひとたちも、一畑(いちはた)さんのお家は、ご主人が帰ってこられ、奥さんはおよろこびである。ご主人がインド人みたいなこわい顔のお客さんを引張ってこられて、そのひとが、あれからずっと同居している――と、了解(りょうかい)していた。
 隆夫は、めったに主家(おもや)に顔を出さなかった。それは治明博士が隆夫のために、例の無電小屋を居住宅(すまい)にあてるよう隆夫の母親にいいつけたからである。そこに居るなら、隆夫は寝言(ねごと)を日本語でいってもよかった。なにしろ、事件がうまい結着(けっちゃく)をみせるまでは、母親をもあざむいておく必要があったから、隆夫はなるべく主家へ顔出しをしないのがよかったのである。隆夫には、たいへんつらい試練(しれん)だった。
 もう一人の隆夫は、どうしていたろう。隆夫の肉体を持った霊魂第十号は、今どうしているか。
 母親は、そのてんまつを治明博士に次のように語った。
「隆夫が、あなた、急に女遊びをするようになってしまいましてね。監督の役にあるわたくしとしては、あなたに申しわけもないんですが。いくらわたくしが意見をしても、さっぱりきかないんですの。もっとも女遊びといっても悪い場所へ行って札つきの商売女をどうこうするというのではなく、隆夫のは、お友達の家のお嬢さんと出来てしまったわけで、下品(げひん)でも不潔(ふけつ)でもないんですけれど、やはり女遊びにちがいありません。まことに申しわけのないことになってしまいました。
 そんなわけで、隆夫はわたくしと考えがあいませんで、今はこの家に居ないのでございます。早くいえば、家出をしてしまったんです。でも隆夫の居所ははっきりしています。それは今お話した相手のお嬢さんのお家なんですの。三木さんといいまして、隆夫と仲よしの健(けん)さんのお家なんです。相手のお嬢さんというのが、健さんの姉さんで名津子(なつこ)さんという方です。つまり同級生のお姉さまと恋愛関係に陥(お)ちてしまったわけですの。名津子さんは二十歳ですが、隆夫は十八歳なんですから、相手の方が二つも年齢が上になっています。いいことだと思いません。どうして隆夫が、そんな軟派青年(なんぱせいねん)になってしまったのか、もちろんわたくしにも監督上ゆだんがあったわけでございましょうけれど、まさしく悪魔に魅(みい)られたのにちがいありません。
 二人が結びついたきっかけは、名津子さんの発病でございました。いいえ、名津子さんは、それまではたいへん健康にめぐまれた方でしたが、あるとき急におかしくなってしまいましてね、健さんもたいへんな心配、それよりもお母さんはもっとたいへんなご心配で、名津子さんといっしょにおかしくなってしまいそうに見えました。それを聞いた隆夫は、自分が研究して作った器械を使って、名津子さんの病気をなおしてあげたいといって、その器械を持って三木さんのお家へ出かけたのでございますよ。その日帰って来ての短い話に、『お母さん、どうやら病気の原因の手がかりをつかんだようですよ。二三日うちに、きっとうまく解決してみせます』と隆夫が申しました。それから隆夫は、いつもの通り、電波小屋へはいったわけですが、隆夫がおかしくなったとはっきり分ったのは、その翌朝のことでございました。
 その朝、隆夫はいつもとはかわって、たいへん機嫌がよく、そして大元気で――すこしそのふるまいが乱暴すぎるようにも思われたこともありましたが――とにかくすばらしい上機嫌で、『これから三木さんのところへ行って、名津子さんの病気をなおします。病気がなおったらぼくは名津子さんと結婚します。ぼくはこの家よりも名津子さんの家の方が好きだから、あっちに住みます。では、行ってきます』と途方(とほう)もないことを口走ると、わたくしが追いすがるのをふり切って、家を出ていってしまったんです。それっきり、隆夫はうちへ戻って来なくなりました。そのときのことを思い出しますと、今も胸がずきずき痛んでなりません。
 隆夫がおかしくなったので、わたくしはおどろきと悲しみのあまり、病人のようになって寝ついてしまって、一歩も歩けなくなりました。しかしわたくしよりも、もっとびっくりなすって、当惑(とうわく)なすったのは、名津子さんのお家の人々でした。とりわけお母さまの驚きは、お察し申しあげるだに、いたましいことでした。なにしろ、とつぜん隆夫が乗りこんでいって、名津子さんに抱きつき、そして『ぼくは只今から名津子さんと結婚します。そしてぼくは名津子さんと、ここに住みます』と宣言したというではございませんか。いくら顔見知りの青年であっても、こんなあつかましいことをいって、しかもそれを目の前で実行してみせる心臓っぷりには、お母さまが卒倒なすったというのも無理ではありません。
 それ以来、隆夫はあのお家から離れないのです。誰から何といわれようと、隆夫はすこしも気にしていないらしく、にやにや笑うだけで言葉もかえさず、その代り、忠実な番犬のように名津子さんのそばから離れないのです。しかしふしぎなことに、名津子さんの病気は、ぴったりと癒(なお)ってしまいました。前のようにちゃんとおとなしくなり、いうこともへんではなくなりました。二人の仲は、たいへんいいのです。そのかわり、この事件のてんまつは世間にひろがり、すごい評判になりました。もちろん隆夫は、退校処分(しょぶん)にされました。でも隆夫は平気でいます。今の今も、わたくしは隆夫の気持が分らないで、悩んでいるのでございます」
 隆夫の母親は目頭(めがしら)をおさえた。


   公開実験の日


 ある日、治明博士は、困った顔になって、電波小屋(でんぱごや)へはいって来た。
 レザール聖者――実は隆夫のたましいは、待ちかねていたという風に椅子から立上ってきて、父親を迎えた。
「困ったことになったよ、隆夫」
 治明博士は、まゆをひそめて、すぐその話を始めた。
「どうしたのですか、お父さん」
「わしはお前を救うために、こうして日本へ帰って来たんだ。ところが、わしが帰って来たことが広く報道されたため、わしは今方々から講演をしてくれと責(せ)められて断(ことわ)るのによわっている」
「断れば、ぜひ講演しろとはいわないでしょう」
「それはそうだが、中にはどうにも断り切れないのがある。心霊学会(しんれいがっかい)のがそれだ。あそこからは洋行の費用ももらっている。それにお前のことがもう大した評判なんだ。いや、お前というよりも、聖者レザール氏をわしが連れて来たということが大評判なんだ。ぜひその講演会で、術をやってみせてくれとの頼みだ。これにはよわっちまった」
「それは困りましたね。ぼくには何の術も出来ませんしねえ」
 親子はしばらく黙って下を向いていた。やがて治明博士がいいにくそうに口を開いた。
「どうだろうなあ、心霊学会だけに出るということに譲歩(じょうほ)して、一つ出てもらえないかしらん」
「出てくれって、ぼくに何をしろとおっしゃるのですか、お父さん」
 隆夫のたましいはおどろいて問い返した。
「何もしなくていいんだ。ただ、舞台に出て目を閉じてじっとしていてもらえばいい。何をいわれても、はじめからしまいまで黙っていてもらえばいいんだ。それならお前にもできるだろう」
「それならやれますが、しかしそれでは聴衆(ちょうしゅう)が承知しないでしょう。ぼくばかりか、お父さんもひどい攻撃をうけるにきまっていますよ」
「うん。しかしそのところはうまくやるつもりだ。お父さんもやりたくないんだが、心霊学会ばかりは義理があってね、どうにも断りきれないのだ。お前もがまんしておくれ」
 こんなわけで、隆夫のたましいは、はじめて公開の席に出ることになった。彼は不安でならなかった。が、「はじめからしまいまで黙っていればいいんだ」という父親との約束を頼みにした。
 一畑治明博士の帰国第一声講演及び心霊実験会――という予告が、心霊学会の会員に行きわたり、会員たちを昂奮させた。新聞社でもこの治明博士の帰国第一声を重視して紙上に報道した。だから会場は当日、会員以外に多数の傍聴人が集り、五千人の座席が満員になってしまった。
 治明博士の講演は「ヨーロッパに於ける心霊研究の近況」というので、博士が身を多難(たなん)にさらして、各地をめぐり、心霊学者や行者(ぎょうじゃ)に会い、親しく見聞し、あるいは共に研究したところについて概略(がいりゃく)をのべた。それによると、心霊の実在と、それが肉体の死後にも独立に存在すること、そして心霊と肉体とがいっしょになっている、いわゆる生存中も霊魂と肉体との分離が可能であると信ぜられているそうである。更に博士は、一歩深く進んで心霊世界(しんれいせかい)のあらましについて紹介した。
 聴衆は熱心に聴講した。会員たちはもちろんのこと、傍聴人たちも深く興味をおぼえたらしい、講演後の質問は整理に困るほど多かった。しかし時間が限られているので、それをあるところで打切って、いよいよ聖者レザール氏をこの舞台へ招くことになった。来会者一同は、嵐のような拍手をもっていよいよ始まる心霊実験に大関心を示した。
 治明博士は、聖者を迎える前に、レザール氏の身柄(みがら)と業績(ぎょうせき)について述べた。これは実は博士のデタラメが交っていたが、一部分はアクチニオ四十五世の下に集っている行者団のことを述べたので、かなり実感のある話として聴衆の胸にひびいた。
 舞台には、このとき聖壇(せいだん)が設けられた。白い布で被(おお)い、うしろには衝立(ついたて)がおかれ、それには奇怪なる刺繍絵(ししゅうえ)がかけられた。これは治明博士があちらで手に入れたもので、多分イランあたりで作られたらしい豪華なものである。それからその前に、法王の椅子が置かれた。
 そのとき舞台の裏で、奇妙な調子の楽器が奏しはじめられた。東洋風の管楽器の集合のようであった。それは音色(ねいろ)が高からず低からず、そしてしずかに続いてやむことがなく、聴きいっているうちにだんだん自分のたましいがぬけ出していくような不安さえ湧いて来るのであった。
 いったん退場した治明博士が、再び舞台へ現われた。しずかな足取り、敬虔(けいけん)な面持で歩をはこんでいる。と、そのあとから聖者レザール氏の長身が現われた。僧正服(そうじょうふく)とアラビア人の服とをごっちゃにしたような寛衣(かんい)をひっかけ、頭部には白いきれをすっぽりかぶり、粛々(しゅくしゅく)と進んで、聖壇にのぼり、椅子に腰を下ろした。聴衆の間からは、溜(た)め息(いき)が聞えた。つづいて嵐のような拍手が起ったが、聖者はそれに答えるでもなく、席についたまま石のように動かず、目を閉じたまま、ただ、とび出た高い鼻を、かぶりものの布がかるく叩いていた。どこからか風が舞台へ吹いて来るものと見える。
 さて、いよいよこれより治明博士一世一代の大芝居が始まることになった。果してうまく行くかどうか、千番に一番のかねあいだ。


   奇蹟(きせき)起る


 もう度胸をきめている治明博士だった。彼はまず聴衆に向って、これより聖者(せいじゃ)レザール氏をわずらわして心霊実験を行うとアナウンスし、
「但し、聖者のおつとめはかなり忙しく、こうしているうちにも多数の心霊の訪問を受けて一々応待(おうたい)しなければならないので、只今すぐに実験をお願いして、即座にそれが諸君の前に行われるかどうか疑問である。聖者のおつとめの合間をつかむことができたら、諸君は運よく実験を見ることができるわけだ。その点よく御了解(ごりょうかい)を得たい」
 と、巧みにことわりを述べて、伏線(ふくせん)とした。
「それでは、まず第一番として、聖者にお願いして、私の肉体と私の霊魂とを分離して頂くことにします」
 博士はついに、こういって、実験を始めたのである。これは実は、博士が修業によって会得(えとく)して来た術であって、なにも聖者をわずらわさなくとも、博士ひとりで出来ることであった。博士としては、これだけは確実に来会者をはっきりおどろかせることが出来る自信があり、これさえ成功するなら、あとの実験はたとえことごとく失敗に終っても、申訳(もうしわけ)がつくと考えていた。
 そこで博士は、うやうやしく壇(だん)の前にいって礼拝をし、それから立上った。博士の考えでは、それから聖者に後向きとなって聴衆の方を向いて座し、それから肉体と心霊の分離術(ぶんりじゅつ)に入るつもりだった。
 ところが、博士の思ってもいないことが、そのときに起った。
 というのは、壇上(だんじょう)の聖者レザールが、博士に向って手を振りだしたのである。
「汝(なんじ)は下がれ。あちらに下がれ」
 レザールは舞台の下手を指した。
 博士はおどろいた。隆夫がなにをいい出したやらと、びっくりした。しかも「汝(なんじ)は下がれ」といったのはギリシア語だったではないか。隆夫がギリシア語を知っているとは今まで思ったこともなかった。
「お前は、だまって、じっと黙っているがいいよ。あとはわしがうまくやるから」
 と、治明博士は近づいて、それをいおうとしたのだ。ところがどうしたわけか、博士は声が出せなかった。そして全身がかッとなり、じめじめと汗がわき出でた。
「汝は、しずかに、見ているがよい」
 レザールは重ねていった。
 と、博士は何者かに両脇(りょうわき)から抱(かか)えあげられたようになり、自分の心に反して、ふらふらと舞台を下手へ下がっていった。そしてそこにおいてあった椅子の一つへ、腰を下ろしてしまった。
 来会者席からは、しわぶき一つ聞えなかった。みんな緊張(きんちょう)の絶頂(ぜっちょう)にあったのだ。誰もみな――治明博士だけは例外として――聖者レザールが厳粛(げんしゅく)な心霊実験を始めたのだと思っていたのだ。このとき、舞台裏で、例の奇妙な楽器が鳴りだした。恨(うら)むような、泣くような、腸(ちょう)の千切(ちぎ)れるような哀調(あいちょう)をおびた楽の音であった。来会者の中には、首すじがぞっと寒くなり、思わず襟(えり)をかきあわす者もいた。
 今や場内は異様(いよう)な妖気(ようき)に包まれてしまった。これが東京のまん中であるとは、どうしても考えられなかった。
 そのとき、来会者(らいかいしゃ)がざわめいた。
 階下の正面の席から、ぬっと立ち上った青年がいた。その青年は、ふらふらと前に歩きだしたのだ。近くの席の者は見た。その青年の目は閉じていたことを。
 青年はまっすぐに歩きつづけたので、ついに舞台の下まで行きついた。そこで行きどまりとなったと思ったら、青年の身体がすーッと煙のように上にのぼった。あれよあれよと見るうちに、青年は舞台の上に自分の足をつけていた。
 来会者席(らいかいしゃせき)は、ふたたび氷のような静けさに返った。今見たふしぎな現象について、適確な解釈を持つひまもなく、次の奇蹟が待たれるのであった。かの青年は、亡霊(ぼうれい)の如くすり足をして、聖者の席に近づきつつあった。
 このときの治明博士の焦燥(しょうそう)と驚愕(きょうがく)とは、たとえるもののないほどはげしかった。彼は席から立って、舞台のまん中へとんでいきたかった。だが、どういうわけか、彼の全身はしびれてしまって、立つことができなかった。そのうちに彼は、重大な発見に、卒倒(そっとう)しそうになった。というのは、客席から夢遊病者のようにふらふらと舞台へあがって来た青年こそ、隆夫にそっくりの人物だったからだ。
「これはことによると、えらいさわぎをひき起すことになるぞ」
 治明博士は青くなって、舞台を見入った。
 隆夫に似た青年は、ついに聖者の前に棒立(ぼうだ)ちになった。
 すると聖者はやおら椅子から立上った。そして両手をしずかに肩のところまであげたかと思うと、両眼(りょうがん)をかッと見開いて、自分の前の青年をはったとにらみつけ、
「けけッけッけ」
 と、鳥の啼声(なきごえ)のような声をたてた。
 そのとき来会者たちは、聖壇の上に、無声(むせい)の火花のようなものがとんだように思ったということだ。が、それはそれとして、聖者ににらみつけられた青年は、大風(おおかぜ)に吹きとばされたようにうしろへよろめいた。そしてやっと踏み止(とどま)ったかと思うと、これまた奇妙な声をたて、そしてその場にぱったりと倒れてしまった。
 奇蹟はまだつづいた。このとき聖者の身体から、絢爛(けんらん)たる着衣がするすると下に落ちた。と、聖者の肉体がむき出しに出た。が、それは黄いろく乾からびた貧弱(ひんじゃく)きわまる身体であった。聖者の顔も一変して、猿の骸骨(がいこつ)のようになっていた。聖者の身体はすーッと宙に浮いた。と見る間に、聖者の身体は瞬間(しゅんかん)金色に輝いた。が、その直後、聖者の身体は煙のように消え失せてしまった。


   聖者(せいじゃ)の声


 この奇怪なる出来事の間、場内は墓場(はかば)のようにしずまりかえっていた。
 また、治明博士は、この間、目は見え、耳は聞えるが、ふしぎに声が出ず、五体は金しばりになったように、舞台の上の肘かけ椅子の上に密着していて、動くとができなかった。ただ、その間に、博士は天の一角(いっかく)からふしぎな声を聞いた。
「……汝の願いは、今やとげられた。汝の子の肉体から、呪(のろ)われたる霊魂は追放(ついほう)せられ、汝の子の霊魂がそれにかわって入り、すべて元のとおりになった。これで汝は満足したはずである。さらば……」
 その声! その声こそ、聖者アクチニオ四十五世の声にちがいなかった。
「ははあ。かたじけなし」
 と治明博士は心の中に感謝を爆発させて、アクチニオ四十五世の名をたたえた。そのときに、高き空間を飛び行く聖者の姿が見えた。聖者は白い衣を長く引き、金色の光に包まれていた。その右側に、やせこけた色の黒い人物がつき従っていた。それは殉教者(じゅんきょうしゃ)ロザレにまぎれもなかった。聖者アクチニオ四十五世の左手は、ふわふわとした絹わたのようなものを掴(つか)んでぶら下げていた。よく見ると、その絹わたのようなものの中には、二つの眼のようなものが、苦しそうにぐるぐる動いていた。それこそ、永らく隆夫やその両親や友人たちにわずらいをあたえていた所謂(いわゆる)霊魂第十号にちがいなかった。
 大会堂をゆるがすほどの大拍手が起った。そのさわぎに、治明博士は吾れにかえった。アクチニオ四十五世も、ロザレや霊魂第十号の幻影(げんえい)も、同時にかき消すように消え失せた。
 大感激の拍手は、しばらく鳴りやまなかった。来会者の中には、拍手をしながら席を立って舞台の下へ駈けだして来る者もあった。
 治明博士は、呆然(ぼうぜん)としていた。
 この場の推移(すいい)を見ていて、どうにもじっとしていられなくなった司会者が、楽屋からとび出して来て、治明博士の前に進んだ。またもや割れるような満場の拍手だった。
「先生。来会者たちは大感激しています。そして、姿を消した聖者レザールをもう一度聖台へ出してほしいと、熱心に申入れて来ます。どうしましょうか。とりあえず、先生はあの壇の前へ行って、立って下さいまし」
 司会者は、早口ながら、半(なか)ば歎願(たんがん)し、半ば命令するようにいった。
「私が万事(ばんじ)心得ています」
 治明博士は、ようやく口を開いた。そしてよろよろと立上ると、舞台を歩いて、聖者レザールを座らせてあった壇の方へ行った。そこで博士は、当然のこととして、壇の前に倒れている若い男の身体に行きあたった。博士の靴の先が、その男の身体にふれると、その男はむくむくと起き上った。そして博士の顔を凝視(ぎょうし)すると、
「おお、お父さん」
 と叫んで、治明博士に抱きついた。
 博士はふらふらとして倒れそうになったが、やっと踏みこたえた。そして口の中で、アクチニオ四十五世の名をくりかえし、となえた。
「お父さん。ぼくは元の身体に帰ることができましたよ。よろこんで下さい」
「ほんとにお前は元の身体へ帰って来たのか」
「ほんとですとも。よく見て下さい。何でも聞いてみて下さい」
「ほんとらしいね。アクチニオ四十五世にお前も感謝の祈りをささげなさい」
 舞台の上で親子が抱きあって、わめいたり涙を流しているので、来会者には何のことだかわけが分らなかったが、やはり感動させられたものと見えて、またもや大拍手が起った。
 治明博士は、その拍手を聞くと、身ぶるいして、正面に向き直った。
「来会者の皆さま。私は本日、全く予期(よき)せざる心霊現象(しんれいげんしょう)にぶつかりました。それは信じられないほど神秘(しんぴ)であり、またおどろくべき明確(めいかく)なる現象であります。ここに並んで立っています者は、私の伜(せがれ)でありますが、この伜は永い間、自分の肉体を、あやしい霊魂に奪われて居りましたが、さっき皆さんが見ておいでになる前で、伜の霊魂は、元の肉体へ復帰したのであります。こう申しただけでは、何のことかお分りになりますまいが、これから詳(くわ)しくお話しいたしましょう……」
 とて、博士は改めて、隆夫に関する心霊事件の真相について、初めからの話を語り出したのである。
 その夜の来会者は、十二分に満足を得て、散会していった。そして誰もが、心霊というものについて、もっともっと真剣に考え、そして本格的な実験を積みかさねていく必要があると痛感(つうかん)したことであった。


   隆夫(たかお)のメモ


 呼鈴(よびりん)が鳴ったので、玄関のしまりをはずして硝子(ガラス)戸を開いた隆夫の母親は、びっくりさせられた。意外にも、夫と隆夫とが、門灯の光を浴び、にこにこして肩を並べていたからだ。
 治明博士は、靴をぬぎながら、さっそく、長いいきさつとその信ずべき根拠について、夫人に語りはじめた。その話は、茶の間へ入って、博士の前におかれた湯呑(ゆのみ)の中の茶が冷えるまでもつづいたが、隆夫の母親には、博士の話すことがらの内容が、ちんぷんかんぷんで、さっぱり分からなかった。だが、母親は、今夜のめでたい出来事が分らないのではなかった。かわいい隆夫が、前の状態から抜けて、元の隆夫に戻っていることを、隆夫の話しぶりや目の動きで、すぐそれと悟った。隆夫が元のように戻ってくれれば、それだけで十分であった。どうして隆夫が変り、どうして隆夫が癒(なお)ったか、そんな理屈(りくつ)はどうでもよかったのである。夜は更けていたが、親子三人水入らずの祝賀(しゅくが)の宴がそれから催(もよお)された。隆夫も、父親治明博士も、母親も、話すことが山のようにあった。そして時刻の移っていくのが分らなかった。
 電話がかかってきたので、母親は立っていった。そのとき柱時計が午前一時をうった。受話器をはずして返事をすると、電話をかけて来たのは三木健(みきけん)であった。
「もしもし。こっちは三木ですが、もしやそちらに、隆夫君が帰っていませんかしら」
「えッ、隆夫ですって。あのウ、少々お待ち下さいまし」
 治明博士がすばしこく電話の内容を感づいて立って来たので、母親ははっきりした返事をしないで、相手に待ってもらった。替って、治明博士が電話口に出た。
「隆夫は、こっちに来て居ません。だいぶん以前から、どこかへ行ってしまって、うちには寄りつかんそうです。どうかしましたか」
 と、知らない風を装(よそお)った。これは意地悪(いじわる)ではなく、当分そうしておくのが、双方のためになると思ったからだ。
 三木健の、おどおどした声が、受話器の奥からひびいて来た。
「ぼくは、ほんとに困り切っているのです。とにかく隆夫君はずっとうちに泊っているのです。しかし今夜にかぎって、まだ戻って来ないので心配しているのです。もしや、そちらへ帰ったのではないかと思ったものですから、お電話したんです」
「なんだか事情はよくのみこめませんが、君のご心労(しんろう)は深く察します。名津子さんは、どうですか。おたっしゃですか」
「そのことも、ちょっと心配なんです。今夜姉は卒倒(そっとう)しましてね、ぼくたちおどろきました。それから姉は、昏々(こんこん)と睡りつづけているのです。お医者さんも呼びましたが、手当をしても覚醒(かくせい)しないのです。昼間は、たいへん元気でしたがね」
 それを聞くと、治明博士はどきりとした。
「卒倒されたというんですか。それは今夜の幾時ごろでしたか」
「姉が卒倒した時刻は、そうですね、たしか八時半ごろでした」
「今夜の八時半ごろ。なるほど」
「どうかしましたか」
「いや、どうもしません。とにかくそのまま静かに寝かしておいておあげになるがいいでしょう。四五日たてば、きっとよくなられるでしょう。多分、今までよりも、もっと元気におなりでしょう」
 電話を切って、茶の間へ戻っていく博士は、
「八時半か。あの時刻にぴったり合うぞ」
 と、ひとりごとをくりかえした。午後八時半といえば、隆夫がレザールの前で倒れた時刻だ。隆夫の肉体に宿っていた霊魂第十号が追い出され、そのあとへ隆夫の霊魂が仮(か)りの宿レザールの身体をはなれて飛びこんだその時刻にぴったりと一致する。あの出来ごとが、てきめんに名津子にひびいたとすれば、これは名津子の身の上にも一変化(ひとへんか)起るのではなかろうかと、博士は推理した。
 博士は、茶の間の自分の座に戻ってから、彼の考えを隆夫と、その母親に説明し、当分の間、隆夫は、この家に居ないことにしておいた方がよいと、結論を述べた。隆夫は、その夜ゆっくりと足を伸ばして睡った。
 翌日からは、彼はなつかしい電波小屋にとじ籠(こも)った。そして多くの時間を、仮りのベッドの上で昼寝に費(ついや)し、ときどき起き出でては荒れたままになっている実験装置の部品や結線を整理した。その間に、彼はこれまでの事件についてのメモを書き綴(つづ)った。
 そのメモの中から、少しばかり抜いておこう。
――自分ノ感ジデハ、此ノ空間ヲ往来シテイル電波ノ諸相ニツイテノ研究ハ、ホンノ手ガツイタバカリダト思ウ。ワレワレ通信技術者ガワレワレノ組立テタ器械ニヨッテ放出シテイル通信用電波ノ外ニ此ノ空間ニハ現ニ多種多様ナ未知ノ電波ガ飛ビ交(まじ)ッテイルノダ。ソレヲ探求(たんきゅう)シツクスコトハ容易デナイト思ウガ、ゼヒトモ速カニソノ研究ニ着手スベキダ。
 カカル未知電波ノウチノアルモノハ、時ニ雑音(ざつおん)トイウ名ノモトニワレワレニ知ラレテイル。シカシ果シテソレガ雑音ナドトイワレルニ十分ナ屑電波(くずでんぱ)ダトスルコトハ早計ニ過ギルト思ワレル。雑音コソハ、直チニ研究ニ取懸(とりかか)ルニ適シタ未知電波ダ。コレヲ探求シ、分析(ぶんせき)シ、整頓(せいとん)シ、再現スルコトニヨッテ、ワレワレハ自然界ノ新シキ神秘ニ触レルコトガ出来ルノデハナイカト思ウ。
 自分ガ関係シタ霊魂第十号モ、カカル雑音ノ中カラ姿ヲ現ワシタノデアル。第十号ハ頗(すこぶ)ル野心ニ燃エタ霊魂ダッタ。第十号ハ人間界ニ肉迫(にくはく)シ、ソシテ遂ニ人間ノ霊魂ヲ捉(とら)エルニ至ッタ。ソノ択(えら)バレタル霊魂ノ持主ハ、不運デモアッタガ、又、捉(とら)エラレルニ適シタホドノ脆弱性(ぜいじゃくせい)ト不安定トヲ持ッテイタ気ノ毒ナ人デアッタ。ソウイウ種類ノ人間ハ、案外身辺ニ少ナクナイノデアル。深イ注意ヲモッテカカル人間ニ対シ適当ナ電波的保護ヲ急グノデナケレバ、世ノ中ニハ「手ニオエナイ神経病者」トイワレルモノガ年ト共ニ激増スルデアロウ。
 自分ハ健康ヲ回復シタラ、此ノ方面ノ研究ニ没頭シヨウト思ウ。ソシテ、可能ナラバ霊魂第十号ニモウ一度会イ、彼及ビ彼ノ背後ニアル心霊科学ト握手シ、同ジ目的ニ向ッテ協力シタイモノダ。(以下略)
 治明博士の予想した如く、一週間後に名津子はすっかり元気になり、それまでの妖(あや)しき態度も消え、元の名津子に戻った。そして隆夫や健(けん)や二宮(にのみや)や四方(よつかた)の交際も旧(もと)に復した。
 なお、隆夫は改めて名津子と結婚した。隆夫の方が年下であることは、二人の間にも親たちの間にも、もはや問題でなかった。




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