霊魂第十号の秘密
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著者名:海野十三 

   電波小屋(でんぱごや)「波動館(はどうかん)」


 みなさんと同じように、一畑(いちはた)少年も熱心な電波アマチュアだった。
 少年は、来年は高校の試験を受けなくてはならないんだが、その準備はそっちのけにして、受信機などの設計と組立と、そして受信とに熱中している。
 彼は、庭のかたすみに、そのための小屋を持っている。その小屋の中に、彼の小工場があり、送受信所(そうじゅしんじょ)があり、図書室があった。もちろん電源も特別にこの小屋にはいっていた。この小屋を彼は「波動館(はどうかん)」と名づけていた。
 このような設備のととのった無線小屋を、どの電波アマチュアも持つというわけにはいかないだろう。
 一畑少年の場合は、お母さんにうんとねだってしまって、このりっぱな「波動館」を作りあげてしまったのだ。
 お母さんは、ひとり子の隆夫(たかお)少年に昔から甘(あま)くもあったが、また隆夫少年ひとりをたよりに、さびしく暮して行かねばならない気の毒な婦人でもあった。
 というのは、隆夫少年の父親である一畑治明(いちはたはるあき)博士は、ヨーロッパの戦乱地でその消息(しょうそく)をたち、このところ四カ年にわたって行方不明のままでいるのだ。あらゆる手はつくしたが、治明博士の噂のかけらも、はいらなかった。もうあきらめた方がいいだろうという親るいの数がだんだんふえて来た。心細さの中に、隆夫の母親は、隆夫少年ひとりをたよりにしているのだ。
 なお、治明博士は生物学者だった。日本にはない藻類(もるい)を採取研究のためにヨーロッパを歩いているうちに、鉄火(てっか)の雨にうたれてしまったものらしい。
 博士の細胞から発生した――というと、へんないい方だが――その子、隆夫は、やはり父親に似て、小さいときから自然科学に対して深い興味を持っていた。そしてそれがこの二三年、もっぱら電波に集中しているのだった。
 隆夫は、学校から帰ってくると、あとの時間を出来るだけ多く、この小屋で送った。
 夜ふけになっても小屋から出て来ないことがあった。また、「お母さん、今夜は重要なアマチュア通信がありますから、ぼくは小屋で寝ますよ」などと、手製の電話機でかけてくることもあった。
 この小屋には、同じ組の二宮(にのみや)君と三木(みき)君が一番よく遊びに来た。この二人も、そうとうなアマチュアであった。
 隆夫の方はほとんどこの小屋から出なかった。友だちのところを訪(おとず)れることも、まれであった。
 そのような一畑少年が、この間から一生けんめいに組立を急いでいる器械があった。それは彼の考えで設計したセンチメートル電波の送受信装置であった。
 この装置の特長は、雑音がほとんど完全にとれる結果、受信の明瞭度(めいりょうど)がひじょうに改善され、その結果感度が一千倍ないし三千倍良くなったように感ずるはずのものだった。
 その外にも特長があったが、ここではいちいち述(の)べないことにする。
 その受信機は組立てられると、小屋の中にある金網(かなあみ)で仕切った。奥の方に据(す)えられたあらい金網が、天井から床まで張りっぱなしになっているのだ。その横の方が、戸のようにあく、そこから中へはいれる。その仕切りの中の奥に台がある。その上に例の受信機は据えられた。送信機の方は、もっとあとにならないと組上がらない。
 パネルは、金網の上に取付けてあった。受信機とパネルの間には、長い軸(じく)が渡されてあった。金網の外で、パネルの上の目盛盤(めもりばん)をまわすと、その長い軸がまわって、受信機の可動部品を動かすのである。
 金網はもちろんよく接地(せっち)してある。だからパネルの前に人間が近づいて、目盛盤をまわしても、受信回路の同調を破ったり、ストレー・フィールドを作って増幅回路へ妨害を与えたりすることはない。この金網は、じつは天井も床も四方の壁をも取り囲んでいて、つまり受信機は大きな金網の箱の中に据えられているわけだ。これほど念を入れてやらないと、波長がわずかに何センチメートルというような短い電波を、純粋にあつかうことはできないのだ。
 隆夫は、自分の受信機が、非常にすぐれていると信じていた。これが働きだしたら、ひょっとすると火星などから発信されている電波を受けることもできるのではないかとさえ考えていた。
 もちろん彼は、火星だけをあてにしているわけではなかった。最近の観測によると、火星には植物でもずっと下等な地衣類がはえているだけで、動物はまずいないのであろうといわれる。つまり火星人なんて棲(す)んでいないらしいというのだ。
 しかし宇宙は広大である。直径十億光年の大宇宙の中には、地球と似た遊星(ゆうせい)も相当たくさんあるにちがいないし、従ってその住民がやはり電波通信を行っているだろうし、そうだとすればその通信をとらえる可能性はあるはずだと考えていた。
 そしてあと二十年もすれば、われわれ人類はいよいよ宇宙旅行に手をつけるだろうが、それにはロケットをとばすよりも先に、電波をとばし、また相手から発射される電波信号をさぐることの方が先にしなくてはならない仕事だと思っていた。
 そういう意味において、隆夫は、こんど組立てた受信機に大きな望みと期待とを抱いていた。


   初めての実験


 すっかり組立を終った。
 隆夫は胸をおどらせて、金網の箱の外のパネルの前に、腰掛を寄せて、いよいよその受信機を働かせてみることになった。
 電源を入れた。
 しばらくすると、真空管のヒラメントがうす赤く光りだした。
 そこで五つの目盛盤をあやつると、天井から下向きにとりつけてある高声器から、がらがらッと雑音(ざつおん)が出て来た。
「おやッ。雑音は出て来ないはずだが、なぜ出て来るんだろう」
 雑音を完全に消すのが特長であるこの受信機が、スイッチを入れるが早いか、がらがらッとにぎやかに雑音を出したものだから、隆夫はすっかりくさってしまった。
「どこが悪いんだろうか」
 電気を切ると、隆夫は金網戸を開いて、器械のそばへ行った。
 せっかくつないだ接続をはずして、装置の各パートを、たんねんに診察しはじめた。それが終ったのが、朝の三時だった。結果は、どのパートも故障はなかった。
 それからまた電源や出力側の接続をやり直した。それが完了すると、金網戸のところを外へ出、ぴったりと戸をしめた。そしてパネルの前に再び腰を下ろし、もう一度頭の中で手落ちはないかと確(たしか)め、それから金網越しに、奥の台の上に列立する真空管や、鋭敏(えいびん)な同調回路の部品や、念入りに遮蔽(しゃへい)してあるキャプタイヤコードの匐(は)いまわり方へいちいち目をそそいだ。
「こんどこそ欠点なしだ」
 確信をもって彼は、電源のスイッチを入れた。そしてしばらく真空管の温(あたた)まるのを待った。
 がらがらッ。がらがらッ。
 雑音が、またも天井裏(てんじょううら)の高声器から降ってきた。
 しぶい顔をして隆夫は、又してもはねまわるぬ雑音に聞き入った。
「だめだッ」
 スイッチを切る。
「いったいどこがいけないのか、見当がつかないや。どこも悪くないんだがなあ」
 がっかりして、彼はとなりの図書室の長椅子(ながいす)の上にのびて、ねてしまった。
 その翌日のことであった。
 学校のかえりに、二宮(にのみや)と三木(みき)がついて来た。
 隆夫は二人を小屋の中の金網の前につれこんだ。そして前夜からのことをくわしく説明した。
「ちょっとスイッチを入れてみないか」
 二宮がいったので、「よおし」と隆夫は電源スイッチを入れた。
 すると間もなく、例のがらがらッ、が始まった。だが昨夜ほど大きくはなかった。とはいうものの、他のよわい通信を聞き分けることは、とてもできないくらい雑音の強さは桁(けた)はずれに大きかった。
 二宮も三木も、かわるがわるパネルの前に立って、隆夫にききながら目盛盤をまわしていろいろ調整をやってみたが、さっぱり通信の電波は受からなかった。
 ただ二宮は、こんなことをいった。
「この雑音ね、どの波長のところでも聞えることは聞えるけれど、この目盛盤で5から70ぐらいの間が強く聞えて、その両側ではすこし低くなるね」
「それはそうだね。その5と70の外では、急に回路のインピーダンスがふえるから、それで雑音も弱くなるのじゃないかなあ」
 隆夫が意見をのべた。
「そうだろうか。しかしぼくはね、この雑音はふつうの雑音ではないような気がする。やっぱり信号電波が出ているんじゃないかなあ。しかしその電波は、鋭敏に一つの波長だけで出していないんだ。そうとう広い波長帯で、信号を放送しているんじゃないかなあ」
 二宮は、かわった見方をしている。
「でもこれは雑音のようだぜ」
「ぼくもそう思う」
 三木も隆夫に賛成した。
 両説に分れたままで、その時は分れた。なぜならば、三人の少年たちの知識と実力とではそれを解決することができなかったからだ。
 友だち二人が帰ると、隆夫は小屋の中にひとりとなったが、気が落ちつかなかった。もう一度雑音を聞いてみた。雑音にちがいないと思いながらも、妙に二宮のいった広い波長帯をもった放送かもしれないという説が気になってならなかった。そこで彼は決心して、小屋から出ていった。母親にことわって、隆夫は外出した。彼が足を向けたのは、電波物理研究所で研究員をしている甲野博士(こうのはかせ)のところだった。若い甲野博士は、電波の研究が専門で、隆夫がアマチュアになったのも、この人のためで、隆夫の家とは遠い親戚(しんせき)にあたるのだった。


   博士の批判


 甲野博士にねだったかいがあって、博士はその日研究所の帰(かえ)り路(みち)に、隆夫の家へ寄ってくれることになった。
 もう退(ひ)け時(どき)に近かったので、隆夫はしばらく待ってから、博士と連(つ)れ立(だ)って、わが家へ向った。
 門を開いて、庭づたいに小屋の方へ歩いていると、お座敷のガラス戸ががらりとあいて母親が顔を出した。
 甲野博士へのあいさつもそこそこにして、
「ねえ、隆夫。たいへんなことができたよ」
 と、青い顔をしていった。
「どうしたの、お母さん」
「お前の研究室がたいへんなんだよ。さっきひどい物音がしたから、なんだろうと思っていってのぞいてみるとね……」
 母親は、あとのことばをいいかねた。
「どうしたんですか。早くいって下さい」
「中がめちゃめちゃになっているんだよ。なんでもご近所のドラ猫がとびこんだらしいんだがね、金網(かなあみ)の中であばれて、たいへんなことになっているよ」
「えっ、金網の中? それはたいへん」
 隆夫は夢中で小屋の方へ走った。甲野博士もあとから、隆夫の母親と連れだって小屋の方へゆっくり歩む。
 まったく小屋の中はたいへんなことになっていた。もっともそれは金網の箱室の中だけのことであったが、隆夫が一生けんめいに組立てた受信機がめちゃめちゃにぶちこわされていた。大切な真空管も、大部分はこわれていた。ドラ猫は中にいなかった。金網の戸がすこしあいていた。
「しまった」と隆夫は思った、よく閉めておかなかったのが悪かったのだ。なさけなさに、涙も出ず、隆夫は金網の戸をあけて中へはいったが、すみっこに鼠(ねずみ)のしっぽが落ちているのを見つけた。
「ははあ。するとこの中に鼠が巣をつくっていたのかもしれない。そのために、あの雑音が起ったのであろう」
 問題が解けたように思った。
 そこへ博士と母親とがはいって来た。
 隆夫は、甲野さんにすべてを説明した。猫にあばれこまれたらしい話までした。
 博士は、ちょっと考えていたが、
「さあ、鼠が巣をつくっていたのが雑音の原因かどうか、それはそうと考えられないこともないけれど、実際に装置を働かして聴いてみた上でないと、何ともいえないね」
 と、学者らしい慎重(しんちょう)さでいった。
「困ったなあ。こんなにこわされたんでは、もう一度こしらえ直すことが出来るかどうか……」
「まあ、そうがっかりしないで、元気を出して、またつくってみるんだね。およそ研究というものは、辛棒(しんぼう)くらべみたいなものだ。忍耐心がないと成功はおぼつかない。……とにかく、装置の再建ができたら、また来て、見てあげよう。しかし君は、なかなかむずかしいことに手を染めたようだね。どれ、接続図と設計図とがあるなら出してごらん」
 博士は図面を見て、いろいろとためになることを隆夫に注意した。が、最後にいった。
「……とにかく、とにかく、君は誰もやったことのない方法で受信をしようとしている。それだけに面白い。しかしはたして君に扱いきれるかどうか、疑問だね。そしてもしも異様(いよう)な雑音が出たなら、それを録音しておくといいね。録音しておけば、あとでゆっくり分析も出来る。ぼくがやってあげでもいい。まあ力をおとさないように」
 そういって甲野博士は、小屋を出た。
 隆夫は、その夜はへたばって、早く寝てしまった。
 翌日になると、隆夫は元気をもりかえした。ちょうど日曜だったので、彼は朝から「波動館」の中へはいり切りだった。
 二宮君と三木君もやって来たので、三人して、猫と鼠の格闘(かくとう)でめちゃめちゃになった装置の復旧(ふっきゅう)を手つだった。この仕事は、一日では終らなかった。あと四五日はかかるであろうと思われた。
 友だちが帰ってしまったあと、隆夫はひとりで金網室の中にぼんやりとしていた。が、彼は急に、電波のみだれ飛ぶ世界を耳でうかがってみたくて、たまらなくなった。
 そこで大急ぎで、残った部品を仮(か)りの接続でつなぎあわせ、金網の外へ出て、パネルについている電源スイッチをおそるおそる入れてみた。
 受信波長の調整もしてないから、どのあたりの電波に同調するか分らない。いやそれよりも、果して装置が働くかどうか疑問であった。
 真空管は、とぼった。さあ次は雑音が出る番だ――と思った。ところが、とつぜん天井の高声器から人の声がとび出した。ただの声でない。呻(うめ)くような、呪(のろ)っているような、男とも女とも分らない、いやな声であった。
 いったい何者なのか。電波怪異(でんぱかいい)はこのときに始まる。


   雑音(ざつおん)の推理


 まさしく、高声器から、音声が出ているのだった。それは、何をいっているのか、意味が分らなかったが、とにかくそれが音声であることは了解された。
 怪音だ。いや怪音声だ。
 隆夫は、うれしくて、ダイヤルをいろいろとひねくりながら、その怪音に聞きほれた。怪音が彼の気にいったのではなく、彼が長い間かかって組立てた極超短波受信機(ごくちょうたんぱじゅしんき)が始めて働いてくれたことがうれしかったのだ。
「すごい。すごい。たしかに働いている」
 彼は、にこにこ顔でひとりごとをいったが、そのうちに気がついたことは、このような一時的の配線では、どこかの電波を受信できながら、前に本格的にきちんと配線したときには、なぜ働いてくれなかったかということである。
「はじめの本格的配線のときには、いくども調べたんだから、配線にまちがいはないはずだ。どうもおかしいねえ」
 わけが分らない。あとで、一時的配線をよく調べてみよう。それは本格的配線と同じにやったつもりだが、あるいはどこかに違った配線をしているのかもしれない。早くそれを調べたいが、今はそのひまがない。なにしろ電波が今、現(げん)に、この受信機にキャッチされている最中なんだから……。
「はて、これは何を喋(しゃべ)っているのかな」
 隆夫は、第三段目になって、ようやく高声器から今出ている高声が、怪音というべき種類のものであることに注意をそそぐようになった。
「なにかいっている。調子が日本語のようだが、どうもよく分らない。ああ、そうか。音がゆがんでいる上に、雑音もかなり交(まじ)っているんだ。まず雑音をとってみよう」
 この雑音は、電波それ自身に交(まじ)っている雑音であった。その雑音を除(はぶ)くうまい方法を隆夫は知っていたから、早速(さっそく)その装置を持って来て、取付けた。
 すると、受信音は急にきれいになった。耳ざわりな雑音が除かれたためである。
 だが、あとに残った音声は、やはりアーティキュレーションがよくなかった。不明瞭(ふめいりょう)なのであった。
 音声のゆがみは、直す方法がない。
 もしありとすれば、それは受信機を構成している部品の特性の悪さや真空管のまずい使い方によるのであるが、そういう点については、隆夫は今までによく吟味(ぎんみ)してあったから自分のところの受信機はほとんどゆがみを生(しょう)じない自信があった。
 だからこの音声のゆがみは、その電波が受信機にはいる前に既に持っているゆがみなのだ。
 隆夫はここまで推理を進めていって、ふうーッと溜息をついた。推理は、やっと半道(はんみち)来たばかりだ。その先が、難物(なんぶつ)だ。とても手におえそうもない。
 が、勇敢にぶつかろう。
 音声ゆがみが、電波自体の中に既に含まれているものとすれば、それはどうしたわけでゆがみを生じたものであろうか。
 送信装置がよくないために、そこにゆがみを生ずる原因があると考える。これはめずらしくないことだ。拙劣(せつれつ)な変調装置を使うとか、マイクロホンがよくないとか、増幅装置(ぞうふくそうち)がうまいところで働いてないとか、そういう素因(そいん)によって音声はゆがめられる。
 だが、権威ある送信局から出るものは、そんな劣悪(れつあく)なゆがみを持っていないと断定していいだろう。素人の作った送信機だとか、何かの理由で、故障あるいは不調の送信機をやむを得ず使わなくてはならない場合だとか、あるいはまた、この通信に対して他からの露骨(ろこつ)な妨害が加えられた場合には、ゆがみが起るであろう。
 ゆがみの原因は、その他にもあろうが、だいたい今かぞえたのが普通考えられる場合である。
 いや、まだ有った。それは、その音声を発する者自体が、そんなゆがんだ音声しか出せない場合である。たとえば、酒に酔っぱらって、口がまわらなくなった人間が、マイクの前に立ったとすると、ゆがんだ音声がマイクに入る。百歳に近い老人が死床(しにどこ)にいて、苦しい息の下から遺言(ゆいごん)をするような場合も、音声は相当ゆがんでいるであろう。
 そんな場合でなくとも、生れつき発音が不明晰(ふめいせき)な人がある。そういう人がマイクの前に立てば、ゆがんだ音が送り出される。生れつきでなくとも、たとえば日本語を習いはじめたばかりの外国人から聞く日本語の発音のように、発音の不正確から来る音声のゆがみが考えられる。
「まず、ゆがみの原因について考えられることは、そのくらいであろう」
 隆夫は、可能な場合をほとんど残らず数えあげたと思って、ほっと吐息(といき)した。あとは、今の場合、ゆがみがどの原因によって起っているかを突き止めることだ。
 しばらく隆夫は、天井にとりつけた高声器から聞えてくるくしゃくしゃいう受信音に耳を傾けた。
「なんといういやな声だろう。何といっているのか、ちっとも分りやしない。うむ待てよ。これは参考のために録音しておこうや」
 隆夫は大急ぎで腰掛からとびあがった。そして録音機をとりに、となりの部屋へいった。


   苦しい会話


 録音が行われた。
 約五分間にわたって、録音された。
 隆夫は、その録音した受信機をもとにして不明瞭(ふめいりょう)な音声をなんとか分析して、その言葉の意味を読みとるつもりだった。
 それには少々装置の用意がいる。二三日はかかるであろう。
 隆夫は急に疲労をおぼえた。さっきから緊張のしつづけであったためであろう。となりの寝室へ行って、しばらく睡ることにした。あいかわらず高声器からは、わけのわからない言葉がひきつづき出ていた。隆夫は、受信機のスイッチを切ろうと手を出したが、そのとき気がかわって、スイッチは切らないでそのままにしておくことにした。
 隆夫は、軽便寝台(けいべんしんだい)の上に毛布にくるまって、ぐっすり睡った。
 ふと眼がさめた。
 が、まだ睡くてたまらない。ぴったりくっついた瞼(まぶた)をむりやりにあけて、夜光の腕時計を見た。
 午前三時だった。すると、あれから一時間半くらい睡ったわけだ。まだ猛烈に睡い。
 その睡いなかに、隆夫はふとぼそぼそと話し合っている人声を聞きとがめた。それは近くで話している。
「……さあ、君はそういうが、万一失敗したときには、どうするんだね」
「失敗したときは、失敗したときのことですわ。たとえ失敗しても、今のようなおもしろくない境遇(きょうぐう)にくらべて、この上大した苦痛が加わるわけでもありませんものね」
 女の声であった。
 男と女の話声だった。ゆっくりゆっくり、ぼそぼそと語り合っている。声は若いが、その語る調子は、ふけた老人のように低い空虚なものであった。
 隆夫はだんだん目がさめて来た。
「……そういう冒険は、よした方がいいと思うね。君は、僕がひっこみ思案だと軽蔑(けいべつ)するだろう。しかしね、僕は今までに君のような冒険を試みて、それに失敗して、ひどい目に会った連中のことをたくさん知っているのだ。彼らは、失敗してこっちへ戻ってくるともうすっかり気力(きりょく)がなくなってね、そのうえにあの世界でいろいろな邪悪(あく)に染(そ)まって、それを洗いおとすために、それはそれはひどい苦しみをくりかえすのだ。僕はとても長くはそれを見守っていられなかった……」
「もう、たくさんよ、そのお話は。そのようなことは、あたくしも知っていますし、そしていくども考えても見ましたの。その結果、あたくしの心は決ったんです。どうしても、行って見たい。肉体を自分のものにしたい。二度以上はともかくも、一度はぜひそうなってみたい。あなたがあたくしのために親切にながながといって下さったのはうれしいのですけれど、あたくしは、今目の前に流れて来ている絶好の機会をつかまないでいられないのです」
「ああ、それがあぶないんだ。僕は何十ぺんでも何百ぺんでも、君をひきとめる」
「どういったら、あなたはあたくしの気持を分って下さるでしょうか。じれったいわ」
「僕はどうあっても――」
「あ、ちょっと黙って……あ、そうだ。ええ、行きますとも。あたくしも。誰がこの絶好の機会をのがすものですか」
「お待ちなさい。あなたは、だまされているんだ。苦しみだけが待っている世界へ、あなたはなぜ行くのですか。……ああ、とうとう行ってしまった」
 男の声は、気の毒なほど絶望のひびきを持っていた。女の声は、それからあと、いくら待っても聞かれなかった。いや、男の声も、それっ切りで終った。
 隆夫は、今の会話の途中から、二人の会話がとなりの実験室の天井にとりつけてある高声器から出てくるものであることに気がついていた。
 なぜか理由はわからないが、さっきはあれほど不明瞭(ふめいりょう)だった音声が、目のさめたときから急に明瞭になったらしい。またその音声もずっと大きくなった。大きく、明瞭な話し声になったので、自分は目がさめたんだなと、隆夫は気がついた。
 念のために彼は、寝台から下りて、となりの実験室へいってみた。
 天井の高声器は、ちゃんと働いていた。もちろん音声は出ていないが、小さくがりがりと音がしていて、働いているのが知れた。
「ふしぎだ。ふしぎな会話だ。いったいどこの誰と誰との会話なんだろうか。まさか、あれが放送のドラマの一部だとは思われない。放送なら、あのあとにアナウンスがあるはずだし、あんな場面なら伴奏(ばんそう)がなくてはならないはず」
 この疑問は、すぐには解けなかった。
 やがて夜明けが来た。
 そして朝の行事がいつものように始まった。食事をしてから、隆夫は学校へいった。
 二宮孝作(にのみやこうさく)や四方勇治(よつかたゆうじ)がそばへやって来たので、隆夫はさっそく昨夜奇妙な受信をしたことを話して聞かせたら、二人とも「へーッ、そうかね」とびっくりしていた。
「三木(みき)はどうしたんだ。今日は姿が見えないね」
 三木にこの話をしてやったら一番よろこぶだろうに。
「三木か。三木は今日学校を休むと、ぼくのところへ今朝(けさ)電話をかけて来たよ」
 と、二宮がいった。
「ああ、そうか。また風邪をひいたのか」
「そうじゃない。病人が出来たといっていた」
「うちに病人? 誰が病気になったんだろう。彼が休むというからには、相当重い病気なんだろうね」
「ぼくも聞いてみたんだ。するとね、あまり外へ喋(しゃべ)ってくれるなとことわって、ちょっと話しがね、彼の姉さんのお名津(なつ)ちゃんがね、とつぜん気が変になったので、困っているんだそうな」
「へえーッ、あのお名津ちゃんがね」
「午前三時過ぎからさわいでいるんだって」
「午前三時過ぎだって」
 隆夫はそれを聞くと、どきんとした。


   脳波収録(のうはしゅうろく)


 なぜ隆夫は、どきんとしたか。
 そのわけは、それを聞いたとき、彼が知っている三木の姉名津子(なつこ)の声が、昨日の深夜、図らずも自分の実験小屋で耳にした女の声によく似ていることに気がついたからであった。実は昨夜もあの声を聞いたとき、どうも聞きおぼえのある声だとは思ったが、それが名津子の声に似ているとまで決定的に思出すことができなかったのだ。
(ふーん。これは重大問題だぞ)
 隆夫は、腹の中で、緊張した。
 しかし彼は、このことを三木たちに語るのをさし控えた。それは万一ちがっていたら、かえって人さわがせになるし、殊(こと)に病人を出して家中が混乱しているところへ、新しい困惑(こんわく)を加えるのはどうかと思ったのである。
 そのかわり、彼はこれを宿題として、自分ひとりで解いてみる決心をした。そして、いよいよ確実にそうと決ったら、頃合(ころあい)を見はからって三木に話してやろうと思った。
「どうして。君は急に黙ってしまったね」
 二宮が、隆夫にいった。隆夫は苦笑した。
「うん。ちょっと、或ることを考えていたのでね」
「何を考えこんでいたんだい」
「気が変になった人を治療する方法は、これまでに医学者によって、いろいろと考え出された。しかしだ、実際にこの病気は、あまりなおりにくい。それから、今までとは違った治療法を考えだす必要があると思うんだ。そうだろう」
「それはわかり切ったことだ」
 誰もみな隆夫のいうことに異議はなかった。
「そこでぼくは考えたんだが、そういうときに、病人の脳から出る電波をキャッチしてみるんだ。そしてあとで、その脳波を分析するんだ。それと、常人の脳波と比較してみれば、一層なにかはっきり分るのではないかと思う。この考えは、どうだ」
「それはおもしろい。きっと成功するよ」
「いや、ちょっと待った。脳波なんて、本当に存在するものかしらん。かりに存在するものとしてもだ、それをキャッチできるだろうか。どうしてキャッチする。脳波の波長はどの位なんだ」
 四方勇治(よつかたゆうじ)が、猛然と新しい疑問をもちだした。
「脳波が存在するかどうか、本当のことは、ぼくは知らない。しかし脳波の話は、この頃よくとび出してくるじゃないか。でね、脳波はいかなる理論の上に立脚(りっきゃく)して存在するか、そんなことは今ぼくたちには直接必要のない問題だ。それよりも、とにかく短い微弱(びじゃく)な電波を受信できる機械を三木君の姉さんのそばへ持っていって、録音してみたらどうかと思うんだ。もしその録音に成功したら、新しい治療法(ちりょうほう)発見の手がかりになるよ」
「それはぜひやってくれたまえ、隆夫君」
 この話をすると、三木は、はげしい昂奮(こうふん)の色を見せて、隆夫の腕をとらえた。
「おい、四方(よつかた)君。君はどう思う」
「脳波の存在が理論によって証明されることの方が、先決問題(せんけつもんだい)だと思うね。なんだかわけのわからないものを測定したって、しようがないじゃないか」
「いや、机の前で考えているより、早く実験をした方が勝ちだよ」と、二宮孝作(にのみやこうさく)が四方の説に反対した。
「元来(がんらい)日本人はむずかしい理屈をこねることに溺(おぼ)れすぎている。だから、太平洋戦争のときに、わが国の技術の欠陥をいかんなく曝露(ばくろ)してしまったのだ。ああいうよくないやり方は、この際さらりと捨てた方がいい。分らない分らないで一年も二年も机の前で悩むよりは、すぐ実験を一週間でもいいからやってみることだ。机の前では、思いもつかなかったようなことが、わずかの実験で“おやおや、こんなこともあったのか”と分っちまうんだ。頭より手の方を早く働かせたがいいよ」
「まあ、とにかく、その実験をやることにして、ぼくはその準備にかかるよ。隆夫君、手つだってくれるね」
 三木がそういったので、万事(ばんじ)は決った。もちろん隆夫は協力を同意したし、二宮も手を貸すといい、四方までが、ぼくにも手伝わせてくれと申出た。
 四人の協力によって、三日のちに、機械の用意ができた。
 その日の午後、一同は三木の家で、仕事を始めた。
 名津子(なつこ)の病床には、母親が病人よりもやつれを見せて、看護にあたっていた。まことに気の毒な光景だった。
 一同がその部屋にはいったとき、病人はすやすやと睡っていた。なるべく音のしないように、機械を持ちこんだ。
 機械は、電波をつかまえるため小さい特殊型空中線(とくしゅがたくうちゅうせん)と、強力なる二次電子増倍管(にじでんしぞうばいかん)を使用し、受信増幅装置(じゅしんぞうふくそうち)と、それから無雑音(むざつおん)の録音装置とを組合わせてあった。 そして脳から出る電波の収録(しゅうろく)をすると共に、病人の口から出ることばとを同時録音することも出来るようになっていた。
 いよいよその仕事が始まった。
 病人の目をさまさないうちに、睡眠中病人の脳から出ている電波をとらえることになった。隆夫は受信機の調整にあたり、三木は空中線を姉の頭の近くへ持っていって、いろいろと方向をかえてみる役目を引受けた。あとの二人は録音や整理の仕事にあたる。


   深夜(しんや)の影


「どうだい、何か出るかい」
 受信機が働きはじめたとき、三木はすぐそれをたずねた。
「いや出ない」
「だめなのかな」
「そうともいえない、とにかくいろいろやってみた上でないと、断定(だんてい)はできない」
 隆夫は、波長帯(はちょうたい)を切りかえたり、念入りな同調(どうちょう)をやったり、増幅段数(ぞうふくだんすう)をかえたりして、いろいろやってみた。
「この機械の受信波長(じゅしんはちょう)は、どれだけのバンドを持っているのかね」
 四方(よつかた)が、隆夫に聞く。
「波長帯は、一等長いところで十センチメートル、一等短いところでは一センチの千分の一あたりだ」
「そうとうな感度を持っているねえ」
「いや、その感度が一様(いちよう)にいってないので、困っていることもあるんだ」
 電波は長波(ちょうは)、中波(ちゅうは)、短波(たんぱ)と、だんだん波長が短くなってきて、もっと短くなると超短波(ちょうたんぱ)となり、その下は極超短波(ごくちょうたんぱ)となる。そのへんになると赤外線(せきがいせん)の性質を帯(お)びて来る。一センチの何千万分の一となると、もう電波であるよりも赤外線だ。そうなると、装置はますますむずかしさを加える。
「なんか出て来たよ。しかしさわがないでくれたまえ」
 隆夫が昂奮(こうふん)をおしつけかねて、奇妙な声を出す。
 一同の顔が、さっと紅潮(こうちょう)して、隆夫の顔に集まる。
 隆夫は手まねで三木に空中線の向きや距離をかえさせる。そしていそがしくスイッチを切ったり入れたりして、その目は計器の上を走りまわる。
「これらしい。これがそうだろう」
 隆夫はひとりごとをいっている。
「ああッ、飛ぶ、飛ぶ、赤い火がとぶ……」
 とつぜん、高い女の声。
 名津子(なつこ)が口を聞いたのだ。彼女は目がさめたものと見え、むっくりと床から起上ろうとして、母親におさえられた。
「名津ちゃん。おとなしくしなさい。母さんはここにいますよ」
 母親は涙と共に娘をなだめる。
 それからの三十分間は電波収録班大苦闘(でんぱしゅうろくはんだいくとう)の巻(まき)であった。なにしろ目がさめた名津子は、好きなように暴れた。弟の三木も何もあったものではなく、空中線はいくたびか折られそうになった。母親と三木は、そのたびに汗をかいたし、隆夫たちははらはらしどおしだった。そして予定よりも早く実験を切りあげてしまった。
 三木に別れをつげて、残る三人の短波ファンは、そこを引揚げた。
 三人は隆夫の実験小屋へ機械をもちこんで、しばらく話し合った。すると、二宮がしかつめらしい顔をして、こんなことをいいだした。
「人間のからだが生きているということはね。からだをこしらえている細胞の間は、放電現象が起ったり、またそれを充電したり、そういう電気的の営(いとな)みが行われていることなんだとさ。だから三木の姉さんみたいな人を治療するのには、感電をさせるのがいいんじゃないかな。つまり電撃作戦(でんげきさくせん)だ」
「それは電撃作戦じゃなくて、電撃療法(りょうほう)だろう」
「ああ、そうか。とにかく高圧電気を神経系統(しんけいけいとう)へぴりっと刺(さ)すと、とたんに癒(なお)っちまうんじゃないかな」
「それは反対だよ」
 四方が首を振った。
「なぜだい、なにが反対だい」
「だって、そうじゃないか。神経細胞は電線と同じように、導電体(どうでんたい)だ。しかも弱い電流を通す電路なんだ。そこへ高圧電気をかけるとその神経細胞の中に大きな電流が流れて、神経が焼け切れてしまう。そうなれば、人間は即座(そくざ)に死ぬさ」
「いや、電流は流されないようにするんだ。そうすれば神経細胞は焼け切れやしないよ。ねえ、隆夫君、そうだろう」
「さあ、どっちかなあ。ぼくは、そのことをよく知らないから、答えられない」
 この問題は懸案(けんあん)になった。
 そこへ隆夫の母が、甘味(あまみ)のついたパンをお盆(ぼん)にのせてたくさん持って来てくれたので、三人はそれをにこにこしてぱくついた。やがてお腹がいっぱいになると、急に疲れが出て来て、睡くなった。それだから、その日はそれまでということにして、解散した。
 さて、その夜のことである。
 隆夫はひとりで実験小屋にはいった。
 彼は、今日とって来た録音が気がかりで仕方がなかった。
 それで脳波の収録のところを再生してみることにした。つまり、もう一度脳波にして出してみようと思ったのだ。
 隆夫は、大急ぎでその装置を組立てた。
 それから脳波を収録したテープをくりだして、その送信機につっこんだ。
 もちろん隆夫には、その脳波は聞えなかったけれど、検波計(けんはけい)のブラウン管で見ると、脳波の出力(しゅつりょく)が、蛍光板(けいこうばん)の上に明るいあとをひいてとびまわっているのが見えた。
 隆夫は、この脳波を、いかにしてことばに変化したらいいかと考えこんだ。
 その間に収録テープは、どんどんくりだされていた。脳波は、泉から流れ出す清流(せいりゅう)のように空間に輻射(ふくしゃ)されていたのだ。
 それを気に留めているのか、いないのか、隆夫は腰掛にかけ、背中を丸くして考えこんでいる。
 そのとき隆夫のうしろに、ぼーッと人の影が浮び出た。若い男の姿であった。その影のような姿は、こまかく慄(ふる)えながら、すこしずつ隆夫のうしろへ寄(よ)っていく。
「もしもし、一畑(いちはた)君。君の力を借りたいのです。ぼくに力を貸してくれませんか」
 陰気(いんき)な、不明瞭(ふめいりょう)なことばが、その怪影(かいえい)の口から発せられた。
 そのとき隆夫は、ふと我れにかえって、身ぶるいした。そしてふしぎそうに見廻したが遂に怪影を発見して
「あッ。あなたは……」
 と、おどろきの声をのんだ。


   意外な名乗(なの)り


 隆夫(たかお)は、ぞおーッとした。
 急にはげしい悪寒(おかん)に襲(おそ)われ、気持がへんになった。目の前に、あやしい人影をみとめながら、声をかけようとして声が出ない。脳貧血(のうひんけつ)の一歩手前にいるようでもある。
(しっかりしなくては、いけないぞ!)
 隆夫は、自分の心を激励(げきれい)した。
「気をおちつけなさい。さわぐといけない。せっかくの相談ができなくなる」
 低いが、落ちつきはらった声で、一語一語をはっきりいって、隆夫の方へ近づいて来た影のような人物。ことばははっきりしているが、顔や姿は、風呂屋の煙突(えんとつ)から出ている煙のようにうすい。彼の身体を透してうしろの壁にはってあるカレンダーや世界地図が見える。
(幽霊というのは、これかしらん)
 もうろうたる意識の中で、隆夫はそんなことを考える。
「ほう。だいぶん落ちついてきたようだ。えらいぞ、隆夫君」
 あやしい姿は、隆夫をほめた。
「君は何物だ。ぼくの実験室へ、無断(むだん)ではいって来たりして……」
 このとき隆夫は、はじめて口がきけるようになった。
「僕のことかい。僕は大した者ではない。単に一箇の霊魂(れいこん)に過ぎん」
「れ、い、こ、ん?」
「れいこん、すなわち魂(たましい)だ」
「えッ、たましいの霊魂(れいこん)か。それは本当のことか」
 隆夫はたいへんおどろいた。霊魂を見たのは、これが始めてであったから。
「僕は霊魂第十号と名乗っておく。いいかね。おぼえていてくれたまえ」
「霊魂の第十号か第十一号か知らないが、なぜ今夜、ぼくの実験室へやって来たのか」
 隆夫は、まだ気分がすぐれなかった。猛烈に徹夜の試験勉強をした上でマラソン二十キロぐらいやったあとのような複雑な疲労を背負っていた。
「君が呼んだから来たのだ。今夜が始めてではない。これで二度目か三度目だ」
 あやしい影は、意外なことをいった。
「冗談をいうのはよしたまえ。ぼくは一度だって君をここへ呼んだおぼえはない」
「まあ、いいよ、そのことは……。いずれあとで君にもはっきり分ることなんだから。それよりも早速(さっそく)君に相談があるんだ。君は僕の希望をかなえてくれることを望む」
 霊魂第十号ははじめから抱いていた用件を、いよいよ切り出した。
「話によっては、ぼくも君に協力してあげないこともないが、しかしとにかく、君の礼儀を失した図々(ずうずう)しいやり方には好意がもてないよ」
「うん。それは僕がわるかった。大いに謝る。そして後で、いくらでも君につぐないをする、許してくれたまえ」
 第十号は、急に態度をかえて、隆夫の前に謝罪(しゃざい)した。
「……で、どんな相談なの」
「それは……」霊魂第十号は、彼らしくもなく口ごもった。
「いいにくいことなのかね」
「いや、どうしても、今、いってしまわねばならない。隆夫君、僕は君に、しばらく霊魂だけの生活を経験してもらいたいんだ。承知してくれるだろうね」
「なに、ぼくが霊魂だけの生活をするって、どんなことをするのかね」
「つまり、君は今、肉体と霊魂との両方を持っている。それでだ、僕の希望をききいれて、君の霊魂が、君の肉体から抜けだしてもらえばいいんだ。それも永い間のことではない。三カ月か四カ月、うんと永くてせいぜい半年もそうしていてもらえばいいんだ。なんとやさしいことではないか」
 あやしい影は、隆夫が目を白黒するのもかまわず、奇抜(きばつ)な相談をぶっつけた。
「だめだ。第一、ぼくの霊魂をぼくの肉体から抜けといっても、ぼくにはそんなむずかしいことはできない。それにぼくは現在ちゃんと生きているんだから、霊魂が肉体をはなれることは不可能だ」
「ところが、そうでなく、それが可能なんだ。そして又、君の霊魂に抜けてもらう作業については、すこしも君をわずらわさないでいいんだ。僕がすべて引き受ける。君はただそれを承知しさえすればいいんだ。めったにないふしぎな経験だから、後で君はきっと僕に感謝してくれることと思う。承知してくれるね」
 隆夫はこの話に心を動かさないわけでもなかった。しかし、不安の方が何倍も大きかった。もっと相手が、自分に十分の安心をあたえるように説明してくれたら、一カ月やそこいらなら霊魂だけでとびまわってみるのもおもしろかろうと思った。
 が、そのときだった。隆夫は急に胸苦(むなぐる)しさをおぼえた。はっとおどろくと、あやしい影が隆夫のくびをしめつけているではないか。
「なにをする。ぼくはまだ承諾(しょうだく)していないぞ。それはともかく、人殺(ひとごろ)しみたいに、ぼくのくびをしめるとはなにごとだ」
 隆夫は苦しい息の下から、あえぎあえぎ、相手をののしった。
「はははは。はははは」
 相手は、ほがらかに笑いつづける。隆夫は腹が立ってならなかった。しかし自分の意識が刻々うすれていくのに気がつき恐慌(きょこう)した。
「はははは。もうすこしの辛棒(しんぼう)だ」
「なにを。この野郎」
 隆夫は、残っているかぎりの力を拳(こぶし)にあつめ、のしかかってくる相手の上に猛烈なる一撃を加えた――と思った。果して加え得たかどうか、彼には分らなかった。彼は昏倒(こんとう)した。


   早朝の訪問者


 その翌朝(よくあさ)のことであった。
 三木健が、自分の家の玄関脇の勉強室で、朝勉強をやっていると、玄関に訪(と)う人の声があった。
 三木はすぐ玄関へ出て扉をあけた。
「お早ようございます。名津子さんの御容態(ごようだい)[#ルビの「ごようだい」は底本では「ごようたい」]はいかがですか。お見舞にあがりました」
「はッはッはッ。よしてくれよ、そんな大時代な芝居がかりは……」
 三木は腹を抱えて笑った。
 というわけは、玄関の扉をあけてみると、そこに立っているのは余人にあらず、仲よし友達のひとりである一畑隆夫(いちはたたかお)であったから。その隆夫が、なんだって朝っぱらからやってきて、この鹿爪(しかつめ)らしい口のききかたをするのか、それは隆夫が三木をからかっているのだとしか考えられなかった。
「これはこれは健君。失敬をした。許してくれたまえ。姉さんに会いたいんだがね、よろしくたのむ」
 隆夫は、三木が笑ったときに、どういうわけかあわてて逃げ腰になった。が、すぐ立ち直って、このように応対(おうたい)をした。
 三木は、べつに隆夫のことを何とも思っていなかった。
「うん。それじゃ今母に知らせてくるからね。ちょっと待っていてくれ」
「いや、待てない。すぐ会いたい」
 隆夫はひどく急いでいる。三木は、隆夫のおしの強いのに、すこし気をわるくした。だが大したことではないと、三木はすぐ自分の気持を直した。
「でも、病人だからね、様子を見た上でないと、かえって病気にさわると悪いから」
「じゃあ早くしてくれたまえ」
「よしよし」
 三木は母親のところへとんでいって、今、隆夫君が来てこうこうだと話した。母親は、昨夜親切に隆夫たちが来て、器械を使って調べていってくれたことをたいへん感謝していて、それでは病人の様子を見ましょうとて、病室にはいった。
 名津子は、血の気のない顔で、髪を乱したまま、すやすやと睡っていた。
 そこで母親は三木のところへ戻って来て、今病人は疲れ切ってすやすや睡っているから、目がさめるまで、しばらくの間、隆夫さんに待っていてもらうようにといった。
 三木は、そのことを隆夫のところへ来て話した。
 すると隆夫は、大いに不満の顔つきになって、
「君たちは、ぼくを名津子さんに会わせまいとするんだな。けしからんことだ」
 と、意外にきついことばをはいた。
 これには三木もあきれてしまった。そんなことがあろうはずはない。隆夫はなにをかんちがいしているのであろうかと、三木はそれからいくどもくりかえして、昨夜(さくや)姉があばれたり泣いたり、叫んだりして、ほとんど一睡もしなかったことを語り、
「………だから、今疲れ切ってすやすや睡っているんだ。できるだけゆっくりねかしておきたい、でないと、姉は衰弱がひどくて、重態(じゅうたい)に陥(おちい)る危険があるのだ」
 というと、隆夫は、なるほど、そうかそうかと合点して、ややおとなしくなった。しかし名津子の目がさめたら、すぐ自分のところへ知らせること、そしてすぐ自分を病室へつれていって名津子にあわせることを、くどくどとのべて、三木に約束させた。
 三木は、このときになって、拭(ぬぐ)い切(き)れない疑問を持つに至った。
(どうも隆夫君の様子がへんだぞ。なぜ今日になって、姉に会いたがるのか、さっぱりわけが分らない。昨夜の実験の結果、急に姉に会う必要が生じたのかしら。それならそれといいそうなものだが……。なんだか隆夫君までおかしくなって来た)
 隆夫は、三木の勉強部屋へ通された。
 しかし彼は三木に向きあったまま、急に無口(むくち)になってしまった。なにかしきりに考えこんでいるようである。ふだんの明るい隆夫の調子は見られない。
 そこで三木は、話しかけた。
「昨夜、電波収録装置(でんぱしゅうろくそうち)に取っていった、あれはどうしたね。結果は分ったかい」
「あれか。あれはよく取れていたよ」
「そうか。するとあれを使って、これからどうするのか」
「どうするって。さあ……」隆夫は困った顔になった。
「どうするって、とにかくあれは参考になるね」
「君は、もしあの中に、電波が収録されていたら大発見だ。そしてそうであれば姉の病気についても、新しい電波治療が行えることになろうといっていたが、それはどうだね」
 隆夫はなぜか狼狽(ろうばい)の色を見せ、
「いや、そんなことはでたらめだ。病人を電波の力で癒(なお)すなんて、そんなことは出来るものではない」
「おかしいね。さっき君のいったことともくいちがっているし、君が日頃語っていたところともちがう。いったいどれが本当なんだ」
「断(だん)じて、僕はいう。君の姉さんの病気はきっと僕がなおして見せる。そのかわり、昨日僕がいったことは、一時忘れていてくれたまえ。今日から僕は、新しい方法によって、名津子さんの病気を完全になおしてみせる。もし不成功に終ったら、僕はこの首を切って、君に進呈(しんてい)するよ」
 そういって隆夫は、自分のくびを叩いた。ひどく昂奮(こうふん)している様子だった。
 そのとき母親がはいってきて、名津子が目がさめたようですから、と隆夫たちを迎えに来た。
 昨日にかわり隆夫の様子がちがっているのは、どうしたことであろうか。


   ここは何処(どこ)


 ここまで書いてくると、賢明なる読者は、怪しい隆夫のふるまいのうしろに何が有るかを、もはや察せられたことであろう。
 そのとおりである。
 名津子を見舞に来た隆夫は、その肉体はたしかに隆夫にちがいないが、その肉体を支配している霊魂(れいこん)は、隆夫の霊魂ではないのだ。それは例の霊魂第十号なのである。
 前夜隆夫は、とつぜん霊魂第十号の訪問をうけ、そして肉体を半年ほど借りたいから承知をしろと申入れられた。隆夫は、それをことわった。すると隆夫は、とつぜん首をしめられ、人事不省(じんじふせい)に陥ったのだ。
 その直後、どういう手段によったものか分らないが、隆夫の肉体から隆夫の霊魂が追い出され、それにかわって霊魂第十号がはいりこんだのである。まさにこれはギャング的霊魂だといわなくてはならない。
 とにかくこんなわけだから、翌日隆夫が三木家をたずねたとき、とんちんかんのことばかりいい、家人から不審(ふしん)をかけられたのだ。つまり第十号としては、隆夫の霊魂に入れ替(かわ)ったものの、すべて隆夫のとおりをまねることはできなかったし、また隆夫の記憶や思想をうまく取り入れることは一層むずかしかった。
 だが、第十号としては、すこしぐらい人々から怪しまれることは、がまんするつもりだった。それよりも、彼がねらっていることは、名津子に近づくことだった。名津子の霊魂にぴったり寄りそっていたいばかりに、彼はこの思い切った行動を起したのだ。しかしながら、彼の筋書(すじがき)どおりに、万事がうまくいくかどうか、それはまだ分らない。
 それはそれとして、一方、霊魂第十号のために肉体から追い出された隆夫の霊魂は、一体どうなったのであろうか。
 彼の霊魂は、肉体と同じに、一時もうろう状態に陥っていた。いや、時間的にいえば、肉体の場合よりもはるかに永い間にわたってもうろう状態をつづけていた。第十号が、彼の肉体にはいりこんで、三木健の家を訪問してぺちゃくちゃしゃべっているときにも、隆夫の霊魂は、まだもうろうとして、はてしなき空間をふわついていた。
 彼のたましいが、われにかえったのは、それから十四日ののちのことだった。
 たましいが、われにかえるというのは、おかしないい方であるが、肉体の中にはいっているときでも、たましいというやつは、よく死んだようになったり、生きかえったりするものである。ねむりと目ざめ。不安におちいることと大自信にもえること。人事不省と覚醒(かくせい)。酔(よ)っぱらいと酔いざめ。そのほか、いろいろとあるが、このようにたましいというやつは、いつも敏感(びんかん)で、おどおどしており、そして自分からでも、また他からの刺戟(しげき)によっても、すぐ簡単に状態を変える。
 とにかく、彼のたましいがわれにかえったとき、「おやおや」と起きあがってあたりを見まわすと、見なれないところへ来ていることが分った。
 そこは、枯草(かれくさ)がうず高くつんであるすばらしく暖かな日なただった。ゆらゆらと、かげろうが燃え立っていた。その中に、隆夫の霊魂は立っているのだった。彼の霊魂も、かげろうと同じように、ゆらゆら動いているような気がした。
 前方を見ると、美しい大根畑が遠くまでひろがっていた。まるでゴッホの絵のようであった。
 うしろの方で、モーという牛の声がした。うしろには小屋が並んでいた。そのどれかが牛小屋になっているらしい。
 かたかたかたと、いやに機械的なひびきが聞えてきた。ずっと西の方にあたる。その方へ隆夫の霊魂はのびあがった。トラクターが動いているのだった。土地を耕(たがや)している。それは遥(はる)かな遠方だった。
「広いところだなあ。一体ここはどこかしらん」
 すると、彼の前へ、とつぜんパイプをくわえ、肩に鍬(くわ)をかついだ農夫が姿をあらわした。そして農夫の顔を見たとき、隆夫のたましいは、あっとおどろいた。
「ややッ、ここは日本じゃないらしい」
 農夫は白人(はくじん)だった。
 白人の農夫がいるところは、日本にはない。しばらくすると、小屋のうしろから、若い女の笑い声が聞えて、隆夫のたましいの前へとび出して来たのは、三人の、目の青い、そして金髪(きんぱつ)やブロンドの娘たちだった。
「たしかにここは日本ではない。外国だ。どうして外国へなど来てしまったんだろう」
 そのわけは分らなかった。
 隆夫のたましいは、農夫たちの会話を聞いて、それによってここがどこであるかを知ろうとつとめた。彼らの話しているのは、外国語であった。それはドイツ語でもなく、スラブ語でもなかったが、それにどこか似ていた。ことばとしては、隆夫はそれを解釈(かいしゃく)する知識がなかったけれど、幸いというか、隆夫は今たましいの状態にいるので、彼ら異国人の話すことばの意味だけは分った。
 そして、ついにこの場所がどこであるかという見当がついてきた。それによると、ここはバルカン半島のどこかで、そして割合にイタリアに近いところのように思われる。ユーゴスラビア国ではないかしらん。もしそうなら、アドリア海をへだててイタリアの東岸(とうがん)に向きあっているはずだった。
 どうしてこんなところへ来てしまったんだろう。


   霊魂(れいこん)の旅行


 だんだん日がたつにつれ、隆夫のたましいは、たましい慣(な)れがしてきた。はじめは、どうなることかと思ったが、たましいだけで暮していると、案外気楽なものであった。第一食事をする必要もないし、交通禍(こうつうか)を心配しないで思うところへとんで行けるし、寒さ暑さのことで衣服の厚さを加減(かげん)しなくてもよかった。そして、睡りたいときに睡り、聞きたいときに人の話を聞き、うまそうな料理や、かわいい女の子が見つかれば、誰に追いたてられることもなく、いく時間でもそのそばにへばりついていられた。もっとも、そのうまそうな御馳走を味わうことは、たましいには出来なかったが……。
 そういうわけで、隆夫のたましいは、一時東京の家のことや母親のことや、それから友だちのことなどもすっかり忘れて、気軽なたましいの生活をたのしんでいた。
 いつも寝起きしていた枯草の山が、トラックの上へ移しのせられ、どこかへはこばれていく。それを見た隆夫のたましいは、いっしょにそのトラックに乗って行ってみようと思った。
 その日は、天気が下り坂になって来て風さえ出て来たので、農夫たちは急いで枯草(かれくさ)を車へのせ、その上をロープでしっかりしばりつけた。それから荷主の農夫が、パイプをくわえたまま、トラックの運転手にいった。
「とにかくカッタロの町へはいったら、海岸通(かいがんどおり)のヘクタ貿易商会(ぼうえきしょうかい)はどこだと聞けば、すぐに道を教えてくれるからね」
「あいよ。うまくやってくるよ」
 トラックは走りだした。
 隆夫のたましいは、枯草の中へ深くもぐりこんで、しばらく睡ることにした。車が停ったら、起きて出ればよいのだ。そのときはカッタロの町とかへ、ついているはずだ。
 たましいは、ぐっすり寝こんだ。
 運転手の大きな声で、目がさめた。枯草をかきわけて出てみると、なるほど町へついていた。古風(こふう)な町である。が、町の向うに青い海が見える。港町だ。
 港内には、大小の汽船が七八隻(そう)碇泊(ていはく)している。西日が、汽船の白い腹へ、かんかんとあたっている。
 トラックが、また走りだした。
 港の方を向いて走る。隆夫のたましいは、車上からこの町をめずらしく、おもしろく見物した。革命と戦火にたびたび荒されたはずのこの港町は、どういうわけか、どこにも被害のあとが見られなかった。そしてどこか東洋人に似た顔だちを持った市民たちは、天国に住んでいるように晴れやかに哄笑(こうしょう)し微笑し空をあおぎ手をふって合図をしていた。婦人たちの服装も、赤や緑や黄のあざやかな色の布(ぬの)や毛糸を身につけて、お祭の日のように見えた。
 そのうちにトラックは、海岸通へ走りこんで、ヘクタ貿易商会の前に停った。枯草は、この商会が買い取るらしい。そのような取引を、隆夫のたましいは見守っていたくはなかった。彼は、今しも岸壁(がんぺき)をはなれて出港するらしい一隻の汽船に、気をひかれた。
 彼は燕(つばめ)のように飛んで、その汽船のマストの上にとびついた。ゼリア号というのが、この汽船の名だった。五百トンもない小貨物船であった。
 それでも岸壁には、手をこっちへ振っている見送り人があった。船員たちが、ハンドレールにつかまって、帽子をふって、岸壁へこたえている。煙突(えんとつ)のかげからコックが顔を出して、ハンカチをふっている。隆夫のたましいが、つかまっているマストの綱(つな)ばしごにも、二三人の水夫がのぼって、帽子を丸くふっていた。かもめでもあろうか、白い鳥がしきりに飛び交っている。その仲間の中には、隆夫のたましいのそばまで飛んできて、つきあたりそうになるのもいた。
「港外まで出ないと、ごちそうを捨ててくれないよ」
「早く捨ててくれるといいなあ。ぼくは腹がへっているんだ」
 かもめは、そんなことをいいながら、この汽船が海へ捨てるはずの調理室(ちょうりしつ)の残りかすを待ちこがれていた。
 隆夫のたましいは、久しぶりにひろびろとした海を見、潮(しお)のにおいをかいで、すっかりうれしくなり、いつまでも眺めていた。白い航跡(こうせき)が消えて、元のウルトラマリン色の青い海にかえるところあたりに、執念(しゅうねん)ぶかくついてきた白いかもめが五六羽、しきりに円を描いては、漂流(ひょうりゅう)するごちそうめがけて、まい下りるのが見られた。
 船の舳(とも)が向いている方に、ぼんやりと雲か島か分らないものが見えていたが、それは陸地だと分った。左右にずっとのびている。そうだ、あれだ、イタリア半島なのだ。するとこの船はイタリア半島のどこかの港にはいるのにちがいない。一体どこにつくのだろうか。
 隆夫のたましいは、もうすっかり大胆(だいたん)になっていたので、マストをはなれて下におりてきた。
 そして船橋(せんきょう)へとびこんだ。そこには船長と運転士と操舵手(そうだしゅ)の三人がいたが、誰も隆夫のたましいがそこにはいってきたことに気のつく者はいなかった。
 その運転士が、航海日記をひろげて、何か書きこんでいるので、そばへ行って見た。その結果、この汽船は、対岸(たいがん)のバリ港へ入るのだと分った。
 やがてバリ港が見えてきた。
 小さな新興(しんこう)の港だ。カッタロ港とは全然おもむきのちがった港だった。
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