海底都市
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著者名:海野十三 

 僕は未練(みれん)なようだが、更にカスミ女史に聞きただした。
「それはもちろんそういうわけでしょう。かんじんの本人が冷凍されちまって、脳も働かなくなり、細胞もなにも凍ってしまえば、動きがとれないじゃありませんか」
「そうですかねえ。そして、それからどんな目にあうんですか。つまり刑罰(けいばつ)の重さはどんなものでしょうね」
「罰の重い軽いに従って、冷凍時間に長い短いがあります。また、たびたび罰を重(かさ)ねる悪質の者は、永久冷凍にして、物置などの壁の材料に使われます」
「永久冷凍にして、物置などの壁の材料に使うというと、どんなことになるんですかね」
 僕には、カスミ女史の言葉の意味がはっきりのみこめなかった。
「つまりそれは、永久冷凍なんだから、コンクリートや煉瓦(れんが)や材木などと同じような固い材料なんですからねえ。ですから冷凍人体をたくさん積みあげ、壁などをこしらえるわけです。冷凍の物置などにはよく使われていますよ」
 おやおや、たいへんな目にあうものだと、僕は気持ちがわるくなった。百年も千年も、物置の壁になって暮しているなんて、人間のやることではない。
「なんとか合法的に、この国に停(とどま)る道はないものでしょうか」
 冷凍物置の壁にされちまわない先に、なんとか安全な道をとっておきたいものだと考えた。
「そうですね」
 カスミ女史は首をかしげる。
「ないことはありませんが、手続きがなかなか面倒でしてね……」
「手続きの面倒なくらいはいいですよ。なにしろ冷凍人間になってしまわない先に、その手を打っておかないと、後悔(こうかい)してもおいつきませんからね。どうぞその方法を教えて下さい。それは一体どうすればいいのですか」
「それはね……でもたいへんなのですよ、そのことは……」
 と、カスミ女史はいいにくそうにしている。
「早く教えて下さい。どんことでも、僕はおどろきやしませんよ。とにかく何かの合理的な手段によって、この国で当分暮すことが出来れば、たいへんうれしいのです」
 実は、僕は例の黄金をこの国から持ち出して、本当の東京へ土産に持って行こうという気を起こしているのである、しかしこのことはうっかり誰にももらすことが出来ない。そんなことが分ったら、それこそ僕は永久に冷凍されちまって壁の代用品にならなければならない。
「その方法の一つは、研究材料になるのです。つまり、あなたの場合なら二十年前の人間として、二十年前あるいはそれより以前(いぜん)の生活や社会事情や人格(じんかく)や嗜好(しこう)、言動(げんどう)、能力などといういろいろな事柄(ことがら)を研究する材料になることですね。それなら考古学者(こうこがくしゃ)が欲しいというかもしれません」
「ははあ、考古学者ですかね」
 僕は急に自分がかびくさい人間になってしまったような気がした。
「あるいは、医科大学の標本室へ入れておかれる手もありますがねえ」
「ああ、それも悪くないですね。大学生を相手に、僕が話をしてやればいいのでしょう」
「それもありますけれど、主な仕事は、はだかになって、身体をいじらせることです。男の大学生も女の大学生も居ますが、この二十年に人類ばどんな進化をしたか、性能はどんなに変化したか、それを器械で調べるのです。なにしろ学生なもんで、扱い方が乱暴で、一二ヶ月のうちに手足がもげてばらばらになってしまうそうです」
「ああ、それは駄目だ」
 手足がもげてばらばらになるなど、うれしいことではない。
「やっぱり考古学の方がいいですね。どこかに親切な思いやりのある学者を御存じでしょうか」
「そうですね」カスミ女史は目をぱちぱちさせていたが、
「実は私の夫のカビ博士は考古学者なんです。話をしてみたら、あるいはあなたが欲しいというかもしれません。でもね、あなたは辛抱(しんぼう)なさるでしょうか」
 僕はよろこんだ。カスミ女史の夫なら、きっといい人であろう。
「辛抱はしますよ。僕、これでなかなか辛抱づよいのですからね」
「でも、私の夫のカビ博士は、学問に熱心のあまり、時には気が変になるのですよ」
「え、気が変に? いや、それでもいいですよ、僕がこの国に停(とどま)っていられるなら……」
 前後も考えず、僕は決めてしまった。


   考古学教室


 このすばらしい海底都市に、もっと永く居たいばかりに、僕はいろいろと苦労をしなければならなかった。
 僕の欲が探すぎると責(せ)めてはいけない。誰だって僕みたいな境遇(きょうぐう)におかれるなら、きっと僕と同じ考えをおこすにちがいない。なんにしても二十年後のこのすばらしい海底都市の文化発達のありさまを一目見た者は、もとの焼跡(やけあと)だらけの、食料不足の、衣料ぼろぼろの、悪漢(あっかん)だらけの一九四八年の東京なんかに戻りたいと誰も思わないだろう。
 そのように、元の東京へ戻りたくないのであるが、僕を時間器械にのせてここへ送ってくれた、友人辻ヶ谷君は、いつその器械をまわして、僕をもとの焼跡へよび戻すかしれないのだ。彼との約束は僕がたった一時間だけ、二十年後の世界を散歩することだった。こうと知っていたら、半年か一年の長期にわたる逗留(とうりゅう)を頼んでおいたものを。
「しかし、僕がこの海底都市へ来てから、もう一時間どころか、すくなくとも十時間ぐらい経(た)っている。辻ヶ谷君は、僕との約束を忘れているのかなあ。もう一年か二年、忘れていてくれるといいんだが、とにかく、いつ元の焼跡へ呼び戻されるかと思えば、全く気が気じゃないや」
 幸いにもカスミ女史が、その夫君(ふくん)である考古学者カビ博士を紹介してくれたので、なんとかうまくやってもらえるかもしれない。
 だが、聞くところによると、カビ博士はかなり変り者らしい。きげんをそこねないで、うまくやってくれるといいが、もしそうでないときは、たちまち僕を冷凍人間にしてしまうかもしれない。気がかりなことではある。
 タクマ少年に案内されて、例の動く道路に乗り、方々で乗換え、やがて大学へ着いた。すばらしい構内だった。通路の天井(てんじょう)が非常に高く、千メートル以上もあるような気がした。そのことをタクマ少年にいうと、少年は笑いをかみころしながら、
「天井の高さは、ほんとうは三十メートル位しかないんです。しかし照明の力によって、上に大空があると同じような錯覚(さっかく)をおこすようになっているのですよ」
 と、説明してくれた。
 僕は感心した。この進歩した海底都市では、人間の気分ということを大切に扱っている。気分を害するようなことは極力(きょくりょく)さけ、そしてすこしでも人間の気分をよくして生活を楽しませるように都市施設(しせつ)や居住施設が工夫せられている。だからこの都市の人々は、誰もみなよく肥(ふと)って居り、血色もよく、元気に見える。声だって、みんなあたりへひびくようなでかい声を出す。どこからか息がすうすう抜けているような、あの焼跡で聞く虫細い声なんか、いくら探してもない。
 考古学教室は、五区の左側にある赤い煉瓦(れんが)づくりの古風な二階建であって、まわりには銀杏樹(いちょう)とポプラとがとりまいていた。僕はこの見なれた風景に、うっかりここが海底都市であるということを忘れるところだった。
「わざわざ、あのように赤煉瓦(あかれんが)なんかを使って建てたんです。なにしろ考古学の研究をするんですものねえ」
 とタクマ少年はあいかわらず忠実に案内役をつとめる。
「銀杏樹(いちょう)やポプラを植えこむには、ずいぶん困りました。でも、赤煉瓦のまわりには木がないと、考古気分が出ないというわけで、いろいろと工夫(くふう)をこらして、やっと成功したのです。ご承知でしょうが、樹木というものは、太陽がないと育たないものですからね」
「ふん。そのとおりだ」
「で、つまり成功した工夫というのは、人工で、太陽と同じ成分の光線の量を、この樹木だけに注ぎかけてあるんです。その器機は天井にありまして、あらゆる方向からこの樹木を照らしています。しかし私たちの目では、普通の照明とはっきり区別しては見えないのですけれど」
「そうかね。なんでも工夫をすると道は見つかるんだね」
「さあ、教室へ入ってみましょう。姉からも申したと思いますが、義兄(ぎけい)のカビ博士はたいへんな変り者ですから、何をいいましても、どうか腹をお立てにならないようにお願いいたします」
「大丈夫だとも。僕は十分心得ているよ」
 僕たちは古風なせりもちの下をくぐって、建物の中に入った。中世紀(ちゅうせいき)の牢獄の中かと疑うほどのうすぐらい廊下を二三度曲って奥の方へ行くと、タクマ少年は一つの扉の前に足をとどめた。扉には、「教室カビ博士私室(ししつ)」という名札がかかっていた。
 と、いきなりその扉が動き出したと思うと壁の中にはいってしまった。開いた戸口に、頭の大きな一人の異様な人物が白い実験着をつけて現われ、僕をにらみつけた。
 その顔に、どこか見覚えがあった。


   標本勤務(ひようほんきんむ)


「カビ教授、ここにお連れした方がさっきテレビ電話でお話した本間さんでいらっしゃいます。どうぞよろしく」
 タクマ少年は、あざやかに僕をカビ博士に紹介してしまった。カビ博士は少年の義兄(ぎけい)に当たるんだから「ねえ兄さん」とでも呼びかけるかと思いの外(ほか)、そうはしないで「カビ教授」などと、しかつめらしく名を呼ぶところが、なんだかわざとらしかった。だが、それも博士が、特別なる変人だから、そのようにしかつめらしく扱うのかもしれなかった。
「君はちゃんと勤めるだろうな。途中で逃げ出すようなことはなかろうな。もしそんなことがあると、わしは君を保護することに責任がもてないんだ。今はっきり誓いたまえ」
 カビ博士は、あいさつも抜きにして、いきなり僕の頭の上で、かみつきそうないい方で、わめいた。
 僕はもちろん、勤めは怠(なま)けないから、ぜひ保護をしていただきたいと頼んだ。
「ふむ。では契約(けいやく)した。学生が待っているから、早速(さっそく)標本(ひょうほん)になってもらおう。こっちへ来なさい」
 博士は廊下へ出ると、すたすたと右手の方へ歩き出した。その足の速いことといったらまるで駆足(かけあし)をしているようだ。僕は博士を見失ってはたいへんと、けんめいに後を追いかけた。そしてタクマ少年と、どこで別れてしまったのか知らないほどだった。
「なにをまごまごしている。ここだ、ここだ」
 博士のわれ鉦(がね)のような声にびっくりして、僕は博士が手招(てまね)きしている一つの室へとびこんだ。
(あっ、いい室だなあ)
 思わず僕は感嘆(かんたん)の声を放った。
 なんという気持ちのいい室であろう。室は小公会堂(しょうこうかいどう)ぐらいの大きさであるが、まるで卵の殻(から)の中に入ったように壁は曲面(きょくめん)をなしていてクリーム色に塗られている。清浄(せいじょう)である。そしてやわらかい光線がみちみちていて、明るいんだが、すこしもまぶしくない。
 室の中には、やまと服を着た男学生と女学生とが十四五名集まっていて、カビ博士と私を迎えた。男学生と女学生の区別は、男学生の方はぴったり身体にあう服を着ていて、身体の形がそのまま外に現われているのに対し、女学生の方は背中にひだのある短いカーテンのようなものを垂(た)らしていた。それから頭髪の形もちがっていて、女学生は髪を細い紐(ひも)みたいなものでしばっていた。
 カビ博士は、僕を連れて、室の中央まで行って、学生に紹介した。
「これは本間君といって、今から二十年前の人間だ。いいかね、二十年前だよ」
 学生たちは、黙ってうなずいた。非常におとなしい学生たちである。そして博士のいった事柄(ことがら)に、べつにおどろいている様子はなかった。僕は意外に思った。
「二十年前の人間と、現代のわれわれとの間に、いかなる人体上の差違があるか。この興味ある問題について、諸君はこれから好ましき一つの機会があたえられるであろう――さあ、装置を出すから、うしろへ下ってくれたまえ」
 博士がそういって、自分も五足六足うしろへさがった。学生たちも下がって、互いに間隔(かんかく)の広い円陣(えんじん)がつくられた。
「ええと……装置のエル百九十九号。二百一号、二百二号、二百三号。それからケーの十二号、四十号、八十号。それだけ」
 カビ博士は天井の方を向いて、まるで魔術師のように、装置の番号をいった。
 すると、目の前におどろくべきことが起った。それまでは一面に平らな床(ゆか)であったものが、博士のことばが終るか終らないうちに、まるで静かな海面に急に風が吹きつけて波立ちさわぎ出すように、床がむくむくと動き出し、下から妙な形をしたものがせりあがって来た。それはすべて、にぶい金属光沢(こうたく)を持った複雑な器械類であった。ほんのしばらくのうちに、円陣の中にはりっぱな実験装置が出来上がった。
 平(たい)らな劇の舞台の上に、とつぜん大道具が組立てられ、大実験室の舞台装置が出来上ったようなものであった。その派手(はで)な大仕掛(おおじかけ)には、僕はすっかり魅(み)せられてしまって、ため息があとからあとへと出てくるばかりだった。
 この装置群の中央に、直径が一メートルに三メートルほどの台があり、その上に透明な、やや縦長(たてなが)な大きな硝子様(ガラスよう)の碗(わん)が伏(ふ)せてあった。そしてその中の台の上には、何にもなかった。そのくせ、まわりの各装置は、うるさいほどに、さまざまな器械器具によって組合わされているのだ。
「おい本間君。この中に入ってくれたまえ」
 博士はそういうと、いきなり僕の背中を押して、前へついた。と透明(とうめい)な大碗(おおわん)が、すっと上にあがった。その下へ僕がころがりこむのと、その透明な大碗が落ちて来てその中に僕をふせるのと、同時だった。


   時間軸(じかんじく)逆(ぎゃく)もどり


 大きな透明の碗(わん)の中にふせられてしまった僕は、覚悟の上とはいいながら、やはりあわてないでいられなかった。僕は碗から外へ逃げだし、行動の自由をとりかえしたいと思って、碗の内側をぐるぐると這(は)いまわった。が、どこにも脱けだすすき間は見つからなかった。
 僕は、透明な碗のふちに手をかけて、この碗を持ちあげることを試みた。だが、それもだめだった。碗は非常に重い。カビ博士はあのようにこの碗をかるがるとあつかったのに……。
「もしもし、僕をここから出して下さい。いくら僕が標本勤務をひきうけたといっても、こんなに人格を無視した監禁(かんきん)をするなんてけしからんじゃないですか」
 僕は大憤慨(だいふんがい)をして、透明碗の壁を両手でたたき続けた。すると男女の学生たちは、みんな僕の前に集まって来て、透明壁越(へきご)しに僕をしげしげと見まもるのだった。目をぐるぐる動かしておどろいている学生もあり、また大口をあいて呆(あき)れている学生もあった。カビ博士は、学生たちにはすこしも構わず、配電盤の前に立って計器を見上げたり、それから急ぎ足で、僕をのせている台の下へもぐりこんだり、ひとりで忙しそうに動いていた。そんなわけだから、博士はもちろん僕の訴えていることに聞き入る様子はなかった。
「ねえ諸君。おたがいに人格を尊重しようじゃないですか。膝をつきあわせて、僕は観察されることを好むものである。諸君は、なによりもまずこの透明な牢獄の壁を持上げて、向うへ移動して下さるべきである。さあどうぞ、諸君、手を貸して下さい」
 男女学生たちの表情には、あきらかに興奮(こうふん)の色が現われた。その興奮をきっかけに、彼等はこの透明壁へとびついて持上げてくれるかと思いの外(ほか)、彼等は肩越しに重なりあって僕の方へ首をさしのべるばかりであって、僕の注文に応じてくれる者はひとりもなかった。僕はがっかりすると共に、新しい憤(いきどお)りに赤く燃えあがった。
 そのときだった。のぼせあがった頭が、すうっと涼しくなった。憤りが、急にどこかへ行ってしまったような気がする。
 と、ぼッと目の前がうす紫色に見えだした。よく見ると、それは透明碗の壁(かべ)が、どうしたわけかうす紫色に着色したのである。なおよく見ると、それは縞(しま)になっている。そして縞がこまかくふるえている。――僕はますます爽快な気持ちになっていった。
 が、変なことが起こった。僕の来ている服が、いやにだぶだぶして来た。そして服が、僕のからだから逃げようとするではないか。
(へんてこだぞ、これは……)
 誰か、見えない人間が僕のまわりにいて、僕の服を脱がそうとしてひっぱっているようでもある。まさか、そんな人間があろうとも思われないけれど。
 服が脱がされては困る。僕は忙しく、一生けんめい自分の服のあっちを引張り、こっちを引張りして、目に見えない相手と力くらべをした。
 ああ、しかし、服は僕の力にうち勝ち、からだから、手から足から、逃げだした。僕がやっきになって一人角力(ずもう)をとっているうちにとうとう僕は赤裸(はだか)になってしまった。
「これが二十年前の彼の姿である。非常に興味のあるからだを持っている。よく観察されるがよろしかろう」
 これはカビ博士だった。
 見ると、博士はいつの間にか、透明碗の側に立って、僕の方を指して講義を始めているではないか。学生たちも、今までにない真剣な顔で、僕を穴のあくほど見つめている。僕ははずかしさのあまり、全身が火と燃える思いであった。男学生はともかく、女学生に僕の赤裸(はだか)を見られていると思うと、消えて入りたかった。僕は、逃げだした服を追いかけた。が、碗の壁のそばにぽっかりとあった穴の中に、僕の服はするすると入ってしまって、僕は捕(つか)まえそこなった。
「二十年前の人間は、悪病と栄養失調と非衛生とおどろくべき無知無能のために、このような衰弱(すいじゃく)したからだを持っている。よくごらんなさい。これでも十五歳の少年なのである」
 十五歳の少年? カビ博士は、なんというばかなことをいっているのだろうと、僕はふきだしかけて、そのときはっと気がついた。
 手を顔にやってみたところが、髭(ひげ)がないではないか、あのぴーンと立てた僕の特徴になっている髭がないのだ。僕は自分の手を見た足をみた。手足はいつの間にか小さくなっていた。
(ああッ、僕は元の少年の姿になっている。時間器械が働かなくなったのか。元の世界によびかえされたのか。それとも……)
 と、少年の姿に戻った僕は大狼狽(だいろうばい)であたりを見まわした。ところが僕の前にはさっきと同じく、十四五人の男女学生やカビ博士が熱心に僕を見つめている。
 これは一体どうしたわけか。


   興奮(こうふん)する学生


 いつの間にか十五の少年の姿に戻された僕は、カビ博士とその学生たちの前で、さんざんに標本として勤(つと)めさせられた。
 博士は、僕の健康や知能の欠点ばかりを探して、学生たちに講義をした。口を大きくあけさせて、虫くいだらけのらんぐい歯を見せさせたり、肺門(はいもん)のあたりにうようようごめている結核菌(けっかくきん)を拡大して見せさせたり、精神力の衰弱状態を映写幕の上に波形(なみがた)で見せさせたり、そのほかいろいろなことをやってみせた。僕は、なるべく聞いてないことにしたけれど、やっぱり博士の講義が耳に聞こえた。そして僕は、自分のからだが、まるで半分くさった日かげの南瓜(かぼちゃ)のように貧弱きわまるものであることに恥じ、且(か)つ自分で自分がいやになった。
 カビ博士の講義がすむと、こんどは男女学生が、僕のからだをいじりまわした。それは直接手でいじるのではなく、ぴかぴか光った長い消息子(しょうそくし)のようなものを、透明碗の外から中へつきたて、その先についている五本指の触手(しょくしゅ)みたいなものによって、僕のからだをいじるのであった。僕には、いくら圧(お)しても鋼鉄の壁のように硬くて動かない透明碗の壁を、学生たちが消息子を手にとって壁につきさすとかんたんにぷすりとそれをつきとおしてしまうのであった。なんの力を利用したのか、すごい力だ。しかし消息子の先についている触手(しょくしゅ)は、手ざわりのよいやわらかいものであったから、こっちのからだは痛みはしなかったが、そのかわりみんなが無遠慮(ぶえんりょ)に十何本もの消息子でもって僕の腋(わき)の下でも咽喉(のど)でも足の裏でもお構いなしにさわるので、くすぐったくてやりきれなかった。
 その間に、僕に話しかけてくる学生もいた。僕はやりきれなくていい加減(かげん)な返事をしてお茶を濁(にご)した。全くやりきれない。この世界に停(とどま)っていたいがために、こんな苦痛をこらえているわけであるが、ずいぶん、がまんがなりかねる。
「博士。標本人間の肌の色が変って来ましたですよ。足なんか長くなりました」
 よく喋(しゃべ)りまわっている一人の女学生が、カビ博士の胸を叩いて注意をした。
 博士は眉をあげて僕の方を見た。
「ははあ、なるほど。磁界(じかい)がよわくなったらしい。君、ダリア嬢。あの配電盤の黄いろの3という計器の針を18のところまであげてくれたまえ。そうだとも、もちろんその計器の調整器(ちょうせいき)のハンドルをまわしてだ」
 ダリヤ嬢とよばれた猿の生まれかわりみたいな顔のお喋(しゃべ)り姫は、博士に命ぜられると、すぐ配電盤のところへ行って、そのとおりにした。
 すると僕は気分が急に悪くなった。見ると自分の足が小さく縮(ちじ)んでいく。肌色がわるくなる。――どうやら僕はある器械が出している磁場(じば)の中にいるらしく、そして今しがたその場の強さがよわくなったので、僕のからだは二十年後の世界の方へ滑(すべ)り出(だ)したものらしい。それを今ダリヤ嬢が場の強さをつよくして元へ戻したものらしかった。
 とにかく妙な仕掛を使っているらしい。それはそのあたりに並んでいる装置(そうち)のうちのどれからしいが、時間器械と同様な働きをするものらしい。
 いや、それはそのとおりであることが、後になって学生と博士との会話によって知れた。僕はそれを知って、むしろ安堵(あんど)の胸をさすった。カビ博士の器械によって、一時僕が二十年前に戻されているのは我慢できる。なぜなら待っていれば、博士はこの海底都市の世界へ私を戻してくれることは間違いないからである。しかし、もしかの学友辻ヶ谷君の手によって、二十年前の焼跡へ戻されたなら、これは僕の楽しみにしている時間旅行がここで中絶してしまうことを意味する。――どうぞ“辻ヶ谷君よ。僕のことは忘れて、僕が満足するまでどうぞ僕を二十年後の海底都市で生活させてもらいたい。このことを君に確実に通信できないので、実は僕はいつでもびくびくしているのだよ”
 標本勤務は一時間で終った。そこで僕は元のはねあがった髭(ひげ)の大人の姿へかえされ、服も着た。僕はようやく安心した。博士は僕を透明碗から外へ出してくれた。
「本間君。どうじゃったね。標本勤務は、あんがい楽なものだろう」
 博士は、今までになく機嫌(きげん)のいい調子で、僕に話しかけた。
「いやいや、僕はうんと疲(つか)れましたよ」
「それはあとで食事をすれば、たちまち直るから心配ない」
「そうですかね……それにあの学生さんたちが無遠慮(ぶえんりょ)に僕のからだをいじりまわすので閉口(へいこう)しました」
「おいおい慣(な)れれば、大した苦痛じゃなくなるよ。なにしろ学生たちは君に対して異常な興味をもっている。だから君は今後ますます大切に扱(あつか)われるだろう」
「そんなに彼等は興味を持っていますかね」
 そのことが災難の火の元だとは知らずに、僕はむしろ得意になって聞きかえした。


   五頭(ごとう)パイプ


 カビ博士の顔の下半分は黒い毛でうずもれている。その毛むくじゃらの草原のまん中が、ぽっかりあくと、赤いものが髭越(ひげご)しに見える。それは博士の口の中の色である。この赤いきんちゃくのような口は、ひろがったりすぼまったりして、よく動く。そして髭の中から博士のがらがら声がとび出して来るのである。
 博士は、僕との対談のうちに、安全剃刀(かみそり)の柄(え)をくわえた――と見えたが、それから煙が出てくるところを見ると、それは安全剃刀ではなくて、どうやら煙草のパイプの類らしいことが分った。
 普通のパイプは、煙草をつめる火皿、すなわち雁首(がんくび)が一つである。ところがカビ博士が口にくわえるパイプには、五つの雁首が並んでいるのだった。そしてそれに一々火をつけるわけでもないのに、雁首から煙がゆらゆらとあがった。
 その煙のあがり方が愉快だ。五本の雁首から五本の煙があがって、煙突だらけの工場そっくりになるかと思うと、次の雁首の一つだけが煙がゆらゆら立ちのぼる。そうかと思うと、こんどは三本から立ちのぼる。それを見ていると、まるで煙の音楽会というか、煙の舞踊(ぶよう)会というか、たしかに或るリズムに乗って煙がふきだしてくるのであった。
 もちろん、その合間合間には、博士の髭(ひげ)だらけの中から、別にもうもうたる煙がふき出てくる。
「先生は、煙草がお好きと見えますね」
 僕は、素直に感想をのべた。
「うん。わしは連日(れんじつ)、脳細胞を使い過ぎるので、どうしてもこれをやらないと、早く疲労(ひろう)がとれないのじゃ」
「ずいぶん変わった形のパイプですね。そんなパイプが海底都市では、はやるのですか」
「はやるというわけではない。これはわしの考案したものでな、ほかにはない特殊のものじゃ」
「煙の出るところが五つもありますね」
「そうだ。五種類の薬品をつめこんであるのだ。それを適当に蒸発せしめて、或る特殊のリズムで脳神経に刺戟をあたえる。このリズムを決定することがむずかしい」
「なるほど。僕もそのリズムの利用には気がついていましたよ。面白い療法ですね。どんな味がするか、僕にもちょっと吸わせてください」
「いや、いけない!」
 博士は目をくるくるさせてパイプをポケットに隠(かく)した。
「君なんかが吸うと、とんでもないことになる。絶対にいけない」
 博士の狼狽(ろうばい)ぶりを、僕は意外に感じた。
「君に警告しておくが、君は実在の人間ではなく、イマジナリーの人間なんだ。それを忘れないようにしなければならんね。つまり何でもわれわれと同じには、やれないってことを、よく頭にいれておいてもらいたい」
 イマジナリーの人間! それはそうだ。僕は二十年後の世界へ先走りをして生活をしているのだから。
「君は何も知らないが、君の実在する世の中からその後二十年経つ間に、文明はあらゆる方面において驚異(きょうい)的な発展進歩をとげた。人でも人体改良(じんたいかいりょう)には、非常な努力が払われ、そして改造進化が行われ、今日の高等人間を生むに至ったものである」
「高等人間ですって。人体改造ですって」
「人体の進化を自然にのみまかせていたのは昔のことさ。なんという知恵のない話じゃないか。さればこそ昔の人間はやたらに病気にかかって悩み、そして衰弱し生命を縮めた。そればかりか人智(じんち)のレベルは、さっぱり向上しなかった。なぜ昔の人間は、そこに気がつかなかったんだろう。人為(じんい)的に人体改造進化を行う事によって病気と絶縁(ぜつえん)する。それから人智を高度にあげる。こんな思いつきは赤ん坊にでも出来ることじゃないか。もちろん今の赤ん坊のことだがね。とにかく昔の人間は実に哀れなものだった。眼前の実在のみに注意力や情熱を集中して、遙かなる未来世界について夢を持つことをしらず、従ってその夢から素晴らしい現実の発展が起こることにも想到(そうとう)しなかった。ああ哀(あわ)れなりし人類よ……」
 カビ博士は、日頃のとつ弁(べん)とはうってかわって雄弁に論旨(ろんし)をすすめていた。しかし僕は白状するが、博士の熱弁を聞くのは、もうそのくらいで沢山だと思った。
「先生。すると、そういう意味において、自然進化にまかせて来た僕の身体は、この海底都市の研究家たちにとって絶好の標本だというわけですね」
「そうだ。全く貴重なる標本だといわんければならん」
「じゃあ、僕は大いばりで、ここに滞在することが許されるのですね。いや、国賓待遇(こくひんたいぐう)を受けてもいいじゃないですか」
 僕は朗らかな気持ちになって叫んだ。


   暗い問題とは


「君を国賓待遇(こくひんたいぐう)にするなんて、とんでもないことだ。政府に見つかれば、もちろん君は海底冷蔵庫の壁になるしかないんだ」
 カビ博士は僕のことばをひっくりかえして、いつか僕が聞かされたと同じ警告をあびせかける。
「だって僕は、貴重な標本なんでしょう」
「そうさ。君は網の目をのがれている所謂(いわゆる)ヤミ物品だから値が高いんだ。しかしどう釈明(しゃくめい)しても君は合法的存在じゃない」
 ああ、ヤミというやつにはずいぶん悩まされた僕であるが、この海底都市へ来てまでヤミ扱いされるとは、なんという情けないことだろう。
「学問のための貴重な標本なりということを、政府の役人どもは了解(りょうかい)しないのですか」
「そこじゃ、実に困った対立、いや暗い問題があるんだ、この海底都市にはね」
「へえッ、こんな理想境(りそうきょう)にも暗い問題なんかがあるんですかね。それは一体どんな問題なんですか」
 僕は非常に意外に感じたので、強く問(と)いただした。
 博士はすぐには返事をせず、例の五頭のパイプを髭の野原の中に押しこんで、やけに煙をふかしていたが、やがてやっとパイプを口から取ってつぶやくように低いことばをはき出した。
「それは言えない。わしの口から言えない。君のようなエトランジェ(異境人)には言えない」
 博士は、そのことばが終るとともに立上って、両の肩をぶるぶるとふるわせた。
 僕の好奇心は火柱(ひばしら)のようにもえあがったけれど、博士の沈痛(ちんつう)な姿を見ると、重(かさ)ねて問(と)うは気の毒になり、まあまあと自分の心をおさえつけた。
 しかし一体(いったい)なんであろうか。この完全文明理想境を脅(おびや)かすところの、暗い問題とは。暗い問題があるということすら、僕には不審(ふしん)でならないのだが……。
 僕はそれから間もなく、博士に別れた。
 別れる前にカビ博士は、僕の合法的滞留(ごうほうてきたいりゅう)を政府に対してあらゆる手段によって請願(せいがん)することを誓ってくれた。
 タクマ少年が待っていてくれたので、僕は少年と連(つ)れだって考古学教室を出た。
「どうです。疲れましたか」
 少年は僕にきいてくれた。
「疲れはしないけれど、標本になって閉(と)じこめられていたので、気が詰(つ)まったよ。なんか気持ちがからりとすることはないだろうかね」
「ありますよ、いくらでも、本当はお客さんは、これから食事をしてそれから睡眠(すいみん)をとるといいんですが、その前に、喜歌劇(きかげき)見物でもしましょうか」
「喜歌劇だって、それはいい。ぜひそこへ案内してくれたまえ」
 僕とタクマ少年は、動く道路を利用し、第十八歓楽街(かんらくがい)のクラゲ座へ行った。
 入場してみて、僕はやっぱりおどろかされた。すばらしい劇場だといって、僕がこれまで知っている、座席のきちんと並んだ大劇場を拡大したすばらしさとは違う。
 場内は、森かげの草原のようであった。そこに掛け心地のいい椅子が、勝手に放りだしてあるんだ。客はそれを好きなところへ移して座をきめればいい。卓子(テーブル)を持って来れば、軽い飲物や喫煙に都合がいい。
 舞台は明るく、近くなく、遠くない距離にある。いい音楽。すてきな俳優たち。出しものは三つ。第一が「タンポポはどこへ飛んで行きたいか」第二は「火星人の引越しさわぎ」そして第三は「クレオパトラの蒸留(じょうりゅう)」と、番組に出ていた。今、舞台は「火星人の引越しさわぎ」が演ぜられていて、陽気な笑いが続いていた。
 客席は、朧月夜(おぼろづきよ)の森かげほどの弱い照明がしのびこんで来る程度であるから、隣の席の客がどんな顔をしているのか分りかねた。
 その客たちは、熱心に舞台を見ているわけではなく、盛んにコップの音をさせたり、ぺちゃくちゃしゃべったり屁(へ)をひったりするのであった。僕には勝手のちがうこと、いや呆(あき)れることばかりであった。
 それでも僕は、タクマ少年と並んでおとなしく見物を続けた。そのうちに睡(ねむ)くなって、とろとろんとしていると、かん高い女の声が耳にとびこんだので、はっと目ざめた。隣の席で、なにか言い合っているのだった。
「――いいえ違うわ、わたくしは、改造以前の人間といえども、海に棲息(せいそく)し得る特質を具備(ぐび)していると思うの。それは、あの人類は、海から陸へあがってから八千万年を経ているでしょうが、それでも尚且(なおか)つ人類は、その発生の故郷である海中生活に耐(た)える器官や本能を残して持っていると断定しますわ」
「それは一種の感傷主義(かんしょうしゅぎ)だ。もはや人類は、そういう能力を全然失っている。海中生活に耐える器官は痕跡(こんせき)程度残っているかもしらんが、海中棲息(せいそく)の本能なんど有るもんですか」
 反対するのは男の声だ。この男女二人の声に、僕はいささか聞きおぼえがあった。


   平衡器官(へいこうきかん)


 クラゲ座の中の、僕の座席のうしろで、喜歌劇見物はそっちのけにして、しきりに人類学について論じ合っている若い男女の声。それは、昼間、考古学教室で見かけた熱心な学生のダリア嬢とトビ君の声にちがいなかった。
 両人は、僕がすぐ前に腰を下ろしていることも気がつかないほど、夢中になって論争を発展させていた。
「いや、そういう君の論は、甚だしく定量性(ていりょうせい)を欠(か)いている。退化が或る限度に及ぶと、もう器官は全然用をなさないのだ。だからそういう器官が始めから存在しなかったと考えていいのだ。例えば、われわれに尾骨(びこつ)があるからといって未だ一度も尻尾(しっぽ)を振ってみたい欲望を催(もよお)したことはないですぞ、ダリア君」
「それは暴論というものですわ。尾骨のことと内耳迷路(ないじめいろ)の平衡器官(へいこうきかん)のこととは一しょに論じられませんわ。尾骨の方は、今は全然動かないのですよ。尻尾なんか人間にはぶら下っていませんし、ね。動かなきゃ尻尾なんか意味ないです。そこへいくと、平衡器官の方は現在もちろん働いている。人類が大むかし海中に棲(す)んでいたときと同様に、彼の平衡器官は、今もちゃんと機能をもって役立っているんですからね」
「ちがうよ、ダリア君。それは平衡器官といえば平衡器官にちがいないけれど、今は海の中で棲んでいるわけじゃない。空気の中に於ける陸上生活ばかりなんだ。人類の祖先が海から陸上へあがってからこっち何十万年はたっているが、その長い間の陸上生活に、かの平衡器官は退化してしまって、海中生活用の平衡器としてはもう役に立たなくなっているんだ。そこを考えなくちゃね。美しいお嬢さん」
「まあ。まあまあまあ。ディスカッションに勝った、と思って、あたくしをからかうんですね」
「からかいやしません。美しいから美しいといった、までです。急にあなたを美しいと感じたもんですから素直にいっただけです。それにもうあの方は論じつくした感がありますから、ここらでよしましょう」
「ごま化(か)していらっしゃるのね。トビ君、あなたこそもう論ずべき種がつきてしまったんでしょう。きっと、そうよ。ところがあたくしの方は、これから本格的な実証に移るのですわ。実験証明ほど、たしかなものはありませんわ。そしてあたくしは、何人をも納得(なっとく)させます。あたくしの論文は、そのときになって、だんぜん光を放つでしょう。ああ、そのときのことを今から予想しただけで胸が高鳴りますわ」
「うわッ、とんでもない。考古人類学は、詩ではないです。あなたみたいに、夢に感激ばかりしていたんでは、自然科学の正しい解決はつきませんよ」
「ああ、なんとでもおっしゃい。あたくしには、ちゃんと自信満々たる研究企画があるんですわ。まことにお気の毒さま、タングステン鋼(こう)あたまのトビ、トビタロ君」
 両人の仲が険悪になって来たので、僕は見るに見かねて座席を立つと両学生の間へ顔をつき出した。
「たいへん御両所とも討論にご熱心のようですが、ひとつ僕も中に入れていただいて、乾杯といきましょう」
 僕は給仕を呼んで酒を注文した。

 ダリア嬢とトビ君とは、僕が顔を出すと、顔を見合わせて、すっかり黙りこんでしまった。そして給仕が酒を持って来ると、両人は席からはじかれるように立った。僕が声をかけるのも聞かずに、両人はどんどん帰ってしまった。
 僕は、あとにいやな気持ちでとりのこされた。
 なにかが両人の気持ちを悪くしたにちがいない。しかしそれがなんであるかについては、僕にはさっぱり心あたりがなかった。
 同伴していたタクマ少年は、分かりませんと答えた。
 なんだか気持ちが悪い。
 劇場がはねると、僕はタクマ少年に送られてホテルに帰った。
 僕は部屋にひとりとなった。やがて僕はベッドの上に横になった。
 すぐには寝つかれなかった。昼間からの、あまりにも多いいろいろの刺戟的(しげきてき)な出来ごとを、それからそれへと思い続けていくと、ますます眼がさえて来た。
 それにしても、辻ヶ谷君が僕を時間器械でよびもどしてくれないことが不審(ふしん)でもあり、またありがたかった。たしかに二十年後の世界を約一時間散歩してくるという申し合わせで、僕はこっちへ来たわけだ。彼は何をしているのだろう。辻ヶ谷君も一しょに来ればよかったと思う。……
 急に睡(ねむ)くなった。
 それがあたり前の睡さでないことに僕はすぐ気がついた。どうしたんだろうと、いぶかしく思っているうちに、僕は知覚がなくなった。


   ふしぎな場所


 猛烈に睡(ねむ)い。
 しかし僕はそのとき自分の知覚をすこしずつ取戻しつつあったのだ。
(誰か僕に麻薬を嗅(か)がしたんだな。そして眼がさめてみりゃ僕は意外な場所に横たわっているという寸法だろう)
 それは果して麻薬であったか、それとも脳麻痺力(まひりょく)のある電波であったか、そのところは、はっきりしないが、何者かのたくらみによって僕がホテルの一室から他の場所へ誘拐(ゆうかい)されたことはたしかだった。
 僕は徐々に眼ざめつつあった。
 かたいコンクリートの床の間に自分が横たわっていることに気がついた。果して誘拐されたんだ。それにしても、冷たいコンクリートの上に寝かされているとは、なんという相手の無礼(ぶれい)だろう。いや、強盗のたぐいに、無礼もへちまもないだろう。なんだって、その強盗は僕をこんなところへ……。
「おや、僕はすっ裸(ぱだか)になっているぞ」
 いつの間にか僕の寝巻(ねまき)ははぎとられていた。まっ裸だ。これにはおどろき、かつあきれてしまい、その場に座り直した。そしてあたりをぐるぐると見まわした。
 へんな場所であった。
 お伽噺(とぎばなし)の中では、王城の奥のすばらしい美室へ誘拐されることもあるが、それは特別の場合で、誘拐されるとなると、多くの場合はあやしき場所へ連れこまれるのが普通であった。正(まさ)に僕はあやしき場所へ連れこまれている。床(ゆか)はつめたいコンクリート。四方の壁はどんな材料で作ってあるのか、墨(すみ)のようにまっ黒である。天井は――天井はすこぶる高い。五十メートル位はある。そして上に向いたときに発見したのであるが、四方の壁は十メートル位しかない。十メートルの壁が、立ちっ放しである。天井がそこにあっていいはずと思うが、そこは天井がなくてそれより四十メートルも高いところに天井がある。要するに、蓋(ふた)のない箱みたいなものの中に、僕が入っているんだ。
 上には、放電灯が明るく輝いていて、僕を照明している。寒くはないが、はずかしかった。
 と、そのとき床の上を、どこからともなく水が流れて来た。僕は身体をぬらすまいとして、ふらふらする足取りで、その場に立ち上がった。
 が、水はいつの間にか嵩(かさ)を増し僕の足の甲を水が浸した。
 それから先は、そんななまぬるいことではなかった。水嵩(みずかさ)はみるみるうちに増大して、水位(すいい)は刻々(こくこく)あがって来た。床の四隅(よすみ)から水は噴出(ふきだ)すものと見え、その四隅のところは水柱が立って、白い泡の交った波がごぼんごぼんと鳴っていた。
 ひざ頭を水は越えた。間もなくお臍(へそ)も水中にかくれた。しかも増水のいきおいはおとろえを見せず水位はぐんぐんあがってくる。
(水槽(すいそう)らしいが、僕をどうしようというんだろう。水浴をさせるつもりでもあるまいに……)
 水は僕の乳の線を越え、やがて肩を越した。僕は今にも溺(おぼ)れそうになった。爪先立(つまさきだ)ちをして僕は背のびをした。
(水責(みずぜ)めにして、僕を溺死(できし)させるつもりか。一体何奴(どいつ)だ。こんなに僕を苦しめる奴は?)
 もういけない。爪先で立っていても、水が鼻孔(びこう)に入って来る。仕方がないから僕はもう立っていることを諦(あきら)めて平泳ぎをはじめた。
 水は塩っからかった。
(なるほど、海水だな)
 平泳ぎから立泳ぎになったり、また平泳ぎにかえったり、僕は二十分間ぐらい泳いだ。相手は僕を泳ぎ疲れさせて殺すつもりかもしれない。しかし僕は、水に浮いていることなら十八時間がんばった記録をもっている。だからちっとも恐れなかった。
 ただ一刻も早く、この憎むべき陰謀の主を見つけだして、きめつけてやりたい。
 相手は、どこからか僕の様子を監視しているのに違いない。そう思ったから、僕はますます落着きはらっているところを[#「ところを」は底本では「ところ」]見せるために、泳ぎながら佐渡(さど)おけさを歌ったり、草津節(くさつぶし)を呻(うな)ったりした。
「だめね、これでは。水の中へ潜らなくちゃ実験になりゃしないわ」
 壁の向うと思うが、かすかではあるが、そんな風にしゃべる女の声を聞いた。
 あれッと、僕が緊張(きんちょう)する折(おり)ふし、水槽の横手の方から、ぎりぎりと硝子(ガラス)の板が出て来て、僕の頭の上を通りすぎていった。
「やっ、硝子天井(ガラスてんじょう)だ」
 とつぜん出現した硝子天井は、僕を完全に水中におし下げた。
 こうなると、鉢の中に入れられた金魚(きんぎょ)か亀(かめ)の子同然だ。金魚や亀の子なら、水中ですまして生きていられる。しかし僕は人間だ。空気を吸わねば生きていられない。これはいよいよ溺死(できし)の巻(まき)か。
 僕はなぜ溺死させられるのか。


   迫(せま)る硝子天井(ガラスてんじょう)


 水槽の中の水かさはいよいよ増した。
 僕は泳ぎ続けていた。
 頭が硝子天井につかえるまでに水かさは増した。まっすぐに顔を向けて泳ぐことは、もう出来ない。鼻の孔(あな)も口も、共に水中に没してしまうからだ。仕方なく僕は平泳ぎをしながら、顔だけは横に寝かして、辛(かろ)うじて息をつくことが出来た。
(一体何者か。僕をこんなに苦しめる奴は。まさか僕を殺すつもりじゃないだろうと思うが、ひどい目にあわすじゃないか)
 僕は、一生けんめい水をかきながら、姿の見えないこの暴行(ぼうこう)の主を恨(うら)んだ。
 ところが、水かさは更にずんずん増して来るではないか。硝子天井は、容赦(ようしゃ)なく僕の頭をおさえつける。僕はさっきから無理な姿勢をとり首(くび)を横にまげて泳いでいるので、頸(くび)の筋(すじ)がひきつって痛くてたまらない。そのうちに鼻の孔も口も、水に洗われるようになった。いよいよ水が天井につきそうなのである。僕は、したたか水を呑んでしまった、水なんか決して呑みたくないのに。
 今や僕は溺死(できし)の一歩手前にあった。顔を上に向けた。硝子天井に接吻(せっぷん)するような恰好である。そして立ち泳ぎだ。頸をうしろに無理に曲げているので、痛いやら苦しいやらで生きている心持もない。「助けてくれ」と叫びたいのだがそんな声も出ない。そんな声を出して叫ぼうものなら、たちまち身は水中に沈んで、溺死をせねばならぬ。
 苦しい立泳ぎが、一層苦しくなる。浮力がなくなり、いくたびとなく、ずぶりずぶりと水中にもぐる。これ以上水を呑まないようにと息をつめるものだから、再び水面へ浮かびあがるまでの息苦しさったらない。ああ、何だって僕をこんなに苦しめるのか。
 もう欲もなんにもいらないと思った。助けてくれぃだ。もう二十年後の世界に逗留(とうりゅう)する欲もなんにもなくなった。おお辻ヶ谷君よ。早く僕を時間器械の力でもって、元の焼跡の世界へもどしてくれたまえ。ぐずぐずしていると、僕はここで土佐衛門(どざえもん)になってしまうであろう。
 またずぶずぶともぐりこんで、そこで手足をだらんとして浮力(ふりょく)が勝って身体の浮きあがるのを千秋(せんしゅう)のおもいで待った。ようやく浮き身がついて、身体がすううっとよっていった。僕は例のとおり頸を曲げ、唇を一番高い位置へつきだして、水面へ唇が一刻も早く出ることを願った。ところが唇は水面へ出るかわりに、冷たい硝子天井に触れた。
 いつの間にか、水面と硝子天井とがくっついてしまったのである。水面と硝子天井との間に残っていたわずかの空気層がなくなってしまったのである。水はついに硝子天井についたのである。ああもう吸うべき空気がなくなった。
(本当か。僕をここで溺死させるつもりか。なんという憎むべき悪魔!)
 僕はもうやぶれかぶれだった。
 拳(こぶし)をかためて、硝子天井をどんどんつきあげた。頭を天井にぶつけてみた。硝子天井は厚い。そんなことでは破れそうもない。僕はついに身体をさかさまにして、両脚に全身の力をこめて、硝子天井を蹴った。
 ああ、それも無駄に終った。足の骨が折れそうになり、激痛(げきつう)が全身を稲妻(いなづま)のように突(つ)き刺(さ)しただけであった。
(もう駄目か。息が出来なければ僕は死んでしまう)
 僕はもう気が変になりそうだ。どこかに空気のもれて来る穴がないものかと、僕は水槽の中を魚のようにもぐって、あっちの壁やこっちの底を探りまわった。だが、すべては無駄であった。
 無駄と知りつつ、それでも僕は水中を、あざらしのようにはねまわった。
 やがて僕は、続けざまに水をがぶかぶ呑んでいた。呼吸は苦しさを通り越して、奇妙に楽になった。胃の腑の方が苦しくなった。僕はもっと泳ぎまわり潜り続けて空気を見つけなければならないと思いながらも、僕の身体はだらんとしていた。水の層を通してあいている両眼に、うす青いあかりが入って来るのが、夢の国にいるような感じだった。
 僕の知覚はだんだん麻痺(まひ)して来たんだ。
 わが耳に、遠くで人がいい争っている声が聞こえる。本当に聞こえるんだか、幻想なんだか、どっちとも分らない。それは男と女との口論のようでもある。声高く笑っている。そうかと思うと、くやしそうに泣いているようでもある。
(僕はもう死ぬんだな)
 僕はそう悟(さと)った。死にたくない。しかしどうにもならない。ああ神さま!
 それからどのくらいの時間が経(た)ったか、僕は覚(おぼ)えていない。とにかくぼんやりと気のついたとき、僕はしきりに口から水を吐いていた。いや、正確にいえば水を吐かされていたのだが……。


   遠大なる実験案


 僕は、うつ向いて、水を吐(は)かされていた。
 胃袋の下に、砂枕(すなまくら)のようなものがあたっていた。そして誰かが、僕の背中に、ぐいぐいと力を加える。そうすると僕は、障子がひきさけるような音をたてて、ごぽごぽと下へ水を吐くのだった。
 僕には見えないが、僕の頭の上で、がやがやと喋(しゃべ)っている人声がする。それは非常に遠いところで喋っているようにも思われる。僕の知覚は、まだ麻痺(まひ)状能を脱し切っていないのである。その証拠に喋っている人声が急に遠くなったり、また僕が水を吐いていることが分らなくなって花園の中に犬を追いまわしている夢の中に入ってしまったりした。僕の身体の方々には、三重にも四重にも違った疼痛(とうつう)があって、それに耐えるのに僕のエネルギーは精一ぱいであった。誰が僕の背中を押して水を吐かせているのか、誰が口論(こうろん)してるのか、頭をあげてその方を見る余裕など全くなかった。
 それでも、時間の経過するにつれ、もうろうたる意識ながら、それがすこしずつ整理されて来るようであった。
 すなわち、僕は盛んに罵(ののし)りあう男女の言葉の意味がところどころ分るようにもなったし、また僕の臀部(でんぶ)にいくども注射針がぶすりと突立てられることも分った。
「なんといっても、あたしの説が正しいと証明されたわけよ」
「いいや、そうはいえない。僕の説の方が正しい。そうでしょう、この実験動物は、正(まさ)に溺死(できし)してしまったじゃないですか」
「それは溺死したかもしれないわ、でもそれはこの実験動物が、目下腮(えら)を備えていないために、水中で呼吸が出来ないという構造を持っているためよ。溺死しようと、この実験動物が水槽の中で見せた水中動物らしいあのすばらしい運動や反射作用や平衡感覚などはあたしの説を正しいものと証明したじゃありませんか。正にこの実験動物は、水中動物たるの機能を持ち、機能を保持していると断定できる。そうじゃなくって」
「そりゃね、いくぶんそれは認められるけれど……」
「ああ、なんてしみったれな仰有(おっしゃ)り様(よう)でしょうか。これだけ明らかなことを、しぶしぶ認めるなんてフェア・プレイじゃないわ」
「だがね、とにかくこの実験動物は一度溺死(できし)してしまったんだ。だから、そう大きなことは、いえないわけだ」
「あなたは頭が悪いのね。そういう難癖(なんくせ)のつけ方は、何といってもフェアじゃないわ」
「まあ、そういうなら、それでもいいということにして、僕はもっとくりかえし、この実験を続けることを提議(ていぎ)しますね」
「それはもちろんあたしも同感ですわ」
 僕は急に目がまわりだした。僕の頭の上で、があがあ口論をやっているのは、男大学生のトビと女大学生のダリア嬢にちがいない。かねてこの御両人は熱心に人体に残る平衡器官の研究をすすめていたわけだが、両者の説は対立していて正しいか然(しか)らざるか判定がつかないので、遂に両人は僕をホテルのベッドから盗み出して、かの水槽へ入れ、魚のような目にあわしたのに違いない。その揚句(あげく)、乱暴にも僕を溺死させたが、まだそれにあきたらないで僕を実験動物と呼び、そしてその僕をもっと金魚(きんぎょ)や鮭(さけ)のまねをさせようといっているのである。溺死はもうたくさんだ。この上第二回、第三回の溺死をくりかえされていると、そのうちに僕は弱ってしまって、いくら注射をうっても生きかえらなくなることだろう。僕は大いに抗議をしたいと思ったが、残念なことに口も身体もきかない。
「あたし、考えたんですけれどね」
 とダリア嬢が元気一ぱいの声でいう。
「この次の実験には、この実験動物が水槽で楽に呼吸が出来るように呼吸兜(こきゅうかぶと)を頭にかぶせようと思うんですの。つまり、適当に酸素を補給させ、過剰の炭酸瓦斯(ガス)が排出(はいしゅつ)されるようになっていればいいんですから、そのような呼吸兜を作るのはわけありませんわ」
「それはいいでしょう。しかし身体の釣合いを破らないように考えないといけませんね」
「そうですね。身体の他の部分にも別の錘(おもり)をつけましょう。あたしはもっといろいろと考えていますのよ、発展的な実験をね」
「発展的な実験というと、どんなことをしますか」
「すこし大胆(だいたん)かもしれませんけれど、この実験動物をやがて深海へ放ってみようと思うんです。そして深海の重圧力(じゅうあつりょく)がこの実験動物の平衡器官にどんな影響を及ぼすかを調べてみたいと思います」
「それは面白いですね。しかしその実験を最後として、この実験動物は役に立たなくなりますよ。おそらくひどい内出血(ないしゅっけつ)をして死(し)んじまうでしょうからね」
「それはもう死んでもようござんす」
 僕は聞いていて気が遠くなりそうだった。死んでもようござんすとは御挨拶(ごあいさつ)だ。おお、僕は一体(いったい)これからどうなるか。


   絶望(ぜつぼう)の底(そこ)


 女学生ダリア嬢と男学生トビ君のために、水槽の中で実験の道具にさんざん使われて、へとへとになっている僕の耳に、この次は呼吸兜(こきゅうかぶと)を僕にかぶせて深海へ放りこむつもりよとのダリア嬢の放言が響いた。
 僕はおどろいたが、すっかり精力(せいりょく)をなくしているので、立上って逃げ出す元気はないばかりか、それに抗議する声さえ出なかった。
(もう駄目だ。僕はやがてこの両人に殺される。――殺された結果、僕は一体どういうことになるのか、元の世界へ舞い戻ることになるのか、それともあたり前の死のように、たちまち意識は消えて、それなりけりとなるのか、どうなんだろう?)
 殺されることだけでさえいやな上に、死後のことまでを心配しなければならないとは、なんたる不幸な僕であろうか。禁断(きんだん)の園(その)に忍び入ったる罪は、今、裁(さば)かれようとしているのだ。僕はもう観念した。たとえ針の山であろうと無間地獄(むげんじごく)であろうと、追いやられるところへ素直(すなお)に行くしかないのだ。
 僕は、ひそかに仏(ほとけ)さまの慈悲(じひ)に輝いたお顔を胸に思いうかべた。そして南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を唱(とな)え始めた。もちろん声は出ない、心の中でどなりたてたに過ぎないけれど……。
 そのときであった。大きながらがら声で突然怒鳴(どな)り散らし始めた者があった。その声はトビ男学生の声でもなく、また[#「また」は底本では「まだ」]もちろんダリア嬢のそれでもなかった。その叱咤する声は、だんだん大きくなっていって、雷鳴(らいめい)かと疑うばかりだった。
「……ばかだねえ、君たちは。二度と手に入らない貴重な人間をそんな無茶な目にあわすとは困るじゃないか。死んじまったら、わしは免職だよ。それに第一、これは君たち両人の所有物じゃないだろう、両人だけに勝手に処分されちゃ困るよ」
 その声に聞き覚えがあった。それこそ正(まさ)にカビ博士だった。
 カビ博士が救援に駆けつけてくれなかったら、僕は遂(つい)にダリア嬢たちの手であえない最後(さいご)を遂げてしまったことであろう。後でタクマ少年から聞いたところによると、博士は僕の盗難を大学の人からの急報によって知り、ベッドを滑(すべ)り下(お)りると寝巻(ねまき)のまま大学へ駆けつけ、それから捜査に移ったそうである。
「もう大丈夫だ。明日になれば元気を恢復するだろう。そしてもう、学生たちには襲撃されないように万全(ばんぜん)の手配をしてあるから、安心したまえ」
 と、博士は僕を見舞って、こういった。
「先生。もう深海(しんかい)になげこまれるようなことはないでしょうね」
「そんな危険は今後絶対に起こらない。あの凶悪(きょうあく)なるダリア嬢と共犯者トビ学生は、共に本校から追放されたんだから、もう心配することはない」
 遂に放校処分にあったのか。そんならもう大丈夫だろう。しかし僕はどこかに不安の影が宿っているような気がしてならなかった。
 その翌日になると、カビ博士は又僕の病室を訪れて、枕頭(ちんとう)に立った。
「さあ、退院だ。わしと一緒に出よう」
「えっ、もう退院ですか。しかし僕は起上ろうとしても、ベッドから起上る腰の力さえないんですよ」
「ああ、そうか。それはまだ磁界(じかい)を外(はず)してないからだ。待ちたまえ今それを外すよ。……さあ、これでいい。起上りたまえ」
 博士がベッドの下へ手を入れて何かしたと思うと、僕の身体は俄(にわか)に楽になり、軽くなった。それは病人の安静器(あんせいき)がベッドの下に入っているんだと、博士の説明であった。
 その博士は、「今日はこれから君の慰安(いあん)かたがた、君を深海見物に連れて行こうと思う」といって、髭(ひげ)の中からにやりと笑った。
 深海見物と開いて、いつもの僕なら大喜びをするところだったが、ダリア嬢たちから深海へ放りこむと嚇(おど)されたことを思い合わして、僕はぞっと寒くなった。
「それは願い下げにしたいですね。僕は深海と聞くと、ぞっとしますんですね」
「心配はないよ。わしの愛艇(あいてい)メバル号に乗っていくんだから、どんなに海底深く下(くだ)ろうと絶対安全だ」
「でも当分僕は……」
「それにわしは、折入って君に相談したいことがあるんじゃ。それも早くそれを取決めたいんだ。だからぜひ行ってくれ」
 いつになくカビ博士が下手から出て、僕に懇願(こんがん)せんばかりであった。そういうとき、僕が博士のいうことをきいておかないと、僕が困ったときにどんな目にあうかもしれないと思ったので、僕は遂に同意した。すると博士は非常に喜んで、顔中の髭を動かし、満面に笑みを浮かべた。その笑顔を見ていた僕は、ふと別の顔を思い出した。
(ふしぎだなあ。カビ博士の顔と辻ヶ谷君の顔とは、非常によく似ているところがあるが……)



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