海野十三敗戦日記
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著者名:海野十三 

 鈴木貫太郎海軍大将は、枢府(※天皇の諮問機関、枢密院の異称)議長の任にあったが、今度大命を拝した。七十八歳の高齢と聞くが、日本の国はどうしてこう年寄の御厄介にならないとたっていけないと、重臣たちは考えるのであろうか。腑に落ちない。今までそれで散々失敗していながら、戦時下最終の内閣を組立てるのだといわれながら、この老人の顔に出られては、われらの士気もあがらない。 しかし一説によると、鈴木大将は最も永く天皇の御そば近くに仕えていたので、聖旨を理解し奉ることこの人に及ぶはなく、それで今度選ばれたのだと見る向きもある。 それが本当なら、肯(うなず)けることだ。しかしこの鈴木大将に御願いしなければならぬほど、日本には逞しい政治家がいないのであろうか。青年日本の姿は遂に見られないのであるか。残念至極である。 四月九日◯建物疎開で、町の変貌甚し。三軒茶屋より渋谷に至る両側に五十メートル幅で道を拡げるというが、それを今盛んにやっていて、大黒柱に綱をつけ、隣組で引張って倒している。そして燃料がたくさん出来、手伝いに来た人達に与えている。雨が降っているが春雨だ、たいして苦にならぬ。 外食者用食堂(※戦時下食糧統制の一環として配給された、外食券を利用する食堂。現金があっても、券がなければ食べられなかった)とか、銀行とか、配給所が、疎開延期で残っている。 各部隊から兵隊さんが出て手伝っている。壊した家屋は、やはり焚木用として隊へ持ちかえる。◯停留場や駅の風景を見れば、三月十日前後や三月二十日前後(これは疎開強化、国民学校授業停止の発表があった頃)に比べると、だいぶ静かになったようだ。◯新首相、鈴木貫太郎大将は、昨夜新任挨拶を放送した。「政治には素なり、八十に垂んとする老躯をひっさげて、諸君の陣頭に立つは、自ら鑑みて悲壮の感あるも、大命を拝せし以上は陣頭に立ちて突進せん、諸君はわが屍をのり越えて進撃せられたし、但し大いに若返ってやります」といった要旨。なお記者に所懐を語って曰く、「勝てると思う。日露役のときも重臣は勝てることはおろか、多分負けると考えていた。万が一にも敵を撃退し得ないかも知れぬと考えていた。だが頑張りが勝ったのだ。硫黄島が玉砕、占領されたことも負けとは思わぬ。敵アメリカに対し、精神的に大恐怖を与えたのがわが戦果で、この点勝ったといってよい」などと、勝てる自信を述べていた。◯昨八日十七時、大本営発表で久方ぶりに軍艦マーチと陸軍マーチが響く。沖縄本島周辺にここ旬日あまり群って退かぬ敵艦船群に対し、わが特攻水上隊及航空隊が突入し、わが水上隊も戦艦一、巡一、駆三を撃沈した。かくて敵艦十五隻撃沈、十九隻撃破、その他未確認のもの少からずという戦果を掲げ、ために敵艦船は遂に沖縄本島の周辺から逃げだしたとある。リスボン経由の外電も六日、七日のわが猛攻を伝えているし、島上の敵軍も「ここは地獄を集めた地獄だ。あと二週間これが続けば、この戦は悲劇に終ろう」と悲鳴をあげている由。そのままには受取り兼ねるが、すさまじい戦闘がいよいよ始まり、決戦の決を見るのももうわずかの後に迫ったことを思わせる。 尚水上艦隊の特攻隊はこれが初めて。特に戦艦の特攻隊とは、戦闘の壮観、激烈さが偲ばれ、武者ぶるいを禁じ得ない。 四月十三日◯アメリカ大統領のルーズベルト急死す。脳溢血と発表された。 日本時間にして、彼の死は十三日の金曜日に当る。 四月十四日◯昨夜二十三時頃、わが横鎮は関東海面に警報を出したが、果して敵一機は房総に入り、つづいて敵大挙し、三月十日以来の帝都市街夜間爆撃となった。 敵はルーズベルトの死に関連して、この挙をあえてなしたものと見受ける。◯大本営発表によれば、来襲機は百七十機で、四時間にわたり波状投弾し、焼夷弾の前に爆弾を投じた。 宮城大宮御所の建物にも損傷あり、まもなく消し止めた。両陛下と皇太后陛下は御無事とのこと。明治神宮は本殿と拝殿とが炎上した。鈴木首相の放送に「敵は計画的にこの暴挙をなした」とある。◯ラジオ報道によると、豊島、板橋、王子、四谷が、もっとも多く燃えた由。しかし死傷者は少ないとの事である。去る三月十日の空襲は死傷がひどく、昨日も四十七ヵ所で三十五日の供養が行なわれ、僧侶は巻ゲートルで、トラックにのって廻ったそうである。◯本日の省線不通箇所は、上野→池袋→新宿間、新宿→荻窪間、神田→市ケ谷見附間、池袋→赤羽間、もう一つ足立区方面(わすれた)。◯昨夜の炎上の状況は左図の如くであった。(※カット「手書きの地図」入る。41-下段)◯戦果の発表、撃墜四十一機、損害を与えしもの約八十機なり。◯四月十一日の午前のへんな爆撃は今度の予習だったかも知れない。◯あのときは一トン爆弾を、荻窪の中島本社へ落とした由である。◯昨夜の軍情報はすっきりしなかった。「後続機に対して警戒中なり[#「警戒中なり」に傍点]」というナマぬるい放送をして置きながら、間もなく「大挙来襲に敢闘せよ」と出し、空襲警報を発令した。そのときは第一機が投弾して、もう市街は炎々と燃えていたのである。◯今朝、余燼(よじん)が空中に在るせいか、天日黄ばんで見えたり。 ◯焼け跡も疎開も知らぬ桜哉  ◯分解の敵機も散るや花の雲 ◯去る四月五日、永田徹郎大尉の奮戦談が新聞に出た。その前日とその日の朝のラジオでも放送したとか。徹ちゃんの健闘はうれし。毎朝その武運長久を一同して祈っているのだ。(輸送船一隻撃沈)その前に戦艦二隻やったらしい(朝子の手紙によると)。 その後、朝子の手紙が来て、四月五日これから出撃する主人を送っているとあり、気を揉んでいる様子が見えるようだ。きょう手紙にて激励をして置いた。◯都電運転系統は現在左の通り動いている。△品川→日本橋 △三田→日比谷 △目黒→日比谷 △五反田→金杉橋 △渋谷→金杉橋 △渋谷→青山一丁目 △渋谷→六本木 △中目黒→金杉橋 △四谷三丁目→泉岳寺 △四谷三丁目→浜松町 △新宿→荻窪◯列車乗車制限(軍公務、緊急要務者以外は乗車券を発売せず)◯東海道線=東京→小田原 ◯中央線=東京→大月 ◯東北線=東京→小山 ◯高崎線=大宮→熊谷 ◯常磐線=日暮里→土浦 四月二十七日◯この日記をしばらく休んだ。休んだわけは忙しさのためと、空襲の閑散化のため。といっても、帝都空襲が閑散化したわけであって、B29の日本空襲が減ったわけではない。むしろこのごろは毎日、九州の飛行場を爆撃に来るという執拗(しつっこ)さ、熱心さである。わが特攻隊の出鼻を挫(くじ)かんためであることはいう迄もない。◯さて、休んでいた間にも、帝都への大爆撃はあった。それは去る四月十五日深更より十六日暁へかけての夜間爆撃で、蒲田、荏原、品川、大森をやられ、大小の工場がほとんど全滅したとのことだ。なおこのとき川崎もかなりの被害があった。◯蒲田の工場は当然疎開したものと思っていたが、欲ばっていて親工場へ吸収される値段の吊上げを試みつつあり、そしてやられて元も子もなくしたものが軒並だ。個人工場の損失ではない、国家の大損失であり、猫の手さえ借りたい刻下の沖縄大決戦の折柄、戦力をそぐこと甚しい。◯吉田晴児の工場も焼けたらしい。協電舎もそうらしい。橋本さんの広辺電気もそれ。枚挙にいとまあらずである。◯去る四月二十五日の新聞に、被害の総合結果の発表あり。 東 京  五十万戸  二百十万人 大 阪  十三万戸  五十一万人 名古屋  六万戸   二十七万人 神 戸  七万戸   二十六万人 これ下村新情報局総裁の手腕のあらわれと見える。 此の発表で、帝都に関しては「三月十日は不幸にして風が余りに強かったため、同日だけでも焼失戸数や火災による死傷者数は相当にのぼった」こと「大部分焼失した区域は、浅草、本所、深川、城東、向島、蒲田」であり、「その他相当焼けた区は下谷、本郷、日本橋、神田、荒川、豊島、板橋、王子、四谷、大森、荏原、品川」である。「川崎市は市街の大部分を焼失」「大阪では西成区、西区、南区、北区、天王寺区、湊区、浪花区、大正区が被害が大きい」 名古屋では「千種区、東区、中区、熱田区、昭和区、中村区、中川区が被害大きい」 神戸では「兵庫区、湊区、湊東区の大部分を焼失した。また葺合、神戸、須磨、林田、灘の一部分焼失」◯四月十五日、十六日の夜間空襲のときはちょうど神戸の益三兄さんが泊っていて、これを見物した。その前の豊島区などの焼けたときほど大きくは見えなかったが、初め品川上空に照明弾を落としてそれからずんずん東へ南へひろがり、駒沢のが一番近く、そこへ落ちる頃はこれはいよいよ来るかなと思わせた。◯大橋のバス通りのすぐ左側に於いて千軒ばかり焼けた。◯大橋の、こっちから行くと左側の堤防に不発弾がおち、電車は大橋→渋谷間が五、六日止まり、その間歩かせられた。 最後に工兵隊が出て、爆発させたが、そのときの工兵隊はがけ下を覗くためにこんなものを用いて居た。(※カット「手書きの図」入る。44-上段)◯天皇陛下御宸念(しんねん)。忝(かたじけな)くも金一千万円也を戦災者へ下賜せらる。◯賀陽宮、山階宮、東久邇宮の三宮家も御全焼。◯明治神宮本殿、拝殿も焼失。千百数十発の焼夷弾のかす[#「かす」に傍点]が発見されたという。◯大下宇陀児(おおしたうだる)(※推理小説家)邸も焼けたと角田(喜久雄)(※小説家)君より聞き、見舞に行った。涙をのむのに骨を折りながら、奥さんと二時間あまり話した。彼は大元気で、家にも帰らず、町の皆さんといっしょに焼あとに起居しつつ、復興につとめている由。防空壕へ衣類を入れてあったためこれが助かったが、他のものはほとんど一物もとり出さなかったという。 当夜、このあたりに旋風が起こり、町の人々を一層恐怖させたとの話。大下邸のすぐそばの焼けた大ケヤキの高い梢の上に、バケツやトタン板がちょこんとのっているのも、それを物語る跡である。 また池袋の武蔵野線のホームのトタン屋根が、変な具合にめくれていて、車中より私は首をひねったが、これも旋風のためとわかった。 大下君は、残留せる四百名の人々をはげまし「新雑司ケ谷村」を建設するつもりで活躍しており、昨二十六日の毎日新聞にその記事が出た。好漢病気にならなければよいが、とそれを祈っている。◯それ以来私はのどを痛め、風邪をこじらし、ずっと家に引込んでいる。◯九州連日爆撃に、鹿児島の家のことと、永田夫妻の安否を心配している。前にはこっちが心配せられ、今はこっちがあっちを心配しつづけている。 去る日、鹿児島の家の向隣に爆弾がおちたそうで、永田家も損じたらしい。しかし「住むにさしつかえありません」とお母さんから報じて来たところを見ると、相当塀や瓦をやられたことと思う。 五月一日◯先日来二度朝、立川へB29が大挙来襲、昨日などは硫黄島からP51、百機も参加した。 一度つづけさまの爆裂音を聞いた。あとは穏かになり、時々実戦の音を西方の曇天に聴くのみ。◯昨日、千葉県大和田の鷹の台クラブへ行き、ロッカー中のクラブやバッグ、靴などをとりに行ったが、すでに盗まれてしまっていてなにひとつとてもない。手ぶらで戻る。 船橋にも、前のようにハマグリ、アサリの売店はない。ポツン(玉もろこしのはぜたるもの)二、三十入り、一袋三十五銭で売っているのを十個買って帰る。◯それにしても、両国から平井に至る間、左右見渡すかぎりの焼野原で、数千本の煙突から煙の出て居るのは僅々七、八本に過ぎず、工業生産力の低下に今さらながら慄然とし、敗戦的観念に追いつめられてしまった。◯ベルリンはあと五分の一を余すのみ。ヒムラー内相より英米へ降服申入れありしとの噂立つ。 木村毅氏の曰く「イギリスではヒットラーが昨年七月の爆弾事件で死んだという説を盛んに言いふらしているぜ。今居るヒットラーは贋者(にせもの)だというんだ」 私はいった。「それが真偽いずれにしても、興味ある報道ですね」◯ラジオ報道は、ムッソリーニ総帥が遂にイタリアの反乱軍の手によって殺害されたと伝う。◯モロトフ氏、急いで桑港(サンフランシスコ)会議より引揚げ、モスクワに帰る。イーデンはまだうろうろしている様子だが、これもいずれ帰るであろう。◯ベルリン陥落乃至はドイツ休戦申入れをめぐって、英米ソの間にまた一波瀾ありそうだ。◯ドイツ亡ばんとす。巷間「ドイツはかわいそうですね」「ヒットラー総統はあそこまでやったのに」「ドイツ軍、ヒットラー・ユーゲント、ベルリン男女市民軍、みな悲壮な戦(いくさ)をしますね」と言い、「ドイツも亡びます。いよいよ世界中が日本へ攻めかけ、イタリアやドイツのようにするのでしょうね、ああどうしましょう」と悲たんし恐怖する者をほとんど見かけない。◯K氏曰く、「僕は生来楽天家かしらんが、この戦争は日本の勝だと信じている。ヨーロッパはもうすぐ食糧で大破綻を生ずると思う。アメリカも食糧でたいへんらしい。食糧で反枢軸国はまず敗北相をあらわしはじめるよ」◯先日F君の話によると、まだ風船爆弾はあがっているよし。 アメリカでも報道厳禁だそうだから、かなり被害があるらしい。 五月二日◯昨五月一日、ヒットラー総統はベルリンに於ける戦闘指揮の位置に於いて死去し、後任としてデーニッツ提督を任命したという。 その新総統はハンブルグから全国に放送し、共産主義に対する戦争の継続を宣言し、米英軍といえども共産主義に加担する者は容赦せず、と宣した。 その放送より私の受けとったものは、デーニッツ氏の米英への秋波である。 かねてドイツ海軍内部には、反抗等の暴動ありと伝えられている。その分子がヒットラー総統及びヒムラー内相を暗殺することあらば、ドイツはナチの色を払拭し、休戦するであろうとの情報が存在した。 これとあれとを相関して考え、とにかくヨーロッパに於けるドイツ軍の対米英ソ戦争は終ったのだと思う。 日独伊防共協定も、これが終幕である。あとは大東亜戦争のみが残り、そして継続することは確かである。 但しその他の新事態、新争闘の発生するであろうことは当然であり、大東亜戦争のみがこの世界にひとり進行するのでないことは疑いない。 戦争もこれからが本舞台だ。世界の情勢もこれからがいよいよ複雑化する。しっかりやらなくてはならない。そして長生きして世界の移り変わりをよく見極めたいものである。◯四月に於けるわが収入は、金五十二円八十銭であった。大学卒業後今日までに於ける最低収入の月であった。記憶に値する。(この日記終り)  空襲都日記(二) この騒然たる空の下、事実を拾うはなかなか困難であり、それを書きつけるは一層難事であるが、私としては出来るだけ書き残して行きたいと思う。 昭和二十年五月二日   ヒットラー総統死去のラジオ報道を聴いた夜海野 十三   五月三日◯ドイツ・ベルリンの戦闘の終局、ヒトラー総統の戦死、デーニッツ新総統の就任、米、英、ソ、それぞれの休戦に関する報道ぶりなど、目まぐるしい欧州のニュースの連発である。ゲッペルス宣伝相は自殺したとソ連は発表した。リッペントロップ外相とゲーリング元大ドイツ元帥のことはすこしも出て来ない。ヒムラー内相のことはデーニッツ新総統が不服従の烙印を捺(お)し、ヒムラー氏の対米英休戦申入れを許さずとしたとある。 いずれにしろ、ドイツも遂に無条件降服の外ないのであろう。 今夕、鈴木総理大臣はこれにつき放送した。趣旨は分り切ったことである。若い声だが、原稿をとちるところなど老衰が見えるようである。 ドイツ大使スターマー氏も声明を発表した。「ヒットラー総統は死んだ」から始まって、総統が死に臨み、側近からデーニッツ提督を後継に選んだ炯眼(けいがん)と熱意とを指摘し、そして「ドイツ人は故人の意志を奉じて邁進精進することに於いて、世界に稀なる民族である」こと、「故総統によってまかれたる種は、将来きっと花を咲かせ実を結ぶであろう」と述べ、そして最後に「故総統は日本のよき友であり、且つ日本人崇拝者であった」と結んだ。 もう影はうすかったがムッソリーニ統帥も殺され、得意絶頂のルーズベルトは急死し、今またヒットラー総統戦死して、世界の巨名者ぞくぞく斃る。 チャーチル、スターリン氏はまだ斃れないかと興味に富んだ目が、両人のうしろをしきりに追駈けている。神のみぞ知りたもう。◯串良の朝子(※長女)より来信。二十三日発の速達が十一日目についた。「私たちは元気です。主人は家に帰って来ませんが、下士官の方に会ったら、隊で元気で居られますといわれました」とあって、一安心した。 串良も敵の上陸の噂でかなり動揺しているらしい。朝子、大なる覚悟のほどをのべていた。 二十六日より六日間、南九州をB29の大群が連爆したのが気にかかるが、この方の手紙が来るのは、まだ十日位先となることであろう。 皆の無事を祈ってやまない。 五月五日◯昨四日、慶大病院へ行ったが、もう大分いいから、しばらく(通院を)休んではどうかといわれた。或る程度まで治り、そして或る程度以上は治らぬことがわかったので、それに従って休むことにした。 いい散歩課業がなくなった。これからは体操と歩行とにつとめることにしよう。◯タケノコ、きょうは湊邦三氏と岡東へ頒ける。今年の冬はいつまでも寒かったので出来悪し。うちはタケノコのちらし飯。豆かす入りも「ぐ」の数が一つふえたと解して楽しむ。ほかに椎茸(イヨ産)、にんじん、はす(奥山さんからのいただきもの)を入れる。 奥山さんへも一ぱいさし上げて、おじさんから「ごちそうさま」とよろこばれる。◯ドイツ軍、各地にてどんどん降服中。◯沖縄にて、わが反撃きつし。タラカン島へ上陸せし敵増強中。◯今日はB29が約二百機近く来襲し、内地各地へ投弾。広島も初めて大空襲を受く。◯東京は、心ならずも穏やかなり。心ならずというのは、九州等来襲ひんぴんたる土地のわが同胞に対し相済まぬと思う意味なり。◯久し振りにわが作品放送、子供の時間「潜水島」の第一夜、つづきは明晩。 五月七日◯昨日、焼跡の大下(宇陀児)邸二度目の訪問。今度は氏に会えた。焼跡に立ち、町会の人と立話をしている氏の後頭部一面が真っ白であるのを発見して、涙を催した。◯しかし、大下五丁目町会長の熱情は、残留三百五十名という帝都内に珍らしい高率で、バラックや壕舎があたりに群立し、再起の意気込みすさまじく、日本人かなと感じ入った。 菜園にはすでに芽も青々と出ているし、風呂二つも今明日より入れるそうだし、髪床も数日うちに開店のよし。◯附近に焼夷弾の筒が十数本、一邸内に固まっているところを見せて貰い、慄然とした。◯目白警察へ畳のことで用あって行く氏と、目白駅の手前で別れた。氏も奥さんも、ともに元気なのは、うれしい。◯大下邸もこの前とは変わり、きれいに片づき、既に種もまいてあるそうな。この家の塀が千金の値あり。◯今日は裏の防空壕の上に、庭の敷石(実は小石をセメントで固めたもの)をずらりと敷き、敵機の機銃弾に対し、いささか強き壁とした。焼夷弾筒も防げる見込みである。晴(※晴彦、長男)暢(※暢彦、次男)よく働く。 田中さんの義ちゃんや、もう一軒の田中君の子供たちも仲々よく働いてくれる。◯一昨夜は敵襲あるかと思われたし、実際に空襲警報も出たのであるが、入って来たのは三機だけで、こともなかった。 九州はもうこの十日間に八連爆か九連爆で、飛行場附近を盛んにやっているらしい。鹿児島からも串良からも手紙が来ず、わからない。 また瀬戸内海等ヘ、機雷投入を二日つづけてやった。きょうは尾道と四国との連絡船が停まったと出ていた。PB2Yらしい飛行艇も、房州の附近へ姿を現わし、高度五百メートルで船を攻撃したという。 タラカン島へ米軍が、ラングーンヘ英軍が上陸している。 しかしわが特攻隊、今度はつづいて猛攻をつづけ、既に沖縄周辺で撃沈破せる艦船の数は五百隻を超えた。この勢いでつづかせたいもの。◯去る四日「疎開応急措置要綱」が発表された。老幼病人のほかは、都外へ疎開まかりならぬと決められた。これで腰が落ちつくことであろう。 五月八日◯第四十一回目の大詔(たいしょう)奉戴日(ほうたいび)。主婦之友の安居氏来宅中に警戒警報が出て、十一時半空襲警報となる。B29、十数機と、そのあとP51、六、七十機が来襲した。 千葉、茨城方面を行動し、一部は帝都へ入ったというが、雲低く遂に機影を見ず。友軍機の八機編隊で警戒する姿が頼母(たのも)しく見えた。◯外電によれば、ゲッペルス博士は官邸に於いて、夫人と子女四人と共に、毒物を服んで死んだとある。ヒットラー総統及びゲーリング元大ドイツ元帥の死体は見当たらず、ソ連軍躍起となって捜索中。ヒットラー総統は二十五日重傷を負い、一日ついに死去したという(三十日ともいう)。そして最後の輸血を拒み、ドイツ国民への愛を示したといわれる。◯今日は「くろがね会」より稿料百円、主婦之友より百七十六円持って来てくれ、合計二百七十六円収入となる。昨四月は全収入合計五十二円八十銭だった。これだけでも入ってくれると、やっぱり作家生活はありがたいものだと思うようになる。四月の支出は千円とすこしであった。 五月十九日◯あまり日記を書かなかったのは、東京方面がずっと穏やかであったためだ。 今日は九十機が立川方面へ来たが、雲が厚くて盲爆に終ったらしい。 去る十四日(五日前)は名古屋へ四百機のB29が来襲して、同機多数来襲の記録を作った。 南方基地からの敵大型機来襲記録      (三月以降少数機来襲を含まず)  (月日) (時刻) (機数) (目的地)  3月4日  朝    一五〇  東京    5日  未明    一〇  東京        夜      七  関西    10日  未明   一三〇  東京    12日  未明   一三〇  名古屋    13日  夜     九〇  大阪    17日  未明    六〇  神戸    19日  未明   百数十  名古屋    25日  未明   一三〇  名古屋    27日  朝    一五〇  九州北部        夜   六、七十  同    30日  夜     二〇  名古屋、伊勢湾    31日  未明    三〇  瀬戸内海、北九州        朝    一七〇  九州  4月2日  未明    五〇  東京西北    4日  未明    五〇  関東北部、京浜        同     一〇  静岡        同     三〇  京浜市街地    12日  朝 相当数の数編隊 関東地区    13日  夜    一七〇  東京市街    15日  夜    二〇〇  京浜西南部    17日  昼   七、八〇  鹿屋、太刀洗    18日  朝     八〇  鹿児島、宮崎、熊本        同     二〇  太刀洗    21日  朝    一八〇  主力九州南部、一部九州北部    22日  朝    一〇〇  宮崎、鹿児島    24日  朝    一二〇  主力立川、一部清水、静岡    26日  朝     六〇  宮崎、大分        同     三〇  山口、福岡        同     四〇  宮崎    27日  朝    一五〇  鹿児島、宮崎    28日  朝    一三〇  同    29日  朝    一〇〇  同    30日  朝     六〇  大分、宮崎、鹿児島  5月3日  夜    十数機  阪神    4日  朝   三十数機  四国、近畿        同    十数機  関門地区        同     五〇  大分、長崎    5日  朝     三〇  大分、福岡        同    一一二  四国、中国        昼     三八  鹿児島        夜   二十数機  瀬戸内海    7日  朝     六〇  大分、鹿児島    8日  朝  二十九目標  四国、九州    10日  朝     三〇  松山、御前崎        同    三五〇  大分、山口、広島    11日  朝     六〇  阪神        同     二五  北九州        昼   十六目標  鹿児島、宮崎、四国西南部    14日  朝    四〇〇  名古屋 今度は東京市街爆撃に四百機が廻ってくるだろうと、皆覚悟しているが、まだ来ない。 名古屋は昼間の強襲に加え、翌夜にはさらに百機が来襲した。 名古屋地方は、来襲頻度が多いわりに、被害がすくないのは、防空、防火の用意よろしく、天井などは早くから取除いてあったためである。 しかし四百機の来襲で、金鯱(きんしゃち)の名古屋城天守閣も焼失した。大きな建築物の受難時代である。敵は三キロ焼夷弾を使い出した。◯このごろ壕内へ持込むものは、次のようなものだ。 御神霊、財産に関する書類、写真機、平常洋服、蒲団、昌彦(※三男、腎臓病で横臥中)の尿壜、衣料リュック。◯沖縄地上戦況は数日前より重大化す、との報道。又とられるのか、と憂鬱になる。 今後は一体どうするのか。 分っているじゃないか――というわけだが。◯この頃「しかし」という言葉がいやになった。ラジオの報道で、初めいい話を聞かせておいて「しかし」と来る。このあとは、あべこべの悪材料悲観材料の展開だ。「しかし」がいやになったゆえん。◯昨日来た映配南方局米本氏の話に「このごろ作家のところへ原稿依頼を三十本出しても、返事の来るのは七、八本です。みなさん疎開とか、よそで別の仕事をやっていらっしゃるのですね」と。 然り、わが二十三名生存の挺身隊(※一九三二(昭和十七)年一月から五月にかけて、海野は海軍報道班文学挺身隊員として従軍)も、東京在住者は十二名。十一名は地方に在り。挺身隊がこれである。况んや他の文士に於いてをや。 五月二十日(日)◯岡東来る。彼のためにとっておいた「暁」五袋とキングウイスキー少量、それから野菜は玉ねぎ一貫匁とごぼう二本位、岡東は缶詰四個とバター一封度(ポンド)をくれる。 二人の話はあいかわらず食うこと、飲むこと、喫うこと、壕の話、戦況などに終始する。実際この頃はこんな話さえしていれば種はつきない。 それにしてもお互いに腹を減らしているのだ。「ジャガイモを腹一ぱい食べたい」と岡東はいう。加藤さんが会社から帰るとき電車の中で押されても、腹がへっていて押しかえす力がないという。きょう枝元老人から手紙が来て(企画用紙送り来る)「この用紙を届けに行くべきながら、お粥腹(かゆばら)で歩けないので、郵便にします」と断りの文句があった。 自分もこの二、三日腹が減ってかなわず、なんということもなく廊下トンビ(※用もないのに廊下をうろつき回ること)をくりかえしていて、おやと気がつく。子供は騒いでいないのに、おやじの私がこのていたらくでは困ったものだと赧(あか)くなる次第である。 もっとも、昼は雑炊二わんであるので、減るのも無理はない。◯昨日も今日も、一機侵入の敵機めが爆弾を落として行く。昨日は日本堤の消防署に命中、今日は東京湾の海中に命中。◯閑院宮殿下が薨去(こうきょ)された。◯目下マリアナ基地にはB29が六百機位いる見込み。 五月二十三日◯連日天候わるく、雨の降らぬことなし。敵機もいっこうにやって来ない。 電車に乗っても、防空頭巾を持っているのがまず三割程度。人間というものは、鋭敏なりとほめるべきか、それとも面倒くさがりやだとけなすべきか、それとも、油断をするな、と声をかけるべきか。◯今日は雨降りなれど、ちと気温上る。すなわち十六度となる。昨日は十三度どまり。天候漸く恢復の兆あり。◯昨日は畠をこしらえ、加藤完治(※満蒙開拓移民の指導などに当たった、明治―昭和期の農本主義者)さんの話にならい、甘藷(かんしょ)の皮を植えてみる。(※カット「甘藷植えの図」入る。54-上段)◯昨夜は、初めて写真の引伸ばしというものをする。成功した。出来てみれば成功とかなんとかいうほどのものならず、簡単に行った。 この頃写真の現像、焼付、引伸ばし、みんな自分でやっている。◯陸軍軍需本廠研究部へ売却することとなった学術書籍及び雑誌を、今日先方からとりに見える。学生さんが三人、そのうちの一人は良太(※甥)君だから笑わせる。 午前と午後と二度、雨の中を重い風呂敷包を背負って帰った。さぞ腹が減ることと同情したが、何の風情もない。わずかに一切れの手製パンに、先日岡東より貰った小岩井のバターをつけ、砂糖なしの紅茶を出して、気をまぎらして貰った。 五月二十四日◯零時二十八分に関東海面に警戒警報が出た。「数目標」という。英(※夫人)と一緒に起き出て、まず二人は支度する。そのうちに関東地方に警戒警報が出た。皆を起こして支度をさせる。また重要物件を防空壕へ入れる。水をあちこちへ置き、水道へゴム管をつなぐ。そのうちに空襲警報となる。一同防空壕に入る。◯もうこのときは品川あたりが燃えていた。一番機の投弾だ。「また品川か」と思ったが、今夜はきっと違った狙いでやってくると察していた。品川が初まりで、渋谷の方へ伸びて来るかと思った。二番機、三番機と、少しずつ北へ寄って来る。いよいよそのとおりらしい。◯激しいB29の焼夷弾攻撃が始まった。三千メートル位に降下している。照空灯の光の中にしっかり捉えられている。ものすごく地上砲火が呻り出す。永い間ためてあった砲弾を打出すといったような感じである。 月のある夜空を、火災の煙が高く高くのぼって行く、その煙雲のふちはももいろに染まっている。 川開きのような、下がってくるオーロラのような焼夷弾の落下である。◯撃墜されるB29が火達磨(ひだるま)となって尚飛んでいるすさまじさ。そのうちに空中分解をしたり、そのまま石のように燃えつつ、落ちて行く。闇の方々より、拍手と歓声が起こる。そして地上防空活動も、士気大いにあがった。◯放送でも「今日の敢闘は賞讃に値いする」といった。◯焼けたところはよくわからぬが、千駄ケ谷もやられた由。夜ほのぼのと明ける。 五月二十五日◯五反田の電気試験所のまわりがひどく焼け、電気試験所は一部が焼けたと、昨日中川(※中川八十勝、電気試験所時代の同僚)君が報せてくれた。そこで今日は自著十一冊を手土産として、同部へ見舞に出かけた。◯電車は、昨日までは、大橋―渋谷間が不通で、省線は新宿―品川―東京間が不通であったが、今日は渋谷まで行くし、省線も五反田まで行く。が、省線電車は五反田の手前でエンコをしてしまい動こうともしない。そこで飛降りて堤下に至り、路をあるく。もちろん日野校をはじめ界隈は焼野原であった。五反田の焼跡風景も、浅草上野の焼跡風景も、同じであることに気がついた。◯電気試験所は第一部が全焼していた。新館、旧館各棟は異状なしであった。裏門前一帯もすべて焼けつくし、第二日野校ももちろん丸焼けである。そしてアスファルトの上に焼夷弾が十四、五発つきささっているのは、胸にこたえる風景であった。同校の防火壁だけが厳然と焼け残り、その両側は空であるのも異様な風景であった。◯米国飛行士一名、五部の元蓄電池室の裏へ降りし由。石井君たちが捕虜とした。ピストル二丁、弾丸二十発位、持っていた。まず後手を縛したる上、桜の木のところへ連れていって、木に上下をしっかり縛りつけたという。当人は至極温和しかったそうだ。◯後藤睦美君が、バラスト管の代用品をこしらえてくれた。 同君の一家も痩せてくるので、浜松へ疎開するそうだ。◯空襲警報となる。P51、約六十機と嚮導(きょうどう)のB29、二機。しかし機影を見ず。 五月二十六日◯昨二十五日夜は風が強かった。ふと目がさめると「いかなる攻勢にあうとも敢闘を望む……」と放送をしている。警報にも気がつかなかったらしい。又ラジオの情報も分らなかったらしいのだ。英と相談して起きる。と、空襲警報のサイレンが鳴り出したので、少々面喰らう。◯初めは房総東方からきて、品川あたりへ投弾したので、「ハハア、また品川が狙われたか」と思っていると、その数十機が過ぎたとたん、西方からぞくぞく侵入し来たB29の大群。それが今夜は、まさにわが家上空を飛んで東方・渋谷方面へ殺到し、やるなと思う間もなく同方面に焼夷弾の集中投下を見る。例のとおり華やかな火の子はオーロラの如く空中に乱舞し、はらはらと舞い落ちる。従来より最も近いところに落下する。 そうするうちに、南の方へもぞくぞく落ち出したが、また北方・中野方面にもひんぴんと落下し、かなり近い。これは警戒を要すると思っているうちに西の方へもばらばら落ち出し、東西南北すっかり焼夷弾の火幕で囲まれてしまった。 が幸いにも、若林附近はまだ一弾も落ちない。敵は百五十機位もう侵入したことになった。西方の田中さんの畑に晴彦と共に出て空を見ていると、二子玉川あたりの上空を越えてぞくぞく後続機が一機宛こっちへ侵入してくる。其の方向はすべてこっちへ向いているのだ。これはいよいよ来るわいと思った。 すると果して轟音を発して、山崎や若林のお稲荷さんの方が燃え出し、つづいて萩原さんの竹藪の向こうに真赤な火の幕が出来、三軒茶屋方面へ落下したことが確実となった。 わが夜間戦闘機も盛んに攻撃している。たいがいわが家の西方で邀撃(ようげき)。 晴彦に「あれは危いぞ!」とこっちへ向いた一機を指した折しも、ぱらぱらと火の子がB29の機体の下から離れたのがわが家よりやや西よりの上空。「いかんぞ!」と言うのと、ゴーッと怪音が頭上に迫ったのと同時だった。晴彦に待避を命じて小さくなった。焼夷弾の落下地点に耳をそばだてていると、佐伯さんのあたりに轟然と落下し、あたりに太い火柱が立った。婦人たちの悲鳴、金切声など同時に起きる。「萩原さんのところだ!」「奥山さんだ!」「松原さんだ!」との声々に、見ると、立木が燃えている。立木ならたいしたことなしと思いつつ、我家を見まわったが、幸いに事なし。「菅野さんへ焼夷弾落下、燃えています!」叫び声が聞こえた。これはいよいよ始まったかと思って門の前へ出て見たが、火は見えず。裏へまわって英に防空壕の一方を埋めさせることにして、そのあと陽子(※次女)と晴彦と協力し、かねて積んであった土の箱をおろそうとしたが、なかなか重くて動かない。やっと引おろして埋めにかかったが、土が足りそうもない。時間はかかる。病気中の昌彦(※三男)におばさんと暢彦(※次男)をつけて、裏手の林へ避難させる。 私は表へ廻った。と、相変らずすごく落ちる。もう音響にも火の色にも神経が麻痺して何ともない。屋根の上に何かが落ちて、どえらい音がした。焼夷弾ではなさそうだ、火が見えなかったから。(翌朝見たら、油脂焼夷弾の筒の外被と導線管であった。いずれも一メートルのもので、外被は英のすぐそばへ落ち、導線管は私のうしろへ落ち、大地に深い溝を彫っていた)。 私は幾度も家を見廻ったが、異状なし。よって表に近い松の木の下の素掘りの穴に、出来るだけの物を入れて、土を被せてやろうと思った。 まずわが部屋の引出しを投げ込んだ。それから皆の寝ていた蒲団を投げ込み始めたが、これがとても重く感じられた。その間にも火の子がうちへ入るので目は放されず、おまけに風下にいるので、七、八軒向こうの火勢がまともに吹きつけ、煙はもうもう、息をするのが苦しくなる。 ラジオも、アルバムも、本も、辞典も入れた。ミシンを出したが、重くて自由にならず、庭に放り出して逆さにした。足の方が上だ。これは金属製だから、すぐには焼けまいと思う。 壕はまだ半分ふさがっただけだが、これ以上物を入れるのはやめにした。そう欲ばっても――と思ったのと、いつまでもこんなことばかりしていられないからだ。 まだ土をかけていないのに気づいてそれを始めた。裏からクワをとって来たが、土にぶっつけても跳ねかえるだけ。やむなくクワの根本を持って土をかく。この方がいくらか楽だ。 心臓が止まりそうになる。時々休んだ。休んでいると元気も力も回復することが分った。 一人ではとても駄目であると思い、誰か子供一人をつれて来たいと裏へまわる。裏でも盛んに土をかけていた。ようやく大きい穴がふさがり、今度は小さい穴にかかっていたが、土が足らないという。 あとは英と晴彦にまかせ、陽子を伴って門の方へ引返す。と、多勢の人が煙の中から門へ入って来た。見ると菅野さん、羽山さん、松原さんたちである。「どうしました?」「火が迫っています、今のうちに逃げないとあぶない」銀行の支店長をしている菅野さんが言う。「まだ大丈夫ですよ、頑張れば喰いとめられますよ」「いや、もういけません、佐伯さんの方と、高階さんの方の火とが、両方からこっちへ押して来て、息がつまりそうです」 婦人たちは口々に、早く待避せねばたいへんだとわめいている。私は逃げるつもりはなかった。「それでは家の裏から田中さんの畑へお逃げなさい。あそこなら大丈失ですから」教えてやると、昔ぞろぞろと家の庭を通って姿を消した。十人近い同勢である。松原大佐夫人が無言で、小さい身体を一行のあとに運んでいるのを見た。 その前菅野さんの家は四ヵ所もえあがり、それはようやく消しとめたが、菅野さんは屋根へあがって消火しているうちに屋根からすべりおち、地上にしばらく伸びて口もきけなかった由。それ以来菅野さんは戦意を喪失しているようにみえた。 一同が去ったあと、私たちはなおも火の子と煙と戦っていた。 焼夷弾は幾度となく頭上にまかれたようだが、奮闘している身は、気がつかない。 そのうちに少し明るくなってきた。煙がうすれ、風向きが変わって、呼吸も楽になった。これなら何とか危機を脱せそうだと、やっと希望をもちだしていると、空襲警報の解除が、伝えられてきた。電気はとっくに切れてしまったので、ラジオが鳴らず、口頭伝達である。一時間ばかりが、奮闘の絶頂であった。 あたりはまだ炎々と撚えている。真西は最も盛んだ。あとでわかったことだが、豪徳寺東よりの軍の材木置場が燃えているせいだった。 最も近火だった南の高階さんの向こうの火も余燼(よじん)だけとなった。 一同相寄り「まあよかった」と、よろこぶ。 近所からもそれぞれ顔が出る。いつの間にか皆家へ戻っていて、それぞれの部署を守って敢闘した由。さすが日本人である。 私が「大丈夫、消せます。頑張りましょう!」といった一語が、隣組の人達によほど響いたことがわかった。菅野さんの若い人たちなどは初めから避難反対だったが、両親の命令で一緒に避難したが、私がそういったことやら、うちの子供が一生懸命土をかけて活動しているのを見て、これでは避難もしていられぬと、すぐ自宅へ引返したという話であった。 押入に残っていた蒲団を出して、一同仮寝につく。みな疲れと安心とで、ぐうぐう寝込む。 夜中に声あり。出てみると水田君が見舞に来てくれた。眠い目をこすりながらしばらく話をする。自由ケ丘の方は今度は大丈夫なりとのこと。 かくして夜は更けていった。というよりも暁を迎えたのであった。 五月二十七日◯夜は明け放たれた。起出てみたが、夢のような気がする。 六月十日(※以下、新聞の切抜き) 敵機の本土爆撃は漸次(ぜんじ)頻繁(ひんぱん)、大規模となりつつあるが、四月十六日から五月三十一日までの空襲被害状況とその特色が、当局の調査によってまとめられた。 それによると四月十六日以後一ヵ月間は、沖縄作戦を有利に導くため戦略爆撃を主とし、九州、四国方面の航空基地、あるいは航空機工場を目標としていたが、五月十四日以後再び大都市無差別爆撃を開始し、戦略的効果をねらうに至り、五月十四、十七日名古屋に、二十三、二十五日東京、二十九日横浜に来襲した。 この空襲で注目されるのは、二十九日の横浜爆撃で従来の夜間爆撃戦法をやめ、午前の晴天時に来襲していることで、六月一日の大阪爆撃と併せ考える時、今後敵は白昼の無差別爆撃を行なうことが予想される。 また他の特色としては、(一)多数戦闘機の護衛を伴い来襲し(二)港湾水路に機雷敷設(三)宣伝ビラ散布の執拗な努力をしていることなどである。さらに警戒を要することは衛星都市ないし中都市、交通の中心地に爆撃を加える傾向のあることである。 四月十六日から五月三十一日までの空襲で、皇居、赤坂離宮、大宮御所も災厄を受けたが、大宮御所の場合は夜間爆撃とはいえ、月明の中で広大な御苑の樹林、芝生のほとんど全部が焼けただれるほどに焼夷弾を投下したことは、単なる無差別爆撃でなく特別な意図を抱く行為であることは明らかである。 このほか熱田神宮本殿、日枝神社、松蔭神社、東郷神社なども災厄を受け、寺院では増上寺、泉岳寺等も爆撃された。 病院では、慶応病院、鉄道病院、済生会病院、松沢病院、青山脳病院、名古屋城北病院、県立脳病院など。 学校では慶応大学、早稲田大学、文理科大学、東京農大、一高、成城学園、日大予科、女子学習院を初め中学、国民学校多数。 文化的遺産では名古屋城天守閣、黒門、日比谷図書館、松村図書館など多数。 とくに二十三、二十五日の東京空襲では秩父宮、三笠宮、閑院宮、東伏見宮、伏見宮、山階宮、梨本宮、北白川宮の各宮邸、東久邇宮鳥居坂御殿、李鍵公御殿などが災厄を受け、 公共施設では外務省、海軍省、運輸省、大審院、控訴院、特許局、日本赤十字社の一部ないし大部の焼失をみたほか、 帝国ホテル、元情報局、海上ビル、郵船ビル、歌舞伎座、新橋演舞場なども一部ないし大部を焼失した。 なお同期間内の大都市空爆被害は、東京全焼二十五万七千戸、戦災者約百万人、名古屋全焼三万六千戸、戦災者約十一万、横浜十三万二千戸、戦災者約六十八万人と推定され、この期間中に静岡、浜松にも相当被害あり、九州、四国、山陽方面にも戦略爆撃による被害があった。 B29機来襲 三月  二千機 四月  二千五百機 五月  三千機 5/29 横浜 B29、五百機 P百機 正午頃     大阪東部、北部、尼ケ崎へ     神戸東部、芦屋 B29、三百機 6/9 尼ケ崎、明石 B29、百三十機 朝 6/10 日立、千葉、立川 B29、三百機 P51、七十機 朝 6/11 立川 P51、六十機 正午頃 六月十一日◯昨日も今日も敵機は来襲。いずれも白昼である。ただし、我家の方には投弾せず、もっぱら立川と溝ノ口か狛江らしい方面へ落として行った。昨日はB29、三百機で、日立や千葉へも行った。そして硫黄島発のP51を七十機伴なっていた。折柄、臨時八十七議会を開会中で、戦時緊急措置法案上程の最中だったが、議会は午前中休会のやむなきであった。 今日はP51ばかり六十機、また立川ヘ。 これらは本格上陸作戦の直接準備と解すべきか、私は、まだ少し早いと思う。 とにかく千葉にはもはや八十万ぐらいの精兵が集っているらしく、いつでも敵を迎えうつ体制とはなっている。しかしまだ現地の姿は静かに見える。◯武井さんという律義で正直な大工さんを中川君の妻君が紹介してくれ、前から鶏舎や炬燵(こたつ)など作ってもらっていたが、この前の五月二十五日の空襲の翌日(二十七日)ふらりと姿を我家へ現わしてくれた。実は女房から「裏の防空壕の入口の木が地上一尺ほどはみ出しているので、これを切ってほしいから、手がすいていたら来てほしい」と手紙を出して置いたので、見に来てくれた訳。 ところが武井さんの顔を見ると、地下物置が作りたくなり、武井さんも「それは必要だ」といってくれたので、急に話がまとまって建造にかかった。材料は物置をこわした。二軒のうち一軒は、萩原さんのものを買取ることにした。これ以外に柱二十本、トタン板十坪が入用。これは梅月さんに頼む。梅月さんも「この頃は穴掘りばかりやっているから掘ってあげましょう」といってくれ、すべてがとんとん拍子で、たった五日間で、二坪の壕舎が、鶏小屋の前に完成した。全くたいへん調子のよいことであり、これにて安心、衣類、蒲団、書籍その他を入れた。 この間二週間ばかり、私は子供たちを手伝わせたりして、ずっと運搬整理などの力仕事をしたので、たいへん痩せたといわれた。 もうその方は片づいたのであるが、まだ忘れものがあって、思いついてはまた入れている。 日用品は誠に大切で、夜はしまって寝なければならず、朝には必要となるので、出したり入れたりの日課がふえた。 昨十日昼間のB29、三百機来襲には、蒲団などを入れて、ふうふういった。これには目下不在中の同宿者たる中川(※八十勝)君と良太(※朝永)君のものを担ぎ入れるのに、相当骨を折ったからである。敵機が去ったので、出さねばならぬ段取りとなったが、腹も減って、昼飯を一時間早く請求、これでようやく力を出して取出すことが出来た。 中川君、昨日広島より帰京している筈のところ、今日夕刻に至るも、まだその姿を見せず。昨日の空襲で豊橋―掛川間が不通となった事故のための延着かと思っていたが、この分ではそうでもなさそうに見える。◯昨日、日大山田君来宅、過日陸軍軍需本廠研究部へ売却した技術科学書及び雑誌代として、金四百六円七十銭を届けてくれた。◯今日関東配電の鈴木老が、電灯線不通の状況を見に来てくれた。高階さんの向こうのところでポールやトランスが焼け、柱が燃え折れているので、やっぱり当分通電はむずかしいらしい。 七月十四日◯前誌より一ヵ月以上経った。なぜこの日記を書かなかったのかと考えてみる。忙しさのためだったといえよう。その忙しさの原因は、空襲対策の整理のため、仕事のため、殊に講演出張のため。◯沖縄は去月二十日を以て地上部隊が玉砕し、二十六日にはそれが発表された。「天王山だ、天目山だ、これこそ本土決戦の関ケ原だ」といわれた沖縄が失陥したのだ。国民は、もう駄目だという失望と、いつ敵が上陸して来るか、明日か、明後日か、という不安に駆りたてられている。 果して天王山だったのか、関ケ原だったのか。それは尚相当の時日を貸さなければ判定できないが、この天王山だの関ケ原などという用語が、あまり感心出来ないものであることは確かだ。それは国民の戦力敵愾心(てきがいしん)を集結させるために余儀ない強い表現であったかもしれないが、今度のように沖縄がとられてしまったとなると、もうあとは戦っても駄目だ、日本の国はおしまいだという失望におちいって、動きがとれなくなる。これは困ったことだ。 当局はそれに困ってか、沖縄は天王山でも関ケ原でもなかった。そんなに重要でない。出血作戦こそわが狙うところである――という風に宣伝内容を変えてもみたが、これはかえって国民の反感と憤慨とを買った。そんならなぜ初めに天王山だ、関ケ原だといったのだと、いいたくなるわけだ。 これに対して、鎌倉円覚寺管長の宗海和尚はこういっている。「沖縄は天王山であり、関ケ原である。あれはとられたが、ぜひとも奪還しなければならぬ、それほど沖縄は重要なのである、という風に持って行くべきじゃ」この説まことに尤もである。最近では遠藤長官が、この奪還論を掲げるに至った。◯昨十三日午前零時頃、久方ぶりに敵B29、五十機京浜地区を夜襲し、川崎、鶴見を爆撃した。爆弾と焼夷弾とを投下したが、折柄豪雨で、そのために発生せる火災は間もなく消えてしまった。敵のためにはお気の毒を絵にかいたようであった。◯七月一日より五日まで、山梨県下に甘藷二十七億貫植付の激励講演をして廻った。甲府市には二日、三日、四日といた。その二日後の六日夜にはB29の大編隊が来て、市を八、九割焼いてしまった。きわどいところであった。 甲府はこの上もない安全地帯だと思っていたが、来てみると、地下一尺五寸にして水が出て、防空壕が深く掘れず、山国ゆえ食糧の移入困難の恐れもあり、加えて陸軍大学等の諸官衙(が)がここへ疎開している上に軍隊がたくさん居るので、食糧事情は一層困難だということであった。もちろん家も空部屋もなく、旅館で部屋のとれないことは甲府の名物だとあった。 私が甲府を離れた七月四日に、ようやく建物疎開をすることが決まったばかり。すべては油断があり、遅すぎた。しかし空襲が一度もなかったこの市民たちを、大いに緊張せしめる事の出来なかったのは、何としても知事以下の努力の足らざるところと思われる。 県庁も、駅も、郵便局も、警察署も焼け残ったそうで、その奮闘はたいしたものであったというが、それだけが焼残っただけでは困る。町が焼けずに残らねば何にもならぬ。◯七月八日は栗橋の吉田修子さんの婚礼があり、目下入営中の戸主・卓治さんの心持もあり、私はその式に列した。それから平磯へいって講演をしたが、それが九日。十日は早目に帰京するつもりでいたところ、朝五時半から敵機動部隊が鹿島洋、九十九里浜沖から艦載機をぶんぶんとばすので、夕刻まですっかり平磯館に閉じこめられてしまった。 ロケット弾を放つ小癪な敵機を見た。平磯館の裏は飛行場であるから、盛んに銃撃があった。しかしたいてい敵機が帰りがけの駄賃に撃っていった。 平磯では取締りがやかましく、皆防空壕に入れといったり、町をあるいていると叱りつけたり、こんな小さな町がそう神経質にならずともと私は思ったが、誰の心理も自分のところが狙われているのだと信ずることには変わりはないようだ。 午後五時四十分平磯発の汽車で、松村部長と共に帰京の途についたが、これが十二時間ぶりに動き出した初列車。水戸から上野へ走る列車はがらがら空いていて、乗客一人当たり六席か七席もあった。 渋谷からは歩いて帰る。渋谷着は午後十一時十分であったが、玉川線は十時半が終車ゆえ、歩くしかない。焼跡の間の一本道を大坂上にかかったとき、警戒警報が発令された。あまり灯火を消す風も見えず、憲兵隊の漏灯をはじめ、民家にもコウコウたる点灯の洩れているのを見る。焼跡だからとの油断らしい。大橋に至り、焼けていない目黒方面を見ると、灯火管制は完全であった。焼跡住民の士気弛緩は慨(なげ)かわしい。 帰宅までに二度、お巡さんから誰何(すいか)された。リュックの中の品物について訊問を受ける。それが大鯛であり、防空頭巾をかぶせてもまれるのを防いであるので、余計に大きく見える。この鯛は貰って来たものである事や、空襲下の平磯からようやく開通の列車で帰って来たことなどを話して、諒解して貰った。◯中小都市の爆撃が始まり、猖獗(しょうけつ)を極めている。そのさきがけは、五月二十九日の横浜市への五百機来襲であった。◯御影の益兄さん一家も、芦屋、御影、神戸東部の濃密爆撃のため、全焼した。しかし一同無事。 姉さんと圭介君は、益兄さんの勤務している広島の近くへ行くし、咲ちゃんと修ちゃんは御影へ残ることとなり、それぞれの友人の宅に置いて貰う。ほかに良ちゃん(※朝永良太)はうちに下宿中、洋二君は商船学校に在学中で、一家六分離した状態となった。◯親類ですでに戦災せるは、牛込岩松町の山中作市氏一家、ほかに樋口(中野)、中条(代々幡)、常田(厩橋)である。◯清水も過日、濃密夜爆を受けたという。羽部家は如何かと案じているが、たぶん大丈夫だと思う。町はずれにあるからそう思うのである。◯偶然焼け残ったというところはない。懸命の努力で消火したればこそ焼け残ったのである。◯本十四日、敵機動部隊は再び艦載機で攻撃を開始した。時刻は同じ五時半より。地域は主として東北方面である。 七月十五日◯昨十四日は釜石が敵艦隊のため艦砲射撃を受けた。本州艦砲射撃の最初である。◯昨十四日は、二次のKB(きどうぶたい)来襲。主として東北及北海道南部。◯やはり昨日、森村義行君を玉川電車の一列行列の中に見出す。聞けば「焼けたよ」との事、「ファベルをすっかり焼いて残念だ」といっていた。ファベルとは独逸の鉛筆のことである。うちにあるのを少し分けてあげると約束した。 七月十六日◯森村義行君を瀬田へ訪問。気の毒になる。◯東部三十三部隊。 七月二十一日◯最近のB29は、一機にて入り来り、大型爆弾や焼夷弾を投下する。今日も昼頃来て、うちの南方に焼夷弾を落として行った。◯昨日の嵐に、近海行動中の敵機動部隊もさぞゆられたことじゃろう。◯本日地下物置のものをすっかり出して乾す。昨日の嵐に、大分浸水したからである。これもアメリカのお蔭かと、憤慨しながら力を出す。 七月二十六日◯一昨日、中部以西へB29、七百機、その他小型機合計二千機来襲す。これまでの記録破りの賑かさなり。折柄、ポツダムに於いてスターリン、トルーマン、チャーチルの三頭会談を開催中であり、その宣伝効果をねらったものと報道される。わが方の飛行機さっぱり応戦せず、ただ地上砲火によって反撃したのみ。◯清水の羽部さんも過日戦災したことが判明した。鎌倉のおばあちゃんからの知らせがあったからである。だいぶあわてたらしく、澄子さんもいいもんぺやシャツを着るのを忘れて、一等みすぼらしいもののまま焼け出されたとか。全く気の毒。敵への憤激は日に日につのるが、さてこっちは空へ手が届かず、まことに残念。地道ながら努力して戦力を盛りかえすしかない。 ちなみに一家は茨城県太田へ移ったという話だが、この太田は日立よりやや北方、海岸ではないが海に近く、あまり安全とは申されない。しかしお互いさまに縁故先に適当なのがなく、それに差し当たり食糧が果してうまく手に入るかという問題があるので、危険でも何でも縁故へ落ちついて、まず食べられる安心を求めるのである。食はなにしろ皆が毎日のことだから大変な仕事であり、問題である。◯昨夜B29、五十機ばかりが午後十時頃より京浜地区に侵入、主として川崎を爆撃した。折柄満月であったが、煙がだんだん高く天空にのぼり、せっかくの月の光を消してしまった。ふと「鵜飼」を思い出した。 零時半頃には、「最終機」などの言葉が警報に出る。まだ数十機そこそこであるから「最終機」などと安心していられないように思ったが、電探ではたしかに押さえているんだから正確、まもなく空襲警報解除となり続いて警戒警報も解除となり、そして寝た。 川崎にまだ焼けるところが残っていたかと不思議な気持。◯夜半敵機来襲に、身のまわり品や机の周囲のものを見廻して、防空壕に入れるべきものは何々ぞと考えると、どれもこれも大切――というよりも重宝なものばかりであるにはまごつく。 確かに防空壕に入れておいた筈のものが、いつの間にか、また手もとにずらりと並んでいるのには驚く。つまり、日々の生活のために必要だとあって、壕から取出して来て使い、そのままになってしまったものが、だんだんふえて来たわけである。さてこそ日用品というものは大切であり、重宝なわけ。万年筆一本、ナイフ一挺、メモ一冊なくなっても不便この上ないわけ。われわれの生活様式も一段と工夫を積まねばならぬ。 七月二十九日◯昨日は岡東浩がえらくなったというので、招待してくれた。どうえらくなったのかわからぬが、とにかくうれしい話で、土産ともお祝ともつかずジャガイモの包をもって家を出かけた。玉川電車を渋谷で下りて、都電に乗ろうとして、渋谷から天現寺、四の橋行きはありますかと聞いたところ、今はやっていないとの事、なるほどそうであったかと、新橋行で行くことにする。くる電車もくる電車も素通りで、八、九回目にようやく乗れたが、一列に並んでいる人達何の苦情も言わず。心得がいいというか、よく心得ているというか、おとなしい都民達だ。 宮益坂を電車はのぼる。「明治天皇御野立所」と書いた神社跡が左にある。この奥の社殿は形もなし、こま狗だかお狐さんかの石像が二つ、きょとんと立っている。 渋谷郵便局もすっかり焼けたままになっている。一階の事務をとっていたところは、腰板からしてない。あれはコンクリかと思っていたが、木であったことがこれでわかった。 古本屋もすっかり跡片なし。あの夥しい埃の積んだ本が皆焼けたかと長歎した。新本にちょっとさわると、本のあつかい方がよくないといってえらく叱りつける本屋があったが、この本屋も跡片なし。渋谷から青山の通りを経て赤坂見附まで全くよく焼けたもの。古くからの、そして充実した町であっただけに灰燼(かいじん)に帰した今日、口惜しさがこみあげてくる。 材木町で下りて、歩き出した。南浦園も外側の支那風のくりぬきのある塀だけが残っている。あの粋な築山(つきやま)も古木も見えず。支那風のくりぬきから中をのぞけば、奥の方に桃色の腰巻が乾してあるのが目についた。僅かに南浦園のかおりがする。 角に消防署があるところで左へ曲って仙台坂へ出るつもりであるが、行けども行けどもその消防署が見えぬ。そこで心細くなって、右側にバラックを建てて住んでいる家へ声をかけて聞くと、ていねいに教えてくれた。「すっかり焼けて町の様子が変わっていますがな……」とその老人は元気な声で語った。 消防署は焼けずにあったが、私の考えた二倍以上も道のりがあるように感じたのはふしぎである。そのあたりへ行って、初めて家が焼けないで残っている。その古いごたごたした家並を見ると、なんだか変な気持になった。残ってよかったと思うよりもこれも一緒に焼けてしまえばもっときれいになったろうにと、妙なことをちょっと考えた。焼跡は案外きれいである。そして広々と見晴らせて、明治以前の江戸の土地の面影がしのばれて気持ちがよい。 岡東の家にたどりついた。すでに朝倉、加藤両氏が到着していて、酒宴が始まっていた。たいへんな御馳走で、目をまわした。酒もかなりある様子。酒を飲まぬ私は、意地きたなく食いすぎて腹をこわすまいぞ、近頃食いなれないものを口にして腹をいためまいぞ、と自分に言い聞かせつつ、いろいろと御馳走になった。 あとで鳥や肉やの御馳走をそう思い出さず、イカの塩からとトマトの味がひどくうれしくて、忘れかねた。 八時過ぎたとき、誰かがもう失礼しないと都電がおしまいになるのではないかといった。まだ八時過ぎたばかりで、都電の赤電(※終電の別称)がある筈はあるまいと思っていると、岡東が時計を見て、ああ、そろそろ急がなくては……という。本当かいと聞けば、この頃の都電は八時半頃で終車となる由。これには驚いた。先ごろ玉川線が十時半終車になったので、甚だ早すぎると思ったが、都電が八時半位で赤電になるなら、玉川線はまだましの方だ。 客三人と岡東父子との五名で、仙台坂を二の橋の方ヘ下りて行く。 坂上の交番は先日廃止になったばかりだったが、おまわりさんが三人も入って勤務している。こわふしぎと聞けば、岡東の話に、先々月二十五日にこの附近一帯が焼けてしまってからは、お巡りさんの交番も数がうんとすくなくなったらしく、再びここが開かれたのだという。 仙台坂を少し下って行くと、右側に米内海軍大臣の仮寓(かぐう)があった。米内さんの家は原宿だったが焼け、それ以来ここに来て居られる由。 そこを過ぎるともう焼野原。月もまだ出ぬ暗闇ながら、ひろびろと焼野原がつづいているのがわかる。 坂の途中に、電灯を煌々(こうこう)とつけて土木工事をやっている。近づくと兵隊さんの姿もあり、兵舎のようなものもある。土木工事の小屋にしては今どきたいしたぜいたくなもの、といぶかっていると、これは地下道を掘っているのだった。ゲリラ戦用の地下道で、麻布一番から霞町へ抜ける長いものだという話。ヘえ、そうかいと私は目を見張って改めて現状を見直した。煌々たる電灯の光に、墓石が白く闇にうき出して林立しているのが見えた。亡者たちが、「わしらの眠っている下を掘るのですよ、わしらもいよいよ戦列につきましたわい、はははは」といっているようだ。 坂下へおりて、停留所に佇む。とたんにラジオが警報を伝える。伊豆地区に警戒警報が出たらしい。 折柄、電車のへッドライトがこっちへ向かって来る。古川橋まで駈けて、それに乗る。五反田行だ。 岡東父子の顔が、闇の中に残る。 電車は走り出したが、魚籃(ぎょらん)のところで東京地区の警報発令、車内は全部消灯する。
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