海野十三敗戦日記
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著者名:海野十三 

海野十三敗戦日記海野十三空襲都日記(一)はしがき 二週間ほど前より、帝都もかねて覚悟していたとおり「空襲される都」とはなった。 米機B29の編隊は、三日にあげず何十機も頭上にきて、爆弾と焼夷弾の雨をふらせ、あるいは悠々と偵察して去る。 味方の戦闘機の攻撃もはげしくなり、地上部隊の高射撃もだいぶんうまくなった。被害は今までのところ軽微である。 これからさらに空襲は激化して行くであろう。そこで特に、この「空襲都日記」をこしらえ、後日の用のため、記録をとっておくことにした。    昭和十九年十二月七日海野 十三     これまでのことを簡単に◯昭和十九年十一月一日に、米機の初空襲があった。少数機だった。偵察のためと思われた。(※マリアナ基地からのB29、東京を初偵察) 一万メートルあたりを飛来、味方戦闘機が出動したが間に合わず、高射砲もさっぱり当たらなかった。敵機は悠々と退散した。白い飛行雲をうしろに引きながら。◯こんなことになったのも、サイパン島をはじめテニアン島、大宮島(グアム島)が敵の手に渡ったためである。 うわさによると、敵はB29を発出させるために、サイパン島の外まで埋め立て、滑走路を長くして、実施しているそうである。◯アメリカの放送は「B29ではない」と言っている。しかし何という種類の機であるかは言わない。B32ではないかという説、PBXの一つではないかという説がある。それはB24の改良型で、長距離偵察用として試験製作中のものだという。とにかく、銀色の巨体に、四つの発動機をつけ、少なくとも三百ノットの速力で高々度を飛んで行く敵機であった。 本格的な空襲は、昭和十九年の十一月二十四日から始まった。(※マリアナ基地からのB29約70機、東京を初爆撃)この日(欠字)に警報が出たが、間もなく空襲警報となった。敵の編隊は伊豆半島方面より侵入、なお後続部隊ありという東部軍管区情報は、今日の空襲が本格的であることを都民に知らせた。「東部軍管区情報」を都民が非常に期待するようになったのは、この日からだといっていい。 高射砲が鳴りだし、待避の鐘が世田谷警察署の望楼から鳴りだした。英(ひで)(※海野夫人)や松ちゃん(※海野家のお手伝いさん)などがまだぐずぐずしているのを叱りつけるようにせきたてて防空壕内に入れる。 この壕は、昭和十六年一月に一千円ばかり費やして作った。檜材のフレームを横に並べて、同じ檜材のボルトナットで締めた上、紙を巻いてアスファルトを塗り、これを何回かくりかえし、地中に埋めたもの。階段、二ヵ所の出入口、ハシゴ、床および腰掛け、換気孔などのととのったもので、今となっては得がたいもの。あのとき作っておいてよかったと思う。十四人ぐらいは大丈夫楽に入っていられる。 皆を中へ入れ、私は入口の階段に腰をかけて、壕内より見える四分の一の空を注意し、かつラジオの出す警報その他や、敵の爆撃の音や、味方の機や砲の音、待避の鐘の音などを注意していることにした。壕内は暖いが、この階段のところはやや寒い。板も冷える。直接土に接しているためであろう。 子供たちは待避中元気であり、わあわあさわいでいて、心配していた私は安心した。大家(※萩原喜一郎、隣家)さんの長男の亮嗣君(二年生)と二女のしょう子ちゃんも入ってくるので、皆は一層元気よくわあわあさわぐ。 大人の方は「あ、待避の鐘が鳴った」とか「情報だ、静かになさい」とか「今聞こえる音は爆弾だろうか、味方の高射砲だろうか」などと、ちょっと表情を固くすることもあったが、それ以外はいろいろと雑談に花を咲かせて元気がよろしい。この分なら心配なしと、私は安心した次第。 十一月二十四日来襲の敵機は七十機内外で、爆弾は七十発ぐらい、あとは焼夷弾だった。ねらったところの第一は、三鷹の中島飛行機工場らしく、二十発の爆弾と焼夷弾一発が命中した。建物十七、八棟が倒壊、死者二百名、傷者三百名ということだった。 次の被害顕著なるところは荏原区であったが、これは前者にくらべるとたいしたことはない。しかし戸越公園とか、雪ケ谷か洗足だったかの発電所などに落ち、地上線が半分不通となった。 そのほか川崎で石油のドラム缶が百二十個ぐらい燃えた由。 また、荻窪、鷺宮附近にバラバラ落下弾があり、千葉県へも落ちた由。 要するに被害の横綱は中島であったが、他は軽微だった。 昭和十九年十二月十日◯午後七時半ごろ、警報鳴る。晴夜だ。家族を壕へ入れる。敵は二機だ。帝都の西方(わが家は帝都西部に位置する(※東京都世田谷区若林町))より北方へ抜けたが、また引返してきた。珍しく高射砲が鳴りだした。「壕へ入ってよかった」と誰かがいう。 かなりたくさん発砲した。あとで情報は「一機に命中確実」と伝えた。「よかった」と寝床の中から、皆がいった。 残る一機は南方へ去った。 十二月十一日◯萩原さんの防空壕は、大工さんが入り、棚なども吊った由。亮嗣君はいつもうちの壕へきていたのに、このごろこなくなった。◯夜半、午前二時半ごろ警報出る。伊豆方面より敵一機北東侵入。一機のこと故、子供は起こさないでおき、家内の灯管(※灯火管制。夜間、敵機の来襲に備えて、灯りを遮ったり落としたりすこと)とラジオと壕の点灯だけを用意しておく。 晴夜にして、既に十一日過ぎの三日月は東天にかかり、星はきらきらと天空に輝き、寒々としている。高射砲が鳴りだした。 離室への廊下から東南の方を見ると、わが照空灯が十数条、大井町の上空と思われるところへ集まっており、それよりやや左にぱらぱらと火の粉のようなものが落下して行く。それは敵機の投下した焼夷弾だ。憎むべき敵と、ふんがいする。 やがて音も光も消え、元のような深夜の空となった。本屋の寝床へ入って寝る。 十二月十二日◯毎夜のごとく敵機がくる。きまって一機または二機で、せいぜい二隊位だ。昨夜と今暁二度起こされた。癪にさわる。ねむい。寒い。二度目は家族は起こさず、自分だけで一応灯管を見て廻った。 きょうは起きたが、身体が変調だ。敵はいわゆる神経戦と疲労戦とでやってくるものだろうが、たしかにそれは一応成功している。しかしこっちも考え直して、もっといい対策を講じ、アメリカの手にのらないようにしなければならぬ。とりあえず夜分の当直は私が引受け、そして早寝をすることにしよう。◯二度の空襲とも、夢のなかで空襲を見ていた。初めのときは、敵が毒ガスをまいたところで目がさめた。その毒ガスがいっこうに私の呼吸を苦しくさせないので「ははあ、これは夢だわい」と、目をさましたのであった。二度目は、貨車一台ほどの油脂焼夷弾がこっちのビルヘ落ち、そこら中に火をふりまき、私はたぶん晴彦(※長男)を連れ、二人ともハダシゆえ近所へ長靴を借りに行ったところで、本もののプーが鳴り、目がさめた。 私は神経がするどい方であり「警報を聞きのがしてはならぬ」と思って眠るので、こんな夢を見るのであろうが、ひとつ眠り方を変えなければならないと思う。◯隣組の防火班長さん、なかなか実直な人で、うちの小路までいつでも「警報解除」を告げにきてくれる。この人も、二度目のときにはこなかった。寒いし、眠いし、それにたいしたことではないので、班長さんには無理をしてもらわぬ方がいい。 十二月十三日◯名古屋、清水あたりへ敵機来襲。「地上施設に損害を受けた」という発表があったので、心配している。この日は、帝都へは四、五機ぐらいであった。ねえや(※お手伝いさん)のお父さんがきていて、初めてこの招かざる客を見る。 暁の三時に、また敵機一つ来る。毎夜つづけてくる。六日以来ずっとだ。夜の当番は、私がやることにした。敵もこず、警報だけ出て、寒さにぶるぶるふるえるだけで、おしまいだった、今晩は……。 十二月十六日◯珍らしく昨夜は米機きたらず、したがって起きずに済んだ。六日以来毎夜きていたものがこないと、ちょっと調子はずれの形。人間は環境になじむ性質が強いと感じた。◯夜分起きるのは私一人と、当直をきめたが、まず少数機侵入のときはこれで十分だと思う。十五日の暁方の空襲のときは、西南西の林越しにちらちらと火が見えた。てっきり焼夷弾が落ちて、こっちに横流れに流れてくるものと思い、壕を出て垣根からのびあがって透かしてみたところ、焼夷弾にあらずして照明弾だった。それもかなりの遠方に見えた。◯昼間、敵機の爆撃音がすごくなり、味方の高射砲もどんどん撃ちまくるとなれば、恐怖心もどこかへ吹っとんでしまって「おのれ、敵の奴め、味方よ、撃て撃て!」と敵愾心(てきがいしん)で身体中が火のように燃える。◯良太(※甥)君の宿所附近二百メートルのところに爆弾一発落下し、畠に大きな穴をあけたが、附近の家に被害なく、ガラスも割れなかったという。畠はやわらかいから、爆発してもその爆風は土壌の圧縮によって相当のクッションになるらしい。◯護国寺裏の町に爆弾が落ちて、壕内に入れておいた二歳と五歳の幼児が圧死し、母親は見張中であって助かった由。壕が家屋に近いことは不可。壕の屋根がしっかりしていないことは不可。◯焼夷弾は左図のごとし。燃えるテープをひいている由。(※カット「焼夷弾の図」入る。16-上段)◯風呂屋は従来十六時より二十三時までの営業だったのが、近ごろは十五時から十八時までとなったため、大混雑の由。 風呂屋はガラス張りの部分が大きく、夜の灯火管制がやれないためだというが、ひとくふうあってほしいものだ。◯うちの便所灯がつけ放しで、裏の田中さんから注意を二回受ける。私の見廻りもよくないわけで、これからは、警報発令とともに消してまわることにした(電球をひねる)。◯夜中にまた警報。起きてみたら雪であった。ハッと心配したことは、家屋から壕内へ引いてあるコードのことであった。第四種線がないので、コードを使ってある。しかしこれでは濡れるとすぐピリピリ感電するので、過日用心のため、その上にセロファンに糊のついたテープを巻き、さらにその上から油紙(といっても昔のものとは違い、あぶないものだ)を細く切って巻いておいた。果たしてこれでもつかどうかと案じ、さらにその上にエナメルを塗ることにした。エナメル塗はコードが垂直に垂れる部分しかやってなかったので、私はこの雪で心配したわけだ。しかしどうしようもないので、そのまま放っておいた。 朝になってコードにさわって調べてみたら、案外ちゃんとしているので、安心した。そして早速残りの部分にエナメルを塗った。どうやらこれで当分は大丈夫のようである。 十二月二十五日◯昨夜はクリスマスの前夜だから、敵機はこないんじゃないかと思っていたところ、午前二時半になってちゃんとやってきた。しかも三回やってきて廷べ四機。五時四十分にようやく警報解除となる。一回は南方に焼夷弾を落としていった。敵の戦意も相当のものじゃ。◯夜間の空襲はせいぜい一時間でケリがついたのが、一昨日から敵は三回つづけてきて三時間半ばかりを稼いで行くので、こっちはまた眠り方の変更をしなければならなくなった。 昨夜は原稿を書き了えて床に入ったのが十時過ぎ。どうせ敵はくるだろうと、そのままの服装で寝る。きたのが午前二時半。服装の関係で、起きるのは楽だ。敵機去り、警報の解けたのが午前五時四十分。もう朝の放送は始まっており、空が東よりの半分だけ白んでいた。そのまま防空壕で眠る。寝苦しくて、身体が痛い。あっちこっち寝返りを打っているうちに、英が起こしにきた。「もう十時を過ぎましたよ」と上から声がかかる。いつの間にか四時間ほど眠ったわけだった。壕から外へ出ると、ぶるぶるっと寒い。◯田口※三郎氏のB29の爆音聞き分け方の放送が始まり、つづいている。難解だ。普通の人には、あれではわかるまい。述べ方に工夫がほしい。日本の学者というと、なぜこのように人に伝授の仕方が拙いのだろう。飛行士の養成に手間どり、生産増大の出来ないのも、皆こんなところに大きな原因がひそんでいるのだと思う。 私の場合は、放送を聞いているうちに少しずつわかってくるような気がするが、要するに説明はまずい。いい放送なんだが、惜しいことだ。◯防空壕の中の夢で、敵機から焼夷弾を投下されるところをみている。ばかな話だ。◯目下の私の服装は次(※底本では「次」は「下」)図のごとし。(※カット「服装の図」入る。17-下段) 十二月二十七日◯一昨夜と昨夜とは敵機の来襲もなく、珍らしいことであった。おかげで暖かく寝られた。その後放送で初めて知ったが、二十五日夜八時にサイパン島へわが航空隊が突撃した由なり。そのために相手はこられなくなったわけ。私達はいい気持で寝、代りに勇士たちが死地にとび込み、そのうちの何人かは散華する。貴い代償だ。一夜の暖睡の貴さよ。眠っていては相済まぬ。いや眠らせて頂いて、起きたら散華の勇士たちの成仏せられるよう働かねばなるまい。◯きょう二十七日、果して敵機はやってきた。こないだの二十五日のクリスマスの晩を滅茶々々にしてやったお返しであろう。アメリカ兵ときたら、いつでもこのお返しをするのが習慣だ。こちらとしては二十六日の開院式(※第八十六通常議会)のこともあり、ちと気の毒ではあるが叩かずにはいられなかったのだ。それをハラを立てるとは何ごとだ――といったところで、この理屈が相手にわかる筈はなし。◯きょうの空襲は、先頭編隊が静岡県に入り、それから西進し、名古屋方面を襲うかのごとく見せておいて、急に反転して東進を開始し、京浜地区に侵入した。まず例によって荻窪の飛行機工場のあたりへ投弾した。いったん西進し、反転東へ向かって帝都を襲撃するという一つの戦法を取ったつもりであろうが、こっちでは油断なく、いつでもいらっしゃいであるからすこしもおどろかぬ。◯実際に「西進」と聞いた私は、原稿を書きだした。すると「反転東進」の情報が入り、しかも数編隊ありということなので、これはこっちへくるなと思い、表の八畳に腎臓病で寝ている昌彦(※三男)を防空壕に入れるよう家人へ注意したのであった。◯ねえやのお父さん、この前も昼空襲を体験、きょうもまた体験、病治って戻ってきたよねちゃんは初の体験、どうかなあと気をつけて観察していたが、やっぱり落着いているので安心する。◯きょうも敵の一機がひどく煙をひいて、編隊に遅れたばかりか、ついに東南方向に水平錐もみにはいったのをみて、大いにうれしかった。近ごろにないうれしさであった。下の町でもどっと歓声があがる。うちの壕からも、子供や大人がみんな飛びだして、わあわあと大喜び。それからあと、もっと敵機がこないかと待ち遠しく感じた。◯その編隊の二番機も薄いながら煙を曳いていた。煙曳き機は二機見た。◯爆煙か火災の煙か知れないが、荻窪と中野の方にあがっていたが、まもなく薄れた。◯七時の大本営発表「五十機来襲、十四機撃墜(内不確実五機)、損害を与えたるもの二十七機、わが損害四機(体当たり二機を含む)」相当の戦果だ。◯きょう空襲中の情報に「相当戦果をあげている。なお戦果拡大中」とあって、大いに都民の士気があがった。  錐もみて墜つる敵機や暮の空  錐もみの敵機に沸くや暮の町  敵一機錐もみに入る空の寒さ  墜ちかかる敵機の翼に冬日哉  錐もみの敵機に凍土解けにけり  錐もみの敵機や冬日うららかや◯いつも夜中、警報中に「おい、灯(あ)かりついとるぞ!」「灯かり消せ!」とどなり立てている丘の下の町に、きょうはどっと歓声があがるのを聞いた。いつも怒鳴っていた人も、どなられた人も、ともに声を合わせて万歳を叫んでいた。  墜ちかかる敵機は冬陽を散らしけり     〃   の翼に冬陽散る     〃   の撥ねし冬陽哉 十二月二十八日◯きょう午後一時半ごろ、高射砲音轟く。外へ出てみると、一機北方の空に西から東へ雲を曳いている。眼鏡でみれば、まさしく敵機なり。ただし警報出でず。 あとで言訳のような東部軍管区情報が出る。◯午後三時十五分、珍らしく警報が出、ついで空襲警報となる。朝から高橋先生が来ておられ、また江口詩人氏が原稿料(「日章旗」創刊号の)を持ってきてくださったので、何はともあれ防空壕へと裏へ御案内し、はいっていただく。この日敵機三編隊計九機位が関東北部をうろうろしていて、帝都へはなかなか近よらず。そのうちに情報が出て「敵機は依然として、関東北部を旋廻中なり。薄暮時期帝都に侵入のおそれあり、警戒を要す」とのべた。さあ松ちゃんが驚いて「敵百五十機が関東北部で廻っていて、こっちへ入ってくる」とあわてふためく。こっちは訳がわからず、いろいろ問答しているうちに「薄暮時期」が「百五十機」と聞こえたとわかり、大笑いとなった。 しかし後刻、萩原さん(隣家)のおじいさんが野菜をもってきてくれたとき「いま百五十機くるってね」と話しかけられて、おやおやここにも早呑込みがいると驚いたが、なるほど「薄暮時期」と「百五十機」とは言葉が似ており、間違えるのは無理ない。このぶんではずいぶんあちこちで間違えることと思う。情報はもっとやさしくすべきである。いつも小むずかしくいう軍人の頭の具合にも困ったものである。目で見る字と、耳から聞く言葉とに大きな隔たりがあることぐらい、わかっていさそうなもの、大衆相手の情報なんだから、大衆向きにして出すよう考えるのが当然だ。と思う識者はいないのか、識者がいても自分の責任範囲外のときは言わないのか。長年言い古され、すでにうるさいほど指摘された官軍民一体化総蹶起(そうけっき)のガンはここにあると言わざるを得ない。 十二月二十九日◯きのう岡東(おかとう)(※岡東浩。海野の神戸一中時代の友人。三菱商事勤務。麻布に居住)夫人がきて、「さっき警報発令前に、麻布十番へ焼夷弾が落ちた」と話して行った。きょう博文館の新青年女史がきて「あれは十番のカーブを電車が急に通った時に高音を発し、それが警防団員の耳に焼夷弾が落ちたように響いたものです」と訂正した。時節柄、神経過敏の度もいよいよきつくなってきた。◯うちの女房も、情報が「少数機」と言ったのを「五十機」と聞き違えた。きのうのきょうだから、おかしい。◯「帝都住宅の地下室化」を提唱す。つまり敵弾で遅かれ早かれ焼かれてしまうであろうから、焼けるのを待つよりいっそのこと、その前に自分の手で破壊し、その資材を利用して少数間を有する地下室をつくれというのである。投書の形にして毎日新聞文化部の久住氏へ送る。(なおこの際思いきって生活の簡素化をはかれとも記した) 十二月三十一日◯一昨夜、敵三回目の空襲には油断があったらしく、両国、柳橋辺がちょっと燃えた模様。 もっとも、あのときは前に警報解除が出、それに情報を加えて「まだ一目標あり、警戒中」と警報したのを、警報解除に安心しすぎて寝てしまったらしく思われる。「正確なる判断」が要望される。◯昨夜は珍しく敵機来らず。たぶんいつものように十時ごろに一回、一時ごろに第二回目、第三回は三時ごろくると思っていたのに、一回もこなかった。わが航空隊がサイパンへなぐり込みをかけた故か。それとも敵の方で歳末新年は生活に忙しいせいか。 私は壕に寝て、暁を迎えた。壕に寝るは寒く、身体が痛い。暁前の寒さがひとしおこたえる。目下下痢気味なのは、あるいは壕で冷えたせいか。◯酒の特配に喜びなし。酒を呑まないためだ。煙草の特配に喜びなし、煙草は吸わないためだ。正月がくるというのに、一体何の喜びがあると身辺をふりかえったのに、三つの喜びがあった。一つは去る二十七日の敵機錐もみ撃墜のこと、第二は敵米英、ことに米の生産補充陣が大消費に喘ぎだしたというニュースしきりなること、第三に家族一同無事なること。 一月一日(昭和二十年)◯「一月ではない、十三月のような気がする」とうまいことをいった人がある。◯昨大みそか夜も三回の来襲。皆一機宛。しかも警報の出がおそく、壕まで出るか出ないかに焼夷弾投下、高射砲うなる。  敵機なお頭上に在りて年明くる  ちらちらと敵弾燃えて年明くる  焼夷弾ひりし敵機や月凍る◯伊東福二郎君来宅。去る二十七日の空襲に、彼の家の三軒隣りの前の五間道路に、敵爆弾が落ちたとのこと。両側の家の一方は模型飛行機店で店だけこわれ、他方の家は半分吹きよじれた。人の損害は、前の防空壕に一方より圧力がかかって壕がくずれ、上からは土砂が落ち、赤ちゃん一名圧死。 道路をつきぬけて破裂した敵弾は、径十センチばかりの水道鉄管をふきあげ、それが路上に電柱の如く突っ立ち、あたりは水にて池の如し、という。また三千ボルトの高圧線切断し、そのスパークが、瓦斯管の破損個所から出る瓦斯に引火して燃え出した。 伊東君の家の南側ガラス(爆弾は南側におちた)は全部こわれたが、紙を貼って置いたので、粉々にはならなかったが、やっぱりとび散った。二階のガラスは大丈夫とのこと。 半ねじれの家では七十の老人が、いったん壕に入りながら貴重品を思い出して家にもどり、その途端やられた。しかし落ちた屋根も、縁側が下におち、老人の身体をその間にはさんだので助かったという。 ラジオ受信機は、断線個所が多かった。やわらかい土地だから、地震のように震動がつよかったためだろう。 附近では爆弾破裂の音を聞いた人が殆んどなく、しゅるしゅるという音だけは聞いたそうな。近いところでは案外音がしないという話があるが、それに適中する。 近所の人もわりあい落着いている由。この際引越しても輸送がうまく行かないこと、敵弾に当たれば運が悪いとあきらめようという気持、自分のところは大丈夫だという気持などがプラスに動いているらしい。 附近に四発落ちた。荻窪の中島工場(まだほとんど無傷)を狙ったそれ弾か、荻窪駅を狙ったのか、それとも桃井第二国民学校を狙ったのか、それが分らないとのこと。 とにかく伊東君一家の安泰を祈るや切なるものがある。◯練馬では、一度掘れた爆弾孔を埋めたのに、後ほど又同じところに落弾し穴を明けた。もう埋める気がしなくなったそうな。 一月四日◯一日、二日、三日の夜は空襲なく、おかげでゆっくり眠れた。しかし三日は名古屋方面に九十数機の来襲あり、また四日は台湾、沖縄へ艦載機延べ五百機来襲。◯サイパンを爆砕したというのに、敵機はその直後にとび立って、九十数機で堂々とやって来るのだ。台湾や琉球へも敵の機動部隊が近づき空襲をかける。こっちの機なきをすっかり知って、なめている態度がよく分る。しかし事実ゆえ仕方がない。忍耐精励、時を待つしかない。  気にしまいとすれどもきょうの吹雪かな◯「富士」編輯局(へんしゅうきょく)の木村健一氏が来宅。去る十二月十二日夜、雑司ケ谷墓地附近へ敵機が投弾して火災が生じたが、そのとき木村氏は用があって附近を通行中だった。身は焼夷弾の海の中におかれたため、大奮闘し、焼夷弾の処置や、火災を起こしかけた墓茶屋の消火に従事し、それより急を防護本部に知らせるなど大活躍した。仲々の殊勲であり、又貴重なる体験である。彼の談話の中から重要な点をあげてみると――◯焼夷弾(油脂)はたしかに座金の方を手袋のままつかむことが出来る。◯いやによく火は燃え、手袋についたり衣服についたりするが、ワセリンみたいな油が燃えているだけで熱くはない。もみ消せば消える。水では駄目。◯靴で踏み消せば靴がだめになる。火叩きは有効。◯落ちた瞬間、あたりは火の海となる。そのとき呆然自失してはいけない。◯火事になりそうなものを早く消し、道路上のものは放っておくがよい。◯漏光があったのを、敵が投弾目標にしたことは明白。◯手を負傷した者まで担架で運ぶのはどうかと思う。◯カンフルばかり医師はうつ。◯焼夷弾の座金に直撃されて負傷した者が続出した。自分は幸いに助かった。(コンクリート塀のうしろにかくれた為、あとで考えるとこれがよかった)◯墓地だけに八十発おちていた。◯焼夷弾のカゴの大座金は、厚さ二センチ位の大きい丸盆の大きさ。二階から屋根をぬいて階下におち、あるいは平屋(ひらや)の屋根を通って床下にまで落ちる力があるという。◯火がピラピラ見えているうちに、実弾の方はすでに下に落ち、ぱあっと発火する。◯時限装置らしきものも落ちていた。     ※◯昨夜吉岡専造(※朝日新聞社カメラマン。一九四二(昭和十七)年に海野が海軍報道班員として従軍した際、共にラバウルに)君が来てくれ快談中、第二の珍客山田誠君が来宅。その山田君の家は玉川等々力(とどろき)。この前の投弾のとき、山田君の隣組だけは投弾なく、周囲の全隣組に落下した由。◯二軒建の家の一方では八発の焼夷弾と戦い、やっと消したと思うと、隣りの家に落ちたものが燃えさかり、戸棚よりぷうっと火をふき出して燃えてしまったという。 隣家では細君と子供が、押入内に入っていて落弾に注意を払わなかった由。◯毎夜八十戸だ、二百戸だと焼ける。◯中島工場は356、宮城は57の地図を、敵が用意している。◯昨一月三日の名古屋の空襲に、市内はかなり焼けた由。敵はいよいよ本性をあらわし、焼払い投弾の挙に出てきたと伝えられるが、果してそうか。◯雑司ケ谷の場合、家人が電灯をつけはなしで風呂へ行ったため、警報が出ても消す人がなく、戸口には錠が下りている。これが目標になったという。 一月五日◯名古屋を去る三日に爆撃した敵機は、わが空軍に行手をさえぎられた結果、目標へ直進できず、そのため爆弾と焼夷弾を市街に投下し、二千戸を焼いたという。◯B29の爆音が放送されたが、実物とちがう事甚だしく、参考にするには骨が折れる。 一月八日◯去ル五日ニ気ガ附イタコトデアルガ、イツノ間ニカ左眼ガワルクナッテイルノダ。黒点ガ見エ、強イ光デ網膜ガヤケタトキノ感ジガアリ、且ツチラチラト電線ノ雑音ミタイナモノガ盛ンニ動クノデアル。 ソウイエバ昨年ノ暮空襲デクライ外ヘ出タトキ、左ノ眼ガイヤニ暗イ感ジガシタシ、マタ室ニイテモ変デ、左ノマツ毛に目ヤニデモツイテイルノデハナイカト気ニシタ事ガアッタガ、ソノコロカラ悪カッタラシイ。厄介ナコトデアル。併シ目ハワルクトモ戦ウゾ。◯敵機は、昨日はとうとう来なかった。一昨日もその前も、午後九時頃に来て、次は暁の五時過ぎに来た。前のように午前一、二時頃にこなくなった。これでこの頃、だいぶ身体が楽をしている。 一月九日◯「読売報知」へ投稿の「軍情報と数字」がきょう掲載された。◯敵機は昨夜も来なかった。どうしたのだろうか。こっちはよく寝られてよかったが、敵の様子が気にかかる。◯午後一時四十分、警戒警報発令。久し振りに昼間の空襲となる。 四編隊のほかに一又は二機の別動隊がある。そのうちに後続の数機は中部軍管区へ入る。情報が出て間もなくプーと鳴って、空襲警報解除となる。「あれ、もう解除か。あっさりした空襲だな」と壕を出る。ようやくこんな気持のところまで来た。空襲始まりのあの頃とはたいした変りようだ。◯東北東の空中に、敵機群から白いものが落ちはじめた。敵機の燃料タンクか、味方の戦闘機かとひやひやする。わからず、そのうちに見ている双眼鏡の中に一機もえて真紅になっておちるのがある。前見た戦闘機かとひやっとしたが、かなり形が大きいので、敵機とも見えた。どうぞ敵機であるようにと祈る。◯後刻、陽子(※次女)が学校(山脇高女)より帰って来て、真赤になって敵機が落ちた事、それが途中で空中分解してばらばらになった事を話す。私が「本当にあれは敵機か」と真剣に訊けば、陽子「だってずいぶん大きい飛行機だったんですもの」「そうか、よし、よし」と、私は大機嫌であった。◯眼疾あるために、空を見れば一面に水玉があらわれ、また視力も落ちていて(おまけにややミストあり)今日ははっきり味方機の活動を見る事が出来なくて残念だった。◯昌彦(※三男、病臥中)に初めて敵機(二機)を見せる。よろこんでおった。◯この日敵機が関東北部へ向かったというので、さては小泉、太田の中島飛行機工場へ行ったかと舌打ちしたが、そのうちに敵機隊は南下を開始した。爆弾は関東北部で落として来たのか、それとも帝都へ落としたのか、詳(つまびら)かならず。◯防空に立つと小便がちかい。冷えてぼうこうカタルを起こしつつあるのか、それとも……。 一月十一日◯昨夜と今晩の二回の敵空襲では、ちょうど我家上空を飛んだ。今までにないことである。しかも両回とも同じコースを通った。 この日高射砲を盛んに射ったが、多くは後過ぎて駄目。たいへん冷える夜だった。敵機が照空灯につきさされながらも、わが砲弾と六百万都民を尻目に悠々と帰って行くので、さらに寒さを感ずる。夜間戦闘機の武勲もほとんど新聞に出ない。 一月十二日◯昨夜モ敵三回来襲ス、薄雪アリ冷雨時ニ落チ冷エ込ムコト甚シ、遠方ニ男女ノ警防団員ノ声ス、皇土ヲ護ル当代ノ人々ナリ、感涙ヲ禁ジ得ズ。◯今日慶大病院眼科ノ桑原博士ノ診察ヲ受ケタリ Augiospasmus retinae なる由。当分手当ヲ受ケルコトトナリタリ。ナオルヤナオラヌヤ今後ノ観測ニ俟ツ外ナキラシイ。「頭ヲ使ウナ、精神ノ安静ハ薬以上ニ効果アリ」ト言ワル、頭脳稼業ノ吾等ニハ痛イコトナリ。 一月十四日◯敵機、一昨夜も昨夜も来ず。どうしやがったろう。 一月十九日◯敵機昨夜も帝都に来らず、どうしたかと思っていたところ、放送によると昨日来阪神へ三回も来、今暁も来たし、朝九時頃も来た由。続いて午後になってB29、八十機が阪神初空襲を行なう。その前に関東と名古屋方面へ少数機で牽制して、それから入る。いくら牽制しても阪神へ入ることは見え透いている。 帝都、名古屋の前例に鑑み、阪神の重要工場は疎開を完了していたかどうか。川西航空機は如何? 神戸製鋼は如何?◯一昨日、永田(※長女、朝子の婿の永田徹郎海軍大尉)の新世帯のある八日市場へ行き泊った。十八日帰った。◯祖母、伊予より十八日突然帰る。 一月二十六日◯眼が悪くなってから、書くことがかなりの大仕事となり、書けなくなった。◯空襲は名古屋、阪神方面に移行し、このところ東京は昼も夜も警報から遠のいている。おかげで夜も温く寝られるわけで、今のうちに過日来の疲労をとりかえして置かねばならぬ。 二月三日◯今夜、節分なり。晴彦と暢彦(※次男)に年男をやらせる。元気で二人声を揃えて、「敵撃滅、鬼は外」とやり、ぱらぱらと大豆をまく。◯敵機、この頃東京襲撃がとかくとぎれ勝ちなり。昼間の大空襲も停頓しているらしい。何か変化を見せるな。何でも出してこい。◯目下敵アメリカの発表せる損害は七十何万。これは動員兵員の六分四厘。前大戦でアメリカは八分の損害を出している。今次の戦域は前のそれに比べて東西両域にわたり、激闘の程度も比較にならぬ程ひどい。故に前記の数字は出鱈目(でたらめ)で、多分百二十万か百三十万はいかれているのだろう。来れ来れ。いくらでもやっつけてやるぞ。そうすれば、こっちが紐育(ニューヨーク)へ進軍するときは非常に楽になる。 二月五日◯空襲ハ昨四日、九十機ヲ以テ神戸ニ、十五機ヲ以テ三重県ニ行ナイシト。埠頭ヲ狙イ、南西部市街等ニ火災起リシ由ナリ。 二月十日◯本日は朝から敵機がちょろちょろ入って来ると思ったら、二時頃から九十機来襲、ただし帝都をぬけて関東北部へ行って投弾した。「我方地上施設ニ若干ノ損害アリ」との大本営発表である。たぶん太田、小泉等の中島飛行機製作所がやられたのであろう。 あそこがやられるであろうことは、前々から分っていた。また数日前も敵機がきょうと同じコースで二度も入って来ている。熊谷の陸軍特攻隊も手ぐすねひいていた筈。むざむざやられるようなことはあるまいと思うが、「若干ノ損害」とは気になる。 また一方に於いて疎開もやっていたはずだから、うまく行けば案外建物をこわしたに止まるやも知れず、いくら神経ののろくさい軍官民の指導者たちも、今度はちゃんとやっておいてくれたろうと思うが、さあ信用はまだまだ致しかねるをいかにせんや。◯戦果発表「十五機撃墜す」――十一日午後三時。 二月十一日◯荻窪や京浜街道附近の友人たちが移転を希望し、世田谷に望みを持って、家を探してくれと頼んで来るのが多い。まことに尤(もっとも)もなことである。しかし世田谷はなかなか家が手に入らない。誰しも安全地帯と思っているせいであろう。 が、昨日今日、二軒ばかり明きそう。一軒はもう敷金と家賃を払込んで置いた。二十五円という安い家だ。しかし「早く見に来なさい」と知らせて置いた友人はいっこう来らず、今度は入り手ありやと心配する立場となっている。 二月十二日◯慶応病院へ行く途中、省線(※JRとなった国電の旧称)千駄ケ谷駅へ電車がついたとき警報が出る。一機来たらしい。この敵機、わが制空機部隊によって撃墜され、銚子の向こうの海へ落ちたと発表あり、みんなうれしがる。一機来て、こうはっきり墜としたのは、これが最初である。 午後七時頃、敵一機来襲。西からきて帝都を東にぬけ、関東を旋廻して東方へ去る。朝方の味方機の消息を調べに来たのであろう。◯徹ちゃん(※娘婿の永田徹郎海軍大尉)転勤の由。今の香取航空基地より、鹿児島県下の辺ピなところへ行くことになったという。 二月十三日◯徹ちゃん、香取航空基地より親子を連れて、寸暇に顔を出してくれる。十五日はいよいよ九州へ飛行機で出発とのこと。十一時頃来て、二時半頃戻って行く。多分国分か鹿児島らしいという。 二月十五日◯敵B29、六十機名古屋地区へ主力を、また三重県の宇治山田、浜松、静岡へも分力を以て来襲す。 東京へは七十三機ばかり来た。横浜方面と思われる方向で、えらい音がして地面がふるえた。(戸塚区へ投弾した事が、あとで分った)◯戦果、十七機に損害を与う。わが方一機未帰還。 二月十六日◯艦載機延べ一千機で関東、東海地区へ来襲。戦闘機 F4Fワイルドキャット1500P最大SP500km1500―1800km13mm機銃戦闘機 F6Fヘルキャット2000H600km1850km13×3戦闘機 F4Vコルセア2000K500km13×2 逆カモメ型W軽爆機 SBD3ダイドントレス 複15007×213×2450kg軽爆機 SB24カーチスヘルダイバー450km1450軽爆機 PBFグラマン・アベンジャー2名or4名440km13×3600kg1ton 胴太◯朝七時、まだ寝床にいたとき、警報鳴りひびく。この早さに、さてはと思う間もなく、東部軍管区情報が出て「敵小型機約五十機、南方より本土へ近接中」と伝えた。いよいよ敵機動部隊来ると、はね起きて万端を指図す。敵機はすぐには帝都へ来らず、主として房総方面の飛行部隊や軍事施設を攻撃し始めた。子供たちは敵機を見たというが、私は遂に見ずじまい。 午後五時迄に四度空襲警報が出て、四度とけた。しかし警戒警報は夜に入るもとけず。 帝都に入ったのは三、四編隊にすぎなかったが、わが地上火器は盛んに射った。あんなに射って弾丸がなくなりはしまいかと思う位に。◯情報で伝えられた編隊の数は約三十であった。それで五百機位とにらんだが、発表は一千機内外ということであった。◯房総、ヨコスカ、茨城の飛行場や軍事施設に対しては相当長時間攻撃した。本土上陸の企図か? 小笠原のどこかへ上陸の前提か?◯発表によると敵機動部隊は十数隻の空母によるものといわれる。なお戦艦、空母を含む三十数隻の敵艦隊は硫黄島を攻撃中。◯敵はビラをまいた。(茨城地区に)大東亜戦争に於いて最初。◯放送は「明日も敵襲あるべし。敵機はふえるであろう」とのべる。◯防空総本部、宮地直邦放送。・米は、欧州戦の当初焼夷弾を5%使ったが、今は60%位使っている。ドイツの工業都市の破壊は、爆弾によるに非ずして、焼夷弾による火災のためである。(テルミット)・火焔噴射弾。・時限爆弾。(数時間乃至数分後に爆発)・大型焼夷弾。(炸薬も相当入っている)◯徹ちゃんはどうしているか? まだ健在ならば、今夜は勇躍、敵機動部隊へ突込むだろう。飛行機が焼かれていれば口惜しいだろう。武運長久を祈ってやまぬ。朝子(※長女、永田徹郎海軍大尉夫人)も気が気であるまい。◯運通省通告。しばらく東京及ヨコハマ着の切符発売停止(軍の者をのぞく)また京浜通過者の切符も同様なり。省線電車も売らぬ。今夜は省線電車は十時半にて終業し、約一時間半くりあげる。◯高粱(コーリャン)の入りし米ながら、漸く今日配給となる。(十二日のものが十六日におくれた)◯明日も一千機来るか、今度は都市攻撃をやりはせぬか――と予想する気持は、あまりいいものでない。さりながら実際に会うと、「なんだこれ位か」と期待外れがするもの、そして慣れて行くものである。東京は広い。なかなか命中とか、焼尽しとはならない。命中して一家散華すれば、これ仏の慈悲だと思うのである。生命あるかぎりは、敵と戦い、敵の攻撃を無効にし、そして敵を倒さん。  敵千機大西風に吹かれけり  敵千機大西風を喫しけり  敵千機大西風の味如何 二月十七日◯昨夜は敵機来襲はなかったが、暁が来ると、判を押したように午前七時警戒警報となり、敵小型機二十数機の房総半島侵入を報ず。けさは昨日よりやや落着いて、冷水摩擦を始めていたら空襲警報となる。身心をすがすがしくして、神棚を仰いで祈念す。徹郎君を始め、富藤順大尉、武田光雄大尉等の武運長久を祈願す。 折から朝は赤飯そっくりの高粱入り飯なり。「これは芽出度いぞ」と思わず声が出る。◯敵襲は昨日同様、烈化す。今日は京浜地区に侵入する編隊がふえた。東京見物を土産にするつもりか、それとも茨城千葉等の飛行場や軍事施設を攻撃完了というのか。◯すさまじい空戦の音、地上火器の入り乱れる音、それにまじってどこかの群の喊声が聞こえる。爆弾らしい地響きもちょいちょいした。消防サイレンも聞こえる。 私は目が悪い上に、今日は快晴で小さい戦闘機を見分けにくいため、一機も敵機の姿をしかと認めなかった。ただ音響ばかりは、いやというほど耳にした。◯午後一時半を過ぎると敵襲は下火になった。昨日敵は三時迄休んだようである。三時を過ぎたが敵勢進攻の模様見えず、午後四時すこし前に警報が解ける。今日は前触れだけで終了したわけだ。◯敵の機動部隊は逃げたらしいが、戦果はどうなのか。◯英、一生懸命防空頭巾を縫う。盗人を捕えて縄をなうの類なり。そして造って見て、自分がかぶるのかと思うと、気が変わって誰かにゆずってしまう。主婦はどこでもそういうものらしい。◯放送によれば、「昨日の撃墜戦果は百四十七機、損害五十機以上。大型艦一隻撃沈、わが自爆未帰還機六十一機」なりという。◯世田谷代田へ敵機が墜ちて行くのを近所の人はほとんど皆見ている。うちは林の中ゆえ、見えなかった。◯盛んに横穴を掘れと宣伝す。◯午後六時二十分の大本営発表が、硫黄島戦を報ず。「昨日来、敵は上陸意図をあらわし、戦艦五隻、巡洋艦六隻、輸送船等多数あり。これに対してわれは攻撃を加え、戦艦一隻轟沈、巡洋艦二隻、船型未詳二隻、撃沈ほかの戦果をあげたり」徹郎君はこの方へ出かけたもののように思われる。武運を祈るや切なり、徹郎君しっかり、しっかり。 二月十八日◯昨夜来B29の侵入、一機宛だが四回も来た。けさは果して艦載機の来襲がなく、八時五十分頃まで朝寝をした。◯朝子、突然リュックを肩に庭の方から入ってくる。英、まず愕(おどろ)き、大声をあげる。茶の間にいた陽子と私とは縁側へ駈出した。◯まず徹ちゃんのことを聞いたが、徹ちゃんは十七日(昨日)飛行機で九州へ出発した由。隊の兵曹が昨夜電話をかけてくれたそうだ。まずは安心する。◯朝子はけさ五時頃出て列車にのったが、千葉で降ろされるという話が、千葉まで来ると両国まで行くことになったのだという。これもよかった、早く事情が分って安心した。◯戦果三種発表。あの比島沖での攻撃の外、硫黄島沖の戦果大いにあがる。また昨日の敵艦載機撃墜百一機と発表、またその前の十六日の撃墜にも二十数機追加あり、結果約三百機の敵機をやっつけ、敵の手持の千二百機の四分の一を倒したことになる。◯運通省の列車と省線電車の制限は、本日より撤廃され、また小包の制限も同じく撤廃。ラジオで一般へ通告された。◯この夜は静かで楽しい団欒(だんらん)。茶の間では昌彦以外の子供四人とねえや二人が朝子を囲み、八畳では英と養母とに昌彦も加わって、話に花が咲いているらしい。私はこれから募兵紙芝居の執筆にかかろうかと思いながらコタツのぬくもりに少しとろとろしかかっているところ。時計が七時を打った。 二月十九日◯午後二時四十五分、突然B29、百機の帝都来襲となった。私にとっては少々不意打だ。家人はわりあいのんびり構えている。先日の艦載機千機の来襲で、千機という新記録を体験してからは、百機ぐらいは恐ろしくないらしい。そこで追いたてるようにしてフスマ障子をあけさせ、水筒等を運び入れ、昌彦も壕内へ移させる。◯この日ラジオが停電で黙ってしまい、東部軍管区情報が途中で伝わらなくなり、敵機隊の動勢は耳で爆音等をさぐる外なくなり、ちょっと心細い想いがした。ダムでもやられたかと思ったが、三十分ほどして回復したので、まあよかったと思う。鉱石受信機を組立てておく必要を感ず。忙しいので当分つくれまいが、いずれやってみようと思う。検波器がないが、代りに安全カミソリの歯と猫ひげでやってみるか。◯この日、とうとう硫黄島に上陸された。◯十五、十六、十七、十九と五日間のうち四ヵ日空襲つづきで、日の経つのが速いこと。 二月二十五日(土)◯硫黄島も激闘、マニラも激闘。徹ちゃんどうしたか、未だに便りなし。気に懸ってはいるが、家人には一言も言わずにいる。朝子も今家に居ることだし。◯午前四時半「横鎮(よこちん)(※横須賀鎮守府。鎮守府は、海軍の根拠地に置かれた機関)情報」というのが珍しく出て「敵機動部隊が本土に近接しあり云々」と放送する。◯果して午前七時半より警報発令となる。きょうは曇天。しかもだんだん暗くなって、雪となる。先日の雪がまだ消えないのに、また新雪積もる。その間に警報飛ぶ。敵艦載機はたいがい茨城千葉の方にいて、京浜地区まで来るのは少ないが、午後一時半B29の大挙来襲の徴ありと警告が出た。やがて間もなく来襲す。雪中を皆も防空壕に入る。盲爆故、時間の過ぎるのを待つ外なし。◯編隊は十四を数えた。大体いつもの経路で、やや北方を西から東へ通過したが、中には頭上を通る隊もあって癪にさわる。最後に近い一編隊の落とした弾は、さらさらさらと音を長くひいて東の方に落ち、炸裂するのを耳にした。さらさらさらは、今日初めて耳にした。 あとで北方から黒く焼けた紙らしいものが、はらはらと盛んに落ちて来た。火事の焼屑か、B29の落とした導火線の焼けかすか。 今日敵は焼夷弾と爆弾の混投を行ない、相当火災も起こったようで、「官民必死の敢闘により消火中云々」と放送された。 雪は夕方に入ってもますます降りしきり、家族は空襲中煮てあった昆布巻でうまく飯をたべ、あとはタドンを入れて炬燵(こたつ)のまわりに集まる。 三月三日◯道又さんの話によれば、神田は須田町から両国まで焼けたという。主婦の友社の安居さんの話では、駿河台の美津濃から神田橋の方へ向け、焼けて筒抜けとなったという。 上富士前から神明町ヘ。浅草橋駅、上野は駅から御徒町駅へかけて左側が全部なくなり、右方は日活館を残して、丸万や翠松園やみんな焼けたという。御徒町から両国が見えるともいうし、厩橋まで何にもないともいう。仲見世の東側、松屋のところまでがなくなったともいう。 これがみな、去る二月二十五日の雪の日のB29、百三十機の爆撃のためである。憎みてもあまりあるB29。しかし焦土と化すのは、前から分っていたことだ。それは仕方がないとして、何か手を打つべきだったと思うが、手ぬかりはなかったであろうか。 三月四日◯朝警報鳴る。七時半だ。さては艦載機であるか、いや艦載機にしては早すぎる。それに今朝は曇っていてお生憎さまだと思って耳を澄ましていると、B29が一機ずつ四つの侵入。そして主力の方は東海地区へ入ったというのだ。◯安心していると、とつぜん空襲警報発令、山梨地区上を十数機編隊のB29が東進中と放送。これはいかんと寝床から出る。女房に昌彦を防空壕に入れろという。が女房は昌彦のそばに添伏していて、「いや、ここにいる」と頑張る。腎臓炎で旧臘から臥床の昌彦、昨日来熱があるので、動かしたがらないのはもっともである。が、そのうちに後続部隊の侵入を報じて来る。女房やっと決心して、昌彦を黄色い毛布にくるんで防空壕へかかえて行く。◯敵は盛んにやって来た。四つ位の梯団(ていだん)であるらしい。最も近かったのは、どこか場所は分らないが、どこん、どこん、どこん、と続けざまに爆声聞え、壕の板がびりびりと鳴りひびいた。◯報道放送によると、百五十機なりという。警報解除一時間にして、相当大きな火災も全部消えたという。◯早耳の報道によれば、今日は尾久や日暮里附近がかなりやられたという話。◯敵機去っていくばくもなく、また雪がぽたぽた降り来る。三度目の大雪か。◯岡東浩君来る。ツナ缶、飴、化粧用クリームを貰う。うちからはねぎ、にんじん、馬鈴薯、かぶを少し分ける。徹ちゃんの置いていってくれた角壜のサントリー・ウイスキーが、このよき友を大いによろこばす。なんとかなるものなら、もっとこの友に飲ませたいものだ。◯弟佑一の会社が焼けた(二月二十五日)と手紙でいってくる。末広町に店を構えたばかりだったのに、気の毒な。またもや憤激のタネが出来た。こんなタネばかりふえ、それと反対に「ざまみやがれ、敵め」ということができないのが残念である。◯「グルー政権」という言葉がちょいちょい聞こえるようになった。けしからん。◯この頃の敵の焼夷弾の二割は爆発物がはいっているという。それで焼ける面積が多いのだという。また、それを知らせては誰も初期防火をしないので、知らせてないのだともいう。それはけしからん話であるが、この話はこれまでにも耳にしたことがある。◯朝子の友達の鈴木さんのそのまたお友達が、この前有楽町の爆撃のときあそこを歩いていたが、爆弾の落ちる音を耳にして、これはいけないと思い、遂に思い切って「伏せ」をした。ところがその直後に爆弾は至近距離に落ちて爆裂したが、伏せたおかげで身に微傷も負わなかった。 ところが、あたりを見まわすと、そばに長靴をはいた脚が二本立っていた。脚だけである。その上がない。思い出したのは、自分が伏せをしたとき、横を陸軍の将校が通ったが、その人が今はこの脚だけとなったという事。その上の方はどうしたかと思って見まわしたが、それはどこにも見えなかったという。◯この有楽町では、鉄カブトをかぶった首がころころ転っていたという。防空壕から首だけ出していたので、首だけやられたのであろうという話。しかし本当はそうではなく、立っていて、首だけ爆風にやられたのであろう。◯いつも大慈さんから頂いていた宗一郎さんの奥さんの御里で、水飴の製造をやっていられたお家が焼けたそうな。やっぱり二月二十五日。お家はやっぱり神田にあったという。◯牛肉二貫匁が入るというルートの話がこの前あったが、この店もやっぱり二月二十五日に焼けた由。二・二五爆撃はかなりひびく。 三月九日◯去る三月五日、敵は午前零時から二時まで、十機が一機ずつ帝都へ侵入した。めずらしいことである。 その翌日には、同様の型式で大阪方面へ侵入した。 新聞は「これこそ夜間大編隊来襲のウォーミング・アップなり」と報じ、一般の注意を喚起した。 そのうち、月の明るい晩にやるつもりであろう。しかし当分はまっくらで、敵には盲爆以外の手なし。◯爆撃の直後、身近かにとんで来たものはすてきなケシゴムたくさん、百円札の束、反物など。これは鈴木さんの友達の話である。◯首がとびこんで来て、われに向かい丁重に挨拶をしたという話もあるとて、村上先生大いに笑う。◯艦載機来襲以来、待避壕はかなりものものしくなった。相当土をかぶり、ふたのないものは数を減じた。しかしまだまだである。 三月十日◯昨夜十時半警戒警報が出て、東南洋上より敵機三目標近づくとあり。この敵、房総に入らんとして入らず、旋廻などをして一時間半ぐらいぐずぐずしているので、眠くなって寝床にはいったら、間もなく三機帝都へ侵入の報あり、空襲警報となり、後続数目標ありと、情報者は語調ががらりと変わる。起きて出てみれば東の空すでに炎々と燃えている。ついに、大空襲となる。◯発表によれば百三十機の夜間爆撃。これが最初だ。◯折悪しく風は強く、風速十数メートルとなる。 三月十三日◯昨暁名古屋が大挙B29の夜間爆撃を受けた。東京夜襲より二日後で、ピッチをあげている。今度は風が強く、全く利敵風であった。◯十日未明の大空襲で、東京は焼死、水死等がたいへん多く、震災のときと同じことをくりかえしたらしい。つまり火にとりまかれて折重なって窒息死するとか、橋の上で荷物を守っていると両端から焼けて来て川の中へとび込んだとか、橋が焼けおち川へはまったとか、火に追われて海へ入り、水死又は凍死したとか、川へ入ったが岸に火が近づいたので対岸へ泳いで行くと、そこも火となり水死したとかいう話が下町の方にたくさんあり、黒焦死体が道傍に転り、防空壕内で死んで埋っているのも少くないとの事である。◯この前の雪の日の盲爆(二・二五)に八万の罹災者を生じたが、今度はその数倍らしい。◯今日は三日月だが、罹災者の姿痛々しく、街頭や電車内に見受ける。軍公務通勤者以外は切符を売らない。◯三月十日に焼けた区域は随分広いらしい。 わかっているものだけでも、九段上、番町界隈、銀座一丁目より築地ヘ。新橋駅より新橋演舞場の方へかけて、白金台町附近、高樹町、霞町、浅草観音さま本堂、本郷三丁目より切通坂へかけて、秋葉原界隈、田園調布界隈、司法省、茅場町、日本橋白木屋、高島屋の地下町の方面は次々と焼けたらしい。◯読売新聞の記事に、罹災区と引受区との表が出ているが、これにより罹災区が十区ある。しかし、この中には麹町区は焼けながら入って居らぬことからみて、もっと多数の区がやられていることは明白だ。(罹災区) (収容区) 日本橋   赤 坂 荒 川   大 森 下 谷   世田谷 京 橋   目 黒 深 川   四 谷 本 郷   中 野 浅 草   杉 並 向 島   板 橋 本 所   王 子 城 東   荏 原―――――――――――以上二十区麹、麻、小、牛、芝、神、豊、渋、足、葛、品、蒲、渋、江、淀◯若林国民学校へも罹災者一千名を収容、新校舎に入る。暢彦も十三日までで、あとやすみ。晴(※晴彦)は当分登校。◯偕成社も焼け落ちた。出版企画中の「成層圏戦隊」もこれにて無期延期。◯吉祥寺駅にて山東先生にお目にかかる。(※カット「先生の恰好」入る。35-下段)◯報道班員の身分証明書で切符を買って通る。「報道班員」は近来誰でも知っていてくれるので、早分かりがするようだ。◯見舞状を出す。今村、朝、摂津、久生、荒木。◯味噌の配給がとまった。罹災者へまわしたためとある。この隣組の清水、友野両家へも罹災者が入って来られた由。◯昨夜、疎開すべきや否やについて英と協議す。但し決まらず。◯昨夜、ねえやの米ちゃん、松ちゃんを解雇し、親もとへかえす。来る十五日頃、こういう人達へ徴用があるとかで、両人がことのほか心配している故、英が解雇の決意をしたものである。今は朝子がいるのですこしはいいが、二十日に朝子も鹿児島へ行くので、そのあとは忙しくなろう。 三月十四日◯浅草へ行って三月十日の空襲のあとを見る。震災に比べて、延焼の時間が短かかったので(震災は三日間で焼け、今度は六時間位で焼けた)惨害もひどかったことがうなずける。こんなに焼けているとは思わなかった。浅草寺の観音堂もない、仁王門もない、粂(くめ)の平内殿は首なし、胸から上なし、片手なしである。五重塔もない。◯吾妻橋のタモトに立って眺めると、どこもここも茫々の焼野原。◯象潟二丁目の或る隣組では、四十五人の人員が二十人しか生存していない。◯水の公園では押されて人々が倒れると、その上に将棋だおしとなって多勢が圧死し、そこへ火が来て、一層凄絶なこととなった。佐川のおばさんは、かかる折、息子とつないでいた手を放して倒れて下敷となり、息子さんの懸命の努力に拘らず母を救い出し得ず、そのままとなった由。◯大正震災のときは、それでもかなり今戸の川ぷちに家が残ったものだ。今度は完全に焼けてしまった。痔の神様ももちろんなし。◯浅草の田中さん、早期に言問橋を渡って左折し(牛の御前と反対方向)そこで助かった。但しその一廓を残し、ぐるりは焼けた。◯厩橋の常田久子も、赤ちゃんを背にしてにげ、新大橋の下に何時間もがんばって、ようやく二つの命を拾った由。◯浅草は稲荷町から上野駅前へかけて焼け残っている。他に人家を見ず。◯二時間半歩いて上野駅へ達した長蛇のような女工さんの群あり、集団引越だそうな。 三月二十一日→二十六日◯朝子を鹿児島へ送っていった。往復六日間、列車に乗りづめ。◯鹿児島は最近敵機動部隊の来襲を受けたばかりのところで、各家とも城山に横穴掘り、また家財を焼かないための地窖(あなぐら)掘りに忙しい。しかし町はどこも焼けたところを見なかった。人心も東京にくらべればすこぶるのんびりして見えた。 永田のお父さんとお母さんとで、この忙しさの中に餅をついてくださった。もち粟(あわ)の餅、ことにうまし。お土産にももらっていく。◯鹿児島でレモンを売っているのをみつけて十五個買った。一個十四銭ほど、やすい、そしてうまい。◯桜島へ敵機が二機とか四機とか衝突し、燃えていたそうな。◯鹿児島行の列車で、沖縄本島へ帰る少尉さんに馴染みとなる。「いずれ来るでしょう、しかし今は内地の方々には済まんようないい生活をしていますよ、砂糖も酒もふんだんにありまして、砂糖などすぐ一キロぐらい、ペロリと甞(な)めてしまうです……」など、話の上手な親しみ深い勇士だった。内地へ連絡に来て、これから鹿児島に入り、飛行機で飛んで行くのだという。まだ四、五日はかかるといっていた。 沖縄のこの前二回の艦載機の来襲の話も聞いた。「敵の奴、飛行場の偽飛行機や偽戦車に銃撃をくりかえすのですよ。戦車があまり焼けないので、こっちから決死隊を一人出し、油をもたせてやって一台を焼きました。すると敵の奴よろこびやがって、それからのこりの戦車へ来るわ来るわ……」などという朗らかな話や、近く敵襲の警報が入ると、滑走路に小屋を運搬していって建て、村落と化して敵の目をごま化す話など、たいへん面白かった。この勇士は、門司から鹿児島行の列車で私たち両人をたいへん世話してくれた。(敵は沖縄本島へ二十日に上陸した。この勇士殿は帰れたかどうか?)◯往路、車中より神戸の南部の工場地帯が今もなお炎々と燃えつづけているのを見て、「畜生、かたきをうつぞ」と心に叫ばしめた。帰途は車窓が山側に位していたので肝腎の南側の方は見られなかった。しかし山側を見ていると、須磨迄は大丈夫であったが、林田区に入ると俄然(がぜん)大きく焼けていた。三菱電機の研究所のあった建物も焼けていた。湊川新開地も焼け、福原も焼けていた。市電の南側が少し残って、神戸駅迄に及んでいる。 裁判所焼け、となりの市庁は無事。それから東へ行って北長狭の辺、三宮の辺が焼けていた。県庁は残っているが、菊水は空し。惜しいことだ、あのコレクションは。さらに東へ行って元神戸一中に至るあたりが焼け、グラウンドで延焼を喰いとめている様子。 さらに東へ行って、御影が焼けている。線路ぞいに焼けていて、元の朝永の家も焼けてしまったように見える。 岡東の話では、一中も三中も焼けたというが、とにかく山の手は静かに残っていて、なつかしい神戸の面影を見せていた。◯大阪はどこが焼けているのか車窓からは見えず。(話によると西区、天王寺区、大正区等が焼けた由)◯名古屋も案外たくさん残っている。その前夜また空襲があったのだそうだが、車内で夜を明かした私たちは知らなかった。熱田の辺も、山側は大した被害なし。◯無事空襲の間をぬけて帰りつく。◯上海から帰って来たある人の奥さんからパンをもらった。カラカラに乾いたパンであるが、これ一個七十三円という。(奥さんにおにぎり二つ進呈したそのお礼なり) 四月二日◯今暁、敵大編隊来襲。立川方面へ投弾す。照明弾と時限爆弾を落としたのは今回が初めて。 時限爆弾は三十分位後に爆発する。長いものは翌日になって、どんどんと硝子窓をひびかせて爆発していた。 帝都に被害なし。 四月四日◯例の丑満時(うしみつどき)、敵大編隊来襲す。はじめ大部分は関東北部へ行ったのであるが、帰りに帝都を北から南へ抜け、低い雨雲の下に眠っている帝都を爆撃した。多くは爆弾。それに時限弾も混入。その上焼夷弾もあった。地響きはする、雨戸、硝子はとびそうに鳴る。このすごい響きは、雨雲が低いためにすごい反響を起したもの。雷鳴のときに似ていた。 感じでは、どうやらうちが中心になっているらしく、東西南北めちゃめちゃに投弾されたように思い、キモを冷やしたが、夜が明けて聞いてみると世田谷に投弾はなく、近いところでも新宿のあたりらしい。今度は横浜、川崎もやられたらしい。渋谷―池袋間も不通。ヨコスカ線は大塚から出ているらしい。桜木町附近相当被害ありし模様。 いつも牛乳を貰いに行く国分寺の牧場も、前のやつに一方をやられ、今度のに反対側をやられ、自分のところだけは安全だったが、すさまじい跡が見えたと、養母が帰って来ての話。 四月七日◯本日朝七時四十分に警報。「敵大編隊来襲、八時二十分頃本土着のヨテイ」と。 すぐ警戒に立つ。用意万端ととのえたが、敵機は仲々来らず(後で考えると、敵はカムフラージュに錫箔(すずはく)をまいたらしい、そしてそのかげに集結するためかなり時刻がたったらしい)やっと九時半頃百機ばかりの大編隊となって南より北へとぶ。◯高射砲はかなり南で射撃を開始し、わが家上空に近づいたときには、もう撃ち方やめとなる。 それに代って味方の戦闘機の攻撃は激化し、たちまち一機煙をはきだし、そのうちにふらふらし、空中分解して火の塊となる。万歳を叫ぶ。他の一機も機首を下にして、田中さんの右はずれの森の彼方に落ちた(三鷹方面)。その他煙を出した戦闘機四機ばかりあり。憎々しき敵の大編隊を北へ見送る。 今日は英、晴、暢、それに亮嗣さんも垣根を越して田中さんの地所でこれを観戦す。昌彦も、落下傘が下りるのを壕から顔を出して見た。この落下傘、敵かと思ったが、あとでわかったところによれば陸軍の中尉(山田少尉ともいう)で、野砲連隊の近くに降り、電線にひっかかったが、顔面の少負傷で助かり、部隊へ収容されたという。◯ラジオの停電で、途中より戦況不明となる。ただし十一時頃、空襲警報は解除となった。◯大本営発表によれば、本日の敵機は「南方基地より発出せるもの、帝都附近へは百二十機、名古屋へは百五十機が来襲せり」と。◯内閣は一昨日、辞表を提出した。小磯内閣は果してかけ声をかけただけで終り。三月十日の空襲の市街大延焼にて、疎開強化令を出して混乱を生ぜしめた失政軽からず。さらに四月五日、ソ連は日ソ中立条約存続の意志なきことを通告し来り(来年四月二十五日期限)、その余波もくらった形に見える。 小磯内閣の退陣に当たり印象に残ったのは、米内海軍大臣の朗々たる声と率直な物の言い方、杉山陸軍大臣の年齢に似ぬ元気な、そして円い物の言い方、町田ノンキナトウサン無任相のぼんやりした顔、前田運通相の悪相、緒方国務相の疲れた顔、まずそんなところなり。こういう仕事をせぬ内閣は早く代わるに限る。思えば、今は亡き前文相二宮中将が、組閣間もなく国民学校第二学期の始まっていることを十日も忘れての放送に、大きなケチがついたように感じたが、それは本当であった。 鈴木貫太郎海軍大将は、枢府(※天皇の諮問機関、枢密院の異称)議長の任にあったが、今度大命を拝した。
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