蠅男
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:海野十三 

「ほう、それはどんなものですか」
「それは半焼けになった右足なんだ。その右足は骨の上に、僅かに肉の焼けこげがついているだけで、まるで骨つきの痩せた、鶏の股を炮(あぶ)り焼きにしたようなものだが、それに二つの特徴がついている」
「ほほう、――」
「一つは右足の拇指(おやゆび)がすこし短いのだ。よく見ると、それは破傷風(はしょうふう)かなんかを患って、それで指を半分ほど切断した痕(あと)だと思う」
「なるほど、それはどの位の古さの傷ですか」
「そうだネ、裁判医の鑑定によると、まず二十年は経っているということだ」
「はあ、約二十年前の古傷ですか。なるほど」と帆村は病人であることを忘れたように、ひきしまった語調で呟(つぶや)いた。
「――で、もう一つの傷は?」
「もう一つの傷が、また妙なんだ。そいつは同じ右足の甲の上にある。非常に深い傷で、足の骨に切りこんでいる。もし足の甲の上にたいへんよく切れる鉞(まさかり)を落としたとしたら、あんな傷が出来やしないかと思う。傷跡は癒着(ゆちゃく)しているが、たいへん手当がよかったと見えて、実に見事に癒っている。一旦切れた骨が接合しているところを解剖で発見しなかったら、こうも大変な傷だとは思わなかったろう」
「その第二の傷は、いつ頃できたんでしょう」
「それはずっと近頃できたものらしいんだがハッキリしない。ハッキリしないわけは、手術があまりにうまく行っているからだ。そんなに見事な手術の腕を持っているのは、一体何処の誰だろうというので、問題になっておる」
 検事村松と傷つける青年探偵帆村壮六とが、事件の話に華を咲かせているその最中に、慌(あわ)ただしく受付の看護婦がとびこんできた。
「モシ、地方裁判所の村松さんと仰有(おっしゃ)るのは貴方さまですか」
「ああ、そうですよ。何ですか」
「いま住吉警察署からお電話でございます」
 検事はそのまま席を立って、室外へ出ていった。
 それから五分ほど経って、村松検事は帰ってきた。彼は帆村の顔を見ると、いきなり今の電話の話をした。
「いまネ、鴨下ドクトルの邸に、若い男女が訪ねてきたそうだ。ドクトルの身内のものだといっているが怪しい節(ふし)があるので、保護を加えてあるといっている。ちょっと行って見てくるからネ。いずれ又来るよ」
 そういい置いて、扉の向うに消えてゆく検事の後姿を、帆村は羨(うらや)ましそうに見送っていた。


   蠅男


 時間は、それより一時間ほど前の九時ごろのことだった。
 同じ住吉区(すみよしく)の天下茶屋(てんかぢゃや)三丁目に、ちかごろ近所の人の眼を奪っている分離派風の明るい洋館があった。
 太い御影石(みかげいし)の門柱には、「玉屋」とただ二字だけ彫ったブロンズの標札が埋めこんであったが、これぞいまラジオ受信機の製造で巨万の富を作ったといわれる玉屋総一郎の住宅だった。
 丁度(ちょうど)その九時ごろ、一台の大型の自動車が門内に滑りこんでいった。乗っていたのは、年のころ五十に近い相撲取のように巨大な体躯の持ち主――それこそこの邸の主人、玉屋総一郎その人だった。
 車が玄関に横づけになると、彼はインバネスの襟(えり)をだらしなく開けたまま、えっと懸け声をして下りたった。
「あ、お父つぁん」
 家の中からは、若い女の声がした。しかしこの声は、どうも少し慄(ふる)えているらしい。
「糸子か。すこし気を落ちつけたら、ええやないか」
「落ちつけいうたかて、これが落ちついていられますかいな。とにかく早よどないかしてやないと、うち気が変になってしまいますがな」
「なにを云うとるんや。嬰児(ややこ)みたよに、そないにギャアつきなや」
 総一郎はドンドン奥に入っていった。そして二階の自分の書斎の扉を鍵でガチャリと開けて、中へ入っていった。、そこは十五坪ほどある洋風の広間であり、この主人の好みらしい頗(すこぶ)る金の懸った、それでいて一向垢(あか)ぬけのしない家具調度で飾りたて、床には剥製(はくせい)の虎の皮が三枚も敷いてあり、長椅子にも、熊だの豹だのの皮が、まるで毛皮屋に行ったように並べてあった。
 玉屋総一郎は、大きな机の前にある別製の廻転椅子の上にドッカと腰を下ろした。そして彼は子供のように、その廻転椅子をギイギイいわせて、左右に身体をゆすぶった。それは彼の癖(くせ)だったのである。
「さあ、その――その手紙、ここへ持っといで」
 彼は呶鳴るようにいうと、娘の糸子は細い袂(たもと)の中から一通の黄色い封筒を取りだして、父親の前にさしだした。
「なんや、こんなもんか。――」
 総一郎は、封の切ってある封筒から、折り畳んだ新聞紙をひっぱり出し、それを拡げた。それは新聞紙を半分に切ったものだった。
「なんや、こんなもの。屑新聞やないか」
 彼は新聞をザッと見て、娘の方につきだした。
「新聞は分ってるけど、只の新聞と違うといいましたやろ。よう御覧。赤鉛筆で丸を入れてある文字を拾うてお読みやす」
「なに、この赤鉛筆で丸をつけたある字を拾い読みするのんか」
 総一郎は娘にいわれたとおり、上の方から順序を追って、下の方へだんだんと読んでいった。初めは馬鹿にしたような顔をしていたが、読んでいくにつれてだんだん六ヶ敷(むずかし)い顔になって、顔がカーッと赤くなったと思うと、そのうちに反対にサッと顔面から血が引いて蒼くなっていった。
「そら、どうや。お父つぁんかて、やっぱり愕いてでっしゃろ」
「うむ、こら脅迫状や。二十四時間以ないニ、ナんじの生命(いのち)ヲ取ル。ユイ言状を用意シテ置け。蠅男(はえおとこ)。――へえ、蠅男?」
「蠅男いうたら、お父つぁん、一体誰のことをいうとりまんの」
「そ、そんなこと、俺が知っとるもんか。全然知らんわ」
「お父つぁん。その新聞の中に、蠅の死骸が一匹入っとるの見やはった?」
「うえッ、蠅の死骸――そ、そんなもの見やへんがナ」
「そんなら封筒の中を見てちょうだい。はじめはなア、その『蠅男』とサインの下に、その蠅の死骸が貼りつけてあったんやしイ」
 総一郎は封筒を逆(さか)さにふってみた。すると娘の云ったとおり、机の上にポトンと蠅の死骸が一匹、落ちてきた。それはぺちゃんこになった乾枯(ひから)びた家蠅の死骸だった。そして不思議なことに、翅も六本の足も□(むし)りとられ、そればかりか下腹部が鋭利な刃物でグサリと斜めに切り取られている変な蠅の死骸だった。よくよく見れば、蠅の死骸と分るような、変った蠅の木乃伊(ミイラ)めいたものであった。
 この奇怪な蠅の死骸は、果して何を語るのであろうか。


   籠城(ろうじょう)準備


 ――二十四時間以ないニ、ナんじの生命ヲ取ル。ユイ言状を用意シテ置け。――
 それだけが、活字の上に赤鉛筆で丸が入れてある。
 ――蠅男――
 この二字だけは、不器用なゴム印の文字であって、インキは赤とも黒とも見えぬ妙な色で捺(お)してあった。
 更に、奇怪な翅や脚を□(むし)りとり、下腹部を半分に切ってある蠅の木乃伊(ミイラ)。――
 全く妙な通信文であるが、とにかく脅迫状に違いない。
「お父つぁん。きっと心当りがおますのやろ。隠さんと、うちに聞かせて――」
「阿呆いうな。蠅男――なんて一向知らへんし、第一、お父さんはナ、人様から恨みを受けるようなことはちょっともしたことないわ。ことに殺されるような、そんな仰山な恨みを、誰からも買うてえへんわ」
「本当やな。――本当ならええけれど」
「本当は本当やが、とにかくこれは脅迫状やから、警察へ届けとこう」
「ああ、それがよろしまんな。うち電話をかけまひょか」
「電話より、誰かに警察へ持たせてやろう。会社へ電話かけて、庶務の田辺に山ノ井に小松を、すぐ家へこい云うてんか」
 娘の糸子が電話をかけに行っている間に、邸内(ていない)の男たちが呼び集められた。玉屋総一郎は、ともかくも蠅男の襲撃を避けるため、自分の居間に引籠(ひきこも)る決心を定めた。それだからまず外部から蠅男の侵入してくるのを防ぐために、四つの硝子窓を内側から厳重に羽根蒲団とトタン板とでサンドウィッチのように重ねたもので蓋をし、釘づけにした。それでもまだ心配になると見え、窓のところへ、大きな書棚や戸棚をピタリと据えた。
「どうです、旦那はん。これでよろしまっしゃろか」
「うん、まあその辺やな」
「あとは、明(あ)いとるところ云うたら、天井にある空気孔(あな)だすが、あれはどないしまひょうか」
「あああの空気孔か」と、総一郎は白い天井の隅に、一升桝(ます)ぐらいの四角な穴が明いている空気抜きを見上げた。そこには天井の方から、重い鋳物(いもの)の格子蓋(こうしぶた)が嵌(は)めてあった。「さあ、まさかあれから大の男が入ってこられへんと思うが、――」
「さようですナ、あの格子の隙から入ってくるものやったら、まあ鼠か蚊か――それから蠅ぐらいなものだっしゃろナ」
「なに、蠅が入ってくる。ブルブルブル。蠅は鬼門(きもん)や。なんでもええ、あの空気孔に下から蓋(ふた)をはめてくれ」
「下から蓋をはめますんで……」
「出来んちゅうのか」
「いえ、まだ出来んいうとりまへん。いま考えます。ええ、こうっと、――」
 下僕(しもべ)たちが脳味噌を絞った挙句(あげく)、その四角な空気孔を、下から厚い紙で三重に目張りをしてしまった。
「さあ、これでもう大丈夫です。こうして置いたら蠅や蚊どころか、空気やって通ることが出来しまへん」
 総一郎は、それでも不安そうに天井を見上げた。
 そのうちに、会社からは田辺課長をはじめ山ノ井、小松などという選(え)りすぐりの用心棒が駈けつけた。総一郎はすこし生色をとりかえした。
 警察への使者には、田辺課長が立った。
 彼は新聞紙利用の脅迫状を、蠅の木乃伊(ミイラ)とともに提出し、主人の懇願(こんがん)の筋(すじ)をくりかえして伝えて、保護方(ほごかた)を頼んだ。
 署長の正木真之進(まさきしんのしん)は、そのとき丁度、鴨下ドクトル邸へ出かけていたので、留守居の警部補が電話で署長の指揮を仰いだ結果、悪戯(いたずら)にしても、とにかく物騒だというので、二名の警官が派遣されることになった。
 すると田辺はペコンと頭を下げ、
「モシ、費用の方は、玉屋の方でなんぼでも出して差支(さしつか)えおまへんのだすが、警官の方をもう三人ほど増しておもらい出来まへんやろか」
 というと、警部補はカッと目を剥き、
「阿呆かいな。お上(かみ)を何と思うてるねン」
 と、一発どやしつけた。
 脅迫状は、一名の刑事が持って、これを鴨下ドクトルの留守宅に屯(たむろ)している署長の許へとどけることになった。


   東京からの客


 そのころ鴨下ドクトルの留守宅では、屯(たむろ)していた警官隊が、不意に降って湧いたように玄関から訪れた若き男女を上にあげて、保護とは名ばかりの、辛辣(しんらつ)なる不審訊問(ふしんじんもん)を開始していた。
「お前は鴨下ドクトルの娘やいうが、名はなんというのか」
「カオルと申します」
 洋装の女は、年齢(とし)のころ、二十二、三であろうか。断髪をして、ドレスの上には、贅沢な貂(てん)の毛皮のコートを着ていた。すこぶる歯切れのいい東京弁だった。
「それから連れの男。お前は何者や」
「僕は上原山治(うえはらやまじ)といいます」
「上原山治か。そしてこの女との関係はどういう具合になっとるねん」
「フィアンセです」
「ええッ、フィなんとやらいったな。それァ何のこっちゃ」
「フィアンセ――これはフランス語ですが、つまり婚約者です」
「婚約者やいうのんか。なんや、つまり情夫(いろおとこ)のことやな」
「まあ、失礼な。――」と、女は蒼くなって叫んだ。
「まあ、そう怒らんかて、ええやないか。のう娘さん」
「警官だといっても、あまりに失礼だわ。それよか早く父に会わせて下さい。一体何事です。父のうちを、こんなに警官で固めて、なにかあったんですか。それなら早く云って下さい」
 署長は金ぶち眼鏡ごしに、ニヤニヤしながらカオルの様子を眺めていた。部下の一人が近づいてソッと署長に耳うちをしていった。村松検事が間もなく到着するという電話があったことを返事したのであった。
「――娘さん。鴨下ドクトルから、二、三日うちに当地へ来いという手紙が来たという話やが、それは何日の日附(ひづけ)やったか、覚えているか」
「覚えていますとも。それは十一月二十九日の日附です」
「へえ、二十九日か」署長は首をかしげ「そらおかしい。ドクトルは三十日に、当分旅行をするという札を玄関にかけて、この邸を留守にしたんや。旅行の前日の手紙で、二、三日うちに大阪へ来いといって置いて、その翌日に旅行に出るちゅうのは、怪(け)ったいなことやないか。そんな手紙貰うたなどと、お前はさっきから嘘をついているのやろう」
「まあひどい方。わたしが嘘を云ったなどと――」
「そんなら、なんで手紙を持って来なんだんや。この邸へ入りこもうと思うて、警官に見つかり、ドクトルの娘でございますなどと嘘をついて本官等をたぶらかそうと思うたのやろが、どうや、図星(すぼし)やろ、恐れいったか。――」
 女は身を慄(ふる)わせて、署長に打ってかかろうとした。青年上原は慌(あわ)ててそれを止め、
「――警官たちも、取調べるのが役目なんだろうが、もっと素直に物を云ったらどうです」
「なにをッ――」
 そういっているところに、村松検事の到着が表から知らされた。
 正木署長は席を立って、検事を玄関に迎えに出た。一伍一什(いちぶしじゅう)を報告したあとで、
「――どうも怪しい女ですなア。あの変り者の鴨下ドクトルに娘があるというのも、ちと妙な話ですし、それに娘のところへ二、三日うちに出てこい云うて、二十九日附で手紙を出しておきながら、翌三十日から旅行するちゅうて出かけ、そして今日になってもドクトルは帰ってきよらしまへん。ドクトルが娘に手紙出したちゅうのは、ありゃ嘘ですな」
 と、自信あり気(げ)な口調で、検事に説明をした。検事はそうかそうかと肯(うなず)いた。
 二階に設けた仮調室に現われた検事は、カオルと名のる女をさしまねき、
「貴女は鴨下ドクトルの娘さんだそうだが、たびたびこの家へ来るのかネ」
 と尋ねた。
 カオルは、新しく現われた調べ手に、やや顔を硬ばらせながら、
「いいえ、物心ついて、今夜が初めてなんですのよ」
「ふうむ。それは又どういうわけです」
「父はあたくしの幼いときに、東京へ預けたのです。はじめは音信も不通でしたが、この二、三年来、手紙を呉れるようになり、そしてこんどはいよいよ会いたいから大阪へ来るようにと申してまいりました。父はどうしたのでしょう。あたくし気がかりでなりませんわ」
「いや尤(もっと)もです。実はネ――」と検事はカオルの顔を注意深く見つめ「実は――愕(おどろ)いてはいけません――お父さんは三十日に旅行をされ、未(いま)だに帰って来ないのです。そしておまけに、この家のうちに何者とも知れぬ焼屍体(しょうしたい)があるのです」
「まあ、父が留守中に、そんなことが出来ていたんですか。ああそれで解りましたわ。警官の方が集っていらっしゃるのが……」
「貴女はお父さんがこの家に帰ってくると思いますか」
「ええ勿論、そう思いますわ。――なぜそんなことをお聞きになるの」
「いや、私はそうは思わない。お父さんはもう帰って来ないでしょうネ」
「あら、どうしてそんな――」
「だって解るでしょう。お父さんには、貴女との固い約束を破って旅に出るような特殊事情があったのです。そして留守の屋内の暖炉(ストーブ)の中に一個の焼屍体(しょうしたい)が残っていた」
 村松検事はそう云って、女の顔を凝視(ぎょうし)した。


   二つの殺人宣告書(せんこくしょ)


「あッ」とカオルは愕きの声をあげた。「するともしや、父が殺人をして逃亡したとでも仰有(おっしゃ)るのですか」
「まだそうは云いきっていません。――一体お父さんは、この家でどんな仕事をしていたか御存じですか」
「わたくしもよくは存じません。ただ手紙のなかには、(自分の研究もやっと一段落つきそうだ)という簡単な文句がありました」
「研究というと、どういう風な研究ですか」
「さあ、それは存じませんわ」
「この家を調べてみると、医書だの、手術の道具などが多いのですよ」
「ああそれで皆さんは父のことをドクトルと仰有るのですね」
 女はすこし誇らしげに、わずかに笑った。
 そのとき正木署長が、検事の傍へすりよった。
「ええ、……緊急の事件で、ちょっとお耳に入れて置きたいことがありますんですが、いま先方から電話がありましたんで……」
「なんだい、それは――」
 廊下へ出ると署長は低声(こごえ)で、富豪玉屋総一郎氏が今夜「蠅男」に生命を狙われていることを報告し、只今それについて玉屋から、どうも警察の護衛が親切でないから、司法大臣に上申するといってきた顛末(てんまつ)を伝えた。
 村松検事は署長に、その脅迫状を持っているなら見せるように云った。
 署長は、お安い御用といいながら、ポケットを探ったが、どうしたものか先刻預って確かにポケットに入れたはずの封筒が、何処へ落としたか見当らないのであった。
「どうしたんやろなア、確かにポケットに入れとったのじゃが――ひょっとすると階下(した)の大広間へ忘れてきたのかしらん。検事さん、ちょっとみてきます」
 署長があたふたと階下(した)へ下りていく後を、村松検事は追いかけるようにして、大広間の方へついていった。焼屍体のあった大広間は、監視の警官が一人ついたまま、気味のわるいほどガランとしていた。
 警官の挙手の礼をうけて、室内に入った署長は、そのとき室内に、異様の風体の人間が、火の消えた暖炉(ストーブ)の傍にすりよって、後向きでなにかしているのを発見して、呀(あ)ッと愕いた。全く異様な風体の人間だった。和服を着て素足の男なんだが、上には警官のオーバーを羽織り、頸のところには手拭を捲きつけているのだった。頭髪は蓬(よもぎ)のようにぼうぼうだ。
「コラッ誰やッ」署長は背後から飛びつきざま、その男の肩をギュッと掴んだ。
「うわッ、アイテテテ……」
 異様な風体の男は、顔をしかめて、三尺も上に飛びあがったように思われた。
「何者や、貴様は――」
 と、獣のように大きな悲鳴をあげた怪人に、却(かえ)って愕かされた署長は、興奮して居丈高(いたけだか)に呶鳴った。
「いや正木署長、その男なら分っているよ」いつの間に入ってきたか、村松検事がおかしそうに署長を制した。「それは私の知合いで帆村(ほむら)という探偵だ」
「ああ帆村さん。この怪(け)ったいな人物が――」
「うむ怪しむのも無理はない。彼は病院から脱走するのが得意な男でネ」
 帆村は肩が痛むので左腕を釣っていた。大きな痛みがやっと鎮まるのを待って、怺(こら)えかねたように口を利いた。
「――まあ怒るのは後にして頂いて、これをごらんなさい、重大な発見だ」
 そういってさし伸べた彼の右手には、同じ色と形とを持った二枚の黄色い封筒があった。
「あッ、これは玉屋氏に出した蠅男の脅迫状や。あんた、どこでそれを――」
「まあ待ってください。こっちが玉屋氏宛のもので、そこの絨毯(じゅうたん)の上で拾った。もう一通こっちの黄色い封筒は、この暖炉の上の、マントルピースの上にあった。その天馬の飾りがついている大きな置時計の下に隠してあったのです」
「ほう、それはお手柄だ」
「もっと愕くことがある。封筒の中には、ほらこのとおり同じように新聞紙の脅迫状が入っている」といって中から新聞紙を出してひろげ、「同じように赤鉛筆の丸のついた文字を辿(たど)って読んでみると、――きさまが血まつりだ。乃公(おれ)は思ったことをするのだ。蠅男――どうです。玉屋家の脅迫状と全く同じ者が出したのです」
「フーム、蠅男? 何だい、その蠅男てえのは」
「さあ誰のことだか分りませんが――ホラこのとおり、蠅の死骸が貼りつけてあるのですよ」
 署長が帆村の手の掌のなかを覗(のぞ)きこむと、なるほど蠅の死骸だった。やはり翅や脚を□(も)がれ、そして下腹部は斜めにちょん切られていた。全く同じ、恐怖の印だ。
 ああ蠅男! 今夜玉屋総一郎に死の宣告を与えた蠅男は、それより数日前に、ドクトル鴨下の屋敷に忍びこんでいたのだ。あの半焼屍体は、蠅男の仕業ではなかろうか。いやそれに違いない。
 では蠅男は、玉屋総一郎を間違いなく襲撃するつもりに違いない。悪戯(いたずら)の脅迫ではなかったのだ。
「蠅男」とは何者であろう?


   疑問の屍体


 その奇怪なる蠅男の署名(サイン)入りの脅迫状が、こうして二通も揃ってみると、これはもはや冗談ごとではなかった。
 鴨下ドクトル邸の広間に集った捜査陣の面々も、さすがに息づまるような緊張を感じないではいられなかった。
 中でも、責任のある住吉警察署の正木署長は佩剣(はいけん)を握る手もガタガタと慄(ふる)え、まるで熱病患者のように興奮に青ざめていた。
「もし、検事さん。本官(わたし)はこれからすぐに玉屋総一郎の邸に行ってみますわ。そやないと、あの玉屋の大将は、ほんまに蠅男に殺されてしまいますがな。手おくれになったら、これは後から言訳がたちまへんさかいな」
 署長は、ドクトル邸の燃える白骨事件で、黒星一点を頂戴したのに、この上みすみすまたたどんを頂戴したのでは、折角これまで順調にいった出世を躓(つまず)かせることになるし、住吉警察署はなにをしとるのやと非難されるだろう辛さが、もう目に見えていた。彼は全力を挙げて、この正体の知れぬ殺人魔と闘う決心をしたのであった。しかし事実、彼はいくぶん焦りすぎているようであった。
「ああ、そうかね」村松検事はそういってジロリと眼玉を動かした。「じゃ、そうし給え。――」
「じゃあ、そうします。――オイ、二、三人、一緒に行くのやぜ」
 村松検事は、正木署長たちがドヤドヤと出てゆく後姿を見送りながら、帆村探偵の方に声をかけた。
「オイ君。君は、ああいうチャンバラを見物にゆく趣味はないのかネ」と、正木署長の一行についてゆかないのかを暗(あん)に尋ねた。
 帆村は、寝衣(ねまき)の上に警官のオーバーという例の異様な風体で、さっきから二枚の脅迫文をしきりと見較べていた。
「チャンバラはぜひ見たいと思うのですが、僕は頭脳(あたま)が悪いので、そういうときにまず映画台本(シナリオ)をよく読んでおくことにしているんでしてネ」
「ほう、君の手に持っているのは、映画台本なのかネ」検事はパイプを口に咥(くわ)えたまま、帆村の方に近よった。
「ええ、こいつは、暗号で書いてある映画台本ですよ」と帆村は二枚の脅迫文を指し、「どうです。第二の脅迫状には、宛名が玉屋総一郎へと書いてあって、第一の脅迫状には宛名無しというのは、これはどういう訳だと思いますか」
 検事はパイプから太い煙をプカプカとふかし、
「――それは極(きわ)めて明瞭(めいりょう)だから、書く必要がなかったんだろう」
「極めて明瞭とは?」
「それを説明するのは、ここではちょっと困るが――」と、室の隅に立たされている鴨下ドクトルの令嬢カオルと情人上原山治の方をチラリと見てから、帆村の耳許にソッと口を寄せ、「――いいかネ。この邸にはドクトルが一人で暮しているのに、宛名は書かんでも、誰に宛てたか分るじゃないか」
「ほう、すると貴下(あなた)は――」といって帆村は村松検事の顔を見上げながら、「――この脅迫状がドクトルに与えられたもので、そしてアノ――ドクトルが殺されたとお考えなんですネ」
「なんだ、君はそれくらいのことを知らなかったのか。あの燃える白骨はドクトルの身体だったぐらい、すぐに分っているよ」
「では、あれはどうします。三十日から旅行するぞというドクトルの掲示は?」
 当分旅行ニツキ訪問ヲ謝絶ス。十一月三十日、鴨下――という掲示が奇人館の表戸にかけてありながら、家の中でドクトルの屍体がプスプス燃えているというのは、どうも変なことではないか。ドクトルが若し旅行を早くうち切って家に帰ったところ、邸内に忍びこんでいた蠅男のために殺されたのであったとしたら、家に入る前に、まず旅行中の掲示を外すのが当り前だ。ところがあのとおり掲示はチャンとしていたのであるから、それから考えるとドクトルが殺されたのだと考えるのは変ではないか。
 このとき村松検事はパイプを咥(くわ)えたまま、ニヤリニヤリと人の悪そうな笑いをうかべ、
「ウフ、名探偵帆村荘六さえ、そう思っていてくれると知ったら、蠅男は後から灘(なだ)の生(き)一本かなんかを贈ってくるだろうよ」
「灘の生一本? 僕は甘党なんですがねえ」
「ホイそうだったネ。それじゃ話にもならない。――いいかね、旅行中の看板を出したのは、訪問客を邸内に入れない計略なのだ。邸内に入られて御覧。そこにドクトルの屍体があって、火炙(ひあぶ)りになろうとしていらあネ。それでは犯人のために都合が悪かろうじゃないか。アメリカでは、よくこんな手を用いる犯罪者がある」そんなことを知らなかったのか、とにかく帆村は苦笑をした。「じゃ、ドクトルはもうこの世に姿を現わさないと仰有るのですね」
「それは現わすことがあるかも知れない。君、幽霊というやつはネ、今でも――」
 帆村は愕いて、もうよく分りましたと云わんばかりに人を喰った検事の方へ両手を拡げて降参降参をした。
「じゃ検事さん。ドクトルを殺したのは誰です」
「きまっているじゃないか。蠅男が『殺すぞ』と説明書を置いていった」
「じゃあ、あの機関銃を射った奴は何者です」
「うん、どうも彼奴(あいつ)の素性(すじょう)がよく解せないんで、憂鬱(ゆううつ)なんだ。彼奴が蠅男であってくれれば、ことは簡単にきまるんだが」
「さすがの検事さんも、悲鳴をあげましたね。あの機関銃の射手と蠅男とは別ものですよ。蠅男が機関銃を持っていれば、パラパラと相手の胸もとを蜂の巣のようにして抛(ほう)って逃げます。なにも痴情の果(はて)ではあるまいし、屍体を素裸にして、ストーブの中に逆さ釣りにして燃やすなんて手数のかかることをするものですか」
「オヤ、君は、あの犯人を痴情の果だというのかい。するとドクトルの情婦かなんかが殺ったと云うんだネ。そうなると、話は俄然(がぜん)おもしろいが、まさか君も、流行のお定宗(さだしゅう)でもあるまいネ」
 帆村はそれを聞くと、胸をちょっと張っていささか得意な顔つきで、
「だが検事さん。あのドクトル邸は、ドクトル一人しかいなかったと仰有っていますが、事件前後に、若い女があの邸内にいたことを御存じですか」
「ナニ若い女が居た――若い女が居たというのかネ。それは君、本当か。――」
 村松検事は、冗談でない顔付になって、帆村の顔を穴の明くほど見つめた。


   探偵眼


 そこで帆村は、屍体発見当日、手洗所の鏡の前に、フランス製の白粉(おしろい)が滾(こぼ)れていたことなどを検事のために話して聞かせた。
「そうかい、そういう若い女が、この陰鬱(いんうつ)な邸内にいたとは愕いたネ」
 と、村松検事は、首をうなだれてやや考えていたが、やがて首をムックリ起すと、可笑(おか)しそうにクスクス笑いだした。
「なにがそんなに可笑しいのです」
「だって君、脅迫状の主は、蠅男だよ。いいかネ。蠅男であって、あくまで蠅女ではないんだよ。若い女がいてもいい。これがドクトル殺しの犯人だとは思えないさ」
「でも検事さん。さっき仰有(おっしゃ)ったように、この蠅男なる人物は、偽(いつわ)りの旅行中の看板をかけるような悧巧(りこう)な人間なんですよ。女だから蠅男でないとは云い切らぬ方がよくはありませんか。それよりも、早くそのフランス製の白粉の女を探しだして、それが蠅男ではないという証明をする方が近道ですよ」
「ウム、なるほど、なるほど」
 検事は、孫の話を聴く祖父のように、無邪気に首を大きく振って肯いた。
 そのとき、奥の方から一人の警官が、急ぎ足で入ってきた。
「検事どのに申上げます。只今、正木署長からお電話でございます。玉屋邸から懸けて参っとります」
 検事は、その声に席を立っていった。帆村は、引返そうとする警官をつかまえて、莨(たばこ)を一本所望した。警官はバットの箱ごと帆村の手に渡して、アタフタと検事の後を追っていった。
 帆村は、バットを一本ぬきだして口に咥えた。そして燐寸(マッチ)を求めてあたりを見まわしたが、このとき室の隅に、立たせられている鴨下カオルと上原山治の姿に気がついた。
「おお上原さん、燐寸をお持ちじゃありませんか」
 と、帆村はその方へ近づいていった。
 張り番の警官の方が愕いて、ポケットから燐寸を押しだして、帆村の方へさしだしたけれど、帆村はそれに気がつかないらしく、
「いや、どうもすみません」
 と、上原青年の貸して呉れた燐寸を手にとった。そしてバットに火を点けて、うまそうに煙を吸った。
「――東京は、わりあいに暖いようですね」
「――はア暖こうございましたが」
 と、上原青年は眼をパチパチさせた。
「今朝早く、鴨下さんを迎えにゆかれたんですね」
「はア――そうです」
「雨のところを、大変でしたネ」
「ええッ――そうでございます」
「あの、板橋区の長崎町も、随分開けましたネ」
「あッ、御存じですか、鴨下さんの住んでいらっしゃる辺を――」
「いや、こうしてお目に懸るまで、存じませんでしたが」
 若い男女は、愕きの目を見張って、互いに顔を見合わせた。
「きょうの列車は、燕(つばめ)号ですネ。だいぶん空(す)いていましたネ。お嬢さんは、よく睡れましたか」
 これを聞いていたカオルは、真青になった。
「ああ、もうよして下さい。気持が悪くなりますわ。探偵なんて、なんて厭(いや)な商売でしょう。まるであたしたち、監視されていたようですわ」
 帆村は、笑いかけた顔を、急に生真面目な顔に訂正しながら、
「やあ、お気にさわったらお許し下さい。もうお天気の話はよします」
 といって、指先に挟(はさ)んだ莨(たばこ)をマジマジと見るのであった。
 そこへ電話口へ出ていた村松検事が帰ってきた。あとに警察の保姆(ほぼ)がついている。
「おう、帆村君、正木署長の電話によると、いま玉屋総一郎の邸に、怪しき男が現われて邸内をウロウロしているそうだよ。いよいよチャンバラが始まるかもしれないということだ。これから一緒に行ってみようじゃないか」
「ほう、また怪しき男ですか。どうも怪しき男が多すぎますね」
 カオルの連れの上原山治が、キラリと眼を動かした。
「多いぶんには構わない。足りないよりはいいだろう。――それからお嬢さんに上原君でしたかな。二階に落着いた部屋があるから、そこでゆっくり休んで下さい。この婦人が世話をしますから、どうぞ」
 検事が頤(あご)をしゃくると、保姆は人慣れた様子で二人に挨拶し、二階へ案内する旨(むね)を申述べた。――二人は観念したものと見え、また互いの眼を見合わせたまま、保姆の後について、部屋を出ていった。
「さあ、行こう。――が、君の服装は困ったネ」と検事が顔をしかめた。
「いや、服ならあるんです。ソロソロ閑(ひま)になりましたから、一つ着かえますかな」
 そういって帆村は、そこに張り番をしていた警官に会釈すると、警官は椅子の上に置いてあった風呂敷包みをとって差出した。風呂敷を解くと、宿屋に残してあった洋服がそっくり入っていた。
「呆(あき)れたものだ。早く着換えとけばいいのに――」
「そうはゆきませんよ。事件の方が大切ですからネ。洋服なんか、必ず着換える時機が来るものですよ」
 そういいながら、帆村は借りていた警官のオーバーを脱ぎ、病院の白い病衣を脱ぎすてた。
 警官は帆村のために、襯衣(シャツ)やズボンをとってやりながら、検事には遠慮がちに、帆村に話しかけた。
「――もし帆村はん。ちょっと勉強になりますさかい、教えていただけませんか」
「ええ、何のことです」
「そら、さっきの二人に帆村はんが云やはりましたやろ、東京は暖いとか、雨が降っていたやろとか、燕で来たやろ、娘はんの家は板橋区の何処やろとかナ。二人とも、顔が青なってしもうて、えろう吃驚(びっくり)しとりましたナ、痛快でやしたなア。あの透視術を教えとくんなはれ、勉強になりますさかい」


   藍甕転覆(あいがめてんぷく)事件


 帆村はそれを聞くと面映(おもは)ゆげにニッと笑い、
「あああれですか。あれは透視術でもなんでもないのですよ。聞くだけ、貴下が腹を立てるようなものだけれど――」
「ナニ帆村荘六の透視術?」と早耳の検事はその言葉を聞き咎めて、「――おい君、善良な警官を悪くしちゃ困るよ」
「いや話を聞いておくだけなら、悪かなりませんよ」と帆村は弁解して、「――もちろん種があるんです。これは有名なシャーロック・ホームズ探偵がときに用いたと同じような手なんです。――さっき青年上原君に燐寸を借りたでしょう。あの燐寸は、燕号の食堂で出している燐寸です。まだ一ぱい軸木がつまっていました。夜には大阪着ですから、ここへ二人が現われた時間が十時頃で、燕号で来たことは皆ピッタリ符合します。なんでもないことですよ」
「ははア燐寸と鉄道時間表の常識とが種だっか」と警官は大真面目に感心して、「すると東京が暖いとか、雨が降っていたというのは――」
「あれは、上原君なんかの靴を見たんです。かなりに泥にまみれていました。ご承知のように、わが大阪は上天気です。しからば、あの靴の泥は東京で附着したのに違いないでしょう。それも雨です。もし雪だったら、ああは念入りに附着しませんよ。今年は十一月からずっと寒い。東京は何度も雪が降った。それだのに昨日は雨が降ったというのですから、これは暖かったに違いないでしょう」
「はあ、そういうところから分りよったんやな、なるほど種は種やが、鋭い観察だすな。それはそれでええとして、青年の方が令嬢を朝早く迎えに行ったいうんは?」
「それは、上原君の靴だけではなく、カオルさんの靴にも同等程度の泥がついていたからです。つまり二人は同じ程度の泥濘(ぬかるみ)を歩いたことになります。それから燕号は、東京駅を午前九時に発車するのですから、朝早く迎えに行ったんでしょう」
「そうなりまっか。ちょっと腑に落ちまへんな。もし二人が駅で待合わしたんやってもよろしいやないか。そして、令嬢も上原も郊外に住んで居ったら、靴の泥も、同じように附着しよりますがな」
 帆村は、ここだという風に大きく肯き、
「ところがですネ、もっと大事な観察があるのです。二人の靴についている泥が、どっちも同質なんです」
「同質の泥というと――貴下(あんた)さんは、地質にも明るいのやな」
「ナニそれほどでもないが、二人の靴の泥を後でよく見てごらんなさい、どっちも泥が乾いているのに赤土らしくならないで、非常に青味がかっていましょう。染めたように真青です。だから、どっちも同質の土です。二人は同じ場所を歩いたと考えていいでしょう」
「へえーッ、さよか。そんなに青い泥がついとりましたか、気がつきまへなんだ。それはええとして、最後に、家が板橋区のどこやらとズバリと云うてだしたのは、これはまたどういう訳だんネ。令嬢を前から知っとってだすのか」
「いえ、さっきこの家で始めて会ったばかりです。だがチャンと分るのです。あのような青いインキで染めたような泥は、板橋区の長崎町の外(ほか)にないんです。もっと愕かすつもりなら、通った通りの丁目まで云いあてられるんですよ」
「へえ、驚きましたな。しかしまた、あんな青い泥がその長崎町だけにあって、外の土地には無いというのは、ちと特殊すぎますな。長崎町にあったら、その隣り町にもありまっしゃろ。そもそも地質ちゅうもんは――」
「ああ、あなたの地質の造詣(ぞうけい)の深いのには敬意を表しますが――」
「あれ、まだ地質学について何も喋っていまへんがナ」
「いや喋らんでも僕にはよく分っています。それにこの問題は地質学の力を借りんでもいいのです。つまりちょっと待って下さい、あれは地質上、あんなに青いのではないのですからネ」
「ほほン、地質で青いのかとおもいましたのに、地質以外の性質で青いちゅうのは信じられまへんな」
「いや信じられますよ。あなたはきょう東京から来た東京タイムスの朝刊をお読みになりましたか。読まない、そうでしょう。新聞を見るとあの長崎町二丁目七番地先に今掘りかえしていてたいへん道悪のところがあります。その地先で昨夜、極東染料会社の移転でもって、アニリン染料の真青な液が一ぱい大樽(おおだる)に入っているのを積んだトラックがハンドルを道悪に取られ、呀っという間に太い電柱にぶつかって電柱は折れ、トラックは転覆(てんぷく)し、附近はたちまち停電の真暗やみになった。そしてあたり一杯に、その染料が流れだして、泥濘(ぬかるみ)が真青になったと出ています。何もしらないで、現場へ飛びだした弥次馬(やじうま)たちが、後刻自宅へ引取ってみると、誰の身体も下半分が真青に染っていて、洗っても洗っても取れないというので、会社に向け珍な損害賠償を請求しようという二重の騒ぎになったとか、面白可笑しく記事が出ているんです。カオル嬢と上原君の泥靴の青い色からして、二人が今朝そこの泥濘(ぬかるみ)を歩いたに違いないという推理を立てたのです」
「な、な、なるほど、なるほど、さよか。特殊も特殊、まるで軽業(かるわざ)のような推理だすな」
「全くそのとおりです。運よく、特殊事情をうまく捉えただけのことです。しかしこれは笑いごとじゃないのです。あなたがたは官権というもので捜査なさるからたいへん楽ですが、われわれ私立探偵となると、表からも乗り込めず、万事小さくなって、貧弱な材料に頼って探偵をしなきゃならない辛さがあるんです。そこであなたがたよりは、小さいことも気にしなきゃならんのです。目につくものなら、何なりと逃(の)がさんというのが、私立探偵の生命線なんでして――」
「もう止せ、帆村君。手品の種明かしの後でながなが演説までされちゃ、折角(せっかく)保護している玉屋総一郎氏が蠅男の餌食になってしまうよ。そうなれば、今度は、こっちの生命線の問題だて」
 そういって村松検事は、時計を見ながら、帆村の肩を指で突いた。
 しかし、警官は、何に感心したものか、いつまでも、「なるほどなアなるほどなア」と独(ひと)り言(ごと)をいいながら、二人の出てゆくのにも気がつかない風だった。


   生きている主人


 夜はいたく更けていた。
 仰ぐと、寒天には一杯の星がキラキラ輝いていた。晴れ亙(わた)った暗黒の夜――
 ほとんど行人の姿もない大通りを、村松検事と帆村荘六の乗った警察自動車は、弾丸のように疾駆していった。
 天下茶屋(てんかぢゃや)三丁目は、スピードの上では、まるで隣家も同様であった。
 玉屋邸の前で、二人は車を下りた。
 扉を開けてくれたのを見ると、それは、帆村もかねて顔見知りの大川巡査部長だった。彼は直立不動の姿勢をして、
「――私がもっぱら屋外警戒の指揮に当っとります」
 と、検事に報告した。
「それは御苦労。すっかり邸宅を取巻いているのかネ」
「へえ、それはもう完全やと申上げたいくらいだす。塀外(へいそと)、門内、邸宅の周囲と、都合三重に取巻いていますさかい、これこそ本当(ほんま)の蟻の匍いでる隙間もない――というやつでござります」
「たいへんな警戒ぶりだネ」
「へえ、こっちも意地だす。こんど蠅男にやられてしもたら、それこそ警察の威信地に墜つだす。完全包囲をやらんことには、良かれ悪しかれ、どっちゃにしても寝覚(ねざめ)がわるおます」
 この巨大な体躯の持ち主は、頤紐(あごひも)をかけた面にマスクもつけず、彼の大きな団子鼻は寒気のために苺(いちご)のように赤かった。なににしても、たいへんな頑張り方だった。
 村松と帆村は、監視隊の間を縫って警戒線を一巡した。なるほど、映画に出てくる国定忠治の捕物を思わせるような大規模のものだった。警官の吐く息が夜目にも白く見えた。
 一巡後、二人は、厳重な門を開いて貰って、玄関に入った。
 さすがに屋内は、鎮まりかえっていた。でも座敷に入ると、襖(ふすま)の蔭や階段の下に、警官が木像のように立っていた。そして検事の近づくのを見ると、一々鄭重な敬礼をした。
「ああ検事さん検事さん。――」
 警戒総指揮官の正木署長が、向うからやって来た。彼も頤紐をかけ、足には靴下を脱いで、その代りに古足袋(たび)を履いていた。それは捕物の際、畳の上で滑らないためらしかった。
「おお正木君か。――君、蠅男というのは何十人ぐらいで、隊をなしてくるのかネ」
「隊をなして? ――ハッハッハッ。検事さんのお口には敵いまへん。ともかくも屋内のどこからどこまで、私のとこで完全に指揮がとれるようになっとります」
「ウム、完全完全の看板流行(ばやり)だわい」
「え、何でございます」
「いや、革の袋からも水が漏るというてネ、油断はできないよ。――主人公の居るところは何処かネ」
「ああ、それはこちらだす。どうぞ、こちらへ――」
 正木署長は、検事を廊下づたいに玉屋総一郎の書斎の前に連れていった。そこの扉の前には、鬼を欺(あざむ)くような強力(ごうりき)の警官が三人も立っていた。
 検事は扉(ドア)の方によって、ハンドルを握って廻してみた。
「ああ、あきまへん」と警官の一人がいった。「御主人が中に入って、自分で鍵をかけていてだんネ」
「中から鍵を――すると警官も中へは入れないのかネ」
「警官まで、蠅男の一味やないか思うとるようですなア」
「ちょっと会ってみたいが――」
「そんなら、扉を叩いてみまっさ」
 警官が、なんだか合図らしい叩き様で、扉をドンドンドン、ドンドンと叩いた。そして主人の名を大声で呼んでいると、やがて扉の向うで微かながら、これに応える総一郎の喚(わめ)き声(ごえ)があった。
「――さっき断っときましたやろ。もう叩いたりせんといておくれやす。そのたんびに心臓がワクワクして、蠅男にやられるよりも前に心臓麻痺になりますがな」
 主人公は、心細いことを云って、脅えきっていた。正木署長は検事に発声をうながしたが、村松はかぶりを振ってもうその用のないことを示した。で、署長が代って、
「――私は署長の正木だすがなア、なにも変ったことはあらしまへんか」
 すると中からは、総一郎の元気な声で、
「ああ署長さんでっか。えろう失礼しましたな。今のところ、何も変りはあらしまへん。しかし署長さん。殺人予告の二十四時間目というと午後十二時やさかい、もうあと三十分ほどだすなア」
「そう――ちょっと待ちなはれ。ウム、今は十一時三十五分やから――ええ御主人、もうあと二十五分の辛抱だす」
「あと二十五分でも、危いさかい、すぐには警戒を解いて貰うたらあきまへんぜ。私もこの室から、朝まで出てゆかんつもりや、よろしまっしゃろな」
「承知しました。――すると朝まで、御主人はどうしてはります」
「十二時すぎたら、此処に用意してあるベッドにもぐりこんで朝方まで睡りますわ」
「さよか。そんならお大事に、なにかあったら、すぐあの信号の紐を引張るのだっせ」
「わかってます。――そんならもう扉を叩かんようにお頼み申しまっせ。蠅男が来たのか思うて、吃驚(びっくり)しますがな」といって総一郎は言葉を切ったが、また慌てて声をついで、「――それからあのウ、池谷与之助(いけたによのすけ)は帰って来ましたやろか。そこにいまへんか」
「ああ池谷はんだっか。さあ――」と署長は後をふりかえって、警官の返事を求めたあとで、「どこやら行ってしもうたそうや。うちに居らしまへんぜ」
「ああそうでっか。おおきに。――そんならこれで喋るのんはお仕舞いにしまっせ」
 帆村は、さっきからしきりと両人の扉ごしの会話に耳を傾けていたが、このとき首を左右に振って、
「――喋るのはお仕舞いにしまっせ、か。これが永遠の喋り仕舞いとなるという意味かしら。ホイこれは良くない卦(け)だて」
 といって、大きな唇をグッとへの字に曲げた。


   天井裏の怪音?


「あれはなんだネ、池谷与之助てえのは」
 と、検事が署長にたずねた。
「その池谷与之助ですがな。さっき怪しい奴が居るいうてお知らせしましたのんは。夜になって、この邸にやってきよりましたが、主人の室へズカズカ入ったり、令嬢糸子さんを隅へ引張って耳のところで囁(ささや)いたり、そうかと思うと、会社の傭人を集めてコソコソと話をしているちゅう挙動不審の男だすがな」
「フーム、何者だネ、彼は」
「主治医や云うてます。なんでも宝塚に医院を開いとる新療法の医者やいうことだす。さっき邸を出てゆっきよったが、どうも好かん面(かお)や」
 と、署長は、白面(はくめん)無髯(むぜん)に、金縁眼鏡をかけているというだけの、至って特徴のない好男子の池谷与之助の顔に心の中で唾をはいていた。
「なんだ、怪しいというのは、たったそれだけのことかネ」
「いいえいな、まだまだ怪しいことがおますわ。さっきもナ、――」
 と云いかけた途端であった。
 突然、二階へ通ずる奥の階段をドンドンドンと荒々しく踏みならして駈け下りてくる者があった。それに続いてガラガラガラッとなにか物の壊れる音!
 男女いずれとも分らぬ魂消(たまき)るような悲鳴が、その後に鋭く起った。
 素破(すわ)、なにごとか、事件が起ったらしい。
「や、やられたッ。助けてえ――死んでしまうがなア――」
 と、これは紛(まぎ)れもない男の声。
 警官たちはハッと顔色をかえた。そして反射的に、その叫び声のする方へ駈けだした。
「こらこら、神妙にせんか。――」
 騒動の階段の下から、襟がみを引捕えられて、猫のように吊しあげられたのは一人の男と女。
「どうしたどうした」
「どちらが蠅男や」
「蠅女も居るがナ」
「あまりパッとせん蠅男やな」
 そんな囁きが、周囲から洩れた。
 正木署長は前へ進み出で、
「コラ、お前は見たような顔やな」
 と男の方にいった。
「へえ、私は怪しい者ではござりまへん。会社の庶務にいます山ノ井という者で、今日社長の命令で手伝いに参りましたわけで……」
「それでどうしたというのや。殺されるとか死んでしまうと喚きよったは――」
「いや、それがモシ、私が階段の下に居りますと上でドシドシとえらい跫音だす。ひょっと上を見る途端に、なにやら白いものがスーッと飛んできて、この眉間にあたったかと思うとバッサリ!」
「なにがバッサリや。上から飛んで来たというのは、そらそこに滅茶滅茶に壊れとる金魚鉢やないか。なにを慌てているねん。二階から転げ落ちてきたのやないか」
「ああ金魚鉢? ああさよか。――背中でピリピリするところがおますが、これは金魚が入ってピチピチ跳ねとるのやな」
 署長以下、なんのことだと、気の弱い社員のズブ濡れ姿に朗らかな笑声を送った。
「――女の方は誰や。コラ、こっち向いて――」
 と、署長は、鳩が豆を喰ったように眼をパチクリしている四十がらみの女に声をかけた。
「へへ、わ、わたくしはお松云いまして令嬢(いと)はんのお世話をして居りますものでございます」
「ウム、お松か。――なんでお前は金魚鉢を二階から落としたんや。人騒がせな奴じゃ」
「金魚鉢をわざと落としたわけやおまへん。走って居る拍子に、つい身体が障りましてん」
「なんでそんなに夢中で走っとったんや」
「それはアノ――蠅男が、ゴソゴソ匍(は)ってゆく音を聞きましたものやから、吃驚(びっくり)して走りだしましたので――」
「ナニ蠅男? 蠅男の匍うていっきょる音を聞いたいうのんか。ええオイ、それは本当か――」
 署長は冗談だと思いながらも、ちょっと不安な顔をした。なにしろ蠅男防禦陣を敷いている真最中のことであったから。
「本当(ほんま)でっせ。たしかに蠅男に違いあらへん。ゴソゴソゴソと、重いものを引きずるような音を出して、二階の廊下の下を匍うとりました」
「二階の廊下の下を――」
 と署長が天井を見上げると、周囲の警官たちも、こわごわ同じように天井を見上げながら、頸を亀の子のように縮めた。
「鼠とちがうか。蛇が天井に巣をしとるのやないか。オイお松、ハッキリ返事をせい」
 署長はすこし狼狽(ろうばい)の色を現わした。
「ちがいますがな、ちがいますがな。鼠があんな大きな音をたてますかいな。――蛇? 蛇が、こんな新築(しんだち)に入ってくるものでっしゃろか。ああ気持がわるい」
 署長は、しばらく無言で、ただ獣のように低く唸っていた。が、急に腕時計を出してみて、
「ウム、いま十一時五十五分だ。――」
 と叫んで、周囲をグルッと見廻したが、その人垣の外に、村松検事が皮肉たっぷりの笑みを浮べて立っているのを見つけると、
「ああ、検事さん。いまのお松の話お聞きでしたか。蠅男がこの厳重な警戒線を突破して天井裏を匍(は)うというのは、本当(ほんま)のことやと思われまへんが、時刻も時刻だすよって、一応主人公の安否を聞いてみたら思いますけれど、どないなもんでっしゃろ」
 検事はパイプを口から離して、静かに云った。
「聞いてみない方より、聞いてみた方がいいだろうネ。しかしこんなくだらん騒ぎに、こんなに皆が一つ処に固まってしまうのじゃあ、完全な警戒網(もう)でございとは、ちょっと云えないと思うが、どうだ」
「おお」と署長は始めて気がついたらしく、「これ皆、一体どうしたんや。よく注意しておいたのに、こう集って来たらあかへんがな。――ああ、あの部屋に間違いはあらへんやろな」
 署長は慌ててそこを飛びだし、主人公の籠城している居間の方へ駈けだした。
「ウム、よかった。――」
 署長は居間の前に、警官が一人立っているのを見て、ホッと安心した。
「オイ異状はないか。ずっとお前は、ここに頑張っていたんやろな」
「はア、さっきガチャンのときに、ちょっと動きましたが、すぐ引返して来て、此処に立ち続けて居ります」
 と東京弁のその警官が応えた。
「なんや、やっぱり動いたのか」
「はア、ほんの一寸(ちょっと)です。一分か二分です」
「一分でも二分でも、そらあかんがな」
 といったが、他の二人はどこへ行ったか居なかった。
「さあ、ちょっと中へ合図をしてみい」
 警官は心得て、ドンドンドン、ドンドンと合図どおりに扉をうった。そしてそれをくりかえした。
「――御主人! 玉屋さーん」
 署長は扉に口をあてんばかりにして呶鳴った。しかし内部からは、なんの応答も聞えなかった。
「こら怪ったいなことや。もっとドンドン叩いてみてくれ」
 ドンドンドンと、扉はやけにうち叩かれた。主人の名を呼ぶ署長の声はだんだん疳高(かんだか)くなり、それと共に顔色が青くなっていった。
「――丁度午後十二時や。こらどうしたんやろか」
 そのとき広い廊下の向うの隅にある棕櫚(しゅろ)の鉢植の蔭からヌッと姿を現わした者があった。


   不思議なる惨劇(さんげき)


 死と生とを決める刻限は、既に過ぎた。
 死の宣告状をうけとったこの邸の主人玉屋総一郎は、自ら引籠った書斎のなかで、一体なにをしているのであろうか。その安否を気づかう警官隊が、入口の扉を破れるように叩いて総一郎を呼んでいるのに、彼は死んだのか生きているのか、中からは何の応答(いらえ)もない。扉の前に集る人々のどの顔にも、今やアリアリと不安の色が浮んだ。
 そのとき、この扉の向い、丁度棕櫚(しゅろ)の鉢植の置かれている陰から、ヌーッと現われたる人物……それは外でもない、主人総一郎の愛娘糸子の楚々たる姿だった。ところがこの糸子の顔色はどうしたものか真青であった。
「どうしたんです、お嬢さん」
 と、これを逸早(いちはや)く見つけた帆村探偵が声をかけた。この声に、彼女の体は急にフラフラとなると、その場に仆れかけた。帆村は素早くそれを抱きとめた。
 扉のまえでは、村松検事と正木署長の指揮によって、今や大勢の警官が扉をうち壊すためにドーンドーンと躰を扉にうちあてている。さしもの厳重な錠前も、その力には打ちかつことも出来ないと見えて、一回ごとに扉はガタガタとなっていく。そして遂に最後の一撃で、扉は大きな音をたてて、室内に転がった。
 警官隊はどッと室内に躍りこんだ。つづいて村松検事と正木署長が入っていった。
「おお、これは――」
「うむ、これはえらいこっちゃ」
 一同は躍りこんだときの激しい勢いもどこへやら、云いあわせたように、その場に立ち竦(すく)んだ。なるほどそれも無理なきことであった。なんということだ。今の今まで一生懸命に呼びかけていた主人総一郎が、書斎の天井からブラ下って死んでいるのであった。
 すこし詳しく云えば、和服姿の総一郎が、天井に取付けられた大きな電灯の金具のところから一本の綱(つな)によって、頸部(けいぶ)を締められてブラ下っているのであった。
 他殺か、自殺か?
 すると、正木署長が叫んだ。
「おお血や、血や」
「ナニ血だって? 縊死(いし)に出血は変だネ」
 と村松検事は屍体を見上げた。そのとき彼は愕きの声をあげた。
「うむ、頭だ頭だ。後頭部に穴が明いていて、そこから出血しているようだ」
「なんですって」
 人々は検事の指(ゆびさ)す方を見た。なるほど後頭部に傷口が見える。
「オイ誰か踏台を持ってこい」検事が叫んだ。
 帆村探偵に抱かれていた糸子は、間もなく気がついた。そのとき彼女は低い声でこんなことを云った。
「――貴郎(あなた)、なんで書斎へ入ってやったン、ええ?」
「ええッ、書斎へ――何時、誰が――」
 意外な問に帆村がそれを聞きかえすと、糸子は呀っと声をあげて帆村の顔を見た。そして非常に愕きの色を現わして、帆村の身体をつきのけた。
「――私(うち)、何も云えしまへん」
 そういったなり糸子は沈黙してしまった。いくら帆村が尋ねても、彼女は応えようとしなかった。そこへ奥女中のお松が駈けつけてきて、帆村にかわって糸子を劬(いたわ)った。
 警官たちに遅れていた帆村は、そこで始めて惨劇の演ぜられた室内に入ることができた。
「ほう、これはどうもひどい。――」
 彼とてもこの場の慄然(りつぜん)たる光景に、思わず声をあげた。そのとき検事と署長とは、踏台の上に抱き合うようにして乗っていた。そしてしきりに総一郎の屍体を覗きこんでいた。
「――正木君。これを見給え、頭部の出血の個所は、なにか鋭い錐(きり)のようなものを突込んで出来たんだよ。しかも一旦突込んだ兇器を、後で抜いた形跡が見える。ちょっと珍らしい殺人法だネ」
「そうだすな、検事さん。兇器を抜いてゆくというのは実に落ついたやり方だすな、それにしても余程力の強い人間やないと、こうは抜けまへんな」
「うん、とにかくこれは尋常な殺人法ではない」
 検事と署長は、踏台の上で顔を見合わせた。
「ねえ、検事さん。一体この被害者は、頸を締められたのが先だっしゃろか、それとも鋭器を突込んだ方が先だっしゃろか」
「それは正木君、もちろん鋭器による刺殺の方が先だよ。何故って、まず出血の量が多いことを見ても、これは頸部を締めない先の傷だということが分るし、それから――」
 といって、検事は屍体の頸の後に乱れている血痕を指し、
「――綱の下にある血痕がこんな遠くまでついているし、しかも血痕の上に綱の当った跡がついているところを見ても、綱は後から頸部に懸けたことになる。だからこれは――」
 検事はそこで云いかけた言葉を切って、ギロリと目を光らせた。
「何だす、検事さん。何かおましたか」
「うむ、正木君。さっきからどうも変なことがあるんだ。血痕の上に触った綱に二種あるんだ。つまり綱の跡にしても、これとこれとは違っている。だから二種類の綱を使ったことになるんだが、現在屍体の頸に懸っているのは一本きりだ」
 そういって検事は不思議そうに室内を見廻した。
 血によって印刷された綱の跡――このような一見つまらないものを見遁(の)がさなかったのは、さすがに名検事の誉(ほまれ)高き村松氏であった。それこそ恐るべき「蠅男」の正体を語る一つの重大な鍵であったとは、後になって思いだされたことだった。


   糸子の質問


 室内を見廻している村松検事は、そこに帆村の姿を認めたので声をかけた。帆村はしきりに天井を見上げているところであった。
「なんです、検事さん」
「うむ帆村君、ちょっとここへ上って見てくれたまえ。ここに君が面白がるものがあるんだ」
 といって、村松検事は宙に下っている総一郎の頸のあたりを指した。
 帆村は身も軽々と、踏台の上にとびのった。
「ああこれですか。なるほど血の上についている綱の痕のようなものが二種類見えますネ」
 と帆村は検事の説明に同意した。
「ねえ、分るだろう。こっちに見える模様の細かい方が、今屍体を吊りあげている綱の痕だ。もう一方の模様の荒いハッキリと網目の見える方の綱が室内のどこにも見当らないんだ」

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:255 KB

担当:undef