蠅男
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著者名:海野十三 

 帆村は全身の血を脳髄のなかに送って、死線を越えようと努力をつづけていた。
「こ、殺される前に――」
 と、帆村はふりしぼるような声をあげた。
「しッ、静かにしろ」
 と、蠅男は依然として砂のなかから首だけだして眼を剥(む)いた。
「こ、殺される前に、一つだけ聞きたいことがある。く、頸をすこし、ゆ、ゆるめて……」
 それを聞くと、蠅男はなに思ったか、お竜の方にそれとサインを送った。その効目(ききめ)か、お竜の指の力は、申訳にすこしゆるんだようだ。
「早く云え」
「うむ」と帆村は喘(あえ)ぎ喘(あえ)ぎ「貴様は、なぜあの三人を殺したのだ。鴨下ドクトルと玉屋と塩田先生と、この三人を殺すには定(さだ)めし理由があったろう。それを教えてくれ」
「そのことか」と蠅男はたちまち見るも残忍な面になって、
「冥土(めいど)の土産にそれを聞かせてやろうか。鴨下というエセ学者は、五体揃った俺の身体を生れもつかぬこんな姿にしてしまった。自分のために、他人の人生を全然考えないひどい野郎だ。それを殺さずにゃいられるものか。玉屋のやつは余計なおせっかいをしやがったため、俺は永い間牢獄につながれるし、死刑まで喰った。俺が南洋で西山を殺したのは、金に目がくらんだためばかりではなかった。彼奴(あいつ)は、俺に勘弁ならない侮辱を与えたんだ。その復讐をしてやったのだ。塩田検事は、俺を死刑にしても慊(あきた)らぬ奴だと、ひどい論告を下しやがった。それがために、俺は無期の望みさえ取上げられてしまったのだ。どうだ、お前と俺とが入れかわっていたと考えてみろ。お前もきっと俺のようにしたに違いないんだ」
 なんという恐ろしい告白だろう。一応条理はたっているつもりで、悪いと思うどころか平然と殺人をやって悔いないとは、正に鬼畜の類であった。
「まだ、やるのか」
「まだまだやっつける奴がいる。さしあたりお前をやっつけてやる」
「いつも脅迫状につけてあった、あの気味のわるい手足を□がれた蠅の死骸は?」
「分っているじゃないか。手足のない俺のサインだ」
 帆村は、すっかり観念したように装いながら、実はしきりと時間の経過するのを待っていたのだ。あまり長くなると、きっと連れの楢平が怪しんでこの砂風呂に入ってくるだろうから、そのとき騒げば助かるかもしれないと思っていたのだった。
「あの巧妙な手や足はずいぶん巧妙にできているが、一体何と何との働きをするんだ」
「あれはこうだ。まず右手の腕には……」
 と、蠅男はついいい気になって、自分の巧妙な義手の話をはじめた。それを帆村は、さっきから待っていたのだ。突然彼は、
「えいッ」
 と叫ぶなり、満身の力をこめて、砂の上にガバとうつ伏せになった。
「ああッ」
 とお竜が叫んだときは、もうすでに遅かった。帆村の力にひかれて、お竜は強く前の方にグッとひかれ、ヨロヨロとなったところを帆村はすかさず、さっと身をうしろに開いたから、大きなお竜の身体は見事に背負い投げきまって、もんどりうって前に叩きつけられ、したたか腰骨を痛めた。それも道理であった。帆村はお竜の身体が、蠅男の首の真上に落ちかかるよう、うまい狙いをつけて、一石二鳥の利を図ったのだ。
「あッ、危いッ」
 と蠅男が悲鳴をあげたが、既にもう遅かった。蠅男の首はズブリと砂の中にもぐりこんだ。
 素晴らしい転機であった。
 帆村の沈勇は、よく最後の好機をとらえることに成功し、辛(かろ)うじて死線を越えた。
 帆村の身体は、いまや軽々と自由になった。
 砂の中にもぐりこんだ蠅男の苦しそうな呻き声。だが不死身の蠅男のことであるから、そう簡単に、砂の中で往生するかどうか。
 蠅男は、まるで怒った牡牛のように暴れだし、あたりに砂をピシャンピシャンとはねとばした。この怪魔に対し果して帆村に勝算ありや!


   輝(かがや)かしい凱歌(がいか)


 お竜が腰をおさえ、歯をくいしばっているのは、帆村にとってたいへん幸いだった。
 帆村は素速く蠅男の背後にまわると、湯交(まじ)りの砂の中にもがく蠅男を、うしろからグッと抱きあげた。
「ううぬ」
 と蠅男は満身の力をこめて、抱えられまいと蝦(えび)のようにピンピン跳ねまわった。これを放してはたいへんである。帆村は両腕も千切れよとばかり、不気味な肉塊を抱きしめた。
 蠅男は蛇のように首を曲げて、帆村の喉首に噛みつこうとする。
「もうこっちのものだ。じたばたするだけ損だぞ」
 この言葉が蠅男の耳に入らばこそ、怪魔はなおも激しく抵抗する。さすがの帆村も、その大力に抗しかねて、押され気味となった。
 だが帆村にはまだ、自信があった。
 彼は蠅男を抱きしめたまま、悠々と砂風呂の出入口から外へ出た。そして足早につつーッと走ってプールのある広間に駆けこんだ。
「皆さん、蠅男をつかまえましたッ」
 というなり帆村はそのまま、ザンブリと熱湯満々たるプールの中にとびこんだ。
「うわーッ」
 と、これは蠅男の悲鳴だ。
 帆村の作戦は大成功をおさめた。義足義手をつけては天下無敵の蠅男も、帆村に抱きしめられて暴れるたびに、ズブリズブリと水雑炊ならぬ湯雑炊をくらってはたまらない。二度、三度とそれをくりかえしているうちに、蠅男は、だんだんと温和しくなっていった。
「さあ皆さん。住吉署に電話をかけて下さい。署長さんに、帆村がここで蠅男をおさえていると伝えて下さい」
 この場の唐突(だしぬけ)な乱闘に、プールから飛びあがって呆然としていた入浴客は、ここに始めて、目の前の活劇が、いま全市を震駭(しんがい)させている稀代の怪魔蠅男の捕物であったと知って、吾れにかえって大騒ぎをはじめた。
 帆村が、この何処に置きようもない重い肉塊を抱えて、腕がぬけそうに疲れてきたときに、やっと正木署長をはじめ、警官の一隊がドヤドヤと駆けこんでくれた。
「どうした帆村君。いよいよ蠅男を捕えよったかッ」
「はア、ここに抱いて居ります」
「なにッ」と署長は目をみはり、「おおそれが蠅男か。想像していたよりも物凄いやっちゃア。待っとれ。いま皆におさえさせる。そオれ、掛れッ」
 署長がサッと手をあげると、警官たちは靴のままプールの中にザブンと飛びこんできた。
「オヤ、――」
 と近づいた警官が愕きの声をあげた。
「蠅男は死んどりまっせ」
「ええッ、――」
「こっちへ取りまっさかい、帆村はん、手を放してもよろしまっせ」
「そオれ、――」
 警官隊の手にとって抱きとられた怪人蠅男の肉塊は、蒟蒻(こんにゃく)のようにグニャリとしていた。そして口から頤にかけて、赤い糸のようなものがスーッと跡をひいていた。血だ、血だ!
「舌を噛みよったな。ええ覚悟や」
 と、いつの間に来ていたのか、正木署長が沈痛な声でいった。
「ああ、とうとう蠅男は死にましたか」
 そういった帆村は、はりつめた気が一度にゆるむのを感じた。
「おッ、危い。どうしなはった、帆村はん」
 鬼神のように猛(たけ)き帆村だったけれど、蠅男の自殺を目のあたりに見た途端(とたん)、激しい衝動のために、遂に意識をうしなって、警官たちの腕の中に仆れてしまった。
「無理もない。蠅男と、徹頭徹尾闘ったのやからなア」
 そういって正木署長は、ソッと帆村の腕を握って脈をさぐった。
     *
 もちろん帆村は、間もなく意識をとりかえした。そしてあとは元気に、蠅男事件の後始末に力を添えたのであった。
 その後になって、当時までまだ誰にも知られなかった無慚(むざん)な一つの事件が明らかにされた。それは事件の途中から行方不明になっていた池谷医師の屍体が、彼(か)の控家の天井裏から発見されたことであった。彼は蠅男のために、そこに手足の自由を奪われたまま監禁されていたのだった。そして誰も食料を搬(はこ)ぶ者がなかったままに、とうとう餓死してしまったものである。これも蠅男の残忍性を語る一つの材料となった。
 池谷医師は、蠅男のような悪人ではなかった。ただ彼は蠅男から、一つの弱点を握られていたのであった。それをいうと、またくどくなるが、要するに蠅男の情婦お竜と昔関係のあった仲で、お竜は彼のために捨てられた女だったといえば、あとは誰にもそれと察しがつくであろう。彼はそんなことで、心ならずもある期間は蠅男やお竜と行動を共にしていたのである。
 それはその年も押しつまって、きょう一日の年の暮だというその日の朝、大阪駅頭に珍しく多数の警察官を交(まじ)えた見送りをうけつつ、東京行の超特急列車「かもめ」号の二等室で出発しようとする一組の新夫婦があった。
「では、お大事に」
「新家庭は、いよいよ新しい年とともに始まるというわけだすな」
「まあ近いうち、お二人揃って大阪へ里帰りするのでっせ」
 などと、朗らかな餞(はなむ)けの言葉はあとからあとへと新郎新婦の上に抛(な)げられる。
 やがて、列車は出るらしく、ホームのベルはけたたましく鳴りだした。
 そのとき人の垣をわけて、車窓にとびついた一人の紳士があった。これは村松検事だった。
「ああ、間にあってよかった。君たちの結婚を祝おうと思って、大きなデコレーションケーキを注文して置いたのが、ばかに手間どってネ。これなんだよ、やっと出来た」
 と、車窓にさしだしたのは、大きな硝子(ガラス)器に入った見事なケーキだった。
「よく見てくれ、これは君たちの好きな大阪名物の岩おこしで組みたててあるんだが、一かけずつ製造所がちがっていて、味もちがっているのだ。これを二人で仲よく食べながら、たまにゃ大阪のことも思いだしてくれたまえ」
 若き夫婦は、感激のいろを現わして、この素朴ながら念の入った贈物を感謝した。
 ベルの音がハタと止った。いよいよ発車である。見送りの人たちは、いいあわせたように両手をあげて、二人の新しい生活の門出に万歳をとなえた。
「帆村探偵、ばんざーい」
「花嫁糸子さん、ばんざーい」
 いまは夫と仰ぐ帆村荘六とチラリと目を見合わせて、新婦糸子は羞(はずか)しそうにパッと頬を染めた。
 それを望んで、見送り人たちの中から、また大きな賑やかな拍手が起った。
 列車は測(はか)りきれない幸福を積んで、徐々(じょじょ)に東へ動きだした。




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