蠅男
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著者名:海野十三 

 ただ惜しいことには、もう一歩というところで、怪人「蠅男」を逃がしてしまったことである。
 蠅男は、しかしながら、帆村の得意とする投縄によって、機関銃仕掛になっている左腕を肩のところから□(も)ぎ落とされ、あまつさえ左の足首さえ切断されてしまった。蠅男の勢いは、それだけ削がれたのであった。これは皆、帆村の直接手を下した殊勲であった。
 だが普通の人間とちがい、勝れた智能をもった蠅男のことだから、いついかなる手をもちいて又候(またぞろ)暴逆の挙に出てくるか分らない。だから結局、蠅男を完全に逮捕してしまわないうちは、大阪全市の市民たちは、枕を高くして睡ることができないわけだった。
 帆村探偵を激励する手紙や、警察官の奮起をのぞむ投書などが、毎日のように各署の机の上にうずたかく山のように積まれていった。
 蠅男は何処に潜んでいるのであろうか。
 多分、お竜と呼ばれる彼の情婦と手を組みあって、市内に潜伏しているのであろう。
 さあいま一息だとばかり、係官はじめ帆村探偵も、昼夜を分かたず、蠅男の逃げ去った跡を追い、要所要所を隈なく探していったのであるが、蠅男の隠れ様がうまいのか、それとも係官たちの探し様が拙いためか、尋ねる蠅男の行方について、何の手懸りも発見されなかったのであった。住吉署の捜索本部には、連日の活動に協力した人々が集っていた。
「どうも弱ったなア。近来投書が、なかなか辛辣になってきましたよ。蠅男なんて、探偵の夢にすぎなかったのではないかなどというのがある」
 と、帆村もつい滾(こぼ)せば、
「大阪府の警察で間に合わないようなら兵庫県の警察に頼んでみたらどうや、などと書いて来るやつが居る。なんで、隣りの警察の手を借りる必要があるんや。そういわれて腹が立たん者があるやろか」
 正木署長も投書のハガキを握ってカンカンに怒っていた。
 ひどい者になると、小包郵便で坊主枕を送ってきた。その附け文句に、
「こっちは枕を高うして睡られへんさかい、この枕はそっちへさし上げます。警官さんはお昼寝にお夜寝ばかりにお忙しいんだっしゃろから枕もさぞ痛みますやろ。そのときは御遠慮なく、この枕をお使い遊ばせ」
 村松検事がこれを見て熊(くま)の胆(い)をなめたような顔をした。
「これは投書にしても、最悪性(さいあくしょう)のものだ。警察官侮辱も、実に極まれりというべきだ」
 どうやら検事も、本当に怒っているらしい。
 帆村も、この枕の小包には呆(あき)れるより外なかった。彼は差出人の悪意の籠(こも)るその美しい坊主枕をとりあげて、つくづくと眺め入った。
「オヤ、――」
 と、彼はそのとき叫んで、枕に耳をソッと当てた。
「これはいかん。皆さん早く逃げて下さい」
 そう叫ぶと、帆村は脱兎のように窓際にかけだした。そして川に面した硝子窓をガラリと明けるが早いか、手にしていた美しい坊主枕をエイッと川の中へ投げこんだ。
「どうした」
「どうしたんや」
 と、皆はかえって帆村の方に駆けよってきた。そのときだった。
 どどーン。
 川中に、時ならぬ烈しい爆音が起り、枕を投げこんだところに、水煙が一丈もドーンとうちあげられた。
「呀(あ)ッ、――」
「ば、爆弾やあれへんか」
 署員は悉(ことごと)く窓にかけよって、なおも大きく息をする河面を凝視した。
「爆弾仕掛の枕なんですよ」と帆村が汗をぬぐいながら説明した。「枕を持ってみると、コチコチと変な音がするので気がついたのです。なアに、よくあるやつですが、時計仕掛の爆弾ですよ。僕たちを皆殺しにしようと思ってたに違いありません」
「なんちゅう悪たれの市民やろ。断然取締らんとあかん」
「いや、これは市民といっても、普通の市民じゃありません」
「普通の市民でないちゅうと、――」
「つまり、これは蠅男が差出した小包なんですよ」
「うむ、な、なるほど」
 一同はいまさらながらに、狂暴な蠅男のやり方に憤慨(ふんがい)の色を示した。


   怪(あや)しき女


「おい帆村君。僕はまた君のおかげで命拾いをした。お礼をいう」
 と、村松検事は、帆村の手を固く握った。
「帆村はん。私もお礼をいわしとくんなはれ」
 と、正木署長もうやうやしく頭を下げた。
 帆村はゆかしくもそれを冗談と受けながし、
「爆弾の危難は助かりましたから、それはいいとして、ここで考えてみなければならぬのは、蠅男がどうしてこんな精巧な爆弾を手に入れたかということです。こんなものは、どこでも作れるというものではありません。僕の考えでは、蠅男はかねてこんな爆弾を用意してあったのだと思います」
「そうだ。そのとおりだろう。蠅男は孤立した殺人魔だ。ギャング組織ではないと思う」
「それなら正木さん」と帆村は署長の方をふりむき、「僕は蠅男が依然として、鴨下ドクトル邸に出入しているのじゃないかと思いますよ。爆弾は、あの邸内のどこかに隠してあるのでしょう」
「そんなこと不可能だすな」と署長は不服であった。「警戒は屋内屋外にあって厳重にしとるのでっせ。そして邸には、ドクトルの遺児カオルはんと許婚(いいなずけ)の山治はんが、無事に暮しとりますんや。もし蠅男が入りこんだのやったら、どこかで誰かが見つける筈だすがな」
「いや、この爆弾を見ては、僕はどうしても蠅男が、ドクトル邸の秘密倉庫なんかに出入しているとしか考えられんです」
「秘密倉庫? そんなものが、どこかに拵(こしら)えてありますのか」
「もちろん僕の想像なんです。なお僕は、この小包を見て考えました。蠅男は、あまり遠くへいっていないということです」
「それはまた、なんです」
「小包の消印を見ましたか。あれは郵便局で押したものではなく、手製の胡魔化(ごまか)しものですよ。だからあの小包を持って来た郵便局の配達夫というのは、恐らく蠅男の変装だったにちがいありません。蠅男に対する監視は厳重なんですから、蠅男がここへ出てくるようでは、その辺に潜伏しているのに違いありません」
「そんなら、この小包を持って本署に来た配達夫が蠅男やったんか。そら、えらいこっちゃ。追跡させんならん」
「署長さん、もう遅いですよ。いまごろ蠅男は、どっかその辺の屋上に逃げついて、そこからこっちの窓を見てニヤッと笑っているでしょう」
「そうか、残念やなア」
 蠅男が近所に潜(ひそ)むという帆村の推理に、村松検事も賛成の意を表した。
 それではというので、すぐさま捜査隊が編成せられて、一行は直ちに鴨下ドクトル邸に向った。
 厳重な捜査の結果、帆村の云ったとおり、はたして秘密倉庫が地下に発見せられた。それは、勝手許の食器棚のうしろに作られていたもので、ボタン一つで、自由にあけたてできるようになっていた。
 一行は、いまさらのように愕いたが、中に入ってみて二度びっくりした。倉庫の中には、まだ五つ六つの爆弾やら、蠅男が使ったらしい工具や材料が一杯入っていた。
「さあ、そういうことになると、蠅男はどないして、ここへ出入したんやろ。そいつを調べなあかん」
 正木署長は俄(にわ)かに奮(ふる)いたって、取調べを始めた。カオルも山治も、蠅男らしい人物がこの家に出入していない旨を誓った。
 警戒中の警官も、同じことを証言した。
 お手伝いさんが一人と、派出婦が一人といるが、お手伝いさんも知らぬと答えた。このお手伝いさんは城の崎の在から来ている人で、先日まで近所の下宿で働いていた身許確実な女だと知れた。
 派出婦は、生憎(あいにく)外出していた。これは身許もハッキリしていなかった。年齢の頃は二十三、四。名前は田鶴子(たずこ)といった。顔は丸顔だという。
「田鶴子――というんだネ」
 この田鶴子なる派出婦は、一行が到着する直前、ちょっと薬屋に買物にゆくといって出ていったそうだが、それがなかなか帰って来なかった。そこで警官の一人を、その薬局へ派遣して調べさせることにした。
 間もなくその警官が帰ってきて、
「近所の薬屋を四、五件調べてみましたんやけれど、どの家でも、そんな女子は来まへんという返事だす。けったいなことですなア」
 帆村はそれを聞くと、ポンと膝を叩いた。
「呀(あ)ッ。わかりましたよ。その田鶴子という派出婦は、もう二度とこの家にかえってきませんよ」
「なぜだい」検事が聞いた。
「いや、その田鶴子という派出婦は、蠅男の情婦のお竜(りゅう)が化けこんでいたに違いありません。蠅男では、到底(とうてい)入りこめないから、そこでお竜が化けこんで、秘密倉庫のなかのものを持ち出していたんです。丸顔といいましたネ。お竜を見た人間は、そう沢山いないのです。僕は宝塚で二度も見かけて、よく知っています。正にお竜にちがいありません」
「な、なんという大胆な女だろう」
「さあ皆さん、これによっても、蠅男はいよいよこの附近に潜伏していることが明白になったじゃありませんか。一つ元気をだして、蠅男を探しだして下さい」
 帆村の言葉に、一座は急にどよめいた。


   地下に潜る


 こうなったら、死闘である。
 恐るべき機械化された殺人魔を、一日いや一時間でも早く捕えることが出来れば、どれだけ市民は安堵(あんど)の胸をなでおろすか測りしれないのである。
 帆村は、とうとう意を決して、警察側と全然放(はな)れて、巷(ちまた)に単身、蠅男を探し求めて、機をつかめば一騎うちの死闘を交える覚悟をした。
 それを決行するに当って、糸子の小さな胸を痛めないようにと、帆村は彼女の家を訪ねて事態を説明した。
 糸子は帆村がこの上危険な仕事をすることに忠言を試みたけれど、彼の決意が、市民を一刻も早く安心させたいという燃えるような義侠心(ぎきょうしん)から発していることを知ると、それでも中止するようにとは云えなかった。
「帆村はん。これだけは誓うとくれやす。必要以上に、危険なことをしやはらへんことと、それからもう一つは、――」
「それからもう一つは?」
「それからもう一つはなア、一日に一度だけは、うちへ電話をかけとくんなはらんか。そうしたら、うち安心れて睡られます。よろしまんな」
「はッはッ、まるで坊やとのお約束みたいですが、たしかに承知しました。ではこれで、僕はかえります」
「あら、もう帰ってだすの。まあ、気の早い人だんな。いま貴郎(あなた)のお好きな宇治羊羹を松が切っとりまんがな。拝みまっさかい、どうぞもう一遍だけ、お蒲団の上へ坐って頂戴な」
 糸子は、真剣な顔をして、いっかな帆村を帰そうとはしなかった。
 帆村は予定どおり、夜の闇にまぎれて、浮浪者姿で天王寺公園に入りこんだ。
「こらッ、お前なんや?」
 乾からびた葡萄棚の下に跼(うずくま)ったとき、ロハ台に寝ていた男がムクムクと起きあがって、帆村に剣突(けんつく)をくわせた。
「ああ、おらあ新入りなんだ。こっちの親分さんに紹介してくれりゃ、失礼ながらこいつをお礼にお前さんにあげるぜ」
「な、なんやと。お前、東京者やな。おれに何を呉れるちゅうのや」
 帆村は五十銭玉を掌の上にのせてみせた。かの男は、たちまち恵比寿顔(えびすがお)になって、いやに帆村の機嫌をとりだした。
「ふーン、わしに委(まか)しといたらええねン。大丈夫やがナ。親分の名は藤三(とうぞう)いうのや。紹介したる、さあ一緒についてこい」
 楢平(ならへい)という男の案内で、帆村は藤三親分の配下に臨時に加えて貰うことになった。
 彼はここでも、いささか金を親分に献上することを忘れなかった。
「あんまりパッパッと金を使うのはあかんぜ」
 と、早速(さっそく)親分らしい注意をした。
「へえ、相済みませんです」
 それから藤三親分は、帆村にいろいろと仲間の習慣の話や、縄ばりのこと、持ち場などについて、こまごました注意を与えたのち、
「さあ、これは今夜の、わしからの引出物や。これを一枚、お前にやる」
 と云って、一枚の紙札をくれた。
 帆村が何だろうと思ってみると、それは新別府温泉プールと書いた一枚の入浴券であった。
「へえ、どうもこれは、――」
「今夜入ってきたらええやないか。そこは十日ほど前に建った大浴場兼娯楽場や。もちろんぬかりはあらへんやろが、わし等の行く時間は、午後十二時を廻ってからでやぜ。忘れんようにな。楢平にも、これを一枚やる」
 親分は二枚の入浴券を下された。
 帆村にとっては、甚(はなは)だ迷惑なことであった。そんなことよりも、早く蠅男の所在を探したいのだった。だが親分さまからの折角の下され物である。行かねば、後の祟(たた)りの恐ろしさも考えねばならない。やむなく帆村は、その新別府温泉プールなるものに、楢平とともにでかける決心をした。
 だが、まさか其処(そこ)に、たいへんなものが待ち構えていようとは、ついぞ気がつかなかったのである。


   砂風呂の異変


 楢平と帆村とは、恐(おそ)る恐(おそ)るその新別府温泉プールの入口へ切符を出してみた。
 プールでは、なんと思ったか、たいへん鄭重(ていちょう)に二人の入来を感謝してくれた。それも一に藤三親分の偉力(いりょく)のせいであろうと思われた。
 裸になって浴場へ足を入れてみると、なるほどこれは、入浴ずきの大阪人でなければ、ちょっと出来そうもない広大なる共同浴場であった。その中央に、大理石で張りめぐらされた直径十メートルの円形のプールが作ってあった。そのまわりも広い大理石の洗い場になっていて、そこに二、三人の人たちが広々と両手両足をなげだして、湯にのぼせた身体をひやしていた。
「どこが新別府なんだろう。プールは別に別府らしくも何ともないじゃないか」
 と帆村がいうと、楢平は指をさして、
「新別府ちゅうのは、この奥にある砂風呂のことや。そのわりに流行ってえへんけれどなあ。よかったら行ってみなはれ。ええ女子がおって、あんじょう砂をかけてくれるがな」といった。
 帆村は妙な気になった。
 今夜からいよいよ死闘だと覚悟していたのに、それがこんな風に呑気(のんき)に浴場に入って汗を流せるなんて、夢のような話ではないか。
 しかし実をいえば、帆村もまた大阪人に負けぬくらい風呂好きであった。別府式の砂風呂と聞いては、もうじっとしていられなかった。楢平をプールに残しておいて、彼はその砂風呂のある別館の方へ手拭片手にノコノコと歩いていった。
 なるほど別館建てのこの砂風呂は、思ったよりお粗末だが、ともかくも別府を模倣して、およそ二十畳敷くらいの一室全部を綺麗な砂で充たしてあった。そして、中には湯気がモヤモヤとたれこめていて、電灯がほの暗かった。
 中はガランとしていた。
 ただ一人、あまり上手ではない浪花節を、頭の天頂(てっぺん)からでるような声でうたっている客があるきりだった。
「――□わざとよろめき立ち上り、心は後にうしろ髪、取って引かるる気はすれどオ。気を励ました内蔵助(くらのすけ)エ、――」
 と、うたうは南部坂(なんぶざか)雪の別れの一節だった。この節は、頗(すこぶ)る古い節まわしだった。このうたい手は、砂の中から首だけだして、向うの壁に向いたまま、真赤になって唸っているのだった。
 帆村は、これも奥へよったところを選び、両手で砂を掘って穴をこしらえていった。砂を掘ると、あとから湯がドンドン湧いてきた。彼はほどよい穴をつくると、そのなかにボチャンと身体をつけた。なかなかいい気持であった。
 相客はまだ浪花節をうなりつづけていた。
 帆村は身体をゴソゴソ動かして、その相客と同じように胸のあたりにしきりに砂を掻きよせた。
 そのとき一人の女が、室内に入ってきたのを感じた。絣(かすり)の着物を、短く尻はしょりをして、白い湯文字を短くはいていた。
 その女はいきなり帆村の方へやってきて、
「おいでやす。もっとうまいこと砂をかけてあげまひょうか」
 といって、彼のうしろにまわり、肩のところへ砂をバサバサかけてくれた。
「ありがとう。もういいよ」
 と帆村がいった。女は黙って、なおも砂を帆村の頸の方にまで積んでいった。女はさっきの愛想笑いに似ず、急に無口のようになって、帆村の頸のあたりに、妙な具合に両手をからませるのであった。
(変だぞオ)
 と思ったその刹那(せつな)、それまで帆村の頸のまわりを戯(たわむ)れのように搦(から)んでは解け、解けてはまた搦(から)みついてきた女のしなやかな指が、板片のような強さでもって、帆村の頸をグッと締めつけた。彼は愕(おどろ)いて砂の中から立ち上ろうとしたが、女は盤石(ばんじゃく)のように上から押しつけていて、帆村の自由にならない。その上、女の指は頸をギュウギュウしめつけてくる。向うの相客に助けを求めようとしたが、声の出るべき咽喉がこの有様で、呻(うな)ることさえ出来なかった。そのとき向いのうしろ向きになっていた男が、急にピタリと浪花節をやめた。
「やれ、気がついてくれたか」
 と思って悦(よろこ)んだのは、ほんの一瞬間であった。
 相客(あいきゃく)は砂の中に、その長い頸(くび)をグッと曲げて、帆村の方を眺めた。彼はすべてを呑みこんでいるという風にニヤニヤと笑っているのだった。長い顔、そして大きな唇。その顔!
「おお、貴様は蠅男だな」
 帆村は口の中で呀(あ)ッと叫んだ。
 砂の中から出ているのは、蠅男の頸だったのである。悪逆残忍、たとえるに物なき殺人魔・蠅男の首に外(ほか)ならなかった。
「お竜(りゅう)、しっかり圧(おさ)えていろ」
 蠅男は底力のある低い声で呶鳴(どな)った。
 お竜! するといま帆村の頸(くび)を圧(おさ)えつけているのは、蠅男の情婦のお竜だったのだ。
 よくもここまで帆村を引ずりこんだものである。いや、これは蠅男が一歩先の先まわりをして、ここに陥穽(かんせい)を設けておいたものであろう。帆村の想像していたとおり、天王寺公園付近に蠅男は隠れていて、そこを縄ばりとする仲間の誰彼と、緊密な連絡をとっていたものらしい。
 帆村はいまや風前の灯であった。お竜がこの上グッと手に力を入れるか、それとも蠅男が砂の中から飛びついてくれば、もうおしまいだった。
 帆村一生の不覚だった。
 彼は頸を締めつけられるあまり、だんだん朦朧(もうろう)となってくる意識の中で、なんとかしてこの危難からのがれる工夫はないものかと、働かぬ頭脳に必死の鞭(むち)をうちつづけた。


   死線を越えて


 稀代(きだい)の怪魔(かいま)「蠅男」の暴逆(ぼうぎゃく)のあとを追うて苦闘また苦闘、神のような智謀をかたむけて、しかも勇猛果敢な探偵ぶりを見せた青年探偵帆村荘六も、いま一歩というところで、無念にも蠅男とお竜の術中に陥(おちい)り、いま湯気に煙る砂風呂のうちに惨殺(ざんさつ)されようとしているのであった。なんという無慚(むざん)、なんという口惜しさであろう。
 お竜の十本の指がやさしき女とは思われぬ恐ろしい力でもって、帆村の頸を左右から刻一刻と締めつけてくるのだった。起き上ろうとするが、生憎(あいにく)首のところまで砂に埋っており、肩の上からはお竜のはちきれるように肥えた膝頭が、盤石のような重味となって圧(お)しつけているのであった。これでは身動きさえできない。
(参った。――しかしまだ血路の一つや二つはありそうなものだが!)
 帆村は全身の血を脳髄のなかに送って、死線を越えようと努力をつづけていた。
「こ、殺される前に――」
 と、帆村はふりしぼるような声をあげた。
「しッ、静かにしろ」
 と、蠅男は依然として砂のなかから首だけだして眼を剥(む)いた。
「こ、殺される前に、一つだけ聞きたいことがある。く、頸をすこし、ゆ、ゆるめて……」
 それを聞くと、蠅男はなに思ったか、お竜の方にそれとサインを送った。その効目(ききめ)か、お竜の指の力は、申訳にすこしゆるんだようだ。
「早く云え」
「うむ」と帆村は喘(あえ)ぎ喘(あえ)ぎ「貴様は、なぜあの三人を殺したのだ。鴨下ドクトルと玉屋と塩田先生と、この三人を殺すには定(さだ)めし理由があったろう。それを教えてくれ」
「そのことか」と蠅男はたちまち見るも残忍な面になって、
「冥土(めいど)の土産にそれを聞かせてやろうか。鴨下というエセ学者は、五体揃った俺の身体を生れもつかぬこんな姿にしてしまった。自分のために、他人の人生を全然考えないひどい野郎だ。それを殺さずにゃいられるものか。玉屋のやつは余計なおせっかいをしやがったため、俺は永い間牢獄につながれるし、死刑まで喰った。俺が南洋で西山を殺したのは、金に目がくらんだためばかりではなかった。彼奴(あいつ)は、俺に勘弁ならない侮辱を与えたんだ。その復讐をしてやったのだ。塩田検事は、俺を死刑にしても慊(あきた)らぬ奴だと、ひどい論告を下しやがった。それがために、俺は無期の望みさえ取上げられてしまったのだ。どうだ、お前と俺とが入れかわっていたと考えてみろ。お前もきっと俺のようにしたに違いないんだ」
 なんという恐ろしい告白だろう。一応条理はたっているつもりで、悪いと思うどころか平然と殺人をやって悔いないとは、正に鬼畜の類であった。
「まだ、やるのか」
「まだまだやっつける奴がいる。さしあたりお前をやっつけてやる」
「いつも脅迫状につけてあった、あの気味のわるい手足を□がれた蠅の死骸は?」
「分っているじゃないか。手足のない俺のサインだ」
 帆村は、すっかり観念したように装いながら、実はしきりと時間の経過するのを待っていたのだ。あまり長くなると、きっと連れの楢平が怪しんでこの砂風呂に入ってくるだろうから、そのとき騒げば助かるかもしれないと思っていたのだった。
「あの巧妙な手や足はずいぶん巧妙にできているが、一体何と何との働きをするんだ」
「あれはこうだ。まず右手の腕には……」
 と、蠅男はついいい気になって、自分の巧妙な義手の話をはじめた。それを帆村は、さっきから待っていたのだ。突然彼は、
「えいッ」
 と叫ぶなり、満身の力をこめて、砂の上にガバとうつ伏せになった。
「ああッ」
 とお竜が叫んだときは、もうすでに遅かった。帆村の力にひかれて、お竜は強く前の方にグッとひかれ、ヨロヨロとなったところを帆村はすかさず、さっと身をうしろに開いたから、大きなお竜の身体は見事に背負い投げきまって、もんどりうって前に叩きつけられ、したたか腰骨を痛めた。それも道理であった。帆村はお竜の身体が、蠅男の首の真上に落ちかかるよう、うまい狙いをつけて、一石二鳥の利を図ったのだ。
「あッ、危いッ」
 と蠅男が悲鳴をあげたが、既にもう遅かった。蠅男の首はズブリと砂の中にもぐりこんだ。
 素晴らしい転機であった。
 帆村の沈勇は、よく最後の好機をとらえることに成功し、辛(かろ)うじて死線を越えた。
 帆村の身体は、いまや軽々と自由になった。
 砂の中にもぐりこんだ蠅男の苦しそうな呻き声。だが不死身の蠅男のことであるから、そう簡単に、砂の中で往生するかどうか。
 蠅男は、まるで怒った牡牛のように暴れだし、あたりに砂をピシャンピシャンとはねとばした。この怪魔に対し果して帆村に勝算ありや!


   輝(かがや)かしい凱歌(がいか)


 お竜が腰をおさえ、歯をくいしばっているのは、帆村にとってたいへん幸いだった。
 帆村は素速く蠅男の背後にまわると、湯交(まじ)りの砂の中にもがく蠅男を、うしろからグッと抱きあげた。
「ううぬ」
 と蠅男は満身の力をこめて、抱えられまいと蝦(えび)のようにピンピン跳ねまわった。これを放してはたいへんである。帆村は両腕も千切れよとばかり、不気味な肉塊を抱きしめた。
 蠅男は蛇のように首を曲げて、帆村の喉首に噛みつこうとする。
「もうこっちのものだ。じたばたするだけ損だぞ」
 この言葉が蠅男の耳に入らばこそ、怪魔はなおも激しく抵抗する。さすがの帆村も、その大力に抗しかねて、押され気味となった。
 だが帆村にはまだ、自信があった。
 彼は蠅男を抱きしめたまま、悠々と砂風呂の出入口から外へ出た。そして足早につつーッと走ってプールのある広間に駆けこんだ。
「皆さん、蠅男をつかまえましたッ」
 というなり帆村はそのまま、ザンブリと熱湯満々たるプールの中にとびこんだ。
「うわーッ」
 と、これは蠅男の悲鳴だ。
 帆村の作戦は大成功をおさめた。義足義手をつけては天下無敵の蠅男も、帆村に抱きしめられて暴れるたびに、ズブリズブリと水雑炊ならぬ湯雑炊をくらってはたまらない。二度、三度とそれをくりかえしているうちに、蠅男は、だんだんと温和しくなっていった。
「さあ皆さん。住吉署に電話をかけて下さい。署長さんに、帆村がここで蠅男をおさえていると伝えて下さい」
 この場の唐突(だしぬけ)な乱闘に、プールから飛びあがって呆然としていた入浴客は、ここに始めて、目の前の活劇が、いま全市を震駭(しんがい)させている稀代の怪魔蠅男の捕物であったと知って、吾れにかえって大騒ぎをはじめた。
 帆村が、この何処に置きようもない重い肉塊を抱えて、腕がぬけそうに疲れてきたときに、やっと正木署長をはじめ、警官の一隊がドヤドヤと駆けこんでくれた。
「どうした帆村君。いよいよ蠅男を捕えよったかッ」
「はア、ここに抱いて居ります」
「なにッ」と署長は目をみはり、「おおそれが蠅男か。想像していたよりも物凄いやっちゃア。待っとれ。いま皆におさえさせる。そオれ、掛れッ」
 署長がサッと手をあげると、警官たちは靴のままプールの中にザブンと飛びこんできた。
「オヤ、――」
 と近づいた警官が愕きの声をあげた。
「蠅男は死んどりまっせ」
「ええッ、――」
「こっちへ取りまっさかい、帆村はん、手を放してもよろしまっせ」
「そオれ、――」
 警官隊の手にとって抱きとられた怪人蠅男の肉塊は、蒟蒻(こんにゃく)のようにグニャリとしていた。そして口から頤にかけて、赤い糸のようなものがスーッと跡をひいていた。血だ、血だ!
「舌を噛みよったな。ええ覚悟や」
 と、いつの間に来ていたのか、正木署長が沈痛な声でいった。
「ああ、とうとう蠅男は死にましたか」
 そういった帆村は、はりつめた気が一度にゆるむのを感じた。
「おッ、危い。どうしなはった、帆村はん」
 鬼神のように猛(たけ)き帆村だったけれど、蠅男の自殺を目のあたりに見た途端(とたん)、激しい衝動のために、遂に意識をうしなって、警官たちの腕の中に仆れてしまった。
「無理もない。蠅男と、徹頭徹尾闘ったのやからなア」
 そういって正木署長は、ソッと帆村の腕を握って脈をさぐった。
     *
 もちろん帆村は、間もなく意識をとりかえした。そしてあとは元気に、蠅男事件の後始末に力を添えたのであった。
 その後になって、当時までまだ誰にも知られなかった無慚(むざん)な一つの事件が明らかにされた。それは事件の途中から行方不明になっていた池谷医師の屍体が、彼(か)の控家の天井裏から発見されたことであった。彼は蠅男のために、そこに手足の自由を奪われたまま監禁されていたのだった。そして誰も食料を搬(はこ)ぶ者がなかったままに、とうとう餓死してしまったものである。これも蠅男の残忍性を語る一つの材料となった。
 池谷医師は、蠅男のような悪人ではなかった。ただ彼は蠅男から、一つの弱点を握られていたのであった。それをいうと、またくどくなるが、要するに蠅男の情婦お竜と昔関係のあった仲で、お竜は彼のために捨てられた女だったといえば、あとは誰にもそれと察しがつくであろう。彼はそんなことで、心ならずもある期間は蠅男やお竜と行動を共にしていたのである。
 それはその年も押しつまって、きょう一日の年の暮だというその日の朝、大阪駅頭に珍しく多数の警察官を交(まじ)えた見送りをうけつつ、東京行の超特急列車「かもめ」号の二等室で出発しようとする一組の新夫婦があった。
「では、お大事に」
「新家庭は、いよいよ新しい年とともに始まるというわけだすな」
「まあ近いうち、お二人揃って大阪へ里帰りするのでっせ」
 などと、朗らかな餞(はなむ)けの言葉はあとからあとへと新郎新婦の上に抛(な)げられる。
 やがて、列車は出るらしく、ホームのベルはけたたましく鳴りだした。
 そのとき人の垣をわけて、車窓にとびついた一人の紳士があった。これは村松検事だった。
「ああ、間にあってよかった。君たちの結婚を祝おうと思って、大きなデコレーションケーキを注文して置いたのが、ばかに手間どってネ。これなんだよ、やっと出来た」
 と、車窓にさしだしたのは、大きな硝子(ガラス)器に入った見事なケーキだった。
「よく見てくれ、これは君たちの好きな大阪名物の岩おこしで組みたててあるんだが、一かけずつ製造所がちがっていて、味もちがっているのだ。これを二人で仲よく食べながら、たまにゃ大阪のことも思いだしてくれたまえ」
 若き夫婦は、感激のいろを現わして、この素朴ながら念の入った贈物を感謝した。
 ベルの音がハタと止った。いよいよ発車である。見送りの人たちは、いいあわせたように両手をあげて、二人の新しい生活の門出に万歳をとなえた。
「帆村探偵、ばんざーい」
「花嫁糸子さん、ばんざーい」
 いまは夫と仰ぐ帆村荘六とチラリと目を見合わせて、新婦糸子は羞(はずか)しそうにパッと頬を染めた。
 それを望んで、見送り人たちの中から、また大きな賑やかな拍手が起った。
 列車は測(はか)りきれない幸福を積んで、徐々(じょじょ)に東へ動きだした。




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