蠅男
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著者名:海野十三 

「それから、ちょっと村松氏の指紋を取ってくれ」
「えッ、村松はんのをでっか」
 鑑識子はオズオズと気の毒な容疑者村松検事の顔と、命令する水田検事との顔を見くらべた。それを聞いていた村松検事は、無言のまま、右手を前につきだした。ああその手、鑑識子の前に拡げられた村松の掌には、赤黒い血がベットリとついていた。
 鑑識子は物なれた調子で、村松の指紋を別の紙の上に転写して、差出した。
「どうだネ、この両方の指紋は……」
 水田検事の声は、心なしか、すこし慄(ふる)えを帯びているようであった。
 鑑識子は、命ぜられるままに二枚の紙にうつし出された指紋を、虫眼鏡の下にジッと較べていたが、やがて彼の額には、ジットリと脂汗が滲みだしてきた。
「どうだネ。指紋は合っているか、合わないか」
「……同一人の指紋でおます」
 鑑識子は苦しそうに応えて、ハンカチーフで額の汗を拭いた。
 水田検事は、それを聞くと、傍(わき)を向いていった。
「村松氏を、殺人容疑者として逮捕せよ」
 村松氏の手首には痛々しく捕縄がまきついた。曾ては、蠅男の捜査に、係官を指揮していた彼が、今は逆に位置をかえて、殺人容疑者として拘禁される身となった。
 疑問の怪人「蠅男」を捕えてみれば、それは人もあろうに「蠅男」捜査の指揮者であった村松検事であったとは。其の場に居合わせた人々は、事の意外に声もなく、ただ呆れるより外なかったのである。
 村松検事に世話になっていた人たちは、水田検事の取調べに対して、もっといろいろ反駁してくれることを冀(ねが)っていた。しかるにこの人たちの期待を裏切って、村松検事はほとんど口を開かなかったのである。
 なぜ村松は、多くを喋らなかったのであろう。彼は凶器と断定せられる文鎮の上に、自らの指紋がついているのに気がついて、もう何を云っても脱れぬところと、殺人罪を覚悟したのであろうか。それとも何か外に、喋りたくない原因があったのであろうか。
 関係者たちに、ひとまず休憩が宣せられ、容疑者村松検事は別室に引かれていった。
 現場では、無慚な最期をとげた塩田先生の骸(なきがら)の上に、カーキ色の布がフワリとかけられた。
 水田検事の一行は、予審判事と組んで、惨劇の室のうちに、いろいろと証拠固めをしてゆくのであった。
 丁度その半ばに、急を聞いて、帆村探偵や正木署長たちが駆けつけた。
 いくら村松検事の味方が駆けつけたとて、犯行は犯行であった。水田検事から詳しい説明がのべられると、村松検事の無罪説を信じていた帆村たちも、それでも村松検事は塩田先生殺しに無関係であるとはいえなかった。
(しかし、これは何か大きな間違いがあるのに違いない)
 帆村はあくまでそれを信じていた。
 でも、内部から鍵をかけた密室の殺人事件――塩田先生は文鎮で脳天をうち砕かれ、村松には凶器である文鎮を握っていた証拠がある。窓は内から鍵こそ掛っていなかったが閉っていたそうである。もし窓が明いていたとしても、誰が窓の外から侵入して来られるだろう。なにしろこの法曹クラブ・ビルというのは、スベスベしたタイル張りの外壁をもって居り、屋上には廂(ひさし)のようなものが一間ほども外に出ばっていたし、人間業(わざ)では、到底(とうてい)窓の外から忍びこむことが出来そうもなかった。
 すると、村松検事の犯行でないという証明は、ちょっと困難になるわけだった。
 帆村は、水田検事に頼んで、村松にひと目会わせてくれるように頼んでみたけれど、この際のこととて、それもあっさり断られてしまった。


   死闘宣言


 帆村探偵は、彼をしきりと慰めてくれる正木署長とも別れ、ただひとり附近のホテルに入った。
 糸子の泊っている宝塚ホテルへ帰ろうかと思わぬでもなかったけれど、それよりは村松検事の身近くにいた方が、なにか便利ではないかと思ったからだ。
「どうすれば、村松さんを救いだせるだろうか」
 冷たい安ホテルの一室の、もう冷えかかったラジエーターの傍に椅子をよせて、帆村はいろいろと、これからの作戦を考えつづけた。だが一向に、これはと思ううまい考えも浮んで来なかった。
 そのうちに彼は、コクリコクリと居眠りを始めた。昼間の疲れが、ここで急に出て来たのであろう。
 ガタリ。
 突然大きな音がして、帆村はハッと眼ざめた。どうやら廊下の方から聞えたらしい。
 深夜の怪音の正体は何? 何者かが廊下の窓を破って、ホテルのなかに忍びこんでくるようにも感じられた。
 帆村は素早く室内のスイッチをひねって、室内の灯りを消した。それからポケットからピストルを出して手に握ると、人口の扉の錠を外した。そして床に腹匍(はらば)いせんばかりに跼(かが)んで、扉をしずかに開いてみた。もし廊下に何者かの人影を見つけたら、そのときはピストルに物を云わせて、相手の足許を射抜くつもりだった。
「なアんだ。誰もいやしない」
 廊下には、猫一匹いなかった。それでも彼は念のため、廊下に出て、窓を調べてみた。窓には内側からキチンと錠が下りていた。しかし窓はしきりにガタガタと鳴っていた。真暗な外には、どうやら風が出てきたらしい。帆村はホッと息をついて、自分の部屋に帰っていった。
 風は目に見えるように次第に強くなり、ヒューッと呻り声をあげて廂(ひさし)を吹きぬけてゆくのが聞えた。
 こうしてひとりでいると、まるで牢獄のうちに監禁されたまま、悪魔が口から吐きだす嵐のなかに吹き飛ばされてゆくような心細さが湧いてくるのであった。
 チリチリチリ、チリン。
 突然、電鈴(ベル)が鳴った。電話だ。
 それは夢でも幻想でもなかった。たしかに室内電話が鳴ったのである。深夜の電話! 一体どこから掛ってきたのであろう。
 帆村は受話器をとりあげた。
「帆村君かネ」
「そうです。貴方は誰?」
 帆村の表情がキッと硬ばり、彼の右手がポケットのピストルを探った。
「こっちはお馴染(なじみ)の蠅男さ」
「なに、蠅男?」
 蠅男がまた電話をかけてきたのだ。村松検事の声とは全然違う。帆村は、蠅男に対する恐ろしさよりは、この蠅男の電話を、ぜひとも水田検事に聞かせてやりたかった。
「どうだネ、帆村君。今夜の殺人事件は、君の気に入ったかネ」
「貴様が殺(や)ったんだナ。塩田先生をどういう方法で殺したんだ。村松検事は貴様のために、手錠を嵌(は)められているんだぞ」
「うふふふ。検事が縛られているなんて面白いじゃないか」と蠅男は憎々しげに笑った。「どう調べたって、検事が殺ったとしか思えないところが気に入ったろう。口惜しかったら、それをお前の手でひっくりかえしてみろ。だが、あれも貴様への最後の警告なんだぞ。この上、まだ俺の仕事の邪魔をするんだったら、そのときは貴様が吠(ほ)え面(づら)をかく番になるぞ。よく考えてみろ。もう電話はかけない。この次は直接行動で、目に物を見せてくれるわ。うふふふ」
「オイ待て、蠅男!」
 だが、この刹那(せつな)に、電話はプツリと切れてしまった。
 神出鬼没とは、この蠅男のことだろう。彼奴は、帆村の入った先を、すぐ知ってしまったのだ。いまの電話の脅し文句も、嘘であるとは思えない。蠅男は宣言どおり、いよいよこれからは直接行動で、帆村に迫ってこようというのだった。帆村はもう覚悟をしなければならなかった。
 帆村は奮然(ふんぜん)と、卓を叩いて立ち上った。
(そうだ。村松検事を救い出す手は外にないのだ。それは蠅男を逮捕する一途があるばかりだ。やれ、村松検事が殺人罪に堕ちた。やれ、糸子さんが蠅男に誘拐された。やれ、今度は誰のところに死の宣告状がゆくか。やれ、どうしたこうしたということを気に懸けているより、そんなことには頓着することなく、一直線に蠅男の懐にとびこんでゆくのが勝ちなのだ。蠅男はそうさせまいとして、俺の注意力が散るようにいろいろな事件を組立てて、それを妨害しているのにちがいない。よオし、こうなれば、誰が死のうとこっちが殺されようと、一直線に蠅男の懐にとびこんでみせるぞ)
 今や青年探偵帆村荘六は、心の底から憤慨したようであった。一体帆村という男は、探偵でありながら、熱情に生きる男だった。その熱情が本当に迸(ほとばし)り出たときに、彼は誰にもやれない離れ業を呀(あ)ッという間に見事にやってのけるたちだった。今までは、蠅男を探偵していたとはいうものの、その筋の捜査陣に気がねをしたり、それからまたセンチメンタルな同情心を起して麗人をかばってみたり、いろいろと道草を喰っていたのだ。翻然(ほんぜん)と、探偵帆村は勇敢に立ち上った。
(一体、蠅男というやつがいくら鬼神でも、これだけの事件を起して、その正体を現わさないというのは可笑(おか)しいことだ。今までに知られた材料から、蠅男の正体がハッキリ出て来ないというのでは、帆村荘六の探偵商売も、もう看板を焼いてしまったがいい。うむ、今夜のうちに、何が何でも、蠅男の正体をあばいてしまわねば、俺はクリクリ坊主になって、眉毛まで剃ってしまうぞ)
 帆村は眉をピクリと動かすと、何と思ったか、狭い室内を檻に入れられたライオンのように、あっちへ行ったり、こっちへ来たりして気ぜわしそうに歩きだした。


   糸子の立腹


 帆村探偵は、どんなにして次の朝を迎えたのかしらない。
 とにかく彼が、室を出てきたところを見ると、普段から蒼白な顔は一層青ざめ、両眼といえば、兎の目のように真赤に充血していた。よほどの苦労を、一夜のうちに嘗(な)めつくしたらしいことが、その風体(ふうてい)からして推(お)しはかられた。
 帆村は、すぐさま村松検事の留置されている警察署へゆくかと思いの外(ほか)、彼はその前を知らぬ顔して、自動車をとばしていった。そして到着したところは、阪急の大阪駅乗車口であった。
 彼はそこで大勢の人をかきわけ、大きな声で宝塚ゆきの切符を買った。
 急行電車に乗りこんだ彼は、乱暴にも婦人優先席にどっかと腰を下ろすや、腕ぐみをして眼を閉じた。そして間もなく大きな鼾(いびき)をかきだすと見る間に、隣に着飾った若奥様らしい人の肩に凭(もた)れて、いい気持ちそうに眠ってしまった。
 車掌が起こしてくれなければ、彼はもっと睡っていたかも知れない。彼は慌てて、宝塚の終点に下りて、電柱の側らで犬のような背伸びをした。
 それから彼は、太い籐(とう)のステッキをふりふり、新温泉の方へ歩いていった。
 でも彼は、新温泉へ入場するのではなかった。彼はその前をズンズン通りすぎた。そして、やがて彼が足早に入っていったのは、池谷医師の控邸だった。それは先に、糸子が訪れた家であり、それよりもすこし前、池谷医師がお竜と思(おぼ)しき女と、肩をならべて入っていった家であった。
 入口の扉には、鍵がかかっていなかった。帆村は無遠慮にも、靴を履いたまま上にあがっていった。何を感じたものか、彼は各室を鄭重に廻っては、押入や戸棚を必ず開いてみた。そして壁や天井を、例の太い洋杖(ステッキ)でコンコンと叩いてみるのだった。
 階下が終ると、こんどは階上へのぼって、同じことを繰りかえした。
 でも、格別彼が大きい注意を払ったものもなく、別にポケットへねじ込んだものもなかった。十五分ばかりすると彼はまた玄関に姿を現わした。そして後をも見ず、その邸の門からスタスタと外へ出ていった。
 それから彼は、再び新温泉の前をとおりすぎ、橋を川向うへ渡った。そこには宝塚ホテルが厳然(げんぜん)と聳(そび)えていた。彼の姿はそのホテルのなかに吸いこまれてしまった。
 大川司法主任は、糸子の室の前の廊下で、朝刊を一生懸命に読みふけっているところだった。なにしろその朝刊の社会面と来たら、村松検事の殺人事件の記事で一杯であった。村松検事の大きな肖像写真が出ていて「検事か? 蠅男か?」と、ずいぶん無遠慮な疑問符号がつけてあった。
「恩師殺しに秘められたる千古の謎!」などという小表題(こみだし)で、三段ぬきで組んであった。
「ああ帆村はん。これ、なんちゅうことや。儂(わし)はもう、あんまり愕いたもんやで、頭脳が冬瓜(とうがん)のように、ぼけてしもたがな」
 そういって、大川司法主任は、新聞紙の上を大きな掌でもってピチャピチャと叩いた。
 帆村は、それには相手になろうともせず、室の中を指(ゆびさ)して、
「どうです。糸子さんは無事ですかネ」と訊いた。
「もちろん大丈夫だすわ。しかし昨夜も、えろう貴方はんのことを心配してだしたぜ。村松はんのことがなかったら二人して貴方はんに奢(おご)って貰わんならんとこや。ハッハッハッ」
 大川主任はいい機嫌で哄笑した。
 室のなかに入ってみると、糸子はもうすっかり元気を回復していた。ただ、まだ麻酔薬が完全にぬけきらないと見えて、いく分睡そうな顔つきは残っていたが……。
「まあ帆村はん。さっきの夢のつづきやのうて、ほんとの帆村はんが来てくれはったんやなア」
 糸子は、けさがた帆村の夢を見ていたらしく、帆村の顔を見て小さい吐息をついた。
 糸子があつく礼をいうのを、帆村は気軽に聞きながして、
「さあ、ここでちょっと糸子さんに折入って話をしたいことがあるんです。皆さん、ちょっと遠慮して下さいませんか」
 そういう帆村の申し出に、付き添いのお松をはじめ、看護婦や警官たちもゾロゾロと外へ出た。扉がピタリと閉って部屋には帆村と糸子の二人きりとなってしまった。
 帆村は何を話そうというのだろう。時刻は五分、十分と過ぎてゆき、廊下に佇(たたず)んで待っている人たちの気をいらだたせた。
 すると突然、糸子の金切り声が聞えた。扉がパッと明いて、糸子が寝衣(ねまき)のまま飛び出してきたのだ。
「――帆村はんの、あつかましいのに、うち呆れてしもうた。あんな人やあらへんと思うてたのにほんまにいやらしい人や。さあ、お松。もうこんなところに御厄介(ごやっかい)になっとることあらへんしい。はよ、うちへいのうやないか」
 お松は愕いて、
「まあ、どないしはったんや。えろう御恩になっとる帆村はんに、そんな口を利いては、すみまへんで――」
「御恩やいうたかて、あんないやらしい人から恩をうけとうもない。一刻もこんなところに居るのはいやや。さあ、すぐ帰るしい。お松はよ仕度をしとくれや」
 何が糸子を憤(いきどお)らせたのであろうか。あれほど帆村に対し信頼し、帆村に対してかなりの愛着を持っていたと思われる糸子が、何の話かは知らぬが、突然憤って帆村を毛虫のように云いだしたんだから、一座もどうこれを鎮(しず)めていいか分らなかった。
 糸子たちがズンズン仕度をととのえているのを見ると、さっきから室の片隅にジッと蹲(うずくま)っていた帆村は、黙々として立ち上り、コソコソと廊下づたいに出ていった。大川司法主任も怪訝(けげん)な面持で、帆村の後姿を無言のまま見送っていた。


   秘密を知る麗人


 その夜、道頓堀をブラついていた人があったら、その人は必ず、今どき珍らしい背広姿の酔漢を見かけたろう。
 その酔漢は、まるで弁慶蟹(べんけいがに)のように真赤な顔をし、帽子もネクタイもどこかへ飛んでしまって、袖のほころびた上衣を、何の意味でか裏返しに着て、しきりと疳高(かんだか)い東京弁で訳もわからないことを呶鳴りちらしていた筈である。
 もしも糸子が、その酔漢の面をひと目見たら、彼女はあまりの情なさに泣きだしてしまうかも知れない処だった。それは外ならぬ帆村荘六その人であったから。
 なぜ帆村は、こうも性質ががらりと違ってしまったんであろうか。昨日の聖人は今日の痴漢であった。
 村松検事を救う手がないので自暴(やけ)になったのか。蠅男を捕える見込みがつかないで、悲観してしまったのか。それとも糸子に云い寄って無下に斥(しりぞ)けられたそのせいであろうか。
 道頓堀に真黒な臍(へそ)ができた。その臍は、すこしずつジリジリと右へ動き、左へ動きしている。それは場所ちがいの酔漢(すいかん)帆村荘六をもの珍らしそうに取巻く道ブラ・マンの群衆だった。
 帆村はポケットから、ウイスキーの壜を出して、茶色の液体をなおもガブガブとラッパ呑みをし、うまそうに舌なめずりをするのだった。そのうちに、何(ど)うした拍子か、喧嘩をおッ始めてしまった。嵐のような人間の渦巻が起った。帆村は犬のように走りだす。その行方にあたってガラガラガラと大きな音がして、女の金切り声が聞える。
 ――帆村は一軒の果物屋の店にとびこむが早いか、太いステッキで、大小の缶詰の積みあげられた棚を叩き壊し、それから後を追ってくる弥次馬に向って、林檎(りんご)だの蜜柑(みかん)だのを手当り次第に抛げつけだしたのである。生憎(あいにく)その一つが、折から騒ぎを聞いて駈けつけた警官の顔の真中にピシャンと当ったから、さあ大変なことになった。
「神妙にせんか。こいつ奴が――」
 素早く飛びこんだ警官に、逆手をとられ、あわれ酔払いの帆村は、高手小手に縛りあげられてしまった。その惨(みじ)めな姿がこの歓楽街から小暗い横丁の方へ消えていくと、あとを見送った弥次馬たちはワッと手を叩いて囃したてた。
 それと丁度同じ時刻のことであったが、本邸に帰った糸子は、何を思ったものか、突然お松に命じて、宝塚ホテルを電話で呼び出させた。
「お嬢はん。なんの御用だっか」
「なんの用でも、かまへんやないか。懸けていうたら、はよ電話を懸けてくれたらええのや」
 糸子は何か苛々(いらいら)している様子だった。
 宝塚ホテルが出た。
 お松がそれを知らせると、糸子はとびつくようにして、電話口にすがりついた。
「宝塚ホテル? そう、こっちは玉屋糸子だすがなア。帆村荘六はんに大至急接(つな)いどくなはれ」
「ええ、帆村はんだっか。いまちょっとお出かけだんね。十二時までには帰ると、いうてだしたが……」
 と、帳場からの返事だった。
「まあ、仕様がない人やなア。どこへ行ったんでっしゃろ」
「さあ、何とも分りまへんなア」
 糸子は落胆の色をあらわして溜息をついた。
「なんぞ御用でしたら、お伝えしときまひょうか」
 と帳場が尋ねると、糸子は急に元気づき、
「そんなら一つ頼みまっさ。今夜のうちに、こっちへ来てくれるんやったら、例の疑問の人物について、私だけが知っとることを話したげます。明日から先やったら、他へ知らせますから、後から恨(うら)まんように――と、そういうておくれやす」
 そこで話を終り、糸子は電話を切った。
 お松は傍で聞いていて、可笑(おか)しそうに笑った。
「なんや思うたら、もう帆村はんと休戦条約だっか。ほほほほ」
 しかし糸子は、思い切ったことを、帆村に申し入れたものだ。
 かねて糸子は蠅男について誰も外の者が知らぬ秘密を握っていると思われたが、いよいよそれを帆村に云う気になったらしい。しかもそれを帆村だけに与えるというのではなく、今夜来なければ、警察の方に知らせてしまうぞという甚だ辛い好意の示し方をした。まだまだ彼女の帆村に対する反感が残っているらしいことが窺(うかが)われた。
 でも今夜のうちといえば、帆村は果して糸子のもとへ駆けつけられるだろうか。それは出来ない相談だった。帆村はいま、暴行沙汰のため、警察の豚箱のなかに叩きこまれているはずだった。宝塚ホテルの帳場子は、帆村がそんな目に会っているとは露(つゆ)知るまい。あたら帆村も、ここへ来て慎みを忘れたがために、折角糸子が提供しようという蠅男の秘密を聞く機会を失ってしまって、遂にこれまでの苦労を水の泡沫(あわ)と化してしまうのだろうか。


   怪! 怪! 蠅男の正体!


 玉屋本邸は、今宵(こよい)糸子を迎えて、近頃にない賑やかさを呈していたが、そのうちに午後九時となり十時となり、親類知己の娘さんたちも一人帰り二人帰りして、やがて十一時の時計を聞いたころには、五人の召使いの外には糸子只一人という小人数になった。
 夜は次第に更けるに従って、この広いガランとした邸はいよいよ浸みわたるようなもの寂しさを加えていった。そのうちに、昨日と同じく、風さえ出て、雨戸がゴトゴトと不気味な音をたてて鳴った。
 糸子はお松を寝所へ下らせて、彼女は只ひとり、かつて父親総一郎の殺された書斎のなかに入っていった。
「お父つぁん――」
 糸子は室の真中に立って、今は亡き父を呼んでみた。もちろん、それに応える声は聞かれなかったけれど。
 糸子は父が愛用していた安楽椅子の上に、静かにしなやかな体をなげた。そして机の上にのっている「論語詳解」をとりあげると、スタンドをつけて頁をめくっていった。
 そのうちに、いつしか糸子は本をパタリと膝の上に落とし、京人形のように美しい顔をうしろにもたせかけて、うつらうつらと睡りのなかに誘われていった。
 外はどうやら雨になったようである。
 そのときである。
 天井裏を、何か重いものがソッとひきずられるような気持ちのわるい音がした。――しかし糸子は、何も知らないで睡っていた。
 ゴソリ、ゴソリと、その不気味な物音は、糸子の睡る天井裏を匍(は)っていった。何者であろうか。召使いたちも、白河夜舟(しらかわよふね)の最中(さいちゅう)であると見え、誰一人として起きてこない。
 危機はだんだんと迫ってくるようである。
 するとゴソリゴソリの音がパッタリ停った。それに代ってコトリという音が、もっとハッキリ聞えた。それは天井裏についている四角な空気抜きの穴のところで発したものだった。
 そのうちに、なにやら黒いものが、その空気穴のなかから垂れ下ってくるのであった。それはだんだん長く伸びて、まるで脚のような形をしていた。そのうちに、また一本、同じようなものが静かに下って来た。どれもこれも、糸のようなもので吊り下げられているらしい。
 腕のようなものが一本、それからまた一本! ズルズルとすこしスピードを増して垂れ下がってくる。
 この奇怪な有様を、何にたとえたらいいであろう。もしこの場の光景を見ていた人があったなら、この辺でキャッといって気絶してしまうかも知れない。
 ――黒い外套のようなものが、フワリと落ちて来た。それにつづいて、穴からヌッと出てきたのは、意外にも人の首だった。見たこともない三十がらみの男の首で、眼をギョロギョロ光らせている。見るからに悪相をそなえていた。
 その首はスーッと穴から下に抜けた。それにつづいて肩が出て来るのであろうか。しかしあのような六、七寸の穴から、肩を出すことは難かしいであろうと思われた。
 しかるに首はスーッと床の上めがけて落ちていく。首のうしろにつづいているのは、男枕を二つ接ぎあわせたようなブカブカした肉魂。――それでお終いだった。
 首と細い胴の一部だけの人間?
 それでも、その人間は生きているのであろうか?
 ドタリと床の上に痩せ胴のついた首が落ちると、それを合図のように、始めに床の上に横たわっていた長い手や足やが、まるで磁石に吸いつく釘のようにキキッと集まって来た。
 やがてムックリと立ち上ったところを見れば、これぞ余人ではなく、有馬山中を疾風のように飛んでいったあの蠅男の姿に相違ない。組立て式の蠅男? なんという奇怪な生き物もあったものだろう。一体蠅男は人間か、それとも獣か?
 蠅男は大きな眼玉をギロリと動かして、安楽椅子の上に睡る糸子の艶めかしい姿に注目した。
 蠅男はそこでニヤリと気味のわるい薄笑いをして、どこに隠し持っていたのか、一条の鋼鉄製の紐をとりだした。それを黒光りのする両手に持って身構えると、サッと糸子の方にすりよった。……呀(あ)ッ、糸子が危い!
 糸子は死んだようになっていた。蠅男の手に懸って、細首を絞められてしまったかと思ったが、そのとき遅く、かのとき早く、
「――蠅男、そこ動くなッ」
 と、突然大音声があがったと思う途端(とたん)、寝台の陰からとび出して来た一個の人物! それは誰であったろうか? 警察の豚箱に監禁せられて熟柿(じゅくし)のような息をふいているとばかり思っていた青年探偵、帆村荘六の勇気凜々(りんりん)たる姿だった。蠅男は無言で後をふりむいた。
「うふ。――いいところへ来たな。俺の正体を見たからには、最早(もはや)一刻も貴様を活かしては置けねえ。覚悟しろッ」
「なにをッ。――」
 鬼神「蠅男」と探偵帆村とは、何も知らずに睡っている糸子を間に挟んで、物凄く睨(にら)み合った。
 風か雨か、はた大噴火か。乾坤一擲(けんこんいってき)の死闘を瞬前にして、身構えた両虎の低い呻り声が、次第次第に高く盛りあがってくる。――


   死闘


 獣か人か。
 怪物蠅男の身体は首の付いた痩せ胴とバラバラの手足から組立てられて居たとは、実に前代未聞の一大驚異である。
 この蠅男の身体に関する秘密は、まだ十分了解することが出来なかったが、決死の青年探偵帆村荘六は脳底から沸き起ろうとする戦慄(せんりつ)を抑えつけて、厳然(げんぜん)とこの大怪物と睨み合っている。
 傍らの椅子には、これまた絵に描いたような麗人糸子が膝に伏せた本の上にすんなりとした片手を置いて、何ごとも知らず安らかに眠っている。どうやら糸子は帆村の命令に従って睡眠剤を服(の)んでいるらしかった。もちろんそれは帆村のやさしき心づかいで、この場の異変にこれ以上彼女の繊細な神経を驚かせたくないという心づかいであったに違いない。
 怪物蠅男は、見るもいまわしい土色の面に悪鬼のような炯炯(けいけい)たる眼を光らかし、激しき息づかいをしながら、部屋の隅からじりじりと寝台の向うに立つ帆村探偵に向って近付いて来るのであった。
 雨か嵐か、はた雷鳴か。怪人と侠青年との息詰まるような睨み合いが続いた。
「勝負は貴様の負だッ。こうなれば観念して、潔(いさぎよ)く降参しろッ」
 と帆村探偵は烈々たる言葉を投げつけた。
「なにを言やがる」と蠅男は歯を噛みならし、
「手前こそ息の止らねえうちに、念仏でも唱えろッ。今度こそは手前の土手ッ腹を機関銃で蜂の巣のようにしてやるんだッ。それでもまだ助かるとでも思っているのか」
 そう云って蠅男はじりじりと前進し、垂れている左腕を静かに挙げて、帆村の胸元目がけて突き出した。それは黒光りのする腕のようでありながら、まるでぎこちない銃身のように見えた。
「ははあ、くくり付けの機関銃とお出でなすったね。そんなインチキ銃に撃たれてたまるものか」
「よオし、これを喰って往生しろッ」
 と蠅男の大喝(だいかつ)と共に長い黒マントの肩先がブルブルと痙攣(けいれん)するより早く、ダダダッと耳をつん裂くような激しい銃声!
「うぬッ――」
 帆村はさっと寝台の蔭に身を沈めた。――と見るよりも早く、蠅男の隙を狙って寝台の下からパッと投げつけた渋色の投網(とあみ)!
 網は空間に花火のように開いて、蠅男の頭上からバッサリ落ち掛ったが、蠅男もさるもの、不意を打たれながらもツツーッと身を引けば、網はかちりと蠅男の左腕の中に仕込まれた機関銃に絡(から)み付(つ)いた。
「生意気なッ――」
 と蠅男が気色ばむ所を帆村はすかさず、
「えいッ」
 と大声もろともすかさず投げ付けた丈夫な撚(よ)り麻の投縄――それが見事蠅男の左腕の中程をキリリと締め上げた。
「さあ、どうだッ」
 と帆村は歓声をあげ、気を外さず麻縄の端を寝台の足に通して、それを支えに満身の力を籠めてえいやッと引けば、流石の蠅男も思わずツツーッと前にのめろうとするのを、ウムと堪えて引かれまいと、反(そ)り身になって抵抗するうち、どうしたはずみかドーンと云う大きな響きを打って蠅男の左腕は肩の附根からすっぽり抜け落ち床の上に転がった。
「あッ、しまった――」
 と蠅男が鉄の爪を持った残りの右腕を伸ばして床の上の抜けた左腕を拾おうとするのを、帆村はそうさせてはなるものかと寝台の上をヒラリと飛び越し、隠しもっていた桑の木刀でヤッと蠅男の頤(あご)を逆に払えば、
「ギャッ」
 とさしもの蠅男も痛打にたまらず、□(どう)と床上に大の字になって引繰り返った。闘いは帆村の快勝と見えた。
「おとなしくしろッ」
 と帆村は蠅男のうえに馬乗りになり、いきなり相手の咽喉をグッと締め付けた――それがよくなかった。蠅男にはまだ人間放れのしたもの凄く頑強な右腕の残っていたことを忘れていたのだ。
 キリキリキリと怪音を立てて蠅男の右腕が起重機のように三米(メートル)ばかりも伸びたかと思うと、それが象の鼻のようにくるくるッと帆村の背後に曲って来て、大きな鋏のような鉄の爪が帆村の細首目掛けてぐっと襲い掛らんとする――あッ、危い!
 糸子は先程から目を醒ましていた。いくら強い睡眠剤でも、部屋の中で機関銃を撃たれては眠っても居られない。彼女は突然目の前に展開しているもの凄い死闘の光景に呑まれて、魂を奪われた人のように呆然と成行を眺めて居たのである。しかし今愛人帆村の一命に係わる大危機を目の前にしては、どうしてその儘(まま)竦(すく)んでいられよう。彼女は素早く身辺を見廻し、机の上に載って居た亡き父の肖像入りの額面を取上げるより早いか二人の方に駆け寄り蠅男の顔面目掛けて発止(はっし)と打ち下ろした。
「うむッ。――」
 と蠅男は呻り声を挙げ、帆村の背後に伸びようとした鉄の爪がわなわなと虚空を掴んだ。
「糸子さん、危いからどいていらっしゃい」
 帆村は糸子に注意をした。そこに一寸の隙があった。それを見逃すような蠅男ではなかった。
「えいやッ――」
 と蠅男は腹の上に乗っていた帆村を下から座蒲団か何かのようにどんと跳ね飛ばした。
 あッと云う間に帆村は宙を一転して運よく寝台の上に叩き付けられたが、若しそこに柔い寝台が無かったら帆村の両眼はぽんぽん飛び出していたかも知れない。
 帆村はくらくらする頭を押えて、撥人形のように寝台を飛び降りた。この時素早く起き直った蠅男は右手を伸べて傍(かたわ)らのガラス窓を雨戸越しにバリバリと破り、その穴から化け蝙蝠(こうもり)のようにヒラリと外へ飛び出した。
 帆村が続いて外に飛び出して見ると、蠅男は何処へ行ったものか影も姿もなく、戸外には唯ひっそり閑(かん)とした黒暗暗(こくあんあん)たる闇ばかりがあった。


   帆村の奇略


 その翌朝のことであった。一夜を糸子の家に明かした帆村は、暁を迎えて昨夜の蠅男との恐ろしい格闘を夢のように思った。
 全く生命がけの争闘であった。こちらもたった一つしかない生命を賭け、怪物蠅男も亦その時は死にもの狂いで立ち向ったのだった。麗人糸子さえ、男子に優るとも劣らないような覚悟を以て死線を乗り越えたのだ。隙間を漏るる風にも堪えられないような乙女をして、こうも勇敢に立ち向わせたものは何か。それは云うまでもなく、乙女心の一筋に彼女の胸に秘められたる愛の如何に熾烈なるかを物語る以外の何ものでもなかった。
「帆村はん。もうお目醒め――」
 と麗人糸子は、憔悴(しょうすい)した面に身躾(みだしな)みの頬紅打って、香りの高い煎茶の湯呑みを捧げ、帆村の深呼吸をしているバルコニーに現われた。
「やあ、貴女ももうお目醒めですか。昨夜は若し貴女(あなた)が居なかったら、僕はこうして夜明けの空気など吸っていられなかったでしょう。うんと恩に着ますよ」
「まあ、なに言うてだんね。帆村はんこそうちのため何度も危ない目におうてでして、どないにか済まんことやといつも手を合わせて居ります。こないに帆村はんを苦しめるくらいやったら、うちが蠅男に殺されてしもうた方がどのくらいましやか知れへんと思うて居ります」
「何を仰有るのです。まだ蠅男との戦いは終って居ないではありませんか。そんな弱気を出しては、貴女のお父さんの仇敵(かたき)はとても打てませんよ」
 と帆村はさり気なく糸子の言外の言葉を外して、ただ一筋に彼女を激励した。糸子はあとは黙って、伏目勝ちに帆村の傍で空になった盆を頻(しき)りに撫でて居た。今更説明する迄もあるまいが、昨夜蠅男を糸子の邸に誘い込んだのも総て帆村の計略だった。彼は蠅男と決戦をする為に態(わざ)とそう云う機会を作ったのだった。最初宝塚ホテルで糸子に「いやらしい人」と腹を立てるよう頼んだのも帆村の計略だった。それから糸子が後ほどホテルの帳場に「帆村さんが帰って来たら蠅男の秘密を言うから来て呉れ」と嘘を言わせたのも彼の計略、それから帆村がウイスキーに酔払って道頓堀で乱暴を働き豚箱に打込まれたのもその計略だった。そこで帆村は、親しい正木署長を呼んで貰って事情を話し、留置場を出して貰うと直ぐに糸子の邸に隠れて、蠅男を迎える準備にかかった。宝塚ホテルの電話は屹度(きっと)蠅男の耳に入るに違いないことは、それ迄の例で分って居たから、それを知れば蠅男はその夜のうちに彼の秘密を知って居ると云う糸子の寝所を襲うだろうとは予期出来ることだった。全くその通りだった。果して蠅男は天井裏を這って侵入し、そこで書斎内で待期して居た帆村探偵とあの激しい死闘を交えるに至ったものであった。
 しかし折角の帆村の奇襲作戦も蠅男の超人的腕力に遭ってはどうすることも出来ず、遂に闇の中に空しく長蛇を逸してしまった形だ。さて今や怪物蠅男は何処に潜んで居るのだろう?
 唯一つ茲(ここ)に帆村を心から喜ばせたものは、蠅男の落として行った機関銃仕掛の左腕であった。帆村はそれを見せるために、糸子を部屋の中に誘った。
「ごらんなさい。糸子さん。恐ろしい仕掛のある鉄の腕です。こっちを引張れば、生きた腕と全く同じように伸び縮みをするし、こう真直にすれば、機関銃になるんです。まだあります。ほらごらんなさい。弾丸(たま)の代りに、こんな鋭い錐(きり)が吹き矢のようにとびだしもするし、その外ちょっと重いものなら、ここにひっかけてパチンコかなどのように撃ちだせる。――」
 帆村は不図(ふと)気がついて顔をあげた。糸子が嗚咽(おえつ)しているのだった。
「どうしました」といったが、そのとき帆村はハッと気がついた。「そうだ、この錐なんですよ、あなたのお父さまの生命を奪ったのは……」
 糸子はそれに早くも気づき、哀(かな)しい追憶に胸もはりさけるようであったのだ。帆村はいろいろと彼女を慰めることにひと苦労もふた苦労もしなければならなかった。
 実は帆村は、まだそれ以上の蠅男の凶器を知っていた。それはその抜け腕の或るところに大豆が通り抜けるほどの穴が腕に沿って三、四個所も明いていたが、ここには元、鉄の棒が入っていたのだ。その棒は彼が拾ってもっていた。あの宝塚の雑木林の中で拾った先端にギザギザのついたあの棒である。あのギザギザは、蠅男が左腕を長く前に伸ばすときに、ちょうど折畳式の写真機の脚をのばすような具合に腕の中からとび出してくる仕掛になっていることに今になって気がついたのである。あの林の中で、蠅男は不注意にも、あれの脱けおちたのに気がつかなかったのだった。しかしあの鉄の棒を拾ったときに、まさかこんな奇怪なカラクリが蠅男の腕にあろうとはさすがの帆村探偵も気がつかなかった。考えれば考えるほど恐ろしい怪物だった。
 一体このような恐ろしい怪物がどうして生れたんだろう? それはちょっと解くことのできない深い謎だった。
 帆村は蠅男の左腕を前に置いて、ジッと深い考えに沈んだ。それからそのいつもの癖(くせ)で、彼はやたらに莨(たばこ)を吸って、あたりに莨の灰をまきちらした。
「うむ、そうだった」と、何事かに思いあたったらしく彼は突然呟(つぶや)いた。「これはやはり、蠅男がこれまで通ってきた道を、はじめからもう一度探し直してみる必要がある。蠅男が最初名乗りをあげたのは何処だったか。それは無論鴨下ドクトルの留守中、その奇人館のストーブの中に逆さに釣りさげられていた焼屍体に発しているんだ。あのとき蠅男は、新聞紙を利用した脅迫状に、はじめて(蠅男)と署名をしたのだった。第二の犠牲者は玉屋総一郎、第三の犠牲者は塩田元検事と、ちゃんと身柄が判明しているのに、ああそれなのに奇人館に発見された焼屍体の身許が今日もなおハッキリしていないのは変ではないか。すべて連続的な殺人事件には、必ず何か共通の理由がなければならぬ。蠅男はなぜ三人の人を殺したか。そうだ。その殺人の理由は第一の犠牲者の身許がハッキリさえすれば、ある程度解けるにちがいない。うむ、よオし。それを知ることが先決問題だ。では、これから奇人館に行き、鴨下ドクトルに逢って、手懸りを探しだそう」
 帆村珠偵は、何かに憑(つ)かれた人のように血相かえて立ち上ると、それを心配して引きとめる糸子の手をふりはらって、外へとびだした。
 果して彼は奇人館に於て、何を発見する?


   大戦慄


 帆村探偵が、住吉区岸姫町の鴨下ドクトル邸を訪れてみると、そこの階下(した)の応接室には、先客が三人も待っていた。それは大阪へ来たついでに楽しい近県旅行をしていたドクトルの一人娘カオルと情人上原山治と、外に正木署長との三人だった。カオル達は、約束どおりに、帰阪するとすぐさま署へ出頭し、そこで此の前は不在だった父親ドクトルに連れ立って会いにきたものであることが分った。
 帆村の名刺も、雇い人の手で二階の研究室にいるドクトルに通じられたが、その返事は、逢うには逢うが、いま実験の途中で手が放せないから暫く待っていてくれとのことだった。
「カオルさんは今度お父さまにまだひと目も会っていないのですか」
 と、帆村は座が定まると、ドクトルの令嬢に尋ねた。
「さっきチラリと廊下を歩いている父の後姿を見たばかりですわ」
「そうですか。幼いときお別れになったきりだそうですが、お父さまの姿には何か見覚えがありましたか」
 と問えば、カオルは首飾りをいじっていた手をとめ、ちょっと首をかしげて、
「どうもハッキリ覚えていませんのですけれど、幼(ちいさ)いときあたくしの見た父は、右足がわるくて、かなりひどく足をひいていたようですが、今日廊下で見た父は、それほど足が悪くも見えなかったので、ちょっと不思議な気がいたしましたわ」
「ほうそうですか。ふうむ」
 と、帆村は腕組をして考えこんだ。
 そのとき正木署長のところへ電話がかかってきたとかで、雇い人に案内されて出ていった。が、すぐ署長はとってかえして、急用が出来たから署へ帰る。しかしすぐまた此処へ出直すから後をよろしくと帆村にいってアタフタと出掛けていった。
 あとは三人になった。
「するとカオルさん。貴方はなにかお父さまの身体についていた痣とか黒子(ほくろ)とか傷痕とかを憶えていませんか」
 と、何を思ったものか帆村はさきほどから熱心になって、カオルに話しかけたのであった。
「さあ、そうでございますネ」とカオルはしきりと古い記憶を呼び起そうと努力していたが、「そうそう、あたくし一つ思い出しましたわ」
「ふうむ。それは何ですか」
 と、帆村は思わず膝をのりだした。
「それは――」
 とカオルが云いかけたとき、雇い人が急いで室内にはいってきて、ドクトルがこれから二人に会うからすぐに二階へ来てくれと伝言をもってきた。カオルは遉(さす)がにパッと眸(ひとみ)を輝かし、十五、六年ぶりに瞼の父に会える悦びに我を忘れているようであった。
 カオルと山治とが席を立って、二階へ上っていくのを見送った帆村は、ただ一人気をもんでいた。若き二人をドクトルの部屋にやることがなんとなく非常に不安になってきた。といって、呼ばれもせぬ彼が、後から追いかけてゆくのも変である。帆村はイライラしながら、全身の注意力を耳に集め、なにか階上から只ならぬ物音でも起りはしないかと、扉のかげに寄り添い、聞き耳たてていた。
 一分、二分と経ってゆくが、何の物音もしない。これは自分の取越苦労だったかと、帆村が首を傾けた折しも、「帆村はん。先生が二階でお呼びだっせ。すぐ会ういうてはります」
 と、三度雇い人が、室内に入ってきた。帆村はハッと思ったが、強いて平静を装い、先に案内に立たせ、二階へ上っていった。
「よう、帆村荘六君か。大分待たせて、すまんかったのう。さあ、こっちへ――」
 と、黒眼鏡をかけ、深い髯の中に埋った鴨下ドクトルの顔が、階段の上で待っていた。帆村はドクトルのその声の隅に、何処か聞き覚えのある訛(なま)りを発見した。
 ドクトルは帆村を案内して、書斎のなかに導き入れた。帆村はその部屋の中を素早く見廻して、先客である筈の二人の若き男女の姿を求めたが、予期に反してカオルの姿も山治の姿も、そこには見えなかった。
 ドクトルは入口の扉をガチャと締めながら、
「まあ、そこへお掛け。きょうは何の用じゃな」
 と、皺枯(しゃが)れ声でいった。
 帆村は、中央の安楽椅子の上にドッカと腰を下ろし、腕組をしたまま、
「きょうは一つ貴方に教えていただきたいことがあって参ったのです」
「ナニ儂に教えて貰いたいというのか。ほう、君も老人の役に立つことが、きょう始めて分ったのかな」
「その老人のことなんですよ」と帆村は薄笑いさえ浮べて、
「つまり鴨下老ドクトルを階下のストーブの中で焼き殺した犯人は誰か? それを教えて貰いたい」
「何を冗談いうのじゃ。鴨下ドクトルは、こうして君の前に居るじゃないか。血迷うな。ハッハッハッ」
 生きている鴨下ドクトルに、鴨下ドクトル殺しの犯人を尋ねるというのは狂気の沙汰だった。帆村探偵は遂に逆上をしたのであろうか。
「言うなッ」と帆村は大喝してドクトルを睨(にら)みつけた。「なんだ、その貴様の左腕は何処へ置き忘れて来たのだッ」
「呀(あ)ッ、こいつを知られたかッ」
 と、ドクトルはブラブラの左腕の袖を後に隠したが、もう遅かった。
「さあどうだ、蠅男! 化けの皮を剥いで、両手をあげろッ。無い方の手も一緒に挙げるんだ」
 と、ピストルを擬して帆村は無理なことをいう。
「うわッ、はッはッ」
 と、蠅男は附け髯のなかから哄笑した。
「手前こそ、今度こそは本当に念仏(ねんぶつ)を唱(とな)えるがいい。この室から一歩でも出てみろ。そのときは、手前の首は胴についていないぞ」
 蠅男は、大蟹(おおがに)のような右手の鋭い鋏をふりかざして恐れ気もなく帆村に迫ってきた。
 今や竜虎(りゅうこ)の闘いである。悪竜(あくりゅう)が勝つか、それとも侠虎(きょうこ)が勝つか。生憎(あいにく)と場所は敵の密室中である。部屋の入口には鍵が懸っていた。


   落ちた仮面


「此奴(こいつ)がッ――」
 ドドンと帆村は敢然(かんぜん)引き金を引いた。今や危急存亡(ききゅうそんぼう)の秋(とき)だった……
「うわッはッはッ」
 人を喰った笑い声もろともアーラ不思議、蠅男の身体がドーンと床の上に仆れるが早いか、ガチャガチャと金属の摺れあう音がして、蠅男の胴と手足がバラバラになった。
「呀ッ!」
 と帆村の逡(たじろ)ぐ前に、バラバラになった蠅男の五体は、まるでその一つ一つが独立した生き物のように、物凄い勢いでクルクルと床上を匍いまわり、次第次第に帆村の身近く迫ってくるのであった。勇猛な帆村探偵も、この勝手のちがった相手の攻勢に遭って、手の出し様がなかった。クルクル廻る蠅男の首を狙うべきか、脚を抑えるべきか。
 帆村は咄嗟(とっさ)にヒラリと安楽椅子の上にとび上った。そして手にしたピストルを下に向けて、ドドドーンと乱射した。
「ぎゃッ。――」
 と、途端(とたん)に聞ゆる悲鳴、素破(すわ)ピストルの弾丸が命中したかと思った刹那(せつな)、傍らの壁に突然ポッカリと丸窓のような穴が明き、蠅男の右腕がまずポーンと飛びこむと、続いて首と胴が、更に鋼条でつながれた二本の義足が、蛇が穴に匍いこむようにゾロゾロッと入ってゆく――。
「こら、待てッ。――」
 と、帆村はピストルを其の場になげだし、折しも穴を潜ろうとする蠅男の一本の足に素手で飛びついた。そうはさせじと蠅男の脚は、恐ろしい力で穴の中へ帆村の身体もろとも引張りこもうとする。エイヤエイヤと、とんだところで蠅男と帆村との力較べが始まったが、やがてギィーッと奇異な音がして帆村探偵は呀ッという間もなくドーンとうしろにひっくりかえる。
 パタンと丸窓の閉まる音。
 ムックリ起き上った帆村の手には、奇妙な物が残った。それは人間の足首そっくりに作られた鋼鉄とゴムとを組合わせた左の義足だった。
 帆村は死人のように青褪(あおざ)め、この奇妙な分捕品を気味わるげに見入った。
 折よくそこへ、正木署長が一隊の腕利きの警官をひきつれて駈けつけ、扉(ドア)を蹴破ってくれたので、帆村は蠅男の追跡を署長に委せ、彼は暫くの休息をとるために、室内の安楽椅子に腰を下ろして汗をふいた。
「なんという怪奇!」
 帆村は疲労を一本の莨にもとめて、うまそうに紫煙をくゆらせながら、呟いた。今しがたのあの恐ろしい格闘の光景を思い出すと、また急に気が遠くなりそうであった。彼は随分これまで狂暴な殺人犯人にも出会ったが、いくら狂暴でも獰猛(どうもう)でも、この怪奇なる組立て人間「蠅男」に較べると作り物の大入道ほども恐ろしくはなかった。怪物蠅男の出現は、人間の常識を超えている! 神か、魔か? どうしてこんな奇異な人間が存在し得るのか?
 それにしても、蠅男が鴨下ドクトルに化けていたのを今迄誰も知らなかったとは、なんという迂濶(うかつ)なことだろうか。帆村も、それを真逆今日になって発見しようとは考えていなかった。丁度旅から帰ってきた鴨下カオルと上原山治と一度会ったとき、不図(ふと)放った帆村の質問から、偽(にせ)ドクトルの仮面が剥(は)げはじめたのである。しかもその話の最中に二人の若き男女は、偽ドクトルに呼ばれて、この階上に来た筈であるが、怪しくも何処へ行ったものか、影さえ見えない。帆村はそれを蠅男の狂悪性と結びあわせて、思わずブルブルと身慄いを催した。
「こうしちゃいられないぞ」
 帆村は吸いつけたばかりの二本目の莨を灰皿に捨てて、スックと立ち上った。蠅男の正体も調べたいが、若き二人の安危が更に気に懸る。
 彼は書斎を調べて廻ったが、思うようなものにぶつからなかった。そこで廊下に走りでて、両側に並んでいる室々を片っぱしからドンドンと叩いて廻った。
 すると、果して一つの部屋のうちから、微(かす)かではあったが、人間の呻(うめ)くような声を耳にした。その部屋はかつて蠅男が帆村を狙いうちにした暗い部屋だった。
 扉を蹴破ってみると、果してその小暗い室内に、洋装のカオルと山治とが荒縄でもってグルグル巻きに縛り合わされていた。
 帆村は愕いて、すぐさま二人の戒(いまし)めの縄を解いてやった。
 二人は再生の悦びを交々(こもごも)のべた後で、偽の父と見破った瞬間に、忽ちこんな目に合ってしまったことを説明した。帆村は、それこそ怪物蠅男が化けていたのだ、といえば山治は、
「――その蠅男は、僕たちが階下(した)の応接室で喋っていたことを、マイクロフォン仕掛で、すっかりこっちで聞いていたんだって云っていましたよ」
「そうなんですのよ。あたくしが父の身体の特徴について、貴方に申上げようとしたので、それを喋られては大変と愕いてこの階上に呼びあげたのですわ。あたくしも、もうすっかり覚悟をしてしまいました。父は蠅男のためにストーブの中で焼き殺されたに違いありませんわ」
「なるほど、あの焼屍体の半焼けの右足の拇指が半分ないのは、お父さまの特徴と一致するというわけですね」
 カオルはそれに応える代りに、はふり落ちる泪を手で抑えつつ大きく頷(うなず)いた。無慚(むざん)な最期を遂げた亡き父に対する悲しみが、今や新たに泪(なみだ)を誘ったのに相違なかった。
「お嬢さん。ドクトルはどうして蠅男に殺されるようなわけがあったのでしょうネ」
 と、帆村が率直に質(たず)ねると、カオルは泪に泣きぬれた白い面をあげて、
「さあそれが、あたくしには一向心当りがございませんのです」
「うむ、貴方にもやはり分りませんか」
 帆村は、また一つ希望を失った。
 だが根本によこたわる彼の信念は微動もしなかった。蠅男の兇刃(きょうじん)に斃(たお)れた鴨下ドクトル、それから富豪玉屋総一郎、最近に元検事正塩田律之進――この三人は、何か蠅男から共通の殺害理由をもちあわしていたに違いないということだ。その殺害理由を探し出すことが、この大事件を解決する一番近道であらねばならぬ。一体それは何だろう。
 この最初の被害者である鴨下ドクトル邸内にも、必ずやその殺害理由を説明するに足る秘密材料の一つや二つが隠されているに相違ない。この際、出来るだけ早くそれを探しあてることだ。
 帆村は、心の中に頷(うなず)いて、小暗い部屋の中を見廻した。暗さの中に瞳が慣れると、この部屋は書庫であるのに気がついた。その書庫には、プーンと黴(かび)の生えた匂いのする古い図書が何万冊となく雑然と積みかさねられてあったのである。
 いま帆村の感覚は針のように尖っていた。彼はその堆高(うずたか)い古書の山を前に向いあっていたとき、不図(ふと)一つの霊感を得た。
(――この古書の中に、なにか参考になる記録が交っておりはしまいか?)
 そう思いつくと、帆村は猛然と活動を開始した。彼はその堆高い古書を、片っぱしから調べ始めたのである。
 カオルと山治も、帆村のために進んで協力を申出でた。そこで三人は、鼠のようになって、古書の山を切り崩していった。
 小半時間も懸ったであろうか。
「うむ、あったぞッ!」
 と、突然帆村が叫んだ。カオルと山治が愕いてその方を見ると、帆村探偵は、空っぽになった本棚の隅から一冊の皮表紙の当用日記を、頭上高くさしあげていた。
「これだこれだ。ドクトルの日記だ。塩田検事正の名が出ている!」
「ええッ」
「まだある。玉屋総一郎の名もあるんだ」
 帆村探偵は興奮のあまり、ドクトルの日記帳をもつ手のブルブル慄えるのをどうすることもできなかった。
 鴨下ドクトルの日記帳の中には、そも如何なる大秘密が認められてあったろうか?


   縮小人間の秘密


 実に貴重なる鴨下ドクトルの日記帳だった。
 プーンと黴の匂いが鼻をうつその黄色くなったドクトルの日記帳のページの中から、永らく帆村の知りたいと思っていた「蠅男」の正体が遂に顔を出したのであった。
 帆村は、青白い額の上にジットリと脂汗(あぶらあせ)を滲(にじ)ませながら、日記帳の中に認められていた愕くべき十年前の秘密について、ドクトルの遺児カオルとその愛人との前に説明をした。その大略は次のようなものであった。
     *
 その日記帳を展げてみると、まずドクトルが一つの素晴らしい医学的研究を思いついて、たいへん得意らしい文章が目についた。そこには、その研究がどんな素晴らしい内容をもっているのか、それには触れていなかった。
 其の次には、ドクトルはその研究材料となってくれる人間を何とかして獲たいものだと、くどくどと熱望の言葉がつらねてあった。
 それからしばらくページを繰ってゆくと、こんどはいよいよ念願が叶って、近く試験台になる人間を手に入れることができるかもしれないと書いてあった。
 時の塩田検事正の名が登場したのも、それから幾日と経たないのちのことだった。塩田検事正は、予(ドクトルのこと)の願いを入れて死刑囚を一旦処刑後引渡すから後はそのまま死なすなり生かすなり思うようにしろと云ってくれたこと、但しこれが他に知れると由々敷(ゆゆし)き大事(だいじ)であるから絶対秘密を守るようにという条件を持ち出されたことが認められてあった。
 それから一週間ほどして、日記帳のページは何のためか十日間ほど空白のまま残されていたが、その後の日附のところには、突然糊本千四郎(のりもとせんしろう)の名が現われ、しかも毎日附け落ちもなくその消息がつけてある。この様子から見ると既に糊本はドクトル邸に同居しているらしかった。
 二十八歳の死刑囚糊本のことについては、ずっと後に数頁を費(ついや)して詳しく説明がしてあった。それによると、死刑囚糊本は南洋で案内人を業としているうち、日本から出稼ぎできていた西山某なる商人の所持金を奪うため、海岸の人気のないところで棍棒をふるって無慚(むざん)にも撲殺し、所持金を奪って逃走した。誰知らぬと思いの外(ほか)、それを同じくこの地に出稼ぎ中の同郷の人、玉屋総一郎に見られてしまい、後に裁判所に於て玉屋の証言が取上げられ、糊本は遂に死刑を宣告されたとある。
 その殺人犯の糊本が刑死すると、塩田検事正の取計いで彼のまだ生温い屍体はドクトル鴨下の待っていた寝台自動車のなかに搬びいれられた。
 糊本はドクトルの手で、見事に蘇生(そせい)せしめられた。しかし彼は蘇生したことを悦ぶ前に、身動きならぬほど厳重に手術台の上に縛りつけられている我が身を怪しまねばならなかった。彼の眼は、ピカピカ光るメスを手にした鴨下ドクトルを見つけた。「何事?」と詰問しようと思ったとき、彼の鼻孔には麻酔薬の高い匂いが香(にお)った。――ドクトルの実験は、そのような光景の中に始まったのである。
 鴨下ドクトルは、糊本の手足を、惜し気もなく電気メスで切断した。そればかりではない。腹腔をたち割って、腸を三分の一に縮めた。胃袋はすっかり取り去られて、食道と腸とが連結された。肺臓とか腎臓とか二つある内臓の一つは切除された。不用な骨や筋肉が取り去られた。満足なのは頸から上だけだった。四時間ほどのうちに遂に手術台の上の糊本の身体は、見るかげもなく小さく縮められた。まるで首の下に肉色の男枕をくくりつけたような畸形人間となり果てた。なんという無慚(むざん)な浅ましい姿に変ってしまったのだろう。
 鴨下ドクトルは、始めてホッと息をついた。こうして大実験のための手術だけは終ったのである。彼はなぜこんな残虐きわまる畸形人間を作ったのであろうか。
 鴨下ドクトルは、一つの大きな学説を持っていた。それをこの縮小人間によって確かめようと考えたのだ。その学説によると、もし人間が生きるのに直接必要でない肉体部分――つまり心臓や肺臓は是非必要だが、手足や二つ以上ある内臓は、これを切除するか又は一つに減らしてしまう。そうすると人間の脳力は、手足などのことに煩わされることがなくなり、結局今まで無駄につかっていた脳力が余ってくるから、従ってその人間は普通の人間よりも何倍も悧巧になる。――だろうというのが、縮小人間に対する鴨下ドクトルの学説だった。この大胆なる学説が、果して正しいかどうか、鴨下ドクトルはそれを人類文化に大なる貢献をする研究だと思い、遂にその実験台となる人間を親しい塩田検事正に無心したのである。そこで死刑囚糊本が選ばれ、大手術の結果、ここに通称「蠅男」の誕生となったものである。鴨下ドクトルの日記によれば、この縮小人間は体力の回復とともに、予期したとおり普通の人間とは比べものにならぬほどの悧巧さを示した。鴨下ドクトルの悦びは、何物にもたとえ難かったが、彼はこの発表をさしひかえて、更に縮小人間の完成に研究をすすめたのであった。蠅男は今やドクトルの懸けがえのない優れた助手だった。二人の共同研究で、電力や磁石で働くという巧妙な新義手や義足を作製した。この組立式の手足のため、蠅男の立居は非常に便利になった。実に愕くべき成功だった。
 しかし鴨下ドクトルは、どうやら大事なことを忘れていたようであった。ドクトルはそのことを日記の終りの方に自ら記しているが、それはこの蠅男の修理された脳力は、あまりにも超人的であって、不世出の大天才と折紙をつけられた鴨下ドクトルの脳力さえ、蠅男の脳力の前には太陽の傍の月のように見劣りがするという事実だった。それは愕くというよりも、むしろ恐ろしいことであった。ドクトルの日記は次のような文句をもって結ばれていた。
「――予はあまりにも、神を忘れて魔の学問の中に足を踏み入れすぎた形だ。予は『縮小人間』を拵(こしら)えたことを今や後悔している。出来るなら、今宵のうちにも、この『縮小人間』を殺してしまいたいと思う。そうすることが、自分の研究を永久に葬りさり、そして万一『縮小人間』が世の中に飛びだして、前代未聞の超人的暴行を働くのを予(あらかじ)め阻止することにもなるのだ。一刻も早く彼を殺さねばならぬ。しかし予は懼れる。あの悧発な『縮小人間』が予のこの危惧と殺意に気づかぬ筈はないのだ。今や時既に手遅れなのではあるまいか。
 予は今日になって、幼なきときに人手に預けてしまった只一人の子供カオルのことを想う。おお吾が愛するカオルよ。汝の父は愛しき御身を今日まで忘れていた。汝の父は、その罪のために、今や悪魔の牙に噛みくだかれようとしているのだ。罪の父はただひと目、御身の顔(かんばせ)を見たいと切望するが、その願いも今はもう空(むな)しき夢と諦めなければならないのかもしれない、噫(ああ)!」
 帆村の読みあげる天才ドクトルの切々の情をこめた日記の文句に、遺児カオルは怺(こら)えに怺(こら)えていた悲しみの泪をおさえかね、ワッと声をあげて愛人山治の膝に泣き崩れた。
 さて探偵帆村荘六の努力が遂に酬いられて前代未聞の「蠅男」の全貌が始めて明らかになった。中でも悦んだのは、府下を守る捜査陣であった。村松検事も自由の身となった。蠅男が検事に塩田先生殺しの罪をぬりつけようとした次第が明らかになったので。蠅男は鴨下ドクトルに化けて洗面所に入ると見せ、すぐさまその窓から法曹ビルの外壁を、あの巧妙な鉄の爪でもって匍いのぼり、窓の外から塩田先生の頭蓋骨に用意の文鎮(ぶんちん)を発射したことが判明したのだった。村松検事は、帆村の顔を見るや走りよって固い固い握手をした。それは冷静を以て聞える村松検事にしては、先例のない昂奮状態であった。帆村も強くその手を握りかえし、
「さあ、村松さん。
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