蠅男
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著者名:海野十三 

 正木署長はドクトルに事情を話して諒解(りょうかい)を乞うた上で、なおドクトルが夜の動物園で何をしていたのかを鄭重(ていちょう)に質問した。
「なにをしようと、儂の勝手じゃ。儂の研究の話をしたって、お前たちに分るものか」
「それでもドクトル、一応お話下さらないとかえってお為になりませんよ」
「ナニ為にならん。お前は脅迫するか。儂は云わん、知りたければ塩田律之進(しおたりつのしん)に聞け」
「えッ、塩田律之進というと、アノ鬼検事といわれた元の検事正(けんじせい)塩田先生のことですか」
 村松検事が愕いて横合いから出てきた。
「そうじゃ、塩田といえば彼奴(あいつ)にきまっとる。あれは儂の昔からの友人じゃ」とドクトルはジロリと一同を見まわし、
「それに儂(わし)は塩田と約束して、これから堂島(どうじま)の法曹クラブに訪ねてゆくことになっとる。心配な奴は、儂について来い。しかし邪魔にならぬようについて来ないと、遠慮なく呶鳴りつけるぞ」
 あの有名な塩田先生の友人と聞いては、検事も署長も、大タジタジの体であった。なかにも村松検事は、塩田先生の門下の俊才として知られていた。それで彼は、この上、先生の友人である鴨下ドクトルを警官たちが怒らせることを心配して、
「じゃあドクトル、塩田先生にはしばらく御無沙汰していましたので、これから一緒にお伴をしてもいいのですかネ」
「なんじゃ、貴公がついて来るというのか。ついて来たけりゃついてくるがいい。しかし今もいうとおり、邪魔にならぬようにしないと、この洋杖でなぐりつけるぞ」
 奇人館の主人は、なるほど奇人じみていた。検事はそれをうまくあしらいながら、署長たちに断りをいって、ドクトルのお伴をすることになった。堤(どて)のところに待っていた一台の警察の紋のついた自動車がよばれ、それにドクトルと検事は乗りこんで、出かけていった。
 帆村は、はじめて見た鴨下ドクトルの去ったあとを見送りながら、
「フーム、実に興味津々(しんしん)たる人物だ」
 と歎息(たんそく)した。
 そして正木署長の方を向いて、鴨下ドクトルが帰館して、あの暖炉(だんろ)のなかの屍体のことをどういったか、それからまたドクトルは何処に行っていたのかなどという予(かね)て彼の知りたいと思っていたことを訊(き)いてみた。
 それに対して署長は苦笑(にがわら)いをしながら、イヤどうも万事あの調子なので、訊問(じんもん)に手古(てこ)ずったがと前置きして、次のように説明した。
 すなわちドクトルは、急に思いたって東京に行っていたのだそうである。そして十二月一日から五日まで、上野の科学博物館へ日参して博物の標本をたんねんに見てきたそうである。宿は下谷区(したやく)初音町(はつねちょう)の知人の家に泊っていたという。
 それから暖炉のなかの屍体は、一向心あたりがないという。これはお前たちの警戒が下手くそのせいだとプンプン怒っていたとのことである。
 ドクトルのいったことが正に本当かどうか、それは上申して目下取調べを警視庁に依頼してあるということだった。
 帆村は早くその報告が知りたいものだと思った。しかしまだ二、三日は懸るのであろう。
「それから正木さん。ドクトルの娘のカオルさんたちはどうしました。いまの話では行き違いになったらしいが、今どこにいるのですか」
「ああそのことや。実はドクトルからも尋ねられたことやけれど、娘はんとあの上原山治という許婚(いいなずけ)は、ドクトルが居らへんもんやさかい、こっちへ来たついでやいうて、いま九州の方かどっかへ旅行に出とるのんや。帰りにきっと本署へ寄るという約束をしたんやさかい、そのうち寄るやろ思うてるねん」
「ほほう、そうですか」


   大戦慄(だいせんりつ)


 非常警戒の夜は、張り合いのないほど静かに更(ふ)けていった。蠅男はどこにひそんでいるのか、コトリとも音をたてない。ドクトルの騒ぎが、最後の活気であるかのように思われた。
 この調子なら、蠅男もこの一画に閉じこめられたまま、あの殺人宣言はむなしく空文(くうぶん)に終ってしまうことかと思われた。
 正木署長が呼ばれて、交番の方へ歩いていった。
 しばらくして、署長はトコトコと元の位置へ帰ってきた。
「どうかしましたかネ」
 帆村は退屈さも半分手つだって、署長に声をかけた。
「いや、行きちがいの話だんね」
「ははァ、行きちがいの話ですか。じゃあそこまで行ってどうも御苦労さまというわけですか」
「まあそんなものや。つまり村松検事さんのところへ、塩田先生からの速達が来たという話やねん。今夜十時までに、堂島さんの法曹クラブに訪ねてきてくれというハガキや」
「村松さんはもう行ったじゃないですか」
「そうや。そやさかい、行きちがいや云うとるねん」
「しかし速達はギリギリに着いたですね。もうかれこれ九時ですよ」
 二人の会話は、そこでまたもや杜切(とぎ)れてしまった。帆村は次第につのり来る寒さに、外套の襟を深々とたて、あとは黙々として更けてゆく夜の音に、ただジッと耳を澄ましたのだった。
 おお蠅男は、どこに潜(ひそ)んでいる?
 こうして頤紐(あごひも)をかけた大勢の警官隊でもって、大阪きっての歓楽の巷である新世界と大阪一の天王寺公園とを冬の陣のようにとりかこんでいるが、蠅男とお竜とはもういつの間にか、この囲みをぬけてどこかへ逃げてしまったのではないか。
 全く神出鬼没(しんしゅつきぼつ)の怪漢蠅男のことだから、容易に捕る筈がない。しかもこの界隈(かいわい)は、人間の多いこと、抜け裏の多いことで大阪一の隠れ場所だ。いまに活動や芝居がはねて、群衆が新世界からドッと流れだしたときには、警官隊はどうしてその夥(おびただ)しい人間の首実検をするのであろうか。恐らく蠅男は、その閉場(はね)の時刻を待っているのであろう。
 怪漢蠅男ほど頭の働く悪人は聞いたことがない。彼奴はすこぶるの知恵者であり、そして云ったことを必ず実行する人間であり、そして人一倍の見栄坊だ。彼はどうしても今夜のうちに、異常なセンセイションをひき起す殺人を実演してみせるに違いない。だからこの一画のなかに縮こまっているなんて、そんな筈がないのだ。
 その蠅男と、彼帆村とは、きょうはじめて口を利きあった。それは電話でのことであったが、特筆大書すべき出来ごとだった。
 糸子をかえしてよこして、彼に探偵を断念しろというところなんか、実に凄い脅迫である。彼は今、やっぱり探偵根性をもって、蠅男のあとを嗅ぎまわっているが、これが蠅男に知れずにはいまい。そのときこそ、彼は一大決心を固めなければならない。蠅男の知恵には、さすがの彼も全く一歩どころか数歩をゆずらなければならない。
 こうしているうちにも、蠅男は誰かの胸もとに鋭い刃をジリジリと近づけつつあるのではあるまいか。殺人宣告書は誰がもっているのか分らないが、一体誰が殺される役まわりになっているのだろうか。
 そのとき帆村は、まっさきに心配になるものを思いだした。彼は急に機械のまわりだした人形のように、トコトコ歩きだした。
 彼は交番へ入った。そして電話で、宝塚のホテルに詰めている大川司法主任をよんでもらうように頼んだ。
「モシモシ、こっちは大川だす。なんの用だすかいな」
 帆村はその声を聞いて、胸を躍らせた。彼はその後の蠅男の事情を報告して、もしや糸子のところに死の宣告書が来ていないかを尋ねた。
「それは大丈夫だす。そんなものは決して来てえしまへん。安心しなはれ」
 大川主任はキッパリ答えた。
 帆村は安心をして電話を切ったが、しかしまた新たなる心配が湧き上ってきた。
「誰かが、死の宣告書をつきつけられているのに違いない。その人は何かの理由があって、そのことを警察に云ってこないのではないか。早く云ってくれば助けられるかも知れないのに……」
 そんなことを考えつづけているときだった。霞町(かすみちょう)の角を曲って、こっちへ進んで来た自動車が、ピタリと停った。
 誰だろうと見ると、なかからヒョイと顔を出したのは余人ならず鴨下ドクトルの鬚面であった。
「正木さん、オイ正木さんは居らんか」
 ドクトルは住吉署長の名をしきりと呼んだ。
 なにごとだろうと、正木署長は自動車のところへ駆けつけた。
「おお正木さん。ねえ、冗談じゃないよ。君たち、こんなところで非常警戒していても何にもならせんよ。蠅男はすでにさっき現われて、儂の大切な友人を殺し居ったぞ」
「えッ、蠅男が現われたと……」
 誰も彼もサッと顔色をかえた。
「誰が殺されたんです」
 帆村が反問した。
「殺された者か。それは儂の友人、塩田律之進じゃ。それはまだいいとして、殺したのは誰じゃと思う」
「蠅男ではないんですか」
「あれが蠅男なんだろうな」ドクトルは小首を傾け、
「とにかく捕ったその蠅男は、さっき儂と一緒の車に乗っていた村松という検事なんじゃ」
「ええッ、村松検事が……」
「塩田先生を殺したというのですか」
「そして検事が蠅男だとは、まさか……」
 一同はあまりのことに腰を抜かさんばかりに愕いた。村松検事があの恐るべき蠅男だったとは、誰が信じようか。しかしドクトルの言葉は、出鱈目を云っているとは思われない。どこかに間違いがあるのであろう。一体どこが間違っているのか?
 間違っていないことは、帆村にいったとおり、それが誰にもせよ「蠅男」が今夜もキッパリ人を殺したということ!


   法曹クラブの殺人


 村松検事は、果して恐るべき殺人魔「蠅男」なのであろうか?
 検事を信ずることの篤(あつ)い帆村探偵は、誰が何といおうと、それが間違いであることを信じていた。しかし何ごとも証拠次第で決まる世の中だった。元の鬼検事正、塩田先生の殺害現場を調べた検察官はまことに遺憾にたえないことだったけれど、村松検事を殺人容疑者として逮捕するしかないのっぴきならぬ証拠を握っていたのであった。
 そのときの報告書に記された殺人顛末(てんまつ)は、次のような次第であった。
 場所は、大阪の丸の内街と称せられる堂島に、最近建てられた六階建のビルディングで、名づけて法曹クラブ・ビルというところだった。
 当夜午後九時をすこし廻ったとき、人造大理石の柱も美々しいビルの玄関に、一台の自動車が停った。そして中から降りて来たのは一人の鬚の深い老人と、もう一人は黒い服を着た顔色の青白い中年の紳士だった。この老人は、云わずとしれた鴨下ドクトルだったし、黒服の中年紳士は村松検事であった。
 二人はボーイに来意をつげた。
 ボーイは早速電話でもって、塩田先生に貸してある小室へ電話をかけた。すると塩田先生が電話口に現われて、
「おおそうか。鴨下ドクトルに、村松も一緒について来たのか。たしかに二人連れなんだネ」
「左様でございます」
 とボーイは返事をした。
 すると塩田先生は、何思ったか急に言葉を改めて、ボーイに云うには、
「実は、これは客に知れては困るので、君だけが心得て、ソッと知らせて貰いたいんだが……」、と前提して、「その村松という客の前額に、斜めになった一寸ほどの薄い傷痕がついているだろうか。ハイかイイエか、簡単に応えてくれんか」
 ボーイはこの奇妙な質問に愕いたが、云われたとおり村松氏の額(ひたい)を見ると、なるほど薄い傷痕が一つついていた。
「ハイ、そのとおりでございます」
「おおそうかい」と、塩田先生は安心したような声を出して、「では丁寧に、こっちへお通ししてくれんか」
 二人の客は、そこで帽子とオーバーとを預けて、エレヴェーターの方に歩いていったが、そのときドクトルは横腹をおさえて顔を顰(しか)め、ボーイに手洗所の在所(ありか)を聞いた。
 そこでボーイが一隅を指(ゆびさ)すと、ドクトルは村松氏に先へ行くようにと挨拶して、アタフタと手洗所の中へ入っていった。
 ボーイは村松氏だけを案内して、六階にある塩田先生の貸切り室へ連れていった。扉をノックすると、塩田先生が自ら入口を開いて、村松氏を招じ入れた。鴨下ドクトルは今手洗所に入っているから、間もなく来るであろうと村松氏が云えば、先生は大きく肯(うなず)き、そうかそうかといって、急いで村松氏の手をとり、室内へ入れ、扉をピタリと閉じた。
 ボーイは、手洗所から鴨下ドクトルが出て来ない前に、階下へ下りていなければならぬと思ったので、エレヴェーターを呼んで、スーッと下に下りていった。
 約七、八分の間であったと、ボーイは後に証言した。ボーイが、手洗所から出てきた鴨下ドクトルを案内して、再び塩田先生の室の前に立ったまでの時の歩みを後から思い出してみると、――
 その七、八分という短い時間のうちに、塩田先生の室には大変なことが起っていたのだった。それとも知らぬボーイは、室の扉をコンコンとノックした。
 しかるに、室のなかからは、何の返事もない。聞えないのかと思って、もう一度、すこし高い音をたててノックしたが、やはり返事がない。
「オイ、どうしたんじゃ。お前は部屋を間違えとるんじゃないか。しっかりせい」
 と、気短かの鴨下ドクトルは、ボーイを呶鳴りつけた。
 ボーイは、そういわれて、室番号を見直したが、たしかに間違いない。室内には、電灯が煌々(こうこう)とついている。六階で電灯のついているのは、そんなに沢山あるわけではない。どうしてもこの室なのに、塩田先生と村松氏は、一体中で何をしているのだろう。
 ボーイは把手(ノッブ)をつかんで、押してみた。
 だが、扉はビクともしない。内側から鍵がかかっているのだった。
「変だなア。モシモシ、お客さん――」
 と、ボーイは大声で呶鳴りながら、扉を激しく叩いた。
 すると、扉のうちで、おうと微(かす)かに返事をする者があった。
 ボーイはホッとして、鴨下ドクトルの顔を見上げた。ドクトルは鬚だらけの顔のなかから、ニヤニヤと笑っていた。
 やがて扉の向うで、鍵の廻る音が聞えた。そして扉がギーッと内に開いて、顔を出したのは村松検事だった。だが彼の顔は、血の気を失って、まるで死人のように真青であった。
 検事は、ブルブル慄(ふる)う指先で室内を指し、
「殺人事件がおこったんだ。ボーイ君。そこらにいる人を大声で呼びあつめるんだ。それから、鴨下ドクトル。すみませんが、どこかそこらの室から電話をかけて、警察へ知らせてくださらんか」
 村松は、やっとそれだけのことを云った。ボーイは、扉ごしにチラリと室内を見やった。絨毯(じゅうたん)の上に、大きな人間の身体が血まみれになって倒れているのが明るい電灯の下によく見えた。彼はドキンとして、腹の中から自然に声がとび出した。
「おう、人殺しだッ。皆さん早く来て下さいッ」


   引かれゆく殺人検事?


 電話で知らせたので、警察からは係官が宙をとんで駈けつけた。
 惨劇の室内に入ってみると、そうも広くないこの室は、なまぐさい血の香で噎(むせ)ぶようであった。
 塩田先生は、脳天をうち砕かれ、上半身を朱に染めて死んでいた。これが曾(かつ)て、鬼検事正といわれ京浜地方の住民から畏敬されていた塩田律之進の姿なのであろうか。それはあまりにも悲惨な最期だった。
 係官の取調べが始まった。
 塩田先生が殺害された当時、この室のうちに誰がいたか。
 それは外でもない。村松検事只一人だったことを証明する者が沢山居た。
 ボーイも証言した。鴨下ドクトルも、もちろん同意した。階下の事務所にいて、塩田先生のところへ電話をかけたボーイ長もそれを否定しなかった。鴨下ドクトルが手洗所に入り手洗所から出てくるのをみていた、女事務員たちの中にも、それに異議をいう者がなかった。
「どうです、村松さん。これについて何か云いたいことがありますか」
 当直の水田検事が、気の毒そうに、この先輩にあたる村松に訊いた。
「……」
 村松は物を云うかわりに、首を左右に振って答えた。口を開く気力もないといった風であった。
「では村松さん。貴方はここに死んでいる人を殺した覚えがありますか」
 村松は、更に無言のまま首を左右にふった。
「では、この人は、どうしてここに死んでいるのです」
 村松はやはり黙々として、かぶりを振った。
「検事はん。血まみれの文鎮についとった指紋が、うまく出よりました。これだす」
 そういって、鑑識課員が、白い紙に転写した指紋と、凶器になった文鎮とを差出した。
「それから、ちょっと村松氏の指紋を取ってくれ」
「えッ、村松はんのをでっか」
 鑑識子はオズオズと気の毒な容疑者村松検事の顔と、命令する水田検事との顔を見くらべた。それを聞いていた村松検事は、無言のまま、右手を前につきだした。ああその手、鑑識子の前に拡げられた村松の掌には、赤黒い血がベットリとついていた。
 鑑識子は物なれた調子で、村松の指紋を別の紙の上に転写して、差出した。
「どうだネ、この両方の指紋は……」
 水田検事の声は、心なしか、すこし慄(ふる)えを帯びているようであった。
 鑑識子は、命ぜられるままに二枚の紙にうつし出された指紋を、虫眼鏡の下にジッと較べていたが、やがて彼の額には、ジットリと脂汗が滲みだしてきた。
「どうだネ。指紋は合っているか、合わないか」
「……同一人の指紋でおます」
 鑑識子は苦しそうに応えて、ハンカチーフで額の汗を拭いた。
 水田検事は、それを聞くと、傍(わき)を向いていった。
「村松氏を、殺人容疑者として逮捕せよ」
 村松氏の手首には痛々しく捕縄がまきついた。曾ては、蠅男の捜査に、係官を指揮していた彼が、今は逆に位置をかえて、殺人容疑者として拘禁される身となった。
 疑問の怪人「蠅男」を捕えてみれば、それは人もあろうに「蠅男」捜査の指揮者であった村松検事であったとは。其の場に居合わせた人々は、事の意外に声もなく、ただ呆れるより外なかったのである。
 村松検事に世話になっていた人たちは、水田検事の取調べに対して、もっといろいろ反駁してくれることを冀(ねが)っていた。しかるにこの人たちの期待を裏切って、村松検事はほとんど口を開かなかったのである。
 なぜ村松は、多くを喋らなかったのであろう。彼は凶器と断定せられる文鎮の上に、自らの指紋がついているのに気がついて、もう何を云っても脱れぬところと、殺人罪を覚悟したのであろうか。それとも何か外に、喋りたくない原因があったのであろうか。
 関係者たちに、ひとまず休憩が宣せられ、容疑者村松検事は別室に引かれていった。
 現場では、無慚な最期をとげた塩田先生の骸(なきがら)の上に、カーキ色の布がフワリとかけられた。
 水田検事の一行は、予審判事と組んで、惨劇の室のうちに、いろいろと証拠固めをしてゆくのであった。
 丁度その半ばに、急を聞いて、帆村探偵や正木署長たちが駆けつけた。
 いくら村松検事の味方が駆けつけたとて、犯行は犯行であった。水田検事から詳しい説明がのべられると、村松検事の無罪説を信じていた帆村たちも、それでも村松検事は塩田先生殺しに無関係であるとはいえなかった。
(しかし、これは何か大きな間違いがあるのに違いない)
 帆村はあくまでそれを信じていた。
 でも、内部から鍵をかけた密室の殺人事件――塩田先生は文鎮で脳天をうち砕かれ、村松には凶器である文鎮を握っていた証拠がある。窓は内から鍵こそ掛っていなかったが閉っていたそうである。もし窓が明いていたとしても、誰が窓の外から侵入して来られるだろう。なにしろこの法曹クラブ・ビルというのは、スベスベしたタイル張りの外壁をもって居り、屋上には廂(ひさし)のようなものが一間ほども外に出ばっていたし、人間業(わざ)では、到底(とうてい)窓の外から忍びこむことが出来そうもなかった。
 すると、村松検事の犯行でないという証明は、ちょっと困難になるわけだった。
 帆村は、水田検事に頼んで、村松にひと目会わせてくれるように頼んでみたけれど、この際のこととて、それもあっさり断られてしまった。


   死闘宣言


 帆村探偵は、彼をしきりと慰めてくれる正木署長とも別れ、ただひとり附近のホテルに入った。
 糸子の泊っている宝塚ホテルへ帰ろうかと思わぬでもなかったけれど、それよりは村松検事の身近くにいた方が、なにか便利ではないかと思ったからだ。
「どうすれば、村松さんを救いだせるだろうか」
 冷たい安ホテルの一室の、もう冷えかかったラジエーターの傍に椅子をよせて、帆村はいろいろと、これからの作戦を考えつづけた。だが一向に、これはと思ううまい考えも浮んで来なかった。
 そのうちに彼は、コクリコクリと居眠りを始めた。昼間の疲れが、ここで急に出て来たのであろう。
 ガタリ。
 突然大きな音がして、帆村はハッと眼ざめた。どうやら廊下の方から聞えたらしい。
 深夜の怪音の正体は何? 何者かが廊下の窓を破って、ホテルのなかに忍びこんでくるようにも感じられた。
 帆村は素早く室内のスイッチをひねって、室内の灯りを消した。それからポケットからピストルを出して手に握ると、人口の扉の錠を外した。そして床に腹匍(はらば)いせんばかりに跼(かが)んで、扉をしずかに開いてみた。もし廊下に何者かの人影を見つけたら、そのときはピストルに物を云わせて、相手の足許を射抜くつもりだった。
「なアんだ。誰もいやしない」
 廊下には、猫一匹いなかった。それでも彼は念のため、廊下に出て、窓を調べてみた。窓には内側からキチンと錠が下りていた。しかし窓はしきりにガタガタと鳴っていた。真暗な外には、どうやら風が出てきたらしい。帆村はホッと息をついて、自分の部屋に帰っていった。
 風は目に見えるように次第に強くなり、ヒューッと呻り声をあげて廂(ひさし)を吹きぬけてゆくのが聞えた。
 こうしてひとりでいると、まるで牢獄のうちに監禁されたまま、悪魔が口から吐きだす嵐のなかに吹き飛ばされてゆくような心細さが湧いてくるのであった。
 チリチリチリ、チリン。
 突然、電鈴(ベル)が鳴った。電話だ。
 それは夢でも幻想でもなかった。たしかに室内電話が鳴ったのである。深夜の電話! 一体どこから掛ってきたのであろう。
 帆村は受話器をとりあげた。
「帆村君かネ」
「そうです。貴方は誰?」
 帆村の表情がキッと硬ばり、彼の右手がポケットのピストルを探った。
「こっちはお馴染(なじみ)の蠅男さ」
「なに、蠅男?」
 蠅男がまた電話をかけてきたのだ。村松検事の声とは全然違う。帆村は、蠅男に対する恐ろしさよりは、この蠅男の電話を、ぜひとも水田検事に聞かせてやりたかった。
「どうだネ、帆村君。今夜の殺人事件は、君の気に入ったかネ」
「貴様が殺(や)ったんだナ。塩田先生をどういう方法で殺したんだ。村松検事は貴様のために、手錠を嵌(は)められているんだぞ」
「うふふふ。検事が縛られているなんて面白いじゃないか」と蠅男は憎々しげに笑った。「どう調べたって、検事が殺ったとしか思えないところが気に入ったろう。口惜しかったら、それをお前の手でひっくりかえしてみろ。だが、あれも貴様への最後の警告なんだぞ。この上、まだ俺の仕事の邪魔をするんだったら、そのときは貴様が吠(ほ)え面(づら)をかく番になるぞ。よく考えてみろ。もう電話はかけない。この次は直接行動で、目に物を見せてくれるわ。うふふふ」
「オイ待て、蠅男!」
 だが、この刹那(せつな)に、電話はプツリと切れてしまった。
 神出鬼没とは、この蠅男のことだろう。彼奴は、帆村の入った先を、すぐ知ってしまったのだ。いまの電話の脅し文句も、嘘であるとは思えない。蠅男は宣言どおり、いよいよこれからは直接行動で、帆村に迫ってこようというのだった。帆村はもう覚悟をしなければならなかった。
 帆村は奮然(ふんぜん)と、卓を叩いて立ち上った。
(そうだ。村松検事を救い出す手は外にないのだ。それは蠅男を逮捕する一途があるばかりだ。やれ、村松検事が殺人罪に堕ちた。やれ、糸子さんが蠅男に誘拐された。やれ、今度は誰のところに死の宣告状がゆくか。やれ、どうしたこうしたということを気に懸けているより、そんなことには頓着することなく、一直線に蠅男の懐にとびこんでゆくのが勝ちなのだ。蠅男はそうさせまいとして、俺の注意力が散るようにいろいろな事件を組立てて、それを妨害しているのにちがいない。よオし、こうなれば、誰が死のうとこっちが殺されようと、一直線に蠅男の懐にとびこんでみせるぞ)
 今や青年探偵帆村荘六は、心の底から憤慨したようであった。一体帆村という男は、探偵でありながら、熱情に生きる男だった。その熱情が本当に迸(ほとばし)り出たときに、彼は誰にもやれない離れ業を呀(あ)ッという間に見事にやってのけるたちだった。今までは、蠅男を探偵していたとはいうものの、その筋の捜査陣に気がねをしたり、それからまたセンチメンタルな同情心を起して麗人をかばってみたり、いろいろと道草を喰っていたのだ。翻然(ほんぜん)と、探偵帆村は勇敢に立ち上った。
(一体、蠅男というやつがいくら鬼神でも、これだけの事件を起して、その正体を現わさないというのは可笑(おか)しいことだ。今までに知られた材料から、蠅男の正体がハッキリ出て来ないというのでは、帆村荘六の探偵商売も、もう看板を焼いてしまったがいい。うむ、今夜のうちに、何が何でも、蠅男の正体をあばいてしまわねば、俺はクリクリ坊主になって、眉毛まで剃ってしまうぞ)
 帆村は眉をピクリと動かすと、何と思ったか、狭い室内を檻に入れられたライオンのように、あっちへ行ったり、こっちへ来たりして気ぜわしそうに歩きだした。


   糸子の立腹


 帆村探偵は、どんなにして次の朝を迎えたのかしらない。
 とにかく彼が、室を出てきたところを見ると、普段から蒼白な顔は一層青ざめ、両眼といえば、兎の目のように真赤に充血していた。よほどの苦労を、一夜のうちに嘗(な)めつくしたらしいことが、その風体(ふうてい)からして推(お)しはかられた。
 帆村は、すぐさま村松検事の留置されている警察署へゆくかと思いの外(ほか)、彼はその前を知らぬ顔して、自動車をとばしていった。そして到着したところは、阪急の大阪駅乗車口であった。
 彼はそこで大勢の人をかきわけ、大きな声で宝塚ゆきの切符を買った。
 急行電車に乗りこんだ彼は、乱暴にも婦人優先席にどっかと腰を下ろすや、腕ぐみをして眼を閉じた。そして間もなく大きな鼾(いびき)をかきだすと見る間に、隣に着飾った若奥様らしい人の肩に凭(もた)れて、いい気持ちそうに眠ってしまった。
 車掌が起こしてくれなければ、彼はもっと睡っていたかも知れない。彼は慌てて、宝塚の終点に下りて、電柱の側らで犬のような背伸びをした。
 それから彼は、太い籐(とう)のステッキをふりふり、新温泉の方へ歩いていった。
 でも彼は、新温泉へ入場するのではなかった。彼はその前をズンズン通りすぎた。そして、やがて彼が足早に入っていったのは、池谷医師の控邸だった。それは先に、糸子が訪れた家であり、それよりもすこし前、池谷医師がお竜と思(おぼ)しき女と、肩をならべて入っていった家であった。
 入口の扉には、鍵がかかっていなかった。帆村は無遠慮にも、靴を履いたまま上にあがっていった。何を感じたものか、彼は各室を鄭重に廻っては、押入や戸棚を必ず開いてみた。そして壁や天井を、例の太い洋杖(ステッキ)でコンコンと叩いてみるのだった。
 階下が終ると、こんどは階上へのぼって、同じことを繰りかえした。
 でも、格別彼が大きい注意を払ったものもなく、別にポケットへねじ込んだものもなかった。十五分ばかりすると彼はまた玄関に姿を現わした。そして後をも見ず、その邸の門からスタスタと外へ出ていった。
 それから彼は、再び新温泉の前をとおりすぎ、橋を川向うへ渡った。そこには宝塚ホテルが厳然(げんぜん)と聳(そび)えていた。彼の姿はそのホテルのなかに吸いこまれてしまった。
 大川司法主任は、糸子の室の前の廊下で、朝刊を一生懸命に読みふけっているところだった。なにしろその朝刊の社会面と来たら、村松検事の殺人事件の記事で一杯であった。村松検事の大きな肖像写真が出ていて「検事か? 蠅男か?」と、ずいぶん無遠慮な疑問符号がつけてあった。
「恩師殺しに秘められたる千古の謎!」などという小表題(こみだし)で、三段ぬきで組んであった。
「ああ帆村はん。これ、なんちゅうことや。儂(わし)はもう、あんまり愕いたもんやで、頭脳が冬瓜(とうがん)のように、ぼけてしもたがな」
 そういって、大川司法主任は、新聞紙の上を大きな掌でもってピチャピチャと叩いた。
 帆村は、それには相手になろうともせず、室の中を指(ゆびさ)して、
「どうです。糸子さんは無事ですかネ」と訊いた。
「もちろん大丈夫だすわ。しかし昨夜も、えろう貴方はんのことを心配してだしたぜ。村松はんのことがなかったら二人して貴方はんに奢(おご)って貰わんならんとこや。ハッハッハッ」
 大川主任はいい機嫌で哄笑した。
 室のなかに入ってみると、糸子はもうすっかり元気を回復していた。ただ、まだ麻酔薬が完全にぬけきらないと見えて、いく分睡そうな顔つきは残っていたが……。
「まあ帆村はん。さっきの夢のつづきやのうて、ほんとの帆村はんが来てくれはったんやなア」
 糸子は、けさがた帆村の夢を見ていたらしく、帆村の顔を見て小さい吐息をついた。
 糸子があつく礼をいうのを、帆村は気軽に聞きながして、
「さあ、ここでちょっと糸子さんに折入って話をしたいことがあるんです。皆さん、ちょっと遠慮して下さいませんか」
 そういう帆村の申し出に、付き添いのお松をはじめ、看護婦や警官たちもゾロゾロと外へ出た。扉がピタリと閉って部屋には帆村と糸子の二人きりとなってしまった。
 帆村は何を話そうというのだろう。時刻は五分、十分と過ぎてゆき、廊下に佇(たたず)んで待っている人たちの気をいらだたせた。
 すると突然、糸子の金切り声が聞えた。扉がパッと明いて、糸子が寝衣(ねまき)のまま飛び出してきたのだ。
「――帆村はんの、あつかましいのに、うち呆れてしもうた。あんな人やあらへんと思うてたのにほんまにいやらしい人や。さあ、お松。もうこんなところに御厄介(ごやっかい)になっとることあらへんしい。はよ、うちへいのうやないか」
 お松は愕いて、
「まあ、どないしはったんや。えろう御恩になっとる帆村はんに、そんな口を利いては、すみまへんで――」
「御恩やいうたかて、あんないやらしい人から恩をうけとうもない。一刻もこんなところに居るのはいやや。さあ、すぐ帰るしい。お松はよ仕度をしとくれや」
 何が糸子を憤(いきどお)らせたのであろうか。あれほど帆村に対し信頼し、帆村に対してかなりの愛着を持っていたと思われる糸子が、何の話かは知らぬが、突然憤って帆村を毛虫のように云いだしたんだから、一座もどうこれを鎮(しず)めていいか分らなかった。
 糸子たちがズンズン仕度をととのえているのを見ると、さっきから室の片隅にジッと蹲(うずくま)っていた帆村は、黙々として立ち上り、コソコソと廊下づたいに出ていった。大川司法主任も怪訝(けげん)な面持で、帆村の後姿を無言のまま見送っていた。


   秘密を知る麗人


 その夜、道頓堀をブラついていた人があったら、その人は必ず、今どき珍らしい背広姿の酔漢を見かけたろう。
 その酔漢は、まるで弁慶蟹(べんけいがに)のように真赤な顔をし、帽子もネクタイもどこかへ飛んでしまって、袖のほころびた上衣を、何の意味でか裏返しに着て、しきりと疳高(かんだか)い東京弁で訳もわからないことを呶鳴りちらしていた筈である。
 もしも糸子が、その酔漢の面をひと目見たら、彼女はあまりの情なさに泣きだしてしまうかも知れない処だった。それは外ならぬ帆村荘六その人であったから。
 なぜ帆村は、こうも性質ががらりと違ってしまったんであろうか。昨日の聖人は今日の痴漢であった。
 村松検事を救う手がないので自暴(やけ)になったのか。蠅男を捕える見込みがつかないで、悲観してしまったのか。それとも糸子に云い寄って無下に斥(しりぞ)けられたそのせいであろうか。
 道頓堀に真黒な臍(へそ)ができた。その臍は、すこしずつジリジリと右へ動き、左へ動きしている。それは場所ちがいの酔漢(すいかん)帆村荘六をもの珍らしそうに取巻く道ブラ・マンの群衆だった。
 帆村はポケットから、ウイスキーの壜を出して、茶色の液体をなおもガブガブとラッパ呑みをし、うまそうに舌なめずりをするのだった。そのうちに、何(ど)うした拍子か、喧嘩をおッ始めてしまった。嵐のような人間の渦巻が起った。帆村は犬のように走りだす。その行方にあたってガラガラガラと大きな音がして、女の金切り声が聞える。
 ――帆村は一軒の果物屋の店にとびこむが早いか、太いステッキで、大小の缶詰の積みあげられた棚を叩き壊し、それから後を追ってくる弥次馬に向って、林檎(りんご)だの蜜柑(みかん)だのを手当り次第に抛げつけだしたのである。生憎(あいにく)その一つが、折から騒ぎを聞いて駈けつけた警官の顔の真中にピシャンと当ったから、さあ大変なことになった。
「神妙にせんか。こいつ奴が――」
 素早く飛びこんだ警官に、逆手をとられ、あわれ酔払いの帆村は、高手小手に縛りあげられてしまった。その惨(みじ)めな姿がこの歓楽街から小暗い横丁の方へ消えていくと、あとを見送った弥次馬たちはワッと手を叩いて囃したてた。
 それと丁度同じ時刻のことであったが、本邸に帰った糸子は、何を思ったものか、突然お松に命じて、宝塚ホテルを電話で呼び出させた。
「お嬢はん。なんの御用だっか」
「なんの用でも、かまへんやないか。懸けていうたら、はよ電話を懸けてくれたらええのや」
 糸子は何か苛々(いらいら)している様子だった。
 宝塚ホテルが出た。
 お松がそれを知らせると、糸子はとびつくようにして、電話口にすがりついた。
「宝塚ホテル? そう、こっちは玉屋糸子だすがなア。帆村荘六はんに大至急接(つな)いどくなはれ」
「ええ、帆村はんだっか。いまちょっとお出かけだんね。十二時までには帰ると、いうてだしたが……」
 と、帳場からの返事だった。
「まあ、仕様がない人やなア。どこへ行ったんでっしゃろ」
「さあ、何とも分りまへんなア」
 糸子は落胆の色をあらわして溜息をついた。
「なんぞ御用でしたら、お伝えしときまひょうか」
 と帳場が尋ねると、糸子は急に元気づき、
「そんなら一つ頼みまっさ。今夜のうちに、こっちへ来てくれるんやったら、例の疑問の人物について、私だけが知っとることを話したげます。明日から先やったら、他へ知らせますから、後から恨(うら)まんように――と、そういうておくれやす」
 そこで話を終り、糸子は電話を切った。
 お松は傍で聞いていて、可笑(おか)しそうに笑った。
「なんや思うたら、もう帆村はんと休戦条約だっか。ほほほほ」
 しかし糸子は、思い切ったことを、帆村に申し入れたものだ。
 かねて糸子は蠅男について誰も外の者が知らぬ秘密を握っていると思われたが、いよいよそれを帆村に云う気になったらしい。しかもそれを帆村だけに与えるというのではなく、今夜来なければ、警察の方に知らせてしまうぞという甚だ辛い好意の示し方をした。まだまだ彼女の帆村に対する反感が残っているらしいことが窺(うかが)われた。
 でも今夜のうちといえば、帆村は果して糸子のもとへ駆けつけられるだろうか。それは出来ない相談だった。帆村はいま、暴行沙汰のため、警察の豚箱のなかに叩きこまれているはずだった。宝塚ホテルの帳場子は、帆村がそんな目に会っているとは露(つゆ)知るまい。あたら帆村も、ここへ来て慎みを忘れたがために、折角糸子が提供しようという蠅男の秘密を聞く機会を失ってしまって、遂にこれまでの苦労を水の泡沫(あわ)と化してしまうのだろうか。


   怪! 怪! 蠅男の正体!


 玉屋本邸は、今宵(こよい)糸子を迎えて、近頃にない賑やかさを呈していたが、そのうちに午後九時となり十時となり、親類知己の娘さんたちも一人帰り二人帰りして、やがて十一時の時計を聞いたころには、五人の召使いの外には糸子只一人という小人数になった。
 夜は次第に更けるに従って、この広いガランとした邸はいよいよ浸みわたるようなもの寂しさを加えていった。そのうちに、昨日と同じく、風さえ出て、雨戸がゴトゴトと不気味な音をたてて鳴った。
 糸子はお松を寝所へ下らせて、彼女は只ひとり、かつて父親総一郎の殺された書斎のなかに入っていった。
「お父つぁん――」
 糸子は室の真中に立って、今は亡き父を呼んでみた。もちろん、それに応える声は聞かれなかったけれど。
 糸子は父が愛用していた安楽椅子の上に、静かにしなやかな体をなげた。そして机の上にのっている「論語詳解」をとりあげると、スタンドをつけて頁をめくっていった。
 そのうちに、いつしか糸子は本をパタリと膝の上に落とし、京人形のように美しい顔をうしろにもたせかけて、うつらうつらと睡りのなかに誘われていった。
 外はどうやら雨になったようである。
 そのときである。
 天井裏を、何か重いものがソッとひきずられるような気持ちのわるい音がした。――しかし糸子は、何も知らないで睡っていた。
 ゴソリ、ゴソリと、その不気味な物音は、糸子の睡る天井裏を匍(は)っていった。何者であろうか。召使いたちも、白河夜舟(しらかわよふね)の最中(さいちゅう)であると見え、誰一人として起きてこない。
 危機はだんだんと迫ってくるようである。
 するとゴソリゴソリの音がパッタリ停った。それに代ってコトリという音が、もっとハッキリ聞えた。それは天井裏についている四角な空気抜きの穴のところで発したものだった。
 そのうちに、なにやら黒いものが、その空気穴のなかから垂れ下ってくるのであった。それはだんだん長く伸びて、まるで脚のような形をしていた。そのうちに、また一本、同じようなものが静かに下って来た。どれもこれも、糸のようなもので吊り下げられているらしい。
 腕のようなものが一本、それからまた一本! ズルズルとすこしスピードを増して垂れ下がってくる。
 この奇怪な有様を、何にたとえたらいいであろう。もしこの場の光景を見ていた人があったなら、この辺でキャッといって気絶してしまうかも知れない。
 ――黒い外套のようなものが、フワリと落ちて来た。それにつづいて、穴からヌッと出てきたのは、意外にも人の首だった。見たこともない三十がらみの男の首で、眼をギョロギョロ光らせている。見るからに悪相をそなえていた。
 その首はスーッと穴から下に抜けた。それにつづいて肩が出て来るのであろうか。しかしあのような六、七寸の穴から、肩を出すことは難かしいであろうと思われた。
 しかるに首はスーッと床の上めがけて落ちていく。首のうしろにつづいているのは、男枕を二つ接ぎあわせたようなブカブカした肉魂。――それでお終いだった。
 首と細い胴の一部だけの人間?
 それでも、その人間は生きているのであろうか?
 ドタリと床の上に痩せ胴のついた首が落ちると、それを合図のように、始めに床の上に横たわっていた長い手や足やが、まるで磁石に吸いつく釘のようにキキッと集まって来た。
 やがてムックリと立ち上ったところを見れば、これぞ余人ではなく、有馬山中を疾風のように飛んでいったあの蠅男の姿に相違ない。組立て式の蠅男? なんという奇怪な生き物もあったものだろう。一体蠅男は人間か、それとも獣か?
 蠅男は大きな眼玉をギロリと動かして、安楽椅子の上に睡る糸子の艶めかしい姿に注目した。
 蠅男はそこでニヤリと気味のわるい薄笑いをして、どこに隠し持っていたのか、一条の鋼鉄製の紐をとりだした。それを黒光りのする両手に持って身構えると、サッと糸子の方にすりよった。……呀(あ)ッ、糸子が危い!
 糸子は死んだようになっていた。蠅男の手に懸って、細首を絞められてしまったかと思ったが、そのとき遅く、かのとき早く、
「――蠅男、そこ動くなッ」
 と、突然大音声があがったと思う途端(とたん)、寝台の陰からとび出して来た一個の人物! それは誰であったろうか? 警察の豚箱に監禁せられて熟柿(じゅくし)のような息をふいているとばかり思っていた青年探偵、帆村荘六の勇気凜々(りんりん)たる姿だった。蠅男は無言で後をふりむいた。
「うふ。――いいところへ来たな。俺の正体を見たからには、最早(もはや)一刻も貴様を活かしては置けねえ。覚悟しろッ」
「なにをッ。――」
 鬼神「蠅男」と探偵帆村とは、何も知らずに睡っている糸子を間に挟んで、物凄く睨(にら)み合った。
 風か雨か、はた大噴火か。乾坤一擲(けんこんいってき)の死闘を瞬前にして、身構えた両虎の低い呻り声が、次第次第に高く盛りあがってくる。――


   死闘


 獣か人か。
 怪物蠅男の身体は首の付いた痩せ胴とバラバラの手足から組立てられて居たとは、実に前代未聞の一大驚異である。
 この蠅男の身体に関する秘密は、まだ十分了解することが出来なかったが、決死の青年探偵帆村荘六は脳底から沸き起ろうとする戦慄(せんりつ)を抑えつけて、厳然(げんぜん)とこの大怪物と睨み合っている。
 傍らの椅子には、これまた絵に描いたような麗人糸子が膝に伏せた本の上にすんなりとした片手を置いて、何ごとも知らず安らかに眠っている。どうやら糸子は帆村の命令に従って睡眠剤を服(の)んでいるらしかった。もちろんそれは帆村のやさしき心づかいで、この場の異変にこれ以上彼女の繊細な神経を驚かせたくないという心づかいであったに違いない。
 怪物蠅男は、見るもいまわしい土色の面に悪鬼のような炯炯(けいけい)たる眼を光らかし、激しき息づかいをしながら、部屋の隅からじりじりと寝台の向うに立つ帆村探偵に向って近付いて来るのであった。
 雨か嵐か、はた雷鳴か。怪人と侠青年との息詰まるような睨み合いが続いた。
「勝負は貴様の負だッ。こうなれば観念して、潔(いさぎよ)く降参しろッ」
 と帆村探偵は烈々たる言葉を投げつけた。
「なにを言やがる」と蠅男は歯を噛みならし、
「手前こそ息の止らねえうちに、念仏でも唱えろッ。今度こそは手前の土手ッ腹を機関銃で蜂の巣のようにしてやるんだッ。それでもまだ助かるとでも思っているのか」
 そう云って蠅男はじりじりと前進し、垂れている左腕を静かに挙げて、帆村の胸元目がけて突き出した。それは黒光りのする腕のようでありながら、まるでぎこちない銃身のように見えた。
「ははあ、くくり付けの機関銃とお出でなすったね。そんなインチキ銃に撃たれてたまるものか」
「よオし、これを喰って往生しろッ」
 と蠅男の大喝(だいかつ)と共に長い黒マントの肩先がブルブルと痙攣(けいれん)するより早く、ダダダッと耳をつん裂くような激しい銃声!
「うぬッ――」
 帆村はさっと寝台の蔭に身を沈めた。――と見るよりも早く、蠅男の隙を狙って寝台の下からパッと投げつけた渋色の投網(とあみ)!
 網は空間に花火のように開いて、蠅男の頭上からバッサリ落ち掛ったが、蠅男もさるもの、不意を打たれながらもツツーッと身を引けば、網はかちりと蠅男の左腕の中に仕込まれた機関銃に絡(から)み付(つ)いた。
「生意気なッ――」
 と蠅男が気色ばむ所を帆村はすかさず、
「えいッ」
 と大声もろともすかさず投げ付けた丈夫な撚(よ)り麻の投縄――それが見事蠅男の左腕の中程をキリリと締め上げた。
「さあ、どうだッ」
 と帆村は歓声をあげ、気を外さず麻縄の端を寝台の足に通して、それを支えに満身の力を籠めてえいやッと引けば、流石の蠅男も思わずツツーッと前にのめろうとするのを、ウムと堪えて引かれまいと、反(そ)り身になって抵抗するうち、どうしたはずみかドーンと云う大きな響きを打って蠅男の左腕は肩の附根からすっぽり抜け落ち床の上に転がった。
「あッ、しまった――」
 と蠅男が鉄の爪を持った残りの右腕を伸ばして床の上の抜けた左腕を拾おうとするのを、帆村はそうさせてはなるものかと寝台の上をヒラリと飛び越し、隠しもっていた桑の木刀でヤッと蠅男の頤(あご)を逆に払えば、
「ギャッ」
 とさしもの蠅男も痛打にたまらず、□(どう)と床上に大の字になって引繰り返った。闘いは帆村の快勝と見えた。
「おとなしくしろッ」
 と帆村は蠅男のうえに馬乗りになり、いきなり相手の咽喉をグッと締め付けた――それがよくなかった。蠅男にはまだ人間放れのしたもの凄く頑強な右腕の残っていたことを忘れていたのだ。
 キリキリキリと怪音を立てて蠅男の右腕が起重機のように三米(メートル)ばかりも伸びたかと思うと、それが象の鼻のようにくるくるッと帆村の背後に曲って来て、大きな鋏のような鉄の爪が帆村の細首目掛けてぐっと襲い掛らんとする――あッ、危い!
 糸子は先程から目を醒ましていた。いくら強い睡眠剤でも、部屋の中で機関銃を撃たれては眠っても居られない。彼女は突然目の前に展開しているもの凄い死闘の光景に呑まれて、魂を奪われた人のように呆然と成行を眺めて居たのである。しかし今愛人帆村の一命に係わる大危機を目の前にしては、どうしてその儘(まま)竦(すく)んでいられよう。彼女は素早く身辺を見廻し、机の上に載って居た亡き父の肖像入りの額面を取上げるより早いか二人の方に駆け寄り蠅男の顔面目掛けて発止(はっし)と打ち下ろした。
「うむッ。――」
 と蠅男は呻り声を挙げ、帆村の背後に伸びようとした鉄の爪がわなわなと虚空を掴んだ。
「糸子さん、危いからどいていらっしゃい」
 帆村は糸子に注意をした。そこに一寸の隙があった。それを見逃すような蠅男ではなかった。
「えいやッ――」
 と蠅男は腹の上に乗っていた帆村を下から座蒲団か何かのようにどんと跳ね飛ばした。
 あッと云う間に帆村は宙を一転して運よく寝台の上に叩き付けられたが、若しそこに柔い寝台が無かったら帆村の両眼はぽんぽん飛び出していたかも知れない。
 帆村はくらくらする頭を押えて、撥人形のように寝台を飛び降りた。この時素早く起き直った蠅男は右手を伸べて傍(かたわ)らのガラス窓を雨戸越しにバリバリと破り、その穴から化け蝙蝠(こうもり)のようにヒラリと外へ飛び出した。
 帆村が続いて外に飛び出して見ると、蠅男は何処へ行ったものか影も姿もなく、戸外には唯ひっそり閑(かん)とした黒暗暗(こくあんあん)たる闇ばかりがあった。


   帆村の奇略


 その翌朝のことであった。一夜を糸子の家に明かした帆村は、暁を迎えて昨夜の蠅男との恐ろしい格闘を夢のように思った。
 全く生命がけの争闘であった。こちらもたった一つしかない生命を賭け、怪物蠅男も亦その時は死にもの狂いで立ち向ったのだった。麗人糸子さえ、男子に優るとも劣らないような覚悟を以て死線を乗り越えたのだ。隙間を漏るる風にも堪えられないような乙女をして、こうも勇敢に立ち向わせたものは何か。それは云うまでもなく、乙女心の一筋に彼女の胸に秘められたる愛の如何に熾烈なるかを物語る以外の何ものでもなかった。
「帆村はん。もうお目醒め――」
 と麗人糸子は、憔悴(しょうすい)した面に身躾(みだしな)みの頬紅打って、香りの高い煎茶の湯呑みを捧げ、帆村の深呼吸をしているバルコニーに現われた。
「やあ、貴女ももうお目醒めですか。昨夜は若し貴女(あなた)が居なかったら、僕はこうして夜明けの空気など吸っていられなかったでしょう。うんと恩に着ますよ」
「まあ、なに言うてだんね。帆村はんこそうちのため何度も危ない目におうてでして、どないにか済まんことやといつも手を合わせて居ります。こないに帆村はんを苦しめるくらいやったら、うちが蠅男に殺されてしもうた方がどのくらいましやか知れへんと思うて居ります」
「何を仰有るのです。まだ蠅男との戦いは終って居ないではありませんか。そんな弱気を出しては、貴女のお父さんの仇敵(かたき)はとても打てませんよ」
 と帆村はさり気なく糸子の言外の言葉を外して、ただ一筋に彼女を激励した。糸子はあとは黙って、伏目勝ちに帆村の傍で空になった盆を頻(しき)りに撫でて居た。今更説明する迄もあるまいが、昨夜蠅男を糸子の邸に誘い込んだのも総て帆村の計略だった。彼は蠅男と決戦をする為に態(わざ)とそう云う機会を作ったのだった。最初宝塚ホテルで糸子に「いやらしい人」と腹を立てるよう頼んだのも帆村の計略だった。それから糸子が後ほどホテルの帳場に「帆村さんが帰って来たら蠅男の秘密を言うから来て呉れ」と嘘を言わせたのも彼の計略、それから帆村がウイスキーに酔払って道頓堀で乱暴を働き豚箱に打込まれたのもその計略だった。そこで帆村は、親しい正木署長を呼んで貰って事情を話し、留置場を出して貰うと直ぐに糸子の邸に隠れて、蠅男を迎える準備にかかった。宝塚ホテルの電話は屹度(きっと)蠅男の耳に入るに違いないことは、それ迄の例で分って居たから、それを知れば蠅男はその夜のうちに彼の秘密を知って居ると云う糸子の寝所を襲うだろうとは予期出来ることだった。全くその通りだった。果して蠅男は天井裏を這って侵入し、そこで書斎内で待期して居た帆村探偵とあの激しい死闘を交えるに至ったものであった。
 しかし折角の帆村の奇襲作戦も蠅男の超人的腕力に遭ってはどうすることも出来ず、遂に闇の中に空しく長蛇を逸してしまった形だ。さて今や怪物蠅男は何処に潜んで居るのだろう?
 唯一つ茲(ここ)に帆村を心から喜ばせたものは、蠅男の落として行った機関銃仕掛の左腕であった。帆村はそれを見せるために、糸子を部屋の中に誘った。
「ごらんなさい。糸子さん。恐ろしい仕掛のある鉄の腕です。こっちを引張れば、生きた腕と全く同じように伸び縮みをするし、こう真直にすれば、機関銃になるんです。まだあります。ほらごらんなさい。弾丸(たま)の代りに、こんな鋭い錐(きり)が吹き矢のようにとびだしもするし、その外ちょっと重いものなら、ここにひっかけてパチンコかなどのように撃ちだせる。――」
 帆村は不図(ふと)気がついて顔をあげた。糸子が嗚咽(おえつ)しているのだった。
「どうしました」といったが、そのとき帆村はハッと気がついた。「そうだ、この錐なんですよ、あなたのお父さまの生命を奪ったのは……」
 糸子はそれに早くも気づき、哀(かな)しい追憶に胸もはりさけるようであったのだ。帆村はいろいろと彼女を慰めることにひと苦労もふた苦労もしなければならなかった。
 実は帆村は、まだそれ以上の蠅男の凶器を知っていた。それはその抜け腕の或るところに大豆が通り抜けるほどの穴が腕に沿って三、四個所も明いていたが、ここには元、鉄の棒が入っていたのだ。その棒は彼が拾ってもっていた。あの宝塚の雑木林の中で拾った先端にギザギザのついたあの棒である。あのギザギザは、蠅男が左腕を長く前に伸ばすときに、ちょうど折畳式の写真機の脚をのばすような具合に腕の中からとび出してくる仕掛になっていることに今になって気がついたのである。あの林の中で、蠅男は不注意にも、あれの脱けおちたのに気がつかなかったのだった。しかしあの鉄の棒を拾ったときに、まさかこんな奇怪なカラクリが蠅男の腕にあろうとはさすがの帆村探偵も気がつかなかった。考えれば考えるほど恐ろしい怪物だった。
 一体このような恐ろしい怪物がどうして生れたんだろう? それはちょっと解くことのできない深い謎だった。
 帆村は蠅男の左腕を前に置いて、ジッと深い考えに沈んだ。それからそのいつもの癖(くせ)で、彼はやたらに莨(たばこ)を吸って、あたりに莨の灰をまきちらした。
「うむ、そうだった」と、何事かに思いあたったらしく彼は突然呟(つぶや)いた。「これはやはり、蠅男がこれまで通ってきた道を、はじめからもう一度探し直してみる必要がある。蠅男が最初名乗りをあげたのは何処だったか。それは無論鴨下ドクトルの留守中、その奇人館のストーブの中に逆さに釣りさげられていた焼屍体に発しているんだ。あのとき蠅男は、新聞紙を利用した脅迫状に、はじめて(蠅男)と署名をしたのだった。第二の犠牲者は玉屋総一郎、第三の犠牲者は塩田元検事と、ちゃんと身柄が判明しているのに、ああそれなのに奇人館に発見された焼屍体の身許が今日もなおハッキリしていないのは変ではないか。すべて連続的な殺人事件には、必ず何か共通の理由がなければならぬ。蠅男はなぜ三人の人を殺したか。そうだ。その殺人の理由は第一の犠牲者の身許がハッキリさえすれば、ある程度解けるにちがいない。うむ、よオし。それを知ることが先決問題だ。では、これから奇人館に行き、鴨下ドクトルに逢って、手懸りを探しだそう」
 帆村珠偵は、何かに憑(つ)かれた人のように血相かえて立ち上ると、それを心配して引きとめる糸子の手をふりはらって、外へとびだした。
 果して彼は奇人館に於て、何を発見する?


   大戦慄


 帆村探偵が、住吉区岸姫町の鴨下ドクトル邸を訪れてみると、そこの階下(した)の応接室には、先客が三人も待っていた。それは大阪へ来たついでに楽しい近県旅行をしていたドクトルの一人娘カオルと情人上原山治と、外に正木署長との三人だった。カオル達は、約束どおりに、帰阪するとすぐさま署へ出頭し、そこで此の前は不在だった父親ドクトルに連れ立って会いにきたものであることが分った。
 帆村の名刺も、雇い人の手で二階の研究室にいるドクトルに通じられたが、その返事は、逢うには逢うが、いま実験の途中で手が放せないから暫く待っていてくれとのことだった。
「カオルさんは今度お父さまにまだひと目も会っていないのですか」
 と、帆村は座が定まると、ドクトルの令嬢に尋ねた。
「さっきチラリと廊下を歩いている父の後姿を見たばかりですわ」
「そうですか。幼いときお別れになったきりだそうですが、お父さまの姿には何か見覚えがありましたか」
 と問えば、カオルは首飾りをいじっていた手をとめ、ちょっと首をかしげて、
「どうもハッキリ覚えていませんのですけれど、幼(ちいさ)いときあたくしの見た父は、右足がわるくて、かなりひどく足をひいていたようですが、今日廊下で見た父は、それほど足が悪くも見えなかったので、ちょっと不思議な気がいたしましたわ」
「ほうそうですか。ふうむ」
 と、帆村は腕組をして考えこんだ。
 そのとき正木署長のところへ電話がかかってきたとかで、雇い人に案内されて出ていった。が、すぐ署長はとってかえして、急用が出来たから署へ帰る。しかしすぐまた此処へ出直すから後をよろしくと帆村にいってアタフタと出掛けていった。
 あとは三人になった。
「するとカオルさん。貴方はなにかお父さまの身体についていた痣とか黒子(ほくろ)とか傷痕とかを憶えていませんか」
 と、何を思ったものか帆村はさきほどから熱心になって、カオルに話しかけたのであった。
「さあ、そうでございますネ」とカオルはしきりと古い記憶を呼び起そうと努力していたが、「そうそう、あたくし一つ思い出しましたわ」
「ふうむ。それは何ですか」
 と、帆村は思わず膝をのりだした。
「それは――」
 とカオルが云いかけたとき、雇い人が急いで室内にはいってきて、ドクトルがこれから二人に会うからすぐに二階へ来てくれと伝言をもってきた。カオルは遉(さす)がにパッと眸(ひとみ)を輝かし、十五、六年ぶりに瞼の父に会える悦びに我を忘れているようであった。
 カオルと山治とが席を立って、二階へ上っていくのを見送った帆村は、ただ一人気をもんでいた。若き二人をドクトルの部屋にやることがなんとなく非常に不安になってきた。といって、呼ばれもせぬ彼が、後から追いかけてゆくのも変である。帆村はイライラしながら、全身の注意力を耳に集め、なにか階上から只ならぬ物音でも起りはしないかと、扉のかげに寄り添い、聞き耳たてていた。
 一分、二分と経ってゆくが、何の物音もしない。これは自分の取越苦労だったかと、帆村が首を傾けた折しも、「帆村はん。先生が二階でお呼びだっせ。すぐ会ういうてはります」
 と、三度雇い人が、室内に入ってきた。帆村はハッと思ったが、強いて平静を装い、先に案内に立たせ、二階へ上っていった。
「よう、帆村荘六君か。大分待たせて、すまんかったのう。さあ、こっちへ――」
 と、黒眼鏡をかけ、深い髯の中に埋った鴨下ドクトルの顔が、階段の上で待っていた。帆村はドクトルのその声の隅に、何処か聞き覚えのある訛(なま)りを発見した。
 ドクトルは帆村を案内して、書斎のなかに導き入れた。帆村はその部屋の中を素早く見廻して、先客である筈の二人の若き男女の姿を求めたが、予期に反してカオルの姿も山治の姿も、そこには見えなかった。
 ドクトルは入口の扉をガチャと締めながら、
「まあ、そこへお掛け。きょうは何の用じゃな」
 と、皺枯(しゃが)れ声でいった。
 帆村は、中央の安楽椅子の上にドッカと腰を下ろし、腕組をしたまま、
「きょうは一つ貴方に教えていただきたいことがあって参ったのです」
「ナニ儂に教えて貰いたいというのか。ほう、君も老人の役に立つことが、きょう始めて分ったのかな」
「その老人のことなんですよ」と帆村は薄笑いさえ浮べて、
「つまり鴨下老ドクトルを階下のストーブの中で焼き殺した犯人は誰か? それを教えて貰いたい」
「何を冗談いうのじゃ。
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