蠅男
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著者名:海野十三 

 暗い山路を縫って、約一時間のちに自動車は宝塚に帰ってきた。
 そこで長吉は、西の宮ゆきの電車に乗りかえて、駐在所から貰った証明書を大事にポケットに入れたまま、帆村に別れをつげて帰っていった。帆村はこの少年のために、そのうち主家を訪ねて弁明をすることを約束した。
 ホテルでは、愕き顔に帆村を迎えた。
 なにしろ朝方ドテラ姿でブラリと散歩に出かけたこの客人が、昼食にも晩餐にも顔を見せず、夜更けて、しかも見違えるように憔悴して帰ってきたのだから。
「えろうごゆっくりでしたな、お案じ申しとりました。へへへ」
「いや、全く思わないところまで遠っ走りしたものでネ、なにしろ知合いに会ったものだから」
「はアはア、そうでっか、お惚(のろ)け筋で、へへへ、どちらまで行きはりました」
「ウフン。大分遠方だ。……部屋の鍵を呉れたまえ」
「はア、これだす」と帳場の台の上から大きな札のついた鍵を手渡しながら、不図(ふと)思い出したという風に「ああ、お客さん、あんたはんにお手紙が一つおました。忘れていてえろうすみまへん」
「ナニ手紙?」
 帳場の事務員は、帆村に一通の白い西洋封筒を手渡した。帆村がそれを受取ってみると、どうしたものかその白い封筒には帆村の名前も差出人の名前も共に一字も書いてなかった。その上、その封筒の半面は、泥だらけであった。帆村はハッと思った。しかしさりげない態で、ボーイの待っているエレヴェーターのなかに入った。
 帆村は四階で下りて、絨毯の敷きつめてある狭い廊下を部屋の方へ歩いていった。
 扉の前に立って、念のために把手(ハンドル)を廻してみたが、扉はビクともしなかった。たしかに、錠は懸っている。
 なぜ帆村は、そんなことを検(ため)してみたのであろう。彼はなんとなく怪しい西洋封筒を受取ってから、急に警戒心を生じたのであった。
 扉には錠が懸っている。
 まず安心していいと、彼は思った。そして鍵穴に鍵を挿入して、ガチャリと廻したのであった。その瞬間に、彼は真逆自分が、腰を抜かさんばかりに吃驚(びっくり)させられようとは神ならぬ身の知るよしもなかった。しかし事実、扉一つ距(へだ)てた向うに彼の予期しない異変が待ちうけていたのである。
 帆村は、鍵を穴から抜いて、片手にぶら下げた。そして把手をグルッと廻して、扉を内側に押した。部屋のなかは、真暗であった。
 扉を中に入ったすぐの壁に、室内灯のスイッチがあった。
 帆村は、手さぐりでそのスイッチの押し釦(ボタン)を探した。押し釦はすぐ手にふれた。彼は無造作に、その押し釦を押したのであった。
 パッと、室内には明るい電灯が点いた。その瞬間である。彼は、
「呀(あ)ッ!」
 といって、手に持っていた鍵を床の上にとり落とした。それも道理であった。空であるべきはずのベッドの上に、誰か夜着をすっぽり被って長々と寝ている者があったのである。
「もしや部屋を間違えたのでは……」
 と、咄嗟(とっさ)に疑いはしたが、断じて部屋は間違っていない。自分の部屋の鍵で開いた部屋だったし、しかも壁には、見覚えのある帆村のオーバーが懸っているし、卓子の上にはトランクの中から出したまま忘れていった林檎までが、今朝出てゆくときと寸分たがわずそのとおりに並んでいるのだった。自分の部屋であることに間違いはない。
 さあ、すると、ベッドの上に寝ているのは一体何者だろう。
 帆村の手は、音もなく滑るように、懸けてあるオーバーの内ポケットの中に入った。そこには護身用のコルトのピストルが入っていた。彼はそれを取出すなり、二つに折って中身をしらべた。
「……実弾はたしかに入っている!」
 こうした場合、よく銃の弾丸が抜きさられていて、いざというときに間に合わなくて失敗することがあるのだ。帆村はそこで安心してピストルをグッと握りしめた。そして抜き足差し足で、ソロソロベッドの方に近づいていった。
 ベッドの上の人物は、死んだもののように動かない。
 帆村は遂に意を決した。彼は呼吸(いき)をつめて身構えた。ピストルを左手にもちかえて、肘をピタリと腋の下につけた。そしてヤッという懸け声もろとも一躍してベッドに躍りかかり、白いシーツの懸った毛布をパッと跳ねのけた。そこに寝ているものは何者?
 ピストルをピタリと差しつけたベッドの上の人物の顔? それは何者だったろう?
 帆村の手から、ピストルがゴトリと下に滑り落ちた。
「おお――糸子さんだッ」


   謎! 謎!


 なんという思いがけなさであろう。
 自分のベッドの上に長々と寝ている怪人物は何者だろう。それは気味の悪い屍体でもあろうかと、胸おどらせて夜具を剥いでみれば意外にも意外、麗人(れいじん)糸子の人形のような美しい寝顔が現われたのである。これは一体どうしたことであろう。
 ベッドの上の糸子は死んでいるのではなかった。目覚めこそしないが、落ついた寝息をたててスヤスヤと睡っているのであった。その蝋(ろう)のように艶のある顔は、いくぶん青褪めてはいたけれど、形のいい弾力のある唇は、まるで薔薇の花片(はなびら)を置いたように紅(あか)かった。
 帆村の魂は恐怖の谷からたちまち恍惚の野に浮き上り、夢を見る人のようにベッドの上の麗人の面にいつまでも吸いつけられていた。
「なぜだろう?」
 帆村は、解けない謎のために、やっと正気に戻った。夢ではない、糸子が彼の部屋のベッドの上に寝ているのは厳然たる事実だ。厳然たる事実なれば、この大きい意外をもたらした事情はどういうのだろう。それを知らなければならない。
 彼は帳場へ電話をかけようかと思って、それに手を懸けた。けれどそのとき不図(ふと)気がついて懐中(ふところ)を探った。
 出て来たのは、一通の西洋封筒だった。さっき帳場で渡されてきた宛名も差出人の名前もない変な手紙だ。
 彼はそっと封筒をナイフの刃で剥(は)がしてみた。その中からは新聞紙が出て来た。新聞紙を八等分したくらいの小さい形のものだった。
 新聞紙が出て来たと見るより早く、帆村は蠅男の脅迫状を連想した。拡げて調べてみると、果然活字の上に、赤鉛筆で方々に丸がつけてある。これを拾って綴ってゆくと、文章になっていることが分った。
「ウム、やはり蠅男の仕業だな」
 赤い丸のついた字を拾ってゆくと、次のような文句になった。
「――この事件カラただちに手をひケ、今日まデワ大メに見テやる、その証コに、イと子を安全に返シテやる、手を引カネバ、キサマもいと子も皆、いのちがナイものと覚悟セヨ、蠅男より、ほムラそう六へ――
 果然、蠅男からの脅迫状だった。
 帆村探偵に、この事件から手を引かせようという蠅男の魂胆だった。
 帆村は、この新聞紙に赤丸印の脅迫状を読んでいるうちに、恐怖を感ずるどころかムラムラと癪(しゃく)にさわって来た。
「かよわい糸子さんを威(おど)かしの種に使おうなんて、卑怯千万な奴だ」
 それにしても、糸子はどうしてこの部屋へ搬(はこ)ばれて来たのだろう。またその脅迫状はどうして帳場に届けられたのだろう。それが分れば、憎むべき蠅男の消息がかなりハッキリするに違いない。
 帆村は電話を帳場にかけた。
「誰か僕の居ない留守に、この部屋に入ったろうか」
 帳場では突然の帆村の質問の意味を解しかねていたが、やっとその意味を了解して返事をした。
「ハアけさ、お客さんが外出なさいまして、その後でボーイが室内をお片づけしただけでっせ。その外に、誰も一度も入れしまへん」
「ふうむ。ボーイ君の入ったのは何時かネ」
「そうだすな。ちょっとお待ち――」と暫く送話口をおさえた後で、「けさの午前十一時ごろだす。それに間違いおまへん」
「嘘をついてはいけない。その後にも、この部屋を開けたにちがいない。さもなければ鍵を誰かに貸したろう」
「いいえ滅相(めっそう)もない。鍵は一つしか出ていまへん。そしてボーイに使わせるんやっても、時間は厳格にやっとりまんが、ことに昼からこっちずっと、お部屋の鍵はこの帳場で番をしていましたさかい、部屋を開けるなどということはあらしまへん」
 帳場の返事はすこぶる頑固なものであった。帆村はそれを聞いていて、これは決して帳場が知ったことではなく、そっちへは万事秘密で行われたものに違いないと悟った。
 全く不思議なことだったが、何者かが帳場と同じような鍵を使って扉を開け、そしてそこに糸子を入れて逃げたのだった。
 これももちろん蠅男の仕業にちがいない。一方において脅迫状を送り、そして他方において糸子を池谷別邸からこのベッドの上に送りこんだのに違いない。しかし蠅男は、一体どうして糸子を、ソッとこの部屋に送りこんだものだろうと帆村は考えた。
「モシモシお客さん。何か間違いでも起りましたやろか」
 帳場では、訝(いぶか)しげに聞きかえした。
「うむ。――」帆村は唸ったが、このとき或ることに気がついて受話器をもちかえ、「そうだ。さっき帳場で貰った西洋封筒に入った手紙のことだが、あれは誰が持ってきたのかネ」
「あああの手紙だっか。あれは――」と帳場氏は言葉を切ってちょっと逡(ためら)った。
「さあ、それを云ってくれたまえ。誰があの手紙を持ってきたのだ」
「――そのことだすがな、お客さん。ちょっと妙なところがおまんね。実はナ、あの手紙は私が拾いに出ましてん」
「手紙を拾いに出たとは?」
 帆村の眉がピクリと動いた。
「いえーな、それがつまり妙やなアとは思ってましたんですわ。詳しくお話せにゃ分ってもらえまへんが、あれは午後四時ごろやったと思いますが、この帳場へ電話が懸って来ましてん。懸ってみますと男の声でナ、いま玄関を出ると庭に西洋封筒を抛(ほう)りこんであるさかい、それを拾って帆村さんに渡しといて呉れ――と、こないに云うてだんネ。そして電話はすぐ切れました。なにを阿呆らしいと思うたんやけど、まあまあそんにして玄関の外に出ましたんや。するとどうだす、電話のとおりに、砂利の上にあの西洋封筒が落ちていますやないか。ハハア、こらやっぱり本当やと思って、それで拾って、お客さんにお届けしたというような次第だす」
 帆村はそれを聞いて、たいへん興味を覚えた。ホテルの庭に置いた手紙を、拾ってくれと帳場に電話をかけたというのは、これは決して普通のやり方ではない。とにかくそれが事実にちがいないことは、封筒に附着していた泥を見てもしれる。それが本当だとすると、この奇妙な脅迫状の配達方法のなかに、なにか深い意味があるものと見なければならぬ。
 さて、それは、いかなる深い意味をもっているか、帆村の頭脳は麗人糸子の身近くにあることを忘れて、愈々(いよいよ)冴えかえるのであった。彼はその秘密をどう解くであろうか。


   怪しき泊り客


 不思議な脅迫状の配達方法であった。
「ねえ君」と帆村は受話器をまだ放さないでいった。
「その電話の相手は、どこから懸けたのだか分ったかネ」
「いや、分りまへん」
「もしやこのホテル内から懸けたのではなかったかネ」
「いえ、そら違います。ホテルの中やったらもっともっと大きな声だすわ。そしてもっと癖のある音をたてますがな。ホテルの外から懸って来た電話に違いあらしまへん」
「ホテルの中から懸けた電話ではないというんだネ。フーム」帆村は首を左右にふった。それはひどく合点(がてん)が行かぬというしるしだった。
 宛名なしの手紙をホテルの庭に抛りこんで置いて、そして間髪を入れず、外からその手紙を拾えと電話をかけてくることがそう安々と出来ることだろうか、一分違ってもその手紙は誰かに拾われるかもしれないんだ。そうすると必ず間違いが起るに極っている。しかも常に用意周到な蠅男である。彼がそんな冒険をする筈がない。帆村の直感では、蠅男はこのホテルの中にいて、窓からその手紙を庭へ抛げおとし、そしてホテル内の一室からすぐに帳場へ電話をかけたものだろうと思っていたのだ。しかし帳場では案に相違して、その電話はホテル外から懸ってきたんだという。折角の帆村の考えも、そこで全く崩れてしまうよりほかなかった。帆村はそこで一旦電話を切った。
 糸子は、まだ何も知らずスヤスヤと睡っている。帆村はソッと近づいて、彼女の軟かな手首を握ってみた。
「ウム、静かな脈だ。心臓には異常がない。だがどう見ても、何か睡眠剤のようなものを嚥(の)まされているらしい」
 なにゆえの睡眠剤だろう。
 もちろんそれは、糸子をここへ搬びこむためにそうするのが便利だったというわけだろう。すると糸子たちが、このホテルに入ってくるのを誰か見た者がありそうなものだ。それを帳場へ行って聞き正したいと思った。
 彼はすぐにも帳場の方へ下りてゆきたかったけれど、それは甚だ気懸りであった。この部屋には、糸子がひとりで睡っているのである。もし彼が室外に出て鍵をかけていったとしても、さっき煙のようにこの部屋に闖入した蠅男の一味は、えたりかしこしと帆村の留守中に再びこの部屋に押し入り、糸子に危害を加えるかもしれないのだ。これは迂濶(うかつ)に部屋を出られないぞと思った。
 そうした心遣いが帆村の緻密な注意力を証拠だてるものであった。けれどその一面に彼がいつもの場合とはちがい、なぜかしら気の弱いところが見えるのも不思議なことであった。帆村は電話器をとりあげて、外線につないで貰った。そして彼は宝塚警察分署を呼びだした。彼はそこで事情を話し、すぐ二名の警官を特派してくれるように頼んで、電話を切った。警官は間もなくホテルにとびこんで来た。
「やあ帆村はん、なにごとが起りました」
 と、向うから声をかけられたのを見ると、それはかねて見覚えのある住吉署の大男、大川巡査部長と、外(ほか)一名であった。帆村も奇遇に愕いて尋ねると、大川巡査部長は昨日辞令が出て、この宝塚分署の司法主任に栄転したということが分った。時も時、折も所、蠅男の跳梁(ちょうりょう)の真只中に誰を見ても疑いたくなるとき、最も信用してよい旧知の警官を迎えたことは、帆村にとってどんなに力強いことであったか分らなかった。
 警官二人を部屋の中に入って貰って、糸子の保護を頼んだ上で、帆村は帳場へトコトコと下りていった。
 帳場では大川主任の訪問をうけてから、すっかり恐縮しきっていた。そして帆村にありとあらゆる好意を示そうとするのだった。
 帆村はさっきから考えていたところに従って、帳場に質問を発した。まず誰かホテルの者でこうこうした若い婦人を見かけたものはないかと訊いてみた。
 帳場では、私どもは決して見かけなかったと返事をした。それからすぐ雇人たちを集めて、同じことを問いあわせて呉れた。しかし誰一人として、糸子に該当(がいとう)する婦人を見たものはないということだった。
「フーム、どうも可笑(おか)しいことだ」
 帆村は強く首をふった。
 誰にも見られないでこのホテルに忍びこむということができるだろうか。裏口や非常梯子のことを聞いてみたが、そこからも誰にも見とがめられないで入ることは出来ないことが分った。すると糸子は、煙のように入って来たことになる。そんな莫迦莫迦(ばかばか)しいことがあってたまるものではない。
 そこで帆村は窮余(きゅうよ)の策として、宿帳を見せて貰った。目下の逗留客(とうりゅうきゃく)は、全部で十組であった。男が十三人に、女が六人だった。
 次に彼は逗留客がホテルに入った時間を調べていった。
 その中に彼は一人の男の客に注意力を移したのだった。
「井上一夫。三十三歳」
 と、たどたどしい筆蹟で書いてある一人の男があった。住所は南洋パラオ島常盤街十一番地と別な筆蹟で書いてある。帆村が怪しんだのは、彼の井上氏が南洋から来たということではなかった。それはこの井上氏が本日の午後三時半に到着したというその時刻にあったのである。午後にホテルに入ったのはこの井上氏だけであった。
 午後三時半といえば、彼が蠅男に三輪車を奪われてのちトボトボと有馬の町の駐在所へ転げこんだその時刻なのであった。もし蠅男があの場合、大胆にもすぐに宝塚へ引きかえしたとしたら、午後三時半にはゆっくりこのホテルに入れる筈である。なにしろ午後にホテルについた唯一の人物であるから、よく調べなければ承知できない。
「これはどんな風体(ふうてい)の客人ですか」
 と、帆村は帳場にたずねた。
「そうですなア、とにかく顔の青い大きな色眼鏡をかけた人だす。風邪ひいとる云うてだしたが、引きずるようなブカブカの長いオーバーを着て、襟(えり)を立ててブルブル慄(ふる)えていました。そして黒革の手袋をはめたまま、井上一夫、三十三歳と左手で書っきょりました」
 帆村は呻(うな)った。色眼鏡に長い外套、そして襟を立ててブルブル慄えている顔色の青い男だというのである。それはたしかに怪しい人物だ。
「なにか荷物を持っていなかった?」
「さよう、持っていましたな。大きなトランクだす。洋行する人が持って歩くあの重いやつでしたな。自動車から下ろすときも、ボーイたちを叱りつけて、ソッと三階へ持ってあがりましたがな」
「ほう、大きなトランク?」
 帆村はハッと息をのんだ。
「そいつだ。そいつに違いない。その井上氏の部屋に案内して呉れたまえ」


   蠅男の奇略(きりゃく)


「えッ、――」
 と、帳場氏は、帆村の勢いに驚いて身をすさった。
「なにがそいつだんネ」
「そいつが恐るべき蠅男なんだ。僕にはすっかり分ってしまった。早くそいつの部屋へ案内したまえ」
「へえ、あの蠅、蠅男! あの殺人魔の蠅男だっか。ああそういわれると、どうも奇体な風体(ふうてい)をしとったな。気がつかんでもなかったんやけれど、まさかそれが蠅男だとは……」
「愕くのは後でもいい。さあ早くその井上一夫の部屋へ――」
 帆村はジリジリして帳場氏の腕をつかんだ。
 帳場氏はそれに気がついて、
「ああ、その人やったら、今はお留守だっせ」
「ナニ留守だッ。どうしたんだ、その男は」
「いえーな。ちょっと宝塚の新温泉へ行ってくるいうて出やはりました」
「それは何時だ」
「来て間もなくだっせ。ちょうどあの西洋封筒を拾ったすぐ後やったから、あれで午後の四時十分か十五分ごろだしたやろな」
「うーむ、そいつだ。いよいよ蠅男に極(きま)った。分ったぞ分ったぞ」
「あンさんにはよう分ってだすやろが、こっちには一向腑に落ちまへんが」
「いや、よく分っているのだ。僕の云うことに間違いはない。さあ早く、その井上氏の部屋へゆこう、部屋の鍵を持ちたまえ」
 帆村は厳然たる自信をもって、帳場氏に命令するようにいった。そして彼は真先にたって、エレヴェーターのなかに躍りこんだ。帳場氏も、いまは帆村の言葉にしたがってついてゆくより外に仕方がなかった。
 エレヴェーターを四階で停めて、帆村は大川主任のところへ行った。そして、一部始終を手短かに話し、主任の応援と命令とを乞うた。
「ええッ。蠅男がこのホテルに入りこんどる。それはほんまかいな。ほんまなら、こらえらいこっちゃ」
 部長の顔色もサッと青褪め、すこぶる緊張した。
 糸子の部屋には一人の警官を置いて、あとの三人は、急いで三階に駈け下りた。そして目ざす井上一夫の部屋第三三六室に近づいていった。
 いざとなれば、たとい留守にしても、蠅男のいた部屋を開けるというのは、たいへん覚悟の要ることだった。三人はめいめいに腋(わき)の下から脂汗を流して、錠前の外れた扉に向って身がまえた。帆村はソッと扉を押した。
 そして素早く手を中に入れて、電灯のスイッチ釦(ボタン)を押した。パッと室内灯がついた。
 三人は先を争って、部屋の中を見た。
「ウム、あるぞ、トランクが……」
 部屋のなかには、誰の姿も見えず、ただ大きなトランクだけがポツンと置き放されてあった。
「さあ、このトランクを開けてみましょう」
 帆村は主任の許しをえて、持ってきた彼の秘蔵にかかる錠前外しでもって、鍵なしでドンドン錠を外していった。
 錠前はすべて外(はず)れた。ものの二分と懸らぬうちに――
 大川主任は唖然(あぜん)として、帆村の手つきに見惚(みと)れていた。
「さあ、トランクを開きますよ」
 帆村はトランクの蓋に手をかけるなり、無造作にパッと開いた。「あッ、空っぽや」
「ウム、僕の思ったとおりだッ」大トランクの中は、果然(かぜん)空っぽであった。帆村は、そのトランクの中に頭をさし入れて、底板を綿密にとりしらべてみた。
「ああこんなものがある」
 帆村はトランクのなかから、何物かを指先に摘みだした。
 それは細いヘヤピンであった。彼はそれをソッと鼻の先へもっていった。
「ああピザンチノだ。南欧の菫草(すみれそう)からとれるという有名な高級香水の匂いだ、全く僕の思った通りだ。糸子さんはこの香水をつけている。するとこのトランクに糸子さんが入っていたと推定してもいいだろう。糸子さんはこのトランクのなかに入れられてこのホテルに搬びこまれたのだ」
「えッ、あの糸子はんが――へえ、そら愕いたなア」
 大川主任と帳場氏は、互いの顔を見合わせて愕いたのであった。そこで帆村は、二人に対し、蠅男の演じた奇略(トリック)をひととおり説明した。前後の様子から考えると、蠅男は三輪車を奪ってから、大胆にもこの宝塚にひきかえしたのだった。そして彼は多分池谷別邸のなかに幽閉されていたろうと思われる糸子に麻酔剤を嗅がせた上、このトランクに入れ、それを自動車に積んで、彼は泊り客のような顔をしてこのホテルに入りこんだのだった。そして隙をみて、このトランクのなかから糸子を出し、合鍵で帆村の部屋を明けて、そのベッドの上に糸子を寝かせたというわけだった。その上かの蠅男は、脅迫状を作って、窓から庭に投げだし、直ちに帳場氏を電話口に呼び出して、それを拾わせたと説明した。そのとき帳場氏は、怪訝(けげん)な顔をしていった。
「そら妙やなア。あの電話が蠅男やったとすると、蠅男はホテルの外にいたことになりまっせ。なんでやいうたら、あの電話はホテルのなかから懸けたんやあれしまへんさかい。電話を懸けた蠅男と、この部屋に居った蠅男と、蠅男が二人も居るのんやろか」
 帆村はそれを聞いて大きく肯(うなず)き、
「そのことなら、さっきやっとのことで謎を解いたんです。蠅男はホテルのなかに居るのを知られないために、電話にも奇略(トリック)をつかったんです」
「へえ、どんな奇略を――」
「それはホテルの交換台からすぐに帳場をつながないで、一旦部屋から外線につないで貰い、電話局から再び別の電話番号でこのホテルに懸け、一度交換台を経て帳場につないで貰ったんですなア。そうすれば、同じホテル内の部屋にかけたにしろ、電話局まで大廻りして来たから、電話の声がホテル内同士でかけるよりはずっと小さくなったんです。実に巧みな奇略だ」
「なるほどなア」と巡査部長は感心をしたが、
「しかし、なんでそんなややこしい事をしましたんやろ。糸子さんの胸の上にでも、その脅迫状をのせといたらええのになア」
「いやそれはつまり、今ホテルに蠅男が入っていることを知られたくはなかったんです。あくまで自分は井上一夫で、蠅男ではないという現場不在証明(アリバイ)を作って置きたかったんです」
「なるほどなるほど。それにしても蠅男ほどの大悪漢のくせに、小さいことをビクビクしてまんな」
「いやそこですよ」
 といって帆村は二人の顔をジッと見た。
「蠅男は今にもう一度このホテルに帰ってくるつもりなんですよ。普通の泊り客らしい顔をしてネ」
「えッ、蠅男がもう一度ここへ帰ってくるというのでっか。さあ、そいつは――そいつは豪(えら)いこっちゃ。どないしまほ」
 そのとき廊下をボーイが、急ぎ足でやって来た。
「ああ、いま帳場に電話が来とりまっせ。井上一夫はんいうお客さんからだす」井上一夫? ああ井上一夫といえば、蠅男の仮称である。蠅男はいまごろ何の用あってホテルに電話をかけてきたのだろうか。三人は恐怖のあまり言葉もなく、サッと顔色を変えた。


   蠅男の声


 井上一夫という偽名を使っている怪人蠅男が、ホテルへ電話をかけてきたというボーイの注進である。
 帳場氏はもちろん真蒼に顔色をかえると、勇猛をもって鳴る大川司法主任も、空のトランクから手を放して、木製人形のように身体を硬直させた。ひとり帆村探偵は、咄嗟(とっさ)の間にも、この際どうすればいいかを知っていた。
「さあ君、帳場に来ている蠅男の電話を、早くその電話器につなぎかえたまえ」
 と、この三三六号室の卓上電話器を指した。
 帳場氏はオズオズと受話器に手をかけた。間もなく蠅男の声が、そのなかに流れこんできた。
「えッ、帆村さんだすか。へえ、居やはりま。いま代りますさかい。――」
 帳場氏は帆村の方をむいて、蛇でも渡すかのように、受話器をさしだした。そして自分はうまく助かったとホッと大きな息をついた。
 帆村は無造作(むぞうさ)に受話器をとった。しかし彼はそれを耳にもっていく前に、左手で鉛筆を出し、ポケットから出した紙片になにかスラスラと器用な左書きで文字をかきつけて、大川主任に手渡した。
 大川はそれを受取って大急ぎで読み下した。そして無言のままおおきく肯(うなず)くと、そのまま部屋を出ていった。
「ハイハイ、お待ちどうさま。僕は帆村ですが、貴方はどなたさんですか」
 すると向うで、作り声らしい太い声が聞えてきた。
「探偵の帆村荘六君だネ。こっちは蠅男だ」
「えッ、電話がすこし遠いのでよく聞えませんが、ハヤイトコどうするんですか」
「ハヤイトコではない、蠅男だッ」
「えッ、早床(はやとこ)さんですか。すると散髪屋ですね」
 向うで呶鳴(どな)る声がした。
 帆村は今日にかぎって、たいへんカンがわるいらしい。
「ああそうですか、蠅男だとおっしゃるんですな、あの今大阪市中に大人気の怪人物の蠅男でいらっしゃるわけですか。ちょっと伺いますが、本当の蠅男さんですか。まさか蠅男の人気を羨(うらや)んで、蠅男を装っているてえわけじゃありますまいネ」
 電話器の向うでは、せせら嗤(わら)う声が聞えた。帆村はソッと腕時計を見た。話をはじめてから、まだ四十秒!
「オイ帆村君。君は美しい令嬢糸子さんと、俺の手紙とをたしかに受取ったろうネ」
「ええどっちとも、確かに」
「ではあのとおりだぞ。貴様はすぐにこの事件から手を引くんだ。俺を探偵したり、俺と張り合おうと思っても駄目だからよせ。糸子さんは美しい。そして貴様が約束を守れば、俺はけっして糸子さんに手をかけない。いいか分ったろうな」
「仰有(おっしゃ)ることはよく分りましたよ、蠅男さん。しかし貴下は人殺しの罪を犯したんですよ。早く自首をなさい。自首をなされば、僕は安心をしますがネ」
「自首? ハッハッハッ。誰が自首なんかするものか。――とにかく下手(へた)に手を出すと、きっと後悔しなければならないぞ」
「貴方も注意なさい。警察では、どうしても貴方をつかまえて絞首台へ送るんだといっていますよ」
「俺をつかまえる? ヘン、莫迦にするな。蠅男は絶対につかまらん。俺は警察の奴輩(やつばら)に一泡ふかせてやるつもりだ。そして俺をつかまえることを断念させてやるんだ」
「ほう、一泡ふかせるんですって。すると貴方はまだ人を殺すつもりなんですね」
「そうだ、見ていろ、今夜また素晴らしい殺人事件が起って、警察の者どもは腰をぬかすんだ。誰が殺されるか。それが貴様に分れば、いよいよ本当に手を引く気になるだろう」
「一体これから殺されるのは誰なんです」
「莫迦(ばか)! そんなことは殺される人間だけが知ってりゃいいんだ」
「ええッ。――」
「そうだ、帆村君に一言いいたいという女がいるんだ。電話を代るからちょっと待っとれ」
「な、なんですって。女の方から用があるというんですか――」
 帆村はあまりの意外に、強く聞きかえした。そのとき電話口に、蠅男に代って一人の女が現われた。
「ねえ、帆村さん」
「貴女(あなた)は誰です。名前をいって下さい」
「名前なんか、どうでもいいわ。けさからあたしたちをつけたりしてさ。早く宝塚から……」
 とまで女がいったとき、帆村は向うの電話器のそばで、突然蠅男の叫ぶ声を耳にした。
「――し、失敗(しま)ったッ。オイお竜(りゅう)、警官の自動車だッ」
「えッ、――」
 ガラガラと、ひどい雑音が聞えてきた。怪しき女は受話器をその場に抛(ほう)りだしたものらしい。なんだか戸が閉まるらしく、バタンバタンという音が聞えた。それに続いて、ドドドドッという激しい銃声が遠くに聞えた。
「あ、機関銃だ!」
 帆村は愕然(がくぜん)として叫んだ。


   醒(さ)めたる麗人(れいじん)


 電話が切れて、不気味な機関銃の音も聞えなくなった。しかし帆村の耳底には、微(かす)かながらも確かに聞いた機関銃の響きがいつまでもハッキリ残っていた。
 機関銃の響きを聞いて、帆村が愕然(がくぜん)とするのも無理ではなかった。
 忘れもせぬ十二月二日、鴨下ドクトルの留守邸に、焼ける白骨屍体を発見したあの日、何者かの射つ機関銃のために、彼帆村は肩に貫通銃創(かんつうじゅうそう)をうけたではないか。だから機関銃と聞けば、ために全身の血が俄(にわ)かに逆流するのもことわりだった。
 あの機関銃は、一体どっちが撃ったのであろうか。
 警官隊であろうはずがない。
 すると、機関銃はたしかに蠅男と名乗る電話の人物がぶっ放したものとなる。
 機関銃と蠅男!
「うむ、やっぱりそうだったか」
 帆村は呻(うな)るように云った。
 鴨下ドクトル邸に於て、彼を機関銃で撃ったのは、紛(まぎ)れもなく蠅男だったにちがいない。蠅男はあの日、ドクトル邸の二階に隠れていて、そこへ上ってきた彼を撃ったのにちがいない。
「そうか。――すると蠅男と僕とは、すでに事件の最初から血腥(なまぐさ)い戦端をひらいていたんだ。そういうこととは今の今まで知らなかった。うぬ蠅男め、いまに太い鉄の棒をはめた檻(おり)のなかに入れてやるぞ」
 帆村は切歯扼腕(せっしやくわん)して口惜しがった。
 凶暴な機関銃手があの蠅男だということに決まれば、彼は事件をもう一度始めから考え直さねばならないと思った。
 それから今の電話によって、もう一つ新しく知った事実があった。それは蠅男がいつも一人で居るのかと思ったのに、今の電話で、蠅男には連れの人物があることが分った。
 それは年若い女性だった。
(し、失敗(しま)ったッ。オイお竜(りゅう)!)
 たしかにお竜――と蠅男は呼んだ。
 そのお竜のことであるが、彼女は何か帆村に云いたがって電話に懸ったが、僅か数語しか喋らないうちに、蠅男が警官隊の襲来を知らせたので、話はそのままに切れた。
 だがその短い数語によって、彼女は何者かということがハッキリ分ったような気もする。
(けさから、宝塚であたしたちをつけて……)
 といったが、今朝から宝塚でつけた女といえば、あの池谷医師の連れの女の外ないのである。あれがお竜にちがいない。丸顔の背のすらりとした美人であった。年齢のころは、見たところ二十四か五といったところだったが、たいへん仇(あだ)っぽいところから、或いはもっと年増なのかも知れない。
 その怪しの美人お竜は、池谷医師と連れだって、新温泉の娯楽室のなかで一銭活動写真のフィルム「人造犬」の一巻を購(あがな)い、それからまた肩をならべて林の向うの池谷邸に入っていったのである。それっきり、二人の姿は邸内にも発見されなかった。一体二人はどこへ行ったのだろう。
 ところがひとりお竜だけは、電話の声に過ぎないとはいえ、再び帆村の前に現われたのである。しかも蠅男の連れとして彼の前に関係を明らかにしたのである。一方、池谷医師はどうしたであろうか。いまごろは彼の別邸か医院に姿を現わしているであろうか。
 池谷医師は、あのお竜とどういう関係なのであろう。お竜があの恐ろしい蠅男の一味だということを知っているのであろうか。もし知っていれば、あんな女と肩を並べて歩くはずがない。考えてゆくと全く不思議な謎であった。
 とにかく池谷医師の所在を、もう一度丁寧に調べる必要がある。大川司法主任と相談して調べることにしよう。そういえば、大川は下へ下りていったきり、なかなか帰ってこないが、なにをしているのであろう。
 帆村が不審を起しているところへ、当の大川主任は佩剣(はいけん)を握ってトントンと飛びこんできた。
「大川さん。どうです、分った?」
「分った。――」
 主任は、苦しそうに喘(あえ)ぎ喘(あえ)ぎ応えた。
「どう分ったんです?」
「天王寺(てんのうじ)の新世界のわきだす」
「え、新世界のそば?」
「はア、そや。天王寺公園南口の停留場の前に、一つ公衆電話がおまんね。その中に、蠅男が入りよったんや。あんさんの命令どおり、すぐ電話局へかけてみて、あんさんの話し相手が今どこから電話をかけているか調べてもろうてな、それから直ぐ署の方へ連絡しましたんや。蠅男が今これこれのところから電話を懸けているねン、はよ手配たのみまっせいうたら、署長さんが愕(おどろ)いてしもうて、へえ蠅男いう奴はやっぱり人間の声だして話しているかと問いかえしよるんや。――しかしすぐ手配するいうとりました」
 帆村はうちうなずいて、主任に今しがた電話を通じて警官隊が現場に到着したらしい騒ぎを耳にしたことや、蠅男が女を連れていて、機関銃をもって抵抗し、そのうちにどこかに行ってしまったことを話した。大川主任は、なるほど、ほうほう、さよかいなを連発しながら、帆村の機智によるこの蠅男追跡談にいとも熱心に耳を傾けた。
 丁度そのとき、部長の連れてきた一人の警官が、部屋に入ってきた。
「部長さん、あの娘がどうやら目が覚めたらしゅうおまっせ」
 その警官は、蠅男の手によってこのホテルの帆村の借りている部屋に寝かされていた故玉屋総一郎の一人娘糸子を保護していたのだった。糸子は睡眠薬らしいものを盛られて、トランクのなかからズッと睡りつづけていたのだが、今やっと覚めたものらしい。
 帆村はそれを聞くと、すぐに糸子のところへ駈けつけた。
「どうしました、糸子さん」
 糸子はベッドに寝たまま、乱れた髪をすんなりとした指さきでかきあげていたが、思いがけない帆村の姿をみてハッとしたらしく、みるみる頬を真赤に染めて、
「まあ帆村さん、うちどないして、こんなところへ来ましたんやろ。ここ、どこですの」
 と、床の上に起きあがろうとしたが、呀(あ)っと小さい声をたてて、また床の上にたおれた。
「――目がまわって、かなわん」
 帆村はつとよって、糸子の腕をとり、そして脈を見た。脈はすこし早かった。
 心臓がよわっているようだ。
「糸子さん、静かにしていらっしゃい。こんどはもう大丈夫、十分信頼していい警官の方が保護して下さっていますから、何も考えないで、今夜はここで泊っていらっしゃい。ばあやさんか誰か呼んであげましょうか」
「そんなら、家へ電話かけてお松をよんで頂戴」
「医者も呼んであげましょう」
「いいえ、お医者はんはもう結構だす。すぐなおりますさかい、お医者さんはいりまへん。池谷さんにも、うちのこと知らせたらあきまへんし」
 糸子はひどく医者を恐怖していた。もちろん池谷医師に対する不信のせいであろうと思われるが。
 帆村と大川主任とは、糸子をいろいろと慰めてから、その部屋を出た。そして廊下に出て、たがいに顔を見合わせた。
「糸子はんのことは、首にかけて引受けまっさ。どうぞ安心しとくなはれ」
 と大川主任は強く自信ありげな言葉でいった。
「じゃ、貴官にくれぐれもお頼みしますよ」
 そういって帆村は、主任の手をギュッと握った。部長は帆村の心の中の秘めごとも知らず、ただ感激して帆村の手を強く握りかえした。


   蠅男包囲陣(ほういじん)


 帆村は天王寺公園のところで、夜の非常警戒線にひっかかった。彼は後事を大川主任に頼み、宝塚のホテルから自動車をとばして住吉署に向う途中だったのだ。住吉署に行ってから、先刻(さっき)の彼が一役買った蠅男捕物の話も聞いたり、それから久方ぶりで帰邸したという奇人館の主人鴨下ドクトルにも会ってみるつもりだった。ところが公園の近くまで来ると、非常警戒線だという騒ぎである。
 帆村探偵は車を下りて、頤紐(あごひも)をかけた警官に、住吉署の正木署長が来ていないかと尋ねた。
「ああ正木さんなら、公園南口の公衆電話のそばに、うちの署長と一緒に居やはるはずだっせ。そこに警戒本部が出張してきとりますのや」
 うちの署長というのは、戎署(えびすしょ)のことをいうのであろう。天王寺公園や新世界は、この戎署の管轄だった。
 帆村探偵は警戒線のなかに入れて貰って、市電のレール添いに公園南口の方へ歩いていった。行くほどになるほど公衆電話の函が見えてきた。さっきホテルから蠅男と話をしたとき、怪人物蠅男はあの電話函のなかに入っていたんだ。美人お竜も、あの函の前であたりに気を配っていたのかも知れない。近づくに従って、一隊の警察官が停留場の前に佇立(ちょりつ)しているのを認めた。丁度誰何(すいか)した警官があったのを幸い、彼を案内に頼んで、その一行に近づいた。
 なるほど正木署長もいた。帆村と親しい村松検事もいた。戎署長の真赤な童顔も交っていた。
 正木署長は手をあげて帆村をよんだ。
「やあ皆さん。蠅男が電話をかけているのを知らせてくれた殊勲者、帆村探偵が来られましたぜ。その方だす」
 旧知も新知も帆村の方をむいてその殊勲をねぎらった。
「署長さん。蠅男はどうしました」
「さてその蠅男やが、折角(せっかく)知らせてくれはったあんたにはどうも云いにくい話やが――実は蠅男をとり逃がしてしもうたんや」
「はア、逃げましたか」
「逃げたというても、逃げこんだところが分ってるよって、いま見てのとおり新世界と公園とをグルッと取巻いて警戒線をつくっとるのやが――」
「ああなるほど、そのための非常警戒ですか。女の方はどうしました、あのお竜とかいう……」
「ああ、あれも一緒に、そこの軍艦町(ぐんかんまち)に逃げこんでしもて、あと行方知れずや」
「え、軍艦町?」
「はア、軍艦町には、狭い関東煮やが沢山並んでて、どの店にも女の子が三味線をひいとる、えろう賑やかな横丁や。そこへ逃げこんだが最後、どこへ行ったかわかれへん」
「じゃあ、どっちも捕える見込み薄ですね」
「しかし儂(わし)の考えでは、二人ともまだこの一画のなかにひそんどる。それは確かや。この一画ぐらい隠れやすいところはないんや。そしていずれ隙を見て、チョロチョロと逃げ出すつもりやと睨(にら)んどる。もっと待たんと、ハッキリしたところが分れしまへんな」
 そこへ一人の警官が、伝令と見えて、向うからかけて来た。
「いま向いの動物園の中で妙な洋服男がウロウロしとるのを見つけました。こっちへ出てくる風でおます。それとなく警戒しとります」
 動物園というのは、公園南口停留場のすぐ向いにあった。この寒い夜中に、動物園のなかをうろついているというのはいかさま変な話だった。
 そのとき村松検事が、例の病人のような骨ばった顔をこっちへ近づけてきた。
「オイ帆村君。なにか面白い話でも聞かさんか。儂は至極退屈しているんだ」
 検事は浮かぬ顔をしていた。折角の捕物がうまくいかないので、腐っているらしい。
「面白い話は、こっちから伺いたいくらいですよ。蠅男がアメリカのギャングのように機関銃を小脇にかかえてダダダッとやったときの光景はいかがでした」
「ウン、なかなか勇壮なものだったそうだ。味方はたちまち蜘蛛の子を散らすように四散して、電柱のかげや共同便所のうしろを利用してしまったというわけさ」
「検事さんのお口にかかっては、こっちは皆シャッポや」と署長は苦笑いをした。「それよりも帆村はん、豪(えら)い妙な話がおますのや。それは蠅男の機関銃のことだすがナ、その機関銃の銃身(じゅうしん)がこっちには皆目見えへなんだちゅうのだす」
「え、もう一度いって下さい」
「つまり、蠅男は機関銃を鳴らしとるのに違いないのに、その肝腎(かんじん)の銃身がどこにも見えしまへんねん」
「それはおかしな話ですね。蠅男はどんな風に構(かま)えていたんですか」
「ただこういう風に」と署長は左腕を水平に真直に前につきだしてみせ、「左腕を前につきだして立っとるだけやったいう話だす。手にはなんにも持っとらしまへんねん。透明機関銃やないかという者も居りまっせ」
「透明機関銃? まさか、そんなのがあろう筈がない。何か見ちがえではないのですか」
「いや、蠅男に向うた誰もが、云いあわしたようにそういいよったんで……」
「フーム」
 帆村はその奇怪な話を聞いて、狐に鼻をつままれたような気がした。
「そうそう、そういえば先刻の蠅男の電話では、蠅男は今夜のうちにまた誰かを殺すといっていましたよ」
「なに今夜のうちに、また殺すって」
 検事が愕いて聞きかえした。
「ほんまかいな――」
 正木署長は恐怖のあまりしばらくは口も利けなかったほどだった。
「誰か蠅男から脅迫状をうけとった者はないのですか」
 検事と署長とは、思わず不安げな顔を見合わせた。


   奇行(きこう)ドクトルの出現


「誰だろう、こんどの犠牲は?」
「さあ、蠅男から死の脅迫状をうけとったいう訴えはどこからも来てえしまへんぜ」
「フーム、変だな」
 検事と署長とは、強く首をふった。
「なんだ。誰が殺されるか、まだ分っていないのですか」
 帆村も唖然(あぜん)とした。蠅男は電話でもってたしかに殺人を宣言したのだった。そしてその殺人は、満都を震駭(しんがい)させるほど残虐をきわめたものであるらしいことは、蠅男の口ぶりで察せられた。あの見栄坊の蠅男が、それほどの大犯罪をやろうとしながら、相手に警告状を出さない筈はないと思われる。
 そもこの戦慄(せんりつ)すべき犠牲者は、何処の誰なのであろうか。
「来た来た、あれだッ」
 と、そのとき叫ぶ者があった。
 帆村はハッとしてその方を向いた。
 動物園の入口から、一人の老紳士が警官に護られながらこっちへ歩いてくるのが見えた。それは、さっき伝令の警官から報告のあったように、夜の動物園のなかにうろついていた疑問の人物であろう。
 老紳士はすこし猫背の太った身体の持ち主だった。頭の上にチョコンと小さい中折帽子をいただき、ヨチヨチと歩いてくる。そして毛ぶかい頤鬚(あごひげ)や口髭(くちひげ)をブルブルふるわせながら、低声(こごえ)の皺がれ声で何かブツブツいっていた。どうやら警官の取扱いに憤慨しているらしかった。
「……どうもお前らは分らず屋ばかりじゃのう。早く分る男を出せ。天下に名高い儂(わし)を知らないとは情けないやつじゃ」
 と、老紳士はプンプンしていた。
「おお、あれは鴨下(かもした)ドクトルじゃないか」
 と正木署長は、意外の面持(おももち)だった。
「儂を知らんか、知っとる奴が居るはずやぞ。もっと豪(えら)い人間を出せ」
「おお鴨下ドクトル!」
「おお儂の名を呼んだな。――呼んだのはお前じゃな。うむ、これは署長じゃ。この間会って知っている。お前は感心じゃが、お前の部下は実に没常識ぞろいじゃぞ。儂のことを蠅男と呼ばわりおったッ」
 老紳士は果然(かぜん)鴨下ドクトルだったのだ。ドクトルはなおも口をモガモガさせて、黒革の手袋をはめた手に握った細い洋杖(ステッキ)をふりあげて、いまいましそうにうちふった。
 正木署長はドクトルに事情を話して諒解(りょうかい)を乞うた上で、なおドクトルが夜の動物園で何をしていたのかを鄭重(ていちょう)に質問した。
「なにをしようと、儂の勝手じゃ。儂の研究の話をしたって、お前たちに分るものか」
「それでもドクトル、一応お話下さらないとかえってお為になりませんよ」
「ナニ為にならん。お前は脅迫するか。儂は云わん、知りたければ塩田律之進(しおたりつのしん)に聞け」
「えッ、塩田律之進というと、アノ鬼検事といわれた元の検事正(けんじせい)塩田先生のことですか」
 村松検事が愕いて横合いから出てきた。
「そうじゃ、塩田といえば彼奴(あいつ)にきまっとる。あれは儂の昔からの友人じゃ」とドクトルはジロリと一同を見まわし、
「それに儂(わし)は塩田と約束して、これから堂島(どうじま)の法曹クラブに訪ねてゆくことになっとる。心配な奴は、儂について来い。しかし邪魔にならぬようについて来ないと、遠慮なく呶鳴りつけるぞ」
 あの有名な塩田先生の友人と聞いては、検事も署長も、大タジタジの体であった。なかにも村松検事は、塩田先生の門下の俊才として知られていた。それで彼は、この上、先生の友人である鴨下ドクトルを警官たちが怒らせることを心配して、
「じゃあドクトル、塩田先生にはしばらく御無沙汰していましたので、これから一緒にお伴をしてもいいのですかネ」
「なんじゃ、貴公がついて来るというのか。ついて来たけりゃついてくるがいい。しかし今もいうとおり、邪魔にならぬようにしないと、この洋杖でなぐりつけるぞ」
 奇人館の主人は、なるほど奇人じみていた。検事はそれをうまくあしらいながら、署長たちに断りをいって、ドクトルのお伴をすることになった。堤(どて)のところに待っていた一台の警察の紋のついた自動車がよばれ、それにドクトルと検事は乗りこんで、出かけていった。
 帆村は、はじめて見た鴨下ドクトルの去ったあとを見送りながら、
「フーム、実に興味津々(しんしん)たる人物だ」
 と歎息(たんそく)した。
 そして正木署長の方を向いて、鴨下ドクトルが帰館して、あの暖炉(だんろ)のなかの屍体のことをどういったか、それからまたドクトルは何処に行っていたのかなどという予(かね)て彼の知りたいと思っていたことを訊(き)いてみた。
 それに対して署長は苦笑(にがわら)いをしながら、イヤどうも万事あの調子なので、訊問(じんもん)に手古(てこ)ずったがと前置きして、次のように説明した。
 すなわちドクトルは、急に思いたって東京に行っていたのだそうである。そして十二月一日から五日まで、上野の科学博物館へ日参して博物の標本をたんねんに見てきたそうである。宿は下谷区(したやく)初音町(はつねちょう)の知人の家に泊っていたという。
 それから暖炉のなかの屍体は、一向心あたりがないという。これはお前たちの警戒が下手くそのせいだとプンプン怒っていたとのことである。
 ドクトルのいったことが正に本当かどうか、それは上申して目下取調べを警視庁に依頼してあるということだった。
 帆村は早くその報告が知りたいものだと思った。しかしまだ二、三日は懸るのであろう。
「それから正木さん。ドクトルの娘のカオルさんたちはどうしました。いまの話では行き違いになったらしいが、今どこにいるのですか」
「ああそのことや。実はドクトルからも尋ねられたことやけれど、娘はんとあの上原山治という許婚(いいなずけ)は、ドクトルが居らへんもんやさかい、こっちへ来たついでやいうて、いま九州の方かどっかへ旅行に出とるのんや。帰りにきっと本署へ寄るという約束をしたんやさかい、そのうち寄るやろ思うてるねん」
「ほほう、そうですか」


   大戦慄(だいせんりつ)


 非常警戒の夜は、張り合いのないほど静かに更(ふ)けていった。蠅男はどこにひそんでいるのか、コトリとも音をたてない。ドクトルの騒ぎが、最後の活気であるかのように思われた。
 この調子なら、蠅男もこの一画に閉じこめられたまま、あの殺人宣言はむなしく空文(くうぶん)に終ってしまうことかと思われた。
 正木署長が呼ばれて、交番の方へ歩いていった。
 しばらくして、署長はトコトコと元の位置へ帰ってきた。
「どうかしましたかネ」
 帆村は退屈さも半分手つだって、署長に声をかけた。
「いや、行きちがいの話だんね」
「ははァ、行きちがいの話ですか。じゃあそこまで行ってどうも御苦労さまというわけですか」
「まあそんなものや。つまり村松検事さんのところへ、塩田先生からの速達が来たという話やねん。今夜十時までに、堂島さんの法曹クラブに訪ねてきてくれというハガキや」
「村松さんはもう行ったじゃないですか」
「そうや。そやさかい、行きちがいや云うとるねん」
「しかし速達はギリギリに着いたですね。もうかれこれ九時ですよ」
 二人の会話は、そこでまたもや杜切(とぎ)れてしまった。帆村は次第につのり来る寒さに、外套の襟を深々とたて、あとは黙々として更けてゆく夜の音に、ただジッと耳を澄ましたのだった。
 おお蠅男は、どこに潜(ひそ)んでいる?
 こうして頤紐(あごひも)をかけた大勢の警官隊でもって、大阪きっての歓楽の巷である新世界と大阪一の天王寺公園とを冬の陣のようにとりかこんでいるが、蠅男とお竜とはもういつの間にか、この囲みをぬけてどこかへ逃げてしまったのではないか。
 全く神出鬼没(しんしゅつきぼつ)の怪漢蠅男のことだから、容易に捕る筈がない。しかもこの界隈(かいわい)は、人間の多いこと、抜け裏の多いことで大阪一の隠れ場所だ。いまに活動や芝居がはねて、群衆が新世界からドッと流れだしたときには、警官隊はどうしてその夥(おびただ)しい人間の首実検をするのであろうか。恐らく蠅男は、その閉場(はね)の時刻を待っているのであろう。
 怪漢蠅男ほど頭の働く悪人は聞いたことがない。彼奴はすこぶるの知恵者であり、そして云ったことを必ず実行する人間であり、そして人一倍の見栄坊だ。彼はどうしても今夜のうちに、異常なセンセイションをひき起す殺人を実演してみせるに違いない。だからこの一画のなかに縮こまっているなんて、そんな筈がないのだ。
 その蠅男と、彼帆村とは、きょうはじめて口を利きあった。それは電話でのことであったが、特筆大書すべき出来ごとだった。
 糸子をかえしてよこして、彼に探偵を断念しろというところなんか、実に凄い脅迫である。彼は今、やっぱり探偵根性をもって、蠅男のあとを嗅ぎまわっているが、これが蠅男に知れずにはいまい。そのときこそ、彼は一大決心を固めなければならない。蠅男の知恵には、さすがの彼も全く一歩どころか数歩をゆずらなければならない。
 こうしているうちにも、蠅男は誰かの胸もとに鋭い刃をジリジリと近づけつつあるのではあるまいか。殺人宣告書は誰がもっているのか分らないが、一体誰が殺される役まわりになっているのだろうか。
 そのとき帆村は、まっさきに心配になるものを思いだした。彼は急に機械のまわりだした人形のように、トコトコ歩きだした。
 彼は交番へ入った。そして電話で、宝塚のホテルに詰めている大川司法主任をよんでもらうように頼んだ。
「モシモシ、こっちは大川だす。なんの用だすかいな」
 帆村はその声を聞いて、胸を躍らせた。彼はその後の蠅男の事情を報告して、もしや糸子のところに死の宣告書が来ていないかを尋ねた。
「それは大丈夫だす。そんなものは決して来てえしまへん。安心しなはれ」
 大川主任はキッパリ答えた。
 帆村は安心をして電話を切ったが、しかしまた新たなる心配が湧き上ってきた。
「誰かが、死の宣告書をつきつけられているのに違いない。その人は何かの理由があって、そのことを警察に云ってこないのではないか。早く云ってくれば助けられるかも知れないのに……」
 そんなことを考えつづけているときだった。霞町(かすみちょう)の角を曲って、こっちへ進んで来た自動車が、ピタリと停った。
 誰だろうと見ると、なかからヒョイと顔を出したのは余人ならず鴨下ドクトルの鬚面であった。
「正木さん、オイ正木さんは居らんか」
 ドクトルは住吉署長の名をしきりと呼んだ。
 なにごとだろうと、正木署長は自動車のところへ駆けつけた。
「おお正木さん。ねえ、冗談じゃないよ。君たち、こんなところで非常警戒していても何にもならせんよ。蠅男はすでにさっき現われて、儂の大切な友人を殺し居ったぞ」
「えッ、蠅男が現われたと……」
 誰も彼もサッと顔色をかえた。
「誰が殺されたんです」
 帆村が反問した。
「殺された者か。それは儂の友人、塩田律之進じゃ。それはまだいいとして、殺したのは誰じゃと思う」
「蠅男ではないんですか」
「あれが蠅男なんだろうな」ドクトルは小首を傾け、
「とにかく捕ったその蠅男は、さっき儂と一緒の車に乗っていた村松という検事なんじゃ」
「ええッ、村松検事が……」
「塩田先生を殺したというのですか」
「そして検事が蠅男だとは、まさか……」
 一同はあまりのことに腰を抜かさんばかりに愕いた。村松検事があの恐るべき蠅男だったとは、誰が信じようか。しかしドクトルの言葉は、出鱈目を云っているとは思われない。どこかに間違いがあるのであろう。一体どこが間違っているのか?
 間違っていないことは、帆村にいったとおり、それが誰にもせよ「蠅男」が今夜もキッパリ人を殺したということ!


   法曹クラブの殺人


 村松検事は、果して恐るべき殺人魔「蠅男」なのであろうか?
 検事を信ずることの篤(あつ)い帆村探偵は、誰が何といおうと、それが間違いであることを信じていた。しかし何ごとも証拠次第で決まる世の中だった。元の鬼検事正、塩田先生の殺害現場を調べた検察官はまことに遺憾にたえないことだったけれど、村松検事を殺人容疑者として逮捕するしかないのっぴきならぬ証拠を握っていたのであった。
 そのときの報告書に記された殺人顛末(てんまつ)は、次のような次第であった。
 場所は、大阪の丸の内街と称せられる堂島に、最近建てられた六階建のビルディングで、名づけて法曹クラブ・ビルというところだった。
 当夜午後九時をすこし廻ったとき、人造大理石の柱も美々しいビルの玄関に、一台の自動車が停った。そして中から降りて来たのは一人の鬚の深い老人と、もう一人は黒い服を着た顔色の青白い中年の紳士だった。この老人は、云わずとしれた鴨下ドクトルだったし、黒服の中年紳士は村松検事であった。
 二人はボーイに来意をつげた。
 ボーイは早速電話でもって、塩田先生に貸してある小室へ電話をかけた。すると塩田先生が電話口に現われて、
「おおそうか。鴨下ドクトルに、村松も一緒について来たのか。たしかに二人連れなんだネ」
「左様でございます」
 とボーイは返事をした。
 すると塩田先生は、何思ったか急に言葉を改めて、ボーイに云うには、
「実は、これは客に知れては困るので、君だけが心得て、ソッと知らせて貰いたいんだが……」、と前提して、「その村松という客の前額に、斜めになった一寸ほどの薄い傷痕がついているだろうか。ハイかイイエか、簡単に応えてくれんか」
 ボーイはこの奇妙な質問に愕いたが、云われたとおり村松氏の額(ひたい)を見ると、なるほど薄い傷痕が一つついていた。
「ハイ、そのとおりでございます」
「おおそうかい」と、塩田先生は安心したような声を出して、「では丁寧に、こっちへお通ししてくれんか」
 二人の客は、そこで帽子とオーバーとを預けて、エレヴェーターの方に歩いていったが、そのときドクトルは横腹をおさえて顔を顰(しか)め、ボーイに手洗所の在所(ありか)を聞いた。
 そこでボーイが一隅を指(ゆびさ)すと、ドクトルは村松氏に先へ行くようにと挨拶して、アタフタと手洗所の中へ入っていった。
 ボーイは村松氏だけを案内して、六階にある塩田先生の貸切り室へ連れていった。扉をノックすると、塩田先生が自ら入口を開いて、村松氏を招じ入れた。鴨下ドクトルは今手洗所に入っているから、間もなく来るであろうと村松氏が云えば、先生は大きく肯(うなず)き、そうかそうかといって、急いで村松氏の手をとり、室内へ入れ、扉をピタリと閉じた。
 ボーイは、手洗所から鴨下ドクトルが出て来ない前に、階下へ下りていなければならぬと思ったので、エレヴェーターを呼んで、スーッと下に下りていった。
 約七、八分の間であったと、ボーイは後に証言した。ボーイが、手洗所から出てきた鴨下ドクトルを案内して、再び塩田先生の室の前に立ったまでの時の歩みを後から思い出してみると、――
 その七、八分という短い時間のうちに、塩田先生の室には大変なことが起っていたのだった。それとも知らぬボーイは、室の扉をコンコンとノックした。
 しかるに、室のなかからは、何の返事もない。聞えないのかと思って、もう一度、すこし高い音をたててノックしたが、やはり返事がない。
「オイ、どうしたんじゃ。お前は部屋を間違えとるんじゃないか。しっかりせい」
 と、気短かの鴨下ドクトルは、ボーイを呶鳴りつけた。
 ボーイは、そういわれて、室番号を見直したが、たしかに間違いない。室内には、電灯が煌々(こうこう)とついている。六階で電灯のついているのは、そんなに沢山あるわけではない。どうしてもこの室なのに、塩田先生と村松氏は、一体中で何をしているのだろう。
 ボーイは把手(ノッブ)をつかんで、押してみた。
 だが、扉はビクともしない。内側から鍵がかかっているのだった。
「変だなア。モシモシ、お客さん――」
 と、ボーイは大声で呶鳴りながら、扉を激しく叩いた。
 すると、扉のうちで、おうと微(かす)かに返事をする者があった。
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