蠅男
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著者名:海野十三 

「――これは考えれば考えるほど、容易ならぬ事件だぞ」
 と、帆村探偵は心の中で非常に大きい駭(おどろ)きを持った。――密室に煙のように出入することの出来る背丈八尺の怪物!
「蠅男」を勘定から出すと、イヤどうも何といってよいか分らぬ恐ろしい妖怪変化となる。果してこんな恐ろしい「蠅男」なるものが、文化華(はな)と咲く一千九百三十七年に住んでいるのであろうか。
 帆村は、彼が糸子の傍に佇立(ちょりつ)していることさえ忘れて、彼のみが知る恐ろしさに唯(ただ)、呆然(ぼうぜん)としていた。


   宝塚の一銭活動写真


 それから二日のちのことだった。帆村荘六はただひとりで、宝塚の新温泉附近を歩いていた。
 空は珍らしくカラリと晴れあがり、そして暖くてまるで春のようであった。冬の最中とはいえ真青に常緑樹の繁った山々、それから磧(かわら)の白い砂、ぬくぬくとした日ざし――帆村はすっかりいい気持になって、ブラブラと橋の上を歩いていった。これが兇悪「蠅男」の跳梁(ちょうりょう)する大阪市と程遠からぬ地続きなのであろうかと、分りきったことがたいへん不思議に思われて仕方がなかった。
 新温泉の桃色に塗られた高い甍(いらか)が、明るく陽に照らされている。彼は子供の時分よく、書生に連れられて、この新温泉に来たものであった。彼はそこの遊戯場にあったさまざまな珍らしいカラクリや室内遊戯に、たまらない魅力を感じたものであった。彼の父はこの温泉の経営している電鉄会社の顧問だったので、彼は一度来て味をしめると、そののちは母にねだって書生を伴に、毎日のように遊びに来たものである。しかし書生はカラクリや室内遊戯をあまり好まず、坊ちゃん、そんなに遊戯に夢中になっていると身体が疲れますよ、そうすると僕が叱られますから向うへ行って休憩しましょうと、厭(いや)がる荘六の手をとって座席の上に坐らせたものだ。
 その座席は少女歌劇の舞台を前にした座席だったので、自然少女歌劇を見物しながら休息しなければならなかった。書生はここへ来ると俄然温和(おとな)しくなって、荘六のことをあまり喧(やかま)しく云わなかった。その代り彼は、突然団扇(うちわ)のような手で拍手をしたり、舞台の少女と一緒に唱歌を歌ったり、それからまた溜息をついたりしたものである。荘六は子供心に、書生が一向休憩していないのに憤慨(ふんがい)して、ヨオお小用(しっこ)が出たいだの、ヨオ蜜柑(みかん)を買っておくれよ、ヨオ背中がかゆいよオなどといって書生を怒らせたものである。――いま橋の上から、十何年ぶりで、新温泉の建築を見ていると、そのときの書生の心境をハッキリ見透(みとお)せるようで頬笑ましくなるのであった。彼は久し振りに新温泉のなかに入ってみる楽しさを想像しながら、橋の欄干(らんかん)から身を起して、またブラブラ歩いていった。
 とうとう彼は、入場券を買って入った。もちろん昔パスを持って通った頃の年老いた番人はいなくて、顔も見知らぬ若い車掌のような感じのする番人が切符をうけとった。
 中へ入った帆村は、だいぶん様子の違った廊下や部屋割にまごつきながらも、やっと覚えのある大広間(ホール)に出ることができた。朝まだ早かったせいか、入場者は多くない。
 帆村は遊戯室の方に上る階段の入口を探しあてた。彼はすこし胸をワクワクさせながらその狭い階段を登っていった。
 おお有った有った。思いの外なんだか狭くなったような感じであるが、見廻したところ、彼の記憶に残っている世界遊覧実体鏡、一銭活動、魔法の鏡、三世界不思議鏡、電気屋敷など、すべてそのままであった。
「うむ、アルプスの小屋に住んでいる貧乏(プーア)サンタクロス爺さんの一家は機嫌がいいかしら」
 と、帆村は数多い懐しい実体鏡のなかを、あれやこれやと探して歩いた。貧乏サンタクロスの一家というのは、アルプス小屋に住んでいる山籠(やまごも)りの一家のことで、小さな小屋の中にサンタクロスに似た髯を持った老人を囲んで、男女、八人の家族が思い思いに針仕事をしたり薪を割ったり、鏡の手入れをしたり、子供は木馬に乗って遊んでいるという一家団欒の写真であって、サンタ爺さんひとりは酒のコップを持ってニコニコ笑っているのであった。
 その実体鏡でみると、この狭い家の中の遠近がハッキり見え、そして多勢の身体も実体的に凹凸(おうとつ)がついていて、本当の人間がチャンとそこに見えるのであった。いつまでも見ていると、本当にアルプスへ登って、この小屋の中を覗(のぞ)きこんでいるような気がしてきて、淡い望郷病が起ってきたり、それから小屋の家族たちの眼がこっちをジロリと睨んでいるのが、急になんともいえなく恐ろしくなったりして、堪らなくなって眼鏡から眼を離して周囲を見廻す。すると一瞬間のうちに、アルプスを離れて、身はわが日本の宝塚新温泉のなかにいることを発見する――という淡(あわ)い戦慄(せんりつ)をたいへん愛した帆村荘六だった。彼は十何年ぶりで、そのアルプス小屋の一家が相変らず楽しそうに暮しているのを発見して嬉しかった。サンタ爺さんの手にあるコップには相変らず酒が尽きないようであったし、彼の長男らしい眼のギョロリとした男は、一挺の猟銃をまだ磨きあげていなかった。
 帆村は子供の頃の心に帰って、それからそれへとカラクリを見て廻った。
 そのうちに彼は甚(はなは)だ奇抜な一銭活動を発見した。これは「人造犬(じんぞうけん)」という表題であったが、イタリヤらしい市街をしきりに猛犬が暴れまわり、市民がこれを追いかけるという写真であった。その猛犬を追跡自動車が追うと、自動車が反(かえ)ってガタンと街路にひっくりかえる。ピストルを打てば、弾丸が撃った者の方へ跳ねかえってくる。袋小路へ大勢の市民が追いつめて、いよいよ捕えるかしらと思っていると、ああら不思議、猛犬の四肢が梯子(はしご)のようにスルスルと伸び、猛犬の背がビルディングの五階に届く。そして寝坊のお内儀らしい女が、窓を明ける拍子に猛犬は女を押したおしてそこから窓の中へ飛びこむ。最後にこの「人造犬」の発明者が現われて犬の尻尾を棍棒でぶんなぐると、犬を動かしていた電気のスイッチが開き、猛犬は仰向けにゴロンと引繰りかえり、身体のなかからゼンマイや電池や電線がポンポン飛び出す――という大活劇であった。
 帆村はその活動写真がたいへん気に入って、二度も三度も一銭銅貨を抛(な)げて、同じものを繰返し見物した。この「人造犬」というのは、彼が子供のときに見た記憶がなかった。その後、新しく輸入されて陳列されたものであろうが、実に面白い。
 帆村は続いて、他の一銭活動写真の方に移っていった。
 帆村が何台目かの一銭活動を覗きこんでいるときのことだった。すこし離れたところに於て、なにかガタンガタンという騒々しい音をだした者がある。折角の楽しい気分を削ぐ憎い奴だと思って、帆村は活動函から顔をあげてその方を見た。
 音を立てているのは、腕に青い遊戯室係りの巾(きれ)を捲いた男だった。彼は活動函をしきりに解体しているのであった。その傍には、それを熱心に見守っている二人の男女があった。
 女の方は洋髪に結った年の頃二十三、四歳の丸顔の和装をした美人だった。その顔立は、たしかに何処かで最近見たような気がするのであった。男の方は――と、帆村は眼をそっちへ移した瞬間、彼はもうすこしで声を出すところだった。それは余人ではなく、玉屋総一郎の殺人事件のあった夜、玉屋邸に於てしきりに活躍していた医師池谷与之助に外ならなかった。
 池谷医師といえば、帆村が玉屋邸に赴く前に、正木署長から、邸内に現われた怪しき男として電話によって逸早く報道された人物だった。
 しかし彼の住居は、この土地宝塚であるということだったから、今この新温泉に居たとて別に不思議はない筈だった。
 でも彼は、こんな室内遊戯室に、何の用があって訪れたのだろうか。


   尾行


 帆村が数間先に立っていようとは、池谷医師も気がつかなかったらしい。
 遊戯室係りの男は、いよいよ喧(やかま)しい音を立てて、一銭活動の函を取外していった。そしてやがて函の中から取出したのは、この一銭活動フィルムであった。
 池谷医師はそのフィルムを受取って大きく肯くと、それを手帛(ハンケチ)に包んでポケットのなかに収めて、そして連れの女を促して、足早に遊戯室を出ていった。
(尾行したものか、どうだろうか?)
 と、そのとき帆村は逡(ためら)った。
 いつもの彼だったら、躊躇(ちゅうちょ)するところなく二人の男女の後を追ったことだろう。でもそのときは、恐ろしい惨劇事件に酷使した頭脳(あたま)を休めるために無理に余裕をこしらえて、この宝塚へ遊びにきていたのだった。そして折角楽しんでいたところへ、妙なことをやっている池谷医師を見たからといって、すぐさま探偵に還らなければならないことはないだろう。それはあまり商売根性が多すぎるというものだ。せめて今日ばかりは「蠅男」事件や探偵業のことは忘れて暮らしたい――と一応は自分の心に云いきかせたけれど、どうも気に入らぬのは池谷医師の行動だった。一銭活動のフィルムを持っていって、どうする気であろう。そして一体彼はどのようなフィルムを外して持っていったのだろう。
「うむ。そうだ。せめて池谷医師が外していったフィルムは何(ど)んなものだったか、それを確かめるだけなら、なにも悪かないだろう」
 帆村は自分の心にそんな風に言訳をして、立っていたところを離れた。
 近づいてみると、係りの男は活動函を元のように締めて立ち上ったところだった。彼は函の前に廻って覗き眼鏡のすぐ傍に挿しこんであった白い細長い紙を外しに懸った。それは函の中の一銭活動の題名を書いてある紙札であった。
「おやッ。――」
 帆村は、なんとはなしにギョッとした。係りの男の外した紙札には、明らかに「人造犬(じんぞうけん)」の三文字が認められてあったではないか。あれほど先刻帆村が面白く見物した「人造犬」の活動写真だったのである。
 係りの男は、帆村の愕きに頓着なく、そのあとへ「空中戦」と認めた紙札を挿しかえた。
 帆村はもう辛抱することができなかった。
「ねえ、おっさん。さっき入っていた『人造犬』の活動は、警察から公開禁止の命令でも出たのかネ」
 遉(さすが)に帆村は、聞きたいことを上手に偽装(カムフラージュ)して訊いた。
「イヤ、そやないねン。あの『人造犬』のフィルムを売ったんや」
「へえ、売った。――この遊戯室の活動のフィルムは誰にでもすぐ売るのかネ」
「すぐは売られへん。本社へ行って、あの人のように掛合って来てくれんと、あかんがな」
「そうかい。――で、あの『人造犬』のフィルムは、もう外(ほか)に持ち合わせがないのかネ」
「うわーッ、今日はけったいな日や。今日にかぎって、この一銭活動のフィルムが、なんでそないに希望者が多いのやろう。――もう本社にも有らしまへんやろ。本社に有るのんなら、あの人も本社で買うて帰りよるがな」
 係りの男はぶっきら棒な口調で、これを云った。
 帆村は、あのフィルムが一本しかないと聞いて、急に池谷医師の後を追いかける気になった。訳はよく分らんが、とにかくどうも怪しい行動である。もしあれを見ているのが自分でなくて正木署長だったら、池谷医師はその場に取り押さえられたことだろう。
 帆村荘六は、もう骨休みも商売根性を批判することもなかった。彼は平常と変らぬ獲物を追う探偵になりきっていた。
 新温泉の出口へ飛んでいった彼は、下足番(げそくばん)に、今これこれの二人連れが帰らなかったかと聞いた。下足番は今ちょっと先に出やはりましたと応えたので、帆村は急いで温泉宿の下駄を揃えさせると、表へ飛びだした。
 帆村はなるべく目立たないように、新温泉の前をあっちへ行ったり、こっちへ行ったりした。そして狙う二人の男女が、新温泉の前をずっと奥の方へ歩いてゆくのを遂に発見した。彼は鼻をクスリと云わせて、旅館のどてらに懐手(ふところで)といういでたちで、静かに追跡を始めたのだった。
 二人の男女はクネクネした道をズンズン歩き続けた。帆村は巧みに二人の姿を見失わないで、後からブラリブラリとついていった。その間にも彼は、池谷医師の連れの美人が誰の顔に似ているかを思い出そうと努めた。ところが、殆んど分っているようでいて、なかなか思い出せないのであった。丸顔の女を、何処で見たのだろう。前に歩いていた二人の男女の姿が、急に道の上から消えた。
「呀(あ)ッ、どこへ行ったろう」
 帆村は先に見える辻までドンドン駈けだしてみたけれど、どの方角にも二人の姿はなかった。最後のところまで行ってとうとう巧く撒かれてしまったか、残念なと思いながら引返してくる帆村の目に、傍の大きな文化住宅の門標が映った。瀟洒(しょうしゃ)な建物には似合わぬ鉄門に、掲げてある小さい門標には「池谷控家」の四字が青銅の浮き彫りに刻みつけてあった。
「うむ、ここへ這入ったんだな」帆村はホッと吐息をついた。これは控家とあるからには、池谷医師の医院は別のところにあるのだろう。これは住居らしいが、なかなか豪勢なものであった。若い女も此処に入ったとすると、あれは池谷医師の妻君だったかなと思った。
 こうして池谷医師の行方はつきとめたけれども、この儘(まま)で入ると、鳥渡(ちょっと)具合がわるい。すこし計略を考えた上でないと、かえって物事が拙(まず)くなると思った帆村は、服でも着かえなおしてくるつもりで、門前を去って、もと来た道の方へ引きかえしていった。
 半丁ほど行ったところで、彼は向うから一人の麗人が静かに歩いてくるのに逢った。
「おお、これは愕いた。糸子さんじゃありませんか」
 その麗人は、惨劇の玉屋総一郎の遺児糸子であった。彼女は声をかけた主が帆村だと知ると、面窶(おもやつ)れした頬に微笑を浮べて近よってきた。
「もう外へ出てもいいのですか。何処へお出でなんです」
「ええ、ちょっと池谷さんのところまで」
「ああ池谷さんのところへ――なるほど」といったが、彼は遽(あわ)ただしく聞き足した。「あのウ、池谷さんには細君があるんでしょうネ」
「ホホホホ、まだおひとりだっせ」
「ナニ、独り者ですか、これは変だ」帆村は笑いもしない。
「貴女(あなた)、池谷さんに来いと呼ばれたんですか」
「はあ、午前中に来いいうて、電話が懸ってきましてん。そしてナ、誰にもうちへ来る云わんと来い、そやないと後で取返しのつかんことが出来ても知らへんと……」
「うむうむうむ」
 帆村は何を思ったものか、無闇(むやみ)に呻(うな)り声をあげると、糸子の袖を引張って道の脇の林の中に連れこんだ。


   怪しき眼


 麗人糸子は、わるびれた様子もなく、「池谷控家」と門標のうってある文化住宅のなかへズンズンと入っていった。しかし僅かここ数日のうちに、痛々しいほど窶(やつ)れの見える糸子だった。
 糸子の父は、蠅男から送られた脅迫状のとおりに正確に殺害された。それはあまりにも酷い惨劇であった。お祭りさわぎのように多数の警官隊にとりまかれながら、奇怪にも邸内の密室のなかに非業(ひごう)の最期をとげた糸子の父、玉屋総一郎。彼女にはもう父もなく、母とはずっと昔に死に別れ、今は全く天涯の孤児とはなってしまった。麗人の後姿に見える深窶(ふかやつ)れに、だれか涙を催さない者があろうか。
 それにしても、憎んでも飽き足りないのは彼の蠅男! 蠅男こそ稀代の殺人魔である。
 しかし正体の知れない蠅男であった。帆村探偵の出した答によると、蠅男は密室のなかに煙のように出入する通力をもち、そして背丈はおよそ八尺もある非常に力の強い人物である。だがそんな化物みたいな人間が実際世の中に住んでいるとは誰が信じようか。しかも帆村は出鱈目をいっているのではない。彼は犯跡から精(くわ)しく正しく調べあげて間違いのない答を出したのだ。ああ稀代の奇怪! 蠅男とは、昔の絵草紙に出てくる大入道か?
 蠅男の正体をどうしても突き止めねば、再び東京へかえらないと心に誓った青年探偵帆村荘六は、身はいま歓楽境宝塚新温泉地にあることさえ全く忘れ、全身の神経を両眼にあつめて疎林の木立の間から、池谷控家に近づきゆく糸子の後姿をジッと見まもっているのだった。さきほどの話合いで、糸子と帆村との間にはなにか、或る種の了解ができているらしいことは、糸子の健気(けなげ)な足どりによってもそれと知られる。
 池谷医師から(きょうの午前中に、誰にも知らさず訪ねてこい、さもないと取りかえしのつかないことが起る)と電話された糸子だったが、その用事とは一体なにごとであろうか。
 また池谷と連れだって、この控家のなかに入った若い丸顔の女性については、糸子は心あたりがないといったが、果して彼女は何者であろうか。
 その怪しき女と池谷とが、宝塚の温泉のなかから一銭活動の「人造犬」というフィルムを買って持ちだしているんだが、それは何の目的あってのことだろう?
 こんな風に考えてくると、帆村はこれから糸子を中心にして、向うに見える池谷控家のなかに起ろうとする事件が、これまでの数々の疑問にきっとハッキリした答を与えてくれるにちがいないことを思うと、旅館のどてらの下に全身が武者ぶるいを催(もよお)してくるのだった。――
 さて糸子は帆村に注意されたとおり、一度とて後をふりむいたりなどせず、ひたすら彼女単身で訪ねたふりを装った。
 彼女は池谷控家の玄関に立った。
 玄関の扉が半開きになっていた。そこで呼び鈴の釦(ぼたん)を軽くおした上、なかに入っていった。それは勝手知ったる主治医の家であったから。
 糸子の姿が扉のうちに消えてしまうと、帆村はさらに全身に緊張が加わるのを覚えた。彼は眼ばたきもせずに、木立の間から控家の様子を熱心に窺った。一分、二分……。何の変りもない。
「まだ大丈夫らしい。挨拶かなんかやっているところだろう」
 暫くすると、二階の窓にかかっている水色のカーテンがすこし揺らいだのを、敏捷(びんしょう)な帆村は咄嗟(とっさ)に見のがさなかった。
「……二階へ上ったんだ」
 そのときカーテンの端が、ほんのすこし捲(ま)くれた。そしてその蔭から、何者とも知れぬ二つの眼が現われて、ジッとこっちを眺めているのだった。
「誰? 糸子さんだろうか。ハテすこし変だぞ」
 と思ったその瞬間だった。二つの怪しい眼は、突然カーテンの蔭に引込んだ。まあよかった――と思う折しも、いきなりガチャーンと凄(すさ)まじい音響がして、その窓の硝子が壊れてガチャガチャガチャンと硝子の破片が軒を滑りおちるのを聞いた。
 帆村がハッと息をのむと、それと同時にカーテンの中央あたりがパッと跳ねかえって、そこから真青な女の顔が出た。
「あッ、糸子さんだッ。――」
 思わず帆村の叫んだ声。いよいよ糸子の危難である。それは更に明瞭(めいりょう)となった。なぜならカーテンの間から、黒い二本の腕がニューッと出て一方の手は糸子の口をおさえ、他方の手は糸子の背後から抱きしめると、強制的に彼女の身体をカーテンのうちに引張りこんだから。
「な、何者!」
 カーテンは大きく揺れながら、糸子と黒い腕の人物を内側にのんでしまった。
 帆村は心を決めた。すぐさま邸内に踏みこもうとしたが、帆村は彼の服装がそういう襲撃に適しないのを考えてチェッと舌打ちした。屍体を焼く悪臭の奇人館に踏みこんだときも、彼は宿屋のどてら姿だった。いままた糸子の危難を救うために、謎の家に突進しようとして気がついてみれば、これもまたホテルで借りたどてら姿なんである。これでは身を守るものも、扉(ドア)の鍵を外す合鍵もなんにもない。頼むは二本の腕と、そして頭脳(あたま)の力があるばかりだった。思えば何と祟(たた)るどてらなんだろう。もうこれからは、寝る間だってキチンと背広を着ていなきゃ駄目だ。
 帆村は咄嗟(とっさ)になにか得物(えもの)はないかとあたりを見廻した。
 そのとき彼の目にうつったのは、叢(くさむら)の上に落ちていた一本の鉄の棒――というより何か大きな機械の金具が外れて落ちていたといった風な、端の方にゴテゴテ細工のしてある鉄の棒だった。それを無意識に拾いあげると右手にぐっと握りしめ、林の中からとびだした。そして正面に見える池谷控家へむかって驀地(まっしぐら)にかけだした。


   麗人(れいじん)の行方


 目捷(もくしょう)に麗人糸子の危難を見ては、作戦もなにもあったものではない。最短距離をとおって、ドンと敵の胸もとに突撃する手しかない。
 下駄ばきで、カラカラと石段を玄関に駈けあがるのもおそしとばかり、帆村は正面の扉をドーンと押して板の間に躍りあがった。
(階段はどこだ!)
 廊下づたいに内に入ると、目についた一つの階段。彼は糸子の名を連呼しながら、トトトッとそれを駈けのぼった。
 だが糸子の声がしない。すこし心配である。
「糸子さアん!」
 二階には間が三つ四つあった。帆村はまず表から見えていた十畳敷ほどの広間にとびこんだ。
「居ない!」
 糸子の姿は見えない。水色のカーテンが静かに垂れ下っているばかりだ。
 押入の中か? 彼はその前へとんでいって襖をポンポンと開いてみた。中には夜具(やぐ)や道具が入っているばかりで糸子の着物の端ひとつ見えない。
 さて困った。糸子はどこへ行ったのだろう。次の部屋だ。――
 そのとき帆村の脳裏に、キラリと閃(ひらめ)いた或る光景があった。それは糸子が宙に吊りあげられているという、見るも無慚な姿だった。彼女の白い頸には、一本の綱が深く喰いこんでいるのである。……
(ああ厭だッ)
 帆村は両手で目の前にある幻をはらいのけるようにした。それは彼にとって不思議な経験だった。これまで彼は数多(あまた)の残虐な場面の中に突進した。しかし一度だって、恐ろしさのために躊躇をしたり厭な気持になったことはない。それは職業だと思うからして起る冷静さが、そういう感情の発露(はつろ)をぎゅッとおさえたのである。しかしいま糸子の場合においては、それがどういうものか抑えきれなかったのは不思議というほかない。糸子がそんな残虐な姿になるには、あまりに可憐だったからであろうか。それとも帆村が彼女の危難を知りながらも、この邸内に送りこんだ責任からだろうか。とにかく帆村にとっては、糸子の苦しんでいる姿を見ることさえ辛く感ずるのだった。彼は急に気が弱くなったようである。それはなぜであろうか。
「糸子さアん、どこにいますかッ」
 帆村は怒号しながら、次の部屋の襖をパッと開いた。ああそこにも糸子の姿は見えなかった。そこは八畳ほどの和室だった。押入の襖(ふすま)が一枚だけ開いて、箪笥(たんす)の引出が一つ開いて男の着物がひっぱりだされている。
 それだけのことだった。糸子の姿はやっぱり見あたらない。
 日頃冷静を誇る帆村もすこし焦(じ)れてきた。
 彼はその部屋を出て、北側にある洋間の扉を開いて躍りこんだ。しかしそこにも卓子や肘掛椅子が静かに並んでいるだけで、別に糸子が隠れているような場所も見当らなかった。
 しかしこの部屋に入ると共に、帆村の鼻を強くうった臭気があった。
「変な臭いだ。何の臭いだろう」
 スーッとする樟脳(しょうのう)くさい匂いと、それになんだか胸のわるくなるような別の臭いとが交っていた。
 彼は気がついて筒型の火鉢のそばへ駈けよった。
「あッ熱(あつ)ッ」火鉢のふちは何(ど)うしたわけか焼けつくように熱かった。帆村はそれに手を懸けたため、思わない熱さに悲鳴をあげた。
 火鉢のなかには、赭茶けた灰の一塊があった。これは何だろう。その灰の下を掘ってみたが、そこには火種一つなかった。悪臭が帆村の鼻をついた。
「ああそうか。あのフィルムをこの火鉢の中で焼いたんだ。『人造犬』のフィルムを買って来て、この火鉢のなかで焼いたというわけか」
 帆村は悪臭にたえられなくなって、窓に近づいてそこを開いた。冷い風がスーッと入ってきた。なぜフィルムを焼いたりしたんだろうか。そのとき彼は何気(なにげ)なく外を見た。そこはこの控家の裏口だった。垣根の向うに、どこから持ってきたのか一台の自動車がジッと停っていた。運転台も見えるが、人の姿はなかった。
「糸子さんは一体どこへ行ったのだろうか。たしかこの二階に上っていたんだが」
 帆村は滅入(めい)ろうとする自分の心になおも鞭うって、廊下に出た。どこか秘密室でもあって、そのなかに隠されているのではなかろうかと思って探したけれど、この二階に関する限りでは別に秘密室も見当らないようであった。
 そのときだった。家の外でゴトゴトジンジンと音が聞こえてきた。それは自動車のエンジンが懸ったのに違いない。自動車! 帆村はハッと気がついた。そうだ、家の裏口に自動車が停っているのを見たっけ。
「うん、失敗(しま)ったッ」
 帆村の叫んだときはもう遅かった。北側の窓のところに駈けつけてみると、目の下に自動車は静かに動きだしたところだった。裏口の木戸が開かれている。誰かその木戸から出ていって自動車にのったに違いない。そして帆村は見た。その幌型(ほろがた)の自動車の運転台に、黒い服を身にまとった人物が腰をかけていたのを。
 その人物こそ、さっき二階で、糸子をカーテンのなかに引ずりこんだ怪人に相違なかった。彼はいま自動車にソッとうちのり、何方へか逃げようとしているのだ。黒い服の人物は何者? 不幸にして帆村は、彼の後姿を肩のあたりにだけ認めたばかりであって、怪人物の顔を見ることはできなかった。
 しかし彼こそ、恐るべき脅迫状の送り主「蠅男」なのではあるまいか。いや、それともこの家の主人である池谷医師でもあったろうか。いずれにしても帆村は、その自動車に乗った人物を逃がしてはならないと思った。
 糸子のことも気がかりであったけれど、怪人物の行方はさらに重大事であった。それにまた、怪人物は自由を失った糸子をその自動車に無理やりに積みこんで、共に逃げていくところだったかも知れないのである。ここはどうしても怪人の跡を追うのが正道であった。帆村は階段を転げ落ちるようにして、足袋はだしのまま裏口から、自動車の後を追いかけた。


   山中の追跡


 幸いにも、池谷控家の裏通りは道が狭かったから、自動車はスピードをあげることができないで、タイヤが溝(みぞ)のなかに落ちるのを気にしながらノロノロと動いていた。帆村はそれと見るより、百メートルほど後方から猛烈にダッシュしていった。それが分ったものか、自動車はスピードをすこし早めた。自動車は生垣にゴトンゴトンとつきあたって、今にも幌が裂けそうに見えた。それにも構わず、無理なスピードを懸けていった。
 帆村は懸命にヘビーをかけた。もうすこしで自動車のうしろに飛びつける。――と思った刹那(せつな)、自動車はガタンと車体をゆすって頭を右にふった。広い舗道へ出たのだ。
「うぬ、待てエ」
 帆村は激しい息切れの下から、ふりしぼるような声で叫んだ。しかしそれは既に遅かった。自動車はわずかのちがいで、舗道に乗った。そして帆村を嘲笑するかのように悠々とスピードをあげて走っていく。
 帆村は文字どおり切歯扼腕(せっしやくわん)した。もうこうなっては、残念ながら人間の足では競争が出来ない。
 何か自動車を追跡できるような乗り物はないか。
 そのとき不図(ふと)前方を見ると、路地のところから鼻を出しているのは紛(まぎ)れもなくオートバイだった。これはうまいものがある。帆村は躍りあがってそこへ飛んでいった。
 それはオートバイと思いの外(ほか)、自動(オート)三輪車であった。それは大阪方面の或る味噌屋(みそや)の配達用三輪車であって、車の上には小さな樽がまだ四つ五つものっていた。そして丁度そのとき店員が傍の邸の勝手口から届け票を手にしながら往来へでてきたので、帆村は早速その店員のところへ駆けよった。
 そこで口早に、車を貸してもらいたいという交渉が始まった。店員は目をパチクリしているばかりだった。なにしろ犯人追跡をやるんだから、ぜひ貸してくれといったが、店員は主人に叱られるからといって承知しなかった。そのうちにも時刻はドンドン経っていく。千載の一遇をここで逃がすことは、とても帆村の耐えられるところでなかった。
(問答は無益だ!)
 帆村は咄嗟(とっさ)に決心をした。隙(すき)だらけの店員の顎(あご)を狙って下からドーンとアッパーカットを喰わせた。店員は呀(あ)ッともいわず、地上に尻餅をつくなり長々とのびてしまった。
「済まん済まん。あとから僕を思う存分殴らせるから、悪く思わんで……」
 と、心の中で云いすてて、帆村は車の上にまたがった。そしてエンジンを懸けて走りだそうとしたが、彼はこのときなにを思ったものか、また地上に下りて、伸びている店員先生を抱き起した。
 活を入れると、店員先生はすぐにウーンと呻りながら気がついた。それを見るより、帆村は店員先生を背後から抱えて、車の後部に積んだ味噌樽の上に載せた。
 このとき店員先生はやっと、この場の事情を知った。
「こら、何をするんや、泥棒!」
 拳骨を喰うわ、車は取られるわ、この上車の上に載せられようとする。彼は憤慨の色を浮べるより早く、帆村に喰ってかかるために樽の上に立ち上ろうとした。
 帆村は早くもこれに気づいた。
「まあ落つけ」
 彼は一言そう云ってヒラリと車に跨(またが)ると、素早くクラッチを踏んだ。自動(オート)三輪車は大きく揺れると、弾かれたように路地から走りだした。
「ああッ、あぶないあぶない」
 店員先生は樽の上に立ちあがろうとしたが、たちまち車が走りだしたもので、車からふり落とされそうになった。それでまた屁ッぴり腰をして樽の上に蹲(かが)み、そして車からふりおとされないために顔を真赤にして一生懸命荷物台に獅噛(しが)みついた。
「こら、無茶するな、泥棒泥棒」
「そうだそうだ。もっと大きな声で呶鳴(どな)るんだ」
「ええッ」と店員先生は怪訝(けげん)な顔をしたが、「おお皆来てくれ、泥……」
 といいかけて首をかしげた。
「こら妙なこっちゃ。この泥棒野郎が車を盗みよって、乗り逃げしてるのや。しかしその車の上にはチャンと俺が載っているのや。すると俺は車を盗まれたことになるやろか、それとも盗まれてえへんことになるやろか、一体どっちが本当(ほんま)やろか、さあ訳がわからへんわ」
 ゴトゴトする樽の上に店員先生が車を盗まれたのかどうかということを一生懸命考えている間に、帆村は眼を皿のようにして前方に怪人の乗った自動車をもとめて自動三輪車を運転していった。
 怪人の自動車は、道を左折して橋を渡ったものらしい。
 温泉場の間を縫って狂奔していく三輪車に、湯治の客たちは胆をつぶして道の左右にとびのいた。
 帆村は驀地(まっしぐら)に橋の上をかけぬけた。それから山道に懸ったが、やっと前方に怪人の乗った自動車の姿をチラと認めた。
「うむ、向うの方へ逃げていくな」
 道が悪くて、軽い車体はゴム毯(まり)のように弾(はず)んだ。そのたびごとに、樽の上に御座る店員先生は悲鳴をあげた。
「モシ、樽の上のあんちゃん。この道はどこへ続いているんだね」
 暴風雨(あらし)のような空気の流れをついて、帆村が叫んだ。
「この道なら、有馬へ出ますわ。お店と反対の方角やがナ」
 店員先生が、半泣きの声で答えた。
「うむ、有馬温泉へ出るのか。――あと何里ぐらいあるかネ」
「そうやなア。二里半ぐらいはありまっせ」
「二里半。よオし、なんとしても追いついてやるんだ」
 帆村の姿と来たら、実にもう珍無類(ちんむるい)だった。これはあまりにも勇ましすぎた。若い婦人に見せると、気絶をしてしまうかも知れない。なにしろ、正面からの激しい風を喰(くら)って、どてらの胸ははだけて臍(へそ)まで見えそうである。その代り背中のところで、どてらはアドバルーンのように丸く膨(ふく)らんでいた。ペタルの上を踏まえた二本の脚は、まるで駿馬(しゅんめ)のそれのように逞(たくま)しかったが、生憎(あいにく)とズボンを履いていない。帆村は怪人の自動車を追いかけるひまひまに、どてらの禍(か)をくりかえしくりかえし後悔していた。


   現われた蠅男


 帆村探偵の必死の追跡ぶりが、店員先生の鈍い心にも感じたのであろうか、それとも先生の乗った味噌樽があまりにガタガタ揺れるので樽酔いがしたのであろうか、とにかく店員先生は三輪車のうしろに獅噛(しが)みついたまま、もう泥棒などとは喚(わめ)かなかった。
「おう、樽の上のあんちゃんよオ」
 帆村はまた声を張りあげて叫んだ。
「なんや、俺のことか」
「君、何か書くものを持っているだろう」
「持ってえへんがな」
「嘘をつくな、手帳かなんか持っているだろう。それを破いて、二十枚ぐらいの紙切をこしらえるんだ」
 帆村はハアハアと息をきった。自動車との距離はまだ五百メートルぐらいある。
「その紙片をどないするねン」
「ううン。――その紙片にネ、字を書いてくれ。なるべくペンがいい」
「誰が字を書くねン」
「あんちゃんが書いておくれよ」
「あほらしい。こんなガタガタ車の上で、書けるかちゅんや」
「なんでもいい。是非(ぜひ)書いてくれ。そして書いたやつはドンドン道傍に捨ててくれ。誰か拾ってくれるだろう」
「書けといったって無理や。片手離すと、車の上から落ちてしまうがな」
「ちえッ、もう問答はしない。書けといったら書かんか。書かなきゃ、この車ごと、崖の上から飛び下りるぞ。生命が惜しくないか。僕はもう気が変になりそうなんだ。ああア、わわア」
 これが店員先生に頗(すこぶ)る利いた。
「うわッ、気が変になったらあかへんが。書くがな書くがな。書きます書きます、字でも絵でも何でも書きます。ええもしどてらの先生、気をしっかり持っとくれやすや。気が変になったらあきまへんでえ」
 帆村は向うを向いて苦笑いをした。
「君の名は何という」
「丸徳商店の長吉だす」
「では長どん。いいかネ、こう書いてくれたまえ。――蠅男ラシキ人物ガ三五六六五号ノ自動車デ宝塚ヨリ有馬方面へ逃ゲル。警察手配タノム、午後二時探偵帆村」
「なんや、ハエオトコて、どう書くんや」
「ハエは夏になると出る蚊や蠅の蠅だ。オトコは男女の男だ。片仮名で書いた方が書きやすい」
「うへーッ、蠅男! するとこれはあの新聞に出ている殺人魔の蠅男のことだすか」
「そうだ。その蠅男らしいのが、向うに行く自動車のなかに乗っているんだ」
「うへッ。そんなら今あんたと私とで、蠅男を追いかけよるのだすか。うわーッ、えらいこっちゃ。蠅男に殺されてしまうがな。字やかて書けまへん。お断りや」
「また断るのかネ。じゃ、崖から車ごと飛び下りてもいいんだネ」
「うわーッ、それも一寸待った。こら弱ってしもたなア。どっちへ行っても生命がないわ。こんなんやったら、あの子の匂いを嗅ぎたいばっかりにフルーツポンチ一杯で利太郎から宝塚まわりを譲ってもらうんやなかった。天王寺の占師が、お前は近いうち女の子で失敗するというとったがこら正(まさ)しくほんまやナ」
「さあ長どん。ぐずぐず云わんで早く書いた。向うに人家が見える。紙片を落とすのに都合がいいところだ。――さあ、ペンを持ってハエオトコとやった。――」
「うわーッ、か、書きます。踊っている樽の上でもかまへん。書くというたら書きますがな。しかし飛び下りたらあかんでえ」
 たいへんな手間取りようであったが、遂に帆村の命令が店員長吉によって行われた。長吉は樽の上に腹匍(はらば)いになって、書きにくい字を書いた。そして一枚書けると、それを手帳からひきちぎって外に撒いた。始めは容易に肯(がえ)んじないでも、一旦承知したとなると全力をあげて誠実をつくすのが長吉のいい性格だった。彼はこの困難な仕事を一心不乱にやりつづけた。
 自動車はすっかり山の中へ入ってしまった。怪人の乗った自動車との距離はだんだんと近づいて、あと二百メートルになった。この調子では間もなく追いつくことができるだろう。帆村は歯ぎしり噛んで、ハンドルをしっかりと取り続けた。彼の全身は風に当って氷のように冷えてきた。ガソリンの尽きないことが唯一の願いだった。
 上り道が左の方に曲っている。
 まず怪人の乗った自動車が左折して、山の端から姿を消しさった。続いて帆村と長吉との乗った自動三輪車がポクポクとあえぎながら坂道をのぼっていった。そして同じく山の端(はし)をぐっと左折した。このとき帆村は、前方にこんどは下りゆく自動車が急に道から外れそうになって走るのを見た。
「呀(あ)ッ、危いッ」
 と、声をかけたが、これはもう遅かった。怪人の乗った自動車は、どうしたわけか次第に右に傾いて二、三度揺ぐと見る間に、車体が右に一廻転した。下は百メートルほどの山峡だった。何条もってたまるべき、横転した自動車は弾(はず)みをくらって、毬のようにポンポン弾みながら、土煙と共に転げ落ちていった。そして遂に下まで届くと、くしゃと潰れてしまった。帆村は辛うじて制動をかけて、三輪車を道の真中に停めた。
「うわーッ、えらいこっちゃ」
「うむ、天命だな。あんなに転げ落ちてはもう生命はあるまい」
 帆村と長吉とは、車から下りて呆然と崖の底をジッと見下ろした。土煙がだんだん静まって、無慚(むざん)にも破壊した車体が見えてきた。車体は裏返しになり、四つの車輪が宙に藻(も)がいているように見えた。
 暫くジッと見つめていたが、車のなかからは誰も這いだしてこなかった。
「さあ、すぐ下りていってみよう。自動車のなかには、誰が入っているか、そいつを早く調べなきゃならない。長どん、一つ力を貸してくれたまえ」
「大丈夫だすやろか。近づくなり蠅男が飛びだして来やしまへんか」
「いいや大丈夫だろう。死んでいるか、または気絶しているかどっちかだよ。しかし何か得物をもってゆくに越したことはないだろう」
 気がついてみると帆村は腰に一本の鉄の棒を差していた。これは先刻、池谷控家の前の林の中で拾った護身用の鉄棒だった。帯に挿んで背中にまわしてあったので、うまく落ちないで持ってこられたのだった。長吉は仕方なく腰から手拭いを取って、その端に手頃の石をしっかり包んだ。もし蠅男がでたら、端をもってこの包んだ石をふりまわすつもりだった。
 二人は、背の丈ほどもある深い雑草のなかを掻(か)きわけるようにして、山峡を下りていった。
 十分ほど懸って、二人は遂に谷の底についた。幌(ほろ)は裂け鉄板は凹み、車体は見るも無慚(むざん)な壊(こわ)れ方(かた)であった。
 帆村は勇敢にも、ぐるっと後部の方に廻ってから自動車の方に匍っていった。長吉は固唾(かたず)を嚥んで、帆村の態度を注視していた。
 帆村は飛びつくようにして遂に車体にピッタリとくっついた。彼の首が次第次第に上ってきて、やがて幌の破れ目から車内を覗きこんだ。
 そのときである。帆村が胆をつぶすような大きな声で叫んだのは……。
「これは変だ。自動車は空っぽだ。中には誰も乗っていないぞッ」


   愕(おどろ)くべきニュース


 折角(せっかく)幌自動車に追いついて、はては崖下まで探しに行ったのに、このなかにはから紅(くれない)の血潮に染まった怪人の屍体があるかと思いの外、誰も居ない空っぽであった。
 帆村は真赤になって地団駄(じだんだ)をふんで口惜しがったが、それとともに一方では安心もした。彼はこの車の中にひょっとすると糸子が入っているかも知れないと思っていたのだ。或いは無慚(むざん)な糸子の傷ついた姿を見ることかと思われていたが、それはまず見ないで助かったというものだ。
「帆村はん。この自動車を運転していた蠅男はどうしましたんやろ」
「さあ、たしかに乗っていなきゃならないんだがなア、ハテナ……」
 帆村が小首をかしげたとき、二人は警笛の響きを頭の上はるかのところに聞いてハッと硬直した。
「あれは――」と、崖の上を仰いだ二人の眼に、思いがけない実に愕くべきものが映った。
 さっき二人が乗り捨ててきた自動(オート)三輪車のそばに、一人の怪人が立っていて、こっちをジッと見下ろしているのであった。彼は丈の長い真黒な吊鐘(つりがね)マントでもって、肩から下をスポリと包んでいた。そしてその上には彼の首があったが、象の鼻のような蛇管(だかん)と、大きな二つの目玉がついた防毒マスクを被っていた。だから本当の顔はハッキリ分らなかった。ただ丸い硝子(ガラス)の目玉越しにギラギラよく動く眼があったばかりであった。
「呀(あ)ッ、あれは誰だす」
「うむ、今はじめて見たんだが、あれこそ蠅男に違いない」
「ええッ、蠅男! あれがそうだすか」
「残念ながら一杯うまく嵌(は)められた。自動車があの山の端を曲ったところで、蠅男はヒラリと飛び下りて叢(くさむら)に身をひそめたんだ。あとは下り坂の道だ。自動車はゴロゴロとひとりで下っていったのだ。ああそこへ考えがつかなかった。とにかく一本参った。しかし蠅男の姿をこんなにアリアリと見たのは、近頃で一番の大手柄だ」
 帆村は下から、傲然(ごうぜん)と崖の上に腕をくんで立つ蠅男を睨(にら)みつけた。
「呀ッ、帆村はん。あいつは味噌樽(みそだる)を下ろしていまっせ」
「うん、蠅男はあの三輪車に乗って逃げるつもりなんだ。僕たちが崖へ匍(は)いのぼるまでには、すくなくとも三、四十分は懸ることをチャンと勘定にいれているんだ。その上、うまく崖の上に匍いあがっても、僕たちに乗り物のないことを知っているんだ。まるで、ジゴマのように奸智(かんち)にたけた奴……」
 と、そこまで云った帆村は、急に言葉を切った。そして長吉の身体をドーンと突くなり、
「おう、危い。自動車のうしろに隠れろッ」
 と早口で命令した。
 その言葉が終るか終らないうちに、ブーンと風を切って落ちてきたのは三貫目の味噌樽だった。二人がもうすこし気がつかないで立っていたとしたら、彼等のどっちかがその恐ろしい勢いで落ちてきた味噌樽のために、頭蓋骨を粉砕されなければならなかったろう。
 味噌樽は、なおも上からピューンと呻(うな)りを生じて落ちてきた。その勢いの猛烈なことといったら、地面に落ちて、地雷火のように泥をはねとばし、壊れ自動車に当っては、鉄板をひきちぎって宙に跳ねあげるという凄い勢いであった。なんという強力なんだろう。見かけは普通の人とあんまり違わぬ背丈でありながら、まるで仁王さまが砲弾なげをするような激しい力を持っているのだった。そのとき何処からともなく、飛行機のプロペラらしい音響が聞えてきた。
 すると、蠅男は可笑しいほど俄(にわか)に周章(あわ)てだした。最後の樽をなげつけてしまった彼は、ひらりと自動三輪車の上にとびのると、エンジンをかけた。そして鮮やかなハンドルの切り方でもって、ドンドン走りだした。
 長吉は憤慨のあまり、下から石をぶっつけたが、どうしてそんなものが崖の上まで届くものではない。遂に蠅男は口惜しがる帆村と長吉とを谿底(たにぞこ)へ置いて山かげに姿を消してしまった。聞えていた飛行機のプロペラの音も、そのうちに何処ともなく聞えなくなった。
 帆村と長吉とは、生命びろいをしたことに気がついた。そこで勇気をつけて、一旦下りた崖を、またエッチラオッチラと上っていった。十分で下りたところが、三十五分も懸ってやっと崖の上に匍いのぼれた。
 二人は夕方の山道をトコトコと歩いていった。三十分ほどして、やっと一台のハイヤーが通りかかった。二人の老人の客が乗っていたけれど、無理に頼んでそれに乗せて貰い、蠅男の逃げていった有馬温泉の方角へ進撃していった。
 有馬では、警察からまだ何の手配も出ていなかった。手配の電話が懸って来たのは、帆村が大阪への電話を申込んだその後からだった。手配の紙片が、それでも誰かに拾われたことか判った。しかしこうなってはすべてあとの祭りだった。なにしろ手配の自動車は山峡に落ちているのだから。
 リンリンリンと電話が懸ってきた。駐在所の警官が出た。
「ああ村松検事どのでございますか。はア帆村さんはいらっしゃいます」
 帆村は疲れを忘れて、電話口へ飛びついた。彼は村松検事に、今日の顛末(てんまつ)を手短かにのべて、盗まれた三輪車と蠅男の手配をよく頼んだ。そして電話が切れるとグッタリとして、駐在所の奥の間に匍いこむなり、疲れのあまり死んだようになって睡った。樽の上で踊った長吉もお招伴(しょうばん)をして、帆村の側らにグウグウ鼾(いびき)をかいた。それから何時間経ったか分らないが、帆村は突然揺り起された。
「また村松検事どのから、お電話だっせ」
 帆村は痛む手足のふしぶしを抑えながら、電話口に出た。そのとき彼は、愕(おどろ)きのあまり目の覚めるような知らせを、村松検事から受けとった。
「ええッ、本当ですか。今日の夕刻、鴨下ドクトルが奇人館にひょっくり帰ってきたんですって? ほほう、貴方はもうドクトルが永久に帰ってこないと仰有っていましたのにねエ。ほほう、そうですか。いやそれは僕も愕きましたよ、ほほう」


   蠅男の正体?


 鴨下(かもした)ドクトルが八日目にひょっくり、奇人館に帰ってきたという知らせである。
 帆村の愕(おどろ)きもさることながら冷静をもって聞えるあの村松検事でさえ、その愕きを電話口に隠そうとさえしなかったほどだ。検事は、鴨下ドクトルが再び館にかえって来ないと断言したくらいだから、ドクトル帰邸の知らせは全く寝耳に水の愕きだったのだろう。鴨下ドクトルは何処に行っていたのだろうか。
 娘を東京から呼んでおきながら約束を破ってドクトルが旅行に出たのは何故だろう。
 それからまた、ドクトルの留守中に、突然何者とも知れぬ男の屍体が焼かれ、機関銃手がとびだしたりしたことに果してドクトルは無関係だったのだろうか。
 蠅男の脅迫状は、なぜドクトル邸の暖炉の上に置かれてあったのだろう。
 そういう疑問のかずかずが、鴨下ドクトルの口から聞きただされる時機が来たのだ。ドクトルの答によって蠅男の正体はいよいよ明らかになるであろう。帆村探偵は大阪へ帰って、検事たちから聞くことができるであろうドクトルの告白に、非常な期待をおぼえたのであった。
「だが、蠅男を見たのは、恐らく捜査側では自分だけだろう」
 帆村は、そのことについて些(いささ)か得意であった。それは実に大きな土産話である。
 蠅男というやつは、実に力の強い奴で、三貫目の味噌樽を、あたかも野球のボールを叩きつけるように楽々と抛(な)げた。そして自動車も操縦できれば三輪車にも乗れるというモダーン人だ。
 しかしよく考えてみると、蠅男について分っているのはそれだけであった。どんな身体つきをしているのか、それは黒い吊鐘マントの下に蔽われていてハッキリ分らない。それからまたどんな容貌をしているのか、それは防毒面みたいなものを被っているので、これもハッキリ分らない。ただ気味のわるい二つの眼がギロギロと動くのを見たばかりである。
 いや、もっと分らないところがある。帆村はさきに玉屋総一郎の殺された密室を調べた挙句、蠅男について次のような推理をたてた。つまり、
「蠅男の背丈は八尺である。そして蠅男は一升桝(ます)ぐらいの四角な穴を自由に出入する人間である」
 というのであるが、崖上に見たあの蠅男は、五尺四、五寸しかない普通の人間の背丈に見えた。況(いわ)んや一升桝の間を抜けるような細い身体のようには見えなかった。すると、あれは蠅男でなかったのであろうか。いや、あの崖上の怪人物が蠅男でなくて、誰が蠅男であろうか。すると身長八尺で一升桝ぐらいの穴もくぐれる人物という帆村の推理が合わないことになる。
「これは、どうも自分の推理が間違っていたのかナ、違うはずはないんだが」
 帆村探偵の自信は俄(にわ)かにグラつきだした。彼は遂に、眼から入ってきた蠅男の姿に、幻惑(げんわく)されてしまったのである。深い常識のために、推理の力を鈍らせてしまったのである。これは後になって、ハッキリと分った話であるが、蠅男に対する彼の推理は決して間違っていなかったのだ。帆村はもっと考えるべきだった。ここで玉屋総一郎の屍体の頸部(けいぶ)に附いていた奇妙なる金具のギザギザ溝(こう)の痕をなぜ思い出さなかったのだろう。玉屋総一郎の頸部に打ちこんだ鋭い兇器がどんなものであって、どこの方角からどうして飛んできたものかを、何故考えなかったのだろう。それからまた池谷医師たちが宝塚新温泉の娯楽室から持ちだした一銭活動のフィルム「人造犬」のことをなぜ連想しなかったんだろう。いや、まだある。現に彼は今、有馬温泉の駐在所に寝ころがっているが、その枕許に置いてある奇妙な形をした一本の鋼鉄棒がある。彼はそれを池谷邸に近い林の中で護身用として拾ったのである。彼がその棒について、もっと深い興味をもっていたとすれば、それだけでも蠅男の正体を掴む余程の近道とはなったであろうに、流石(さすが)の帆村探偵も早くいえば蠅男をそれほどの怪人物だとは思っていなかったせいであろう。
 なにもそれは帆村探偵だけのことではない。世間では誰一人として、蠅男が過去にも未来にも絶するそのような奇々怪々なる人間だとは、気がついていなかったのだ。蠅男こそは有史以来二人とない怪人だったのである。さて、いかなる怪人であったろうか。それを知るのは、極(ご)く小数の人々だけだった。しかも彼等は蠅男の正体を語るを好まないか、またはそれを語ることができない事情の下にあった。
 だから目下のところ読者諸君はやむなく、村松検事以下の検察当局の活動と、青年探偵帆村荘六の闘志とに待つよりほかに蠅男の正体を知る手がないのである。
 鬼か人か、神か獣か?
 蠅男の正体が、白日下に曝(さら)されるのは何時の日であろうか。


   意外なる邂逅


 有馬温泉の駐在所における何時聞かの前後不覚の睡眠に帆村もすこしく元気を回復したようであった。
 彼はそれから先の行動を、あれやこれやと考えた挙句、遂に決心して一台の自動車を呼んで貰った。
 やがて遠くからクラクションの響きが伝わってきたと思ったら、頼んであった自動車が家の前に来て停った様子、帆村は味噌問屋の小僧さん長吉(ちょうきち)を促して、警官たちに暇をつげるなり車上の人となった。
 温泉町は、もうすっかり夜の闇に沈んでいた。硫黄の強い匂いをのせた風が、スーッと流れて来た。帆村は急に、温い湯につかって疲労を直したい衝動に駆られた。
 しかし彼は、すぐそのような衝動をなげすてていた。これから蠅男との戦闘が始まるのである。玉屋総一郎の忘れ形身の糸子はどこにどうしているのだろう。彼女は果して安全に身を護っているのだろうか。池谷邸に入ったまま、姿を消して杳(よう)として行方が知れなくなったこの麗人の身の上を、帆村はすくなからず憂慮しているのだった。池谷邸の二階の窓に、糸子を背後から襲った怪人こそは、あれはたしかに蠅男に違いない。蠅男は糸子をどんな風に扱ったのであろうか。
 帆村が疲れ切った身体を自ら鼓舞(こぶ)して、再び車で宝塚へ引返そうと決心したのも、直接の動機はこの可憐(かれん)なる糸子の安危をたしかめたいことにあった。彼女の父親を、蠅男から護ろうと努力していながら、遂に蠅男のためにしてやられ、糸子を孤児にしてしまった。その責任の一半は、帆村自身にあるように思って、彼はこの上は、自分の生命にかけて蠅男を探しだすと共に、糸子を救いださねばならないと決心しているのだった。
 暗い山路を縫って、約一時間のちに自動車は宝塚に帰ってきた。
 そこで長吉は、西の宮ゆきの電車に乗りかえて、駐在所から貰った証明書を大事にポケットに入れたまま、帆村に別れをつげて帰っていった。帆村はこの少年のために、そのうち主家を訪ねて弁明をすることを約束した。
 ホテルでは、愕き顔に帆村を迎えた。
 なにしろ朝方ドテラ姿でブラリと散歩に出かけたこの客人が、昼食にも晩餐にも顔を見せず、夜更けて、しかも見違えるように憔悴して帰ってきたのだから。
「えろうごゆっくりでしたな、お案じ申しとりました。へへへ」
「いや、全く思わないところまで遠っ走りしたものでネ、なにしろ知合いに会ったものだから」
「はアはア、そうでっか、お惚(のろ)け筋で、へへへ、どちらまで行きはりました」
「ウフン。大分遠方だ。……部屋の鍵を呉れたまえ」
「はア、これだす」と帳場の台の上から大きな札のついた鍵を手渡しながら、不図(ふと)思い出したという風に「ああ、お客さん、あんたはんにお手紙が一つおました。忘れていてえろうすみまへん」
「ナニ手紙?」
 帳場の事務員は、帆村に一通の白い西洋封筒を手渡した。帆村がそれを受取ってみると、どうしたものかその白い封筒には帆村の名前も差出人の名前も共に一字も書いてなかった。その上、その封筒の半面は、泥だらけであった。帆村はハッと思った。しかしさりげない態で、ボーイの待っているエレヴェーターのなかに入った。
 帆村は四階で下りて、絨毯の敷きつめてある狭い廊下を部屋の方へ歩いていった。
 扉の前に立って、念のために把手(ハンドル)を廻してみたが、扉はビクともしなかった。たしかに、錠は懸っている。
 なぜ帆村は、そんなことを検(ため)してみたのであろう。彼はなんとなく怪しい西洋封筒を受取ってから、急に警戒心を生じたのであった。
 扉には錠が懸っている。
 まず安心していいと、彼は思った。そして鍵穴に鍵を挿入して、ガチャリと廻したのであった。その瞬間に、彼は真逆自分が、腰を抜かさんばかりに吃驚(びっくり)させられようとは神ならぬ身の知るよしもなかった。しかし事実、扉一つ距(へだ)てた向うに彼の予期しない異変が待ちうけていたのである。
 帆村は、鍵を穴から抜いて、片手にぶら下げた。そして把手をグルッと廻して、扉を内側に押した。部屋のなかは、真暗であった。
 扉を中に入ったすぐの壁に、室内灯のスイッチがあった。
 帆村は、手さぐりでそのスイッチの押し釦(ボタン)を探した。押し釦はすぐ手にふれた。彼は無造作に、その押し釦を押したのであった。
 パッと、室内には明るい電灯が点いた。その瞬間である。彼は、
「呀(あ)ッ!」
 といって、手に持っていた鍵を床の上にとり落とした。それも道理であった。空であるべきはずのベッドの上に、誰か夜着をすっぽり被って長々と寝ている者があったのである。
「もしや部屋を間違えたのでは……」
 と、咄嗟(とっさ)に疑いはしたが、断じて部屋は間違っていない。自分の部屋の鍵で開いた部屋だったし、しかも壁には、見覚えのある帆村のオーバーが懸っているし、卓子の上にはトランクの中から出したまま忘れていった林檎までが、今朝出てゆくときと寸分たがわずそのとおりに並んでいるのだった。自分の部屋であることに間違いはない。
 さあ、すると、ベッドの上に寝ているのは一体何者だろう。
 帆村の手は、音もなく滑るように、懸けてあるオーバーの内ポケットの中に入った。そこには護身用のコルトのピストルが入っていた。彼はそれを取出すなり、二つに折って中身をしらべた。
「……実弾はたしかに入っている!」
 こうした場合、よく銃の弾丸が抜きさられていて、いざというときに間に合わなくて失敗することがあるのだ。帆村はそこで安心してピストルをグッと握りしめた。そして抜き足差し足で、ソロソロベッドの方に近づいていった。
 ベッドの上の人物は、死んだもののように動かない。
 帆村は遂に意を決した。彼は呼吸(いき)をつめて身構えた。ピストルを左手にもちかえて、肘をピタリと腋の下につけた。そしてヤッという懸け声もろとも一躍してベッドに躍りかかり、白いシーツの懸った毛布をパッと跳ねのけた。そこに寝ているものは何者?
 ピストルをピタリと差しつけたベッドの上の人物の顔? それは何者だったろう?
 帆村の手から、ピストルがゴトリと下に滑り落ちた。
「おお――糸子さんだッ」


   謎! 謎!


 なんという思いがけなさであろう。
 自分のベッドの上に長々と寝ている怪人物は何者だろう。それは気味の悪い屍体でもあろうかと、胸おどらせて夜具を剥いでみれば意外にも意外、麗人(れいじん)糸子の人形のような美しい寝顔が現われたのである。これは一体どうしたことであろう。
 ベッドの上の糸子は死んでいるのではなかった。目覚めこそしないが、落ついた寝息をたててスヤスヤと睡っているのであった。その蝋(ろう)のように艶のある顔は、いくぶん青褪めてはいたけれど、形のいい弾力のある唇は、まるで薔薇の花片(はなびら)を置いたように紅(あか)かった。
 帆村の魂は恐怖の谷からたちまち恍惚の野に浮き上り、夢を見る人のようにベッドの上の麗人の面にいつまでも吸いつけられていた。
「なぜだろう?」
 帆村は、解けない謎のために、やっと正気に戻った。夢ではない、糸子が彼の部屋のベッドの上に寝ているのは厳然たる事実だ。厳然たる事実なれば、この大きい意外をもたらした事情はどういうのだろう。それを知らなければならない。
 彼は帳場へ電話をかけようかと思って、それに手を懸けた。けれどそのとき不図(ふと)気がついて懐中(ふところ)を探った。
 出て来たのは、一通の西洋封筒だった。さっき帳場で渡されてきた宛名も差出人の名前もない変な手紙だ。
 彼はそっと封筒をナイフの刃で剥(は)がしてみた。その中からは新聞紙が出て来た。新聞紙を八等分したくらいの小さい形のものだった。
 新聞紙が出て来たと見るより早く、帆村は蠅男の脅迫状を連想した。
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