蠅男
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著者名:海野十三 

   発端


 問題の「蠅男(はえおとこ)」と呼ばれる不可思議なる人物は、案外その以前から、われわれとおなじ空気を吸っていたのだ。
 只(ただ)われわれは、よもやそういう奇怪きわまる生物が、身辺近くに棲息(せいそく)していようなどとは、夢にも知らなかったばかりだった。
 まことにわれわれは、へいぜい目にも耳にもさとく、裏街の抜け裏の一つ一つはいうにおよばず、溝板(どぶいた)の下に三日前から転がっている鼠(ねずみ)の死骸(しがい)にいたるまで、なに一つとして知らないものはないつもりでいるけれど、しかし世の中というものは広く且つ深くて、かずかずの愕(おどろ)くべきものが、誰にも知られることなく密かに埋没(まいぼつ)されているのである。
 この「蠅男」の話にしても、ことによるとわれわれは、生涯この奇怪なる人物のことをしらずにすんだかも知れないのだ。なにしろこの「蠅男」がまだ世間の注意をひかないまえにおいては、これを知っていたのは「蠅男」自身と、そしてほかにもう一人の人間だけだった。しかもその人間は、事実彼の口からは「蠅男」の秘密をついに一言半句(いちごんはんく)も誰にも喋(しゃべ)りはしなかったのだから、あとは「蠅男」さえ自分で喋らなければ、いつまでも秘中の秘としてソッとして置くことができたはずだった。「蠅男」も決して喋りはしなかった。なんといっても彼自身の秘密は、世間に知られて好ましいものではなかったから。
 それほど堅い大秘事が、どうして世間に知られるようにはなったのであろうか?
 それは、臭(にお)いであった。
 煤煙(ばいえん)の臥床(ふしど)に熟睡していたグレート大阪(おおさか)が、ある寒い冬の朝を迎えて間もないころ、突如として或る区画に住む市民たちの鼻を刺戟した淡い厭(いや)な臭気こそ、この恐ろしい「蠅男」事件の発端であったのだ。


   妙(みょう)な臭(にお)い


 大阪人は早起きだ。
 それは師走(しわす)に入って間もない日の或る寒い朝のこと、まだあたりはほの明るくなったばかりの午前六時というに、商家の表戸はガラガラとくり開かれ、しもた家では天窓がゴソリと引き開けられた。旅館でも病院でも学校でも、鎧戸(よろいど)の入った窓がバタンバタンと外へ開かれ、遠くの方からバスのエンジンの音が地響をうって聞えてくる。……
「なんやら。――怪(け)ったいな臭(かざ)がしとる」
「怪ったいな臭?――やっぱりそうやった。今朝からうちの鼻が、どうかしてしもたんやろと思とったんやしイ。――ほんまに怪ったいな臭やなア」
「ほんまに、怪ったいな臭や。何を焼いてんねやろ」
 旅館の裏口を開いて外へ出たコックとお手伝いさんとは、鼻をクンクンいわせて、同じような渋面(しぶつら)を作りあった。
 ここは大阪の南部、住吉区(すみよしく)の帝塚山(てづかやま)とよばれる一区画の朝だった。
「この臭(かざ)は、ちょっとアレに似とるやないか」
「えッ、アレいうたら何のことや」
「アレいうたら――そら、焼場の臭や」
「ああ、焼場の臭?」お手伝いさんは白いエプロンを急いで鼻にあてた。「そうやそうやそうや。うわァこら焼場の臭(にお)いやがナ」
 そのうちに、臭いを気にする連中が、あとからあとへと起きてきて、てんでに廂(ひさし)を見上げたり、炊きつけたばかりの竈(かまど)の下を気にしたりした。だがこの淡い臭気が、一たい何処から発散しているものか、それを突き止めた者は誰もなかった。
 ワイワイと、近所の騒ぎはますます激しくなっていった。しかも臭気はますます無遠慮(ぶえんりょ)に、住民たちの鼻と口とを襲った。
 東京のビジネス・センター有楽町に事務所をもつ有名な青年探偵の帆村荘六(ほむらそうろく)も、この騒ぎのなかに、旅館の蒲団(ふとん)の中に目ざめた。彼は或る重大事件の調査のため、はるばるこの大阪へ来ていたのだった。そして昨夜から、このマスヤ旅館に宿泊していた。
「――や、どうも。帝塚山はたいへん静かだという話だったが、こう騒々しいところをみると、あれはわざと逆の言葉を使って、皮肉を飛ばしたつもりなのかしら」
 彼は寝不足の充血した目をこすりながら、起きあがった。そして丹前(たんぜん)を羽織(はお)ると、縁側に出て、雨戸をガラガラと開いた。とたんに彼は、狆(ちん)のように顔をしかめて、
「おう、臭(くさ)い。へんな臭(にお)いがする」
 と吐きだすように云った。
 前の往来で、臭(かざ)評定をしていた近所のうるさ方一同は、突然ガラガラと開いた雨戸の音に愕(おどろ)いて、ハッとお喋りを中止したが、帆村が自分たちと同じように鼻をクンクンいわせているのを見上げるや、一せいにニヤニヤ笑いだした。
「お客さん。怪(け)ったいな臭がしとりますやろ」
「おう。これは何処でやっているのかネ。ひどいネ」
「さあ何処やろかしらんいうて、いま相談してまんねけれど、ハッキリ何処やら分らしめへん。――お客さん、これ何の臭(かざ)や、分ってですか」
「さあ、こいつは――」
 とはいったが、帆村はあとの言葉をそのまま嚥(の)みこんだ。そして彼は帯を締めなおすと、トントンと階段を下りて、玄関から外に出た。
「えらい早うまんな。お散歩どすか」
 奥から飛んで出てきた仲働きのお手伝いさんが、慌(あわ)てて宿屋の焼印(やきいん)のある下駄(げた)を踏石の上に揃えた。
「ああ、この辺はいつもこんな臭いがするところなのかネ」
「いいえイナ。こないな妙な臭(かざ)は、今朝が初めてだす」
「そうかい。――で、この辺から一番近い火葬場は何処で、何町ぐらいあるネ」
「さあ、焼場で一番ちかいところ云うたら――天草(あまくさ)だすな。ここから西南に当ってまっしゃろな、道のりは小一里ありますな」
「ウム小一里、あまくさですか」
「これ、天草の焼場の臭いでっしゃろか」
「さあ、そいつはどうも何ともいえないネ」
 帆村は「行っておいでやす」の声に送られて、ブラリと外に出た。別に彼は、この朝の臭気を嗅いで、それを事件と直覚したわけでもなく、またこんな旅先で彼の仕事とも関係のないことを細かくほじくる気もなかった。けれど、彼の全身にみなぎっている真実を求める心は、主人公の気づかぬ間に、いつしか彼を散歩と称して、臭気(しゅうき)漂(ただよ)う真只中(まっただなか)に押しやっていたのだった。
 それは一種香(かん)ばしいような、そして官能的なところもある悪臭だった。彼は歩いているうちに、臭気がたいへん濃く沈澱(ちんでん)している地区と、そうでなく臭気の淡い地区とがあるのを発見した。
(これは案外、近いところから臭気が出ているに違いない!)
 臭気の源(みなもと)は案外近いところにある。もしそれが遠いところにあるものなれば、臭気は十分ひろがっていて、どこで嗅いでも同じ程度の臭気しかしない筈だった。だから彼は、この場合、臭気の源を程近い所と推定したのだった。
 では近いとすれば、このような臭気を一体何処から出しているのだろう?
 帆村は再び踵(きびす)をかえして、臭気が一番ひどく感ぜられた地区の方へ歩いていった。それは丁度或る町角になっていた。彼はそこに突立ったまま、しばらく四囲(あたり)を見まわしていたが、やがてポンと手をうった。
「――おお、あすこにいいものがあった。あれだ、あれだ」
 そういった帆村の両眼は、人家の屋根の上をつきぬいてニョッキリ聳(そび)えたっている一つの消防派出所の大櫓(おおやぐら)にピンづけになっていた。
 あの半鐘櫓(はんしょうやぐら)は、そもいかなる秘密を語ろうとはする?


   灰色の奇人館


「オーイ君、なにか臭くはないかア」
 と、帆村は櫓の下から、上を向いて叫んだ。
 上では、丹前に宿屋の帯をしめた若い男が、櫓下でなにか喚(わめ)きたてているのに気がついた。といって彼は当番で見張り中の消防手なのだから、下りるわけにも行かない。そこでおいでおいでをして、梯子を上ってこいという意味の合図をした。
「よオし、ではいま上る――」
 帆村荘六は、そこで尻端折(しりはしょ)りをして、冷い鉄梯子(てつばしご)につかまった。そして下駄をはいたまま、エッチラオッチラ上にのぼっていった。上にのぼるにつれ、すこし風が出てきて、彼は剃刀(かみそり)で撫でられるような冷さを頬に感じた。
「――なんですねン、下からえらい喚(わめ)いていてだしたが」
 と、制服の外套の襟(えり)で頤(あご)を深く埋(うず)めた四十男の消防手が訊(き)いた。彼は帆村が下駄をはいて上ってきたのに、すこし呆(あき)れている風だった。
「おお、このへんな臭いだ。ここでもよく臭いますね。この臭いはいつから臭っていましたか」
「ああこの怪ったいな臭いですかいな。これ昨夜(ゆうべ)からしてましたがな。さよう、十時ごろでしたな。おう今、えらいプンプンしますな」
「そうですか。昨夜の十時ごろからですか」と帆村は肯(うなず)いて、今はもう八時だから丁度十時間経ったわけだなと思った。
「一体どの辺から匂ってくるのでしょう」
「さあ?」
 と、消防手は首をかしげて、帆村の顔を見守るばかりだった。彼はどうやら、帆村の職業をそれと察したらしかった。
「風は昨夜から、どんな風に変りましたか」
「ああ風だすか。風は、そうですなア、今も昨夜も、ちっとも変ってえしまへん。北西の風だす」
 消防手だけに、風向きをよく知っている。
「北西というと、こっちになりますね。どうです、消防手さん。こっちの方向に、なにかこう煙の上っているようなところは見えないでしょうか」
 帆村の指す方角に、人のいい消防手はチラリと目をやったが、
「さよですなア、ちょっと見てみまひょう」
 といって、首にかけていた望遠鏡を慣れた手つきで取出すと、長く伸ばして、一方の眼におしあてた。
「いかがです。なにか見えるでしょう」
「さあ――ちょっと待っとくなはれ」
 と、彼は望遠鏡をしきりに伸(の)ばしたり縮(ちぢ)めたりしていたが、そのうちに、
「――ああ、あれかもしれへん」
 と、頓狂(とんきょう)な声を出した。
「ええッ、ありましたか」
 帆村は思わず、消防手の肩に手をかけた。
「三町ほど向うだす。岸姫(きしひめ)町というところだすな。まあ、これに違いないやろ思いまっさ。ひとつ覗(のぞ)いてごらん」
 帆村は、消防手のたすけを借りて、望遠鏡越しにその岸姫町の方をじっと眺めてみた。
「――な、見えますやろ。どえらい不細工(ぶさいく)な倉庫か病院かというような灰色の建物が見えまっしゃろ」
「ああ、これだな」
「見えましたやろ。そしたら、その屋根の上から突き出しとる幅の広い煙突(えんとつ)をごらん。なんやしらん、セメンが一部剥(は)がれて、赤煉瓦(あかれんが)が出てるようだすな」
「ウン、見える見える」
「見えてでしたら、その煙突の上をごらん。煙が薄く出ていまっしゃろ、茶色の煙が……」
「おお出ている出ている、茶色の煙がねえ」
 帆村は、腕がしびれるほど、望遠鏡をもちあげて、破れ煙突から出る煙をジッと見守っていた。
 あの煙突から、昨夜の十時から今朝までも、あのとおり煙が出っ放しなんだろうか? そしてあの煙突の下に、果して臭気の原因があるのだろうか?
「あの建物は、なんですかねえ」
「さあ詳しいことは知りまへんけど、この辺の人は、あれを『奇人館』というてます。あの家には、年齢(とし)のハッキリせん男が一人住んでいるそうやと云うことだす」
「ほう、それはあの家の主人ですか」
「そうだっしゃろな。なんでも元は由緒あるドクトルかなんかやったということだす」
「外に同居人はいないのですか、お手伝いさんとか」
「そんなものは一人も居らへんということだす。尤(もっと)も出入の米屋さんとか酒屋さんとかがおますけれど、家の中のことは、とんと分らへんと云うとります」
「そのドクトルとかいう人物とは顔を合わさないのですか」
「そらもう合わすどころやあれへん。まず注文はすべて電話でしますのや。商人は品物をもっていって、裏口の外から開く押入(おしいれ)のようなところに置いてくるだけや云うてました。するとそこに代金が現金で置いてありますのや。それを黙って拾うてくるんやと、こないな話だすな。そやさかい向うの家の仁(じん)に顔を合わさしまへん」
「ずいぶん変った家ですね。――とにかくこれから一つ行ってみましょう」
 そういっているところへ、電話のベルがけたたましく鳴りだした。消防手は素早(すばや)く塔上の小室に飛びこんで、しきりに大声で答えていた。それは同じくこの臭気に関するもののようであった。それは消防手が再び帆村の前に現われたとき明白になった。
「――いま警察から電話が懸(かか)ってきましてん。この怪(け)ったいな臭(かざ)がお前とこから見えてえへんか云う質問だす。こら、なんか間違いごとが起ったんですなア。やあえらいことになりましたなあ」


   旅行中の貼り札


 帆村はその足で、すぐさま奇人館の前に行った。
 なるほど、それは実に奇妙な建物だった。よく病院の標本室に入ると、大きな砂糖壜(びん)のような硝子(ガラス)器の中に、アルコール漬けになって、心臓や肺臓や、ときとすると子宮(しきゅう)などという臓器が、すっかり色彩というものを失ってしまって、どれを見てもただ灰色の塊(かたまり)でしかないというのが見られる。この奇人館はどこかそのアルコール漬けの臓器に似ていた。
 灰色の部厚いコンクリートの塀、そのすぐ後に迫って、膨(ふく)れ上ったような壁体(へきたい)でグルリと囲んだ函のような建物。――それらは幾十年の寒さ暑さに遭(あ)って、壁体の上には稲妻のような罅(ひび)が斜めにながく走り、雨にさんざんにうたれては、一面に世界地図のような汚斑(しみ)がべったりとつき、見るからにゾッとするような陰惨(いんさん)な邸宅(ていたく)だった。
 それでも往来に面したところには、赤く錆(さ)びてはいるが鉄柵づくりの門があり、それをとおして石段の上に、重い鉄の扉(ドア)のはまった玄関が見えていた。
「おおあすこに何か貼り札がしてある!」
 その玄関の扉のハンドルに、斜めになって文字をかいた厚紙が懸っているのを帆村は見た。なんと書いてあるのだろう。彼は光線のとおらないところにある掲示を、苦心して読み取った。
 ――当分旅行ニツキ訪問ヲ謝絶(シャゼツ)ス。十一月三十日、鴨下(カモシタ)――
「ウン、鴨下――というか。ここの主人公の名前だな。その主人公は旅行に出かけたという掲示(けいじ)だ。なアんだ。中は留守じゃないか」
 帆村はちょっとガッカリした。
 だが、よく考えてみると、留守は留守でも、それは十一月三十日に出ていったのだから、一昨日(おととい)の出来ごとだった。それだのに、昨夜からずっとこの方、煙突から煙が出ているというのは一体どうしたことだろう?
「鴨下ドクトルが、ストーブの火を燃しつけていったのかしら。しかしそれなら、一昨日の夜も昨日の朝も昼間も、別に煙が出なかったのはどうしたわけだろう」
 とにかく無人(むじん)であるべき家の煙突から、モクモクと煙が上るというのはどう考えても合点がゆかないことだ。どうしても、中に誰か居て、ストーブに火を点けたのでなければ話が合わない。もし人が居るとしたら、誰が居るのだろう。鴨下ドクトルが出ていった後に、一体誰が残っているというのだろう?
 奇人館の怪事を、何と解こうか。
 帆村が門前に腕組をして考えこんでいるときだった。丁度(ちょうど)そこへ、街の異変を聞きこんだ所轄(しょかつ)警察署の警官たちが自動車にのって駈けつけてきた。
「さあ、早いとこ、お前はベルを押せ。なにベルがない。探せ探せ。どこかにある筈(はず)や」
 と指揮の巡査部長が大童(おおわらわ)の号令ぶりをみせた。
「――それから別に、お前とお前とで、この鉄の門を越えて、玄関の戸を叩いてみい」
 声の下に、二名の警官が勇しく鉄の門に蝗(いなご)のように飛びついた。
「さあ、お前ら三名、裏口へ廻れ、一人は連絡やぜ」
 部下を四方へ散らばせると、巡査部長は帽子の頤紐(あごひも)をゆるめて、頤に掛けた。そして鼻をクンクン鳴らして、
「うわーッ、こらどうもならん臭さや。なにをしよったんやろ、奇人ドクトルは……」
 そのとき帆村は横合(よこあい)から声をかけた。
「おおこれは帆村はんだすな。まだ御泊(おとま)りでしたか。えらいところをごらんに入れますわ、ハッハッハッ」
 検事の村松氏に案内されていったとき、知合いになった住吉署の大川巡査部長であった。帆村は邪魔にならぬように、傍(そば)についていた。
 裏口に廻った部下の一人が帰ってきて、二階の西側の鎧窓(よろいまど)に鍵のかかっていないところがあって、そこから中へ這入れると報告をした。大川は悦(よろこ)んで、
「よし、そこから這入(はい)れ、三人外に残して、残り皆で這入るんや。俺も這入ったる」
 巡査部長は、佩剣(はいけん)を左手で握って、裏口へ飛びこんでいった。帆村もそのまま一行の後に続いていった。
 樋を伝わって、屋根にのぼり、グルリと壁づたいに廻ってゆくと、なるほど四尺ほど上に鎧戸の入った窓がポッカリ明いていて、そこから一人の警官がヒョイと顔を出した。
「中は、ひっそり閑(かん)としてまっせ」
「そうか。――油断はでけへんぞ。カーテンの蔭かどこかに隠れていて、ばアというつもりかもしれへん。さあ皆入った。さしあたり煙突に続いている台所とかストーブとかいう見当(けんとう)を確かめてみい」
 勇敢なる巡査部長は、先頭に立って、腐(くさ)りかかった鎧戸を押して、薄暗い内部にとび下りた。一行は、最初の警官を窓のところに張り番に残して、ソロソロと前進を開始した。
 帆村も丹前の端(はし)を高々と端折(はしょ)って、腕まくりをし、一行の後からついていった。
 たいへん曲りくねって階段や廊下がつづいていた。外から見るような簡単な構造ではない。大小いくつかの部屋があるが、悉(ことごと)く洋間になっていて、日本間らしいものは見当らなかった。
 家の中に入ると、不思議とあの変な臭気は薄れた。そしてそれに代って、ひどく鼻をつくのが消毒剤のクレゾール石鹸液の芳香(ほうこう)だった。
「ここ病院の古手(ふるて)と違うか」
「あほぬかせ。ここの大将が、なんでも洋行を永くしていた医者や云う話や」
「ああそうかそうか。それで鴨下ドクトルちゅうのやな。こんなところに診察室を作っておいて、誰を診(み)るのやろ」
「コラ、ちと静かにせんか」
 巡査部長の一喝(いっかつ)で、若い警官たちはグッと唇を噤(つぐ)んだ。
 いくら跫音(あしおと)を忍ばせても、ギシギシ鳴る大階段を、下に下りてゆくと、思いがけなく大きい広間に出た。スイッチをパチンと押して、電灯をつけてみる。
「ああ――」
 これは主人の鴨下ドクトルの自慢の飾りでもあろうか、一世紀ほど前の中欧ドイツの名画によく見るような地味な、それでいてどことなく官能的な部屋飾りだ。高い壁の上には誰とも知れぬがプロシア人らしい学者風の人物画が三枚ほど懸っている。横の方の壁には、これも独逸(ドイツ)文字でギッシリと説明のつけてある人体解剖図と、骨骼及び筋肉図の大掲図(だいけいず)とが一対をなしてダラリと下っている。
 色が褪(あ)せたけれど、黒のふちをとった黄色い絨毯(じゅうたん)が、ドーンと床の上に拡がっていた。そして紫檀(したん)に似た材で作ってある大きな角卓子(テーブル)が、その中央に置いてある。その上には、もとは燃えるような緑色だったらしい卓子掛けが載って居り、その上には何のつもりか、古い洋燈(ランプ)がただ一つ置かれてあった。
 室内には、この外に、奇妙な飾りのある高い椅子が三つ、深々とした安楽椅子が四つ、それから長椅子が一つ、いずれも壁ぎわにキチンと並んでいた。
 もう一つ、書き落としてはならないものがあった。それはこの部屋にはむしろ不似合なほどの大暖炉(ストーブ)だった。まわりは黒と藍(あい)との斑紋(はんもん)もうつくしい大理石に囲われて居り、大きなマントルピースの上には、置時計その他の雑品が並んでいた。しかもその火床(かしょう)には、大きな石炭が抛(ほう)りこまれて居り、メラメラと赤い焔をあげて、今や盛んに燃えているところだった。
「これやア。えろう燃やしたもんや。ムンムンするわい」
 と、巡査部長はストーブの方に近づいた。
「ほほう、こらおかしい。傍へよると、妙な臭(かざ)がしよる――」
「えッ。――」
 一同は、愕(おどろ)いてストーブの傍に駆けよった。


   崩(くず)れる白骨(はっこつ)


「これ見い。こんなところに、妙な色をした脂(あぶら)みたよなもんが溜っとるわ」
 と大川部長は、火かきの先で、火床(かしょう)の前の煉瓦敷(れんがじ)きの上に溜っている赤黒いペンキのようなものを突いた。
「何でっしゃろな」
「さあ――こいつが臭(にお)うのやぜ」
 と云っているとき、巡査部長のうしろから帆村が突然声をかけた。
「これア大変なものが見える。大川さん。火床の中に、人骨(じんこつ)らしいものが散らばっていますぜ?」
「ええッ、人骨が――。どこに?」
「ホラ、今燃えている一等大きい石炭の向う側に――。見えるでしょう」
「おお、あれか。なるほど肋骨(ろっこつ)みたいや。これはえらいこっちゃ。いま出して見まっさ」
 さすがは場数(ばかず)を踏んだ巡査部長だけあって、口では愕(おどろ)いても、態度はしっかりしたものだ。腰をかがめると、火掻(ひか)き棒(ぼう)で、その肋骨らしいものを火のなかから手前へ掻きだした。
「フーン。これはどう見たって、大人の肋骨や。どうも右の第二真肋骨(しんろっこつ)らしいナ」
「こんなものがあるようでは、もっとその辺に落ちてやしませんか」
「そうやな。こら、えらいこっちゃ。――おお鎖骨(さこつ)があった。まだあるぜ。――」
 大川は灰の中から、人骨をいくつも掘りだした。その数は皆で、五つ六つとなった。
「――もう有りまへんな。こうっと、胸の辺の骨ばかりやが、わりあいに数が少いなア」
 と、彼は不審(ふしん)の面持で、なにごとかを考えている様子だった。
 それにしても人骨である限り、主人の留守になった建物の中のストーブに、こんなものが入っているとは、なんという愕くべきことだろう。一体この骨の主は、何者だろう。
「あのひどい臭気から推して考えると、もっと骨が見つかるはずですね」と帆村が云った。彼は跼(かが)んで、しばらくストーブの中をいろいろな角度から覗きこんでいたが、ややあって、ひどく愕いたような声をだした。
「呀(あ)ッ。ありましたありました。肋骨が一本、ストーブの煙道(えんどう)のところからブラ下っていますよ。煙道の中が怪しい」
「ナニ煙道の中が……」と、顔色をサッと変えた大川巡査部長は、火掻き棒を右手にグッと握ると、燃えさかる石炭をすこし横に除け、それから下から上に向って火掻き棒をズーッと挿しこみ、力まかせにそこらを掻きまわした。それはすこし乱暴すぎる行いではあったが、たしかに手応(てごた)えはあった。
 ガラガラガラという大きな音とともに、煙道の中からドッと下に落ちてきた大きなものがあった。それは、同時に下に吹きだした黒い煤や白い灰に距(へだ)てられて、しばらくは何物とも見分けがたかったけれど、その灰燼(かいじん)がやや鎮(しず)まり、思わずストーブの前から飛びのいた警官たちがソロソロ元のように近づいたころには、もう疑いもなく、煙道の中から落ちてきた物件が何物であるかが明瞭(めいりょう)になった。
 半焼けの屍体(したい)!
 それはずいぶん奇妙な恰好をしていた。半ば骨になった二本の脚が、火床の上にピーンと天井を向いて突立っていた。
 それは逆さになって、この煙道の中に入っていたものらしく、胸部や腹部は、もう完全に焼けて、骨と灰とになり、ずっと上の方にあった脚部が、半焼けの状態で、そのまま上から摺(す)り落(お)ちてきたのだった。
 男か女か、老人か若者か。――そんなことは、ちょっと見たくらいで判別がつくものではなかった。
「コラ失敗(しも)うた。検事さんから、大きなお眼玉ものやがな。下から突きあげんと、あのまま抛(ほ)っといたらよかったのになア」
 と、巡査部長は火掻き棒を握ったまま、大きな溜息(ためいき)をついた。
「もうこうなったら、仕方がありませんよ。それより、今燃えかかっている石炭の火を消して、あの脚をなるべく今のままで保存することにしては如何ですか」
 帆村は慰(なぐさ)め半分、いいところを注意した。
「そうだすなア」と大川は膝を叩いて、後をふりかえり、
「オイ、お前ちょっと水を汲んできて、柄杓(ひしゃく)でしずかにこの火を消してんか。大急ぎやぜ」
 それから彼は、もう一人の警官に命じて、電話を見つけ、本署に急報するようにいいつけた。
 帆村は、そのときソッと其(そ)の場を外(はず)した。部屋を出るとき、ふりかえってみると、大川巡査部長は長椅子の上にドッカと腰うちかけ、帽子を脱いていたが、毬栗頭(いがぐりあたま)からはポッポッポッと、さかんに湯気が上っているのが見えた。


   不意打(ふいう)ち


 いかに帆村といえども、内心この恐ろしい惨劇(さんげき)について、愕(おどろ)きの目をみはらないではいられなかった。主人鴨下(かもした)ドクトルの留守中に、ストーブの中で焼かれた半焼屍体(はんしょうしたい)? 一体どうした筋道から、こうした怪事件が起ったかは分らないけれど、とにかくこの家のうちには、もっともっと秘密が伏在(ふくざい)しているのであろう。彼はこの際、できるだけの捜査材料を見つけだして置きたいと思った。
「ほう、これは廊下だ。――向うに化粧室らしいものが見える。よし、あの中を調べてみよう」
 彼は勇躍(ゆうやく)して、化粧室の扉を押した。
「この家のうちに、主人鴨下ドクトルのほかに、誰か居たかが分ると面白いんだが――」
 彼の狙(ねら)いは、さすがに賢明だった。
 化粧室を入ったところの正面に、大きな鏡が一枚掲(かか)げてあった。彼はその鏡の前に立って、台の上を注意ぶかく観察した。果(は)てには台の上に、指一本たてて、スーッと引いてみた。すると台の上に、黒い筋がついた。その指を鼻の先にソッともっていって、彼はクンクンと鼻を犬のように鳴らした。
「フーン。これはフランス製の白粉(おしろい)の匂いだ。すると、この家の中には、若い女がいたことになる。しかも余り前のことではない」
 彼はそこで、なおも奥の方の扉を開いて、中に入った。しばらくすると、彼の姿が再び現われた。その顔の上には微笑が浮んでいた。
「いよいよ若い女がいたことになる。きょうは十二月一日だ。すると十一月二十九日ぐらいと見ていいなア。主人公が留守にした日の前後だ。これは面白い」
 廊下を出ると、そこに階段があった。それを上ろうとすると、一人の警官が横合から現われ、彼の後について、その階段をのぼってゆくのであった。
(先生、僕を監視するつもりかしら?)
 階段を上ると、そこにまた廊下があった。二階はたいへん薄暗い。いつもは電灯がついていたに違いないのだが、スイッチが手近に見あたらない。
 右のとっつきに、扉が半びらきになった部屋があった。それを押して入ると、スイッチがすぐ目に映った。ピーンと上にあげてみると、パッと明りがついて、室内の様子がハッキリした。ここはどうやら食堂兼(けん)喫煙室らしく、それと思わせるような什器(じゅうき)や家具が並んでいた。なんにせよ、どうも豪勢なものである。――若い警官は、相変らず彼の後について、室内へ入ってきた。
(いよいよ監視するつもりと分った!)
 彼はちょっと不愉快な気持に襲われた。だが次の瞬間、帆村探偵は不愉快もなにも忘れてしまうような物を発見した。それは安楽椅子(あんらくいす)の上に放りだされてあった紙装(かみそう)の小函(こばこ)だった。
「おおこれはどうだ。赤バラ印の弾薬函(だんやくばこ)だッ。これを使う銃は、僕の探していたアメリカのギャングが好んで使う軽機関銃じゃないか。これは物騒(ぶっそう)だぞオ――」と帆村は身ぶるいして、戸口の方をふりかえった。警官は怪訝(けげん)な顔をして、傍(そば)によってきた。このとき廊下を距(へだ)てた向いの暗い室の扉が、音もなく細目に開いて、その中から一挺(いっちょう)の太い銃口(じゅうこう)がヌッと顔を出した。
「呀(あ)ッ、あぶないッ!」と叫んだが、既に遅かった。ダダダーン、ヒューッと、発射された銃弾は帆村たちのいる室内に撃ちこまれた。
「うわーッ、ウーム」
 苦しい呻(うめ)き声とともに、監視の警官が、ドサリと床上(ゆかうえ)に人形のように転がった。
「ウウン、やられたッ」
 と、こんどは帆村が絶叫(ぜっきょう)した。素早く安楽椅子のかげに身をかわした彼だったが、途端(とたん)に一弾飛びきたって左肩に錐(きり)を突きこんだ疼痛(とうつう)を感じた。彼は床の上に自分の身体が崩れてゆくのを意識した。そして階下から湧き起る警官隊の大声と階段を荒々しく駈けあがってくる靴音とを、夢心地に聞いた。


   空虚(くうきょ)のベッド


 青年探偵の帆村荘六は恐ろしい夢からハッと覚めた。
 気がついて四囲(あたり)を見まわすと、自分は白い清浄(せいじょう)な夜具(やぐ)のなかにうずまって、ベッドの上に寝ていた。
(呀(あ)ッ、そうだ。僕は肩先を機関銃で撃たれて、この病院に担ぎこまれたんだったな)
 彼は大阪住吉区岸姫町の鴨下ドクトルの館で、不意に何者かのために、こんな目にあわされ、そして意気地なくもこんなことになって、附近の病院に担ぎこまれたのだった。
 電灯が室内をうすぼんやり照らしていた。もう夜らしいが、何時だろうかと、腕時計を見ようとしたが、とたんに彼は、飛びあがるような疼痛を肩に感じた。
「呀ッ、痛ッ」
 その叫びに応えるように人の気配がした。手紙でも書くのに夢中になっていたらしい若い看護婦が、愕いて彼の枕頭(まくらもと)に馳(は)せよった。
「お目覚(めざ)めですの。お痛みですか」
 彼は軽く肯(うなず)いて、看護婦に時刻を訊いた。
「――そうですね。いま夜の九時ですわ」
 と、東京弁で彼女は応えた。
「どうでしょう、僕の傷の具合は――」
「たいして御心配も要らないと、先生が仰有(おっしゃ)っていましたわ。でも暫く我慢して、安静にしていらっしゃるようにとのことですわ」
「暫くというと――」
「一週間ほどでございましょう」
「え、一週間? 一週間もこんなところに寝ていたんじゃ、脳味噌に黴(かび)が生えちまう」と憂鬱(ゆううつ)そうに呟いたが、間もなくニヤリと笑みを浮べると、「看護婦さん、すまないが大急ぎで、電報を一つ打ってきて下さい」
 痛そうに帆村は唸(うな)りながら、東京の事務所宛に、簡単な電報を発するよう頼んだ。
 看護婦が頼信紙(らいしんし)を手にして廊下を歩いていると、立派な紳士を案内してくる受付の同僚に会った。
「あら。君岡さん、丁度いいわ。あなたのとこの患者さんへ、この方が御面会よ」
 上から下まで、黒ずくめの洋服に、ワイシャツと硬いカラーとだけが真白であるという四十がらみの顔色の青白い髭(ひげ)のある紳士が、ジロリと眼で挨拶した。
 そこで看護婦の君岡は、電報の用事を受付の看護婦に頼み、自分はその黒ずくめの紳士を伴って、再び室の方にひっかえした。
「さあ、こっちでございますわ」
 といって、病室の扉を開いたが、そのとき二人はベッドの上が乱雑になって居り、寝ているはずの帆村荘六の姿が見えないのを発見して愕いた。
「オヤ、帆村さんはどうなすったのでしょう。ウンウン唸っていらっして、起きあがれそうもなかったのに……」
「ウン、これは変だな」
 黒ずくめの紳士は、室内に飛びこんできた。
「もし看護婦さん、この窓は、さっきから開いていたのかね?」
「ええ、なんでございますって。窓、ああこの窓ですか。さあ――変でございますわネ。たしかに閉まっていた筈なんですが」
 ベッドの頭の方にある中庭に面した窓が、上に押しあげられていたのである。誰がこの窓を開けたのだろう。そして誰が患者の身体を攫(さら)っていったのだろう。
 紳士は窓ぎわへ急いで近づくと、首を出して外を見た。地上までは一丈ほどもあり、真暗な植込みが、窓から洩れる淡い光にボンヤリ照らし出されていた。しかし地上に帆村の姿を見出すことはできなかった。
「どうも困ったネ」
「あたし、どうしましょう。婦長さんに叱られ、それから院長さんに叱られ、そして馘になりますわ」
 看護婦は、蒼い顔をして崩れるように、椅子の上に身体を抛(な)げかけた。
 そのときであった。開いた窓枠に、横合から裸の細長い脚が一本ニューッと現われた。
「アラッ、――」
 と看護婦は椅子から飛びあがった。
 つづいてまた一本の脚が、すこしブルブル慄(ふる)えながら現われた。それから黄八丈(きはちじょう)まがいの丹前(たんぜん)が――。
「どうせそんなことだろうと思った。おい帆村君、相変らず、無茶をするねえ」
 と、紳士は呆(あき)れながらも、まあ安心したという調子でいった。
 そのうちに、窓の外から帆村の全身が現われて、ヨロヨロと室内へ滑りおちてきた。
「まあ、帆村さん、貴郎(あなた)ってかたは……」
 と、看護婦が泪(なみだ)を払いつつ、泣き笑いの態で帆村の身体を抱き起した。
「いや大したことはない」と帆村は青い顔に苦笑を浮べていった。「ナニ脳髄に黴(かび)が生えてはたまらんと思ったからネ。ちょっと外へ出て、冷していたんだよ。しかしこの病院の外壁(がいへき)と来たら、手懸(てがか)りになるところがなくて、下りるのに非常に不便にできている。――やあ、これは村松検事どの。貴方がもっと早く来て下されば、なにもこんな瀕死(ひんし)のサーカスをごらんに入れないですんだのですよ」
 看護婦の君岡に抱(かか)えられ再びベッドの上に移されながら、傷つける帆村は息切れの入った減らず口を叩いていた。


   焼屍体(しょうしたい)の素性(すじょう)


「機関銃に撃たれた警官はどうしました」
 帆村はベッドの中に、病人らしく神妙に横たわって、側の椅子に腰をかけている村松検事に尋ねた。
「うん、――」検事は愛用のマドロスパイプに火を点けるのに急がしかった。「気の毒な最期だったよ。――」
「そうですか。そうでしょうネ、まともに受けちゃたまらない」
 生命びろいをした帆村は溜息(ためいき)をついた。
「それで犯人はどうしました」
 検事はパイプを咥(くわ)えたまま、浮かぬ顔をして、
「――勿論(もちろん)逃げちゃったよ。なにしろこっちの連中は今まで機関銃にお近付きがなかったものだからネ。あれを喰(く)らって、志田(死んだ警官)は即死し、勇敢をもって鳴る帆村荘六はだらしなく目を廻すしサ。それが向うの思う壺で、いい脅(おど)しになった。だから追い駈けた連中も残念ながらタジタジだ。――そんな風に犯人をいい気持にしてやって、一同お見送りしたという次第だ」
 検事は、いつもの帆村の毒唇(どくしん)を真似て、こう説明したものだから、帆村は苦笑いをするばかりだった。もちろんそれは、村松検事が病人の気を引立ててやろうという篤(あつ)い友情から出発していることであった。
「あの犯人は、一体何者です」
「皆目わかっていない。――君には見当がついているかネ」
「さあ、――」と帆村は天井を見上げ、「とにかくわが国の殺人事件に機関銃をぶっぱなしたという例は、極(きわ)めて稀(まれ)ですからネ。これは全然新しい事件です。ともかくも兇器をとこから手に入れたということが分れば、犯人の素性(すじょう)ももっとハッキリすると思いますがネ」
「うん、これはこっちでも考えている。両三日うちに兇器の出所は分るだろう」
 看護婦の君岡が、紅茶をはこんできた。検事は、病院の中で紅茶がのめるなんて思わなかったと、恐悦(きょうえつ)の態(てい)であった。
「――それから検事さん」と帆村は紅茶を一口啜(すす)らせてもらっていった。「あの大暖炉(ストーブ)のなかから出てきた屍体のことは分りましたか」
「うん、大体わかった――」
「それはいい。あの焼屍体の性別や年齢はどうでした」
「ああ性別は男子さ。身長が五尺七寸ある。――というから、つまり帆村荘六が屍体になったのだと思えばいい」
「検事さんも、このごろ大分修業して、テキセツな言葉を使いますね」
「いやこれでもまだ迚(とて)も君には敵(かな)わないと思っている。――年齢は不明だ」
「歯から区別がつかなかったんですか」
「自分の歯があれば分るんだが、総入歯なんだ。総入歯の人間だから老人と決めてもよさそうだが、この頃は三十ぐらいで総入歯の人間もあるからネ。現にアメリカでは二十歳になるかならずの映画女優で、歯列びをよく見せるため総入歯にしているのが沢山ある」
「その入歯を作った歯医者を調べてみれば、焼死者の身許が分るでしょうに」
「ところが生憎(あいにく)と、入歯は暖炉のなかで焼け壊れてバラバラになっているのだ」
「頭蓋骨の縫合とか、肋軟骨化骨(ろくなんこつかこつ)の有無とか、焼け残りの皮膚の皺(しわ)などから、年齢が推定できませんか」
「左様、頭蓋骨も肋骨も焼けすぎている上に、硬いものに当ってバラバラに砕けているので、全体についてハッキリ見わけがつかないが、まあ三十歳から五十歳の間の人間であることだけは分る」
「まあ、それだけでも、何かの材料になりますね。――外に、何か屍体に特徴はないのですか」
「それはやっと一つ見つかった」
「ほう、それはどんなものですか」
「それは半焼けになった右足なんだ。その右足は骨の上に、僅かに肉の焼けこげがついているだけで、まるで骨つきの痩せた、鶏の股を炮(あぶ)り焼きにしたようなものだが、それに二つの特徴がついている」
「ほほう、――」
「一つは右足の拇指(おやゆび)がすこし短いのだ。よく見ると、それは破傷風(はしょうふう)かなんかを患って、それで指を半分ほど切断した痕(あと)だと思う」
「なるほど、それはどの位の古さの傷ですか」
「そうだネ、裁判医の鑑定によると、まず二十年は経っているということだ」
「はあ、約二十年前の古傷ですか。なるほど」と帆村は病人であることを忘れたように、ひきしまった語調で呟(つぶや)いた。
「――で、もう一つの傷は?」
「もう一つの傷が、また妙なんだ。そいつは同じ右足の甲の上にある。非常に深い傷で、足の骨に切りこんでいる。もし足の甲の上にたいへんよく切れる鉞(まさかり)を落としたとしたら、あんな傷が出来やしないかと思う。傷跡は癒着(ゆちゃく)しているが、たいへん手当がよかったと見えて、実に見事に癒っている。一旦切れた骨が接合しているところを解剖で発見しなかったら、こうも大変な傷だとは思わなかったろう」
「その第二の傷は、いつ頃できたんでしょう」
「それはずっと近頃できたものらしいんだがハッキリしない。ハッキリしないわけは、手術があまりにうまく行っているからだ。そんなに見事な手術の腕を持っているのは、一体何処の誰だろうというので、問題になっておる」
 検事村松と傷つける青年探偵帆村壮六とが、事件の話に華を咲かせているその最中に、慌(あわ)ただしく受付の看護婦がとびこんできた。
「モシ、地方裁判所の村松さんと仰有(おっしゃ)るのは貴方さまですか」
「ああ、そうですよ。何ですか」
「いま住吉警察署からお電話でございます」
 検事はそのまま席を立って、室外へ出ていった。
 それから五分ほど経って、村松検事は帰ってきた。彼は帆村の顔を見ると、いきなり今の電話の話をした。
「いまネ、鴨下ドクトルの邸に、若い男女が訪ねてきたそうだ。ドクトルの身内のものだといっているが怪しい節(ふし)があるので、保護を加えてあるといっている。ちょっと行って見てくるからネ。いずれ又来るよ」
 そういい置いて、扉の向うに消えてゆく検事の後姿を、帆村は羨(うらや)ましそうに見送っていた。


   蠅男


 時間は、それより一時間ほど前の九時ごろのことだった。
 同じ住吉区(すみよしく)の天下茶屋(てんかぢゃや)三丁目に、ちかごろ近所の人の眼を奪っている分離派風の明るい洋館があった。
 太い御影石(みかげいし)の門柱には、「玉屋」とただ二字だけ彫ったブロンズの標札が埋めこんであったが、これぞいまラジオ受信機の製造で巨万の富を作ったといわれる玉屋総一郎の住宅だった。
 丁度(ちょうど)その九時ごろ、一台の大型の自動車が門内に滑りこんでいった。乗っていたのは、年のころ五十に近い相撲取のように巨大な体躯の持ち主――それこそこの邸の主人、玉屋総一郎その人だった。
 車が玄関に横づけになると、彼はインバネスの襟(えり)をだらしなく開けたまま、えっと懸け声をして下りたった。
「あ、お父つぁん」
 家の中からは、若い女の声がした。しかしこの声は、どうも少し慄(ふる)えているらしい。
「糸子か。すこし気を落ちつけたら、ええやないか」
「落ちつけいうたかて、これが落ちついていられますかいな。とにかく早よどないかしてやないと、うち気が変になってしまいますがな」
「なにを云うとるんや。嬰児(ややこ)みたよに、そないにギャアつきなや」
 総一郎はドンドン奥に入っていった。そして二階の自分の書斎の扉を鍵でガチャリと開けて、中へ入っていった。、そこは十五坪ほどある洋風の広間であり、この主人の好みらしい頗(すこぶ)る金の懸った、それでいて一向垢(あか)ぬけのしない家具調度で飾りたて、床には剥製(はくせい)の虎の皮が三枚も敷いてあり、長椅子にも、熊だの豹だのの皮が、まるで毛皮屋に行ったように並べてあった。
 玉屋総一郎は、大きな机の前にある別製の廻転椅子の上にドッカと腰を下ろした。そして彼は子供のように、その廻転椅子をギイギイいわせて、左右に身体をゆすぶった。それは彼の癖(くせ)だったのである。
「さあ、その――その手紙、ここへ持っといで」
 彼は呶鳴るようにいうと、娘の糸子は細い袂(たもと)の中から一通の黄色い封筒を取りだして、父親の前にさしだした。
「なんや、こんなもんか。――」
 総一郎は、封の切ってある封筒から、折り畳んだ新聞紙をひっぱり出し、それを拡げた。それは新聞紙を半分に切ったものだった。
「なんや、こんなもの。屑新聞やないか」
 彼は新聞をザッと見て、娘の方につきだした。
「新聞は分ってるけど、只の新聞と違うといいましたやろ。よう御覧。赤鉛筆で丸を入れてある文字を拾うてお読みやす」
「なに、この赤鉛筆で丸をつけたある字を拾い読みするのんか」
 総一郎は娘にいわれたとおり、上の方から順序を追って、下の方へだんだんと読んでいった。初めは馬鹿にしたような顔をしていたが、読んでいくにつれてだんだん六ヶ敷(むずかし)い顔になって、顔がカーッと赤くなったと思うと、そのうちに反対にサッと顔面から血が引いて蒼くなっていった。
「そら、どうや。お父つぁんかて、やっぱり愕いてでっしゃろ」
「うむ、こら脅迫状や。二十四時間以ないニ、ナんじの生命(いのち)ヲ取ル。ユイ言状を用意シテ置け。蠅男(はえおとこ)。――へえ、蠅男?」
「蠅男いうたら、お父つぁん、一体誰のことをいうとりまんの」
「そ、そんなこと、俺が知っとるもんか。全然知らんわ」
「お父つぁん。その新聞の中に、蠅の死骸が一匹入っとるの見やはった?」
「うえッ、蠅の死骸――そ、そんなもの見やへんがナ」
「そんなら封筒の中を見てちょうだい。はじめはなア、その『蠅男』とサインの下に、その蠅の死骸が貼りつけてあったんやしイ」
 総一郎は封筒を逆(さか)さにふってみた。すると娘の云ったとおり、机の上にポトンと蠅の死骸が一匹、落ちてきた。それはぺちゃんこになった乾枯(ひから)びた家蠅の死骸だった。そして不思議なことに、翅も六本の足も□(むし)りとられ、そればかりか下腹部が鋭利な刃物でグサリと斜めに切り取られている変な蠅の死骸だった。よくよく見れば、蠅の死骸と分るような、変った蠅の木乃伊(ミイラ)めいたものであった。
 この奇怪な蠅の死骸は、果して何を語るのであろうか。


   籠城(ろうじょう)準備


 ――二十四時間以ないニ、ナんじの生命ヲ取ル。ユイ言状を用意シテ置け。――
 それだけが、活字の上に赤鉛筆で丸が入れてある。
 ――蠅男――
 この二字だけは、不器用なゴム印の文字であって、インキは赤とも黒とも見えぬ妙な色で捺(お)してあった。
 更に、奇怪な翅や脚を□(むし)りとり、下腹部を半分に切ってある蠅の木乃伊(ミイラ)。――
 全く妙な通信文であるが、とにかく脅迫状に違いない。
「お父つぁん。きっと心当りがおますのやろ。隠さんと、うちに聞かせて――」
「阿呆いうな。蠅男――なんて一向知らへんし、第一、お父さんはナ、人様から恨みを受けるようなことはちょっともしたことないわ。ことに殺されるような、そんな仰山な恨みを、誰からも買うてえへんわ」
「本当やな。――本当ならええけれど」
「本当は本当やが、とにかくこれは脅迫状やから、警察へ届けとこう」
「ああ、それがよろしまんな。うち電話をかけまひょか」
「電話より、誰かに警察へ持たせてやろう。会社へ電話かけて、庶務の田辺に山ノ井に小松を、すぐ家へこい云うてんか」
 娘の糸子が電話をかけに行っている間に、邸内(ていない)の男たちが呼び集められた。玉屋総一郎は、ともかくも蠅男の襲撃を避けるため、自分の居間に引籠(ひきこも)る決心を定めた。それだからまず外部から蠅男の侵入してくるのを防ぐために、四つの硝子窓を内側から厳重に羽根蒲団とトタン板とでサンドウィッチのように重ねたもので蓋をし、釘づけにした。それでもまだ心配になると見え、窓のところへ、大きな書棚や戸棚をピタリと据えた。
「どうです、旦那はん。これでよろしまっしゃろか」
「うん、まあその辺やな」
「あとは、明(あ)いとるところ云うたら、天井にある空気孔(あな)だすが、あれはどないしまひょうか」
「あああの空気孔か」と、総一郎は白い天井の隅に、一升桝(ます)ぐらいの四角な穴が明いている空気抜きを見上げた。そこには天井の方から、重い鋳物(いもの)の格子蓋(こうしぶた)が嵌(は)めてあった。「さあ、まさかあれから大の男が入ってこられへんと思うが、――」
「さようですナ、あの格子の隙から入ってくるものやったら、まあ鼠か蚊か――それから蠅ぐらいなものだっしゃろナ」
「なに、蠅が入ってくる。ブルブルブル。蠅は鬼門(きもん)や。なんでもええ、あの空気孔に下から蓋(ふた)をはめてくれ」
「下から蓋をはめますんで……」
「出来んちゅうのか」
「いえ、まだ出来んいうとりまへん。いま考えます。ええ、こうっと、――」
 下僕(しもべ)たちが脳味噌を絞った挙句(あげく)、その四角な空気孔を、下から厚い紙で三重に目張りをしてしまった。
「さあ、これでもう大丈夫です。こうして置いたら蠅や蚊どころか、空気やって通ることが出来しまへん」
 総一郎は、それでも不安そうに天井を見上げた。
 そのうちに、会社からは田辺課長をはじめ山ノ井、小松などという選(え)りすぐりの用心棒が駈けつけた。総一郎はすこし生色をとりかえした。
 警察への使者には、田辺課長が立った。
 彼は新聞紙利用の脅迫状を、蠅の木乃伊(ミイラ)とともに提出し、主人の懇願(こんがん)の筋(すじ)をくりかえして伝えて、保護方(ほごかた)を頼んだ。
 署長の正木真之進(まさきしんのしん)は、そのとき丁度、鴨下ドクトル邸へ出かけていたので、留守居の警部補が電話で署長の指揮を仰いだ結果、悪戯(いたずら)にしても、とにかく物騒だというので、二名の警官が派遣されることになった。
 すると田辺はペコンと頭を下げ、
「モシ、費用の方は、玉屋の方でなんぼでも出して差支(さしつか)えおまへんのだすが、警官の方をもう三人ほど増しておもらい出来まへんやろか」
 というと、警部補はカッと目を剥き、
「阿呆かいな。お上(かみ)を何と思うてるねン」
 と、一発どやしつけた。
 脅迫状は、一名の刑事が持って、これを鴨下ドクトルの留守宅に屯(たむろ)している署長の許へとどけることになった。


   東京からの客


 そのころ鴨下ドクトルの留守宅では、屯(たむろ)していた警官隊が、不意に降って湧いたように玄関から訪れた若き男女を上にあげて、保護とは名ばかりの、辛辣(しんらつ)なる不審訊問(ふしんじんもん)を開始していた。
「お前は鴨下ドクトルの娘やいうが、名はなんというのか」
「カオルと申します」
 洋装の女は、年齢(とし)のころ、二十二、三であろうか。断髪をして、ドレスの上には、贅沢な貂(てん)の毛皮のコートを着ていた。すこぶる歯切れのいい東京弁だった。
「それから連れの男。お前は何者や」
「僕は上原山治(うえはらやまじ)といいます」
「上原山治か。そしてこの女との関係はどういう具合になっとるねん」
「フィアンセです」
「ええッ、フィなんとやらいったな。それァ何のこっちゃ」
「フィアンセ――これはフランス語ですが、つまり婚約者です」
「婚約者やいうのんか。なんや、つまり情夫(いろおとこ)のことやな」
「まあ、失礼な。――」と、女は蒼くなって叫んだ。
「まあ、そう怒らんかて、ええやないか。のう娘さん」
「警官だといっても、あまりに失礼だわ。それよか早く父に会わせて下さい。一体何事です。父のうちを、こんなに警官で固めて、なにかあったんですか。それなら早く云って下さい」
 署長は金ぶち眼鏡ごしに、ニヤニヤしながらカオルの様子を眺めていた。部下の一人が近づいてソッと署長に耳うちをしていった。村松検事が間もなく到着するという電話があったことを返事したのであった。
「――娘さん。鴨下ドクトルから、二、三日うちに当地へ来いという手紙が来たという話やが、それは何日の日附(ひづけ)やったか、覚えているか」
「覚えていますとも。それは十一月二十九日の日附です」
「へえ、二十九日か」署長は首をかしげ「そらおかしい。ドクトルは三十日に、当分旅行をするという札を玄関にかけて、この邸を留守にしたんや。旅行の前日の手紙で、二、三日うちに大阪へ来いといって置いて、その翌日に旅行に出るちゅうのは、怪(け)ったいなことやないか。そんな手紙貰うたなどと、お前はさっきから嘘をついているのやろう」
「まあひどい方。わたしが嘘を云ったなどと――」
「そんなら、なんで手紙を持って来なんだんや。この邸へ入りこもうと思うて、警官に見つかり、ドクトルの娘でございますなどと嘘をついて本官等をたぶらかそうと思うたのやろが、どうや、図星(すぼし)やろ、恐れいったか。――」
 女は身を慄(ふる)わせて、署長に打ってかかろうとした。青年上原は慌(あわ)ててそれを止め、
「――警官たちも、取調べるのが役目なんだろうが、もっと素直に物を云ったらどうです」
「なにをッ――」
 そういっているところに、村松検事の到着が表から知らされた。
 正木署長は席を立って、検事を玄関に迎えに出た。一伍一什(いちぶしじゅう)を報告したあとで、
「――どうも怪しい女ですなア。あの変り者の鴨下ドクトルに娘があるというのも、ちと妙な話ですし、それに娘のところへ二、三日うちに出てこい云うて、二十九日附で手紙を出しておきながら、翌三十日から旅行するちゅうて出かけ、そして今日になってもドクトルは帰ってきよらしまへん。ドクトルが娘に手紙出したちゅうのは、ありゃ嘘ですな」
 と、自信あり気(げ)な口調で、検事に説明をした。検事はそうかそうかと肯(うなず)いた。
 二階に設けた仮調室に現われた検事は、カオルと名のる女をさしまねき、
「貴女は鴨下ドクトルの娘さんだそうだが、たびたびこの家へ来るのかネ」
 と尋ねた。
 カオルは、新しく現われた調べ手に、やや顔を硬ばらせながら、
「いいえ、物心ついて、今夜が初めてなんですのよ」
「ふうむ。それは又どういうわけです」
「父はあたくしの幼いときに、東京へ預けたのです。はじめは音信も不通でしたが、この二、三年来、手紙を呉れるようになり、そしてこんどはいよいよ会いたいから大阪へ来るようにと申してまいりました。父はどうしたのでしょう。あたくし気がかりでなりませんわ」
「いや尤(もっと)もです。実はネ――」と検事はカオルの顔を注意深く見つめ「実は――愕(おどろ)いてはいけません――お父さんは三十日に旅行をされ、未(いま)だに帰って来ないのです。そしておまけに、この家のうちに何者とも知れぬ焼屍体(しょうしたい)があるのです」
「まあ、父が留守中に、そんなことが出来ていたんですか。ああそれで解りましたわ。警官の方が集っていらっしゃるのが……」
「貴女はお父さんがこの家に帰ってくると思いますか」
「ええ勿論、そう思いますわ。――なぜそんなことをお聞きになるの」
「いや、私はそうは思わない。お父さんはもう帰って来ないでしょうネ」
「あら、どうしてそんな――」
「だって解るでしょう。お父さんには、貴女との固い約束を破って旅に出るような特殊事情があったのです。そして留守の屋内の暖炉(ストーブ)の中に一個の焼屍体(しょうしたい)が残っていた」
 村松検事はそう云って、女の顔を凝視(ぎょうし)した。


   二つの殺人宣告書(せんこくしょ)


「あッ」とカオルは愕きの声をあげた。「するともしや、父が殺人をして逃亡したとでも仰有(おっしゃ)るのですか」
「まだそうは云いきっていません。――一体お父さんは、この家でどんな仕事をしていたか御存じですか」
「わたくしもよくは存じません。ただ手紙のなかには、(自分の研究もやっと一段落つきそうだ)という簡単な文句がありました」
「研究というと、どういう風な研究ですか」
「さあ、それは存じませんわ」
「この家を調べてみると、医書だの、手術の道具などが多いのですよ」
「ああそれで皆さんは父のことをドクトルと仰有るのですね」
 女はすこし誇らしげに、わずかに笑った。
 そのとき正木署長が、検事の傍へすりよった。
「ええ、……緊急の事件で、ちょっとお耳に入れて置きたいことがありますんですが、いま先方から電話がありましたんで……」
「なんだい、それは――」
 廊下へ出ると署長は低声(こごえ)で、富豪玉屋総一郎氏が今夜「蠅男」に生命を狙われていることを報告し、只今それについて玉屋から、どうも警察の護衛が親切でないから、司法大臣に上申するといってきた顛末(てんまつ)を伝えた。
 村松検事は署長に、その脅迫状を持っているなら見せるように云った。
 署長は、お安い御用といいながら、ポケットを探ったが、どうしたものか先刻預って確かにポケットに入れたはずの封筒が、何処へ落としたか見当らないのであった。
「どうしたんやろなア、確かにポケットに入れとったのじゃが――ひょっとすると階下(した)の大広間へ忘れてきたのかしらん。検事さん、ちょっとみてきます」
 署長があたふたと階下(した)へ下りていく後を、村松検事は追いかけるようにして、大広間の方へついていった。焼屍体のあった大広間は、監視の警官が一人ついたまま、気味のわるいほどガランとしていた。
 警官の挙手の礼をうけて、室内に入った署長は、そのとき室内に、異様の風体の人間が、火の消えた暖炉(ストーブ)の傍にすりよって、後向きでなにかしているのを発見して、呀(あ)ッと愕いた。全く異様な風体の人間だった。和服を着て素足の男なんだが、上には警官のオーバーを羽織り、頸のところには手拭を捲きつけているのだった。頭髪は蓬(よもぎ)のようにぼうぼうだ。
「コラッ誰やッ」署長は背後から飛びつきざま、その男の肩をギュッと掴んだ。
「うわッ、アイテテテ……」
 異様な風体の男は、顔をしかめて、三尺も上に飛びあがったように思われた。
「何者や、貴様は――」
 と、獣のように大きな悲鳴をあげた怪人に、却(かえ)って愕かされた署長は、興奮して居丈高(いたけだか)に呶鳴った。
「いや正木署長、その男なら分っているよ」いつの間に入ってきたか、村松検事がおかしそうに署長を制した。「それは私の知合いで帆村(ほむら)という探偵だ」
「ああ帆村さん。この怪(け)ったいな人物が――」
「うむ怪しむのも無理はない。彼は病院から脱走するのが得意な男でネ」
 帆村は肩が痛むので左腕を釣っていた。大きな痛みがやっと鎮まるのを待って、怺(こら)えかねたように口を利いた。
「――まあ怒るのは後にして頂いて、これをごらんなさい、重大な発見だ」
 そういってさし伸べた彼の右手には、同じ色と形とを持った二枚の黄色い封筒があった。
「あッ、これは玉屋氏に出した蠅男の脅迫状や。あんた、どこでそれを――」
「まあ待ってください。
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