恐怖の口笛
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著者名:海野十三 

「うわーッ、赤星ジュリアだ!」
「われらのプリ・マドンナ、ジュリアのために乾杯だ!」
「うわーッ」
 その声に迎えられて、真黒な帛地(きぬじ)に銀色の装飾をあしらった夜会服を着た赤星ジュリアが、明るいスポット・ライトの中へ飛びこむようにして現われた。
 そこでジュリアの得意の独唱が始まった。客席はすっかり静まりかえって、ジュリアの鈴を転ばすような美しい歌声だけが、キャバレーの高い天井を揺(ゆ)すった。
「どうもあの正面の円柱が影をつくっているあたりが気に入りませんな」
 と大江山捜査課長が隣席の雁金検事にソッと囁いた。
「そうですな。私はまた、顔を半分隠している客がないかと気をつけているんだが、見当りませんね。痣蟹は顔半面にある痣を何とかして隠して現われない限り、警官に見破られてしまいますからな」
「イヤそれなら、命令を出して十分注意させてあります」
 ジュリアの独唱のいくつかが終って、ちょっと休憩となった。嵐のような拍手を背にして彼女がひっこむと、客席はまた元の明るさにかえって、ジャズが軽快な間奏楽を奏しはじめた。警官隊はホッとした。
「きょうは貴下の御親友である名探偵青竜王は現われないのですか」
 と大江山は莨(たばこ)に火を点(つ)けながら、雁金検事に尋ねた。
「さあ、どうですかな。先生この頃なにか忙しいらしく、一向出てこないです。しかし今夜のことを知っていれば、どこかに来てるかも知れませんな」
 覆面の名探偵は、検事の親友だった。覆面の下の素顔を知っているものは、少数の検察官に止まっていた。青竜王に云わせると、探偵は素顔を事件の依頼者の前でも犯人の前でも曝(さら)すことをなるべく避けるべきであるという。だから一度雑誌に出た彼の素顔の写真というのがあったが、あれももちろん他人の肖像だったのである。
 再び、トランペットの勇ましい音が始まって、客席の灯火(あかり)はまたもや薄くなった。いよいよこんどこそは、痣蟹が現れるだろう。
「もう十一時に五分前です」
 課長は卓子(テーブル)の下で、拳銃(ピストル)の安全装置を外した。
 検察官一行の緊張を余所(よそ)に、客席ではまた嵐のような拍手が起った。美しい光の円錐の中に、ジュリアを始め三人の舞姫たちが、絢爛(けんらん)目を奪うような扮装して登場したのであったから。カスタネットがカラカラと鳴りだした。一座の得意な出しもの「赤い苺の実」のメロディが響いてくる。……
「こいつはいかんじゃないですか。三人の女優が、みな覆面をしとる」
 と雁金検事が隣席の大江山課長に囁いた。
「これは舞台でもこの通りやるんです。それに真逆(まさか)痣蟹があの美しい女優に化けているとは思いませんが……」
「だが見給え。この夜の十一時という問題の時刻に、女優にしろ、あのような覆面が出てくるのはよくないと思いますよ。それにあの長い衣裳は、女優の頤と頸のあたりと、手首だけを出しているだけで、殆んど全身を包んでいますよ。よくない傾向です」
「じゃあ命じて女優の覆面を取らせましょうか」
 そういった瞬間だった。予告なしに、突然室内の灯火(あかり)が一せいに消えて、真暗闇となった。客席からはワーッという叫びがあがった。そのとき出口の闇の中から、大きな声で呶鳴(どな)る者があった。
「皆さん、われ等は警官隊です、危険ですから、すぐに卓子(テーブル)の下に潜って下さアい!」
 その声が終るが早いか、叫喚(きょうかん)と共に卓子と椅子とがぶつかったり、転ったりする音が喧しく響いた。
(なにかこれは大事件だ!)
 客の酔いは一時に醒めてしまった。
 すると、こんどは騒ぎを莫迦(ばか)にしたようにパーッと室内の電灯が煌々(こうこう)とついた。
 室内の風景はすっかり変っていた。客の多くは卓子(テーブル)の下に潜りこみ、ただすっかり酔っぱらって動けない連中が椅子の上にダラリとよりかかっていた。出口にはどこから現れたのか、武装した三十名ほどの警官隊がズラリと拳銃(ピストル)を擬(ぎ)して鉄壁(てっぺき)のように並んでいる。
「頭を出すと危い!」
 警官が注意した。
「あッはッはッはッ」
 思いがけない高らかな哄笑(こうしょう)が、円柱の影から聞えた。
 素破(すわ)! 雁金検事も大江山課長も、卓子を小楯(こだて)にとって、無気味な哄笑のする方を注視した。
 正面の太い円柱の陰から、蝙蝠(こうもり)のようにヒラリと空虚な舞台へ飛び出したものがあった。皮革(かわ)で作ったような、黄色い奇妙な服を着た痩せこけた男だった。グッと出口の警官隊を睨みつけたその顔の醜怪さは、なにに喩(たと)えようもなかった。左半面には物凄い蟹の形の大痣がアリアリと認められた。ああ、遂に痣蟹が現れたのだ!


   意外な犠牲(ぎせい)


 待ちに待たれていた大胆不敵な挑戦状の主は、とうとう皆の前に姿を現わしたのだった。怪賊痣蟹は二た目と見られない醜悪な面をわざと隠そうともせず、キッと武装警官隊の方を睨(にら)みつけた。
 武装隊を指揮しているのは金剛(こんごう)部長だったが、ヌックと立って部下に号令した。
「あの怪物がすこしでも動いたら、撃ち殺してしまえッ」
 痣蟹はそれを聴くと、薄い唇をギュッと曲げて冷笑した。そして突然、背後(うしろ)に隠しもった彼の手慣れた武器をとりだした。それは恐るべき軽機関銃だった。彼が和蘭(オランダ)にいたとき、そこの秘密武器工場に注文して特に作らせたという精巧なものだった。――その機関銃の銃口(つつ)が、警官たちの胸元を覘(ねら)った。
「急ぎ撃てッ」
 武装隊長は咄嗟(とっさ)に射撃号令をかけた。
 ドドーン。ドドーン。
 カタ、カタ、カタ、カタ。
 どっちが先へ撃ちだしたのか分らなかった。忽(たちま)ち室内の電灯はサッと消えて、暗黒となった。阿鼻叫喚(あびきょうかん)の声、器物の壊れる音――その中に嵐のように荒れ狂う銃声があった。正面と出口とに相対峙(あいたいじ)して、パッパッパッと真紅な焔が物凄く閃(ひらめ)いた。猛烈な射撃戦が始まったのだ。
 警官隊は銃丸(たま)を浴びながら、ひるまず屈せず、勇敢に闘った。前方に火竜が火を噴いているような真赤な火の塊の陰に痣蟹がいる筈だった。それを目標に、拳銃(ピストル)の弾丸(たま)の続くかぎり覘いうった。ときどき警官たちは胸のあたりを丸太ン棒で擲(なぐ)りつけられたように感じた。それは防弾衣に痣蟹の放った銃丸が命中したときのことだった。防弾チョッキがなかったら、彼等はとうの昔に、全身蜂の巣のように穴が明いてしまったであろう。
 だが軽機関銃の偉力は素晴らしかった。物凄い速さで飛びだしてくる銃丸は、大部分防弾衣で防ぎとめられはしたものの、だんだんに防弾鋼の当っていない肘(ひじ)を掠(かす)めたり手首に流れ当ったりして、さすがの警官隊もすこしひるみ始めた。卓子(テーブル)の陰から、眼ばかり出してこの猛烈な暗黒中の射撃戦を凝視していた雁金検事や大江山捜査課長などの首脳部一行は、早くも味方の旗色の悪いのを見てとった。
「大江山君、この儘(まま)じゃあ危いぞ。警官隊に突撃しろと号令してはどうだ」
「突撃したいところですが、駄目です。卓子だの椅子だの人間だのが転がっていて、邪魔をしているから突撃できません」
「でもこのままでは……」と検事は悲痛な言葉をのんだ。
 と、そのときだった。誰か、検事の腕をひっぱる者があった。
「雁金さん、雁金さん――」
「おう、誰だッ」
「落付いて下さいよ、僕です。分りませんか」
「ナニ……そういう声は」
 と雁金検事は相手の男の腕をグイと握ってひきよせて、低声(こごえ)で囁(ささや)いた。
「――青竜王だナ」
 青竜王! それはかねて雁金検事の親友として名の高い覆面探偵青竜王だったのである。どうしたわけか、このところ十日ほど、所在の不明だった探偵王だった。彼のところへやった通信が届いて、このキャバレーへやってきたものらしい。
 青竜王は闇の中で雁金検事と何事かを低声(こごえ)で囁きあった。その揚句(あげく)、話がすんだと見えて、
「じゃ、しっかり頼むぞ」
 という検事の激励の言葉とともに、青竜王はコソコソとまた闇の中に紛れこんでしまった。――検事はこんどは大江山課長を引きよせると、何かを耳打ちした。
「よろしい。命令しましょう」
 課長はそういって、卓子(テーブル)の陰から匍(は)いだした。彼は銃丸(たま)の中をくぐりぬけながら、力戦している警官隊の方へ進んでいった。
 間もなく何か号令が発せられて、武装警官隊の射撃は更に猛烈になった。天井から何かガラガラと墜(お)ちてくる物凄い音がした。
「前面(まえ)を注視していろ!」
 隊長が叫んでいる――
 と、正面に怪物のように火を吐いていた痣蟹の軽機関銃が、どうしたものか急に目標を変えた。ダダダダダッと銃丸(たま)は天井に向けられ、シャンデリアに当って、硝子(ガラス)の砕片がバラバラと墜ちてきた。
「おや?」と思う間もなく、ワッという悲鳴が聞えて、いままで呻(うな)りつづけていた機関銃の音がハタと停った。そしてドサリという重い機械が床上に叩きつけられる音がした。――これは勇敢な青竜王が、ひそかに痣蟹の背後(うしろ)にまわり、機関銃を叩き落したのだった。痣蟹は正面から警察隊の猛射を受けていたので、その撃退に夢中になっていたところをやっつけられたのであった。しかし本当は警官隊は猛射をしていたことに違いないけれど、天井ばかり撃っていたのであった。それは突入した青竜王に怪我をさせることなく、しかも痣蟹を牽制(けんせい)するためだった。すべては名探偵青竜王の策戦だったのである。
 気味のわるい機関銃の響がハタと停った。警官隊の激しい銃声もいつの間にか熄(や)んでいた。暗黒の室内は、ほんの数秒であったが、一転して墓場のような静寂が訪れた。
「灯りを、灯りを……」
 青竜王の呶鳴る声がした。
 それッというので、室内の電灯スイッチをひねったが、カチリと音がしただけで、電灯はつかなかった。警官たちは懐中電灯を探ったが、いまの騒ぎのうちに壊れてしまったものが多かった。それでも二つ三つの光芒(こうぼう)が、暗黒の室内を慌(あわ)ただしく閃(ひらめ)いたが、青竜王に近づいたと思う間もなく、ピシンと叩き消されてしまった。暗黒のなかには、物凄い呻(うな)り声を交えて、不気味な格闘が行われていることだけが分った。
 警官隊は、倒れた卓子や、逃(に)げ惑(まど)っているキャバレーの客たちを踏み越え掻き分けて、呻り声のする方へ近づいていった。が、また捲き起る混乱のために、その呻り声がどこかへ行ってしまった。
「どこにいるのだ、青竜王!」
「青竜王、声を出して下さーい!」
 雁金検事たちは、大声で探偵の名を呼んだが、その応答は聞こえなかった。
「オーイ皆、ちょっと静かにせんかッ」
 大江山課長が破(わ)れ鐘(がね)のような声で呶鳴った。
 その声が皆の耳に達したものか、一座はシーンとした。
「オイ、青竜王、どこにいるのだッ」
 検事は暗黒の中に再び呼んだ。――
 だが、誰も応(こた)えるものはなかった。一同は闇の中に高く動悸(どうき)のうつ銘々(めいめい)の心臓を感じた。
(どうしたのだろう?)
 そのとき正面と思われる方向の闇の中から軽い口笛の音が聞えだした。
「あたしの大好きな
 真紅な苺の実
 とうとう見付かった
 おお――
 あなたの胸の中……」
 ああ、いま流行の『赤い苺の実』の歌だ。竜宮劇場のプリ・マドンナ赤星ジュリアの得意の歌だった。――
「こら、誰だ。――」と大江山課長は叫んだ。「こんなときに呑気(のんき)に口笛を吹く奴は、あとで厳罰に処するぞ」
 呑気な口笛――と捜査課長は云ったけれど、それは決して呑気とは響かなかった。なぜなら口笛は、警官の制止の声にも応じないで、平然と吹き鳴っていた。墓場のような暗黒と静寂の中に……。
「こら、止(や)めんか。止めないと――」
 と大江山課長が火のようになって暗がりの中を進みいでたとき、呀(あ)ッという間もなく、足許に転がっている大きなものに突当り、イヤというほど足首をねじった。その途端に、足許に転がっていたものが解けるようにムクムクと起き上って、激しい怒声と共に格闘を始めたから、捜査課長は胆(きも)を潰(つぶ)してハッと後方(うしろ)へ下った。
「青竜王はここにいるぞッ」と格闘の塊(かたまり)の中から思いがけない声が聞えた。
「なにッ」
「痣蟹を早く押(おさ)えて――」
 雁金検事はその声に活路を見出した。
「明りだ、明りだ。明りを早く持ってこい」出口の方から、やっと手提電灯(てさげでんとう)が二つ三つ入ってきた。
「そっちだ、そっちだ」
 すると正面の太い円柱のあたりで、ひどく物の衝突する音が聞えた。それから獣のような怒号が聞えた。
「捕(とら)えた捕えた。明りを早く早く」
 それッというので、手提電灯が束になって飛んでいった。
「痣蟹、もう観念しろッ」
 まだバタバタと格闘の音が聞えた。するとそのときどうした調子だったか、室内の電灯がパッと点いた。射撃戦に被害をのがれた半数ほどの電灯が一時に明るく点いた。――人々は悪夢から醒めたようにお互いの顔を見合わせた。
「痣蟹はここにいますぞオ」
 それは先刻(さっき)から、暗闇の中に響いていた青竜王の声に違いなかった。警官隊もキャバレーの客も、言いあわせたようにサッとその声のする方をふり向いた。おお、それこそ覆面の名探偵青竜王なのだ。
「とうとう掴(つかま)えたかね」
 と検事は悦(よろこ)びの声をあげて、青竜王に近づいた。
「青竜王!」
 人々はそこで始めて、覆面の名探偵を見たのであった。彼はスラリとした長身で、その骨組はまるでシェパードのように剽悍(ひょうかん)に見えた。ただ彼はいつものように眼から下の半面を覆面し、鳥打帽の下からギョロリと光る二つの眼だけを見せていた。
「さあこの柱の根元をごらんなさい。ここに見えるのが痣蟹の左足です。またこっちに挟(はさま)っているのが彼の黄色い皮製の服です。始め痣蟹は、人知れずこの仕掛けのある柱から忍び出たのですが、いま再びこの仕掛け柱へ飛びこんでここから逃げようとしたのが運の尽きで、自ら廻転柱に挟まれてしまったんです。もう大丈夫です」
 なるほどこの円柱は廻転するらしく、合(あわ)せ目(め)があった。そして根元に近く、黄色い皮服と、変な形の左足の靴とがピョンと食(は)みだしていた。
 大江山捜査課長は飛びあがるほど悦んだ。
「さあ、早くあの足を持って、痣蟹を引張りだせ!」
 と命令した。
 多勢(おおぜい)の警官たちはワッとばかりに柱の方へ飛びつくと、痣蟹の足を持ってエンヤエンヤと引張った。また別の警官は、黄色い皮服を引張った。――だが暫くすると、警官たちは云いあわせたように、呀(あ)ッと悲鳴をあげると、将棋だおしに、後方(うしろ)へひっくりかえった。そして彼等の頭上に、途中から切断した皮服と左の長靴とがクルクルと廻ったかと思うと、ドッと下に落ちてきた。
「なアんだ、服と靴とだけじゃないか」
 と捜査課長は叫んだ。
「ウーム」
 と流石(さすが)の覆面探偵も呻った。痣蟹に一杯喰わされたという形であった。
 そのときであった。警官の一人が、顔色をかえて、捜査課長の前にとんできた。
「た、大変です、課長さん、あの舞台横の柱の陰に、一人のお客が殺されています」
「なんだ、いまの機関銃か拳銃(ピストル)でやられたのだろう」
「そうじゃありません。その方の怪我人は片づけましたが、私の発見したそのお客の屍体は惨(むご)たらしく咽喉笛を喰い破られています。きっとこれは、例の吸血鬼にやられたんです。そうに違いありません」
「ナニ、吸血鬼にやられた死骸が発見されたというのか」
「そういえば、先刻(さっき)暗闇の中で『赤い苺の実』の口笛を吹いていたものがあった……」
 人々は驚きのあまり顔を見合(みあわ)せるばかりだった。
 果してこれは痣蟹の仕業だろうか。それなれば検察官や覆面探偵はまんまとここまで誘(おび)きだされたばかりでなく、吸血の屍体をもって、拭(ぬぐ)っても拭い切れない侮辱を与えられたわけだった。
 自分は吸血鬼でないという痣蟹の宣言が本当か、それとも今夜のこの惨劇が、皮肉な自白なのであろうか。
 赤星ジュリアは無事に引きあげたろうか。覆面の名探偵青竜王は雪辱(せつじょく)の決意に燃えて、いかなる活躍を始めようとするのか。
 そのうちに、どこからともなく、あの「恐怖の口笛」が響いてくるような気配がする。
 吸血鬼の正体は、そも何者ぞ!


   怪しい図面(ずめん)


 大胆不敵の兇賊(きょうぞく)痣蟹仙斎(あざがにせんさい)が隠れ柱の中に逃げこもうとするのを、素早く覆面探偵青竜王がムズと掴(つかま)えたと思ったが、引張りだしてみると何のこと、痣蟹の左足の長靴と、そして洋服の裂けた一部とだけで痣蟹の身体はそこに見当らなかったではないか。これには痣蟹就縛(しゅうばく)に大悦(おおよろこ)びだった雁金検事や大江山捜査課長をはじめ検察官一行は、網の中の大魚を逃がしたように落胆した。
 しかし痣蟹はまだそんなに遠くには逃げていない筈だった。総指揮官の雁金検事は逡(たじ)ろぐ気色もなく直ちに現場附近の捜査を命じたのだった。警官隊はキャバレー・エトワールの屋外と屋内、それから痣蟹の逃げこんだ隠れ柱との三方に分れて、懸命の大捜査を始めたのだった。
「おお、青竜王は何処へいったのか」
 と、雁金検事は始めて気がついた様子で左右を見廻わした。
「青竜王?」
 検事につきそっていた首脳部の人たちも同じように左右を顧(かえり)みた。だが彼の姿はどこにも見えなかった。
「さっきまでその辺にいたんだが、見えませんよ」と大江山課長は云った。
「また何処かへとびだしていったんだろう」
「イヤ雁金検事どの」課長は改まった口調で呼びかけた。「貴官(あなた)はあの青竜王のことをたいへん信用していらっしゃるようですが、私はどうもそれが分りかねるんです」
 と、暗に覆面探偵を疑っているらしいような口ぶりを示した。
「はッはッはッ。あの男なら大丈夫だよ」
「そうですかしら。――そう仰有(おっしゃ)るなら申しますが、さっき暗闇の格闘中のことですが、いくら呼んでも返事をしなかったですよ。そして唯、あの『赤い苺の実』の口笛が聞えてきました。それから暫くすると、急に青竜王の声で(痣蟹はここにいますぞオ)と喚(わめ)きだしたではありませんか。その間(かん)、彼は何をしていたのでしょう。なにしろ暗闇の中です。何をしたって分りゃしません」
 人殺しだって出来るとも云いかねない課長の言葉つきだった。
「あれは君、青竜王のやつが痣蟹に組み敷かれていたんで、それで声が出せなかったのだろう。それをやッと跳ねかえすことが出来て、それで始めて喚いたのだと思うよ」
「そうですかねえ。――第一私は青竜王のあの覆面が気に入らないのです。向こうも取ると都合が悪いのでしょうが、私たちは捜査中気になって仕方がありません。あの覆面をとらない間、青竜王のやることは何ごとによらず信用ができないとさえ思っているのです」
「それは君、思いすぎだと思うネ」
 と検事は困ったような顔をして大江山捜査課長の顔を見た。
「ですから私は――」と課長は勝手に先を喋(しゃべ)った。「あの柱に服の裂けた一片と靴とが挟まっていましたが、あれは痣蟹が逃げこんだのではなくて、予(あらかじ)め痣蟹が用意しておいた二つを柱に挟んで、その中へ逃げたものと見せかけ、自分は覆面をして誰に見られても解るその痣を隠し、青竜王だと云っているかもしれないと思うのです」
「はッはッはッ。君は青竜王が覆面をとれば痣蟹だというのだネ。いやそれは面白い。はッはッはッ」
「私は何事でも、疑わしいものは証拠を見ないと安心しないのです。またそれで今日捜査課長の席を汚さないでいるんですから……」
「じゃ仕方がないよ。僕の身元引受けが役に立たぬと思ったら遠慮なく彼の覆面を外(はず)してみたまえ、僕は一向構わないから」
「イヤそういうわけではありませんが……。しかし今夜はもう青竜王は出て来ませんよ。彼は逃げだせば、それでもう目的を達したんですから」
 流石(さすが)は捜査課長だけあって、誰も考えつかないような疑点を示したのだった。だがそのときだった。例の隠れ柱が音もなくパックリと口を開き、その中から飛びだしてきたのが誰あろう、覆面の探偵だったから、気の毒な次第だった。
「うむ――」
 と捜査課長は驚きのあまり、思わず呻(うな)った。
 青竜王は検事たちの姿をみつけると、ズカズカと走りよった。
「雁金さん。痣蟹の逃げ路が、とうとう分りましたよ。このキャバレーの縁(えん)の下を通って、地階の物置の中へ抜けられるんです。そこからはすぐ表へとびだせます。貴方(あなた)の号令がうまくいっていないのか、その物置の前には警官が一名も立っていないので、うまく逃げられた形ですよ」
「ナニこの柱から物置へ抜けて、表へ逃げちまったって」
 検事は肯(うなず)きながら大江山課長の方を向いて「そんな逃げ路のあることを何故前もって調べておかなかったのかネ、君。早速(さっそく)キャバレーの主人を呼んできたまえ」
「はア――」
 課長は面目ない顔をして、部下にキャバレーの主人を引張ってくることを命じた。
 間もなく、奥から身体の大きなキチンとしたタキシードをつけた男が現れた。彼はどことなく日本人離れがしていた。それも道理だった。彼はオトー・ポントスと名乗るギリシア人だったから。
「わたくし、ここの主人、オトーでございます。――」
 西洋人の年齢はよくわからないが、見たところ三十を二つ三つ過ぎたと思われるオトー・ポントスはニコやかに揉(も)み手(で)をしながら、六尺に近い巨体をちょっと屈(かが)めて挨拶(あいさつ)をした。
「君が主人かネ」と検事はすこし駭(おどろ)きの色を示しながら「怪しからん構造物があるじゃないか。この円柱(まるばしら)が二つに割れたり、それから中に階段があったり、物置に抜けられたり、一体これは如何(いか)なる目的かネ」
「それはわたくし、知りません。この仕掛はこの建物をわたくし買った前から有りました」
「ナニ前からこの仕掛があった? 誰から買ったのかネ」
「ブローカーから買いました。ブローカーの名前、控(ひか)えてありますから、お知らせします」
「うむ、大江山君。そのブローカーを調べて、本当の持ち主をつきとめるんだ。――それはいいとして何故こんな抜け路をそのままにして置いたのかネ。何故痣蟹に知らせて、利用させたのだ」
「わたくし痣蟹と称(よ)ぶミスター北見仙斎(きたみせんさい)を信用していました。あの人、わたくし故国(くに)ギリシアから信用ある紹介状もってきました」
「ギリシアから紹介状をもってきたって。ほほう、痣蟹はギリシアに隠れていたんだな。イヤよろしい。君にはゆっくり話を聞くことにしよう。しかしもし痣蟹から電話でも手紙でも来たら、すぐ本庁へ知らせるのだ。いいかネ。忘れてはいけない」
「よく分りました」
 そこでオトー・ポントスはまた恭(うやうや)しげに敬礼をして下(さが)ろうとしたとき、
「ああ、ちょっと待って下さい」
 と声を掛けた者があった。それは先刻(さっき)から痣蟹の遺留(いりゅう)した品物をひねくりながら、この場の話に耳を傾けていた覆面探偵(ふくめんたんてい)青竜王(せいりゅうおう)だった。
「ポントスさん。これは貴方のものではありませんかネ」
 といって、青竜王は何か小さい紙片(しへん)を見せた。キャバレーの主人はそれを手にとってみたが、それは何か建築図の断片らしく、壁体(へきたい)だの階段だの奇妙な小室(しょうしつ)だのの符合が並んでいたが、生憎(あいにく)ごく端(はし)の方だけを切取ったものらしく、何を示してある図か、この断片(だんぺん)だけでは分らなかった。
「これ、何ですか。とにかく、わたくしのでは有りません」
 ポントスは腑(ふ)に落ちぬ顔をして、紙片を青竜王に返した。
「もう一つ、お尋ねしますが、赤星ジュリアは昨夜(ゆうべ)ここへ来たのが始めてですか」
「いえ、たびたび来て、歌わせました。もう七、八回も頼みました」
「たいへん御贔屓(ごひいき)のようですね」
「そうです。ジュリア歌う――お客さま悦びます。わたくしも悦びます。なかなかよい金儲(かねもう)けできますから、はッはッはッ」
 ポントスは露骨な笑いを残して出てゆくと、大江山捜査課長は青竜王の腕をムズと捉(とら)えた。
「いまの建築図のようなものを出し給え。君はそれを何時(いつ)の間にどこから手に入れたんだい」
 青竜王は課長の手を静かに払いながら、
「これですか。これを御存知なかったんですネ。なアに、痣蟹の裂けた洋服の裏に縫いつけてあったんですよ」と事もなげに云うと、その紙片を恭しく差し出しながら「では確かに貴方様にお手渡しいたしますよ」
 不可解なる紙片! 一体それはいかなる秘密を物語るものであろうか。


   消えた屍体(したい)


 何のためか十日間あまり、事務所を留守にしていた青竜王は、キャバレー・エトワール事件の次の日の昼ごろ、ブラリと探偵事務所に姿を現わしたのだった。覆面探偵の帰還(きかん)!
 その気配(けはい)を知って、奥から飛ぶように出て来たのは勇敢な少年探偵勇だった。
「ああ。青竜王(せんせい)。――僕は今日きっと青竜王(せんせい)が帰って来ると思ったんです」
 といって、相(あい)も変らず頭部にはピッタリ合った黒い頭巾(ずきん)を被(かぶ)り、眼から下を三角帛(さんかくぎぬ)で隠した覆面探偵を迎えたのだった。探偵は少年の肩を両手で優しく叩いた。
「昨夜(ゆうべ)は青竜王(せんせい)、素敵でしたネ。だけど、もう僕たちを呼んで下さるかと思っていたのに、ちっとも呼んで下さらないので、ガッカリしちゃった」
「勇君も大辻も来ていたのは知っていたが、昨夜の事件は危くて、手伝わせたくなかったのだよ」
「その代り僕は、いろいろな土産話(みやげばなし)を青竜王(せんせい)にあげるつもりですよ。昨夜(ゆうべ)舞台下で殺された男ネ、あれは竜宮劇場に毎日のように通っていた小室静也(こむろしずや)という伊達男(だておとこ)ですよ。いつも舞台に一番近いところにいて、ジュリアが出ると誰よりも先にパチパチ拍手を送るイヤナ奴ですよ。あの男のことは、竜宮劇場のファンなら誰でも知っていますよ」
「ああ、そうだったのか。それはいいことを聞いた」
「あの伊達男小室の咽喉(のど)にあった凄(すご)い切傷も、この前、日比谷公園で殺された学生の咽喉の傷も、どっちも同じことですね。つまりどっちも吸血鬼(きゅうけつき)がやったんですよ」
「うむ」と青竜王はちょっと眼を輝やかせたが、すぐ元の温和(おとな)しい彼に帰った。「そうだ、その日比谷公園の話を詳しく君にして貰おうかな」
 そこで勇少年は、前日(ぜんじつ)黄昏(たそがれ)の日比谷公園でみた惨劇(さんげき)について知っていることをすべて語った。青龍王は曲(まが)ったパイプで刻(きざ)み煙草(たばこ)をうまそうに吸いながらじっとそれに耳を傾けていた。
「すると勇君の説によると、はじめ五月躑躅(さつき)の陰で恋人の少女と楽しく語っていた。その話半(なか)ばに、少女は何か用事ができて、学生を残したまま出ていった。吸血鬼は学生が独(ひと)りになったところを見澄(みす)まして、背後(うしろ)から咽喉を絞め、つづいて咽喉笛をザクリとやって血を吸ったというのだネ」
「その通りですよ、青竜王(せんせい)」
「それから、その恋人の少女は現場へ帰って来たかネ」
「いいえ」勇少年は頭を振って「僕はそれを考えて、長いこと待っていたんだけれど、とうとう帰って来なかったんです」
「それは可笑(おか)しいネ。今の話なら、必ず帰って来る筈だと思うがネ。外に恋人らしい女は誰も通らなかったのかい」
「ええ、そうですよ」と勇は応(こた)えたが、そのとき急に気がついた様子で「アッ、そういえば赤星ジュリアが近よってきたことは来たんです。でもあの人は、自動車で通りかかったんだといっていましたよ。それから自動車の中から出て来なかったけれど、ジュリアの友達の矢走千鳥(やばせちどり)も傍(そば)まできました。でもいくらなんでもこの二人が……」
「でもこの二人の外に誰も少女は帰って来なかったんだろう。一応そこを考えてみなくちゃいけない。それに先刻(さっき)の話では、四郎――イヤその学生の日記帳の数十頁(ページ)が、いつの間にか破られていたというし……」
「そのことは大辻さんがたいへん怒っていますよ。どうしても二人に尋ねるんだといって、今日出かけていったんです」
「ジュリアの耳飾(みみかざり)右の方のはチャンとしていたけれど、左のは石が見えなくて金環(きんかん)だけが耳朶(みみたぼ)についていたというのは面白い発見だネ」
「僕は耳飾から落ちた石が、もしや吸血鬼の潜んでいた草叢(くさむら)に落ちていないかと思って探したんだけれど、見付からなかった。それからジュリアの歩いたと思う場所をすっかり探してみたんだけれど、やはり見付からなかった。それでジュリアの耳飾の青い石は、あの辺で落したものじゃないということが分ったんですよ。青竜王(せんせい)」
 少年はそういって、眼をパチパチ瞬(まばた)いた。青竜王はパイプから盛んに紫煙(しえん)を吸いつけていたが、やがて少年の方に向き直り、
「君は少年の屍体の辺もよく探してみたかネ」
「もちろん懐中電灯で探したんだけれど、何遍(なんべん)やってみても見つからなかったんです」
「ほう、そうかネ」
 少年は青竜王の顔をしげしげ見ていたが「まさか青竜王(せんせい)は赤星ジュリアたちを怪しんでいるのじゃないでしょうネ」
 青竜王はそれに応えようともせず、いつまでも黙ってパイプを吸いつづけていた。
 そのとき卓上電話のベルがリリリンと喧(やかま)しく鳴り響いた。勇少年が受話器をとりあげて出てみると、向うは赤星ジュリアを尋(たず)ねていった筈の大辻の声だった。
「ナニ丸ノ内で大騒ぎが始まったって? 青竜王(せんせい)が帰っていられるから、いま代るから待っているんだよ」
 といって、受話器を譲った。
 青竜王はうむうむと聴いていたが、やがて電話を切った。
「どうしたんです、青竜王(せんせい)」
「なアに、痣蟹が竜宮劇場の裏口を通っていたのを発見して、また警官隊と銃火(じゅうか)を交(まじ)えたのだそうだ。痣蟹はとうとう逃げてしまったので、疲(つか)れ儲(もう)けだ。しかし痣蟹は竜宮劇場の外を歩いていたのか、それとも中から出て来たのか分らないそうだ」
 竜宮劇場というと、誰でもすぐジュリアを思いうかべる、やはりジュリアは事件に関係があるのだろうか。
「でも変ですね。痣蟹はあの恐ろしい横顔を知られずに、どうして昼日中(ひるひなか)歩いていられたのでしょう」
「ウン痣蟹は田舎者のような恰好(かっこう)をして、トランクを肩にかついで、たくみに痣をかくしていたそうだ」
「なるほど、うまいことを考えたなア。はははは」
「大辻はジュリアに会って日記帳のことを聞いたが、あたしは知りませんといわれたそうだ、まずいネ」
 青竜王は自室に入ると、それから夕方までグッスリと睡った。
 夕飯ができた頃、勇少年がベルを押すと、青竜王は起き出してきた。依然(いぜん)たる覆面のため、顔色は窺(うかが)うよしもないが、動作は明かに元気づいてみえた。そして大辻も加わって久し振りで三人が揃って食卓についた。しかし探偵談は一切ぬきであった。それが青竜王の日頃のお達(たっ)しであったから。――夕飯が済(す)むと、青竜王は行先も云わずブラリと事務所を出ていった。
 痣蟹はどこへ逃げてしまったろう。いま何処(どこ)に隠れているのだろう。覆面探偵青竜王は戦慄(せんりつ)すべき吸血鬼事件に対しいまや本格的に立ち向う気色(きしょく)をみせている。彼の行方(ゆくえ)はいずれこの事件に関係のある方面であろうということは改(あらた)めて謂(い)うまでもあるまい。だがその行先は暫(しばら)く秘中(ひちゅう)の秘として預(あずか)ることとし、その夜更(よふけ)、大学の法医学教室に起った怪事件について述べるのが順序であろう。
     ―――――――――――――――
 宏大な大学の構内は、森林に囲まれて静寂そのものであった。殊にこれは夜更の十二時のことであった。梟(ふくろう)がときどきホウホウと梢(こずえ)に鳴いて、まるで墓場のように無気味であった。木造(もくぞう)の背の高い古ぼけた各教室は、納骨堂が化けているようであった。そしてどの窓も真暗であった。ただ一つ、消し忘れたかのように、また魔物の眼玉のように、黄色い光が窓から洩(も)れている建物があった。それは法医学教室の解剖室(かいぼうしつ)から洩れてくる光だった。
 近づいてみても、カーテンが深く下ろしてあるので窓の中にはなにがあるのやら、様子が分らなかった。ただ森閑(しんかん)とした夜の幕を破ってときどきガチャリという金属の触(ふ)れあう音が聞えた。その怪(あや)しい物音が、室内に今起りつつある光景をハッキリ物語っているのだった。
 そこは馬蹄形(ばていがた)の急な階段式机が何重にも高く聳(そび)えている教室であった。中央の大きな黒板に向いあって、真白な解剖台がポツンと置かれてあった。その傍にはもう一つ小さい台があって、キラキラ光る大小さまざまのメスが並んでいた。解剖台の上には白蝋(はくろう)のような屍体が横たわっているが、身長から云ってどうやら少年のものらしい。それを囲(かこ)んで二人の人物が、熱心に頭と頭とをつきあわさんばかりにしていた。一人は白い手術着を着て、メスだの鋏(はさみ)だのを取りあげ、屍体の咽喉部(いんこうぶ)を切開(せっかい)していた。もう一人は白面(はくめん)の青年で、形のよい背広に身を包んでいた。この手術者は法医学教室の蝋山(ろうやま)教授、白面の青年は西一郎と名乗る男だった。そこまで云えば、台の上に載(の)った屍体が、吸血鬼に苛(さいな)まれた第一の犠牲者である西四郎のものだということが分るであろう。
「どうも素人(しろうと)は功を急いでいかんネ」と蝋山教授がいった。「やはりこうして咽喉から胸部(きょうぶ)を切開して食道から気管までを取出し、端(はし)の方から充分注意して調べてゆかなけりゃ間違いが起る虞(おそ)れがあるのだ。急がば廻れの諺(ことわざ)どおりだて」
「時間のことは覚悟をしてきました。今夜は徹夜しても拝見(はいけん)します」
「うん。時刻はこれから午前二時ごろまでが一番油の乗るときだ。君の時刻の選択はよかったよ。しかしいくら弟の屍体かは知らぬが、君は熱心だねえ。もしここから上にあるものならば、必ず君の目的のものを発見してあげるから安心するがいい。イヤどうも皮下脂肪(ひかしぼう)が発達しているので、メスを使うのに骨が折れる。こんなことなら電気メスを持ってくるんだった……」
 といっているとき、ジジジーンと、壁にかけてある大きなベルが鳴りひびいた。それはあまりに突然のことだったので、教授は、
「ややッ――」
 とその場に飛び上ったほどだった。
「何でしょう、いまごろ?」
「ハテナ誰か来たのかな。この夜更に変だなア」と教授は頭を傾(かし)げた。
 そのとき、またベルがジジジーンと、喧しく鳴った。
「ちょっと見て来よう」
 と教授はメスを下に置くと、扉(ドア)をあけて廊下へ出ていった。廊下は長かった。漸(ようや)く入口のところへ出て、パッと電灯をつけた。
「誰だな。――」
 と叫んだが、何の声もしない。
「誰だな。――」
 そういって硝子越(ガラスご)しに、暗い外を透してみていた教授は、何に駭(おどろ)いたか、
「呀(あ)ッ、これはいかん」といってその場に尻餅(しりもち)をつくと、大声に西一郎を呼んだ。
 その声はたしかに解剖室に聞えた筈だったけれど、西はどうしたのか、なかなか出て来なかった。蝋山教授は俄(にわ)かに恐怖のドン底に落ちて、急に口が出なくなって、手足をバタバタするだけだった。
「どうしたんです、先生!」
 元気な声が奥から聞えると、やっと西一郎が駈けつけた。西にやっと聞えたらしい。
「いま怪しい奴が、その硝子のところからこっちを睨(にら)んだ。ピストルらしいものがキラリと光った、と思ったら腰がぬけたようだ。どうも極(きま)りがわるいけれど……」
「ナニ怪しい奴ですって?」
 一郎は勇敢にも扉(ドア)のところへ出て、暗い戸外(そと)を窺(うかが)った。しかし彼には別に何の怪しい者の姿も映らなかった。教授はきっと何かの幻影をみたのだろうということにして、彼は教授を抱(だ)き起(おこ)して、肩に支(ささ)えた。
「あッ、冷たい。君の手は濡れているじゃないかい。向うで手を洗ったのかネ」
「いえなに……」
「なぜ手を洗ったんだ。一体何をしていたんだ。法医学教室の神聖を犯(おか)すと承知しないよ」
 一郎は口だけは達者な教授をしっかり担(かつ)いで廊下を元の解剖室の方へ歩いていった。
「おや、変だぞ」と一郎は叫んだ。
「なにが変だ」と教授は一郎の胸倉(むなぐら)をとったが「うん、これは可笑しい。教室の灯(あかり)が消えている。君が消したのか」
「いえ、僕じゃありません。僕は消しません。これは変なことだらけだから、静かに行ってみましょう。声を出さんで下さい。いいですか」
 二人は静かに戸口に近づいた。そしてじっと真黒な室内を覗きこんだ。二人はもうすこしで、呀ッと声をたてるところだった。誰か分らぬが、解剖台の上を懐中電灯で照らしている者があった。が、それはすぐ消えて、室内はまた暗澹(あんたん)の中に沈んだ。その代り、なにか重いものを引擦(ひきず)るようにゴソリゴソリという気味のわるい音がした。
 一郎は教授に耳うちして、室内の電灯のスイッチの在所(ありか)を訊(き)いた。それは室を入ったすぐの壁にとりつけてあるということだった。彼は教授の留(と)めるのも聞かず、勇躍(ゆうやく)飛んで出ると、スイッチを真暗(まっくら)の中に探(さぐ)ってパッと灯(ひ)をつけた。たちまち室内(しつない)は昼を欺(あざむ)くように煌々(こうこう)たる光にみちた。
「呀ッ、怪しい奴がッ!」
 見ると黒板の左手にあたる窓が開いて、そこに一人の男が片足かけて逃げだそうとしていた。
「待てッ!」
 と声をかけると、かの怪漢はクルリと室内に向き直った。ああ、その恐ろしい顔! 左の頬の上にアリアリと大痣(おおあざ)のような形の物が現れていた。
「ああ、彼奴(あいつ)だッ」
 一郎はそう叫ぶと、なおも逸(はや)って怪漢に飛びつこうとする蝋山教授の腰を圧(お)さえて、教壇の陰にひきずりこんだ。
 ダダーン。
 轟然(ごうぜん)たる銃声が聞えたと思うよりも早く、ピューッと銃丸(たま)が二人の耳許(みみもと)を掠(かす)めて、廊下の奥の硝子窓をガチャーンと破壊した。一郎の措置(そち)がもう一秒遅かったとしたら、教授の額(ひたい)には孔があいていたかもしれない。
 それから五分間――二人は鮑(あわび)のように固くなって、教壇の陰に潜(ひそ)んでいた。もうよかろうというので恐(おそ)る恐(おそ)る頭をあげて窓の方をみると、窓は明け放しになったままで、もう怪漢の姿がなかった。ホッと息をついた蝋山教授は、このとき眼を解剖台の上に移して愕然(がくぜん)とした。
「やられたッ。――屍体がなくなっている!」
 なるほど、解剖台の上には屍体の覆布(おおい)があるばかりで、さっきまで有った筈の屍体が影も形もなくなっていた。
「彼奴(あいつ)が盗んでいったんですよ、ホラ御覧なさい」と一郎は床(ゆか)の上を指(ゆびさ)しながら「屍体を曳擦(ひきず)っていった跡が窓のところまでついていますよ。屍体を窓から抛(ほう)りだして置いて、それから彼奴が窓を乗越えて逃げたんです」
「うん、違いない。早く追い駆けてくれたまえ」
「もう駄目ですよ。逃げてしまって……」
「何を云っているんだ。君の弟の屍体なんじゃないか」
「追いついても、ピストルで撃(う)たれるのが落ちですよ。それよりも警視庁(けいしちょう)へ電話をかけましょう」
「君のような弱虫の若者には始めて会ったよ。駄目な奴だ」
 教授はいつまでもブツブツ怒っていた。
 昼間丸ノ内を徘徊(はいかい)していた痣蟹が、深更(よふけ)になってなぜ屍体を盗んでいったのだろう。一郎はなぜ弟の屍体を追わなかったのだろう。果して彼は弱虫だったろうか。


   麗(うる)わしき歌姫(うたひめ)


 その翌日のこと、西一郎はブラリと丸ノ内に姿を現わした。そして開演中の竜宮劇場の楽屋(がくや)へノコノコと入っていった。赤星ジュリアの主演する「赤い苺(いちご)の実(み)」が評判とみえて、真昼から観客はいっぱい詰めかけていた。いま丁度(ちょうど)、休憩時間であるが、散歩廊下にも喫煙室にも食堂にも、「赤い苺の実」の旋律(メロディ)を口笛や足調子で恍惚(こうこつ)として追っている手合が充満(じゅうまん)していた。これが流行とはいえ、実に恐るべき旋律であった。
「まア西さん、暫(しばら)くネ――」
 とジュリアは一郎を快く迎えた。
「イヤ早速(さっそく)、僕のお願いを聞きとどけて下すって有難うございます。これで僕も失業者(しつぎょうしゃ)の仲間から浮び上ることができます」
 一郎はジュリアに頼んで、レビュウ団の座員見習(ざいんみならい)として採用してもらうこととなったのであった。彼は長身の好男子だったし、それに音楽にも素養(そよう)があるし、タップ・ダンスはことに好きで多少の心得(こころえ)があったので、この思い切った就職をジュリアに頼んだわけだった。日頃我儘(わがまま)な気性(きしょう)の彼女だったが、弟を殺された一郎に同情したものか、快くこの労(ろう)をとって支配人の承諾を得させたのであった。
「あら、改(あらた)まってお礼を仰有(おっしゃ)られると困るわ。――だけど勉強していただきたいわ、あたしが紹介した、その名誉のためにもネ」
「ええ、僕は気紛(きまぐ)れ者で困るんですが、芸の方はしっかりやるつもりですよ」
「頼母(たのも)しいわ。早くうまくなって、あたしと組んで踊るようになっていただきたいわ」
「まさか――」
 と一郎は笑ったが、ジュリアの方はどうしたのか笑いもせず、夢見るような瞳をジッと一郎の面(おもて)の上に濺(そそ)いでいたが、暫くしてハッと吾れに帰ったらしく、始めてニッコリと頬笑(ほほえ)んだ。
「ホ、ホ、ホ、ホ……」
 一郎はジュリアの美しさを沁々(しみじみ)と見たような気がした。ただ美しいといったのではいけない、悩(なや)ましい美しさというのは正(まさ)にジュリアの美しさのことだ。帝都に百万人のファンがあるというのも無理がなかった。一郎はいつか外国の名画集を繙(ひもと)いていたことがあったが、その中にレオン・ペラウルの描いた「車に乗れるヴィーナス」という美しい絵のあったのを思い出した。それは波間(なみま)に一台の黄金(こがね)づくりの車があって、その上に裸体(らたい)の美の女神ヴィーナスが髪をくしけずりながら艶然(えんぜん)と笑っているのであった。そのペラウルの描いたヴィーナスの悩(なやま)しいまでの美しさを、この赤星ジュリアが持っているように感じた。それはどこか日本人ばなれのした異国風の美しさであった。ジュリアという洋風好(ようふうごの)みの芸名がピッタリと似合う美しさを持っていた。
 ジュリアは一郎のために受話器をとりあげて、支配人の許(もと)に電話をかけた。だが生憎(あいにく)支配人は、用事があってまだ劇場へ来ていないということだった。
「じゃここでお待ちにならない」
「ええ、待たせていただきましょう。その間に僕はジュリアさんにお土産(みやげ)をさしあげたいと思うんですが――」
 といって一郎はジュリアの顔をみた。
「お土産ですって。まア義理固(ぎりがた)いのネ。――一体なにを下さるの」
「これですけれど――」
 一郎はポケットから小さい紙箱(かみばこ)をとりだして、ジュリアの前に置いた。
「あら、これは何ですの」
 ジュリアは小箱をとって、蓋を明けた。そこには真白(まっしろ)な綿(わた)の蒲団(ふとん)を敷(し)いて、その上に青いエメラルドの宝石が一つ載(の)っていた。
「これはッ――」
 ジュリアの顔からサッと血の気(け)がなくなった。彼女はバネ仕掛けのように立ち上ると、入口のところへ飛んでいって、扉(ドア)に背を向けると、クルリと一郎を睨(にら)みつけた。
「あなたはあたしを……」
「ジュリアさん、誤解しちゃいけません。まあまあ落着いて、こっちへ来て下さい」
 一郎はジュリアを元の席に坐らせたが、美しい女王は昂奮(こうふん)に慄(ふる)えていた。
「これは貴女(あなた)の耳飾(みみかざ)りから落ちた石でしょう。これは僕が拾って持っていたのです、警官や探偵などに知れると面倒(めんどう)な品物です。お土産として、貴女にお返しします」
 ジュリアは一郎に悪意のないのを認めたらしく、急いで青い宝石を掌(てのひら)の中に握ってしまうと、激しい感情を圧(おさ)え切れなかったものか、ワッといって化粧机の上に泣き崩(くず)れた。それにしても一郎は落ちた耳飾の宝石を何時何処で拾って来たのだろう。
「ジュリアさん。云って聞かせて下さい。貴女は四郎と日比谷公園の五月躑躅(さつき)の陰で会っていたのでしょう」
「……」ジュリアは泣くのを停(や)めた。
「僕はそれを察しています。つまり耳飾りの落ちていた場所から分ったのですが」
「これはどこに落ちていたのでしょう」とジュリアは顔をあげて叫んだ。
「それは四郎の倒れていた草叢(くさむら)の中からです」
「嘘ですわ。あたしは随分(ずいぶん)探したんですけれど、見当りませんでしたわ」
「それが土の中に入っていたのですよ。多勢(おおぜい)の人の靴に踏まれて入ったものでしょう」
「まあ、そうでしたの。……よかったわ」
 それはすべて一郎の嘘だった。本当をいえば、彼は昨夜(ゆうべ)、四郎の屍体からそれを発見したのだった。蝋山教授がベルの音を聞いて法医学教室の廊下へ出ていった隙(すき)に、一郎はかねて信じていたところを行ったのだった。彼は四郎の屍体の口腔(こうくう)を開かせ、その中に手をグッとさし入れると咽喉の方まで探(さ)ぐってみたのが、果然(かぜん)手懸(てがか)りがあって、耳飾の宝石が出てきた。実は蝋山教授を煩(わずら)わして食道や気管を切開し、その宝石の有無(うむ)をしらべるつもりだったけれど、怪(あや)しいベルの音を聞くと、早くも切迫(せっぱく)した事態を悟(さと)り、荒療治(あらりょうじ)ながら決行したところ、幸運にも宝石が指先(ゆびさき)にかかったのであった。素人(しろうと)にしては、まことに水ぎわ立った上出来(じょうでき)の芸当(げいとう)だった。後から闖入(ちんにゅう)して屍体を奪っていった痣蟹をみすみす見逃がしたのも、彼がこの耳飾りの宝石を手に入れた後だったから、その上危険な追跡をひかえたのであろうとも思われる。とにかくジュリアの耳飾の宝石は四郎の口腔から発見されたのだ。なぜそんなところに入っていたかは問題であるが、一郎がジュリアに発見の個所(かしょ)をことさら偽(いつわ)っているのは何故だろう。
「ジュリアさん。四郎は貴女に、誰からか恨(うら)みをうけているようなことを云っていませんでしたか」
 これでみると、一郎はやはり愛弟(あいてい)四郎を殺害(さつがい)した犯人を探しだそうとしているものらしい。
「ああ、一郎さん」とジュリアは苦しそうに顔をあげ「あたし何もかも申しますわ。そして貴方の弟さんの日記帳から破ってきた頁(ページ)をおかえししますわ」
 ジュリアは衣裳函(いしょうばこ)のなかから、引き裂(さ)いた日記をとりだして、一郎に渡した。それは四郎が殺された日、大辻が始めに屍体の側で発見し、二度目に見たとき裂かれていた四郎の自筆(じひつ)の日記に相違(そうい)なかった。一郎はそれを貪(むさぼ)るように読み下(くだ)した。
「それをよく読んで下されば分るでしょうが、四郎さんとあたしとは、千葉(ちば)の海岸で知合ってから、お友達になったんです。それは只の仲よしというだけで、あたしは恋をしていたんじゃありませんのよ、どうかお間違いのないように、ね。――その日も四郎さんはあたしに会いに来たんですわ。それで夕方になり、四郎さんと日比谷を散歩して、あの五月躑躅(さつき)の陰でお話をしていたんですが、待たせてあった、あたしの自動車の警笛(けいてき)が聞えたので、ちょっと待っててネ、すぐ帰ってくるわといって四郎さんを残したまま、日比谷の東門(ひがしもん)の方へ行ったんですの。そこで自動車を見つけたので、四郎さんも連(つ)れてゆくつもりで自動車で迎えにゆき、再び五月躑躅の陰へいってみると、四郎さんが殺されていたのですのよ。あたしはハッとしたんですが、人気商売の悲しさにはぐずぐずしていると人に見つかって大変なことになると思ったので、引返(ひきかえ)そうとしましたが、その日四郎さんに見せて貰った日記のなかにあたしのことが沢山書いてあったものですから、これを残しておいてはいけないと思って、いま差上げただけの頁を破ってきたんですわ。すると間もなく皆さんに見つかってしまったんです。それがすべてですわ」
「ああ、そうですか」と一郎は大きく肯(うなず)きながら「では耳飾の宝石も、そのときに落したんですね。これも拾われては蒼蠅(うるさ)いことになるから、後で探したというわけですね」
「仰有(おっしゃ)るとおりですわ。宝石のことは、楽屋へ入ってから気がついたんですの。随分探しましたわ。ほんとにあたし感謝しますわ。でもこのことは、誰にも云わないで下さいネ」
「ええ、大丈夫です。その代(かわ)り、何か犯人らしいものを見なかったか、教えて下さい」
「犯人? 犯人らしいものは、誰もみなかったわ――」
 といっているところへ、電話がかかってきた。それは出てきた支配人が、直(す)ぐ西一郎に会おうという電話だったのである。
 それから一郎は、支配人の室に行った。ジュリアの口添(くちぞ)えがあったから、すべて好条件で話が纏(まとま)った。今日は見習かたがた「赤い苺の実」の三場(ば)ばかりへ顔を出して貰いたいということになった。そして大部屋(おおべや)の人たちに紹介してくれた。
 一郎はそれを報告のために、ジュリアの部屋に行ったが、鍵がかかっていた。それも道理(どうり)で、ジュリアはいま舞台に出て喜歌劇(きかげき)を演じているところだった。舞台の横のカーテンの陰には批評家らしい男が二人、肩を重(かさ)ねんばかりにして、ジュリアの熱演に感心していた。
「ジュリアはたしかに百年に一人出るか出ないかという大天才だ。見給え、どうだい、あの熱情(ねつじょう)とうるおいとは……。今日はことに素晴らしい出来栄(できば)えだ」
「僕も全く同感だ。どこからあの熱情が出てくるんだろう。ちょっと真似手(まねて)がない。――」
「ジュリアには非常に調子のよい日というのがあるんだネ。今日なんか正にその日だ。見ていると恐(こわ)い位(くらい)だ」
「そうだ。僕もそれを云いたいと思っていた。僕は毎日ジュリアを見ているが、調子のよい日というのをハッキリ覚えているよ。この一日に三日、それから今日の四日と……」
「よく覚えているねえ」
「いやそれには覚えているわけがあるんだ。それが不思議にも、あの吸血鬼(きゅうけつき)が出たという号外(ごうがい)や新聞が出た日なんだからネ」
「ははア、するとああいう事件が何かジュリアを刺戟(しげき)するのかなア。だが待ちたまえ、今日は何も吸血鬼が犠牲者(ぎせいしゃ)を出したという新聞記事を見なかったぜ。はッはッ、とうとう君に一杯(いっぱい)担(かつ)がれたらしい。はッはッはッ」
「はッはッはッ」
 一郎は批評家に嫌悪(けんお)を催(もよお)したのか、怒ったような顔をして、そこを去った。


   痣蟹(あざがに)の空中葬(くうちゅうそう)


 丁度(ちょうど)その頃、捜査本部では、雁金検事と大江山捜査課長とが六(むつ)ヶ敷(し)い顔をして向いあっていた。机の上には、青竜王が痣蟹の洋服の間から見付けた建築図の破片(はへん)が載(の)っていた。
「雁金さんはそう仰有(おっしゃ)るですが、どうしてもあの覆面探偵は怪しいですよ」と大江山はまたしても、青竜王排撃(はいげき)の火の手をあげているのであった。「第一あの覆面がよろしくない。本庁(ほんちょう)の部下の間には猛烈な不平があります。このままあの覆面を許しておくということになると、統制上(とうせいじょう)由々(ゆゆ)しき一大事が起るかもしれません」
「気にせんがいいよ。そうムキになるほどのことではない。たかが私立探偵だ」
「いまも電話をかけましたが、青竜王(やつ)は所在(しょざい)が不明です。その前は十日間も行方が分らなかった」
「まアいい。あれは悪いことの出来る人間じゃないよ」
「それから所在不明といえば、あの西一郎という男ですネ。彼奴(きゃつ)は犠牲者の兄だというので心を許していましたが、イヤ相当(そうとう)なものですよ。彼奴は無職で家にブラブラしているかと思うと、どこかへ行ってしまって、幾晩もかえって来ない。留守番(るすばん)のばあやは金を貰っていながら、気味(きみ)わるがっています。昨夜(ゆうべ)もそうです。蝋山教授を騙(だま)して、不明の目的のために四郎の屍体(したい)を解剖させているうちに、怪漢(かいかん)を呼んで屍体を奪わせた。そのくせ当人は、痣蟹が屍体を盗んでいったと称しています。あれは偽(に)せの兄ですよ。本当の兄なら、屍体を取返そうと思って死力(しりょく)をつくして追駈(おいか)けてゆきます」
「イヤあれは本当の兄だよ」
「私は随分(ずいぶん)部下や新聞記者の前を繕(つくろ)ってきましたが、今日かぎりそれを止めて、本当の考えを発表します。第一今日はキャバレー・エトワールの事件で、青竜王(きゃつ)のところのチンピラ小僧にうまうませしめられて、面白くないです」
 といっているところへ、給仕が入ってきて、雁金検事に電話が来ていると伝えた。
「はアはア、私は雁金だが、――」
 と電話に出てみると、向(むこ)うは噂(うわ)さの主(ぬし)の覆面の探偵青竜王からだった。
「今日何か新しい吸血鬼事件があったでしょう」
「ほい、もう嗅(か)ぎつけたか。あれは絶対秘密にして置いたつもりだが、実は――」
 と、検事は大江山との今の話を忘れてしまったように、秘密事件について話しだした。それは今日昼(ひる)すこし前、例の事件について調べることがあって迎(むか)えのために警官をキャバレー・エトワールへ振出(ふりだ)してみると、雇人(やといにん)は揃っているが、主人のオトー・ポントスが行方不明であるという。そこでポントスの寝室(しんしつ)を調べてみると、ベッドはたしかに人の寝ていた形跡(けいせき)があるが、ポントスは見えない。尚(なお)もよく調べると、床(ゆか)の上に人血(じんけつ)の滾(こぼ)れたのを拭いた跡が二三ヶ所ある。外(ほか)にもう一つ可笑(おか)しいことは、室内にはポータブルの蓄音器(ちくおんき)が掛け放しになっていたが、そこに掛けてあったレコードというのがなんと赤星ジュリアの吹きこんだ「赤い苺の実」の歌だったという。いまもってポントスの行方(ゆくえ)は分らない。――
 その話をして、雁金検事は青竜王の意見をもとめたところ、彼は電話の向うで、チェッと舌打ちをして云った。
「雁金さん、ポントスは昨夜(ゆうべ)から今日の昼頃までに殺されたんですよ」
「そう思うかネ。誰に殺された。――」
「もちろん吸血鬼に殺されたんですよ。屍体はその近所にある筈(はず)ですよ。発見されないというのは可笑しいなア」
「やっぱり吸血鬼か。そうなると、これで三人目だ。これはいよいよ本格的の殺人鬼の登場だッ。――ところで君はいま何処にいるのだ。勇が探していたが、会ったかネ」
「場所はちょっと云えませんがネ。そうですか、勇君は何を云っていましたか。――」
 と其処(そこ)までいったとき、何に駭(おどろ)いたか、青龍王は電話の向うで、
「ウム、――」
 と呻(うな)った。そして、
「検事さん、また後で――」
 といって、電話はガチャリと切れた。
「午後四時十分。――」
 と、検事は静かに時計を見た。すると待っていたように、大江山課長が声をかけた。
「青竜王のいるところが分りました。いま電話局で調べさせたんです。青竜王(せんせい)、いま竜宮劇場の中から電話を掛けたんです。私は青竜王に一応訊問(じんもん)するため、職権(しょっけん)をもって拘束(こうそく)をいたしますから……」
「午後四時十分。――」
 と検事は大江山の言葉が聞えないかのように、静かに同じ言葉を繰(く)り返(かえ)した。
 丁度そのすこし前、竜宮劇場の赤星ジュリアの室ではまるで何かの劇の一場面のような、世にも恐ろしい光景が演ぜられていた。

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