恐怖の口笛
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著者名:海野十三 

「咄嗟(とっさ)の出来ごとで、何も分らないそうだ。背後(うしろ)から組みついたので、顔も見えないというのだよ」
 そのときジュリアは目をパッチリ明いて、もう大丈夫だから、竜宮劇場の出場に間に合うよう帰りたい。西一郎を呼んでくれるようにと云った。
「ああ、西一郎。彼はどこへ行ったんです」
「一郎君が見えないネ。――」
 と不審(ふしん)をうっているところへ、扉(ドア)が明いて、彼がヌッと入って来た。
「オイ君はこの騒ぎの中、どこにいたのだい」
 と課長は目を光らせていった。
「ちょっと外へ出て、畠を見ていたのです。都会人はこんなときでなければ、野菜の生えているところなんか見られませんよ」と云ったけれど、何だかわざとらしい弁解のように聞えた。
 ジュリアは西の声を聞くと、一層(いっそう)帰りたがった。そこで西の外(ほか)に検事が附添って帰ることになり、大江山課長と蝋山教授は残ることになった。丁度警察から差し廻しの自動車が来ていたので、三人は直ぐ東京へ出発することが出来た。
「どうも西という男は曲者(くせもの)だて」と、蝋山教授は頭を大きく左右へ振った。
「まさか西一郎が、千鳥を襲撃したのじゃあるまいな」と課長は独(ひと)り言(ごと)をいった。
「それは何とも云えぬ。――」
 といっているところへ、警笛(けいてき)をプーッと吹き鳴らしつつ、紛失した大江山の自動車が帰って来た。課長は愕いて玄関へ走りだしたが、中からは意外にも、彼の連れていた運転手の怪訝(けげん)な顔が現れた。
「自動車がございました。二百メートルばかり向うの畠の中に自動車の屋根のようなものが見えるので行ってみました。すると、愕いたことに、これが乗り捨ててあったのです」
「フーン」
 と大江山は呻(うな)った。一体何者の仕業(しわざ)か。西一郎がやったのか、それとも例のポントスが現れたのか、或いはまたその辺を徘徊(はいかい)している筈の覆面探偵の仕業か。――一方、矢走千鳥は天に駆(か)けたか地に潜(もぐ)ったか、杳(よう)として消息が入らなかった。
 だが、矢走千鳥は無事に生きていた。彼女は多摩川(たまがわ)を眼下(がんか)に見下ろす、某病院の隔離病室(かくりびょうしつ)のベッドの上で、院長の手厚い介抱(かいほう)をうけていた。
「もう大丈夫です。静かにしていれば、二三日で癒(なお)ります。身体にはどこにも傷がついていません。ただ駭(おどろ)きが大きかったので、すこし心臓が弱っています。あまり昂奮しないのがよろしい」
「あたくし、誰かに逢いたいのですが」
「イヤ尤(もっと)もです。そのうち誰方(どなた)か見えましょう」
 そんな会話が繰返(くりかえ)されているうちに、夜更(よふ)けとなった。このとき病院の玄関に、一人の男が訪れた。院長の許可が出て、上へあげられた彼は、矢走千鳥の病室に通った。
「まあ、西さん。――よく来て下すったのネ」
 西はただニコニコ笑うだけだった。
「誰も来て下さらないので、悲しんでいたところですわ」
「僕は、ソノ青竜王から行って来るように頼まれたんです。当分外(ほか)に誰も来ないでしょう。院長から許しが出るまで、一歩も寝台の上から降りないことですネ」
「ええ、貴方が仰有(おっしゃ)ることなら、あたくし何でも守りますわ。……ねえ、西さん」
「なんです、千鳥さん」
「あたくし、貴下(あなた)に、どんなにか感謝していますのよ。お分りになって……」
「感謝?――僕は何にもしませんよ。ああ、助けられたことですか。あれなら青竜王に感謝して下さい。……イヤ、そんなことを今考えるのは身体に障(さわ)りますよ。何ごとも暫(しばら)くは忘れていることです。誰かが聞いても、何にも喋(しゃべ)ってはいけません。千鳥さんは当分、生(い)ける屍(しかばね)になっていなくちゃいけないんですよ、いいですか」
「生ける屍――貴下の仰有ることなら、屍になっていますわ」
 といってニッコリ微笑んだが、攫(さら)われた千鳥は一体何を感謝しているのだろう。


   覆面探偵の危難(きなん)


 矢走千鳥(やばせちどり)の誘拐事件(ゆうかいじけん)は、なんの手懸(てがか)りもなく、それから一日過ぎた。
 雁金検事はそのことで、大江山捜査課長を検事局の一室に招いた。
「君の怠慢にますます感謝するよ。いよいよ儂(わし)たちは新聞の社会面でレコード破りの人気者となったよ。第一千鳥の神隠(かみがく)しはどうなったんだ。玉川ゴルフ場から十分ぐらいの半径(はんけい)の中なら、一軒一軒当っていっても多寡(たか)が知れているではないか。どうして分らぬのか、分らんでいる方が六(むつ)ヶ敷(し)いと思うが……」
「イヤそれが不思議にも、どうしても分らないのです。ひょっとすると、犯人は夜のうちに千鳥をもっと遠いところに移したかもしれないのです。しかし御安心下さい。あの犯人も吸血鬼も、同一人物だと睨(にら)んでいて、別途(べっと)から犯人を探しています」
「別途からというと、君の覘(ねら)っている犯人というのは誰だい」
「ポントス――つまりキャバレーの失踪(しっそう)した主人ですネ。部下は懸命に捜索に当っています。今明日中(こんみょうにちじゅう)にきっと発見してみせますから」
「彼奴(きゃつ)はもう死んでいるのじゃないか」
「死んでいてもいいのです。ポントスの持っている秘密が、恐怖の口笛にまつわる吸血鬼事件の最後の鍵なんです」
「ほほう」と検事は目を丸くして「では儂が首を縊(くく)らん前に、事件の真相を報告するようにしてくれ給(たま)え」
 大江山が帰ると間もなく、覆面探偵から電話がかかって来た。
「雁金さん。いよいよ犯人を決定するときが来ましたよ」
「ほほう。イヤこれは盛(さか)んなことだ」
「まぜかえしてはいけませんよ。それで一つ、お願いがあるのですけれど……」
「犯人を国外に逃がす相談なら、今からお断(ことわ)りだ」
「そうではありません。実は今夜、たしかに吸血鬼と思われる怪人物から会見を申込まれているのです」
「うん、それはお誂(あつら)え向(む)きだ。では新選組(しんせんぐみ)を百名ばかり貸そうかネ」
「いえ、向うでは僕一人が会うという条件で申込んで来ているのです」
「そんな勝手な条件なんか、蹂躙(じゅうりん)したまえ」
「そうはいかないですよ。――で僕は独(ひと)りで会うつもりなんですが、もし今夜九時までに、僕が貴下(あなた)のところへお電話しなかったら、貴下の一番下のひきだしの中に入っている手紙をよんで下さい」
「なんだ、手紙が入っているんだって?」なるほど誰がいつの間に入れたか、白い四角な封筒が入っていた。「あったあった。こんなもの直(す)ぐ明けられるじゃないか」
「明けても駄目です。或る仕掛がしてあるので、今夜九時にならないと、文字が出て来ません。今御覧(ごらん)になっても白紙(はくし)ですよ」
 チェッと雁金検事が舌打ちをした途端(とたん)に、相手の受話機がガチャリと掛った。
 その日の夕刻、丁度黄昏(たそがれ)どきのこと、丸ノ内にある化物ビルといわれる廃墟(はいきょ)になっている九階建てのビルディングの、その九階の一室で、前代未聞(ぜんだいみもん)の奇妙な会見が行われていた。
 まずその荒れはてた部屋の真中には足の曲った一脚の卓子(テーブル)があり、それを挿(はさ)んで二人の人物が相対(あいたい)していた。
 入口に遠い方にいる人物は紛(まぎ)れもなく覆面探偵の青竜王だったが、彼は椅子に腰をかけた儘(まま)、身体を椅子ごと太い麻縄(あさなわ)でグルグルに締められていた。それに対する人物は、卓子を距(へだ)てて立っていたが、その人物は頭の上から黒い布(きれ)をスッポリ被(かぶ)っていた。そして右手には鋭い薄刃(うすば)のナイフを構(かま)えて、イザといえば飛び掛ろうという勢(いきお)いを示していた。――これが雁金検事に報告された青竜王と吸血鬼との会見なのであった。すると、黒い布を被った人物こそ、恐るべき殺人犯の吸血鬼なのであろう。
「案外智恵のない男だねえ――」と黒布の人物は皺枯(しわが)れ声でいった。皺枯れ声だったけれども、確かに女性の声に紛れもなかった。
「……」青竜王は無言で、石のように動かない。
「そうやって椅子に縛りつけられりゃ、生かそうと殺そうと、私の自由だよ。この短刀で、心臓をグサリと突くことも出来るし、お好(この)みなら、指一本一本切ってもいい。苦しむのが恐ろしいのなら、ここにある注射針で一本プスリとモルヒネを打ってあげてもいいよ」と憎々(にくにく)しげに云った。
「約束を違(たが)えるなんて、卑怯(ひきょう)だネ、君は」と青竜王は始めて口を開いた。
「お前は莫迦(ばか)だよ。――妾(わたし)の正体を知っている奴は、皆殺してしまうのだ。お前を今まで助けてやったのを有難いと思え。しかし今日という今日は、気の毒ながら生きては外へ出さないよ」
 と、まるで芝居がかりの妖婆(ようば)のような口調でいった。そして短刀を擬(ぎ)してジリジリと青竜王の方へ近づいてくるのであった。
「まあ待ち給え。何時でも殺されよう。だがその前に約束だけは果させてくれ。というのは、僕は君に云いたいことがあるんだ」
「云いたいことがある。有るなら最期の贈り物に聞いてやろう。但し五分間限りだよ。早く云いな――」
「僕はこれまで、かなり君を庇(かば)ってきてやったぞ。君は知らないことはないだろう。最近に玉川で矢走千鳥を襲ったのも君だった。僕が出ていって君を離したが。そのお陰で、君は吸血の罪を一回だけ重ねないで済(す)んだのだ。いや一回だけでない。いままでに君を邪魔(じゃま)して、吸血の罪を犯させなかったことが五度もある。それは君を呪いの吸血病から、何とかして救いたいためだった。……」
「なにを云う。……すると今まで、邪魔が飛びだしたのは、皆お前のせいだとおいいだネ」
 と、悪鬼(あっき)は拳(こぶし)を固めて、青竜王を丁々(ちょうちょう)と擲(なぐ)った。探偵は歯を喰い縛って怺(こら)えた。
「君に悔い改めさせたいばかりに、パチノ墓地からも君を伴って逃がしてやった」
 ああ、すると吸血鬼というのは、もしや……。
「お黙り」と悪鬼は、またもや探偵の胸を殴(なぐ)った。探偵はウムと呻(うな)って悶(もだ)えた。
「僕には君の正体が、もっと早くから分っていたのだよ。思い出してみたまえ。君が四郎少年を殺したとき、死にもの狂いで探していたものは何だったか覚えているだろう。それが官憲(かんけん)に知れると、立ち所(どころ)に君は殺人魔として捕縛(ほばく)されるところだった。僕はそれを西一郎の手を経(へ)て君の手に戻してやった」
「出鱈目(でたらめ)をお云いでないよ。妾は知らないことだよ。――さあ、もう時間は剰(あま)すところ一分だよ」
「君に悔(く)い改(あらた)めさせたいばかりに、僕は君の自由になっているのが分らないのか」
「感傷(かんしょう)はよせよ。みっともない」
「ああ、到頭(とうとう)僕の力には及ばないのか。……では僕は一切を諦(あきら)めて殺されよう。だが只一つ最後に訊(き)きたい。君はなぜ吸血の味を知ったのだ。なにが君を、そんなに恐ろしい吸血鬼にしたのだ」
「そんなことなら、あの世への土産(みやげ)に聞かせてあげよう。――それは先祖から伝わる遺伝なのだよ。パチノを知っているだろう。あれは九人の部下が死ぬと、一人残らず血を吸いとったのだよ。妾はそれを遺書の中から読んだ。……ああ、その遺書が手に入らなかったら、妾は吸血鬼とならずに済んだかもしれない。恐ろしい運命だ」
「そうか、パチノが先祖から承(う)けついだ吸血病か、そうして遂(つい)に君にまで伝わったのか、パチノの曾孫(そうそん)にあたる吾(わ)が……」
「お黙り!――」と、悪鬼は足を揚(あ)げて、青竜王の脾腹(ひばら)をドンと蹴った。
「ウーム」
 と彼が呻きながら、その場に悶絶(もんぜつ)した。
「ああ、それ以上の悪罵(あくば)に妾が堪えられると思っているのかい。約束の五分間以上喋(しゃべ)らせるような甘い妾ではないよ。お前さんはよくもこの妾の邪魔をしたネ」と憎々しげに拳をふりあげながら「さあこれから久し振りに、生ぬるい赤い血潮をゴクゴクと、お前さんの頸笛(くびぶえ)から吸わせて貰おうよ」
 と云ったかと思うと、悪鬼の女は頭の上から被っていた黒布(こくふ)に手をかけるとサッと脱ぎ捨てた。すると、驚くべし、その下から現れたのは、髪も灰色の老婆かと思いの外(ほか)、意外にも意外、それは金髪を美しく梳(くしけず)った若い洋装の女だった。その顔は――生憎(あいにく)横向きになっているので、見定(みさだ)めがたい!
 毒の華(はな)のような妖女(ようじょ)の手が動いて、黄昏の空気がキラリと閃(ひか)ったのは、彼女の翳(かざ)した薄刃のナイフだったであろう。いまやその鋭い刃物は、不運なる青竜王の胸に飛ぶかと見えたが、そのとき何を思ったか、妖女は空いていた左手をグッと伸べて、青竜王の覆面に手をかけた。
「そうだ。誰も知らない青竜王の覆面の下を、今際(いまわ)の際に、この妾が見て置いてあげるよ……」
 そう独言(ひとりごと)をいって、彼女はサッと覆面を引き□(むし)った。その下からは思いの外若い男の顔が現れた。両眼を力なく閉じているが、そのあまりにも端正(たんせい)な容貌!
「ああ、貴下は……西一郎!」
 そう叫んだのは同じ妖女の声だったが、咄嗟(とっさ)の場合、作り声ではなく、彼女の生地(きじ)の声――珠(たま)のように澄んだ若々しい美声(びせい)だった。――ああ、とうとう探偵の覆面は取り去られたのだった。いま都下に絶対の信用を博(はく)している名探偵青竜王の正体は、白面(はくめん)の青年西一郎だったのだ。そして吸血鬼に屠(ほふ)られた四郎少年こそは、彼と血を分けた愛弟(あいてい)だったのだ!
「ああ、あたしは……」と妖女は胸を大濤(おおなみ)のように、はげしく慄(ふる)わせた。思いがけない大きな驚きに全く途方(とほう)に暮れ果てたという形だった。
「やっぱり、刺し殺すのだ!」
 と叫んで、妖女は再び鋭いナイフをふりあげたが、やがて力なく腕が下りた。
「どうして貴下が殺せましょう。妾の運命もこれまでだ!」
 そういった妖女は、青竜王の身近くによると、戒(いまし)めの縄をズタズタに引き切った。しかし青竜王は覆面をとられたことさえ気がつかない。――妖女はいつの間にか、この荒れ果てた部屋から姿を消してしまった。
 かくて風前(ふうぜん)の灯(ともしび)のように危(あやう)かった青竜王の生命は、僅かに死の一歩手前で助かった。


   大団円(だいだんえん)、死の舞踊(ぶよう)


「――検事さん! 雁金さんは何処へ行かれた?」
 と、慌(あわ)ただしく、検事局の宿直室に飛びこんで来たのは、大江山捜査課長だった。
「おう、どうしたかネ、大江山君」
 検事は書見(しょけん)をやめて、大きな机の陰から顔をあげた。
「ああ、そこにおいででしたか。喜んで下さい。とうとうポントスを探しあてましたよ。そして――大団円です」
「ポントスを生捕りにしたのかネ」
「いえ仰(おっ)しゃったとおりポントスは死んでいました。やはりキャバレー・エトワールの中でした。ちょっと気がつかない二重壁の中に閉じ籠められていたのです」
「ほほう、それは出かしたネ」
「ポントスは素晴らしい遺品をわれわれに残してくれました。それは壁の上一面に、折(お)れ釘(くぎ)でひっかいた遺書なんです。彼は吸血鬼に襲われたが、壁の中に入れられてから、暫(しばら)くは生きていたらしいですネ」
「おや、すると彼は吸血鬼じゃなかったのだネ」
「吸血鬼は外にあります。――さあ、これが壁に書いた遺書の写しです。吸血鬼の名前もちゃんと出ています」
 といって大江山はあまり綺麗でない紙を拡げた。検事はそれを机の上に伸(の)べて、静かに読み下(くだ)した。
「ほほう、――」と彼は感歎(かんたん)の声をあげ「これでみると、吸血鬼はパチノの曾孫である赤星ジュリアだというのだネ。おお、するとあの竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアがあの恐るべき兇行の主だったのか」
 と検事は悲痛(ひつう)な面持(おももち)で、あらぬ方を見つめた。
「昨日、玉川で一緒にゴルフをしたジュリアがそうだったか。……」
 そこで課長はもどかしそうに叫んだ。
「キャバレーの主人オトー・ポントスはいつかの夜のキャバレーの惨劇(さんげき)で、ジュリアの殺人を見たのが、運のつきだったんですネ。ジュリアは夜陰(やいん)に乗(じょう)じてポントスの寝室を襲い、まずナイフで一撃を加え、それからあのレコードで『赤い苺の実』を鳴らしたんです。ポントスはジュリアの独唱(どくしょう)を聞かせられながら、頸部(けいぶ)から彼女に血を吸われたんです。それから秘密の壁に抛(ほう)り込まれたんですが、あの巨人の体にはまだ血液が相当に残っていたため、暫くは生きていた――というのですネ」
 検事は黙々(もくもく)として肯(うなず)いた。
「ではこれから、逮捕に向いたいと思いますが……」と課長はいった。
「よろしい。――が、いま時刻は……」
「もう三分で午後九時です」
「そうか。ではもう三分間待っていてくれ給え、儂(わし)が待っている電話があるのだから」
 大江山課長は、後にも先にも経験しなかったような永い三分間を送った。――ボーン、ボーンと遠くの部屋から、正(しょう)九時を知らせる時計が鳴りだした。
「遂(つい)に電話は来ない。――」と検事は低い声で呻(うめ)くように云った。「では不幸な男の手紙を開いてもよい時刻となったのだ」
 そういって彼は、机のひき出しから、白い四角な封筒をとりだし、封を破った。そして中から四つ折の書簡箋(しょかんせん)を取出すと、開いてみた。そこには淡い小豆色(あずきいろ)のインキで、
「赤星ジュリア!」
 という文字が浮きだしていた。
「それは誰が書いたのですか」大江山課長は不思議に思って尋(たず)ねた。
「これは青竜王が預けていった答案なのだ。君の答案とピッタリ合った。儂は君にも青竜王にも敬意を表(ひょう)する者だ!」
 といって検事は、大江山課長の手を強く握った。
「それで青竜王はどうしたんです」
 と大江山が不審がるので、雁金検事は一伍一什(いちぶしじゅう)を手短かに物語り、九時までに彼の電話が懸(かか)って来る筈だったのだと説明した。
「では青竜王は、吸血鬼の犠牲になったのかも知れないじゃないですか。それなら躊躇(ちゅうちょ)している場合ではありません。直(ただ)ちに私たちに踏みこませて下さい」
「うん。……それでは儂も一緒に出かけよう」
 そういって雁金検事は椅子から立ち上った。
 検察官は重大な決心を固めて、奮(ふる)い立った。――そして丸ノ内の竜宮劇場へ――。
 一行の自動車が日比谷の角(かど)を曲ると、竜宮劇場はもう直ぐ目の前に見えた。その名のとおり、夜の幕の唯中(ただなか)に、燦然(さんぜん)と輝(かがや)く百光を浴びて城のように浮きあがっている歓楽の大殿堂(だいでんどう)は、どこに忌(い)むべき吸血鬼の巣があるかと思うほどだった。その素晴らしく高く聳(そび)えている白色の円い壁体(へきたい)の上には、赤い垂れ幕が何本も下っていて、その上には「一代の舞姫(まいひめ)赤星ジュリア一座」とか「堂々続演(ぞくえん)十七週間――赤き苺の実!」などと鮮(あざや)かな文字で大書(たいしょ)してあるのが見えた。ああ真に一代の妖姫(ようき)ジュリア!
 大江山捜査課長の指揮下に、整然たる警戒網が張りまわされた。こうなれば如何に戦慄(せんりつ)すべき魔神(まじん)なりとも、もう袋の鼠同様だった。
「赤星ジュリアは、ちゃんと居るのかい」
 と、雁金検事は入口にいた銀座署長に尋ねた。
「はア、すこし元気がないようですが、ちゃんと舞台に出ています。一向逃げ出す様子もありません」
「そうかネ、フーム……」
 と検事は大きな吐息(といき)をした。そして秘(ひそ)かに覗(のぞ)き穴から、舞台を注視した。なるほど、ギッシリと詰(つま)った座席の彼方(かなた)に、見覚えのある「赤い苺の実」の絢爛(けんらん)たる舞台面が展開していた。扉(ドア)の隙間を通じて、
「あたしの大好きな
 真紅(まっか)な苺の実
 いずくにあるのでしょう
 いま――
 欲しいのですけれど……」
 と、豊潤(ほうじゅん)な酒のような歌声が響いてくるのであった。――ジュリアは確かにいた。同じような肢体をもったダンシング・チームの中央で一緒に急調(きゅうちょう)なステップを踏んでいた。
「幕を締めさせましょうか。そして舞台裏から一時に飛び掛(かか)るんですか……」
「うん、――」と、雁金検事は覗き穴から目を離さなかった。
「検事さん。早くやらないと、青竜王の生命が請合(うけあ)いかねますよ。――」
 と、大江山も日頃の競争意識を捨てて、覆面探偵の身の上を案ずるのであった。
「うん。もうそう永いことではない。エピローグまで待つことにしようじゃないか。――それから青竜王のことだが、彼奴(きゃつ)のことなら、まあ大丈夫だよ」
 と検事は先刻(せんこく)とは打って変って、楽観説を唱えたのだった。
 それには訳があった。――いま舞台の上に、赤星ジュリアの右側の方に、軽いタップダンスを踊っている燕尾服(えんびふく)の俳優は、紛(まぎ)れもなく西一郎だった。つまり覆面をしていない青竜王は何事もなかったように、たいへん楽しげに舞台に跳ねまわっているのだった。雁金検事は前からそれをよく知っていたればこそ、青竜王の肩を持ったのであった。
 だが青竜王は、傍(はた)から見るほど楽しく踊っているわけではなかった。真実彼の胸の中を切り開いてみると、九つの苦悩を一つの意志の力でもって辛(かろ)うじて支えているのだった。彼は既に非常警戒の網が敷かれたことも、舞台の上から見てとった。しかも舞台では、赤星ジュリアが蜉蝣(かげろう)の生命よりももっと果敢(はか)ない時間に対し必死の希望を賭け、救おうにも救いきれない恐ろしき罪障(ざいしょう)をなんとかして此の一瞬の舞台芸術によって浄化(じょうか)したいと願っている。――一つは大洪水(だいこうずい)のような司法の力、一つは硝子(ガラス)で作った羽毛(うもう)のようにまことに脆弱(ぜいじゃく)な魂――その二つの間に挿(はさ)まれた彼、青竜王の心境は実に辛(つら)かった。
 ――なんとかして、最後の舞台を力一杯に勤(つと)めさせたい!
 と彼は思った。だがジュリアの舞台は、もう誰の目にもそれと分るほど光りを失っていた。
「どうも変だな。ジュリアはいまにも倒れてしまいそうじゃないか」
「あたしも先刻(さっき)から、そう思っていたところよ。どうしたんでしょうネ。きっとジュリアは疲れたんでしょう」
 ――ジュリア、どうした!
 と、三階席から無遠慮(ぶえんりょ)な声が飛んだ。
 それが耳に入ったのか、ジュリアはハッと顔をあげたが、その頸(くび)のあたりは短時間のうちにアリアリと痩せ細ってみえた。
 ――ジュリア、帰って睡(ねむ)ってこい!
 と、続いて二階から頓狂(とんきょう)な声が響いた。
 ジュリアはいつの間にか力なく下に垂れた顔を、またハッとあげた。彼女はギリギリと上下の歯を噛み合わせた。が――右手に持った真白な鴕鳥(だちょう)の羽毛(はね)で作った大きな扇(おうぎ)がブルブルと顫(ふる)えながら、その悲痛きわまりない顔を隠してしまった。
「別れの冬木立(ふゆこだち)
 遺品(かたみ)にちょうだいな
 あなたの心臓を
 ええ――
 あたしは吸血鬼……」
 という合唱につられたかのように、ジュリアの顔を隠した羽毛の扇がピクピクと宙を喘(あえ)いだ。――そこで曲目は断層(だんそう)をしたかのように変化し、奔放(ほんぽう)にして妖艶(ようえん)かぎりなき吸血鬼の踊りとなる――この舞台のうちで、一番怪奇であって絢爛、妖艶であって勇壮な大舞踊となる。今夜のジュリアの無気力(むきりょく)では、その辺で一(ひ)と溜(たま)りもなく舞台の上に崩(くず)れ坐るかと思われたが、なんという意外、なんという不思議! 彼女は生れ変ったように溌剌(はつらつ)として舞台の上を踊り狂った。
 ウワーッ! という歓声、ただもう大歓声で、シャンデリヤの輝く大天井(だいてんじょう)も揺(ゆる)ぎ落ちるかと思うような感激の旋風が、一階席からも二階席からも三階席からも四階席からも捲(ま)き起った。
「ジュリア! 世界一のジュリア!」
「われらのプリ・マドンナ、ジュリア!」
「殺してくれい、ジュリア!」
「百万ドルの女優!」
 と、後はなにがなんだか、破(わ)れかえるような騒ぎで、合唱も器楽も揉(も)み消されてしまった。実に空前(くうぜん)の大喝采(だいかっさい)、空前の昂奮だった。――何がジュリアをこうも元気づけたか?
 一番前の列にいた勇少年は、隣りの大辻の腕をひっぱって叫んだ。
「ああ、たいへんだ。あれ御覧よ。白い鴕鳥の扇から、真赤な血が飛び散っているよ」
「呀(あ)ッ。――これはいけない。ホウあのようにジュリアの衣裳の上から血がタラタラと滴(したた)れる!」
 しかし他の者は、昂奮の渦巻の中に酔って、そんなことに気のつく者は一人もなかった。ワーッワーッと、まるで闘牛場のような騒ぎだった。――その嵐のような歓呼の絶頂(ぜっちょう)に、わが歌姫赤星ジュリアはパッタリ舞台に倒れて虫の息となってしまった。間髪(かんぱつ)を入れず、舞台監督の機転で、大きな緞帳(どんちょう)がスルスルと下りた。それがジュリアの最後の舞台だった。
 青竜王の西一郎は、誰よりも真先(まっさき)に飛んで来て、ジュリアを抱き起した。
「ジュリアさん。どうしたんです。しっかりしなさい、ジュリアさん」
 ジュリアはまるで意識がなかった。
「早く医者を呼んで……」
 青竜王は誰にともなく命じると、そのままジュリアを抱(かか)えあげて、とっとっと三階の彼女の部屋にまで運んだのであった。
 扉(ドア)をあけて入ると、室の中央にはいつになく大きなソファが出してあり、その上には真白の絹の布(きれ)がフワリと掛けてあった。
「ああ、これがジュリアの覚悟(かくご)だったんです」
 そういって青竜王は、ジュリアをソッとその白絹(しろぎぬ)の上に横たえた。――右の上膊(じょうはく)に、喰い切ったような傷口があって、そこから鮮かな血を噴(ふ)いているのが発見されたのもこの時だった。傷口は直ちに結ばれたけれど、それは彼(か)の深傷(ふかで)にとって、何の足しにもならなかった。
 近所の医師が、看護婦を連れて飛びこんで来て、早速(さっそく)診察をしたけれど、その後で医師は不機嫌に首を振って、一語も喋(しゃべ)ろうとはしなかった。
「ジュリアさん。僕が分るかい。僕は一郎だよ」
 といって、青竜王はジュリアの額を撫(な)でてやった。その声が感じたのか、ジュリアは微(かす)かに目を開いた。そして苦しそうに口を動かしていたが、やっとのことで、
「千鳥さんにも、詫(わ)びてちょうだい。……お二人して……祈ってネ……」
 とまで云ったかと思うと、俄(にわ)かに胸を大きく波うたせて、息を引取ってしまった。
「ああ、お気の毒なことをしました。最早(もはや)、御臨終(ごりんじゅう)です」
 と医師は脈を握っていた手を離して、ジュリアの遺骸(いがい)に向い恭(うやうや)しく敬礼をした。
 先ほどから、ジュリアの身体より遠くの方に遠慮していた雁金検事と大江山捜査課長とは、このとき目交(めくば)せをすると、静かにジュリアの枕許(まくらもと)に歩をうつして、ジュリアの冥福を祈念(きねん)した。
「ジュリアさんの最後の舞台を見てくれましたか」と一郎は二人に声をかけた。
 二人は軽く肯(うなず)いた。
「あの最後を飾った素晴らしい踊は、ジュリアが吾れと吾が血潮を吸って、その勢いでもって踊ったのです。今日という今日まで、まさか自分の血潮を啜(すす)ろうとは思っていなかったでしょうに……」
 といって、一郎は暗然(あんぜん)と涙を嚥(の)んだ。そして懐中を探(さ)ぐると一と揃いの覆面を出して、ソッとジュリアの枕辺に置いた。――これを見た大江山は始めて気がついたらしく、ハッと一郎の顔を睨(にら)んだ。
「ジュリアの死と共に、覆面探偵も死んでしまったのです。もう探偵をするのが厭(いや)になりました」
 そういって青竜王ならぬ一郎は、卓越(たくえつ)した手腕(しゅわん)を自(みずか)ら惜し気もなく捨ててしまった。
 ジュリアの遺骸は、彼女と仲のよかった舞姫(まいひめ)たちが、何処からともなく持ってくる白い百合(ゆり)やカーネイションやマガレットの花束で、見る見るうちに埋(うず)もれていった。
     *   *   *
 一郎は臨終のジュリアから頼まれたとおりの謝罪のことを矢走千鳥(やばせちどり)に伝えることを忘れなかった。そして、これもジュリアの望んでいたように、彼は千鳥と結婚をした。二人の仲は極めて円満(えんまん)である。
「君は(――と一郎は愛妻(あいさい)のことを今もこう呼んでいた)青竜王と一郎とが同じ人物だったということを、ジュリアさんの亡(な)くなった時まで知らなかったろう」
「アラ自惚(うぬぼ)れていらっしゃるのネ。一郎さんが青竜王だってことは、ゴルフ場の浴室から素ッ裸のあたくしを伯父さんの病院に運んで下さった、そのときから知ってましたわ」
「へえ、そうかネ」
「へえそうかネ――じゃありませんわ。あのとき自動車の中であたくしは薄目(うすめ)を開いてみたんですの。貴下(あなた)の覆面は完全でしたけれど、その下から覗いているネクタイが一郎さんのと同じでしたわ。そこでハハンと思っちゃったのよ」
「そうかネ、それは大失敗だ。……しかし僕が自分より一枚上手の名探偵を妻君(さいくん)にしたことは大成功だろう。はッはッはッ」




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