恐怖の口笛
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著者名:海野十三 

 それから大江山課長は経験で叩きあげたキビキビさでもって、捜査すべき当面の問題を一々数えあげたのだった。
「第一に、生死(せいし)のほども確かでないキャバレー・エトワールの主人オトー・ポントスを探しだすこと。第二に、痣蟹の乗って逃げた竜宮劇場の気球がどこかに墜(お)ちてくる筈だから、全国に手配して注意させること。それと同時に痣蟹の屍体(したい)が、気球と一緒に墜ちているか、それともその近所に墜ちているかもしれぬから注意すること。但(ただ)し従来(じゅうらい)の経験によると四十八時間後には、気球は自然に降下してくるものであること。第三に、覆面探偵を見かけたらすぐ課長に報告すること。以上のことを行うについて、次のような人員配置にする。――」
 といってその担当主任や係を指名した。一同は何(なん)でも彼(か)でも、それを突きとめて、課長の賞讃(しょうさん)にあずかりたいものと考えた。
 そんな物騒(ぶっそう)な話が我が身の上に懸けられているとも知らぬ覆面探偵青竜王は、竜宮劇場屋上の捕物(とりもの)をよそに、部下の勇少年と電話で話をしていた。
「それで勇君が、ポントスの部屋の隠(かく)し戸棚(とだな)から発見した古文書(こもんじょ)というのはどんなものだネ」
「僕には判(わか)らない外国の文字ばかりで、仕方がないから大辻さんに見せると、これがギリシャ語だというのです。大辻さんは昔勉強したことがあるそうで、辞書をひきながらやっと読んでくれましたが、こういうことが書いてあるそうですよ。――明治二年『ギリシャ』人『パチノ』ハ十人ノ部下ト共ニ東京ニ来航シテ居ヲ構エシガ、翌三年或ル疫病ノタメ部下ハ相ツギテ死シ今ハ『パチノ』独リトナリタレドモ、『パチノ』マタ病ミ、命数ナキヲ知リ自ラ特製ノ棺ヲ造リテ土中ニ下リテ死ス――それからもう一つの文書(ぶんしょ)は比較的新らしいものですが、これには――『パチノ』ノ墓穴ハ頻々(ヒンピン)タル火災ト時代ノ推移ノタメニ詳(ツマビラ)カナラザルニ至リ、唯(タダ)『ギンザ』トイウ地名ヲ残スノミトハナレリ。マタ『パチノ』ガ『オスミ』と称スル日本婦人ト契リシガ、彼女ハ災害ニテ死シ、両人ノ間ニ生レタル一子(姓不詳)ハ生死不明トナリタリ。ソレト共ニ『パチノ』ノ墓穴ニ関スル重要書類ハ紛失シ、只本国ヘ送リタル二三ノ通信ト『パチノ』ノ墓穴廓内(カクナイ)ノ建築図トヲ残スノミナリ――というのです。聞いてますか、青竜王(せんせい)」
「イヤ熱心に聴いているよ。それで分った。キャバレーの主人ポントスも、本国からそのパチノの墓穴探しに来ているのだ。その一方(いっぽう)、痣蟹もたまたまこの秘密を嗅(か)ぎだして、本国で墓穴の建築図などを手に入れ、日本へ帰って来たのだ。すべての秘密はそのパチノ墓穴に秘められているのだよ。パチノ墓穴の場所については、いささか存(ぞん)じよりがあるが、しかしパチノの遺族を捜し出すのはちょっと骨が折れるネ。しかし何事(なにごと)も墓穴の中に在ると思うよ。では勇君、――」
「待って下さい。青竜王(せんせい)はいま何処(どこ)にいるのです。これから何処へ行くのですか」
「僕のことなら、決して心配しないがいいよ。――」
 そういって青竜王は受話器をかけた。心配でたまらない勇少年は、電話局に問いあわせると、なんと不思議なことに、青竜王のかけた電話は、やはり竜宮劇場の中のものだった。彼は一体どこに姿を秘めているのだろう。
 それから空しく二日の日が過ぎた。
 事件は一向思うように解決しなかったが、その代り、新たな吸血鬼事件も起らなかった。とうとう吸血鬼は滅(ほろ)んだのであろうか。
 詳(くわ)しく云うと七日の午後になって、痣蟹の乗って逃げた気球が、箱根(はこね)の山林中に落ちているのが発見された。しかし変なことに、その気球は枯れ葉の下から発見されたのであった。そして問題の痣蟹の死体はどこにも見当らなかったという。――この報告に管下の警察は一斉に痣蟹の屍体発見に活動を開始した。
 同じくその夜のことであった。赤星ジュリアの楽屋に西一郎が来合せているとき、どこからともなく電話がジュリアの許に懸ってきた。電話口へ出てみると、相手は覆面探偵の青竜王だといった。
「青竜王ですって。まあ、あたくしに何の御用ですの」とジュリアは訝(いぶか)った。
 すると電話の声は、痣蟹の気球が発見されたが、屍体の見当らないこと、それから夕暮に箱根の山下である湯元(ゆもと)附近の河原(かわら)で痣蟹らしい男が水を飲んでいるのを見かけた者のあること、そして念のために後から河原へ行ってみると、紙片(かみきれ)が落ちていて、開いてみると血書(けっしょ)でもって「パチノ墓穴を征服」としたためてあったことを知らせた。
「パチノの墓穴を征服ですって」とジュリアはひどく愕(おどろ)いたらしく思わず声を高らげて問いかえした。
 電話の声は、そうです、なんのことか分らないが、確かにパチノと書いてありますよ、と返辞(へんじ)をして、その電話を切った。ジュリアは倒れるように、安楽椅子(あんらくいす)に身を投げかけた。
 西一郎は、電話の終るのを待ちかねていたように、ジュリアに云った。
「青竜王本人が電話をかけて来たんですか」
「ええ、そうよ。――なぜ……」
「はッはッ、なんでもありませんけれど」
 そういった一郎の態度には、明(あきら)かに動揺の色が見えたが、ジュリアは気がつかないようであった。
 青竜王の懸けた電話とは違って、本庁の方へは深更(しんこう)に及んでも「痣蟹ノ屍体ハ依然トシテ見当ラズ、マタ管下(カンカ)ニ痣蟹ラシキ人物ノ徘徊(ハイカイ)セルヲ発見セズ」という報告が入ってくるばかりで、大江山課長の癇癪(かんしゃく)の筋(すじ)を刺戟するに役立つばかりだった。
 その真夜中(まよなか)、時計が丁度(ちょうど)十二時をうつと間もなく、今は営業をやめて住む人もなく化物屋敷(ばけものやしき)のようになってしまったキャバレー・エトワールの地下室の方角にギーイと、堅(かた)い物の軋(きし)るような物音が聞えた。エトワールの表と裏とには、制服の警官が張りこんでいるのだったけれど、この地底の小さい怪音(かいおん)は、彼等の耳に達するには余りに微(かす)かであった。一体(いったい)誰がその怪(あや)しい音をたてたのだろう。
 このとき若(も)し地下室を覗(のぞ)いていた者があったとしたら、隅(すみ)に積(つ)んだ空樽(あきだる)の山がすこし変に捩(ね)じれているのに気がついたであろう。いやもっと気をつけて見るなれば、その空樽を支(ささ)えた壁体(へきたい)の隅が縦(たて)に裂(さ)けて、その割れ目に一つの黒影が滑(すべ)りこんだのを認めることができたであろう。
 そこは隠されたる秘密階段で、さらにまた深い地底へ続いていた。用心ぶかくソロソロと降りてゆく黒影の人物の手は休みなしに懐中電灯の光芒(こうぼう)の周囲(まわり)の壁体を照らしていた。そのうちにどうした拍子(ひょうし)かその反射光(はんしゃこう)でもって顔面(がんめん)がパッと照らしだされたが、それを見ると、この黒影の人物は、かなりがっちりした骨組(ほねぐみ)の巨人で、眼から下を黒い布(ぬの)でスッポリと覆い、頭には帽子の鍔(つば)を深く下げていた。覆面の怪漢――そういえば、これは例の問題男の青竜王と寸分ちがわぬ服装をつけていた。おお、いよいよ青竜王が乗りこんで来たのであろうか。
 彼は静かに階段を下りていった。下はかなり広いらしい。江戸時代の隠(かく)し蔵(ぐら)というのはこんな構造ではなかったか。――下では何をしているのか、ときどきゴトリゴトリという物音が聞えるばかりで、いつまで経(た)っても彼は出てこなかった。恐ろしい静寂(せいじゃく)、恐ろしい地底の一刻!
 そのとき、どこかで微かに口笛の音がしたと思った。それは気のせいだったかも知れないと人は疑(うたが)ったろう。しかしそれは確かに口笛に違いなかった。次第に明瞭(めいりょう)になる旋律(メロディ)。ああそれは赤星ジュリアの得意な「赤い苺の実」の旋律――しかしこの場合、なんという恐ろしい口笛であったろう。暗い壁が魔物のように、かの怪しい旋律を伴奏した。……と、突如――まったく突如として、魂切(たまぎ)るような悲鳴が地底から響いて来た。
「きゃーッ、う、う、う……」
 しかし、それきりだった。悲鳴は一度きりで、再び聞えてこなかった。
 戦慄(せんりつ)すべき惨劇が、その地底で行われたのだった。その現場(げんじょう)へ行ってみよう。
 これはまた何という無惨なことだ。――そこはもう行(ゆ)き止(どま)りらしい地底の小室(こべや)だった。一人の男が、虚空(こくう)をつかんでのけ反(ぞ)るように斃(たお)れている。その傍には大きな箱が抛(ほう)り出してある。蓋を明け放しだ。中から白いものがチラと覗いているが、よく見れば気味の悪い骸骨(がいこつ)だった。そしてそのまわりには丸い金貨がキラキラと輝いている。金貨は地面にもバラバラと散乱している。その側(そば)には一片のひきちぎれた建築図が落ちている。それは痣蟹の秘蔵(ひぞう)の図面(ずめん)に違いなかった。――それ等の凄惨(せいさん)な光景は、一つの懐中電灯でまざまざと照らし出されているのであった。
 懐中電灯は静かに動く。――そして函の陰へ隠れている斃死者(へいししゃ)の顔面を照らし出す。まず、目につくのは、鋭い刃物で抉(えぐ)ったような咽喉部(いんこうぶ)の深い傷口――うん、やっぱりさっき口笛が聞えたとき、残虐(ざんぎゃく)きわまりなき吸血鬼が出たのだ。帽子は飛んでしまっているが、グッと剥(む)きだした白眼の下を覆う黒い覆面の布。おお、これは先刻(さっき)この地底へ下っていった黒影の人物だった。そして知っている人ならば、誰でもこれがいま都下(とか)に名高い覆面探偵青竜王だと云い当てたろう。ああ、青竜王は殺されたのだ。なぜこんな地底でムザムザと殺されてしまったのだろう。
「いいですか。この覆面を取ってみましょう」
 闇の中から男の声がした。それは懐中電灯を持っている人物の声だろう。
 光芒の中に、一本の腕がヌッと出てきた。それは屍体の覆面の方に伸び、黒い布を握った。ずるずると覆面は剥(は)がれていった。そして果然(かぜん)その下から生色を失った一つの顔が出て来た。ああ、その顔、その顔、蝋(ろう)のようなその顔の、その頬には醜(みにく)い蟹の形をした痣(あざ)が……
「おお、これは痣蟹仙斎(あぎがにせんさい)……」
 なんということだ。覆面探偵というのは、痣蟹仙斎だったのか。しかし不思議だ。そんなことが有り得るだろうか。だがここに無惨なる最期(さいご)を遂(と)げているのは、正に兇賊(きょうぞく)痣蟹に違いなかった。
「貴女(あなた)は失踪中のポントスのことを云うが、しかし誰でも貴女の釈明を要求しますよ」
 と懐中電灯の男はいう。どっかで聞いた声音(こわね)である。
「いいえ、あたしは犯人じゃありません。このジュリアは貴方の電話でうまく此処(ここ)へ誘(さそ)いだされたのです。陥穽(わな)です、恐ろしい陥穽なんです。ああ、あたし……」
 と、よよと泣き崩れる声は、意外にも今を時めく、龍宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアに違いなかった。
 それで解った。ここはパチノの墓穴なのだ。この深夜(しんや)、一体何ごとが起ったというのであろう。ジュリアを責(せ)める男は誰人(だれ)? そして地底に現われた吸血鬼は、そも何処に潜(ひそ)める?


   生か死か、覆面探偵


 帝都の暗黒界からは鬼神(きしん)のように恐れられている警視庁の大江山捜査課長は、その朝ひさかたぶりの快(こころよ)い目覚(めざ)めを迎(むか)えた。それは昨夜(ゆうべ)の静かな雨のせいだった。それとも痣蟹仙斎が空中葬(くうちゅうそう)になって既に四日を経(へ)、それで吸血鬼事件も片づくかと安心したせいだったかもしれない。――課長は寝衣(ねまき)のまま、縁側(えんがわ)に立ち出でた。
「――手を腰に膝を半ば曲げイ、足の運動から、用意――始めッ!」
 ラジオが叫ぶ一(イチ)イ二(ニ)イ三(サン)ンの号令に合わせて、課長は巨体をブンブンと振って、ラジオ体操を始めた。彼は何とはなしに、子供のような楽しさと嬉しさとが肚(はら)の底からこみあげて来るのを感じた。
「よしッ! この元気でもって、帝都市民の生活を脅(おびや)かすあらゆる悪漢どもを一掃(いっそう)してやろう」
 課長はその悪漢どもを叩きのめすような手附きで、オ一(イ)チ二(ニ)イと体操を続けていった。しかしその楽しさも永くは続かなかった。そこには大江山捜査課長の自信をドン底へつき落とすようなパチノ墓地(ぼち)の惨劇(さんげき)が控えていたのであった。昨夜(さくや)起ったそのパチノ墓地事件の知らせは、雁金検事からの電話となって、ジリジリと喧(やかま)しく鳴るベルが、課長のラジオ体操を無遠慮(ぶえんりょ)に中止させてしまった。
「お早ようございます。ええ、私は大江山ですが……」
「ああ、大江山君か」と向うでは雁金検事の叩きつけるような声がした。――御機嫌がよくないナ、「君の部下はみんな睡眠病に罹(かか)っているのかネ。もしそうなら、皆病院に入れちまって、憲兵隊の応援を申請(しんせい)しようと思うんだが……」
 検事の言葉はいつに似合わず針のように鋭かった。
「え、え、一体どうしたのでしょうか。私はまだ何も知らないんですが……」
「知らない? 知らないで済むと思うかネ。すぐキャバレー・エトワールの地下に入ってパチノ墓地を検分(けんぶん)したまえ。その上でキャバレーの出入口を番をしていた警官たちを早速(さっそく)、伝染病研究所へ入院させるんだ。いいかネ」
 ガチャリと、電話は切れてしまった。こんなに検事が怒った例を、大江山は過去に於(おい)て知らなかった。エトワールの張番がどうしたというのだろう。パチノ墓地というのは何のことだろう?
 彼は狐に鼻をつままれたような気持で暫(しばら)くは呆然(ぼうぜん)としていたが、やがてハッと正気(しょうき)にかえって、急いで制服を身につけ短剣を下げると、門前に待たせてあった幌型(ほろがた)の自動車の中に転がりこむように飛び乗った。
「オイ大急ぎだ。銀座のキャバレー・エトワールへ。――十二分以上かかると、貴様も病院ゆきだぞ!」
 運転手は何故そんなことを云われたのか解(げ)せなかったが、病院へ入れられては溜(たま)らないと思って、猛烈なスピードで車を飛ばした。
 キャバレーには雁金検事が既に先着(せんちゃく)していて、埃(ほこり)の白く積ったソファに腰を下ろし、盛んに「朝日」の吸殻(すいがら)を製造していた。そして大江山課長が顔を出すと、
「ああ大江山君、悦(よろこ)んでいいよ。儂(わし)たちはまた夕刊新聞に書きたてられて一段と有名になるよ。全(まった)く君の怠慢(たいまん)のお陰だ」
 鬼課長はこれに応える言葉を持っていなかった。それで現場検分(げんじょうけんぶん)を申出でた。検事は点(つ)けたばかりの煙草を灰皿の中へ捨てながら、「儂は君が検分するときの顔を見たいと思っていたよ」と喚(わめ)いたが、そこで急に声を落して、日頃の雁金検事らしい口調になり、「全く、君のために特別に作られた舞台のようなのだ。しかし先入主はあくまで排撃(はいげき)しなけりゃいかん」
 妙なことを云われると思いつつ、課長は雁金検事の先に立って、地下の秘密の通路から、地底に下りていった。地底には無限の魅惑(みわく)ありというが、その魅惑がよもやこのさんざん検(しら)べあげたキャバレーの地底にあろうとは思いもつかなかったことであった。――崩れかかったような細い石造(せきぞう)の階段が尽(つ)きていよいよ例のパチノ墓穴に入ると、そこには急設(きゅうせつ)の電灯が、煌々(こうこう)と輝いて金貨散らばる洞窟(どうくつ)の隅から隅までを照らし、棺桶の中の骸骨(がいこつ)も昨夜(さくや)そのまま、それから虚空(こくう)を掴(つか)んで絶命(ぜつめい)している痣蟹仙斎の屍体もそのままだった。ただ昨夜(ゆうべ)の場面に比べると、竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアと、それに寄りそって懐中電灯を照らしていた疑問の男とが、居ないところが違っていた。
「やっぱりそうだ!」
 と、大江山課長はその場へ飛びこむなり叫んだ。
「覆面探偵の青竜王は、やはり痣蟹だったのだ」と倒れている痣蟹仙斎の服装を指しながら「どうですか検事さん。覆面探偵が怪しいと申上げておいたことも、無駄ではなかったですネ」
「いいや、やっぱり無駄かも知れない。これは痣蟹の屍体とは認めるけれど、青竜王の屍体と認めるのにはまだ早い。……君のために作られたような舞台だといったのは、実はこれなのだ。つまり青竜王の覆面を取れば痣蟹であるという誤(あやまり)が起るように用意されてある。……」
「では検事さんは、これを見ても、痣蟹が青竜王に化けていたとは信じないのですか」
「それはもちろん信じる。しかし真の青竜王が痣蟹だったということとは別の問題だ」
 といった検事は、痣蟹を青竜王とは信じない面持(おももち)だった。
「大江山君、その問題は後まわしとして、この痣蟹は、明らかに吸血鬼にやられているようだが、君はどう思うネ」
「ええ、確かに吸血鬼です。この抉(えぐ)りとられたような頸(くび)もとの傷、それから紫斑(しはん)が非常に薄いことからみても、恐ろしい吸血鬼の仕業(しわざ)に違いありません」
「すると、痣蟹が吸血鬼だという君のいつかの断定(だんてい)は撤回(てっかい)するのだネ」
 捜査課長は検事の面(おもて)を黙って見詰めていたが、しばらくして顔を近づけ、
「おっしゃる通り、痣蟹が吸血鬼なら、こんな殺され方をする筈(はず)がありません。吸血鬼は外(ほか)の者だと思います」
「では撤回したネ。――すると本当の吸血鬼はどこに潜(ひそ)んでいるのだ。もちろん大江山君は、吸血鬼が覆面探偵・青竜王だとはいわないだろう」
「もちろんです。――実をいえば、私は最初吸血鬼は痣蟹に違いないと思い、次に青竜王かも知れぬと思ったんですが、両方とも違うことが分りました。外に怪(あや)しいと睨んでいるのは、最初の犠牲者四郎少年の兄だと名乗る、西一郎だけになるのですが……」と、其処(そこ)まで云った課長は急に口を噤(つぐ)んで、あたりを見廻わした。それは冒険小説に出てくる孤島(ことう)の洞窟のような実に異様な光景だった。「このパチノ墓地とかが飛び出して来たのでは、見当もなにもつかなくなりましたよ。一体これはどうしたことですかな」
 そこで雁金検事は、パチノ墓地について、既に記(しる)したとおりの伝奇的(でんきてき)な物語をして聞かせ、「つまりパチノは皇帝の命令をうけ、莫大(ばくだい)な財宝(ざいほう)を携(たずさ)えて、日本へ遠征してきたが、志(こころざし)半(なか)ばにして不幸な死を遂(と)げたというわけさ」
 大江山課長は、あまりにも奇異なパチノ墓地の物語に、しばらくは耳を疑(うたが)ったほどだったが、彼の足許(あしもと)に転(ころ)がっている骸骨や金貨を見ると、それがハッキリ現実のことだと嚥(の)みこめた。
「その物語にある莫大な財産というのは、僅かこればかりの滾(こぼ)れ残ったような金貨だの宝石なのでしょうか」
 と大江山課長は不審(ふしん)げに云った。
「そうだ、儂が来たときから、この通り荒らされているのだが、もちろん既に何者かが財宝を他へ移したのに違いない。そいつは吸血鬼か、それとも痣蟹の先生だかの、どっちかだろう」
「イヤまだ重大な嫌疑者(けんぎしゃ)があります」と大江山は叫んだ。
「誰のことかネ」
「それはこのキャバレーの主人オトー・ポントスです。あいつがやっていたのでしょう」
「ポントスはどこかに殺されているのじゃないか。いつか部屋に血が流れていたじゃないかネ」
「そうでした。でも私はあのときから別のことを考えていました。それが今ハッキリと思い当ったんですが、ポントスは殺されたように見せかけ、実はこの莫大な財産とともに何処かへ逐電(ちくでん)してしまったのじゃないでしょうか。悪い奴(やつ)のよくやる手ですよ」
「そういう説もあるにはあるネ」
 と雁金検事は、冷(ひや)やかに云った。大江山は検事の反対らしい面持を眺めていたが、
「――それで検事さんは、この事件をどうして知られたのですか。それから今お話のパチノ墓地の物語などを……」
 検事はそれを訊(き)かれるとニヤリと笑(え)みを浮べ、「それは今朝がた、もう死んだものと君が思っている青竜王が邸(やしき)へやって来て、詳(くわ)しい話をしていったよ」
「なんですって、アノ青竜王が……」
 大江山は検事の言葉が信じられないという面持だった。青竜王すなわち痣蟹は、そこに死んでいるではないか。
「そうだよ。彼は昨夜(さくや)十二時、ここへ忍びこんだそうだ。すると、例の恐怖の口笛を聞きつけた。これはいけないと思う途端に、おそろしい悲鳴が聞えた。近づいてみると、痣蟹が自分の服装をして死んでいたというのだ」
「ああ青竜王! するとこれは偽(に)せ物で、本物の方は、やっぱり生きていたのか」
 大江山課長はそういって、大きな吐息(といき)をついた。


   ゴルフ場にて


 大江山捜査課長は後を部下に委(まか)せて、一旦本庁へかえったが、覆面探偵がまだ健在だと聞いて、立っても据(すわ)ってもいられなかった。なんという恐ろしい相手だろう。彼は自分の部下の警戒線をドンドン破って潜入(せんにゅう)し、それからパチノ墓地の秘密などをテキパキと調べてゆくことなど、実に鮮(あざや)かだった。雁金検事が彼の云うことを信用しているのもどっちかというと、無理はなかった。
「強敵(きょうてき)の覆面探偵よ?」
 大江山は今や決死的覚悟を極(き)めた。このままでは、これから先、彼の後塵(こうじん)ばかりを拝(おが)んでいなければならないだろう。
「よオし、やるぞ!」と課長は思わず卓子(テーブル)をドンと叩いた。「第一になすべきことはポントスの行方(ゆくえ)を探しあてることだ。彼奴(きゃつ)が吸血鬼であるか、さもなければ吸血鬼を知っているに違いない。覆面探偵の方はいずれ仮面をひっ剥(ぱ)いでやるが、彼からポントスのことやパチノ墓地のことを十分吐きださせた後からでも遅くはないであろう」
 課長はポントスの行方に、彼の首をかけた。直(ただ)ちに特別捜査隊を編成して、それに秘策(ひさく)を授(さず)けて出発させた。そして彼は勇(ゆう)を鼓(こ)して、単身、青竜王の探偵事務所を訪ねた。――
「青竜王(せんせい)は不在ですよ、課長さん」出て来た勇少年は気の毒そうな顔もせず、むき出しに答えた。
「何処へ行くといって出掛けたのかネ」
「玉川(たまがわ)の方です。骸骨(がいこつ)のパチノとお澄(すみ)という日本の女との間に出来た子供のことについて調べに行くと云っていましたよ」
「なんだって?」課長は頭をイキナリ煉瓦(れんが)で殴(なぐ)られたような気がした。一体青竜王はどこまで先まわりをして調べあげているのだろう。折角(せっかく)勇気を出したものの、これでは到底(とうてい)太刀打(たちう)ちが出来ないと思った。しかしまだ間に合うかも知れない。「その子供というのはポントスのことじゃないのかネ」
「ポントスは本当のギリシア人ですよ。あいつはパチノ墓地を探しに来て、その墓地の上だとは知らずに、あのキャバレーを開いていたのです」
「ポントスでなければ誰だい。それとも痣蟹かネ」
「痣蟹は日本人ですよ。青竜王が探しているのは混血児ですよ」
 混血児を探しに玉川へ行った――ということを聞きだした大江山は、鬼の首でも取ったような気がした。これなら或いは分らぬこともあるまい。
 大江山課長は玉川へ自動車を飛ばした。しかし玉川という地域は、人家こそ疎(まば)らであったが、なにしろ広い土地のことだから、どこから調べてよいか見当がつかない。そこで彼は、なるべく混血児の出没(しゅつぼつ)しそうなところはないかと思ったので、秋晴(あきばれ)の停留場の前に立っている土地の名所案内をズラリと眺めまわしたが、そこで目に留(とま)ったのは、「玉川ゴルフ場」という文字だった。
 ゴルフ場に混血児――はちょっと似つかわしいと思った。彼は雁金検事に誘(さそ)われて、いささかゴルフを嗜(たしな)んだ。この秋晴れにゴルフは懐(なつか)しいスポーツであったが、なんの因果(いんが)か、今日は懐しいどころか、わざわざお苦しみのためにゴルフ場を覗(のぞ)きに行かねばならないことを悲しんだ。
 車を玉川ゴルフ場に走らせたまではよかったけれど、クラブの玄関をくぐるなり、
「いよオ、大江山君。これはどうした風の吹きまわしだい」
 と背中を叩く者があった。ハッと思って後をふりかえってみると、そこには思いがけなくも、雁金検事がゴルフ・パンツを履いてニヤニヤ笑っていた。そればかりではない。検事の後には、彼の馴染(なじみ)の顔がズラリと並んでいたので駭(おどろ)いた。それは蝋山教授、西一郎、赤星ジュリア、矢走千鳥(やばせちどり)という面々で、これでは吸血鬼事件の関係者大会のようなものだった。ただ肝腎(かんじん)の覆面探偵青竜王とキャバレーの主人ポントスとが不足していたが、この二人もどこからか現れてきそうであった。
「丁度(ちょうど)いい。一緒にホールを廻ろうじゃないか」と検事は腕を捉(とら)えた。
「ぜひそう遊ばせな。――」とジュリアたちも薦(すす)めた。
 結局大江山課長は、その仲間に入った。背広を着てきたので、恥をかかずに済(す)んだのは何よりだった。
 最初の競技は二組に分れることになった。ジャンケンをすると、第一組は雁金検事、蝋山教授に矢走千鳥、第二組は大江山と西一郎に赤星ジュリアと決まった。
 まず第一組が球(ボール)をティに置いては、一人一人クラブを振って打ち出していった。それから五分ほど遅れて、第二組がティの上に立った。
「課長さんのお相手をしようなどとは、夢にも思っていませんでしたわ」
 とジュリアが笑った。
「課長さん――は競技の間云わないことにしましょうよ、お嬢さん」
「あら――ホホホホ」
 大江山はすっかりいい気持になってしまった。――ジュリアが最初に打ち、次に大江山が打った。一番あとを西一郎が打つと、三人はキャデーを連れて、青い芝地の上をゾロゾロ球(ボール)の落ちた方へ歩きだした。
「君たちに会おうとは思いがけなかった」
 と、課長は一郎の方を向いて破顔(はがん)した。
「雁金さんのお誘いなんです。丁度ジュリア君も元気がないときだったんで、たいへんよかったですよ」と一郎が答えた。
「ほう、お嬢さんはどこか悪いのかネ」
「あら、嘘。――このとおり元気ですわよ」
 といったが、第一の球はジュリアが一番成績が出なかった。
 第二のティで球を打つと、ジュリアの球は横に曲(まが)って、一時二人に離れた。
「オイ西君」と課長は冗談ともなくそっと連れに囁(ささや)いた。「このあたりに混血児はいないかネ」
「混血児で一番近いのは、アレですよ」と一郎はジュリアの方を指(ゆびさ)した。
「なにジュリアか」とハッとした風であったが、「そう云われると、なるほどジュリアは混血児みたいなところがあるが……私の云っているのは、この玉川附近にもう七十歳ぐらいになる混血児が住んでいるのを知らないかというのだ」
「そんなのは居ませんよ」
「いないというのかネ。君はハッキリ云うから愉快だ、何も知らない癖(くせ)に……」
 と独(ひと)り合点(がてん)の課長は、斜(ななめ)ならざる機嫌に見えた。しかし後に分るようにこれらの会話は決して冗談ではなかった。それが持つ重大な意味が今課長に分っていたとしたら、彼はそんなに恵比寿顔(えびすがお)ばかりはしていられなかったであろう。――ジュリアは球(ボール)をグリーンに入れて、二人の方へ手をさしあげた。
 第三のコースでは、また三人が一緒になって球を打っていった。
「君たちはだいぶ仲がいいようだが、まだ私に媒酌(なこうど)を頼みに来ないネ」と課長は更に機嫌がよかった。
「よして下さい。ジュリア君の人気に障(さわ)りますよ」と一郎が打ち消すのを、ジュリアは、
「あら、あたしは課長さんにぜひお願いしたいわ。でも一郎さんは、あたしがお嫌いなのよ。どうせあたしは独りぽっちで、地獄へ墜(お)ちてゆくのだわ――」
 とジュリアはヒステリックに云って、ハンカチーフを鼻に当てた。彼女の打数(だすう)はいよいよ荒れていった。
 そんな風にして、コースを一巡(じゅん)した結果は、大江山がズバ抜けて成績がよく、ずっと落ちて普通の成績を示したのが蝋山教授と矢走千鳥で、雁金検事も西一郎も更に振わず、ジュリアに至っては荒れ切った悪成績だった。
「イヤ恐ろしい成績表だ。全く恐ろしい」
 と雁金検事は首を振って一郎の顔をみた。
「全く、こんなに恐ろしく打てようとは、当人の方で面喰(めんくら)っているところですよ」
 と大江山課長は自分のことが問題にされているんだと早合点(はやがてん)して、極(きま)り悪(わ)る気(げ)にいった。
「時間があれば、もっと廻りたいのだが……」
 と検事が云ったが、凄(すご)い当りをみせた大江山も至極(しごく)同感(どうかん)だった。しかしジュリア達の出演時刻のこともあるので、時間が足りないから止(や)めにした。その代り検事と課長は練習場で、球(ボール)を戞(か)ッ飛ばしに出ていった。ジュリアと千鳥とは、その間にクラブ館(ハウス)の奥にある噴泉浴(ふんせんよく)へ出かけた。蝋山教授と一郎とは、青々としたグリーンを眺められる休憩室の籐椅子(とういす)に腰を下ろして、紅茶を注文した。こうして六人の同勢は三方に別れた。
 大江山課長は人気のない練習場でクラブを振りながら、雁金に話しかけた。
「検事さん。今日の集りの真意(しんい)はどこにあるのですかなア」と先刻(さっき)から聞きたかったことを尋(たず)ねた。
「うん――」と雁金は振りかけたクラブを止めて、「儂(わし)にもよく分らぬが、これは青竜王の注文なのだ」
「えッ、青竜王の注文?」と課長はサッと青ざめた。
「彼はゲームの結果を知りたがっていた。さし当(あた)り、君の大当りなんか、何といって彼が説明するだろうかなア。はッはッはッ」
 外国の名探偵が、真犯人を探し出すために、嫌疑者(けんぎしゃ)を一室にあつめてトランプ競技をさせ、その勝負の模様によって判定したという話を聞いたことがあるが、青竜王はそれに似たことをやるのではあるまいか。とにかく課長は憂鬱(ゆううつ)になって、俄(にわ)かに球(ボール)が飛ばなくなった。
「検事さん。青竜王は貴方がたにゴルフをさせて置いて、自分はこの玉川でパチノの遺族を探しているそうですが、御存知ですか」
「そうかも知れないネ」
「では青竜王の居るところを御存知なんですネ。至急会いたいのです。教えて下さい」
「教えてくれって? 君が行って会えばいいじゃないか」
 検事は妙な返事をした。課長は検事が機嫌を損(そん)じたのだと思って、あとは口を噤(つぐ)んだ。
 丁度そのときだった。クラブ館(ハウス)の方で、俄かに人の立ち騒ぐ声が聞えた。課長がふりかえると、クラブ館(ハウス)のボーイが大声で叫んだ。
「皆さん、早く来て下さーい。御婦人が襲われていまーすッ」
 御婦人?――検事と課長とはクラブを投げ捨て、クラブ館(ハウス)へ駈けつけた。


   襲(おそ)われた裸女(らじょ)


 この突発事件が起ったところは、クラブ館(ハウス)の中の噴泉浴室(ふんせんよくしつ)のあるところだった。
 それより三十分ほど前、その婦人用の浴室の二つが契約された。もちろんそれは赤星ジュリアと矢走千鳥の二人が、汗にまみれた身体を噴泉で洗うためだった。当時この広い浴場は、二人の外に誰も使用を契約していなかった。
 ジュリアは第四号室を、千鳥の方はその隣りの第五号室を借りた。その浴室は、公衆電話函(こうしゅうでんわばこ)を二つ並べたようになっていて、入口に近い仕切(しきり)の中で衣類を脱ぎ、その奥に入ると、白いタイルで張りつめた洗い場になっていて、栓(せん)をひねると天井からシャーッと温湯(おんとう)が滝(たき)のように降ってくるのであった。婦人たちのためには、セロファンで作った透明な袋があって、これを頭から被(かぶ)ってやれば、髪は湯に濡(ぬ)れずに済(す)んだ。
 二人はゴトゴトと音をさせながら、着物を脱いだ。
「お姉さま」と千鳥が隣室(りんしつ)から呼んだ。
「なーに、千(ち)いちゃん」
「あたし、何だか怖いわ。だってあまり静かなんですもの」
「おかしな人ネ。静かでいい気持じゃないの」
 そういってジュリアは奥に入ると、シャーッと白い噴泉を真白な裸身(らしん)に浴(あ)びた。
「あの――お姉さま」と千鳥がトントンと間の板壁を叩いた。
「お姉さまが黙っていると、なんだか、独(ひとり)ぽっちでいるようで怖いのよ。あたし、お姉さまのところへ入っていってはいけないこと?」
「あらいやだ。まあ早くお洗いなさいよ。――そう、いいことがあるわ。じゃあ、あたしがここで歌を唄ってあげるわ。世話の焼ける人ネ」
 そういってジュリアは千鳥のために、美しい口笛を吹きならしたのであった。その歌はいわずと知れた彼女の十八番(おはこ)の「赤い苺の実」の歌だった。
 千鳥もそれに力を得たか、騒ぐのをやめてシャーッと噴泉の栓をひねって、しなやかに伸びた四肢(しし)を洗いはじめた。
 それから何分のちのことだったかよく分らないが、この噴泉浴室の中から、突如として魂消(たまぎ)るような若い女の悲鳴が聞えた。それは一人のようでもあり、二人のようでもあった。と、途端(とたん)にガチャーンといって硝子(ガラス)の破(わ)れるような凄(すさま)じい音がして、これにはクラブ館(ハウス)の誰もがハッキリと変事(へんじ)に気がついたのだった。
 いつもは男子絶対禁制(きんせい)の婦人浴場だったけれど、誰彼(だれかれ)の差別なく、入口から雪崩(なだ)れこんだ。
「どうしましたッ」
 と真先(まっさき)に入ったのは、クラブの事務長の大杉(おおすぎ)だった。しかし内部からはウンともスンとも返事がなかった。
 彼は手前にある四番浴室をサッと開いた。そこにはジュリアの衣服が脱ぎ放(ぱな)しになっていた。ノックをして奥の仕切を押し開いたが、どうしたものかジュリアが居ない。噴泉はシャーッと勢いよく出ていた。
 彼は直ぐそこを飛び出すと、次の五番浴室に闖入(ちんにゅう)した。そこには派手な千鳥の衣類が花を蒔(ま)いたように床上(ゆかうえ)に散乱(さんらん)していた。格闘があったのに違いない。事務長はそこで胸を躍らせながら、奥の仕切をサッと開いた。
「呀(あ)ッ!」
 と叫ぶなり、彼は慌てて仕切を閉じた。彼は見るに忍びないものを見たのだ。そこには一糸も纏(まと)わないジュリアが、大理石彫(だいりせきぼ)りの寝像であるかのように、あられもない姿をしてタイルの上に倒れていたのであった。
「オイ、退(ど)いた退(ど)いた」
 と背後に大きな声がした。雁金検事と大江山捜査課長とが入ってきたのだ。
 噴泉を停め、ジュリアを抱き起すと、彼女は失心(しっしん)からやっと気がついた。
「どうしたのです。そして千鳥さんは……」
「ああ、千(ち)いちゃんは、……」とジュリアは白い腕を頭の方にあげて何か考えているようだったが、
「――誰かが攫(さら)って……」といって入口の方を指(ゆびさ)したと思うと、ガックリと頭を垂(た)れた。ジュリアはまた失心してしまったのだった。
「ナニ、千鳥さんは攫われたというのか」
 課長はジュリアを検事に預けて、自分は浴室を飛びだした。見ると正面の窓硝子が上に開いて、しかも硝子が壊(こわ)れている。さっきの酷(ひど)い音はこれだったのだ。怪人物は千鳥を奪って、此処(ここ)から逃げたのに違いない。
 彼はヒラリと窓を飛び越して、外へ出た。
 そしてあたりを見廻わしたが、クラブの囲(かこ)いの外は、茫々(ぼうぼう)たる草原が見えるばかりで、怪人物の姿は何処にも見えなかった。ただ遥(はる)か向うを、濛々(もうもう)たる砂塵(さじん)が移動してゆくのが目に入った。
「ああ、あれだッ。自動車で逃げたナ」
 彼は玄関に廻ってみると、そこで連(つ)れて来た運転手とバッタリ出会った。
「課長さん。自動車を盗まれてしまいました」
 と運転手は青くなって云った。
 後には自動車が一台もなかった。だから向うを怪人物が裸身(らしん)の矢走千鳥を乗せたまま逃げてゆくのを望みながらも、何の追跡する方法もなかった。
「そうだ、電話をかけよう」
 事務室に飛びこんだ課長は、まどろこしい郊外電話に癇癪玉(かんしゃくだま)を爆発させながら、それでも漸(ようや)く警察署を呼び出し、自動車取押(とりおさ)え方(かた)の手配をするとともに、また至急(しきゅう)自動車をゴルフ場へ廻すように頼んだ。そして検事の待っている方へ歩いていった。
 ジュリアは事務室の中で、急拵(きゅうごしら)えのベッドの上に寝かされていた。枕頭(ちんとう)には医学博士蝋山教授が法医学とは勝手ちがいながら何くれとなく世話をしていた。雁金検事は腕を拱(こまね)いて沈思(ちんし)していたが、課長の入ってくるのを見るなり、
「矢走嬢(じょう)は見つかったかネ」
 と聞いた。課長は一伍一什(いちぶしじゅう)を報告して、見失ったのを残念がった。
「ジュリアさんは、何か話をしましたか」
 と課長の問うのに対し、検事は掻(か)い摘(つ)まんで話をした。――ジュリアの話によると、彼女は噴泉を浴びているうちに、隣室の千鳥が只ならぬ悲鳴をあげたので、愕(おどろ)いて隣室へ飛びこんでみると、どこから入ったか、一人の怪漢が千鳥を襲っているので、背後(うしろ)から組みついたところ、忽(たちま)ち振り倒されて気を失った。気がついたら、こんなところに寝ていたというのであった。
「その怪漢の顔とか、服装には記憶がありませんか」
「咄嗟(とっさ)の出来ごとで、何も分らないそうだ。背後(うしろ)から組みついたので、顔も見えないというのだよ」
 そのときジュリアは目をパッチリ明いて、もう大丈夫だから、竜宮劇場の出場に間に合うよう帰りたい。西一郎を呼んでくれるようにと云った。
「ああ、西一郎。彼はどこへ行ったんです」
「一郎君が見えないネ。――」
 と不審(ふしん)をうっているところへ、扉(ドア)が明いて、彼がヌッと入って来た。
「オイ君はこの騒ぎの中、どこにいたのだい」
 と課長は目を光らせていった。
「ちょっと外へ出て、畠を見ていたのです。都会人はこんなときでなければ、野菜の生えているところなんか見られませんよ」と云ったけれど、何だかわざとらしい弁解のように聞えた。
 ジュリアは西の声を聞くと、一層(いっそう)帰りたがった。そこで西の外(ほか)に検事が附添って帰ることになり、大江山課長と蝋山教授は残ることになった。丁度警察から差し廻しの自動車が来ていたので、三人は直ぐ東京へ出発することが出来た。
「どうも西という男は曲者(くせもの)だて」と、蝋山教授は頭を大きく左右へ振った。
「まさか西一郎が、千鳥を襲撃したのじゃあるまいな」と課長は独(ひと)り言(ごと)をいった。
「それは何とも云えぬ。――」
 といっているところへ、警笛(けいてき)をプーッと吹き鳴らしつつ、紛失した大江山の自動車が帰って来た。課長は愕いて玄関へ走りだしたが、中からは意外にも、彼の連れていた運転手の怪訝(けげん)な顔が現れた。
「自動車がございました。二百メートルばかり向うの畠の中に自動車の屋根のようなものが見えるので行ってみました。すると、愕いたことに、これが乗り捨ててあったのです」
「フーン」
 と大江山は呻(うな)った。一体何者の仕業(しわざ)か。西一郎がやったのか、それとも例のポントスが現れたのか、或いはまたその辺を徘徊(はいかい)している筈の覆面探偵の仕業か。――一方、矢走千鳥は天に駆(か)けたか地に潜(もぐ)ったか、杳(よう)として消息が入らなかった。
 だが、矢走千鳥は無事に生きていた。彼女は多摩川(たまがわ)を眼下(がんか)に見下ろす、某病院の隔離病室(かくりびょうしつ)のベッドの上で、院長の手厚い介抱(かいほう)をうけていた。
「もう大丈夫です。静かにしていれば、二三日で癒(なお)ります。身体にはどこにも傷がついていません。ただ駭(おどろ)きが大きかったので、すこし心臓が弱っています。あまり昂奮しないのがよろしい」
「あたくし、誰かに逢いたいのですが」
「イヤ尤(もっと)もです。そのうち誰方(どなた)か見えましょう」
 そんな会話が繰返(くりかえ)されているうちに、夜更(よふ)けとなった。このとき病院の玄関に、一人の男が訪れた。院長の許可が出て、上へあげられた彼は、矢走千鳥の病室に通った。
「まあ、西さん。――よく来て下すったのネ」
 西はただニコニコ笑うだけだった。
「誰も来て下さらないので、悲しんでいたところですわ」
「僕は、ソノ青竜王から行って来るように頼まれたんです。当分外(ほか)に誰も来ないでしょう。院長から許しが出るまで、一歩も寝台の上から降りないことですネ」
「ええ、貴方が仰有(おっしゃ)ることなら、あたくし何でも守りますわ。……ねえ、西さん」
「なんです、千鳥さん」
「あたくし、貴下(あなた)に、どんなにか感謝していますのよ。お分りになって……」
「感謝?――僕は何にもしませんよ。ああ、助けられたことですか。あれなら青竜王に感謝して下さい。……イヤ、そんなことを今考えるのは身体に障(さわ)りますよ。何ごとも暫(しばら)くは忘れていることです。誰かが聞いても、何にも喋(しゃべ)ってはいけません。千鳥さんは当分、生(い)ける屍(しかばね)になっていなくちゃいけないんですよ、いいですか」
「生ける屍――貴下の仰有ることなら、屍になっていますわ」
 といってニッコリ微笑んだが、攫(さら)われた千鳥は一体何を感謝しているのだろう。


   覆面探偵の危難(きなん)


 矢走千鳥(やばせちどり)の誘拐事件(ゆうかいじけん)は、なんの手懸(てがか)りもなく、それから一日過ぎた。
 雁金検事はそのことで、大江山捜査課長を検事局の一室に招いた。
「君の怠慢にますます感謝するよ。いよいよ儂(わし)たちは新聞の社会面でレコード破りの人気者となったよ。第一千鳥の神隠(かみがく)しはどうなったんだ。玉川ゴルフ場から十分ぐらいの半径(はんけい)の中なら、一軒一軒当っていっても多寡(たか)が知れているではないか。どうして分らぬのか、分らんでいる方が六(むつ)ヶ敷(し)いと思うが……」
「イヤそれが不思議にも、どうしても分らないのです。ひょっとすると、犯人は夜のうちに千鳥をもっと遠いところに移したかもしれないのです。しかし御安心下さい。あの犯人も吸血鬼も、同一人物だと睨(にら)んでいて、別途(べっと)から犯人を探しています」
「別途からというと、君の覘(ねら)っている犯人というのは誰だい」
「ポントス――つまりキャバレーの失踪(しっそう)した主人ですネ。部下は懸命に捜索に当っています。今明日中(こんみょうにちじゅう)にきっと発見してみせますから」
「彼奴(きゃつ)はもう死んでいるのじゃないか」
「死んでいてもいいのです。ポントスの持っている秘密が、恐怖の口笛にまつわる吸血鬼事件の最後の鍵なんです」
「ほほう」と検事は目を丸くして「では儂が首を縊(くく)らん前に、事件の真相を報告するようにしてくれ給(たま)え」
 大江山が帰ると間もなく、覆面探偵から電話がかかって来た。
「雁金さん。いよいよ犯人を決定するときが来ましたよ」
「ほほう。イヤこれは盛(さか)んなことだ」
「まぜかえしてはいけませんよ。それで一つ、お願いがあるのですけれど……」
「犯人を国外に逃がす相談なら、今からお断(ことわ)りだ」
「そうではありません。実は今夜、たしかに吸血鬼と思われる怪人物から会見を申込まれているのです」
「うん、それはお誂(あつら)え向(む)きだ。では新選組(しんせんぐみ)を百名ばかり貸そうかネ」
「いえ、向うでは僕一人が会うという条件で申込んで来ているのです」
「そんな勝手な条件なんか、蹂躙(じゅうりん)したまえ」
「そうはいかないですよ。――で僕は独(ひと)りで会うつもりなんですが、もし今夜九時までに、僕が貴下(あなた)のところへお電話しなかったら、貴下の一番下のひきだしの中に入っている手紙をよんで下さい」
「なんだ、手紙が入っているんだって?」なるほど誰がいつの間に入れたか、白い四角な封筒が入っていた。「あったあった。こんなもの直(す)ぐ明けられるじゃないか」
「明けても駄目です。或る仕掛がしてあるので、今夜九時にならないと、文字が出て来ません。今御覧(ごらん)になっても白紙(はくし)ですよ」
 チェッと雁金検事が舌打ちをした途端(とたん)に、相手の受話機がガチャリと掛った。
 その日の夕刻、丁度黄昏(たそがれ)どきのこと、丸ノ内にある化物ビルといわれる廃墟(はいきょ)になっている九階建てのビルディングの、その九階の一室で、前代未聞(ぜんだいみもん)の奇妙な会見が行われていた。
 まずその荒れはてた部屋の真中には足の曲った一脚の卓子(テーブル)があり、それを挿(はさ)んで二人の人物が相対(あいたい)していた。
 入口に遠い方にいる人物は紛(まぎ)れもなく覆面探偵の青竜王だったが、彼は椅子に腰をかけた儘(まま)、身体を椅子ごと太い麻縄(あさなわ)でグルグルに締められていた。それに対する人物は、卓子を距(へだ)てて立っていたが、その人物は頭の上から黒い布(きれ)をスッポリ被(かぶ)っていた。そして右手には鋭い薄刃(うすば)のナイフを構(かま)えて、イザといえば飛び掛ろうという勢(いきお)いを示していた。――これが雁金検事に報告された青竜王と吸血鬼との会見なのであった。すると、黒い布を被った人物こそ、恐るべき殺人犯の吸血鬼なのであろう。
「案外智恵のない男だねえ――」と黒布の人物は皺枯(しわが)れ声でいった。皺枯れ声だったけれども、確かに女性の声に紛れもなかった。
「……」青竜王は無言で、石のように動かない。
「そうやって椅子に縛りつけられりゃ、生かそうと殺そうと、私の自由だよ。この短刀で、心臓をグサリと突くことも出来るし、お好(この)みなら、指一本一本切ってもいい。苦しむのが恐ろしいのなら、ここにある注射針で一本プスリとモルヒネを打ってあげてもいいよ」と憎々(にくにく)しげに云った。
「約束を違(たが)えるなんて、卑怯(ひきょう)だネ、君は」と青竜王は始めて口を開いた。
「お前は莫迦(ばか)だよ。――妾(わたし)の正体を知っている奴は、皆殺してしまうのだ。お前を今まで助けてやったのを有難いと思え。しかし今日という今日は、気の毒ながら生きては外へ出さないよ」
 と、まるで芝居がかりの妖婆(ようば)のような口調でいった。そして短刀を擬(ぎ)してジリジリと青竜王の方へ近づいてくるのであった。
「まあ待ち給え。何時でも殺されよう。だがその前に約束だけは果させてくれ。というのは、僕は君に云いたいことがあるんだ」
「云いたいことがある。有るなら最期の贈り物に聞いてやろう。但し五分間限りだよ。早く云いな――」
「僕はこれまで、かなり君を庇(かば)ってきてやったぞ。君は知らないことはないだろう。最近に玉川で矢走千鳥を襲ったのも君だった。僕が出ていって君を離したが。そのお陰で、君は吸血の罪を一回だけ重ねないで済(す)んだのだ。いや一回だけでない。いままでに君を邪魔(じゃま)して、吸血の罪を犯させなかったことが五度もある。それは君を呪いの吸血病から、何とかして救いたいためだった。……」
「なにを云う。……すると今まで、邪魔が飛びだしたのは、皆お前のせいだとおいいだネ」
 と、悪鬼(あっき)は拳(こぶし)を固めて、青竜王を丁々(ちょうちょう)と擲(なぐ)った。探偵は歯を喰い縛って怺(こら)えた。
「君に悔い改めさせたいばかりに、パチノ墓地からも君を伴って逃がしてやった」
 ああ、すると吸血鬼というのは、もしや……。
「お黙り」と悪鬼は、またもや探偵の胸を殴(なぐ)った。探偵はウムと呻(うな)って悶(もだ)えた。
「僕には君の正体が、もっと早くから分っていたのだよ。思い出してみたまえ。君が四郎少年を殺したとき、死にもの狂いで探していたものは何だったか覚えているだろう。それが官憲(かんけん)に知れると、立ち所(どころ)に君は殺人魔として捕縛(ほばく)されるところだった。僕はそれを西一郎の手を経(へ)て君の手に戻してやった」
「出鱈目(でたらめ)をお云いでないよ。妾は知らないことだよ。――さあ、もう時間は剰(あま)すところ一分だよ」
「君に悔(く)い改(あらた)めさせたいばかりに、僕は君の自由になっているのが分らないのか」
「感傷(かんしょう)はよせよ。みっともない」
「ああ、到頭(とうとう)僕の力には及ばないのか。……では僕は一切を諦(あきら)めて殺されよう。だが只一つ最後に訊(き)きたい。君はなぜ吸血の味を知ったのだ。なにが君を、そんなに恐ろしい吸血鬼にしたのだ」
「そんなことなら、あの世への土産(みやげ)に聞かせてあげよう。――それは先祖から伝わる遺伝なのだよ。パチノを知っているだろう。あれは九人の部下が死ぬと、一人残らず血を吸いとったのだよ。妾はそれを遺書の中から読んだ。……ああ、その遺書が手に入らなかったら、妾は吸血鬼とならずに済んだかもしれない。恐ろしい運命だ」
「そうか、パチノが先祖から承(う)けついだ吸血病か、そうして遂(つい)に君にまで伝わったのか、パチノの曾孫(そうそん)にあたる吾(わ)が……」
「お黙り!――」と、悪鬼は足を揚(あ)げて、青竜王の脾腹(ひばら)をドンと蹴った。
「ウーム」
 と彼が呻きながら、その場に悶絶(もんぜつ)した。
「ああ、それ以上の悪罵(あくば)に妾が堪えられると思っているのかい。約束の五分間以上喋(しゃべ)らせるような甘い妾ではないよ。お前さんはよくもこの妾の邪魔をしたネ」と憎々しげに拳をふりあげながら「さあこれから久し振りに、生ぬるい赤い血潮をゴクゴクと、お前さんの頸笛(くびぶえ)から吸わせて貰おうよ」
 と云ったかと思うと、悪鬼の女は頭の上から被っていた黒布(こくふ)に手をかけるとサッと脱ぎ捨てた。すると、驚くべし、その下から現れたのは、髪も灰色の老婆かと思いの外(ほか)、意外にも意外、それは金髪を美しく梳(くしけず)った若い洋装の女だった。その顔は――生憎(あいにく)横向きになっているので、見定(みさだ)めがたい!
 毒の華(はな)のような妖女(ようじょ)の手が動いて、黄昏の空気がキラリと閃(ひか)ったのは、彼女の翳(かざ)した薄刃のナイフだったであろう。いまやその鋭い刃物は、不運なる青竜王の胸に飛ぶかと見えたが、そのとき何を思ったか、妖女は空いていた左手をグッと伸べて、青竜王の覆面に手をかけた。
「そうだ。誰も知らない青竜王の覆面の下を、今際(いまわ)の際に、この妾が見て置いてあげるよ……」
 そう独言(ひとりごと)をいって、彼女はサッと覆面を引き□(むし)った。その下からは思いの外若い男の顔が現れた。両眼を力なく閉じているが、そのあまりにも端正(たんせい)な容貌!
「ああ、貴下は……西一郎!」
 そう叫んだのは同じ妖女の声だったが、咄嗟(とっさ)の場合、作り声ではなく、彼女の生地(きじ)の声――珠(たま)のように澄んだ若々しい美声(びせい)だった。――ああ、とうとう探偵の覆面は取り去られたのだった。いま都下に絶対の信用を博(はく)している名探偵青竜王の正体は、白面(はくめん)の青年西一郎だったのだ。そして吸血鬼に屠(ほふ)られた四郎少年こそは、彼と血を分けた愛弟(あいてい)だったのだ!
「ああ、あたしは……」と妖女は胸を大濤(おおなみ)のように、はげしく慄(ふる)わせた。思いがけない大きな驚きに全く途方(とほう)に暮れ果てたという形だった。
「やっぱり、刺し殺すのだ!」
 と叫んで、妖女は再び鋭いナイフをふりあげたが、やがて力なく腕が下りた。
「どうして貴下が殺せましょう。妾の運命もこれまでだ!」
 そういった妖女は、青竜王の身近くによると、戒(いまし)めの縄をズタズタに引き切った。しかし青竜王は覆面をとられたことさえ気がつかない。――妖女はいつの間にか、この荒れ果てた部屋から姿を消してしまった。
 かくて風前(ふうぜん)の灯(ともしび)のように危(あやう)かった青竜王の生命は、僅かに死の一歩手前で助かった。


   大団円(だいだんえん)、死の舞踊(ぶよう)


「――検事さん! 雁金さんは何処へ行かれた?」
 と、慌(あわ)ただしく、検事局の宿直室に飛びこんで来たのは、大江山捜査課長だった。
「おう、どうしたかネ、大江山君」
 検事は書見(しょけん)をやめて、大きな机の陰から顔をあげた。
「ああ、そこにおいででしたか。喜んで下さい。とうとうポントスを探しあてましたよ。そして――大団円です」
「ポントスを生捕りにしたのかネ」
「いえ仰(おっ)しゃったとおりポントスは死んでいました。やはりキャバレー・エトワールの中でした。ちょっと気がつかない二重壁の中に閉じ籠められていたのです」
「ほほう、それは出かしたネ」
「ポントスは素晴らしい遺品をわれわれに残してくれました。それは壁の上一面に、折(お)れ釘(くぎ)でひっかいた遺書なんです。彼は吸血鬼に襲われたが、壁の中に入れられてから、暫(しばら)くは生きていたらしいですネ」
「おや、すると彼は吸血鬼じゃなかったのだネ」
「吸血鬼は外にあります。――さあ、これが壁に書いた遺書の写しです。吸血鬼の名前もちゃんと出ています」
 といって大江山はあまり綺麗でない紙を拡げた。検事はそれを机の上に伸(の)べて、静かに読み下(くだ)した。
「ほほう、――」と彼は感歎(かんたん)の声をあげ「これでみると、吸血鬼はパチノの曾孫である赤星ジュリアだというのだネ。おお、するとあの竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアがあの恐るべき兇行の主だったのか」
 と検事は悲痛(ひつう)な面持(おももち)で、あらぬ方を見つめた。
「昨日、玉川で一緒にゴルフをしたジュリアがそうだったか。……」
 そこで課長はもどかしそうに叫んだ。
「キャバレーの主人オトー・ポントスはいつかの夜のキャバレーの惨劇(さんげき)で、ジュリアの殺人を見たのが、運のつきだったんですネ。ジュリアは夜陰(やいん)に乗(じょう)じてポントスの寝室を襲い、まずナイフで一撃を加え、それからあのレコードで『赤い苺の実』を鳴らしたんです。ポントスはジュリアの独唱(どくしょう)を聞かせられながら、頸部(けいぶ)から彼女に血を吸われたんです。それから秘密の壁に抛(ほう)り込まれたんですが、あの巨人の体にはまだ血液が相当に残っていたため、暫くは生きていた――というのですネ」
 検事は黙々(もくもく)として肯(うなず)いた。
「ではこれから、逮捕に向いたいと思いますが……」と課長はいった。
「よろしい。――が、いま時刻は……」
「もう三分で午後九時です」
「そうか。ではもう三分間待っていてくれ給え、儂(わし)が待っている電話があるのだから」
 大江山課長は、後にも先にも経験しなかったような永い三分間を送った。――ボーン、ボーンと遠くの部屋から、正(しょう)九時を知らせる時計が鳴りだした。
「遂(つい)に電話は来ない。――」と検事は低い声で呻(うめ)くように云った。「では不幸な男の手紙を開いてもよい時刻となったのだ」
 そういって彼は、机のひき出しから、白い四角な封筒をとりだし、封を破った。そして中から四つ折の書簡箋(しょかんせん)を取出すと、開いてみた。そこには淡い小豆色(あずきいろ)のインキで、
「赤星ジュリア!」
 という文字が浮きだしていた。
「それは誰が書いたのですか」大江山課長は不思議に思って尋(たず)ねた。
「これは青竜王が預けていった答案なのだ。君の答案とピッタリ合った。儂は君にも青竜王にも敬意を表(ひょう)する者だ!」
 といって検事は、大江山課長の手を強く握った。
「それで青竜王はどうしたんです」
 と大江山が不審がるので、雁金検事は一伍一什(いちぶしじゅう)を手短かに物語り、九時までに彼の電話が懸(かか)って来る筈だったのだと説明した。
「では青竜王は、吸血鬼の犠牲になったのかも知れないじゃないですか。それなら躊躇(ちゅうちょ)している場合ではありません。直(ただ)ちに私たちに踏みこませて下さい」
「うん。……それでは儂も一緒に出かけよう」
 そういって雁金検事は椅子から立ち上った。
 検察官は重大な決心を固めて、奮(ふる)い立った。――そして丸ノ内の竜宮劇場へ――。
 一行の自動車が日比谷の角(かど)を曲ると、竜宮劇場はもう直ぐ目の前に見えた。その名のとおり、夜の幕の唯中(ただなか)に、燦然(さんぜん)と輝(かがや)く百光を浴びて城のように浮きあがっている歓楽の大殿堂(だいでんどう)は、どこに忌(い)むべき吸血鬼の巣があるかと思うほどだった。
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