恐怖の口笛
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著者名:海野十三 

「……」ジュリアは泣くのを停(や)めた。
「僕はそれを察しています。つまり耳飾りの落ちていた場所から分ったのですが」
「これはどこに落ちていたのでしょう」とジュリアは顔をあげて叫んだ。
「それは四郎の倒れていた草叢(くさむら)の中からです」
「嘘ですわ。あたしは随分(ずいぶん)探したんですけれど、見当りませんでしたわ」
「それが土の中に入っていたのですよ。多勢(おおぜい)の人の靴に踏まれて入ったものでしょう」
「まあ、そうでしたの。……よかったわ」
 それはすべて一郎の嘘だった。本当をいえば、彼は昨夜(ゆうべ)、四郎の屍体からそれを発見したのだった。蝋山教授がベルの音を聞いて法医学教室の廊下へ出ていった隙(すき)に、一郎はかねて信じていたところを行ったのだった。彼は四郎の屍体の口腔(こうくう)を開かせ、その中に手をグッとさし入れると咽喉の方まで探(さ)ぐってみたのが、果然(かぜん)手懸(てがか)りがあって、耳飾の宝石が出てきた。実は蝋山教授を煩(わずら)わして食道や気管を切開し、その宝石の有無(うむ)をしらべるつもりだったけれど、怪(あや)しいベルの音を聞くと、早くも切迫(せっぱく)した事態を悟(さと)り、荒療治(あらりょうじ)ながら決行したところ、幸運にも宝石が指先(ゆびさき)にかかったのであった。素人(しろうと)にしては、まことに水ぎわ立った上出来(じょうでき)の芸当(げいとう)だった。後から闖入(ちんにゅう)して屍体を奪っていった痣蟹をみすみす見逃がしたのも、彼がこの耳飾りの宝石を手に入れた後だったから、その上危険な追跡をひかえたのであろうとも思われる。とにかくジュリアの耳飾の宝石は四郎の口腔から発見されたのだ。なぜそんなところに入っていたかは問題であるが、一郎がジュリアに発見の個所(かしょ)をことさら偽(いつわ)っているのは何故だろう。
「ジュリアさん。四郎は貴女に、誰からか恨(うら)みをうけているようなことを云っていませんでしたか」
 これでみると、一郎はやはり愛弟(あいてい)四郎を殺害(さつがい)した犯人を探しだそうとしているものらしい。
「ああ、一郎さん」とジュリアは苦しそうに顔をあげ「あたし何もかも申しますわ。そして貴方の弟さんの日記帳から破ってきた頁(ページ)をおかえししますわ」
 ジュリアは衣裳函(いしょうばこ)のなかから、引き裂(さ)いた日記をとりだして、一郎に渡した。それは四郎が殺された日、大辻が始めに屍体の側で発見し、二度目に見たとき裂かれていた四郎の自筆(じひつ)の日記に相違(そうい)なかった。一郎はそれを貪(むさぼ)るように読み下(くだ)した。
「それをよく読んで下されば分るでしょうが、四郎さんとあたしとは、千葉(ちば)の海岸で知合ってから、お友達になったんです。それは只の仲よしというだけで、あたしは恋をしていたんじゃありませんのよ、どうかお間違いのないように、ね。――その日も四郎さんはあたしに会いに来たんですわ。それで夕方になり、四郎さんと日比谷を散歩して、あの五月躑躅(さつき)の陰でお話をしていたんですが、待たせてあった、あたしの自動車の警笛(けいてき)が聞えたので、ちょっと待っててネ、すぐ帰ってくるわといって四郎さんを残したまま、日比谷の東門(ひがしもん)の方へ行ったんですの。そこで自動車を見つけたので、四郎さんも連(つ)れてゆくつもりで自動車で迎えにゆき、再び五月躑躅の陰へいってみると、四郎さんが殺されていたのですのよ。あたしはハッとしたんですが、人気商売の悲しさにはぐずぐずしていると人に見つかって大変なことになると思ったので、引返(ひきかえ)そうとしましたが、その日四郎さんに見せて貰った日記のなかにあたしのことが沢山書いてあったものですから、これを残しておいてはいけないと思って、いま差上げただけの頁を破ってきたんですわ。すると間もなく皆さんに見つかってしまったんです。それがすべてですわ」
「ああ、そうですか」と一郎は大きく肯(うなず)きながら「では耳飾の宝石も、そのときに落したんですね。これも拾われては蒼蠅(うるさ)いことになるから、後で探したというわけですね」
「仰有(おっしゃ)るとおりですわ。宝石のことは、楽屋へ入ってから気がついたんですの。随分探しましたわ。ほんとにあたし感謝しますわ。でもこのことは、誰にも云わないで下さいネ」
「ええ、大丈夫です。その代(かわ)り、何か犯人らしいものを見なかったか、教えて下さい」
「犯人? 犯人らしいものは、誰もみなかったわ――」
 といっているところへ、電話がかかってきた。それは出てきた支配人が、直(す)ぐ西一郎に会おうという電話だったのである。
 それから一郎は、支配人の室に行った。ジュリアの口添(くちぞ)えがあったから、すべて好条件で話が纏(まとま)った。今日は見習かたがた「赤い苺の実」の三場(ば)ばかりへ顔を出して貰いたいということになった。そして大部屋(おおべや)の人たちに紹介してくれた。
 一郎はそれを報告のために、ジュリアの部屋に行ったが、鍵がかかっていた。それも道理(どうり)で、ジュリアはいま舞台に出て喜歌劇(きかげき)を演じているところだった。舞台の横のカーテンの陰には批評家らしい男が二人、肩を重(かさ)ねんばかりにして、ジュリアの熱演に感心していた。
「ジュリアはたしかに百年に一人出るか出ないかという大天才だ。見給え、どうだい、あの熱情(ねつじょう)とうるおいとは……。今日はことに素晴らしい出来栄(できば)えだ」
「僕も全く同感だ。どこからあの熱情が出てくるんだろう。ちょっと真似手(まねて)がない。――」
「ジュリアには非常に調子のよい日というのがあるんだネ。今日なんか正にその日だ。見ていると恐(こわ)い位(くらい)だ」
「そうだ。僕もそれを云いたいと思っていた。僕は毎日ジュリアを見ているが、調子のよい日というのをハッキリ覚えているよ。この一日に三日、それから今日の四日と……」
「よく覚えているねえ」
「いやそれには覚えているわけがあるんだ。それが不思議にも、あの吸血鬼(きゅうけつき)が出たという号外(ごうがい)や新聞が出た日なんだからネ」
「ははア、するとああいう事件が何かジュリアを刺戟(しげき)するのかなア。だが待ちたまえ、今日は何も吸血鬼が犠牲者(ぎせいしゃ)を出したという新聞記事を見なかったぜ。はッはッ、とうとう君に一杯(いっぱい)担(かつ)がれたらしい。はッはッはッ」
「はッはッはッ」
 一郎は批評家に嫌悪(けんお)を催(もよお)したのか、怒ったような顔をして、そこを去った。


   痣蟹(あざがに)の空中葬(くうちゅうそう)


 丁度(ちょうど)その頃、捜査本部では、雁金検事と大江山捜査課長とが六(むつ)ヶ敷(し)い顔をして向いあっていた。机の上には、青竜王が痣蟹の洋服の間から見付けた建築図の破片(はへん)が載(の)っていた。
「雁金さんはそう仰有(おっしゃ)るですが、どうしてもあの覆面探偵は怪しいですよ」と大江山はまたしても、青竜王排撃(はいげき)の火の手をあげているのであった。「第一あの覆面がよろしくない。本庁(ほんちょう)の部下の間には猛烈な不平があります。このままあの覆面を許しておくということになると、統制上(とうせいじょう)由々(ゆゆ)しき一大事が起るかもしれません」
「気にせんがいいよ。そうムキになるほどのことではない。たかが私立探偵だ」
「いまも電話をかけましたが、青竜王(やつ)は所在(しょざい)が不明です。その前は十日間も行方が分らなかった」
「まアいい。あれは悪いことの出来る人間じゃないよ」
「それから所在不明といえば、あの西一郎という男ですネ。彼奴(きゃつ)は犠牲者の兄だというので心を許していましたが、イヤ相当(そうとう)なものですよ。彼奴は無職で家にブラブラしているかと思うと、どこかへ行ってしまって、幾晩もかえって来ない。留守番(るすばん)のばあやは金を貰っていながら、気味(きみ)わるがっています。昨夜(ゆうべ)もそうです。蝋山教授を騙(だま)して、不明の目的のために四郎の屍体(したい)を解剖させているうちに、怪漢(かいかん)を呼んで屍体を奪わせた。そのくせ当人は、痣蟹が屍体を盗んでいったと称しています。あれは偽(に)せの兄ですよ。本当の兄なら、屍体を取返そうと思って死力(しりょく)をつくして追駈(おいか)けてゆきます」
「イヤあれは本当の兄だよ」
「私は随分(ずいぶん)部下や新聞記者の前を繕(つくろ)ってきましたが、今日かぎりそれを止めて、本当の考えを発表します。第一今日はキャバレー・エトワールの事件で、青竜王(きゃつ)のところのチンピラ小僧にうまうませしめられて、面白くないです」
 といっているところへ、給仕が入ってきて、雁金検事に電話が来ていると伝えた。
「はアはア、私は雁金だが、――」
 と電話に出てみると、向(むこ)うは噂(うわ)さの主(ぬし)の覆面の探偵青竜王からだった。
「今日何か新しい吸血鬼事件があったでしょう」
「ほい、もう嗅(か)ぎつけたか。あれは絶対秘密にして置いたつもりだが、実は――」
 と、検事は大江山との今の話を忘れてしまったように、秘密事件について話しだした。それは今日昼(ひる)すこし前、例の事件について調べることがあって迎(むか)えのために警官をキャバレー・エトワールへ振出(ふりだ)してみると、雇人(やといにん)は揃っているが、主人のオトー・ポントスが行方不明であるという。そこでポントスの寝室(しんしつ)を調べてみると、ベッドはたしかに人の寝ていた形跡(けいせき)があるが、ポントスは見えない。尚(なお)もよく調べると、床(ゆか)の上に人血(じんけつ)の滾(こぼ)れたのを拭いた跡が二三ヶ所ある。外(ほか)にもう一つ可笑(おか)しいことは、室内にはポータブルの蓄音器(ちくおんき)が掛け放しになっていたが、そこに掛けてあったレコードというのがなんと赤星ジュリアの吹きこんだ「赤い苺の実」の歌だったという。いまもってポントスの行方(ゆくえ)は分らない。――
 その話をして、雁金検事は青竜王の意見をもとめたところ、彼は電話の向うで、チェッと舌打ちをして云った。
「雁金さん、ポントスは昨夜(ゆうべ)から今日の昼頃までに殺されたんですよ」
「そう思うかネ。誰に殺された。――」
「もちろん吸血鬼に殺されたんですよ。屍体はその近所にある筈(はず)ですよ。発見されないというのは可笑しいなア」
「やっぱり吸血鬼か。そうなると、これで三人目だ。これはいよいよ本格的の殺人鬼の登場だッ。――ところで君はいま何処にいるのだ。勇が探していたが、会ったかネ」
「場所はちょっと云えませんがネ。そうですか、勇君は何を云っていましたか。――」
 と其処(そこ)までいったとき、何に駭(おどろ)いたか、青龍王は電話の向うで、
「ウム、――」
 と呻(うな)った。そして、
「検事さん、また後で――」
 といって、電話はガチャリと切れた。
「午後四時十分。――」
 と、検事は静かに時計を見た。すると待っていたように、大江山課長が声をかけた。
「青竜王のいるところが分りました。いま電話局で調べさせたんです。青竜王(せんせい)、いま竜宮劇場の中から電話を掛けたんです。私は青竜王に一応訊問(じんもん)するため、職権(しょっけん)をもって拘束(こうそく)をいたしますから……」
「午後四時十分。――」
 と検事は大江山の言葉が聞えないかのように、静かに同じ言葉を繰(く)り返(かえ)した。
 丁度そのすこし前、竜宮劇場の赤星ジュリアの室ではまるで何かの劇の一場面のような、世にも恐ろしい光景が演ぜられていた。
 赤星ジュリアは喜歌劇に出演中だったが、彼女の持ち役である南海(なんかい)の女神(めがみ)はその途中で演技が済み、あとは終幕が開くので彼女を除(のぞ)く一座は総出(そうで)の形となって、ひとりジュリアは楽屋に帰ることができるのであった。彼女は自室に入って、女神の衣裳(いしょう)を外(はず)しにかかった。いつもなら、矢走千鳥(やばせちどり)が手伝ってくれるのだが、彼女は臨時に終幕に持ち役ができて舞台に出ているので、ジュリアは自(みずか)ら扮装(ふんそう)を脱(ぬ)ぐほかなかった。
 彼女は五枚折りの大きな化粧鏡の前で、まず女王の冠(かんむり)を外した。それから腰を下ろすと下に跼(しゃが)んで長い靴と靴下とをぬぎ始めた。演技がすんで、靴下を脱ぎ、素足(すあし)になるときほど、快(こころよ)いものはなかった。彼女は透きとおるように白いしなやかな脛(すね)を静かに指先でマッサージをした。そして衣裳を脱ごうとして、再び立ち上ったその瞬間、不図(ふと)室内に人の気配を感じたので、ハッとなって背後(うしろ)を振りかえった。
「静かにしろ。動くと撃つぞ。――」
 気がつかなかったけれど、いつの間に現れたか、一人の怪漢がジュリアを睨(にら)んでヌックと立っていた。左手には古風な大型のピストルを持ち、その形相(ぎょうそう)は阿修羅(あしゅら)のように物凄かった。彼の片頬(かたほほ)には見るも恐ろしい蟹(かに)のような形をした黒痣(くろあざ)がアリアリと浮きでていた。これこそ噂(うわ)さに名の高い兇賊(きょうぞく)痣蟹仙斎(あざがにせんさい)であると知られた。
 ジュリアはすこし蒼(あお)ざめただけだ。さして驚く気色(きしょく)もなく、化粧鏡をうしろにして、キッと痣蟹を見つめたが、朱唇(しゅしん)を開き、
「早く出ていってよ。もう用事はない筈よ」
「うんにゃ、こっちはまだ大有(おおあ)りだ」と憎々(にくにく)しげに頤(あご)をしゃくり「貰いたいものを貰ってゆかねば、日本へ帰ってきた甲斐がねえや。――」
「男らしくもない。――」
「ヘン何とでも云え。まず第一におれの欲しいのはこれだア。――」
 痣蟹はジリジリとジュリアに近づくと、彼女が頸(くび)にかけた大きいメタルのついた頸飾りに手をかけ、ヤッと引きむしった。糸が切れて、珠(たま)がバラバラと床の上に散った。痣蟹はそれには気も止めず、メタルを掌(てのひら)にとって器用にも片手でその裏を開いた。中からは何やら小さい文字を書きこんだ紙片がでてきた。痣蟹はニッコリと笑い、
「やっぱり俺のものになったね。――」
「出ておゆき。ぐずぐずしていると人が来るよ」
「どっこい。もう一つ貰いたいものが残っているのだ。うぬッ――」
 痣蟹はピストルを捨てると、猛虎(もうこ)のように身を躍(おど)らせてジュリアに迫った。その太い手首が、ジュリアの咽喉部(いんこうぶ)をギュッと絞めつけようとする。
「アレッ――」
 と叫ぶ声の下に、化粧鏡がうしろに圧(お)されて窓硝子(まどガラス)に当り、ガラガラと物凄い音をたてて壊(こわ)れた。
 その途端(とたん)だった。入口の扉(ドア)をドンと蹴破って、飛びこんで来た一人の、青年――
「ああ、一郎さん、助けてエ――」
「曲者(くせもの)、なにをするかア、――」
 青年は西一郎だった。彼はジュリアに返事をする遑(いとま)もなく、彼に似合わしからぬ勇敢さをもって、いきなり痣蟹の背後(うしろ)から組みついた。
「なにを生意気な小僧(こぞう)め!」
 痣蟹は落ちつき払って一郎を組みつかせていた。
「ジュリア、いまに思い知るぞオ」
 という声の下に、彼はエイッと叫んで身体を振った。その鬼神(きじん)のような力に、元気な一郎だったが、たちまち□(どう)と振りとばされてしまった。
「さあ皆で懸(かか)れ、警官隊も来ているから、大丈夫だ」と声を聞きつけて、応援隊が飛びこんで来た。痣蟹は警官隊と聞くと舌打ちをして、入口に殺到(さっとう)した劇場の若者を押したおし、廊下へ飛びだした。アレヨアレヨという間に、階段から下へ降りようとしたが、下からは駈けつけた大江山課長等がワッと上ってきたのを見ると、
「やッ」
 と身を翻(ひるがえ)してそこに開いていた窓を破って屋上へ逃げた。
「それ、逃(の)がすなッ」
 一同はつづいて、屋上に飛び出した。痣蟹は巨大な体躯(たいく)に似合わず身軽に、あちこちと逃げ廻っていたが、とうとう一番高い塔の陰に姿を隠してしまった。
「さあ、三方(さんぽう)から彼奴(きゃつ)を囲(かこ)んでしまうのだ。それ、懸れッ」
 大江山課長は鮮(あざ)やかに号令を下した。が、そのとき塔の向うにフラフラ動いていた竜宮劇場専用の広告気球の綱が妙にブルブルと震(ふる)えたかと思うと、塔の上に痣蟹の姿が見えたと思う間もなく、彼の身体はスルスルと宙に上っていった。
「呀(あ)ッ。痣蟹が気球の綱を切ったぞオ」
 と誰かが叫んだが、もう遅かった。華(はなや)かな気球はみるみる虚空(こくう)にグングン舞いのぼり、それにぶら下る痣蟹の黒い姿はドンドン小さくなっていった。
「うん、生意気(なまいき)なことをやり居(お)った哩(わい)」と大江山捜査課長は天の一角を睨(にら)んでいたが「よオし、誰か羽田航空港(はねだこうくうこう)に電話をして、すぐに飛行機であの気球を追駈けさせろッ」と命令した。
 一同はいつまでも空を見上げていた。
 航空港からは、直ちに速力の速い旅客機と上昇力に富んだ練習機とが飛び上って、気球捜査に向ったという報告があった。それを聞いて一同は、広告気球の消え去った方角の空と羽田の空とを等分(とうぶん)に眺(なが)めながら、いつまでも立ちつくしていた。
 大江山課長は、傍(かたわら)を向いて、誰にいうともなく独(ひと)り言(ごと)をいった。
「覆面探偵がたしかに来て居ると思ったのに一向に見つからず、その代りに痣蟹を見つけたが、また取逃がしてしまった。この上はあすこで見掛けた西一郎を引張ってゆくことにしよう」
 しかし課長が下に下りたときには、その西一郎の姿もなくなっていた。


   パチノ墓穴(ぼけつ)の惨劇(さんげき)


 夜の幕が、帝都をすっかり包んでしまった頃、羽田航空港から本庁あてに報告が到着した。
「竜宮劇場の広告気球を探しましたが、生憎(あいにく)出発が遅かったので、三千メートルの高空まで昇ってみましたが、遂(つい)に見つかりませんでした。そのうちに薄暗(うすやみ)になって、すっかり視界を遮(さえぎ)られてしまったのでやむなく下りてきました。まことに遺憾(いかん)です」
 捜査本部に於(おい)ても、それはたいへん遺憾なことであった。せっかく屋上に追いつめた痣蟹を逃がしてしまったことは惜(お)しかった。しかしいくら不死身(ふじみ)の痣蟹でも、そんな高空に吹きとばされてしまったのでは、とても無事に生還することは覚束(おぼつか)なかろうと思われた。結局(けっきょく)それが痣蟹の空中葬であったろうという者も出て来たので、本部はすこし明るくなった。
「吸血鬼事件も、これでお仕舞(しま)いになるでしょうな。どうも訳が分らないうちにお仕舞いになって、すこし惜しい気もするけれど」
 それを聞いていた大江山捜査課長は、奮然(ふんぜん)として卓(テーブル)を叩いた。
「吸血鬼事件が片づいても、まだ片づかぬものが沢山ある。帝都の安寧(あんねい)秩序(ちつじょ)を保(たも)つために、この際やるところまで極(きま)りをつけるのだ。ここで安心してしまう者があったら、承知しないぞ」
 一座はその怒声(どせい)にシーンとなった。
 それから大江山課長は経験で叩きあげたキビキビさでもって、捜査すべき当面の問題を一々数えあげたのだった。
「第一に、生死(せいし)のほども確かでないキャバレー・エトワールの主人オトー・ポントスを探しだすこと。第二に、痣蟹の乗って逃げた竜宮劇場の気球がどこかに墜(お)ちてくる筈だから、全国に手配して注意させること。それと同時に痣蟹の屍体(したい)が、気球と一緒に墜ちているか、それともその近所に墜ちているかもしれぬから注意すること。但(ただ)し従来(じゅうらい)の経験によると四十八時間後には、気球は自然に降下してくるものであること。第三に、覆面探偵を見かけたらすぐ課長に報告すること。以上のことを行うについて、次のような人員配置にする。――」
 といってその担当主任や係を指名した。一同は何(なん)でも彼(か)でも、それを突きとめて、課長の賞讃(しょうさん)にあずかりたいものと考えた。
 そんな物騒(ぶっそう)な話が我が身の上に懸けられているとも知らぬ覆面探偵青竜王は、竜宮劇場屋上の捕物(とりもの)をよそに、部下の勇少年と電話で話をしていた。
「それで勇君が、ポントスの部屋の隠(かく)し戸棚(とだな)から発見した古文書(こもんじょ)というのはどんなものだネ」
「僕には判(わか)らない外国の文字ばかりで、仕方がないから大辻さんに見せると、これがギリシャ語だというのです。大辻さんは昔勉強したことがあるそうで、辞書をひきながらやっと読んでくれましたが、こういうことが書いてあるそうですよ。――明治二年『ギリシャ』人『パチノ』ハ十人ノ部下ト共ニ東京ニ来航シテ居ヲ構エシガ、翌三年或ル疫病ノタメ部下ハ相ツギテ死シ今ハ『パチノ』独リトナリタレドモ、『パチノ』マタ病ミ、命数ナキヲ知リ自ラ特製ノ棺ヲ造リテ土中ニ下リテ死ス――それからもう一つの文書(ぶんしょ)は比較的新らしいものですが、これには――『パチノ』ノ墓穴ハ頻々(ヒンピン)タル火災ト時代ノ推移ノタメニ詳(ツマビラ)カナラザルニ至リ、唯(タダ)『ギンザ』トイウ地名ヲ残スノミトハナレリ。マタ『パチノ』ガ『オスミ』と称スル日本婦人ト契リシガ、彼女ハ災害ニテ死シ、両人ノ間ニ生レタル一子(姓不詳)ハ生死不明トナリタリ。ソレト共ニ『パチノ』ノ墓穴ニ関スル重要書類ハ紛失シ、只本国ヘ送リタル二三ノ通信ト『パチノ』ノ墓穴廓内(カクナイ)ノ建築図トヲ残スノミナリ――というのです。聞いてますか、青竜王(せんせい)」
「イヤ熱心に聴いているよ。それで分った。キャバレーの主人ポントスも、本国からそのパチノの墓穴探しに来ているのだ。その一方(いっぽう)、痣蟹もたまたまこの秘密を嗅(か)ぎだして、本国で墓穴の建築図などを手に入れ、日本へ帰って来たのだ。すべての秘密はそのパチノ墓穴に秘められているのだよ。パチノ墓穴の場所については、いささか存(ぞん)じよりがあるが、しかしパチノの遺族を捜し出すのはちょっと骨が折れるネ。しかし何事(なにごと)も墓穴の中に在ると思うよ。では勇君、――」
「待って下さい。青竜王(せんせい)はいま何処(どこ)にいるのです。これから何処へ行くのですか」
「僕のことなら、決して心配しないがいいよ。――」
 そういって青竜王は受話器をかけた。心配でたまらない勇少年は、電話局に問いあわせると、なんと不思議なことに、青竜王のかけた電話は、やはり竜宮劇場の中のものだった。彼は一体どこに姿を秘めているのだろう。
 それから空しく二日の日が過ぎた。
 事件は一向思うように解決しなかったが、その代り、新たな吸血鬼事件も起らなかった。とうとう吸血鬼は滅(ほろ)んだのであろうか。
 詳(くわ)しく云うと七日の午後になって、痣蟹の乗って逃げた気球が、箱根(はこね)の山林中に落ちているのが発見された。しかし変なことに、その気球は枯れ葉の下から発見されたのであった。そして問題の痣蟹の死体はどこにも見当らなかったという。――この報告に管下の警察は一斉に痣蟹の屍体発見に活動を開始した。
 同じくその夜のことであった。赤星ジュリアの楽屋に西一郎が来合せているとき、どこからともなく電話がジュリアの許に懸ってきた。電話口へ出てみると、相手は覆面探偵の青竜王だといった。
「青竜王ですって。まあ、あたくしに何の御用ですの」とジュリアは訝(いぶか)った。
 すると電話の声は、痣蟹の気球が発見されたが、屍体の見当らないこと、それから夕暮に箱根の山下である湯元(ゆもと)附近の河原(かわら)で痣蟹らしい男が水を飲んでいるのを見かけた者のあること、そして念のために後から河原へ行ってみると、紙片(かみきれ)が落ちていて、開いてみると血書(けっしょ)でもって「パチノ墓穴を征服」としたためてあったことを知らせた。
「パチノの墓穴を征服ですって」とジュリアはひどく愕(おどろ)いたらしく思わず声を高らげて問いかえした。
 電話の声は、そうです、なんのことか分らないが、確かにパチノと書いてありますよ、と返辞(へんじ)をして、その電話を切った。ジュリアは倒れるように、安楽椅子(あんらくいす)に身を投げかけた。
 西一郎は、電話の終るのを待ちかねていたように、ジュリアに云った。
「青竜王本人が電話をかけて来たんですか」
「ええ、そうよ。――なぜ……」
「はッはッ、なんでもありませんけれど」
 そういった一郎の態度には、明(あきら)かに動揺の色が見えたが、ジュリアは気がつかないようであった。
 青竜王の懸けた電話とは違って、本庁の方へは深更(しんこう)に及んでも「痣蟹ノ屍体ハ依然トシテ見当ラズ、マタ管下(カンカ)ニ痣蟹ラシキ人物ノ徘徊(ハイカイ)セルヲ発見セズ」という報告が入ってくるばかりで、大江山課長の癇癪(かんしゃく)の筋(すじ)を刺戟するに役立つばかりだった。
 その真夜中(まよなか)、時計が丁度(ちょうど)十二時をうつと間もなく、今は営業をやめて住む人もなく化物屋敷(ばけものやしき)のようになってしまったキャバレー・エトワールの地下室の方角にギーイと、堅(かた)い物の軋(きし)るような物音が聞えた。エトワールの表と裏とには、制服の警官が張りこんでいるのだったけれど、この地底の小さい怪音(かいおん)は、彼等の耳に達するには余りに微(かす)かであった。一体(いったい)誰がその怪(あや)しい音をたてたのだろう。
 このとき若(も)し地下室を覗(のぞ)いていた者があったとしたら、隅(すみ)に積(つ)んだ空樽(あきだる)の山がすこし変に捩(ね)じれているのに気がついたであろう。いやもっと気をつけて見るなれば、その空樽を支(ささ)えた壁体(へきたい)の隅が縦(たて)に裂(さ)けて、その割れ目に一つの黒影が滑(すべ)りこんだのを認めることができたであろう。
 そこは隠されたる秘密階段で、さらにまた深い地底へ続いていた。用心ぶかくソロソロと降りてゆく黒影の人物の手は休みなしに懐中電灯の光芒(こうぼう)の周囲(まわり)の壁体を照らしていた。そのうちにどうした拍子(ひょうし)かその反射光(はんしゃこう)でもって顔面(がんめん)がパッと照らしだされたが、それを見ると、この黒影の人物は、かなりがっちりした骨組(ほねぐみ)の巨人で、眼から下を黒い布(ぬの)でスッポリと覆い、頭には帽子の鍔(つば)を深く下げていた。覆面の怪漢――そういえば、これは例の問題男の青竜王と寸分ちがわぬ服装をつけていた。おお、いよいよ青竜王が乗りこんで来たのであろうか。
 彼は静かに階段を下りていった。下はかなり広いらしい。江戸時代の隠(かく)し蔵(ぐら)というのはこんな構造ではなかったか。――下では何をしているのか、ときどきゴトリゴトリという物音が聞えるばかりで、いつまで経(た)っても彼は出てこなかった。恐ろしい静寂(せいじゃく)、恐ろしい地底の一刻!
 そのとき、どこかで微かに口笛の音がしたと思った。それは気のせいだったかも知れないと人は疑(うたが)ったろう。しかしそれは確かに口笛に違いなかった。次第に明瞭(めいりょう)になる旋律(メロディ)。ああそれは赤星ジュリアの得意な「赤い苺の実」の旋律――しかしこの場合、なんという恐ろしい口笛であったろう。暗い壁が魔物のように、かの怪しい旋律を伴奏した。……と、突如――まったく突如として、魂切(たまぎ)るような悲鳴が地底から響いて来た。
「きゃーッ、う、う、う……」
 しかし、それきりだった。悲鳴は一度きりで、再び聞えてこなかった。
 戦慄(せんりつ)すべき惨劇が、その地底で行われたのだった。その現場(げんじょう)へ行ってみよう。
 これはまた何という無惨なことだ。――そこはもう行(ゆ)き止(どま)りらしい地底の小室(こべや)だった。一人の男が、虚空(こくう)をつかんでのけ反(ぞ)るように斃(たお)れている。その傍には大きな箱が抛(ほう)り出してある。蓋を明け放しだ。中から白いものがチラと覗いているが、よく見れば気味の悪い骸骨(がいこつ)だった。そしてそのまわりには丸い金貨がキラキラと輝いている。金貨は地面にもバラバラと散乱している。その側(そば)には一片のひきちぎれた建築図が落ちている。それは痣蟹の秘蔵(ひぞう)の図面(ずめん)に違いなかった。――それ等の凄惨(せいさん)な光景は、一つの懐中電灯でまざまざと照らし出されているのであった。
 懐中電灯は静かに動く。――そして函の陰へ隠れている斃死者(へいししゃ)の顔面を照らし出す。まず、目につくのは、鋭い刃物で抉(えぐ)ったような咽喉部(いんこうぶ)の深い傷口――うん、やっぱりさっき口笛が聞えたとき、残虐(ざんぎゃく)きわまりなき吸血鬼が出たのだ。帽子は飛んでしまっているが、グッと剥(む)きだした白眼の下を覆う黒い覆面の布。おお、これは先刻(さっき)この地底へ下っていった黒影の人物だった。そして知っている人ならば、誰でもこれがいま都下(とか)に名高い覆面探偵青竜王だと云い当てたろう。ああ、青竜王は殺されたのだ。なぜこんな地底でムザムザと殺されてしまったのだろう。
「いいですか。この覆面を取ってみましょう」
 闇の中から男の声がした。それは懐中電灯を持っている人物の声だろう。
 光芒の中に、一本の腕がヌッと出てきた。それは屍体の覆面の方に伸び、黒い布を握った。ずるずると覆面は剥(は)がれていった。そして果然(かぜん)その下から生色を失った一つの顔が出て来た。ああ、その顔、その顔、蝋(ろう)のようなその顔の、その頬には醜(みにく)い蟹の形をした痣(あざ)が……
「おお、これは痣蟹仙斎(あぎがにせんさい)……」
 なんということだ。覆面探偵というのは、痣蟹仙斎だったのか。しかし不思議だ。そんなことが有り得るだろうか。だがここに無惨なる最期(さいご)を遂(と)げているのは、正に兇賊(きょうぞく)痣蟹に違いなかった。
「貴女(あなた)は失踪中のポントスのことを云うが、しかし誰でも貴女の釈明を要求しますよ」
 と懐中電灯の男はいう。どっかで聞いた声音(こわね)である。
「いいえ、あたしは犯人じゃありません。このジュリアは貴方の電話でうまく此処(ここ)へ誘(さそ)いだされたのです。陥穽(わな)です、恐ろしい陥穽なんです。ああ、あたし……」
 と、よよと泣き崩れる声は、意外にも今を時めく、龍宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアに違いなかった。
 それで解った。ここはパチノの墓穴なのだ。この深夜(しんや)、一体何ごとが起ったというのであろう。ジュリアを責(せ)める男は誰人(だれ)? そして地底に現われた吸血鬼は、そも何処に潜(ひそ)める?


   生か死か、覆面探偵


 帝都の暗黒界からは鬼神(きしん)のように恐れられている警視庁の大江山捜査課長は、その朝ひさかたぶりの快(こころよ)い目覚(めざ)めを迎(むか)えた。それは昨夜(ゆうべ)の静かな雨のせいだった。それとも痣蟹仙斎が空中葬(くうちゅうそう)になって既に四日を経(へ)、それで吸血鬼事件も片づくかと安心したせいだったかもしれない。――課長は寝衣(ねまき)のまま、縁側(えんがわ)に立ち出でた。
「――手を腰に膝を半ば曲げイ、足の運動から、用意――始めッ!」
 ラジオが叫ぶ一(イチ)イ二(ニ)イ三(サン)ンの号令に合わせて、課長は巨体をブンブンと振って、ラジオ体操を始めた。彼は何とはなしに、子供のような楽しさと嬉しさとが肚(はら)の底からこみあげて来るのを感じた。
「よしッ! この元気でもって、帝都市民の生活を脅(おびや)かすあらゆる悪漢どもを一掃(いっそう)してやろう」
 課長はその悪漢どもを叩きのめすような手附きで、オ一(イ)チ二(ニ)イと体操を続けていった。しかしその楽しさも永くは続かなかった。そこには大江山捜査課長の自信をドン底へつき落とすようなパチノ墓地(ぼち)の惨劇(さんげき)が控えていたのであった。昨夜(さくや)起ったそのパチノ墓地事件の知らせは、雁金検事からの電話となって、ジリジリと喧(やかま)しく鳴るベルが、課長のラジオ体操を無遠慮(ぶえんりょ)に中止させてしまった。
「お早ようございます。ええ、私は大江山ですが……」
「ああ、大江山君か」と向うでは雁金検事の叩きつけるような声がした。――御機嫌がよくないナ、「君の部下はみんな睡眠病に罹(かか)っているのかネ。もしそうなら、皆病院に入れちまって、憲兵隊の応援を申請(しんせい)しようと思うんだが……」
 検事の言葉はいつに似合わず針のように鋭かった。
「え、え、一体どうしたのでしょうか。私はまだ何も知らないんですが……」
「知らない? 知らないで済むと思うかネ。すぐキャバレー・エトワールの地下に入ってパチノ墓地を検分(けんぶん)したまえ。その上でキャバレーの出入口を番をしていた警官たちを早速(さっそく)、伝染病研究所へ入院させるんだ。いいかネ」
 ガチャリと、電話は切れてしまった。こんなに検事が怒った例を、大江山は過去に於(おい)て知らなかった。エトワールの張番がどうしたというのだろう。パチノ墓地というのは何のことだろう?
 彼は狐に鼻をつままれたような気持で暫(しばら)くは呆然(ぼうぜん)としていたが、やがてハッと正気(しょうき)にかえって、急いで制服を身につけ短剣を下げると、門前に待たせてあった幌型(ほろがた)の自動車の中に転がりこむように飛び乗った。
「オイ大急ぎだ。銀座のキャバレー・エトワールへ。――十二分以上かかると、貴様も病院ゆきだぞ!」
 運転手は何故そんなことを云われたのか解(げ)せなかったが、病院へ入れられては溜(たま)らないと思って、猛烈なスピードで車を飛ばした。
 キャバレーには雁金検事が既に先着(せんちゃく)していて、埃(ほこり)の白く積ったソファに腰を下ろし、盛んに「朝日」の吸殻(すいがら)を製造していた。そして大江山課長が顔を出すと、
「ああ大江山君、悦(よろこ)んでいいよ。儂(わし)たちはまた夕刊新聞に書きたてられて一段と有名になるよ。全(まった)く君の怠慢(たいまん)のお陰だ」
 鬼課長はこれに応える言葉を持っていなかった。それで現場検分(げんじょうけんぶん)を申出でた。検事は点(つ)けたばかりの煙草を灰皿の中へ捨てながら、「儂は君が検分するときの顔を見たいと思っていたよ」と喚(わめ)いたが、そこで急に声を落して、日頃の雁金検事らしい口調になり、「全く、君のために特別に作られた舞台のようなのだ。しかし先入主はあくまで排撃(はいげき)しなけりゃいかん」
 妙なことを云われると思いつつ、課長は雁金検事の先に立って、地下の秘密の通路から、地底に下りていった。地底には無限の魅惑(みわく)ありというが、その魅惑がよもやこのさんざん検(しら)べあげたキャバレーの地底にあろうとは思いもつかなかったことであった。――崩れかかったような細い石造(せきぞう)の階段が尽(つ)きていよいよ例のパチノ墓穴に入ると、そこには急設(きゅうせつ)の電灯が、煌々(こうこう)と輝いて金貨散らばる洞窟(どうくつ)の隅から隅までを照らし、棺桶の中の骸骨(がいこつ)も昨夜(さくや)そのまま、それから虚空(こくう)を掴(つか)んで絶命(ぜつめい)している痣蟹仙斎の屍体もそのままだった。ただ昨夜(ゆうべ)の場面に比べると、竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアと、それに寄りそって懐中電灯を照らしていた疑問の男とが、居ないところが違っていた。
「やっぱりそうだ!」
 と、大江山課長はその場へ飛びこむなり叫んだ。
「覆面探偵の青竜王は、やはり痣蟹だったのだ」と倒れている痣蟹仙斎の服装を指しながら「どうですか検事さん。覆面探偵が怪しいと申上げておいたことも、無駄ではなかったですネ」
「いいや、やっぱり無駄かも知れない。これは痣蟹の屍体とは認めるけれど、青竜王の屍体と認めるのにはまだ早い。……君のために作られたような舞台だといったのは、実はこれなのだ。つまり青竜王の覆面を取れば痣蟹であるという誤(あやまり)が起るように用意されてある。……」
「では検事さんは、これを見ても、痣蟹が青竜王に化けていたとは信じないのですか」
「それはもちろん信じる。しかし真の青竜王が痣蟹だったということとは別の問題だ」
 といった検事は、痣蟹を青竜王とは信じない面持(おももち)だった。
「大江山君、その問題は後まわしとして、この痣蟹は、明らかに吸血鬼にやられているようだが、君はどう思うネ」
「ええ、確かに吸血鬼です。この抉(えぐ)りとられたような頸(くび)もとの傷、それから紫斑(しはん)が非常に薄いことからみても、恐ろしい吸血鬼の仕業(しわざ)に違いありません」
「すると、痣蟹が吸血鬼だという君のいつかの断定(だんてい)は撤回(てっかい)するのだネ」
 捜査課長は検事の面(おもて)を黙って見詰めていたが、しばらくして顔を近づけ、
「おっしゃる通り、痣蟹が吸血鬼なら、こんな殺され方をする筈(はず)がありません。吸血鬼は外(ほか)の者だと思います」
「では撤回したネ。――すると本当の吸血鬼はどこに潜(ひそ)んでいるのだ。もちろん大江山君は、吸血鬼が覆面探偵・青竜王だとはいわないだろう」
「もちろんです。――実をいえば、私は最初吸血鬼は痣蟹に違いないと思い、次に青竜王かも知れぬと思ったんですが、両方とも違うことが分りました。外に怪(あや)しいと睨んでいるのは、最初の犠牲者四郎少年の兄だと名乗る、西一郎だけになるのですが……」と、其処(そこ)まで云った課長は急に口を噤(つぐ)んで、あたりを見廻わした。それは冒険小説に出てくる孤島(ことう)の洞窟のような実に異様な光景だった。「このパチノ墓地とかが飛び出して来たのでは、見当もなにもつかなくなりましたよ。一体これはどうしたことですかな」
 そこで雁金検事は、パチノ墓地について、既に記(しる)したとおりの伝奇的(でんきてき)な物語をして聞かせ、「つまりパチノは皇帝の命令をうけ、莫大(ばくだい)な財宝(ざいほう)を携(たずさ)えて、日本へ遠征してきたが、志(こころざし)半(なか)ばにして不幸な死を遂(と)げたというわけさ」
 大江山課長は、あまりにも奇異なパチノ墓地の物語に、しばらくは耳を疑(うたが)ったほどだったが、彼の足許(あしもと)に転(ころ)がっている骸骨や金貨を見ると、それがハッキリ現実のことだと嚥(の)みこめた。
「その物語にある莫大な財産というのは、僅かこればかりの滾(こぼ)れ残ったような金貨だの宝石なのでしょうか」
 と大江山課長は不審(ふしん)げに云った。
「そうだ、儂が来たときから、この通り荒らされているのだが、もちろん既に何者かが財宝を他へ移したのに違いない。そいつは吸血鬼か、それとも痣蟹の先生だかの、どっちかだろう」
「イヤまだ重大な嫌疑者(けんぎしゃ)があります」と大江山は叫んだ。
「誰のことかネ」
「それはこのキャバレーの主人オトー・ポントスです。あいつがやっていたのでしょう」
「ポントスはどこかに殺されているのじゃないか。いつか部屋に血が流れていたじゃないかネ」
「そうでした。でも私はあのときから別のことを考えていました。それが今ハッキリと思い当ったんですが、ポントスは殺されたように見せかけ、実はこの莫大な財産とともに何処かへ逐電(ちくでん)してしまったのじゃないでしょうか。悪い奴(やつ)のよくやる手ですよ」
「そういう説もあるにはあるネ」
 と雁金検事は、冷(ひや)やかに云った。大江山は検事の反対らしい面持を眺めていたが、
「――それで検事さんは、この事件をどうして知られたのですか。それから今お話のパチノ墓地の物語などを……」
 検事はそれを訊(き)かれるとニヤリと笑(え)みを浮べ、「それは今朝がた、もう死んだものと君が思っている青竜王が邸(やしき)へやって来て、詳(くわ)しい話をしていったよ」
「なんですって、アノ青竜王が……」
 大江山は検事の言葉が信じられないという面持だった。青竜王すなわち痣蟹は、そこに死んでいるではないか。
「そうだよ。彼は昨夜(さくや)十二時、ここへ忍びこんだそうだ。すると、例の恐怖の口笛を聞きつけた。これはいけないと思う途端に、おそろしい悲鳴が聞えた。近づいてみると、痣蟹が自分の服装をして死んでいたというのだ」
「ああ青竜王! するとこれは偽(に)せ物で、本物の方は、やっぱり生きていたのか」
 大江山課長はそういって、大きな吐息(といき)をついた。


   ゴルフ場にて


 大江山捜査課長は後を部下に委(まか)せて、一旦本庁へかえったが、覆面探偵がまだ健在だと聞いて、立っても据(すわ)ってもいられなかった。なんという恐ろしい相手だろう。彼は自分の部下の警戒線をドンドン破って潜入(せんにゅう)し、それからパチノ墓地の秘密などをテキパキと調べてゆくことなど、実に鮮(あざや)かだった。雁金検事が彼の云うことを信用しているのもどっちかというと、無理はなかった。
「強敵(きょうてき)の覆面探偵よ?」
 大江山は今や決死的覚悟を極(き)めた。このままでは、これから先、彼の後塵(こうじん)ばかりを拝(おが)んでいなければならないだろう。
「よオし、やるぞ!」と課長は思わず卓子(テーブル)をドンと叩いた。「第一になすべきことはポントスの行方(ゆくえ)を探しあてることだ。彼奴(きゃつ)が吸血鬼であるか、さもなければ吸血鬼を知っているに違いない。覆面探偵の方はいずれ仮面をひっ剥(ぱ)いでやるが、彼からポントスのことやパチノ墓地のことを十分吐きださせた後からでも遅くはないであろう」
 課長はポントスの行方に、彼の首をかけた。直(ただ)ちに特別捜査隊を編成して、それに秘策(ひさく)を授(さず)けて出発させた。そして彼は勇(ゆう)を鼓(こ)して、単身、青竜王の探偵事務所を訪ねた。――
「青竜王(せんせい)は不在ですよ、課長さん」出て来た勇少年は気の毒そうな顔もせず、むき出しに答えた。
「何処へ行くといって出掛けたのかネ」
「玉川(たまがわ)の方です。骸骨(がいこつ)のパチノとお澄(すみ)という日本の女との間に出来た子供のことについて調べに行くと云っていましたよ」
「なんだって?」課長は頭をイキナリ煉瓦(れんが)で殴(なぐ)られたような気がした。一体青竜王はどこまで先まわりをして調べあげているのだろう。折角(せっかく)勇気を出したものの、これでは到底(とうてい)太刀打(たちう)ちが出来ないと思った。しかしまだ間に合うかも知れない。「その子供というのはポントスのことじゃないのかネ」
「ポントスは本当のギリシア人ですよ。あいつはパチノ墓地を探しに来て、その墓地の上だとは知らずに、あのキャバレーを開いていたのです」
「ポントスでなければ誰だい。それとも痣蟹かネ」
「痣蟹は日本人ですよ。青竜王が探しているのは混血児ですよ」
 混血児を探しに玉川へ行った――ということを聞きだした大江山は、鬼の首でも取ったような気がした。これなら或いは分らぬこともあるまい。
 大江山課長は玉川へ自動車を飛ばした。しかし玉川という地域は、人家こそ疎(まば)らであったが、なにしろ広い土地のことだから、どこから調べてよいか見当がつかない。そこで彼は、なるべく混血児の出没(しゅつぼつ)しそうなところはないかと思ったので、秋晴(あきばれ)の停留場の前に立っている土地の名所案内をズラリと眺めまわしたが、そこで目に留(とま)ったのは、「玉川ゴルフ場」という文字だった。
 ゴルフ場に混血児――はちょっと似つかわしいと思った。彼は雁金検事に誘(さそ)われて、いささかゴルフを嗜(たしな)んだ。この秋晴れにゴルフは懐(なつか)しいスポーツであったが、なんの因果(いんが)か、今日は懐しいどころか、わざわざお苦しみのためにゴルフ場を覗(のぞ)きに行かねばならないことを悲しんだ。
 車を玉川ゴルフ場に走らせたまではよかったけれど、クラブの玄関をくぐるなり、
「いよオ、大江山君。これはどうした風の吹きまわしだい」
 と背中を叩く者があった。ハッと思って後をふりかえってみると、そこには思いがけなくも、雁金検事がゴルフ・パンツを履いてニヤニヤ笑っていた。そればかりではない。検事の後には、彼の馴染(なじみ)の顔がズラリと並んでいたので駭(おどろ)いた。それは蝋山教授、西一郎、赤星ジュリア、矢走千鳥(やばせちどり)という面々で、これでは吸血鬼事件の関係者大会のようなものだった。ただ肝腎(かんじん)の覆面探偵青竜王とキャバレーの主人ポントスとが不足していたが、この二人もどこからか現れてきそうであった。
「丁度(ちょうど)いい。一緒にホールを廻ろうじゃないか」と検事は腕を捉(とら)えた。
「ぜひそう遊ばせな。――」とジュリアたちも薦(すす)めた。
 結局大江山課長は、その仲間に入った。背広を着てきたので、恥をかかずに済(す)んだのは何よりだった。
 最初の競技は二組に分れることになった。ジャンケンをすると、第一組は雁金検事、蝋山教授に矢走千鳥、第二組は大江山と西一郎に赤星ジュリアと決まった。
 まず第一組が球(ボール)をティに置いては、一人一人クラブを振って打ち出していった。それから五分ほど遅れて、第二組がティの上に立った。
「課長さんのお相手をしようなどとは、夢にも思っていませんでしたわ」
 とジュリアが笑った。
「課長さん――は競技の間云わないことにしましょうよ、お嬢さん」
「あら――ホホホホ」
 大江山はすっかりいい気持になってしまった。――ジュリアが最初に打ち、次に大江山が打った。一番あとを西一郎が打つと、三人はキャデーを連れて、青い芝地の上をゾロゾロ球(ボール)の落ちた方へ歩きだした。
「君たちに会おうとは思いがけなかった」
 と、課長は一郎の方を向いて破顔(はがん)した。
「雁金さんのお誘いなんです。丁度ジュリア君も元気がないときだったんで、たいへんよかったですよ」と一郎が答えた。
「ほう、お嬢さんはどこか悪いのかネ」
「あら、嘘。――このとおり元気ですわよ」
 といったが、第一の球はジュリアが一番成績が出なかった。
 第二のティで球を打つと、ジュリアの球は横に曲(まが)って、一時二人に離れた。
「オイ西君」と課長は冗談ともなくそっと連れに囁(ささや)いた。「このあたりに混血児はいないかネ」
「混血児で一番近いのは、アレですよ」と一郎はジュリアの方を指(ゆびさ)した。
「なにジュリアか」とハッとした風であったが、「そう云われると、なるほどジュリアは混血児みたいなところがあるが……私の云っているのは、この玉川附近にもう七十歳ぐらいになる混血児が住んでいるのを知らないかというのだ」
「そんなのは居ませんよ」
「いないというのかネ。君はハッキリ云うから愉快だ、何も知らない癖(くせ)に……」
 と独(ひと)り合点(がてん)の課長は、斜(ななめ)ならざる機嫌に見えた。しかし後に分るようにこれらの会話は決して冗談ではなかった。それが持つ重大な意味が今課長に分っていたとしたら、彼はそんなに恵比寿顔(えびすがお)ばかりはしていられなかったであろう。――ジュリアは球(ボール)をグリーンに入れて、二人の方へ手をさしあげた。
 第三のコースでは、また三人が一緒になって球を打っていった。
「君たちはだいぶ仲がいいようだが、まだ私に媒酌(なこうど)を頼みに来ないネ」と課長は更に機嫌がよかった。
「よして下さい。ジュリア君の人気に障(さわ)りますよ」と一郎が打ち消すのを、ジュリアは、
「あら、あたしは課長さんにぜひお願いしたいわ。でも一郎さんは、あたしがお嫌いなのよ。どうせあたしは独りぽっちで、地獄へ墜(お)ちてゆくのだわ――」
 とジュリアはヒステリックに云って、ハンカチーフを鼻に当てた。彼女の打数(だすう)はいよいよ荒れていった。
 そんな風にして、コースを一巡(じゅん)した結果は、大江山がズバ抜けて成績がよく、ずっと落ちて普通の成績を示したのが蝋山教授と矢走千鳥で、雁金検事も西一郎も更に振わず、ジュリアに至っては荒れ切った悪成績だった。
「イヤ恐ろしい成績表だ。全く恐ろしい」
 と雁金検事は首を振って一郎の顔をみた。
「全く、こんなに恐ろしく打てようとは、当人の方で面喰(めんくら)っているところですよ」
 と大江山課長は自分のことが問題にされているんだと早合点(はやがてん)して、極(きま)り悪(わ)る気(げ)にいった。
「時間があれば、もっと廻りたいのだが……」
 と検事が云ったが、凄(すご)い当りをみせた大江山も至極(しごく)同感(どうかん)だった。しかしジュリア達の出演時刻のこともあるので、時間が足りないから止(や)めにした。その代り検事と課長は練習場で、球(ボール)を戞(か)ッ飛ばしに出ていった。ジュリアと千鳥とは、その間にクラブ館(ハウス)の奥にある噴泉浴(ふんせんよく)へ出かけた。蝋山教授と一郎とは、青々としたグリーンを眺められる休憩室の籐椅子(とういす)に腰を下ろして、紅茶を注文した。こうして六人の同勢は三方に別れた。
 大江山課長は人気のない練習場でクラブを振りながら、雁金に話しかけた。
「検事さん。今日の集りの真意(しんい)はどこにあるのですかなア」と先刻(さっき)から聞きたかったことを尋(たず)ねた。
「うん――」と雁金は振りかけたクラブを止めて、「儂(わし)にもよく分らぬが、これは青竜王の注文なのだ」
「えッ、青竜王の注文?」と課長はサッと青ざめた。
「彼はゲームの結果を知りたがっていた。さし当(あた)り、君の大当りなんか、何といって彼が説明するだろうかなア。はッはッはッ」
 外国の名探偵が、真犯人を探し出すために、嫌疑者(けんぎしゃ)を一室にあつめてトランプ競技をさせ、その勝負の模様によって判定したという話を聞いたことがあるが、青竜王はそれに似たことをやるのではあるまいか。とにかく課長は憂鬱(ゆううつ)になって、俄(にわ)かに球(ボール)が飛ばなくなった。
「検事さん。青竜王は貴方がたにゴルフをさせて置いて、自分はこの玉川でパチノの遺族を探しているそうですが、御存知ですか」
「そうかも知れないネ」
「では青竜王の居るところを御存知なんですネ。至急会いたいのです。教えて下さい」
「教えてくれって? 君が行って会えばいいじゃないか」
 検事は妙な返事をした。課長は検事が機嫌を損(そん)じたのだと思って、あとは口を噤(つぐ)んだ。
 丁度そのときだった。クラブ館(ハウス)の方で、俄かに人の立ち騒ぐ声が聞えた。課長がふりかえると、クラブ館(ハウス)のボーイが大声で叫んだ。
「皆さん、早く来て下さーい。御婦人が襲われていまーすッ」
 御婦人?――検事と課長とはクラブを投げ捨て、クラブ館(ハウス)へ駈けつけた。


   襲(おそ)われた裸女(らじょ)


 この突発事件が起ったところは、クラブ館(ハウス)の中の噴泉浴室(ふんせんよくしつ)のあるところだった。
 それより三十分ほど前、その婦人用の浴室の二つが契約された。もちろんそれは赤星ジュリアと矢走千鳥の二人が、汗にまみれた身体を噴泉で洗うためだった。当時この広い浴場は、二人の外に誰も使用を契約していなかった。
 ジュリアは第四号室を、千鳥の方はその隣りの第五号室を借りた。その浴室は、公衆電話函(こうしゅうでんわばこ)を二つ並べたようになっていて、入口に近い仕切(しきり)の中で衣類を脱ぎ、その奥に入ると、白いタイルで張りつめた洗い場になっていて、栓(せん)をひねると天井からシャーッと温湯(おんとう)が滝(たき)のように降ってくるのであった。婦人たちのためには、セロファンで作った透明な袋があって、これを頭から被(かぶ)ってやれば、髪は湯に濡(ぬ)れずに済(す)んだ。
 二人はゴトゴトと音をさせながら、着物を脱いだ。
「お姉さま」と千鳥が隣室(りんしつ)から呼んだ。
「なーに、千(ち)いちゃん」
「あたし、何だか怖いわ。だってあまり静かなんですもの」
「おかしな人ネ。静かでいい気持じゃないの」
 そういってジュリアは奥に入ると、シャーッと白い噴泉を真白な裸身(らしん)に浴(あ)びた。
「あの――お姉さま」と千鳥がトントンと間の板壁を叩いた。
「お姉さまが黙っていると、なんだか、独(ひとり)ぽっちでいるようで怖いのよ。あたし、お姉さまのところへ入っていってはいけないこと?」
「あらいやだ。まあ早くお洗いなさいよ。――そう、いいことがあるわ。じゃあ、あたしがここで歌を唄ってあげるわ。世話の焼ける人ネ」
 そういってジュリアは千鳥のために、美しい口笛を吹きならしたのであった。その歌はいわずと知れた彼女の十八番(おはこ)の「赤い苺の実」の歌だった。
 千鳥もそれに力を得たか、騒ぐのをやめてシャーッと噴泉の栓をひねって、しなやかに伸びた四肢(しし)を洗いはじめた。
 それから何分のちのことだったかよく分らないが、この噴泉浴室の中から、突如として魂消(たまぎ)るような若い女の悲鳴が聞えた。それは一人のようでもあり、二人のようでもあった。と、途端(とたん)にガチャーンといって硝子(ガラス)の破(わ)れるような凄(すさま)じい音がして、これにはクラブ館(ハウス)の誰もがハッキリと変事(へんじ)に気がついたのだった。
 いつもは男子絶対禁制(きんせい)の婦人浴場だったけれど、誰彼(だれかれ)の差別なく、入口から雪崩(なだ)れこんだ。
「どうしましたッ」
 と真先(まっさき)に入ったのは、クラブの事務長の大杉(おおすぎ)だった。しかし内部からはウンともスンとも返事がなかった。
 彼は手前にある四番浴室をサッと開いた。そこにはジュリアの衣服が脱ぎ放(ぱな)しになっていた。ノックをして奥の仕切を押し開いたが、どうしたものかジュリアが居ない。噴泉はシャーッと勢いよく出ていた。
 彼は直ぐそこを飛び出すと、次の五番浴室に闖入(ちんにゅう)した。そこには派手な千鳥の衣類が花を蒔(ま)いたように床上(ゆかうえ)に散乱(さんらん)していた。格闘があったのに違いない。事務長はそこで胸を躍らせながら、奥の仕切をサッと開いた。
「呀(あ)ッ!」
 と叫ぶなり、彼は慌てて仕切を閉じた。彼は見るに忍びないものを見たのだ。そこには一糸も纏(まと)わないジュリアが、大理石彫(だいりせきぼ)りの寝像であるかのように、あられもない姿をしてタイルの上に倒れていたのであった。
「オイ、退(ど)いた退(ど)いた」
 と背後に大きな声がした。雁金検事と大江山捜査課長とが入ってきたのだ。
 噴泉を停め、ジュリアを抱き起すと、彼女は失心(しっしん)からやっと気がついた。
「どうしたのです。そして千鳥さんは……」
「ああ、千(ち)いちゃんは、……」とジュリアは白い腕を頭の方にあげて何か考えているようだったが、
「――誰かが攫(さら)って……」といって入口の方を指(ゆびさ)したと思うと、ガックリと頭を垂(た)れた。ジュリアはまた失心してしまったのだった。
「ナニ、千鳥さんは攫われたというのか」
 課長はジュリアを検事に預けて、自分は浴室を飛びだした。見ると正面の窓硝子が上に開いて、しかも硝子が壊(こわ)れている。さっきの酷(ひど)い音はこれだったのだ。怪人物は千鳥を奪って、此処(ここ)から逃げたのに違いない。
 彼はヒラリと窓を飛び越して、外へ出た。
 そしてあたりを見廻わしたが、クラブの囲(かこ)いの外は、茫々(ぼうぼう)たる草原が見えるばかりで、怪人物の姿は何処にも見えなかった。ただ遥(はる)か向うを、濛々(もうもう)たる砂塵(さじん)が移動してゆくのが目に入った。
「ああ、あれだッ。自動車で逃げたナ」
 彼は玄関に廻ってみると、そこで連(つ)れて来た運転手とバッタリ出会った。
「課長さん。自動車を盗まれてしまいました」
 と運転手は青くなって云った。
 後には自動車が一台もなかった。だから向うを怪人物が裸身(らしん)の矢走千鳥を乗せたまま逃げてゆくのを望みながらも、何の追跡する方法もなかった。
「そうだ、電話をかけよう」
 事務室に飛びこんだ課長は、まどろこしい郊外電話に癇癪玉(かんしゃくだま)を爆発させながら、それでも漸(ようや)く警察署を呼び出し、自動車取押(とりおさ)え方(かた)の手配をするとともに、また至急(しきゅう)自動車をゴルフ場へ廻すように頼んだ。そして検事の待っている方へ歩いていった。
 ジュリアは事務室の中で、急拵(きゅうごしら)えのベッドの上に寝かされていた。枕頭(ちんとう)には医学博士蝋山教授が法医学とは勝手ちがいながら何くれとなく世話をしていた。雁金検事は腕を拱(こまね)いて沈思(ちんし)していたが、課長の入ってくるのを見るなり、
「矢走嬢(じょう)は見つかったかネ」
 と聞いた。課長は一伍一什(いちぶしじゅう)を報告して、見失ったのを残念がった。
「ジュリアさんは、何か話をしましたか」
 と課長の問うのに対し、検事は掻(か)い摘(つ)まんで話をした。――ジュリアの話によると、彼女は噴泉を浴びているうちに、隣室の千鳥が只ならぬ悲鳴をあげたので、愕(おどろ)いて隣室へ飛びこんでみると、どこから入ったか、一人の怪漢が千鳥を襲っているので、背後(うしろ)から組みついたところ、忽(たちま)ち振り倒されて気を失った。気がついたら、こんなところに寝ていたというのであった。
「その怪漢の顔とか、服装には記憶がありませんか」
「咄嗟(とっさ)の出来ごとで、何も分らないそうだ。
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