恐怖の口笛
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著者名:海野十三 

   逢(お)う魔(ま)が時刻(とき)


 秋も十一月に入って、お天気はようやく崩(くず)れはじめた。今日も入日(いりひ)は姿を見せず、灰色の雲の垂(た)れ幕(まく)の向う側をしのびやかに落ちてゆくのであった。時折サラサラと吹いてくる風の音にも、どこかに吹雪(ふぶき)の小さな叫び声が交(まじ)っているように思われた。
 いま東京丸(まる)ノ内(うち)のオアシス、日比谷(ひびや)公園の中にも、黄昏(たそがれ)の色がだんだんと濃くなってきた。秋の黄昏れ時(どき)は、なぜこのように淋しいのであろう。イヤ時には、ふッと恐ろしくなることさえある。云い伝えによると、街の辻角(つじかど)や林の小径(こみち)で魔物に逢うのも、この黄昏れ時だといわれる。
 このとき公園の小径に、一人の怪しい行人(こうじん)が現れた。怪しいといったのはその風体(ふうてい)ではない。彼はキチンとした背広服を身につけ、型のいい中折帽子を被り、細身の洋杖(ケーン)を握っていた。どうみても、寸分の隙のない風采(ふうさい)で、なんとなく貴族出の人のように思われるのだった。しかし、その上品な風采に似ずその青年はまるで落付きがなかった。二三歩いってはキョロキョロ前後を見廻わし、また二三歩いっては耳を傾け、それからまたすこし行っては洋杖(ケーン)でもって笹の根もとを突いてみたりするのであった。
「どうも分らない」
 青年は小径の別れ道のところに立ち停ると吐きだすように呟(つぶや)いた。そして帽子をとり、額の汗を白いハンカチーフで拭った。青年の白皙(はくせき)な、女にしたいほど目鼻だちの整った顔が現れたが、その眉宇(びう)の間には、隠しきれない大きな心配ごとのあるのが物語られていた。――彼はさっきから、懸命になって、何ものかを探し求めて歩いていたらしい。
「どうして、こんなに胸騒ぎがするのだろう」
 青年は心の落付きをとりかえすためであろうか、ポケットから一本の紙巻煙草(シガレット)をとりだすと口に銜(くわ)えた。マッチの火がシューッと鳴って、青年の頤(あご)のあたりを黄色く照らした。夕闇の色がだんだん濃くなってきたのだった。
 いま青年の立っているところは、有名な鶴の噴水のある池のところから、洋風の花壇の裏に抜けてゆく途中にある深い繁みであった。小径の両側には、人間の背よりも高い笹藪(ささやぶ)がつづいていて、ところどころに小さな丘があり、そこには八手(やつで)や五月躑躅(さつき)が密生していて、隠れん坊にはこの上ない場所だったけれど、まるで谷間に下りたような気持のするところだった。――青年は何ともしれぬ恐怖に襲われ、ブルブルッと身を慄(ふる)わせた。気がつくと、銜えていた紙巻煙草(シガレット)の火が、いつの間にか消えていた。
 そのとき、何処からともなくヒューッ、ヒューッ、と妖(あや)しき口笛が響いてきた。無人境(むにんきょう)に聞く口笛――それは懐(なつか)しくなければならない筈のものだったけれど、なぜか青年の心を脅(おびや)かすばかりに役立った。聞くともなしに聞いていると、なんのことだ、それは彼にも聞き覚えのある旋律(メロディ)であったではないか。それはいま小学生でも知っている「赤い苺(いちご)の実」の歌だった。この日比谷公園から程とおからぬ丸ノ内の竜宮劇場(りゅうぐうげきじょう)では、レビュウ「赤い苺(いちご)の実」を三ヶ月間も続演しているほどだった。それは一座のプリ・マドンナ赤星(あかぼし)ジュリアが歌うかのレビュウの主題歌だった。
「誰だろう?」
 青年は耳を欹(そばだ)てて、その口笛のする方を窺(うかが)った。それは繁みの向う側で吹きならしているものらしいことが分った。
「……あたしの大好きな
   真紅(まっか)な苺(いちご)の実
   いずくにあるのでしょ
   いま――
   欲しいのですけれど」
 青年は心配ごとも忘れて、その美しい旋律(メロディ)の口笛に聞き惚れた。まるでローレライのように魅惑的な旋律だった、そして思わず彼も、「赤い苺の実」の歌詞を口笛に合わせて口吟(くちずさ)んだのであった。……しかし、やがて、その歌の中の恐ろしい暗示に富んだ歌詞に突き当った。
「……別れの冬木立(ふゆこだち)
   遺品(かたみ)にちょうだいな
   あなたの心臓を
   ええ――
   あたしは吸血鬼……」
 赤い苺の実というのは、実は人間の心臓のことだと歌っているのである。ああ、あたしは吸血鬼!
 青年紳士はハッと吾れにかえった。賑(にぎ)やかな竜宮劇場の客席で聞けば、赤星ジュリアの歌うこの歌も、薔薇(ばら)の花のように艶(あで)やかに響くこの歌詞ではあったけれど、ここは場所が場所だった。黄昏の微光にサラサラと笹の葉が鳴っている藪蔭である。青年はその背筋が氷のようにゾッと冷たくなるのを感じた。
 と、――
 その刹那(せつな)の出来ごとだった。
 キ、キャーッ。
 突如、絹を裂くような悲鳴(ひめい)一声(いっせい)!
「呀(あ)ッ、――」
 それを聞くと青年紳士は、その場に棒立ちになった。悲鳴の起った場所は、いままで口笛のしていたところと同じ方向だった。大変なことが起ったらしい。青年紳士の顔色は真青(まっさお)になった。
 彼は突然身を躍らせると、柵を越えて笹藪の中に飛びこんだ。ガサガサと藪をかきわけてゆく彼の姿が見られたが、暫(しばら)くするとそのまま引返して来た。そしてまた小径に出て、こんどはドンドン駈けだした。どうやら竹藪の中は行き停りだったらしい。口笛はまだ微(かす)かに鳴っている。
 随分遠まわりをして、彼はやっと口笛のしていた場所へ出ることが出来た。それは悲鳴を聞いてから四五分ほど経ってのちのことだった。
「……?」
 さて此処ぞと思う場所に出たことは出たけれど、そこには葉のよく繁った五月躑躅(さつき)がムクムクと両側に生えているばかりで、小径はいたずらに白く続き、肝腎(かんじん)の人影はどこにも見当らなかった。彼はなんだか夢をみていたのではあるまいかという気がした。
 しかし彼は確かに悲鳴を自分の耳底に聞いたのだった。そして悲鳴などは、いまの彼として聞いてはならぬものだった。なぜならこの青年紳士は、先刻(さっき)から一人の肉親の弟を探しまわっているのであったから。
 なぜこの紳士は、弟を探廻(さがしまわ)らなければならなかったか? それは後に判ることとして、今作者は、この場を語るにもっと急であらねばならないのだ。
 彼はすこし気が落ちついたのであろうか、こんどはしっかりした態度に帰って、あたりを熱心に探しだした。ここの繁み、かしこの繁みと探してゆくうちに、とうとう彼は一番こんもりと繁った五月躑躅の蔭に、悲しむべき目的物を探しあてたのだった。それは小径の方に向いてヌッと伸びている靴を履いた一本の足だった。
「おお、――」
 青年紳士は、その場に化石のようになって、突立(つった)った。


   二重(にじゅう)の致命傷(ちめいしょう)


 青年紳士は暫くしてから気を取り直すと、静かに芝草の中へ足を踏みいれた。そして屍体(したい)の方に近づいて、その青白い死顔を覗(のぞ)きこんだ。
「おお、四郎……」
 と、彼は腸(はらわた)からふり絞るような声で、愛弟(あいてい)の生前(せいぜん)の名を呼んだ。
 ああ、何という無惨!
 五月躑躅(さつき)の葉蔭に、学生服の少年が咽喉(のど)から胸許(むなもと)にかけ真紅(まっか)な血を浴びて仰向(おあむ)けに仆(たお)れていた。青年は芝草の上に膝を折って、少年の脈搏を調べ、瞼(まぶた)を開いて瞳孔(どうこう)を見たが、もう全く事切れていた。そして身体がグングン冷却してゆくのが分った。
 兄は悲しげにハラハラと落涙(らくるい)した。
「死んでいる。……四郎、お前は誰に殺されたのだ」
 屍体は肉親の兄西一郎(にしいちろう)にめぐりあい、おのれを屠(ほふ)った恨深い殺人者について訴えたいように見えたが屍体はもう一と口も返事することができなかった。
 兄の一郎は涙を拭うと、血にまみれた屍体を覗きこんだ。そのとき彼は屍体の頤(あご)のすぐ下のところに深い、溝(みぞ)ができているのを発見した。よく見ると、その溝の中には細い鋼(はがね)の針金らしいものが覗いていた。
「おや、これは不思議だ。絞殺されたのかしら」と一郎は目を瞠(みは)った。「それにしても、胸許を染めている鮮血(せんけつ)はどうしたというのだろう」
 絞殺に鮮血が噴(ふ)きでるというのは可笑(おか)しかった。なにかこれは別の傷口がなければならない。一郎は愛弟四郎の屍体に顔を近づけた。そして注意ぶかく、屍体の頭に手をかけると首をすこし曲げてみた。
「ああ、これは……」
 屍体の咽喉部は、真紅な血糊(ちのり)でもって一面に惨(むご)たらしく彩(いろど)られていたが、そのとき頸部(けいぶ)の左側に、突然パックリと一寸ばかりの傷口が開いた。それは何で傷(きずつ)けたものか、ひどく肉が裂けていた。その傷口からは、待ちうけていたように、また新しい血潮がドクドクと湧きだした。一郎はハッと屍体から手を離した。血潮は頸部を伝わって、スーッと走り落ちた。――何者かが頸動脈(けいどうみゃく)を切り裂いたのに違いなかった。
「なんという惨たらしい殺し方だ。頸を締めたうえに、頸動脈まで切り裂くとは……」
 だが、これは随分御丁寧な殺し方である。それほど四郎は、人の恨(うら)みを買っていたのだろうか。いやそんな筈はない。誰にも好かれる彼に、そんな惨酷な手を加える者はない筈(はず)だった。――一郎は、不審にたえない面持で、もう一度創傷(きりきず)を覗きこんだ。その結果、彼は屍体の頸部に恐ろしいものを発見した。恐ろしい人間の歯の痕(あと)を!
 それは傷口に近い皮膚のうえに残っている深い歯の痕だった。一つ、二つ、三つと、三ヶ所についていた。もう一つの歯痕は見えなかった代りに、当然そこに歯痕のあるべき皮膚面が抉(えぐ)ったように切れこんでいた。恐らく上顎の糸切歯(いときりば)がここに喰いこんで、四郎少年の皮膚と肉とを破り、頸動脈をさえ喰い切ったのであろう。ああ、何者の仕業であろう。人間を傷つけるに兇器(きょうき)にこと欠(か)いたのかはしらぬが、歯をもって咬(か)み殺すとは何ごとであるか。まるで獣(けもの)のような殺し方である。大都会の真中にこんな恐ろしい獣人(じゅうじん)が出没(しゅつぼつ)するとは有り得ることだろうか。一郎は自分の眼を疑った。
「憎(にく)い奴、非道(ひど)い奴!――こんなむごたらしい殺し方をしたのは、何処の何者だッ」
 このとき一郎は、さっき聞くともなしに聞いた口笛のことを思い出した。その口笛が弟の惨殺事件になにか関係のあるだろうということは、もっと早く思い浮べなければならなかったのだけれど、彼はあまりに悲しい場面に直面して、ちょっと忘れていたのであろう。
「そうだ、あの口笛は誰が吹いていたのだろう?」
「赤い苺の実」の歌――それは、ひょっとすると、殺された弟が吹いていたのかも知れないと思った。
「イヤ弟ではない――」
 あの怪しい口笛は、弟の発したらしいキャーッという悲鳴の前にも聞えていたが、それからのち彼が繁みの小径を探そうとして一生懸命になっているときにも、どこからともなく耳にしたではないか。殺された人間が口笛を吹くはずがない。――では口笛を吹いていたのは何者だ。
「ウム、その口笛の主が、弟を殺した獣人に違いない!」
 そうだ、あの「赤い苺の実」の歌というのは実は「吸血鬼」の歌なのだ。第五節目の歌詞には「あなたの心臓をちょうだいな、あたしは吸血鬼」といったような文句があるではないか。竜宮劇場の舞台から艶(あで)やかな赤星ジュリアの歌を聴いているような気持で、あの悲鳴入りの口笛を聴き過ごすことはできない。吸血鬼の歌を口笛に吹いた奴が、あの殺人者に違いあるまい。ひょっとすると、あの妖しい歌に誘われ、蝙蝠(こうもり)のような翅(はね)の生えた本物の吸血鬼がこの黄昏の中に現われて、その長い吸盤(きゅうばん)のような尖(とが)った唇でもって、愛弟の血をチュウチュウと吸ったのではあるまいかと思った。とにかく悲鳴がしてから四五分経って駈けつけたのだから、まだその附近に、恐ろしい吸血鬼がひそんでいるかも知れない。
「よオし。愚図愚図(ぐずぐず)していないで、その吸血鬼を捉(とら)えてやらねばならん」
 西一郎は咄嗟(とっさ)に決心を固めた。そして彼は身を起すと、芝草を踏んで、小径の方へ駈けだした。
「こーら、出てこい。人殺し奴(め)、出てこい。……」
 彼は阿修羅(あしゅら)のようになって、ここの繁み、かしこの藪蔭に躍り入った。彼の上品な洋袴(ズボン)はところどころ裂け、洋杖(ケーン)を握る拳(こぶし)には掻(か)き傷(きず)ができて血が流れだしたけれど、一郎はまるでそれを意に留めないように見えた。
 公園の東の隅には、元の見附跡(みつけあと)らしい背の高い古い石垣が聳(そび)えていた。ここはあまりに陰気くさいので、いかに物好きな散歩者たちも近よるものがなかった。一郎は前後の見境(みさかい)もなく、石垣の横手から匍(は)いこんだ。そこには大きな蕗(ふき)の葉が生(は)え繁(しげ)っていたが、彼が猛然とその葉の中に躍りこんだとき、思いがけなくグニャリと気味のわるいものを踏みつけた。
「呀(あ)ッ――」
 と、彼は其の場に三尺ほど飛び上った。
 だが彼は、その叫び声に続いて、もう一つの驚きの声を発しなければならなかった。なぜなら、その密生した蕗の葉の中から、イキナリ一人の男が飛びだしたからであった。一郎が踏みつけたのは、その葉かげに寝ていたかの男の脚だったにちがいない。
「……」
 一郎は、呼吸(いき)をはずませて、相手の方を睨(にら)んだ。ああ、それは何という恐ろしい顔の男であったろう。背丈はあまり高くないが、肩幅の広いガッチリした体躯の持ち主だった。そして黝(くろ)ずんだ変な洋服を着ていた。その幅広の肩の上には、めりこんだような巨大な首が載っていた。頭髪は蓬(よもぎ)のように乱れ、顔の色は赭黒(あかぐろ)かった。しかしなによりも一郎の魂を奪ったものは、その男の赭顔の半面にチラと見えた恐ろしく大きな痣(あざ)であった。
「待て――」
 一郎は相手を見てとると、勇敢に突進していった。痣のある男はヒラリと身体をかわして逃げだした。
「オイ、待たないか――」
 その怪人は、はたして弟四郎を殺した彼の恐るべき吸血鬼であるのかどうかハッキリ分らない。しかし折も折、この夕暗(ゆうやみ)どきに人も通らぬ石垣裏の蕗の葉の下に寝ているとは、たしかに怪しい人物に違いなかった。追いついて、組打ちをやるばかりである。
 怪人は物を云わず、ドンドンと逃げだした。その行動の敏(すばや)いことといったら、どうも人間業とは思えなかった。高い石垣を見上げたと思うと、ヒョイと長い手を伸ばして、バネ仕掛けのように飛び越えた。まるで飛行機が曲芸飛行をしているような有様だった。一郎がようやく石垣を攀(よ)じのぼって、下の池の方を見下(みお)ろすと、かの怪人はもう池の向う岸にいた。池の水面には小さなモーターボートでも通ったように、二条の波紋が長くあとを引いていた。どうして彼が池を渉(わた)り越えたのやら分らなかった。
 一郎は池を大迂回しなければならなかった。しかし一郎の予想は当って、怪人はドンドン西の方に逃げてゆく。そっちの方には弟の惨殺屍体の転がっている竹藪があった。だから怪人はきっとその辺へ潜りこむつもりだろう。そうなれば怪人の正体もハッキリして来るというものだ。
「誰か、手を借して呉れーッ」
 一郎は声をかぎりに叫ぼうとしたが、咽喉がカラカラに乾いて、皺枯(しわが)れた弱い声しか出なかった。そのうちに怪人は、弟の死霊(しりょう)に惹(ひ)きよせられるもののように、問題の藪だたみの方に足を向けると、ガサガサと繁みを分けて姿を消してしまった。それを見て一郎はムラムラと復讐心の燃えあがってくるのを感ぜずにはいられなかった。
 彼は急に進路を曲げた。それは抜け道をして、弟の屍体の転がっている裏の方の繁みの中からワッと躍りでるつもりだった。それは怪人の不意を打つことになって、たいへん有利だと思ったからだった。
 間もなく一郎は、目的の繁みに出た。それは灌木の欝蒼(うっそう)とした繁みで、足の踏み入れるところもないほどだった。彼は下枝を静かにかきわけながら前進した。もう屍体のある場所は間近(まぢ)かの筈だった。
「うん、あすこだ」
 繁みの葉の間からは、向うに丸い芝地が見えた。近くに電灯がついているらしく、黄色く照し出されていた。その真中には、紛(まぎ)れもなく、力なく投げだされた青白い弟の腕が伸びていた。
 すると、そのときだった。奇怪なことにも、その屍体の腕が生き物のようにスルスルと芝草の上を滑(すべ)りだした。あの大傷を受けた弟が生きかえったのであろうか。いや絶対にそんなことがありよう筈がない。すると――
「あの怪人めが屍体にたかって、また破廉恥(はれんち)なことをやっているのだな。よオし、どうするか、いまに見ていろ!」
 彼の全身は争闘心に燃えた。こうなってはもう誰の救いも要らない。愛する弟のために、この一身を投げだして、力一杯相手の胸許にぶつかるのだッ。
「さあ来いッ」
 彼は一チ二イ三ンの掛け声もろとも、エイッと繁みの中から芝草の上へ躍りだした。
「さあ来いッ――」
 ……と躍りだしてはみたが、そこには思いもよらず――
「アレーッ」
 という若い女の悲鳴があった。
「おお、貴女(あなた)は……」
 一郎はあまりの意外に、棒のように突立ったまま、言葉も頓(とみ)には出なかった。意外とも意外、その芝草の上に立っていたのは誰あろう、いま都下第一の人気もの、竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアその人だったからである。


   裂(さ)かれた日記帳


「あら、驚いた。……まア、どうなすったの、そんなところから現われて……」
 ジュリアは唇の間から、美しい歯並を見せて叫んだ。
 しかし彼女は、それほど驚いているという風にも見えなかった。それが舞台度胸というのであろうか。高いところから得意の独唱をするときのように、黒いガウンに包まれたしなやかな腕を折り曲げ、その下に長く裾を引いている真赤な夜会着のふっくらした腰のあたりに挙げ、そしてまじまじと一郎の顔を眺めいった。
「僕よりも、赤星ジュリアさんが、どうしてこんなところに現われたんです」
 と、一郎は屍体に何か変ったことでもありはしないかと点検しながら訊(たず)ねた。
「あら、あたくしを御存知なのネ。まあ、どうしましょう」とジュリアは軽く駭(おどろ)いた身振りをして「あたくしは、いま劇場の昼の部と夜の部との間で、丁度身体が明いているのよ。一日中であたくしはそのときがいちばん楽しいの。……で、ドライヴしていたんですわ、ホラごらん遊ばせ、ここから見えるでしょう、あたくしの自動車(くるま)が……」
 なるほどジュリアの指(ゆびさ)す方に、一台の自動車が、小径を出たところに停っていて、座席には彼女の連れらしい、ずっと年の若い少女が乗っていた。それはジュリアの妹分にあたる矢走千鳥(やばせちどり)という踊り子であったけれど。
「貴女は自動車でここを通りかかったというのですか。よくこれが分りましたネ。……」
 と弟の死骸を指した。
「ええ、それは誰かが叫んでいたからですわ。なにごとか大事件が起ったような叫び声でしたわ。だもんで、自動車を停めて、ここまで来てみると、この有様なんですのよ。貴方(あなた)、たいへんだわ。この学生さん、死んでいましてよ」
「そうです。死んでいるというよりも、殺されているといった方がいいのです。これは僕の本当の弟なのです」
「ええ、なんですって。貴方がこの方の兄さんだと仰有(おっしゃ)るのですか」
「そのとおりです。僕は四郎の兄の一郎なんです」
「アラマアあたくし、どうしましょう」とジュリアは美しい眉(まゆ)を曇らせたが「とんだお気の毒なことになりましたわネ」
 といって目を瞑(と)じ、胸に十字を切った。
「そうだ、貴方はいまその辺に見なかったですか、怪しい男を……」
「怪しい男? 貴方以外にですか」
「ええ、もちろん僕のことではないです。こう顔の半面に恐ろしい痣(あざ)のある小さい牛のような男のことです」
「いいえ。あたくしは今、車を下りて、真直(まっすぐ)にここまで歩いたばかりですわ」
 ジュリアはまるでレビュウの舞台に立っているかのように、美しい台辞(せりふ)をつかった。側に立つルネサンス風の高い照明灯は、いよいよ明るさを増していった。
「その痣のある男がどうかしたのですか」
「いや、僕がいま追駈(おいか)けていたのです。もしや犯人ではないかと思ったのでネ」と一郎は云ってあたりの木立を見廻わした。夕闇はすっかり蔭が濃くなって、これではもう追駈けてもその甲斐(かい)がなさそうに見えた。
 そこへバラバラと跫音(あしおと)が入り乱れて聞えた。二人がハッと顔を見合わせる途端に、夕闇の中で定かに分らないが、十歳あまりの少年が駈けこんできた。そして後方(うしろ)をクルリとふりむいて大声に叫んだ。
「オーイ、早くお出でよ、大辻さーん」
 向うの方からも、別な跫音がバタバタと近づいてきた。
「待て待て、勇坊(いさぼう)、ひとりで駈けだすと、危いぞオ」
 そういう声の下(もと)に、大入道のような五十がらみの肥満漢が、ゼイゼイ息を切りながら姿を現わした。――どうやら二人は連(つれ)らしい。
「大辻(おおつじ)さん。赤星ジュリアの外に、もう一人若い男が殖(ふ)えたぜ」
 と、少年は小慧(こざか)しい口を利いた。
「ほう、そうじゃなア」
 そういうところを見ると、既に二人はジュリアが屍体のところへ来たのを知っていたらしい。
「皆さん。そこにある屍体を見るのはかまわないけれど、手で触っちゃ駄目だよ。折角の殺人の証拠がメチャメチャになると、警官が犯人を探すのに困るからネ」と少年は大真面目(おおまじめ)でいってから、大辻と呼ばれる大男の方に呼びかけた。「どうだい大辻さん。この殺人事件において、大辻さんは何を発見したか、それを皆並べてごらんよ」
「オイよさねえか、勇坊。みなさんが嗤(わら)っているぜ」
 と大辻は頭を掻いた。
「まあ面白いこと仰有るのネ。あなた方は誰方(どなた)ですの」
 ジュリアは、眼のクルクルした少年に声をかけた。
「僕たちのことを怪しいと思ってるんだネ、ジュリアさん。僕たちは、ちっとも怪しかないよ。僕たちはこれでも私立探偵なんだよ。知っているでしょ、いま帝都に名の高い覆面探偵の青竜王(せいりゅうおう)ていうのを。僕たちはその青竜王の右の小指なんだよ」
「まあ、あなたが小指なの」
「ちがうよ。小指はこの大辻さんで、僕が右の腕さ」
「青竜王がここへいらっしゃるの?」
「ううん」と少年は急に悄気(しょげ)て、かぶりを振った。「青竜王(せんせい)がいれば、こんな殺人事件なんか一と目で片づけてしまうんだけれど。だけれど、青竜王(せんせい)はどうしたものか、もう十日ほど行方が分らないんです。だから僕と大辻さんとで、この事件を解決してしまおうというの」
「オイオイ勇坊。つまらんことを云っちゃいけないよ」
「そうだ。それよりも早く結論を出すことに骨を折らなければ……」と勇(いさむ)少年は再び大辻の方を向いていった。「大辻さんには分っているかどうかしらないけれど、この学生さんは始めその木の陰で向うを向いて腰を下ろしていたんだよ。するとネ、学生さんの背後(うしろ)の繁った葉の間から、二本の手がニューッと出て、細い針金でもって学生さんの首をギューッと締めつけたんだ。それでとうとう死んじゃったんだ」
「そのくらいのことは分っているよ」と大辻が痩せ我慢をいった。
「どうだかなア。――そこで犯人は、表へ廻って、この屍体の側に近よった。そして咽喉のところを喰(く)っ切って血を出してしまったのさ。こうすると全く生きかえらないからネ」
「それくらいのこと、わしにだって分らないでどうする」
「へーン、どうだかな。――殺される前に、学生さんは一人の美しい女の人と一緒に話をしていたのに違いない。その草の間にチョコレートの銀紙が飛んでいる中に、口紅がついたのが交(まじ)っている」
「ええ、本当かい、それは……」
「ほーら、大辻さんには分っていないだろう。――学生さんは女の人と話しているうちに、女の人はなにか用事が出来て、ここから出ていったのさ。すぐ帰ってくるから待っていてネといったので、学生さんはじっと待っていた。その留守に頸を締められちまったのさ」
「青竜王(せんせい)の真似だけは上手な奴じゃ」
「それからまだ分っていることがある……」
 勇少年の饒舌(じょうぜつ)は、まだ続いてゆく。赤星ジュリアは聞き飽きたものかスカートをひるがえして、待たせてあった自動車の方へ歩いていった。
 西一郎の方は、さっきから黙って、青竜王の部下だという大男と少年の話を聞いていたが、これもジュリアの跡を追って、その場を立ち去った。彼はまだ怪人の行方をつきとめたい気があるのかも知れなかった。
 勇少年と大辻とは、それに気づかない様子で、夢中になって饒(しゃべ)りつづけていた。しかし二人の男女が立ち去ってしまうと、思わず顔を見合わせてニッコリと笑った。
「だが勇坊、お前はいけないよ、あんな秘密なことまで喋(しゃべ)ったりして」
「あんなこと秘密でもなんでもありゃしない。僕はもっと面白いことを二つも知っているよ」
「面白いことって?」
「一つは赤星ジュリアの耳飾りのこと、それからもう一つは、いまのもう一人の男の顔にある変な形の日焼(ひや)けのことだよ」
「ほほう。早いところを見たらしいネ。だがそんなことが何の役に立つんだネ」
「それは大辻さんが発見した日記帳以上に役に立つかも知れない」
「ほう、日記帳!」大辻は何を思ったか、屍体のところへ飛んでいった。そして屍体の背中をすこし持ちあげると、その下に隠されていた小さな黒革の日記帳をとりだした。彼はその日記帳の頁をパラパラと繰(く)っていたが、突然吃驚(びっくり)して、大声で叫んだ。
「ああ大変じゃ。――オイ勇坊、誰かこの日記帳から何十頁を切り裂いて持っていったぞ。先刻(さっき)調べたときには、こんなことがなかったのに……」


   奇怪な挑戦状


 その翌日の午(ひる)さがり、警視庁の大江山(おおえやま)捜査課長は、昨夜来(さくやらい)詰(つ)めかけている新聞記者団にどうしても一度会ってやらねばならないことになった。
 その日の朝刊の社会面には、どの新聞でもトップへもって来て三段あるいは四段を割(さ)き、
「帝都に吸血鬼現る?
  ――日比谷公園の怪屍体――」
 とデカデカに初号活字をつかった表題で、昨夕(ゆうべ)の怪事件を報道しているところを見ても、敏感な新聞記者たちは早くもこれが近頃珍らしい大々事件だということを見破ったものらしい。
 大車輪で活動を続けている大江山課長は五分間だけの会見という条件でもって、新聞記者団を応接室へ呼び入れた。ドヤドヤと入ってきた一同は、たちまち課長をグルッと取巻いてしまった。
「五分間厳守! あとは云わんぞ」
 と、課長は先手をうった。
「すると本庁では事件を猛烈に重大視しているのですネ」
 と、早速記者の一人が酬(むく)いた。
「犯人は精神病者だということですが、そうですか」
 と、他の一人が鎌(かま)をかけて訊(き)いた。
「犯人はまだ決定しとらん」
 課長は口をへの字に曲げていった。
「法医学教室で訊くと被害者の血は一滴も残っていなかったそうですね」
「莫迦(ばか)!」課長は記者の見え透いた出鱈目(でたらめ)を簡単にやっつけた。
「犯人は、被害者の実兄だと称している西一郎(二六)なのでしょう」
「今のところそんなことはないよ」
「西一郎の住所は?」
「被害者と同じ家だろう?」
「冗談いっちゃいけませんよ、課長さん。被害者は下宿住居(げしゅくずまい)をしているのですよ。本庁はなぜ西一郎のことを特別に保護するのですか」
「特別に保護なんかしてないさ」
 課長は椅子にふん反(ぞ)りかえった。
 しかし被害者の実兄の住所を極秘にしていることは、何か特別のわけがなければならなかった。課長がすこし弱り目を見せたところを見てとった記者団は、そこで課長の心臓をつくような質問の巨弾を放ったのだった。
「三年ほど前、大胆不敵な強盗殺人を連発して天下のお尋ね者となった兇賊(きょうぞく)痣蟹仙斎(あざがにせんさい)という男がありましたね。あの兇賊は当時国外へ逃げだしたので捕縛を免れたという話ですが、最近その痣蟹が内地へ帰ってきているというじゃありませんか。こんどの殺人事件の手口が、たいへん惨酷なところから考えてあの痣蟹仙斎が始めた仕業だろうという者がありますぜ。こいつはどうです」
「ふーむ、痣蟹仙斎か」課長は眉を顰(ひそ)めて呻(うな)った。「本庁でも、彼奴(あいつ)の帰国したことはチャンと知っている。こんどの事件に関係があるかどうか、そこまで言明の限りでないが、近いうち捕縛する手筈になっている」
 と云ったが、大江山課長は十分痛いところをつかれたといった面持だった。痣蟹仙斎の、あの顔半分を蔽(おお)う蟹のような形の痣が目の前に浮んでくるようだった。
「それでは課長さん。これは新聞には書きませんが、痣蟹の在所(ありか)は目星がついているのですね」
「もう五分間は過ぎた」と課長はスックと椅子から立ちあがった。「今日はここまでに……」
 課長が室を出てゆくと、記者連は大声をあげて露骨な意見の交換をはじめた。結局こんどの吸血事件と帰国した痣蟹仙斎のこととを結びつけて、本庁は空前の緊張を示しているが、実は痣蟹の手懸りなどが十分でなくて弱っているものらしいということになった。そしてこのことを今夜の夕刊にデカデカ書き立てることを申合せたのだった。
 夕刊の鈴の音が喧(やかま)しく街頭に響くころ、大江山課長はにがりきっていた。
「しようがないなア。こう書きたてては、痣蟹のやつ、いよいよ警戒して、地下に潜っちまうだろう」
 そこへ一人の刑事が入ってきた。
「課長さん。お手紙ですが……」
 と茶色のハトロン紙で作った安っぽい封筒をさしだした。
 課長は何気なくその封筒を開いて用箋をひろげたが、そこに書いてある簡単な文句を一読すると、異常な昂奮を見せて、たちまちサッと赭(あか)くなったかと思うと、直ぐ逆に蒼(あお)くなった。そこには次のような文句が認(したた)められてあった。
「大江山捜査課長殿
啓(けい)。しばらくでしたネ。しばらく会わないうちに、貴下(きか)の眼力(がんりき)はすっかり曇ったようだ。日比谷公園の吸血屍体の犯人を痣蟹の仕業(しわざ)とみとめるなどとは何事だ。痣蟹は吸血なんていうケチな殺人はやらない。嘘だと思ったら、今夜十一時、銀座のキャバレー、エトワールへ来たれ。きっと得心(とくしん)のゆくものを見せてやる。必ず来(きた)れ!
痣蟹仙斎」 課長は駭(おどろ)いて、手紙を持ってきた刑事を呼びもどした。誰がこのような手紙を持ってきたのかを訊ねたところ、受付に少年が現れてこれを置いていったということが分ったが、探してみてももう使いの少年の行方は知れなかった。だがこれは痣蟹の手懸りになることだから、厳探(げんたん)することを命じた。そしてその奇怪な挑戦状を握って、総監のところへ駈けつけた。
 その夜のことである。
 銀座随一の豪華版、キャバレー・エトワールは日頃に増してお客が立てこんでいた。客席は全部ふさがってしまったので、已(や)むを得(え)ず、太い柱の陰にはなるが五六ヶ所ほど補助の卓子(テーブル)や椅子を出したが、これも忽(たちま)ちふさがってしまった。
 酒盃のカチ合う音、酔いのまわった紳士の胴間声、それにジャズの喧噪(けんそう)な楽の音が交(まじ)りただもう頭の中がワンワンいうのであった。
 この喧噪の中に、室の一隅の卓子を占領していたのは大江山捜査課長をはじめ、手練の部下の一団に、それに特別に雁金(かりがね)検事も加わっていた。いずれも制服や帯剣を捨てて、瀟洒(しょうしゃ)たる服装に客たちの目を眩(くら)ましていた。なお本庁きっての剛力刑事が、あっちの壁ぎわ、こっちの柱の陰などに、給仕や酔客や掃除人に変装して、蟻も洩らさぬ警戒をつづけていた。かれ等一行の待ちかまえているものは、奇怪なる挑戦状の主、痣蟹仙斎の出現だった。痣蟹はいずこから現れて、何をしようとするのであろうか。
 ところがその夜の客たちは、検察官一行とは違い、また別なものを待ちかまえていた。それは今夜十時四十分ごろに、このキャバレーに特別出演する竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアを観たいためだった。ジュリアの舞踊と独唱とが、こんなに客を吸いよせたのであった。
 夜はしだいに更(ふ)けた。屋外(そと)を行く散歩者の姿もめっきり疎(まば)らとなり、キャバレーの中では酔いのまわった客の吐き出す声がだんだん高くなっていった。時計は丁度十時四十五分、支配人が奥からでてきてジャズ音楽団の楽長に合図(あいず)をすると、柔かいブルースの曲が突然トランペットの勇ましい響に破られ、軽快な行進曲に変った。素破(すわ)こそというので、客席から割れるような拍手が起った。客席の灯火(あかり)がやや暗くなり、それと代って天井から強烈なスポット・ライトが美しい円錐(えんすい)を描きながら降って来た。
「うわーッ、赤星ジュリアだ!」
「われらのプリ・マドンナ、ジュリアのために乾杯だ!」
「うわーッ」
 その声に迎えられて、真黒な帛地(きぬじ)に銀色の装飾をあしらった夜会服を着た赤星ジュリアが、明るいスポット・ライトの中へ飛びこむようにして現われた。
 そこでジュリアの得意の独唱が始まった。客席はすっかり静まりかえって、ジュリアの鈴を転ばすような美しい歌声だけが、キャバレーの高い天井を揺(ゆ)すった。
「どうもあの正面の円柱が影をつくっているあたりが気に入りませんな」
 と大江山捜査課長が隣席の雁金検事にソッと囁いた。
「そうですな。私はまた、顔を半分隠している客がないかと気をつけているんだが、見当りませんね。痣蟹は顔半面にある痣を何とかして隠して現われない限り、警官に見破られてしまいますからな」
「イヤそれなら、命令を出して十分注意させてあります」
 ジュリアの独唱のいくつかが終って、ちょっと休憩となった。嵐のような拍手を背にして彼女がひっこむと、客席はまた元の明るさにかえって、ジャズが軽快な間奏楽を奏しはじめた。警官隊はホッとした。
「きょうは貴下の御親友である名探偵青竜王は現われないのですか」
 と大江山は莨(たばこ)に火を点(つ)けながら、雁金検事に尋ねた。
「さあ、どうですかな。先生この頃なにか忙しいらしく、一向出てこないです。しかし今夜のことを知っていれば、どこかに来てるかも知れませんな」
 覆面の名探偵は、検事の親友だった。覆面の下の素顔を知っているものは、少数の検察官に止まっていた。青竜王に云わせると、探偵は素顔を事件の依頼者の前でも犯人の前でも曝(さら)すことをなるべく避けるべきであるという。だから一度雑誌に出た彼の素顔の写真というのがあったが、あれももちろん他人の肖像だったのである。
 再び、トランペットの勇ましい音が始まって、客席の灯火(あかり)はまたもや薄くなった。いよいよこんどこそは、痣蟹が現れるだろう。
「もう十一時に五分前です」
 課長は卓子(テーブル)の下で、拳銃(ピストル)の安全装置を外した。
 検察官一行の緊張を余所(よそ)に、客席ではまた嵐のような拍手が起った。美しい光の円錐の中に、ジュリアを始め三人の舞姫たちが、絢爛(けんらん)目を奪うような扮装して登場したのであったから。カスタネットがカラカラと鳴りだした。一座の得意な出しもの「赤い苺の実」のメロディが響いてくる。……
「こいつはいかんじゃないですか。三人の女優が、みな覆面をしとる」
 と雁金検事が隣席の大江山課長に囁いた。
「これは舞台でもこの通りやるんです。それに真逆(まさか)痣蟹があの美しい女優に化けているとは思いませんが……」
「だが見給え。この夜の十一時という問題の時刻に、女優にしろ、あのような覆面が出てくるのはよくないと思いますよ。それにあの長い衣裳は、女優の頤と頸のあたりと、手首だけを出しているだけで、殆んど全身を包んでいますよ。よくない傾向です」
「じゃあ命じて女優の覆面を取らせましょうか」
 そういった瞬間だった。予告なしに、突然室内の灯火(あかり)が一せいに消えて、真暗闇となった。客席からはワーッという叫びがあがった。そのとき出口の闇の中から、大きな声で呶鳴(どな)る者があった。
「皆さん、われ等は警官隊です、危険ですから、すぐに卓子(テーブル)の下に潜って下さアい!」
 その声が終るが早いか、叫喚(きょうかん)と共に卓子と椅子とがぶつかったり、転ったりする音が喧しく響いた。
(なにかこれは大事件だ!)
 客の酔いは一時に醒めてしまった。
 すると、こんどは騒ぎを莫迦(ばか)にしたようにパーッと室内の電灯が煌々(こうこう)とついた。
 室内の風景はすっかり変っていた。客の多くは卓子(テーブル)の下に潜りこみ、ただすっかり酔っぱらって動けない連中が椅子の上にダラリとよりかかっていた。出口にはどこから現れたのか、武装した三十名ほどの警官隊がズラリと拳銃(ピストル)を擬(ぎ)して鉄壁(てっぺき)のように並んでいる。
「頭を出すと危い!」
 警官が注意した。
「あッはッはッはッ」
 思いがけない高らかな哄笑(こうしょう)が、円柱の影から聞えた。
 素破(すわ)! 雁金検事も大江山課長も、卓子を小楯(こだて)にとって、無気味な哄笑のする方を注視した。
 正面の太い円柱の陰から、蝙蝠(こうもり)のようにヒラリと空虚な舞台へ飛び出したものがあった。皮革(かわ)で作ったような、黄色い奇妙な服を着た痩せこけた男だった。グッと出口の警官隊を睨みつけたその顔の醜怪さは、なにに喩(たと)えようもなかった。左半面には物凄い蟹の形の大痣がアリアリと認められた。ああ、遂に痣蟹が現れたのだ!


   意外な犠牲(ぎせい)


 待ちに待たれていた大胆不敵な挑戦状の主は、とうとう皆の前に姿を現わしたのだった。怪賊痣蟹は二た目と見られない醜悪な面をわざと隠そうともせず、キッと武装警官隊の方を睨(にら)みつけた。
 武装隊を指揮しているのは金剛(こんごう)部長だったが、ヌックと立って部下に号令した。
「あの怪物がすこしでも動いたら、撃ち殺してしまえッ」
 痣蟹はそれを聴くと、薄い唇をギュッと曲げて冷笑した。そして突然、背後(うしろ)に隠しもった彼の手慣れた武器をとりだした。それは恐るべき軽機関銃だった。彼が和蘭(オランダ)にいたとき、そこの秘密武器工場に注文して特に作らせたという精巧なものだった。――その機関銃の銃口(つつ)が、警官たちの胸元を覘(ねら)った。
「急ぎ撃てッ」
 武装隊長は咄嗟(とっさ)に射撃号令をかけた。
 ドドーン。ドドーン。
 カタ、カタ、カタ、カタ。
 どっちが先へ撃ちだしたのか分らなかった。忽(たちま)ち室内の電灯はサッと消えて、暗黒となった。阿鼻叫喚(あびきょうかん)の声、器物の壊れる音――その中に嵐のように荒れ狂う銃声があった。正面と出口とに相対峙(あいたいじ)して、パッパッパッと真紅な焔が物凄く閃(ひらめ)いた。猛烈な射撃戦が始まったのだ。
 警官隊は銃丸(たま)を浴びながら、ひるまず屈せず、勇敢に闘った。前方に火竜が火を噴いているような真赤な火の塊の陰に痣蟹がいる筈だった。それを目標に、拳銃(ピストル)の弾丸(たま)の続くかぎり覘いうった。ときどき警官たちは胸のあたりを丸太ン棒で擲(なぐ)りつけられたように感じた。それは防弾衣に痣蟹の放った銃丸が命中したときのことだった。防弾チョッキがなかったら、彼等はとうの昔に、全身蜂の巣のように穴が明いてしまったであろう。
 だが軽機関銃の偉力は素晴らしかった。物凄い速さで飛びだしてくる銃丸は、大部分防弾衣で防ぎとめられはしたものの、だんだんに防弾鋼の当っていない肘(ひじ)を掠(かす)めたり手首に流れ当ったりして、さすがの警官隊もすこしひるみ始めた。卓子(テーブル)の陰から、眼ばかり出してこの猛烈な暗黒中の射撃戦を凝視していた雁金検事や大江山捜査課長などの首脳部一行は、早くも味方の旗色の悪いのを見てとった。
「大江山君、この儘(まま)じゃあ危いぞ。警官隊に突撃しろと号令してはどうだ」
「突撃したいところですが、駄目です。卓子だの椅子だの人間だのが転がっていて、邪魔をしているから突撃できません」
「でもこのままでは……」と検事は悲痛な言葉をのんだ。
 と、そのときだった。誰か、検事の腕をひっぱる者があった。
「雁金さん、雁金さん――」
「おう、誰だッ」
「落付いて下さいよ、僕です。分りませんか」
「ナニ……そういう声は」
 と雁金検事は相手の男の腕をグイと握ってひきよせて、低声(こごえ)で囁(ささや)いた。
「――青竜王だナ」
 青竜王! それはかねて雁金検事の親友として名の高い覆面探偵青竜王だったのである。どうしたわけか、このところ十日ほど、所在の不明だった探偵王だった。彼のところへやった通信が届いて、このキャバレーへやってきたものらしい。
 青竜王は闇の中で雁金検事と何事かを低声(こごえ)で囁きあった。その揚句(あげく)、話がすんだと見えて、
「じゃ、しっかり頼むぞ」
 という検事の激励の言葉とともに、青竜王はコソコソとまた闇の中に紛れこんでしまった。――検事はこんどは大江山課長を引きよせると、何かを耳打ちした。
「よろしい。命令しましょう」
 課長はそういって、卓子(テーブル)の陰から匍(は)いだした。彼は銃丸(たま)の中をくぐりぬけながら、力戦している警官隊の方へ進んでいった。
 間もなく何か号令が発せられて、武装警官隊の射撃は更に猛烈になった。天井から何かガラガラと墜(お)ちてくる物凄い音がした。
「前面(まえ)を注視していろ!」
 隊長が叫んでいる――
 と、正面に怪物のように火を吐いていた痣蟹の軽機関銃が、どうしたものか急に目標を変えた。ダダダダダッと銃丸(たま)は天井に向けられ、シャンデリアに当って、硝子(ガラス)の砕片がバラバラと墜ちてきた。
「おや?」と思う間もなく、ワッという悲鳴が聞えて、いままで呻(うな)りつづけていた機関銃の音がハタと停った。そしてドサリという重い機械が床上に叩きつけられる音がした。――これは勇敢な青竜王が、ひそかに痣蟹の背後(うしろ)にまわり、機関銃を叩き落したのだった。痣蟹は正面から警察隊の猛射を受けていたので、その撃退に夢中になっていたところをやっつけられたのであった。しかし本当は警官隊は猛射をしていたことに違いないけれど、天井ばかり撃っていたのであった。それは突入した青竜王に怪我をさせることなく、しかも痣蟹を牽制(けんせい)するためだった。すべては名探偵青竜王の策戦だったのである。
 気味のわるい機関銃の響がハタと停った。警官隊の激しい銃声もいつの間にか熄(や)んでいた。暗黒の室内は、ほんの数秒であったが、一転して墓場のような静寂が訪れた。
「灯りを、灯りを……」
 青竜王の呶鳴る声がした。
 それッというので、室内の電灯スイッチをひねったが、カチリと音がしただけで、電灯はつかなかった。警官たちは懐中電灯を探ったが、いまの騒ぎのうちに壊れてしまったものが多かった。それでも二つ三つの光芒(こうぼう)が、暗黒の室内を慌(あわ)ただしく閃(ひらめ)いたが、青竜王に近づいたと思う間もなく、ピシンと叩き消されてしまった。暗黒のなかには、物凄い呻(うな)り声を交えて、不気味な格闘が行われていることだけが分った。
 警官隊は、倒れた卓子や、逃(に)げ惑(まど)っているキャバレーの客たちを踏み越え掻き分けて、呻り声のする方へ近づいていった。が、また捲き起る混乱のために、その呻り声がどこかへ行ってしまった。
「どこにいるのだ、青竜王!」
「青竜王、声を出して下さーい!」
 雁金検事たちは、大声で探偵の名を呼んだが、その応答は聞こえなかった。
「オーイ皆、ちょっと静かにせんかッ」
 大江山課長が破(わ)れ鐘(がね)のような声で呶鳴った。
 その声が皆の耳に達したものか、一座はシーンとした。
「オイ、青竜王、どこにいるのだッ」
 検事は暗黒の中に再び呼んだ。――
 だが、誰も応(こた)えるものはなかった。一同は闇の中に高く動悸(どうき)のうつ銘々(めいめい)の心臓を感じた。
(どうしたのだろう?)
 そのとき正面と思われる方向の闇の中から軽い口笛の音が聞えだした。
「あたしの大好きな
 真紅な苺の実
 とうとう見付かった
 おお――
 あなたの胸の中……」
 ああ、いま流行の『赤い苺の実』の歌だ。竜宮劇場のプリ・マドンナ赤星ジュリアの得意の歌だった。――
「こら、誰だ。――」と大江山課長は叫んだ。「こんなときに呑気(のんき)に口笛を吹く奴は、あとで厳罰に処するぞ」
 呑気な口笛――と捜査課長は云ったけれど、それは決して呑気とは響かなかった。なぜなら口笛は、警官の制止の声にも応じないで、平然と吹き鳴っていた。墓場のような暗黒と静寂の中に……。
「こら、止(や)めんか。止めないと――」
 と大江山課長が火のようになって暗がりの中を進みいでたとき、呀(あ)ッという間もなく、足許に転がっている大きなものに突当り、イヤというほど足首をねじった。その途端に、足許に転がっていたものが解けるようにムクムクと起き上って、激しい怒声と共に格闘を始めたから、捜査課長は胆(きも)を潰(つぶ)してハッと後方(うしろ)へ下った。
「青竜王はここにいるぞッ」と格闘の塊(かたまり)の中から思いがけない声が聞えた。
「なにッ」
「痣蟹を早く押(おさ)えて――」
 雁金検事はその声に活路を見出した。
「明りだ、明りだ。明りを早く持ってこい」出口の方から、やっと手提電灯(てさげでんとう)が二つ三つ入ってきた。
「そっちだ、そっちだ」
 すると正面の太い円柱のあたりで、ひどく物の衝突する音が聞えた。それから獣のような怒号が聞えた。
「捕(とら)えた捕えた。明りを早く早く」
 それッというので、手提電灯が束になって飛んでいった。
「痣蟹、もう観念しろッ」
 まだバタバタと格闘の音が聞えた。するとそのときどうした調子だったか、室内の電灯がパッと点いた。射撃戦に被害をのがれた半数ほどの電灯が一時に明るく点いた。――人々は悪夢から醒めたようにお互いの顔を見合わせた。
「痣蟹はここにいますぞオ」
 それは先刻(さっき)から、暗闇の中に響いていた青竜王の声に違いなかった。警官隊もキャバレーの客も、言いあわせたようにサッとその声のする方をふり向いた。おお、それこそ覆面の名探偵青竜王なのだ。
「とうとう掴(つかま)えたかね」
 と検事は悦(よろこ)びの声をあげて、青竜王に近づいた。
「青竜王!」
 人々はそこで始めて、覆面の名探偵を見たのであった。彼はスラリとした長身で、その骨組はまるでシェパードのように剽悍(ひょうかん)に見えた。ただ彼はいつものように眼から下の半面を覆面し、鳥打帽の下からギョロリと光る二つの眼だけを見せていた。
「さあこの柱の根元をごらんなさい。ここに見えるのが痣蟹の左足です。またこっちに挟(はさま)っているのが彼の黄色い皮製の服です。始め痣蟹は、人知れずこの仕掛けのある柱から忍び出たのですが、いま再びこの仕掛け柱へ飛びこんでここから逃げようとしたのが運の尽きで、自ら廻転柱に挟まれてしまったんです。もう大丈夫です」
 なるほどこの円柱は廻転するらしく、合(あわ)せ目(め)があった。そして根元に近く、黄色い皮服と、変な形の左足の靴とがピョンと食(は)みだしていた。
 大江山捜査課長は飛びあがるほど悦んだ。
「さあ、早くあの足を持って、痣蟹を引張りだせ!」
 と命令した。
 多勢(おおぜい)の警官たちはワッとばかりに柱の方へ飛びつくと、痣蟹の足を持ってエンヤエンヤと引張った。また別の警官は、黄色い皮服を引張った。――だが暫くすると、警官たちは云いあわせたように、呀(あ)ッと悲鳴をあげると、将棋だおしに、後方(うしろ)へひっくりかえった。そして彼等の頭上に、途中から切断した皮服と左の長靴とがクルクルと廻ったかと思うと、ドッと下に落ちてきた。
「なアんだ、服と靴とだけじゃないか」
 と捜査課長は叫んだ。
「ウーム」
 と流石(さすが)の覆面探偵も呻った。痣蟹に一杯喰わされたという形であった。
 そのときであった。警官の一人が、顔色をかえて、捜査課長の前にとんできた。
「た、大変です、課長さん、あの舞台横の柱の陰に、一人のお客が殺されています」
「なんだ、いまの機関銃か拳銃(ピストル)でやられたのだろう」
「そうじゃありません。その方の怪我人は片づけましたが、私の発見したそのお客の屍体は惨(むご)たらしく咽喉笛を喰い破られています。きっとこれは、例の吸血鬼にやられたんです。そうに違いありません」
「ナニ、吸血鬼にやられた死骸が発見されたというのか」
「そういえば、先刻(さっき)暗闇の中で『赤い苺の実』の口笛を吹いていたものがあった……」
 人々は驚きのあまり顔を見合(みあわ)せるばかりだった。
 果してこれは痣蟹の仕業だろうか。それなれば検察官や覆面探偵はまんまとここまで誘(おび)きだされたばかりでなく、吸血の屍体をもって、拭(ぬぐ)っても拭い切れない侮辱を与えられたわけだった。
 自分は吸血鬼でないという痣蟹の宣言が本当か、それとも今夜のこの惨劇が、皮肉な自白なのであろうか。
 赤星ジュリアは無事に引きあげたろうか。覆面の名探偵青竜王は雪辱(せつじょく)の決意に燃えて、いかなる活躍を始めようとするのか。
 そのうちに、どこからともなく、あの「恐怖の口笛」が響いてくるような気配がする。
 吸血鬼の正体は、そも何者ぞ!


   怪しい図面(ずめん)


 大胆不敵の兇賊(きょうぞく)痣蟹仙斎(あざがにせんさい)が隠れ柱の中に逃げこもうとするのを、素早く覆面探偵青竜王がムズと掴(つかま)えたと思ったが、引張りだしてみると何のこと、痣蟹の左足の長靴と、そして洋服の裂けた一部とだけで痣蟹の身体はそこに見当らなかったではないか。これには痣蟹就縛(しゅうばく)に大悦(おおよろこ)びだった雁金検事や大江山捜査課長をはじめ検察官一行は、網の中の大魚を逃がしたように落胆した。
 しかし痣蟹はまだそんなに遠くには逃げていない筈だった。総指揮官の雁金検事は逡(たじ)ろぐ気色もなく直ちに現場附近の捜査を命じたのだった。警官隊はキャバレー・エトワールの屋外と屋内、それから痣蟹の逃げこんだ隠れ柱との三方に分れて、懸命の大捜査を始めたのだった。
「おお、青竜王は何処へいったのか」
 と、雁金検事は始めて気がついた様子で左右を見廻わした。
「青竜王?」
 検事につきそっていた首脳部の人たちも同じように左右を顧(かえり)みた。だが彼の姿はどこにも見えなかった。
「さっきまでその辺にいたんだが、見えませんよ」と大江山課長は云った。
「また何処かへとびだしていったんだろう」
「イヤ雁金検事どの」課長は改まった口調で呼びかけた。「貴官(あなた)はあの青竜王のことをたいへん信用していらっしゃるようですが、私はどうもそれが分りかねるんです」
 と、暗に覆面探偵を疑っているらしいような口ぶりを示した。
「はッはッはッ。あの男なら大丈夫だよ」
「そうですかしら。――そう仰有(おっしゃ)るなら申しますが、さっき暗闇の格闘中のことですが、いくら呼んでも返事をしなかったですよ。そして唯、あの『赤い苺の実』の口笛が聞えてきました。それから暫くすると、急に青竜王の声で(痣蟹はここにいますぞオ)と喚(わめ)きだしたではありませんか。その間(かん)、彼は何をしていたのでしょう。なにしろ暗闇の中です。何をしたって分りゃしません」
 人殺しだって出来るとも云いかねない課長の言葉つきだった。
「あれは君、青竜王のやつが痣蟹に組み敷かれていたんで、それで声が出せなかったのだろう。それをやッと跳ねかえすことが出来て、それで始めて喚いたのだと思うよ」
「そうですかねえ。――第一私は青竜王のあの覆面が気に入らないのです。向こうも取ると都合が悪いのでしょうが、私たちは捜査中気になって仕方がありません。あの覆面をとらない間、青竜王のやることは何ごとによらず信用ができないとさえ思っているのです」
「それは君、思いすぎだと思うネ」
 と検事は困ったような顔をして大江山捜査課長の顔を見た。
「ですから私は――」と課長は勝手に先を喋(しゃべ)った。「あの柱に服の裂けた一片と靴とが挟まっていましたが、あれは痣蟹が逃げこんだのではなくて、予(あらかじ)め痣蟹が用意しておいた二つを柱に挟んで、その中へ逃げたものと見せかけ、自分は覆面をして誰に見られても解るその痣を隠し、青竜王だと云っているかもしれないと思うのです」
「はッはッはッ。君は青竜王が覆面をとれば痣蟹だというのだネ。いやそれは面白い。はッはッはッ」
「私は何事でも、疑わしいものは証拠を見ないと安心しないのです。またそれで今日捜査課長の席を汚さないでいるんですから……」
「じゃ仕方がないよ。僕の身元引受けが役に立たぬと思ったら遠慮なく彼の覆面を外(はず)してみたまえ、僕は一向構わないから」
「イヤそういうわけではありませんが……。しかし今夜はもう青竜王は出て来ませんよ。彼は逃げだせば、それでもう目的を達したんですから」
 流石(さすが)は捜査課長だけあって、誰も考えつかないような疑点を示したのだった。だがそのときだった。例の隠れ柱が音もなくパックリと口を開き、その中から飛びだしてきたのが誰あろう、覆面の探偵だったから、気の毒な次第だった。
「うむ――」
 と捜査課長は驚きのあまり、思わず呻(うな)った。
 青竜王は検事たちの姿をみつけると、ズカズカと走りよった。
「雁金さん。痣蟹の逃げ路が、とうとう分りましたよ。このキャバレーの縁(えん)の下を通って、地階の物置の中へ抜けられるんです。そこからはすぐ表へとびだせます。貴方(あなた)の号令がうまくいっていないのか、その物置の前には警官が一名も立っていないので、うまく逃げられた形ですよ」
「ナニこの柱から物置へ抜けて、表へ逃げちまったって」
 検事は肯(うなず)きながら大江山課長の方を向いて「そんな逃げ路のあることを何故前もって調べておかなかったのかネ、君。早速(さっそく)キャバレーの主人を呼んできたまえ」
「はア――」
 課長は面目ない顔をして、部下にキャバレーの主人を引張ってくることを命じた。
 間もなく、奥から身体の大きなキチンとしたタキシードをつけた男が現れた。彼はどことなく日本人離れがしていた。それも道理だった。彼はオトー・ポントスと名乗るギリシア人だったから。
「わたくし、ここの主人、オトーでございます。――」
 西洋人の年齢はよくわからないが、見たところ三十を二つ三つ過ぎたと思われるオトー・ポントスはニコやかに揉(も)み手(で)をしながら、六尺に近い巨体をちょっと屈(かが)めて挨拶(あいさつ)をした。
「君が主人かネ」と検事はすこし駭(おどろ)きの色を示しながら「怪しからん構造物があるじゃないか。この円柱(まるばしら)が二つに割れたり、それから中に階段があったり、物置に抜けられたり、一体これは如何(いか)なる目的かネ」
「それはわたくし、知りません。この仕掛はこの建物をわたくし買った前から有りました」
「ナニ前からこの仕掛があった? 誰から買ったのかネ」
「ブローカーから買いました。ブローカーの名前、控(ひか)えてありますから、お知らせします」
「うむ、大江山君。そのブローカーを調べて、本当の持ち主をつきとめるんだ。――それはいいとして何故こんな抜け路をそのままにして置いたのかネ。何故痣蟹に知らせて、利用させたのだ」
「わたくし痣蟹と称(よ)ぶミスター北見仙斎(きたみせんさい)を信用していました。あの人、わたくし故国(くに)ギリシアから信用ある紹介状もってきました」
「ギリシアから紹介状をもってきたって。ほほう、痣蟹はギリシアに隠れていたんだな。イヤよろしい。君にはゆっくり話を聞くことにしよう。しかしもし痣蟹から電話でも手紙でも来たら、すぐ本庁へ知らせるのだ。いいかネ。忘れてはいけない」
「よく分りました」
 そこでオトー・ポントスはまた恭(うやうや)しげに敬礼をして下(さが)ろうとしたとき、
「ああ、ちょっと待って下さい」
 と声を掛けた者があった。それは先刻(さっき)から痣蟹の遺留(いりゅう)した品物をひねくりながら、この場の話に耳を傾けていた覆面探偵(ふくめんたんてい)青竜王(せいりゅうおう)だった。
「ポントスさん。これは貴方のものではありませんかネ」
 といって、青竜王は何か小さい紙片(しへん)を見せた。
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