赤外線男
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著者名:海野十三 

「そうですヨ」と課長も苦笑した。
「仕方がないから、これは一つ例の男を頼むことにしてはどうかネ。帆村荘六(ほむらそうろく)をサ」
「帆村君ですか。実は私も前からそれを考えていたのです」
 二人の意見は直ぐに纏(まとま)った。そして新(あらた)に呼び出されるべき帆村荘六という男。これはご存知の方も少くはないと思うが、素人探偵として近頃売り出して来た青年で、科学の方面にも相当明るいという人物だった。
 こうして取調べも一と通り終り、報告書も作られたけれど、直接の被害の中にとうとう洩(も)れてしまった一つの重大なる品物があった。それは深山理学士が戸棚の中に秘蔵(ひぞう)していた或る品物だったが、彼はそれを係官に報告しなかった。それは決して忘れたわけではなくて、故意(こい)に学士の心に秘(ひ)めたものと思われる。一体、その品物はどんなものだったか。
 とにかく深山学士研究室の襲撃事件によりて、赤外線男の生態(せいたい)というものが、大分はっきりしてきた。


     5


 帆村探偵を交(ま)ぜた係官の一行が、深山理学士の研究室を訪ねたのは、新しい赤外線テレヴィジョン装置が出来上ったという其(そ)の日の夕刻のことだった。折角(せっかく)作った一台は、無惨(むざん)にも赤外線男の破壊するところとなり、学士も助手の白丘(しらおか)ダリアも大いに失望したが、その筋(すじ)の希望もあって、二人は更(さら)に設計をやり直し、新しい装置を昼夜兼行(ちゅうやけんこう)で組立てたのだった。白丘ダリアは、この事件以来というものは、住居(じゅうきょ)にしている伯父(おじ)黒河内子爵(くろこうちししゃく)のところへ帰ってゆくことをやめ、深山研究室の中にベッドを一つ置き、学士と共に寝起きすることとなった。碌(ろく)に睡眠時間もとらないで、この組立に急いだ結果、四日という短い日数(にっすう)のうちに、新しい第二装置ができあがった。しかし学士はあの事件以来、何とはなく大変疲れているようであった。その一方、白丘ダリアは益々(ますます)健康に輝き頸(くび)から胸へかけての曲線といい、腰から下の飛び出したような肉塊(にくかい)といい、まるで張りきった太い腸詰(ちょうづめ)を連想(れんそう)させる程だった。従って第二装置の素晴らしい進行速度も、ダリアの精力(せいりょく)に負うところが多かった。
 研究室の扉(ドア)をコツコツと叩くと、直ぐに応(こた)えがあった。入口が奥へ開かれると、そこへ顔を出したのは、頭に一杯繃帯(ほうたい)をして、大きな黒眼鏡をかけた若い女だった。先登(せんとう)に立っていた課長は、
(これは部屋が違ったかナ)
 と思った位だった。
「さあ、皆さんどうぞ」
 そういう声は、紛(まぎ)れもなく白丘ダリアに違いなかった。どうしてこんな繃帯をしているのだろう。それに黒眼鏡(くろめがね)なんか掛けて……と不思議に思った。
 一行中の新顔(しんがお)である帆村探偵が、深山(みやま)理学士と白丘ダリアとに、先(ま)ず紹介された。
「いや、ダリアさんですか、始めまして」と帆村は慇懃(いんぎん)に挨拶をして「その繃帯はどうしたんです」と尋(たず)ねた。
 課長はこの場の様子を見て、いつもながら帆村の手廻しのよいのに呆(あき)れ顔だった。
「これですか」少女はちょっと暗い顔をしたが「すこしばかり怪我(けが)をしたんですの。繃帯をしていますので大変にみえますけれど、それほどでもないのです」
「どうして怪我をしたんですか」
「いいえ、アノ一昨晩(いっさくばん)、この部屋で寝ていますと、水素乾燥用の硫酸(りゅうさん)の壜が破裂をしたのです。その拍子(ひょうし)に、棚(たな)が落ちて、上に載(の)っていたものが墜落(ついらく)して来て、頭を切ったのです」
「そりゃ大変でしたネ。眼にも飛んで来たわけですか」
「何しろ疲れていたもので、直(す)ぐ起きようと思っても起き上れないのです。先生は直ぐ駈けつけて下さいましたけれど、あたくしが、愚図愚図(ぐずぐず)しているうちに、頭髪(かみ)についていた硫酸らしいものが眼の中へ流れこんだのです。直ぐ洗ったんですが、大変痛んで、左の眼は殆んど見えなくなり、右の眼も大変弱っています」
 ダリアは黒眼鏡を外(はず)して見たが、左眼(さがん)はまるで茹(ゆ)でたように白くなり、そうでないところは真赤に充血していた。右の眼はやや充血(じゅうけつ)している位でまず無事な方であった。
「全く危いところでしたよ。連日(れんじつ)の努力で、もう身体も頭脳(あたま)も疲れ切っているのです。神経ばかり、高(たか)ぶりましてネ」と理学士も側(そば)へよって来て述懐(じゅっかい)した。彼の眼の色も、そういえば尋常(じんじょう)でないように見えた。
「もすこしで、どうかなるところでしたわ。そうだったら、今日は実験を御覧に入れられませんでしたでしょう」
 ダリアは独(ひと)り言(ごと)のように云った。
 一同は此の室に何だか唯(ただ)ならぬ妖気(ようき)が漂(ただよ)っているような気がした。
「じゃ、いよいよ働かせて見ます」と深山学士は立ち上った。「白丘さん。カーテンを閉めてすっかり暗室(あんしつ)にして呉(く)れ給(たま)え」
「はい、畏(かしこま)りました」
 ダリアは割合(わりあい)に元気に窓のところに歩みよっては、パタンパタンと蝶番式(ちょうつがいしき)にとりつけてある雨戸(あまど)を合わせてピチンと止(と)め金(がね)を下(お)ろし、その内側に二重の黒カーテンを引いていった。窓という窓がすっかり閉ってしまうと、室内には桃色のネオン灯(とう)が一つ、薄ボンヤリと器械の上を照らしていた。隅(すみ)によっていた幾野捜査課長、雁金検事、中河予審判事、帆村探偵、それから本庁の警部一名と刑事が二名、もう一人、事件の最初に出て来た警察署の熊岡警官と、これだけの人間が灯(ひ)の下へゾロゾロと集ってきた。
「これは君、暗いネ」課長はすこし暗さを気にしていた。
「何だか、頭の上から圧(おさ)えられるようだ」そういったのは白髪(はくはつ)の多い中河予審判事だった。
「このネオン灯(とう)も消します。そうしないと巧(うま)く見えないのです」深山が云った。「しかしスウィッチは、ここにありますから、仰有(おっしゃ)って下されば、いつでも点(つ)けます」
「待ってくれ、待ってくれ」と雁金検事が悲鳴(ひめい)に近い声をあげた。「どこに誰がいるやら判らないじゃないか。よオし、諸君はとりあえずこっちに立っていて呉れ給え。僕たちは、この椅子に腰をかけていることにしよう」
 幹部だけが、スクリーンを包囲(ほうい)して、椅子に席をとった。
「いいですか」
「いいよ」
 パッとネオン灯は消えた。すると一尺四角ばかりのスクリーンの上に、朧気(おぼろげ)な映像があらわれた。
「馬鹿に暗いネ」と課長が云った。
「ピントが外(はず)れているのです。増幅器(ぞうふくき)もまだうまいところへ調整がいっていません。直ぐ直ってきますよ」
 なるほど映像はすこし明瞭度(めいりょうど)を加えた。テニスコートの棒くいや審判台らしいものが見える。そこへ人影らしいものが。
「人間が通っているぞ」課長が叫んだ。「早く肉眼で運動場を見せ給え」
「これは、こっちのレンズからお覗(のぞ)き遊ばして……」捜査課長の耳許(みみもと)でダリアの声がした。
「呀(あ)ッ」と課長は慌(あわ)てたが「いやなるほど、よく見えます。――なあーンだ、例の用務員が本当に通ってやがる」
 まず赤外線男ではなかったので安心した。
「この辺(あたり)のところですから、さあ誰方(どなた)も変りあってスクリーンを覗いて下さい」理学士が器械から離れながら云った。
「さあ順番に見ようじゃないか」検事が後の方から声をあげた。
 ゴトリゴトリと靴音がして、スクリーンの前に観察者が入れ代っているようだった。
「どうも赤外線写真というものは、色の具合が、死人の世界を覗いているようだな」判事さんが呟(つぶや)きながら視(み)ている。
 そのとき真暗(まっくら)だった室内へ、急に煌々(こうこう)たる白光(はっこう)がさし込んだ。
「呀(あ)ッ!」
「どッどうしたんだ」理学士が叫んだ。
 一つの窓のカーテンが、サーッとまくられたのだった。皆の眼は、この眩(まぶ)しい光に会ってクラクラとした。
「いいえ、何でもないのです。失礼しました」と、窓のところでダリアの声がした。
「困るじゃないか」深山は云った。
「アノちょっと何だか、あたしの身体になんだか触(さわ)りましたのよ。吃驚(びっくり)して、窓をあけたんですの」
「ああ、もう出たかッ――」
「赤外線男!」
「窓を皆、明けろッ!」
 そのとき白丘ダリアは朗(ほが)らかな声で云った。
「いいえ、大丈夫ですわ。カーテンを明けてみましたら、帆村さんのお臀(しり)でしたわ。ホホホ」
「なあーンだ」
 一座はホッと溜息(ためいき)をついた。
「じゃ早くカーテンを下ろしなさい」
「済(す)みません」
 カーテンはパタリと下りた。元の暗闇が帰って来たけれど、皆の網膜(もうまく)には白光が深く浸(し)みこんでいて、闇黒(あんこく)がぼんやり薄明るく感じた。スクリーンの前では雁金検事が、しきりに眼をしばたたいていた。
 ウームというような低い呻(うな)り声が聞えたと思った。ドタリ……と、大きな林檎(りんご)の箱を仆(たお)したような音が、それに続いて起った。
 素破(すわ)、異変だ!
「どッどうした」
「まッ窓だ窓だ窓だッ」
「ランプ、ランプ、ランプ!」
 さーッと、窓から白光(はっこう)が流れこんだ。ネオン灯もいつの間にか点いた。
「キャーッ」と喚(わめ)いてカーテンに縋(すが)りついたのは、窓のところへ駈けよったばかりの白丘ダリアだった。床の上には、幾野捜査課長が土のような顔色をし、両眼(りょうがん)を剥(む)きだし、口を大きく開けて仆れていた。
 もう赤外線テレヴィジョンも何もなかった。窓という窓は明け放された。室内の一同の顔には生色(せいしょく)がなかった。
「赤外線男!」
「ああ、あいつの仕業(しわざ)だ」
 いまにも自分の身体に、赤外線男の猿臂(えんぴ)[#ルビの「えんぴ」は底本では「えんび」]がムズと触(ふ)れはしないかと思うと、恐ろしい戦慄(せんりつ)が電気のように全身を走った。眼に見えない敵! そいつをどう防げばいいのだ。どうして其(そ)の魔手(ましゅ)から遁(のが)れればいいのだ。
 そのとき帆村探偵は、一人進み出て、捜査課長を抱(かか)え起した。課長の頭は、ガックリ前へ垂れた。
「呀(あ)ッ、こりゃ非道(ひど)い!」
 帆村は呟(つぶや)いた。幾野課長の頸(くび)の真(ま)うしろに一本の銀鍼(ぎんばり)がプスリと刺さっていた。
 一同は吾(わ)れにかえると、赤外線男のことを鳥渡(ちょっと)忘れて、課長の死骸(しがい)の周囲に駈けあつまった。
「延髄(えんずい)を一と突(つ)きにやられている……」
「太い鍼(はり)だッ」
「指紋を消さないように、手帛(ハンケチ)でも被(かぶ)せて抜けッ」
「これは抜けますまい」と帆村が云った。
 なるほど、力の強い刑事が引張っても抜けなかった。鍼に筋肉が搦(から)みついてしまったものらしい。
「一体これは、どうして検(しら)べようか」判事が当惑(とうわく)の色をアリアリと現わして云った。
「どうも、相手が悪い」と検事が呟いた。
「赤外線男はそれとして置いて、普通の事件どおり、この部屋の中にいる者は、すっかり取調べることにして下さい」と帆村が云った。
 そこで係官が代りあって係官自身と、帆村、深山理学士、白丘ダリアとを調べてみたが、別に怪(あや)しい点は何一つ発見されなかった。
 結局、赤外線男の仕業ということが裏書(うらが)きされたようなものだった。流石(さすが)の帆村探偵も手も足も出せなかった。


     6


 捜査課長の殺害(さつがい)事件は、俄然(がぜん)日本全国の新聞紙を賑(にぎ)わした。それと共に、赤外線男の噂が一段と高まった。警視庁の無能が、新聞の論説となり、投書の機関銃となり、総監をはじめ各部長の面目(めんもく)はまるつぶれだった。
 四谷(よつや)に赤外線男が出た。三河島(みかわしま)にも赤外線男が現われたと、時間と場所とを弁(わきま)えぬ出現ぶりだった。尤(もっと)もそれは皆が皆、本当の赤外線男とは思えず、一寸(ちょっと)話を聞いただけで偽(にせ)赤外線男だと看破(かんぱ)出来るようなものもあった。
 帆村探偵は、直接に攻撃されはしなかったけれど、内心大いに安からぬものがあった。彼は書斎のソファに身を埋(うず)めると細巻のハバナに火を点けて、ウットリと紫の煙をはいた。彼は元々赤外線男などという不思議な生物があるとは信じていなかった。しかしそれには別に根拠があるわけではなかったのだ。捜査課長の故(こ)幾野氏の惨死(ざんし)事件を考えてみるのに、あれは赤外線男なら勿論(もちろん)出来ることであるが、それと同時にあの部屋にいた人間にも出来ることではないかと思いかえしてみた。
 雁金検事、中河判事――この二人は、まず犯人ではないであろう。彼等の本庁に於ける歴史も功績も古く大きいものだ。
 警部、刑事も疑えば疑えないこともないが、日頃知っている仲だから先ず大丈夫。
 熊岡警官はどうだ。これは始めて会った人ではあるが、Y署では模範警官といわれているから大丈夫だろう。但(ただ)しいろいろと探偵眼のあるところが、平(ひら)警官として多少気に入らないこともないが、一々疑ってはきりがない。
 残るは深山(みやま)理学士だ。これは確かに怪(あや)しくてもいい人物だ。しかし彼は赤外線男を見たという。赤外線男が二人もあるなら格別、一人なら彼の嫌疑(けんぎ)は薄い。ことに彼は赤外線男に襲撃され、変圧器の上へ抛(ほう)り上げられていた被害者ででもある。感心しない。
 然(しか)らば白丘ダリア嬢はどうだ。「赤外線男」というからには、ダリア嬢では性別が違っている。男が女装しているものとはあの溌溂(はつらつ)たる肉体美から云って信じられない。殊(こと)に課長がやられた日には、眼を悪くしていた。あのように視力の弱っているのに、延髄を刺すというような精密正確を要することが出来るであろうか。
 いや凡(およ)そ、あの部屋にいた連中は皆、闇黒(あんこく)の中に沈澱(ちんでん)していたのだ。誰も視力を奪われていた。暗闇で延髄(えんずい)を刺すということは、誰にも出来ない筈だ。
 残る嫌疑者(けんぎしゃ)は自分であるが、これとても同じことが云える。
 然らば、誰が課長を殺したか?
 ああ、赤外線男! 貴様はやっぱり存在するのか。貴様でなければ、あの殺人は出来ないことにはなるが、貴様は一体何者だッ。
 帆村は呻(うな)りながらも、まだ何か忘れているものがありはしないかと、痛む頭脳(あたま)をふり絞った。
 有るには有る。あの延髄(えんずい)を刺した鍼(はり)だ。調べてみると指紋はあった。しかし細い鍼(はり)の上にのった幅(はば)のない指紋なんて何になるのだ。
 それから、深山理学士の室で発見された大きい靴跡だ。あれが赤外線男のものとして、背丈を出すと五尺七寸位。これはいい。
 次に事務室で盗まれた千二百円だ。赤外線男に金が要(い)るとは可笑(おか)しい。しかし靴を履(は)いていたり、黒い洋服のようなものを着ているというからには、矢張(やっぱ)り金が要るのかしら。しかし、その金をどうして使うのだ。彼自身が握っていたのでは、金は他人の眼に見えないだろうし、第一洋服店の前に立って、洋服を注文したところで、背丈(せたけ)肉付(にくづき)もわからなければ、店の方でも声ばかりするのでは驚いて、不思議な噂話がパッと拡(ひろ)がらねばならぬ。それも聞えてこないというのは、若(も)しや赤外線男に手下(てした)があるのではあるまいか。
 世間では、新宿のホームから飛びこんで轢死(れきし)した婦人の身許(みもと)もわからないし、地下に葬(ほうむ)った筈(はず)の死骸が紛失(ふんしつ)した不思議さを、今も尚(なお)覚(おぼ)えていて、あれも赤外線男の仕業だろうと云っているようだ。死骸を奪ったのが赤外線男だとすると、それは何のためだ。外国の小説には、火星人が地球の人間を捕虜(ほりょ)にし、その皮を剥(は)いで自分がスッポリ被り、人間らしく仮装して吾れ等の社会に紛(まぎ)れこんでくるのがある。しかしあの婦人の顔面(かお)は滅茶滅茶(めちゃめちゃ)だった筈だ。婦人に化けたとしても、あの顔をどうするのだ。顔をかくしている婦人なんて印度(インド)や土耳古(トルコ)なら知らぬこと、この日の本にありはしない。婦人の死骸の行方が判らない限りこの問題は解決がつかない。
 それから熊岡警官が轢死婦人のハンドバッグから探し出したフィルムの焼(や)け屑(くず)だ。あれは一体何だ。あれが判明すると、婦人の死因は勿論、身許まで解ることだろう。
 赤外線男に関係あるかどうかは二段として、この婦人の問題を解いて置くことは、あまり困難でもない。その上に、隅田梅子(すみだうめこ)という婦人と轢死婦人とが同じ衣類所持品をもっていたという暗合、それから黒河内子爵(くろこうちししゃく)夫人が、行方不明で、今も尚(なお)生死が知れぬが、あの少し前に、乱歩(らんぽ)氏の「陰獣(いんじゅう)」のことを言い出したという事――よし、明日から、この方面を徹底的に調べてみよう。
 帆村は、こう考えると、静かに椅子から立ち上って卓子(テーブル)の灰皿へ長くなった白い葉巻の灰をポトンと落した。
 そのとき卓上電話がジリジリと鳴った。帆村はキラリと眼を輝かすと、電話機を取上げた。
「帆村君を願います」性急(せいきゅう)な声が聞えた。
「帆村は私ですが、貴方は?」
「ああ、帆村君。私です。捜査課長の大江山警部ですよ」それは故幾野課長の後を襲った新進(しんしん)の警部だった。
「大江山さんですか。また何かありましたか」
「ええ、あったどころじゃないです。唯今(ただいま)総監閣下が殺害(さつがい)されました」
「ナニ総監閣下が……? 本当ですか」
「困ったことですが、本当です」
「一体どうしたのです。どこでやられたのです」
「今日は御案内したとおり、深山理学士の赤外線テレヴィジョン装置を、本庁の一室にとりつけたのです。それは警戒を充分にして、この装置で丹念(たんねん)に赤外線男を探しあてようというのです。深山さんに白丘さんと、お二人に来て貰って取付けました。実験は午後三時から開始するつもりで、貴方(あなた)にもお出で願うよう申上げて置きましたが、先刻(さっき)総監閣下が急に見たいと仰有(おっしゃ)るので到頭(とうとう)ご覧に入れちまったのです」
「そりゃ拙(まず)かったですネ」と帆村は腹立たしそうに云った。
「私ども始めはお止(と)めしたのです。しかし閣下は他出(そとで)される約束があって、その日の三時にはご覧(らん)になれないのです。それで強(し)いてというお話ですし、一方例の用意もありまして大丈夫だと思ったのです」
 例の用意というのは、深山理学士と白丘ダリア嬢には秘密で、この室内の一隅に小さい赤外線発生灯(はっせいとう)を点じ、隠し穴を通じて隣室からこの室内を活動写真に撮(と)る。つまり肉眼で見えぬ光線を室内に送って置いて、室内の人々の動静(どうせい)を赤外線映画に収めてしまう。斯(こ)うすれば、その中で怪(あや)し気(げ)な行動をする者がフィルムの上に映(うつ)った筈だから、後で現像すればそれと判る――こんな仕掛けを予(あらかじ)め作って置いたのである。しかし総監閣下が犠牲(ぎせい)になられたのでは、何にもならない。本庁の連中の愚鈍(ぐどん)さに、帆村は呆(あき)れる外(ほか)なかった。
「で、閣下がお入りになってから、フィルムを廻したのですネ」
「そうです。うまく撮ったつもりです。――だが閣下は殺害されました。兇器(きょうき)は鍼で、同じように延髄を刺しつらぬいています」
「現像は……」
「今やっています。直(す)ぐこれからおいで願いたいのです」
「ええ、参ります」
 帆村は憂鬱(ゆううつ)な返辞(へんじ)をした。
 駆(か)けつけてみると、本庁は上を下への大騒ぎだった。殺(や)られる人に事欠(ことか)いて、総監閣下が苟(かりそ)めの機会から非業(ひごう)の死を遂(と)げたというのだから、これは大変なことである。
「どうです。フィルムの現像は出来ましたか」帆村は課長に会うと、真先(まっさき)に訊(き)いた。
「出来たのですが……」
「どうしたんです?」
「駄目でした。赤外線灯の前に、どういうものかドヤドヤと人が立って、肝心(かんじん)のところは真暗で、何にも写ってやしません」
 課長は、面目(めんぼく)なげに下俯(うつむ)いた。
「深山氏とダリア嬢は、調べましたか」
「今度こそはというのでよく調べました。身体検査も百二十パーセントにやりました。ダリア嬢も気の毒でしたが、婦人警官に渡して少しひどいところまで、残る隈(くま)なく調べ、繃帯(ほうたい)もすっかり取外(とりはず)させるし、眼鏡もとられて眼瞼(まぶた)もひっくりかえしてみるというところまでやったんですが、何の得(う)るところもありません」
「ダリア嬢の眼はどうです」
「ますますひどいようですよ。左眼(さがん)は永久に失明するかも知れません。右眼も充血がひどくなっているそうです」
「ダリア嬢は眼のわるい点でいいとして、深山氏の行動に不審はなかったんですか」
「ところが深山氏は閣下にいろいろと詳(くわ)しく説明していた最中(さいちゅう)なのです。深山氏が喋(しゃべ)っているのに、閣下はウーンといって仆(たお)れられたのです。深山氏を疑うとなれば、喋っていながら手を動かして鍼(はり)を突き立てるということになりますが、これは実行の出来ないことですよ」
「すると二人の嫌疑は晴れたのですか」
「まあ、そうなりますネ。二人もこれに懲(こ)りて、今後はどんなことがあっても、あの装置を働かす暗室(あんしつ)内へは行かないと云っていますよ」
「では犯人は一体誰なんです」
「赤外線男――でしょうナ」
「課長さんは、赤外線男だといって満足していられるんですか」
「今となっては満足しています。昨日までは稍(やや)信じなかったですが、今日という今日は、赤外線男の仕業(しわざ)と信じました。この上は、私どもの手で、あの装置を二十四時間ぶっ通しに運転して、赤外線男を発見せずには置きません」
「しかし、レンズは室内を睨(にら)ませたがいいですよ。あの室内に赤外線男がウロウロしているのではネ」
 帆村は、課長の勇猛心に顔負けがして、ちょっと皮肉(ひにく)を飛ばした。


     7


 その次の朝のことだった。
 帆村荘六は早く起き出ると、どうした気紛(きまぐ)れか、洋服箪笥からニッカーと鳥打帽子とを取り出して、ゴルフでもやりそうな扮装(ふんそう)になった。
 しかし別にクラブ・バッグを引張(ひっぱ)り出すわけでもなく、細い節竹(ふしだけ)のステッキを軽く手にもつと、外へ飛び出した。忌(いま)わしい第一、第二の犠牲者を、昨日一昨日に送ったとは思えないほど、麗(うらら)かな陽春の空だった。
 彼は先ず、警視庁の大きな石段をテクテク登っていった。
「どうです。何か見付かりましたか」彼は捜査課長の不眠に脹(は)れぼったくなった顔を見ると、斯(こ)う声をかけた。
「駄目です」と課長は不機嫌に喚(わめ)いてから、「だが、昨夜また犠牲が出たんです。今朝がた報(しら)せて来ました」
「なに、又誰かやられたんですか」
「こうなると、私は君まで軽蔑(けいべつ)したくなるよ」
「そりゃ、一体どうしたというのです」帆村は自分でもなにかハッと思いあたることがあるらしく、激しく息を弾(はず)ませながら問いかえした。
「浅草の石浜(いしはま)というところで、昨夜の一時ごろ、男と女とが刺し殺された。方法は同じことです。女は岡見桃枝(おかみももえ)という女で、男というのが……」
「男というのが?」
「深山(みやま)理学士なんだッ。これで何もかも判らなくなってしまった」
 課長は余程(よほど)口惜しいものと見えて、帆村の前も構わず、子供のような泪(なみだ)をポロポロ滾(こぼ)した。
「そうですか」帆村も泪を誘(さそ)われそうになった。「じゃ貴方も深山理学士は大丈夫といいながら、一面では大いに疑っていたんですネ」
「そりゃそうだ。今となって云っても仕方が無いが、ひょっとすると、赤外線男というものは、深山理学士の創作じゃないかと思っていた」
「大いに同感ですな」
「視(み)えもせぬものを視えたといって彼が騒いだと考えても筋道が立つ。――ところが其(そ)の本人が殺されてしまったんだから、これはいよいよ大変なことになった」
「僕は兎(と)に角(かく)、見に行って来ます。あれは日本堤署(にほんつつみしょ)の管内(かんない)ですね」
 課長は黙って肯(うなず)いた。
 警察へ行ってみると、現場(げんじょう)はまだそのままにしてあるということだった。場所を教えて貰(もら)うと、彼は直ぐ警察の門を飛び出した。
 そこから、桃枝の家までは五丁ほどで、大した道程(みちのり)ではなかった。彼は捷径(ちかみち)をして歩いてゆくつもりで、通りに出ると、直ぐ左に折れて、田中町(たなかまち)の方へ足を向けた。震災前(しんさいぜん)には、この辺は帆村の縄張(なわば)りだったが、今ではすっかり町並(まちなみ)が一新(いっしん)してどこを歩いているものやら見当がつかなかった。どこから金を見つけて来たかと思うような堂々たる五階建のアパートなどが目の前にスックと立って、行(ゆ)く手(て)を見えなくした。彼は忌々(いまいま)しそうに舌打ちをして、大田中(おおたなか)アパートにぶつかると、その横をすりぬけようとした。そしてハッと気がついた。
 見ると、アパートの高い非常梯子(ひじょうばしご)に、近所の人らしいのが十四五人も載(の)って、何ごとか上と下とで喚(わめ)きあっているのだ。
「どうしたんです」
 帆村は道傍(みちばた)に立っている人のよさそうな内儀(おかみ)さんに訊(たず)ねた。
「なんですか、どうも気味の悪い話なんでござんすよ」と内儀さんは細い眉(まゆ)を顰(しか)めると、赤い裏のついた前垂(まえだれ)を両手で顔の上へ持っていった。「あのアパートの五階に人が死んでいるんだって云いますよ。そういえば、このごろ、近所の方が、何だか莫迦(ばか)に臭(くさ)い臭(くさ)いと云ってましたが、その死骸(しがい)のせいなんですよ。まあ、いやだ」
 内儀さんは、ゲッゲーッと地面へ唾(つば)をはいた。
「じゃ、よっぽど永く経(た)った死骸なんですネ」
「そうなんだそうですよ。開けてみると、押入れの中にそれがありましてネ、もう肉も皮も崩れちゃって、まッ大変なんですって。着物を一枚着ているところから、女の、それも若いひとだってぇことが判ったって云いますよ」
「ナニ、若い女の屍体?」帆村はドキンと胸を打たれた。そうだ、今日は探しに歩こうと思っていたあの女の屍体かも知れない。日数が経っているところから云っても、これは見遁(みのが)せないぞと、心の中で叫んだ。
「そこは、その女の人の借りている室なんですか」
「いいえ、そうじゃないですよ。あすこは潮(うしお)さんという若い学生さんが一人で借りているんです。ところが潮さん、この頃ずっと見えないそうで……」
「その潮さんというのは、若(も)しや背丈の大きい、そうだ、五尺七寸位もある人でしょう」
「よく知ってますね」と内儀さんは、はだけた胸を掻(か)き合(あ)わせながら云った。「ちょいといい男ですわヨ、ホッホッホ」
 帆村は苦笑した。
「あらッ、向うから潮さんが帰ってきちゃったわ」
「えッ」と帆村は駭(おどろ)いて、内儀さんの視線の彼方を見た。
「まア大変顔色がわるいけれど、あの人に違いない……」
 その言葉の終らないうちに、帆村は向うから飄々(ひょうひょう)とやってくる潮らしき人物の袂(たもと)を抑(おさ)えていた。
「潮君」
「呀(あ)ッ」
 青年は帆村の手をヒラリと払って、とッとと逃げ出した。帆村はもう必死で、このコンパスの長い韋駄天(いだてん)を追駈(おいか)けた。そして横丁を曲ったところで追付いて、遂(つい)に組打ちが始まった。そのとき青年の懐中(ふところ)から、コロコロと平べったい丸缶(まるかん)のようなものが転げ出て、溝(みぞ)の方へ動いていった。
「ああ――それは……」
 と青年の腕が伸びようとするところを、帆村は懸命に抑えて、うまく自分の手の内に収めた。そこへバラバラと警官と刑事とが駈けつけたので、帆村は間違われて二つ三つ蹴られ損(ぞん)をしただけで助かった。彼が手に入れたものは一巻のフィルムだった。それも十六ミリの小さいものだった。
 ああ、フィルムといえば、身許不明の轢死(れきし)婦人のハンドバッグに、フィルムの焼(や)け屑(くず)があったではないか。
 帆村は、深山理学士と情婦の桃枝との殺害場所を点検すると、大急ぎで日本堤署へ引かえした。その頃には、本庁からも予審判事が駈けつけていたが、もう何事も観念したものと見え、潮十吉という青年は、墓場から婦人の死骸を掘りだして遁(に)げたことを白状していた。しかし婦人が何者であるか、彼との関係はどうなのであるかについては中々口を緘(つぐ)んで語らなかった。フィルムのことは意外にも、深山理学士の室から奪ったものだと告白したが、事務室から千二百円の大金を盗んだことは極力(きょくりょく)否定した。
 あとは本庁で調べることとし、意気昂然(いきこうぜん)たる老判事は、潮十吉と帆村とを伴(ともな)って、警視庁へ引上げた。
 今朝の不機嫌をどこかへ落してしまった大江山捜査課長の前に、帆村探偵は手に入れた一巻のフィルムを置いて、いろいろと打合わせをした。
「じゃ、午後の五時に、本庁の第四映画検閲室(けんえつしつ)で試写ということにするのですね」
「そう決めましょう。じゃ万事(ばんじ)よろしく」捜査課長は、何が嬉しいのか、帆村の手をギュッと握った。


     8


 帆村は一名の警官と連れ立って、黒河内子爵(くろこうちししゃく)を訊ねた。子爵の代りに、例の白丘ダリアが出て、子爵は重態(じゅうたい)で、看護婦が二人もついている騒ぎだからと云った。
「実は、失踪された子爵夫人のことに関し、是非ご覧願いたい映画の試写があるのですが、それは困りましたネ」と帆村は長くもない頤(あご)を指先でつまんだ。
「映画ですか。あたし、代りに行きましょうか」
「そうですか。じゃ子爵の御了解(ごりょうかい)を得て来て下さい。よかったら御一緒に参りましょう」
「ええ、いくわ」
 ダリアは、まだ繃帯のとれぬ大きな頭を振り振り奥に引きかえしたが、直(す)ぐコートと帽子とを持ってあらわれた。
「さあ、お伴しますわ」
 三人が警視庁についたのは、すこし早すぎた。
「ねえ、ダリアさん。まだ四十分もありますよ」
「退屈ですわネ」
「ちょっと永いですネ」と帆村は云った。「そうそう、この中に面白いものがありますよ。警官に射撃を訓練させるために、室内射的場(しゃてきば)がつくってあります。僕たちが行っても構わないのです。行ってみませんか」
「射的ですって? あたし、これでも射撃は上手なのよ」
「じゃいい。行ってみましょう」
 呑気千万(のんきせんばん)にも帆村は、ダリアを引張って、警官の射的室へ連れて来た。そこは矢場のように細長い室だが、手前の方に、拳銃(ピストル)を並べてある高い台があって、遥(はる)か向うの壁には、大きな掛図(かけず)のような的(まと)がかかっていた。その的というのは、白い紙の上に、水珠(みずたま)を寄せたように、茶椀(ちゃわん)ほどの大きさの、青だの、赤だの、黄だの円(まる)が、べた一面に描いてあって、その上に5とか3とかいう点数が記してあった。
「僕やってみましょうか」帆村は気軽に拳銃(ピストル)をとって、覘(ねら)いを定(さだ)めると、ドーンと一発やった。3点と書いた大きな赤円(あかまる)に、小さい穴がプスリと明いた。
「どうです。相当なものでしょう」
 そういいながら、彼は次から次へと、あまり点数の多くない色とりどりの円を、撃ちぬいていった。
「今度は、ダリアさん、やってごらんなさい」帆村は拳銃を彼女の方に薦(すす)めた。
「エエ――」とダリアは答えたが、「あたし、よすわ」とハッキリ云った。
「そんなことを云わないで、やってごらんなさいな」
「だってあたし……あたし、眼が悪くて駄目なんですわ」
 そういってダリアは、カラカラと男のような声で笑った。
 まだ時間はあったから、二人は食堂へ行った。そこでオレンジ・エードを注文して、麦藁(むぎわら)の管(くだ)でチュウチュウ吸った。
「警視庁なんてところ、随分(ずいぶん)開けてんのネ」ダリアは、帆村をすっかり友達扱いにしていた。
「それはそうですよ。貴女(あなた)みたいな方をお招きすることもありますのでネ」
「だけど、このオレンジ・エード、なんだか石鹸くさいのネ。あたし、よすッ」
 半分ばかり吸ったところで、ダリアは吸管(すいくだ)を置いた。
 そんなことをしている裡(うち)に時間が経って、警官がわざわざ二人を探しに来た程だった。
 階段を地下へ降りて、長い廊下をグルグル廻ってゆくと、大変天井の低い暗いところへ出た。例の赤外線男が出て来そうな気配(けはい)だったが、しかし仄暗(ほのぐら)いながら電灯がついているから停電でもしない限り先(ま)ず大丈夫だろう。
 映画検閲用の試写室は、思いの外(ほか)、広かった。壁は一様にチョコレート色に塗ってあり、まるで講堂のような座席が並んでいた。正面には二メートル平方位のスクリーンがあった。
 もう七八人の人が入っていた。雁金検事、中河判事、大江山捜査課長の顔も見えた。
 そこへ別の入口から、警官に護られて、潮十吉(うしおじゅうきち)が手錠(てじょう)をガチャガチャ云わせながら入って来て、最前列(さいぜんれつ)に席をとった。そこは、帆村探偵と白丘ダリアとが並んである丁度(ちょうど)その横だった。
「もうこれで皆さん全部お揃いですか」
 警官の映写技師が、一番後方から声をかけた。
「うん、揃ったぞ。もう始めて貰おうか」
 帆村のうしろにいた捜査課長が声をかけた。
「じゃ始めます。あれを演(や)る前に、一つ調子をつけるために、実写(じっしゃ)ものを一巻写してみます。ウィーンの牢獄です」
 スクリーンの上へ、サッと白い光が躍ると、室内の電灯がパッと消された。一座はハッと緊張した。まずスクリーンの明るさで、室の中は暗闇だというほどではないが、しかし椅子の下、後方の両脇などには、小暗(こぐら)い蔭があった。それにこうして平然と、画面に見入(みい)っていていいものかしら、赤外線男の出てくるには屈強(くっきょう)な地下室ではないか。
 しかし一巻の映画は、極めて短いものであった。そしてまだ映画がうつっているのに、早くも電灯がパッと明るく室内を照らした。
「さあ、いよいよこの次だ」
「一体どんな映画なのだろう」
 人々は胸のうちに、あれやこれやと想像をめぐらせた。
「私を外へ出して下さい」潮十吉は隣りに遊んでいる警官に訴えた。
「いや、ならん」
 警官の声はあっけなかった。
 さあ、いよいよ問題の映画が写し出されようとしている。潮十吉が、深山理学士のところから奪って来たフィルムはこれだ。そして身許(みもと)不明の轢死(れきし)婦人のハンドバッグの底に発見せられたのも、矢張(やは)り同じフィルムだった。この映画が写し出されたが最後、意外なことが起るのではないか。既に靴の跡によって嫌疑(けんぎ)の深い潮十吉であるが、この一巻の映画によって、彼の正体が暴露(ばくろ)するのではあるまいか。赤外線男は潮十吉か。或いは赤外線男の合棒(あいぼう)でもあるか。
 カタリと音がして、スクリーンの上に、青白い光芒(こうぼう)が走った。こんどは十六ミリであるから、画面はスクリーンの真中(まんなか)に小さくうつった。
「ああ、これは……」
「ウム……」
 画面の展開につれ、人々は苦しそうに呻(うな)った。誰かが、いやらしい咳払(せきばら)いをした。
 いまスクリーンに写っている画面には二人の人物が出ている。
「ああ、こっちは、潮十吉だな」帆村は、あえぐように叫んだ。
「ああ、あれは伯母(おば)様ですわ。伯母様に違いないわ。だけど、ホホ……まッ……」
 といったきり、白丘ダリアは口を噤(つぐ)んだ。
 さて画面に、それから如何なる情景(じょうけい)が展開していったか、その内容についてはここに記(しる)すことが許されぬ。しかしそれは密閉されたる室のうちで演じられている怪しげなる戯(たわむ)れだった。斯(か)かる情景は人目のつかぬ真夜中に行うべきものだと思うのに、それがまことに明るい光の下に於て行われている。そのいぶかしさは、尚(なお)も仔細に画面を点検すれば、次第に明瞭(めいりょう)だった。それは赤外線で撮影した活動写真であったのだ。
 恐らく場面は、真夜中であったろう。真暗な室の中に、この場のことは演ぜられたのに違いない。それにも係(かかわ)らず、この室にどこからか赤外線を当て、それを赤外線の活動写真に撮影したのだった。そして人物は子爵(ししゃく)夫人黒河内京子と青年潮十吉!
 さてこの呪うべき撮影者は、一体誰であるか。
 潮はこの映画の写っている間は、頭を下げ顔を掩(おお)うたまま、一度も首をあげようとはしなかった。映画が終って、一座の深い溜息(ためいき)と共に、パッと電灯がついた。
「潮」大江山課長は声をかけた。「この撮影者は誰か」
「あいつです」青年はグッと首をもちあげた。「あいつです。深山楢彦(みやまならひこ)――彼奴(あいつ)がやったんです。子爵夫人と僕とは間違ったことをしていました。深山は而(しか)も夫人に恋をしていたのです。彼奴(あいつ)は私達の深夜の室をひそかに窺(うかが)って暗黒の中にあの赤外線映画をとってしまったんです。深山はそれをもって可憐(かれん)なる子爵夫人を幾度となく脅迫(きょうはく)しました。一度は夫人があのフィルムの一端(いったん)を奪ったのですが、それは焼いてしまいました。バッグの底にのこっているフィルムの焼け屑は、あれだったんです。鬼のような深山は、赤外線利用の技術を悪用して、それまでにも、人の寝室を密(ひそ)かに写真にとっては、打ち興じていたという痴漢(ちかん)です。しかし飽(あ)くまで夫人に未練(みれん)をもつ彼は、夫人が意に従わないときはあの映画を公開するといって脅(おびや)かしたのです。夫人は凡(すべ)てを観念し、とうとう新宿のプラットホームからとびこまれたのです。これも皆、深山の仕業です。夫人は身許(みもと)のわかることを恐れて、いつもあのような服装を持って居られました。あれは最も平凡な、世間にザラにある持ちものを集められたのです。いわば月並(つきなみ)の衣類なり所持品です。それがうまく効(こう)を奏して隅田(すみだ)氏の妹と間違えられたのです。顔面の諸(もろ)に砕(くだ)けたのは、神も夫人の心根(こころね)を哀(あわれ)み給いてのことでしょう。僕は復讐を誓いました。そして深山の室に闖入(ちんにゅう)して、あのフィルムを奪回(だっかい)したのです。彼奴(かやつ)を探しましたが、どうしたものかベッドはあっても姿はありません。早くも風を喰らって逃げてしまった後だったのです。それから僕は……」
 このとき白丘ダリアは、先刻(さっき)から耐えていた尿意(にょうい)が、どうにももう持ちきれなくなった。その激しさは、いまだ経験したことが無い位だった。彼女は慌(あわ)てて試写室を出ると、薄暗い廊下に飛び出した。見ると、直ぐ間近(まぢ)かに、赤い灯火(ともしび)が点(とも)っていて、それに「便所」という文字が読めた。
 彼女は、飛び立つ想いで、そこの扉(ドア)を押した。扉があくと、そこには清潔な便器が並んでいる洋風厠(ようふうかわや)だった。ダリアはその一つに飛びこんで、パタリと戸を寄せると、気持のよい程、充分に用を足した。
 大きい鏡があったので、ダリアはそこで繃帯(ほうたい)を気にしながら、硫酸(りゅうさん)の焼け跡のある顔へ粉白粉(こなおしろい)を叩いた。そして入口の扉を押して、廊下に出た。その途端(とたん)にダリアはハッと駭(おどろ)いて、
「呀(あ)ッ」
 と声をあげた。
 そこには思いがけなくも、帆村を始め、捜査課長、検事、判事など十四五人が、ダリアの方に身構(みがま)えをしていた。
「まア、どうしたんです。帆村さん」
 ダリアの救いを求めた帆村は、最早(もはや)、先刻、射的(しゃてき)で遊んだ帆村とは別人(べつじん)のようであった。
「白丘ダリアさん。それは今大江山捜査課長から説明して下さるでしょう」
 言下(げんか)に大江山課長はヌッと前へ出た。
「白丘ダリア。いま汝(なんじ)を逮捕する」
「あたしを逮捕するって、冗談はよして下さい」
「まだ白っぱくれているな。吾々の眼はもう胡魔化(ごまか)されんぞ。白丘ダリアが嫌いだったら、『赤外線男』として汝を捕縛(ほばく)する。それッ」
 ワッと喚(わめ)いて、選(え)りぬきの腕に覚えのある刑事が、ダリアの上に折り重なった。もう遁(に)げる道もなければ、方法もなかった。
「赤外線男」は、それっきり自由を奪われてしまった。
     *   *   *
 事件が一段落(だんらく)ついた後の或る日、筆者(わたくし)は南伊豆(みなみいず)の温泉場で、はからずも帆村探偵に巡(めぐ)りあった。彼は丁度(ちょうど)事件で疲れた頭脳を鳥渡(ちょっと)やすめに来ていたところだった。仄(ほの)かに硫黄(いおう)の香(かおり)の残っている浴後(よくご)の膚(はだ)を懐(なつか)しみながら、二人きりで冷いビールを酌(く)み交(か)わした。そのとき彼の口から、この事件の一切の顛末(てんまつ)を聞くことが出来たのだった。彼は中学校で同級だったときのあの飾り気のない口調(くちょう)で、こんな風に最後の解決を語った。

「『赤外線男』が白丘ダリアといったんでは、警官の中にも本気にしない人があった位だよ。しかし要点を云うとネ、元々『赤外線男』という名称は、殺された深山理学士がつけたものなのだ。彼は『赤外線男』を見たといって、いろいろな話をしたが、本当は一度も見たわけじゃなかったのだ。それは彼が便宜上(べんぎじょう)拵(こしら)えた創作的観念であって、実在ではなかった。
 何故そんなことをやったかというと、始めはあの新説で世間を呀(あ)ッと云わせて虚名(きょめい)を博しよう位のところだったらしいが、いよいよというときには事務室の金庫から彼が消費(つかい)こんだ大金(おおがね)の穴埋(あなう)めに、『赤外線男』を利用したわけだった。研究室が潮に襲われると、逸早(いちはや)く彼は避難したのだったが、そのチャンスを巧くとらえて、潮のかえった後の自室や事務室を散々自分で破壊してあるき、自ら変圧器の上にあがると、自分の身体を縛ったのだ。智恵のある人間には訳のないことだ。
 しかしこの犯行の裏には三人の女が隠れているんだ。そういうと不思議に思うだろうが、一人は情婦(じょうふ)という評判の女・桃枝だ。この女には秘密に大分貢(みつ)いだものらしい。金庫の金に手をかけたのも、この女のためだ。
 もう一人の女は子爵夫人京子だ。これには潮が云ってたように色ばかりではなく、むしろ慾の方が多かったのだ。夫人と潮との秘交(ひこう)を赤外線映画にうつしたのは、夫人に挑(いど)むことよりも莫大(ばくだい)な金にしたかったのだ。もし夫人が相当の金を出したとしたら、深山は事務室の金庫を破る必要もなく、『赤外線男』をひねり出す苦労もしないで済(す)んだことだろう。しかし京子夫人にそんな莫大の金の都合はつかなかった。夫人は死を選んだのだ。
 そこへ、もう一人の女性、白丘ダリアという女がいけなかった。これは先天的に異常性を備えた人間だった。左の眼と、右の眼と、視る物の色が大変違うなんて、ほんの一つのあらわれだ。あの狒々(ひひ)のような大女は、自分と反対に真珠のように小さい深山先生に食慾を感じていろいろと唆(そその)かしたのだ。『赤外線男』も、ダリアから出たアイデアだったかも知れない。
 しかしダリアの使嗾(しそう)に乗った理学士も、金庫の金を盗んだり、それからダリアの喜びそうもない情婦(じょうふ)桃枝のことを手紙から知られると、すっかりダリアに秘密を握られてしまった恰好(かっこう)になった。其(そ)の後(ご)に来るもの――それを考えると彼は安閑(あんかん)としていられなかった。そこで深山は、思い切って、ダリアが同じ室に寝泊りしているのを幸(さいわ)い、水素瓦斯(ガス)を使って睡っている彼女を殺そうとしたが、水素乾燥用の硫酸の壜が爆発してダリアに目を醒(さ)まされ、不成功に終ってしまったのだ。
 ダリアはこの事を勿論(もちろん)感づいた。しかしだネ、彼女は悪魔だけに賢明だった。事を荒立(あらだ)てる代りに、一層(いっそう)深山の弱点を抑えて、徹底的にこれを牛耳(ぎゅうじ)ってしまう考えだった。ところがあの騒ぎによって彼女の身体に大きな異変が起った。それは飛んで来た硫酸に眼を犯され、右眼(うがん)は大した損傷(そんしょう)もなかったが、左眼(さがん)はまるで駄目になった。結局右眼一つというようなことになってしまった。しかし左眼が潰(つぶ)れたことが異変というのじゃない。左眼が潰れたために、残る一眼が急に機能が鋭くなったんだ。左右の肺の一つが結核菌に侵(おか)されて駄目になると、のこりの一方の肺が代償(だいしょう)として急に強くなり、一つで二つの肺臓の働きをするなどということは、医学上よく聞くことだ。それと似て、ダリアは左眼の明(めい)を失うと同時に、右眼の視力が急に異常な鋭敏さを増加した。元々ダリアの右眼は、左眼よりも物が赤く見えるといっていたが、赤い光線を感ずる神経が発達していたんだ。そんなわけだから、一眼(いちがん)になって異常な視神経の発達により、普通の人には到底(とうてい)見えない赤外線までが、アリアリと彼女の網膜(もうまく)には映(えい)ずるようになったのだ。普通の人が暗闇と思うところでも、ハッキリ視(み)える。――この異常な感覚を自覚したときのダリアの狂喜(きょうき)ぶりは、大変なものだったろう。しかしその狂喜は、同時に彼女の破滅を予約したものでもあった。ダリアは悪魔になりきってしまった。殺人淫楽者(さつじんいんらくしゃ)という恐ろしい犯罪者に堕(お)ちたのだ。そして赤外線が視えるということが、彼女を裏切って秘密曝露(ひみつばくろ)の鍵にまでなってしまった。それは後の話だがネ」
 そういって帆村は、何か恐ろしいことでも思い出したらしく、大きい溜息をつくと、ビールを口にもっていって、琥珀色(こはくいろ)の液体をグーッと呑(の)み乾(ほ)した。筆者(わたくし)は壜(びん)をとりあげると、静かに酌(つ)いでやった。
「それからあの殺人騒ぎだ。暗闇の中に、次から次へ起る恐ろしい殺人事件。疑いは一応もってみても、眼のわるいお嬢さんに、そんな芸当が出来ようとは誰も思っていなかった。一方『赤外線男』という『男』の観念がすっかり普及していてお嬢さんに眼をつけることが阻害(そがい)された。誰があの暗黒(あんこく)のなかで、選(よ)りに選(よ)って非常に正確を要する延髄(えんずい)の真中に鍼(はり)を刺しこむことが出来るだろうか。『赤外線男』という超人(ちょうじん)でなければ、到底(とうてい)想像し得られないことだった。ダリア嬢は、然(しか)りその超人的視力をもつ『赤外線女』だったんだ。これはあとで判ったことだけれど、彼女はあの銀鍼(ぎんばり)をシャープペンシルの軸(じく)の中に隠して持っていたのだった。
 これに対して僕の探偵力は、全く貧弱(ひんじゃく)なものだった。どう考えていっても、『赤外線男』という超人を肯定するより外(ほか)に仕方がなくなるのだ。僕はそんな莫迦気(ばかげ)たことがと排斥(はいせき)していたのが、そもそも大間違いではなかったかと考え直し、それからもう一度一切の整理をやり返すと、始めてすこし事情が判って来た。
『赤外線男』が殺人をやるようになったのは極(ご)く最近のことだ。以前に於(おい)ては『赤外線男』の呼び声は高かったにしろ、殺人事件はなかった。そこに何物かがひそんでいると気が付いた僕は、殺人事件の発生が、ダリアの一眼失明を機会にして其の以後に連続して行われたということを発見した。同時に探索(たんさく)の結果、ダリアの両眼の視力異常についても聞きこむことが出来た。よし、それなれば、何としても化(ば)けの皮を剥(は)いでみせるぞ。そういう意気ごみで、僕はダリアに近づくと、大変心安くなった。折しも幸運なことに深山の写した子爵夫人と潮との秘交(ひこう)の赤外線映画が手に入ったので、そこにチャンスを掴(つか)む計画を樹(た)てた。僕は手筈をきめて、ダリア嬢を警視庁に呼び出したわけだった。
 最初の計画は、残念ながら失敗に近かった。それは庁内の警官射的場で、青赤黄いろとりどりの水珠(みずたま)のように円(まる)い標的(ひょうてき)を二人で射つことだった。僕はドンドン気軽に撃って、彼女にも撃たせようとしたが、ダリアは早くも危険を悟(さと)って拳銃(ピストル)をとりあげようとはしなかった。若(も)しあの場合、彼女も射撃を始めたとしたら、必ずのっぴきならぬ証拠が出来る筈だった。それはあの色とりどりの円い標的の間に残る白い余白には、あの裏面から赤外線で照明している深山(みやま)の別個の標的があったのだ。彼女は赤外線も赤い色も判別する力はない。それは赤外線も、吾々が赤を識別できると同様、アリアリと眼に映(うつ)るからだ。しかし彼女は危険を感じて、吾々の眼には見えない赤外線標的を撃つことから脱(の)がれた。しかし射撃を拒(こば)んだということが、僕の予想を大いに力づけて呉れる効能(ききめ)はあった。
 さて、最後のトリック――それには鬼才(きさい)ダリア嬢も見事に引っ懸ってしまった。それはすこし下卑(げび)た話だ。けれども、あの便所の一件だ。例のフィルムの映写中に彼女は激しい尿意(にょうい)を催(もよお)したのだった。それは勿論、すこし前に食堂で彼女が飲んだオレンジ・エードに、一服盛ってあったというわけサ。映画が終るや否(いな)やダリア嬢は気が気でなく廊下へ飛び出した。もうこれ以上我慢をすると、女の身にとって顔から火の出るような粗相(そそう)を演ずることになる。彼女は極度に狼狽(ろうばい)していたのだ。暗い廊下の向うを見ると、嬉しやそこには『便所』と書いた赤い灯(あかり)がついている。彼女は扉(ドア)を押して飛びこんだ。果してそこには奥深く便器が並んでいた。彼女は用を足した。しかし茲(ここ)に彼女は、とりかえしのつかない大失敗をしたのだった。
 それは、この『便所』と書いた赤い灯(あかり)は、普通の視力をもった人間には、到底(とうてい)発見することの出来ない光だったのだ。つまり赤外線灯で『便所』という文字を照していたのだ。吾々のようなものならば、その前を無造作(むぞうさ)に通りすぎてしまう筈だった。赤外線の見える女の悲しさに、ダリア嬢はついそのような灯の下をくぐってしまったのだ。その場の光景は予(かね)て張番をさせて置いた監視員によって、すっかり見とどけられてしまった。とうとう異常な視力の持ち主は化の皮を剥がれてしまったのだ。流石(さすが)のダリア嬢もこうなっては策の施(ほどこ)しようもなく、とうとう一切を白状してしまった。『赤外線男』――いや『赤外線女』の事件は、ざっとこんな風だった」




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